2XXX年の幻想少女第3章 幻想の静止する日 幻想の静止する日 第9話
所属カテゴリー: 2XXX年の幻想少女第3章 幻想の静止する日
公開日:2017年08月17日 / 最終更新日:2017年08月17日
土の中を泳ぐのはほとんどの人間にとって最悪の体験だが、佳苗にとっては殊更に堪えるものだったらしい。胃の内容物を全て吐き出し、空っぽになっても吐き気が収まらなかったらしく、うずくまったまま五分ほどもげえげえと吐き続けていた。見ているだけで気の毒になってくるが、かといってここで立ち往生しているわけにもいかない。
「そろそろ落ち着いてもらわないと困ってしまうのだけど」
少しきつい言い方かと思ったが、佳苗はよろめくことなくしっかりと立ち上がり、ハンカチで涙に溢れた目を拭い、それから口元を拭う。最後に少し迷ってから洟をちーんとかみ、少ししょんぼりとした顔でハンカチを収めた。
「醜態をお見せしてしまいました、すみません。もう動けますし、戦えます。どんな苦難にだって立ち向かってみせますとも」
「じゃあもう一回、土の中を泳いでみる?」諏訪子の首から上が地面からひょこりと生えてきて、佳苗は心底嫌そうな表情を見せた。「できないことは避けて良いんだよ、佳苗はまだまだ未熟なんだから。できることの中で最高の手を打てば良い」
「そのようなことで良いのでしょうか?」
「できることから最善の手を打つのだって十分に難しいよ。それを超える奇跡的な手筈なんて、まず起こせないと思ったほうが良い、特にこの幻想郷ではね。早苗を見てごらんよ、奇跡を起こす程度の能力をうたいながらコンサートのチケットすらろくに用意してもらえないんだぞ」
「ちょっと待ってください、奇跡を起こす程度だなんて、それはもう何百年も前の話ですよ。蒸し返されては困ります」
早苗はいつものしっかりした態度をかなぐり捨てて諏訪子にくってかかるが、諏訪子は逃げるようにしてぬるりと地面の中に潜ってしまった。
「わたしは山に戻るよ。神奈子が敵の目をひきつけている隙に、やらなければやらないことがちょくちょくあるんでね。いやー、新たな風祝の最初の活躍を是非ともこの目に焼きつけたかったんだが」
勝手なことを一方的に告げると、諏訪子の神意がこの場から急速に遠ざかっていく。いつになっても変わらないなあと思いながら佳苗の様子を見ると緊張が解けて吐き気がぶり返したらしく、喉を押さえて吐きたそうにしていた。
早苗の視線に気付いた佳苗は吐き気をぐっと飲み込み、慎重に辺りを見回す。アリが近くに潜んでいないか確かめている様子だった。早苗も力を使えば夜目をきかせて探索に加わることはできたが、余計な力を使うことは避けたかったし、ここは佳苗に全てを任せることにした。
「目視できるところにアリはいないし、気配も感じません。この騒ぎを起こした何者かは強い力を持っていますが、それでもあらゆる場所にまでアリを配置することはできないみたいですね」
「難事における唯一の幸いといったところかしら。里の外れには山間駐留隊の詰め所もあるから、水道が生きていれば顔と喉を洗いましょうか。特に喉はいがいがしてしょうがないでしょう?」
「喉だけじゃなくて全身を洗いたいですよ。体中がねばねばして、変な臭いを放っているような気がしてしょうがありません。さっきから感覚がごちゃ混ぜなんですよ。見えるものが聞こえ、感じるものが強い臭いを放っているようで、ようやく落ち着いてきましたけど今でも少しちぐはぐしてます。これ、どういうことなんです?」
「諏訪子様の力で地中を潜ってきた影響かな。わたしは佳苗のように酷い症状は発生しなかったから実感がないの。おそらく瞬間移動酔いに似た症状だと思うのだけど、だとしたら収まるのを待つしかないかな。乗り物酔いの回復方法と一緒ね」
「了解です。ああ、肌がべたべたして酸っぱい……」
情けない声をあげたが背筋は伸ばしているし、警戒も怠りないようだ。少なくとも自分が駆け出しの頃よりもよほどしっかりしている。早苗はそのことに安堵し、後を追いながらちらと空を見る。月の姿は見えないが、時間を停止させる力がいくつも働いているからこの空のどこかに浮かんではいるはずだ。それなのにすっかり隠蔽され、どうやっても見つけることができない。
アリと関係があるのか、それとも別の意思が月を隠しているのか。もし無関係だとしたら月の隠蔽を行なっている不埒者もまた別個に退治する必要がある。だがアリでかき乱されているこの状況で、敢えて別の目的を果たそうとする捻くれ者が果たして存在するのだろうか。
どちらにしろ今の早苗がやらなければならないのは北の里をアリの混乱から解き放つことだ。山間駐留隊がまともに機能しているようだったら彼ら/彼女らと組み、里に住む人間を救う。自分たちの他にもいくつもの勢力が動いているはずだから、その中にとびきりの捻くれ者がいることを信じて進むしかなかった。
山間駐留隊として働く天狗や河童の居住区は北の里から少し離れた場所にいくつか点在する。里の中で暮らさないのも、居住区をいくつかに分けているのも人間感情に配慮してのことだが、今回ばかりはそれが裏目に出たらしい。二人が最初に辿り着いた居住区は徹底的に荒らされており、今も多くのアリが徘徊していた。
「なんだか修学旅行で東京に行った時のことを思い出しますね」
東京なる場所がどこにあるのか、佳苗にはさっぱり見当もつかなかった。この手の訳が分からない話は大抵、外の世界なるもの由来であり、佳苗はこれらを総じて御神託と呼んでいる。本来の神託とはまるで違うのだが、神様の変てこなお話なのだから意味は変わらないだろうというのが佳苗の偽らざる心情だった。
「いま聞くようなことじゃないかもしれませんが、その東京ってどんな場所なんです?」
それでも訊いたのは美真が語る異世界の話にその東京なる都市が何度か出現したことがあったからだ。二つの世界が似て非なるものであることは分かっていたが、それでも何らかの知見は得られると思った。
「そうねえ、とにかく人が沢山いたかな。人間だった頃のわたしはそれらの光景を楽しい、騒がしい、羨ましいと感じてましたよ」
そしてすぐに訊かなかったほうが良かったかなと後悔してしまった。アリの群れを見て人が沢山いる都市を思い出したのだから、人間とアリに何らかの共通点を見出したと考えるべきだったし、人間もアリもさして変わらないなんて言われたら、たとえ風祝と言えど彼女をこれからも奉ずる自信はなかった。
そんなことをぐずぐず煩悶していると早苗は突然、何か合点したかのように大きく頷いてみせた。
「ああ、そういうことか……」どうやら気付いたことがあるらしく、早苗は佳苗にちらりと視線を送ってくる。妙なことを口にしないでくれと内心で願いながら、佳苗は耳を傾けるポーズを取った。「山を襲ってきたアリたち、完全に統制が取れていましたよね。でも、ここにいるアリたちは往来をうろうろしているだけのように見える。普通の人間が道を歩いているのとさして変わりがありません」
「指揮系統に差があるということでしょうか?」
「アリは真社会性の生物だからある程度の統一された活動を行うとは考えられるけど、山を覆い尽くすほどの数となれば流石にどう動くか想像もつかないわね。ただ、少なくともここにいるアリたちはあまり厳しく律されていない。この場に留まっているのがどうしてなのかもよく分からないし」
「もしかしたら山間駐留隊の残党を探しているのかもしれません」
咄嗟の思いつきにしては良い線を言っていると思ったが、早苗は賛同を示すことなく首を横に振った。
「たかだか十数人が暮らす程度の居住区なのだから探し尽くすなど簡単なはず。疲弊して動けなくなった隊員を取り囲んでいるのかもしれないけど、それにしては動きにむらがあり過ぎる。まるで無為に時間を過ごしているだけのような」
「指揮官がいないとか? 例えば駐留隊に返り討ちにあって捕らえられたとか」
「それは……有り得るかもしれない。若輩とはいえここにいるのはれっきとした河童や天狗なのだから。とにかくここを探すのは無意味だし、他の居住区に向かうのもあまり意味がないように思える。ここは思い切って里の中に侵入を試みましょう。口をゆすぐのはもう少し我慢して頂戴」
佳苗もそれで問題なしと判断し、居住区を迂回してから北の里を目指す。東の里と違って内外を囲う塀や柵がないから明確にここからが里だとは言い切れないが、建物の数や道路の舗装から境目は分かる。
里に入ると二人は当初、身を隠しながら進んでいたが、どこまで進んでも巨大化したアリの姿は見当たらなかった。周囲に警戒しながら姿を現してみたが、それでも変化はない。
「アリが見当たらないわね。山に押し寄せるほどの数を用意できるのだからこっちにも殺到してると思ってたのに。山間駐留隊が粗方駆除したのかしら」
「だとしたらこちらで立ち回る必要がなくなりますね」
力を発揮することができないのは残念だが、里への被害が少ないのだから幸いだと気持ちを切り替える。早苗はそんな佳苗の気持ちを汲んだらしく、少しだけ残念そうな顔をしてみせた。
「山の威光を示すことはできないけど、駐留隊が慕われるのは守矢にとっても悪いことではない。もしかすると既に壊滅状態、アリたちがあちこちの物陰に潜んで里に入ってくる者たちを待ち伏せしているのかもしれないけれど」
警戒は怠りなくと胸中に言い聞かせ、佳苗は風を飛ばしてより広範囲に気を配る。すると背後に何者かの気配を捉え、佳苗は振り向き様に御幣を構えて襲来者と思しき相手に備える。相手に攻撃の意志があれば即座に対応するつもりだったが、妖力の持ち主はすぐに姿を晒してみせた。河童の出で立ち、どことなく漂うあどけなさから、佳苗には彼女が山間駐留隊の一員なのだと察しがついた。
「守矢神社の風祝に早苗様まで。二人とも救援に駆けつけてくださったのですか?」
早苗は畏まった一礼を制し、柔らかく微笑みかける。
「そうですが、加勢は必要なかったみたいですね」
「いえいえ、大量のアリが攻めてきて一時期は右へ左への大騒ぎでしたから、山蜘蛛の足でも借りたい状況でした」
山蜘蛛はかつて河童と酷く対立しており、今では住処を完全に別としているがそれでも仲はあまり良くない。敵の助けも借りたいほど忙しいという河童独特の慣用句であり、余程の状況であったことが佳苗にもうかがい知れた。
「幸いなことに緊急事態への備えをしなければという機運が今年の始め頃から少しずつ高まっておりまして。一時は分断されましたが各個に行動を開始して形勢逆転。動乱を指揮していた付喪神や周りで騒いでいた同類たちもひっ捕らえまして、ようやく落ち着きを取り戻したところですよ。わたしはアリの新しい襲撃がないか見回っている最中でした」
