東方二次小説

2XXX年の幻想少女第3章 幻想の静止する日   幻想の静止する日 第18話

所属カテゴリー: 2XXX年の幻想少女第3章 幻想の静止する日

公開日:2017年10月26日 / 最終更新日:2017年10月26日

 夜空に姿を現しつつある月を隠すように、空を覆い尽くすは夜に生きる数多の虫たちであり、稗田の屋敷だけでなく、里の中でも立場のある者たちが集う一画を覆い尽くしそうとしていた。その中央でリグルは王の如く、虫も、霊夢たちも遍く睥睨しており、その顔はきつく引き締まっていてその内に潜む強い決意を感じさせる。
 霊夢は解放派の一員として活動するリグルと何度か対決したことがあるけど、大量の虫を従えていたことなど一度もない。この夜空に飛ぶ虫の一匹一匹と同じくらいの存在感しか持たず、妖精のようにあっさりと撃ち落とすことができた。歯牙にかける必要のない雑魚であり、これまでその存在を顧みたことは一度もなかった。
 巫女のくせに見る目がなかったことは、今は反省するべきことではない。目の前の妖怪に、虫たちを何とかかいくぐりながら攻撃を当てることだけを考えなければ。
 そんな霊夢の気勢を削ぐようにぶおん、ぶおんと空が鳴く。激しい羽ばたきとともにむせかえるような敵意が満ち、羽根アリが、カナブンが、立派な角を持つ甲虫が一斉にこちらめがけて飛んできた。
 霊夢は用意しておいた虫除けの札を投擲し、眼前に立ち塞がる虫を一つ残らず撃ち落としていく。美真も魔法陣を周囲に展開し、全門から一斉に吐き出される炎が無慈悲に虫を焼いていく。だが虫たちはまるで怯むことなく、最前線の虫は積極的に被弾して後続の道を開き、蛾だけでなくあらゆる虫が火の中に突っ込んでいく。だから否が応でも攻撃を絶やすことができない。
 こちらの魔力や霊力を容赦なく消費させ、蕩尽させる実にシンプルな攻撃だが、それだけに実力の差がはっきりと出る。守りの薄い箇所に回り込んで攻撃しようにも全周囲を隙間なく虫で覆っているから、どこを狙っても防がれてしまうだろう。
「こんなのどうやって倒せば良いのよ!」
 思わず愚痴が零れるほどに打つ手がない。ミスティアと違ってリグルに真っ当な弾幕決闘を行うつもりはないのだ。虫たちを弾幕に見立ててはいるが、全く違う戦い方をしている。しかもたった一人で、里のど真ん中でことを起こしているのが厄介だった。里の建物を壊すような大技を使うのが難しくなるし、里の無事を人質にとってくるかもしれない。
 視界に映る限りにおいて里の建物に被害は発生していないが、今後もずっと無事である保証はない。そもそも里中で騒ぎを起こさないという不文律を犯している時点で、郷のあらゆる勢力を敵に回してもおかしくないのだ。今更この程度はなんてこともないのだろう。人家を襲わないのは最低限の規則を守っているのか、そんなことをしなくても人間や妖怪の数人程度、軽く凌いでみせるということなのか。
「これじゃきりがありません。もっと強い力で一気に抜くしか……」
 そう言われ、霊夢はようやくこの場にいるはずの三人目、魔理沙が何もしておらず、姿さえ見当たらないことに気付く。かつて彼女が使った大質量のレーザーを思い出し、あの威力がこの状況を打破するのではないかという期待を少しだけ抱いたが、姿の見えない奴をあてにすることはできない。
 霊夢も高威力の技はいくつか持ち合わせているが、放つためには身体強化を最大まで用い、更に術を展開するための霊気を蓄積、調整しなければならない。準備の時間がいるし、その間は防衛に集中することができない。今の状況でそれをやるとあっという間に虫の餌食になる。
