無事に神社へ帰還してからのことを、霊夢はすぐに知ることができなかった。力を使い過ぎたせいで前回の異変と同様に全身が酷く痛み、ひたすら眠るか食べるか、死ぬ気で厠まで往復するかだけを繰り返していたからだ。痛みに耐えながらうつらうつらしているといつの間にか枕元に料理が置いてあり、服や下着も定期的に取り替えられていたから誰かが世話をしてくれているのは分かったのだが、あまりに辛くて感謝の気持ちすら湧かなかった。ひたすらに眠り、味もろくに分からない食べ物を必死で咀嚼し、蓄積されていく体臭を堪え、まるで獣のように形振り構わぬ休息を取った。
ようやく回復したとはっきり自覚できたのは、部屋の外から雀の鳴き声が聞こえてきた時だ。もちろんそれまでに雀が鳴かなかったなんてことはない。霊夢の耳がようやく朝の喧噪を感じられるまでに回復しただけだった。
体のあちこちがひきつるように痛く、老婆のようにあちこちつかまりながら前屈みで進むことしかできなかった。なんとかパソコンの前に座ると電源を起動させ、時間を確認すると異変解決のために神社を出てからほぼ丸三日が経っていた。
出かけたのはその日の朝早く、巨大な鉄の龍を地上に連れて帰ったのは同じ日の太陽が沈む寸前だったと記憶している。それから今朝までのことは朧気にしか覚えていないが、異変解決に出かけた日の時間感覚が正しいならば、残りのほぼ丸々二日を朦朧とした意識の中で過ごしたことになる。
前回の時は一日経てばそれなりに動けるようになったから、今回はそれよりも回復が遅いことになる。心身を酷使したのは前回も変わらないから同じように回復しないのは今回だけ行ったことが原因なのだと思われた。
「やっぱり霖之助さんからもらった道具のせいかな」
かつての霊夢が使っていたオリジナルの札と針は通常の攻撃だけでなく符の威力までも大きく底上げしてくれたが、消耗が激しいだけでなく後々まで尾を引くという難点もあるようだった。解析して大量生産すれば戦力アップが期待できると思っていたが、扱えるだけの自力を手に入れるまでは無闇に使わないほうが良さそうだ。
「切り札になることは確かだから、なるべく早く使いこなせるようにならないと」
今後の課題を胸の中に刻みつけると、霊夢は次にメールをチェックする。最初に確認したのは上司からの報告ご苦労様という件名のメールだった。そこには異変に関する早速の報告を感謝する旨、先々日から数えて七日間の休みを承認すること、ゆっくりと休んでもうじきやって来るはずの春をゆっくり堪能して欲しいという労いの言葉が記載されていた。
異変の報告など書いた記憶はまるでないし、無意識のうちに仕事を済ませていたなんて都合の良いことを考えるほど霊夢は自分を信じていない。他の誰かが勝手に報告書を作って提出したのだ。
霊夢には誰がこんなことをしたのかおおよその見当がついている。それを確認するために添付されていた文書を開き、その内容を詳細に確認する。彼女が事件の関係者として現れたのは終盤も終盤だから、それ以前のことは何らかの出鱈目で埋められていると思ったのだ。しかし報告書には霊夢が神社を出発してからのことが何一つ過つことなく記されていた。まずは稗田の家に立ち寄り、太陽の眼前で繰り広げられた異変の元凶との対決に至るまで霊夢自身でなければ書けないことばかりだった。
霊夢はメールを閉じ、パソコンをシャットダウンすると大きく息をつく。そうしなければ込みあげてきた怒りに耐えられそうになかったからだ。
「何が冬眠していて気付くのが遅れたよ!」紫は最初から霊夢の挙動を逐一観察し、どうやっても単独では解決できないのを見かねて姿を現したに違いない。そうでなければ霊夢しか知らないことを報告書に盛り込めるはずがない。「ちょっとでも感謝して損したわ。ああもう、我ながらお人好し過ぎて涙が出そう。妖怪を信じるだなんて!」
体は相変わらずがたぴし言っていたが、無理をしていつもと同じように掃除をし、洗濯物を洗い、料理もいつも通りに作った。弱気な態度を取ってきたらまたぞろ姿を現して恩を売って来るに違いない。