「わたしたちは駐留隊の居住区を一つ見てきましたが、ここと違ってアリがうろうろしていました。あれは故意に放置しているのですか?」
「いえ、まだそこまで手が回っていないだけで。生き残りのアリが里の周りにまだいるんですか? その割には再襲撃の兆候すら見受けられませんが。大将を捕らえられ、まごついてるのしょうか?」
「そうとは思えませんね。妖怪の山はいま、まるで川が逆流しているかのような大量のアリに攻め込まれていますが、数を少々減らされたくらいではまごつく様子すら見せませんでした」
佳苗もその怒濤さは目にしているから、北の里を襲撃したアリがあっさり駆逐されてしまったこともすぐには信じられなかった。だが里の中にアリの姿は見当たらないし、ここで落ち着いて話をできていることが、河童の話を何よりもよく肯定している。
「もし可能ならば動乱を指揮した付喪神に会わせてもらえないでしょうか。彼女に話を聞けばアリの侵攻を止める手立てが分かるかもしれません」
「それはまあ、構わないと思いますよ。わたしは平の隊員ですから許可は出せませんけど、早苗様の望みであれば上も問題なく納得するでしょう。付喪神たちがまとめて捕らえられている場所まで案内しますよ」
「それは、ご迷惑をおかけします。警らの最中なのに」
佳苗が小さく頭を下げると、河童は「もうすぐ見回りも終わりで帰投する予定でしたから気にしないでください」と言って先頭に立ち、二人を案内してくれた。その際も周囲には油断なく気を配っており、なるほどこの練度だからアリにも立ち向かえたのだなと改めて納得することができた。
里内にある山間駐留隊の詰め所まで来ると、上司らしき河童がへこへことした様子で出迎えてくれた。彼女はこの危難を乗り越えたにしては妙に身綺麗で疲れた様子もなく、早苗の発言をまるで疑うことなく受け入れると、ここまで二人を連れてきてくれた河童に牢屋まで案内するよう、横柄さ丸出しの指示を出した。
よくあんな奴ににこにこ顔で対応できるなと思いながら、佳苗は少し離れたところで不機嫌さを必死に噛み殺すしかなかった。話が終わった早苗は肩をぽんぽんと叩き、気持ちを察するような態度を見せてくれたがそれでも怒りは収まらなかったし、腹芸すらできない自分の子供っぽさに嫌悪を抱かずにはいられなかった。
「この詰所の隣に刑務所がありますからそちらに向かいましょう。と、その前に……水道は止まってますが、水はたっぷりあるとのことなので、口をゆすいで来たらどうです?」
口の中に残る酸っぱさを思い出し、佳苗は洗面所に向かうと飲料水の文字が書かれてあるタンクから水を注ぎ、念入りに口の中をゆすぐ。ぐじゅぐじゅと音を立て、ぺえっと勢いよく吐き出すと、胸の中にあったわだかまりやもやもやも少しだけ追い出すことができたような気がした。
駐留隊の詰所と隣接する刑務所は普段なら人間の犯罪者を投獄するためのものだが、今はその大半を妖怪が占めており、人間たちは牢屋の片隅で居心地悪そうにしていた。こんなことなら犯罪なんてやるんじゃなかったとがたがた震えているのは少しだけ気の毒に思えたし、自業自得とも思えてしまい、落ち着かない気持ちにさせられる。だが今は善悪がどうのこうのと考えている時ではない。目の前の問題と向き合うべきだった。
刑務所の一番奥、妖怪封じが念入りに施された牢屋の中に彼女はいた。幻想郷に存在する全ての機械を解放せよと唱える組織の首領であり、郷の音楽シーンの最先端として若者に人気を誇るアーティストでもある堀川雷鼓は、牢の中だというのに肩を落とすこともなく実に堂々と腰掛けており、早苗の訪問にも動じることはなかった。
「稀代の犯罪者を訪ねてやってくる神の従者だなんて、映画みたいなシチュエーションだとは思わないかしら?」
雷鼓はそう言ってこれみよがしに足を組む。実に挑発的で破廉恥な仕草だった。
「成年指定がつきそうなポーズはやめてください。隣にいる子は未成年なので」
早苗に指摘されても雷鼓は正すことなく、牢屋の外にいる訪問者たちにじっと目を向ける。まるでこちらの考えることを見透かそうとしているかのようだった。
「さて、全てが終わった頃にのこのこ現れて一体どうしたのかな。わたしの無様な姿を笑いに来たのか? だったらつくづく暇人だと笑ってあげるところだけど」
「指を差して笑うならいつでもできるので。いまここで訊きたいのはこの世を埋め尽くすほどのアリを用意したのは本当に貴方たちかということですよ」
「アリだけじゃない、大量の蛾や羽虫も惜しみなく投入されている。解放派が活動を開始して以来、これほどの大規模作戦が展開されたことはなかっただろう。正に未曾有の大躍進、下克上に二歩も三歩も近づいたことになるな」
下克上という言葉に、早苗の表情が一気に険しくなる。
「かつて小槌を使い、擾乱を起こそうとして酷い目に遭ったというのにまだ懲りてなかったんですか、あのとんちき天の邪鬼は。そして愚かにも貴方たちは彼女の言葉を信じてこの作戦を遂行するための手駒として動き、そしてこの様です。さあ、何か申し開きはありますか?」
早苗の剣幕に雷鼓は一瞬だけ圧倒された様子を見せたが、小さく息をついたのち、組んだ足を元に戻す。先程までの挑発的な態度が崩れ、どこか親しみやすい雰囲気が今の雷鼓からは感じられた。
「いやうん、もちろん大ありさ。今回の件、天の邪鬼は全く絡んでないんだよ」
「え、でも非常に悪質だし、虫の叛乱は下克上を旨とする彼女の性格とマッチしています。それなのに彼女の計画ではないと?」
「今回の計画は組織に所属している妖怪の何人かが共同で考えついたものなんだ。というのも正邪は組織に対する裏切り行為を働いていたことが発覚してね。これまでの功績を鑑みた結果、穏便な追放処分と相成ったわけだが」
天の邪鬼が裏切りを働くというのはありそうなことだと佳苗は思ったが、早苗はそれを信じてはいない様子であり、口元に手を当てて考え込む仕草を見せた。
「裏切りが発覚し、入れ替わるように提案されたのが今回の計画だったんだ。郷に巻き起こっている怪現象に乗じ、今度こそ機械の解放という念願を果たそうと熱心に説かれてしまってね。その内容がまた実に破天荒なものだったが、巨大化した虫の実物を見せられたし、部下の自主性に任せるのは良いことだと承認してしまったんだ」
「なんて適当な!」
佳苗は雷鼓の話につい大声をあげてしまい、慌てて手で口を塞ぐ。ちらりと雷鼓を覗き見れば気分を害した様子は一切なかった。
「大した力も持たない奴らだし、ちょっとした騒ぎを起こすのが関の山とたかを括っていたのだが、いざ決行当夜になってみれば予想を遙かに越える数のアリが用意されていて、あの時は余裕ぶっていたが内心かなり吃驚していたよ。しかもこれを郷のあらゆる場所に潜ませているというじゃないか。わたしとしては実に困った事態だった。太陽の消失と偽物の月にまつわる怪現象は付喪神を酷く苛んでいてね、解決の糸口を探さなければいけないというのに、こんな大規模の騒ぎを起こしている場合じゃない。さてどうしようかと途方にくれかけていたが、北の里の山間駐留隊が未曾有の危難にもきっちりと対応してくれてね。お陰でわたしも絶妙な手加減をもってわざと敗北することができたってわけだ」
雷鼓はわざとの部分を強調する。早苗は了解とばかりに深く頷き、佳苗も慌ててそれに倣う。それで雷鼓は機嫌を良くし、話の続きに取りかかってくれた。
「わたしにはアリに指示を与える権限がある程度まで与えられていたが、最小限だけを行使して残りは放置したままにしてある。だが、このまま現状維持が続くかどうかは分からない。あいつらがわたしの取る行動を想定していないとは思えないんだよな」
「でも、貴方の目的は幻想郷に存在する機械の解放ですよね。大量の虫による襲撃がそれを叶えるための絶好の機会であったことは間違いありません。それなのにどうして計画を放棄したんですか?」
「正直に言えば、最初はそれも良いかなと考えたんだ。でもあのアリたち、物を壊すのに全く躊躇いがなくてね。特に街灯を始めとした光を放つ器物となれば容赦なく引き倒し、徹底的に破壊していた。わたしがいくら制止してもそれだけは決してやめなかったんだ。それがわたしにはどうにも我慢ならなかった」
怒りを滲ませる雷鼓を見て佳苗は納得しかけたが、それを遮るように早苗がぽつりと冷たい呟きをもらした。
「テロリストの矜持ってやつですか、馬鹿らしい。貴方たちが奇妙な計画を行うごとに誰かが迷惑を被るし、物だって機械だって壊れる。それに先刻は春を奪うと称して桜を散らそうとしましたが、物を壊すのは躊躇うくせに植物を害するのは構わないだなんて明らかな独善です。わたしは解放派のそういうところが好きになれませんね」
「独善大いに結構、あんたが解放派を嫌うのも勝手にすれば良い。だが北の里はわたしの独善のお陰で最小限の被害に留まっていることを忘れないで欲しいね」
「結果論に感謝するだなんてそれこそ馬鹿らしいですよ」
早苗と雷鼓の視線が激しくぶつかり合い、辺りが緊張に包まれる。佳苗はかつて、早苗が雷鼓の奏でる音の大ファンだと口にしていたのを聞いたことがあり、それは公私混同ではないかと少しだけ軽蔑したのだが、その気持ちはいまや完全に吹き飛んでいた。守矢の三柱目はミーハーだが、それは公に私を混ぜることを意味しないのだ。
「このまま平行線の話を続けても無駄に時間を費やすだけのようなので、それではあと一つだけ聞かせてください。この計画を貴方に持ちかけたのは誰ですか?」
「リグル、ミスティア、ルーミアの計三名だね」首謀者の名前について隠すつもりはないらしく、雷鼓はさらりと種明かしをしてしまった。「この三人が懇意にしている妖怪にも計画に同調している奴がいるかもしれない」
リグルという名の虫使いについては以前の会話でも話に上がってはいたが、早苗は懐疑的な結論を出していた。虫の妖怪としてその恐怖を代弁しなければならないはずの彼女が弱い振りをするなんてあり得ないというのが言い分だったし、その表情からして今も気持ちに変わりはないようだった。
雷鼓も同じ考えだからこそ、三人には大したことができないとたかを括ってしまった。だが虫の被害は実際に起きており、リグルは計画の中心に存在する。この齟齬がどうして生まれたのかを知る必要がありそうだった。
そして早苗も同じ気持ちだったらしく、一つの疑問が雷鼓へと向かう。
「彼女たちはどうして弱い振りを続けることができたのでしょうか。わたしにはそれがよく分からないのです」
