これまでの波乱が嘘のように、二週間が平穏のままで瞬く間に過ぎていった。足の怪我もようやく治り、杖をついて歩く必要もなくなった。先の決闘で蓄えを全て使い果たしてしまったため、魔法で移動補助をすることができず、力のない人間のように暮らさざるを得なかったのだ。
とはいえ苦労することはなかった。怪我人のわたしを見舞いに、あるいはきちんと生活しているかを心配し、毎日のように人や妖怪が姿を見せたからだ。山の幸や川の幸が積み重なり、冷蔵庫に入れて置けないくらいになった。
もちろん有り難いことだが、戸惑いもあった。師匠である魔理沙や友人である霊夢、佳苗ならまだ分かるが、それ以外の人や妖とそこまでされるほどの関係を築いたとは思えなかったからだ。
ある日、そのことをわたしの見舞いに来た魔理沙に打ち明けたら。
「もらえるものはもらっておけば良い」
身も蓋もない答えが返ってきた。
「心配しなくても、もらってばかりなんてことはないんだから気に病む必要はない。気楽にもらって、気楽に返せば良い。それにもらえるってことは貸しを作っておけば得すると判断されたわけだ。つまり実力を評価されたということだから、堂々と胸を張れば良い」
「そんなものですかねえ……」
いまいち釈然としなかったが、魔理沙はそういうものだと迷いなくごり押してくる。だから渋々、受け入れざるを得なかった。
とはいえ、心の底では納得できなかったのだろう。また別の日、わたしを見舞いに来た佳苗にも同じことを打ち明けてみた。
「他の人はどうか分からないけど、わたしは友達だから心配しに来たのよ。それとも美真はわたしのこと、友達だと思っていないの?」
よよよ……とわざとらしく声を立て、顔を覆うものだから分かった分かったそれで良いよと宥めるしかなかった。すると佳苗は舌を出し、面白そうに笑うのだった。
少し前までは友好を深めるにしてもこちらの顔色をうかがう仕草を見せたのだが、半年前くらいからすっかりとくだけてしまった。アイドル騒動と前後しての変化なので偶像を演じることによって心境が変化したかとも思ったのだが、そういうわけでもないらしく。
それとなく佳苗の行動や言動を観察したところ、霊夢への屈託が完全に消えており、それが原因であると推察することができた。
かつての二人の確執は小耳に挟むこともあったが、佳苗にとっては友達を作ることに致命的に失敗したという認識として重く心にのし掛かっていた。それがなくなったということは、おそらく霊夢がわたしのアドバイスを聞き入れ、わだかまりを解いたのだろう。
「もちろん、友達だと思っていますよ」
そんな霊夢に対抗したというわけではないのだが、わたしは恥ずかしいと思う気持ちを蹴飛ばし、いつもよりも素直に答えた。佳苗は特に照れることなく満足そうに頷くと。
「あと、美真は善良だからさ。弱味につけこむような奴が現れないかを心配するのかもしれない」
こちらが恥ずかしくなるようなことを平然と言ってのけた。
「わたし、そこまで善人ではありませんよ」
先の決闘でわたしは菫子の心を散々に揺さぶり、そこにつけ込もうとした。強い怒りに身を焦がし、未だ届かない恋に焦燥を抱いたこともある。悪行に顔をしかめることもあるが、それは人間なら誰しも抱く感情である。わたしは特別に善人ではない。弱々しくは見えるかもしれないが、だとしたらこれからも己を鍛え、強くなる必要がある。
「わたしよりはずっと善良だよ。わたしなんてそりゃもう酷いものだったから。逆恨み、嫉妬、憎悪、八つ当たりと子供じみた行為のオンパレード。仕えるべき神にも不遜を隠そうとしなかったし。今は少しだけマシになったけど、今回だって神様たちに麓で起きている事件には関わるなと命令されて少し不貞腐れたし、自由に動ける美真を羨ましいなあと感じてたりもしたんだから」
チャットや電話ではそんなこと、一度も口にしなかった。それどころかわたしが弱気を零したとき、自由に動けば良いと励ましてくれた。そして全てが終わった今になってわたしを力づけるために、わたしが善良であることを証明するために敢えて打ち明けてくれた。
わたしからすれば、佳苗のような心の持ち主こそ善良である。わたしは所詮、自分のことしか考えられない人間でしかない。
「ああ、そうだ。色々な人や妖が美真を訊ねたり、色々を世話を焼く理由なんだけどさ。なんというか、美真相手だと話しやすいんだよね」
「話しやすい、ですか? でも、わたしは話が上手いほうではありませんよ。一対一の会話もあまり得意ではありませんし、多人数での会話だと流れに乗ることができず、聞いているだけになることもしょっちゅうです」
「そういうのが良いんじゃないかな。ほら、幻想郷の住人って我の強い奴が多いから。わたしが仕える神様もさ、諏訪子様と神奈子様は本当に我が強い。早苗様が一つ引いて二柱を立てるから上手く収まってるわけ。うん、美真って早苗様に近いところがあるかな。早苗様も我の強い山の妖怪たちの訪問をよく受けるし、辛抱強く相手の話を聞いて柔和な態度で接するんだよね」
「そういうものでしょうか。いまいちピンと来ません」
「相手の話をいつでも聞くことができる人って、あまりいないと思うんだよね。わたしも話すほうが好きだし」
「聞き役というのは少数派ということでしょうか?」
「それもあるし、美真の場合は会話を円滑にするよう適切な相槌を入れたり、指摘を挟んだりするでしょう? そういうのを聞き上手って言うんだよ、きっと」
会話に対して受け身であるとは常々感じていたことだが、聞き上手と言われたのは初めてだった。どうにも面映ゆい評価だが、悪い気持ちではなかった。
「だからさ、お見舞いということもあるけど、美真に話を聞いてもらうチャンスだとも考えたのかもね」
「佳苗もわたしに話を聞いて欲しくて、お見舞いがてらにうちを訪ねてきたのですか?」
だとしたら少しだけ寂しいなと思ったのだが、佳苗は「そんなわけないじゃない!」と即座に返してきた。
「最初に言ったけど、わたしが今日訪ねてきたのは友人の安否を気にしたから。他に誰がこの家を訪ねたかは知らないけど、美真のことを心配してきたはずよ。それが一番大事で話を聞いてもらうのは二番目以降。美真は心配されているし、必要ともされている。もっと堂々とこの世界で生きて良いのよ」
この世界で堂々と生きて良いと佳苗は言った。するとわたしはこの世界=幻想郷に対し、未だに引け目を感じているということなのだろうか。
確かにそうかもしれない。ここはどこまで言ってもわたしの世界ではないのだから。わたしは何十年、何百年生きても異邦人であり、そのことを心の底から拭い去ることは決してできないのだろう。
でも、佳苗のような友人がいて、そんな彼女が堂々と生きて良いと言ってくれるならば。わたしはこの先ずっと、自信を持って生きていけるはずだ。
「そうですね、もう少しだけ師匠を見習ってみます」
佳苗はよろしいとばかりに頷き、わたしの発言を肯定してくれた。
それ以降は見舞い客を素直に受け止められるようになった。とはいえ全ての屈託が晴れたわけではなかった。異邦人としてのわたしが受け入れられたという事実は畢竟、この世界を受け入れられなかった異邦人=菫子の存在をつきつけられるということだからだ。
わたしが屈折せずに済んだのは魔理沙がわたしを庇護し、様々な圧力や監視から守ってくれたからだ。彼女にもそんな人がいてくれたら、己の技術や能力を人間至上主義や、幻想郷からの人ならざるものの排除などという方向には進めなかったかもしれない。
怪我から快復して真っ先に訪れたのが博麗神社だったのは、同じ異変に対峙した霊夢が菫子という存在をどのように考えているかが知りたかったからだ。
休息の間に修理した箒の試運転も兼ね、博麗神社を訪ねてみたが、とても質問できる空気ではなかった。神社の境内で霊夢と天子が木刀による打ち合いをしていたのだ。稽古をしているのかとも思ったが、それにしては緊迫し過ぎており、そして二人の戦いを紫がじっと見守っていた。
「あの、これは……」
小声でそっと訊ねると、紫は試合から目を離すことなく簡潔に答えてくれた。
「これはね、あの日中断された決闘の続きなの」
霊夢と天子の決闘がどのように運び、横槍を入れられたかについては当の本人から話を聞いていた。彼女もまた、わたしを見舞いに訪れた一人だったからだ。霊夢自身も大変だったはずなのに、けろりとした顔で姿を現した。霊夢は魔理沙の家より綺麗なことを褒め、それから功を労ってくれた。次にささやかな情報交換が行われ、そこでわたしは決闘の次第を知ることとなった。
「霊夢はわたしの一撃をきっと防いだだろうし、となると次はお互いの得物による打ち合いになるだろう。天子はそう主張し、弾幕や能力を全く使わない、刀を交える決闘を提案したの」
その言い分は決闘を阻害した菫子を否定するため、口にされたのだと思っていた。だが天子は霊夢が凌ぎきることを本気で信じていたのだ。霊夢はそのことを全く信じていなかったし、わたしも聞いたときは苦しい理屈であるなと感じた。
その上で、わたしはこう答えた。
『でも、霊夢さんならできたかもしれません』
菫子が放つ魔砲を霊夢は結界によって受け止め、わたしが起死回生の一撃を放つまで耐え凌いでくれた。だから天子が放つ最大の技も受け止めきった可能性はある。
根拠も含め、話して聞かせると霊夢は面食らったような顔を浮かべたのち。
『なるほど……』
それだけを呟き、他には何も言わなかった。納得してくれたかは分からないが、可能性の一つとして受け入れてくれたようだった。
「最初は断ったんだけど、少しして考え直したの。剣のみの戦いで決着をつけると」
そう決心したなら、わたしの言葉が上手く届いたということなのだろうか。いや、霊夢としては天子を信じるきっかけがあれば良かったのかもしれない。師匠というのはなんだかんだ言って、正しいことを口にするものだから。魔理沙も性格に若干の難はあれど、わたしに対する助言はいつも正しいのだ。
「で、試合のほうは……」
途中で質問を切ったのは、訊くまでもないことだったからだ。何度も打たれたのか、霊夢の肌には痛々しい腫れが覗き、対する天子は傷一つどころか汗一つ掻いていない。明らかに翻弄され、やりこめられていた。
「規格外のスペックに埋もれがちだけど、天子は並外れた剣の腕前を持っている。純粋に剣技での勝負となったら、霊夢にいよいよ勝ち目はない。弾幕決闘のほうがまだ勝ちの目はあった。だからわたしは天子の主張を否定し、弾幕決闘から仕切り直すよう提案したのよ。でも、霊夢は己を曲げなかった。全く、わたしに逆らうことばかり上手くなるわ」
だとしたら、わたしは間違った答えを霊夢に選ばせたことになる。思わず目を背けたくなったが。
「目を反らしては駄目よ。最後まで見届けなさい」
紫はわたしに逃げることを許さなかった。もしかするとわたしの助言が霊夢を心変わりさせたのだと気付いているのかもしれない。
お前が悪いと、紫は言いたかったのだろうか。
一方的な試合はわたしに考える暇を与えなかった。天子の剣技は始終圧倒的で、霊夢の全身を容赦なく打ち、疲労は目に見えて分かるほど急速に蓄積していく。
今すぐやめてと叫びたかったが、できなかった。何故ならば、霊夢はいくら打たれても倒れても天子に立ち向かっていったからだ。なんとか一矢だけでも報いるため力と技の全てを振り絞っていた。
「霊夢、お前の覚悟はその程度なの?」
それなのに天子は霊夢の覚悟のなさを容赦なくなじる。異変を起こそうとしたのは彼女なのに自分勝手だと思ったが、幻想郷に住まう強者は多かれ少なかれ自分勝手でわがままで傲慢で、そして我を通そうとする。
確かに佳苗の言う通りだった。幻想郷は我の強い奴らで溢れており、人間が対峙するならばときとして傷つくことさえ厭わない覚悟がいる。霊夢はその覚悟ができる人だ。わたしなんかよりずっと強い。
霊夢はぼろぼろになりながら天子の言葉に応え、これまで以上に気合いのこもった表情とともに打ちかかり、鋭い太刀筋で天子の脳天に見事な一撃を与えた。とはいえ、霊夢も無事だったわけではない。天子の一撃は霊夢の胴をしたたかに打っていた。双剣相討ち、そして倒れたのは霊夢だけだった。天子は木刀で頭を打たれたというのにけろりとしており、まるで動じることがなかった。霊夢も身体の強化は行っていたのだろうが、天人と同様の強度を獲得するには至らなかったのだろう。
ほぼ一方的な勝利であるが、天子の表情は優れず、重々しい溜息すらつく始末だった。
「迷わずに防御を捨てて打ってきたわ。二の太刀要らずなんて言葉もあるけれど、それは次善の策を捨てろという意味ではないのに」
そう言って、天子は紫を恨めしそうに睨みつける。
「実に立派な博麗の巫女だわ。使命のためなら命さえ捨てる覚悟を叩き込んだってわけ?」
「そうね、それは否定しない。異変解決は巫女の誰より何より重要な役目だもの。一命を賭する覚悟がいる。でもね、若き命を散らしても良いと考えているわけではないのよ」
「では、霊夢がわたしに打たれて命を落とすとは考えなかったの?」
「考えなかった、これっぽっちも。だってお前、霊夢の命を脅かすような一打は全く打たなかったから」
紫の指摘に天子は険を収め、苦々しく顔をしかめる。隠していた悪戯がばれて気まずい子供のようだった。
「頭部を打たない、突きもなく、後遺症が残るような打もない、最後の一撃だけは違ったみたいだけど」
