目を覚ますと見知らぬ場所にいた。
とはいえどこだか分からないわけではない。薬の匂いが微かに漂う室内、清潔そのものといった壁や天井、病院というのはどの世界においてもあまり変わらないらしい。蛍光灯の明かりは眩しいくらいで目を細めなければならなかった。
わたしは背の硬いベッドに寝かされていた。意識を失う直前に何があったか思い出し、軽く体を動かしてみたが痛むところは特にない。頭がぼんやりしているのは寝起きであり、大量の魔力を短時間に展開、放出したせいだろう。
誰か、空を飛べる者かがわたしを助けてくれたのだろうか。真っ先に思い浮かんだのは師匠の顔だったが、言いつけに反して何も情報を共有してなかったのだから来てくれるはずもない。
次に思いついたのは霊夢の顔だった。彼女は天子の行方を追っていたし、地震の発生から里に慌てて急行し、落ちていくわたしをたまたま目撃したというのは考えられる。彼女の性格なら間違いなく人命救助を最優先するだろう。ここに霊夢がいないのはわたしを医者に託し、天子を追いかけて行ったと考えれば辻褄が合う。
だが、その仮定を受け入れることはできなかった。ここは何かがおかしい。普通の病院にあるべきものがない。再度、部屋の中をぐるりと見渡し、ぴったり一周したところでようやく違和感の原因に気付いた。
窓がないのだ。ここは病院ではなく、雰囲気の似ている別の施設であり、それでいて独特の匂いと清潔さが備わっていた。
わたしの中で嫌な想像が膨らんでいく。病院かつ地下にあり、寝台が必要な場所。それは霊安室だ。家族がやってくるまでの間、死者を安置するための場所である。
「わたしは墜落のショックで死んだの? いや、体はあるから一時的な仮死状態になったと言うべきでしょうか」
処置を施したが間に合わず、家族や知り合いを呼びに行くため霊安室に運んだとしたら辻褄は合う。そして今になり生き返ったのかもしれない。そうした事例はたまにあると聞いたことがあるし、幻想郷はわたしのいた世界より科学も文明も発達していない。早過ぎる死亡判定が行われる可能性はより高いだろう。長い間眠っていたように思えるが、だとすれば墜落からそんなに時間は経っていないのかもしれない。
スマホを取り出し、時間を確認する。二十時十八分。霧雨商会のビルで話を聞いていた時間、天子と戦っていた時間を足しても一時間足らずだから、するとわたしは七時間近くも治療を受けたのちここに運ばれたことになる。
人工呼吸器などで命を繋がれ続けたわたしがなんの後遺症もなく目覚めることができたというのは考えにくい。
つまりわたしは生きたまま、ここに運ばれたのだ。
疑問が頭を満たし、混乱してくる。一つだけ分かることがあるとすれば、ここから一刻も早く逃げ出したほうが良いと言うことだ。
もっと早くそう判断すべきだったのだろう。だが、退路は塞がれてしまった。この部屋に一つしかないドアから、人が入ってきたのだ。
わたしより一つか二つ、年が上と思しき少女だった。縁のくっきりした眼鏡をかけ、顔には軽薄そうな笑みが張り付いている。襟付きのシャツの上からチェック柄の入った紫色のベストを着ており、下は同色同デザインのスカートを身につけている。機能的な仕立てであり学生服のように見えるが、幻想郷に存在する学校のものではない。いずれ通うかもしれないと調べたことがあるから分かる。
「初めまして、ではないと思うのだけど」
彼女の言う通りだった。出で立ちこそ違えど、彼女は最初の地震が起きた時に姿を見せた「つきの様」と呼ばれていた少女に他ならない。
「あの時からわたし、こういう再会があると予測していたのよ。まさか空から落っこちてくるのを受け止める羽目になるとは思わなかったけど」
「すると、あなたがわたしを助けてくれたんですか?」
「その通り、だって再会したかったんだもの。なにしろ、わたしたちは異世界から呼び出された同士なのだから」
「じゃあ、あなたも……」
異世界から来たの? とは問わなかった。彼女は既に答えを口にしていたからだ。それなのに改めて質問だなんてきっと馬鹿にされるに違いない。
「いつ、ここに来たの?」
「五年ほど前ね」
わたしが幻想郷に来たのは二年半前、あの歯車少女がそれよりも三ヶ月ほど前に出現している。つまり彼女は最初の異変より二年以上も前にここへ来ていたことになる。
「元いた世界から突如としてここに連れて来られたのよ。いわゆる異世界転生ってやつね。物語としては楽しめるけど、実際に巻き込まれたら迷惑なことこの上ないわよね、全く」
迷惑という割には語り口が弾んでおり、こちらの世界にやって来られたことを歓迎している節がある。
「わたしは二〇二五年から来たんだけど、あなたは?」
そして唐突に数字を並べ、わたしに答えを求めてくる。これはタイムスリップものでよくあるやりとりだとすぐにピンと来たし、彼女が随分と古い時代から来たのだと驚いてしまった。
「わたしは六七五二年から来ました」
「ろ、ろくせんななひゃく! なによそれ、未来も未来、大未来じゃない!」
「まあ、そうですね。四千七百年も後ですから。というか二〇二五年って、エジプト王朝が誕生した辺りじゃないですか? あなたはそこまで古く見えないんですが」
「最古の? エジプト王朝の誕生って紀元前三〇〇〇年頃だったような」
「えっと、すみません。紀元前ってなんですか?」
わたしと彼女は驚きのまま顔を見合わせる。どうやら時代の捉え方に決定的な差異があるらしい。
「あなた、もしかして西暦を知らない? キリストという聖職者の生誕を基に年を数える方式なんだけど」
「知ってはいますが、この世界に来てから初めて知った紀年法です」
この幻想郷が宇宙船として飛び立つ前にそのような年の数え方が採用されていたと、僅かに知っていた程度だ。その頃の資料は郷をいくら探しても見当たらなかった。稗田家の当主ならかつてのことが記録された資料を保持しているかもしれないが、古い魔法を知るあては他にもあり深掘りすることはなかった。
「ふーん……じゃあ、そっちの紀年法ってなんなのよ」
「輪歴ですね。人間に初めて、太陽を巡るリングからのメッセージが届いた年を元年として……」
「ちょ、ちょっと待って、待ちなさい。何よ、そのトンチキなSF設定みたいな話」
「いや、でもこれは事実ですし」
「ふーむ、となるとわたしとあなたの宇宙はかなりずれているのね」
「その発言もかなりSFじみていると思います」
並行宇宙はSFでもかなりお馴染みの設定である。彼女もそのことに気付いたのかようやく我に返り、再びわたしを揶揄うような笑みを浮かべる。だがもう、取り繕うのは無理だ。誰かを馬鹿にしたり嘲ったりすることがあまり得意ではないことが分かってしまったから。
「その全部分かってますよって顔、むかつくんだけどさ。あなた、この世界に来る前は優等生だったでしょう?」
そして勝手にキレ始めてしまった。外の世界にいた頃も似たようなことを言って怒りを表明してきた子がいたし、わたしは上から目線で人を見下していると思わせるような雰囲気、言動を纏っているということなのだろうか。霊夢や佳苗はそんなことおくびにも出したことないのだが。
「それなりに。ずば抜けてというほどではないですが」
更には睨みつけられ、溜息を吐かれた。
「なるほどね、あなたがどうしてこの世界に馴染み、あまつさえ魔法使いとして活躍できているのかがなんとなく分かった気がする。残念だけどわたしには無理だったから、別のやり方を取らせてもらったわ」
「それがマジックアプリと魔法教団ですか?」
「そうよ。わたしもね、あなたと同じ魔法使いなの。大気中に漂う魔素を操り、魔法陣や呪文などの術式をもってあらゆる力に変換することができた。とはいえ魔法を使えるのはわたしだけだったし、科学万能の時代だったから目立たないよう隅っこでこそこそやるしかなかったんだけど。わたしの魔法を理解してくれたのは教授だけだった」
「教授、というのはこちらには来なかったんですか?」
わたしが意志を得た電車とともに渡ってきたように。だが彼女は首を横に振るだけだった。
「そのことはとても残念。彼女は魔法こそ使えないけど、わたしだけが何故使えるのかという問いに答えられる大胆な仮説を持っていた。そして実際にわたしの能力の活かし方を解き明かしてくれた。マジックアプリのオリジナルを開発したのも教授なのよ。だから彼女がいたならば、わたしの目的もずっと早く叶えられたに違いない」
