雨を降らせるほどではない雲が空を彩り、秋の日差しがさんさんと降り注いでいた。絶好の行楽日和であり、家で穏やかに過ごすのにも快適そのものである。猛夏の名残は既になく、豊かな恵みを約束するかのような好天である。うじうじしていたらそれこそお天道様に笑われようというものだ。
というのに朝から胸のうちが重たいばかりで、家事も修行も全く身が入らない。縁側に腰掛け、好天を恨めしく思いながら溜息を繰り返す始末だ。
今日ばかりではない。ここ数日……久々の実家帰りから戻ってきてこの方、ずっと気分が重いままだ。母がわたしの心情を理解するはずもなく、博麗の巫女という危険を伴う仕事から遠ざけようとするのは予想もついていたが、まさか五年近くやってきたことをあそこまで頭ごなしに否定され、くどくど説教されるとは思ってもみなかった。
母は昔からそうだ。わたしのみならず、家族の誰かが危険な行動を取ろうとしたらすぐに制止し、感情的に否定しようとする。悪い言葉が許されるならば、病的であると表すことに躊躇いを覚えない。母のせいでわたしは普通の子供のように外で遊ぶことすら満足にできなかった。
『母さんのこと、あまり責めないでやってくれ』
辟易するわたしを父はそう言って宥めようとしたけど、納得できるはずもない。他の家で許されていることを許してくれず、理屈もないのだから。そして父も母のヒステリィに似た発言の理由を教えてくれなかった。だから単なる病気で、わたしはその犠牲者だと考えることにした。
いつしかわたしは一刻も早く、家から逃れることを考えるようになっていた。だからある日、博麗神社の社務所から来たという人が訪ねてきて、わたしを巫女として抜擢したときどんなに嬉しかったことか。
母はわたしを躍起になって止めようとした。父も母の味方であり、その年で一人暮らしというのはあまりに時代遅れだし、遠くに行けば友達も悲しむだろうと狡い方法で引き止めようとしてきた。
確かに友達はいたけれど、家から逃げられることに比べたら天秤にかけるまでもなかった。
『このまま一緒に住んでたら、わたしはきっと母さんのことも父さんのことも嫌いになるわ!』
言葉も尽き、諦めと怒りの混じった恫喝によってようやく両親の説得は止んだ。否、理性が剥がれ落ちて感情が剥き出しになったのだ。聞くに耐えない罵詈雑言と嘆きがわたしを容赦なく打った。
あんなにも親に刃向かうなんて、なんて悪い子供に育ったんでしょう。わたしはあなたを大事に育ててきたのに。あなたの○○○○みたいな目に遭わないように、○○に○されないよう万難を排してきたというのに。全てが間違いだったと言うの?
そんなことを口にしていたような気がする。記憶にあまり残っていないのは興奮した母の口調が実に不明瞭で聞き取り辛かったからだ。父の目配せするような視線から、わたしは母の過保護さに理由があることを知った。
母は心配性なりに、わたしに優しかった。でもその日から恨み言しか口にしなくなった。いつかわたしが正しいと分かる日がする。せいぜい痛い目に遭ってそのことを思い知るが良いと毎日のように口にされた。父は母を宥めるばかりで、わたしの心配をしてくれなかった。
博麗神社に移り、前任者からの引き継ぎが完了して一人暮らしを始めてから、母は何も連絡を寄越さなかったが、父からはメールで便りが来たし、わたしの仕事ぶりを見に直接神社を訪ねてきたこともある。
メールをフィルタで弾いたことも、父を赤の他人と同様の参拝客としてしか扱わなかったことも、責められる筋合いはない。わたしは許されなくても良いから、母のことはいつか許してやって欲しいと言われたとき、死ねという言葉が口から出かけたとしても。
口に出さなかったことは賞賛されて然るべきだ。親は子供を愛するものだとよく言うけど、わたしの両親は愛で子供を傷つける怪物だ。それでも妖怪ではなく人間だから、博麗の巫女となっても退治することはできない。それはとても歯痒いことだと思っている。
「おや、いつになく冥い顔をしているわね」
聞き覚えのある声がわたしを呼び、見覚えのある顔がわたしを間近に覗き込んでいた。その明るく弾んだ声と自信満々の笑顔はどうしようもない過去に沈み込もうとしていたわたしの心を現実に引き戻す。
「天子さんじゃない、随分と久しぶりだけど」
彼女は比那名居天子、わたしに本格的な弾幕決闘と格闘術一般、そして剣のふるい方を教えてくれた師匠であり、わたしが困ったとき相談に乗ってくれた恩人でもある。
神社での仕事が軌道に乗ってからは訪ねてくることもめっきり少なくなり、前に会ったのは雷鼓が主催したコンサートの会場だった。もう二年半も前のことになる。
「最近はずっと忙しかったの?」
「天人はいつも悠々自適、やりたいことをやる。忙しい、なんてものを楽しむのは下界の人間だけよ」
好きで忙しくしている人間なんていないはずだが、天子はそう考えていないらしい。なんとも独善的な考え方だがいちいち憤慨していては人外との付き合いなんてできるはずもない。噂によると昔はもっと性格が酷く、傍若無人が服を着て歩いていると揶揄されたこともあったという。
「とはいえ、下界で色々と起きるから眺めているだけで少しばかり忙しなかったかな。やっぱり弾幕決闘が流行している時期って活気が違うわね」
「眺めていたって、じゃあ郷中がアリで溢れた時もずっと見てたの?」
「地に這う者同士、わちゃわちゃやっていてまるでお祭りみたいだなあと思っていたわ」
あまりにもあっさりと言ってのけるものだから、呆れて良いのか怒って良いのか分からなかった。どう言い返して良いかさえも分からずにいると、天子は「冗談よ、冗談。霊夢ったらいちいち真面目なんだから」と言いながら頭を撫でられてしまった。
「異変って博麗の巫女やそのフェイカーたちが解決するものだから。そのどちらにもなれなかったら傍観者として見守るよりほかはないのよね。不出来な弟子が心配だからといちいち口や手を出していたら、博麗の巫女に取り入って何を企んでるのかこの野郎と因縁をつけられかねないの。まあ前科数犯だし、自業自得なんだけど」
己の罪業をさらりと笑い倒してから、天子はわたしの隣にどっかりと座り込む。
「そんなに冥い顔をされたら声をかけざるを得ないわよ。悩めることがあるならば、この偉大なる天人様にどーんと相談して頂戴」
拳で胸をどんと叩き、本当の姉のように偉ぶる天子を見ていると、胸の奥にある凝りがすっと溶けていく。相談しなくてもいざとなれば支えてくれる人がいるというだけで、人は安堵を胸に灯すことができるのだ。
