東方二次小説

2XXX年の幻想少女第3章 幻想の静止する日   幻想の静止する日 第16話

所属カテゴリー: 2XXX年の幻想少女第3章 幻想の静止する日

公開日:2017年10月07日 / 最終更新日:2017年10月07日

 つい先程まで刑務所があった所に大きな穴が空き、アリがわらわらと湧き出す光景は早苗の知る中で最も悪夢に近いものだった。そいつらは隣にある山間駐留隊の詰所に雪崩れ込み、中にいる天狗や河童を建物ごと一気に押し流そうとしていた。一度は里を防衛した天狗や河童たちもこの数には戸惑いを隠せない様子だったが、流石に修羅場にも慣れてきたのかすぐに態勢を立て直し、僅かではあるがアリを押し出すのに成功していた。
 佳苗は最前線で踏み留まり、複数の竜巻を生み出して容赦のないアリの駆除を遂行していた。だが随分とやりにくそうでもあった。理由は明白、里の施設を壊さないように配慮しているためだ。
 山間駐留隊の詰所付近は人間の住居や施設も少なめだが、それでも何もないわけではない。里を損ねないギリギリのところまでしか威力を上げることはできず、勢力を拡大しつつあるアリをまとめて薙ぎ払うところまでができずにいた。
 ここだけ見ても酷い有様だったが、早苗は妖怪の山を埋め尽くしながら行進するアリの群れをこの目で見ていたから、反撃がこの程度で終わるとは到底思えなかった。
 里全体の様子を確認するために早苗はより上空、里の全てを見渡せる高度まで上昇し、改めて下界を見下ろす。ここ以外にも里中で襲われていた場所がいくつもあったのは予想通りだった。出現位置からしてどれも山間駐留隊の詰所近辺で、弾幕の光とアリの放つ薄い光が交互に瞬いていて、それは早苗の遥か遠い故郷、七百年余前の首都東京さえも想起させるものがあった。
 そして早苗の目はすぐに、より大きな異常の発生している地域へと向けられる。
 里の外周付近に存在するいくつかの工場地帯にもアリは押し寄せていたが、明らかに縮尺がおかしかった。この目に狂いがなければ数メートルから数十メートルもの大きさであり、アリとしては明らかにあり得ない大きさである。見回りに出向いていたであろう駐留隊と戦闘になっていたが、こちらは明らかに防衛のための人手が足りていない。
 詰所を守るのも重要だが、工場地帯が破壊されれば郷全体に大きな影響を及ぼす。こちらはなんとしても防衛しなければならなかった。
 早苗は群がるアリを相手に八面六臂の活躍をしている佳苗の隣に降り立ち、状況を説明する。だったらどうすれば良いのかという非難がましい視線を送られるが、早苗はその不満を真っ向から受け止めた。
「工場地帯を喪えば数千、数万もの人間に影響を及すでしょう。わたしは時を停める力の使用をやめ、全力でこの事態に当たるわ」
 これは異変の解決を放棄するという宣言でもある。その役目は他の誰かに任せ、より緊急度の高い北の里の防衛に対処する。ただしこれは早苗の去就のみの判断であり、佳苗にまで押しつけるつもりはなかった。
「佳苗はこのまま里を守っても良いし、異変の解決を目指しても良い。わたしはそのどちらをも強制しません。どのような結果になっても叱責はしないし、問題の追求もされない。責任は全てわたしが取るから」
 早苗の時も二柱は必要以上に責任を押しつけなかった。だから同じように、佳苗にもやりたいことを選ばせたかった。
「そんなの決まってます。里の混乱を鎮めたら、異変の解決に出向くんです!」
 そして佳苗の答えはもう決まっており、それは早苗の予想を超えるものだった。
「できないかもしれないけど、試してみます。わたしは現代っ娘ですから、あれもこれもと我慢せずに欲張りなんですよ」
 初めての異変だというのに佳苗の顔は仄かに紅潮しており、未曾有の出来事にも怯んでいる様子はない。興奮気味だが今のところは自分をコントロールできているようでもある。少し迷ったが、早苗はその力と気の持ちようを信じて佳苗に指示を出した。