「目的というのは人間に神や妖怪と渡り合える力を与え、この世界における尊厳を取り戻させる、というやつですか?」
「あら、信じてくれてたんだ。弱きを救う新興宗教なんて古今東西、胡散臭いと相場がきまっているのに」
「自分でそれを言いますか?」
「だって事実だもの。でもね、そんなものに縋ろうとするのが幻想郷の人間なの。今はちょうど弾幕決闘が流行している時期で、しょっちゅう異変が起こっているし、世間を騒がす組織が大手を振っている。先の祭りとアイドルへの熱中によって一時的には収まったけど、次に何が起こるか内心冷や冷やしているというのが現状よ。そりゃ、藁にだって縋るでしょう?」
「あなたが広めようとしているのは危険な教えであり、却って人間を危険な目に陥れることになるのでは?」
「戦う術を持たず無抵抗でいれば、神や妖怪は人のためになるようなことをやってくれるとでも言うの?」
彼女の指摘にわたしは喉を詰まらせるしかなかった。元いた世界の人間は太陽を巡る輪に住まう者たちに従順だったが、見返りはなくひたすら搾取されただけだった。この世界に住む神や妖怪は人に技術を与えているが、その代わりに畏怖や恐怖を掠め取ろうとしている。やっていることはそこまで変わりなく、多少ましといった程度だ。
「人間は世界において重要なピースの一つである。それなのに唯々諾々と、奴隷のように消費されることをわたしは良しとしない。最低限の交渉テーブルにつけるよう、武力を持つべきよ。最初は銃器の量産も考えたのだけど、あいつがそれはダメと言うからマジックアプリを使うことにしたの。元いた世界ではわたししか使えなかったから上手くいくとは思ってなかったけど、驚くべきことにこの世界の人間は皆、魔法使いの素養を有していた。様々な力や法則が入り混じっているから、スイッチを切り替えるこつを自然と身につけているわけね」
「スイッチ、と言いますと?」
「教授の仮説なのだけど、特殊な脳の状態にある人間には複数の法則や原理を主観的に選択することができるそうなの。ただし、完全な無から生み出せるわけではない。例えば物理法則が広く定義し尽くされた世界では、幼い頃からの教育や情報の刷り込みによって物理法則が自ずと選択されるようになる。そして使われなくなった能力は退化してしまうの。少なくともわたしの世界ではそうだった。もしも多くの法則が許容されている平行世界があるとすれば、あなたのような魔法使いはありふれているだろうとかつて教授は言っていたけど、図らずも実証された形かしら」
「わたしの世界はある一点を除けば物理法則唯一の世界観でした。でも、わたしはこの世界で魔法使いになることができましたよ」
「それはあなたに素養があったのよ。こちらの世界に来て一気に花開いたというだけ。もしかするとあなたの認識しないところで怪現象が発生したりしたのかもしれない。身の回りで不思議なことが起こった経験とかない? 例えば騒霊現象とか、他の人に見えない友人を見たりとか」
生憎そんな経験はないが、この世界に喚ばれたということは素質があったのかもしれない。逆にそうでもなければ大勢の偉人や天才を差し置いてわたしが喚ばれることはなかったのだろう。根拠はないが、そんな気はする。
「それは一旦さておき、駒が揃えやすいのはありがたいことだし、最低必要と思っていただけの数は揃った。あとは実践の活躍を見せるだけ。幸いというわけではないけれど、今の幻想郷は地を揺らす不届きな天人が大暴れしている。絶好の機会であると言えなくもないわ」
「彼女は迂闊に手を出してどうにかなる相手では……」
「迂闊に手を出すわけではない、周到な準備の結実よ。手も足も出なかった相手を容易く制圧されるのが気に入らないのは分かるけど、余計な口出しをする必要はない」
「わたしはそんなつもりで言ったわけでは……」
「いえ、思ってる。自分では気付いていないかもしれないけど、あなたのような人間は無駄にプライドが高いと相場が決まっているの」
プライドが高い人間だと思ったことはない。でも、元いた世界で暮らしていた頃から特別な何かになりたいとは願っていた。だからこそあの子が再び起動し、リングに還ろうとしたとき、同じ場所に行こうとした。それをプライドが高いというなら甘んじて受けよう。
「なら、そう考えてくれれば良い」
でも、ろくな根拠もなく勝手な思い込みをされるのは腹に据えかねる。だから少し険を強めると、彼女の表情と態度に余裕が少し戻ってくる。
「言っておくけど止めようとしても無駄よ」
彼女はわたしの心を見通しているわけではなく、単に力尽くで止めようとしていると考えたらしい。わたしに向けケータイをかざし、画面に表示された魔法陣を見せつける。わたしの切り札、魔砲を発動させる陣形だった。
「わたしは誰よりもコモンマジックを知悉しているし、この世界の仕組みを取り込んで完成したムーン・カタストロフはわたしに無尽蔵の力を与えてくれる。あなたが得意とする魔砲も撃ち放題、より強い魔法も同様に使いこなすことができる。もはや何者もわたしを凌ぐことはできないし、その証左を示すことができる。ついてらっしゃい」
彼女は好き勝手を言うとケータイを下ろし、こちらの同意を求めることなく部屋の外に出る。わたしはゆっくりと地面に足を下ろし、足を踏ん張って骨や筋肉に異常がないことを確認すると、慌てて彼女の後を追いかける。窓が一つもなく、道幅が狭いから歩いているだけで息苦しさを感じてしまう。彼女は廊下のほぼ端から端まで歩き、ケータイを認証装置のようなものにかざし、ドアを開ける。今度は一体、何が待ち受けているのかと思いながら中に入り。
思わず声を失った。そこにいたのは八雲紫によく似た姿を持つ、わたしよりずっと大人びた少女であり、彼女には三脚で固定された何十台ものケータイのカメラが一斉に向けられていた。
「あら、菫子じゃない。それに後ろの子は霧雨魔理沙に弟子入りした物好きな少女ね。二人してどうしたの?」
紫似の何者かは優雅な笑みとともに話しかけてくる。
「霧雨美真と言います。ときに菫子というのは……」
「おっと、そう言えば名乗り忘れてた。わたしの名前は月野菫子、いまや史上最強の魔法使いよ」
菫子と名乗った少女は眼鏡をくいと持ち上げ、自信ありげに胸を張る。花の名前に子供の子というのは随分と古風な名前だ。少なくともわたしの元いた世界では既に廃れた名付け方だった。
「彼女はわたしの協力者なの。そして今はわたしがすっかり捉えてしまった」
「捉えたですって?」
大きい紫の存在は霊夢より聞き及んでおり、確か小さい紫と同種の力を持っているはずだ。境界を操り、あらゆる場所から現れ、そして消えていく。つまり彼女を捉えることなどどうやってもできるはずがない。
「わたしには彼女が自分の意志でこの場に立っているとしか見えません」
「いやー、それが菫子の言うことは正しいのよね。わたしはもう完全に詰んでしまっているの」
「それは……この部屋にあるケータイが結界のような役割を果たしていると?」
部屋の中に他の要因は見当たらなかったが、にわかには信じられなかった。こんなもので八雲紫の力を封じられるならば、数多の神や妖怪に一目置かれるようなことはなかったはずだ。
「そう、これは結界と言える代物よ」
わたしの質問に答えたのは紫ではなく菫子だった。
「我がマジックの粋を凝らした絶対観測装置、この中ではあらゆる量子的な振る舞いが許されない」
量子的振る舞いが不可能なため結界となっているなら、八雲紫は量子論に関わる力を有しているわけだ。わたしの元いた世界でも量子的な振る舞いについては盛んに研究されており、莫大な計算資源の獲得や二点間の瞬間移動が夢物語のように語られていた。ときには怪物として。神や妖怪が人の恐怖や畏怖によって形作られ、力を得るならば量子論の怪物が生まれ得ることもあるのかもしれない。
「理屈は分かりましたが、疑問は残ります。あなたはどうやって八雲紫の性質をつかむことができたんですか?」
この結界はまるで八雲紫を決め打ちしたかのような結界だが、菫子は幻想郷に来てたかだか五年の人間である。よほどの理由がなければ専用の結界など構築できない。
「知れたこと、わたしはこの女を元いた世界で見たことがあるからよ」
対する菫子の答えはシンプルであり。軽薄そうな表情が瞬く間に怒りへと変わっていく。