「そうね、完全に防御を捨てていたからこちらとしても強く反応せざるを得なかった。覚悟と言ったって普通、少しは保身を考えるし、考えろと教えたわ。教えただけじゃなく、かつての稽古を通して体に叩き込んだ。それをあっさり超えてくるんだから戸惑い、加減を忘れもするでしょう?」
その必死さから、天子が見た目よりずっと動揺しているのがわたしにも伝わってきた。紫はそんなこと最初から分かっていると言わんばかりに解説を続けていく。
「それにお前は本分の剣を振るわなかった。その硬さで斬撃を受けながら強引に打ちに行くのが本来の形のはずなのに、受け続けての隙を突く形を貫いた。そこまでされて見抜けないほどわたしも節穴じゃない。いや、相手の力量をきちんと見抜けなかったりと、今回はわたしも節穴なところがあったけれど、それはそれね」
さりげない弁明を絡めつつ天子の行いを指摘し尽くすと、紫はからかうような態度から一転。
「それでお前は霊夢に勝ったわけだけど、これからどうするつもりなの?」
天子を厳しく問い質し、二人の間に緊迫が走る。わたしは霊夢が天子の問題を解決できなかった場合、紫が手を下す予定であることを思い出し、咄嗟に身構える。わたしの技量で可能かどうかは分からないが、ここで二人が争い始めるなら割って入るつもりだった。
だが、天子は実にあっけらかんと。
「どうもしない」
そう口にして場の緊張を解いた。
「あれだけ大きな騒ぎにしておいて随分とあっさりな幕引きじゃない。弟子の覚悟に心を打たれたのかしら?」
「わたしが霊夢の覚悟を計ろうとしたのは確かよ。その強さを通してわたしが取るべき道を決めようとした。霊夢がどれだけ敵わなくてもなお、わたしに全力を尽くせるなら紫苑の決意と覚悟を信じられると思ったの」
「天下の天人様にしては随分と臆病な行為だこと」
「この世に決して喪ってはならないものができたら、わたしだって臆病風に駆られもする」
天子は堂々と宣言し、紫の揶揄を跳ね返す。
「でもね、わたしは愚かだった。というか教育が足りなかったと言うべきかしら。あっさりと命を捨てるような戦い方をわたしは教えていない。それは命を賭けるのとは全くの別物よ。そんなことさえ霊夢に教えていない自分自身に憤慨しているの。二度とそんな選択をさせないためには、改めて教え直すしかない」
「だから、どうもしないわけね。その選択のせいでお前の大事な貧乏神が消えてなくなるとしても」
紫の容赦ない指摘は天子を明らかに傷つけた。まるで迷い子のような顔を浮かべ、助けを希う弱さを見せた。だが次の瞬間にはいつもの天子に戻り、大きく頷いた。
「それならば、わたしも依神紫苑の存命に力を尽くす。新しい幻想郷に貧鈍を呼び込む神は不要だと思い、誰とも触れ合うことのない僻地に放置したけれど、彼女もまた幻想郷の住民であることに変わりはないから」
「幻想郷は全てを受け入れる、ということ?」
「ええ、わたしはそれを素敵なことだと信じている」
紫はそう言い切ると、その小さいなりで霊夢をひょいと担ぐ。わたしより幼く見えてもそこは妖怪なのだ。人間の膂力など遙かに越えているに違いない。
「わたしは霊夢を床につかせるから。そこの魔法使いは何かの用で神社に来たと思うけど、後日にして頂戴」
わたしの用は霊夢と話をすることであり、叶わないなら神社を去るしかなかった。だが、この場に天子がいるなら話はまた違ってくる。
用が終わり、帰宅しようとする天子を、わたしは意を決して呼び止める。
「あの、すみません。問題なければ、わたしと一勝負してもらえませんか?」
かつて無様な完敗を喫した時からずっと、再戦の機会をうかがっていたのだ。こんなにも早く二人きりで話のできる状況が生まれるとは思わなかった。
天子はわたしの顔をまじまじと眺め、訝しむように目を細める。その顔には猜疑の色が濃く滲んでいた。
「お前はあの時の魔法使いよね。わたしに完膚なきまで叩きのめされたのがそんなに悔しいの? 今度は勝つ算段があるってこと?」
「いえ、そういうわけじゃありません。勝てるとは思っていませんが、もっと良い負け方があったのではないかと、ずっと考えていました」
かつてのわたしは力を出し切ることなく、中途半端に負けてしまった。それでは何も得ることができないし、進むこともできない。
「また負けるために戦うってこと? わたしには被虐趣味者をいたぶる趣味はないんだけど」
「わたしは被虐趣味者ではありませんよ」
「そう……なら、憂さ晴らしに付き合って頂戴。霊夢との決闘があんな形で終わってしまい、気持ちを持て余してるのよ。ぱーっと発散させてくれるかしら?」
わたしは唾を飲み、それから大きく頷く。今度こそ持てる力を全て出しきることができるよう祈ると、わたしは新たな箒を駆って空に昇るのだった。
目が覚め、咄嗟に体を起こそうとしたわたしは、全身の痛みで顔をしかめる。そして痛みが天子との決闘の一部始終を嫌でも思い出させてくれた。
清々しいまでの一方的な敗北だった。捨て身の一撃ですら辛うじて相打つのが精一杯で、天子には傷一つ与えることができなかった。
不甲斐なさに大きく息をつき、痛みをおして再び立ち上がろうとした。体がまるで錆びた機械のようにぎこちなくきしきしと音を立てているかのようだったが、気合いでねじ伏せてなんとか上半身を起こす。
わたしが負けたのだから天子は異変を起こしに人里へと赴くはずである。紫は本気で牙を剥くはずだし、幻想郷の重鎮たちも天子を追い立てるかもしれない。怪我の治りを待つ時間など残されていない。
体をよじり、立ち上がろうとしたところでわたしは隣に敷かれた布団と、そこで眠る美真の姿を目にする。彼女がどうしてわたしと同じ部屋で寝ているのだろうか。
「あっ、こら怪我人は寝てないと」
聞き覚えのある声が耳を打つ。体が痛まないようそろりそろりと振り向けば、七つの尾を持つ式神の橙が薬箱を手にしているのが見えた。
「でも、こんな所で休んでいる場合じゃないの」
「いや、休んでる場合だよ。天子はもう天変地異を起こしたりしないから安心して」
そんなことを言われても、わたしは負けたのだ。天子はいよいよ異変を起こすだろうし、そうすれば紫を始めとした郷の重鎮によって処断を下されるはずだ。
「その嘘を吐いてるんじゃないって顔、傷つくなあ。わたしは本当のことを口にしているよ。霊夢はさ、あの分からず屋の気持ちを曲げるほどの覚悟を示したんだよ。だから天子も紫苑を救うため、里を破壊して貧困を生み出すことをやめた。疫病神が提示した解決案に乗ることにしたのさ」
「本当に? わたし、自分に何かができたなんてとても思えないのだけど」
橙はわたしの疑問に答えず、無口のまま近付くと布団を剥ぎ、肩にそっと手を当てる。全く力が込められていないのに、わたしはなす術なく枕に頭を預けてしまい、体にも力が入らない。妖術か何かの類だろうか。
「いつになく自信がないみたいね。だからあっさりと命を捨てるような真似をしたの?」
「違う、わたしは覚悟を示そうとしただけで……」
「それで命を捨てる選択をするのは正常じゃない。紫様も言っていたけど、霊夢は心がとても疲弊している。まともな選択をくだせるような状況じゃない。先の異変は霊夢の心を酷く傷つけ、損耗させたと見るべきよ」
声こそ穏やかだったが非常に手厳しく、わたしは何も返すことができなかった。
「怪我の功名とは言えないかもしれないけど、傷が治るまでゆっくり休むこと。何も考えないでだらだらすれば良い。神社のことや身の回りのことはわたしが世話をするから。というかもう、世話を焼いてるんだけどね」
言われて初めて、巫女服ではなく寝間着を着ていることに気付いた。鼻を鳴らしてみればハッカ臭いし、肌の至るところにべたべたした感触がある。
「知り合いの薬師に頼んでよく効く湿布や塗り薬を包んでもらった。普通の生活ができるまで半月、完治には一月ほどかかると言ってたよ」
橙はそう言ってわたしの服を脱がし、手際良く湿布を貼り付けていく。ひりひりと染みて熱っぽいのはきっと薬が効いている証拠なのだろう。
「よし、交換完了。お腹が空いたなら用意するけど」
そんな気分じゃないと言いたかったが、腹の虫は見事に正直だった。ぐうぐうと派手な音を立て、当然のことながら橙には苦笑された。
「消化の良いものを用意するよ」
「色々と迷惑をかけるわね」
「いやあ、実を言うと神社勤めのほうがやることは少ないから気楽なのよ。わたしのご主人様ったらいちいち真面目だから、いつも仕事に追われてばかり。あれこれ任されるのはわたしが優秀だってことだから悪い気はしないけど、たまには息抜きの一つもしたいの。だから霊夢は無理して早く治ろうとしなくても良し!」
橙はわたしに新しい下着と寝間着を着せ、指差し確認すると上機嫌そうに部屋を後にする。神社勤めのほうが気楽というのはどうやら嘘ではなさそうだった。
何もすることがなく、眠気が襲うこともなく。かといって別のことをするだけの気力もない。橙が妖術をかけたせいかと思っていたが、どうやらそうではなくて。わたしの心が本当に空っぽなのだということらしい。
異変が片付き、やることがなくなって安堵したのだろうか。でも、これまでに関わってきた異変の後で今のように脱力することはなかった。
思い当たる節はあるが、考えたくなかった。気持ちを切り替えたくてもぞもぞしていると、隣から寝ぼけ眼の声が聞こえ、そろりそろりと横を向く。美真は目を覚ましており、わたしの顔を見て僅かに驚きを見せたが、すぐに納得してみせた。
「こんにちは、お世話になっています」
そして暢気な調子で話しかけてきた。
「いや、お世話してるのは紫の式の式なんだけど」
「あら、そうなんですか」
「で、どうして美真が隣で寝てるのよ。ずっと気絶していたからその辺りの事情が全く分からないのだけど」
「それはですね、話すと長くなりますが、簡潔に纏めれば比那名居天子と決闘し、負けてしまったのですよ」
意味が分からなかった。天子と決闘したのはわたしで、美真には戦う理由などないはずだった。それなのに何故、決闘する必要があるのだろうか。
「女には意地を貼らなければならない時があるということですよ。その辺りを語ると本当に恥ずかしいので、どうか勘弁してもらえると」
美真は困ったなあと言いたげに苦笑する。彼女の考えることはたまに本気で分からないのだが、わたしの敵を討とうなどという仰々しい理由ではないと分かっただけでも良しとすることにした。
「ところでお互い、床に臥せている状況でなんですが。取り留めのないお喋りというのは可能でしょうか?」
かと思えばいきなり妙なことを提案してくる。少し前に病床の美真を訪ねた際、情報交換がてら雑談を交わしたのだが、それでは足りなかったということだろうか。
「ずっと眠ってたせいか眠くならないの。この体では他にやることもないし、暇潰しくらいにはなるわね」
美真の提案は渡りに船だったが、仕方なくを装った。気落ちしているのを悟られたくなかったからだが。
「では遠慮なく。その、霊夢さんは彼女……菫子さんについてどう思っていますか?」
いきなり重たいことを訊いてきた。美真は聞き役であることが多く、その場合には相槌や疑問を挟んで話を上手く回してくれるのだが、本人から話題を切り出す時はなんというかこう、良くも悪くも遠慮がない。
聞くときは空気を読むが、話すときには読まないというタイプなのだろう。研究者気質に多いタイプだ。
「なんとも言えない、というのが正直なところね。実際のところ、わたしは彼女を何も知らないのよ。人里に奇妙な教えを広め、力を分け与え、郷を害そうとした。最後には異変に認定され、わたしと美真によって退治された。現在は紫の家で療養中とのことだけど、近況は何も語ってくれなかった。改心の見込みがあるかどうかも分からない」
率直なところを語ったが美真の表情は優れなかったし、あの説明で納得してもらえるとは思わなかった。というか美真がどのような屈託を抱え、解消したいと考えているのかが伝わって来なかった。
「美真のほうこそ、どう思っているのよ」
「そうですね……異邦人同士ですから交友を深めたいとは考えていますが、逆鱗に触れて殺されかけましたからね。向こうの方では顔も見たくないかもしれません」
力なく笑う美真を見て、明らかなショックを受けているのがはっきりと分かった。もしかすると彼女は誰かから本気で嫌われるのが初めてだったのかもしれない。自分の世界に没頭するきらいはあるが、根は善良だし、思いやりもある。八方美人特有の誰にも良い顔をするという悪癖も存在しない。嫌いようのない性格をしている。
わたしは割とずけずけものを言うほうだし、気が短いほうだという自覚がある。ときには癇癪を起こしたりもするし、大人の言うことでも間違っていればはっきりと指摘する。わたしを生意気だと思う大人は確実に存在するし、実際に酒の席で小耳に挟んだこともある。仮面を被った大人たちの中には、わたしをあっと言わせたいという動機を持っていた輩もいたかもしれない。
そして何よりも酷い事実がある。わたしは実の母に憎まれ、神社を焼かれそうになり、先日は容赦のない弾幕によって殺されかけた。
そういったことをざっくばらんと語ることもできたが、美真の気持ちは晴れないだろう。わたしが誰かに嫌われているという事実は、単なる同情を誘うだけだ。
