2XXX年の幻想少女第3章 幻想の静止する日 幻想の静止する日 第11話
所属カテゴリー: 2XXX年の幻想少女第3章 幻想の静止する日
公開日:2017年08月31日 / 最終更新日:2017年08月31日
「さて、二人きりになったところで……どこまで話したかしら?」
「残り二人の行動理念はあんたと違うってところまで」
「そうだったわね。わたし、こう見ても蛾ではなくて鳥の妖怪だから忘れっぽいのよ」ミスティアは張り詰めていた空気を混ぜっ返すようなことを口にする。だが次の瞬間には真面目な表情で霊夢に向き直っていた。「二人が目指しているのは夜の特権を復活させることなの」
「夜の特権……って、夜は夜じゃない。特権を持つとかそういうものではないように思えるのだけど」
「人間からすればそうかもしれない。でも妖怪にとっては、特に闇に紛れて人間を脅かすようなタイプにとっては大切な問題なの。街灯の数はそうした妖怪に配慮されて数が厳しく制限されているけれど、夜も安全に歩けるようにしようと考える人間はことの他多い。西の里ではその声に押されて灯火制限が大幅に緩和されており、いずれは完全に撤廃されるかもしれない。そうなれば他の二つの里も追随する可能性が高い」
「だから大量の虫をけしかけ、里を襲ったの?」
「そうよ。アリたちは街灯を始めとして夜を明るく照らすものを最優先で攻撃するよう命令されている。また文明の光を生み出す源である発電所や工場に対しても攻撃が仕掛けられているわ。妖怪の山は今頃、こことは比べ物にならないほど大量のアリに襲われているのよ」
霊夢は思わず妖怪の山がある方角へと視線を向ける。天狗や河童を始めとした古豪の妖怪がひしめき、守矢の恩寵を授けたあの山が陥落するなど普段なら思考の端にすらおよばないことだが、今回ばかりはいささか話が違う。
「それとは別に、アリたちは計画を邪魔しそうな勢力の元にも一斉に放たれたの。どれだけ数を揃えても所詮は虫だからいずれは退治されるでしょうが、里に点在する光源の排除や機械を製造する工場の襲撃といった一連の行動が完了するまでの時間稼ぎができればそれで良い。だから偽物の月によって発生する通信障害に乗じ、計画を実行に移したのよ。連絡が取り合えなければ計画の全体像を掴むのに時間がかかるし、夜が停まれば偽物の月が出続けることになるから、通信障害もずっと続く」
そこまで考えて今夜を選んだのだとしたら、何も備えをしていないこちら側が対応できるはずもない。里の工業基盤は破壊され、取り返しのつかないことになる。
「夜の特権は甦り、人間は機械を使うことにも、夜を光で照らすことにも強い怖れを抱くようになる。文明などという小賢しい代物に対する崇拝の心も薄れるはずだ。それが二人の……特にルーミアが強く考えていることよ」
霊夢はルーミアなる妖怪を少しだけ知っている。彼女もまた根無し草の妖怪であり、住処と食事を求めて解放派に身を寄せているのだが、リグルと違って無邪気なばかりの振る舞いだから概ね妖精と同じように扱われていた。闇の力を振るうなどと口にしていたが、夜に遭遇してさえ苦戦したことは一度もなかった。そんなことを鬱屈と考えながら暮らしていただなんて今更言われても困るだけだ。
「そこでわたしたちはそれぞれの力を、そして異変を起こす権限を持ち寄って今回の計画を立てたの」
「異変を起こす権限ってさっきも言ってたわよね。そんなものがこの郷には存在すると言うの?」
「ええ、わたしやリグル、ルーミアだけではなく、計画を胸に秘めながら素知らぬ顔で暮らしている妖怪は他にも存在しているのよ。そして彼ら/彼女らは皆が同じ目的を持っているの」
「納得はできないけど、用意されている計画があるというのは分かったわ」郷のあらゆる場所に巨大な虫が大量発生しているこの現状を見てなお、そんなものがあるわけないと突っぱねることはできない。だからといって疑問が解消されるわけではなく、むしろいや増すばかりだった。「わたしが知りたいのはどうしてそんなものを用意する必要があるのかということよ」
「それはね、異変でなければ説明の起きないような大惨事を実際に異変のせいであると言い張るためよ。例えば里の大部分や田畑を根こそぎ押し流すほどの豪雨が起きたとき、郷に住む人間は自然現象ではなく異変の由来する何らかの理由を求めてしまうでしょう。なにしろこの郷には自然すらも操る神が目に見える形で存在しているのだから。それなのに単なる自然現象といっても誰も納得はしない。人間たちのヘイトは下手すると郷の賢者たちや有力者に向かいかねない。そうならないように前もって生贄の山羊を用意する必要がある」
「そういうの、わたしにはとても残酷に思えるのだけど」
力を蓄えて雌伏の時間を過ごすというのは理解できるが、そのために弱い振りをするというのは霊夢の知る妖怪像にそぐわないものがあった。人間と違い、妖怪は己の存在を誇示しなければ生きられない。それを抑えて暮らせだなんて、しかもいつ起こるかもしれない災害に備えるためだなんて、そうそう納得できるものではないはずだ。
「そう、残酷なことね。でもリグルやルーミアはその生き方を一度は受け入れたのよ。何故ならば、かつて起きた自然災害によって大事なものを喪ってしまったから」
「それはつまり、妖怪が喪われるような自然災害が起きた過去があるの?」
霊夢の学んだ歴史の中にそのような災害の記述はない。だから何百年も前の、稗田家の屋敷や遠子の記憶を辿らなければ見つけられない代物なのだろう。
妖怪は長命である分、特定のことをしっかりと覚えておくのが難しい。紅魔館がかつての咲夜をよく覚えているのは、彼女がその生を残酷なほど皆に焼き付けたからだ。ミスティアが何百年も前の出来事をずっと明確に覚えていたのだとしたら。それは余程の思い出か惨事に違いなかった。
そしてミスティアのもの悲しげな顔はこれから語られることが後者に属する話であることを示していた。
「ある年にね、冬がぴたりと訪れなくなったの。亡霊姫が起こした異変などではなく、単なる自然現象の帰結として。その時に冬の妖怪が槍玉にあげられて酷く虐げられ、異変の原因として追いやられたの。かつてわたしやリグル、ルーミアは草の根ネットワークという妖怪の互助グループに属していたことがあるのだけど、その仲間が何人か巻き込まれてしまってね。それは本当に酷い光景だったし、当時はさして力もなかったわたしたちには何もできなかった。でも、こんなことを二度と繰り返してはいけないということだけはよく分かった。だから彼女にいつでも展開可能な異変を準備して欲しいと頼まれたとき、三人とも迷うことなく頷いたのよ」
冬が訪れなくなるだなんて、春が訪れなくなることと同じくらいぴんと来なかった。だがそれはあり得ることだと、今の霊夢はよく知っている。