「ここは詰所の天狗や河童たちに任せ、工場地帯で暴れるアリたちの退治に向かうわ。そこにいるのは十センチから二十センチ程度のアリではなく、わたしたちの背丈を超えるような超巨大アリなのだけど」
 なんだそれはと言いたげだったが、詳しく説明している暇はない。
「わたしは北の工場地帯に駆けつけるから、佳苗は西へ向かって頂戴。どこを目指せば良いかは空を飛んで西を見ればすぐに分かるはず」
「了解しました。では離脱の前に置き土産を!」
 佳苗は蛙の描かれた符を取り出し、霊力を込める。するとたちまちのうちにはちきれそうなほどの力を込めた巨大な蛙となった。それを前方に投げると、蛙はアリを踏みつぶしながらぴょんぴょんとはねていき、池に飛び込むようにしてアリの沸き出す穴に飛び込む。青白い光が一気に炸裂し、アリも建物の残骸も一切合切を吹き飛ばしていく。
 かつて早苗も使っていた神徳ではあるが、諏訪子の加護は今でも派手であり、些か過剰でもあるらしかった。
「えっと……その術で工場や建物を巻き込んでは駄目よ」
「そんなへまはしないから大丈夫です」そう力強く宣言すると、佳苗は周囲を固めてくれていた天狗や河童に向けて声をあげる。「今からわたしは工場付近に湧いたアリを退治に向かいますから、ここは皆で凌いでください」
 佳苗はそう言うと早苗の手をつかみ、上空へぐんと登っていく。そして西の方角を確認し、思わず目を細めた。
「確かにおかしいですね。出来の悪いコラージュを見ている感じですよ」
 その喩えは言い得て妙だと思ったが、今はそのセンスを誉めている場合ではない。
「無理はしないように。守るに越したことはないですが、建物は壊れても立て直すことができますからね。人の命はそうはいきません」
「大丈夫です。わたし、痛いのも苦しいのも苦手ですからやばいと思ったらきっとすぐに逃げちゃいますよ」
 自分の弱みを口にして堂々としている者はいつだって無茶をする。弱さの実感は痛みや苦しさに対する感覚を鈍くするのだ。しかしこの局面ではその無茶が必要だった。里に多大な損害が出れば守矢の信仰が衰えてしまう。防衛に失敗してもギリギリまで踏ん張ったという事実はそれを緩和することができるだろう。
 だから佳苗が無茶をするような言葉をかけた。守矢の柱の一つとしてやらなければならなかったのだ。
 佳苗が目的地に向かうのを見届けると、早苗は北の工場地帯に向かう。北の里に存在する工場地帯の中でも最大の規模を誇り、アリの襲撃が最も熾烈な場所だ。早苗は時を停める別の力がまだ働いていることに後ろめたさを覚えながら自身の力を解除し、風をまとうと弾丸のような速さで北の工場地帯まで一目散に辿り着く。
 間近までやってくると、早苗は改めてその異様さに息を飲む。小さいものでも二、三メートル、大きいものだと十メートルを超えるアリが合わせて百匹近くも押し寄せてきており、既にいくつかの工場を瓦礫の山に変えていた。ごく少数の山間駐留隊が必死にアリを食い止めようとしているが、更なる破壊を防ぐには明らかに手勢が足りていない。
 早苗はずっと昔、かつて人間だった頃に鬼と初めて戦った時のことを思い出す。彼女は体の大きさを幅広くコントロールできるのだが、十メートル近くもの巨体でありながらその動きは特撮映画に出てくる怪獣のように鈍重ではなく、軽快な足取りで襲いかかってきた。巨体そのものを弾幕にする破天荒な符の前ではほとんど逃げ回るしか対処する術がなく、弾幕はパワーであるという魔法使いの言葉の意味をしみじみと体感させられたものだ。
「おっと、懐かしがっている場合ではありませんね」
