東方二次小説

2XXX年の幻想少女第5章 人と妖の境界   人と妖の境界 第11話

所属カテゴリー: 2XXX年の幻想少女第5章 人と妖の境界

公開日:2019年11月14日 / 最終更新日:2019年11月14日

 久々に空から落ちる夢を見た。

 中学生になって間もない頃から月に一度ほど、わたしは夢の空を墜落していた。地上に叩きつけられる前に目が覚めるけど、しばらくは生きた心地がしなかった。汗びっしょりで息も荒く、冷た目のシャワーを長く浴びて熱と恐怖を流さなければならなかった。
 空とは憧れであり、道具の墓場に打ち捨てられていた電車の復活を目の当たりにしてからは向かうべき場所であり、今のわたしにとっては己を表現する場所、弾幕を花開かせる場所である。
 空が現実になったから夢を見る必要がなくなったのだ。では、どうして今更あの夢を見たのか……理由は燎原の如く明らかだった。天子に負け、撃ち落とされたからだ。
 空を飛ぶことだけならできる。だが、全速力を出すことができなかった。大気の圧力を少しでも感じると目眩がし、猛烈な胃の痛みと吐き気が込み上げてくるのだ。それらを我慢していると最終的に意識が飛びかけたから慌てて速度を落とし、深呼吸を繰り返した。体調不良はすぐに収まったが、それは逆にわたしの心を重くした。風邪ならば一日一晩集中して休めば回復するかもしれないが、心因性の症状はすぐには改善されない。
 わたしはあまり早く飛べないなか、強敵に渡り合わなければならない。だから、いま身につけているよりずっと強い魔法が必要だった。
 だが、魔理沙は何も教えてくれなかった。より強い力を身につけなければならない理由、理屈がないと突っぱねられたのだ。どれだけ一方的に負けたかを惨めたらしく説明し、それを理由として説得しても心を動かしてくれなかった。あの時は意地悪な人だと思ったけど、一時を置いて冷静に考えてみればそれも当然だと思う。
 わたし自身ですら信じられないことをどうして他の人に信じてもらうことができるというのか。
 それでもわたしは本当のことを口にできなかった。
 どうにかして助けたい人がいる。空を自由に飛べないからといって逃げるわけにはいかない。
 でも、空が怖くて全力が出せないのは逃げているのと同じだ。
 悩み続けるうちに一日が過ぎ、二日が過ぎ、霊夢と天子の決闘は明日にまで迫っていた。菫子は二人の決闘に堂々と乱入するはずで、三つ巴の戦いになるだろう。それなのにわたしはろくに準備すらできないでいる。戦うための力が何もないから。
 いや、何もないというわけではない。
 わたしは二日ぶりにケータイの電源を入れる。この中にインストールされているアプリのことを考えたくなかったからだ。でも他に手がない以上、頼るしかないのかもしれない。
 無意識のうちにアイコンをタッチし、ムーンカタストロフを立ち上げようとしていた。そんなわたしを止めたのはケータイから鳴り響くコール音だった。佳苗からの電話であり、わたしは慌てて応答のアイコンをタッチ、ケータイを耳に当てる。
《もしもし、佳苗が電話なんて珍しいね》
 いつもはチャットツールでやり取りをしており、最近は電話でやり取りをすることはほとんどなかった。どういう風の吹き回しかと思ったのだが。
《珍しいね、じゃないでしょ! いくらメッセージを送っても返事がないし、既読は付かないし! 東の里を襲った地震に巻き込まれたんじゃないかと心配したの。それなのに脳天気なことを!》
 わたしに比べればずっと感情的な佳苗だが、今日は特に強烈だった。そして今回に限れば十割わたしが悪い。
《ごめん、ちょっと集中したくて電話を切ってたの》
《それなら良いけど、あんなことがあったんだから安否の一つくらい連絡してくれても良いのに》
 佳苗はまるで親みたいなことを言う。元いた世界に置いてきて、もはや取り返せないものだからなるべく考えないようにしていたけど、少しだけ胸がちくんと傷んだ。
《無事なら良いけどさ、気をつけないと駄目だよ。守矢は今回の問題に介入できないから、美真を助けることも救うこともできない》
《守矢が手を出せないってどういうこと? 地震を起こすようなやつから人里を救えば信仰を得られるとか真っ先に考えそうな方たちなのに》
《だよね、でも駄目だって。理由を聞いても教えてくれないしさ、困っちゃうよね。例のアイドルの件で秘密はなるべく作らないようにするって約束したばかりなのに》
 つまり、今回の件は霊夢以外が解決してはならない、何らかの理由があるということだ。
《わたしも、何もしないほうが良いのかな?》