「だから何百年もかけて、数多の大妖怪と渡り合えるほどの力を練り上げたの。そして誰にも気付かれないよう弱い妖怪のふりをした。存在の自己否定という妖怪にとっての緩慢な自殺にもずっと耐え続けてきたの」
「ではどうして、耐えることをやめたの?」
霊夢の思考が行き着く先はその一点だった。ずっと我慢してきたのにどうして今更、我慢できなくなったのか。貯め続けてきた力を別の目的に使い回してしまったのか。それこそが知るべきことであるはずだし、紫が隠したいと願っている事実とイコールのはずだった。
「長年の雌伏がわたしたちにある疑いを抱かせたの。もしかすると貴方には既に見当がついているのではなくて?」
そんなことを言われても、霊夢は答えなど何も知らなかった。それならばいちいち会話などせず次の目的地に向かっている。だが答えを求めるように視線を寄せてもミスティアは口を噤んだまま何も語ろうとしない。
つまり彼女は答えを出すための手がかりが全て与えられており、それを当てて見せろと言いたいのだ。霊夢は意地悪と言いそうになる口を閉じ、これまでミスティアが語ってくれたことを思い出す。
彼女たちの悲壮な決意を崩すほどの真実とは一体どのようなものなのか。
ぐるぐると渦巻く思考の混沌から浮かび上がってきたものは、霊夢の口から無意識のうちに零れ落ちた。
「この郷に四季は存在しない」
口にしてすぐ、そんなことはあり得ないと思った。喪われた春を取り戻そうと奔走したのはついこの間のことであり、四季は霊夢が生まれてからずっと、多少の差異はあれど変わらず流れてきた。四季はあるに決まっている。それなのに霊夢は口にした言葉に真実が含まれているのだと確信していた。
「へえ、では夏の暑さも秋の恵みも、冬の寒さも春の息吹も、全てが夢幻の如くだと。貴方はそう主張するわけね?」
面白そうな顔をするミスティアを見て、あまりにも素っ頓狂なことを口にしたのだという恥じらいが湧いてくる。それでも霊夢は一歩も引かず、その通りと言い切った。
「どうしてこんなことを言ったかは分からないけれど、でも正しいのよ」
「なるほど、一種の託宣ってわけね。分からなくても真理の一端を突く、それは巫女にとって非常に大切なものだわ。貴方はそれを持っているとわたしは理解した。本当は探偵のようにぴしりと答えを示してもらいたかったけど、よく考えればわたしが知るもう一人の霊夢もそんなたまじゃなかったわね」
ミスティアはくつくつと愉快そうに笑い、小さく頷く。どうやら夜雀の試験にパスしたことを察し、霊夢は大きく息をついた。いつの間にか握り込んでいた手を開き、手汗を拭うとようやく緊張が少しずつ和らいできた。
「その通りよ。この郷に四季はない。何らかの方法で人工的に作成され、提供されている。四季だけではなく太陽も、月も、もしかしたら郷のあらゆるものがそうであるかもしれない。それは半年前の異変によって確信に変わった。もはやこの郷にわたしたちが守るべきものはない。用意してきた異変はとっくの昔に不要の代物となり果てた。このことを知ったわたしたちは激しく怒り、その矛先は異変を用意して欲しいと命じた妖怪へと向かったの。これはあんまりだ、わたしたちをずっと欺いてきて、耐えさせてきて。意味のないことをさせてきたお前を絶対に許さないと言ってやったの。
そうしたら彼女はすっかり観念し、それからこう言ったの。わたしの命でその怒りが収まるのならば好きにすれば良い。でもその前に一つだけ言いたいことがある。あなたたちが雌伏の果てに手に入れた力はそれぞれに郷を脅かすだけの能力を秘めている。それはわたしが命じなければ決して手に入らなかったもののはずよ、と」
何とも狡っ辛いすり替えだった。そしてミスティアの声真似は、三人に命令を授けた妖怪が誰であるかを明確にしてくれた。そしてお膳立てという言葉の意味するところも。
「その力で何をしようとわたしは黙認する。好きにやれば良い。この世に風穴を空けるだけの力、そして力を使うだけの動機をあなたたちは持ち合わせているはず……彼女はそう言ったの。わたしは惑わされるつもりなんてなかったんだけど、リグルとルーミアはすっかり乗り気になってしまった。だからわたしも計画に乗るしかなかった」
「それが夜の復権、人類に夜を照らすことを恐れさせるための計画なのね?」
「そう。そしてそれを永遠のものとするため、二人は郷中の機械を停止させる能力を持つ何者かの力も手に入れたがっている。だからこそ異変は今夜起こす必要があった」
可能かどうかはさておき、郷に混乱を引き起こすような機械を求めようとするならば霊夢は博麗の巫女として彼女たちを止める必要がある。
「残りの二人、ルーミアとリグルはどこにいるの?」
「ルーミアは迷いの竹林に向かうと言っていたわ。あそこは中に入ったものを問答無用で惑わせるから身を隠すにはうってつけなんだって。永遠亭の住人は混乱を無用に引き起こすような来訪者を許さないんじゃないかって指摘したんだけど、そこは話がついているから大丈夫だってことだった。ちょっと……いや、かなり疑わしいのだけど」
霊夢はつい先日、永遠亭を訪ねているし、永琳の知見には全幅の承認を置いている。いかなる甘言も通用しないとは思うのだが、ことが月に関わる問題ならば話はまた変わってくるのかもしれない。
「リグルは行き先について何も口にしなかった。ここならおそらく見つからないだろうと言って誰にも知られず行方をくらましたから、彼女がどこにいるかは分からない」
霊夢はミスティアの顔にじっと目を向ける。嘘をついていないかどうか見図ろうとしたのだが、彼女の表情にも瞳にも曲解の色は見受けられない。嘘を見抜く力なんて持ち合わせてはいないが、ここまで語ったのだから今更隠し事もないだろうと霊夢は楽観的に判断した。
一人の行き先は分かり、もう一人は分からない。それならば分かるほうの足取りを追うのが堅実だが、ミスティアの話を聞く限り真っ先に止めるべきは居場所の分からないリグルのほうだ。虫の操り手は彼女であり、その力があればこそ夜の復権計画は実行に移されたのだ。
それは逆に言えば計画最大の穴でもある。できればそこを突いて混乱を収めてしまいたい。だが闇雲に動けば全ては手遅れとなる可能性が高い。
リグルはおそらく見つからないと言った。それは郷に住む誰もが思いもよらない場所に身を隠すということだ。しかしこの郷は広いようで狭い。しかも郷には千里を見通す天狗がおり、あらゆる障害物をすり抜ける仙人がおり、心を見透かす覚がいる。全ての網を潜り抜け、おそらく見つからない場所なんて存在するのだろうか。
「あんただったら誰にも見つからない場所としてどこを選ぶ?」