だが体は正直であり、いつも通りのことを終えるのに酷く汗を掻いてしまった。思わず汗を拭い、つんとした臭いに思わず顔をしかめる。それで怒りも痛みも全て吹き飛び、まずは汚れを全て洗い流そうという気持ちになった。
三日ぶりの入浴から戻ってくると、魔理沙が居間で胡座をかいていた。いよいよ神社を第二の家だと考えているような気がしてならなかったが、土壇場で助けてもらったこともあって無碍にできなかったし、日常に戻って来たという実感を得ることもできた。かつての霊夢が現役だった頃にはしばしば神社を訪ねていたらしいが、そのことを共時性によって感じ取ったのかもしれない。
「心配して来てみたが、いやはや元気そうで何よりだ」
魔理沙は霊夢が入ってくるのを見て、まるで客を迎えるような口振りで声をかけてくる。
「今朝までは生きる屍のようだったわ。そういえば誰かが食事を用意してくれた記憶があるのだけど、今回も魔理沙が持ってきてくれたの?」
前回の異変後にぐったりしていた時には豪勢な弁当を持ってきてくれたし、同じように世話を焼いてくれたとばかり思っていたのだが、魔理沙は首を傾げるばかりだった。
「いや、今回はわたしじゃない。なにしろこの二日はほとんど休む暇もなく色々な場所を駆け回っていたからな。一月遅れてしまった春を埋め合わせるため、美真を連れて他の季節を司る妖怪や神様に一人ずつ頭を下げに回っていたんだ」
霊夢がかつて口にしたことを魔理沙は律儀にも実践していたらしい。
「わたしから言っておいてなんだけど、それってかなりきつくなかった?」
四季を司る者たちは基本的に寛容だが、一度怒りを爆発させると手がつけられなくなる傾向がある。かつて森の木を伐採し過ぎて秋の神様を怒らせたとき、人間がどんなに反省しても決して恵みを与えず飢えるに任せたという説話はその最たるものだし、他にも似たような話はいくつもある。はたして魔理沙は頬を掻きながら苦笑いを浮かべるのだった。
「いやー、そりゃきつかったよ。めちゃめちゃ怒られた。七百年以上も生きてきたわけだが、秋の姉妹があんなにおっかない神様だとは思わなかった。かつて森の伐採が過ぎた時も人間を飢えるに任せたのは彼女だけでなく秋を司るものたちの総意だったし、あの二人はいつもほやーっとしているから雷を落とすなんてことはしないだろうと考えていたんだ」
霊夢は幸いにして秋姉妹の怒るところを見たことはない。それどころか秋が来るたびどうぞどうぞと山の味覚を届けてくれる。あのような話が広まってしまいすっかり畏れの対象となってしまったが、いつか誤解を解いてあげたいと思っているほどだ。しかし魔理沙はそんな秋姉妹の異なる一面、説話で語られる恐ろしさを垣間見たらしい。
「正座させられて丸々一時間、四季のバランスについてみっちりお説教を食らったよ。まるで閻魔様が乗り移ったようだった。まあ、お小言で済んだのなら温情のある対応だったんだろうな」
霊夢は同意するように頷き、美真の弱々しい表情を思い出してほっと息をつく。彼女を罰するのではなく受け入れるという方針であると察したからだ。
「美真については外の世界からやって来て郷の事情をよく知らなかったからということもあるし、どうやら既に合意ができていたらしい。話がついているんだからがみがみ叱られても罰を食らうことはないというわけだな。ちなみに今年は梅雨も夏も秋も一ヶ月遅く到来し、その分だけ冬が短くなるとのことだ」
さらりと口にしたが、霊夢にとっては驚くべき合意だった。自然現象の最たるである季節を仕事のスケジュールみたいに調整するだなんて、神の手にも余る所業だからだ。守矢の乾坤が全力を出しても難事を極めるはずだった。
「そんなこと簡単に言うけど、どうやって実現するのよ」
「そこはできるとだけ考えてくれ。美真にも同じことを質問されたが、郷には自然現象に対するある程度の裁量が与えられている、としか答えることはできない」
魔理沙の悩ましそうな顔に、霊夢はそれ以上の追求を諦める。今回の件は郷の禁則事項に抵触しているらしいと分かったからだ。もしそうならば霊夢がいくら脅しつけても話してくれることはない。実際にかつて飛行機や宇宙船について事細かに訊ねたとき、同じような反応を返されたことがある。だから渋々ながらも通説で納得せざるを得なかった。
