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2XXX年の幻想少女第3章 幻想の静止する日   幻想の静止する日 第15話

所属カテゴリー: 2XXX年の幻想少女第3章 幻想の静止する日

公開日:2017年09月28日 / 最終更新日:2017年09月28日

幻想の静止する日 第15話
 地道に罠を仕掛けてアリを退治して回ることしばし、西の里を包んでいた不穏さがようやく払拭され、空から眺めてもアリの徘徊する区域が見当たらなくなった。レミリアは満足そうに頷くと最初に身を潜めていた里の外れに降り立ち、隣に着地した咲夜にわざとらしく声をかける。
「これで里のアリはほぼ駆除できた。いやはや、最初はどうなるかと思ったけど、数が多いだけで大したことはなかったな。これでは事件を起こした奴らの力量と頭のほどもたかが知れるというものだ、わはは」
 この人はいきなり何を言い出すのかと困惑気味の咲夜に、レミリアはそっと目配せする。かつての咲夜と違って察しはあまり良くないが、話を合わせろという意図は伝わったらしく、腕を組んで仰々しい態度を取るのだった。
「そうですね、所詮は昆虫。怖るるに足らずです」
「そうだろそうだろ、全くもって歯応えのない奴らだったよ」
 こうすれば繁華街近くの公園で攻撃を仕掛けてきた妖怪が再度、襲いかかってくるか姿を現すと踏んだのだが、予想に反して何の反応もない。当てが外れてしまい、レミリアはかくんと首を傾げてしまった。
「おかしいな、わたしの挙動を見張っている何者かがいると思ったのだが」
「安易な挑発には乗らないということかもしれませんね」
「それにしたって反応がなさ過ぎだろ。アリを退治するための罠だって十個近く作ったのに、最初の一回以外は一度も妨害されなかった。あと一度か二度は裏をかけても、いずれはこちらの魂胆を見抜いて別の妨害を仕掛けてくると踏んでいたのに」
 前提が間違えているのではないかという漠然とした思いはあったが、かといって他にどのような手を打てば良いか、今ある情報だけでは判断できそうにない。
「まあ、里の安全は確保できたから良しとしてだ。そろそろ別の場所に移動するとしようじゃないか。ここにいては事件の真相など欠片も舞い降りて来ないだろう」
 それがレミリアの出した結論だった。東か北か、そのどちらかにもしかしたら事件の糸口が潜んでいるかもしれない。
「二者択一、さてどちらを選ぶべきか」レミリアは夜空を見上げ、姿を現しつつある偽物の月を確認する。アリの駆除が終わる少し前に突如として月を覆う闇が薄まり始めたのだ。これもまたレミリアにとってよく分からない現象だった。「咲夜は東と北、どちらが好きなんだ?」
「東は東、北は北。どちらも方角の一つでしかなく、好きも嫌いもありません」
 こいつやっぱり冗談があまり通じないなあと思ったが、怒りは湧いてこなかった。こうした気の利かなさがレミリアは嫌いではないし、かつての咲夜もあまり冗談が通じなかったし、通じても異次元のセンスでこちらが戸惑わされることが多かったのだ。
「わたしは東が嫌いだよ。太陽が昇ってくる方角だからな」
「なるほど、では北に参りますか? どちらを選ぶにしろ異存はありません。お好きなようになさってください」
 そして頑なに判断を拒み、あらゆることをレミリアに決めさせるのはかつての咲夜と同じだ。
「では北にしよう。フランとの約束で少し時間は取られたが、なあにまだ挽回の機会はあるだろう。わたしたちが一番最初にあらゆる謎を解き、答えを見出すんだ」
 かつての咲夜が存命の頃に起きた月にまつわる異変では、元凶となる屋敷に四つの勢力がほぼ同着で到達した。だから今回は他の勢力が到達する前に辿り着きたかった。同着は本当の意味での一番ではない。
 レミリアは逸る気持ちとともに空を飛び、北の里がある方角に視線を向ける。
 そして思わず「嘘だろ……」と呟いてしまった。西の里を襲い、往来を徘徊していたアリの総数を遙かに越える数のアリが地面を覆い尽くしているのが見えたからだ。
 レミリアはうんざりといった表情でアリの群れを眺めていたが、その先頭付近に二足歩行の、虫ではない何者かが立っていることに気付く。
「こっちが本隊ってことか。道理で何も仕掛けてこなかったわけだ」
「凄いですね、まるで黒い絨毯です」咲夜は目の前の危機を他人事のように表現し、それから群れの先頭に立つ何者かを指さす。「あれがアリの指揮者でしょうか?」
「だろうな。あいつをなんとかすれば、アリを退けることができるかもしれない」
 その可能性をレミリアはあまり信じていなかったが、咲夜は良案であるかのように大きく頷いてみせた。
「アリは女王のもとで一丸となって活動する生き物ですから、もし巨大化したアリたちが指揮者を女王と見なしているならば、そいつを倒せば静止するかもしれません」
「もしかすると暴走を始めるかもしれないぞ?」
「その時は改めて手立てを考えましょう」