「八雲紫はわたしが元いた世界にも存在したのよ。そしてわたしと教授、二人だけの秘密だった魔法を肯定し、幻想郷という世界を教えてくれた。それだけではなく郷にアクセスする方法も教えてくれた。当時のわたしたちは嬉々として幻想郷を目指し、紫の指示した通りに動いた。でもそれはとんでもなく愚かなことだった。彼女の目的はある都市伝説を現実のものとすることだったのだから」
菫子はわたしに元いた世界で起きた事件の一部始終を話してくれた。オカルトボールを利用した結界破り、幻想郷住人とのコンタクト。魔術の更なる実証、自分以外との魔法使いと出会い、何者にも代え難い友誼を結んだこと。
「わたしはその友人を最も手酷く裏切ったのよ。オカルトボールは事件の最終局面において月の都の都市伝説を現実のものとした。幻想郷は生命のない土地に変わり果て、月から下りてきたものどもが悠々と占拠してしまった。なんとか食い止めようとしたけど、月の都の奴らは途轍もない強さで、わたしにはまるで歯が立たなかった。辛うじて得ることができた情報は、月の民が量子的存在であり、その特性によって時空間を自在に操るということ。教授が命がけで手に入れてくれた情報を、わたしはまるで活かすことができなかったんだけど」
菫子の話は突拍子がなく、そのオカルトボールとやらがどうして月の都を現実にできたのかが、わたしにはまるで分からなかった。だが、彼女の怒りがどこから来るのかは理解できた。月人が量子的存在であり、八雲紫が量子的振る舞いの許されない結界に幽閉されているならば。
「八雲紫は月の民の一人だということですか?」
「そうよ。わたしは八雲紫が上司らしき片羽の女性にかしずくのを確かに見た。そしてわたしを排除しようと執拗に襲いかかってきたの。この世界に喚ばれ、初めて見た顔が彼女だったとき、わたしはいよいよ死を覚悟した。
状況を把握して、彼女が元いた世界の紫と違うことは理解できた。でも、こいつは世界が変わろうとろくでもないやつに違いない。だから、その目論見を真っ向から砕いてやろうと決めたのよ」
大きな八雲紫が何の目的で動いているか、わたしは全くと言って良いほど知らない。魔理沙なら詳しく知っているかもしれないが、敢えて訊くまでのことではないと考え、頭の片隅に追いやっていた。
わたしは改めて紫に視線を向ける。虜囚の身でありながら、彼女は些かも心乱すことなく余裕そのものだった。
「わたしはね、これまでずっと異変を監視する側だった。だから一度くらい、起こす側に回ってみたかったの」
そしていけしゃあしゃあと言ってのけた。悪気なく、悪びれることなく。
「だからこいつを閉じ込めて、何もできなくした。もはや異世界からわたしやあなたのような存在が喚び出されることはなくなったのよ」
それはつまり、異界の客が幻想郷を騒がせることもなくなるということだ。それだけなら菫子の行いは正しいが、わたしにはとてもそうだとは思えなかった。菫子の怒りは続いており、衰えることがなかったからだ。それに紫への意趣返しだけが目的ならば、魔法教団やマジックアプリを広める必要はない。
「あとはわたしと教団、そしてムーンカタストロフが示せば良い。人間はあらゆる存在を凌ぐものであり、神や妖怪はこの世界に不要なんだってことを」
そして菫子は当然のことのように、人が神や妖怪に勝るべきであるという理屈を通そうとする。
「ちょっと待ってください、どうしてそういう結論になるのかがわたしにはさっぱり分かりません。理屈が通らないですよ!」
慌てて制止するも、菫子は怒りを収めることなく、己の理屈のみを並べ立てていく。
「この世界には二人の紫がいるの。一人は郷をかき乱し、もう一人は世界のバランス、人と人ならざるものの融和を望んでいる。そちらのほうも壊さなきゃいけないのよ」
菫子が言っているのは博麗神社に出没する、小さくて性格がきついほうの紫だ。顔や雰囲気は良く似ているが、それでも二人を同一と見なすことはできない。だが、菫子はそうは考えていないようだった。
「月の民の目論見はみな、潰さなければならない。そうでなければこの世界は、わたしが元いた世界のような終末を迎えるの。月の民の降臨は幻想郷だけでなく、わたしの住んでいた街も、外の世界も台無しにしてしまった。多くの人が必要もなく死に、枯れ果てていった」
憎悪に悲しみが入り交じり、瞳に浮かぶのは背筋をぞっとさせるような狂気だった。彼女は元いた世界で致命的な失敗をやらかし、心を喪い。
狂った理屈をこの世界に押しつけようとしている。
わたしの怖れを察したかのように、菫子は距離を詰め、顔を近付けてくる。
「あなたをここに連れてきたのはね、わたしを理解して欲しかったから。元いた世界のあなたは教授の他で唯一、わたしを理解してくれた。あなたもきっとそうなるわ」
そしてわたしの背にそっと腕を回してくる。細くて柔らかい体が押しつけられる。
菫子の世界において、わたしとどんな関係だったかが、まだ恋を知らないわたしにも伝わってくる。鼓動が、息が早くなって吐き気がするくらいだった。
異なる世界には、恋を知るわたしがいたのだ。ならば、その世界のわたしは、わたしと比べものにならないほどの強い魔砲が撃てただろう。なにしろ恋の符なのだから。
でもいま、菫子に抱きしめられていても、わたしの心は冷たいままだった。息や鼓動が早くなっても、恥じらいのような気持ちで体が熱くなっても。
それでもわたしはまだ恋を知らない。彼女の気持ちを受け入れることはできないし、ここから逃れなければならない。だからわたしは菫子が見せた隙を最大限に利用する。魔理沙に教わった護身術の通りに体を動かし、菫子を立ち並ぶケータイの群れに向けて投げ飛ばしたのだ。
騒がしい音が部屋中に響き渡った瞬間、わたしは広々とした空間に投げ出されていた。吐き気と目眩が急速に込みあげてきたが、なんとか堪えて立ち上がり、頭上を確認する。満天の星空は屋外に逃れたことを示していた。
「いやはや、大胆なことをするのねえ。流石は霧雨魔理沙の弟子といったところかしら」
背後から八雲紫の声がする。彼女ならわたしをあの場所から逃がしてくれると算段し、結界を強引に解いたのだが目論見通りに動いてくれたらしい。
「ここはどの辺りですか?」
周りに建物が見えないし、遠方にも灯りが見えないことからしてどの里からも離れた場所にいるらしい。
「わたしも慌てて逃げ出したから、具体的な場所までは指定しなかったの。星を見るからちょっと待って頂戴」
わたしはゆっくりと振り向き、紫の姿を確認して……思わず目をこする。まるで霧のように存在が薄く、ところどころぼやけていたからだ。
「ごめんなさいね、こんな姿で」
わたしの驚きを察したのか、紫は空に目を向けたままでぽつりと呟く。
「西の果て、無縁塚のすぐ近くね。一気に端から端まで飛んだってわけか。あるいは死に惹かれたのかも」
「死に惹かれるって、妖怪も死ぬんですか?」
「そりゃ死ぬわよ。博麗の巫女なんて、昔は妖怪を退治するのが当たり前だったし、それで結構恨まれてたものよ。わたしの場合はちょっと事情が違うんだけどね」
紫はぼやけた部分を手で払う。元の形は取り戻されたが存在は薄いままであり、取り繕いきれない笑みからかなり辛そうなことが伝わってくる。
「実を言うと結構やばかったのよね。あと一日脱出が遅れていれば、わたしの存在は今度こそ無に還っていたでしょう。感謝しているし、だからこそ逃がしてあげたのよ」
「それはどうも、ありがとうございます」
素直に頭を下げると、紫はひょいと肩を竦める。小さいほうの紫と違い、はぐらかし屋らしい。アイドル騒動の時に出会った摩多羅隠岐奈に性格が近いと感じた。
「これで貸し借りなしと言いたいところなんだけど、もう少し助けて欲しかったりするのよね。あの菫子はわたしを目の敵にしているから、追いかけてくるでしょうし。今のわたしには戦う力が全くないから。もちろん見返りとして今のわたしにできることならなんでも提供するわ」
「なんでも、ですか? 実を言うとわたし、あなたに訊きたいことが山のようにあるんです」
「ええ、じゃんじゃん訊いて頂戴。と、その前にケータイを見せてもらえないかしら?」
「それが持ってなくて。天子さんとの戦いで落としたか、それとも菫子さんに没収されたのか」