 もしも深い事情があるなら、わたしが絡むことで物事が余計にややこしくなるのかもしれない。そう考えての発言だった。
《どうだろうね、魔理沙さんは駄目って言ったの?》
《言ってないけど、言われたようなものかもしれない》
《何よそれ、訳が分かんない》
 魔理沙が魔法を授けてくれなかったのは理屈がないからではなく、誰かからストップがかかっていたという可能性も考えられる。どちらが正しいか分からなくて黙っていると。
《じゃあさ、美真はどうしたいの?》
 佳苗は先程までと同じ、軽い調子で訊いてきた。
《分からない。もし、やってはいけないことだとしたら、やめたほうが良いのかなって。佳苗だったらさ、どうするのが正しいと思う?》
《わたしは風祝だから守矢の、そして三柱の意見が全てに優先するかな》
 悩むかと思いきや、即答だった。
《もちろん、理に適わないと思ったら意見具申もするけど通らなければ従うしかない。でもさ、美真は違う。誰にも属していない自由な魔法使いだから、自分が決めたことは誰にも妨げられることはない》
 自由という言葉が、いまいちピンと来なかった。だってわたしは自分を自由だと思ったことなんて一度もなかったから。でも、思い返してみればわたしほど縛られていない人間はいなかった。帰属するべき家族、社会、世界は既にない。本当の名前すら捨ててしまった。魔理沙からも独立し、たった一人で生きている。
《だからさ、自分勝手な意見かもしれないけど、美真には自由にやって欲しい。わたしや霊夢ではできないことを、堂々と成し遂げて欲しい》
 わたしは自由だ。でも、自由ということはわたしがやることの責任を全て自分で取らなければならない。誰かのせいにすることはできない。これまで自覚していなかっただけで、わたしはそういう生き方をしてきた。自覚がなかったからこそ恐れることもなかった。薄氷を踏み抜いて冷たい海の底に落ちなかったのは本当に運が良かったのだ。
 佳苗は自由が恐ろしいことを知っている。だから自分勝手な意見だと言ったのだ。その上で自分勝手を通して良いと励ましてもくれた。
《ありがとう。わたし、少しだけ勝手にやってみる》
 わたしにいまできるのはそんな佳苗に感謝の意を伝えることだけだった。あなたの自分勝手がわたしを励ましてくれたのだと、さっきの言葉で上手く伝わっただろうか。
《ケータイは付けっぱなしにしておいてね。あと、いつでもきちんと持ち歩くこと》
 佳苗はわたしの疑問に答えず、明るく小言を口にしただけだ。
《分かった、気を付ける》
《ふむ、よろしい。じゃあ、無事も分かったし、もう切るね。続きはチャットでよろしく》
《分かった、それじゃあ》
 了解して電話を切ると、わたしはムーンカタストロフのアイコンに再度、指を伸ばす。そしてしばらく長押しし、バツボタンが表示されるとアイコンにタッチする。
《『 』を削除しますか?》
 そう、表示された。わたしは迷うことなくはいを選び、アプリを削除する。それからケータイを鞄に入れると弾幕決闘の準備を整え、家を出る。霊夢に会って事情を訊き、わたしも決闘に参加できるかどうか確認する。もし駄目と言われたら幻想郷流のやり方で説得するつもりだった。
 空を自在に飛べるかはまだ分からない。結局のところ、同じことを繰り返すだけかもしれない。
 それでもわたしは前に一歩を踏み出そう。そして自由な魔法使いらしいことをしようと思った。


 霊夢はわたしと違い、天子と対決する準備を着々と整えているのだと思っていた。実際には縁側に腰掛け、ぼんやりと空を眺めていた。まるで何者かに魂を奪われてしまったかのようだ。目の前に着地してみても反応はなく、目の前で手を振ってみても微動だにしない。
 目を開けたままで眠っているのか、あるいは瞑想でもしているのか。真意を測りかね、何か反応があるまで待とうと隣に腰掛け、空に目を向ける。穏やかで乱れることなく日差しも実に心地よい。秋真っ盛りである。明日にはこの空で盛大な決闘を繰り広げるかもしれないだなんて想像もできなかった。
「うわっ、いつの間に!」
 霊夢は今更のように驚き、反射的に立ち上がると霊札を構える。ぽやんとしているように見えたが、決闘に望む心構えはあるらしい。
「さっきから隣にいましたよ。どうしましたか? 何か、思い悩んでいるようでしたが」
 何となく口にしてみたが、霊夢はぎくりとして僅かに目を伏せた。
「天子さんとの決闘が辛いんですか?」
「いや、あの馬鹿師匠と戦う覚悟はできてるのよ」
 霊夢の悩みは別の所から来ているらしい。だが、他に思い当たる節はない。本当にそれだけですかと訊ねかけたところで、霊夢がぽつりと呟いた。