「その辺りはきっかけとタイミング次第ってところもあると思う。わたしと佳苗だってさ、博麗の巫女という立場を取り合うことがなければ険悪になることはなかったけど、逆に今みたいに仲良くなることもなかった。お互いに無関心のままで終わったはずよ。そう考えると、嫌われるってそこまで悪くないのかもしれない」
だから仲直りできた例を挙げることにした。美真にとっては既知の問題かもしれないが、険悪は無関心より互いの関係を深め合う可能性はずっと高い。
半ば自分に言い聞かせた面はあるが、美真はわたしの話を疑うことなく真剣に聞いてくれた。
「これから次第ってことなんですかね」
「だと思う。そう思いたいなあ……」
揃って溜息を吐き、余計に気が滅入ってくる。でも、先程よりは僅かに気持ちが上向いてきた。
わたしに必要だったのは気持ちを溜め込むことではなく吐き出すことだったらしい。
「すみません、全く取り留めのない会話ではありませんでしたね」
「気にしないで、わたしも色々と吐き出せたから」
「そうですか……霊夢さんの気持ちの捌け口になれたなら不躾さも帳消しになるというものです」
会話が途切れ、沈黙が押し寄せてくる。気まずいわけではないが、今度は本当に取り留めないことを話すべきではないかと美真の様子をうかがい、思考に耽る表情を見て口を噤んだ。
それも橙が食事を運んでくることで途切れ、美真はそのまま家に帰っていった。わたしと違い、そこまでのダメージを受けているわけではなかったらしい。
帰り際、美真は珍しい提案を投げかけてきた。
「霊夢さんの怪我が治ったら、佳苗と三人でお泊まり会でもしましょうか。佳苗も今回の件で溜め込んでいるものがあるようですし。取り留めのない会話をつまみに酒を囲みましょう」
わたしは痛む体で頷き、歓迎の旨を伝える。友達同士でわいわいと騒ぎ、悲しいことや苦しいことを押し流して。そうすればわたしを嫌っている人がいる社会でもなんとか平然とした顔をして暮らしていけるだろう。
悲しいことだけどきっと、それがわたしの選んだ道なのだ。
何もすることがなく、臥せるだけの半月というのは驚くほどゆっくりと過ぎていき、退屈で仕方なかった。いや、訪問客がひっきりなしだったから全くの暇というわけではないのだが、神社の管理や経営、持ち込まれる問題事への対処などいつもの仕事がないと、手持ち無沙汰になる。
「それはワーカホリックだよ、若いうちからあまり働き過ぎないほうが良いと思うけどなあ」
などと冷やかしに来た酒飲み鬼が口にした翌日には。
「病床が暇だと感じるのは非常に健全なことです。仕事に励み、鍛錬を積み、己を高めることが骨の髄まで染み着いているということですからね。関心関心」
見舞いに来た仙人が全く逆のことを主張する。
どちらが正しいかと考えるつもりはなかった。強いて言うなら足して二で割るのが丁度良さそうだと感じた。
というわけで健康体に戻ったわたしは程々に巫女の業務を再開しようとしたのだが、そんな折に人里から役所の人が直々に、博麗神社にやってきた。
「病み上がり早々、こんな話をするのもなんですが、巫女の任期延長の期限が迫ってきています。先の頃はご両親の許可がいただけなかったということですが、その後の進展はどうかなと思い、足を運んだ次第です」
天子が起こそうとした異変が未然に防がれ、魔法教団の計画も菫子の敗北と消失によりおじゃんとなった。全てが解決したし、紫も何も言ってこないから、巫女の任期は恙なく延長されたのだと思っていた。
「上司からは巫女の適任があなた以外にいないと、改めて通達がありました。それはわたしとしても疑う余地はありませんし、是非ともお願いしたいところです」
「それならば、問題はないと思いますが」
「そうでしょう、仰ることは分かりますが……本当に良いのですか?」
「と、言いますと?」
彼がわたしに何を伝えたいのかが分からなかった。
「巫女の任期は二期十年が最長となっていますが、これまでの巫女は全て一期五年を勤めたのち里に帰っています。巫女は過酷な職業ですし、親元を離れて暮らさなければなりませんから」
わたしは親元に帰りたくない。あんな親のいるところに一秒だっていたくない。二期十年を満了したら一人暮らしを始め、親と関係のない生涯を全うしたい。
「巫女はわたしに向いている職業なんです」
嫌悪を隠し、それだけを淡々と伝える。
「それは重々承知していますし、両親との関係が良好ではないことも知っています。姉が妖に襲われ、幼くして鬼籍に入ったことも」
姉という一語に、わたしは息が詰まりそうになる。紫も遠子も美真も、他の誰も指摘しなかったことだから、心の準備ができていなかった。
母が神社に放火し、わたしを殺そうとしたことを知ってから少しずつ思い出していたのだ。わたしには姉がおり、物心がつく前に失われたこと。母が過度な心配性になり、わたしを縛ろうとしたのはそれが原因であることも。
とても大事なことを少し前まで綺麗さっぱり忘れ、抑圧する母を恨んでばかりだった。わたしを追い詰め、押し殺そうとする苦しみから逃避するため、姉のことを頭の奥底にしまい込んだのだろう。実際のところどうだったかは分からない。いつの間にか忘れていたから。
「少なくともわたしはあなたを立派な人間だと思っていますし、里に住む人たちの多くも賛同するはずです。今回、心ない一部の人間が騒動を起こしたことは非常に遺憾なことであり、恥ずべきことであると考えています」
彼の話すことは誠実さに溢れており、言葉だけではなく実際に恥じいっていた。それがわたしにはちょっと意外だった。大人は恥を隠そうとするものだと考えていたからだ。
「わたしはこの世界を覆うシステムに守られている普通の人間に過ぎません。妖怪に対峙すれば無力でしかなく、あなたのような巫女の存在を心強いと感じています。でも、巫女をやめて人里に戻りたいと願うのなら歓迎します」
「そして代わりの柱を立てるのですか?」
わたしがいなければ、別の誰かが博麗の巫女になる。わたしの代わりに空を駆け、弾幕を交わし、人ならざる者が起こす事件を解決する。異変ともなればあらゆる権力や決まり事に優先し、時として異変の元凶と命のやり取りにも発展する。
わたしに同情するということは、わたし以外の誰かに同情しないということだ。仕方がない、お役目なのだからと諦めることだ。
「生意気と言われるかもしれないけど、あなたの憐れみは欺瞞でしかないと思います」
はっきり言ってのけると彼はがくりとうなだれ、辛うじて顔をあげる。善い大人をこのようにやりこめるのは少し気が引けたけれど、わたしにはまだ博麗神社という場所が必要なのだ。大人に負けるわけにはいかない。
「でも、ありがたいことです。わたしがやって来たことは無駄ではないし、あと五年をしっかり生きなきゃならないと思えますから」
おざなりな感謝の言葉を述べると彼は目元を抑え、鼻を鳴らした。わたしの態度を健気だと感じたのだろうか。欺瞞だと指摘するようなわたしをなおも憐れんでくれるのか。
彼はわたしから微妙に視線を逸らし。
「実はあなたに一つ隠し事をしていました」
今更ながらに秘密を打ち明けてきた。
「両親の許可は既に下りているんですよ。数日前に家を訪ねたら二人とも在宅でして、博麗の巫女の任期延長をどうするか確認を取りましたら、その……好きなようにすれば良いと」
特に隠すようなことではなかったが、わたしにショックを与えまいと配慮してくれたのだろう。それにしても好きにすれば良いとは、親としての責任を果たすつもりなどはもうこれっぽっちもないらしい。
マジックアプリという力を失い、日常に戻った母はいよいよわたしを持て余したらしい。もしかしたら続く五年のうちに弾幕の事故で死ねば良いと考えたのかもしれない。わたしが真意を知ることはおそらくないだろう。両親には死ぬまで会うつもりはないから。母は当然のこととして、追随するだけの父とも顔を合わせるつもりはなかった。
「では、好きなようにします」
両親は好きなように生き、わたしも自由に生きる。姉の死という決定的な溝が横たわる以上、無理に和解するより別々に生きていく方がお互いにとって幸せだ。
分かってはいたことだがより強く確信させられた。
彼は困ったことがあればいつでも言ってくれと、名刺を手渡していった。一応は受け取ったが、頼るつもりはなかった。同情してくれるのはありがたいが、いちいちあの調子では重苦しい。
わたしはいまや致命的に失われてしまったものを埋め合わせ、溢れるくらいに強く楽しく生きてやるのだ。あと五年は巫女として暮らし、その後をどうするかはまだはっきりと決めていない。
十年勤めれば高卒相当の認定証がもらえるから受験して大学に入るのも良いし、巫女としての活躍を活かして里の自警組織に入隊するという手もある。あと五年のうちにそれ以外の生き方が思い浮かぶかもしれない。
辺りを見渡せば秋の彩りはすっかり薄れ、冬が忍び寄ろうとしている。任期延長の祝いも兼ね、今日は久々に鍋でも作ろうか、材料を買いに行かなければとあれこれ算段を立てていると、目の前に見覚えのある境界が姿を現した。紫が正式な通達にやって来たのかと思ったが、姿を現したのは大きい方の紫だった。
「あんた、何しに来たのよ」
こいつは小さな紫と違い、実に厄介な妖怪である。気を許すことなく、いつでも対処できるよう身構えると、紫はわざとらしく微笑んでみせた。
「あら、ご挨拶ねえ。今日はお祝いを持って来たのに」
次の瞬間には秋野菜がごっそり詰め込まれたバスケットを手にしており、わたしは露骨に顔をしかめた。
「どうしたのかしら、お望みの品だと思ったのだけど」
「ええ、その通りよ。というかあんたさあ、人の心を読む術でも心得ているわけ?」
「乙女が秋深き空に心を寄せるならば、鍋を所望するのは当然の理と言えるでしょう」
わたしにはさっぱり分からない理屈だったが、要するにわたしはとても分かりやすく単純な思考の持ち主であるということだ。
「それで、本当は何の用で来たのよ」
「もちろん霊夢をからかうため……えっと、物騒な得物に手を伸ばすのはやめてくれると嬉しいんだけど」
隠し持っていた札と針を取り出しかけ、一息ついてから紫を睨みつける。次にからかったら今度こそ追い払うつもりだった。
「ちょっとね、謝りに来たの。わたしの呼び寄せたものが不必要に霊夢を傷つけてしまったから」
「自覚があるならこれ以上、異なる世界から厄介を呼び寄せるのはやめなさい」
「ええ、そうするつもりよ」
承知するわけがないとたかを括っていたから、あっさり受け入れられて面食らってしまった。
「罪が功を遙かに凌ぐと分かったから。一定の成果も得たことだし、これからは別の方向性で攻めるつもり」
と思いきや、まるで懲りた様子がない。まともな謝罪が飛び出すはずがないと思っていたが、これではわたしに喧嘩を売りに来たようなものだ。
「これからも騒ぎを起こし続けようと言うの?」
「ええ、黒幕って思いのほか楽しいと分かったから。郷の管理人をやっていた頃には決して味わえなかった愉悦を、まだまだ手放す気はないのよ」
やはりこいつはいま、ここで退治したほうが良いのではないかとも思ったが、紫はわたしの剣幕などまるで気にしておらず、からかうような笑みを浮かべるだけだ。
「だから、これからもよろしくね、博麗霊夢」
そう言い残すと紫は境界を開き、虚空へと姿を消す。わたしは苛立ちとともにバスケットを拾い、秋の幸をどう料理してやろうかと算段を立てながら、新調されたばかりの台所へ向かうのだった。
八雲紫が突如として現れ、自宅に案内してくれたのは秋もいよいよ終わり、初雪の気配が漂い始めた頃だ。
「月野菫子に会わせてあげる」
虚空から現れるやいなや、紫はそんなことを口にした。当然ながら前のめりになるわたしを紫は猛獣使いのように宥め、落ち着かせた。
「彼女は無事なんですか?」
「無事に決まってるじゃない、わたしをなんだと思っているのかしら?」
姿に似合わぬおっかない妖怪であると考えているが、口にはしなかった。
「傷がすっかり治ったことは保証する。依然としてじゃじゃ馬ではあるけど、破滅的な考えを弄ぶようなことはなくなったし、少しずつこちらの言い分にも耳を傾けるようになってきた。そこでわたしは次の段階へ進むことにした。ちょっとした刺激物を与えようと考えたのよ」
刺激物扱いされるのは業腹だが、機会を与えられたならばわたしとしては乗るしかなく。
了承と同時にわたしは心の準備を言い渡されることもなく、冥い亀裂に全身を飲まれ。
瞬間移動の副作用によって訪れる吐き気と目眩を必死に抑えながら前を見ると、こじんまりした庵が見えた。実力者の住まいとしては実にシンプルで、拍子抜けしてしまったほどだ。
「人を招く必要のない家ならこれくらいで十分なのよ。広いと手入れするのが面倒になる」
紫はわたしの心を読んだかのように説明すると横戸に手をかけ、顔だけ振り返る。来るの? 来ないの? とその目が告げていた。少しだけでも心の準備が欲しかったが、さっさと覚悟を決めて来いということらしい。わたしは意を決すると紫の後に続き、どうぞご自由にと奇妙な招かれ方をされ、八雲の邸(いえ)に足を踏み入れる。靴箱に置かれた調度品といい、年季の入った木造建築の独特の匂いといい、田舎住まいの親戚の家を訪ねた時のようで、奇妙な懐かしさを感じてしまった。