 そもそも自分の技は壁のように迫りくる虫たちを薙ぎ払い、リグル本体を倒すだけの威力と貫通性能を持ち合わせていない。ピンポイントで敵を狙う、誘導で絡め取る、身体強化による速度で翻弄するのが霊夢の得意技であり、力任せはあまり得手ではない。
 巨大な剣気を構築する技もここからではとてもではないが相手には届かないし、ミスティアの時みたく霊気を放出状態にして全力で放っても足りる気がしなかった。彼女は配下として連れていた虫たちを一切防御に使わなかったのと、あとは不意を突く形になったから辛うじて届いたし、それでも戦闘不能にまで追い込むことはできなかった。
 道具や機転である程度まではなんとかできても、力の総量を誤魔化すことはできないのだ。それでもこの場を収めないことにはその先にある偽物の月の真相に迫ることも叶わない。防ぎながらも必死に思考を巡らせていると、美真が声をかけてきた。
「霊夢さん、少しの間だけ一人で持ち堪えられますか?」
「本当に少しの間だけなら。でも、何をする気?」
 霊夢の問いに、美真は八卦炉を手にしてちらりとこちらに見せる。彼女の持ち物ではなかったはずだが新造したのか借り受けたのか、どちらにしろ何をやろうとしているかはすぐに理解できた。
「ありったけの魔力を使い、最大火力を展開します!」
 彼女もまたあの魔砲を使えるらしい。それならばこちらは得意な防御方面に力を集中させることができる。その提案は霊夢にとって願ったり叶ったりの代物だった。
「了解したわ。わたし一人であんたのことまで守りきってみせる。だから術の準備のことだけ考えなさい」
 美真は大きく頷き、八卦炉に魔力の物質を投じ始める。魔理沙と違い、人間の身では大きな魔法を使えるほどの魔力を体内に蓄えておくことが難しいから仕込みが必要になってくるのだろう。消えた守りの片側を埋めるべく、霊夢は結界の符を取り出して、攻撃から防御への転換を試みる。
「博麗式多重結界、緊急展開!」
 全周囲を覆う二重の結界が虫除けの札を媒介に展開され、迫り来る虫たちが結界に触れて次々と蒸発していく。結界は覿面の効果を発揮しているが、それにも増して鉄砲水のように迫る虫の勢いが凄まじく、最悪の相性をものともしない。事前に虫が襲ってくると分かっておらず、備えができていなければ重病と持たずに押し流されていたに違いない。
 だが準備万端であってもなお、長時間保つわけではない。外側の結界は既に破られつつあったし、少しの隙間から結界をがさごそと乗り越え、内側の結界にも突撃を仕掛けてくる。霊夢もかつて特攻まがいの攻撃を仕掛けたことはあったが、数千もの生き物が一斉に行ってくるとなると不気味さを覚えずにはいられなかった。
 かといって準備にいつまでかかるのかと急かすこともできない。大きな魔法のために術式を整え、少しだけ涙目になっている新米の魔法使いにそんなことを言えば慌てるに決まっているし、使い慣れないものにとって魔法は僅かな焦りで失敗してしまうものだと聞いている。
 もう少しだけ結界で持ち堪えるしかないし、そのための布石の一つを霊夢は既に打っていた。
「外側の結界を開放!」
 これまで相手の侵入を防ぐために展開していた札を解き、本来の役割……すなわち敵を追尾する機能を復帰させる。それらは内側の結界を食い破り、あるいは突き破ろうとしていた虫たちを駆除し、執拗に追い立て、ほんの一時だけ空白の時間を作り上げた。
 霊夢は新規に札を展開し、内側の結界の更なる内側に即席で結界を張っていく。内側が新しい外側となり、二重の守りが辛うじて復活したが、空白の時間が終わり、虫たちの殺到が再び始まる。
 新たな外側の結界もたちまち食い破られ、体躯の小さな虫が三枚目の結界に飛びついてくる。一枚目や二枚目の結界より堅牢さでは劣るため、霊夢は先程よりも速いタイミングで二枚目の結界を開放せざるを得なかった。