 早苗は工場にのしかかり、押し潰そうとしているアリに体当たりをかます。まるで寺の鐘に体当たりしたかのような固い感触であり、風をまとっていなければ車にひかれた蛙のように無惨なことになっていたはずだ。
 建物にのしかかるというバランスを欠いた体勢だったためか、アリはぐらりと傾いで巨体を地面に打ち付ける。早苗はすかさず御幣でもって九字を切り、縦四横五と護法の刃を九本、一斉に打ち出す。
 胴を深々と薙がれ、足を切り離された巨大アリは傷口から血肉でなく大量の妖気を放出しながらみるみる縮んでいき、最後には煙のように姿を消していく。妖怪の山に攻め込んできたアリとは違って依代となる虫が存在せず、妖力のみで創り上げられたいわば疑似昆虫と言うべきものなのだ。
 一匹を退治したことで周りにいた数メートル級の巨大アリが一斉にこちらを向く。そいつらは早苗に背を向けて素早く逃げ出し……と思いきや途中で一つの流れに合流し、その中で最も大きなアリに次々と突進していく。突進を受けたアリはどんどんと巨大化していき、先程工場にのしかかっていたアリの数倍もの大きさにまで膨れ上がると、巨体とは思えぬ速さでこちらに近付いてくる。
 違うのが大きさだけなら、先程と同じように転ばせてから護法の刃で切り裂くつもりだった。だがそいつは巨体から想像できない形態の変化を見せた。両前足と両中足の中間辺りの胴がみしみしと裂け、中から白い翼が現れて大きく開いたのだ。
「ちょっと、冗談はやめてくださいよ!」
 だが残念なことに全てが現実だった。巨大アリは周囲に暴風をまき散らしながら羽根をはばたかせ、巨体を空に浮かべると早苗に向けて一目散に突進を仕掛けてくる。動きこそ単純だが、数十メートルもの巨体が突撃してくるというだけで強い心理的圧力を感じずにはいられない。すれ違いざまに九字を切り、再び護法の刃を撃ち出してみたが、今度は浅く傷をつけただけで足の一本も切り落とすことができない。しかも傷口がうねうねと蠢いて瞬く間に傷が塞がっていき、更にはきいきいと耳が痛くなるような叫び声をあげる。
 それは何らかの詠唱だったらしく全身が脈動を始め、大量の羽根アリが一斉に生み出されると周囲に展開されていく。いよいよ冗談ではなくなってきたし、地上には何十匹とアリが跋扈している。全てが同じ能力を持っているとしたら最悪の場合、数十メートルもの空飛ぶ巨大アリを複数まとめて対処しなければならなくなる。
 空飛ぶ巨大アリはそんな早苗の焦りを感じ取ったかのように再びきいきいと鳴き、羽根アリを飛ばしてくる。高速で飛ぶ数十センチのアリは十分な脅威であり、妖力によって外殻が強化されているならば風の護りなど一気に突き破ってくる可能性がある。
 早苗は先手必勝とばかりに竜巻を生み出し、迫り来るアリを一気に巻き込むと返品しますと言わんばかり、巨大アリに向けて打ち出す。だが数十メートルもの巨体ではほとんど揺らぐこともなく、羽根アリの数を更に増やしてから早苗に飛ばしてくる。
 このまま押しつけあっていては自力で劣る早苗が押し負けるのは確実だった。ここは疾きに、しかも一気呵成に征する必要がある。そして早苗はそのための符を一つだけ持っていた。
「できれば使いたくないやつなんですが……」
 郷の巫女は妖怪を退治するものだが、あの符はあまりにも妖怪退治に特化し過ぎており、あらゆる方面から不興を買ってしまったのだ。そして別の理由により、二柱からも厳重に使用を制限されてしまった。だが目の前にいる巨大アリは異変というにも度を超しており、里の人間には危害を加えないという暗黙の了解にはっきり背いている。
 だからこちらも不興をもって対処するのもやむなし。
 早苗はそう判断すると、御幣を天高く掲げる。
 大量の鎖が御幣を基点として出現し、巨大アリへと一斉に向かっていく。鎖は足に絡まり、あるいは胴体に貼りついたが拘束には程遠く、巨大アリは鎖を一気に引きちぎろうと羽根を高速で震わせる。