「なら良いわ。ムーンカタストロフが入っていると位置を把握されるし、盗聴されるから壊して置きたかったの」
物騒な反応だが、位置や会話を把握されるのは避けたいという気持ちは分かる。壊すつもりならその前にわたしの同意を求めて欲しかったけど。
「では早速質問ですが、紫さんは菫子さんの言う通り、月の民というやつなんですか?」
だとしたらわたしのいた世界では、リングの住人として地球の資源を搾取していた可能性もあるわけだが、紫は滅相もないと言わんばかりに首を横に振った。
「わたしは月人ではないし、むしろ月に叛逆する存在として長き歳月を生き続けてきたの。菫子の話が確かならば、あの世界ではわたしが月人に屈しており、その傀儡として動いていたわけだけど、言語道断甚だしい。もし可能ならあの世界の紫を一発ぶん殴ってやりたいくらい」
「そのことを菫子に話さなかったんですか?」
「話したけど、あの様子だと全く信じてもらえなかったみたいね。むしろ火に油を注いだ可能性すらある」
菫子の態度からしてその可能性は極めて高いだろう。もしかすると彼女の世界では紫が同じような話を吹聴して、菫子を騙したのかもしれない。
「できればあの子を妄執から救ってやりたいのだけど、ムーンカタストロフは比喩なく無限の魔力を与えるアプリであり、今のあの子は天子と同じくらいに御し難い存在になっているの。困ったものだわ」
「困ったものって、あなたは協力したんでしょう? それなのに何も知らないんですか?」
「わたしは幻想郷のネット回線を高速化する手伝いをしただけ。こちらとしてもある理由で実現しておきたい件だったから、旧知に手を回して導入を促したわけね」
「旧知……それは摩多羅隠岐奈さんのことですか?」
彼女がネット宣伝戦略を打ち出し、その一環として回線の高速化が実現されたわけだが、やはり裏では様々な思惑が走っていたというわけだ。
「ムーンカタストロフには菫子にしか知らないブラックボックスが存在するのでしょうね」
紫はわたしの問いに答えることなく話を続ける。つまりわたしの推測は正しいというわけだ。
「でも、どんなブラックボックスがあったとしても無限に魔力を取り出すなんて可能なんでしょうか?」
「いえ、無理でしょうね。ただ、推測できることはある。魔法が魔素の量と魔力流からエネルギーを取り出す体系だとして、コモンマジックは魔力流を情報流と置き換えることで誰にも扱うことのできる魔法を実現している。魔素はこの世界においても基本的に有限であることを鑑みれば、莫大な情報流が力の源であると考えられる。そして幻想郷には科学と文明の発達に応じたインフラが先行で整備されており、いつでも切り替えることができる。菫子の魔法はその先行インフラにただ乗りしている可能性が高い」
その辺りの理屈は例のアイドル騒ぎがあった際、説明を受けた記憶がある。だが、その説明だけでは腑に落ちない点があった。
「先行インフラにただ乗りできるなら、どうして回線の高速化を要求する必要があるんでしょうか?」
「本当の脅威を隠すため、正常な手続きの中で作成されたアプリであることを示そうとしたんでしょう。つまりは単なる目眩ましってことね」
「それなら、回線を使用不能にすれば良いのでは?」
「回線は速度ごとに用意されているわけではなく、ネットワークレイヤーの八番目から十番目を使用して切り分けているの。物理的な対策を取れば幻想郷全体のネットワークが使用不可になる」
つまりは一度ネットワークの仕組みを解析してしまえば先行インフラを自由に悪用でき、排除も極めて難しいというわけだ。
「そうすると、ムーンカタストロフは野放しにするしかないという結論に至ってしまうわけですが」
「それは困るし、上手く排除するしかないでしょう。そのためにはアプリを提供しているサーバを破壊するしかないけど、複数箇所に分散設置しているはず。全体像を把握しているとしたら菫子でしょうから、彼女からなんとか聞き出すしかない。そもそも彼女が生きていたらいくらでも類似のマジックアプリは製造できてしまうんだけど」
「最終的な解決としては、彼女を何もできないようにするしかないと言うことですか?」
「ええ、殺すしかないでしょうね」
わたしの配慮した物言いを紫はあざ笑うように、殺すとはっきり宣言する。
「彼女……月野菫子はいまや極めて妖怪じみている。そして幻想郷では、里の人間が妖怪になるのは大罪である。不文律ではあるけれど、人と妖の境界を犯す者にはその報いが与えられなければならない。かつて霊夢と呼ばれていた博麗の巫女がそうした考えを持ち、人妖と化した人間を退治した。だから、今回もそうなるでしょうね。妖怪退治は巫女の仕事だから」
「じゃあ、あなたは霊夢さんに、人間を殺せと命令するつもりなんですか?」
「必要とあれば。ムーンカタストロフを持つ彼女を始末するのは極めて難しいでしょうが、上手くすれば盤面の面倒な駒を一度に排除することも可能かも……」
それはどういうことかと訊ねる前に、紫は親指を耳に、小指を口元に当て、電話をかけるような仕草をする。それから何度か頷き、通話を終えると会話を再開する。
「知り合いからの連絡。霊夢と天子が三日後、異変の是非をかけて弾幕決闘を行うとのことよ」
どうやらわたしの知らないところで話が動いたらしい。わたしの脳裏に圧倒的な強さを誇り、こちらの攻撃を呆気なくあしらった天子の顔が浮かぶ。
「わたしはこの情報を菫子にもリークするつもりよ。彼女は目的を果たすため、必ずや姿を現すでしょう。決闘は三つ巴の戦いとなる可能性が高い」
紫は三日後の決闘を使い、先程の発言通りに不都合な駒を排除するつもりなのだろうか。
だとしたらわたしは紫に是非とも問わなければならないことがある。
「最後の質問です。あなたは先程、菫子さんを妄執から救いたいと言いました。人と妖の境界を犯した罪人として始末されなければならないとも。どちらがあなたの本音なのですか?」
「それは分からないわ」
「なんでも答えてくれるという約束なのでは?」
「だから分からないと答えたのよ。わたしの行動が原因なのだから、落とし前をつける必要があるとは感じている。幻想郷に適応して欲しいとも。どちらにしても勝手な発言なのだけど」
「そうですね、勝手ですよ。わたしだけじゃない、菫子さんも、ピー子さんも、宇佐見さんも、そして五十二人の子供たちを含む幽霊たちも、あなたがこの世界に呼びつけたんです。自分勝手な目的のために」
「なんとも手厳しい発言ね」
「さっき最後と言いましたが、あなたの目的も本当は散々問い質してやりたいところですよ」
「それならさっきも言った通り、わたしだって一度は異変を起こす側に回ってみたかった。それだけよ」
「つまり異変のための異変ということですか?」
「いえ、動機は一貫している。わたしは世界を加速させたかったのよ」
世界を加速させる。
なんともあやふやで、どうとでも解釈できる話である。彼女お得意のはぐらかしかもしれない。でも、彼女がそう口にした時の、遙か遠くを見つめるような表情が。わたしには切実で、切なく、とても真剣に見えた。
「でも、駄目ねえ。わたし、異変を起こしたり悪巧みをしたりという才能が全くないみたい」
「ええ……今更それを自分で言いますか?」
わたしの指摘に紫はただ面白そうに笑うだけで。それで何故かわたしの腹は綺麗にきまってしまった。
「三つ巴と言いましたが、わたしも三日後の決闘に立ち会わせてもらいますし、必要と感じたら参加することも吝かでありません」
正直言うと天子に敵う気はしないし、菫子もわたしよりよほど手練れの魔法使いだろう。ムーンカタストロフという強大なバックアップもある。霊夢の弾幕の腕前はいつも手合わせしているわたしが一番良く知っている。
真剣に戦えば誰にも敵うとは思えない。
それでもわたしはこの一件に十分過ぎるほど足を踏み入れてしまったし、月野菫子を個人として知ってしまった。わたしと同じくこの世界に喚び出され、悲惨な境遇ゆえに狂気をひた走るしかなかった彼女を、なんとか止めたい。かつて暴走するしかなかったわたしを霊夢が止めてくれたように。
わたしはこれから魔理沙の家を訪ねるつもりだった。黙って話を進めようとしたことを正直に打ち明け、この三日で身につけることのできる力を全てこの手にする。
わたしの決意に、紫は面白そうに笑うだけだった。