そうしたことは妖怪のことが詳しいと考えての質問だった。そしてミスティアも霊夢の質問の意図を察したらしく、真剣に可能性を検討する仕草を見せる。
「それはとても難しい質問よ。だってこの郷に見つからない場所なんてあるわけがない。沢山の目が見張っているのだから。貴方の相棒である隙間妖怪ならばそんなことは重々承知しているはず。ただ、今回の件は数時間かそこらで完遂される計画だから短期間を凌ぎきれば良いし、そう考えると今度は幅が広過ぎるのよね」
尚も思考を進めるミスティアに期待を寄せてみたが、その顔はどんどんと曇っていく。どうやら何もアイデアは浮かばなかったようだ。
「ごめんなさい。わたし、基本的には鳥頭なの」
「それならわたしも同じようなものよ。だって何も分からないんだもの」
「そう言ってもらえると少しだけ面目なさも拭われるというものね。ごめんなさい、ここまで話しておきながら申し訳ないけれど、わたしが話してあげられるのはここまでみたい」
ミスティアは何事もなかったようにひょっこりと立ち上がり、ふわりと浮き上がる。
「さて、わたしは一足早く塒に戻るわね。ここにいる虫たちはわたしが責任を持って連れ帰るから安心して頂戴」
「そうしてもらえると助かるわ」霊夢はそこで言葉に詰まり、ミスティアからふっと目を逸らす。突如として罪悪感が浮かび、耐えられなくなったからだ。「その……大切な友達を裏切るようなことまでして、色々なことを教えてくれてありがとう」
「……貴方、善い人間なのね。早死しないように気をつけなさい」
いきなりそんなことを言われていよいよ気持ちの収めどころもなく。ミスティアはそんな霊夢の気持ちを理解する様子もなく、ばさばさと飛び去ってしまった。
一人になり、ようやく落ち着いたかと思ったら今度は紫が忙しなく目の前に現れる。彼女は不機嫌そうな表情を作っていたが、その目は霊夢の様子をやや不安げにうかがっており、さもすると外見通りの少女にすら見えるのだった。
「何よ、いきなり弱気になっちゃって」
「いや、うん……その、なんというか。霊夢は先の異変に続き、禁則事項の一端に触れたわけよね。流石に何か思うところがあるんじゃないかって。例えば上司への不信感とか」
今更それを言うのかとも思ったが、こちらとの関係を常によく保とうとしてくれるのはありがたいことだし、得られた情報に対してどんな感情を抱くのが適切なのかさえ分かっていなかった。そもそも四季がそもそも存在せず、作られたものであるだなんて、そう簡単に受け入れられることではない。霊夢には作られた四季とそうでない四季の区別がつかないのだ。
「そうね、確かにとんでもないことを知ってしまったわ。でも、それで何かが変わるというわけでもなさそうなのよね。作られたといってもわたしにとって四季は確かにあるものだから、いきなり認識を改めろと言われてはいそうですかと納得できるはずもないのよ」
「そう……霊夢はシンプルなんだ」
「む、なんか失礼なことを言われた気がする」
「いえ、褒めてるのよ。人は何かと複雑に考える生き物だから、いつでもシンプルというのは一種の美徳と考えて良いでしょう」
あまりにあまりな紫の言葉に、大きなため息が自然と漏れた。がみがみ屋で人間の上司みたく振る舞うから少しだけ失念していたけれど、彼女はやはり尊大で自然と人間を侮る存在なのだ。
「わたしが何も考えていないと言うならば、それはちょっと酷いと思う。確かにあまり学はないけど、年相応の知識は身に付けようと努力はしてるつもりよ」
「それくらいわたしも知ってるわ。侮っているわけではなくて、その、なんていうかなあ……」
「分からないことを分からないまま許す性格ってことですかね?」横から橙がひょっこり顔と口を出す。いかにも物知り顔なのが少しだけ憎たらしい。「紫様がそれを得難い素質だと考えるのはなんとなく分かりますよ」
霊夢は確かに知りたがりの性格ではない。幼い頃からの友人がそうだった反動か、彼女に聞けばなんでも分かるという安心感からか、立ち入ったところまで訊こうという気力があまりない。それは優しさではなく面倒をできるだけ避けたいという霊夢の教条に根差すところが大きい。
「それよりも紫様。わたしは次の行き先を早く決めるべきだと具申いたします」
「そう、わたしもそれが言いたかったの」紫は橙の意見に乗っかり、頬を指でとんとんと叩く。柔らかそうな頬だなと思ったのは口にしないでおいた。「さて、これまでの話を総合してわたしたちはどこへ進むべきか」
「わたしは一介の式なので選択権を謹んで放棄します」
橙はそう言ってすっと影に引っ込んでしまい、気配が感じられなくなった。彼女が話していた猫の抜け道なるものに潜ったのかもしれない。
「あっ、こら……ったく、調子が良いんだから」
紫は何もないところを苛だたしげに睨みつける。そこがもしかしたら猫の抜け道の入口なのかもしれない。
「まあ良いわ、ここは二人でなんとかしましょう。それで霊夢には何か心当たりがあるかしら?」
「全くもって何もないのだけど……ねえ、他に心当たりがなければ居所の分かっている方を追いかけるつもりなんでしょう?」
「それしかやることがないけれどあからさまに罠臭いのよね。あの夜雀、選択肢を固定するためにわざと情報を撒いたのかもしれない。かといってふん縛っても吐きそうにないし」
紫は怒りの視線を今度は空に向ける。これまでの態度から十分に分かってはいたが、彼女はいちいち怒りっぽくてがみがみ屋なのだ。霊夢にはミスティアに悪意を感じられなかったのだが、それを口にしても聞き入れてくれそうになかった。
「それとも霊夢には他に気になることがあるの?」
「いやうん、気になるというか……東の里も襲われてるならば救助に向かったほうが良いのかなと。最初はその予定だったはずだし」
「状況は刻一刻と変わるものだし、そもそも博麗の巫女は世評を気にし、点数稼ぎをする職業じゃない。そういうのはもう一人の巫女に任せておけば良いのよ」
佳苗の辛そうな顔がふと浮かび、慌てて打ち消す。今は彼女のことを考えている場合ではない。
「わたしたちがすべきなのはこの混乱と偽物の月にまつわる現象を一つの物語に繋げることよ」
「それこそ後付けの設定や嘘を付け加えても、でしょう?」
「嘘と物語は似て非なるものだけど、ここで講釈を垂れても仕方のないこと。それとも霊夢はわたしの予想を上回る手立てを持っているわけ?」
そこを突かれると霊夢には無性に気になる以外の根拠を与えることができなかったし、それも友人が窮地に陥っているのではないかという私情に満ちた判断と言われたら何も返せない。ぐずぐずしていると、紫は怪訝そうな表情で霊夢をじっと見据えてくるのだった。
「妙に固執するわね。何か理由でもあるわけ? 例えば夢で何かを見たとか?」
