ホールの照明は既に落ちており、そこかしこからコンサートを楽しみにする人たちの談笑が聞こえてくる。人が沢山いて気が散らないか心配だったけど、暗いお陰でほとんど気にならなかった。
シートは前から六番目、中央の列でステージを一望するのに丁度良い距離だった。座椅子は背もたれがゆったりとして柔らかく、身を委ねているだけで欠伸が出そうになる。流石は北の里で最も有名なコンサートホールなだけあって、広さだけでなく設備も整っている。ここまではほぼ完璧と言って良かった。
問題はこれから奏でられる音楽が妖怪による破天荒な代物であるということだ。
「霊夢ならきっと気に入ると思うよ」緊張しながら誰もいないステージを見ていると、隣に腰掛けた魔理沙がそっと声をかけてくる。「彼女たちが表現するのは音と弾幕のコラボレーションなんだ。まあこればかりは実際に見なければ分からないだろうね」
魔理沙の言葉に呼応するよう、僅かな照明も落ちて辺りが暗闇に包まれる。目映い光によって照らされたステージの中央には巨大な球体が浮かんでおり、それを八人の奏者がぐるりと取り囲んでいる。あるものは音を奏で、あるものは音を叩き、またあるものは音を歌う。八つの異なる弾幕は中央の球体に吸い込まれ、あちらこちらに跳ね返って一見すると無秩序だが、ホール中に響き渡るのは整然とした音のうねりだった。そして整った音を通し、八つの弾幕が飛び交う美しい形が見えた。
これまでにも美しいと思う弾幕を見たことはあるけれど、それらはいつも戦いの中にあった。コンサートホールという文化的な場所で、戦いというものを一切感じることなく味わうことができるだなんて、夢にさえ思ったことがなかった。決闘としての意味合いを一切捨てたからこそ成し得るハーモニーがそこにはあった。
あっという間に一曲が終わり、八人の奏者が横一列に並ぶ。彼女たちは熱狂の拍手によって迎えられ、霊夢も思わず手を叩いていた。
「みんな、今日はわたしたちの音楽を聴きに来てくれてありがとう!」雷鼓の声が万雷の拍手にも負けず、霊夢の耳にしっかりと届く。やがて拍手が止み、皆が雷鼓に耳と目を傾けた。「これからしばらく、我ら八人が一丸となって生み出す音球《ミュージック・スフィア》に目を、耳を、心を、そして魂を傾けて欲しい。我らが奏でる音楽は貴方たちにとって最高の時間となるだろう!」
喝采、そして再びの拍手。いつも霊夢を思い悩ませる解放派の面々がこんなにも心躍る空間を生み出しているだなんて少しばかり腹立たしいけれど、それでも目を、耳を惹かれずにはいられなかった。
挨拶が終わると音球が再びステージ中央に現れる。これはきっと奏者の一人である響子が生み出したものだろう。力場を操作し、複数の音を一つにまとめて奏で出す彼女はこの場において指揮者の役目を果たしていた。マミゾウはきっとホールのどこかにいるはずだが、響子の操る音を見てどのような気持ちを抱いているのだろうか。マミゾウならばこの熱狂に線を引き、冷静に分析することもできるのかもしれない。霊夢にはそんなことできそうになかった。誰かを思いやる気持ちすら薄れていき、視線はいよいよ音球へ釘付けになる。
あの五線譜は弁々の琵琶の音と八橋の琴の音。激しくぶつかりながら絡み合う三つの流れはルナサ、メルラン、リリカの三姉妹の音。雷鼓の叩く音がそれらを整えようとリズムを刻み、そのリズムをも打ち壊そうとする夜雀と山彦の声はまるで悲鳴のよう。それなのに全てを足すと調和が生まれるおんが不思議だった。音球は下手すると壊れそうなギリギリのバランスを保ち続け、その中で音楽は新しく生まれ続けている。雷に撃たれるように刺激的で、それでいて砂糖菓子のように甘い。心がとろけ、視界がぐるぐると回り始める。激しい目眩のようでそれでいて心地良い。まるで音と心が溶けあって一つになるかのようだった。ああ、なんて楽しい音なんだろう。
ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる。こころが、からだがとけていく。
ぷつん、と唐突に音が途切れた。
気怠い瞼を開けるとそこにあったのは音球ではなく天子の顔だった。彼女は最初こそきつい表情を浮かべていたが、すぐに柔らかな笑みを霊夢に向けてくる。
「あの、ここはどこなの?」
音楽鑑賞をしていたはずなのにいつの間にか待合室まで移動しており、ソファの上で横になっている。頭の下が柔らかいのは天子が膝枕をしてくれているらしい。
「会場の外よ。酷く酔っぱらったからここまで連れ出したの。覚えてない?」
「全く覚えてません。そもそも酔っぱらったって、お酒は一滴も飲んでませんし」
「酒に酔ったんじゃなくて音に酔ったんだと思うわ。随分と刺激的な音だったから」
説明を受けるうち、音と弾幕に溶けるような心地が徐々に思い出されていく。瞼を閉じるだけでその光景が脳裏に浮かび、ぐわんぐわんと揺れるような感覚が再び浮かび上がり、霊夢は慌てて目を開ける。
「音ではなく音球の影響だと思う。見ているとふわーっとした感じになって」
「なるほど、それは弾幕酔いってやつね。わたしも身に覚えがあるわ」
「弾幕酔いって、そんな症状聞いたことがない」
弾幕に酔うなんて霊夢はこれまで一度も経験したことがなかった。そもそもそんな体質だったら数多の弾幕決闘を潜り抜けることなどできなかったはずだ。