「両親と上手くいってなくて悩んでたの」
「あー、そういう問題かあ」
と思いきや天子の顔色が途端にぎこちなくなる。天子もまた家族関係に悩んだことがあり、上手く解決できなかったのだとその反応から察することができた。
「まあ……話すだけ話してみて。適切な助言や教訓を与えることがもしかしたらできないかもしれないけど、その時は勘弁してくれると助かるわ」
「聞いてくれるだけで十分よ」
どこから話したものか悩んだけど、過去のあれこれをいちいち語ればそれだけで気持ちが後ろ向きになりそうだったから、天子には要点だけを話すことにした。
「この前ね、久々に実家に帰ったの。博麗の巫女の任期がもうすぐ満了になるから、身の振り方を話し合いなさいと上司に言われちゃって」
霊夢はまあ色々と特別だけど、それでも特別扱いするのは極力避けたいというのが紫の主張であり、我が家の家庭環境を察してなおそう提案してきたのだ。
「博麗の巫女に任期満了なんてあるんだ。郷で一番力のある人間がなって、力不足を感じたら次を見つけて引退って流れだと思ってたわ。そもそも霊夢の次って簡単に用意できるものなの? 弾幕決闘が本格流行して異変もばんばん起こってさ、任期満了程度でやめられるものだとはとても思えないのだけど。それとも霊夢はもうやめたいの?」
矢継ぎ早に質問を突きつけられたら本来は戸惑うところだが、ずっと考え続けてきたことである。だから迷うことなく答えることができた。
「任期は五年だけど本人が申請し、上司が承認し、かつ保護者が許可すれば五年間延長できるの。三期以上の継続は人道的に認められないから、十年勤めたら引退する以外の選択肢はないのだけど」
「なるほど、今の幻想郷は博麗の巫女に人権が認められるのね」
「何よその言い方、それではかつての巫女に人権がなかったみたいじゃない」
「みたいじゃなくて実際になかったの。例えば大昔の、あなたと同じ名前の霊夢なんて異変と来たら本人の事情なんて待ったなしだったもの。今の霊夢も第三種緊急事態だっけ? 異変を解決するまで通常業務に戻れない決まりはあるけど、調査を円滑に進めるための超法規的な措置が許可されている。最低限の収入だって保証されているわよね?」
当時の巫女は公務員でもなかったし、守矢神社のように個人経営の祭祀者だったと聞いている。天子の言う通り、わたしよりずっと大変だったに違いない。色々と比べられて胸のもやもやを積み重ねてきた時期もあったが、そう考えると同情の余地も大いに湧いてくるというものだ。
「仕事に専念するための仕組みや福利厚生が整っているのは悪いことではない。職業選択の自由、大いに結構。人間の自由なんてわたしには興味がないけど、目の前にいる巫女の自由は気にならないわけでもない」
天子はそこまで口にし、わたしの目をひたと見据える。何らかの覚悟を求められているのだと感じた。
「それで、霊夢はどっちなの? 続けたいの? それともやめたいの?」
「続けたい」
迷うことはなかった。現状を放り出すわけにはいかないという使命感も幾許かは感じているが、それにも増して博麗の巫女という立場に魅力を感じている。弾幕決闘も好きだし、好敵手と呼べるような相手もいる。命の危険に晒されるかもしれないが、いま暫くは大空を駆るものでありたい。
「そこまで確固たる決意があるのに冥いならば、己ではどうにもならない箇所に原因があるってことか。そこで家族が絡んでくるというわけね」
「ええ……両親が許可を出してくれないの」
お前が巫女になってから郷は騒がしいばかり、つまりは全く向いてないってことだよ。先代の時も先々代の時も、わたしの記憶にある限りにおいて郷がこんなにも乱れたことはないというのに。
というのが母の言い分だった。父はもっと月並みで、わたしには普通の子供に戻って高校に入学して欲しいと考えている。そして硬軟の違いはあれど、二人ともわたしに許可を出すつもりなどさらさらないのだ。
「霊夢の親は子供の進路に口出しする権利がある、という考えなわけね」
いつも悠々と、天人として振る舞う天子がまるで人間のような嫌悪感を露わにしていた。
「そこまで考えてないと思う。わたしが危険なことをするのが嫌なだけ」
『妖怪退治屋なんてね、もう時代遅れなのよ。霊夢も近いうちに分かる日が来る』
母はわたしを否定できて嬉しいと言わんばかりに、実に厭らしい笑みを浮かべてみせた。わたしの頑張りなんて意味がないのだと知らしめようとしてくるのが耐えられなくて、もうこれ以上は話し合いなどできなくて。
わたしは逃げるように実家を飛び出し、博麗神社に戻ってきたのだ。
「子供が無謀なことをしているならば、親は止める必要がある。でも霊夢は己を知り、十分に注意を払った上で危険に飛び込んでいる。それでも霊夢を子供という理由だけで頑として止めようと言うならば、それはもはや親の行いではない。愚者が足を引っ張っていると言うだけのこと。決して許されることではない」
天子はまるで我が身のことのように、わたしの境遇を痛烈に批判してくれた。実を言えば間違っているのはわたしではないかと迷ってもいたのだが、それもいまや完全に払拭された。前を見ようと決心することができた。
だが、今回に限ればそれだけでは話は進まない。
「両親を説得する以外の方法はないの?」
「紫なら博麗に関する決まりを変更するよう動議をかけることができるし、絶対に必要な人材だからと無理に徴発することもできるみたい。でも例外が簡単に通るようならそもそも決まりを作る意味がなくなるとも言っていたわ」
「人間社会って本当に難儀ねえ。それを押しつけてくる八雲紫も八雲紫だけど。あいつは昔から、妖怪のくせにやけに人間臭いところがあるというか、ルールを作るのが好きな奴だったわよね」
「まあ、悪いことではないと思うけど。それに博麗の巫女が極力ルールに縛られないための最低限の決まりごとだってことは理解しているの」
規約を読め、ルールを知悉してこそ最大限に利用することができるとは紫の言であり、博麗神社の事務処理を一手に引き受けてくれる橙の言でもある。橙の使役者である藍とは数度だけ顔を合わせた限りだが、きっと同じことを口にするはずだ。八雲とはルールを重視するという種族の妖怪の姓とも言えるのだろう。
「面倒にも理由があるってことか。それもまた面倒だけどねえ……」