 二度目の突撃を、続けて波状で襲いかかってくる小さなアリの群れを撃ち落としながら、早苗は接続された鎖に神経を集中させる。弾幕の鎖は巨大アリの移動に応じて大きく伸張したが引きちぎられることなく、少しするとアリから早苗に向けた妖力の流れが形作られていく。
 異質な力が早苗の中に続々と流れ込み、巨大アリは戸惑いに体を捩らせる。何をされているのかを全く理解していないといった様子だ。それでも体に絡みつき、あるいは貼りついている鎖が原因であることは分かっているのだろう。鎖を断ち切ろうと周囲の羽根アリに突撃させ、三度羽根を震わせて今度は一目散に待避しようとする。巨大アリの加速は凄まじく、たちまち鎖の伸張限界を越えそうになるが、早苗はかつてその方法で鴉天狗の記者に術を破られたことがある。同じへまをするつもりはなかった。
 烈風を生み出し、巨大アリに合わせてその身を加速させる。生物とは思えない複雑な軌道を描いて早苗を振り落とそうとしたが、風を操り高速で移動することに慣れている早苗にとって、巨大アリの生み出す程度の緩急など児戯に等しかった。
 だから溜息をついたのはアリの対処に苦慮したからではない。鎖を通して流れてくる妖気を吸い取るのがきつかったからだ。異種が放つ妖気は吸い取ってもすぐに自分の力として使えるわけではない。そして早苗を別の存在に書き換えようとしきりに訴えかけてくる。
 二柱がこの符の使用を強く禁じたのはそのためだ。
 人間であるうちはまだ良いが、その存在を容易に書き換えられないもの……すなわち神の道を目指すのならば、その技は猛毒を自ら受け入れるに等しいものとなる。諏訪子が珍しく顔を険しくして諭したので、今でも早苗の心に強く残っている。
「申し訳ないですが、アリの神になるつもりはないんですよね」
 早苗は更なる鎖を生み出し、切断されるよりも更に多くの鎖を巻きつけ、力を吸い取る速度をどんどん上げていく。胃に水銀を流し込まれるかのような冷たく重々しい感覚も、慣れてくれば泥を啜るくらいには和らいできたし、力を吸い取るのは大技を使って一気に力を解き放つのとは異なる、一種の恍惚のような気持ちを与えてくれる。
 しばらくは抵抗を続けていた巨大アリの動きが鈍り、その姿がどんどんと縮んでいく。最後は風船の口を解いた時のように一気に萎んでいき、後には妖気の欠片すらも残らなかった。
「ごちそうさま」
 早苗はわざとらしく舌舐めずりし、胃の辺りを押さえる。今回の異変が始まってから何も口にしていないにもかかわらず、膨満感を覚えて仕方がない。それなのにもっと食べたい、そのためには兵隊から搾取するべきだという思考が頭を過ぎって仕方がない。
 欲望のままに地上を蠢くアリたちへと鎖を伸ばし、絡みつけて力を吸い取る。この技を、妖力スポイラーは避けるべきだと教えてくれた者たちの言葉も徐々に薄らぎ、早苗は一種の飢餓感に突き動かされるようになっていた。
 アリの人間と異なる社会性は早苗の想定していた以上に早く、その心身を異質なものに染め上げようとしていたのだ。


 疲弊した山間駐留隊の面々はアリたちから容赦なく力を奪い取っていく早苗を見て、一様に畏怖の念を覚えていた。生まれて百年から数百年そこらの天狗や河童にとっては、荒ぶる神を目撃する機会など一度もなく、それがどれだけ凄まじいものかも知らなかったのだ。
 それを理解する機会はすぐにやってきた。アリにだけ伸ばされるはずの鎖が山間駐留隊の面々に向けて放たれ、絡め取ろうとしてきたのだ。彼女らは傷ついたものを背負い、あるいは庇いながら高速で現場を離脱し、誰一人として欠けることなく安全な所まで逃れることができた。にもかかわらず明るい表情のものは誰もいなかった。アリの妖力を吸い続けている早苗に憂慮を抱かずにはいられなかったからだ。