「実は昨夜、神社が放火されちゃってさ」
「放火、ですか? ざっと見たところ、特に燃えた痕跡はありませんが」
「裏手の台所が燃えたの。すぐに消し止めることができたから問題はないんだけど、犯人を捕まえることができなかったのは残念だったわ」
 わたしは慌てて裏手に回り、未だ微かに残る焦臭さに思わず眉をひそめる。中を覗くとかなりの広範囲が黒く焦げており、一時でも神社で暮らし、台所を使っていた身としては眼前の光景に寂しさと怒りを覚えずにはいられなかった。
 確かにこれは一大事だが、一頻り見て回っているうちに小さな疑問が頭をもたげてきた。
 災難だったには違いないが、それだけで博麗神社の巫女ともあろうものが腑抜けてしまうだろうか。わたしと同じで十数年しか生きていない人間だから、住んでいる所に火を点けられそうになって人並みに恐怖を感じたというのもあり得なくはない。でも比那名居天子は火事よりずっと怖い存在である。
 無惨な敗北を喫し、撃ち落とされたからといって彼女を過大評価しているのだろうか。いつもと違う塞ぎ込み方なのが気になり、少し不躾かとも思ったが率直に訊ねてみた。
「火に、あまり良くない思い出でも? 例えば幼い頃に、家が火事にあったとか」
 霊夢は力なく笑うことでわたしの質問を否定する。
「たとえそうだとしても、明日には火事よりずっと強い相手との決闘が控えているのよ」
 意気込みを語りながらも、やはり霊夢の表情は力ない。いつもの負けん気をどこかに置いてきてしまったかのようだ。放火という現象自体にはショックを受けていないのだとしたら、霊夢をいま苦しめているものはおそらく、誰がやったのか、何故やったのか、そのどちらかに違いない。
「もしかして、犯人に心当たりがあるんですか?」
 わたしの問いに霊夢は肩をびくりと震わせる。どうやら見事に図星をついたらしい。
「差し出がましいと思いますが、どんなに親しい相手だとしても放火などという犯罪に手を染める輩を許してはならないと思います」
「それは、うん……分かってるの。でも、踏ん切りがつかなくて。実はずっとわたしのことが嫌いだった、なんて言われたらきっと耐えられない」
 そこまで言わせるならば、彼女にとって本当に大事な人なのだろう。
 霊夢はいつもひたむきで、明るくて、人妖を問わず友人も多い。だが、誰かを特別視しているようには見えなかった。わたしも佳苗も霊夢の友人だが、放火の犯人だと知ったら素直に指摘し、憤慨するだろう。
 強いて言うならば稗田家の当主である遠子だが、彼女と話す時は歯に絹を着せず、誰にも増して率直であったと記憶している。少し迷うかもしれないが、それでも霊夢は問い質しただろう。
 そもそも真相の追及を躊躇うのが霊夢らしくない。この幻想郷では仲良くしている相手が明日には突然、事件や異変を起こす可能性がある。犯人が親しい人物であると分かっていてもなお、この虚脱ぶりは明らかにおかしい。
 わたしの知らない何かが霊夢を苦しめている。いくつかの異変を通してそれなりに彼女を知ったが、まだここに来て三年程度の新参に過ぎないわたしには問題を解決するための情報が足りない。つまり、もっと霊夢のことに詳しい誰かに相談する必要がある。
「ところでさ、美真は何をしにここへ来たの? 明日の決闘に乱入するのは諦めたのかしら」
 霊夢は露骨に話題を逸らし、わたしの感情を煽ってくる。これ以上は詮索されたくないということだろうし、わたしとしても追求するつもりはなかった。
「諦めてませんよ、というかよく知ってますね」
「魔理沙さんに聞いたのよ」
「そう言えばあの人は共通の師匠ですよね。わたしには何も授けてくれませんでしたが、一人でもなんとかしてみますよ」
 恨みかけもしたが、結局は魔理沙のほうが正しかったのだ。心の内に巣食った臆病さを克服しない限り、わたしは誰と戦っても勝つことはできない。実を言えば霊夢の前向きな姿を見れば、わたしの気持ちも持ち直すと思ったのだけど。
「そう……なら、任せても良いのかもね」
 だというのに、この覇気のなさだ。心配を通り越して怒りすら湧いてくる。
「ええ、任せられてください」
 そして売り言葉に買い言葉である。わたしは霊夢に背を向け、神社を足早に立ち去ると大きく深呼吸をする。気持ちを沈め、冷静に行動するためだ。
 こんなことをしている暇はないが、わたしは霊夢の問題を解決するために動くつもりだった。月の呪いに捉われた菫子を助けたいという気持ちは今でも変わらないが、友人の腑抜けた姿を放っておけなかった。