とはいえどこだか分からないわけではない。薬の匂いが微かに漂う室内、清潔そのものといった壁や天井、病院というのはどの世界においてもあまり変わらないらしい。蛍光灯の明かりは眩しいくらいで目を細めなければならなかった。
わたしは背の硬いベッドに寝かされていた。意識を失う直前に何があったか思い出し、軽く体を動かしてみたが痛むところは特にない。頭がぼんやりしているのは寝起きであり、大量の魔力を短時間に展開、放出したせいだろう。
誰か、空を飛べる者かがわたしを助けてくれたのだろうか。真っ先に思い浮かんだのは師匠の顔だったが、言いつけに反して何も情報を共有してなかったのだから来てくれるはずもない。
次に思いついたのは霊夢の顔だった。彼女は天子の行方を追っていたし、地震の発生から里に慌てて急行し、落ちていくわたしをたまたま目撃したというのは考えられる。彼女の性格なら間違いなく人命救助を最優先するだろう。ここに霊夢がいないのはわたしを医者に託し、天子を追いかけて行ったと考えれば辻褄が合う。
だが、その仮定を受け入れることはできなかった。ここは何かがおかしい。普通の病院にあるべきものがない。再度、部屋の中をぐるりと見渡し、ぴったり一周したところでようやく違和感の原因に気付いた。
窓がないのだ。ここは病院ではなく、雰囲気の似ている別の施設であり、それでいて独特の匂いと清潔さが備わっていた。
わたしの中で嫌な想像が膨らんでいく。病院かつ地下にあり、寝台が必要な場所。それは霊安室だ。家族がやってくるまでの間、死者を安置するための場所である。
「わたしは墜落のショックで死んだの? いや、体はあるから一時的な仮死状態になったと言うべきでしょうか」
処置を施したが間に合わず、家族や知り合いを呼びに行くため霊安室に運んだとしたら辻褄は合う。そして今になり生き返ったのかもしれない。そうした事例はたまにあると聞いたことがあるし、幻想郷はわたしのいた世界より科学も文明も発達していない。早過ぎる死亡判定が行われる可能性はより高いだろう。長い間眠っていたように思えるが、だとすれば墜落からそんなに時間は経っていないのかもしれない。
スマホを取り出し、時間を確認する。二十時十八分。霧雨商会のビルで話を聞いていた時間、天子と戦っていた時間を足しても一時間足らずだから、するとわたしは七時間近くも治療を受けたのちここに運ばれたことになる。
人工呼吸器などで命を繋がれ続けたわたしがなんの後遺症もなく目覚めることができたというのは考えにくい。
つまりわたしは生きたまま、ここに運ばれたのだ。
疑問が頭を満たし、混乱してくる。一つだけ分かることがあるとすれば、ここから一刻も早く逃げ出したほうが良いと言うことだ。
もっと早くそう判断すべきだったのだろう。だが、退路は塞がれてしまった。この部屋に一つしかないドアから、人が入ってきたのだ。
わたしより一つか二つ、年が上と思しき少女だった。縁のくっきりした眼鏡をかけ、顔には軽薄そうな笑みが張り付いている。襟付きのシャツの上からチェック柄の入った紫色のベストを着ており、下は同色同デザインのスカートを身につけている。機能的な仕立てであり学生服のように見えるが、幻想郷に存在する学校のものではない。いずれ通うかもしれないと調べたことがあるから分かる。
「初めまして、ではないと思うのだけど」
彼女の言う通りだった。出で立ちこそ違えど、彼女は最初の地震が起きた時に姿を見せた「つきの様」と呼ばれていた少女に他ならない。
「あの時からわたし、こういう再会があると予測していたのよ。まさか空から落っこちてくるのを受け止める羽目になるとは思わなかったけど」
「すると、あなたがわたしを助けてくれたんですか?」
「その通り、だって再会したかったんだもの。なにしろ、わたしたちは異世界から呼び出された同士なのだから」
「じゃあ、あなたも……」
異世界から来たの? とは問わなかった。彼女は既に答えを口にしていたからだ。それなのに改めて質問だなんてきっと馬鹿にされるに違いない。
「いつ、ここに来たの?」
「五年ほど前ね」
わたしが幻想郷に来たのは二年半前、あの歯車少女がそれよりも三ヶ月ほど前に出現している。つまり彼女は最初の異変より二年以上も前にここへ来ていたことになる。
「元いた世界から突如としてここに連れて来られたのよ。いわゆる異世界転生ってやつね。物語としては楽しめるけど、実際に巻き込まれたら迷惑なことこの上ないわよね、全く」
迷惑という割には語り口が弾んでおり、こちらの世界にやって来られたことを歓迎している節がある。
「わたしは二〇二五年から来たんだけど、あなたは?」
そして唐突に数字を並べ、わたしに答えを求めてくる。これはタイムスリップものでよくあるやりとりだとすぐにピンと来たし、彼女が随分と古い時代から来たのだと驚いてしまった。
「わたしは六七五二年から来ました」
「ろ、ろくせんななひゃく! なによそれ、未来も未来、大未来じゃない!」
「まあ、そうですね。四千七百年も後ですから。というか二〇二五年って、エジプト王朝が誕生した辺りじゃないですか? あなたはそこまで古く見えないんですが」
「最古の? エジプト王朝の誕生って紀元前三〇〇〇年頃だったような」
「えっと、すみません。紀元前ってなんですか?」
わたしと彼女は驚きのまま顔を見合わせる。どうやら時代の捉え方に決定的な差異があるらしい。
「あなた、もしかして西暦を知らない? キリストという聖職者の生誕を基に年を数える方式なんだけど」
「知ってはいますが、この世界に来てから初めて知った紀年法です」
この幻想郷が宇宙船として飛び立つ前にそのような年の数え方が採用されていたと、僅かに知っていた程度だ。その頃の資料は郷をいくら探しても見当たらなかった。稗田家の当主ならかつてのことが記録された資料を保持しているかもしれないが、古い魔法を知るあては他にもあり深掘りすることはなかった。
「ふーん……じゃあ、そっちの紀年法ってなんなのよ」
「輪歴ですね。人間に初めて、太陽を巡るリングからのメッセージが届いた年を元年として……」
「ちょ、ちょっと待って、待ちなさい。何よ、そのトンチキなSF設定みたいな話」
「いや、でもこれは事実ですし」
「ふーむ、となるとわたしとあなたの宇宙はかなりずれているのね」
「その発言もかなりSFじみていると思います」
並行宇宙はSFでもかなりお馴染みの設定である。彼女もそのことに気付いたのかようやく我に返り、再びわたしを揶揄うような笑みを浮かべる。だがもう、取り繕うのは無理だ。誰かを馬鹿にしたり嘲ったりすることがあまり得意ではないことが分かってしまったから。
「その全部分かってますよって顔、むかつくんだけどさ。あなた、この世界に来る前は優等生だったでしょう?」
そして勝手にキレ始めてしまった。外の世界にいた頃も似たようなことを言って怒りを表明してきた子がいたし、わたしは上から目線で人を見下していると思わせるような雰囲気、言動を纏っているということなのだろうか。霊夢や佳苗はそんなことおくびにも出したことないのだが。
「それなりに。ずば抜けてというほどではないですが」
更には睨みつけられ、溜息を吐かれた。
「なるほどね、あなたがどうしてこの世界に馴染み、あまつさえ魔法使いとして活躍できているのかがなんとなく分かった気がする。残念だけどわたしには無理だったから、別のやり方を取らせてもらったわ」
「それがマジックアプリと魔法教団ですか?」
「そうよ。わたしもね、あなたと同じ魔法使いなの。大気中に漂う魔素を操り、魔法陣や呪文などの術式をもってあらゆる力に変換することができた。とはいえ魔法を使えるのはわたしだけだったし、科学万能の時代だったから目立たないよう隅っこでこそこそやるしかなかったんだけど。わたしの魔法を理解してくれたのは教授だけだった」
「教授、というのはこちらには来なかったんですか?」
わたしが意志を得た電車とともに渡ってきたように。だが彼女は首を横に振るだけだった。
「そのことはとても残念。彼女は魔法こそ使えないけど、わたしだけが何故使えるのかという問いに答えられる大胆な仮説を持っていた。そして実際にわたしの能力の活かし方を解き明かしてくれた。マジックアプリのオリジナルを開発したのも教授なのよ。だから彼女がいたならば、わたしの目的もずっと早く叶えられたに違いない」