 要するに出たとこ勝負をかけるしかないということだ。パチュリーなら全力で不快感を示しそうだが、レミリアは行き当たりばったりも嫌いではなかった。それに結局のところ、真の力とはあらゆる敵の策謀を正面から打ち破るものなのだ。
 そう自分に言い聞かせ、レミリアはアリの群れと西の里の中間地点に下り、強者らしく堂々と歩きながら近付いていく。やがて見えてきたアリの指揮者は予想通り、レミリアにとって見覚えのある妖怪だった。
 かつて北の里で開催されたコンサートでは八つの音を調律し、見事な楽を奏でて見せたミュージシャン。その名が幽谷響子であることもレミリアははっきりと覚えていた。
「ほら、お望み通りにやってきたぞ。あれだけのアリをどこに隠していたかは知らないが、見せつけたってことはそういうつもりだったんだろ?」
 背に強大な力を展開しながら、響子が最初にしたことはレミリアにぺこりと頭を下げることだった。それは西の里を脅かした妖怪の態度としてはいささかそぐわないものだった。
「なんだよその態度は。迷惑をかけたと理解してるならもっとそれらしい悪人の態度を取ってもらわないと困るんだがな」
「迷惑をかけたのは事実だし、それにわたしたちの音楽をとても熱心に聴いてくれた人たちだって知ってるから。ファンを欺くなんてたとえどんな理由があろうとも、よくないと思うの。でもね、謝るわけにはいかない。わたしは悪事を働いているけど、間違っているとは思ってない。頭を下げたのはわたしのせめてもの気持ちだし、貴方たちにはそれを小賢しいと退ける権利があるわ」
 響子の朗々と響く声には信念と自信のほどが強く滲んでいた。
「どれだけ煩わされようと、お前の創った音楽の魅力は失せない。それはこのわたしが誇りを賭けて保証しよう。だからわたしに頭を下げる必要はないし、背後に控える大量のアリをもってわたしに駆け引きを持ちかけるべきだ」
 だからレミリアも負けじと偽らざる心を堂々と語る。それで響子の迷いは拭われ、あとには戦を求める凛々しい表情だけが残った。
「わたしと弾幕勝負して欲しいの。勝てば背後のアリは全て引き上げる」
「それはこちらとしても願ったり叶ったりだが……お前はわたしたちに対して圧倒的に有利な立場を獲得している。弾幕決闘を挑むというのはその有利を全て捨て去るに等しいのだが、それで良いのか?」
「ええ、しかもそちらは二人同時にかかってきても良いのよ」
「いや、それは流石に……」
 一対ニだなんて、あまりにもこちらが有利だ。流石に少し侮り過ぎているのではないかと思ったが、それを口にする前に響子は大きく首を横に振る。
「いいえ、二人とも相手してもらうわ!」
 響子の宣言がレミリアの耳だけでなく全身をびりびりと撃ち、吹き飛ばされないように足を踏ん張らなければならないほどだった。
「声という声、音という音よ、山々を駆ける大音の如く反響せよ!」
《山彦『アンプリファイエコー』》
 宣言とともに響子の発した声が大量の弾に変わり、陽炎のような揺らぎが四方八方に張り巡らされる。先程はあの壁であらゆる音を跳ね返し、増幅してレミリアの耳を散々に痛めつけてきたが、今回は弾幕のみで勝負を仕掛けてきた。
 とはいえ御しやすい代物では決してない。音の壁に反射し、あちらこちらからひっきりなしに襲いかかる弾幕はレミリアの動態視力ですら追いかけるのが難しく、体力と注意力を少しずつ削ってくる。
「咲夜、そっちは大丈夫か?」
 ましてや人間にはそう簡単に対応できる弾幕ではない。だが咲夜は涼しい顔を浮かべており、逆にレミリアを気遣う素振りすら見せた。
「一定間隔で時間を停めて、コースを予測しながらかわしてます。弾幕の反射には規則性がありますから」
 時間操作能力者らしい、反則とも言える回避の方法だった。あまり時間を操作する能力は使って欲しくなかったが、ここで口を出せば咲夜はこれほどの危機であっても命令を遵守し、あっさり被弾してしまうだろう。それはレミリアの望むところではない。
「そのまま回避を続けろ。あの山彦はわたしがなんとかする」
 それだけ伝えるとレミリアは目をぎゅっと細め、迫り来る弾を回避しながら響子まで続く弾幕の隙間道を見つけ出そうと試みる。
 弾幕に規則性を見出すのはレミリアにとってもそう難しいことではなかった。あとは分厚い音の壁の向こうまで攻撃を届かせる手段だけであり、力業はレミリアの十八番だった。
 レミリアは左手を手刀のように構え、鋭い爪で右腕を一気に切り裂く。傷から噴き出した血は再び右腕に集い、瞬く間に巨大な血の腕(かいな)を形作っていく。
「熱き血潮よ、我が意とともに全てを吹き散らせ!」
《紅符『スカーレットシュート』》
 槍では貫けなかったが、腕一本分の血を込めたこの一撃なら音の壁など薄板のようにぶち抜いてしまえるはずだった。巨大な腕はレミリアの期待に応えて反響する弾幕を打ち砕き、禍々しい妖気を周囲にまき散らしながら高速で音の壁へと迫り行く。あとは空いた穴から高速で抜け出し、響子に肉薄して一気に勝負をつけるつもりだった。