 稗田遠子には屋敷に招かれて何度か話をしたことがあり、突然の訪問にも嫌な顔一つすることなく歓迎してくれた。少し顔色が優れないようだが機嫌は良く、不躾な質問で一発退場ということもなさそうである。
「この時期に慌ててここへ来たということは、あなたもあのお騒がせ天人のことを聞きに来たのかしら? 申し訳ないけど彼女と闘うならあなたの師匠に聞いたほうがよほど早いと思うわ」
「いえ、今日ここに来たのは質問をするためです。あなたは昨夜、霊夢の神社が放火されたことを知っていますか?」
「聞き及んでいるわ、大変なだったみたいね。霊夢は無事だということだけど、電話もSkydiverも全く応答がないの。わたしも一時期連絡を絶っていたことがあるから仕方がないのだけど」
 そうして遠子は鬼神カンパニーの執拗な勧誘についてうんざりした調子で語ってくれた。何かを隠している様子ではなく、他愛ない話から入ることで客の緊張を和らげようとしてくれる。以前、屋敷に招待されて話を聞かれた時も同じ流れだった。つまりはいつも通りということだ。
 友人が酷い目に遭ったのだから少しくらいは落ち着きを失っても良さそうだが、彼女は二千年もの時間を生きてきた不思議な人間だ。わたしの常識で判断してはいけないのかもしれない。
「その、少し言い難いんですが……霊夢さんはかなり落ち込んでいます」
 だが、次の言葉は明らかに意表をついたらしく、遠子の表情からこれまでの余裕がすっかり消えてしまった。それどころかわたしが嘘でもついているかのように、じっと瞳を覗き込むのだった。
「俄には信じ難いことだわ。神社は巫女にとって大事なものとはいえ、放火されたくらいで気落ちするなんて。もっと重大な災難が降り掛かったのでは?」
「いえ、台所の火事以外は何もありませんでした。ただ、少し気になる反応を見せてまして」
「気になる反応、と言うと?」
「霊夢さんは犯人を知っているようであり、真相を明らかにしてその人物に嫌われているのが分かってしまうことを怖がっているようでした。余程の相手に違いありません」
「なるほど、だからわたしを訪ねてきたわけね。でも、わたしは体が弱いし、家をこっそり抜け出せるような力も持っていない。本当に歴史を綴るだけの人間なの。そんなわたしを疑うなんて奇妙な話だと思うのだけど」
「これまでだったらわたしもそう考えたでしょう」
 わたしはケータイを取り出し、待機状態を解除……しようとして、ムーンカタストロフを削除してしまったことに気付く。決意のためとはいえ、少し軽率だったかなと思いながらケータイの画面を見ると、消したはずのアプリのアイコンが当然のように表示されていた。なんて行儀の悪いアプリだろう。間違って削除すると再アクティベートが大変だからという配慮かもしれないが、それにしても非常識である。もっとも今回は行儀の悪さゆえ、説明を省くことができたわけだが。
 戸惑いを押し殺すとムーンカタストロフを起動し、表示画面を見ながら遠子の顔色をうかがう。心当たりがあるなら何かの反応を見せるはずだが、まるで意味が分からないという顔をしていた。
「これはユーザインタフェースからしてマジックアプリのようね? 細部が微妙に異なるからわたしの全く知らないアプリか、それとも把握していないアップデートがかかったか。なんにせよこの手のアプリは手品と同程度のことしかできないはずだけど」
「そのはずなんですが、これを使えば弾幕決闘に使うような魔法が行使できますし、空を飛ぶことさえ可能になります」
 わたしの説明に、遠子は僅かに目を細める。
「魔法は魔素を使って行使するものだけど、大気中には微量しか漂っていないのよ。だからあなたみたいな人間の魔法使いは普段から魔素の濃い森を散策して素材を集め、種族としての魔法使いは魔素を精製代謝できる器官を持つことでそれぞれ魔法を行使している。そのどちらでもなく、待機中の僅かな魔素だけで強力な魔法が使えるなら、それは革命的な技術だわ。信じられない!」
「信じられないなら実際に使って見ても良いですよ。ただし危なくないものでお願いします」
 ケータイを手渡すと遠子は無言で画面をぽちぽちと操作し、えいやっと念を込めてタッチする。遠子の体が少しずつふわりふわりと浮き上がり、泳ぎ方を知らない子供のようにばたばたと手足を動かし始めた。
「やだ、うそ、本当に浮いてる。でもどうやって飛ぶのかしら。こうかしら?」
 遠子はケータイを頭上に掲げようとしたが、すっぽ抜けて手から離れてしまった。慌てて駆け寄り、空中でキャッチしてからゆっくり下ろすと、思わず大きく息をつく。
「すごいすごい、あなたの言ったことは本当なのね! 冗談を言う人でないことは知ってたけど、これは本当に信じるしかない。どうやって実現しているのか、魔法使いのあなたには見当がついていたりするの?」