天子は渋い柿でも食ったかのような表情を浮かべたが、いきなり悪戯を思いついた子供のような無邪気さを露わにし、ずいと顔を近付けてきた。
「あのさ、第三種緊急事態ってあるじゃない。その際には博麗の巫女があらゆる決まりに優先できるのよね?」
天子の言わんとすることはすぐに理解できた。わたしもその可能性を考えなかったわけではないからだ。
「異変ってそう簡単に都合良く起きるわけじゃないのよ。だからこそ紫も両親を説得するように言ったわけで」
「それがあるのよ、これから起きるホットな異変が」
猛烈に嫌な予感がしたし、天子の口をすぐに止めるべきだと考えたが、猶予は与えられなかった。天子は素早く立ち上がると大袈裟に両腕を広げてみせた。
「今日ここに来た本当の目的なんだけど、霊夢に宣言することだったの。このわたし、比那名居天子が郷中を揺るがす異変を起こす。解決できるものならしてみなさいと」
「えっと、冗談よね? わたしを励ますつもりならばそれは逆効果としか……」
「本気の本気、大本気よ。でもね、霊夢が気に病む必要はない。わたしはわたしの目的のために異変を起こすから、霊夢は解決がてら自分のために利用すれば良い」
どうやら天子はわたしを助けるために言っているわけではないらしい。本気で何か事件を起こそうとしている。それならばわたしは巫女として異変を解決するため、元凶である目の前の天人、我が師匠を止めなければならない。
「事件を起こすと宣言した相手をやすやす見逃すとでも思うわけ?」
「霊夢こそろくに装備もない状態でわたしを止めることができると思ってるんだ。それはちょっと甘いんじゃないかな? 個人としてのわたしは霊夢に甘いけれど、天人としてのわたしはそうじゃないのよ」
天子への返答は言葉ではなく、いざという時のために隠し持っている針と札である。出し惜しみはなし、全弾命中させたのち捕縛するつもりだった。
だが、その目論見は上手くいかなかった。針は全て弾かれ、札は届く前に蒸発してしまったからだ。天子の体からいつの間にか赤いオーラのようなものが立ちこめており、対峙しているだけで気圧されそうだった。
「徒手でもこれくらいはできるのよ。さあ霊夢、これから始まるのは訓練でもリハーサルでもない、かつて郷中を震撼させたこのわたしが起こす最新の異変よ。その時が訪れるのを楽しみにしていて頂戴」
天子はそう言い残し、空を飛ぶでもなく悠々と徒歩で、鳥居を潜って神社を後にする。
残されたわたしは問題が解決するどころか新たな問題が発生したことで、頭を抱えるよりほかなかった。
《新たなアイドルグループをプロデュースするため、まずは期待の新人をスカウトしましょう》
そんな煽り文句とともにスカウト画面が表示され、一回スカウトするのボタンが中央付近に表示される。意を決して画面をタップするとまずはシルエットが表示され、スポットライトが舞台を駆け巡る演出が発生し、シルエットにライトが集中してアイドルが表示される。
スカウト結果、SR博麗霊夢。
目的のアイドルが無課金で引けるかどうかどうかひやひやしたが、取りあえずは目的を達成することができた。
達成はしたが、アニメ調で描かれた友人の姿にわたしは軽く目眩を覚えそうになった。
「これ、アイドルをやってた時に売り出されたグッズイラストの流用ですよね……」
博麗神社では半年ほど前にある理由からアイドルグループを結成する必要があり、周知のためほぼ版権フリーでグッズを作成、販売することを許可した。かくいうわたしもグループの一員としてグッズを作成されてしまい、歌って踊ってをやっていたこともあり、里に出ると一時期は歌のお姉さんと色々な人に指さされる始末だった。
郷のため友人のため一時の恥を我慢したのに、その恥が未だにネットの海をたゆたい、ゲームの一部として使用されている。最初にネットでアニメ調になったわたしがスカウトされているスクリーンショットを見た時には、この世から消える方法を真剣に考えたほどだ。
一晩経ったら少しだけ気力が回復したから、ケータイにアプリをダウンロードして真偽を確かめることにしたわけだが、結果はご覧の有様だった。
「わたしはあと三百年は生きないといけないから、いま消える訳にはいかないんですよ」
だからこのゲームを何とかしなければならない。可能なら頒布を差し止め、最低でもファンタのメンバーをこのゲームから削除してもらう。とはいえ版権フリー扱いのものを取り下げろと言っても聞いてくれるとは思えない。
「こんなことをやる時点でデベロッパーの良心に訴えるなんて無理筋でしょうし」
開発元を確認したところ、鬼神(おにがみ)カンパニーという聞いたことのないゲームメーカーだった。会社の公式サイトを調べてみたが当たり障りのない内容で、夢と希望に溢れた作品をお届けしたいというきらきらした目標が掲げられていた。
「何が夢と希望ですか!」
思わず声を張り上げ、手で口を塞ぐ。森の奥で一人暮らしをしていると、どうにも独り言が増えてしょうがない。向こう側の世界にいる頃からその傾向はあったが、最近は更に酷くなっており、気を付ける必要がある。
怒りを抑え、連絡先を調べてみると専用のお問い合わせフォームが存在し、会社情報には電話番号とメールアドレスも記載されてある。
我が家には電話回線もネット回線もないが、河童の開発した通信機器が設置されているためどちらも問題なく使用できる。アイドル騒動で河童たちの音頭を取った河城にとりという名の河童が、かつて独立祝いと称して我が家を訪ね、世話を焼いてくれたのだ。出世払いでも良いですかと言ったらその辺りは気にしなくて良いと言ってくれた。
『濃い魔力が常に漂う特殊環境化で暮らす人間というのは珍しいからね。極限の環境で正常に作動する機械を開発するための情報を得るのにうってつけと言える』
要するにモニターであり、相応の成果を得ているからお金は必要ないというわけだ。魔法で稼ぐのは存外に難しく、辻占いやマジックアイテムの卸がようやく軌道に乗り始めたばかりのわたしにとっては非常にありがたい話だった。
電話に手を合わせてなむなむと拝んでから掲載されている番号にかけると『この電話は大変込み合っておりますと』と繰り返すばかりで一向に繋がる様子がない。何度かけても結果は同じだった。
嫌な予感を覚えながらメールを送ってみたが、指定されたメールアドレスは存在しないという旨の自動返信メールが返ってきた。お問い合わせフォームは散々待たせた挙げ句、時間内に処理できませんでした、お手数ですが再送をお願いしますという画面が表示された。