「分かっていればわたしだって事前に疑うことができただろう。それができなかったということは分かっていないんだ。でも……そう言えば計画を打診されたとき、少し引っかかることを口にしていた。その時はあまり気にしなかったが」
「些細なことでも構いません。今のわたしには一つでもヒントが必要なんです」
「ヒントになるかは分からないが……こんな大それた計画をいつから用意していたのかが気になったからその場で訊いてみたんだが、すると彼女たちはこう答えたんだ。かつて冬が喪われた時からずっと準備してきたんだと」
「冬、ですか?」佳苗は雷鼓が単に言い間違えたのだと思った。半年ほど前に起きた、春を喪わせる事件に触発されたのだとしたら辛うじて納得できなくもない。だが雷鼓は佳苗の問いかけに重く頷くだけだった。「先の事件で喪われたのは春ですよね?」
「だからわたしも同じことを訊いたんだ。すると彼女たちはしまったと言いたげな顔をしてから慌てて、そうそう春です言い間違えたと繕ったんだがね。その態度が妙に怪しくて、どうにも記憶の隅にこびりついていたんだ。でも、冬が喪われるなんてなあ」
「そんなこと、この幻想郷では一度も起きていないですよね?」
少なくとも佳苗はそんなことがあっただなんて聞いたことがなかった。だが雷鼓はあっさりと首を横に振るのだった。
「いや、確か一度だけあったはずだ。冬が春のように暖かく、雪が一欠片も降らなかった年がね。ずっと昔だから正確にどれくらい前かは覚えてないけど」
佳苗は早苗にちらりと視線を寄せる。雷鼓の与太話ならばさっさと否定して欲しかったが、早苗の顔は驚愕におののいている。心当たりがあるだけではなく、当事者であることがその様子からうかがえたが、しかしそこまで脅える理由が当時を知らない佳苗には全く見当がつかなかった。
「おそらく外の世界と繋がっていた頃の話だ。郷が移転してからは四季の一つが欠ける程の異常気象だなんて、意図しない限りはあり得ない話になってしまったから……」
「それだけ分かれば十分です、ありがとうございました」
早苗は雷鼓の言葉をあからさまに遮り、佳苗の手を引いて足早に立ち去ろうとする。佳苗は強引に手を振り払い、早苗を睨みつける。聞くべきことはまだいくつもあったのにこんな態度を取るなんて、とてもではないが認めるわけにはいかなかった。
「どういうことですか? もっと彼女から話を聞かないと」
「もう十分に事情は分かったのよ。これ以上こんな所にいる必要はないし、一刻も早くアリが跋扈するこの状況を解決する必要がある」
「では、早苗様には犯人と名指しされた三名の居場所も分かっているんですか?」
もし分かっているならばここにいる必要は確かにない。だが早苗は言葉に詰まり、佳苗から目を逸らしてしまった。決して語ることのできない事情があるのだとその態度が明白に物語っており、それで佳苗もようやく事情の一端を察することができた。
雷鼓の話してた何かが郷の禁則事項に抵触していたのだ。
この世には決して問うてはならないことがあり、そこに触れている事柄はどんなにしつこく訊ねても頑なに何も答えてくれない。佳苗はそれを密かに禁則事項と呼んでいるのだが、様々な問題の飛び交う現状においてなお答えを拒み、誤魔化そうとすることに強い怒りを抱かずにはいられなかった。
「分からないなら訊かなければ駄目です。その場にわたしがいて不都合ということであれば、外で待っていますから」
隠し事をされているのは悲しいことだが、まだ我慢できる。でもその隠し事のために大事なことを見逃してしまうのは決して許されてはならない。今の自分たちは異変解決者なのだから尚更だ。
「そうね……外で待っていて頂戴。わたしはもう少しだけ、彼女に話を聞いてみる」
佳苗は「了解しました」と即答し、一人で刑務所の外に出る。河童の隊員には早苗様は二人きりで話したいことがあるので先に戻りますと話し、詰所に戻ってから用意された丸椅子にゆっくりと腰掛ける。
「もっと物分かりが悪くても良かったのかな……」
あそこでごねれば同席を許してくれたかもしれないが、最近になってようやく築くことのできた良好な関係を崩してしまうのが怖かった。霊夢の時に一度失敗しているから尚更のことだ。
「わたし、人付き合いってやつが本当に下手くそだ。嫌になるなあ」
我侭で融通の利かない自分が嫌になる。もっと他人に優しく、気遣えるような性格になりたかった。この世界にやってきて間もないのに、他人に気を配ることのできる美真のような強い人間になりたい。
誰かに優しくするのは、強くなければできないことだ。
「これからでもそんな風になれるんだろうか」佳苗は御幣を構え、じっと見つめる。「これを使う強さ、これを使わない強さ。両方とも備えた人間になれるだろうか」
自問自答してはみたが、答えはどこからも湧き出して来なかった。
佳苗と分かれて一人になると、早苗は雷鼓が収監されている牢屋の前まで戻る。佳苗の物分かりが良いのは幸いだった。あそこでぐずるようなら少し面倒なことになっていた。
「おや、あのお尻に殻がくっついてるひよっこはいないのかい?」
「あの子には聞かせたくない話をしに来ました。というかさっきはわざと聞かせようとしたでしょう!」
「あんなことが起きてなお隠し通せるとは思えないけどね。普通の人間はともかく、彼女は郷のシステムにとても近いのだからある程度は打ち明けても良いと思うが」
「それを決めるのは貴方ではありません」
「真面目だなあ。あんた、昔はもっと自由で面白い奴だった記憶があるんだけどね」
「立場を得ればわたしのような人間だって変わります」
「わたしはどんな立場を得たってわたしだけどな」
早苗はこの妖怪めと心の中で毒づき、御し難いと言いたげに首を横に振る。
「どうやら貴方とはつくづく相性が悪いらしいです」
「だからぼろぼろになるまで痛めつけ、わたしからあることないこと全て聞き出すつもりなのかしら」
「拷問、密告の類は手取り早いですがよほど上手くやらなければ得られる情報に正確性を欠きます。自分が助かるためならば、上の立場につくためならどんな虚言でも弄するんですよ。歴史がよくよく証明してます」
「……わたしがその手を食わされたと言いたいのか?」
ただ単に事実を述べただけなのだが、雷鼓はその中に含みを見つけたようだった。そして早苗もそれを正すつもりはなかった。
「さあ、それは分かりません。正邪は他者を騙し、あらゆるものを転変させるために生まれてきたような妖怪ですから、彼女が裏切り者である可能性はとても高いと思います。でも今回はおそらくそうじゃない。貴方、謀られてますよ」
「そうかもしれない。だがそれを証明する手立てもない」
「それを証明するために、三人の居所を教えてもらいたいのです。嫌と言われたらわたしには成す術がなくなりますが」
二人の視線が交錯し、早苗は重苦しい沈黙を覚悟する。だが雷鼓はさして躊躇う様子もなく口を開いた。
「ミスティアは博麗神社を襲うと言っていたね。他の二人は力を使うために身を隠すつもりらしく、わたしにも居場所は伝えなかった。郷中を脅かすほどの力を発揮しているのだから、他のことまで手が回らないのかもしれない」
早苗が時を停めるため力の大半を使っているのと同じよう、敵にも制約があるかもしれない。それは早苗にとってようやく掴むことのできた、実のある情報だった。
「つまり居場所さえ特定すれば、この混乱を収められるかもしれないということですね」
「その可能性は高いとわたしは見ている。だからこそ首領のわたしにさえ居場所を語らなかったんだろう。三人のうちで唯一前線に出ていたミスティアならば残り二人の居場所も知っているかもしれないが」
「いえ、おそらく知らせてないと思います」大量の虫や郷の全てから月を覆い隠す闇を行使するせいで他に何もできないなら、場所を知られること自体が致命的である。情報の持ち主は少なければ少ないほど良いし、だとすればミスティアも何も知らないと考えたほうが良さそうだった。「博麗神社を攻めるというのは気になりますが、霊夢ちゃ……博麗の巫女ならば妖怪に遅れを取ることはないでしょう。わたしたちは別の線を追ったほうが良さそうですね」
雷鼓は早苗の結論に何も答えなかった。敵に塩を送っても相談相手までにはならないということなのだろう。ここで一人考えるよりは持ち帰った情報を佳苗とともに検討するべきだった。
「貴重な情報、ありがとうございます」
「そんなにかしこまらなくてもいいって。わたしたちは本来敵同士、この異変が収まったら角突き合わせることになる。それなのに貸しだの借りだの言ってもしょうがない」
「確かにそうですが……」
それでも借りっぱなしというのは何となく落ち着かなかった。相手が解放派の首領ならば尚更のことだった。
「律儀ねえ。じゃあこっちも一つだけ質問させてもらうわ。それで貸し借りなしってことでどうかしら」
「それで良いならなんでも答えてあげます」
「では遠慮なく。あの三人はどうしてあれだけの力を、長い時間をかけて蓄えることができたのかしら。ミスティアは色々な活動によって夜雀であることを主張していたからある程度は納得できるのだけど、他の二人についてはわたしもよく分からない。この疑問に、どうも貴方は答えを得ているみたいじゃない。それを聞かせてもらえないかしら」
「良いですが、そんなことを聞いてどうするんです?」
「向こうではわたしを騙していたかもしれないが、それでも彼女たちは解放派の一員だ。部下のことをより深く知りたいと願うのは上司として当然の反応と言えるだろう」
「あわよくば、再び戦力として抱き込むつもりですか」
「そうとも言うわね」魂胆を見抜いて指摘しても雷鼓はまるで悪びれる様子をみせなかった。本当は教えたくないのだが前言を撤回して守矢の神は約束を守らないとでも吹聴されたら立場が悪くなる可能性が高い。何しろ雷鼓は今をときめくアーティストであり若者の支持を集めているのだ。北の里にアリとともに攻め込んできたことさえ新たな伝説として持て囃されるかもしれない。「まあ、なんとなく正解は見えているのだけど」
「では、世に異常を起こすのは異変だけではない……と言って理解できる?」
雷鼓は間髪入れずに頷き、早苗と同じ答えに至っていることを示す。だから早苗も含みを持たず率直に語ることにした。
「例えば異常気象は異変のように激しく荒ぶり、人心を惑わせる。郷の有力者たちが日々目を光らせ、バランス調整に腐心しても限界はある。防ぎ得ぬ事態が起きたとき、人心を安定させるにはどうすれば良いと思いますか?」