「いえ、全く。ただ、このアプリの発案者が色々と語ってはいました。敷設されているけど使用されていないネットワークを利用したとか、魔法は情報の量と速度によって少ない魔素でも強力な魔法が使えるのだとか」
「なるほど、郷に張り巡らされた回線をフルスペックで使っているのね。それに独自の理論を組み合わせて完成したのがこのマジックアプリってことか。どこの誰かは知らないけど、こいつを作った奴は天才ね」
 遠子はわたしのケータイを拾い上げ、色々な角度から眺めたり臭いを嗅いだりする。目の前の不思議を自分なりに解き明かそうとしているようだ。大昔から歴史を紡いでいるだけあって、未知のものに出会うと好奇心に駆られてしまうらしい。
「これを使えばわたしでも博麗神社まで飛んでいき、放火することが可能ね。つまり、このアプリはこれまでに犯人となり得なかった人物まで容疑者にするってことか……」
 そして何気に物騒なことを口にし、興味深げに頷いている。全てが演技という可能性もなきにしもあらずだが、わたしはもう目の前の人物を疑ってはいなかった。
「動機はさしずめ、友人がこれ以上危険な目に遭うのを防ぐってことかしら。比那名居天子は今の霊夢だと到底歯が立たない相手だから決闘を止めるための強硬手段に出た、だなんていかにも推理小説みたいな展開よね」
「そうですね、わたしもそう思います。ここでようやく本題に入るわけですが」
「ああ、質問したいってことだったわね。面白いものを見せてくれたし、色々教えてもらったし、何でも答えてあげる。わたしが犯人かどうかさえもね」
「いいえ、わたしが訊きたいのは霊夢の家族についてです」
 霊夢の態度には抑うつ、不安、自己の否定といった要因が見受けられた。これらはみな、児童虐待ないしは近しい体験を受けた者に現れがちだ。
 霊夢は放火犯に己を抑圧してきた家族の影を垣間見たのではないか。犯人を捕まえようとして気付いたのか、それとも別の要因によって気付いたかは分からないが、何かのきっかけで犯人の正体を察したのだとしたら。
 これはわたしの推測であり、霊夢は良い両親のもとで愛されて成長したのかもしれない。心の底ではそうであることを望んでいたが、遠子の顔は苦さを耐えるかのように厳しくなった。
「霊夢の両親を一言で表すなら抑圧者よ。子供の頃からあれをしてはならない、これをしてはならないと非常に厳しかった。霊夢が博麗の巫女に抜擢されたときも強固に反対したし、巫女の任期延長手続きに際して必要な許可も頑なに拒否したと聞いてるわ。特に母親が厳しくてね、断固として巫女になろうと頑張った霊夢に対し、冷淡に振る舞うようになった。まあ、気持ちは分からないでもないんだけど」
「わたしにはさっぱり分かりませんが」
 聞いているだけで吐き気がしそうだった。わたしは元いた世界の閉塞感で苦しんでいたが、家族という最も身近で逃げられない世界で抑圧された霊夢はわたしよりずっと酷かったはずだ。そんなもの理解できないし、理解したくない。
 遠子の表情は徐々に柔らかくなり、わたしを気遣うような弱々しい笑みを浮かべる。わたしの内にある憤りを感じ取ったのだろう。
「事情を知らなければそうかもしれない。霊夢の両親はね、むかし妖怪に娘を殺されたの。生きていれば霊夢より三つ上で、きっと仲の良い姉妹になったことでしょう。霊夢がわたしを特別な友人と見てくれるのは、わたしがちょっぴり年上ぶっていて、存在したかもしれない姉の面影を無意識に見て取るからだと思っているの。本人はちっとも気付いていないでしょうけど」
 元いた世界が嫌で逃げ出したわたしが幼稚に思えるほど、霊夢を取り巻く環境は悲惨だった。
 でも、言われてみれば確かにそうだ。この世界において、神や妖怪は人間を超越している。力のない普通の人間は目を伏せて怖れるしかない。わたしはたまたま魔法の才能があったからそうしたものを感じずに済んでいたのだ。
「二度と娘を喪いたくない一心で、厳しく育てたのだと思う。でも、霊夢は博麗の巫女になれるほどの才能を持ち合わせていた。神や妖怪と触れ合う危険な役職であり、しかも郷では弾幕決闘が流行の兆しを見せていた。命に関わる遊戯に常に身を曝す恐ろしさ、もしかしたら娘を喪うかもしれない恐怖。これらに耐えるため、娘に冷たく当たることで心を守ってきたのでしょう。憎めば、いらないものと思えば、なくなっても辛くないかもしれないから」
「でも、そんなの……」
 自分が傷つかないために子供を傷つけるなんて、やはり許されることではない。