ぺこりと頭を下げる角の生えた少女のデフォルメキャラは可愛らしいが、それとこれとは話が別だ。
そんなことではないかと思ったが、サイトに掲載されている連絡先はどれもろくに繋がらない。メールアドレス以外は連絡先として機能している体裁を見せているが、実際はどれだけ時間をかけても無駄なのだろう。薄々察してはいたが、思っていたよりもずっと不誠実な会社だ。
アプリのダウンロードページに記載されている電話番号はサイト掲載のものと同じ、メールアドレスは会社サイトと異なるものが乗っており、アドレスが存在しないと自動返信されてくることはなかったが、これまでの反応からして返事をくれるとは思えない。できることと言えば低評価を付けて嫌がらせをするくらいだが、最高評価が大多数を占めており、僅かな低評価は徹底的にアンチ扱いされてほぼ封殺されている状況だった。あからさまにサクラ臭いがネットの評価を見る限り非常に良くできたアプリのようで、回線の高速化に完全対応したリッチな作りとして辛口のゲーム評論家からも称賛されていた。
「付け入る隙くらいいくらでもあると思ったのに、意外と隙がない……」
結果が十分に伴った狡賢さであり、わたし一人の力ではどうしようもできない。魔理沙に相談すれば良い案を出してくれるかもしれないが、あの人はわたしがアイドルだったことを始終面白がっていた。ゲーム用アプリにわたしのイラストが使われていると知ったら、助けてくれるどころか妨害してくる可能性もある。
良い案がないか更にネットを探していると、アングラと称される掲示板サイトの片隅に使えそうな情報が掲載されているのを見つけることができた。
スカウトの排出率不正疑惑……つまり掲載されているようなピックアップが実は行われていないのではないかと仄めかす内容だった。
ネット回線の高速化に伴い、高解像度のイラストを売りにしたこの手のゲームが最近はぽつぽつ出始めているが、本体を無料で配信する代わりにガチャと呼称されるくじ引き要素によって収益を得る仕組みになっている。その根幹に問題があるとなればどれほど優れたゲームであっても継続は不可能である。
ただ、掲示板に立てられたスレッドの流れを見る限り、きちんと統計を取ったわけではなく個人の主観による憶測が大半を占めており、時折貼られているガチャの結果を見ても試行回数が少ないため参考にならない。
不正疑惑を確たるものにするためには、実際にゲーム内でのガチャを繰り返し統計を取る必要がある。だが、わたしの収入で千回、二千回と有料ガチャを引くことはできない。生活費が消えるなんて生やさしいものではなく、膨大な借金が嵩んでしまう。
そこまでするのは割に合わないし、結果として不正はなかったとなればいよいよ丸損である。
「せめて情報分野に詳しい知り合いがいれば……」
稗田の現当主は相談に乗ってくれるかもしれないし、河城にとりも話を聞いてくれるかもしれない。この二人のうちどちらに頼るべきなのか決めかねていると、ドアを二つこんこんとノックする音が聞こえてきた。
我が家をよく訪ねてくる者のうち、きちんとノックしてうかがいを立ててくるのは佳苗しかいない。今日は別段、会う約束もしてなかったし、東の里に顔を出したついでに寄ってくれたのかもしれない。気を取り直してドアを開けると、奇妙ないでたちの子供がぽつんと立っていた。歯車を意匠にした帽子を被り、全体的に無機質さを感じさせる服装を身にまとっており、表情も乏しく子供らしさが感じられなかった。
全く知らない相手ではない。紅魔館の地下に暮らしている魔法使いの話を聞いていると、時折本棚の陰からこっそり覗いているのを見かけることがある。あの子は誰なんですかと訊いたら、座敷わらしのようなものだから害はないと言われただけだった。
パチュリー・ノーレッジは病弱のためか、はたまたそういう教育方針なのか、魔法に関係ないことだとしばしば説明を端折ることがある。だから自分で調べるしかなく、パチュリー以外の住人に話を聞き、十六夜咲夜がメイド長として館に定着するまで美鈴の代わりに雇われ門番をやっていた妖怪の家まで足を運んだりして、ようやくどういう存在かを知ることができた。
「ピー子さんでしたっけ? 他に正式な名前があればそう呼ぶに吝かでないですが」
彼女は元々意志を持った器械だったが、幻想郷にやって来て早々に異変を起こし、その過程で付喪神となり、手足を持つ存在として顕現した。わたしの住んでいる世界とも別の平行世界からやって来た存在であり、実を言うと一度じっくりと話をしてみたかったのだが、わたしから近付くと素早く逃げていくので対話は半ば諦めていた。
そんな彼女が自分から訊ねてくるのは渡りに船だったが、戸惑いも感じた。どうして今日なのだろうか。単なる気紛れというわけではなさそうだが。
「機種番号、固有の認識コードは持っているけど人間には覚えにくいでしょう? ピー子で良いわ。そういうあなたは霧雨美真で良いの? 本当の名前ではないと伝え聞いているのだけど」
「古い名前はかつての世界に置き去りにしてきました。今のわたしに他の名前はありません」
ピー子が頷いたのは認識を同じにするという意味合いなのだろう。わたしたちはお互い、方向を失った鯨のようにこの世界へ打ち上げられたのち、自由に泳げる海があることを改めて教えられた同士なのだ。
「今日はどうしてここに?」
「雑談」
ピー子はその二語だけを口にし、じっと見上げてくる。彼女が情報器械をベースにした付喪神なら雑談などという不明確な目的で行動するはずもない。それに彼女は確か大気を著しく汚染しようとした罪で河童に目をつけられており、見つかればただでは済まされないと聞いている。ここには河城にとりが姿を現す可能性があるからピー子にとっては決して安泰の場所じゃない。
それらの危険を推してここまで来たならば大きな理由があるはずだ。それはわたしが彼女とどう話し、どう結論をつけるかで大きく変わってくる内容なのだ。ゆえに今は雑談としか定義できないということなのだろう。
気後れはしたが、何を話すかには興味があるし、それに彼女は情報器械の付喪神である。排出率不正疑惑が本当かどうか、課金をしなくても解析する方法があるのではないか。
好奇心と打算が入り交じり、わたしはピー子を我が家に招き入れたのだった。
というのに朝から胸のうちが重たいばかりで、家事も修行も全く身が入らない。縁側に腰掛け、好天を恨めしく思いながら溜息を繰り返す始末だ。