 そして三枚目が外側に、新たに四枚目が内側に。まるでキャベツの皮を剥くかのようだが、剥くたびにより分厚い皮が現れるキャベツと違い、急ごしらえの結界は徐々に薄く脆くなっていく。このままでは内側まで一気に食い破られ、二人とも虫の質量に押し潰されるだけだ。霊夢はいざとなればこの場から逃れることができるよう、奥歯を何度も噛み合わせて強化の階段を一段ずつ登っていく。結界の維持と合わせて負担が大きくなるけれど、やむなしといったところだった。
 四段階までの強化の完了と同時に三枚目の結界が複数箇所から同時に食い破られ一気に瓦解する。数に頼むだけでなく、こちらの防御を効率的に突破する術を学習しつつあるらしかった。
 結界を構成していた札を再起動、だが殺到する虫をごく僅かしか牽制できず、五枚目の結界の構築が完成する前に四枚目の結界に亀裂が入り、虫が少しずつ入り込んでくる。雨漏りを塞ぐように札を打って止めようとしたが別の箇所からも侵入を試みてきて、いよいよ護りが保たないところまで来ていた。
 あと少しで限界というとき、美真の声が横から響く。
「魔力充填完了。お待たせしました、撃ちます!」
 霊夢は頷きとともに四枚目の結界を破棄する。一瞬だけ虫たちを押し戻すことができれば、こちらの仕事は完了だ。
 そして虫を散らした瞬間を狙い、美真が八卦炉を構える。その中には大量の魔力が蓄えられ、彼女の体内と頻繁に行き来しながら式を練っているのが霊夢にもはっきりと伝わってくる。
「まだ恋を知らず、いずれ焦がれるこの身なれば」詠唱らしき文言とともに、八卦炉に光と魔力が集中していく。魔理沙は前回の異変で霊夢に向けて魔法を放ってきたが、この力は敵に放たれる。それだけで霊夢にとって心強いものだった。「未来の憧憬とともに敵を討たん!」
《恋符『マスタースパーク』》
 独特の宣言とともに、一筋の巨大な光芒が生まれ、前方の虫を一気に薙ぎ払いながら突き進んでいく。目が眩むほどの光が生まれ、前方がはっきりと見えなくなってしまったが、妖気がみるみる蒸散していることははっきりと感じることができる。魔理沙の放つ魔砲ほどではないが、それでもただならぬ威力を秘めていることは確かだし、霊夢でも真っ向から受けるには厳しい威力だった。
 これなら虫たちの囲いを突破し、リグルに攻撃を当てることができる。そう思ったのも束の間、美真の顔が徐々に震え始め、顔色もどんどん悪くなっていく。これだけの攻撃を放つのだから肉体への負担は相当なものだと思っていたが、消耗の激しさは霊夢の有する切り札と同じかそれ以上のものであることが美真の変化からうかがえた。
 それでもこの一撃で目的が果たせるならば良かったが、魔砲の突き進む勢いは少しずつ弱くなっていき、遂には全く先に進まなくなってしまった。不安定に揺らぐ妖気から察するにどうやら虫を集結させて壁にしているようだが、同類の命をこうも容易く浪費できるえげつなさが怖ろしかった。
 相手の防御を排除したかったが、射線を回り込んで来た虫たちがこちら側の攻撃を止めようと迫ってくる。霊夢は美真と背を合わせ、側面と背面から襲いかかる虫たちを迎撃にかかる。とはいっても魔砲を完全に防がれている現状では迎撃してもあまり意味はない。退路を塞がれて逃げられなくなる前に攻撃をやめさせ、ここから撤退する必要があった。
 その算段すら一秒ごとに難しくなり、魔砲の轟音と虫の羽音が入り混じっていよいよ心がざわざわしてくる。このまま冷静さを保つのも難しくなって来ていた。