「決闘が長時間に及ぶと稀に酔ったような感覚が襲ってくることがあるの。本来はいくつもの要因が重ならないと発症しないのだけど、霊夢は動くもの全てに注目する癖があるでしょう? あらゆるものを平等に注視できる目は動体の行き交う環境、つまり弾幕決闘において何にも代え難い天賦の才と言えるけど、弾幕ひいては動体全般に曝されると疲弊しやすいという短所も併せ持つのでしょう」
天子の話に霊夢はいくつか思い当たる節があった。ここに来る途中も人混みで難儀したし、人がごった返す宴会に対する苦手意識も同じ根に端を発している。でも、まさか音楽鑑賞にまで影響を受けるとは思わなかった。
「ここでしばらく休んでいなさい。音楽鑑賞はもうなし、分かったわね?」
あの音をこれ以上楽しめないのは悲しいけど、瞼の裏にこびりついた残像だけでもきついのだから実物に耐えられるはずもない。渋々頷くと天子は良い子ねと言わんばかりに微笑み、そのまま黙して動こうとしなかった。
「天子さんは中で楽しんで来ないの? わたしなら一人で大丈夫だから」
「そうね、あれは確かに素晴らしい体験よ。でも次だってある。対して霊夢のこんな弱々しい姿は二度と味わえないかもしれない」
「それはなんだか悪趣味のような」
霊夢が唇を尖らせると天子は少しだけ意地悪く笑い、それから説教をする時の少しだけ生真面目な表情に移る。
「それに少し気になっていたことがあったの。共時性だっけ? その話が出たとき妙に表情が曇ったから。紅魔館絡みの異変で霧が発生するって内容まで似ていて、比較されることも随分と多かったんじゃないかって心配してたの」
「だから久々に顔を出してくれたの?」
でもその時は異変について話してくれとしか言わなかったし、心配する素振りもあまり見せなかった。いきなりそんなことを口にされても信憑性がまるでない。
「面白い話を聞きたかったのも本当。気にしてるなら少しフォローしようかなと思ったけど、その時は特に気に病むような様子もなかったから何も言わなかった。でもそれはすっかり用意されていた話を語ったからだと今更ながらに気付いたの」
「でも比べられるのは仕方がないと思ってます」
「仕方なくても辛いならちゃんと吐き出さなきゃ駄目。わたしはわたしだと胸を張って言えなきゃどんどん惨めになるだけなの。わたしにも覚えがあるからよく分かる」
霊夢の知る限り天子は自信の塊のような存在であり、要石のように厚く、打ち砕けるものなどいないと思うほど強固だった。心の弱い時期があったなんて言われてもあっさりと信じられるはずがない。だが天子は冗談と笑うことなく言葉を続けるのだった。
「今でこそ少しはましになったけど、昔は崩れだの不良だのと散々に言われていたの。あいつはまるで天人らしくない、何故ならばおこぼれで天に上がったからだとあちこちで陰口も叩かれたわ。冗談じゃない、わたしは天に上げて欲しいなんて一度も言わなかったのに好き勝手ばかり言って!」
天子の声には強い感情が含まれていた。かつて抱いたのでなければ再現できないほどの熱がこもっており、ぼんやりとした霊夢の頭をがつんと打った。
「だったらせいぜい不良らしく振る舞ってやると好き勝手をやったわ。でも謝るのはいつもわたしじゃなく親ばかりで余計に辛くなって、楽しいことばかりやってるように見える地上の奴らが恨めしくて妬ましくて溜まらなかった。だから地上にちょっかいを出してやったの。地震を起こし気質を乱し、あっという間の大わらわ……さあみんな、ここに元凶がいる。早くわたしを倒しに来なさい!
当然ながら暴虐は長く続かなかった。わたしは何度も倒されたの。一度負けても懲りることなく何度も何度も悪戯を繰り返したから。皆がわたしに向かってくる、皆がわたしを倒しに来る。それは喜びであり、楽しみでもあった。一つだけ意外だったのはわたしのことを不良天人ではなく、比那名居天子として扱ってくれた人がいたこと。そのことを意識したとき、全てではないにしろ辛さがぐっと減った気がしたの。騒ぎを起こして良かったとさえ思ったわ。そんなこと口にしたら散々に叱られそうだから、これまで誰にも打ち明けたことはないけど」
それをいま自分のために話してくれた。つまりはよほど酷い顔をしていたということだ。あまり気にしていないつもりだったのだが。
「わたしには辛さを口にすることも、周りに違うと訴えることもできなかった。霊夢がかつての霊夢とあまりに似ていると知ったとき、放っておけないと思ったの」
「だから剣の技とか色々と教えてくれたの?」
「強くなければわたしはここにいると言い続けるのは難しいから」
霊夢の名前は確かに重いけど、今は天子が言うほど辛くはない。紅魔館に乗り込んだときも最初こそかつての霊夢と同一視されたけど、最後には自分を見てくれた。辛く思うことはやめられなくても、それでもわたしはわたしだと言い切れるはずだ。
「今回は少し過保護だったかもしれない。霊夢の目は前を見てるもの。わたしがこんなこと打ち明けなくてもきっと大丈夫だったに違いない」
「天子さんにも辛い時期があったというのはそれだけで励みになりそうだけど」
「他人の未熟さを励みにするのはよくないわよ。わたしがいまこのように振る舞えるということが大事なの。分かった?」
霊夢が神妙そうに頷くと、天子は頬にぺたんと手を当てて軽く摘む。
「心もその頬のように柔軟でありなさい。ではわたしはコンサートに戻るわね。元気になったみたいだし、だったら音楽のほうが面白いもの」
天子は膝に乗っていた霊夢の頭をゆっくりとソファに下ろし、ホールの中に戻っていく。天子がいた所は少しだけ温もりが残っており、妙なくすぐったさを感じた。