「予め用意しておいた計画を発動させ、元凶としてでっちあげる。そして本当は原因でもなんでもない事件を解決し、人々に向けて広く訴えることで安寧を図るということか」
今なら早苗にも、諏訪子がどうして全てを承知していたのかはっきりと理解できる。いざという時に偽物の異変を起こす役割が誰に割り振られていたか前もって把握していたのだ。それなのに諏訪子は早苗に何も教えてくれなかった。
そのことを責めるつもりはなかった。自分でもきっと同じことをしたし、諏訪子の沈黙に労わりの気持ちが含まれていることが分かっていたからだ。
「かつて異常気象により冬が喪われ、一向に解決しなかった時には冬を司る神、妖怪、妖精がこれに激怒し、酷く荒ぶりました。わたしたちは彼女たちを血腥い方法によって退治するしかなかった。この動乱を冬が喪われた原因として広く発表したのち、わたしは現実に存在しない冬をもたらすために冬の神として立ち、その存在と力を誇示することで辛うじて郷の冬を保ち続けました。異常気象は二十年ほどで収まり、自然と冬が訪れるようになったため、冬の神としてのわたしは形骸と成り果てたわけです」
半年ほど前に起きた異変の後始末の一環として黒幕とその付き添いが神社を訪ねてくるまで、早苗自身も冬の神として祀られていたことを半ば失念していたくらいだった。
「純然たる悲劇であり、このようなことが二度と起きないよう関係各者で対策が打たれたのでしょう」
「なんというか回りくどいなあ。まあ、あんなことが起きたのだからしょうがないとは言えるのかな?」
「そうですね。今回異変を起こした三人は偽物の異変をいつでも起こせるよう、密かに命じられていたのでしょう。そのための何か特別な権限を与えられていた可能性もあります」
「だとしたら異常な力の行使も納得がいくか……でもそれだと、再び組織に加えても大した戦力にはならないかもね。今回だけ特別ってことなんだから」
雷鼓は特に残念がる様子もなく、あっけらかんとそう口にする。力を当て込んでいたというのも本当だろうが、部下のことをもっと知りたいという気持ちもそれなりに持ち合わせているのかもしれなかった。
そんな風に見定めていると、雷鼓は唐突にはてなと首を傾げてしまうのだった。
「ちょっと待った。郷の本当にもしものために用意された計画だというのに、それが必要でないと分かっている今回の異変に騒ぎを起こしたというのはおかしくないか?」
できれば聞いて欲しくなかったが、それを見逃すほど雷鼓は粗忽者ではなかったらしい。
「それに関してはわたしにも責任の一端があるのだと思います。これは本来、語ってはならないことなのですが……」
「禁則事項、ってやつ? それならば別に言わなくても良いのだけど。勝手に話すと立場が悪くなるのでしょう?」
「そうですね……貴方が他に漏らすようなことがあれば」
「あ、だったら漏らさないと約束する。口を貝のように閉ざしちゃうから、信用して頂戴」
やはりやめようかなとも思ったが、瞑目して熟考することしばし、彼女には話しておくことにした。このことを知れば機械を解放するという活動から手を引いてくれるかもしれないと思ったからだ。
「これも単刀直入に言いましょう。今の郷では破滅的な異常気象は発生しません」
今度は雷鼓が考え込む番だった。うむむと気難しそうな声をあげながら額をぐりぐりするその様子は、早苗の答えが雷鼓にとって創造の外であったことをはっきりと示している。だがそのギャップを思考で埋めることができるのだと、次いで目まぐるしく移ろう表情から窺い知ることができた。
「なるほどなるほど……それは四季の乱れを容易く調整できたことと関係があるのね?」
「ええ、その通りです」
「今の郷において、四季は訪れるものではない。作成されるものである、ってことか」
「それだけ察しが良いのに、なんで解放派としての活動はからっきしなんですか!」
最近はそうでもないが、腰砕けになりそうな計画を発案しては大半が空中分解し、辛うじて生き残った計画も大した成果を挙げることはなく、里の人間さえも大した害はないと考えるような集まりが解放派だったのだ。そんな組織のトップとは思えないほど雷鼓は郷の仕組みを察し、理解していた。
「わたしは落ち着いてじっと考えるのがあまり得意ではなくてね。だがこんなにも狭い場所に閉じ込められてただ一人となれば、少しは物事を考えることもできる。孤独と暗闇、狭い場所はわたしにとって智恵の象徴なんだ」
「まるで梟(ふくろう)のようですね」
暗闇に沈思黙考し、智慧を得るものといえば早苗の中ではまず梟が頭に浮かぶ。だが雷鼓にはぴんと来ないたとえのようだった。
「とにかく、事情はなんとなく察したと思う。そしてあの三人も同じことを確信したに違いない。前々から疑問には感じていたのかもしれないが」
「おそらくは貴方の推察通りだと思います。四季の調整という、犠牲や損失を最小限に留めるための方策が結果として新たな混乱を呼んだ形となりますね。一度生じた波紋を、他に伝播しないようにするのは難しいということでしょう。なんともままならないことです」
「わたしはそういうの、慣れっこだけどね」
妖精を手下にしていれば、ままならないことをいちいち嘆いていては胃がいくらあっても足りないに違いない。早苗にはとてもではないが、真似できることではなかった。
「どうやら異変について聞けるのはここまでのようですね。ご協力感謝します」
「だから良いってば、そういうの。わたしの方こそ色々と知ることができて良かった」
雷鼓は新しく得た知識にも怯むことなく、むしろ満足そうだった。だから早苗は最後に一つだけ、雷鼓に訊いておくことにした。
「貴方は郷の真実の一端を垣間見ました。それでもなお解放派として活動していくつもりですか?」
「そうね、そうすると思う」もう少し迷うかと思ったが、雷鼓はあっさりと悪事の継続を宣言してみせた。「物の立場はいつだって低いし、最近の機械は特にそうだ。道具を蔑ろにすればどうなるか、知る機会というのは常に必要だと思っているよ」
「そのためには異界からやってくる、極めて強い力を持つ機械を仲間に引き入れることも辞さないと?」
「そちらは正邪のアイデアだから、彼女が放逐された今はどうなるんだろう。でも道具ならば庇護する方向で話を進めるだろうね」
つまりはこれまで通りに騒ぎは起こすし、機械生産の主要部分を一手に握る妖怪の山とも対立していくということだ。
「了解しました。では今回の件が落ち着いたら、牢にかけられた妖怪封じの呪いを強化することにします。ここから出られなければ二度と悪事を働くことはできませんよね?」
「あーっ、それは酷い。あのさ、こういう時は良き好敵手であろうと言ってこっそり釈放してくれるものじゃない?」
「貸し借りはもうなくなりました。そんなことをする謂われは……」
全くないし諦めてくださいと言うつもりだったが、その前にここまで早苗を案内してくれた河童が息を切らしながら駆け込んできた。
「どうしました? まさか、アリに動きが?」
「そうです。新しい群れがやってきたのですが、これまでと違って建物にも攻撃を加えてくるんです」
牢屋から抜け出すため攻撃を命じたのかと思ったが、雷鼓はこれまでの余裕をすっかり崩し、眉間に皺を寄せていた。
「わたしは何も命令してないから、アリが勝手に動き出したんだろう。あるいは新しい命令を受け取ったか」
「でも遠距離通信は通じないですよね?」稀に通じる場合もあるらしいが、アリたちへの命令は少なくとも妖怪の山では更新され続けていた。敵は何らかの継続的な通信手段を有していると考えるべきだった。「向こうだけ使える通信だなんてずるいなあ。どうやって実現してるんだろう?」
「虫だから我々の想像もしないような器官を有しているのかもしれないし、それによる情報のやり取りは通信と認識されないのかもね」
それはいかにもありそうな話であり、情報という重要な点においてこれまでもこれからも後手に回り続ける可能性が高いことを示唆している。
「ところで先程から不気味な音が聞こえるのは気のせいだろうか」
「音、ですか?」雷鼓に指摘され、早苗は風を操って周囲の音を集める。そしてすぐに危機が目前まで迫っていることを知った。「アリが地中を掘り進めています。ここも安全ではないということですか……」
早苗は少し迷ってから雷鼓の牢屋にかけられた妖怪封じの戒めを解除する。
「捕まった他の仲間たちも牢から出してあげます。その代わり、暴走を始めたアリたちを退治するのを手伝って下さい」
「つまり、わたしに味方を裏切れと?」
「この辺りが落とし所だと思いますが?」
ここで協力したという実績を作れば、まだフォローできる可能性はある。早苗としては最大限の譲歩をしたつもりであり、雷鼓もそのことを理解できないほど愚かではなかった。
早苗は牢の呪いを片っ端から解いていき、次に収監されている人間の囚人たちを避難させようとしたのだが、アリの到達のほうが早く、複数の穴が同時に空き、アリがぞろぞろと侵入してきた。
一刻も早く外に出て状況を確認するべきか、それとも救助に入るべきか迷っていると、雷鼓が刑務所の奥から声を飛ばしてきた。
「囚人の避難はこっちがやる。あんたは表に出て陣頭指揮を取ったほうが良い」
「すいません、恩に切ります!」
早苗は礼を返すと、通達に来た河童とともに迫り来るアリを薙ぎ倒しながら刑務所を脱出し、天狗の詰所に戻ろうとした。
空に異変が起きたのはまさにその時だった。ゆらゆらと揺れるような動きが視界の端に移り、思わず空を見上げるとこれまで月を完璧に隠していた闇が揺らぎ、ごく短期間ではあるが白い光を地上に落とすようになっていた。誰かは分からないが、闇を操る妖怪を対処しようとしている何者かが存在するのかもしれない。そのことを察し、虫を遮二無二動かし始めたとすれば辻褄は合う。もちろん最初からの計画に織り込み済みの変化であり、一斉攻撃第二弾の合図である可能性も十分に考えられた。
早苗としては虫を操る何者かを対処したかったが、北の里を襲う未曾有の危難を放っておくわけにもいかない。
誰かが異変を解決すれば良いという諏訪子の言葉を思い出し、早苗は北の里に留まってアリを撃退することに決めた。
「早苗様、大量のアリです。どうしましょうか?」
佳苗が声を荒げながらこちらに近付いてくる。背後には大量のアリを引き連れており、彼女が標的を一心に引き受けてくれたのだと察する。この状況にも拘わらず、佳苗は冷静に動いて北の里への被害を最小限に留めてくれたのだ。
「ここに留まり、アリを退治するわ。三柱の力を惜しむことなくぶつけてやりなさい!」