きいきいと僅かに軋む廊下をそろりそろりと歩き、奥へ奥へと進んでいく。外観からは想像できないほど長い廊下であり、紅魔館と同様の空間拡張が行われているのではないかと察せられた。
「着いた、この部屋よ」
紫は中にいる者の様子をうかがうことなく襖を開け、わたしはお邪魔しますと声をかけてから中に入る。
菫子は畳の上に寝転がり、本を読んでいた。近くにお煎餅の入った器があることから、時折菓子を摘みつつ、だらだらとしていたようだ。
菫子はわたしの顔を見て気まずそうな顔を浮かべると慌てて正座し、わたしを睨みつける。だが明らかに準備不足で、かつて対峙した時のような鋭さや迫力は微塵も感じられなかった。
「何よ、そのラスボスのくせにあっさり懐柔されやがって、みたいな顔は」
そんなことはちっとも考えていなかったし、今も負の感情に身を焦がしているのではないかと心配していたから、力を抜いて過ごせる時間があると分かって、ほっとしたのだ。
「言っておくけど、わたしはまだ諦めたわけじゃないからね。あなたもあんな不意打ちで勝っただなんて思わないこと。良い?」
隣には紫もいるのだが、別段気にしている様子はない。いつもの病気が始まったとでも考えているのか、いつでも受けて立つという余裕なのか。どちらにせよ、菫子はこれからも機会があれば幻想郷を乱すつもりのようだ。あるいは計画がおじゃんになり、捨て鉢になったのかもしれない。不穏なことを口にして紫を苛立たせ、敗者の惨めさを少しでも払拭しようとしているのだとしたら、乗っかることなく飄々と受け流すのは良い手だと言える。相手が惨めになるだけだから。
「そうですね、次は騙し討ちなしの真っ向勝負をしましょう」
「言ったわね? それなら、このちびっこ妖怪が封じたわたしの力を取り戻してよ。いくらアプリを操作しても、ちっとも起動しなくなったんだから」
いつか試しに操作したらアクセス不可になっていたので気にはなっていたことだが、菫子のアプリも使用禁止になっていたようだ。かつて大きいほうの紫は『物理的な対策はできない』と言ったが、論理的な対策ならいくらでも可能だったのだ。つまり彼女はわたしを欺いたということになる。
その手が使えるならアプリの使用など最初から許可しなければ良かったのでは? とも思ったが、そこは小さい紫が以前に話した「異変として解決される可能性」に賭けたのだろう。もしかすると大きい紫が小さい紫に直接、掛け合ったのかもしれない。何故かは知らないが、彼女は菫子の安否を酷く気にしていたようだから。
異変としての解決に失敗した場合、アプリの力を剥奪されたのち、然るべく処断されたに違いない。幻想郷を覆う秩序の破壊を志してはみたものの、結局のところは掌で転がされ続けたのだと思えば、酷い目に遭わされたけれど菫子への同情も少しは湧いてくる。
「わたしの力ではちょっと無理そうですね」
「なによ、使えないわねえ」
「ええ、わたしが使えるのは古臭い魔法だけです」
菫子は鼻を鳴らし、足を崩して胡座をかく。下着がちらりと覗いたが気にする様子もなく、だらしがないままなのはわたしを侮りたいのか、それとも……。
「そうね、だったら古臭い魔法でも良いわ。わたしに使い方を教えて頂戴」
などとあれこれ考えていたら、とんでもない提案をわたしに投げかけてきた。
「効率はずっと落ちるけど、わたしはほら……控えめにいって天才じゃない? 古い魔法だってきっと誰よりも使いこなせるようになる。あなたなんてそれこそ、ちょちょいのちょいで抜かしてみせる」
なんとも傲慢な態度であり、呆れることさえできなかった。薄々そうではないかと思っていたが、一連の強気な態度は強い力を得たからではなく全くの地金なのだ。プライドが高く勝気で、だからこそ元の世界で味わった挫折と屈辱が耐え難いものとなり、狂気にも似た感情を生み出してしまったのだろう。
今の菫子はそうした狂気からは解き放たれているように見える。紫が少しずつ懐柔していったのか、決闘に負けたことで心境の変化があったのか。わたしへの殺意も感じられず、多少の嫌悪を向けられているだけだ。
「分かりました、師匠に話を通してみます。わたし以外の弟子を取るかどうかは分かりませんが」
「大丈夫、わたしは是非とも弟子にしたくなりたいと思うくらいに優秀だから」
「ええ、まあ、そうでしょうね。その代わりといってはなんですが、一つ質問しても良いですか?」
「もしかしてマジックアプリの知識? だとしたらこの世界では使えなくなるから意味がないと思うけど」
「いえ、アプリの知識ではありません。かつてあなたはわたしにこう言いました。理解者になって欲しいと。今でもその気持ちは変わらないんですか?」
「そんなこと言ったっけ?」
あまりにも即答だったし、思い出そうとする仕草が可哀想なほど嘘臭い。先程の態度もそうだったが、心の準備ができていないと、かくも無惨に崩れてしまう人なのだ。
「思い出した、確かに言ったわね。情に絆されやすくちょろそうに見えたから。でも実際はわたしをぶん投げて結界をおじゃんにした。虫も殺せないような顔をして、小狡い手を打つ。おまけにわたしを散々、馬鹿にして」
「感情を揺さぶれば隙ができると思ったんです」
「そんなことでわたしを傷つけたの?」
「それが気にくわないなら」
わたしはスカートを気にしながら畳の上に正座すると。
「殴るなり蹴るなり、好きにしてください」
言って、菫子と正面から対峙する。かつて命を奪われかけたこともあるが、今の彼女にそこまでの感情はないと、これまでの会話から判断したからだ。
「そう? そこまで言うなら一発、叩かせなさい。それで何もかも水に流してあげる」
「あなたがかつて抱いた気持ちが、その程度で収まるならご自由にどうぞ」
一発叩かれた程度で全てが丸く収まるなら、喜んで右の頬を差し出すべきだった。それなのに我慢できず挑発するようなことを口にしてしまった。
菫子は怒りを露わにし、わたしの頬を容赦なく平手で打った。頬がひりひりするけれど、その程度の痛みはどうということもない。我慢できる。
それなのに次の瞬間、わたしは菫子の頬を叩き返していた。痛みに我慢できても、心が我慢できなかった。
掴み合いの喧嘩になり、互いに獣のような声をあげた。平手だけでなく拳も飛んだ。菫子の顔は痣だらけになり、わたしの顔もきっと同じようになっている。
何もかも出鱈目だった。わたしはこんな喧嘩のできる人間じゃないはずなのに、感情が溢れて止まらなかった。
わたしと菫子の悲惨な喧嘩はお互いが疲れ果てるまで続き、傍観者に徹していた紫が潮時と見て取ったのか、淡々とした態度で「二人ともお疲れ様」と声をかけてくる。
それでようやく我に返ったが、菫子は怒りがぶり返したのか、ここから出て行けと訴えてくる。覚束ない足取りで部屋から出ると、外で待機していたであろう九尾の妖怪に連れられて別室に案内され、丁重な治療を受けた。かくも酷い有様のわたしを見ても何があったかを問うことなく、冷静な態度であり、それがわたしにはありがたかった。
それからわたしを屋敷の外まで黙って案内し、まるで良い客人であったかのように見送ってくれた。
「あの、わたし……ご迷惑をおかけしました」
「構いません。こういうことがあるから用意しておけと、申し伝えられていましたから」
折角の配慮を無駄にしたと考えていたのだが、紫はわたしと菫子が喧嘩することを予想していた。でも、だとしたら何故、わたしをこの邸に招き、菫子と対面させたのか。あれではいたずらに態度を硬化させ、頑なにさせるだけなのではないか。
「わたしなどでは主の心を読み尽くすことなど到底、叶いませんが。あの菫子なる少女にとっては良い刺激になったと愚考しますよ」
「そんなものですかねえ……」
むしろ明らかに事態を悪化させたように思えたのだが、八雲の理屈ではそうではないのだろうか。
「もし心配なら、また会いに来れば良い。少なくとも紫様はあなたの訪問を妨げたりはしない」
「彼女はわたしに会ってくれますか?」
「大丈夫じゃないですかね?」
なんとも頼りないことだが、少なくともわたしはあのまま喧嘩別れでこれっきりというのは御免である。
「では、お言葉に甘えて近いうちにまた伺います。ところでわたしはどうやって帰れば良い……」
言い切る前にわたしは実に雑な境界によって、魔法の森にある自宅の前に届けられる。瞬間移動によって再び襲ってきた目眩と吐き気を堪えながら、わたしは。
菫子と取っ組み合いの喧嘩をしてきてぼろぼろのはずなのに。
何故かすっきりした気持ちで帰宅することができた。
わたしの家に貧乏神がやって来たのは、初雪とともに冬の到来した翌日だった。かつてあの粗末な小屋で目にした紫苑はほとんど力尽き果てていたが、今は多少の元気を取り戻しており、自力で歩ける様子だった。
その隣には天子がおり、わたしのいる所にやって来るまでは紫苑のことをひっきりなしに心配していたが、無事にたどり着くといつもの自信満々な態度を取り戻した。
「ということで、今日からここがお前の家よ。ここならば十分にみずぼらしいから、居心地も良いでしょう」
そしていきなり散々なことを口にする。
「いえ、わたしにはとても立派に見えます。でも、そうですね……なんだか少しだけ懐かしいというか、他よりも居心地は良さそうですよ」
紫苑はフォローしてるつもりかもしれないが、貧乏神の気に入る住処というのはどう考えても褒め言葉ではない。正と負の両極端だが、二人はほぼ同じことをわたしに向けて口にしたことになる。つまり腹立たしさ二倍だった。
「誰がここに住んで良いって言ったのよ」
「それはもちろん、わたしに決まってる」
あまりの堂々とした宣言で面食らっているうちに、天子はこの場から早々に立ち去ろうとしていた。
「あまり一緒に居過ぎると良くないから、わたしはこの辺で退場するわ。紫苑、お前はここで現代の貧しさを学び、しっかり順応しなさい。そうすれば一緒にいられる時間も少しは延びるでしょう。精進なさい」
「はい、天人様!」
紫苑はきらきらとした表情で天子を見送り、それからわたしにぺこりと頭を下げる。
「そんなわけで今日からお世話になります。迷惑しかかけないと思いますが、よろしくお願いしますね」
卑屈なことを堂々と言い切り、ぴんと張っていた背中を丸めて猫背になる。それだけで身長が一回り下がったように見えた。
「まあ、うん……」
許可していないが、紫苑を見放すことはできなかった。彼女が現代の貧しさを知り、順応するというのが、今回の異変における本当のゴールであると承知していたからだ。
博麗の巫女は異変において、いかなる決まりよりも優先される。その代わり、異変の解決は何より優先される。その決まりを破ることはできなかった。
「家事くらい手伝えるんでしょうね」
「掃除洗濯なら。炊事はその、女苑がわたしは台所に立つなと言われてるので」
「料理が下手なら教えるけど」
「どんなに教えても調味料をケチるから、味が薄すぎて食べられたものじゃないということらしく」
どうやら紫苑の貧乏性は徹底的に体にしみついているらしい。かつて少なくとも一度は矯正の努力が放棄されたとのことだが、今更ながらわたしにも納得できた。
「いや、わたしは現代の貧乏を身につけなければいけないから、料理もやらなくちゃ。贅沢に思えるほど調味料を使って、お粥には山菜を一種類加える。カレーはルーを水に溶かしただけじゃなく、勇気を振り絞ってじゃがいもを。いざ進めやキッチンという気概で頑張ろうかなと思います!」
実に前途多難だが、張り切る紫苑はなかなかに元気そうである。とはいえかつての様子が仮病というわけではなく。無性に気になってしまい。
「前に会った時はすぐにでも死にそうだったのに、随分と回復したようね。天子の計画がなくなったいま、里は貧困に傾いていないはずだけど?」
疑問を素直にぶつけると、紫苑はわたしに同意するよう大きく何度も頷いてみせた。
「それがここ数ヶ月で少しずつ体調が良くなりまして。女苑曰く、ソシャゲによって精神の貧しさが郷の至る所に蔓延したとのことでしたが」
紫苑の言っているソシャゲというのは例のアイドルゲームのことだろう。わたしは最近初めて無課金で少しずつ進めているが、貧乏神を元気にさせるほど人の心を貧しくさせるのはかなり邪悪なのではないだろうか。
「数年は保たせるから、そこまで心配しなくて良い、とのことでして。逆に言えばそれ以上は続かないし、人を傷つけることはない。それに悪影響といっても精々がレア煽りによる取っ組み合いの喧嘩程度だから心配無用、巫女にはそう説明しておいて」
紫苑は似ていない妹の物真似をし、空咳をする。流石に恥ずかしさが勝ったらしい。
「ではわたし、早速仕事を……」
空回りを誤魔化すため、慌てて殊勝な態度を見せたところで、紫苑は盛大にくしゃみをする。そこでようやく半袖にハーフパンツという、とても冬の寒空に出せる代物ではないことに気付いた。
「その前にまずは服ね。わたしより一回り大きいから窮屈かもしれないけど、暖かい服を貸してあげる」
「えっと、冬に暖かい服なんて贅沢では」
「つべこべ言わない、さっさとついてくる!」
「ひゃ、ひゃい!」
わたしは紫苑を引き連れて神社の中に入る。
しばらくはこの卑屈な貧乏神にかき回されることは間違いなく、それだけで溜息が出そうだったけれど。
新しい目標ができて、わたしはようやく前に。
巫女としての二期目に進むことができそうだった。