 あの荒ぶる神がアリだけで満足し、力の吸収をやめてくれるとは思えなかった。彼女の怒り、欲望を鎮めなければいけないと誰もが分かっていたが、アリたちにさえ防戦一方の自分たちではアリを圧倒する神に敵うはずもない。
 少しして隊長格の天狗がからからの喉から声を必至に振り絞り、皆に告げた。
「助けを呼びに行ってくれ。この状況ではどこも混乱して助けには来られないかもしれないが」
「でも、アリは山の神によって退治されています。確かに恐ろしい光景ではありますが……」
「その神様を、もしかしたら退治しなければならないかもしれないんだ。そんなことしたくないが……」
 東風谷早苗は山に居座る三柱のうちで最も人間に近く、里にもよく下りてくる。彼女の良くも悪くも神様らしくない在り方は、妖怪の山という強力な妖怪が多数住む場所と人里の橋渡しをするのにとても役立っている。特に里の人間たちは彼女に親しみやすさを感じている。そんな彼女が残酷な神様のように暴れたら、ただでさえアリの襲撃で怖れを抱いている人間たちをいよいよ追い詰めてしまう。
 妖怪の山と北の里は工業において強く結びついている。何百年と続いてきた関係が今日、崩れてしまうかもしれない。
 山間駐留隊の面々はここにいて、そうならないように祈ることしかできなかった。
 
 
 立ち眩みに似た意識の混濁を堪えながら、佳苗はいっとうの気合いと霊力を込め、霊力の込められた蛙を巨大アリに投げつける。足元に貼り付いて動きを留めていた駐留隊の面々が一斉に散開し、アリの腹部に潜り込んだ蛙が青白い光とともに爆発し、辺りを濃い光と霊力に染め上げていく。
 光が晴れたとき、巨大アリはかろうじて立っていたが、やがて耐えきれずに崩れ落ち、どしんと大きな音を立てる。体がぼろぼろと崩れ始め、最後にきいきいと苦しそうな声を上げながらその姿を失っていった。
 佳苗は大きく息をつき、慌てて口元を抑える。形振り構わず力を使いすぎた影響か、吐き気がぐっと込み上げてきたからだ。短い呼吸を繰り返して吐き気を喉の奥に押し込めると、佳苗は近づいてくる山間駐留隊の面々に笑顔を向ける。妖怪を相手にするなら常に余裕を保ち、堂々と接する必要があると習っていたからだ。
「これで全部ですかね?」
「わたしの目も耳も鼻も、アリの気配を感じません。おそらく問題ないかと」白狼天狗の一人がそう口にして、皆は一様に安堵の息をつく。「助けに来てくれてありがとうございます。わたしたちだけでは被害がもっと出ていたでしょう」
 佳苗は声を上げようとして思い留まり、鷹揚な頷きを返す。威厳を保とうとしたのではなく、話をしようとしただけで吐き気がぶり返しそうだったからだ。あまり力を使い過ぎると心身に反動が出るとは教わっていたが、自分の場合は吐き気となって強く現れるらしい。吐いてしまえば楽になるから、そういう意味では御し易いのかもしれないが、佳苗も年頃の少女であり、戦闘のたびにげえげえ吐くのは勘弁したいところだった。
「ここに配備されている装備は里中での戦闘も考慮して携行性、連射性を重視していて破壊力があまり高くないんだよね」続いて河童の一人がフランクに話しかけて来る。肩肘張られるよりは多少馴れ馴れしく言葉も多い方がこの場ではありがたかった。「以前にもそれで解放派の妖怪に出し抜かれそうになったし、もっと破壊力の高い装備を配備するべきなのかも」
「でも、武装を強化したら人間たちにあらぬ懸念を抱かれないだろうか」
「抑止力は必要だよ。それにお前も習っただろ、弾幕決闘が流行っている時期は騒動が集中するって」
 やいのやいのと盛り上がり始めた天狗と河童を、他の面々は仕方がないなあと言いたそうに見ている。どうやらお互いの論をぶつけ合うのは今が緊急事態だからというわけではなく、日常茶飯事であるらしい。
「あんなことは滅多にないかもしれないけど、我らも未熟なりに山の妖怪の一員だからね。人間に舐められるようでは困るわけで」