佳苗は大きく頷くと、初っ端からいきなり竜巻を生み出し、大量のアリを一気に巻き込んでいく。
早苗は風祝が攻撃に専念できるよう、背を合わせて後ろを引き受けると久方ぶりの戦いに高揚する気持ちを抑えながら御幣を構えるのだった。
「そろそろ落ち着いてもらわないと困ってしまうのだけど」
少しきつい言い方かと思ったが、佳苗はよろめくことなくしっかりと立ち上がり、ハンカチで涙に溢れた目を拭い、それから口元を拭う。最後に少し迷ってから洟をちーんとかみ、少ししょんぼりとした顔でハンカチを収めた。
「醜態をお見せしてしまいました、すみません。もう動けますし、戦えます。どんな苦難にだって立ち向かってみせますとも」
「じゃあもう一回、土の中を泳いでみる?」諏訪子の首から上が地面からひょこりと生えてきて、佳苗は心底嫌そうな表情を見せた。「できないことは避けて良いんだよ、佳苗はまだまだ未熟なんだから。できることの中で最高の手を打てば良い」
「そのようなことで良いのでしょうか?」
「できることから最善の手を打つのだって十分に難しいよ。それを超える奇跡的な手筈なんて、まず起こせないと思ったほうが良い、特にこの幻想郷ではね。早苗を見てごらんよ、奇跡を起こす程度の能力をうたいながらコンサートのチケットすらろくに用意してもらえないんだぞ」
「ちょっと待ってください、奇跡を起こす程度だなんて、それはもう何百年も前の話ですよ。蒸し返されては困ります」
早苗はいつものしっかりした態度をかなぐり捨てて諏訪子にくってかかるが、諏訪子は逃げるようにしてぬるりと地面の中に潜ってしまった。
「わたしは山に戻るよ。神奈子が敵の目をひきつけている隙に、やらなければやらないことがちょくちょくあるんでね。いやー、新たな風祝の最初の活躍を是非ともこの目に焼きつけたかったんだが」
勝手なことを一方的に告げると、諏訪子の神意がこの場から急速に遠ざかっていく。いつになっても変わらないなあと思いながら佳苗の様子を見ると緊張が解けて吐き気がぶり返したらしく、喉を押さえて吐きたそうにしていた。
早苗の視線に気付いた佳苗は吐き気をぐっと飲み込み、慎重に辺りを見回す。アリが近くに潜んでいないか確かめている様子だった。早苗も力を使えば夜目をきかせて探索に加わることはできたが、余計な力を使うことは避けたかったし、ここは佳苗に全てを任せることにした。
「目視できるところにアリはいないし、気配も感じません。この騒ぎを起こした何者かは強い力を持っていますが、それでもあらゆる場所にまでアリを配置することはできないみたいですね」
「難事における唯一の幸いといったところかしら。里の外れには山間駐留隊の詰め所もあるから、水道が生きていれば顔と喉を洗いましょうか。特に喉はいがいがしてしょうがないでしょう?」
「喉だけじゃなくて全身を洗いたいですよ。体中がねばねばして、変な臭いを放っているような気がしてしょうがありません。さっきから感覚がごちゃ混ぜなんですよ。見えるものが聞こえ、感じるものが強い臭いを放っているようで、ようやく落ち着いてきましたけど今でも少しちぐはぐしてます。これ、どういうことなんです?」
「諏訪子様の力で地中を潜ってきた影響かな。わたしは佳苗のように酷い症状は発生しなかったから実感がないの。おそらく瞬間移動酔いに似た症状だと思うのだけど、だとしたら収まるのを待つしかないかな。乗り物酔いの回復方法と一緒ね」
「了解です。ああ、肌がべたべたして酸っぱい……」
情けない声をあげたが背筋は伸ばしているし、警戒も怠りないようだ。少なくとも自分が駆け出しの頃よりもよほどしっかりしている。早苗はそのことに安堵し、後を追いながらちらと空を見る。月の姿は見えないが、時間を停止させる力がいくつも働いているからこの空のどこかに浮かんではいるはずだ。それなのにすっかり隠蔽され、どうやっても見つけることができない。
アリと関係があるのか、それとも別の意思が月を隠しているのか。もし無関係だとしたら月の隠蔽を行なっている不埒者もまた別個に退治する必要がある。だがアリでかき乱されているこの状況で、敢えて別の目的を果たそうとする捻くれ者が果たして存在するのだろうか。
どちらにしろ今の早苗がやらなければならないのは北の里をアリの混乱から解き放つことだ。山間駐留隊がまともに機能しているようだったら彼ら/彼女らと組み、里に住む人間を救う。自分たちの他にもいくつもの勢力が動いているはずだから、その中にとびきりの捻くれ者がいることを信じて進むしかなかった。
山間駐留隊として働く天狗や河童の居住区は北の里から少し離れた場所にいくつか点在する。里の中で暮らさないのも、居住区をいくつかに分けているのも人間感情に配慮してのことだが、今回ばかりはそれが裏目に出たらしい。二人が最初に辿り着いた居住区は徹底的に荒らされており、今も多くのアリが徘徊していた。
「なんだか修学旅行で東京に行った時のことを思い出しますね」
東京なる場所がどこにあるのか、佳苗にはさっぱり見当もつかなかった。この手の訳が分からない話は大抵、外の世界なるもの由来であり、佳苗はこれらを総じて御神託と呼んでいる。本来の神託とはまるで違うのだが、神様の変てこなお話なのだから意味は変わらないだろうというのが佳苗の偽らざる心情だった。
「いま聞くようなことじゃないかもしれませんが、その東京ってどんな場所なんです?」
それでも訊いたのは美真が語る異世界の話にその東京なる都市が何度か出現したことがあったからだ。二つの世界が似て非なるものであることは分かっていたが、それでも何らかの知見は得られると思った。
「そうねえ、とにかく人が沢山いたかな。人間だった頃のわたしはそれらの光景を楽しい、騒がしい、羨ましいと感じてましたよ」
そしてすぐに訊かなかったほうが良かったかなと後悔してしまった。アリの群れを見て人が沢山いる都市を思い出したのだから、人間とアリに何らかの共通点を見出したと考えるべきだったし、人間もアリもさして変わらないなんて言われたら、たとえ風祝と言えど彼女をこれからも奉ずる自信はなかった。
そんなことをぐずぐず煩悶していると早苗は突然、何か合点したかのように大きく頷いてみせた。
「ああ、そういうことか……」どうやら気付いたことがあるらしく、早苗は佳苗にちらりと視線を送ってくる。妙なことを口にしないでくれと内心で願いながら、佳苗は耳を傾けるポーズを取った。「山を襲ってきたアリたち、完全に統制が取れていましたよね。でも、ここにいるアリたちは往来をうろうろしているだけのように見える。普通の人間が道を歩いているのとさして変わりがありません」
「指揮系統に差があるということでしょうか?」
「アリは真社会性の生物だからある程度の統一された活動を行うとは考えられるけど、山を覆い尽くすほどの数となれば流石にどう動くか想像もつかないわね。ただ、少なくともここにいるアリたちはあまり厳しく律されていない。この場に留まっているのがどうしてなのかもよく分からないし」
「もしかしたら山間駐留隊の残党を探しているのかもしれません」
咄嗟の思いつきにしては良い線を言っていると思ったが、早苗は賛同を示すことなく首を横に振った。
「たかだか十数人が暮らす程度の居住区なのだから探し尽くすなど簡単なはず。疲弊して動けなくなった隊員を取り囲んでいるのかもしれないけど、それにしては動きにむらがあり過ぎる。まるで無為に時間を過ごしているだけのような」
「指揮官がいないとか? 例えば駐留隊に返り討ちにあって捕らえられたとか」
「それは……有り得るかもしれない。若輩とはいえここにいるのはれっきとした河童や天狗なのだから。とにかくここを探すのは無意味だし、他の居住区に向かうのもあまり意味がないように思える。ここは思い切って里の中に侵入を試みましょう。口をゆすぐのはもう少し我慢して頂戴」
佳苗もそれで問題なしと判断し、居住区を迂回してから北の里を目指す。東の里と違って内外を囲う塀や柵がないから明確にここからが里だとは言い切れないが、建物の数や道路の舗装から境目は分かる。
里に入ると二人は当初、身を隠しながら進んでいたが、どこまで進んでも巨大化したアリの姿は見当たらなかった。周囲に警戒しながら姿を現してみたが、それでも変化はない。
「アリが見当たらないわね。山に押し寄せるほどの数を用意できるのだからこっちにも殺到してると思ってたのに。山間駐留隊が粗方駆除したのかしら」
「だとしたらこちらで立ち回る必要がなくなりますね」
力を発揮することができないのは残念だが、里への被害が少ないのだから幸いだと気持ちを切り替える。早苗はそんな佳苗の気持ちを汲んだらしく、少しだけ残念そうな顔をしてみせた。
「山の威光を示すことはできないけど、駐留隊が慕われるのは守矢にとっても悪いことではない。もしかすると既に壊滅状態、アリたちがあちこちの物陰に潜んで里に入ってくる者たちを待ち伏せしているのかもしれないけれど」
警戒は怠りなくと胸中に言い聞かせ、佳苗は風を飛ばしてより広範囲に気を配る。すると背後に何者かの気配を捉え、佳苗は振り向き様に御幣を構えて襲来者と思しき相手に備える。相手に攻撃の意志があれば即座に対応するつもりだったが、妖力の持ち主はすぐに姿を晒してみせた。河童の出で立ち、どことなく漂うあどけなさから、佳苗には彼女が山間駐留隊の一員なのだと察しがついた。
「守矢神社の風祝に早苗様まで。二人とも救援に駆けつけてくださったのですか?」
早苗は畏まった一礼を制し、柔らかく微笑みかける。
「そうですが、加勢は必要なかったみたいですね」
「いえいえ、大量のアリが攻めてきて一時期は右へ左への大騒ぎでしたから、山蜘蛛の足でも借りたい状況でした」
山蜘蛛はかつて河童と酷く対立しており、今では住処を完全に別としているがそれでも仲はあまり良くない。敵の助けも借りたいほど忙しいという河童独特の慣用句であり、余程の状況であったことが佳苗にもうかがい知れた。
「幸いなことに緊急事態への備えをしなければという機運が今年の始め頃から少しずつ高まっておりまして。一時は分断されましたが各個に行動を開始して形勢逆転。動乱を指揮していた付喪神や周りで騒いでいた同類たちもひっ捕らえまして、ようやく落ち着きを取り戻したところですよ。わたしはアリの新しい襲撃がないか見回っている最中でした」
「わたしたちは駐留隊の居住区を一つ見てきましたが、ここと違ってアリがうろうろしていました。あれは故意に放置しているのですか?」
「いえ、まだそこまで手が回っていないだけで。生き残りのアリが里の周りにまだいるんですか? その割には再襲撃の兆候すら見受けられませんが。大将を捕らえられ、まごついてるのしょうか?」