「分かってる、わたしだって許せないと思ってる。気持ちが理解できるというだけ。でも、どうしようもないことだった。だからわたしは霊夢を支えてきたし、魔理沙と天子は押しかけ師匠になってまで霊夢を鍛え、何かと力になってあげたんだと思う。あの二人、家族関係の複雑さで苦労した過去を持つから霊夢を他人のように思えなかったのね、きっと」
 わたしにとっての天子はただただ強いだけの恐ろしい存在だ。でも、霊夢にとっては頼りになる師匠で。きっと他にも色々な顔があるのだろう。
「辛いことが心を壊すの。知っているだけのわたしに介入することはできない。もしも踏み込もうというなら相応の覚悟が必要となる」
 復讐に取り憑かれた菫子の顔が闇の底から浮かんでくる。わたしは彼女を助けたいと願ったが、空もろくに飛べないのでは覚悟からは程遠い。そのことを改めて突きつけられた気分だった。
「でも、今回はどうも話が別みたいでね。わたしも知っているだけでなく、知識をもってもう一歩を踏み出さなければならない。とはいえ、わたしに何ができるかは分からないのだけど」
「なら、霊夢の実家を教えてください」
 不躾な発言であることは重々承知だったが、決闘は明日に迫ってきている。強引にでも霊夢の問題を解決する必要があると考えたのだ。そして遠子は間を置かずに頷いてみせた。
「そう言ってくれるのを正直期待してた。わたしは弱い人間で戦うことはできないけど、誰よりも確かな情報を持っている。その知識が閉塞した現状を変えるなら、大切な友人を救えるなら、他の誰かを傷つける情報であっても与えるつもりよ。まあ、霊夢の家の住所なんて少し調べればすぐに分かることなんだけどね」
 遠子の言う通りだが、それでも自分の口から話すことには意味がある。そう信じたかった。
「ところで霊夢は姉の死を知ってるんですか?」
「それがよく分からないのよね。全く知らない様子なんだけど、噂くらい耳にするでしょうし、無知でいることは不可能なはず。もしかすると姉の死に関することを都合よく忘れたり、聞かなかったことにできるのかもね」
「そんなこと、可能なんですか?」
「心的外傷による無意識な記憶の欠落、思考の拒否は太古の昔より様々な例があるわ。忘れることのできないわたしには無関係なんだけどね。親にとって苦痛であるのと同じくらい、子である霊夢にとっても苦痛なことなのかもしれない」
 姉の死が母親の抑圧の原因にあるとすれば、そこから逃れようとする過程で姉のことを頭から締め出そうとしたのかもしれない。そうだとしたら尚更、救いようのないことだ。
 少し迷っていたが、やはり霊夢の母親には強く出るべきだし、もしも犯人だったとしたらケータイを取り上げて破壊するしかない。
 霊夢の実家の住所を教えてもらうと、わたしは稗田の屋敷を後にする。それから里中をしばらく歩き、教えられた住所の場所まで辿り着く。
 ざっと外から見ただけでも、酷い有り様だということが分かった。窓はいくつも割られており、柵は倒れ、玄関のドアはボコボコに歪んでいる。近くを通った人に話を聞いてみても。
「いつの間にかこうなってたんだよ。不思議だねえ」
 などとはっきりしない答えが返ってくるだけである。実際に確かめるしかないと玄関のチャイムを何度か鳴らし、反応をうかがってみたが足音一つ聞こえない。
 お邪魔しますと声をかけてから中に入ると、玄関も廊下も酷く荒れており、獣の爪痕が至る所に残されている。まさか妖怪にでも襲われたのではと思い、急いで中を探して回るとダイニングで椅子に座ってぼんやりしている男性を見つけることができた。
「すみません! 外も中も酷い有り様だから気になって……その、勝手に入ったのですが、何があったのですか?」
 男はゆっくりと振り向き、目をパチパチとさせる。
「その格好、魔法使いだね。君も妻を探しにきたのかい?」
「君も、ということは他にも来たんですね?」
「ああ、尻尾がやけに沢山ある妖怪が現れてね。妻の所在を訊いてきたんだ」
 尻尾がやけにあるという表現ですぐにピンときた。八雲紫が使役している式神は確か多尾だったはずだ。わたしはかつて、紫が霊夢と言い争いをしていたのを目撃したが、見えないところで独自に動いていたというわけだ。
「どうして妻を探しているのかと訊いたら、神社に火をつけたとのことだったよ」
 紫が調べているのは昨夜の放火の件であるとしたら、そして式神をけしかけたならば、わたしの推測は正しかったと言うことだ。ちっとも嬉しくはなかったが。
「随分と脅されたがね、知らないものは知らないんだ。妻は数日前に家を出たからね。わたしはもう、一人でも生きていけるって、とても嬉しそうな顔で笑っていたよ。それを聞いてね、妻はずっと一人で生きていきたかったんだなって初めて気付いたよ」