「だから太陽を動かしたり止めたりできるってこと?」
紫はそれがさも当然のように話を進めていたが、改めて考えればそれもおかしなことだった。だが魔理沙はそれにも頷くだけで霊夢の求める答えを何もくれなかった。
「何も言えなくてすまない。でも世の中には知らなければ良かったこと、知ってもどうしようもならないことがいくらでもある。あるいは霊夢が博麗の巫女を続けるならば、段幕決闘が流行りのこのご時世だから、答えに辿り着くこともあるかもしれないな」
魔理沙の口はそれらの事実について固く噤まれている。そして今の自分にそれらを開かせることはできないのだ。
ともに黙り込んでしまい、気まずくなってしまった空気はしかし、長くは続かなかった。春を告げる妖精の声が外から聞こえてきたからだ。慌てて外に出ると博麗神社の周りに植えられている桜の木が一斉に花開き、淡い色の花びらがひらひらと舞い始めていた。ふと地面を見やれば春の草花が芽吹き、辺りにより鮮やかな彩りを与えていた。
「事後処理が全て終わったらさ、ぱーっと宴会でもやるか」
それは実に良い案であり、同意せざるを得なかった。人が沢山集まってわいわいやる場はあまり得意ではないが、いつもより長く厳しい冬を越したのだから、一夜くらいは羽目を外してぱーっと騒ぐ場所が欲しかったのだ。
「どうやら賛成のようだから、伝手を当たって人を集めてみるよ。場所は伝統に則り、この博麗神社で開催ということにしようと思うが」
そんな伝統があるものかと思ったが、思いとは裏腹に大きく頷いていた。それが正しいことであり、いつも通りでもあると何故か得心してしまったからだ。かつての霊夢が異変を解決した際にも、人を呼んで神社でわいわいと騒いだのかもしれない。博麗の巫女は成人相当だし、一夜だけならば問題はないだろうということにしておいた。
「実はわたしに一つ良い考えがあるんだ。もし霊夢のほうで良ければ、宴会のセッティングや後始末などはこちらに一任してもらえないだろうか?」
その提案は霊夢にとって願ったり叶ったりだった。宴会を開くにおいて準備と片づけほど面倒なことはないからだ。
それから三日の後、博麗神社で宴会が開かれることとなった。天候が崩れて桜が散ることも、冬の寒気がぶり返すこともなく、ほど良い肌寒さが飲酒と場の熱気によって暖められ、丁度良い心地となり、至る所で話に花が咲いた。
神社を訪れた人たちはみな魔理沙が用意した趣向に大なり小なりの驚きを示していた。それもそのはず、宴会の開かれる神社の庭が巨大な鉄の龍が放つ光によって照らされていたからだ。といっても霊夢に浴びせかけてきた目を灼くような光ではなく、所々に提灯を下げているのと変わらないくらいの控えめなものだった。電灯などの無機質な光とは違い、妖精や力の弱い妖怪が照らされても害はなく、やる気が削がれることもない。もちろん付喪神が妙な気分になることもなかった。先日は自分や魔理沙の弾幕を真似してきたし、器用な光の使い方ができるらしかった。
魔理沙は本当に色々な所から人間、妖怪、神様と節操なく声をかけたらしく、人が増えるに従い庭だけでなく神社全体を貸さなければ収まりきらないほどとなっていた。この場に遠子がいればさぞかし目を輝かせただろうが、妖怪の集まる夜の宴会に参加できるほど自由な家ではなかった。きっと今頃は屋敷の中で拗ねているだろうから、明日にでも土産話の一つ二つ持って訪れようと思った。
霊夢は宴会が始まった直後はあらゆるところで引っ張り蛸だった。何しろ郷に住む誰もがろくに知らない機械が異変を起こし、その一部始終に関わった唯一の存在なのだから。なんとも憎たらしいことに雷鼓や弁々、八橋を中心とした解放派の主要メンバーまでもが、かつて桜を散らすと宣言したことなどなかったかのように霊夢の話を求め、飲み食いをし、夜桜を盛大に楽しんでいた。
話を粗方聞き終わると一つになっていた場は徐々にばらけていき、ちびちびと酒を楽しむもの、料理に舌鼓を打つもの、桜を愛でるもの、話に興じるもの、即興で歌い出すものなど様々な動きを見せ始める。元より雑多な集まりなのだから協調性なんてものはなく、各々が楽しみたいことを楽しむ。楽しくないことは誰も強要しない。