今日ばかりではない。ここ数日……久々の実家帰りから戻ってきてこの方、ずっと気分が重いままだ。母がわたしの心情を理解するはずもなく、博麗の巫女という危険を伴う仕事から遠ざけようとするのは予想もついていたが、まさか五年近くやってきたことをあそこまで頭ごなしに否定され、くどくど説教されるとは思ってもみなかった。
母は昔からそうだ。わたしのみならず、家族の誰かが危険な行動を取ろうとしたらすぐに制止し、感情的に否定しようとする。悪い言葉が許されるならば、病的であると表すことに躊躇いを覚えない。母のせいでわたしは普通の子供のように外で遊ぶことすら満足にできなかった。
『母さんのこと、あまり責めないでやってくれ』
辟易するわたしを父はそう言って宥めようとしたけど、納得できるはずもない。他の家で許されていることを許してくれず、理屈もないのだから。そして父も母のヒステリィに似た発言の理由を教えてくれなかった。だから単なる病気で、わたしはその犠牲者だと考えることにした。
いつしかわたしは一刻も早く、家から逃れることを考えるようになっていた。だからある日、博麗神社の社務所から来たという人が訪ねてきて、わたしを巫女として抜擢したときどんなに嬉しかったことか。
母はわたしを躍起になって止めようとした。父も母の味方であり、その年で一人暮らしというのはあまりに時代遅れだし、遠くに行けば友達も悲しむだろうと狡い方法で引き止めようとしてきた。
確かに友達はいたけれど、家から逃げられることに比べたら天秤にかけるまでもなかった。
『このまま一緒に住んでたら、わたしはきっと母さんのことも父さんのことも嫌いになるわ!』
言葉も尽き、諦めと怒りの混じった恫喝によってようやく両親の説得は止んだ。否、理性が剥がれ落ちて感情が剥き出しになったのだ。聞くに耐えない罵詈雑言と嘆きがわたしを容赦なく打った。
あんなにも親に刃向かうなんて、なんて悪い子供に育ったんでしょう。わたしはあなたを大事に育ててきたのに。あなたの○○○○みたいな目に遭わないように、○○に○されないよう万難を排してきたというのに。全てが間違いだったと言うの?
そんなことを口にしていたような気がする。記憶にあまり残っていないのは興奮した母の口調が実に不明瞭で聞き取り辛かったからだ。父の目配せするような視線から、わたしは母の過保護さに理由があることを知った。
母は心配性なりに、わたしに優しかった。でもその日から恨み言しか口にしなくなった。いつかわたしが正しいと分かる日がする。せいぜい痛い目に遭ってそのことを思い知るが良いと毎日のように口にされた。父は母を宥めるばかりで、わたしの心配をしてくれなかった。
博麗神社に移り、前任者からの引き継ぎが完了して一人暮らしを始めてから、母は何も連絡を寄越さなかったが、父からはメールで便りが来たし、わたしの仕事ぶりを見に直接神社を訪ねてきたこともある。
メールをフィルタで弾いたことも、父を赤の他人と同様の参拝客としてしか扱わなかったことも、責められる筋合いはない。わたしは許されなくても良いから、母のことはいつか許してやって欲しいと言われたとき、死ねという言葉が口から出かけたとしても。
口に出さなかったことは賞賛されて然るべきだ。親は子供を愛するものだとよく言うけど、わたしの両親は愛で子供を傷つける怪物だ。それでも妖怪ではなく人間だから、博麗の巫女となっても退治することはできない。それはとても歯痒いことだと思っている。
「おや、いつになく冥い顔をしているわね」
聞き覚えのある声がわたしを呼び、見覚えのある顔がわたしを間近に覗き込んでいた。その明るく弾んだ声と自信満々の笑顔はどうしようもない過去に沈み込もうとしていたわたしの心を現実に引き戻す。
「天子さんじゃない、随分と久しぶりだけど」
彼女は比那名居天子、わたしに本格的な弾幕決闘と格闘術一般、そして剣のふるい方を教えてくれた師匠であり、わたしが困ったとき相談に乗ってくれた恩人でもある。
神社での仕事が軌道に乗ってからは訪ねてくることもめっきり少なくなり、前に会ったのは雷鼓が主催したコンサートの会場だった。もう二年半も前のことになる。
「最近はずっと忙しかったの?」
「天人はいつも悠々自適、やりたいことをやる。忙しい、なんてものを楽しむのは下界の人間だけよ」
好きで忙しくしている人間なんていないはずだが、天子はそう考えていないらしい。なんとも独善的な考え方だがいちいち憤慨していては人外との付き合いなんてできるはずもない。噂によると昔はもっと性格が酷く、傍若無人が服を着て歩いていると揶揄されたこともあったという。
「とはいえ、下界で色々と起きるから眺めているだけで少しばかり忙しなかったかな。やっぱり弾幕決闘が流行している時期って活気が違うわね」
「眺めていたって、じゃあ郷中がアリで溢れた時もずっと見てたの?」
「地に這う者同士、わちゃわちゃやっていてまるでお祭りみたいだなあと思っていたわ」
あまりにもあっさりと言ってのけるものだから、呆れて良いのか怒って良いのか分からなかった。どう言い返して良いかさえも分からずにいると、天子は「冗談よ、冗談。霊夢ったらいちいち真面目なんだから」と言いながら頭を撫でられてしまった。
「異変って博麗の巫女やそのフェイカーたちが解決するものだから。そのどちらにもなれなかったら傍観者として見守るよりほかはないのよね。不出来な弟子が心配だからといちいち口や手を出していたら、博麗の巫女に取り入って何を企んでるのかこの野郎と因縁をつけられかねないの。まあ前科数犯だし、自業自得なんだけど」
己の罪業をさらりと笑い倒してから、天子はわたしの隣にどっかりと座り込む。
「そんなに冥い顔をされたら声をかけざるを得ないわよ。悩めることがあるならば、この偉大なる天人様にどーんと相談して頂戴」
拳で胸をどんと叩き、本当の姉のように偉ぶる天子を見ていると、胸の奥にある凝りがすっと溶けていく。相談しなくてもいざとなれば支えてくれる人がいるというだけで、人は安堵を胸に灯すことができるのだ。
「両親と上手くいってなくて悩んでたの」
「あー、そういう問題かあ」
と思いきや天子の顔色が途端にぎこちなくなる。天子もまた家族関係に悩んだことがあり、上手く解決できなかったのだとその反応から察することができた。
「まあ……話すだけ話してみて。適切な助言や教訓を与えることがもしかしたらできないかもしれないけど、その時は勘弁してくれると助かるわ」