 霊夢の父親は中途半端に壊れた機械のように、ぶつぶつと己の境遇を呟いている。訊かなくても話してくれるのはありがたいが、気の毒でもあった。霊夢を抑圧したのは許されないことだが、その報いにしては些か重た過ぎる。
「娘に続いて妻もいなくなったわけだ。何が悪かったのか、自分でもよく分からないね」
 理由はあまりにも明らかだ。娘を抑圧し、妻の心を慮らなかった。日和見ばかりしてきたのだろう。何もしないのは時として罪になるのだ。でも、それをここで口にするつもりはなかった。言ったところでこの人が自分を省みるはずもない。また、わたしに説教する資格もなかった。この世界に来るまでわたしはずっと波風を立てずに生きてきたのだから。元いた世界であまり好かれなかったのは暗い性格だったからというのもあるが、ずっと何もしてこなかったからに違いない。
 目の前の男は鏡のようであまり見ていたくない。だが最低限、訊かなければならないことがあった。
「あなたの奥さんは最近、ケータイをよくいじっていませんでしたか?」
 声をかけてもぼんやりしているだけで何も返ってこない。耳に届いていても頭に届いていないのかもしれない。再度、声をかけてみようと思ったら、ようやく返事があった。
「見ていたよ。かなり熱心に見てたね」
「では、こういう画面に心当たりは?」
 わたしはムーンカタストロフの起動画面を霊夢の父親に見せる。
 今度はもう少し早く反応が返ってきた。
「何度かあるよ。巷で流行りのマジックアプリのようだったからあまり気にしなかったけど」
 となるとやはり、神社に火を付けたのは霊夢の母親なのだ。娘に危険なことをやめさせようとしたのだろうか。だとしたら理解できないこともないが。
「これがあればもう何も怖くないと言っていたよ。我が物顔でこの世界をうろつく妖怪、空を飛ぶあらゆるもの、みんなこれで退治するんだって」
 続けて紡がれた言葉によって、おぞましくも打ち砕かれてしまった。彼女にとっては娘さえも退治すべき恐怖なのだ。いや、もっと酷いかもしれない。霊夢は神社に妖怪や妖精といった人ならざるものを平然と招き入れ、友好的な関係を築いている。姉を殺したのと同じ生き物を認める娘はより強い憎悪の対象となったかもしれない。
 それでも今までは爆発しなかった。力がなかったからだ。でも今は違う。ムーンカタストロフが何も知らない人間に強力な魔法を与えてくれる。最後の、そして致命的な一押しがなされたのだ。
 両親には霊夢を慰めることができない。それどころかより傷つけてしまうだろう。目の前が真っ暗になるほどの怒りが浮かび、諦観とともに消えていく。
 わたしは霊夢の実家を黙って後にする。ここには一秒でも長くいたくなかった。


 わたしは再び稗田の屋敷を訪れ、遠子に事情を話す。二千年を生きてきた乙女であってもなお、霊夢に降りかかったことは残酷であるらしく、両の手を常にきつく握りしめていた。
 そして、話を聞き終わると何かを決意したかのようにすっくと立ち上がる。
「わたしをこの屋敷から連れ出し、博麗神社まで運んでくれないかしら」
 遠子の体が弱いことは知っているし、勝手にそんなことをして良いのかと迷ったが、霊夢を元気付けるにはそれしかないと分かっていたし、いつになく真剣な眼差しに打たれ続ければ折れるしかなかった。
「背中にしっかりと捕まってください。里の中だと空飛ぶ人間は目立ちますから、一気に上空まで駆け抜けます」
 わたしは窓の縁に足をかけ、遠子の重量を背中に受け止める。予想していたよりずっと細い体に一瞬だけ躊躇したが、捕まる両腕は力強い。わたしは外に出ると一気に空を駆け上がり、手近な雲に身を隠すと東の方角を目指す。空を飛ぶ時の気圧差、温度差は慣れてないとかなりきついはずだが、腕の力強さは変わらなかった。
 ほっとしたのも束の間、わたしはあることに気付いて思わず飛ぶ足を止める。全速で飛んだのに、吐き気も恐怖もなかったのだ。
 無我夢中だったからだろうか。それともわたしは恐怖を克服したのだろうか。試しに少しだけ速く飛んでみたが、今度は悪心が全身を駆け巡る。やはり恐怖は消えておらず、わたしはまだ全速で飛べない。でも、きっかけは掴めた気がした。恐怖以外のものに集中し続ければ、わたしは今でも自在に空を飛べるのだ。
 わたしは霊夢のことを思い、再び速度を上げていく。悪心もまた襲ってきたが、耐えられないほどではない。
