東方二次小説

2XXX年の幻想少女第5章 人と妖の境界   人と妖の境界 第4話

所属カテゴリー: 2XXX年の幻想少女第5章 人と妖の境界

公開日:2019年09月19日 / 最終更新日:2019年09月19日

 幻想郷に住む者ならば、一際濃く墨のように黒い巨大な雲を空に見たことがあるはずである。ただし、この雲が雨を降らせたことは記録にある限り一度もない。雲の真下に来てみれば雨の匂いがどこからともなく漂い、雷鳴の轟きを予感させるゴロゴロという音がひっきりなりに響く。人によっては気圧の差で頭痛や体調不良を起こすこともあるだろう。にもかかわらず雨はいつまで経っても降らず、雷も落ちることはない。
 この不思議な雲は強い潮を帯びており、海に逸話を持つ妖怪たちが暮らす場所である。ゆえに雲海と呼ばれ、海のない幻想郷において海の妖怪を受け入れるためにどうしても必要となる気象構造体である。
 雲海の維持を行っているのは気象を自由に操作することのできる天人であり、ゆえに雲海住まいの妖怪たちは天人に決して頭が上がらない。逆らえば住処を奪われるのだから当然だが、生殺与奪の権を握られているというのはあまり良い気持ちではないだろう。天人の話を切り出しても快く話に応じてくれるとは思えないし、下手をすれば腹を立てていきなり攻撃を仕掛けてくるかもしれない。
 覚悟の上で雲海を訪れたのは、天子の付き人を長らく勤めてきた永江衣玖という名の妖怪に話を訊くためである。彼女なら天子が起こす突拍子のない行動に納得できる説明ができるのではないかという遠子の助言に従った形だ。
 雷轟く雲の中に飛び込むのは勇気のいることだったが、紫に啖呵をきってしまった以上、臆病な真似はできない。水中に飛び込む時のように鼻をつまみ、えいやとかけ声をあげながら雲中に身を埋める。
 雨は降っていないが湿気はとても高く、嗅ぎ慣れない臭いが鼻腔にまとわりついてくる。見通しは非常に悪く、稲光も視界を明るくはしてくれなかった。湿気のせいか肌がべたべたするし、口の中が塩っぽい。耳も綿を詰めたように聞こえにくいし、五感の全てが上手く働かない。
 こういう時は五感以外のもの、霊感や直感に従うべきである。周囲の気配に殊更注意しながら、わたしはこの濃い雲の中を泳ぐ何者かの存在を感じ取ろうとした。
 気配はすぐに見つかった。だが些か多過ぎるし、刺々しい敵意のようなものを感じる。攻撃は仕掛けてこないようだが、だからこそ不躾な敵意が逆に不気味だった。
 とはいえ遠慮はしていられない。姿なき敵からの攻撃に対応できるよう霊札を手に持ち、道なき道を進む。
「そこのあなた、止まりなさい」
 雲の中に入ってから初めての、敵意以外の反応だった。わたしは飛ぶ足を止め、声のした方向にじっと目を凝らす。その意志に反応したかのように視界が晴れ、全身にまとわりつくような重い湿気が一気に払われていく。そして晴れた視界の中、緋色のひらひらとした衣を身に帯びた少女が待ち構えていた。
 彼女は強い警戒心を隠すことなくあらわにしていた。敵意はないが、受け入れられたわけでもなさそうだ。
「天人ではないのに空を飛ぶほどの高い霊力、それに……ええ、見間違えるはずもない。あなたは空飛ぶ人間、博麗神社の巫女、名前は確か……」
「博麗霊夢、だけどあなたが考えている人間とは全くの別物よ」
「そうでしょうね、ただの人間が数百年も生きるはずがない。わたしの知る彼女ならいずれ天仙へと変じることも可能でしたが、人として死んだと聞いています。ゆえにあなたはうり二つの別人と考えるよりほかありません」
 わたしを見るなりかつての霊夢と混同して扱おうとしてきた数多の妖怪と違い、彼女は冷静にわたしをとらえている。いつもならば喜ばしいことだが、今だけは困る。冷静に受け止められるということは、かつての霊夢をさして気にとめていなかったということだ。特別扱いされないなら、情報を引き出すのに難儀するかもしれない。
「どのような事情があるにしろ、まずは敵意を向けた非礼をお詫びします。空を飛び、強い霊力を帯びたあなたを、魚たちは警戒すべき対象であると認識したようです」
「妖怪退治に来たと思われたのかしら?」