 そのとき、響子の弾幕に変化が起きた。これまで規則的に反射されるだけだった弾が軌道を変え始めたのだ。弾幕はまるで意志を得たかのようにレミリアが生み出した赤い腕へと殺到し、その勢いを削いでいく。しかもどういう絡繰か、響子の弾幕はあっという間に増殖し、新たに生み出された弾も赤い腕の勢いを削ぐために突撃していく。
 赤い腕は音の壁に辛うじて到達したが力の大半は削ぎ取られており、音の壁を打ち砕くどころかぱちんと気の抜けた音を立てるだけであっさりと消失してしまった。
 自慢のスペルがよく分からないうちに防がれてしまい、頭の中が混乱していた。だが立ち止まる余裕は残されていなかった。レミリアの符を防いだことがまるで児戯だったかのように、響子の反射弾が先程までと同じ勢いで迫ってきたからだ。レミリアは気を取り直し、再び回避に専念しようとした。
 だがそれすらも叶わなかった。規則的な反射による単純な軌道はなりを潜め、弾の一つ一つが意志を持ったかのように複雑な軌道を描き、死角から容赦なく襲いかかってきたのだ。レミリアの持つ反射神経ならそれでも辛うじて回避することはできたが、混乱はいよいよ増すばかりだった。
 零れ落ちる血で防壁を作り、自分と咲夜を覆ってはみたものの、弾は容赦なく防壁の一点に集中し、打ち破ろうとしてくる。音の反響では説明のつかない軌道ばかりだ。
 自然と握り込んでいた拳が皮膚を穿ち、その痛みと流れ出す力がレミリアに少しだけ冷静さを取り戻させてくれた。
「敵は得体の知れない技を使って来ている。今のわたしではあの山彦をスマートに捌くことはできないようだ」いくら全盛期から程遠いとはいえ、吸血鬼は誇りを保ち、覇をもって小細工を全て叩き潰さなければならない。弱さは言い訳にはならないのだ。「いま使える血の全てを用いる。それであいつを倒すことはできるだろう」
 それはレミリアにとって今回の探索行が終了することを意味している。レミリア・スカーレットは己が血を力として振るう吸血鬼だから、血を使い果たせば後にも先にも進むことはできない。
「いえ、そこまでは必要ありません」
 諦めかけたレミリアを咲夜がそっと留める。その声は自信に満ちており、こんな時だというのに落ち着き払っていた。
「お前には何か算段があるというのか?」
「ありません。できるというだけです。わたしの持つ時間でお嬢様の力を遮る不届きな弾幕を全て排除します」
「朝飯前みたいに言うなよ、そういうこと」
 レミリアは歯を食いしばって口中を血で満たすと、攻撃の集中する一点に霧状の血を吹きかけて補強する。下品なのは先刻承知だが、満遍なく血を撒き散らすのにこれ以上の方法はなく、そして手段を選んでいる余裕はなかった。
 補強が終わるとレミリアは口中の傷を塞ぎ、咲夜との会話を再開する。
「お前は身の危険を守ることだけ考えていれば良い。あいつはわたし一人でけりをつけるから」
 そして余力を残した咲夜に探索行を委ねる。時間を停めるのに使っている力を回せば一人でも探索は続けられるはずだ。自分でことの顛末を見届けられないのは残念だが、茶と菓子を味わいながら探索を終えた咲夜に事と次第を聞き出すのもまた一興だ。
 咲夜はレミリアに対して明らかに非難がましい視線を向けてくる。だがこちらとしても譲る気は毛頭なく、また睨み合いをしている余裕もないから、こちらから目を逸らす。それで咲夜も諦めたのか、諦めの顔を浮かべるのだった。
「お嬢様、では一つだけ。わたしがやるのでしたら教える必要はありませんでしたが」
「ん、なんだ。符の弱点が分かったのか?」
「いいえ、ですが絡繰は分かりました。時間を停めれば観察はじっくりできますからね」
 そうしれっと口にしてから、咲夜はレミリアに耳打ちする。
「あの山彦は領域内のあらゆる場所に、音を反響させる壁を自在に出現させることができます。それによって弾幕を複雑に反射させ、また極めて短い時間で音を反響させ続けて威力を取り戻すことができるのです」
 聞いてみれば本当に他愛のない、すぐに思いつくべきことだったが、それすらも分からないほど慌てていたということだ。上に立つものは常に冷静でなければならないのに、なんとも情けないことだった。
 力だけでなく、吸血鬼としての在り方さえも鈍ったままなのだ。これが七百年近くも怠惰に過ごして来たつけであり、長年をかけて負債を返済する必要がある。そのためにはこの急場をなんとしてでも凌ぐ必要があった。
「それだけ分かれば十分だ。これから防壁を解く。お前はまた防御に専念するんだ」
 咲夜が小さく頷いたのを確認すると、レミリアは治りかけていた右腕をもう一度切り裂き、血を流して防壁をどんどんと分厚くしていく。
 守りに専念するつもりはない。咲夜にも言った通り、レミリアは最後に血の壁を解き放つつもりだった。だが単に解除するのではない。分厚く塗り固められた血は二つ目の符を撃つための力の貯蔵庫なのだ。