「聞いてくれるだけで十分よ」
どこから話したものか悩んだけど、過去のあれこれをいちいち語ればそれだけで気持ちが後ろ向きになりそうだったから、天子には要点だけを話すことにした。
「この前ね、久々に実家に帰ったの。博麗の巫女の任期がもうすぐ満了になるから、身の振り方を話し合いなさいと上司に言われちゃって」
霊夢はまあ色々と特別だけど、それでも特別扱いするのは極力避けたいというのが紫の主張であり、我が家の家庭環境を察してなおそう提案してきたのだ。
「博麗の巫女に任期満了なんてあるんだ。郷で一番力のある人間がなって、力不足を感じたら次を見つけて引退って流れだと思ってたわ。そもそも霊夢の次って簡単に用意できるものなの? 弾幕決闘が本格流行して異変もばんばん起こってさ、任期満了程度でやめられるものだとはとても思えないのだけど。それとも霊夢はもうやめたいの?」
矢継ぎ早に質問を突きつけられたら本来は戸惑うところだが、ずっと考え続けてきたことである。だから迷うことなく答えることができた。
「任期は五年だけど本人が申請し、上司が承認し、かつ保護者が許可すれば五年間延長できるの。三期以上の継続は人道的に認められないから、十年勤めたら引退する以外の選択肢はないのだけど」
「なるほど、今の幻想郷は博麗の巫女に人権が認められるのね」
「何よその言い方、それではかつての巫女に人権がなかったみたいじゃない」
「みたいじゃなくて実際になかったの。例えば大昔の、あなたと同じ名前の霊夢なんて異変と来たら本人の事情なんて待ったなしだったもの。今の霊夢も第三種緊急事態だっけ? 異変を解決するまで通常業務に戻れない決まりはあるけど、調査を円滑に進めるための超法規的な措置が許可されている。最低限の収入だって保証されているわよね?」
当時の巫女は公務員でもなかったし、守矢神社のように個人経営の祭祀者だったと聞いている。天子の言う通り、わたしよりずっと大変だったに違いない。色々と比べられて胸のもやもやを積み重ねてきた時期もあったが、そう考えると同情の余地も大いに湧いてくるというものだ。
「仕事に専念するための仕組みや福利厚生が整っているのは悪いことではない。職業選択の自由、大いに結構。人間の自由なんてわたしには興味がないけど、目の前にいる巫女の自由は気にならないわけでもない」
天子はそこまで口にし、わたしの目をひたと見据える。何らかの覚悟を求められているのだと感じた。
「それで、霊夢はどっちなの? 続けたいの? それともやめたいの?」
「続けたい」
迷うことはなかった。現状を放り出すわけにはいかないという使命感も幾許かは感じているが、それにも増して博麗の巫女という立場に魅力を感じている。弾幕決闘も好きだし、好敵手と呼べるような相手もいる。命の危険に晒されるかもしれないが、いま暫くは大空を駆るものでありたい。
「そこまで確固たる決意があるのに冥いならば、己ではどうにもならない箇所に原因があるってことか。そこで家族が絡んでくるというわけね」
「ええ……両親が許可を出してくれないの」
お前が巫女になってから郷は騒がしいばかり、つまりは全く向いてないってことだよ。先代の時も先々代の時も、わたしの記憶にある限りにおいて郷がこんなにも乱れたことはないというのに。
というのが母の言い分だった。父はもっと月並みで、わたしには普通の子供に戻って高校に入学して欲しいと考えている。そして硬軟の違いはあれど、二人ともわたしに許可を出すつもりなどさらさらないのだ。
「霊夢の親は子供の進路に口出しする権利がある、という考えなわけね」
いつも悠々と、天人として振る舞う天子がまるで人間のような嫌悪感を露わにしていた。
「そこまで考えてないと思う。わたしが危険なことをするのが嫌なだけ」
『妖怪退治屋なんてね、もう時代遅れなのよ。霊夢も近いうちに分かる日が来る』
母はわたしを否定できて嬉しいと言わんばかりに、実に厭らしい笑みを浮かべてみせた。わたしの頑張りなんて意味がないのだと知らしめようとしてくるのが耐えられなくて、もうこれ以上は話し合いなどできなくて。
わたしは逃げるように実家を飛び出し、博麗神社に戻ってきたのだ。
「子供が無謀なことをしているならば、親は止める必要がある。でも霊夢は己を知り、十分に注意を払った上で危険に飛び込んでいる。それでも霊夢を子供という理由だけで頑として止めようと言うならば、それはもはや親の行いではない。愚者が足を引っ張っていると言うだけのこと。決して許されることではない」
天子はまるで我が身のことのように、わたしの境遇を痛烈に批判してくれた。実を言えば間違っているのはわたしではないかと迷ってもいたのだが、それもいまや完全に払拭された。前を見ようと決心することができた。
だが、今回に限ればそれだけでは話は進まない。
「両親を説得する以外の方法はないの?」
「紫なら博麗に関する決まりを変更するよう動議をかけることができるし、絶対に必要な人材だからと無理に徴発することもできるみたい。でも例外が簡単に通るようならそもそも決まりを作る意味がなくなるとも言っていたわ」
「人間社会って本当に難儀ねえ。それを押しつけてくる八雲紫も八雲紫だけど。あいつは昔から、妖怪のくせにやけに人間臭いところがあるというか、ルールを作るのが好きな奴だったわよね」
「まあ、悪いことではないと思うけど。それに博麗の巫女が極力ルールに縛られないための最低限の決まりごとだってことは理解しているの」
規約を読め、ルールを知悉してこそ最大限に利用することができるとは紫の言であり、博麗神社の事務処理を一手に引き受けてくれる橙の言でもある。橙の使役者である藍とは数度だけ顔を合わせた限りだが、きっと同じことを口にするはずだ。八雲とはルールを重視するという種族の妖怪の姓とも言えるのだろう。
「面倒にも理由があるってことか。それもまた面倒だけどねえ……」
天子は渋い柿でも食ったかのような表情を浮かべたが、いきなり悪戯を思いついた子供のような無邪気さを露わにし、ずいと顔を近付けてきた。
「あのさ、第三種緊急事態ってあるじゃない。その際には博麗の巫女があらゆる決まりに優先できるのよね?」
天子の言わんとすることはすぐに理解できた。わたしもその可能性を考えなかったわけではないからだ。
「異変ってそう簡単に都合良く起きるわけじゃないのよ。だからこそ紫も両親を説得するように言ったわけで」
