2XXX年の幻想少女第3章 幻想の静止する日 幻想の静止する日 第7話
所属カテゴリー: 2XXX年の幻想少女第3章 幻想の静止する日
公開日:2017年07月27日 / 最終更新日:2017年07月27日
早苗はかつてゲームの中で大量のアリが襲ってくるというイベントを体験したことがある。
ロマンシング・サガ2という作品内での出来事なのだが、全長が数百メートルもある女王アリを中心として、アリの兵士たちが他種族に侵略をかけてくるというものだ。そいつを倒さなくてもゲームは進むのだが、野放しにしていくにはあまりにも強大で邪悪な存在だと感じたから、早苗は女王アリとその兵士たちを倒す選択肢を取った。
津波のように妖怪の山を駆け上ってくるアリたちを目の当たりにして、早苗はそんな大昔の記憶を思い出していた。ゲームに出てくる登場人物の心情など計るよしもないが、作中でアリだー! と叫んだ被害者たちの気持ちを追体験しているのは間違いなさそうだった。
それほどまでにアリの勢いは強く、いまや妖怪の山を席巻しようとしている。早苗が目にしている戦線の最前(さいさき)に立つ白狼天狗たちは何の力も持たない人間なら束になってかかってきても軽くあしらえるし、そんな天狗たちの指揮を取る犬走椛は正に一騎当千の使い手である。それだけでなく彼女と同じくらいの腕を持つ、古くて強い天狗があらゆる場所でその勇猛さを惜しげなく振るっている。
それなのにアリを押し返すことができず、徐々に侵略範囲が広がっていた。理由は単純にして明快、その途方もない物量である。早苗の目に群を成して迫ってくるアリはまるで巨大な光る絨毯のように見えた。
「メタルマックスだったら主砲一発で全滅なのに」
「早苗様、めたるまっくす? ってなんですか?」
思わず口から漏れていた心中を佳苗に指摘され、早苗は曖昧な笑みで誤魔化す。外の世界で七百年近くも昔に流行ったゲームをこと細かく話しても混乱させるだけだし、悠長に語っている暇もない。
「ああ、いつもの御信託ですね」早苗の意味が分からない独り言を佳苗は多少の皮肉を込めて御信託と呼んでいる。以前に比べて親しく接してくれるようになったといっても、こうした棘のような皮肉を口にするところは以前と変わらない。「ところでどうするんですか、これ。明らかに異変ですよね?」
佳苗が指摘するまでもなく、妖怪の山がぐいぐいと攻め込まれるなど異常事態以外の何者でもない。第三種警報は出ていないが、この混乱極まった状況では同様の対処を行う必要がありそうだった。
「偽物の月が醸す謎を解くため、何らかの異変を生み出す必要があったのは確かだけど、それは有力者同士の弾幕決闘によって成されるものであり、一種のお祭りのような騒ぎになるはずだった。でもこれは奇祭というにもいささかおぞましい状況と言えるかな」
しかも攻めてくるのは地を這うアリばかりではない。羽根アリはしきりに包囲を潜り抜けようとするし、巨大化した蛾が妖力のこもった鱗粉をばら撒き、地上で戦う妖怪たちをじわじわと苛んでいる。それ以外にも山に住んでいる虫が一部巨大化し、内部から攻撃を仕掛けられている状況だ。妖怪の山で最有力とされる天狗でさえ、一部はそうした虫の対処にてんてこ舞いを踊らされている。河童は防戦一方で山全体のことを考えている余裕はなさそうだし、より少数で力もそこまでない種族が続々と避難してきている。こうなると天狗も不可侵条約を振りかざすことなく山の住民たちを受け入れるしかなく、戦える妖怪は天狗とともに前線に立ち、傷ついた妖怪は手が足りないから治療もそこそこに放置されている。どこもかしこも騒がしく、各所で戦線維持できているのが不思議なくらいだった。
「この状況を打破するにはおそらく親玉を叩く必要がある。皆を捨て置くのは心苦しいけど、わたしたちは黒幕の対処に向かうべきなのだと思う」
「ですが……」佳苗は非難がましい視線を早苗に向ける。いまここで必死に頑張っている者たちを助けないと宣言したのだから冷たいと思われることは覚悟したが、佳苗の口から出てきたのは早苗を酷薄となじるような言葉ではなかった。「わたしたちは現状、虫の操り手についての情報を何も持っていません。探すといっても闇雲では辿り着けませんよ」
「それならば良い話がある」二人の目の前に諏訪子の首がにゅるりと現れる。早苗は坤を操る能力を持つ諏訪子が地中を自在に行き来できることを知っているから一瞬驚く程度だったが、佳苗はすっかりと目を白黒させていた。「ちょっくら山を下りて調べてきたが、アリに襲われているのはここだけではなく、三つの人里も全てアリに襲撃されている。どうやら人間を積極的に襲うつもりはないようだが、里に住む者たちは各所に徘徊するアリの群れに恐れをなし、家に閉じこもって趨勢を見守っているようだ。各里の自衛組織がアリをなんとか対処しようと懸命に動いているようだが、北のマウンテンガードは河童と天狗の混成部隊だからまだ対抗できているが、東と西の警察は人間の組織だからあっという間に追い詰められてしまい、半ば監禁状態ってことになってる。まあ人間に強く抵抗されると死人が出かねないから早い段階でへたれてくれるのは逆にありがたい……」
「ちょっと待ってください、これまでの話のどこに良いことがあるんですか? どこもかしこも酷いことばかりなのが分かってしまいましたよ!」
佳苗は諏訪子の淡々とした報告を途中で遮り、顔を赤くして憤慨する。神の意志を実践すると共に、故あらば反意を訴えるのが風祝の特権であり、また義務でもある。仕える柱であろうと臆せずものを言う佳苗はその意味でうってつけと言えた。できればその上でもう少し敬意を払ってくれれば嬉しいのだけど、この際だから贅沢は言っていられない。
「人里が襲われているのは確かにまずいことだが、そこでは異変を指揮しているであろう者たちの姿を確認できた。そいつらを取っ捕まえて虫の操り手が誰かを吐かせれば解決に一歩前進するだろう。といっても誰がこんなことをやらかしているかは既に判明してるんだけどね」
「判明って、こんなことをしでかす不埒な輩どもが何者か分かっているならすぐ討伐に向かわないと!」
諏訪子は佳苗の強い剣幕にも押されることなく、どうどうと馬を宥めるようなことを口にしてから、企み事を謀る時のにたりとした笑顔を浮かべる。
「北の里に堀川雷鼓、東の里に九十九姉妹が現れ、混乱を騒がしい音で更に煽り立てている。サバンナの如くアリが湧き出すこの状況を作り出したのは、つまるところ解放派の奴らだってことだ。これまでとかなり手口が異なるけど、かつて郷のヒエラルキーをひっくり返そうとした天の邪鬼がブレインとして控えているのだから、派手に仕掛けてくることも想定するべきだった。あの八雲紫が現れたことで開放派の動きを探る動きは優先度を低くしていたが、もう少し深く掘り下げておけば良かったね」
諏訪子の説明に、早苗は空(うつほ)から聞いた侵入者についての情報を思い出していた。地底に虫の妖怪が忍び込み、不審な動きをしていたという線をもっと追ってみるべきだった。だが今は後悔よりも行動の時であり、早苗は己のミスを即座に頭の中から投げ捨てる。
「諏訪子様は解放派に所属している虫の妖怪がこの騒ぎを引き起こした元凶だと言うんですね?」
「リグル・ナイトバグの姿は確認できていないが、間違いないと見て良いだろう」
その名前が出てくることは予期していたが、それでも早苗には納得のできないところがあった。
「ですが、彼女にそこまでの力があるなんて信じられません。八雲から回ってくる報告書によると彼女はいつも博麗の巫女に、いの一番に追い払われています」
「そこはほら、弱いふりをしていたんだろうよ」
「でも、彼女は虫の妖怪ですよ。彼ら/彼女らは太古に強い力を有しながら徐々に衰退していき、いまや付喪神よりずっと数が少ない。人間はもはや虫を大した脅威とは感じていないからです。それなのに弱い振りをして簡単に退治される姿を衆目に曝せば、虫に対する人々の恐怖をいよいよ弱めてしまうことになります。それは彼女にとって自殺行為に等しいはず」
それを圧してなお弱さを演じるならば余程の理由がなければならない。これほどの大攻勢はその理由になるかもしれないが、それでも釈然としないものがある。
リグルは偽物の月にまつわる一連の現象が発生しなかったとしたら一体いつ、ことを起こすつもりだったのだろうか。
もしかすると今回の事件を引き起こした首謀者と何らかの繋がりがあるのかもしれない。ことが起きるのを事前に把握していたならば備えることも容易だが……彼女はいつの時点でこれだけの力を身につけていたのかという疑問は残る。
つい最近なのか、それとも早苗がこの幻想郷にやってきた頃から既に牙を隠し持っていたのか。後者だとしたら虫の恐怖が減じていくのを少なくとも七百年近くも看過していたことになる。いかに長命な妖怪と言えど……否、妖怪であるからこそ途轍もない執念だと言えた。
長く生きればそれだけで気持ちが薄らぎ、記憶も曖昧になる。かつて人間であった早苗でさえ、記憶と時間、記憶と空間が上手く結びつかず、酷く混乱してしまうことがある。
リグルが今回の事件を起こすまでにどれだけ忍んでいたかは分からないが、強い気持ちを保ち続けるだけの動機に早苗はまるで心当たりがなかった。
だが諏訪子には思い当たる節があるに違いなかった。そうでなければ弱いふりをしていたなどと、さも当然のように語ることはできない。
妖怪とはある意味で神の、もう一つの呼称でもある。弱いふりをする妖怪という不合理を自分よりも深く察することができるはずだ。それなのにここで語ろうとせず隠し通そうとしている。世界の秘密を知る早苗にすら語られていない事実がこの郷には存在するのだ。
だがいくら睨みつけても諏訪子を射竦めることはできなかった。守矢の三柱目として立ってはいるが、神格としては諏訪子に未だ及ばないことを改めて実感させられた。
「承知しました、深くは聞きません。わたしたちはこれから山を下り、北の里へ向かいます。守矢は人々を見捨てていないことを示す必要がありますし、解放派の不埒者を捕らえて話を聞き出す必要もあります」