 そして一度放たれれば響子はどのように力を操ろうともはや防ぐことは叶わないし、反射によって死角から狙い撃つことももうできなくなると確信していた。
 嵐のような悪夢で、あらゆる小細工をものともせずに吹き飛ばせば良い。
 それがレミリアの単純にして唯一の答えだった。
「全てを薙ぎ倒す颶風の如く、紅き風よ悪夢のように荒れよ!」
《「フィットフルナイトメア」》
 宣言とともに血の壁がナイフへと変換され、全方位に向けて放射される。形が少し不格好だが、今はそんなことを気にしている場合ではない。協和音のエコーを打ち破るとしたら、それは圧倒的な数の不協和音しかない。
 ナイフは反響と反射によって束ねられようとする音の弾幕を容赦なく相殺し、打ち砕いていく。何も狙っていないが、それは同時にあらゆるものを狙っているということだ。
 響子もただ事ではないと気付いたのか、音の弾幕を反響と反射でナイフから回避させながら態勢を立て直そうとしてくる。なんとも小癪だったが、レミリアに焦りはなかった。
 この悪夢はここからが本番だからだ。
 レミリアは残された血の壁を全てナイフに変え、更なる速度と弾量をもって団結を始めた響子の弾幕を切り刻み、数で打ち消して滅ぼしていく。暴君のいわれ通りに容赦なく追い立て、最悪の十二秒間は宣言の通り悪夢のように荒れ狂う。
 そして全てのナイフが射出され終わったとき、飛び交う弾幕は一つもなく。音を反射させる壁だけが二人の周囲を覆っていた。そして動かない壁などいかようにも処理できる。
 響子もそれは理解しているのか、レミリアが再度突破を試みる前に壁をすっかりと取り除いてしまった。拍子抜けするような態度だが、すぐに状況はちっとも有利になっていないことが明らかになった。
 開けた視界の目の前にはレミリアと咲夜を閉じ込めたよりも更に大きな音の球が作り出されており、その中には大量の弾幕が閉じ込められている。凄まじい力が内包されているのだと一目で分かる代物だった。
「前に公園で使った符も、さっきの符も耐久型として設計し直した特別製なのに、どちらも力技で突破するなんて。吸血鬼ってほんと凄いのね」
 目の前にある音の球はレミリアの技に劣らぬ威力を秘めているのに、そんなことは嫌味ではないかと思ったが、すぐに考えを改めた。会話するのも精一杯そうなほど息が荒いし、顔色も随分と悪い。まるで全ての力を吐き出したかのようだった。
「不思議そうな顔をしなくて良いのよ。わたしはね、そんなに強くないの。山彦はね、いよいよ音の反射として扱われようとしていて……だから夜雀よりも虫の妖怪よりも闇の妖怪よりも早く、いるかどうかも分からない存在に成り下がる可能性がある」
「だから山彦としての力を見せつけ、存在を誇示しようとしたのか?」
 レミリアには彼女の気持ちが全てでないにしろ理解できた。かつて赤い霧で郷を覆おうとしたのは、吸血鬼の存在を存分に知らしめて誇示したいという思いもあったからだ。忌々しい夏を追い払いたいという気持ちのほうがずっと強く、そもそも強者であるレミリアには消えゆく山彦の気持ちなど推し量ることはできないが、妖怪は存在するために「ここにいるぞ!」と定期的に主張しなければならない。それだけは燎原を見るよりも明らかなことだ。
「そうよ。里の人間から慕われ、怖れられ続ける吸血鬼には決して分からないと思う……ああ、ちょっと言い方が悪かったかな。そのことを羨んだり妬んだりするつもりはないの。わたしがずっと昔に教えを請うていた住職の教えがあってね。負の気持ちが生まれることは仕方がない。その力はせめて前に進むためのものとして使いなさいと。だから貴方のこと妬んでいるのよ」
「それでそこまでの力を練り上げたのなら大したものだが……こっちに撃ってきてもわたしは慈悲なく回避するだけだぞ」
 どんなに強い攻撃も当たらなければ意味はない。さっとかわして終わりだ。今の響子の様子からして同じ力をもう一度練り上げることはできない。他に何か策がなければ、レミリアは言った通りのことを実行するつもりだった。少し手間取ったし血も流したが、残された力でも探索行を続けることはできる。
「貴方たちに向けて撃つつもりはないわ。でも……自分から当たりに来てくれるのよね!」
 響子は音の弾幕が充填された球体を明後日の方向に発射する。いよいよやけになったかと思ったが、その先にあるものを見てすぐに計算尽くの行動であることを理解した。
 レミリアの視線の先には西の里があった。このまま響子の放った球体が突き進めば、多くの建物や人を巻き込んでしまうだろう。そしてなんとも愚かしいことだが、球体の向かう先には少なからぬ人間の姿があった。アリの群れを見に来たのか、弾幕勝負を見物に来たのか。もしかすると響子が予め、ここに人が集まるよう情報をばらまいていたのかもしれない。
 状況を判断した次の瞬間には響子を鋭い爪で切り裂こうとしていた。弾幕は耐久型などの一部例外を覗き、術者が倒されれば符は終了となる。速攻で響子を戦闘不能にして、あの傍迷惑な弾を消すつもりだった。