とはいえ苦労することはなかった。怪我人のわたしを見舞いに、あるいはきちんと生活しているかを心配し、毎日のように人や妖怪が姿を見せたからだ。山の幸や川の幸が積み重なり、冷蔵庫に入れて置けないくらいになった。
もちろん有り難いことだが、戸惑いもあった。師匠である魔理沙や友人である霊夢、佳苗ならまだ分かるが、それ以外の人や妖とそこまでされるほどの関係を築いたとは思えなかったからだ。
ある日、そのことをわたしの見舞いに来た魔理沙に打ち明けたら。
「もらえるものはもらっておけば良い」
身も蓋もない答えが返ってきた。
「心配しなくても、もらってばかりなんてことはないんだから気に病む必要はない。気楽にもらって、気楽に返せば良い。それにもらえるってことは貸しを作っておけば得すると判断されたわけだ。つまり実力を評価されたということだから、堂々と胸を張れば良い」
「そんなものですかねえ……」
いまいち釈然としなかったが、魔理沙はそういうものだと迷いなくごり押してくる。だから渋々、受け入れざるを得なかった。
とはいえ、心の底では納得できなかったのだろう。また別の日、わたしを見舞いに来た佳苗にも同じことを打ち明けてみた。
「他の人はどうか分からないけど、わたしは友達だから心配しに来たのよ。それとも美真はわたしのこと、友達だと思っていないの?」
よよよ……とわざとらしく声を立て、顔を覆うものだから分かった分かったそれで良いよと宥めるしかなかった。すると佳苗は舌を出し、面白そうに笑うのだった。
少し前までは友好を深めるにしてもこちらの顔色をうかがう仕草を見せたのだが、半年前くらいからすっかりとくだけてしまった。アイドル騒動と前後しての変化なので偶像を演じることによって心境が変化したかとも思ったのだが、そういうわけでもないらしく。
それとなく佳苗の行動や言動を観察したところ、霊夢への屈託が完全に消えており、それが原因であると推察することができた。
かつての二人の確執は小耳に挟むこともあったが、佳苗にとっては友達を作ることに致命的に失敗したという認識として重く心にのし掛かっていた。それがなくなったということは、おそらく霊夢がわたしのアドバイスを聞き入れ、わだかまりを解いたのだろう。
「もちろん、友達だと思っていますよ」
そんな霊夢に対抗したというわけではないのだが、わたしは恥ずかしいと思う気持ちを蹴飛ばし、いつもよりも素直に答えた。佳苗は特に照れることなく満足そうに頷くと。
「あと、美真は善良だからさ。弱味につけこむような奴が現れないかを心配するのかもしれない」
こちらが恥ずかしくなるようなことを平然と言ってのけた。
「わたし、そこまで善人ではありませんよ」
先の決闘でわたしは菫子の心を散々に揺さぶり、そこにつけ込もうとした。強い怒りに身を焦がし、未だ届かない恋に焦燥を抱いたこともある。悪行に顔をしかめることもあるが、それは人間なら誰しも抱く感情である。わたしは特別に善人ではない。弱々しくは見えるかもしれないが、だとしたらこれからも己を鍛え、強くなる必要がある。
「わたしよりはずっと善良だよ。わたしなんてそりゃもう酷いものだったから。逆恨み、嫉妬、憎悪、八つ当たりと子供じみた行為のオンパレード。仕えるべき神にも不遜を隠そうとしなかったし。今は少しだけマシになったけど、今回だって神様たちに麓で起きている事件には関わるなと命令されて少し不貞腐れたし、自由に動ける美真を羨ましいなあと感じてたりもしたんだから」
チャットや電話ではそんなこと、一度も口にしなかった。それどころかわたしが弱気を零したとき、自由に動けば良いと励ましてくれた。そして全てが終わった今になってわたしを力づけるために、わたしが善良であることを証明するために敢えて打ち明けてくれた。
わたしからすれば、佳苗のような心の持ち主こそ善良である。わたしは所詮、自分のことしか考えられない人間でしかない。
「ああ、そうだ。色々な人や妖が美真を訊ねたり、色々を世話を焼く理由なんだけどさ。なんというか、美真相手だと話しやすいんだよね」
「話しやすい、ですか? でも、わたしは話が上手いほうではありませんよ。一対一の会話もあまり得意ではありませんし、多人数での会話だと流れに乗ることができず、聞いているだけになることもしょっちゅうです」
「そういうのが良いんじゃないかな。ほら、幻想郷の住人って我の強い奴が多いから。わたしが仕える神様もさ、諏訪子様と神奈子様は本当に我が強い。早苗様が一つ引いて二柱を立てるから上手く収まってるわけ。うん、美真って早苗様に近いところがあるかな。早苗様も我の強い山の妖怪たちの訪問をよく受けるし、辛抱強く相手の話を聞いて柔和な態度で接するんだよね」
「そういうものでしょうか。いまいちピンと来ません」
「相手の話をいつでも聞くことができる人って、あまりいないと思うんだよね。わたしも話すほうが好きだし」
「聞き役というのは少数派ということでしょうか?」
「それもあるし、美真の場合は会話を円滑にするよう適切な相槌を入れたり、指摘を挟んだりするでしょう? そういうのを聞き上手って言うんだよ、きっと」
会話に対して受け身であるとは常々感じていたことだが、聞き上手と言われたのは初めてだった。どうにも面映ゆい評価だが、悪い気持ちではなかった。
「だからさ、お見舞いということもあるけど、美真に話を聞いてもらうチャンスだとも考えたのかもね」
「佳苗もわたしに話を聞いて欲しくて、お見舞いがてらにうちを訪ねてきたのですか?」
だとしたら少しだけ寂しいなと思ったのだが、佳苗は「そんなわけないじゃない!」と即座に返してきた。
「最初に言ったけど、わたしが今日訪ねてきたのは友人の安否を気にしたから。他に誰がこの家を訪ねたかは知らないけど、美真のことを心配してきたはずよ。それが一番大事で話を聞いてもらうのは二番目以降。美真は心配されているし、必要ともされている。もっと堂々とこの世界で生きて良いのよ」
この世界で堂々と生きて良いと佳苗は言った。するとわたしはこの世界=幻想郷に対し、未だに引け目を感じているということなのだろうか。
確かにそうかもしれない。ここはどこまで言ってもわたしの世界ではないのだから。わたしは何十年、何百年生きても異邦人であり、そのことを心の底から拭い去ることは決してできないのだろう。
でも、佳苗のような友人がいて、そんな彼女が堂々と生きて良いと言ってくれるならば。わたしはこの先ずっと、自信を持って生きていけるはずだ。
「そうですね、もう少しだけ師匠を見習ってみます」
佳苗はよろしいとばかりに頷き、わたしの発言を肯定してくれた。
それ以降は見舞い客を素直に受け止められるようになった。とはいえ全ての屈託が晴れたわけではなかった。異邦人としてのわたしが受け入れられたという事実は畢竟、この世界を受け入れられなかった異邦人=菫子の存在をつきつけられるということだからだ。
わたしが屈折せずに済んだのは魔理沙がわたしを庇護し、様々な圧力や監視から守ってくれたからだ。彼女にもそんな人がいてくれたら、己の技術や能力を人間至上主義や、幻想郷からの人ならざるものの排除などという方向には進めなかったかもしれない。
怪我から快復して真っ先に訪れたのが博麗神社だったのは、同じ異変に対峙した霊夢が菫子という存在をどのように考えているかが知りたかったからだ。
休息の間に修理した箒の試運転も兼ね、博麗神社を訪ねてみたが、とても質問できる空気ではなかった。神社の境内で霊夢と天子が木刀による打ち合いをしていたのだ。稽古をしているのかとも思ったが、それにしては緊迫し過ぎており、そして二人の戦いを紫がじっと見守っていた。
「あの、これは……」
小声でそっと訊ねると、紫は試合から目を離すことなく簡潔に答えてくれた。
「これはね、あの日中断された決闘の続きなの」
霊夢と天子の決闘がどのように運び、横槍を入れられたかについては当の本人から話を聞いていた。彼女もまた、わたしを見舞いに訪れた一人だったからだ。霊夢自身も大変だったはずなのに、けろりとした顔で姿を現した。霊夢は魔理沙の家より綺麗なことを褒め、それから功を労ってくれた。次にささやかな情報交換が行われ、そこでわたしは決闘の次第を知ることとなった。
「霊夢はわたしの一撃をきっと防いだだろうし、となると次はお互いの得物による打ち合いになるだろう。天子はそう主張し、弾幕や能力を全く使わない、刀を交える決闘を提案したの」
その言い分は決闘を阻害した菫子を否定するため、口にされたのだと思っていた。だが天子は霊夢が凌ぎきることを本気で信じていたのだ。霊夢はそのことを全く信じていなかったし、わたしも聞いたときは苦しい理屈であるなと感じた。
その上で、わたしはこう答えた。
『でも、霊夢さんならできたかもしれません』
菫子が放つ魔砲を霊夢は結界によって受け止め、わたしが起死回生の一撃を放つまで耐え凌いでくれた。だから天子が放つ最大の技も受け止めきった可能性はある。
根拠も含め、話して聞かせると霊夢は面食らったような顔を浮かべたのち。
『なるほど……』
それだけを呟き、他には何も言わなかった。納得してくれたかは分からないが、可能性の一つとして受け入れてくれたようだった。
「最初は断ったんだけど、少しして考え直したの。剣のみの戦いで決着をつけると」
そう決心したなら、わたしの言葉が上手く届いたということなのだろうか。いや、霊夢としては天子を信じるきっかけがあれば良かったのかもしれない。師匠というのはなんだかんだ言って、正しいことを口にするものだから。魔理沙も性格に若干の難はあれど、わたしに対する助言はいつも正しいのだ。
「で、試合のほうは……」
途中で質問を切ったのは、訊くまでもないことだったからだ。何度も打たれたのか、霊夢の肌には痛々しい腫れが覗き、対する天子は傷一つどころか汗一つ掻いていない。明らかに翻弄され、やりこめられていた。
「規格外のスペックに埋もれがちだけど、天子は並外れた剣の腕前を持っている。純粋に剣技での勝負となったら、霊夢にいよいよ勝ち目はない。弾幕決闘のほうがまだ勝ちの目はあった。だからわたしは天子の主張を否定し、弾幕決闘から仕切り直すよう提案したのよ。でも、霊夢は己を曲げなかった。全く、わたしに逆らうことばかり上手くなるわ」
だとしたら、わたしは間違った答えを霊夢に選ばせたことになる。思わず目を背けたくなったが。
「目を反らしては駄目よ。最後まで見届けなさい」
紫はわたしに逃げることを許さなかった。もしかするとわたしの助言が霊夢を心変わりさせたのだと気付いているのかもしれない。
お前が悪いと、紫は言いたかったのだろうか。
一方的な試合はわたしに考える暇を与えなかった。天子の剣技は始終圧倒的で、霊夢の全身を容赦なく打ち、疲労は目に見えて分かるほど急速に蓄積していく。
今すぐやめてと叫びたかったが、できなかった。何故ならば、霊夢はいくら打たれても倒れても天子に立ち向かっていったからだ。なんとか一矢だけでも報いるため力と技の全てを振り絞っていた。
「霊夢、お前の覚悟はその程度なの?」
それなのに天子は霊夢の覚悟のなさを容赦なくなじる。異変を起こそうとしたのは彼女なのに自分勝手だと思ったが、幻想郷に住まう強者は多かれ少なかれ自分勝手でわがままで傲慢で、そして我を通そうとする。
確かに佳苗の言う通りだった。幻想郷は我の強い奴らで溢れており、人間が対峙するならばときとして傷つくことさえ厭わない覚悟がいる。霊夢はその覚悟ができる人だ。わたしなんかよりずっと強い。
霊夢はぼろぼろになりながら天子の言葉に応え、これまで以上に気合いのこもった表情とともに打ちかかり、鋭い太刀筋で天子の脳天に見事な一撃を与えた。とはいえ、霊夢も無事だったわけではない。天子の一撃は霊夢の胴をしたたかに打っていた。双剣相討ち、そして倒れたのは霊夢だけだった。天子は木刀で頭を打たれたというのにけろりとしており、まるで動じることがなかった。霊夢も身体の強化は行っていたのだろうが、天人と同様の強度を獲得するには至らなかったのだろう。
ほぼ一方的な勝利であるが、天子の表情は優れず、重々しい溜息すらつく始末だった。
「迷わずに防御を捨てて打ってきたわ。二の太刀要らずなんて言葉もあるけれど、それは次善の策を捨てろという意味ではないのに」
そう言って、天子は紫を恨めしそうに睨みつける。
「実に立派な博麗の巫女だわ。使命のためなら命さえ捨てる覚悟を叩き込んだってわけ?」
「そうね、それは否定しない。異変解決は巫女の誰より何より重要な役目だもの。一命を賭する覚悟がいる。でもね、若き命を散らしても良いと考えているわけではないのよ」
「では、霊夢がわたしに打たれて命を落とすとは考えなかったの?」
「考えなかった、これっぽっちも。だってお前、霊夢の命を脅かすような一打は全く打たなかったから」
紫の指摘に天子は険を収め、苦々しく顔をしかめる。隠していた悪戯がばれて気まずい子供のようだった。
「頭部を打たない、突きもなく、後遺症が残るような打もない、最後の一撃だけは違ったみたいだけど」
「そうね、完全に防御を捨てていたからこちらとしても強く反応せざるを得なかった。覚悟と言ったって普通、少しは保身を考えるし、考えろと教えたわ。教えただけじゃなく、かつての稽古を通して体に叩き込んだ。それをあっさり超えてくるんだから戸惑い、加減を忘れもするでしょう?」