「多少手荒いことをしても構わない、守矢の柱は酷く祟ることを思い知らせる良い機会でもある。ただしあまり力を使い過ぎないように。我々の最終目的はあくまでも郷を闇に落とし、機械や装置を狂わせる怪現象の解決にある。最後の解決者になることを目指して行動するのは基本だが、いざという時は他の異変解決者を支援する役割に回ることも考えて欲しい。大切なのは『わたしたちが問題を解決する』ことではなく『わたしたちを含む誰かが問題を解決する』ことだ」
諏訪子は佳苗に向けて、言い含めるような視線を向ける。射すくめようとしているわけではないが、諏訪子は力のある神であるから直視されるだけでも強烈なプレッシャーを感じるはずだ。強い力を持つ風祝とはいえ、これから異変に向かう人間に浴びせるのは些か酷な気もした。
だが佳苗は心乱されることなく、僅かに胸を張り、そして堂々と言ってのけたのである。
「何があろうとわたしは力を尽くすだけです。というかきっとそれしかできないですよ、なにしろ今回が初めてですから余裕なんて持てるわけがないですし、無様な姿を晒すかもしれません。だから早苗様、諏訪子様、そしてここにいませんが神奈子様。三柱の力をどうかお貸しください……長いこと風祝を勤めておいて申し訳ないことだと先に断っておきますが、わたしは今日初めて、わたしの神様たちに真実の祈りを捧げます」
風祝が神様の前で、これまで一つの祈りもなく過ごしてきたと告白するなんて前代未聞のことだ。ここまで破天荒なことをされるとは流石の早苗も考えておらず、ひやひやとした思いでことの趨勢を見守っていたが、諏訪子は満足そうに一つ頷くだけだった。
「ではその大胆不敵をもって役割を決めよう。早苗は乾と坤、始まりと終わりの端と端を括り、もって偽物の月を空に留め続けるように。既に誰かが夜空を停めているようだが、この状況ではその誰かさんが力を振るえなく状況も訪れるかもしれない。複数の力が発揮されているに越したことはないはずだ」
諏訪子が早苗に命じたのは世の理の要を曲げ続けろということだ。それは早苗にとって非常に重たいものだった。紅魔館のメイドが特異なだけで、時を停めるには大量の力を消費し続けなければならない。つまり早苗はサポートに周り、異変解決の要を佳苗に任せたことを意味している。
「そして佳苗、お前にはかつて早苗が未熟だった頃に授けていた力を貸し与えよう。世を乱す不埒者に守矢の威光を存分に知らしめて来るが良いよ」
未熟な頃と言われるのは少しだけ腹立たしくもあったが、神意を無駄遣いして嬉々としていた時期があったことは確かである。それを未熟の一語で丸めたのが諏訪子の温情なのだと思えば怒る気にもなれず、代わりに初めての異変解決に飛び出す風祝を支えてやらなければという、慈愛にも似た気持ちが湧いてきた。
「承知しました。では諏訪子様、そして神奈子様、言って参ります」
「少女らしく多少の無理を通す勢いでやってこい。前にも言ったがお前は守矢を支える三つの柱に祝福されている。そのことを忘れるんじゃないぞ」
諏訪子の激励に続き、天狗たちとアリが戦っている辺りで突如として巨大な竜巻が生まれ、先陣を行く荒くれ武将のようにアリを薙ぎ払っていく。神の風は妖怪の山を襲う未曾有の危機にも決して揺らぐことはない。その姿は早苗の、神になってなお残り続ける信仰心を掻き立てる。そして佳苗もその力強さに勇気づけられた様子だった。
「よし、では意気も整ったところで早速出発しようか」諏訪子がそう宣言すると、硬い地面がどろりと崩れ、地中にずぶずぶとめり込んでいく。「駄目じゃないか佳苗、そんなに暴れたりしたら」
「いえ、体が地面にめり込んで止まらないんですけど!」
「地上はいまやアリの巣窟。地下通路もアリの侵食は着々と進んでいる。それならば誰も知らない道を作れば良いだけのことさ。柔らかい土の中を行くのはひんやりして気持ち良いし、肺に異物が流れ込むような感覚も最初は気持ち悪いかもしれないが、なあにすぐに慣れるよ」
早苗もひんやりぶよぶよした地中の感覚は好きではないし、肺に水が満たされるような息苦しさに慣れることはできないが、我慢できるだけの経験と分別はある。だが人間をやめたことのない佳苗にそれは難しいだろう。早苗にできるのは手を握り、未知なるものへの不安を少しでも和らげてあげることだけだった。
偽物の月が現れ、いつもと異なる消え方をしてからしばし、博麗神社に巨大なアリが群をなして近付いてきた。空中は蛾を始めとした飛行可能な昆虫によって埋め尽くされ、正に虫の這い出る隙間もない状況である。虫除けの呪いと結界を前もって用意していなければ、霊夢は神社もろとも虫に押し流されていたに違いなかった。
全ての虫を避けられたわけではなく、既に神社に入り込んでいた虫たちが巨大化して襲いかかってきたが、こちらは散発的な攻撃に留まったため針や札であっという間に片付けることができた。妖力を失った虫たちは元の大きさに戻り、それからは別段、霊夢に近づいてくることも噛みついてくることもない。込められた妖力が損なわれれば、虫たちはみないつもの習性に戻るらしかった。
一仕事を終えて神社に戻ると、霊夢はパートナーである紫の登場を待つことにした。結界の外側にいる虫たちはあまりに膨大であり、一人でどうにかするには荷が重過ぎると判断したからだ。
紫が現れるまでの時間をどうしようかと思いながらぼんやりしていると、突如として電話が鳴り出した。慌てて飛びつき、受話器に耳を当てるとまずは耳障りなノイズが、その中から微かに聞き覚えのある声が聞こえて来る。電話は稀に繋がることもあるという噂を思い出し、霊夢はもしもしと何度も呼びかけてみたが、次第にノイズが優勢になり、最後はぷつりという音がして何も聞こえなくなった。
「遠子なの? もしもし? もしもし?」
最後に一度だけ呼びかけてみたが反応なし。こちらから掛け直してみたが、今度はノイズの欠片すら聞こえてこない。
「こういう思わせぶりなのやめてよ、もう!」
これならば全く繋がらなかったほうが良かったのにと思ったが、すぐに考え直してから受話器を置き、深呼吸する。
自分の勘は送信より受信の形で発揮される。遠子からの電話が繋がったのはそこが次に行くべき場所だからだ。そう自分に言い聞かせると、未だに姿を現そうとしない上司への愚痴を虚空に放つ。
「実は出てくるタイミングをじっとうかがってるんでしょ? とっとと出てきたらどうなのよ!」
「ではお言葉に甘えて」霊夢は小さいほうの紫が現れると思っていたのだが、天井付近に生まれた隙間から逆さ姿で現れたのは大きいほうの紫だった。「どうしたのかしら、目をぱちぱちさせて。期待通りに出てきたというのに驚かれても些か困ってしまうのだけど」
「大きいほうが出てくるのは予想してなかったけど、それはそれで好都合だわ。アリや蛾がわんさか湧いて、それ以外の虫も大きくなって一斉に襲いかかって来たのよ。あんたときたら一体、何をやらかしたというの?」
「やらかした、とは心外ですわ」紫は扇を取り出し、すっと口元を隠す。ただでさえ読み取りにくい気持ちがいよいよ不可解となってしまい、霊夢にとっては忌々しいことこの上なかった。「その鋭い目つきと気迫、ぼんやりしているように見えて万全に整っているのね。最初に見た時は少し……いやかなり頼りなさそうだったけど、研ぎ澄まされて鋭さが増したように見える。非常に喜ばしいことだわ」
「これも誰かさんが厄介ごとの種を撒いてくれたお陰ね」
「いやあそんな、照れますわ」
「褒めてない、褒めてないからね!」彼女のペースに乗せられないよう気をつけていたのに、恍惚にも似た笑みを浮かべられてついつい大声をあげてしまっていた。それを見て紫の目がにやけるように細まったのがまた腹立たしい。「あと、話をするのに逆さまだなんて失礼にも程があるわ。それとも撃ち落としてくれってことなのかしら」
霊夢が札を構えると紫はもぐら叩きのもぐらのようにひょいと引っ込み、次の瞬間には得も言えぬくすぐったさが腋から腹部の側面までをするりと撫でていく。持っていた札を不埒者に貼り付けようとしたが、霊夢の行動は空を切り、紫は再び逆さまの姿で天井付近に現れる。
「体もかなり引き締まったし、それでいて肉付きも良くなっている。胸のほうはやはり相変わらずだけど」
無言で撃ち出した札は紫の額に命中したが、痛みに怯む素振りすら見せなかった。まるで霧や霞を相手にしているかのようなつかみどころのなさだ。
「では万事抜かりないことも確認しましたし、わたしはこれにてお暇しましょう」
「いや、ちょっと待って、待ちなさい」スキマの中にするすると消えていこうとする紫を霊夢は慌てて静止する。ここまで思わせぶりに登場しておいて、やることがセクハラだけだなんて、そんなこと納得できるはずがなかった。「もう少しこう、ヒントとか出していくもんじゃないの?」
「あらあら霊夢ったら、それはいわゆるゲーム脳というやつよ。現実では思わせぶりな発言が実は何も考えていなかったり、肩透かしだったりするもの。今回のわたしは異変の元凶について本当に知らないし、積極的に知ろうという気も今のところはない。最低限のお膳立てだけ用意したから、あとはお好きなようにやって頂戴」
「お膳立てということは、あの虫たちをけしかけるよう唆したのはやはり貴方なのね」
「そうね……お膳立てはしたかもしれない。でも今夜に備えてというわけではない」
紫の言っていることはいまいち筋が通らないというか、理解しがたいものだった。今夜に備えてというわけではないなら、では何に備えていたのか。どうしてそれがいきなり今夜になったのか、霊夢には訳の分からないことだらけだった。
「詳しいことが知りたければもう一人のわたしに訊けば良いわ。ただし教えてくれるかどうかは保証しないけれど。ではわたしの可愛い霊夢、また会いに来るわね」
紫は最後に投げキッスを飛ばし、今度こそ本当に姿を消す。実際にハート型の弾幕で表現する芸の細かさがまたぞろ腹立たしく、次に会ったら思い切り文句を言ってやろう……と思っていたらテーブルを挟んだ向こう側に新しい亀裂が開いていく。霊夢はいっとう怒りと力のこもった札を亀裂に向けて投げつけたが、それは予想外の小さな手によって握り潰され、黒い塵と化して虚空に消えていく。そして亀裂からは霊夢の上司である小さな紫が姿を現した。