コートを体にかけ直し、天井を眺めていると疲れもあってか少しずつ眠たくなってくる。ライブが終わるまでに少しは体力を回復させておきたかった。
そしていよいよ眠りに落ちるかというとことで信じられないものが目に映った。天井を角の生えた子供がてくてくと歩いているのだ。前髪の一部が赤く、白を基調とした服とスカートには矢印のような記号がところどころあしらわれている。あれは一体なんだろうと考えているうち、その姿がふっとかき消え。
次の瞬間には顔を覗き込まれていた。童顔だが意地の悪そうな表情であり、あどけなさはどこにも感じられなかった。
「わたしはお前から見て上にいるか? それとも下にいるか?」
「仰向けになったわたしを覗き込んでいるのだから上に決まってる」
訳の分からない質問と眠りを邪魔された苛立ちから、霊夢はつっけんどんにそう答える。すると少女が目の前からいなくなり、天井に足を着け逆さまに立っていた。霊夢にはまるで窓にへばりついたやもりのように見えた。
「いま、わたしはお前から見て上にいるか? それとも下か?」
そして大声で同じ質問をしてくる。霊夢は「上!」と叫び、すぐに後悔した。頭の中がぐわんぐわんとかき乱されて痛んだからだ。二日酔いした時の辛さによく似ており、音に酔ったという天子の話が正しいことを改めて示された気がした。
「なるほど、顔だけじゃなくて認識まであいつと一緒なのか」
角の生えた少女は再び地面に降り立つと、今度は愉快そうに口の端を歪めて見せる。意地の悪さは残ったままだから馬鹿にされているのだと一目で分かった。
「良いな名前を継いだものだよな。あらゆるところがよく似ているから望まなくても皆がちやほやしてくる」
彼女が霊夢に悪意を抱いていることは最早疑う余地もなかった。霊夢は気怠い体をゆっくりと起こし、不躾なことをするなとばかりに睨みつける。だが彼女は些かも怯むことなく、逆にけらけらと声を立てて笑い始める。それがまた癪に触る嫌らしい笑い方だったし、重たい頭に浸透して実に不愉快だった。
「なんだその毛玉すら殺せそうにない威嚇は、全くなっちゃいない。かつての霊夢はもっとおっかなかったよ。一睨みされるだけで殺されるかと思うほどに」
心をつつく言葉遣いや態度に霊夢は心覚えがあった。かつて地底に潜ったとき、さとりを名乗る少女が似たような挑発を仕掛けてきたのだ。さとりに比べれば粗野で下品だが、やってくることはおそらく同じなのだろうなと思った。
「わたしがかつての霊夢よりも未熟だからなんだって言うのよ」
「へえ、そこを開き直るんだ。じゃあお前は一生、かつての霊夢を越えられない。それだけじゃない、自分自身にすらなれず、ただただ落ちぶれていくしかない」
「どうしてあんたにそんなことが分かるのよ?」
「分かるさ。だって皆はお前がかつての霊夢のようになると期待しているから。反吐が出るような甘い言葉と物語をくれたあの天人も、他の奴らもだ。甘く優しい言葉で包んでも、お前がかつての霊夢みたいになれない、なる気もないと知ったらきっと誰も彼もがそっぽを向いてしまうだろう。弱い自分を認めて欲しいなんて馬鹿なこと……」
霊夢は札を彼女の眼前に掲げ、話を遮る。見当違いの不快な偽りをこれ以上口にして欲しくなかったからだ。
「わたしは未熟であることを免罪符にしているわけじゃない。迫力のある睨みは利かせられないかもしれないけど、ここであんたを退治することはできるのよ」
霊夢は札を手に、相手の一挙手一投足を油断なく観察する。彼女は少なくとも地面と天井を一瞬で行ったり来たりする何らかの能力を持っており、他にも能力を隠し持っている可能性が高い。不意を打たれないように気をつけるべきだった。
彼女は退魔の札が間近なのにも拘わらず怯む様子はなく、それどころかげらげらと腹を抱えて笑い出した。その激しさに霊夢のほうが呆気に取られるくらいだった。
「お前は倒錯した逆さまの理屈を操るんだな、まるで天の邪鬼のようだ。洟垂れ餓鬼のような甘ったれだが、もっと幼い頃に出会っていたらお前を立派な天の邪鬼に仕立てることもできたかもしれない。いや、今からでもまだ間に合うのかな?」
胡乱なことばかりを口にすると思ったら、彼女は霊夢の持つ札に手を伸ばしぐいと掴んでくる。退魔の力は彼女の手を灼き、うっすらと白い煙が上がったけれど、涙を流すほど痛がっているくせに腕の力は強くなるばかりだった。
「ああ、痛い、痛い。あまりにも辛くてすぐにでもこの手を離してしまいたい」
口ではそんなことを言っているのに腕の力はますます強くなり、霊夢のほうが痛みで顔をしかめるほどだった。札により強い霊気を込めるべきだったが、音に酔った体と頭ではこれ以上の集中が続かず、札に込めていた力はやがて尽き、ただの模様が描かれた紙に戻ってしまった。それなのに腕の力は緩まり、するりと離れてしまい、あとには刻印のような赤い手の跡だけが残った。
「あんた、一体何者なの? ここまで何をしに来たの?」
「わたしが何者か、お前は既に知っているよ。ここまで来たのは霊夢を名乗る当代の巫女がいかほどのものかわたし自ら見定めたかったから。お陰でまあ色々と分かったよ。例えば上も下も、右も左もない奴だってこととか」
彼女は三度霊夢の前から姿を消し、天井に着地する。
「もうすぐ春が来る。その時に起きることを楽しみにしていて欲しい」
それから将来の犯罪を堂々と宣言し、どんでん返しのように天井の一部をひっくり返して霊夢の前から姿を消した。