 その双方を切り裂くようにひゅるひゅると甲高い音が聞こえ、爆発音が辺りに鳴り響く。こんな時に誰が花火かと視線を向ければ、虫の包囲網から更に離れた場所に魔理沙がおり、両手をチューリップの蕾のような形で構えていた。その内には青白い魔力と光が集っており、霊夢は彼女が何をしようとしているのか瞬時に察する。察しはしたが、あまりにも信じられない常識外れの行動だった。
 霊夢は慌てて符を取り出し、縦横と裂いて霊夢を中心に霊力の陣を外側へと発散させる。封魔陣のバリエーションの一つで、迫り来る有象無象をまとめて薙ぎ倒すためのものだ。
 新たな虫の到来までには数秒しか稼げないが、それで十分だった。霊夢の周囲はより濃い魔力の波によって完全に防護されるからだ。しかしそれは霊夢自身も傷つけるものであり、それから身を守るための結界を張る必要があった。
「対魔力用の結界を展開。全四枚、最大出力!」
 そして魔理沙は結界の展開を最後まで待たず、こちらに向けて容赦なく砲撃をぶっ放してくる。タイミングを読んだとは思うのだが、展開完了と魔砲の着弾がほぼ同時なのはひやりとしたというほかなかった。
 魔理沙の放った魔砲は美真のものより数段太く、側面や背面に群がる虫たちを一気に消し飛ばしていく。こちらは前も後ろも光だらけで何も見えず、魔理沙の砲撃から身を守るのに集中することしかできなかった。それにしてもこのように乱暴な、半ばフレンドリーファイアをかましているというのに、美真は背後をちらとも振り返ろうとしない。それをするだけの余裕がないのか、事前に打ち合わせていたから動じないのか。
 それとも師匠のやることに全幅の信頼を置いているのか。あんな嘘つきを信じ切るだなんて、つくづくお人好しだ。でも霊夢は相手を疑う仕事も少なからず手掛けているから、彼女の他人を疑わずにいられるまっすぐさを嫌いになれない。
 だから展開した結界の維持に全力を傾ける。前方に集中して展開すれば良いし、虫たちの攻撃と違ってレーザーの攻撃は万遍ないから防御しやすいが、かといって霊夢や美真を覆い尽くして足る巨大なレーザーほどの出力を防御し続けるのは並大抵のことではない。
 こちらを囮にしてこんなこと仕掛けて、全部終わったら頭をぺしんとひっぱたいてやる。
 霊夢の決意に呼応するかのように結界の放つ赤い光が増し、より強固になる。それを察したかのように魔理沙からの攻撃が更に強くなり、思わず抗議の声をあげかけた。
 だがその必要はなかった。それは最後の一絞りだったらしく、魔理沙からの攻撃が徐々に弱まり完全に消えていく。呼応するように美真の砲撃も終わり、光に眩んだ目が夜の闇と混じってようやく攻防の結果が霊夢の目にも明らかになる。
 リグルを取り囲む虫たちの数は目に見えて減っており、その代わりに巨大な壁があった。その表面からぽろぽろと虫が零れ落ちており、壁の正体を否が応でも霊夢たちにつきつけてくる。そして二人の渾身が通じなかったことも分かった。
 リグルは数多の虫を集わせ、巨大な盾を作って二人の魔法使いが放った砲撃を防いでみせたのだ。犠牲は莫大だっただろうが、本体とも言える虫の王はおそらく無傷である。そしてなお、こちらを圧倒するだけの虫を揃えており、虫の壁が身震いして分解しようとしているのは再度の攻撃を仕掛けてくるつもりだとしか考えられなかった。
 霊夢は魔理沙の魔法を耐えるために展開していた結界を解き、せめてもの抵抗にと霊札を投擲する。だが中途にいた虫が特攻して札と相打ちになっていき、壁にすら届くことはなかった。ぶぶぶぶぶ、と攻撃的な羽音が夜空に響き渡り、壁が徐々に崩れて攻撃のための弾幕となる。霊夢は再度の攻撃に備え、せめてもの抵抗のたびに装備を構える。
 そのとき、全く予期せぬことが起きた。