「へえ、いきなり攻撃するとはなんとも品のある挨拶ね」
「あ、いや、その、これは……」予期せぬ出来事でしどろもどろになった霊夢に、紫は札を握り潰したほうの手を広げてみせる。掌は火傷のように赤く腫れ、白い煙を微かに放っていた。「ごめん、紫。それって結構、痛むわよね?」
「平気よ、これは人間のような反応をするようエミュレートしてるだけだから」手をゆっくりと握り、もう一度開くと腫れはすっかり引いており、すべすべした白い手に戻っていた。「こんな状況だもの、怪しい動きに楔を打とうとするのは全くもって正しい行動よ。あんたのことだからぼんやり待ち続けているだけだと思ったけど気迫十分じゃない」
見事に図星を当てられ、霊夢はここにいない紫に心の中で手を合わせる。散々からかわれたのは腹立たしいが、そのお陰で雷が一つ落ちるのを回避できたらしい。
「さて、ご覧の通りに博麗神社周辺はいまやアリを中心とした虫たちに取り囲まれている。ここだけではなく三つの里全てにアリが攻め込み、郷の有力な勢力のいくつかでもアリの攻勢が確認できているわ。特に妖怪の山では雪崩が逆流するかのように、莫大な数のアリが山肌を覆い尽くそうとしている。確かに騒ぎを起こす必要はあったけど、これは流石に度を超している……とはいえこれ以上ない機会とも言える。わたしたちは虫たちが叛乱を起こしているこの状況を偽りの月から始まる一連の怪現象と強引に結びつけ、全ての元凶として懲らしめなければならない。ここまでは良いわね?」
「やるべきことは分かったけど、本来関係のない二つの話を結びつけるだなんて本当にできるの? そんなことをしたら色々なところに矛盾が生まれてしまいそうなのだけど」
「それなら問題ないわ、多少こじつけでも納得のできる展開を用意できればあとは強引に押し切るだけ。こういうものに完璧を求める必要はないの……例えばシリーズものだと最初は用意されていなかった展開を後付けで挿入することもままあるのだけど」
「えっ、そうなの?」
霊夢は頭の中に大好きなシリーズものの漫画や小説をいくつか思い浮かべる。言われてみれば出てくる新設定に唐突さを感じることはたまにあるが、後付けだなんて考えたこともなかった。
「作家なんて生き物に理想を見過ぎよ。あいつら、深いこと考えてるようで実は結構行き当たりばったりだったりするんだから。まあ、そんなことはどうでも良かったわ。わたしが言いたいのは後から新しい設定を追加して一つの物語に括るのは十分に可能だということ。でもそれはわたしがなんとかでっち上げるわ。霊夢はいつも通りの行き当たりばったりで目につく不審者を片っ端から倒していけば良いの。というか今回、色々なことにリソースを割いているから弾幕決闘に関してはサポート程度の戦力として考えて頂戴。戦いは霊夢の仕事、分かったわね?」
「ええ、分かったわ。でも神社を囲う虫を突破するだけでも随分と困難そうよ。やれと言われてできないわけではないけれど」
霊夢の最終目的は偽物の月から始まる怪現象をどうにかすることだが、現状では何が起きるのか分からないし、できる限り力を温存して進みたかった。まだ未熟な自分が温存を考えても上手くいくはずもないと分かっていたが、それでもなお力の消費を躊躇わせるものが今回の異変にはある。それに関しては紫も同じ意見のようで、すいすいと虚空をなぞり、冥い亀裂を呼び出してみせた。
「今回は式も健在だから、木っ端の虫どもについては存分に露払いしてもらうつもりよ。さあ、出てきなさい」
「はい、では遠慮なく」聞き覚えのある声とともに、何者かが亀裂から……ではなく、何故か箪笥の一番上の段を開いて姿を現す。それは闇に紛れるような黒い体毛に覆われた、七つもの尻尾を持つ猫であった。「呼ばれて飛び出て参りましたが、さてどのようなご用件でしょうか」
「橙、あんたずっとその中に潜んで出番を待ち続けていたの?」
紫の声は微かに震え、低く抑えられており、いかにも怒りを訴えていたが、表情には一種の諦めのようなものが浮かんでいた。人をくったような登場の仕方といい、それでいて悪びれることなく正座しているところといい、主人と相対する時ですらその独特な性格は変わらないらしい。御するのに苦労していることが紫の表情からありありと見て取れた。
「いえいえ滅相もございません。つい先程まで東奔西走していましたとも。なにしろ電話もメールも繋がらない、紫様謹製の通信装置ですらひっきりなしにノイズが入って使い物にならないと来たら、情報は足で稼いで足で伝えるしかない。不肖このわたくしめは古来より猫の張り巡らせた諸所の抜け道を自由自在に扱うことができますから……」
「御託をいちいち述べる必要はなし、そもそもわたしが呼んだのは貴方のご主人なのだけど」
「藍様は郷中の情報を一手に握るための管制塔としてその深謀遠慮をフル回転させてことに当たっています。ゆえに予備戦力として最大のわたしがやって来ました。尻尾は二つほど足りませんがなあに、七尾の猫であっても敵を打ち据えるその力はさして変わらぬと心得てください」
橙は紫に対してそう言い切ると、霊夢に向けて片目を瞑る。彼女は月初になると神社に現れ、苦手としている事務処理の類を一手に引き受けてくれているから強く言えないのだ。それに彼女の力は霊夢もよく知っている。仕事が終わった後の軽い運動と称して弾幕決闘の稽古に付き合ってくれるのだが、俊敏な動きから繰り出されるトリッキーな弾幕の数々は霊夢の感覚をもってしても容易に回避、打破できないものばかりである。
橙が手勢として加わるのは霊夢にとって歓迎できることだし、紫も同様の結論に至ったらしく、鋭い視線を引っ込めてから仕方なしと言いたげに頷いてみせた。
「では戦力も揃った所で早速出かけましょうか」
「出かけるってどこへ向かうつもりなの?」
霊夢はアリばかりのこの状況をどう打破するつもりなのかを知りたかったのだが、紫はそこを飛ばして行き先を告げようとしている。それならば予めどこに向かうかくらいは知りたかった。
「情報を得られるならばどこでも良いわ。解放派に参加している虫遣いの妖怪を捕まえることができれば話は一番早いのだけど、生憎わたしもその居所は分からない」
霊夢は解放派の一員として活動する虫遣いの妖怪、リグル・ナイトバグを何度か追い払ったことがある。妖精と一緒になって無邪気に騒ぎ、少し脅かしただけで逃げていく木っ端も木っ端の妖怪であり、とても今のような騒ぎを起こせるとは考えられなかった。
「本当に彼女がこんなことを起こしているのかしら?」
「でもあの天の邪鬼が虫ってメッセージを残していったのは事実なのよね。神社の参道に仕掛けられていた一方通行、あの通りに進むと『虫』って字が浮かび上がるようになっていたのだけど」
だから紫は虫よけの呪いや結界を仕掛けさせたのだと、霊夢はようやく合点がいった。天の邪鬼ならばそこに何らかの誤誘導を仕掛けたとも考えられるが、それは実際に虫が攻めてきたことで否定されたことになる。
「彼女が所属する組織で虫遣いというと霊夢の報告書を見る限りではリグルって名前の妖怪しかいなかったし、突発的な新入りが何かをやらかそうとしているなら虫ではなくもっと別のメッセージを残すと思うのよね」
「虫の一語で通じると判断したならば、そこから最も容易く浮かぶものが犯人というわけですね」
橙の分かりやすい補足に紫は大きく頷く。
「安直かもしれないが妥当ではある。その時点では誤誘導の可能性も考えられたけど、霊夢の報告から浮かび上がる捻くれた性格や、これまでの劇場犯的な行動から察するにもっと派手な挑発を仕掛けてくるに違いないと思ったの。気付くかどうかも分からないひっそりとした伝言を残していったからこそ本当である可能性は高そうだった」
そこまで説明を受ければ霊夢にも、リグルが元凶であるらしいことは何となく理解できた。それにしても郷をアリまみれにする理由が思い浮かばないのだが。
「最終目的は偽物の月を何とかするとして当面の目的はリグル・ナイトバグの退治となる。わたしたちはその居所を探るため、まずは東の里に向かおうと思う。ここから一番近いし、博麗の巫女がこの危機的状態になんら救いの手を入れないというのは後の心象を悪くしそうだし、九十九姉妹は解放派の主力の中でも割と御しやすい性格をしているから情報を聞き出しやすいというのもある」
「え、九十九姉妹が今回の異変に絡んでいるの?」
「そりゃ解放派のメンバーが動いているのだから当然じゃない。東の里ではあの姉妹が妖精たちを引き連れて、アリたちの後方支援を行っているわ。人間ばかりの警察隊ではとても歯が立たなくて、早々の敗走を余儀なくされたみたい」
それはつまり里を守る戦力がいまや全く存在していないことを意味する。
「じゃあ、こんな所で悠長に話している暇なんてないじゃないの! 急いで駆けつけないと」
「つまり、霊夢も東の里に向かうということで異存はないのね」
「もちろんよ、里が外敵に晒されるばかりだと言うのならば尚更のこと」
「では決まりね。わたしたちの最初の目的は東の……」
紫の言葉を遮るように、神社の外からきんきんと甲高く刺激のある声が聞こえてくる。何者かと思いながら外に出ると、これまで結界に阻まれていたアリたちが一斉に神社の真ん前まで迫っていた。上空に目を向けると空飛ぶ虫に囲まれている妖怪がおり、飛び出してきた霊夢をじっと見下ろしていた。
彼女もまた霊夢にとって馴染みのある妖怪だった。主に響子とペアを組み音楽活動を行う傍ら、東の里の近くにある森の中で屋台を開いて料理やお酒を振舞ったりするので、人間にも彼女を知るものは多い。騒音被害を出して響子とともに命蓮寺の住職に追いかけられたり、夜出歩く人間を鳥目にして脅かしたりと傍迷惑なところもあるが、その愛嬌で多くの人に愛されてもいる。
だがきらびやかな光を放つ羽虫に囲まれ、霊夢たちを見下ろすその表情には愛嬌も愛想もない。ぱちりとした目はすうと細められ、同じ服を着ているのに、その茶色はいつもよりも濃く見える。背中から生える一対の翼は紫の縁がいつもよりくっきりとしており、鳥というよりも蛾の羽根を思わせるものがあった。
「どうして不思議そうな顔をしてるのかしら。羽根持つ虫も参加しているのよ。わたしが現れるのは当然ではなくて?」