「天人の気配を帯びた天人らしからぬもの、と考えたようですね。わたしからすれば天人と人間は明確に異なるものですが、ここには道理を知らない者も多いのです」
 緋衣の少女はぺこりと頭を下げる。その仕草はどうにも妖怪らしくなく、わたしは彼女に信頼よりもむしろ警戒の気持ちを抱いてしまった。
「実際に危害を加えられたわけではないし、謝る必要なんてこれっぽっちもないわよ。わたしこそ他に行き場がない怪異の住む領域へ安易に足を踏み入れた不用意さを責められても仕方のないところよ」
 だからこちらも殊勝なところを見せ、何かの目的をちらつかせることで、相手の出方をうかがうことにした。
「仕方のないことを敢えてしたならば、何らかの切迫した理由があるということでしょうか?」
 そして彼女はわたしの意図を明確に読んでいる。わたしは取り繕うことなく、ただ重々しく頷いてみせた。
「それは地上で起きた地震と何か関係が?」
 少女は一足飛びに核心へ踏み込んできた。顔に浮かぶ憂慮から、地上で起きた地震を気にかけていることが分かる。
「そうよ。比那名居天子という天人をご存じかしら? 彼女のことを聞くため、長らく側仕えを勤めていた永江衣玖という名の妖怪を探しているの。あなたと同じような格好をしているはずなのだけど」
「同じようなも何も、わたしがその永江衣玖です」
 驚きに目を瞬かせたが、彼女は地上で起きた地震を気にかけていた。つまり地を震わせる力を持つ天子の知り合いである可能性が高いということだ。
「やはりあの地震は惣領娘様の仕業だったのですね。地上にしばしば顔を出す悪癖は直らずとも以前のような悪さはなく、天人としての勤めを立派に果たしていると安堵していたのですが……」
 今までのたおやかな態度が、天子の話をしている間は若干薄らぎ、苛立ちが顔を覗かせていた。
「あなたはかつて、天子さんの側仕えを長く勤めていたそうじゃない。話をうかがうことができればと思い、ここまで来たのだけど」
 永江衣玖は先刻の地震が惣領娘様=天子の仕業であることに困惑を覚えている。つまりは心当たりが何もないということだし、衣玖は目を僅かに伏せてわたしの推測を肯定する。
「わたしは別に惣領娘様の側仕えというわけではありません。龍言を伝え、地の震えを下々に告げるのが仕事ゆえ、かつて双方を示す異変を起こした彼女を御する役目を賜っただけのこと。わたしが側仕えのように見えたとしたら、それはあの御方が世を乱した数の多さに起因します」
 天子がかつてトラブルメイカーであったことは色々な妖怪から聞いているが、彼女ほどしみじみと迷惑そうに語ったものはこれまでにいなかった。側仕えではないと言っているが、天子との付き合いはきっと誰よりも長く、わたしが知らないことを色々と知っていそうだった。
「惣領娘様は気紛れの塊です。多少の付き合い程度でその全容を知ることは極めて難しい。動機を知りたければ結局のところ、本人に聞くのが最も手っ取り早い方法です」
「それができれば苦労しないわ。天子さんったら、まるで煙のように姿を消してしまったんだから」
 わたしは異変の宣言から始まった天子の行動をかいつまんで説明していく。最初は相槌を打つばかりだったが、博麗神社でのやりとりを聞いているうち、怪訝そうな表情を浮かべるようになった。
「何か引っかかるところがあったかしら?」
「引っかかりと言うべきかは分かりませんが、一つ確認しておきたいことがあります。惣領娘様は去り際に何かヒントのようなものを残していきませんでしたか?」
「いえ、何も。どろんと姿を消しただけよ」
「だとしたら妙ですね。惣領娘様は自己顕示欲の塊のような御方ですから、分かりやすいヒントを残していくはずなのです。暴かれない事件は存在しないも同じですから」
 なんとも屈折した考えだし、わたしには衣玖の話がどうにも納得できなかった。わたしの知る天子は天人らしい上から目線、偉ぶった振る舞いこそあったものの、自己顕示欲の塊と言い切れるような酷い性格ではなかったはずだ。
「納得できないという顔をしていますね」
「まあ、なんというかお世話になった人だから」
「天人は変わったりしません。天の上から下々を見下ろすのがその本性、人に教えを授けるのも同じことです」