「目的というのは人間に神や妖怪と渡り合える力を与え、この世界における尊厳を取り戻させる、というやつですか?」
「あら、信じてくれてたんだ。弱きを救う新興宗教なんて古今東西、胡散臭いと相場がきまっているのに」
「自分でそれを言いますか?」
「だって事実だもの。でもね、そんなものに縋ろうとするのが幻想郷の人間なの。今はちょうど弾幕決闘が流行している時期で、しょっちゅう異変が起こっているし、世間を騒がす組織が大手を振っている。先の祭りとアイドルへの熱中によって一時的には収まったけど、次に何が起こるか内心冷や冷やしているというのが現状よ。そりゃ、藁にだって縋るでしょう?」
「あなたが広めようとしているのは危険な教えであり、却って人間を危険な目に陥れることになるのでは?」
「戦う術を持たず無抵抗でいれば、神や妖怪は人のためになるようなことをやってくれるとでも言うの?」
彼女の指摘にわたしは喉を詰まらせるしかなかった。元いた世界の人間は太陽を巡る輪に住まう者たちに従順だったが、見返りはなくひたすら搾取されただけだった。この世界に住む神や妖怪は人に技術を与えているが、その代わりに畏怖や恐怖を掠め取ろうとしている。やっていることはそこまで変わりなく、多少ましといった程度だ。
「人間は世界において重要なピースの一つである。それなのに唯々諾々と、奴隷のように消費されることをわたしは良しとしない。最低限の交渉テーブルにつけるよう、武力を持つべきよ。最初は銃器の量産も考えたのだけど、あいつがそれはダメと言うからマジックアプリを使うことにしたの。元いた世界ではわたししか使えなかったから上手くいくとは思ってなかったけど、驚くべきことにこの世界の人間は皆、魔法使いの素養を有していた。様々な力や法則が入り混じっているから、スイッチを切り替えるこつを自然と身につけているわけね」
「スイッチ、と言いますと?」
「教授の仮説なのだけど、特殊な脳の状態にある人間には複数の法則や原理を主観的に選択することができるそうなの。ただし、完全な無から生み出せるわけではない。例えば物理法則が広く定義し尽くされた世界では、幼い頃からの教育や情報の刷り込みによって物理法則が自ずと選択されるようになる。そして使われなくなった能力は退化してしまうの。少なくともわたしの世界ではそうだった。もしも多くの法則が許容されている平行世界があるとすれば、あなたのような魔法使いはありふれているだろうとかつて教授は言っていたけど、図らずも実証された形かしら」
「わたしの世界はある一点を除けば物理法則唯一の世界観でした。でも、わたしはこの世界で魔法使いになることができましたよ」
「それはあなたに素養があったのよ。こちらの世界に来て一気に花開いたというだけ。もしかするとあなたの認識しないところで怪現象が発生したりしたのかもしれない。身の回りで不思議なことが起こった経験とかない? 例えば騒霊現象とか、他の人に見えない友人を見たりとか」
生憎そんな経験はないが、この世界に喚ばれたということは素質があったのかもしれない。逆にそうでもなければ大勢の偉人や天才を差し置いてわたしが喚ばれることはなかったのだろう。根拠はないが、そんな気はする。
「それは一旦さておき、駒が揃えやすいのはありがたいことだし、最低必要と思っていただけの数は揃った。あとは実践の活躍を見せるだけ。幸いというわけではないけれど、今の幻想郷は地を揺らす不届きな天人が大暴れしている。絶好の機会であると言えなくもないわ」
「彼女は迂闊に手を出してどうにかなる相手では……」
「迂闊に手を出すわけではない、周到な準備の結実よ。手も足も出なかった相手を容易く制圧されるのが気に入らないのは分かるけど、余計な口出しをする必要はない」
「わたしはそんなつもりで言ったわけでは……」
「いえ、思ってる。自分では気付いていないかもしれないけど、あなたのような人間は無駄にプライドが高いと相場が決まっているの」
プライドが高い人間だと思ったことはない。でも、元いた世界で暮らしていた頃から特別な何かになりたいとは願っていた。だからこそあの子が再び起動し、リングに還ろうとしたとき、同じ場所に行こうとした。それをプライドが高いというなら甘んじて受けよう。
「なら、そう考えてくれれば良い」
でも、ろくな根拠もなく勝手な思い込みをされるのは腹に据えかねる。だから少し険を強めると、彼女の表情と態度に余裕が少し戻ってくる。
「言っておくけど止めようとしても無駄よ」
彼女はわたしの心を見通しているわけではなく、単に力尽くで止めようとしていると考えたらしい。わたしに向けケータイをかざし、画面に表示された魔法陣を見せつける。わたしの切り札、魔砲を発動させる陣形だった。
「わたしは誰よりもコモンマジックを知悉しているし、この世界の仕組みを取り込んで完成したムーン・カタストロフはわたしに無尽蔵の力を与えてくれる。あなたが得意とする魔砲も撃ち放題、より強い魔法も同様に使いこなすことができる。もはや何者もわたしを凌ぐことはできないし、その証左を示すことができる。ついてらっしゃい」
彼女は好き勝手を言うとケータイを下ろし、こちらの同意を求めることなく部屋の外に出る。わたしはゆっくりと地面に足を下ろし、足を踏ん張って骨や筋肉に異常がないことを確認すると、慌てて彼女の後を追いかける。窓が一つもなく、道幅が狭いから歩いているだけで息苦しさを感じてしまう。彼女は廊下のほぼ端から端まで歩き、ケータイを認証装置のようなものにかざし、ドアを開ける。今度は一体、何が待ち受けているのかと思いながら中に入り。
思わず声を失った。そこにいたのは八雲紫によく似た姿を持つ、わたしよりずっと大人びた少女であり、彼女には三脚で固定された何十台ものケータイのカメラが一斉に向けられていた。
「あら、菫子じゃない。それに後ろの子は霧雨魔理沙に弟子入りした物好きな少女ね。二人してどうしたの?」
紫似の何者かは優雅な笑みとともに話しかけてくる。
「霧雨美真と言います。ときに菫子というのは……」
「おっと、そう言えば名乗り忘れてた。わたしの名前は月野菫子、いまや史上最強の魔法使いよ」
菫子と名乗った少女は眼鏡をくいと持ち上げ、自信ありげに胸を張る。花の名前に子供の子というのは随分と古風な名前だ。少なくともわたしの元いた世界では既に廃れた名付け方だった。
「彼女はわたしの協力者なの。そして今はわたしがすっかり捉えてしまった」
「捉えたですって?」
大きい紫の存在は霊夢より聞き及んでおり、確か小さい紫と同種の力を持っているはずだ。境界を操り、あらゆる場所から現れ、そして消えていく。つまり彼女を捉えることなどどうやってもできるはずがない。
「わたしには彼女が自分の意志でこの場に立っているとしか見えません」
「いやー、それが菫子の言うことは正しいのよね。わたしはもう完全に詰んでしまっているの」
「それは……この部屋にあるケータイが結界のような役割を果たしていると?」
部屋の中に他の要因は見当たらなかったが、にわかには信じられなかった。こんなもので八雲紫の力を封じられるならば、数多の神や妖怪に一目置かれるようなことはなかったはずだ。
「そう、これは結界と言える代物よ」
わたしの質問に答えたのは紫ではなく菫子だった。
「我がマジックの粋を凝らした絶対観測装置、この中ではあらゆる量子的な振る舞いが許されない」
量子的振る舞いが不可能なため結界となっているなら、八雲紫は量子論に関わる力を有しているわけだ。わたしの元いた世界でも量子的な振る舞いについては盛んに研究されており、莫大な計算資源の獲得や二点間の瞬間移動が夢物語のように語られていた。ときには怪物として。神や妖怪が人の恐怖や畏怖によって形作られ、力を得るならば量子論の怪物が生まれ得ることもあるのかもしれない。
「理屈は分かりましたが、疑問は残ります。あなたはどうやって八雲紫の性質をつかむことができたんですか?」
この結界はまるで八雲紫を決め打ちしたかのような結界だが、菫子は幻想郷に来てたかだか五年の人間である。よほどの理由がなければ専用の結界など構築できない。
「知れたこと、わたしはこの女を元いた世界で見たことがあるからよ」
対する菫子の答えはシンプルであり。軽薄そうな表情が瞬く間に怒りへと変わっていく。