 そう言ってから、口の達者な河童はちらりと佳苗を見る。なるほど、妖怪に心を許してはならないと言い聞かされるのも頷けると、河童の口上によって納得せざるを得なかった。
 隙あらば上位に立とうとし、心の内に忍び寄ってくるのが妖怪という存在なのだ。守矢と山の妖怪たちは長年に渡って協力関係を築いているが、それは人間である佳苗の安全を意味するわけではない。風祝として山を自由に移動できるのも、背後に三柱が控えているからだ。
 そんなことを考えていると、眼鏡をかけた別の河童がやってきて、何やらまだ述べたそうな同類の頭を容赦なくぺしんと叩く。
「こら、助けてもらった相手に生意気口叩いちゃ、河童全体が礼儀知らずと思われるでしょう!」
 丁寧な口調の割に剣幕は強く、そして口達者な河童はたちまちやり込められて分かった分かったと宥める立場になっていた。どうやら二人は仲が良く、また眼鏡のほうは口達者の性格に苦労していることがうかがわれた。
「風祝さんのボムがなければ、もっとたくさんの工場が破壊されていたのよ」
 そしてぐいぐいと頭を下げさせ、自らもぺこりとお辞儀をする。なんとも毒気の薄まる光景だった。
「ああ、いや、気にしなくて大丈夫なんで」
 そこまで口にしたところで再び吐き気が込み上げてきて、続きをぐっと飲み込む。先程よりも症状が酷く、しかも内側からどろどろと熱いものが込み上げてきて仕方がない。しかも奇妙なことに、絞り尽くしたはずの霊力が再び体に巡り始めていた。
 西の工場地帯を襲っていたアリを退治するため、佳苗は後先考えずに授かった神徳をどんどんと使っていった。大中小、合わせて二十発近い蝦蟇を放ち、背丈の数倍もあるアリたちを、工場の防衛に当たっていた駐留隊と協力して打ち倒していったのだ。
 四、五メートルほどのアリが二十匹ほど、そして十五メートル近いアリが数匹。悪い夢か不条理ものの映画でも観ているかのような光景だったが、やるべきことは物語よりもなおはっきりとしており、そのための力を行使することもできた。パートナーがいなくて一人だったらもっと迷うかなと思っていたから、これには自分でも少しばかり驚いてしまった。
「それよりも次の場所……」三度吐き気がして、慌てて口元を抑える。これはいよいよ粗相の危機だったが、天狗や河童の前で弱みを見せることはできない。なんとか我慢我慢で乗り切るしかない。「ここ以外も……」
「近いのは南西にある工場地帯ですが、そこに向かいますか?」
 白狼天狗の一人が積極的に提案してくれ、佳苗は慌てて二度頷く。
「みんな、先に向かって頂戴。流石に力を使い過ぎて、少し疲れてしまったの。すぐに後を追うから」
「それなら背負っていきますよ。人一人くらい、天狗の力なら軽いものです」
「ああ、いや……その、戦場で足手まといになりたくないの。既にアリを倒しきったここならば安全でしょうし」
「そう、ですか。了解です」
 駐留隊の面々は豊かな個性こそあれど、集団として活動するための訓練を受けている。一度決まれば行動は早く、白狼天狗は佳苗にお大事にと声をかけ、素早く次の現場に走り去っていく。残りのメンバーも後に続き、あっという間にこの場所には佳苗一人となってしまった。
 そして説得で喋りすぎたため、既に限界が訪れていた。その場にうずくまって嘔吐(えづ)いたが、胃の中のものはほとんど吐き出しており、出てくるのは胃液ばかりだった。今度は鼻に嘔吐物が入らないよう気をつけたけど、喉のいがいがと口の中のべとべとは如何ともし難いものがあった。
「うう、こういうのずっと続くのかなあ」それにしてはなんだかおかしい気もするのだが、緊急事態であるからには若干の体調不良にかかずらっている暇もなく。「まあ、今後のことは今回の異変が片付いてからにするか。さてと、わたしも後を追わなくては……」