その必死さから、天子が見た目よりずっと動揺しているのがわたしにも伝わってきた。紫はそんなこと最初から分かっていると言わんばかりに解説を続けていく。
「それにお前は本分の剣を振るわなかった。その硬さで斬撃を受けながら強引に打ちに行くのが本来の形のはずなのに、受け続けての隙を突く形を貫いた。そこまでされて見抜けないほどわたしも節穴じゃない。いや、相手の力量をきちんと見抜けなかったりと、今回はわたしも節穴なところがあったけれど、それはそれね」
さりげない弁明を絡めつつ天子の行いを指摘し尽くすと、紫はからかうような態度から一転。
「それでお前は霊夢に勝ったわけだけど、これからどうするつもりなの?」
天子を厳しく問い質し、二人の間に緊迫が走る。わたしは霊夢が天子の問題を解決できなかった場合、紫が手を下す予定であることを思い出し、咄嗟に身構える。わたしの技量で可能かどうかは分からないが、ここで二人が争い始めるなら割って入るつもりだった。
だが、天子は実にあっけらかんと。
「どうもしない」
そう口にして場の緊張を解いた。
「あれだけ大きな騒ぎにしておいて随分とあっさりな幕引きじゃない。弟子の覚悟に心を打たれたのかしら?」
「わたしが霊夢の覚悟を計ろうとしたのは確かよ。その強さを通してわたしが取るべき道を決めようとした。霊夢がどれだけ敵わなくてもなお、わたしに全力を尽くせるなら紫苑の決意と覚悟を信じられると思ったの」
「天下の天人様にしては随分と臆病な行為だこと」
「この世に決して喪ってはならないものができたら、わたしだって臆病風に駆られもする」
天子は堂々と宣言し、紫の揶揄を跳ね返す。
「でもね、わたしは愚かだった。というか教育が足りなかったと言うべきかしら。あっさりと命を捨てるような戦い方をわたしは教えていない。それは命を賭けるのとは全くの別物よ。そんなことさえ霊夢に教えていない自分自身に憤慨しているの。二度とそんな選択をさせないためには、改めて教え直すしかない」
「だから、どうもしないわけね。その選択のせいでお前の大事な貧乏神が消えてなくなるとしても」
紫の容赦ない指摘は天子を明らかに傷つけた。まるで迷い子のような顔を浮かべ、助けを希う弱さを見せた。だが次の瞬間にはいつもの天子に戻り、大きく頷いた。
「それならば、わたしも依神紫苑の存命に力を尽くす。新しい幻想郷に貧鈍を呼び込む神は不要だと思い、誰とも触れ合うことのない僻地に放置したけれど、彼女もまた幻想郷の住民であることに変わりはないから」
「幻想郷は全てを受け入れる、ということ?」
「ええ、わたしはそれを素敵なことだと信じている」
紫はそう言い切ると、その小さいなりで霊夢をひょいと担ぐ。わたしより幼く見えてもそこは妖怪なのだ。人間の膂力など遙かに越えているに違いない。
「わたしは霊夢を床につかせるから。そこの魔法使いは何かの用で神社に来たと思うけど、後日にして頂戴」
わたしの用は霊夢と話をすることであり、叶わないなら神社を去るしかなかった。だが、この場に天子がいるなら話はまた違ってくる。
用が終わり、帰宅しようとする天子を、わたしは意を決して呼び止める。
「あの、すみません。問題なければ、わたしと一勝負してもらえませんか?」
かつて無様な完敗を喫した時からずっと、再戦の機会をうかがっていたのだ。こんなにも早く二人きりで話のできる状況が生まれるとは思わなかった。
天子はわたしの顔をまじまじと眺め、訝しむように目を細める。その顔には猜疑の色が濃く滲んでいた。
「お前はあの時の魔法使いよね。わたしに完膚なきまで叩きのめされたのがそんなに悔しいの? 今度は勝つ算段があるってこと?」
「いえ、そういうわけじゃありません。勝てるとは思っていませんが、もっと良い負け方があったのではないかと、ずっと考えていました」
かつてのわたしは力を出し切ることなく、中途半端に負けてしまった。それでは何も得ることができないし、進むこともできない。
「また負けるために戦うってこと? わたしには被虐趣味者をいたぶる趣味はないんだけど」
「わたしは被虐趣味者ではありませんよ」
「そう……なら、憂さ晴らしに付き合って頂戴。霊夢との決闘があんな形で終わってしまい、気持ちを持て余してるのよ。ぱーっと発散させてくれるかしら?」
わたしは唾を飲み、それから大きく頷く。今度こそ持てる力を全て出しきることができるよう祈ると、わたしは新たな箒を駆って空に昇るのだった。
目が覚め、咄嗟に体を起こそうとしたわたしは、全身の痛みで顔をしかめる。そして痛みが天子との決闘の一部始終を嫌でも思い出させてくれた。
清々しいまでの一方的な敗北だった。捨て身の一撃ですら辛うじて相打つのが精一杯で、天子には傷一つ与えることができなかった。
不甲斐なさに大きく息をつき、痛みをおして再び立ち上がろうとした。体がまるで錆びた機械のようにぎこちなくきしきしと音を立てているかのようだったが、気合いでねじ伏せてなんとか上半身を起こす。
わたしが負けたのだから天子は異変を起こしに人里へと赴くはずである。紫は本気で牙を剥くはずだし、幻想郷の重鎮たちも天子を追い立てるかもしれない。怪我の治りを待つ時間など残されていない。
体をよじり、立ち上がろうとしたところでわたしは隣に敷かれた布団と、そこで眠る美真の姿を目にする。彼女がどうしてわたしと同じ部屋で寝ているのだろうか。
「あっ、こら怪我人は寝てないと」
聞き覚えのある声が耳を打つ。体が痛まないようそろりそろりと振り向けば、七つの尾を持つ式神の橙が薬箱を手にしているのが見えた。
「でも、こんな所で休んでいる場合じゃないの」
「いや、休んでる場合だよ。天子はもう天変地異を起こしたりしないから安心して」
そんなことを言われても、わたしは負けたのだ。天子はいよいよ異変を起こすだろうし、そうすれば紫を始めとした郷の重鎮によって処断を下されるはずだ。
「その嘘を吐いてるんじゃないって顔、傷つくなあ。わたしは本当のことを口にしているよ。霊夢はさ、あの分からず屋の気持ちを曲げるほどの覚悟を示したんだよ。だから天子も紫苑を救うため、里を破壊して貧困を生み出すことをやめた。疫病神が提示した解決案に乗ることにしたのさ」
「本当に? わたし、自分に何かができたなんてとても思えないのだけど」
橙はわたしの疑問に答えず、無口のまま近付くと布団を剥ぎ、肩にそっと手を当てる。全く力が込められていないのに、わたしはなす術なく枕に頭を預けてしまい、体にも力が入らない。妖術か何かの類だろうか。
「いつになく自信がないみたいね。だからあっさりと命を捨てるような真似をしたの?」
「違う、わたしは覚悟を示そうとしただけで……」
「それで命を捨てる選択をするのは正常じゃない。紫様も言っていたけど、霊夢は心がとても疲弊している。まともな選択をくだせるような状況じゃない。先の異変は霊夢の心を酷く傷つけ、損耗させたと見るべきよ」
声こそ穏やかだったが非常に手厳しく、わたしは何も返すことができなかった。
「怪我の功名とは言えないかもしれないけど、傷が治るまでゆっくり休むこと。何も考えないでだらだらすれば良い。神社のことや身の回りのことはわたしが世話をするから。というかもう、世話を焼いてるんだけどね」
言われて初めて、巫女服ではなく寝間着を着ていることに気付いた。鼻を鳴らしてみればハッカ臭いし、肌の至るところにべたべたした感触がある。
「知り合いの薬師に頼んでよく効く湿布や塗り薬を包んでもらった。普通の生活ができるまで半月、完治には一月ほどかかると言ってたよ」
橙はそう言ってわたしの服を脱がし、手際良く湿布を貼り付けていく。ひりひりと染みて熱っぽいのはきっと薬が効いている証拠なのだろう。
「よし、交換完了。お腹が空いたなら用意するけど」
そんな気分じゃないと言いたかったが、腹の虫は見事に正直だった。ぐうぐうと派手な音を立て、当然のことながら橙には苦笑された。
「消化の良いものを用意するよ」
「色々と迷惑をかけるわね」
「いやあ、実を言うと神社勤めのほうがやることは少ないから気楽なのよ。わたしのご主人様ったらいちいち真面目だから、いつも仕事に追われてばかり。あれこれ任されるのはわたしが優秀だってことだから悪い気はしないけど、たまには息抜きの一つもしたいの。だから霊夢は無理して早く治ろうとしなくても良し!」
橙はわたしに新しい下着と寝間着を着せ、指差し確認すると上機嫌そうに部屋を後にする。神社勤めのほうが気楽というのはどうやら嘘ではなさそうだった。
何もすることがなく、眠気が襲うこともなく。かといって別のことをするだけの気力もない。橙が妖術をかけたせいかと思っていたが、どうやらそうではなくて。わたしの心が本当に空っぽなのだということらしい。
異変が片付き、やることがなくなって安堵したのだろうか。でも、これまでに関わってきた異変の後で今のように脱力することはなかった。
思い当たる節はあるが、考えたくなかった。気持ちを切り替えたくてもぞもぞしていると、隣から寝ぼけ眼の声が聞こえ、そろりそろりと横を向く。美真は目を覚ましており、わたしの顔を見て僅かに驚きを見せたが、すぐに納得してみせた。
「こんにちは、お世話になっています」
そして暢気な調子で話しかけてきた。
「いや、お世話してるのは紫の式の式なんだけど」
「あら、そうなんですか」
「で、どうして美真が隣で寝てるのよ。ずっと気絶していたからその辺りの事情が全く分からないのだけど」
「それはですね、話すと長くなりますが、簡潔に纏めれば比那名居天子と決闘し、負けてしまったのですよ」
意味が分からなかった。天子と決闘したのはわたしで、美真には戦う理由などないはずだった。それなのに何故、決闘する必要があるのだろうか。
「女には意地を貼らなければならない時があるということですよ。その辺りを語ると本当に恥ずかしいので、どうか勘弁してもらえると」
美真は困ったなあと言いたげに苦笑する。彼女の考えることはたまに本気で分からないのだが、わたしの敵を討とうなどという仰々しい理由ではないと分かっただけでも良しとすることにした。
「ところでお互い、床に臥せている状況でなんですが。取り留めのないお喋りというのは可能でしょうか?」
かと思えばいきなり妙なことを提案してくる。少し前に病床の美真を訪ねた際、情報交換がてら雑談を交わしたのだが、それでは足りなかったということだろうか。
「ずっと眠ってたせいか眠くならないの。この体では他にやることもないし、暇潰しくらいにはなるわね」
美真の提案は渡りに船だったが、仕方なくを装った。気落ちしているのを悟られたくなかったからだが。
「では遠慮なく。その、霊夢さんは彼女……菫子さんについてどう思っていますか?」
いきなり重たいことを訊いてきた。美真は聞き役であることが多く、その場合には相槌や疑問を挟んで話を上手く回してくれるのだが、本人から話題を切り出す時はなんというかこう、良くも悪くも遠慮がない。
聞くときは空気を読むが、話すときには読まないというタイプなのだろう。研究者気質に多いタイプだ。
「なんとも言えない、というのが正直なところね。実際のところ、わたしは彼女を何も知らないのよ。人里に奇妙な教えを広め、力を分け与え、郷を害そうとした。最後には異変に認定され、わたしと美真によって退治された。現在は紫の家で療養中とのことだけど、近況は何も語ってくれなかった。改心の見込みがあるかどうかも分からない」
率直なところを語ったが美真の表情は優れなかったし、あの説明で納得してもらえるとは思わなかった。というか美真がどのような屈託を抱え、解消したいと考えているのかが伝わって来なかった。
「美真のほうこそ、どう思っているのよ」
「そうですね……異邦人同士ですから交友を深めたいとは考えていますが、逆鱗に触れて殺されかけましたからね。向こうの方では顔も見たくないかもしれません」
力なく笑う美真を見て、明らかなショックを受けているのがはっきりと分かった。もしかすると彼女は誰かから本気で嫌われるのが初めてだったのかもしれない。自分の世界に没頭するきらいはあるが、根は善良だし、思いやりもある。八方美人特有の誰にも良い顔をするという悪癖も存在しない。嫌いようのない性格をしている。
わたしは割とずけずけものを言うほうだし、気が短いほうだという自覚がある。ときには癇癪を起こしたりもするし、大人の言うことでも間違っていればはっきりと指摘する。わたしを生意気だと思う大人は確実に存在するし、実際に酒の席で小耳に挟んだこともある。仮面を被った大人たちの中には、わたしをあっと言わせたいという動機を持っていた輩もいたかもしれない。
そして何よりも酷い事実がある。わたしは実の母に憎まれ、神社を焼かれそうになり、先日は容赦のない弾幕によって殺されかけた。
そういったことをざっくばらんと語ることもできたが、美真の気持ちは晴れないだろう。わたしが誰かに嫌われているという事実は、単なる同情を誘うだけだ。
「その辺りはきっかけとタイミング次第ってところもあると思う。わたしと佳苗だってさ、博麗の巫女という立場を取り合うことがなければ険悪になることはなかったけど、逆に今みたいに仲良くなることもなかった。お互いに無関心のままで終わったはずよ。そう考えると、嫌われるってそこまで悪くないのかもしれない」