「八雲紫はわたしが元いた世界にも存在したのよ。そしてわたしと教授、二人だけの秘密だった魔法を肯定し、幻想郷という世界を教えてくれた。それだけではなく郷にアクセスする方法も教えてくれた。当時のわたしたちは嬉々として幻想郷を目指し、紫の指示した通りに動いた。でもそれはとんでもなく愚かなことだった。彼女の目的はある都市伝説を現実のものとすることだったのだから」
菫子はわたしに元いた世界で起きた事件の一部始終を話してくれた。オカルトボールを利用した結界破り、幻想郷住人とのコンタクト。魔術の更なる実証、自分以外との魔法使いと出会い、何者にも代え難い友誼を結んだこと。
「わたしはその友人を最も手酷く裏切ったのよ。オカルトボールは事件の最終局面において月の都の都市伝説を現実のものとした。幻想郷は生命のない土地に変わり果て、月から下りてきたものどもが悠々と占拠してしまった。なんとか食い止めようとしたけど、月の都の奴らは途轍もない強さで、わたしにはまるで歯が立たなかった。辛うじて得ることができた情報は、月の民が量子的存在であり、その特性によって時空間を自在に操るということ。教授が命がけで手に入れてくれた情報を、わたしはまるで活かすことができなかったんだけど」
菫子の話は突拍子がなく、そのオカルトボールとやらがどうして月の都を現実にできたのかが、わたしにはまるで分からなかった。だが、彼女の怒りがどこから来るのかは理解できた。月人が量子的存在であり、八雲紫が量子的振る舞いの許されない結界に幽閉されているならば。
「八雲紫は月の民の一人だということですか?」
「そうよ。わたしは八雲紫が上司らしき片羽の女性にかしずくのを確かに見た。そしてわたしを排除しようと執拗に襲いかかってきたの。この世界に喚ばれ、初めて見た顔が彼女だったとき、わたしはいよいよ死を覚悟した。
状況を把握して、彼女が元いた世界の紫と違うことは理解できた。でも、こいつは世界が変わろうとろくでもないやつに違いない。だから、その目論見を真っ向から砕いてやろうと決めたのよ」
大きな八雲紫が何の目的で動いているか、わたしは全くと言って良いほど知らない。魔理沙なら詳しく知っているかもしれないが、敢えて訊くまでのことではないと考え、頭の片隅に追いやっていた。
わたしは改めて紫に視線を向ける。虜囚の身でありながら、彼女は些かも心乱すことなく余裕そのものだった。
「わたしはね、これまでずっと異変を監視する側だった。だから一度くらい、起こす側に回ってみたかったの」
そしていけしゃあしゃあと言ってのけた。悪気なく、悪びれることなく。
「だからこいつを閉じ込めて、何もできなくした。もはや異世界からわたしやあなたのような存在が喚び出されることはなくなったのよ」
それはつまり、異界の客が幻想郷を騒がせることもなくなるということだ。それだけなら菫子の行いは正しいが、わたしにはとてもそうだとは思えなかった。菫子の怒りは続いており、衰えることがなかったからだ。それに紫への意趣返しだけが目的ならば、魔法教団やマジックアプリを広める必要はない。
「あとはわたしと教団、そしてムーンカタストロフが示せば良い。人間はあらゆる存在を凌ぐものであり、神や妖怪はこの世界に不要なんだってことを」
そして菫子は当然のことのように、人が神や妖怪に勝るべきであるという理屈を通そうとする。
「ちょっと待ってください、どうしてそういう結論になるのかがわたしにはさっぱり分かりません。理屈が通らないですよ!」
慌てて制止するも、菫子は怒りを収めることなく、己の理屈のみを並べ立てていく。
「この世界には二人の紫がいるの。一人は郷をかき乱し、もう一人は世界のバランス、人と人ならざるものの融和を望んでいる。そちらのほうも壊さなきゃいけないのよ」
菫子が言っているのは博麗神社に出没する、小さくて性格がきついほうの紫だ。顔や雰囲気は良く似ているが、それでも二人を同一と見なすことはできない。だが、菫子はそうは考えていないようだった。
「月の民の目論見はみな、潰さなければならない。そうでなければこの世界は、わたしが元いた世界のような終末を迎えるの。月の民の降臨は幻想郷だけでなく、わたしの住んでいた街も、外の世界も台無しにしてしまった。多くの人が必要もなく死に、枯れ果てていった」
憎悪に悲しみが入り交じり、瞳に浮かぶのは背筋をぞっとさせるような狂気だった。彼女は元いた世界で致命的な失敗をやらかし、心を喪い。
狂った理屈をこの世界に押しつけようとしている。
わたしの怖れを察したかのように、菫子は距離を詰め、顔を近付けてくる。
「あなたをここに連れてきたのはね、わたしを理解して欲しかったから。元いた世界のあなたは教授の他で唯一、わたしを理解してくれた。あなたもきっとそうなるわ」
そしてわたしの背にそっと腕を回してくる。細くて柔らかい体が押しつけられる。
菫子の世界において、わたしとどんな関係だったかが、まだ恋を知らないわたしにも伝わってくる。鼓動が、息が早くなって吐き気がするくらいだった。
異なる世界には、恋を知るわたしがいたのだ。ならば、その世界のわたしは、わたしと比べものにならないほどの強い魔砲が撃てただろう。なにしろ恋の符なのだから。
でもいま、菫子に抱きしめられていても、わたしの心は冷たいままだった。息や鼓動が早くなっても、恥じらいのような気持ちで体が熱くなっても。
それでもわたしはまだ恋を知らない。彼女の気持ちを受け入れることはできないし、ここから逃れなければならない。だからわたしは菫子が見せた隙を最大限に利用する。魔理沙に教わった護身術の通りに体を動かし、菫子を立ち並ぶケータイの群れに向けて投げ飛ばしたのだ。
騒がしい音が部屋中に響き渡った瞬間、わたしは広々とした空間に投げ出されていた。吐き気と目眩が急速に込みあげてきたが、なんとか堪えて立ち上がり、頭上を確認する。満天の星空は屋外に逃れたことを示していた。
「いやはや、大胆なことをするのねえ。流石は霧雨魔理沙の弟子といったところかしら」
背後から八雲紫の声がする。彼女ならわたしをあの場所から逃がしてくれると算段し、結界を強引に解いたのだが目論見通りに動いてくれたらしい。
「ここはどの辺りですか?」
周りに建物が見えないし、遠方にも灯りが見えないことからしてどの里からも離れた場所にいるらしい。
「わたしも慌てて逃げ出したから、具体的な場所までは指定しなかったの。星を見るからちょっと待って頂戴」
わたしはゆっくりと振り向き、紫の姿を確認して……思わず目をこする。まるで霧のように存在が薄く、ところどころぼやけていたからだ。
「ごめんなさいね、こんな姿で」
わたしの驚きを察したのか、紫は空に目を向けたままでぽつりと呟く。
「西の果て、無縁塚のすぐ近くね。一気に端から端まで飛んだってわけか。あるいは死に惹かれたのかも」
「死に惹かれるって、妖怪も死ぬんですか?」
「そりゃ死ぬわよ。博麗の巫女なんて、昔は妖怪を退治するのが当たり前だったし、それで結構恨まれてたものよ。わたしの場合はちょっと事情が違うんだけどね」
紫はぼやけた部分を手で払う。元の形は取り戻されたが存在は薄いままであり、取り繕いきれない笑みからかなり辛そうなことが伝わってくる。
「実を言うと結構やばかったのよね。あと一日脱出が遅れていれば、わたしの存在は今度こそ無に還っていたでしょう。感謝しているし、だからこそ逃がしてあげたのよ」
「それはどうも、ありがとうございます」
素直に頭を下げると、紫はひょいと肩を竦める。小さいほうの紫と違い、はぐらかし屋らしい。アイドル騒動の時に出会った摩多羅隠岐奈に性格が近いと感じた。
「これで貸し借りなしと言いたいところなんだけど、もう少し助けて欲しかったりするのよね。あの菫子はわたしを目の敵にしているから、追いかけてくるでしょうし。今のわたしには戦う力が全くないから。もちろん見返りとして今のわたしにできることならなんでも提供するわ」
「なんでも、ですか? 実を言うとわたし、あなたに訊きたいことが山のようにあるんです」
「ええ、じゃんじゃん訊いて頂戴。と、その前にケータイを見せてもらえないかしら?」
「それが持ってなくて。天子さんとの戦いで落としたか、それとも菫子さんに没収されたのか」
「なら良いわ。ムーンカタストロフが入っていると位置を把握されるし、盗聴されるから壊して置きたかったの」