その話ぶりからもいつもの愛嬌はすっかり抜けており、獲物を見つけた妖怪のような傲慢さが感じられた。
「ふん、夜雀風情が羽虫の王を気取るつもり?」
紫の挑発にも夜雀、ミスティア・ローレライは些かも動じることはなかった。彼女は紛うことなき羽虫の王であり、少なくとも数の上では圧倒的な優位に立っている。霊夢はミスティアが放つ妖気に気圧されまいとするので精一杯であり、歯の噛み合わせを無意識のうちに確認するほどだった。
「あんた、こんな所に何しに来たの?歌の押し売りも鰻の押し売りも間に合っているのだけど」
「博麗神社をね、わたしの新しいコンサート会場にするの。きっとさぞかし人が集まるに違いないわ」
「戯言を」紫はミスティアの語る動機をばっさりと切り捨て、ぎろりと睨みをきかせる。八雲の管理者が敵意を向けているのに、彼女はまるで恐れる素振りを見せていない。「アリと羽虫を退けなさい。そうすればこれまでの狼藉も見なかったことにしてあげる」
「残念だけどそれはできない。わたしの役目はこの神社を叩き壊すことだから」
コンサート会場にされるのも真っ平ごめんだが、神社を壊されるのはもっと困る。住む所がなくなるし、妖怪に神社を破壊されただなんて、博麗の巫女としていよいよ示しがつかなくなる。
「そんなことしたらただじゃ済まさないわよ」
強気の発言をしてはみたものの、物量でぞろぞろ攻め込まれて虫封じも破られたとなれば蹂躙を留める術はない。ミスティアもそのことは分かっているのか、霊夢の恫喝を鼻で笑うだけだった。
「良いじゃない、古そうな建物なんだしここら辺で一度建て直すってのもありだと思うけどな。再建中はどこかの宿に泊まるなり、親元に帰るなりすれば良いのよ。自分で作らなくても出てくる食事もたまには気楽で良いものよ」
霊夢は返事代わりに用意していた札を展開し、ミスティアに向けて発射する。だがそこら中にいる羽虫が彼女を覆う壁を作り、身を呈して攻撃を防いでいく。一匹一匹の能力は大したことがなく、虫の壁は薄紙に針を刺すように突き抜けていくが、何十枚何百枚と重ねれば鋭い針をも止めてしまう。霊夢の攻撃は一つも届くことなく、妖力を失って元の大きさに戻り、逃げ惑う羽虫だけが後に残された。
「少女三日会わざれば刮目して見よ、か。以前に戦った時よりも大分強くなってる。人間ってずるいよね、弱くて寿命も短いのに、それなのに時として侮れないほど強くなる。何にでもなれるし、どこへでも行ける。わたしは夜雀にしかなれないし、ここにしかいられないのに」
攻撃を難なく防ぎきったというのに、ミスティアの表情にはどこか焦りにも似た余裕のなさが感じられた。コンサート会場で八人揃って歌っていた時とは全く異なる顔であり、害されている側だというのになんだか申し訳ないという気持ちさえ湧いてくる。
「それに少しでも弱みを見せたら同情したり、理解しようとしたりする。ずっと昔にわたしを説教した閻魔様ならきっとこんな風に言うでしょう。あらゆるものと同化しようとする、それが人間の持つ最たる罪であると」
ミスティアは苦々しい口調でそう言うと周囲に渦巻いていた羽虫を遠くに退け、鋭い爪の生えた指をぴしりと霊夢に向ける。
「一勝負しましょう、博麗の巫女。あんたが勝てば神社を壊すのはやめにするし、虫たちはここから撤退させる。どう?悪い条件ではないと思うのだけど」
ミスティアの言う通り、それだけでアリと羽虫の大群がなんとかしてくれるのならこれほど良い条件はない。だが目の前に吊り下げられた餌に食いつくほど、霊夢は素直でも良い性格でもなかった。
「とのことだけど、どうする?」
紫の力なら神社の囲いからあっさりと逃げることはできる。だが神社は見せしめに破壊されるだろうし、その後に人里を襲っている戦力に合流する可能性は極めて高い。それならばここで戦力を削ぐために勝負を受ける価値はある。もし負けそうになっても紫に回収してもらえば逃げることはできるし、勝てば万々歳である。
問題はミスティアの話を信じて良いのかということだった。
「わたしが本気を出せば、まあなんとかできないでもないのだけど」紫はちらと、一瞬だけ月の出ていた方角に視線を寄せる。この騒ぎを一夜の物語にするため、既に力を行使しているらしい。だとしたら本来の力は発揮できないと考えるべきだった。「橙に処理を一任するという手もある」
「紫様ほどではないですけど手際良くやってみせる自信はあります。ですが、わたしにはどうも霊夢さん個人を指名している節が感じられるのです。あるいは、そう……霊夢さんに賭けようとしているところがあるのではないか」
あの夜雀が自分に何を賭けようとしているのか、先程までの短いやり取りで理解することはできなかった。だがこの機会を逃せば、大切なものがこの手から永久に滑り落ちていくのではないかという気がしてならなかった。
「よっし、一勝負といこうじゃないの!」
霊夢はミスティアと同じ高さまで浮かび、いつものように退魔の装備を構える。羽虫は依然として遠ざかったままだが、いつ乱入してきても良いように最低限の心構えだけは整え、そして意識のほとんどをミスティアに集中させる。近付くとその迫力と妖気がよりひしひしと伝わってくるけれど、不思議と怖くはなかった。
「こんな時なのに笑顔なんか浮かべて、いい度胸してるわ。でもそれが最後まで続くかしら?」
ばさばさと羽ばたく翼から一気に展開された大量の楔弾は蛾の羽根を形作るように展開され、場の空気が一気にかき乱される。霊夢は心なし武器を強く構え、夜雀の先制攻撃を迎え撃つのだった。
地上でちらちらと瞬く光を、正邪は上空からじっと見下ろしていた。
人の使う灯りが途絶え、月や星も輝くことなく、アリや羽虫の放つ微かな光や目映い弾幕によってのみ照らされた幻想郷はどこか地獄にも似た様相を呈しており、いつもならば転倒、倒錯したこの状況を無邪気に楽しんでいただろう。だがこれは正邪を欺いたものたちによって引き起こされた騒動である。だから彼女は現状を更に覆し、郷に平穏をもたらすことを目的として活動している。倒錯の更なる倒錯だが、正邪はいまやそのことに喜びを感じ始めていた。
「あらあら嬉しそうね、正義の味方になるのがそんなに嬉しいのかしら」
幽々子の頓珍漢な問いに、しかし正邪は頷いてみせる。誰かを故意に誤解させるのもまた好むところだったからだ。一つだけ気にくわないのは正邪が楽しそうなことを幽々子もまた楽しんでいるということだった。魂胆の読めない奇妙な奴だと感じてくれれば良かったのだが、幽々子はふわふわしているだけである。本当にこいつ、役に立つのかなと疑いたくなるほどだった。
「では妖夢が戻ってきたら、わたしたちも正義の味方としての活動開始ね。年甲斐もなくわくわくしてしまうわ」
亡霊のくせに年甲斐も何もないはずだが、幽々子のふんわりした態度のせいかそうした言葉を素直に受け取りそうになってしまう。それがまたどうにも忌々しい。
「あら、噂をすれば影のようね」
妖夢は何もないところからいきなり正邪の側に現れる。隠れ蓑を使っているわけではなく達人の気配遮断によるもので、正邪には全く接近が掴めなかったが、幽々子には分かっていたらしい。やはり油断ならない奴だと心に留め、正邪はこの場を取り仕切る調子で横柄な口を聞いた。
「見回りご苦労。で、郷はどうだったね?」
「どうもこうも、アリだらけというのがよりはっきりとしただけだ」妖夢は気分を害した様子もなく、面白みのない答えを返してきた。「どこもかしこも天地をひっくり返したかのようだったが、この騒ぎを起こした奴らは一体どうやって収拾をつけるつもりなんだ?」
「そんな目で睨まれても分からないよ。で、わたしが言った妖怪を探してくれたのかい?」
「ああ、お前が言う黒幕の一人とやらを見つけることができたよ」
「でかした。そいつが触覚持ちの妖怪ならなお良いのだけどね」
「触覚が生えていなかったことだけは確かだ。金髪で、紅魔館の住人みたいな洋装だった」
正邪は舌打ちを堪え、闇を操る妖怪の顔を思い浮かべる。リグルでないのは残念だったが、正邪は彼女にも強い恨みがある。なにしろ正邪の裏切りを目撃したと一番最初に証言したのは彼女なのだから。
「それで、その金髪はどこに向かったんだ?」
「迷いの竹林だ。ということは大昔と同様、永遠亭の宇宙人どもが話に噛んでるのか?」
「どうなんだろうね。個人的には身を隠すのにうってつけだからという即物的な理由に賭けるが」 かくいう正邪も小槌による転覆計画が失敗してしばし、あそこに隠れようとしたことがある。その時は竹林の住人や案内人にあっさりと見つけられて別の場所に逃げ出すしかなかったのだが、一夜程度を逃げ切るなら十分と考えたのかもしれない。「もしかすると標的の虫使いともども中に潜んでいるのかもしれない。アリの勢いに霞みがちだが、月を郷のあらゆる場所から覆い隠す闇を生み出すのもなかなかに骨が折れるはずだからな」
新月よりもなお暗い夜はぼんやりと光を放ちながら進むアリや羽虫をより恐ろしく見せる。よく考えているし、もしも自分を仲間に入れてくれたなら背中に手が届かないような嫌らしさをふんだんに加えたより素晴らしい計画に仕立てあげることができたのに、つくづく惜しいなと思った。「では我々も狩りと洒落込もうか」
「狩りとは趣味の悪い言葉を使う。下賤な天の邪鬼らしい」
下賤の一言にぞくぞくと恍惚が湧き上がる。彼女のように高潔な存在の悪罵は正邪にとって何よりのご馳走だ。もっと詰って欲しかったが、そんなことを口にしたら主導権が離れかねないので、ぐっと堪えてからかうような笑みを浮かべてみせる。
「まあまあ二人とも、狩りで良いじゃない。わたしは狩り、大好きよ。特に追うものと追われるものが紙一重の、ギリギリの狩りはね」
唇を舐める淫猥な仕草に、正邪は思わず肝っ玉を掴まれたかのように竦んでしまった。そして幽々子の嘲笑うような笑みから、怖れを抱いたことを気取られたのだと察する。
(ぼんやりしているが、彼女はきっと敵に回せば誰よりも怖ろしい。用心しよう)
正邪はそんなことを考えながら亡霊姫とその従者を背後に引き連れ、迷いの竹林に向かうのだった。