 だが響子の行動のほうが僅かに速かった。音の壁を何重にも張り巡らせ、防御を完成させてしまったのだ。全てを貫いて響子を戦闘不能にするには少しの時間が必要であり、その前に弾幕が里の建物や人間を薙ぎ払うのは確実だった。
「咲夜、わたしをあの巨大な球体の前面に連れていくんだ」
 レミリアの指示の意図をすぐに察し、咲夜はそっと手を取る。次の瞬間には大量の弾幕が跳ね返り続ける、強烈な力を秘めた球体が目の前にあった。かつての霊夢が使ってきた霊力の塊や魔理沙が放つ魔砲を思わせるそれは、レミリアに力の温存をいよいよ諦めさせるものだった。
「次の命令よ。わたしの両腕を根元からすっぱりと切り落としなさい」
 それには咲夜も思わず怯み、正気を確かめる目でレミリアを凝視する。当然ながらその言葉に冗談は含まれていない。今のレミリアには血を流すため己の体を切り裂く時間すら惜しかった。
「早く! 吸血鬼だからそれくらいじゃ蚊に刺されたようなものよ」
 自分と同じくらいの巨大な蚊に襲われるような大事だが、もちろん付け加えるはずもない。
 そして咲夜の手並みはレミリアが想像していたよりもずっと悪く、予想よりもずっと激しい痛みが切断面から全身を駆け巡る。だが意識を痛みに向けている場合ではない。噴き出す血を一刻も早く練り上げなければならなかった。
 地上に落ちた腕の代わりに、血の腕が形作られていく。だがそれは普通の腕ではない。両の傷口から流れ出る血は螺旋を描きながら絡まり合い、レミリアの背丈を遥かに超える一本の巨大な腕となったのだ。
 レミリアは術に力と血を吸い取られる気持ち悪さに耐えながら、ひたすらに前を向く。そして今更ながらに愚かなことをしていると自嘲する。
 こんなところまで野次馬に来る馬鹿な奴など放っておいても良かったし、里だってまた再建すれば良かった。レミリアの目的は里を守ることではなく、謎を解き明かして一番乗りすることだった。アリの群れも無視し、先に進んでも良かったはずだった。かつての自分なら間違いなく己の思うがままに行動していただろう。
 それをしなかったのは人も里もフランドールが礎を作ったものだからだ。七百年という吸血鬼においてなお長い年月、不慣れな当主という立場を押しつけ続けて来た。そんな妹が姉に託したものなのだから、自分勝手に動くわけにはいかない。
 そして探索の断念を選んだのだから、目の前の危難は必ず滅さなければならない。
 レミリアはその意を三枚目の符の宣言に込める。
「血の奔流よ、赤の支配者の命を拝せよ。あらゆる暴虐に、慈悲なき鉄槌を!」
《紅符『スカーレットマイスタ』》
 巨大な腕が撃ち出され、響子の放った音の球体をがしりとつかむ。球体は血の腕から逃れようとがたがた揺れ、その中に込められた音が漏れ出して大気をびりびりと揺らす。レミリアの優れた聴覚は音を一気に受け取って激しい目眩を覚えたが、ここで気絶するわけにはいかない。巨大な腕は瞬く間に消え、音の球体が里を散々に破壊してしまうだろう。
「気をしっかり保ちたい。皮膚をね、うっすら切ると一番痛いのだけど」
 自分の発する声はほとんど聞こえなかったし、咲夜の声も聞こえない。だがもう勘弁して欲しいと言わんばかりの悲痛な表情は、命令が正確に伝わったことを示している。
「やるのよ。吸血鬼の従者になるってこういうことなのだから」
「……やりますよ。やればよろしいのでしょうっ!」
 太ももに、首筋に、翼の付け根に鮮烈な痛みが走る。今度はきちんとナイフを振るえたらしく、予想通りの痛みがやってきた。
 こんな状況だというのにメイドがきちんと仕事をしたことに満足の笑みが浮かぶ。
 そして血と共に流れ出しそうになった集中力も戻って来た。
 レミリアは今も漏れ出し続けている血で、巨大な腕を更に補強していく。球体は必死に震え、もがき、なんとか腕から抜け出そうとしていたが、吸血鬼の力を突破することはなかった。
 震えは徐々に収まっていき……そして、朗々とした声が上空を駆け上っていく。
 
 
「やっほーーーーーーーーーーーー!!!!!!!」
 
 
 それは何度も何度も、少しずつ弱くなりながらいつまでもこだまし、周囲に山彦という妖怪の確かな存在感を知らしめていく。耳が半ば潰れていたレミリアにも聞こえるほど見事な山彦だった。
 なんとも気の抜けた最後に、レミリアの力が思わず抜ける。尻餅をつきかけ、咲夜に背中を支えられるという体たらくだった。残された気力で腕を血に分解し、蝙蝠に化けさせて切断面に群がらせる。蝙蝠はうねうねと妖しく蠢き、失われた腕をみるみる補填していく。両腕が完全に取り戻されるまで、十秒もかからなかった。色は他の皮膚に比べて若干白かったが、明るい所でなければ気付かれないほどの差であった。
 体は元に戻っていったが、心には響子にしてやられたのだという悔しさが滲んでいた。
「やれやれ、最後まで謀られてしまった」