名乗りこそしなかったが、何者なのかは最後の口上から見当がついていた。彼女は解放派の一員であり、霊夢が懸念していた『悪知恵を授ける者』に違いない。
「わたしを天の邪鬼だなんて憎らしいやつ」霊夢からすれば彼女の振る舞いこそ天の邪鬼であり、そしてその思いつきはそのまま答えでもあった。「人の心を察して悪戯を仕掛けるあの態度、正道にいちいち背くその行動。だから解放派のやり口は痒い所に手が届かないような嫌らしさを持つようになったのね」
そして文がくれたヒントもまた正しかった。彼女たちは春を喪わせるための実に回りくどくて嫌らしい企みを巡らせているに違いない。素敵な音楽を奏でるコンサートに案内してくれたのは嬉しいけれど、それとこれとは話が別だ。コンサートが終わったら雷鼓を問い詰め、騒ぎを未然に防ぐ必要がある。場合によってはきついお灸を据えてやらなければならないだろう。
霊夢は再び横になり、ままならない体を少しでも休め、音酔いを抜こうとする。泥のように気怠く重たい眠気に身を委ねると、意識はすぐ眠りの側へと落ちていった。
霊夢はざわざわと言葉の行き交う騒がしさに目を覚まし、うんと体を伸ばす。二日酔いにも似た感覚はほぼ収まっており、待合室の騒々しさをすぐ感じ取ることができた。隠れ蓑を着た河童たちがホールの中へと慌ただしく駆け込み、聴衆たちはひそひそと話を交わしながら外に出てくる。一体何が起きたのか確認したかったが、見知った姿はどこにも見当たらない。
「霊夢、もう休んでなくて大丈夫?」耳元からにとりの声が聞こえてくる。彼女も隠れ蓑を身に着けているらしく、ただ見ただけではその姿を確認することはできなかった。「ここは山間駐留隊による調査の対象となる。早く離れたほうが良いね」
「一体、何が起こったの?」
「犯行宣言さ。アンコールも含めてライブが終わり、最後の挨拶の場で雷鼓が堂々と宣言したのさ。幻想機械解放同盟は近々、郷の春をいただきにやって来るとね。それで密かに目と耳を設置していた駐留隊が犯意ありと見て突入を敢行したのさ。彼女たちはまるで煙のようにどろんと姿を消してしまい、誰一人として見当たらなかったらしいが。きっとコンサートホールが監視されていることなどすっかりお見通しだったんだろう。今は河童たちが客を誘導し、ホールから追い出しにかかっている。霊夢は有名人だし、東の里での実績を鑑みるに捜査協力を求められる可能性が高い」
霊夢は慌ててコートを身に着け、サングラスで顔を隠す。
「皆にはわたしから事情を話しておくから」
「ありがと、何から何まで世話になるわね」
「霊夢はお得意さんだから、これくらいのサービスはさせてもらうよ」
透明な手に背中を押され、霊夢はコンサートホールをそろりそろりと後にする。河童たちは今度も霊夢に気付くことなく、霊夢はできるだけ人混みに紛れながら里の郊外まで出ると夜空に身を乗り出し、一目散に神社を目指す。月や星のお陰で暗い中でも方角を失うことはなかったが、それでも見慣れた神社の姿を遠目に見かけた時は思わずほっとした。最近は夜の空を飛んでいるだけで時折、弾幕勝負をふっかけられることがあるのだ。今の万全でない調子だと相手にするのはきつく、かといってそれが断る理由にはならない。もし遭遇していたらいつもより手荒く追い払うことになっていただろう。
神社に降り立った頃には気力をすっかりと使い果たしており、その日は風呂に入ることも歯を磨くこともなく、布団を敷くと再び泥のような眠りに落ちた。
ライブから数日後、三つの里全てに正式な犯行予告が届けられた。
霊夢も数時間遅れて全文に目を通したのだが、そこには何とも腰が砕けそうになるような計画が綴られていた。
幻想機械解放同盟が今回標的にするのは郷中の桜である。
もしも郷の機械を解放するという我々の要求が受け入れられないならば、今年は誰一人として花見をすることは叶わないと知れ。
「春を喪わせるってそういうことなの……」
解放派は春という季節そのものを奪うわけではなく、その象徴である桜を咲く前に散らすという何ともせせこましい活動を繰り広げるつもりなのだ。
霊夢としては徹底無視を決め込みたかったが、すぐに上から『博麗の巫女も桜の警備に加わり、風流を介さぬ不埒な輩どもを徹底的に追い払うべし』との命令がくだり、遊撃隊として桜の警備に駆り出されることとなった。
お偉方は郷にどれだけの桜が咲いていると思っているのだろうか。
その全てを散らすなんてできっこないはずだ。もちろん解放派は、少なくともあの意地悪い天の邪鬼はそれを理解した上であのような声明を出したに違いない。
里側は犯行予告を無視できないし、解放派は全ての桜を散らすことができなくても花見の名所に咲く桜をピンポイントで散らせば良い。そして桜は強い風を受ければあっという間に散ってしまう。これは守る側が圧倒的に不利な話なのだ。守りきる可能性があるとすれば、ことを起こす前に先手を取って企みを防ぐしかない。だが解放派は一度や二度追い返したくらいで懲りる連中ではない。霊夢の警備する桜は守ることができるかもしれないが、大半は解放派に押し切られるだろう。
今度あの天の邪鬼を見かけたらはっ倒してから踏んづけてやろう。この怨念めいた気持ちだけが、実入りのない警備を行う唯一のモチベーションだった。
だが解放派はいつまで経ってもやって来なかった。
その理由は実に明白である。
襲撃の合図である桜の開花がいつまで経っても始まらなかったからだ。