 そう言い切ってから、衣玖は口元に手を当てる。本当に断言して良いのか迷っているようだった。
「ただ、惣領娘様だけは少し事情が異なるかもしれません」そして衣玖は長考の末に前言を撤回する。「あの御方は不良天人として名高く、あまりの奔放ぶりに天界すら持て余していました。下界を羨み、同じ地に立ちたいという願望をもらしたことさえあります。その時のわたしは天人の戯れと受け流しましたが、彼女は上から下を見る以外のものの見方を会得されていたのかもしれません」
 衣玖はそのことを若干疑っているようだったが、わたしは疑わなかった。確かにいちいち偉ぶって、助言や忠言を押し付けようとするけれど、わたしの悩みを己の境遇と重ね合わせて親身に受け止めてくれたし、かつて雷鼓たちが開催したコンサートで酩酊のような状態になったとき、膝を惜しみなく貸してくれた。
「博麗の巫女がそれを信じてくれるなら、わたしも先程の言葉を信じることができそうです。でも、それはかなりの問題かもしれませんね」
「えっ、どうして? わたしには悪いこととは思えなかったのだけど……」
「いえ、悪いことです。総領娘様が自己顕示欲を抑え、謀を確実に成すよう動いているのだとしたら厄介なことこの上ありません。天地を揺るがすほどの力の持ち主である彼女が負けるのはひとえにその強い自己顕示欲ゆえ、それがない惣領娘様は無敵というほかにないのですから」
 厄介と言いながら、衣玖は天子の在り方を喜んでいる節があった。天人の変化が嬉しいのか、それとも天子個人の変化が嬉しいのか。
「無敵なのだとしたら、わたしは天子さんが起こす異変を看過するしかない。それは困るのよ、わたしが解決できなければ天子さんは……」
 わたしは躊躇いののち、衣玖に紫との約束を口にする。異変解決の方法で彼女を止められなければ、彼女は幻想郷全ての敵となり、その果てに待つのは破滅しかない。それだけはなんとしても避けたかった。
「なるほど、惣領娘様は本当に変わられたのですね」
 わたしの話を聞き、衣玖は満足そうに頷く。彼女が嬉しいのは天人の変化でなく、天子個人の変化なのだ。
「先程、自己顕示欲以外で動く惣領娘様は無敵と言いましたが、無敵だと困るのは敵対する必要があるからです」
 衣玖の言いたいことが分からず、わたしは指でこめかみをぐりぐりと押す。幸いなことに彼女は普通の妖怪と違い、分からないことがあれば分かるまで噛み砕いて教えてくれるタイプだった。
「もし、今回の異変が誰かのために起こされたものならば。惣領娘様がかつて地上で活発に動き回っていた頃、特別に目をかけていた者がいます。可能性の一つではありますが、他にあてもないなら訪ねてみるのも良いかもしれません」
 地震を起こし、世を乱し、博麗神社を倒壊させることがどうして誰かを助けることになるのかは分からない。だが、わたしには他に縋るあてもない。天子がかつて特別に目をかけていた存在が答えに迫る情報を持っていることに賭けるしかなかった。
「もし、惣領娘様が助けたいと願うものを見つけられたならば。それが異変の元凶ならば。地を揺るがし、世を乱す以外の方法で問題を解決するのです」
 そして衣玖は更なる無理難題を押しつけてくる。天子ほどの強い人が一か八かの方法に打って出るような問題により良い答えを与えられるなんて毛ほども信じられない。それでもわたしは前に進むしかない。
「わたしにできるかどうかは分からない。でも、天子さんを助けたいと思っている。だから、教えて頂戴」
 決意を口にすると、衣玖はあっさりとその人物の名前を教えてくれた。
 依神紫苑。
 それがかつて天子の特別だった存在の名前であった。


 目的の人物の居場所を知るのは別に難しいことではなかった。彼女のことを遠子はよく知っていたからだ。
「依神紫苑は依神女苑の姉よ」
 依神という名前を聞いた時点でピンと来るものはあったが、やはり関係があったのだ。
「つまり、女苑と一緒に住んでいるの?」
「いえ、彼女はどの人里からも離れた場所にある粗末な小屋に一人で住んでいるわ。雨漏りのしそうなその家で年がら年中、貧困に喘ぎながらも生き続けているの」