 禍々しい光をまとった流れ星が落ちてきたのだ。里の外れに落下すると思われたそれはしかし、地上に落下するぎりぎりで急速に角度を変え、崩れかけている虫の壁の逆側からリグル目掛けて飛んでいく。ここに至ってようやく自然現象ではなく、こちらの味方である何者かの差し金であることが分かり、霊夢は思わず息を飲んだ。
 リグルは慌てて壁をもう一つ作ろうとしたが、流れ星は即席の壁の目の前でまたもや軌道を変え、凄まじいカーブを描いて何の守りもないリグルに突っ込んでいく。その時に起きた速度の減少によって、霊夢は謎の飛行物体に猫の尻尾が複数付いていることを見ることができた。あれは橙であり、莫大な数の虫に囲まれた敵につけいることのできる一瞬をじっとうかがい、今を好機と見て必殺の一撃を叩き込もうとしているのだ。
 その目論見は痛烈な体当たりとして見事に叶った。そして些か無残な光景が霊夢の目に飛び込んできた。リグルは体当たりを受け、ばらばらに砕け散ってしまったのだ。そして橙は一度の体当たりでは満足できなかったのか、くるくると周りながら再び急カーブを描き、二度、三度とリグルの残骸を砕き尽くそうとする。
 流石にこれはやり過ぎではないかと思ったが、橙は攻撃の手を緩めない。そして十数度目かの体当たりをかまそうとしたとき、変化が唐突に訪れた。砕かれていない欠片がいきなり黄味を帯びた光を放ち、橙を思い切り弾き飛ばしたのだ。
 速度を急速に落とした橙にこれ好機とばかり、虫がわらわらと群がっていく。そんな橙を助けるように冥い亀裂がにゅっと開き、そこから出てきた細い腕が橙を回収していった。
 そして次には霊夢の前に新たな亀裂が生まれ、紫と橙が現れる。紫はけろりとしていたが、橙は全身に複数種の傷を受けていて、明らかにしんどそうだった。ざっと観察しただけでも打ち身や切り傷だけでなく、虫刺されと思われる赤いつぶつぶや噛みつかれたと思しき歯形がちくちくとついていて、大量の虫にやられたことが見て取れる。橙が虫に接触したのは十秒かそこらだったと思うが、それでこの被害だ。並の人間ではひとたまりもないに違いない。
「すみません、倒し損ねました。わたしとしたことが……」
 橙の謝罪を、紫は口元に指を当てて留める。その顔は険しく、傷ついた部下を心配しているようだった。
「謝るのは全て終わってからで良いわ。それより倒し損ねたとは?」
「手応えが分散しました。あいつ、吸血鬼と同じようなことができるみたいです」
 どういうことかと橙に問いかける必要はなかった。黄の光がぽつぽつ灯ったかと思えば一所に集まり、徐々に人の形を成し始めたからだ。吸血鬼がその姿を蝙蝠の群れに変えて攻撃を回避するように、リグルもまた虫の群れに己の身を分割して橙の攻撃から致命傷を受けることを防いだのだ。
 完全に人の形を取り戻したリグルはあんなにも執拗な攻撃を受けたというのにどこも傷ついた様子がない。虫の群れも最初よりはかなり数を減じ、黒雲のようだと例えられるほどではなくなっているが、それでも大挙して押し寄せるだけの数は残している。にもかかわらず、リグルは酷く苦しげな顔をしていた。
「倒すことはできなかったけど、随分と消耗したようね。こちらは全員健在、しかもかなりの余力を残しているわ」魔理沙が一瞬、こいつ何を言っているんだという顔で紫を見る。その気持ちは霊夢にもよく分かった。美真は魔力を使い切って満身創痍だし、魔理沙も平気そうな顔をしているが力尽きるようにして魔砲の出力が落ちていったことを考えれば魔力の枯渇が起こっている可能性は高い。霊夢は二人に比べれば消耗も少ないが、結界を維持し続け、その過程で二つの符を切っている。ミスティアとの決闘で霊力を無駄に垂れ流したこともあって、余力はかなり心許ない。橙はかなりの傷を負っているし、まだ力を発揮できるのは紫くらいのものだ。「もちろん逃がすつもりはない。降参し、郷中に展開させた虫を引っ込めるならばこれまでのこと、できる限り不問となるよう各所に働きかけても良いのだけど」