だから仲直りできた例を挙げることにした。美真にとっては既知の問題かもしれないが、険悪は無関心より互いの関係を深め合う可能性はずっと高い。
半ば自分に言い聞かせた面はあるが、美真はわたしの話を疑うことなく真剣に聞いてくれた。
「これから次第ってことなんですかね」
「だと思う。そう思いたいなあ……」
揃って溜息を吐き、余計に気が滅入ってくる。でも、先程よりは僅かに気持ちが上向いてきた。
わたしに必要だったのは気持ちを溜め込むことではなく吐き出すことだったらしい。
「すみません、全く取り留めのない会話ではありませんでしたね」
「気にしないで、わたしも色々と吐き出せたから」
「そうですか……霊夢さんの気持ちの捌け口になれたなら不躾さも帳消しになるというものです」
会話が途切れ、沈黙が押し寄せてくる。気まずいわけではないが、今度は本当に取り留めないことを話すべきではないかと美真の様子をうかがい、思考に耽る表情を見て口を噤んだ。
それも橙が食事を運んでくることで途切れ、美真はそのまま家に帰っていった。わたしと違い、そこまでのダメージを受けているわけではなかったらしい。
帰り際、美真は珍しい提案を投げかけてきた。
「霊夢さんの怪我が治ったら、佳苗と三人でお泊まり会でもしましょうか。佳苗も今回の件で溜め込んでいるものがあるようですし。取り留めのない会話をつまみに酒を囲みましょう」
わたしは痛む体で頷き、歓迎の旨を伝える。友達同士でわいわいと騒ぎ、悲しいことや苦しいことを押し流して。そうすればわたしを嫌っている人がいる社会でもなんとか平然とした顔をして暮らしていけるだろう。
悲しいことだけどきっと、それがわたしの選んだ道なのだ。
何もすることがなく、臥せるだけの半月というのは驚くほどゆっくりと過ぎていき、退屈で仕方なかった。いや、訪問客がひっきりなしだったから全くの暇というわけではないのだが、神社の管理や経営、持ち込まれる問題事への対処などいつもの仕事がないと、手持ち無沙汰になる。
「それはワーカホリックだよ、若いうちからあまり働き過ぎないほうが良いと思うけどなあ」
などと冷やかしに来た酒飲み鬼が口にした翌日には。
「病床が暇だと感じるのは非常に健全なことです。仕事に励み、鍛錬を積み、己を高めることが骨の髄まで染み着いているということですからね。関心関心」
見舞いに来た仙人が全く逆のことを主張する。
どちらが正しいかと考えるつもりはなかった。強いて言うなら足して二で割るのが丁度良さそうだと感じた。
というわけで健康体に戻ったわたしは程々に巫女の業務を再開しようとしたのだが、そんな折に人里から役所の人が直々に、博麗神社にやってきた。
「病み上がり早々、こんな話をするのもなんですが、巫女の任期延長の期限が迫ってきています。先の頃はご両親の許可がいただけなかったということですが、その後の進展はどうかなと思い、足を運んだ次第です」
天子が起こそうとした異変が未然に防がれ、魔法教団の計画も菫子の敗北と消失によりおじゃんとなった。全てが解決したし、紫も何も言ってこないから、巫女の任期は恙なく延長されたのだと思っていた。
「上司からは巫女の適任があなた以外にいないと、改めて通達がありました。それはわたしとしても疑う余地はありませんし、是非ともお願いしたいところです」
「それならば、問題はないと思いますが」
「そうでしょう、仰ることは分かりますが……本当に良いのですか?」
「と、言いますと?」
彼がわたしに何を伝えたいのかが分からなかった。
「巫女の任期は二期十年が最長となっていますが、これまでの巫女は全て一期五年を勤めたのち里に帰っています。巫女は過酷な職業ですし、親元を離れて暮らさなければなりませんから」
わたしは親元に帰りたくない。あんな親のいるところに一秒だっていたくない。二期十年を満了したら一人暮らしを始め、親と関係のない生涯を全うしたい。
「巫女はわたしに向いている職業なんです」
嫌悪を隠し、それだけを淡々と伝える。
「それは重々承知していますし、両親との関係が良好ではないことも知っています。姉が妖に襲われ、幼くして鬼籍に入ったことも」
姉という一語に、わたしは息が詰まりそうになる。紫も遠子も美真も、他の誰も指摘しなかったことだから、心の準備ができていなかった。
母が神社に放火し、わたしを殺そうとしたことを知ってから少しずつ思い出していたのだ。わたしには姉がおり、物心がつく前に失われたこと。母が過度な心配性になり、わたしを縛ろうとしたのはそれが原因であることも。
とても大事なことを少し前まで綺麗さっぱり忘れ、抑圧する母を恨んでばかりだった。わたしを追い詰め、押し殺そうとする苦しみから逃避するため、姉のことを頭の奥底にしまい込んだのだろう。実際のところどうだったかは分からない。いつの間にか忘れていたから。
「少なくともわたしはあなたを立派な人間だと思っていますし、里に住む人たちの多くも賛同するはずです。今回、心ない一部の人間が騒動を起こしたことは非常に遺憾なことであり、恥ずべきことであると考えています」
彼の話すことは誠実さに溢れており、言葉だけではなく実際に恥じいっていた。それがわたしにはちょっと意外だった。大人は恥を隠そうとするものだと考えていたからだ。
「わたしはこの世界を覆うシステムに守られている普通の人間に過ぎません。妖怪に対峙すれば無力でしかなく、あなたのような巫女の存在を心強いと感じています。でも、巫女をやめて人里に戻りたいと願うのなら歓迎します」
「そして代わりの柱を立てるのですか?」
わたしがいなければ、別の誰かが博麗の巫女になる。わたしの代わりに空を駆け、弾幕を交わし、人ならざる者が起こす事件を解決する。異変ともなればあらゆる権力や決まり事に優先し、時として異変の元凶と命のやり取りにも発展する。
わたしに同情するということは、わたし以外の誰かに同情しないということだ。仕方がない、お役目なのだからと諦めることだ。
「生意気と言われるかもしれないけど、あなたの憐れみは欺瞞でしかないと思います」
はっきり言ってのけると彼はがくりとうなだれ、辛うじて顔をあげる。善い大人をこのようにやりこめるのは少し気が引けたけれど、わたしにはまだ博麗神社という場所が必要なのだ。大人に負けるわけにはいかない。
「でも、ありがたいことです。わたしがやって来たことは無駄ではないし、あと五年をしっかり生きなきゃならないと思えますから」
おざなりな感謝の言葉を述べると彼は目元を抑え、鼻を鳴らした。わたしの態度を健気だと感じたのだろうか。欺瞞だと指摘するようなわたしをなおも憐れんでくれるのか。
彼はわたしから微妙に視線を逸らし。
「実はあなたに一つ隠し事をしていました」
今更ながらに秘密を打ち明けてきた。
「両親の許可は既に下りているんですよ。数日前に家を訪ねたら二人とも在宅でして、博麗の巫女の任期延長をどうするか確認を取りましたら、その……好きなようにすれば良いと」
特に隠すようなことではなかったが、わたしにショックを与えまいと配慮してくれたのだろう。それにしても好きにすれば良いとは、親としての責任を果たすつもりなどはもうこれっぽっちもないらしい。
マジックアプリという力を失い、日常に戻った母はいよいよわたしを持て余したらしい。もしかしたら続く五年のうちに弾幕の事故で死ねば良いと考えたのかもしれない。わたしが真意を知ることはおそらくないだろう。両親には死ぬまで会うつもりはないから。母は当然のこととして、追随するだけの父とも顔を合わせるつもりはなかった。
「では、好きなようにします」
両親は好きなように生き、わたしも自由に生きる。姉の死という決定的な溝が横たわる以上、無理に和解するより別々に生きていく方がお互いにとって幸せだ。
分かってはいたことだがより強く確信させられた。
彼は困ったことがあればいつでも言ってくれと、名刺を手渡していった。一応は受け取ったが、頼るつもりはなかった。同情してくれるのはありがたいが、いちいちあの調子では重苦しい。
わたしはいまや致命的に失われてしまったものを埋め合わせ、溢れるくらいに強く楽しく生きてやるのだ。あと五年は巫女として暮らし、その後をどうするかはまだはっきりと決めていない。
十年勤めれば高卒相当の認定証がもらえるから受験して大学に入るのも良いし、巫女としての活躍を活かして里の自警組織に入隊するという手もある。あと五年のうちにそれ以外の生き方が思い浮かぶかもしれない。
辺りを見渡せば秋の彩りはすっかり薄れ、冬が忍び寄ろうとしている。任期延長の祝いも兼ね、今日は久々に鍋でも作ろうか、材料を買いに行かなければとあれこれ算段を立てていると、目の前に見覚えのある境界が姿を現した。紫が正式な通達にやって来たのかと思ったが、姿を現したのは大きい方の紫だった。
「あんた、何しに来たのよ」
こいつは小さな紫と違い、実に厄介な妖怪である。気を許すことなく、いつでも対処できるよう身構えると、紫はわざとらしく微笑んでみせた。
「あら、ご挨拶ねえ。今日はお祝いを持って来たのに」
次の瞬間には秋野菜がごっそり詰め込まれたバスケットを手にしており、わたしは露骨に顔をしかめた。
「どうしたのかしら、お望みの品だと思ったのだけど」
「ええ、その通りよ。というかあんたさあ、人の心を読む術でも心得ているわけ?」
「乙女が秋深き空に心を寄せるならば、鍋を所望するのは当然の理と言えるでしょう」
わたしにはさっぱり分からない理屈だったが、要するにわたしはとても分かりやすく単純な思考の持ち主であるということだ。
「それで、本当は何の用で来たのよ」
「もちろん霊夢をからかうため……えっと、物騒な得物に手を伸ばすのはやめてくれると嬉しいんだけど」
隠し持っていた札と針を取り出しかけ、一息ついてから紫を睨みつける。次にからかったら今度こそ追い払うつもりだった。
「ちょっとね、謝りに来たの。わたしの呼び寄せたものが不必要に霊夢を傷つけてしまったから」
「自覚があるならこれ以上、異なる世界から厄介を呼び寄せるのはやめなさい」
「ええ、そうするつもりよ」
承知するわけがないとたかを括っていたから、あっさり受け入れられて面食らってしまった。
「罪が功を遙かに凌ぐと分かったから。一定の成果も得たことだし、これからは別の方向性で攻めるつもり」
と思いきや、まるで懲りた様子がない。まともな謝罪が飛び出すはずがないと思っていたが、これではわたしに喧嘩を売りに来たようなものだ。
「これからも騒ぎを起こし続けようと言うの?」
「ええ、黒幕って思いのほか楽しいと分かったから。郷の管理人をやっていた頃には決して味わえなかった愉悦を、まだまだ手放す気はないのよ」
やはりこいつはいま、ここで退治したほうが良いのではないかとも思ったが、紫はわたしの剣幕などまるで気にしておらず、からかうような笑みを浮かべるだけだ。
「だから、これからもよろしくね、博麗霊夢」
そう言い残すと紫は境界を開き、虚空へと姿を消す。わたしは苛立ちとともにバスケットを拾い、秋の幸をどう料理してやろうかと算段を立てながら、新調されたばかりの台所へ向かうのだった。
八雲紫が突如として現れ、自宅に案内してくれたのは秋もいよいよ終わり、初雪の気配が漂い始めた頃だ。
「月野菫子に会わせてあげる」
虚空から現れるやいなや、紫はそんなことを口にした。当然ながら前のめりになるわたしを紫は猛獣使いのように宥め、落ち着かせた。
「彼女は無事なんですか?」
「無事に決まってるじゃない、わたしをなんだと思っているのかしら?」
姿に似合わぬおっかない妖怪であると考えているが、口にはしなかった。
「傷がすっかり治ったことは保証する。依然としてじゃじゃ馬ではあるけど、破滅的な考えを弄ぶようなことはなくなったし、少しずつこちらの言い分にも耳を傾けるようになってきた。そこでわたしは次の段階へ進むことにした。ちょっとした刺激物を与えようと考えたのよ」
刺激物扱いされるのは業腹だが、機会を与えられたならばわたしとしては乗るしかなく。
了承と同時にわたしは心の準備を言い渡されることもなく、冥い亀裂に全身を飲まれ。
瞬間移動の副作用によって訪れる吐き気と目眩を必死に抑えながら前を見ると、こじんまりした庵が見えた。実力者の住まいとしては実にシンプルで、拍子抜けしてしまったほどだ。
「人を招く必要のない家ならこれくらいで十分なのよ。広いと手入れするのが面倒になる」
紫はわたしの心を読んだかのように説明すると横戸に手をかけ、顔だけ振り返る。来るの? 来ないの? とその目が告げていた。少しだけでも心の準備が欲しかったが、さっさと覚悟を決めて来いということらしい。わたしは意を決すると紫の後に続き、どうぞご自由にと奇妙な招かれ方をされ、八雲の邸(いえ)に足を踏み入れる。靴箱に置かれた調度品といい、年季の入った木造建築の独特の匂いといい、田舎住まいの親戚の家を訪ねた時のようで、奇妙な懐かしさを感じてしまった。
きいきいと僅かに軋む廊下をそろりそろりと歩き、奥へ奥へと進んでいく。外観からは想像できないほど長い廊下であり、紅魔館と同様の空間拡張が行われているのではないかと察せられた。
「着いた、この部屋よ」
紫は中にいる者の様子をうかがうことなく襖を開け、わたしはお邪魔しますと声をかけてから中に入る。