シートは前から六番目、中央の列でステージを一望するのに丁度良い距離だった。座椅子は背もたれがゆったりとして柔らかく、身を委ねているだけで欠伸が出そうになる。流石は北の里で最も有名なコンサートホールなだけあって、広さだけでなく設備も整っている。ここまではほぼ完璧と言って良かった。
問題はこれから奏でられる音楽が妖怪による破天荒な代物であるということだ。
「霊夢ならきっと気に入ると思うよ」緊張しながら誰もいないステージを見ていると、隣に腰掛けた魔理沙がそっと声をかけてくる。「彼女たちが表現するのは音と弾幕のコラボレーションなんだ。まあこればかりは実際に見なければ分からないだろうね」
魔理沙の言葉に呼応するよう、僅かな照明も落ちて辺りが暗闇に包まれる。目映い光によって照らされたステージの中央には巨大な球体が浮かんでおり、それを八人の奏者がぐるりと取り囲んでいる。あるものは音を奏で、あるものは音を叩き、またあるものは音を歌う。八つの異なる弾幕は中央の球体に吸い込まれ、あちらこちらに跳ね返って一見すると無秩序だが、ホール中に響き渡るのは整然とした音のうねりだった。そして整った音を通し、八つの弾幕が飛び交う美しい形が見えた。
これまでにも美しいと思う弾幕を見たことはあるけれど、それらはいつも戦いの中にあった。コンサートホールという文化的な場所で、戦いというものを一切感じることなく味わうことができるだなんて、夢にさえ思ったことがなかった。決闘としての意味合いを一切捨てたからこそ成し得るハーモニーがそこにはあった。
あっという間に一曲が終わり、八人の奏者が横一列に並ぶ。彼女たちは熱狂の拍手によって迎えられ、霊夢も思わず手を叩いていた。
「みんな、今日はわたしたちの音楽を聴きに来てくれてありがとう!」雷鼓の声が万雷の拍手にも負けず、霊夢の耳にしっかりと届く。やがて拍手が止み、皆が雷鼓に耳と目を傾けた。「これからしばらく、我ら八人が一丸となって生み出す音球《ミュージック・スフィア》に目を、耳を、心を、そして魂を傾けて欲しい。我らが奏でる音楽は貴方たちにとって最高の時間となるだろう!」
喝采、そして再びの拍手。いつも霊夢を思い悩ませる解放派の面々がこんなにも心躍る空間を生み出しているだなんて少しばかり腹立たしいけれど、それでも目を、耳を惹かれずにはいられなかった。
挨拶が終わると音球が再びステージ中央に現れる。これはきっと奏者の一人である響子が生み出したものだろう。力場を操作し、複数の音を一つにまとめて奏で出す彼女はこの場において指揮者の役目を果たしていた。マミゾウはきっとホールのどこかにいるはずだが、響子の操る音を見てどのような気持ちを抱いているのだろうか。マミゾウならばこの熱狂に線を引き、冷静に分析することもできるのかもしれない。霊夢にはそんなことできそうになかった。誰かを思いやる気持ちすら薄れていき、視線はいよいよ音球へ釘付けになる。
あの五線譜は弁々の琵琶の音と八橋の琴の音。激しくぶつかりながら絡み合う三つの流れはルナサ、メルラン、リリカの三姉妹の音。雷鼓の叩く音がそれらを整えようとリズムを刻み、そのリズムをも打ち壊そうとする夜雀と山彦の声はまるで悲鳴のよう。それなのに全てを足すと調和が生まれるおんが不思議だった。音球は下手すると壊れそうなギリギリのバランスを保ち続け、その中で音楽は新しく生まれ続けている。雷に撃たれるように刺激的で、それでいて砂糖菓子のように甘い。心がとろけ、視界がぐるぐると回り始める。激しい目眩のようでそれでいて心地良い。まるで音と心が溶けあって一つになるかのようだった。ああ、なんて楽しい音なんだろう。
ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる。こころが、からだがとけていく。
ぷつん、と唐突に音が途切れた。
気怠い瞼を開けるとそこにあったのは音球ではなく天子の顔だった。彼女は最初こそきつい表情を浮かべていたが、すぐに柔らかな笑みを霊夢に向けてくる。
「あの、ここはどこなの?」
音楽鑑賞をしていたはずなのにいつの間にか待合室まで移動しており、ソファの上で横になっている。頭の下が柔らかいのは天子が膝枕をしてくれているらしい。
「会場の外よ。酷く酔っぱらったからここまで連れ出したの。覚えてない?」
「全く覚えてません。そもそも酔っぱらったって、お酒は一滴も飲んでませんし」
「酒に酔ったんじゃなくて音に酔ったんだと思うわ。随分と刺激的な音だったから」
説明を受けるうち、音と弾幕に溶けるような心地が徐々に思い出されていく。瞼を閉じるだけでその光景が脳裏に浮かび、ぐわんぐわんと揺れるような感覚が再び浮かび上がり、霊夢は慌てて目を開ける。
「音ではなく音球の影響だと思う。見ているとふわーっとした感じになって」
「なるほど、それは弾幕酔いってやつね。わたしも身に覚えがあるわ」
「弾幕酔いって、そんな症状聞いたことがない」
弾幕に酔うなんて霊夢はこれまで一度も経験したことがなかった。そもそもそんな体質だったら数多の弾幕決闘を潜り抜けることなどできなかったはずだ。
「決闘が長時間に及ぶと稀に酔ったような感覚が襲ってくることがあるの。本来はいくつもの要因が重ならないと発症しないのだけど、霊夢は動くもの全てに注目する癖があるでしょう? あらゆるものを平等に注視できる目は動体の行き交う環境、つまり弾幕決闘において何にも代え難い天賦の才と言えるけど、弾幕ひいては動体全般に曝されると疲弊しやすいという短所も併せ持つのでしょう」