 まるでこちらがリグルを追い詰め、降伏しか選択肢がないような言い方だった。そしてリグルも深く俯き、紫の言葉を真剣に検討している。宙ぶらりんの虫はざわつき、どうしたら良いのか分からず戸惑っているかのようだった。
 これで終わるのならば拍子抜けであると共に、霊夢にとっては中途半端な結果となる可能性が高かった。虫を引き上げさせることができても、最初の目的である偽物の月の追求に結びつかないからだ。それとも紫には何か考えがあるのだろうか。
 そんなことを考えているうち、リグルの顔が上がり、紫をまっすぐに見据える。その瞳には意志の炎が宿っており、ここで降参するようには見えなかった。
「確かにわたしは相当の痛手を被っている。ここに喚び寄せた虫の三割以上はやられたし、わたしも忌々しい猫の妖によってこの身を半分近く削られてしまった。でも観念するわけにはいかない。まだまだ足りないの。虫が怖ろしい生き物であると徹底的に知らしめなければならない」
「それなら今日、ほとんど全ての人間が知ったわ。これ以上苦しめなくても、これまでのように虫を蔑ろにはしないことでしょう」
 霊夢も完全に同意見だった。人も神も妖も、郷に生きるあらゆる存在があらぶる虫の恐怖を知った。だがリグルは頑なに首を横に振るのだった。
「それじゃ駄目だ。人間はね、この程度の騒ぎじゃ数年で忘れてしまう。もっと酷い被害をもたらして、子々孫々にまで伝えられるほどにしないといけないの。たとえこの身がすり切れ果てても。ここにいる虫たちが一匹残らず潰えたとしても。一つでも多くの恐怖をもたらして尊厳を残さなければ」
「そんな後先考えない特攻なんて意味はないと思うけど」
 紫としては説得のつもりだったのかもしれないが、リグルはその言葉を鼻で笑ってみせた。
「虫はね、群であることを人間よりずっと遵守しているの。何故ならばそうしなければ生きていけないし、それが生存戦略だから。虫は九十九パーセントが死んでも一パーセントが生き残ればそこから大量に繁殖することができる。そういうことを繰り返して、現代まで生き残ってきた。八雲はわたしと在り方が似ているし、こちらの気持ちを分かってくれていると思ったけど」
 リグルの気持ちに反応するよう、虫たちが威嚇するような羽音を一斉に撒き散らしてくる。
「理解したからといって賛同するとは限らないのよ」
 これまでなるべく感情を表に出さなかったリグルが紫を厳しく睨みつける。触角が小刻みに蠢いているのもその怒りが激しいことを示しているように見えた。
「交渉決裂みたいね。ではわたしは精一杯抵抗し、一秒でも長く虫の強さを見せつけることにするわ。ここなら人間たちは嫌でもわたしの力を見ることになる。目標以外にはなるべく手を出したくなかったけど」
 リグルは目を細め、里を見下ろす。これまで避けてきた里への無差別攻撃を仕掛けようという腹積もりらしい。それをされるのは里を守るのが役目の霊夢にとって非常にまずいことだった。
 霊夢が制止をかけようとするのを紫は腕を伸ばして阻む。どうして止めるのかと目で訴えたが、紫は片目を瞑ってうっすら微笑んでみせた。どうやら説得する算段があるらしいと分かり、霊夢は紫に交渉の手綱を渡すことにした。自分ではろくに説得もできないまま事態を悪化させるのが目に見えていたからだ。
 紫は今にもことを起こそうとするリグルに人差し指を立てて見せた。
「まあ待ちなさい。勝負はこちらの勝ちに決まったけれど、里に被害を出すのは忍びない。そちらだって本位ではないだろうし……どうかしら? 一勝負にことの趨勢を賭けるというのは」