 響子には最初から里を破壊する気などなかったのだ。単に山彦が音の反響でなく、もっと怖ろしい存在の仕業であることを知らしめれば良かった。そしてレミリアの力と少しの間でも拮抗して見せたあの巨大なやっほーはその役目としてうってつけだった。
 だが嫌な気持ちは一切覚えなかった。こんな体調でなければ腹を抱えて笑っていたはずだ。
「わたしは血の半分以上を使ってしまった。まだ動けるが、真相を明らかにする探索には行けないだろう」
「そうでしょうね。館のほうも今頃はすっかりと片付いていることでしょうし、今日はもう帰ってゆっくりと……」
「いや、帰るのはわたしだけで良い」耳が聞こえるようになっていることを確認すると、レミリアは空を指差す。探索に出た直後は全く見えなかった偽物の月が今は朧気に姿を見せ始めており、少しずつはっきりとした形を表しつつあった。これは誰かが異変と遭遇し、対処を試みているに違いないと思った。「そのために力を温存させたのだ。咲夜はわたしの代わりに探索行に一人で向かい、解決への一番乗りを果たし……」
 その話を聞かせて欲しいと口にするつもりだった。だがその前に背後の人間たちがざわざわと騒ぎ始める。レミリアや響子よりも更に遠方をしきりに指差しており、がさごそがさごそと地面を進む音が無数に聞こえ始めていた。
 アリはいまや一斉に活動を始めており、今にも里に押し寄せてきそうだった。ほぼ同時に響子が苦痛に顔を歪めながらこちらに走ってきたが、その顔は青を通り越して白くなりかけていた。よほど疲労し、また狼狽しているのはレミリアの目にも明らかだった。
「おい、話が違うじゃないか。わたしが勝ったらアリは引き上げさせるんじゃなかったのか?」
「ごめんなさい。約束は守るつもりだった。さっきまではわたしの命令をきちんと聞いていたのに……」
 響子の負けを確認したら暴れ始めるようになっていたのか、それとも別の要因が絡んでいるのかは分からないが、響子の放ってきた音の球体を超える脅威が襲ってくることは確定しており、早急に対処を行わなければならなかった。
「そしてごめん、わたしはもう力を使い果たしてしまった」
「こっちはまだ少し残っているが……」
 血と符を使い尽くしてなお、全てのアリを撃退する自信はなかった。だが咲夜に探索行に出てもらう以上、そうするより他に方法はない。ここは見捨てない、しかし探索も諦めるつもりはない。咲夜が行ってくれるなら、そしてことの顛末を話してくれるならば、それはレミリアが探索に出かけたも同じだった。その可能性に賭けるつもりだった。
 その咲夜がいつの間にかいなくなっていた。どこへ行ったのかと辺りをぐるりと見回し……そしてすぐにその姿を発見する。
 咲夜はアリの群れの間近に立っており、手にナイフを構えていた。その無謀な試みは、レミリアの命令に反するものでもあった。
「戻れ、咲夜!」痛みと目眩に耐えながら、レミリアは必死で叫ぶ。「お前はここを脱出して異変解決の探索に……」
「そんなことできるわけないじゃないですか、この……この、お嬢様っ!」
 こちらを向かないから、どんな顔をしているのかは分からなかった。だが声の勢いから容易に想像はついた。
「迎撃しますよ。月を停めている力も回せば、瞬きの間に何百匹だろうと何千匹だろうと倒してみせます」
 その宣言とともに咲夜の姿がかき消え、次の瞬間には前方のアリ十匹ほどが姿を消していた。だが総体から見ればほんの一部である。
 咲夜は再度姿を消し、再び現れると今度は数十匹のアリがいなくなっている。それを何度も繰り返し、少しずつアリの数は減っていくが、それでもアリを全滅させるには程遠い。
 時間を停める力は有限であり、いずれ限界が迫ることは確実だった。このままぼうっと見ているわけにはいかない。
 血を出し尽くしてでも、目の前の従者を止めなければならなかった。
 レミリアは復元したばかりの両手を使い、全身を切り刻んでいく。痛みは怖くなかったが、もしここで仕損じればアリは西の里に侵入し、街灯や光を発する広告以外の人工物を壊して回る可能性がある。着実に仕留める必要があった。
 全身血だらけになりながらもレミリアは二本の足でしかと立ち、紅く染まる世界を想起する。この世を支配するのは白でも黒でもない。
「紅き世界よ、ここに現れよ。魔術の如きこの色を、遍く下々へと知らしめるために!」
《「レッドマジック」》
 レミリアの全身から紅い霧が噴き出し、それはたちまちのうちにアリの群れを包み込むと大小様々な弾幕を形成し、雨のように降り注ぐ。
 全周囲を薙ぎ払うナイフの群れも巨大な力を打ち砕く力の腕も強力だが、それはレミリアの全てではない。この赤い霧こそがレミリアであり、そして最終弾幕でもある。
 霧に包まれるところは皆、彼女の世界であり、妖力を帯びた血の霧はレミリアが有する全ての力を表現する。音の球を打ち砕いた腕ほどではないが、数メートルの腕があちこちに生えて土を掻き出す重機のようにアリをすくい、放り投げ、叩きつけていく。飛び交うナイフは無差別にアリを襲い、赤い槍がまとめて串刺しにしていく。全てはレミリアの前に等しく滅ぶしかない。一応弾幕の形を取ってはいるが、回避の隙はない。月へ遥かな憎しみを抱く神霊が郷へやってきたばかりの頃によく使ってきた弾幕の如く、遊びなしの本気だった。