天子の話に霊夢はいくつか思い当たる節があった。ここに来る途中も人混みで難儀したし、人がごった返す宴会に対する苦手意識も同じ根に端を発している。でも、まさか音楽鑑賞にまで影響を受けるとは思わなかった。
「ここでしばらく休んでいなさい。音楽鑑賞はもうなし、分かったわね?」
あの音をこれ以上楽しめないのは悲しいけど、瞼の裏にこびりついた残像だけでもきついのだから実物に耐えられるはずもない。渋々頷くと天子は良い子ねと言わんばかりに微笑み、そのまま黙して動こうとしなかった。
「天子さんは中で楽しんで来ないの? わたしなら一人で大丈夫だから」
「そうね、あれは確かに素晴らしい体験よ。でも次だってある。対して霊夢のこんな弱々しい姿は二度と味わえないかもしれない」
「それはなんだか悪趣味のような」
霊夢が唇を尖らせると天子は少しだけ意地悪く笑い、それから説教をする時の少しだけ生真面目な表情に移る。
「それに少し気になっていたことがあったの。共時性だっけ? その話が出たとき妙に表情が曇ったから。紅魔館絡みの異変で霧が発生するって内容まで似ていて、比較されることも随分と多かったんじゃないかって心配してたの」
「だから久々に顔を出してくれたの?」
でもその時は異変について話してくれとしか言わなかったし、心配する素振りもあまり見せなかった。いきなりそんなことを口にされても信憑性がまるでない。
「面白い話を聞きたかったのも本当。気にしてるなら少しフォローしようかなと思ったけど、その時は特に気に病むような様子もなかったから何も言わなかった。でもそれはすっかり用意されていた話を語ったからだと今更ながらに気付いたの」
「でも比べられるのは仕方がないと思ってます」
「仕方なくても辛いならちゃんと吐き出さなきゃ駄目。わたしはわたしだと胸を張って言えなきゃどんどん惨めになるだけなの。わたしにも覚えがあるからよく分かる」
霊夢の知る限り天子は自信の塊のような存在であり、要石のように厚く、打ち砕けるものなどいないと思うほど強固だった。心の弱い時期があったなんて言われてもあっさりと信じられるはずがない。だが天子は冗談と笑うことなく言葉を続けるのだった。
「今でこそ少しはましになったけど、昔は崩れだの不良だのと散々に言われていたの。あいつはまるで天人らしくない、何故ならばおこぼれで天に上がったからだとあちこちで陰口も叩かれたわ。冗談じゃない、わたしは天に上げて欲しいなんて一度も言わなかったのに好き勝手ばかり言って!」
天子の声には強い感情が含まれていた。かつて抱いたのでなければ再現できないほどの熱がこもっており、ぼんやりとした霊夢の頭をがつんと打った。
「だったらせいぜい不良らしく振る舞ってやると好き勝手をやったわ。でも謝るのはいつもわたしじゃなく親ばかりで余計に辛くなって、楽しいことばかりやってるように見える地上の奴らが恨めしくて妬ましくて溜まらなかった。だから地上にちょっかいを出してやったの。地震を起こし気質を乱し、あっという間の大わらわ……さあみんな、ここに元凶がいる。早くわたしを倒しに来なさい!
当然ながら暴虐は長く続かなかった。わたしは何度も倒されたの。一度負けても懲りることなく何度も何度も悪戯を繰り返したから。皆がわたしに向かってくる、皆がわたしを倒しに来る。それは喜びであり、楽しみでもあった。一つだけ意外だったのはわたしのことを不良天人ではなく、比那名居天子として扱ってくれた人がいたこと。そのことを意識したとき、全てではないにしろ辛さがぐっと減った気がしたの。騒ぎを起こして良かったとさえ思ったわ。そんなこと口にしたら散々に叱られそうだから、これまで誰にも打ち明けたことはないけど」
それをいま自分のために話してくれた。つまりはよほど酷い顔をしていたということだ。あまり気にしていないつもりだったのだが。
「わたしには辛さを口にすることも、周りに違うと訴えることもできなかった。霊夢がかつての霊夢とあまりに似ていると知ったとき、放っておけないと思ったの」
「だから剣の技とか色々と教えてくれたの?」
「強くなければわたしはここにいると言い続けるのは難しいから」
霊夢の名前は確かに重いけど、今は天子が言うほど辛くはない。紅魔館に乗り込んだときも最初こそかつての霊夢と同一視されたけど、最後には自分を見てくれた。辛く思うことはやめられなくても、それでもわたしはわたしだと言い切れるはずだ。
「今回は少し過保護だったかもしれない。霊夢の目は前を見てるもの。わたしがこんなこと打ち明けなくてもきっと大丈夫だったに違いない」
「天子さんにも辛い時期があったというのはそれだけで励みになりそうだけど」
「他人の未熟さを励みにするのはよくないわよ。わたしがいまこのように振る舞えるということが大事なの。分かった?」
霊夢が神妙そうに頷くと、天子は頬にぺたんと手を当てて軽く摘む。
「心もその頬のように柔軟でありなさい。ではわたしはコンサートに戻るわね。元気になったみたいだし、だったら音楽のほうが面白いもの」
天子は膝に乗っていた霊夢の頭をゆっくりとソファに下ろし、ホールの中に戻っていく。天子がいた所は少しだけ温もりが残っており、妙なくすぐったさを感じた。
コートを体にかけ直し、天井を眺めていると疲れもあってか少しずつ眠たくなってくる。ライブが終わるまでに少しは体力を回復させておきたかった。