霊夢は誰の目や耳にも止まらないことを祈りながら宴会の輪から徐々に外れていき、鉄の龍の横を抜けて鳥居の下までゆっくりと歩いていく。石段に腰掛け、騒々しさや忙しなさを徐々に体から抜いていくつもりだった。雷鼓主催のコンサートでもそうだったが、一定以上の目まぐるしさに長時間触れると気分が悪くなるのだ。そんな時は静かな場所で一人休むというのが常だった。
宴会から遠く外れた所だから誰もいないと思っていたのだが、今回は先客が二人もいた。霊夢の足音に気付いたのか二人はゆっくりと振り向き、一人は屈託のない笑顔を、もう一人はどうしてお前がここにいるのだという渋い表情を浮かべていた。
「ごめん、わたし用事を思い出したから。また話、聞かせてよね」
守矢の風祝はそう口にすると、霊夢の側をするりと通り抜けていく。青のラインが入った巫女服に青袴、袖は霊夢が身に着けているものとよく似ている。初めてその姿を見たときは同じ巫女の仲間なのだと思い、胸が熱くなったものだ。
でもそんなことはなかった。余所余所しさを装ってはいたが、彼女……東風谷佳苗の瞳の奥には霊夢に対する怒りと妬みが覗いていた。結果として彼女の居場所を奪うようなことをしたのだから仕方ないとは分かっていても、同い年の子にあからさまに嫌われるというのはやはり穏やかならざるものがある。
「こんばんは、霊夢さん」美真はそんな二人の関係を知らないのだから当然のことなのだが、邪気のない笑顔が少しだけ痛かった。「少し顔色が優れないみたいですけど、大丈夫ですか?」
「うん、ちょっとね。騒がしさに酔いやすい体質なのよ」
「ああ、分かります。わたしもそういうのは苦手でして。それになんというか居辛いじゃないですか、その……」
「良いように使おうとした連中がいるから?」
「ええ、あまり気にしていない様子でしたが。それにこの衣装がですね」
美真は恥じらうように少しだけ頬を赤らめる。先日着ていた青いローブのような服ではなく、魔理沙とお揃いの白いエプロンドレスと黒のベストという姿だった。どうやらそのことを少し気にしていた様子だった。
「嫌ならば断れば良かったのに。それとも弟子入りするならその服じゃないと駄目って言われた?」
「いえ、わたしが悪いんですよ。魔法の練習をしていたら一張羅を酷く汚してしまって。替えの服がないからこれを着ていくしかなかったんです」
それならば仕方がないと思いながら、霊夢は美真の隣に腰掛ける。そして今更ながらこの場所を佳苗から奪ったことになるのかなと仄かな後悔が湧いてくる。
「彼女と何を話していたの? というか邪魔してごめんね」
「いえ、軽い雑談ですしまだまだ後からいくらでも話はできますから」
「なんだか初めて会ったという風には見えなかったけど」
二人とも初対面の相手に砕けた話ができるほど社交的ではないからそう推測したのだが、美真は嬉しそうな顔をしてその時のことを語ってくれた。
「彼女とは魔理沙さんの後について四季を司る妖怪や神様に謝って回っている最中に出会いまして。守矢神社の東風谷早苗様ってきっとご存じですよね? 彼女は冬の神様なんですけど」
美真の話に霊夢は、そういえばそんな肩書きもあったなと今更ながらに思い出す。機械や技術を司る側面が強いからすっかり頭の隅に追いやられていた一面だった。
「鉄の龍とともに外の世界からやってきたことを知ると、わたしが一人になった時を狙ってこっそり話しかけてきたんです。目を輝かせながら外の世界はどういうところなのか、博麗の巫女はどのような活躍を見せたのか、などと訊いてきました。その時は行脚の最中でしたから後日改めてお話ししますと約束しまして」
「だからさっきまで話を聞かせていたのね」
「ええ、お互いのことを少しだけ話しました。彼女は年端もいかないというのに、あんなに大きな山の中に建つ神社で一人、神様に仕えているとのことでした。霊夢さんもそうですが、わたしと然程年が変わらないのに一人前の役割を果たしていて。わたしなんて流されるままに生きてきただけですから二人とも凄いなあと思うわけですよ」
意図しているわけではないが、だからこそ邪気のなさは霊夢の心をちくちくつついてくる。