「それがあるのよ、これから起きるホットな異変が」
猛烈に嫌な予感がしたし、天子の口をすぐに止めるべきだと考えたが、猶予は与えられなかった。天子は素早く立ち上がると大袈裟に両腕を広げてみせた。
「今日ここに来た本当の目的なんだけど、霊夢に宣言することだったの。このわたし、比那名居天子が郷中を揺るがす異変を起こす。解決できるものならしてみなさいと」
「えっと、冗談よね? わたしを励ますつもりならばそれは逆効果としか……」
「本気の本気、大本気よ。でもね、霊夢が気に病む必要はない。わたしはわたしの目的のために異変を起こすから、霊夢は解決がてら自分のために利用すれば良い」
どうやら天子はわたしを助けるために言っているわけではないらしい。本気で何か事件を起こそうとしている。それならばわたしは巫女として異変を解決するため、元凶である目の前の天人、我が師匠を止めなければならない。
「事件を起こすと宣言した相手をやすやす見逃すとでも思うわけ?」
「霊夢こそろくに装備もない状態でわたしを止めることができると思ってるんだ。それはちょっと甘いんじゃないかな? 個人としてのわたしは霊夢に甘いけれど、天人としてのわたしはそうじゃないのよ」
天子への返答は言葉ではなく、いざという時のために隠し持っている針と札である。出し惜しみはなし、全弾命中させたのち捕縛するつもりだった。
だが、その目論見は上手くいかなかった。針は全て弾かれ、札は届く前に蒸発してしまったからだ。天子の体からいつの間にか赤いオーラのようなものが立ちこめており、対峙しているだけで気圧されそうだった。
「徒手でもこれくらいはできるのよ。さあ霊夢、これから始まるのは訓練でもリハーサルでもない、かつて郷中を震撼させたこのわたしが起こす最新の異変よ。その時が訪れるのを楽しみにしていて頂戴」
天子はそう言い残し、空を飛ぶでもなく悠々と徒歩で、鳥居を潜って神社を後にする。
残されたわたしは問題が解決するどころか新たな問題が発生したことで、頭を抱えるよりほかなかった。
《新たなアイドルグループをプロデュースするため、まずは期待の新人をスカウトしましょう》
そんな煽り文句とともにスカウト画面が表示され、一回スカウトするのボタンが中央付近に表示される。意を決して画面をタップするとまずはシルエットが表示され、スポットライトが舞台を駆け巡る演出が発生し、シルエットにライトが集中してアイドルが表示される。
スカウト結果、SR博麗霊夢。
目的のアイドルが無課金で引けるかどうかどうかひやひやしたが、取りあえずは目的を達成することができた。
達成はしたが、アニメ調で描かれた友人の姿にわたしは軽く目眩を覚えそうになった。
「これ、アイドルをやってた時に売り出されたグッズイラストの流用ですよね……」
博麗神社では半年ほど前にある理由からアイドルグループを結成する必要があり、周知のためほぼ版権フリーでグッズを作成、販売することを許可した。かくいうわたしもグループの一員としてグッズを作成されてしまい、歌って踊ってをやっていたこともあり、里に出ると一時期は歌のお姉さんと色々な人に指さされる始末だった。
郷のため友人のため一時の恥を我慢したのに、その恥が未だにネットの海をたゆたい、ゲームの一部として使用されている。最初にネットでアニメ調になったわたしがスカウトされているスクリーンショットを見た時には、この世から消える方法を真剣に考えたほどだ。
一晩経ったら少しだけ気力が回復したから、ケータイにアプリをダウンロードして真偽を確かめることにしたわけだが、結果はご覧の有様だった。
「わたしはあと三百年は生きないといけないから、いま消える訳にはいかないんですよ」
だからこのゲームを何とかしなければならない。可能なら頒布を差し止め、最低でもファンタのメンバーをこのゲームから削除してもらう。とはいえ版権フリー扱いのものを取り下げろと言っても聞いてくれるとは思えない。
「こんなことをやる時点でデベロッパーの良心に訴えるなんて無理筋でしょうし」
開発元を確認したところ、鬼神(おにがみ)カンパニーという聞いたことのないゲームメーカーだった。会社の公式サイトを調べてみたが当たり障りのない内容で、夢と希望に溢れた作品をお届けしたいというきらきらした目標が掲げられていた。
「何が夢と希望ですか!」
思わず声を張り上げ、手で口を塞ぐ。森の奥で一人暮らしをしていると、どうにも独り言が増えてしょうがない。向こう側の世界にいる頃からその傾向はあったが、最近は更に酷くなっており、気を付ける必要がある。
怒りを抑え、連絡先を調べてみると専用のお問い合わせフォームが存在し、会社情報には電話番号とメールアドレスも記載されてある。
我が家には電話回線もネット回線もないが、河童の開発した通信機器が設置されているためどちらも問題なく使用できる。アイドル騒動で河童たちの音頭を取った河城にとりという名の河童が、かつて独立祝いと称して我が家を訪ね、世話を焼いてくれたのだ。出世払いでも良いですかと言ったらその辺りは気にしなくて良いと言ってくれた。
『濃い魔力が常に漂う特殊環境化で暮らす人間というのは珍しいからね。極限の環境で正常に作動する機械を開発するための情報を得るのにうってつけと言える』
要するにモニターであり、相応の成果を得ているからお金は必要ないというわけだ。魔法で稼ぐのは存外に難しく、辻占いやマジックアイテムの卸がようやく軌道に乗り始めたばかりのわたしにとっては非常にありがたい話だった。
電話に手を合わせてなむなむと拝んでから掲載されている番号にかけると『この電話は大変込み合っておりますと』と繰り返すばかりで一向に繋がる様子がない。何度かけても結果は同じだった。
嫌な予感を覚えながらメールを送ってみたが、指定されたメールアドレスは存在しないという旨の自動返信メールが返ってきた。お問い合わせフォームは散々待たせた挙げ句、時間内に処理できませんでした、お手数ですが再送をお願いしますという画面が表示された。
ぺこりと頭を下げる角の生えた少女のデフォルメキャラは可愛らしいが、それとこれとは話が別だ。
そんなことではないかと思ったが、サイトに掲載されている連絡先はどれもろくに繋がらない。メールアドレス以外は連絡先として機能している体裁を見せているが、実際はどれだけ時間をかけても無駄なのだろう。薄々察してはいたが、思っていたよりもずっと不誠実な会社だ。