「一勝負……弾幕決闘のこと?」
「ええ、こちらの巫女と一騎討ちして貴方が勝てばここから逃がしてあげるし、以降の異変も一切邪魔をしない。貴方は思う存分、本懐を果たせば良いわ」
「ちょっと、いきなりなんてこと言うのよ!」
 力の大半を削がれているとはいえ、リグルは未だもって霊夢の上を行く力を有している。それにこちらも力を消耗していて万全というわけではない。戦って勝てる見込みがあるとはとても言えない状況だった。だが紫はそんなこと先刻承知のはずなのに、霊夢の抗議を聞き届けようとしなかった。
「そんなこと言って、わたしが勝ったら色々と難癖をつけるんでしょう?」
「いえ、八雲の名にかけてそんなことはしない。なんだったらそちらが信頼できる立会人を出しても良いのよ」
「わたしにそんなあて、あるわけが……」
「はいはーい、ではわたしが引き受けましょう」
 あてなどないと言いかけたところで、この場の雰囲気にそぐわない声が地上から響いてくる。そして霊夢は声の主に心当たりがあった。定期的に霊夢の元に現れては新聞やら取材やらを押しつけてくる天狗、射命丸文だ。
 彼女は霊夢たちとリグルのちょうど中間に素早く位置し、くるりと一回転する。なんとも芝居じみた動きだった。
「わたしのような清く正しい天狗が立会人なら、勝負の公平性は保たれると思います」
 あからさまに胡散臭かったし、リグルもまた難色を示さずにはいられなかった。
「今回、妖怪の山は被害者だから公平なジャッジはできないと思うし、そもそもなんでここにいるのよ。天狗って組織の生き物だし、緊急事態にはそれがより強く発揮されると思ったんだけど」
 リグルの言い分はもっともだったが、文はまるで悪びれる様子なく、よく動く口をぺらぺらと動かしてみせた。
「勝者は勝ったことを喧伝するために記録を残すものです。そして天狗に負けはないと、そういう理屈です。貴方は全身全霊をもって異変を起こしたかもしれませんが、山にはまだわたしのような者を各所に派遣する余裕があるのですよ」
 なんとも傲慢な理屈だった。そしてそれゆえ、文の言うことを霊夢はすんなりと受け止めることができた。天狗は自分を誇り、他を見下すにおいてはとても正直な種族だからだ。
「それに解放派に所属していた貴方なら、わたしが立場すらかなぐり捨てて公正になれることをよく知っているはずですよ」
 こちらは霊夢にとって疑わしい話だったが、リグルには納得するだけの理由が含まれていたらしい。大きく一つ頷くと、意のこもった強い視線を霊夢に向けてくる。
「どのみちわたしに選択肢はなさそうだから、ここは乗るしかなさそうね。巫女と弾幕決闘って悪い思い出しかないんだけど」
 どうやら彼女は過去の博麗に酷い目に遭わされたことがあるらしい。その目に僅かながら私怨の光が灯ったのは気のせいだと思いたかった。
 ともかく話は霊夢の知らないところで決着し、もはや逃れることはできない。虫除け札のストックはあとどれくらいかなどと頭の中で皮算用を始めてすぐ、背中をちょいちょいと突つかれて思考を遮られた。
「というわけで霊夢、頑張って頂戴。わたしは加勢できそうにないけど」
「別にあんたの加勢は数に入れてないわよ」
 射命丸文はふざけた性格の天狗だが、実に目端が効く。本当に公正を保とうとするなら境界を操るような能力をもってしてなお、欺くことは極めて難しいだろう。
「言っておくけど天狗の目なんていつでも出し抜けるわ。偽物の月を留める力がわたし以外、全て途絶えているの。どうやらそれぞれ危難に遭遇し、余裕を保てない状況らしい。偽物の月にまつわる問題まで今夜のうちに解決する必要があるから、わたしは夜の停止に力を割かざるを得ない。それでもわたしならこんな状況、ちょちょいのちょいだけど……」