「……あまり仲がよろしくないんですか?」
そして絶妙的な察しの良さだ。彼女は外の世界だと、例えば覚妖怪みたく煙たがられていたのかもしれない。根拠のない推測だが、そう思えて仕方がなかった。
「色々あるのよ。といっても商売敵ってわけではなくてね」
「分かりました。それでは詮索しません」
そして好奇心も十分に制御できている。彼女が度を失っていたのはあくまでも鉄の龍が絡んでいたからなのだ。それ以外のことであれば大人に勝るとも劣らない分別ぶりを発揮できるに違いなかった。
会話が途切れると美真は話し難そうに俯いてしまった。どうやら会話を交わすのがあまり得意というわけではなさそうだ。それならばこちらから話しかけた方が良いと判断し、霊夢は気になっていたことを訊ねてみることにした。
「美真って呼んで良いんだっけ?」この手の大人しい性格の人間は呼び捨てにされることを酷く嫌がることがあるから確認を取ったのだが、美真は少しの間ぼんやりとした様子を見せたのち慌てて何度か頷いた。やはり偽名なのではないかと思ったが、それを訊いたら萎縮させるかもしれない。だから最初に訊こうと思っていたことをそのまま口にした。「あんた、これからどうするつもりなの?」
「しばらくは魔理沙さんの家に泊めてもらいます。ただしいつまでも置いておくわけにはいかない、魔法使いになりたければ他人に成果を知られることなく研究できる工房を構える必要があるとも言われました。魔法の森には魔法使いが居を構えるのに相応しい空間が点在するし、大昔の魔法使いの工房がまるまる残っている場合があるから、そこを探せば良いということでしたが」
自分にそんなものが見つけられるのかと不安に感じているようだった。彼女ほどの才能であればそこは問題なさそうだったし、霊夢が気になるのはそのことではなくもっと根本的な身の振り方についてだった。
「その言い方だと郷に居着くつもりらしいけど、元の世界に帰る気はないの? 両親や家族がいるんでしょう?」
その質問が美真にとって望ましくないものであることは嫌悪に歪んだその表情から明確に伝わってきた。すぐに笑顔を繕ったが、あまり深掘りしないほうが良い事柄なのは明らかだった。
「色々な人に訊きましたが今のところ帰る手段がないそうです。紫さんでしたっけ? あの方が語るところによると、異世界とかそういうレベルではない壁を超えてやって来たのではないかということでした。マルチバース、と言って分かりますかね?」
「いいえ、さっぱり分からないわ」
「簡単に説明すると、我々が今いる宇宙以外にも無限に等しい可能性の宇宙が存在しているということです」
「……ごめん、できるだけ簡潔に説明してくれているとは思うのだけど、それでも分からない」
時間と空間に関する知識を霊夢はまるで持ち合わせていない。それは高等教育の領分だからだ。
「いえ、わたしの説明が下手なのだと思います。そうだなあ……」
美真は地面をじっと見つめ、石段の端に転がる石を数個拾うと、そのうちの一つを指差して「これがいまわたしや霊夢さんのいる宇宙です」と、それから隣に置いた石を指差して「これが一ヶ月前までわたしがいた宇宙です」と言った。
「このようにして無数の宇宙が隣り合い、干渉することなく独立して存在しているという仮説がありまして」
「うーん、その世界って冥界とか彼岸とかそういうものではないの?」
「各宇宙がそれぞれに全てを内包していると考えてください。あらゆる星々、あらゆる生命、世界を構成するあらゆる法則や原理。そしてそれらの宇宙は無数に存在する」
「それはなんと途轍もない……あー、以前に命蓮寺の住職が話してくれたことに少し似てるのか。一つの山を中心として四つの大陸、九山八海あり、もって世界となす。それを千集めて小千世界、それを千集めて中千世界、更にそれを三千集めて大三千世界、だっけ?」
あまり真剣に聞いていたわけではないから細部は曖昧だが、この世は無駄に途方もなく広いと言いたいことだけは伝わって来た。それにしても仏の世界というのはあらゆることを盛り過ぎで、たまに酷く胡散臭くなるなと、驚愕するふりをしながらそんなことを考えていた記憶がある。