「夢じゃないの。電話がかかってきたのよ、遠子から。偽物の月が現れ、通信が繋がらない状況にもかかわらず、一瞬だけ声が聞こえてきたような、気がして……」
ノイズだらけでほとんど何も聞き取れなかったが、遠子の声だったはずだ。何もなければ良いのだが、もしも彼女に危難が訪れていたらと考えれば駆けつけたくもなる。
紫は霊夢の言葉に酷く顔をしかめていた。友人とたまたま、一瞬だけでも電話が繋がったという理由だけで行動しようとした自分を責めようとしているのかとも思ったが、思索の果てに何かを得たのかその表情は徐々に明るくなっていく。
「あの忌々しい月の偽物が現れたとき、様々な機器が使用不能になる。だけどある特殊な条件下ではその制限が緩和される場合がある……確かそうだったわよね?」
「ええ、そのように聞いているわ。例えば病院の機械はコンピュータを導入していても、観測と明らかに無関係であれば動くこともある。そのことからあの月は何らかの意志を持って外界に影響を及ぼそうとしているのだと……」
そこまで口にしたところで、霊夢は紫の言わんとしていたことを察した。それは同時に霊夢の危惧が現実になったかもしれないことを意味していた。
「以前からも電話が稀に繋がることがあるというのは報告されていた。それは全て、連絡が繋がらなければ大きな問題が発生する場合だった可能性がある。相手が誰だか分かった時点で役目が果たされたと判断され、そこで通話が切断されてしまうのでしょう」
「遠子はいま、かなりやばい状況だってこと?」
「かもしれない……さて、ここで一つ考慮すべきことがあるのだけど」
「そんなこと、今はどうでも良いわ。わたしは早く東の里に行かないと……」
幼い頃からずっと親しくしてくれた友人なのだ。危機が明らかそうだと分かったなら、助けに行かないのはあまりにも不義理過ぎる。
「落ち着いて。わたしは助けに行かないなんて一言も口にしてないわ。そしてあと数分だけ、わたしの話を聞きなさい。それが結局、あんたの大切な友達をいち早く助けることにも繋がるのよ」
紫に説得され、頭に上りかけた血が徐々に下がっていく。大きく深呼吸を一つ、霊夢は縋るような気持ちで紫の話に耳を傾ける。
「式の報告でもわたしの調査でも、アリは抵抗しない人間を襲っては来ないし、無意味に建物を壊したりはしていない。民家もその他の公共施設も無事で、唯一街灯などの明かりが破壊されているのだけど、それは後々すぐに修復できるし、敢えて騒ぐようなことではない。人間はアリが跋扈するこの騒動において、安全な立場にあると言える。これは里の人間に手を出さないという不文律に従っているとも言えるのだけど……ここで一つおかしいことがある。危害が加えられていないのに、電話は繋がった。遠子が霊夢に電話で伝えなければならない危難が近くに現れていたと考えるのはおかしいことかしら?」
紫の話し方は回りくどく最初こそ苛々させられたものの、言わんとしていることが少しずつ分かって来ると、紫の視線を正面から受け止める。いまとても大事な話をしていると察したからだ。
「里の人間を害さないという決まりが守られているならば、異変の元凶を求めるため敢えて人のいる所を探すようなことはしないでしょう。他に派手な被害が出ているならば尚更のこと。人里に長らく栄えてきた有力者の屋敷の周辺は特筆すべき被害が出ていないならば騒動の間中、身を潜めるのにうってつけだとも考えられる」
「それはつまり、リグルが稗田の屋敷を乗っ取っているということ?」
だとしたらあまりに大事だが、ありがたいことに紫は首を横に振った。
「いえ、そこまで大袈裟なことをする必要はないと思う。屋敷の近くに穴を掘り、そこに潜んでいるのかもしれないし、何か別の方法で身を潜めているとも考えられる。詳しいことは探ってみないことには分からないのだけど……ことは慎重に行わなければならない。探っていることが分かれば隠れ家を別の場所に移すでしょう。避難場所を一つに決め打ちしているとはとても考えられない。わたしたちはこの機会を逃すわけにはいかないのよ」
「それは、うん……そうだけど。なんというかちょっと根拠薄弱な気もするのよね」
遠子が危難に遭っているならば可能性だけであっても駆けつけてやりたいが、今更になって不確かな話に乗っかっても良いのかなと不安を感じ始めていた。
「いえ、わたしたちが追い求める虫の妖怪は稗田の屋敷の近くにいると思う。一瞬だけど電話が通じたのは騒動の元凶がごく間近に潜んでいたことを朧気ながら示しているし、いま考えると霊夢の力を軽く凌ぎきるほどの妖怪が真っ先にここを襲ってきたのもおかしなことだわ。霊夢は博麗の巫女だけど、郷にもっと強い相手は他にどこにでもいる。巫女の特別性はかつてに比べれば薄れているのに、それでも神社を襲ったのは何故か……それは貴方が何もしなければ真っ先に東の里へ行き、稗田の屋敷を訪ねる可能性が高いから、と考えられる」
「正体が露見する可能性を少しでもなくそうとしていた、そう言いたいのね?」
「これもまた傍証であり確実とは言えないのだけど、この状況をひっくり返して話の流れをわたしたちの元に引き寄せたいならば、賭けてみるのも一つの手ではある。それに霊夢だって、やりたいこととやるべきことが一致したほうがモチベーションも上がるでしょう?」
霊夢は渋々ながらに頷き、そうしておきながら紫の顔を疑わしげに覗き込む。理屈はつけたけれど、こちらの我侭を汲み取って配慮する意図が含まれているならば、博麗の巫女としてストップをかけなければならないのではないかという気持ちが働いたのだ。先程まであれほど望んでいたことを阻もうとするなんて我ながら妙な性分だけれど。
「あんた、意外と天の邪鬼なのね」
そう指摘され、霊夢は思わず頬を赤くしてしまった。何かに似ていることをしているといううっすらとした気付きはあったのだが、天の邪鬼だと指摘されるのは正邪のことが想起されて些か恥ずかしく、仄かな怒りを覚えずにはいられなかった。同時に霊夢はかつて正邪がぽつりと零したことを思い出した。
お前は逆さまの転倒した論理を操る……確か正邪はそう口にしていたはずだ。幼い頃から育てれば立派な天の邪鬼になったかもしれないとも。
「そんなことないわよ」かつての言葉を振り切るよう、霊夢は強く主張する。「東の里に向かいましょう。そこで鬼が出ようと邪が出ようと、躊躇うことなく懲らしめてやるから」
思惑はあれど今の自分にできることはそれしかない。改めて気持ちを固めると、紫は霊夢の手をぐいと引いた。
「では次のステージへ。引き続きよろしく頼むわね」
なんだか歳の近い妹に引っ張り回されているようだと思ってしまったが、当然ながら口にすることはなく、紫の歩みに続く。後ろをすいすいと付いてくる式の意識を朧げに感じながら、霊夢は東の里に向かうのだった。