 空を飛ぶのではなく、遠子を博麗神社まで運ぶ。そう強く念じると、わたしは幻想郷の空を音のように風のように飛んでいく。青いと白い雲の中、わたしは当然と思っていたこの感覚を改めて体に刻み付けた。


 博麗神社に到着すると、遠子は相変わらずぼんやりしている霊夢の前に立つ。そして参拝時のように一拍、両手を合わせて大きな音を立てる。霊夢は慌てて気を取り直し、目の前の人物にぎょっとして背筋を正す。その反応からして、霊夢が遠子を放火犯として疑っているのは明白だった。
「どうしたの、仰々しく手を合わせて。参拝するなら場所が違う……」
「ごめん、霊夢! 昨夜の火事の件、わたしがやったの!」
 遠子は犯人でもないのに自白すると、驚く霊夢を前にして勢い良く偽りの罪を語り始めた。
「面白いアプリを入れたから、ちょっと悪戯しようと思ったの。霊夢と同じように空が飛べると知ったらきっと驚くだろうなって。神社まで来ると霊夢を誘い出すため、派手な音を立てるつもりだったのに、操作の失敗かアプリのバグか台所に火がついちゃって。霊夢にすぐ連絡するべきだったのに、怖くなって逃げ出したの。ごめんね、ちゃんと弁償するし、罪を償えっていうなら神妙にお縄につくから」
 遠子は両腕を拳の形で霊夢につきだす。神妙にお縄にかかりますというジェスチャーだ。
 相手の頭を飽和状態にして思考を鈍くするのは嘘をつく時の常套手段である。霊夢は面食らったのち、自分に当てはめるべき感情を探すためころころと表情を変え。
 最後ににへっとした、だらしない笑顔になった。
「なんだ、そんなことだったのね。だったらさ、遠子の言う通りで逃げる必要なんかなかったのに。そりゃ少しは大事だけど、神社が襲われるなんて最近はちょくちょくあったし。小火くらいほんと、なんてこともないのよ」
「そうね、すっかり忘れてた。わたしとしたことが、柄にもなく慌ててしまったみたい」
「うん、分かれば良いのよ。それにしてもそのことを伝えるためだけにここまで運んできてもらったの? 電話でもメールでもなんでも良かった気が」
「霊夢ったらどんなに連絡しても応答がなかったのに、調子が良いわね! まあ、わたしの言えた義理ではないけど」
「まあ、ちょっと色々あって、うん……そうだ!」
 霊夢は遠子にかける言葉を探していたようだが、唐突に大声をあげる。
「明日は天子さんとの決闘なのに、なにぼーっとしてたんだろ。まあ、今日は休むからぼんやりしてても良いのだけど、なんか体から力が抜けていったというかどうにも腑抜けたというか、喝を入れ直さなきゃいけない気がするのよね……」
 霊夢は勢いよくストレッチを始める。抑うつの症状が一気に抜けた反動だろうか。これはこれで危険なのだがと思いながら霊夢の様子を見ていると、霊夢がこっちに視線を向けてきた。
「何戦か付き合ってくれないかな。模擬戦で、体の感覚を調整したいの。忙しいなら別に断っても良いのだけど」
「いえ、わたしも少し調整したいなと思ってたところでして」
 トラウマを完全に消せないにしても、空を飛ぶ怖さを克服するためのこつをもう少し掴みたい。それが霊夢のためにもなるならば、尚のこと価値がある。
「それならわたしは台所の修理にどれくらいかかるか、現場を見て計算しておくことにするわ。せめてもの償いとして」
「だから償いとか考えなくても良いって。誰だって失敗の一つや二つあるでしょうし、わたしはこの通り、ぴんぴんしてるんだから。修理代だってきっと経費で落ちるに違いないわ」
 すっかり元の関係に戻ったように見えるが、事情を知っているわたしは、二人の関係が綱渡りであることを理解している。全てを元通りにするためにはムーンカタストロフを霊夢の母親から取り上げ、家族の問題を解決しなければならない。それだけでなく、二度とムーンカタストロフに頼れないようにするためにも、菫子の行い全てを止める必要がある。もちろん、彼女を救いたいという気持ちはずっと胸の中に燻り続けている。
 だからわたしはここでもう一度、ちゃんとした……いや、これまでよりずっと上手に空を飛ぶ方法を身につけるのだ。
 明日の決闘で全ての出来事に決着をつけるために。

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この小説へのコメント

  1. いろんな思惑が交錯してて、さらにいよいよ決闘。楽しくなってきました。

  2. 第10話にコメントしていた人と同じく「母親でしょ」と思っていたけれど、こうくるとは思いませんでした・・・
    この先どうなるのか??

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