 背後からは人間たちの歓声が聞こえ、良い気なものだなあと心の中に嫌味が浮かぶ。霧はいまやアリの群れをほとんど包み、このまま行けば掃討も可能ではないかという余裕がレミリアにほんの少しだけ余裕を与えてくれたのだ。
 しかしそれもいま一度の変化がアリの群れに訪れるまでだった。
 靴の大きさほどもなかったアリがいつのまにか靴と同じくらいのサイズまで大きくなっていたのだ。アリの群れは徐々に疎となり、一体一体の大きさがどんどん大きくなっていく。明らかな異常事態が群れに起こっていた。
「こいつら巨大化して……いや、違う!」
 レミリアが霧の薄くなった箇所で目撃したのは隣り合ったアリ同士が融合し、むくむくと蠢いたかと思えばより大きな一匹に変化していく姿だった。アリたちはみるみる群から個へ、より強力な個体へと育っていき、それに連れて攻撃にも耐えるようになっていた。数十センチのアリが瞬く間に数メートルのアリへと成長を続け、それなのに動きは鈍重になることなく前にに進み続ける。
「お嬢様、ナイフの刃が通らなくなってきています」
 レミリアの符も、アリを押し流すことが困難になっていた。一定の数は倒せても、その間に別の場所でより大きなアリが生まれていく。アリの足音がどしんどしんと響くのはあらゆる不思議が満ちるこの世界においてもなお、現実感を欠いていた。
 体の中に残る血を活動できる限界ぎりぎりだけ残し、絞り出すように放出する。常時より里の住人からもっと血を吸い、力を蓄えておくべきだったが、もはや後の祭りである。せめて人の血を一気に吸い上げる牙と喉があれば良かったのだが。
「その、わたしの血を使うことはできないのでしょうか?」
「少食なんだよ、わたしは!」
 気を利かせた咲夜にレミリアは思わず怒鳴りつけていた。
 咲夜ははぐらかされたと思って機嫌を悪くし、レミリアの生み出した赤い霧から抜け出そうとしている巨大アリに突撃していく。動く巨岩のようなアリにも咲夜は怯むことなく、左前足にナイフを集中させ、動きを止めようとしていた。
 レミリアも負けじと血を放出し、霧から抜け出していたアリを再び赤い霧で包むと、大木のような長さと太さの赤い槍をアリの上空に生み出し、一気に射出する。体を貫かれ、地面に縫い止められたアリはきいきいと不気味で甲高い声をあげながら無数の黒い粒に分解されていき、やがて跡形もなくなっていった。
 ここにいるのは生物のアリを巨大化したものではなく、妖力で一から創られたアリなのだ。だから合体し、力を高めるなんて離れ業を平然とこなす。だがそれに気付いたところでどうしようもない。そして一匹倒されたことで数メートルのアリは更に結びつき、どごんどごんと爆発音の音を立てながら歩く、二十メートル近い一匹のアリとなった。
 そして一匹となった途端、凄まじい速さで里に向けて一目散に進み始めた。
 巨大だから動きも鈍いなんて甘いことを考えていたわけではないが、ここに至って速度を上げるとは思っていなかった。アリはレミリアの生み出した万能の赤い霧を一気に抜け出し、土煙をあげながら進んでいく。
 誰にとっても明白な脅威だった。山彦の脅威なんて霞んでしまうくらいに。野次馬に来た人間はここに至ってようやく避難しなければならないと理解し、蜘蛛の子を散らしたかのように一目散に逃げていく。だが人は逃れられても建物は逃げられない。
「咲夜! わたしを……」
 あのアリの前に連れて行けというつもりだった。本当に血の一滴まで絞り尽くせば、あのアリに一矢報いる程度の符をあと一つだけなら作り出せるかもしれないと思ったからだ。
 命令を発する直前でレミリアの声は突如として遮られた。どおんと号砲のような音が響き、辺りを騒がしくしたからだ。アリの進行は止まり、じたばたともがいていた。まるで見えない壁に阻まれたかのようであり、レミリアは誰がアリを止めたのかに気付く。
 響子もまた最後の力を振り絞り、もう一度だけ音の壁を出してくれたのだ。
 予期せぬ猶予が与えられ、レミリアは咄嗟に命令を変更する。
「わたしがアリを止められなかったら、逃げ遅れそうな住民を避難させなさい!」
 そう命ずると、レミリアは大急ぎで自らの生み出した霧の漂う場所まで移動し、動きを止められてもがいているアリをじっと見据える。霧の残滓はレミリアの求めに応じ、数メートル級のアリを貫いたよりも遥かに巨大な一本の槍として形作られていく。
「我が領土を荒らす不届き者に、吸血鬼がやることはいつも同じ」
 集った妖力と血で風が巻き起こされ、ごうごうと吹きすさぶ。ばたばたとはためく髪の毛が少しだけ鬱陶しかったが、レミリアは気にすることなく体長の十倍以上ある赤い槍を操り、最後の気力を振り絞って一気呵成に投擲する。