ロマンシング・サガ2という作品内での出来事なのだが、全長が数百メートルもある女王アリを中心として、アリの兵士たちが他種族に侵略をかけてくるというものだ。そいつを倒さなくてもゲームは進むのだが、野放しにしていくにはあまりにも強大で邪悪な存在だと感じたから、早苗は女王アリとその兵士たちを倒す選択肢を取った。
津波のように妖怪の山を駆け上ってくるアリたちを目の当たりにして、早苗はそんな大昔の記憶を思い出していた。ゲームに出てくる登場人物の心情など計るよしもないが、作中でアリだー! と叫んだ被害者たちの気持ちを追体験しているのは間違いなさそうだった。
それほどまでにアリの勢いは強く、いまや妖怪の山を席巻しようとしている。早苗が目にしている戦線の最前(さいさき)に立つ白狼天狗たちは何の力も持たない人間なら束になってかかってきても軽くあしらえるし、そんな天狗たちの指揮を取る犬走椛は正に一騎当千の使い手である。それだけでなく彼女と同じくらいの腕を持つ、古くて強い天狗があらゆる場所でその勇猛さを惜しげなく振るっている。
それなのにアリを押し返すことができず、徐々に侵略範囲が広がっていた。理由は単純にして明快、その途方もない物量である。早苗の目に群を成して迫ってくるアリはまるで巨大な光る絨毯のように見えた。
「メタルマックスだったら主砲一発で全滅なのに」
「早苗様、めたるまっくす? ってなんですか?」
思わず口から漏れていた心中を佳苗に指摘され、早苗は曖昧な笑みで誤魔化す。外の世界で七百年近くも昔に流行ったゲームをこと細かく話しても混乱させるだけだし、悠長に語っている暇もない。
「ああ、いつもの御信託ですね」早苗の意味が分からない独り言を佳苗は多少の皮肉を込めて御信託と呼んでいる。以前に比べて親しく接してくれるようになったといっても、こうした棘のような皮肉を口にするところは以前と変わらない。「ところでどうするんですか、これ。明らかに異変ですよね?」
佳苗が指摘するまでもなく、妖怪の山がぐいぐいと攻め込まれるなど異常事態以外の何者でもない。第三種警報は出ていないが、この混乱極まった状況では同様の対処を行う必要がありそうだった。
「偽物の月が醸す謎を解くため、何らかの異変を生み出す必要があったのは確かだけど、それは有力者同士の弾幕決闘によって成されるものであり、一種のお祭りのような騒ぎになるはずだった。でもこれは奇祭というにもいささかおぞましい状況と言えるかな」
しかも攻めてくるのは地を這うアリばかりではない。羽根アリはしきりに包囲を潜り抜けようとするし、巨大化した蛾が妖力のこもった鱗粉をばら撒き、地上で戦う妖怪たちをじわじわと苛んでいる。それ以外にも山に住んでいる虫が一部巨大化し、内部から攻撃を仕掛けられている状況だ。妖怪の山で最有力とされる天狗でさえ、一部はそうした虫の対処にてんてこ舞いを踊らされている。河童は防戦一方で山全体のことを考えている余裕はなさそうだし、より少数で力もそこまでない種族が続々と避難してきている。こうなると天狗も不可侵条約を振りかざすことなく山の住民たちを受け入れるしかなく、戦える妖怪は天狗とともに前線に立ち、傷ついた妖怪は手が足りないから治療もそこそこに放置されている。どこもかしこも騒がしく、各所で戦線維持できているのが不思議なくらいだった。
「この状況を打破するにはおそらく親玉を叩く必要がある。皆を捨て置くのは心苦しいけど、わたしたちは黒幕の対処に向かうべきなのだと思う」
「ですが……」佳苗は非難がましい視線を早苗に向ける。いまここで必死に頑張っている者たちを助けないと宣言したのだから冷たいと思われることは覚悟したが、佳苗の口から出てきたのは早苗を酷薄となじるような言葉ではなかった。「わたしたちは現状、虫の操り手についての情報を何も持っていません。探すといっても闇雲では辿り着けませんよ」
「それならば良い話がある」二人の目の前に諏訪子の首がにゅるりと現れる。早苗は坤を操る能力を持つ諏訪子が地中を自在に行き来できることを知っているから一瞬驚く程度だったが、佳苗はすっかりと目を白黒させていた。「ちょっくら山を下りて調べてきたが、アリに襲われているのはここだけではなく、三つの人里も全てアリに襲撃されている。どうやら人間を積極的に襲うつもりはないようだが、里に住む者たちは各所に徘徊するアリの群れに恐れをなし、家に閉じこもって趨勢を見守っているようだ。各里の自衛組織がアリをなんとか対処しようと懸命に動いているようだが、北のマウンテンガードは河童と天狗の混成部隊だからまだ対抗できているが、東と西の警察は人間の組織だからあっという間に追い詰められてしまい、半ば監禁状態ってことになってる。まあ人間に強く抵抗されると死人が出かねないから早い段階でへたれてくれるのは逆にありがたい……」
「ちょっと待ってください、これまでの話のどこに良いことがあるんですか? どこもかしこも酷いことばかりなのが分かってしまいましたよ!」
佳苗は諏訪子の淡々とした報告を途中で遮り、顔を赤くして憤慨する。神の意志を実践すると共に、故あらば反意を訴えるのが風祝の特権であり、また義務でもある。仕える柱であろうと臆せずものを言う佳苗はその意味でうってつけと言えた。できればその上でもう少し敬意を払ってくれれば嬉しいのだけど、この際だから贅沢は言っていられない。
「人里が襲われているのは確かにまずいことだが、そこでは異変を指揮しているであろう者たちの姿を確認できた。そいつらを取っ捕まえて虫の操り手が誰かを吐かせれば解決に一歩前進するだろう。といっても誰がこんなことをやらかしているかは既に判明してるんだけどね」
「判明って、こんなことをしでかす不埒な輩どもが何者か分かっているならすぐ討伐に向かわないと!」
諏訪子は佳苗の強い剣幕にも押されることなく、どうどうと馬を宥めるようなことを口にしてから、企み事を謀る時のにたりとした笑顔を浮かべる。
「北の里に堀川雷鼓、東の里に九十九姉妹が現れ、混乱を騒がしい音で更に煽り立てている。サバンナの如くアリが湧き出すこの状況を作り出したのは、つまるところ解放派の奴らだってことだ。これまでとかなり手口が異なるけど、かつて郷のヒエラルキーをひっくり返そうとした天の邪鬼がブレインとして控えているのだから、派手に仕掛けてくることも想定するべきだった。あの八雲紫が現れたことで開放派の動きを探る動きは優先度を低くしていたが、もう少し深く掘り下げておけば良かったね」
諏訪子の説明に、早苗は空(うつほ)から聞いた侵入者についての情報を思い出していた。地底に虫の妖怪が忍び込み、不審な動きをしていたという線をもっと追ってみるべきだった。だが今は後悔よりも行動の時であり、早苗は己のミスを即座に頭の中から投げ捨てる。
「諏訪子様は解放派に所属している虫の妖怪がこの騒ぎを引き起こした元凶だと言うんですね?」
「リグル・ナイトバグの姿は確認できていないが、間違いないと見て良いだろう」
その名前が出てくることは予期していたが、それでも早苗には納得のできないところがあった。
「ですが、彼女にそこまでの力があるなんて信じられません。八雲から回ってくる報告書によると彼女はいつも博麗の巫女に、いの一番に追い払われています」
「そこはほら、弱いふりをしていたんだろうよ」
「でも、彼女は虫の妖怪ですよ。彼ら/彼女らは太古に強い力を有しながら徐々に衰退していき、いまや付喪神よりずっと数が少ない。人間はもはや虫を大した脅威とは感じていないからです。それなのに弱い振りをして簡単に退治される姿を衆目に曝せば、虫に対する人々の恐怖をいよいよ弱めてしまうことになります。それは彼女にとって自殺行為に等しいはず」
それを圧してなお弱さを演じるならば余程の理由がなければならない。これほどの大攻勢はその理由になるかもしれないが、それでも釈然としないものがある。
リグルは偽物の月にまつわる一連の現象が発生しなかったとしたら一体いつ、ことを起こすつもりだったのだろうか。
もしかすると今回の事件を引き起こした首謀者と何らかの繋がりがあるのかもしれない。ことが起きるのを事前に把握していたならば備えることも容易だが……彼女はいつの時点でこれだけの力を身につけていたのかという疑問は残る。
つい最近なのか、それとも早苗がこの幻想郷にやってきた頃から既に牙を隠し持っていたのか。後者だとしたら虫の恐怖が減じていくのを少なくとも七百年近くも看過していたことになる。いかに長命な妖怪と言えど……否、妖怪であるからこそ途轍もない執念だと言えた。
長く生きればそれだけで気持ちが薄らぎ、記憶も曖昧になる。かつて人間であった早苗でさえ、記憶と時間、記憶と空間が上手く結びつかず、酷く混乱してしまうことがある。
リグルが今回の事件を起こすまでにどれだけ忍んでいたかは分からないが、強い気持ちを保ち続けるだけの動機に早苗はまるで心当たりがなかった。
だが諏訪子には思い当たる節があるに違いなかった。そうでなければ弱いふりをしていたなどと、さも当然のように語ることはできない。
妖怪とはある意味で神の、もう一つの呼称でもある。弱いふりをする妖怪という不合理を自分よりも深く察することができるはずだ。それなのにここで語ろうとせず隠し通そうとしている。世界の秘密を知る早苗にすら語られていない事実がこの郷には存在するのだ。
だがいくら睨みつけても諏訪子を射竦めることはできなかった。守矢の三柱目として立ってはいるが、神格としては諏訪子に未だ及ばないことを改めて実感させられた。
「承知しました、深くは聞きません。わたしたちはこれから山を下り、北の里へ向かいます。守矢は人々を見捨てていないことを示す必要がありますし、解放派の不埒者を捕らえて話を聞き出す必要もあります」
「多少手荒いことをしても構わない、守矢の柱は酷く祟ることを思い知らせる良い機会でもある。ただしあまり力を使い過ぎないように。我々の最終目的はあくまでも郷を闇に落とし、機械や装置を狂わせる怪現象の解決にある。最後の解決者になることを目指して行動するのは基本だが、いざという時は他の異変解決者を支援する役割に回ることも考えて欲しい。大切なのは『わたしたちが問題を解決する』ことではなく『わたしたちを含む誰かが問題を解決する』ことだ」