「残り二人の行動理念はあんたと違うってところまで」
「そうだったわね。わたし、こう見ても蛾ではなくて鳥の妖怪だから忘れっぽいのよ」ミスティアは張り詰めていた空気を混ぜっ返すようなことを口にする。だが次の瞬間には真面目な表情で霊夢に向き直っていた。「二人が目指しているのは夜の特権を復活させることなの」
「夜の特権……って、夜は夜じゃない。特権を持つとかそういうものではないように思えるのだけど」
「人間からすればそうかもしれない。でも妖怪にとっては、特に闇に紛れて人間を脅かすようなタイプにとっては大切な問題なの。街灯の数はそうした妖怪に配慮されて数が厳しく制限されているけれど、夜も安全に歩けるようにしようと考える人間はことの他多い。西の里ではその声に押されて灯火制限が大幅に緩和されており、いずれは完全に撤廃されるかもしれない。そうなれば他の二つの里も追随する可能性が高い」
「だから大量の虫をけしかけ、里を襲ったの?」
「そうよ。アリたちは街灯を始めとして夜を明るく照らすものを最優先で攻撃するよう命令されている。また文明の光を生み出す源である発電所や工場に対しても攻撃が仕掛けられているわ。妖怪の山は今頃、こことは比べ物にならないほど大量のアリに襲われているのよ」
霊夢は思わず妖怪の山がある方角へと視線を向ける。天狗や河童を始めとした古豪の妖怪がひしめき、守矢の恩寵を授けたあの山が陥落するなど普段なら思考の端にすらおよばないことだが、今回ばかりはいささか話が違う。
「それとは別に、アリたちは計画を邪魔しそうな勢力の元にも一斉に放たれたの。どれだけ数を揃えても所詮は虫だからいずれは退治されるでしょうが、里に点在する光源の排除や機械を製造する工場の襲撃といった一連の行動が完了するまでの時間稼ぎができればそれで良い。だから偽物の月によって発生する通信障害に乗じ、計画を実行に移したのよ。連絡が取り合えなければ計画の全体像を掴むのに時間がかかるし、夜が停まれば偽物の月が出続けることになるから、通信障害もずっと続く」
そこまで考えて今夜を選んだのだとしたら、何も備えをしていないこちら側が対応できるはずもない。里の工業基盤は破壊され、取り返しのつかないことになる。
「夜の特権は甦り、人間は機械を使うことにも、夜を光で照らすことにも強い怖れを抱くようになる。文明などという小賢しい代物に対する崇拝の心も薄れるはずだ。それが二人の……特にルーミアが強く考えていることよ」
霊夢はルーミアなる妖怪を少しだけ知っている。彼女もまた根無し草の妖怪であり、住処と食事を求めて解放派に身を寄せているのだが、リグルと違って無邪気なばかりの振る舞いだから概ね妖精と同じように扱われていた。闇の力を振るうなどと口にしていたが、夜に遭遇してさえ苦戦したことは一度もなかった。そんなことを鬱屈と考えながら暮らしていただなんて今更言われても困るだけだ。
「そこでわたしたちはそれぞれの力を、そして異変を起こす権限を持ち寄って今回の計画を立てたの」
「異変を起こす権限ってさっきも言ってたわよね。そんなものがこの郷には存在すると言うの?」
「ええ、わたしやリグル、ルーミアだけではなく、計画を胸に秘めながら素知らぬ顔で暮らしている妖怪は他にも存在しているのよ。そして彼ら/彼女らは皆が同じ目的を持っているの」
「納得はできないけど、用意されている計画があるというのは分かったわ」郷のあらゆる場所に巨大な虫が大量発生しているこの現状を見てなお、そんなものがあるわけないと突っぱねることはできない。だからといって疑問が解消されるわけではなく、むしろいや増すばかりだった。「わたしが知りたいのはどうしてそんなものを用意する必要があるのかということよ」
「それはね、異変でなければ説明の起きないような大惨事を実際に異変のせいであると言い張るためよ。例えば里の大部分や田畑を根こそぎ押し流すほどの豪雨が起きたとき、郷に住む人間は自然現象ではなく異変の由来する何らかの理由を求めてしまうでしょう。なにしろこの郷には自然すらも操る神が目に見える形で存在しているのだから。それなのに単なる自然現象といっても誰も納得はしない。人間たちのヘイトは下手すると郷の賢者たちや有力者に向かいかねない。そうならないように前もって生贄の山羊を用意する必要がある」
「そういうの、わたしにはとても残酷に思えるのだけど」
力を蓄えて雌伏の時間を過ごすというのは理解できるが、そのために弱い振りをするというのは霊夢の知る妖怪像にそぐわないものがあった。人間と違い、妖怪は己の存在を誇示しなければ生きられない。それを抑えて暮らせだなんて、しかもいつ起こるかもしれない災害に備えるためだなんて、そうそう納得できるものではないはずだ。
「そう、残酷なことね。でもリグルやルーミアはその生き方を一度は受け入れたのよ。何故ならば、かつて起きた自然災害によって大事なものを喪ってしまったから」
「それはつまり、妖怪が喪われるような自然災害が起きた過去があるの?」
霊夢の学んだ歴史の中にそのような災害の記述はない。だから何百年も前の、稗田家の屋敷や遠子の記憶を辿らなければ見つけられない代物なのだろう。
妖怪は長命である分、特定のことをしっかりと覚えておくのが難しい。紅魔館がかつての咲夜をよく覚えているのは、彼女がその生を残酷なほど皆に焼き付けたからだ。ミスティアが何百年も前の出来事をずっと明確に覚えていたのだとしたら。それは余程の思い出か惨事に違いなかった。
そしてミスティアのもの悲しげな顔はこれから語られることが後者に属する話であることを示していた。
「ある年にね、冬がぴたりと訪れなくなったの。亡霊姫が起こした異変などではなく、単なる自然現象の帰結として。その時に冬の妖怪が槍玉にあげられて酷く虐げられ、異変の原因として追いやられたの。かつてわたしやリグル、ルーミアは草の根ネットワークという妖怪の互助グループに属していたことがあるのだけど、その仲間が何人か巻き込まれてしまってね。それは本当に酷い光景だったし、当時はさして力もなかったわたしたちには何もできなかった。でも、こんなことを二度と繰り返してはいけないということだけはよく分かった。だから彼女にいつでも展開可能な異変を準備して欲しいと頼まれたとき、三人とも迷うことなく頷いたのよ」
冬が訪れなくなるだなんて、春が訪れなくなることと同じくらいぴんと来なかった。だがそれはあり得ることだと、今の霊夢はよく知っている。
「だから何百年もかけて、数多の大妖怪と渡り合えるほどの力を練り上げたの。そして誰にも気付かれないよう弱い妖怪のふりをした。存在の自己否定という妖怪にとっての緩慢な自殺にもずっと耐え続けてきたの」