 わたしはついつい、眉をひそめていた。両親の件もあって、家族周りの事情に忌避感を覚えていたのだろう。聞くのも嫌だったが、耳を傾けないわけにはいかなかった。
 そんなわたしを見て、遠子は宥めるように声をかける。
「やむをやまれぬ事情があるの。というのも依神紫苑は貧乏神でね。自分も含めて周りがどんどん不幸になる。妹の女苑も疫病神で、関わった人間のお金をどんどん使わせていくのだけど、不幸だけをもたらすわけではない。金の流れを早くするという点から見れば、景気を良くする神とも言えないわけではない。対して紫苑は誰をも不幸にしかしない。幻想郷はただでさえリソースの限られた世界なのに、全てを不幸にする彼女は郷に破滅的な欠乏を招く可能性がある。だからその行いを監視し、滅多なことを起こさないように拝み奉る必要がある。粗末な小屋は郷に住むものたちが紫苑のために建てた神域なの」
 そんな神域があるなど聞いたことがない。巫女とはいえ幻想郷の全てを把握しているわけではないから、知らない神がいても不思議ではないが、貧乏神はメジャー中のメジャーと言える神である。しかも神域を作り、奉るならば巫女の扱う領分のはずだ。わたしが紫苑の存在を知らず、誰からも知らされなかったのは明らかにおかしい。どういうことかと目で訴えたが、遠子はわたしの疑惑を察してなお話を続ける。まずはきりの良いところまで話を聞けということなのだろう。
「天子はそんな紫苑とかつて唯一、対等な関係を築くことができたの。なにしろ無限とも言える運気を持っているのだから。無限のマイナスと無限のプラスはバランスよく釣り合い、性格的な相性も良かったから、二人は分かち難い相棒になるのだと誰もが思っていた」
「その言い方だと、そうはならなかったの?」
「ええ……天子はある日突然、紫苑のもとを離れたの。そして紫苑もそれを粛々と受け入れ、幻想郷中に脅しをかけて例の粗末な小屋を建てさせた。そして今や家畜でも食べないようなものを文句も言わず口にし、どんな貧乏人だって袖を通さないようなつぎだらけの服を着ている。過去にはそんな彼女を哀れに感じた者もいたけど、下手に関われば待っているのは破滅のみだから距離を置くしかない」
「天子さんはどうして、紫苑と距離を置いたのかしら」
「天子が紫苑と距離を置いた際、誰かが冗談めかして言ったことがあるの。天人も貧乏が怖いのか、と。天子は酷く後ろめたそうな顔を浮かべ、逃げるようにその場を慌てて離れたらしい。天子の運気も貧乏神がもたらす無限の不幸を埋めることはできなかったとまことしやかに囁かれ、大して面白い話でもないからすぐに消えていった」
 遠子の話が本当なら、面倒を見きれなくなった天子が紫苑を見捨てたことになる。どうしようもなく自分勝手で、尊敬するにはまるで値しない行動である。
「その時から紫苑はずっと孤独で、女苑がたまに訪問し、身の回りの世話をしているけれど、一時のことできちんと面倒を見るつもりはないみたい。誰だって貧乏にはなりたくないし、仕方のないことだとは思うけどね。あとは貧乏神の力のせいですぐに朽ち果ててしまう小屋の定期的な改築や修繕に訪れるものがいて……霊夢は伊吹萃香という鬼を知っているかしら?」
「知っているも何も、宴会と見ればいつも現れてただ酒をかっくらっていくのだから嫌でも覚えるわ」
 背は低いが大きな角を二本生やしているから、遠くにいてもよく目立つ。いつもけらけらと上機嫌そうだが、河童や天狗にはたまに横柄な物言いを聞かせることもある。知り合いの天狗曰く、鬼はかつて山の頂点に立ち、数多の妖怪を従えていたことがあるらしい。
 誰かになびくということがなく、宴会でもどっかりと腰掛けるばかりで、周りが勝手に世話を焼く。典型的な親分気質であり、誰かの面倒を見るところなどちょっと想像ができなかった。
「紫苑の小屋を萃香は定期的に訪れ、手入れをしている。でも、これはおかしなことよ。強さと正直さと誇り高さを重んじる鬼は、弱さと不実さと卑屈さを貫く貧乏神と絶望的に相性が悪いのよ。
 さて、わたしは先程、天子が紫苑を見捨てたと口にしたばかりだけど。紫苑を助けるよう、鬼に依頼した何者かがいることは明らかである。その何者かが天子であるとは、考えられないかしら?」