諏訪子は佳苗に向けて、言い含めるような視線を向ける。射すくめようとしているわけではないが、諏訪子は力のある神であるから直視されるだけでも強烈なプレッシャーを感じるはずだ。強い力を持つ風祝とはいえ、これから異変に向かう人間に浴びせるのは些か酷な気もした。
だが佳苗は心乱されることなく、僅かに胸を張り、そして堂々と言ってのけたのである。
「何があろうとわたしは力を尽くすだけです。というかきっとそれしかできないですよ、なにしろ今回が初めてですから余裕なんて持てるわけがないですし、無様な姿を晒すかもしれません。だから早苗様、諏訪子様、そしてここにいませんが神奈子様。三柱の力をどうかお貸しください……長いこと風祝を勤めておいて申し訳ないことだと先に断っておきますが、わたしは今日初めて、わたしの神様たちに真実の祈りを捧げます」
風祝が神様の前で、これまで一つの祈りもなく過ごしてきたと告白するなんて前代未聞のことだ。ここまで破天荒なことをされるとは流石の早苗も考えておらず、ひやひやとした思いでことの趨勢を見守っていたが、諏訪子は満足そうに一つ頷くだけだった。
「ではその大胆不敵をもって役割を決めよう。早苗は乾と坤、始まりと終わりの端と端を括り、もって偽物の月を空に留め続けるように。既に誰かが夜空を停めているようだが、この状況ではその誰かさんが力を振るえなく状況も訪れるかもしれない。複数の力が発揮されているに越したことはないはずだ」
諏訪子が早苗に命じたのは世の理の要を曲げ続けろということだ。それは早苗にとって非常に重たいものだった。紅魔館のメイドが特異なだけで、時を停めるには大量の力を消費し続けなければならない。つまり早苗はサポートに周り、異変解決の要を佳苗に任せたことを意味している。
「そして佳苗、お前にはかつて早苗が未熟だった頃に授けていた力を貸し与えよう。世を乱す不埒者に守矢の威光を存分に知らしめて来るが良いよ」
未熟な頃と言われるのは少しだけ腹立たしくもあったが、神意を無駄遣いして嬉々としていた時期があったことは確かである。それを未熟の一語で丸めたのが諏訪子の温情なのだと思えば怒る気にもなれず、代わりに初めての異変解決に飛び出す風祝を支えてやらなければという、慈愛にも似た気持ちが湧いてきた。
「承知しました。では諏訪子様、そして神奈子様、言って参ります」
「少女らしく多少の無理を通す勢いでやってこい。前にも言ったがお前は守矢を支える三つの柱に祝福されている。そのことを忘れるんじゃないぞ」
諏訪子の激励に続き、天狗たちとアリが戦っている辺りで突如として巨大な竜巻が生まれ、先陣を行く荒くれ武将のようにアリを薙ぎ払っていく。神の風は妖怪の山を襲う未曾有の危機にも決して揺らぐことはない。その姿は早苗の、神になってなお残り続ける信仰心を掻き立てる。そして佳苗もその力強さに勇気づけられた様子だった。
「よし、では意気も整ったところで早速出発しようか」諏訪子がそう宣言すると、硬い地面がどろりと崩れ、地中にずぶずぶとめり込んでいく。「駄目じゃないか佳苗、そんなに暴れたりしたら」
「いえ、体が地面にめり込んで止まらないんですけど!」
「地上はいまやアリの巣窟。地下通路もアリの侵食は着々と進んでいる。それならば誰も知らない道を作れば良いだけのことさ。柔らかい土の中を行くのはひんやりして気持ち良いし、肺に異物が流れ込むような感覚も最初は気持ち悪いかもしれないが、なあにすぐに慣れるよ」
早苗もひんやりぶよぶよした地中の感覚は好きではないし、肺に水が満たされるような息苦しさに慣れることはできないが、我慢できるだけの経験と分別はある。だが人間をやめたことのない佳苗にそれは難しいだろう。早苗にできるのは手を握り、未知なるものへの不安を少しでも和らげてあげることだけだった。
偽物の月が現れ、いつもと異なる消え方をしてからしばし、博麗神社に巨大なアリが群をなして近付いてきた。空中は蛾を始めとした飛行可能な昆虫によって埋め尽くされ、正に虫の這い出る隙間もない状況である。虫除けの呪いと結界を前もって用意していなければ、霊夢は神社もろとも虫に押し流されていたに違いなかった。
全ての虫を避けられたわけではなく、既に神社に入り込んでいた虫たちが巨大化して襲いかかってきたが、こちらは散発的な攻撃に留まったため針や札であっという間に片付けることができた。妖力を失った虫たちは元の大きさに戻り、それからは別段、霊夢に近づいてくることも噛みついてくることもない。込められた妖力が損なわれれば、虫たちはみないつもの習性に戻るらしかった。
一仕事を終えて神社に戻ると、霊夢はパートナーである紫の登場を待つことにした。結界の外側にいる虫たちはあまりに膨大であり、一人でどうにかするには荷が重過ぎると判断したからだ。
紫が現れるまでの時間をどうしようかと思いながらぼんやりしていると、突如として電話が鳴り出した。慌てて飛びつき、受話器に耳を当てるとまずは耳障りなノイズが、その中から微かに聞き覚えのある声が聞こえて来る。電話は稀に繋がることもあるという噂を思い出し、霊夢はもしもしと何度も呼びかけてみたが、次第にノイズが優勢になり、最後はぷつりという音がして何も聞こえなくなった。
「遠子なの? もしもし? もしもし?」
最後に一度だけ呼びかけてみたが反応なし。こちらから掛け直してみたが、今度はノイズの欠片すら聞こえてこない。
「こういう思わせぶりなのやめてよ、もう!」
これならば全く繋がらなかったほうが良かったのにと思ったが、すぐに考え直してから受話器を置き、深呼吸する。
自分の勘は送信より受信の形で発揮される。遠子からの電話が繋がったのはそこが次に行くべき場所だからだ。そう自分に言い聞かせると、未だに姿を現そうとしない上司への愚痴を虚空に放つ。
「実は出てくるタイミングをじっとうかがってるんでしょ? とっとと出てきたらどうなのよ!」
「ではお言葉に甘えて」霊夢は小さいほうの紫が現れると思っていたのだが、天井付近に生まれた隙間から逆さ姿で現れたのは大きいほうの紫だった。「どうしたのかしら、目をぱちぱちさせて。期待通りに出てきたというのに驚かれても些か困ってしまうのだけど」
「大きいほうが出てくるのは予想してなかったけど、それはそれで好都合だわ。アリや蛾がわんさか湧いて、それ以外の虫も大きくなって一斉に襲いかかって来たのよ。あんたときたら一体、何をやらかしたというの?」
「やらかした、とは心外ですわ」紫は扇を取り出し、すっと口元を隠す。ただでさえ読み取りにくい気持ちがいよいよ不可解となってしまい、霊夢にとっては忌々しいことこの上なかった。「その鋭い目つきと気迫、ぼんやりしているように見えて万全に整っているのね。最初に見た時は少し……いやかなり頼りなさそうだったけど、研ぎ澄まされて鋭さが増したように見える。非常に喜ばしいことだわ」
「これも誰かさんが厄介ごとの種を撒いてくれたお陰ね」
「いやあそんな、照れますわ」
「褒めてない、褒めてないからね!」彼女のペースに乗せられないよう気をつけていたのに、恍惚にも似た笑みを浮かべられてついつい大声をあげてしまっていた。それを見て紫の目がにやけるように細まったのがまた腹立たしい。「あと、話をするのに逆さまだなんて失礼にも程があるわ。それとも撃ち落としてくれってことなのかしら」
霊夢が札を構えると紫はもぐら叩きのもぐらのようにひょいと引っ込み、次の瞬間には得も言えぬくすぐったさが腋から腹部の側面までをするりと撫でていく。持っていた札を不埒者に貼り付けようとしたが、霊夢の行動は空を切り、紫は再び逆さまの姿で天井付近に現れる。
「体もかなり引き締まったし、それでいて肉付きも良くなっている。胸のほうはやはり相変わらずだけど」
無言で撃ち出した札は紫の額に命中したが、痛みに怯む素振りすら見せなかった。まるで霧や霞を相手にしているかのようなつかみどころのなさだ。
「では万事抜かりないことも確認しましたし、わたしはこれにてお暇しましょう」
「いや、ちょっと待って、待ちなさい」スキマの中にするすると消えていこうとする紫を霊夢は慌てて静止する。ここまで思わせぶりに登場しておいて、やることがセクハラだけだなんて、そんなこと納得できるはずがなかった。「もう少しこう、ヒントとか出していくもんじゃないの?」
「あらあら霊夢ったら、それはいわゆるゲーム脳というやつよ。現実では思わせぶりな発言が実は何も考えていなかったり、肩透かしだったりするもの。今回のわたしは異変の元凶について本当に知らないし、積極的に知ろうという気も今のところはない。最低限のお膳立てだけ用意したから、あとはお好きなようにやって頂戴」
「お膳立てということは、あの虫たちをけしかけるよう唆したのはやはり貴方なのね」
「そうね……お膳立てはしたかもしれない。でも今夜に備えてというわけではない」
紫の言っていることはいまいち筋が通らないというか、理解しがたいものだった。今夜に備えてというわけではないなら、では何に備えていたのか。どうしてそれがいきなり今夜になったのか、霊夢には訳の分からないことだらけだった。
「詳しいことが知りたければもう一人のわたしに訊けば良いわ。ただし教えてくれるかどうかは保証しないけれど。ではわたしの可愛い霊夢、また会いに来るわね」
紫は最後に投げキッスを飛ばし、今度こそ本当に姿を消す。実際にハート型の弾幕で表現する芸の細かさがまたぞろ腹立たしく、次に会ったら思い切り文句を言ってやろう……と思っていたらテーブルを挟んだ向こう側に新しい亀裂が開いていく。霊夢はいっとう怒りと力のこもった札を亀裂に向けて投げつけたが、それは予想外の小さな手によって握り潰され、黒い塵と化して虚空に消えていく。そして亀裂からは霊夢の上司である小さな紫が姿を現した。
「へえ、いきなり攻撃するとはなんとも品のある挨拶ね」
「あ、いや、その、これは……」予期せぬ出来事でしどろもどろになった霊夢に、紫は札を握り潰したほうの手を広げてみせる。掌は火傷のように赤く腫れ、白い煙を微かに放っていた。「ごめん、紫。それって結構、痛むわよね?」