「そうとは思えませんね。妖怪の山はいま、まるで川が逆流しているかのような大量のアリに攻め込まれていますが、数を少々減らされたくらいではまごつく様子すら見せませんでした」
佳苗もその怒濤さは目にしているから、北の里を襲撃したアリがあっさり駆逐されてしまったこともすぐには信じられなかった。だが里の中にアリの姿は見当たらないし、ここで落ち着いて話をできていることが、河童の話を何よりもよく肯定している。
「もし可能ならば動乱を指揮した付喪神に会わせてもらえないでしょうか。彼女に話を聞けばアリの侵攻を止める手立てが分かるかもしれません」
「それはまあ、構わないと思いますよ。わたしは平の隊員ですから許可は出せませんけど、早苗様の望みであれば上も問題なく納得するでしょう。付喪神たちがまとめて捕らえられている場所まで案内しますよ」
「それは、ご迷惑をおかけします。警らの最中なのに」
佳苗が小さく頭を下げると、河童は「もうすぐ見回りも終わりで帰投する予定でしたから気にしないでください」と言って先頭に立ち、二人を案内してくれた。その際も周囲には油断なく気を配っており、なるほどこの練度だからアリにも立ち向かえたのだなと改めて納得することができた。
里内にある山間駐留隊の詰め所まで来ると、上司らしき河童がへこへことした様子で出迎えてくれた。彼女はこの危難を乗り越えたにしては妙に身綺麗で疲れた様子もなく、早苗の発言をまるで疑うことなく受け入れると、ここまで二人を連れてきてくれた河童に牢屋まで案内するよう、横柄さ丸出しの指示を出した。
よくあんな奴ににこにこ顔で対応できるなと思いながら、佳苗は少し離れたところで不機嫌さを必死に噛み殺すしかなかった。話が終わった早苗は肩をぽんぽんと叩き、気持ちを察するような態度を見せてくれたがそれでも怒りは収まらなかったし、腹芸すらできない自分の子供っぽさに嫌悪を抱かずにはいられなかった。
「この詰所の隣に刑務所がありますからそちらに向かいましょう。と、その前に……水道は止まってますが、水はたっぷりあるとのことなので、口をゆすいで来たらどうです?」
口の中に残る酸っぱさを思い出し、佳苗は洗面所に向かうと飲料水の文字が書かれてあるタンクから水を注ぎ、念入りに口の中をゆすぐ。ぐじゅぐじゅと音を立て、ぺえっと勢いよく吐き出すと、胸の中にあったわだかまりやもやもやも少しだけ追い出すことができたような気がした。
駐留隊の詰所と隣接する刑務所は普段なら人間の犯罪者を投獄するためのものだが、今はその大半を妖怪が占めており、人間たちは牢屋の片隅で居心地悪そうにしていた。こんなことなら犯罪なんてやるんじゃなかったとがたがた震えているのは少しだけ気の毒に思えたし、自業自得とも思えてしまい、落ち着かない気持ちにさせられる。だが今は善悪がどうのこうのと考えている時ではない。目の前の問題と向き合うべきだった。
刑務所の一番奥、妖怪封じが念入りに施された牢屋の中に彼女はいた。幻想郷に存在する全ての機械を解放せよと唱える組織の首領であり、郷の音楽シーンの最先端として若者に人気を誇るアーティストでもある堀川雷鼓は、牢の中だというのに肩を落とすこともなく実に堂々と腰掛けており、早苗の訪問にも動じることはなかった。
「稀代の犯罪者を訪ねてやってくる神の従者だなんて、映画みたいなシチュエーションだとは思わないかしら?」
雷鼓はそう言ってこれみよがしに足を組む。実に挑発的で破廉恥な仕草だった。
「成年指定がつきそうなポーズはやめてください。隣にいる子は未成年なので」
早苗に指摘されても雷鼓は正すことなく、牢屋の外にいる訪問者たちにじっと目を向ける。まるでこちらの考えることを見透かそうとしているかのようだった。
「さて、全てが終わった頃にのこのこ現れて一体どうしたのかな。わたしの無様な姿を笑いに来たのか? だったらつくづく暇人だと笑ってあげるところだけど」
「指を差して笑うならいつでもできるので。いまここで訊きたいのはこの世を埋め尽くすほどのアリを用意したのは本当に貴方たちかということですよ」
「アリだけじゃない、大量の蛾や羽虫も惜しみなく投入されている。解放派が活動を開始して以来、これほどの大規模作戦が展開されたことはなかっただろう。正に未曾有の大躍進、下克上に二歩も三歩も近づいたことになるな」
下克上という言葉に、早苗の表情が一気に険しくなる。
「かつて小槌を使い、擾乱を起こそうとして酷い目に遭ったというのにまだ懲りてなかったんですか、あのとんちき天の邪鬼は。そして愚かにも貴方たちは彼女の言葉を信じてこの作戦を遂行するための手駒として動き、そしてこの様です。さあ、何か申し開きはありますか?」
早苗の剣幕に雷鼓は一瞬だけ圧倒された様子を見せたが、小さく息をついたのち、組んだ足を元に戻す。先程までの挑発的な態度が崩れ、どこか親しみやすい雰囲気が今の雷鼓からは感じられた。
「いやうん、もちろん大ありさ。今回の件、天の邪鬼は全く絡んでないんだよ」
「え、でも非常に悪質だし、虫の叛乱は下克上を旨とする彼女の性格とマッチしています。それなのに彼女の計画ではないと?」
「今回の計画は組織に所属している妖怪の何人かが共同で考えついたものなんだ。というのも正邪は組織に対する裏切り行為を働いていたことが発覚してね。これまでの功績を鑑みた結果、穏便な追放処分と相成ったわけだが」
天の邪鬼が裏切りを働くというのはありそうなことだと佳苗は思ったが、早苗はそれを信じてはいない様子であり、口元に手を当てて考え込む仕草を見せた。
「裏切りが発覚し、入れ替わるように提案されたのが今回の計画だったんだ。郷に巻き起こっている怪現象に乗じ、今度こそ機械の解放という念願を果たそうと熱心に説かれてしまってね。その内容がまた実に破天荒なものだったが、巨大化した虫の実物を見せられたし、部下の自主性に任せるのは良いことだと承認してしまったんだ」
「なんて適当な!」
佳苗は雷鼓の話につい大声をあげてしまい、慌てて手で口を塞ぐ。ちらりと雷鼓を覗き見れば気分を害した様子は一切なかった。
「大した力も持たない奴らだし、ちょっとした騒ぎを起こすのが関の山とたかを括っていたのだが、いざ決行当夜になってみれば予想を遙かに越える数のアリが用意されていて、あの時は余裕ぶっていたが内心かなり吃驚していたよ。しかもこれを郷のあらゆる場所に潜ませているというじゃないか。わたしとしては実に困った事態だった。太陽の消失と偽物の月にまつわる怪現象は付喪神を酷く苛んでいてね、解決の糸口を探さなければいけないというのに、こんな大規模の騒ぎを起こしている場合じゃない。さてどうしようかと途方にくれかけていたが、北の里の山間駐留隊が未曾有の危難にもきっちりと対応してくれてね。お陰でわたしも絶妙な手加減をもってわざと敗北することができたってわけだ」
雷鼓はわざとの部分を強調する。早苗は了解とばかりに深く頷き、佳苗も慌ててそれに倣う。それで雷鼓は機嫌を良くし、話の続きに取りかかってくれた。
「わたしにはアリに指示を与える権限がある程度まで与えられていたが、最小限だけを行使して残りは放置したままにしてある。だが、このまま現状維持が続くかどうかは分からない。あいつらがわたしの取る行動を想定していないとは思えないんだよな」
「でも、貴方の目的は幻想郷に存在する機械の解放ですよね。大量の虫による襲撃がそれを叶えるための絶好の機会であったことは間違いありません。それなのにどうして計画を放棄したんですか?」
「正直に言えば、最初はそれも良いかなと考えたんだ。でもあのアリたち、物を壊すのに全く躊躇いがなくてね。特に街灯を始めとした光を放つ器物となれば容赦なく引き倒し、徹底的に破壊していた。わたしがいくら制止してもそれだけは決してやめなかったんだ。それがわたしにはどうにも我慢ならなかった」
怒りを滲ませる雷鼓を見て佳苗は納得しかけたが、それを遮るように早苗がぽつりと冷たい呟きをもらした。
「テロリストの矜持ってやつですか、馬鹿らしい。貴方たちが奇妙な計画を行うごとに誰かが迷惑を被るし、物だって機械だって壊れる。それに先刻は春を奪うと称して桜を散らそうとしましたが、物を壊すのは躊躇うくせに植物を害するのは構わないだなんて明らかな独善です。わたしは解放派のそういうところが好きになれませんね」
「独善大いに結構、あんたが解放派を嫌うのも勝手にすれば良い。だが北の里はわたしの独善のお陰で最小限の被害に留まっていることを忘れないで欲しいね」
「結果論に感謝するだなんてそれこそ馬鹿らしいですよ」
早苗と雷鼓の視線が激しくぶつかり合い、辺りが緊張に包まれる。佳苗はかつて、早苗が雷鼓の奏でる音の大ファンだと口にしていたのを聞いたことがあり、それは公私混同ではないかと少しだけ軽蔑したのだが、その気持ちはいまや完全に吹き飛んでいた。守矢の三柱目はミーハーだが、それは公に私を混ぜることを意味しないのだ。
「このまま平行線の話を続けても無駄に時間を費やすだけのようなので、それではあと一つだけ聞かせてください。この計画を貴方に持ちかけたのは誰ですか?」
「リグル、ミスティア、ルーミアの計三名だね」首謀者の名前について隠すつもりはないらしく、雷鼓はさらりと種明かしをしてしまった。「この三人が懇意にしている妖怪にも計画に同調している奴がいるかもしれない」
リグルという名の虫使いについては以前の会話でも話に上がってはいたが、早苗は懐疑的な結論を出していた。虫の妖怪としてその恐怖を代弁しなければならないはずの彼女が弱い振りをするなんてあり得ないというのが言い分だったし、その表情からして今も気持ちに変わりはないようだった。
雷鼓も同じ考えだからこそ、三人には大したことができないとたかを括ってしまった。だが虫の被害は実際に起きており、リグルは計画の中心に存在する。この齟齬がどうして生まれたのかを知る必要がありそうだった。
そして早苗も同じ気持ちだったらしく、一つの疑問が雷鼓へと向かう。
「彼女たちはどうして弱い振りを続けることができたのでしょうか。わたしにはそれがよく分からないのです」
「分かっていればわたしだって事前に疑うことができただろう。それができなかったということは分かっていないんだ。でも……そう言えば計画を打診されたとき、少し引っかかることを口にしていた。その時はあまり気にしなかったが」
「些細なことでも構いません。今のわたしには一つでもヒントが必要なんです」