 天子が紫苑に救いの手を差し伸べていたならば。それはわたしの知る天子像にそぐうものがある。積極的に飛びつきたかったが、今は黙って遠子の仮説に耳を傾けることにする。何が正しいか未だはっきりしていないのだから。
「実を言うとわたしだけでなく十代目以降の稗田は皆、そうではないかと密かに疑っていたの」
「貧乏神が怖いから、他の人に役目を押し付けたということはないの?」
 そして可能性を押し殺し、敢えて天子を貶しめることを口にする。幸いなことに遠子はすぐ首を横に振った。
「鬼は軟弱者の責任転嫁に手を貸したりはしない。しかも七百年続く約束なのだから余程の覚悟をもって結ばれたに違いない」
「だとしたら、天子さんは紫苑を見捨てたのではないということ?」
「むしろその逆で、今も昔も彼女にできる精一杯を傾けていた可能性が高い。永江衣玖もそう考えたからこそ、依神紫苑の名を挙げたのかもしれない」
「ということは、彼女には最初から分かっていたの?」
「かもしれないし、霊夢の話を聞く中で推測が確信に変わったのかもしれない。その上で見込みありとして、霊夢に情報を与えた……あるいは押し付けたか」
「押し付けたって、どういうこと?」
「貧乏神を調べる役割だなんて、できれば避けたいに決まっている。かくいう歴代の稗田が疑惑に足を踏み入れなかったのも、貧乏神との関わりを持つことで家が没落するのを恐れたからよ。稗田はあらゆる知を継ぎ、後世に伝える役目を果たし続けなければならない。家の破滅はその全てが御破算になることを意味している。わたしだってできれば関わり合いたくない手合いなのだけど」
 遠子はそこでぴたりと口を噤む。いつものように記憶を過去から取り出そうとしているのかとも思ったが、その表情は感情の重さで彩られていた。
「保身による究明の先延ばし、そのつけが回ってきたのだとしたら。わたしは今度こそ正しくあらねばならない」
 言い切ってはみたものの顔は強張ったまま、体も微かに震えている。だがそれも無理はない。二千年近い積み重ねが自分の代で潰えてしまうかもしれないのだから。
「異変の動機が依神紫苑にあると仮定すれば……わたしはその可能性が高いとみているのだけど……そして萃香が天子に協力しているなら、紫の包囲網を抜け出した方法にも容易に説明がつくからよ」
 わたしは天子が消失したことも、紫が酷く悔しがっていたこともあまり重要視はしていなかった。何らかの不思議な力で脱出したとしか考えていなかったのだ。でも、遠子はそこに別の可能性を見出していた。
「八雲紫が万全の態勢をもって網を張ったならあっさりと抜けられるはずがない。でも、伊吹萃香は疎と密を操ることができる。どんな囲いも彼女には全く意味をなさず、網に囚われた天人を救出できたはず」
 なんとも反則的な能力である。およそあらゆる悪事に利用できると考えて良いだろう。遠子はわたしの心中に同意するよう、御し難いと言いたげな渋い顔を浮かべる。
「極まった鬼は全ての能力が反則としか言いようがない。大昔の人間は鬼が酔う特別な酒をどうにかして飲ませ、昏倒している隙を狙い、辛うじて打ち滅ぼしたと聞くわ。さしもの鬼も首を切り落とせば、簡単には復活できない」
「つまり時間をかければ復活できるわけか。前々から思ってたけど、妖怪って本当になんでもありなのね」
「人が首を落とされて死ぬのは、重要な器官が首から上に集中しているためよ。まあ、どのみち首を切り落とされたら大量出血で瞬く間にショック死でしょうけど」
「妖怪だって血を流すのだから、大量出血すれば人と同じように死ぬんじゃないの?」
「死ぬ場合もあり、死なない場合もある。人間の形を取っているときに傷つけば人と同じように苦しむこともあるし、その時々で反応が違うのよ。一つだけ言えることがあるとすれば、妖怪は肉体の損壊にとても強いということね。寿命も人とは比べ物にならない。ただし、必ずしも人間の上位互換というわけではない。生まれついてしまえばその性質を簡単には変えられないの。例えば虫の妖怪はそれ以外の何かになれないし、神と呼ばれる者たちも特性は変わらない。貧乏神として生まれてしまえばずっとそのままなの。不変というわけではないけれど、己の在り方を変えようとすれば死に等しいほどの苦痛を味わうことになるでしょう。何故ならばこうあれかしと生まれた存在にとって、別の存在に変わるのは一種の自殺に他ならないのだから」