「平気よ、これは人間のような反応をするようエミュレートしてるだけだから」手をゆっくりと握り、もう一度開くと腫れはすっかり引いており、すべすべした白い手に戻っていた。「こんな状況だもの、怪しい動きに楔を打とうとするのは全くもって正しい行動よ。あんたのことだからぼんやり待ち続けているだけだと思ったけど気迫十分じゃない」
見事に図星を当てられ、霊夢はここにいない紫に心の中で手を合わせる。散々からかわれたのは腹立たしいが、そのお陰で雷が一つ落ちるのを回避できたらしい。
「さて、ご覧の通りに博麗神社周辺はいまやアリを中心とした虫たちに取り囲まれている。ここだけではなく三つの里全てにアリが攻め込み、郷の有力な勢力のいくつかでもアリの攻勢が確認できているわ。特に妖怪の山では雪崩が逆流するかのように、莫大な数のアリが山肌を覆い尽くそうとしている。確かに騒ぎを起こす必要はあったけど、これは流石に度を超している……とはいえこれ以上ない機会とも言える。わたしたちは虫たちが叛乱を起こしているこの状況を偽りの月から始まる一連の怪現象と強引に結びつけ、全ての元凶として懲らしめなければならない。ここまでは良いわね?」
「やるべきことは分かったけど、本来関係のない二つの話を結びつけるだなんて本当にできるの? そんなことをしたら色々なところに矛盾が生まれてしまいそうなのだけど」
「それなら問題ないわ、多少こじつけでも納得のできる展開を用意できればあとは強引に押し切るだけ。こういうものに完璧を求める必要はないの……例えばシリーズものだと最初は用意されていなかった展開を後付けで挿入することもままあるのだけど」
「えっ、そうなの?」
霊夢は頭の中に大好きなシリーズものの漫画や小説をいくつか思い浮かべる。言われてみれば出てくる新設定に唐突さを感じることはたまにあるが、後付けだなんて考えたこともなかった。
「作家なんて生き物に理想を見過ぎよ。あいつら、深いこと考えてるようで実は結構行き当たりばったりだったりするんだから。まあ、そんなことはどうでも良かったわ。わたしが言いたいのは後から新しい設定を追加して一つの物語に括るのは十分に可能だということ。でもそれはわたしがなんとかでっち上げるわ。霊夢はいつも通りの行き当たりばったりで目につく不審者を片っ端から倒していけば良いの。というか今回、色々なことにリソースを割いているから弾幕決闘に関してはサポート程度の戦力として考えて頂戴。戦いは霊夢の仕事、分かったわね?」
「ええ、分かったわ。でも神社を囲う虫を突破するだけでも随分と困難そうよ。やれと言われてできないわけではないけれど」
霊夢の最終目的は偽物の月から始まる怪現象をどうにかすることだが、現状では何が起きるのか分からないし、できる限り力を温存して進みたかった。まだ未熟な自分が温存を考えても上手くいくはずもないと分かっていたが、それでもなお力の消費を躊躇わせるものが今回の異変にはある。それに関しては紫も同じ意見のようで、すいすいと虚空をなぞり、冥い亀裂を呼び出してみせた。
「今回は式も健在だから、木っ端の虫どもについては存分に露払いしてもらうつもりよ。さあ、出てきなさい」
「はい、では遠慮なく」聞き覚えのある声とともに、何者かが亀裂から……ではなく、何故か箪笥の一番上の段を開いて姿を現す。それは闇に紛れるような黒い体毛に覆われた、七つもの尻尾を持つ猫であった。「呼ばれて飛び出て参りましたが、さてどのようなご用件でしょうか」
「橙、あんたずっとその中に潜んで出番を待ち続けていたの?」
紫の声は微かに震え、低く抑えられており、いかにも怒りを訴えていたが、表情には一種の諦めのようなものが浮かんでいた。人をくったような登場の仕方といい、それでいて悪びれることなく正座しているところといい、主人と相対する時ですらその独特な性格は変わらないらしい。御するのに苦労していることが紫の表情からありありと見て取れた。
「いえいえ滅相もございません。つい先程まで東奔西走していましたとも。なにしろ電話もメールも繋がらない、紫様謹製の通信装置ですらひっきりなしにノイズが入って使い物にならないと来たら、情報は足で稼いで足で伝えるしかない。不肖このわたくしめは古来より猫の張り巡らせた諸所の抜け道を自由自在に扱うことができますから……」
「御託をいちいち述べる必要はなし、そもそもわたしが呼んだのは貴方のご主人なのだけど」
「藍様は郷中の情報を一手に握るための管制塔としてその深謀遠慮をフル回転させてことに当たっています。ゆえに予備戦力として最大のわたしがやって来ました。尻尾は二つほど足りませんがなあに、七尾の猫であっても敵を打ち据えるその力はさして変わらぬと心得てください」
橙は紫に対してそう言い切ると、霊夢に向けて片目を瞑る。彼女は月初になると神社に現れ、苦手としている事務処理の類を一手に引き受けてくれているから強く言えないのだ。それに彼女の力は霊夢もよく知っている。仕事が終わった後の軽い運動と称して弾幕決闘の稽古に付き合ってくれるのだが、俊敏な動きから繰り出されるトリッキーな弾幕の数々は霊夢の感覚をもってしても容易に回避、打破できないものばかりである。
橙が手勢として加わるのは霊夢にとって歓迎できることだし、紫も同様の結論に至ったらしく、鋭い視線を引っ込めてから仕方なしと言いたげに頷いてみせた。
「では戦力も揃った所で早速出かけましょうか」
「出かけるってどこへ向かうつもりなの?」
霊夢はアリばかりのこの状況をどう打破するつもりなのかを知りたかったのだが、紫はそこを飛ばして行き先を告げようとしている。それならば予めどこに向かうかくらいは知りたかった。
「情報を得られるならばどこでも良いわ。解放派に参加している虫遣いの妖怪を捕まえることができれば話は一番早いのだけど、生憎わたしもその居所は分からない」
霊夢は解放派の一員として活動する虫遣いの妖怪、リグル・ナイトバグを何度か追い払ったことがある。妖精と一緒になって無邪気に騒ぎ、少し脅かしただけで逃げていく木っ端も木っ端の妖怪であり、とても今のような騒ぎを起こせるとは考えられなかった。
「本当に彼女がこんなことを起こしているのかしら?」
「でもあの天の邪鬼が虫ってメッセージを残していったのは事実なのよね。神社の参道に仕掛けられていた一方通行、あの通りに進むと『虫』って字が浮かび上がるようになっていたのだけど」
だから紫は虫よけの呪いや結界を仕掛けさせたのだと、霊夢はようやく合点がいった。天の邪鬼ならばそこに何らかの誤誘導を仕掛けたとも考えられるが、それは実際に虫が攻めてきたことで否定されたことになる。
「彼女が所属する組織で虫遣いというと霊夢の報告書を見る限りではリグルって名前の妖怪しかいなかったし、突発的な新入りが何かをやらかそうとしているなら虫ではなくもっと別のメッセージを残すと思うのよね」
「虫の一語で通じると判断したならば、そこから最も容易く浮かぶものが犯人というわけですね」
橙の分かりやすい補足に紫は大きく頷く。
「安直かもしれないが妥当ではある。その時点では誤誘導の可能性も考えられたけど、霊夢の報告から浮かび上がる捻くれた性格や、これまでの劇場犯的な行動から察するにもっと派手な挑発を仕掛けてくるに違いないと思ったの。気付くかどうかも分からないひっそりとした伝言を残していったからこそ本当である可能性は高そうだった」
そこまで説明を受ければ霊夢にも、リグルが元凶であるらしいことは何となく理解できた。それにしても郷をアリまみれにする理由が思い浮かばないのだが。
「最終目的は偽物の月を何とかするとして当面の目的はリグル・ナイトバグの退治となる。わたしたちはその居所を探るため、まずは東の里に向かおうと思う。ここから一番近いし、博麗の巫女がこの危機的状態になんら救いの手を入れないというのは後の心象を悪くしそうだし、九十九姉妹は解放派の主力の中でも割と御しやすい性格をしているから情報を聞き出しやすいというのもある」
「え、九十九姉妹が今回の異変に絡んでいるの?」
「そりゃ解放派のメンバーが動いているのだから当然じゃない。東の里ではあの姉妹が妖精たちを引き連れて、アリたちの後方支援を行っているわ。人間ばかりの警察隊ではとても歯が立たなくて、早々の敗走を余儀なくされたみたい」
それはつまり里を守る戦力がいまや全く存在していないことを意味する。
「じゃあ、こんな所で悠長に話している暇なんてないじゃないの! 急いで駆けつけないと」
「つまり、霊夢も東の里に向かうということで異存はないのね」
「もちろんよ、里が外敵に晒されるばかりだと言うのならば尚更のこと」
「では決まりね。わたしたちの最初の目的は東の……」
紫の言葉を遮るように、神社の外からきんきんと甲高く刺激のある声が聞こえてくる。何者かと思いながら外に出ると、これまで結界に阻まれていたアリたちが一斉に神社の真ん前まで迫っていた。上空に目を向けると空飛ぶ虫に囲まれている妖怪がおり、飛び出してきた霊夢をじっと見下ろしていた。
彼女もまた霊夢にとって馴染みのある妖怪だった。主に響子とペアを組み音楽活動を行う傍ら、東の里の近くにある森の中で屋台を開いて料理やお酒を振舞ったりするので、人間にも彼女を知るものは多い。騒音被害を出して響子とともに命蓮寺の住職に追いかけられたり、夜出歩く人間を鳥目にして脅かしたりと傍迷惑なところもあるが、その愛嬌で多くの人に愛されてもいる。
だがきらびやかな光を放つ羽虫に囲まれ、霊夢たちを見下ろすその表情には愛嬌も愛想もない。ぱちりとした目はすうと細められ、同じ服を着ているのに、その茶色はいつもよりも濃く見える。背中から生える一対の翼は紫の縁がいつもよりくっきりとしており、鳥というよりも蛾の羽根を思わせるものがあった。
「どうして不思議そうな顔をしてるのかしら。羽根持つ虫も参加しているのよ。わたしが現れるのは当然ではなくて?」
その話ぶりからもいつもの愛嬌はすっかり抜けており、獲物を見つけた妖怪のような傲慢さが感じられた。
「ふん、夜雀風情が羽虫の王を気取るつもり?」