「ヒントになるかは分からないが……こんな大それた計画をいつから用意していたのかが気になったからその場で訊いてみたんだが、すると彼女たちはこう答えたんだ。かつて冬が喪われた時からずっと準備してきたんだと」
「冬、ですか?」佳苗は雷鼓が単に言い間違えたのだと思った。半年ほど前に起きた、春を喪わせる事件に触発されたのだとしたら辛うじて納得できなくもない。だが雷鼓は佳苗の問いかけに重く頷くだけだった。「先の事件で喪われたのは春ですよね?」
「だからわたしも同じことを訊いたんだ。すると彼女たちはしまったと言いたげな顔をしてから慌てて、そうそう春です言い間違えたと繕ったんだがね。その態度が妙に怪しくて、どうにも記憶の隅にこびりついていたんだ。でも、冬が喪われるなんてなあ」
「そんなこと、この幻想郷では一度も起きていないですよね?」
少なくとも佳苗はそんなことがあっただなんて聞いたことがなかった。だが雷鼓はあっさりと首を横に振るのだった。
「いや、確か一度だけあったはずだ。冬が春のように暖かく、雪が一欠片も降らなかった年がね。ずっと昔だから正確にどれくらい前かは覚えてないけど」
佳苗は早苗にちらりと視線を寄せる。雷鼓の与太話ならばさっさと否定して欲しかったが、早苗の顔は驚愕におののいている。心当たりがあるだけではなく、当事者であることがその様子からうかがえたが、しかしそこまで脅える理由が当時を知らない佳苗には全く見当がつかなかった。
「おそらく外の世界と繋がっていた頃の話だ。郷が移転してからは四季の一つが欠ける程の異常気象だなんて、意図しない限りはあり得ない話になってしまったから……」
「それだけ分かれば十分です、ありがとうございました」
早苗は雷鼓の言葉をあからさまに遮り、佳苗の手を引いて足早に立ち去ろうとする。佳苗は強引に手を振り払い、早苗を睨みつける。聞くべきことはまだいくつもあったのにこんな態度を取るなんて、とてもではないが認めるわけにはいかなかった。
「どういうことですか? もっと彼女から話を聞かないと」
「もう十分に事情は分かったのよ。これ以上こんな所にいる必要はないし、一刻も早くアリが跋扈するこの状況を解決する必要がある」
「では、早苗様には犯人と名指しされた三名の居場所も分かっているんですか?」
もし分かっているならばここにいる必要は確かにない。だが早苗は言葉に詰まり、佳苗から目を逸らしてしまった。決して語ることのできない事情があるのだとその態度が明白に物語っており、それで佳苗もようやく事情の一端を察することができた。
雷鼓の話してた何かが郷の禁則事項に抵触していたのだ。
この世には決して問うてはならないことがあり、そこに触れている事柄はどんなにしつこく訊ねても頑なに何も答えてくれない。佳苗はそれを密かに禁則事項と呼んでいるのだが、様々な問題の飛び交う現状においてなお答えを拒み、誤魔化そうとすることに強い怒りを抱かずにはいられなかった。
「分からないなら訊かなければ駄目です。その場にわたしがいて不都合ということであれば、外で待っていますから」
隠し事をされているのは悲しいことだが、まだ我慢できる。でもその隠し事のために大事なことを見逃してしまうのは決して許されてはならない。今の自分たちは異変解決者なのだから尚更だ。
「そうね……外で待っていて頂戴。わたしはもう少しだけ、彼女に話を聞いてみる」
佳苗は「了解しました」と即答し、一人で刑務所の外に出る。河童の隊員には早苗様は二人きりで話したいことがあるので先に戻りますと話し、詰所に戻ってから用意された丸椅子にゆっくりと腰掛ける。
「もっと物分かりが悪くても良かったのかな……」
あそこでごねれば同席を許してくれたかもしれないが、最近になってようやく築くことのできた良好な関係を崩してしまうのが怖かった。霊夢の時に一度失敗しているから尚更のことだ。
「わたし、人付き合いってやつが本当に下手くそだ。嫌になるなあ」
我侭で融通の利かない自分が嫌になる。もっと他人に優しく、気遣えるような性格になりたかった。この世界にやってきて間もないのに、他人に気を配ることのできる美真のような強い人間になりたい。
誰かに優しくするのは、強くなければできないことだ。
「これからでもそんな風になれるんだろうか」佳苗は御幣を構え、じっと見つめる。「これを使う強さ、これを使わない強さ。両方とも備えた人間になれるだろうか」
自問自答してはみたが、答えはどこからも湧き出して来なかった。
佳苗と分かれて一人になると、早苗は雷鼓が収監されている牢屋の前まで戻る。佳苗の物分かりが良いのは幸いだった。あそこでぐずるようなら少し面倒なことになっていた。
「おや、あのお尻に殻がくっついてるひよっこはいないのかい?」
「あの子には聞かせたくない話をしに来ました。というかさっきはわざと聞かせようとしたでしょう!」
「あんなことが起きてなお隠し通せるとは思えないけどね。普通の人間はともかく、彼女は郷のシステムにとても近いのだからある程度は打ち明けても良いと思うが」
「それを決めるのは貴方ではありません」
「真面目だなあ。あんた、昔はもっと自由で面白い奴だった記憶があるんだけどね」
「立場を得ればわたしのような人間だって変わります」
「わたしはどんな立場を得たってわたしだけどな」
早苗はこの妖怪めと心の中で毒づき、御し難いと言いたげに首を横に振る。
「どうやら貴方とはつくづく相性が悪いらしいです」
「だからぼろぼろになるまで痛めつけ、わたしからあることないこと全て聞き出すつもりなのかしら」
「拷問、密告の類は手取り早いですがよほど上手くやらなければ得られる情報に正確性を欠きます。自分が助かるためならば、上の立場につくためならどんな虚言でも弄するんですよ。歴史がよくよく証明してます」
「……わたしがその手を食わされたと言いたいのか?」
ただ単に事実を述べただけなのだが、雷鼓はその中に含みを見つけたようだった。そして早苗もそれを正すつもりはなかった。
「さあ、それは分かりません。正邪は他者を騙し、あらゆるものを転変させるために生まれてきたような妖怪ですから、彼女が裏切り者である可能性はとても高いと思います。でも今回はおそらくそうじゃない。貴方、謀られてますよ」
「そうかもしれない。だがそれを証明する手立てもない」
「それを証明するために、三人の居所を教えてもらいたいのです。嫌と言われたらわたしには成す術がなくなりますが」
二人の視線が交錯し、早苗は重苦しい沈黙を覚悟する。だが雷鼓はさして躊躇う様子もなく口を開いた。
「ミスティアは博麗神社を襲うと言っていたね。他の二人は力を使うために身を隠すつもりらしく、わたしにも居場所は伝えなかった。郷中を脅かすほどの力を発揮しているのだから、他のことまで手が回らないのかもしれない」
早苗が時を停めるため力の大半を使っているのと同じよう、敵にも制約があるかもしれない。それは早苗にとってようやく掴むことのできた、実のある情報だった。
「つまり居場所さえ特定すれば、この混乱を収められるかもしれないということですね」
「その可能性は高いとわたしは見ている。だからこそ首領のわたしにさえ居場所を語らなかったんだろう。三人のうちで唯一前線に出ていたミスティアならば残り二人の居場所も知っているかもしれないが」
「いえ、おそらく知らせてないと思います」大量の虫や郷の全てから月を覆い隠す闇を行使するせいで他に何もできないなら、場所を知られること自体が致命的である。情報の持ち主は少なければ少ないほど良いし、だとすればミスティアも何も知らないと考えたほうが良さそうだった。「博麗神社を攻めるというのは気になりますが、霊夢ちゃ……博麗の巫女ならば妖怪に遅れを取ることはないでしょう。わたしたちは別の線を追ったほうが良さそうですね」
雷鼓は早苗の結論に何も答えなかった。敵に塩を送っても相談相手までにはならないということなのだろう。ここで一人考えるよりは持ち帰った情報を佳苗とともに検討するべきだった。
「貴重な情報、ありがとうございます」
「そんなにかしこまらなくてもいいって。わたしたちは本来敵同士、この異変が収まったら角突き合わせることになる。それなのに貸しだの借りだの言ってもしょうがない」
「確かにそうですが……」
それでも借りっぱなしというのは何となく落ち着かなかった。相手が解放派の首領ならば尚更のことだった。
「律儀ねえ。じゃあこっちも一つだけ質問させてもらうわ。それで貸し借りなしってことでどうかしら」
「それで良いならなんでも答えてあげます」
「では遠慮なく。あの三人はどうしてあれだけの力を、長い時間をかけて蓄えることができたのかしら。ミスティアは色々な活動によって夜雀であることを主張していたからある程度は納得できるのだけど、他の二人についてはわたしもよく分からない。この疑問に、どうも貴方は答えを得ているみたいじゃない。それを聞かせてもらえないかしら」
「良いですが、そんなことを聞いてどうするんです?」
「向こうではわたしを騙していたかもしれないが、それでも彼女たちは解放派の一員だ。部下のことをより深く知りたいと願うのは上司として当然の反応と言えるだろう」
「あわよくば、再び戦力として抱き込むつもりですか」
「そうとも言うわね」魂胆を見抜いて指摘しても雷鼓はまるで悪びれる様子をみせなかった。本当は教えたくないのだが前言を撤回して守矢の神は約束を守らないとでも吹聴されたら立場が悪くなる可能性が高い。何しろ雷鼓は今をときめくアーティストであり若者の支持を集めているのだ。北の里にアリとともに攻め込んできたことさえ新たな伝説として持て囃されるかもしれない。「まあ、なんとなく正解は見えているのだけど」
「では、世に異常を起こすのは異変だけではない……と言って理解できる?」
雷鼓は間髪入れずに頷き、早苗と同じ答えに至っていることを示す。だから早苗も含みを持たず率直に語ることにした。
「例えば異常気象は異変のように激しく荒ぶり、人心を惑わせる。郷の有力者たちが日々目を光らせ、バランス調整に腐心しても限界はある。防ぎ得ぬ事態が起きたとき、人心を安定させるにはどうすれば良いと思いますか?」
「予め用意しておいた計画を発動させ、元凶としてでっちあげる。そして本当は原因でもなんでもない事件を解決し、人々に向けて広く訴えることで安寧を図るということか」
今なら早苗にも、諏訪子がどうして全てを承知していたのかはっきりと理解できる。いざという時に偽物の異変を起こす役割が誰に割り振られていたか前もって把握していたのだ。それなのに諏訪子は早苗に何も教えてくれなかった。