「面白い話ですね。それは何かの物語の記述ですか?」
「いえ、宗教よ。仏教ってあんたのいた世界にはないんだっけ? 似たようなものはあったみたいだけど」
魔理沙との戦いが終わって気絶していたとき、夢の中で巡礼教団とかいう胡散臭い教えが出て来た記憶がある。胡散臭いことにかけては郷にあるどの宗教にも負けず劣らずといったものだった。
「ええ、わたしの住む世界は道具に奉仕する生涯を定められており、職業も得るべき知識も制限されてるんです……って霊夢さんよくご存知ですね。魔理沙さんから聞いたんですか?」
「それもあるけど、実を言うとあんたの夢を見たの」霊夢は美真の視点を追体験するような夢を見たことを彼女に説明する。最初は興味深そうな様子だったが、その顔色は徐々に青ざめ、そして暗く落ち込んでいった。だから単なる夢以上のものを見たのだと改めて確信することができた。「巫女というのはお告げを受け取るものらしいのだけど、わたしには夢の形で降りてくるの」
「それお告げなんてものじゃないですよ。わたしのいた世界にも楽園の意志を受け取ることのできる信託者なる存在はいましたが、曖昧でお茶を濁すようなことばかり言ってましたよ。霊夢さんみたく細部までぴたりだなんてことはありませんでした。なんというか、わたしの記憶や思いをまるでアンテナのように受診したみたい」
霊夢は魔理沙が同じようなことを言っていたのを思い出していた。自分はどうやら卦を占うのではなく卦を受け取る体質らしいと納得せざるを得なかった。
「それではわたしがあの世界でどうやって生きて来たか、どれほど息苦しかったのかも既に知っているんですね?」
美真は急に気恥ずかしくなったのか頬を赤くし、深く俯いてしまった。悩みや苦しみについて考えていると己の最も嫌な部分がどうしても滲み出るから、他人にそれを逐一把握されているというのはそれだけで辛いものがある。霊夢もこいしに初遭遇した際、心の奥底にある悩みをずばずばと当てられて羞恥心で心臓が止まりそうになったことがあるから、気持ちはよく分かった。
「そうね、大体は」だからあんなにも傍迷惑なことをしながら霊夢は彼女を突き放すことができなかったのだ。「まあ全てを垣間見たわけではないけど」
「……では、わたしの本名も知ってますか?」
「いえ、それは分からなかった。あんた、思考する時の主語は全部わたしだったから」
霊夢も心の中で何かを考える時はわたしが主語に来る。自分の名前なんて考えるまでもなく明らかだからだ。
「あー、確かにそうですよね。言われてみれば霧……名前で考えたりしませんよね」
ふと本名が口をつきかけたようだが、霊夢は何も言わなかった。本当の名前を知られたくない事情というのは大体深く、指摘されたくはないものだ。現に霊夢も本名を博麗霊夢という名前で上書きしている。妖怪が仕掛けて来る、名前から来る呪いを避けるためだ。
「霧子、って言うんです、本当の名前」
しかし彼女にそこまでの事情はないらしく、あっさりと本当の名前を口にしてしまった。
「いや、その……偽名を使うつもりはなかったんですよ。魔理沙さんに出会ったとき、霧子と名乗ったんです。でも森の魔力や瘴気で意識が朦朧としていて語尾が途切れてしまったらしく、おそらく霧の部分しか聞こえなかったのだと思います。そうしたらいきなり血相を変えて、お前の苗字は霧雨ではないか? と訊ねてきたんです。あんなに熱心な顔をされたらいいえとは口にできないですし、曖昧に口を濁したら今度は下の名前を聞かれまして。なんというかその……ペンネーム? 的なものを口にしてしまいました。魔理沙さんの顔ときたら蒼ざめるやら赤くなるやらで、とても違うとは言えなくなってしまって」
嘘を弁解するためか、彼女の話し方は始終しどろもどろだった。ただこれは明らかに魔理沙の早合点が原因だ。何かの理由はあるのかもしれないが、魔理沙をしてそんな勘違いを引き出すような特徴を彼女は有していたのだろうか。記憶を辿っても霊夢には何も思い浮かばなかった。
「まあ、魔理沙は変わり者だからそういうものだと思って割り切りなさい」
そう言うと美真は分かりやすく苦笑を浮かべる。どうやら魔理沙の性格に早速振り回されているらしい。