 いつものように遠子の舌が滑らかに回り始め、するすると脱線していく。こういう時は無理に本題へ戻そうとせず、喋るに任せるのが結局のところ一番良い。そして今回の遠子は比較的早く話が脱線していることを察してくれた。
「少し話が逸れたけど、萃香の協力があればあの場で起きたことに説明がつくのは理解してもらえたかしら?」
「似たようなことができる奴は他にもいそうだけど」
 例えば先の異変で姿を現した摩多羅隠岐奈は背中に扉を作り、自由に行き来することができる。彼女の力なら紫の網から誰かを逃すことも容易にできそうだ。
 某Qの言葉ではないが、幻想郷において密室からの脱出方法なんていくらでも存在するのだ。
「萃香が噛んでいると考えたのには他にも理由がある」
 わたしがそう考えることなどお見通しだったのか、遠子はわたしに人差し指と中指を立ててみせる。二つ目の理由であることを強調したいのだろう。
「天子が姿を消す直前、突風のような強い風が吹いたということだけど、これはあまりに都合の良い現象よ。誰かが作為的に起こしたと考えられる。ここで一つ考えて欲しいのだけど、風を操るといって真っ先に思いつくのは誰かしら?」
 わたしの頭に浮かんだのはよく神社に顔を出し、世間話と称した取材を仕掛けてくる鴉天狗だった。
「まさか、文が今回の件に絡んでいるの?」
「射命丸文かどうかは分からない。風を操る力を持つのは彼女だけじゃないし、天狗だけの技ではない。でも、鬼は天狗を戦力として容易に徴発できる。となれば天狗の協力者がいると考えるのはあながち穿った考えでもない」
 だとすれば非常に厄介なことである。天人だけでも手に負えないのに、鬼や天狗といった強力な妖怪とも対峙する必要があるかもしれない。ことはとっくに博麗の巫女が単独でどうにかできる規模を越えているのかもしれない。
「色々と推測を述べてはみたものの、わたしには今回の異変の動機に依神紫苑がいるという確たる保証を与えることはできない。ただ可能性が高いと主張するだけよ」
「それだけ分かれば十分よ。わたしはこれから依神紫苑が住む小屋に足を運んでみる。遠子に相談したけど、これはわたしだけの問題であり、稗田の家には決して迷惑をかけないと約束するわ」
 そう口にすることで、御阿礼の子の役目が損なわれるのではないかという不安を少しでも慰めるつもりだった。それなのに遠子と来たら、ほっとするどころか怒りを露わにし、わたしにくってかかってきた。
「わたしは貧乏なんて恐れない。たとえ掘っ建て小屋住まいになろうと、遍く知識を後世に伝える義務を放棄したりはしない。どんなに貧しようとわたしは安い女じゃない。もしも貧乏神が、どいつの差し金かと聞いてきたらわたしの名前を出せば良いの。分かったわね?」
 図星をあてられて腹を立てたのかとも思ったが、遠子はわたしの身を本気で案じている様子だった。どうやらこれから対峙する貧乏神は余程の奴らしい。わたしは信じていないけど、天子が見捨てたという噂が信じられるということは、それに見合うだけの力を持つ神なのだ。
 もしかするとわたしは依神紫苑の逆鱗に触れ、一切の富がこの手から零れ落ちるのかもしれない。
 それでも不思議と怖くないのは、天子を救うという目標に一歩近づいたのが分かったからだろうか。
 それとも。
 貧乏を覚悟してまでわたしを守ると言ってくれる友人がいると分かったからだろうか。
「分かったわ」
 わたしは二つの意味を込めて遠子に返すと、稗田の屋敷を後にする。目指すは全ての謎の答えとなるかもしれないであろう貧乏神の住む神域である。
 本当は今すぐにでも向かいたかったが、準備のための時間を置くことにした。鬼や天狗、貧乏神と戦う羽目になるなら全てを万端に整えなければならない。
 一日おいて土曜日、それが全ての明かされる日であることを祈るしかなかった。

感想をツイートする

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <s> <strike> <strong>

一覧へ戻る