そしていよいよ眠りに落ちるかというとことで信じられないものが目に映った。天井を角の生えた子供がてくてくと歩いているのだ。前髪の一部が赤く、白を基調とした服とスカートには矢印のような記号がところどころあしらわれている。あれは一体なんだろうと考えているうち、その姿がふっとかき消え。
次の瞬間には顔を覗き込まれていた。童顔だが意地の悪そうな表情であり、あどけなさはどこにも感じられなかった。
「わたしはお前から見て上にいるか? それとも下にいるか?」
「仰向けになったわたしを覗き込んでいるのだから上に決まってる」
訳の分からない質問と眠りを邪魔された苛立ちから、霊夢はつっけんどんにそう答える。すると少女が目の前からいなくなり、天井に足を着け逆さまに立っていた。霊夢にはまるで窓にへばりついたやもりのように見えた。
「いま、わたしはお前から見て上にいるか? それとも下か?」
そして大声で同じ質問をしてくる。霊夢は「上!」と叫び、すぐに後悔した。頭の中がぐわんぐわんとかき乱されて痛んだからだ。二日酔いした時の辛さによく似ており、音に酔ったという天子の話が正しいことを改めて示された気がした。
「なるほど、顔だけじゃなくて認識まであいつと一緒なのか」
角の生えた少女は再び地面に降り立つと、今度は愉快そうに口の端を歪めて見せる。意地の悪さは残ったままだから馬鹿にされているのだと一目で分かった。
「良いな名前を継いだものだよな。あらゆるところがよく似ているから望まなくても皆がちやほやしてくる」
彼女が霊夢に悪意を抱いていることは最早疑う余地もなかった。霊夢は気怠い体をゆっくりと起こし、不躾なことをするなとばかりに睨みつける。だが彼女は些かも怯むことなく、逆にけらけらと声を立てて笑い始める。それがまた癪に触る嫌らしい笑い方だったし、重たい頭に浸透して実に不愉快だった。
「なんだその毛玉すら殺せそうにない威嚇は、全くなっちゃいない。かつての霊夢はもっとおっかなかったよ。一睨みされるだけで殺されるかと思うほどに」
心をつつく言葉遣いや態度に霊夢は心覚えがあった。かつて地底に潜ったとき、さとりを名乗る少女が似たような挑発を仕掛けてきたのだ。さとりに比べれば粗野で下品だが、やってくることはおそらく同じなのだろうなと思った。
「わたしがかつての霊夢よりも未熟だからなんだって言うのよ」
「へえ、そこを開き直るんだ。じゃあお前は一生、かつての霊夢を越えられない。それだけじゃない、自分自身にすらなれず、ただただ落ちぶれていくしかない」
「どうしてあんたにそんなことが分かるのよ?」
「分かるさ。だって皆はお前がかつての霊夢のようになると期待しているから。反吐が出るような甘い言葉と物語をくれたあの天人も、他の奴らもだ。甘く優しい言葉で包んでも、お前がかつての霊夢みたいになれない、なる気もないと知ったらきっと誰も彼もがそっぽを向いてしまうだろう。弱い自分を認めて欲しいなんて馬鹿なこと……」
霊夢は札を彼女の眼前に掲げ、話を遮る。見当違いの不快な偽りをこれ以上口にして欲しくなかったからだ。
「わたしは未熟であることを免罪符にしているわけじゃない。迫力のある睨みは利かせられないかもしれないけど、ここであんたを退治することはできるのよ」
霊夢は札を手に、相手の一挙手一投足を油断なく観察する。彼女は少なくとも地面と天井を一瞬で行ったり来たりする何らかの能力を持っており、他にも能力を隠し持っている可能性が高い。不意を打たれないように気をつけるべきだった。
彼女は退魔の札が間近なのにも拘わらず怯む様子はなく、それどころかげらげらと腹を抱えて笑い出した。その激しさに霊夢のほうが呆気に取られるくらいだった。
「お前は倒錯した逆さまの理屈を操るんだな、まるで天の邪鬼のようだ。洟垂れ餓鬼のような甘ったれだが、もっと幼い頃に出会っていたらお前を立派な天の邪鬼に仕立てることもできたかもしれない。いや、今からでもまだ間に合うのかな?」
胡乱なことばかりを口にすると思ったら、彼女は霊夢の持つ札に手を伸ばしぐいと掴んでくる。退魔の力は彼女の手を灼き、うっすらと白い煙が上がったけれど、涙を流すほど痛がっているくせに腕の力は強くなるばかりだった。
「ああ、痛い、痛い。あまりにも辛くてすぐにでもこの手を離してしまいたい」
口ではそんなことを言っているのに腕の力はますます強くなり、霊夢のほうが痛みで顔をしかめるほどだった。札により強い霊気を込めるべきだったが、音に酔った体と頭ではこれ以上の集中が続かず、札に込めていた力はやがて尽き、ただの模様が描かれた紙に戻ってしまった。それなのに腕の力は緩まり、するりと離れてしまい、あとには刻印のような赤い手の跡だけが残った。
「あんた、一体何者なの? ここまで何をしに来たの?」
「わたしが何者か、お前は既に知っているよ。ここまで来たのは霊夢を名乗る当代の巫女がいかほどのものかわたし自ら見定めたかったから。お陰でまあ色々と分かったよ。例えば上も下も、右も左もない奴だってこととか」
彼女は三度霊夢の前から姿を消し、天井に着地する。
「もうすぐ春が来る。その時に起きることを楽しみにしていて欲しい」
それから将来の犯罪を堂々と宣言し、どんでん返しのように天井の一部をひっくり返して霊夢の前から姿を消した。
名乗りこそしなかったが、何者なのかは最後の口上から見当がついていた。彼女は解放派の一員であり、霊夢が懸念していた『悪知恵を授ける者』に違いない。