「ではどうして、耐えることをやめたの?」
霊夢の思考が行き着く先はその一点だった。ずっと我慢してきたのにどうして今更、我慢できなくなったのか。貯め続けてきた力を別の目的に使い回してしまったのか。それこそが知るべきことであるはずだし、紫が隠したいと願っている事実とイコールのはずだった。
「長年の雌伏がわたしたちにある疑いを抱かせたの。もしかすると貴方には既に見当がついているのではなくて?」
そんなことを言われても、霊夢は答えなど何も知らなかった。それならばいちいち会話などせず次の目的地に向かっている。だが答えを求めるように視線を寄せてもミスティアは口を噤んだまま何も語ろうとしない。
つまり彼女は答えを出すための手がかりが全て与えられており、それを当てて見せろと言いたいのだ。霊夢は意地悪と言いそうになる口を閉じ、これまでミスティアが語ってくれたことを思い出す。
彼女たちの悲壮な決意を崩すほどの真実とは一体どのようなものなのか。
ぐるぐると渦巻く思考の混沌から浮かび上がってきたものは、霊夢の口から無意識のうちに零れ落ちた。
「この郷に四季は存在しない」
口にしてすぐ、そんなことはあり得ないと思った。喪われた春を取り戻そうと奔走したのはついこの間のことであり、四季は霊夢が生まれてからずっと、多少の差異はあれど変わらず流れてきた。四季はあるに決まっている。それなのに霊夢は口にした言葉に真実が含まれているのだと確信していた。
「へえ、では夏の暑さも秋の恵みも、冬の寒さも春の息吹も、全てが夢幻の如くだと。貴方はそう主張するわけね?」
面白そうな顔をするミスティアを見て、あまりにも素っ頓狂なことを口にしたのだという恥じらいが湧いてくる。それでも霊夢は一歩も引かず、その通りと言い切った。
「どうしてこんなことを言ったかは分からないけれど、でも正しいのよ」
「なるほど、一種の託宣ってわけね。分からなくても真理の一端を突く、それは巫女にとって非常に大切なものだわ。貴方はそれを持っているとわたしは理解した。本当は探偵のようにぴしりと答えを示してもらいたかったけど、よく考えればわたしが知るもう一人の霊夢もそんなたまじゃなかったわね」
ミスティアはくつくつと愉快そうに笑い、小さく頷く。どうやら夜雀の試験にパスしたことを察し、霊夢は大きく息をついた。いつの間にか握り込んでいた手を開き、手汗を拭うとようやく緊張が少しずつ和らいできた。
「その通りよ。この郷に四季はない。何らかの方法で人工的に作成され、提供されている。四季だけではなく太陽も、月も、もしかしたら郷のあらゆるものがそうであるかもしれない。それは半年前の異変によって確信に変わった。もはやこの郷にわたしたちが守るべきものはない。用意してきた異変はとっくの昔に不要の代物となり果てた。このことを知ったわたしたちは激しく怒り、その矛先は異変を用意して欲しいと命じた妖怪へと向かったの。これはあんまりだ、わたしたちをずっと欺いてきて、耐えさせてきて。意味のないことをさせてきたお前を絶対に許さないと言ってやったの。
そうしたら彼女はすっかり観念し、それからこう言ったの。わたしの命でその怒りが収まるのならば好きにすれば良い。でもその前に一つだけ言いたいことがある。あなたたちが雌伏の果てに手に入れた力はそれぞれに郷を脅かすだけの能力を秘めている。それはわたしが命じなければ決して手に入らなかったもののはずよ、と」
何とも狡っ辛いすり替えだった。そしてミスティアの声真似は、三人に命令を授けた妖怪が誰であるかを明確にしてくれた。そしてお膳立てという言葉の意味するところも。
「その力で何をしようとわたしは黙認する。好きにやれば良い。この世に風穴を空けるだけの力、そして力を使うだけの動機をあなたたちは持ち合わせているはず……彼女はそう言ったの。わたしは惑わされるつもりなんてなかったんだけど、リグルとルーミアはすっかり乗り気になってしまった。だからわたしも計画に乗るしかなかった」
「それが夜の復権、人類に夜を照らすことを恐れさせるための計画なのね?」
「そう。そしてそれを永遠のものとするため、二人は郷中の機械を停止させる能力を持つ何者かの力も手に入れたがっている。だからこそ異変は今夜起こす必要があった」
可能かどうかはさておき、郷に混乱を引き起こすような機械を求めようとするならば霊夢は博麗の巫女として彼女たちを止める必要がある。
「残りの二人、ルーミアとリグルはどこにいるの?」
「ルーミアは迷いの竹林に向かうと言っていたわ。あそこは中に入ったものを問答無用で惑わせるから身を隠すにはうってつけなんだって。永遠亭の住人は混乱を無用に引き起こすような来訪者を許さないんじゃないかって指摘したんだけど、そこは話がついているから大丈夫だってことだった。ちょっと……いや、かなり疑わしいのだけど」
霊夢はつい先日、永遠亭を訪ねているし、永琳の知見には全幅の承認を置いている。いかなる甘言も通用しないとは思うのだが、ことが月に関わる問題ならば話はまた変わってくるのかもしれない。
「リグルは行き先について何も口にしなかった。ここならおそらく見つからないだろうと言って誰にも知られず行方をくらましたから、彼女がどこにいるかは分からない」
霊夢はミスティアの顔にじっと目を向ける。嘘をついていないかどうか見図ろうとしたのだが、彼女の表情にも瞳にも曲解の色は見受けられない。嘘を見抜く力なんて持ち合わせてはいないが、ここまで語ったのだから今更隠し事もないだろうと霊夢は楽観的に判断した。
一人の行き先は分かり、もう一人は分からない。それならば分かるほうの足取りを追うのが堅実だが、ミスティアの話を聞く限り真っ先に止めるべきは居場所の分からないリグルのほうだ。虫の操り手は彼女であり、その力があればこそ夜の復権計画は実行に移されたのだ。
それは逆に言えば計画最大の穴でもある。できればそこを突いて混乱を収めてしまいたい。だが闇雲に動けば全ては手遅れとなる可能性が高い。
リグルはおそらく見つからないと言った。それは郷に住む誰もが思いもよらない場所に身を隠すということだ。しかしこの郷は広いようで狭い。しかも郷には千里を見通す天狗がおり、あらゆる障害物をすり抜ける仙人がおり、心を見透かす覚がいる。全ての網を潜り抜け、おそらく見つからない場所なんて存在するのだろうか。
「あんただったら誰にも見つからない場所としてどこを選ぶ?」
そうしたことは妖怪のことが詳しいと考えての質問だった。そしてミスティアも霊夢の質問の意図を察したらしく、真剣に可能性を検討する仕草を見せる。