物騒な反応だが、位置や会話を把握されるのは避けたいという気持ちは分かる。壊すつもりならその前にわたしの同意を求めて欲しかったけど。
「では早速質問ですが、紫さんは菫子さんの言う通り、月の民というやつなんですか?」
だとしたらわたしのいた世界では、リングの住人として地球の資源を搾取していた可能性もあるわけだが、紫は滅相もないと言わんばかりに首を横に振った。
「わたしは月人ではないし、むしろ月に叛逆する存在として長き歳月を生き続けてきたの。菫子の話が確かならば、あの世界ではわたしが月人に屈しており、その傀儡として動いていたわけだけど、言語道断甚だしい。もし可能ならあの世界の紫を一発ぶん殴ってやりたいくらい」
「そのことを菫子に話さなかったんですか?」
「話したけど、あの様子だと全く信じてもらえなかったみたいね。むしろ火に油を注いだ可能性すらある」
菫子の態度からしてその可能性は極めて高いだろう。もしかすると彼女の世界では紫が同じような話を吹聴して、菫子を騙したのかもしれない。
「できればあの子を妄執から救ってやりたいのだけど、ムーンカタストロフは比喩なく無限の魔力を与えるアプリであり、今のあの子は天子と同じくらいに御し難い存在になっているの。困ったものだわ」
「困ったものって、あなたは協力したんでしょう? それなのに何も知らないんですか?」
「わたしは幻想郷のネット回線を高速化する手伝いをしただけ。こちらとしてもある理由で実現しておきたい件だったから、旧知に手を回して導入を促したわけね」
「旧知……それは摩多羅隠岐奈さんのことですか?」
彼女がネット宣伝戦略を打ち出し、その一環として回線の高速化が実現されたわけだが、やはり裏では様々な思惑が走っていたというわけだ。
「ムーンカタストロフには菫子にしか知らないブラックボックスが存在するのでしょうね」
紫はわたしの問いに答えることなく話を続ける。つまりわたしの推測は正しいというわけだ。
「でも、どんなブラックボックスがあったとしても無限に魔力を取り出すなんて可能なんでしょうか?」
「いえ、無理でしょうね。ただ、推測できることはある。魔法が魔素の量と魔力流からエネルギーを取り出す体系だとして、コモンマジックは魔力流を情報流と置き換えることで誰にも扱うことのできる魔法を実現している。魔素はこの世界においても基本的に有限であることを鑑みれば、莫大な情報流が力の源であると考えられる。そして幻想郷には科学と文明の発達に応じたインフラが先行で整備されており、いつでも切り替えることができる。菫子の魔法はその先行インフラにただ乗りしている可能性が高い」
その辺りの理屈は例のアイドル騒ぎがあった際、説明を受けた記憶がある。だが、その説明だけでは腑に落ちない点があった。
「先行インフラにただ乗りできるなら、どうして回線の高速化を要求する必要があるんでしょうか?」
「本当の脅威を隠すため、正常な手続きの中で作成されたアプリであることを示そうとしたんでしょう。つまりは単なる目眩ましってことね」
「それなら、回線を使用不能にすれば良いのでは?」
「回線は速度ごとに用意されているわけではなく、ネットワークレイヤーの八番目から十番目を使用して切り分けているの。物理的な対策を取れば幻想郷全体のネットワークが使用不可になる」
つまりは一度ネットワークの仕組みを解析してしまえば先行インフラを自由に悪用でき、排除も極めて難しいというわけだ。
「そうすると、ムーンカタストロフは野放しにするしかないという結論に至ってしまうわけですが」
「それは困るし、上手く排除するしかないでしょう。そのためにはアプリを提供しているサーバを破壊するしかないけど、複数箇所に分散設置しているはず。全体像を把握しているとしたら菫子でしょうから、彼女からなんとか聞き出すしかない。そもそも彼女が生きていたらいくらでも類似のマジックアプリは製造できてしまうんだけど」
「最終的な解決としては、彼女を何もできないようにするしかないと言うことですか?」
「ええ、殺すしかないでしょうね」
わたしの配慮した物言いを紫はあざ笑うように、殺すとはっきり宣言する。
「彼女……月野菫子はいまや極めて妖怪じみている。そして幻想郷では、里の人間が妖怪になるのは大罪である。不文律ではあるけれど、人と妖の境界を犯す者にはその報いが与えられなければならない。かつて霊夢と呼ばれていた博麗の巫女がそうした考えを持ち、人妖と化した人間を退治した。だから、今回もそうなるでしょうね。妖怪退治は巫女の仕事だから」
「じゃあ、あなたは霊夢さんに、人間を殺せと命令するつもりなんですか?」
「必要とあれば。ムーンカタストロフを持つ彼女を始末するのは極めて難しいでしょうが、上手くすれば盤面の面倒な駒を一度に排除することも可能かも……」
それはどういうことかと訊ねる前に、紫は親指を耳に、小指を口元に当て、電話をかけるような仕草をする。それから何度か頷き、通話を終えると会話を再開する。
「知り合いからの連絡。霊夢と天子が三日後、異変の是非をかけて弾幕決闘を行うとのことよ」
どうやらわたしの知らないところで話が動いたらしい。わたしの脳裏に圧倒的な強さを誇り、こちらの攻撃を呆気なくあしらった天子の顔が浮かぶ。
「わたしはこの情報を菫子にもリークするつもりよ。彼女は目的を果たすため、必ずや姿を現すでしょう。決闘は三つ巴の戦いとなる可能性が高い」
紫は三日後の決闘を使い、先程の発言通りに不都合な駒を排除するつもりなのだろうか。
だとしたらわたしは紫に是非とも問わなければならないことがある。
「最後の質問です。あなたは先程、菫子さんを妄執から救いたいと言いました。人と妖の境界を犯した罪人として始末されなければならないとも。どちらがあなたの本音なのですか?」
「それは分からないわ」
「なんでも答えてくれるという約束なのでは?」
「だから分からないと答えたのよ。わたしの行動が原因なのだから、落とし前をつける必要があるとは感じている。幻想郷に適応して欲しいとも。どちらにしても勝手な発言なのだけど」
「そうですね、勝手ですよ。わたしだけじゃない、菫子さんも、ピー子さんも、宇佐見さんも、そして五十二人の子供たちを含む幽霊たちも、あなたがこの世界に呼びつけたんです。自分勝手な目的のために」
「なんとも手厳しい発言ね」
「さっき最後と言いましたが、あなたの目的も本当は散々問い質してやりたいところですよ」
「それならさっきも言った通り、わたしだって一度は異変を起こす側に回ってみたかった。それだけよ」
「つまり異変のための異変ということですか?」
「いえ、動機は一貫している。わたしは世界を加速させたかったのよ」
世界を加速させる。
なんともあやふやで、どうとでも解釈できる話である。彼女お得意のはぐらかしかもしれない。でも、彼女がそう口にした時の、遙か遠くを見つめるような表情が。わたしには切実で、切なく、とても真剣に見えた。
「でも、駄目ねえ。わたし、異変を起こしたり悪巧みをしたりという才能が全くないみたい」
「ええ……今更それを自分で言いますか?」
わたしの指摘に紫はただ面白そうに笑うだけで。それで何故かわたしの腹は綺麗にきまってしまった。
「三つ巴と言いましたが、わたしも三日後の決闘に立ち会わせてもらいますし、必要と感じたら参加することも吝かでありません」
正直言うと天子に敵う気はしないし、菫子もわたしよりよほど手練れの魔法使いだろう。ムーンカタストロフという強大なバックアップもある。霊夢の弾幕の腕前はいつも手合わせしているわたしが一番良く知っている。
真剣に戦えば誰にも敵うとは思えない。
それでもわたしはこの一件に十分過ぎるほど足を踏み入れてしまったし、月野菫子を個人として知ってしまった。わたしと同じくこの世界に喚び出され、悲惨な境遇ゆえに狂気をひた走るしかなかった彼女を、なんとか止めたい。かつて暴走するしかなかったわたしを霊夢が止めてくれたように。
わたしはこれから魔理沙の家を訪ねるつもりだった。黙って話を進めようとしたことを正直に打ち明け、この三日で身につけることのできる力を全てこの手にする。
わたしの決意に、紫は面白そうに笑うだけだった。
第5章 人と妖の境界 一覧
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