アプリのダウンロードページに記載されている電話番号はサイト掲載のものと同じ、メールアドレスは会社サイトと異なるものが乗っており、アドレスが存在しないと自動返信されてくることはなかったが、これまでの反応からして返事をくれるとは思えない。できることと言えば低評価を付けて嫌がらせをするくらいだが、最高評価が大多数を占めており、僅かな低評価は徹底的にアンチ扱いされてほぼ封殺されている状況だった。あからさまにサクラ臭いがネットの評価を見る限り非常に良くできたアプリのようで、回線の高速化に完全対応したリッチな作りとして辛口のゲーム評論家からも称賛されていた。
「付け入る隙くらいいくらでもあると思ったのに、意外と隙がない……」
結果が十分に伴った狡賢さであり、わたし一人の力ではどうしようもできない。魔理沙に相談すれば良い案を出してくれるかもしれないが、あの人はわたしがアイドルだったことを始終面白がっていた。ゲーム用アプリにわたしのイラストが使われていると知ったら、助けてくれるどころか妨害してくる可能性もある。
良い案がないか更にネットを探していると、アングラと称される掲示板サイトの片隅に使えそうな情報が掲載されているのを見つけることができた。
スカウトの排出率不正疑惑……つまり掲載されているようなピックアップが実は行われていないのではないかと仄めかす内容だった。
ネット回線の高速化に伴い、高解像度のイラストを売りにしたこの手のゲームが最近はぽつぽつ出始めているが、本体を無料で配信する代わりにガチャと呼称されるくじ引き要素によって収益を得る仕組みになっている。その根幹に問題があるとなればどれほど優れたゲームであっても継続は不可能である。
ただ、掲示板に立てられたスレッドの流れを見る限り、きちんと統計を取ったわけではなく個人の主観による憶測が大半を占めており、時折貼られているガチャの結果を見ても試行回数が少ないため参考にならない。
不正疑惑を確たるものにするためには、実際にゲーム内でのガチャを繰り返し統計を取る必要がある。だが、わたしの収入で千回、二千回と有料ガチャを引くことはできない。生活費が消えるなんて生やさしいものではなく、膨大な借金が嵩んでしまう。
そこまでするのは割に合わないし、結果として不正はなかったとなればいよいよ丸損である。
「せめて情報分野に詳しい知り合いがいれば……」
稗田の現当主は相談に乗ってくれるかもしれないし、河城にとりも話を聞いてくれるかもしれない。この二人のうちどちらに頼るべきなのか決めかねていると、ドアを二つこんこんとノックする音が聞こえてきた。
我が家をよく訪ねてくる者のうち、きちんとノックしてうかがいを立ててくるのは佳苗しかいない。今日は別段、会う約束もしてなかったし、東の里に顔を出したついでに寄ってくれたのかもしれない。気を取り直してドアを開けると、奇妙ないでたちの子供がぽつんと立っていた。歯車を意匠にした帽子を被り、全体的に無機質さを感じさせる服装を身にまとっており、表情も乏しく子供らしさが感じられなかった。
全く知らない相手ではない。紅魔館の地下に暮らしている魔法使いの話を聞いていると、時折本棚の陰からこっそり覗いているのを見かけることがある。あの子は誰なんですかと訊いたら、座敷わらしのようなものだから害はないと言われただけだった。
パチュリー・ノーレッジは病弱のためか、はたまたそういう教育方針なのか、魔法に関係ないことだとしばしば説明を端折ることがある。だから自分で調べるしかなく、パチュリー以外の住人に話を聞き、十六夜咲夜がメイド長として館に定着するまで美鈴の代わりに雇われ門番をやっていた妖怪の家まで足を運んだりして、ようやくどういう存在かを知ることができた。
「ピー子さんでしたっけ? 他に正式な名前があればそう呼ぶに吝かでないですが」
彼女は元々意志を持った器械だったが、幻想郷にやって来て早々に異変を起こし、その過程で付喪神となり、手足を持つ存在として顕現した。わたしの住んでいる世界とも別の平行世界からやって来た存在であり、実を言うと一度じっくりと話をしてみたかったのだが、わたしから近付くと素早く逃げていくので対話は半ば諦めていた。
そんな彼女が自分から訊ねてくるのは渡りに船だったが、戸惑いも感じた。どうして今日なのだろうか。単なる気紛れというわけではなさそうだが。
「機種番号、固有の認識コードは持っているけど人間には覚えにくいでしょう? ピー子で良いわ。そういうあなたは霧雨美真で良いの? 本当の名前ではないと伝え聞いているのだけど」
「古い名前はかつての世界に置き去りにしてきました。今のわたしに他の名前はありません」
ピー子が頷いたのは認識を同じにするという意味合いなのだろう。わたしたちはお互い、方向を失った鯨のようにこの世界へ打ち上げられたのち、自由に泳げる海があることを改めて教えられた同士なのだ。
「今日はどうしてここに?」
「雑談」
ピー子はその二語だけを口にし、じっと見上げてくる。彼女が情報器械をベースにした付喪神なら雑談などという不明確な目的で行動するはずもない。それに彼女は確か大気を著しく汚染しようとした罪で河童に目をつけられており、見つかればただでは済まされないと聞いている。ここには河城にとりが姿を現す可能性があるからピー子にとっては決して安泰の場所じゃない。
それらの危険を推してここまで来たならば大きな理由があるはずだ。それはわたしが彼女とどう話し、どう結論をつけるかで大きく変わってくる内容なのだ。ゆえに今は雑談としか定義できないということなのだろう。
気後れはしたが、何を話すかには興味があるし、それに彼女は情報器械の付喪神である。排出率不正疑惑が本当かどうか、課金をしなくても解析する方法があるのではないか。
好奇心と打算が入り交じり、わたしはピー子を我が家に招き入れたのだった。
第5章 人と妖の境界 一覧
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まさか1年以上待つ羽目になるとは思ってはいなかったけど(笑)、ようやく新章開始ですね!
まずは各々、それぞれの目的のために動き出した感じですね〜。
今後どう展開していくのか、楽しみにしてます。
久しぶりに更新されていてびっくりしました。新章、楽しみにしてます。
今さらですが、続きを心待ちにしておりました。
続きが楽しみです