「ちょっと、そこの人間さん」
 いきなり空から声をかけられ、佳苗は慌てて上を向く。そこにはおかっぱ金髪の、紅い瞳を持つ無邪気そうな少女がいて、両手を一杯に広げている。こんな夜に一人で空を飛んでいるというだけでも怪しいが、妖気を隠そうともしなかった。
「ここ、工場地帯でしょう? アリが押しかけていたと思うのだけど一匹も見当たらないのよね。心当たりはないかしら?」
 そして彼女の話しぶりから、北の里にアリをけしかけた張本人であることが察せられ、佳苗は腹に力を込める。
「それならわたしが全て倒したわ」本当は天狗や河童と協力して倒したのだが、はったりをかけて大きな力を持っているのだと見せかけることにした。これで少しは怯んでくれたら良いと思ったが、金髪の少女は口元を愉快そうに歪めるだけだった。「こちらからも質問したいことがあるのだけど。里にアリをけしかけてきたのは貴方なの?」
「けしかけた……という意味ならイエスかな。でも操っているわけではないのよ」
 つまり元凶の一人ではあるが、虫使いではないということになる。それならば彼女を倒しても全くの無駄だが、そんな考えを見透かしたかのように漂う妖気がますます濃くなり、佳苗を威嚇しようとしていた。
「まあ、これ以上は話さなくて良いよね。貴方、わたしの胃の中に収まっちゃうんだもの」
 そして彼女は比喩なく人でなしであり、人食いでもあるようだった。
「ここにいるアリたちを倒すほどの実力を持つ人間なのだからさぞかし強いのよね? きっと美味しいに違いないわ」
 冗談じゃないと思ったが、彼女は佳苗を見逃す気など毛頭ないようだ。そして佳苗のほうでも彼女を見逃すつもりはなかった。もしかすると異変の解決に必要な情報を根こそぎ聞けるかもしれないし、それを除いても里に入ってきた人食い妖怪を見過ごせるはずもない。
「ええ、わたしは強いのよ。だから一人とは言わず、もっと連れてきても良いのだけど」
 佳苗は強気に打って出る。こう挑発すれば、妖怪は気位が高いから一対一の勝負に拘ってくるはずだと読んだのだ。
「最初からわたし一人しかいないの。でもそれで足りないとは思わない」
 だが相手もそれで臆するような相手ではない。佳苗は突如、目の前に現れた脅威に視線を集中させる。
 胃の奥がごろごろしてとても熱い。それだけでなく、邪な暗い考えが先程から少しずつ少しずつ、佳苗の頭に満ちようとしていた。どうしてそのような気持ちに取り憑かれたかは分からない。だが、佳苗はそんな馬鹿なと思いながらもその気持ちを形にせずにはいられなかった。
 こいつを食べてしまいたい。
 佳苗は首を大きく横に振ると、御幣を構える。これは気の迷いであり、目の前の相手を倒したいという闘争心が生み出したものだ。
「人間なのにそんな悪い顔をして。悪人ってあまり美味しくないのだけど、放っておくとわたしの完全な勝利を邪魔しそうだし」
 金髪の妖怪は手に黒い球体を生み出すと、息を吹きかける仕草をする。何の真似かと思ったが、その意図はすぐ明らかになった。佳苗の周囲が闇に覆われていき、たちまちのうちに周囲数メートルが視認不可能となってしまったのだ。
「闇に包まれる恐怖の中で、怯え、竦み、力を発揮できないまま朽ちると良いわ!」
 ここがわたしの、今回の異変における本当の正念場だ。
 そう自分に言い聞かせると、佳苗は戸惑いながらもぎゅっと御幣を握りしめた。

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この小説へのコメント

  1. お疲れ様です
    早苗と佳苗の様子が心配ですね、ルーミアが仕組んだ罠なのでしょうか

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