菫子は畳の上に寝転がり、本を読んでいた。近くにお煎餅の入った器があることから、時折菓子を摘みつつ、だらだらとしていたようだ。
菫子はわたしの顔を見て気まずそうな顔を浮かべると慌てて正座し、わたしを睨みつける。だが明らかに準備不足で、かつて対峙した時のような鋭さや迫力は微塵も感じられなかった。
「何よ、そのラスボスのくせにあっさり懐柔されやがって、みたいな顔は」
そんなことはちっとも考えていなかったし、今も負の感情に身を焦がしているのではないかと心配していたから、力を抜いて過ごせる時間があると分かって、ほっとしたのだ。
「言っておくけど、わたしはまだ諦めたわけじゃないからね。あなたもあんな不意打ちで勝っただなんて思わないこと。良い?」
隣には紫もいるのだが、別段気にしている様子はない。いつもの病気が始まったとでも考えているのか、いつでも受けて立つという余裕なのか。どちらにせよ、菫子はこれからも機会があれば幻想郷を乱すつもりのようだ。あるいは計画がおじゃんになり、捨て鉢になったのかもしれない。不穏なことを口にして紫を苛立たせ、敗者の惨めさを少しでも払拭しようとしているのだとしたら、乗っかることなく飄々と受け流すのは良い手だと言える。相手が惨めになるだけだから。
「そうですね、次は騙し討ちなしの真っ向勝負をしましょう」
「言ったわね? それなら、このちびっこ妖怪が封じたわたしの力を取り戻してよ。いくらアプリを操作しても、ちっとも起動しなくなったんだから」
いつか試しに操作したらアクセス不可になっていたので気にはなっていたことだが、菫子のアプリも使用禁止になっていたようだ。かつて大きいほうの紫は『物理的な対策はできない』と言ったが、論理的な対策ならいくらでも可能だったのだ。つまり彼女はわたしを欺いたということになる。
その手が使えるならアプリの使用など最初から許可しなければ良かったのでは? とも思ったが、そこは小さい紫が以前に話した「異変として解決される可能性」に賭けたのだろう。もしかすると大きい紫が小さい紫に直接、掛け合ったのかもしれない。何故かは知らないが、彼女は菫子の安否を酷く気にしていたようだから。
異変としての解決に失敗した場合、アプリの力を剥奪されたのち、然るべく処断されたに違いない。幻想郷を覆う秩序の破壊を志してはみたものの、結局のところは掌で転がされ続けたのだと思えば、酷い目に遭わされたけれど菫子への同情も少しは湧いてくる。
「わたしの力ではちょっと無理そうですね」
「なによ、使えないわねえ」
「ええ、わたしが使えるのは古臭い魔法だけです」
菫子は鼻を鳴らし、足を崩して胡座をかく。下着がちらりと覗いたが気にする様子もなく、だらしがないままなのはわたしを侮りたいのか、それとも……。
「そうね、だったら古臭い魔法でも良いわ。わたしに使い方を教えて頂戴」
などとあれこれ考えていたら、とんでもない提案をわたしに投げかけてきた。
「効率はずっと落ちるけど、わたしはほら……控えめにいって天才じゃない? 古い魔法だってきっと誰よりも使いこなせるようになる。あなたなんてそれこそ、ちょちょいのちょいで抜かしてみせる」
なんとも傲慢な態度であり、呆れることさえできなかった。薄々そうではないかと思っていたが、一連の強気な態度は強い力を得たからではなく全くの地金なのだ。プライドが高く勝気で、だからこそ元の世界で味わった挫折と屈辱が耐え難いものとなり、狂気にも似た感情を生み出してしまったのだろう。
今の菫子はそうした狂気からは解き放たれているように見える。紫が少しずつ懐柔していったのか、決闘に負けたことで心境の変化があったのか。わたしへの殺意も感じられず、多少の嫌悪を向けられているだけだ。
「分かりました、師匠に話を通してみます。わたし以外の弟子を取るかどうかは分かりませんが」
「大丈夫、わたしは是非とも弟子にしたくなりたいと思うくらいに優秀だから」
「ええ、まあ、そうでしょうね。その代わりといってはなんですが、一つ質問しても良いですか?」
「もしかしてマジックアプリの知識? だとしたらこの世界では使えなくなるから意味がないと思うけど」
「いえ、アプリの知識ではありません。かつてあなたはわたしにこう言いました。理解者になって欲しいと。今でもその気持ちは変わらないんですか?」
「そんなこと言ったっけ?」
あまりにも即答だったし、思い出そうとする仕草が可哀想なほど嘘臭い。先程の態度もそうだったが、心の準備ができていないと、かくも無惨に崩れてしまう人なのだ。
「思い出した、確かに言ったわね。情に絆されやすくちょろそうに見えたから。でも実際はわたしをぶん投げて結界をおじゃんにした。虫も殺せないような顔をして、小狡い手を打つ。おまけにわたしを散々、馬鹿にして」
「感情を揺さぶれば隙ができると思ったんです」
「そんなことでわたしを傷つけたの?」
「それが気にくわないなら」
わたしはスカートを気にしながら畳の上に正座すると。
「殴るなり蹴るなり、好きにしてください」
言って、菫子と正面から対峙する。かつて命を奪われかけたこともあるが、今の彼女にそこまでの感情はないと、これまでの会話から判断したからだ。
「そう? そこまで言うなら一発、叩かせなさい。それで何もかも水に流してあげる」
「あなたがかつて抱いた気持ちが、その程度で収まるならご自由にどうぞ」
一発叩かれた程度で全てが丸く収まるなら、喜んで右の頬を差し出すべきだった。それなのに我慢できず挑発するようなことを口にしてしまった。
菫子は怒りを露わにし、わたしの頬を容赦なく平手で打った。頬がひりひりするけれど、その程度の痛みはどうということもない。我慢できる。
それなのに次の瞬間、わたしは菫子の頬を叩き返していた。痛みに我慢できても、心が我慢できなかった。
掴み合いの喧嘩になり、互いに獣のような声をあげた。平手だけでなく拳も飛んだ。菫子の顔は痣だらけになり、わたしの顔もきっと同じようになっている。
何もかも出鱈目だった。わたしはこんな喧嘩のできる人間じゃないはずなのに、感情が溢れて止まらなかった。
わたしと菫子の悲惨な喧嘩はお互いが疲れ果てるまで続き、傍観者に徹していた紫が潮時と見て取ったのか、淡々とした態度で「二人ともお疲れ様」と声をかけてくる。
それでようやく我に返ったが、菫子は怒りがぶり返したのか、ここから出て行けと訴えてくる。覚束ない足取りで部屋から出ると、外で待機していたであろう九尾の妖怪に連れられて別室に案内され、丁重な治療を受けた。かくも酷い有様のわたしを見ても何があったかを問うことなく、冷静な態度であり、それがわたしにはありがたかった。
それからわたしを屋敷の外まで黙って案内し、まるで良い客人であったかのように見送ってくれた。
「あの、わたし……ご迷惑をおかけしました」
「構いません。こういうことがあるから用意しておけと、申し伝えられていましたから」
折角の配慮を無駄にしたと考えていたのだが、紫はわたしと菫子が喧嘩することを予想していた。でも、だとしたら何故、わたしをこの邸に招き、菫子と対面させたのか。あれではいたずらに態度を硬化させ、頑なにさせるだけなのではないか。
「わたしなどでは主の心を読み尽くすことなど到底、叶いませんが。あの菫子なる少女にとっては良い刺激になったと愚考しますよ」
「そんなものですかねえ……」
むしろ明らかに事態を悪化させたように思えたのだが、八雲の理屈ではそうではないのだろうか。
「もし心配なら、また会いに来れば良い。少なくとも紫様はあなたの訪問を妨げたりはしない」
「彼女はわたしに会ってくれますか?」
「大丈夫じゃないですかね?」
なんとも頼りないことだが、少なくともわたしはあのまま喧嘩別れでこれっきりというのは御免である。
「では、お言葉に甘えて近いうちにまた伺います。ところでわたしはどうやって帰れば良い……」
言い切る前にわたしは実に雑な境界によって、魔法の森にある自宅の前に届けられる。瞬間移動によって再び襲ってきた目眩と吐き気を堪えながら、わたしは。
菫子と取っ組み合いの喧嘩をしてきてぼろぼろのはずなのに。
何故かすっきりした気持ちで帰宅することができた。
わたしの家に貧乏神がやって来たのは、初雪とともに冬の到来した翌日だった。かつてあの粗末な小屋で目にした紫苑はほとんど力尽き果てていたが、今は多少の元気を取り戻しており、自力で歩ける様子だった。
その隣には天子がおり、わたしのいる所にやって来るまでは紫苑のことをひっきりなしに心配していたが、無事にたどり着くといつもの自信満々な態度を取り戻した。
「ということで、今日からここがお前の家よ。ここならば十分にみずぼらしいから、居心地も良いでしょう」
そしていきなり散々なことを口にする。
「いえ、わたしにはとても立派に見えます。でも、そうですね……なんだか少しだけ懐かしいというか、他よりも居心地は良さそうですよ」
紫苑はフォローしてるつもりかもしれないが、貧乏神の気に入る住処というのはどう考えても褒め言葉ではない。正と負の両極端だが、二人はほぼ同じことをわたしに向けて口にしたことになる。つまり腹立たしさ二倍だった。
「誰がここに住んで良いって言ったのよ」
「それはもちろん、わたしに決まってる」
あまりの堂々とした宣言で面食らっているうちに、天子はこの場から早々に立ち去ろうとしていた。
「あまり一緒に居過ぎると良くないから、わたしはこの辺で退場するわ。紫苑、お前はここで現代の貧しさを学び、しっかり順応しなさい。そうすれば一緒にいられる時間も少しは延びるでしょう。精進なさい」
「はい、天人様!」
紫苑はきらきらとした表情で天子を見送り、それからわたしにぺこりと頭を下げる。
「そんなわけで今日からお世話になります。迷惑しかかけないと思いますが、よろしくお願いしますね」
卑屈なことを堂々と言い切り、ぴんと張っていた背中を丸めて猫背になる。それだけで身長が一回り下がったように見えた。
「まあ、うん……」
許可していないが、紫苑を見放すことはできなかった。彼女が現代の貧しさを知り、順応するというのが、今回の異変における本当のゴールであると承知していたからだ。
博麗の巫女は異変において、いかなる決まりよりも優先される。その代わり、異変の解決は何より優先される。その決まりを破ることはできなかった。
「家事くらい手伝えるんでしょうね」
「掃除洗濯なら。炊事はその、女苑がわたしは台所に立つなと言われてるので」
「料理が下手なら教えるけど」
「どんなに教えても調味料をケチるから、味が薄すぎて食べられたものじゃないということらしく」
どうやら紫苑の貧乏性は徹底的に体にしみついているらしい。かつて少なくとも一度は矯正の努力が放棄されたとのことだが、今更ながらわたしにも納得できた。
「いや、わたしは現代の貧乏を身につけなければいけないから、料理もやらなくちゃ。贅沢に思えるほど調味料を使って、お粥には山菜を一種類加える。カレーはルーを水に溶かしただけじゃなく、勇気を振り絞ってじゃがいもを。いざ進めやキッチンという気概で頑張ろうかなと思います!」
実に前途多難だが、張り切る紫苑はなかなかに元気そうである。とはいえかつての様子が仮病というわけではなく。無性に気になってしまい。
「前に会った時はすぐにでも死にそうだったのに、随分と回復したようね。天子の計画がなくなったいま、里は貧困に傾いていないはずだけど?」
疑問を素直にぶつけると、紫苑はわたしに同意するよう大きく何度も頷いてみせた。
「それがここ数ヶ月で少しずつ体調が良くなりまして。女苑曰く、ソシャゲによって精神の貧しさが郷の至る所に蔓延したとのことでしたが」
紫苑の言っているソシャゲというのは例のアイドルゲームのことだろう。わたしは最近初めて無課金で少しずつ進めているが、貧乏神を元気にさせるほど人の心を貧しくさせるのはかなり邪悪なのではないだろうか。
「数年は保たせるから、そこまで心配しなくて良い、とのことでして。逆に言えばそれ以上は続かないし、人を傷つけることはない。それに悪影響といっても精々がレア煽りによる取っ組み合いの喧嘩程度だから心配無用、巫女にはそう説明しておいて」
紫苑は似ていない妹の物真似をし、空咳をする。流石に恥ずかしさが勝ったらしい。
「ではわたし、早速仕事を……」
空回りを誤魔化すため、慌てて殊勝な態度を見せたところで、紫苑は盛大にくしゃみをする。そこでようやく半袖にハーフパンツという、とても冬の寒空に出せる代物ではないことに気付いた。
「その前にまずは服ね。わたしより一回り大きいから窮屈かもしれないけど、暖かい服を貸してあげる」
「えっと、冬に暖かい服なんて贅沢では」
「つべこべ言わない、さっさとついてくる!」
「ひゃ、ひゃい!」
わたしは紫苑を引き連れて神社の中に入る。
しばらくはこの卑屈な貧乏神にかき回されることは間違いなく、それだけで溜息が出そうだったけれど。
新しい目標ができて、わたしはようやく前に。
巫女としての二期目に進むことができそうだった。
第5章 人と妖の境界 一覧
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次の話が気になりますね
まだ続きますよね!?続きますよね!?
楽しみにしてます!
見返して思った。 神ですか?
楽しみです