「それはとても難しい質問よ。だってこの郷に見つからない場所なんてあるわけがない。沢山の目が見張っているのだから。貴方の相棒である隙間妖怪ならばそんなことは重々承知しているはず。ただ、今回の件は数時間かそこらで完遂される計画だから短期間を凌ぎきれば良いし、そう考えると今度は幅が広過ぎるのよね」
尚も思考を進めるミスティアに期待を寄せてみたが、その顔はどんどんと曇っていく。どうやら何もアイデアは浮かばなかったようだ。
「ごめんなさい。わたし、基本的には鳥頭なの」
「それならわたしも同じようなものよ。だって何も分からないんだもの」
「そう言ってもらえると少しだけ面目なさも拭われるというものね。ごめんなさい、ここまで話しておきながら申し訳ないけれど、わたしが話してあげられるのはここまでみたい」
ミスティアは何事もなかったようにひょっこりと立ち上がり、ふわりと浮き上がる。
「さて、わたしは一足早く塒に戻るわね。ここにいる虫たちはわたしが責任を持って連れ帰るから安心して頂戴」
「そうしてもらえると助かるわ」霊夢はそこで言葉に詰まり、ミスティアからふっと目を逸らす。突如として罪悪感が浮かび、耐えられなくなったからだ。「その……大切な友達を裏切るようなことまでして、色々なことを教えてくれてありがとう」
「……貴方、善い人間なのね。早死しないように気をつけなさい」
いきなりそんなことを言われていよいよ気持ちの収めどころもなく。ミスティアはそんな霊夢の気持ちを理解する様子もなく、ばさばさと飛び去ってしまった。
一人になり、ようやく落ち着いたかと思ったら今度は紫が忙しなく目の前に現れる。彼女は不機嫌そうな表情を作っていたが、その目は霊夢の様子をやや不安げにうかがっており、さもすると外見通りの少女にすら見えるのだった。
「何よ、いきなり弱気になっちゃって」
「いや、うん……その、なんというか。霊夢は先の異変に続き、禁則事項の一端に触れたわけよね。流石に何か思うところがあるんじゃないかって。例えば上司への不信感とか」
今更それを言うのかとも思ったが、こちらとの関係を常によく保とうとしてくれるのはありがたいことだし、得られた情報に対してどんな感情を抱くのが適切なのかさえ分かっていなかった。そもそも四季がそもそも存在せず、作られたものであるだなんて、そう簡単に受け入れられることではない。霊夢には作られた四季とそうでない四季の区別がつかないのだ。
「そうね、確かにとんでもないことを知ってしまったわ。でも、それで何かが変わるというわけでもなさそうなのよね。作られたといってもわたしにとって四季は確かにあるものだから、いきなり認識を改めろと言われてはいそうですかと納得できるはずもないのよ」
「そう……霊夢はシンプルなんだ」
「む、なんか失礼なことを言われた気がする」
「いえ、褒めてるのよ。人は何かと複雑に考える生き物だから、いつでもシンプルというのは一種の美徳と考えて良いでしょう」
あまりにあまりな紫の言葉に、大きなため息が自然と漏れた。がみがみ屋で人間の上司みたく振る舞うから少しだけ失念していたけれど、彼女はやはり尊大で自然と人間を侮る存在なのだ。
「わたしが何も考えていないと言うならば、それはちょっと酷いと思う。確かにあまり学はないけど、年相応の知識は身に付けようと努力はしてるつもりよ」
「それくらいわたしも知ってるわ。侮っているわけではなくて、その、なんていうかなあ……」
「分からないことを分からないまま許す性格ってことですかね?」横から橙がひょっこり顔と口を出す。いかにも物知り顔なのが少しだけ憎たらしい。「紫様がそれを得難い素質だと考えるのはなんとなく分かりますよ」
霊夢は確かに知りたがりの性格ではない。幼い頃からの友人がそうだった反動か、彼女に聞けばなんでも分かるという安心感からか、立ち入ったところまで訊こうという気力があまりない。それは優しさではなく面倒をできるだけ避けたいという霊夢の教条に根差すところが大きい。
「それよりも紫様。わたしは次の行き先を早く決めるべきだと具申いたします」
「そう、わたしもそれが言いたかったの」紫は橙の意見に乗っかり、頬を指でとんとんと叩く。柔らかそうな頬だなと思ったのは口にしないでおいた。「さて、これまでの話を総合してわたしたちはどこへ進むべきか」
「わたしは一介の式なので選択権を謹んで放棄します」
橙はそう言ってすっと影に引っ込んでしまい、気配が感じられなくなった。彼女が話していた猫の抜け道なるものに潜ったのかもしれない。
「あっ、こら……ったく、調子が良いんだから」
紫は何もないところを苛だたしげに睨みつける。そこがもしかしたら猫の抜け道の入口なのかもしれない。
「まあ良いわ、ここは二人でなんとかしましょう。それで霊夢には何か心当たりがあるかしら?」
「全くもって何もないのだけど……ねえ、他に心当たりがなければ居所の分かっている方を追いかけるつもりなんでしょう?」
「それしかやることがないけれどあからさまに罠臭いのよね。あの夜雀、選択肢を固定するためにわざと情報を撒いたのかもしれない。かといってふん縛っても吐きそうにないし」
紫は怒りの視線を今度は空に向ける。これまでの態度から十分に分かってはいたが、彼女はいちいち怒りっぽくてがみがみ屋なのだ。霊夢にはミスティアに悪意を感じられなかったのだが、それを口にしても聞き入れてくれそうになかった。
「それとも霊夢には他に気になることがあるの?」
「いやうん、気になるというか……東の里も襲われてるならば救助に向かったほうが良いのかなと。最初はその予定だったはずだし」
「状況は刻一刻と変わるものだし、そもそも博麗の巫女は世評を気にし、点数稼ぎをする職業じゃない。そういうのはもう一人の巫女に任せておけば良いのよ」
佳苗の辛そうな顔がふと浮かび、慌てて打ち消す。今は彼女のことを考えている場合ではない。
「わたしたちがすべきなのはこの混乱と偽物の月にまつわる現象を一つの物語に繋げることよ」
「それこそ後付けの設定や嘘を付け加えても、でしょう?」
「嘘と物語は似て非なるものだけど、ここで講釈を垂れても仕方のないこと。それとも霊夢はわたしの予想を上回る手立てを持っているわけ?」
そこを突かれると霊夢には無性に気になる以外の根拠を与えることができなかったし、それも友人が窮地に陥っているのではないかという私情に満ちた判断と言われたら何も返せない。ぐずぐずしていると、紫は怪訝そうな表情で霊夢をじっと見据えてくるのだった。
「妙に固執するわね。何か理由でもあるわけ? 例えば夢で何かを見たとか?」
「夢じゃないの。電話がかかってきたのよ、遠子から。偽物の月が現れ、通信が繋がらない状況にもかかわらず、一瞬だけ声が聞こえてきたような、気がして……」