そのことを責めるつもりはなかった。自分でもきっと同じことをしたし、諏訪子の沈黙に労わりの気持ちが含まれていることが分かっていたからだ。
「かつて異常気象により冬が喪われ、一向に解決しなかった時には冬を司る神、妖怪、妖精がこれに激怒し、酷く荒ぶりました。わたしたちは彼女たちを血腥い方法によって退治するしかなかった。この動乱を冬が喪われた原因として広く発表したのち、わたしは現実に存在しない冬をもたらすために冬の神として立ち、その存在と力を誇示することで辛うじて郷の冬を保ち続けました。異常気象は二十年ほどで収まり、自然と冬が訪れるようになったため、冬の神としてのわたしは形骸と成り果てたわけです」
半年ほど前に起きた異変の後始末の一環として黒幕とその付き添いが神社を訪ねてくるまで、早苗自身も冬の神として祀られていたことを半ば失念していたくらいだった。
「純然たる悲劇であり、このようなことが二度と起きないよう関係各者で対策が打たれたのでしょう」
「なんというか回りくどいなあ。まあ、あんなことが起きたのだからしょうがないとは言えるのかな?」
「そうですね。今回異変を起こした三人は偽物の異変をいつでも起こせるよう、密かに命じられていたのでしょう。そのための何か特別な権限を与えられていた可能性もあります」
「だとしたら異常な力の行使も納得がいくか……でもそれだと、再び組織に加えても大した戦力にはならないかもね。今回だけ特別ってことなんだから」
雷鼓は特に残念がる様子もなく、あっけらかんとそう口にする。力を当て込んでいたというのも本当だろうが、部下のことをもっと知りたいという気持ちもそれなりに持ち合わせているのかもしれなかった。
そんな風に見定めていると、雷鼓は唐突にはてなと首を傾げてしまうのだった。
「ちょっと待った。郷の本当にもしものために用意された計画だというのに、それが必要でないと分かっている今回の異変に騒ぎを起こしたというのはおかしくないか?」
できれば聞いて欲しくなかったが、それを見逃すほど雷鼓は粗忽者ではなかったらしい。
「それに関してはわたしにも責任の一端があるのだと思います。これは本来、語ってはならないことなのですが……」
「禁則事項、ってやつ? それならば別に言わなくても良いのだけど。勝手に話すと立場が悪くなるのでしょう?」
「そうですね……貴方が他に漏らすようなことがあれば」
「あ、だったら漏らさないと約束する。口を貝のように閉ざしちゃうから、信用して頂戴」
やはりやめようかなとも思ったが、瞑目して熟考することしばし、彼女には話しておくことにした。このことを知れば機械を解放するという活動から手を引いてくれるかもしれないと思ったからだ。
「これも単刀直入に言いましょう。今の郷では破滅的な異常気象は発生しません」
今度は雷鼓が考え込む番だった。うむむと気難しそうな声をあげながら額をぐりぐりするその様子は、早苗の答えが雷鼓にとって創造の外であったことをはっきりと示している。だがそのギャップを思考で埋めることができるのだと、次いで目まぐるしく移ろう表情から窺い知ることができた。
「なるほどなるほど……それは四季の乱れを容易く調整できたことと関係があるのね?」
「ええ、その通りです」
「今の郷において、四季は訪れるものではない。作成されるものである、ってことか」
「それだけ察しが良いのに、なんで解放派としての活動はからっきしなんですか!」
最近はそうでもないが、腰砕けになりそうな計画を発案しては大半が空中分解し、辛うじて生き残った計画も大した成果を挙げることはなく、里の人間さえも大した害はないと考えるような集まりが解放派だったのだ。そんな組織のトップとは思えないほど雷鼓は郷の仕組みを察し、理解していた。
「わたしは落ち着いてじっと考えるのがあまり得意ではなくてね。だがこんなにも狭い場所に閉じ込められてただ一人となれば、少しは物事を考えることもできる。孤独と暗闇、狭い場所はわたしにとって智恵の象徴なんだ」
「まるで梟(ふくろう)のようですね」
暗闇に沈思黙考し、智慧を得るものといえば早苗の中ではまず梟が頭に浮かぶ。だが雷鼓にはぴんと来ないたとえのようだった。
「とにかく、事情はなんとなく察したと思う。そしてあの三人も同じことを確信したに違いない。前々から疑問には感じていたのかもしれないが」
「おそらくは貴方の推察通りだと思います。四季の調整という、犠牲や損失を最小限に留めるための方策が結果として新たな混乱を呼んだ形となりますね。一度生じた波紋を、他に伝播しないようにするのは難しいということでしょう。なんともままならないことです」
「わたしはそういうの、慣れっこだけどね」
妖精を手下にしていれば、ままならないことをいちいち嘆いていては胃がいくらあっても足りないに違いない。早苗にはとてもではないが、真似できることではなかった。
「どうやら異変について聞けるのはここまでのようですね。ご協力感謝します」
「だから良いってば、そういうの。わたしの方こそ色々と知ることができて良かった」
雷鼓は新しく得た知識にも怯むことなく、むしろ満足そうだった。だから早苗は最後に一つだけ、雷鼓に訊いておくことにした。
「貴方は郷の真実の一端を垣間見ました。それでもなお解放派として活動していくつもりですか?」
「そうね、そうすると思う」もう少し迷うかと思ったが、雷鼓はあっさりと悪事の継続を宣言してみせた。「物の立場はいつだって低いし、最近の機械は特にそうだ。道具を蔑ろにすればどうなるか、知る機会というのは常に必要だと思っているよ」
「そのためには異界からやってくる、極めて強い力を持つ機械を仲間に引き入れることも辞さないと?」
「そちらは正邪のアイデアだから、彼女が放逐された今はどうなるんだろう。でも道具ならば庇護する方向で話を進めるだろうね」
つまりはこれまで通りに騒ぎは起こすし、機械生産の主要部分を一手に握る妖怪の山とも対立していくということだ。
「了解しました。では今回の件が落ち着いたら、牢にかけられた妖怪封じの呪いを強化することにします。ここから出られなければ二度と悪事を働くことはできませんよね?」
「あーっ、それは酷い。あのさ、こういう時は良き好敵手であろうと言ってこっそり釈放してくれるものじゃない?」
「貸し借りはもうなくなりました。そんなことをする謂われは……」
全くないし諦めてくださいと言うつもりだったが、その前にここまで早苗を案内してくれた河童が息を切らしながら駆け込んできた。
「どうしました? まさか、アリに動きが?」
「そうです。新しい群れがやってきたのですが、これまでと違って建物にも攻撃を加えてくるんです」
牢屋から抜け出すため攻撃を命じたのかと思ったが、雷鼓はこれまでの余裕をすっかり崩し、眉間に皺を寄せていた。
「わたしは何も命令してないから、アリが勝手に動き出したんだろう。あるいは新しい命令を受け取ったか」
「でも遠距離通信は通じないですよね?」稀に通じる場合もあるらしいが、アリたちへの命令は少なくとも妖怪の山では更新され続けていた。敵は何らかの継続的な通信手段を有していると考えるべきだった。「向こうだけ使える通信だなんてずるいなあ。どうやって実現してるんだろう?」
「虫だから我々の想像もしないような器官を有しているのかもしれないし、それによる情報のやり取りは通信と認識されないのかもね」
それはいかにもありそうな話であり、情報という重要な点においてこれまでもこれからも後手に回り続ける可能性が高いことを示唆している。
「ところで先程から不気味な音が聞こえるのは気のせいだろうか」
「音、ですか?」雷鼓に指摘され、早苗は風を操って周囲の音を集める。そしてすぐに危機が目前まで迫っていることを知った。「アリが地中を掘り進めています。ここも安全ではないということですか……」
早苗は少し迷ってから雷鼓の牢屋にかけられた妖怪封じの戒めを解除する。
「捕まった他の仲間たちも牢から出してあげます。その代わり、暴走を始めたアリたちを退治するのを手伝って下さい」
「つまり、わたしに味方を裏切れと?」
「この辺りが落とし所だと思いますが?」
ここで協力したという実績を作れば、まだフォローできる可能性はある。早苗としては最大限の譲歩をしたつもりであり、雷鼓もそのことを理解できないほど愚かではなかった。
早苗は牢の呪いを片っ端から解いていき、次に収監されている人間の囚人たちを避難させようとしたのだが、アリの到達のほうが早く、複数の穴が同時に空き、アリがぞろぞろと侵入してきた。
一刻も早く外に出て状況を確認するべきか、それとも救助に入るべきか迷っていると、雷鼓が刑務所の奥から声を飛ばしてきた。
「囚人の避難はこっちがやる。あんたは表に出て陣頭指揮を取ったほうが良い」
「すいません、恩に切ります!」
早苗は礼を返すと、通達に来た河童とともに迫り来るアリを薙ぎ倒しながら刑務所を脱出し、天狗の詰所に戻ろうとした。
空に異変が起きたのはまさにその時だった。ゆらゆらと揺れるような動きが視界の端に移り、思わず空を見上げるとこれまで月を完璧に隠していた闇が揺らぎ、ごく短期間ではあるが白い光を地上に落とすようになっていた。誰かは分からないが、闇を操る妖怪を対処しようとしている何者かが存在するのかもしれない。そのことを察し、虫を遮二無二動かし始めたとすれば辻褄は合う。もちろん最初からの計画に織り込み済みの変化であり、一斉攻撃第二弾の合図である可能性も十分に考えられた。
早苗としては虫を操る何者かを対処したかったが、北の里を襲う未曾有の危難を放っておくわけにもいかない。
誰かが異変を解決すれば良いという諏訪子の言葉を思い出し、早苗は北の里に留まってアリを撃退することに決めた。
「早苗様、大量のアリです。どうしましょうか?」
佳苗が声を荒げながらこちらに近付いてくる。背後には大量のアリを引き連れており、彼女が標的を一心に引き受けてくれたのだと察する。この状況にも拘わらず、佳苗は冷静に動いて北の里への被害を最小限に留めてくれたのだ。
「ここに留まり、アリを退治するわ。三柱の力を惜しむことなくぶつけてやりなさい!」
佳苗は大きく頷くと、初っ端からいきなり竜巻を生み出し、大量のアリを一気に巻き込んでいく。
早苗は風祝が攻撃に専念できるよう、背を合わせて後ろを引き受けると久方ぶりの戦いに高揚する気持ちを抑えながら御幣を構えるのだった。
第3章 幻想の静止する日 一覧
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