紫の挑発にも夜雀、ミスティア・ローレライは些かも動じることはなかった。彼女は紛うことなき羽虫の王であり、少なくとも数の上では圧倒的な優位に立っている。霊夢はミスティアが放つ妖気に気圧されまいとするので精一杯であり、歯の噛み合わせを無意識のうちに確認するほどだった。
「あんた、こんな所に何しに来たの?歌の押し売りも鰻の押し売りも間に合っているのだけど」
「博麗神社をね、わたしの新しいコンサート会場にするの。きっとさぞかし人が集まるに違いないわ」
「戯言を」紫はミスティアの語る動機をばっさりと切り捨て、ぎろりと睨みをきかせる。八雲の管理者が敵意を向けているのに、彼女はまるで恐れる素振りを見せていない。「アリと羽虫を退けなさい。そうすればこれまでの狼藉も見なかったことにしてあげる」
「残念だけどそれはできない。わたしの役目はこの神社を叩き壊すことだから」
コンサート会場にされるのも真っ平ごめんだが、神社を壊されるのはもっと困る。住む所がなくなるし、妖怪に神社を破壊されただなんて、博麗の巫女としていよいよ示しがつかなくなる。
「そんなことしたらただじゃ済まさないわよ」
強気の発言をしてはみたものの、物量でぞろぞろ攻め込まれて虫封じも破られたとなれば蹂躙を留める術はない。ミスティアもそのことは分かっているのか、霊夢の恫喝を鼻で笑うだけだった。
「良いじゃない、古そうな建物なんだしここら辺で一度建て直すってのもありだと思うけどな。再建中はどこかの宿に泊まるなり、親元に帰るなりすれば良いのよ。自分で作らなくても出てくる食事もたまには気楽で良いものよ」
霊夢は返事代わりに用意していた札を展開し、ミスティアに向けて発射する。だがそこら中にいる羽虫が彼女を覆う壁を作り、身を呈して攻撃を防いでいく。一匹一匹の能力は大したことがなく、虫の壁は薄紙に針を刺すように突き抜けていくが、何十枚何百枚と重ねれば鋭い針をも止めてしまう。霊夢の攻撃は一つも届くことなく、妖力を失って元の大きさに戻り、逃げ惑う羽虫だけが後に残された。
「少女三日会わざれば刮目して見よ、か。以前に戦った時よりも大分強くなってる。人間ってずるいよね、弱くて寿命も短いのに、それなのに時として侮れないほど強くなる。何にでもなれるし、どこへでも行ける。わたしは夜雀にしかなれないし、ここにしかいられないのに」
攻撃を難なく防ぎきったというのに、ミスティアの表情にはどこか焦りにも似た余裕のなさが感じられた。コンサート会場で八人揃って歌っていた時とは全く異なる顔であり、害されている側だというのになんだか申し訳ないという気持ちさえ湧いてくる。
「それに少しでも弱みを見せたら同情したり、理解しようとしたりする。ずっと昔にわたしを説教した閻魔様ならきっとこんな風に言うでしょう。あらゆるものと同化しようとする、それが人間の持つ最たる罪であると」
ミスティアは苦々しい口調でそう言うと周囲に渦巻いていた羽虫を遠くに退け、鋭い爪の生えた指をぴしりと霊夢に向ける。
「一勝負しましょう、博麗の巫女。あんたが勝てば神社を壊すのはやめにするし、虫たちはここから撤退させる。どう?悪い条件ではないと思うのだけど」
ミスティアの言う通り、それだけでアリと羽虫の大群がなんとかしてくれるのならこれほど良い条件はない。だが目の前に吊り下げられた餌に食いつくほど、霊夢は素直でも良い性格でもなかった。
「とのことだけど、どうする?」
紫の力なら神社の囲いからあっさりと逃げることはできる。だが神社は見せしめに破壊されるだろうし、その後に人里を襲っている戦力に合流する可能性は極めて高い。それならばここで戦力を削ぐために勝負を受ける価値はある。もし負けそうになっても紫に回収してもらえば逃げることはできるし、勝てば万々歳である。
問題はミスティアの話を信じて良いのかということだった。
「わたしが本気を出せば、まあなんとかできないでもないのだけど」紫はちらと、一瞬だけ月の出ていた方角に視線を寄せる。この騒ぎを一夜の物語にするため、既に力を行使しているらしい。だとしたら本来の力は発揮できないと考えるべきだった。「橙に処理を一任するという手もある」
「紫様ほどではないですけど手際良くやってみせる自信はあります。ですが、わたしにはどうも霊夢さん個人を指名している節が感じられるのです。あるいは、そう……霊夢さんに賭けようとしているところがあるのではないか」
あの夜雀が自分に何を賭けようとしているのか、先程までの短いやり取りで理解することはできなかった。だがこの機会を逃せば、大切なものがこの手から永久に滑り落ちていくのではないかという気がしてならなかった。
「よっし、一勝負といこうじゃないの!」
霊夢はミスティアと同じ高さまで浮かび、いつものように退魔の装備を構える。羽虫は依然として遠ざかったままだが、いつ乱入してきても良いように最低限の心構えだけは整え、そして意識のほとんどをミスティアに集中させる。近付くとその迫力と妖気がよりひしひしと伝わってくるけれど、不思議と怖くはなかった。
「こんな時なのに笑顔なんか浮かべて、いい度胸してるわ。でもそれが最後まで続くかしら?」
ばさばさと羽ばたく翼から一気に展開された大量の楔弾は蛾の羽根を形作るように展開され、場の空気が一気にかき乱される。霊夢は心なし武器を強く構え、夜雀の先制攻撃を迎え撃つのだった。
地上でちらちらと瞬く光を、正邪は上空からじっと見下ろしていた。
人の使う灯りが途絶え、月や星も輝くことなく、アリや羽虫の放つ微かな光や目映い弾幕によってのみ照らされた幻想郷はどこか地獄にも似た様相を呈しており、いつもならば転倒、倒錯したこの状況を無邪気に楽しんでいただろう。だがこれは正邪を欺いたものたちによって引き起こされた騒動である。だから彼女は現状を更に覆し、郷に平穏をもたらすことを目的として活動している。倒錯の更なる倒錯だが、正邪はいまやそのことに喜びを感じ始めていた。
「あらあら嬉しそうね、正義の味方になるのがそんなに嬉しいのかしら」
幽々子の頓珍漢な問いに、しかし正邪は頷いてみせる。誰かを故意に誤解させるのもまた好むところだったからだ。一つだけ気にくわないのは正邪が楽しそうなことを幽々子もまた楽しんでいるということだった。魂胆の読めない奇妙な奴だと感じてくれれば良かったのだが、幽々子はふわふわしているだけである。本当にこいつ、役に立つのかなと疑いたくなるほどだった。
「では妖夢が戻ってきたら、わたしたちも正義の味方としての活動開始ね。年甲斐もなくわくわくしてしまうわ」
亡霊のくせに年甲斐も何もないはずだが、幽々子のふんわりした態度のせいかそうした言葉を素直に受け取りそうになってしまう。それがまたどうにも忌々しい。
「あら、噂をすれば影のようね」
妖夢は何もないところからいきなり正邪の側に現れる。隠れ蓑を使っているわけではなく達人の気配遮断によるもので、正邪には全く接近が掴めなかったが、幽々子には分かっていたらしい。やはり油断ならない奴だと心に留め、正邪はこの場を取り仕切る調子で横柄な口を聞いた。
「見回りご苦労。で、郷はどうだったね?」
「どうもこうも、アリだらけというのがよりはっきりとしただけだ」妖夢は気分を害した様子もなく、面白みのない答えを返してきた。「どこもかしこも天地をひっくり返したかのようだったが、この騒ぎを起こした奴らは一体どうやって収拾をつけるつもりなんだ?」
「そんな目で睨まれても分からないよ。で、わたしが言った妖怪を探してくれたのかい?」
「ああ、お前が言う黒幕の一人とやらを見つけることができたよ」
「でかした。そいつが触覚持ちの妖怪ならなお良いのだけどね」
「触覚が生えていなかったことだけは確かだ。金髪で、紅魔館の住人みたいな洋装だった」
正邪は舌打ちを堪え、闇を操る妖怪の顔を思い浮かべる。リグルでないのは残念だったが、正邪は彼女にも強い恨みがある。なにしろ正邪の裏切りを目撃したと一番最初に証言したのは彼女なのだから。
「それで、その金髪はどこに向かったんだ?」
「迷いの竹林だ。ということは大昔と同様、永遠亭の宇宙人どもが話に噛んでるのか?」
「どうなんだろうね。個人的には身を隠すのにうってつけだからという即物的な理由に賭けるが」 かくいう正邪も小槌による転覆計画が失敗してしばし、あそこに隠れようとしたことがある。その時は竹林の住人や案内人にあっさりと見つけられて別の場所に逃げ出すしかなかったのだが、一夜程度を逃げ切るなら十分と考えたのかもしれない。「もしかすると標的の虫使いともども中に潜んでいるのかもしれない。アリの勢いに霞みがちだが、月を郷のあらゆる場所から覆い隠す闇を生み出すのもなかなかに骨が折れるはずだからな」
新月よりもなお暗い夜はぼんやりと光を放ちながら進むアリや羽虫をより恐ろしく見せる。よく考えているし、もしも自分を仲間に入れてくれたなら背中に手が届かないような嫌らしさをふんだんに加えたより素晴らしい計画に仕立てあげることができたのに、つくづく惜しいなと思った。「では我々も狩りと洒落込もうか」
「狩りとは趣味の悪い言葉を使う。下賤な天の邪鬼らしい」
下賤の一言にぞくぞくと恍惚が湧き上がる。彼女のように高潔な存在の悪罵は正邪にとって何よりのご馳走だ。もっと詰って欲しかったが、そんなことを口にしたら主導権が離れかねないので、ぐっと堪えてからかうような笑みを浮かべてみせる。
「まあまあ二人とも、狩りで良いじゃない。わたしは狩り、大好きよ。特に追うものと追われるものが紙一重の、ギリギリの狩りはね」
唇を舐める淫猥な仕草に、正邪は思わず肝っ玉を掴まれたかのように竦んでしまった。そして幽々子の嘲笑うような笑みから、怖れを抱いたことを気取られたのだと察する。
(ぼんやりしているが、彼女はきっと敵に回せば誰よりも怖ろしい。用心しよう)
正邪はそんなことを考えながら亡霊姫とその従者を背後に引き連れ、迷いの竹林に向かうのだった。
第3章 幻想の静止する日 一覧
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連載お疲れ様です
やはり幻想郷といえば異変解決、そしていよいよ新たな世代達の異変解決が始まってめちゃくちゃわくわくしてます
ま前の世代にはない正邪の異変解決がどういった物語への関わりになってくるのか非常に楽しみです