ノイズだらけでほとんど何も聞き取れなかったが、遠子の声だったはずだ。何もなければ良いのだが、もしも彼女に危難が訪れていたらと考えれば駆けつけたくもなる。
紫は霊夢の言葉に酷く顔をしかめていた。友人とたまたま、一瞬だけでも電話が繋がったという理由だけで行動しようとした自分を責めようとしているのかとも思ったが、思索の果てに何かを得たのかその表情は徐々に明るくなっていく。
「あの忌々しい月の偽物が現れたとき、様々な機器が使用不能になる。だけどある特殊な条件下ではその制限が緩和される場合がある……確かそうだったわよね?」
「ええ、そのように聞いているわ。例えば病院の機械はコンピュータを導入していても、観測と明らかに無関係であれば動くこともある。そのことからあの月は何らかの意志を持って外界に影響を及ぼそうとしているのだと……」
そこまで口にしたところで、霊夢は紫の言わんとしていたことを察した。それは同時に霊夢の危惧が現実になったかもしれないことを意味していた。
「以前からも電話が稀に繋がることがあるというのは報告されていた。それは全て、連絡が繋がらなければ大きな問題が発生する場合だった可能性がある。相手が誰だか分かった時点で役目が果たされたと判断され、そこで通話が切断されてしまうのでしょう」
「遠子はいま、かなりやばい状況だってこと?」
「かもしれない……さて、ここで一つ考慮すべきことがあるのだけど」
「そんなこと、今はどうでも良いわ。わたしは早く東の里に行かないと……」
幼い頃からずっと親しくしてくれた友人なのだ。危機が明らかそうだと分かったなら、助けに行かないのはあまりにも不義理過ぎる。
「落ち着いて。わたしは助けに行かないなんて一言も口にしてないわ。そしてあと数分だけ、わたしの話を聞きなさい。それが結局、あんたの大切な友達をいち早く助けることにも繋がるのよ」
紫に説得され、頭に上りかけた血が徐々に下がっていく。大きく深呼吸を一つ、霊夢は縋るような気持ちで紫の話に耳を傾ける。
「式の報告でもわたしの調査でも、アリは抵抗しない人間を襲っては来ないし、無意味に建物を壊したりはしていない。民家もその他の公共施設も無事で、唯一街灯などの明かりが破壊されているのだけど、それは後々すぐに修復できるし、敢えて騒ぐようなことではない。人間はアリが跋扈するこの騒動において、安全な立場にあると言える。これは里の人間に手を出さないという不文律に従っているとも言えるのだけど……ここで一つおかしいことがある。危害が加えられていないのに、電話は繋がった。遠子が霊夢に電話で伝えなければならない危難が近くに現れていたと考えるのはおかしいことかしら?」
紫の話し方は回りくどく最初こそ苛々させられたものの、言わんとしていることが少しずつ分かって来ると、紫の視線を正面から受け止める。いまとても大事な話をしていると察したからだ。
「里の人間を害さないという決まりが守られているならば、異変の元凶を求めるため敢えて人のいる所を探すようなことはしないでしょう。他に派手な被害が出ているならば尚更のこと。人里に長らく栄えてきた有力者の屋敷の周辺は特筆すべき被害が出ていないならば騒動の間中、身を潜めるのにうってつけだとも考えられる」
「それはつまり、リグルが稗田の屋敷を乗っ取っているということ?」
だとしたらあまりに大事だが、ありがたいことに紫は首を横に振った。
「いえ、そこまで大袈裟なことをする必要はないと思う。屋敷の近くに穴を掘り、そこに潜んでいるのかもしれないし、何か別の方法で身を潜めているとも考えられる。詳しいことは探ってみないことには分からないのだけど……ことは慎重に行わなければならない。探っていることが分かれば隠れ家を別の場所に移すでしょう。避難場所を一つに決め打ちしているとはとても考えられない。わたしたちはこの機会を逃すわけにはいかないのよ」
「それは、うん……そうだけど。なんというかちょっと根拠薄弱な気もするのよね」
遠子が危難に遭っているならば可能性だけであっても駆けつけてやりたいが、今更になって不確かな話に乗っかっても良いのかなと不安を感じ始めていた。
「いえ、わたしたちが追い求める虫の妖怪は稗田の屋敷の近くにいると思う。一瞬だけど電話が通じたのは騒動の元凶がごく間近に潜んでいたことを朧気ながら示しているし、いま考えると霊夢の力を軽く凌ぎきるほどの妖怪が真っ先にここを襲ってきたのもおかしなことだわ。霊夢は博麗の巫女だけど、郷にもっと強い相手は他にどこにでもいる。巫女の特別性はかつてに比べれば薄れているのに、それでも神社を襲ったのは何故か……それは貴方が何もしなければ真っ先に東の里へ行き、稗田の屋敷を訪ねる可能性が高いから、と考えられる」
「正体が露見する可能性を少しでもなくそうとしていた、そう言いたいのね?」
「これもまた傍証であり確実とは言えないのだけど、この状況をひっくり返して話の流れをわたしたちの元に引き寄せたいならば、賭けてみるのも一つの手ではある。それに霊夢だって、やりたいこととやるべきことが一致したほうがモチベーションも上がるでしょう?」
霊夢は渋々ながらに頷き、そうしておきながら紫の顔を疑わしげに覗き込む。理屈はつけたけれど、こちらの我侭を汲み取って配慮する意図が含まれているならば、博麗の巫女としてストップをかけなければならないのではないかという気持ちが働いたのだ。先程まであれほど望んでいたことを阻もうとするなんて我ながら妙な性分だけれど。
「あんた、意外と天の邪鬼なのね」
そう指摘され、霊夢は思わず頬を赤くしてしまった。何かに似ていることをしているといううっすらとした気付きはあったのだが、天の邪鬼だと指摘されるのは正邪のことが想起されて些か恥ずかしく、仄かな怒りを覚えずにはいられなかった。同時に霊夢はかつて正邪がぽつりと零したことを思い出した。
お前は逆さまの転倒した論理を操る……確か正邪はそう口にしていたはずだ。幼い頃から育てれば立派な天の邪鬼になったかもしれないとも。
「そんなことないわよ」かつての言葉を振り切るよう、霊夢は強く主張する。「東の里に向かいましょう。そこで鬼が出ようと邪が出ようと、躊躇うことなく懲らしめてやるから」
思惑はあれど今の自分にできることはそれしかない。改めて気持ちを固めると、紫は霊夢の手をぐいと引いた。
「では次のステージへ。引き続きよろしく頼むわね」
なんだか歳の近い妹に引っ張り回されているようだと思ってしまったが、当然ながら口にすることはなく、紫の歩みに続く。後ろをすいすいと付いてくる式の意識を朧げに感じながら、霊夢は東の里に向かうのだった。
第3章 幻想の静止する日 一覧
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