「串刺し、磔の刑だ!」
 巨大な槍は放物線を描き、二十メートル近い巨体となったアリの体を押し潰すように貫く。衝撃で一瞬、地震のように大地が震え、アリの不気味な断末魔が響き渡ったが、その後には何の音もなく、アリは燃え滓のようにぼろぼろと崩れ落ちていき……。
 小さなアリの群れがその中から新たに生まれ、そのしつこさをレミリアに示した。
 小さいといっても人間の子供くらいの全長を保っており、それが何千匹といるのである。普通の人間にとってはまだまだ脅威であり、そして霧はもう一欠片も残っていない。
 やはり血を使い尽くすしかないのかと覚悟を決め、咲夜を呼びつけようとしたが、その姿はレミリアの届く場所にはいなかった。
 咲夜がどこに行ったかは、アリのいる箇所に新たに生まれた魔力の嵐によって明らかとなった。生み出された嵐は瞬く間に短剣と化し、それだけでなく大地からも大気からも、あらゆるものを短剣と変え、アリに向けて撃ち出されていたのだ。
 レミリアはその技を一度だけ見たことがあった。戦力になるかどうかを確かめるため少し強めの攻撃を仕掛けたことがあって、その際にレミリアを散々に慌てさせた技だった。短剣による攻撃そのものはてんでばらばらだったが、あらゆるものを短剣と変えるものだから庭が荒れ果てて修復に大変だったのだ。
 それにもう一つの重大な欠陥があった。あらゆるものを短剣に変えるその技は咲夜の存在を維持するための魔力を無尽蔵に消費してしまうのだ。魔力が尽きれば存在自体が消えかねない。だからレミリアは時止めと同様、その技もいざというとき以外は使わないようきつく申し付けておいた。
 その技を咲夜はレミリアの詰めの甘さの埋め合わせとして使用していた。それは同時にレミリアの希望が潰えたことを意味していた。
 あの技によって消耗した咲夜は探索行を続けることができなくなってしまう。かつてと違い、レミリアは偽物の月を浮かべた首謀者にすら届かないということになってしまった。
 だが不思議なことにあまり残念とは思わなかった。体がもう動かせそうになく、咲夜がアリを退治し終えたのを確認すると、いよいよ気が抜けてしまった。
 その前に一つだけやることがあった。このままではアリがいなくなっても短剣は至るところで荒ぶり、生み出され続ける。だからレミリアが直接命令をして、抑制しなければならなかった。
「咲夜、もう大丈夫だ。力を使うのをやめてわたしの側に来い!」
 最後の一絞りは無事、咲夜の耳に届いたらしい。短剣の嵐がやみ、今度こそ西の里に平穏な時がやってきた。しかしそのことを讃えるものはいない。人間たちは皆、どこかへ逃れてしまった。いよいよ力が抜けてしまい、レミリアは仰向けで地面に寝転がる。偽物の月は完全にその姿を現し、夜空をうっすらと照らし出している。
 そのとき、不意に月が見えなくなった。そして全く別のものがレミリアの視界に現れる。月であった時はあまりに遠く感じられたのに、いまこうして月がなくなり、空中に浮かんでいるものは郷からかなり近い高度を飛んでいた。もちろん十分な高さを持ち、並大抵では届くよしもないが、月ほど遠くは感じなかった。
 それにしてもあれはなんなのだろう。
 レミリアはそれが何かを判断できるほど観察できなかった。視界が白く淀んでしまったからだ。僅かでも力を残していれば、あそこまで飛んで行けたかもしれないのに。
 そんな未練を断ち切るように、咲夜の不安そうな顔がレミリアを覗き込む。
「お嬢様、何かあったのですか?」
「いや、なんでもないよ。偽物でも、月は綺麗だなあと思っていたんだ」
「なるほど、それは良かったですね」そう言って咲夜はレミリアと同じ空を見る。謎の物体は既に偽物の月に隠されており、その飛翔を確認することはできなかった。そしてそれは咲夜も同じのようだった。「あれだけ本物らしいのなら、月はずっとあのままで良い気もしますね」
 だがレミリアは咲夜の問いに答えなかった。血を使い過ぎて人間のように濃い目眩を覚え、心身共に留まっていられなかったのだ。意識は急激に薄れていき、最後に見ることができたのはレミリアにとってのもう一つの月、怪物に寄り添う一人の従者の心配そうな表情だった。
 異変への道は閉ざされ、同時に視界も閉ざされていく。今度こそレミリアの意識はぷつりと途切れ、西の里で起こされた動乱の終わりを語ることなく告げたのだった。


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この小説へのコメント

  1. 更新お疲れ様です
    レミリアが大活躍の回でしたね。
    力は衰えても誇りや矜持と言った部分は相変わらずの様で、レミリア好きの私にとっては嬉しい限りです。
    異変が解決し、咲夜と共にのんびりする描写もあればいいなと勝手ながら期待しています。

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