 紫の話ぶりはどうも歯切れが悪い。この期に及んで何かを隠しているのだと勘が訴えていたけれど、いま問い質したところで何も答えてはくれないだろう。
「あ、わたしを弾幕扱いってことで持ち込むって手もありますよね」ぼろぼろにも関わらず、橙が元気の良い挙手とともに提案してくる。「さっきの攻撃だって弾幕でしたし」
 式神を弾幕としてぶつけるだなんて随分容赦ないと思ったが、紫なら割り切ってやりそうな気がした。
「あ、それは駄目です。弾幕認定はしてあげても良いですが、それは霊夢さん自身の力じゃありませんからね」
 なんとも手厳しいことだった。あるいはわざとこちらに厳しいことを言い、公平性を相手に納得させようとしているのかもしれない。何しろ相手は一度、里への無差別攻撃を宣言したのだから、無闇に刺激するのはまずい。
「分かったわ、使わない。他の人の力も借りない。妖怪退治はわたしの十八番なんだからそれで十分よ」
 正直言って自信はなかった。だけど自信がないからといって避けられるほど博麗の巫女は優しい仕事ではない。もちろん易しくもない。
 そして覚悟を決めたからにはやるしかないのだ。
 霊夢は手に札とお祓い棒を握りしめ、前に出る。先の戦いでは無様なだけだったが、あんな紛れ当たりで許してくれるような相手ではない。今度は文句の言いようがないくらい、きっちり勝たないといけない。
「なるほど、当代の巫女はそんな顔もできるのね」勝負を受けてたった霊夢にリグルが声をかけてくる。緊張の中にほんの僅か、こちらへの好意的な感情が滲んでいるような気がした。「以前はままごとでもしているのかと思うくらい腑抜けた表情だったのに。それにわざと負けるのが難しいくらい、下手くそな使い手だった……ああ、でもかつて霊夢を名乗った巫女もそんな感じだったわね。いつもは腑抜けているけど、スイッチが入ると途端に強くなり、容赦がなくなる」
 できればその話はもう少し詳しく聞きたかったが、今はそんな場合ではない。そしてリグルはいよいよ油断ならない相手だと霊夢を認識したようだった。
「そうだと分かっていればやり方も違ったかもしれないけど、もう遅いか。投げた賽を振り直すことはできない」
 ミスティアも似たようなことを言っていたが改めて己の未熟を突きつけられ、赤面の思いだった。自分は退治される妖怪の強さを担保できないほどに頼りなく弱っちい巫女だったのだ。その汚名を返上するためにもこの一戦は引くことができないし、負けることができない。
 博麗の巫女として、退治する者に値する強さを見せなければならない。勝敗にかかわらず、それだけは決して見失ってはならない一線である。
 そしてもちろん負けるつもりはない。その決意を察したかのように、文が声をかけてくる。
「では双方、場についたところで。二人とも、頑張って良い記事になる戦いをわたしに提供してくださいね」
 ふと、こいつも退治するべきではないかという強い思いが浮かんだけれど、それはのちに取っておいて。
 霊夢は目の前の相手に集中し、大きく息をつく。
「博麗の巫女、霊夢。夜の虫の王、リグル。決闘に立ち会いしはこのわたし、山の烏天狗が一人、射命丸文。勝っても負けても恨みっこなし、さあさあ、よろしいですか? では、いざ尋常に……」
「勝負!」
「勝負!」
 二人の声が調和し、辺りに響き渡る。
 圧倒的な物量を伴った奇襲により始まった今回の事件はいま、一つの決闘として最終局面を迎えようとしていた。





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