「わたしを天の邪鬼だなんて憎らしいやつ」霊夢からすれば彼女の振る舞いこそ天の邪鬼であり、そしてその思いつきはそのまま答えでもあった。「人の心を察して悪戯を仕掛けるあの態度、正道にいちいち背くその行動。だから解放派のやり口は痒い所に手が届かないような嫌らしさを持つようになったのね」
そして文がくれたヒントもまた正しかった。彼女たちは春を喪わせるための実に回りくどくて嫌らしい企みを巡らせているに違いない。素敵な音楽を奏でるコンサートに案内してくれたのは嬉しいけれど、それとこれとは話が別だ。コンサートが終わったら雷鼓を問い詰め、騒ぎを未然に防ぐ必要がある。場合によってはきついお灸を据えてやらなければならないだろう。
霊夢は再び横になり、ままならない体を少しでも休め、音酔いを抜こうとする。泥のように気怠く重たい眠気に身を委ねると、意識はすぐ眠りの側へと落ちていった。
霊夢はざわざわと言葉の行き交う騒がしさに目を覚まし、うんと体を伸ばす。二日酔いにも似た感覚はほぼ収まっており、待合室の騒々しさをすぐ感じ取ることができた。隠れ蓑を着た河童たちがホールの中へと慌ただしく駆け込み、聴衆たちはひそひそと話を交わしながら外に出てくる。一体何が起きたのか確認したかったが、見知った姿はどこにも見当たらない。
「霊夢、もう休んでなくて大丈夫?」耳元からにとりの声が聞こえてくる。彼女も隠れ蓑を身に着けているらしく、ただ見ただけではその姿を確認することはできなかった。「ここは山間駐留隊による調査の対象となる。早く離れたほうが良いね」
「一体、何が起こったの?」
「犯行宣言さ。アンコールも含めてライブが終わり、最後の挨拶の場で雷鼓が堂々と宣言したのさ。幻想機械解放同盟は近々、郷の春をいただきにやって来るとね。それで密かに目と耳を設置していた駐留隊が犯意ありと見て突入を敢行したのさ。彼女たちはまるで煙のようにどろんと姿を消してしまい、誰一人として見当たらなかったらしいが。きっとコンサートホールが監視されていることなどすっかりお見通しだったんだろう。今は河童たちが客を誘導し、ホールから追い出しにかかっている。霊夢は有名人だし、東の里での実績を鑑みるに捜査協力を求められる可能性が高い」
霊夢は慌ててコートを身に着け、サングラスで顔を隠す。
「皆にはわたしから事情を話しておくから」
「ありがと、何から何まで世話になるわね」
「霊夢はお得意さんだから、これくらいのサービスはさせてもらうよ」
透明な手に背中を押され、霊夢はコンサートホールをそろりそろりと後にする。河童たちは今度も霊夢に気付くことなく、霊夢はできるだけ人混みに紛れながら里の郊外まで出ると夜空に身を乗り出し、一目散に神社を目指す。月や星のお陰で暗い中でも方角を失うことはなかったが、それでも見慣れた神社の姿を遠目に見かけた時は思わずほっとした。最近は夜の空を飛んでいるだけで時折、弾幕勝負をふっかけられることがあるのだ。今の万全でない調子だと相手にするのはきつく、かといってそれが断る理由にはならない。もし遭遇していたらいつもより手荒く追い払うことになっていただろう。
神社に降り立った頃には気力をすっかりと使い果たしており、その日は風呂に入ることも歯を磨くこともなく、布団を敷くと再び泥のような眠りに落ちた。
ライブから数日後、三つの里全てに正式な犯行予告が届けられた。
霊夢も数時間遅れて全文に目を通したのだが、そこには何とも腰が砕けそうになるような計画が綴られていた。
幻想機械解放同盟が今回標的にするのは郷中の桜である。
もしも郷の機械を解放するという我々の要求が受け入れられないならば、今年は誰一人として花見をすることは叶わないと知れ。
「春を喪わせるってそういうことなの……」
解放派は春という季節そのものを奪うわけではなく、その象徴である桜を咲く前に散らすという何ともせせこましい活動を繰り広げるつもりなのだ。
霊夢としては徹底無視を決め込みたかったが、すぐに上から『博麗の巫女も桜の警備に加わり、風流を介さぬ不埒な輩どもを徹底的に追い払うべし』との命令がくだり、遊撃隊として桜の警備に駆り出されることとなった。
お偉方は郷にどれだけの桜が咲いていると思っているのだろうか。
その全てを散らすなんてできっこないはずだ。もちろん解放派は、少なくともあの意地悪い天の邪鬼はそれを理解した上であのような声明を出したに違いない。
里側は犯行予告を無視できないし、解放派は全ての桜を散らすことができなくても花見の名所に咲く桜をピンポイントで散らせば良い。そして桜は強い風を受ければあっという間に散ってしまう。これは守る側が圧倒的に不利な話なのだ。守りきる可能性があるとすれば、ことを起こす前に先手を取って企みを防ぐしかない。だが解放派は一度や二度追い返したくらいで懲りる連中ではない。霊夢の警備する桜は守ることができるかもしれないが、大半は解放派に押し切られるだろう。
今度あの天の邪鬼を見かけたらはっ倒してから踏んづけてやろう。この怨念めいた気持ちだけが、実入りのない警備を行う唯一のモチベーションだった。
だが解放派はいつまで経ってもやって来なかった。
その理由は実に明白である。
襲撃の合図である桜の開花がいつまで経っても始まらなかったからだ。
第2章 修羅と修羅 一覧
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