「善い人ではないですが、悪い人でないことも分かります。少なくとも一度見ようとした面倒は最後まで見る人なのでしょうね。偽名ってことはきっとばれてますけど何も言わないですし、魔法のことも、この世界でどう生きれば良いかも教えてくれます。わたしと一緒におっかない神様や妖怪を回り、頭を下げてもくれました。それに魔理沙さんが紹介してくれた方のお陰であの子が何を考えているのも分かりましたし」
「あの子って鉄の龍のこと? 魔理沙ってそんな技使えたかしら」
霊夢が首を傾げていると、何故か美真も同じように首を傾げてしまった。
「誰かを紹介してもらったんです。でもそれが何故か思い出せなくて」
それで霊夢には魔理沙が誰を紹介したのか検討がついた。
「古明地こいしって名前じゃなかった? 奇妙なコードのついた目玉のようなオブジェを持ち歩いているやつなんだけど」
「そう、その人です。大事なことを教えてもらったのにどうして忘れてしまったんでしょう?」
「あいつはそういう妖怪なの。人の思考の隙間、意識しない場所へとその身を置くことができる。だからすぐに見えなくなるし、感じられなくなるし、覚えていられなくなる」
「霊夢さんは覚えていたようですけど」
「神社にも時々遊びに来るから他の人より少しだけ思い出しやすいってだけ。それでも彼女のことを明確に意識していない時は忘れていることもある。目を開けている時だけははっきりと認識できるんだけど」
能力的な限界なのか、瞳を一度閉じた弊害なのか、三十分ほどしか開けていられないのだ。そして力を使った後はすうすうと眠りに落ちてしまう。
「不思議な人でしたね。最初は半信半疑でしたけど、こちらの思っていることをずばずばと当てられるから否応でも本物だと認めるしかありませんでした。読心術者ってわたしがいた世界では嘘っぱちばかりでしたけど」
「わたしだって彼女以外の読心術者なんて一人しか知らないわよ。それで鉄の龍はなんて考えていたのかしら?」
特に咎められることなく、今も宴会を緩やかに照らしていることからして敵意や害意を持ち合わせていないことは容易に想像もつくが、具体的なことが聞けるならばそれに越したことはない。そう思って訊いたのだが、美真は少しだけ言いにくそうにしたのち、ぼそぼそと聞き取りにくい声で答えを口にするのだった。
「あの子、わたしのいる所にいたいそうなんです。こいしさんが言うには雛鳥が最初に見たものを親と思い込む、刷り込み的な親愛らしいんですが……嫌われているわけではないと分かってほっとしてる反面、あれほどの巨大なものを子供と扱う難しさも感じていまして」
確かにそれは難儀だし、それとは別に一種の危うさを含んでもいた。彼女が行きたい、やりたいと思うことに、鉄の龍はほとんど無思慮に追随する可能性が高い。あんなものがもしも異変のたびにほいほい乗り込まれてきたらたまったものではない。
「幸いというか先程の異変で蓄えてきた力をほぼ全て放出したみたいでして、あんなことはもうできないみたいです。太陽から力を直接取得することも禁止されましたし、自然に照りつける光からはろくに力を摂取できないみたいですから、あの時のように、怒りで我を失って大暴れということはないみたいですが」
その言葉に霊夢はほっとしたが、美真はすっかりと表情を曇らせてしまった。
「あの子には本当に可哀想なことをしました。円環世界の楽園はこの宇宙には存在しないみたいですし、かといって他に赴く場所もない。光素の力は元いた世界よりもずっと弱く、満足に力を振るうことすらできない。一番辛いのはそれらの全てを恨んですらいないということです」
「まあ、恨んでないならそれで良いじゃない。あの巨体にすり寄られるのは何かと難儀かもしれないけど……いずれここで本当にやりたいことを見つけたなら、その時は手伝ってあげると良いんじゃないかしら」
霊夢に言えることは本当にこれくらいしかなかったが、美真の落ち込んでいた表情は晴れることなく逆に深く考え込んでしまった。
「実は一つだけあるんですが、なんというかその」
「そんなに難しいことなの? 例えばいつか宇宙に飛び立ちたいとか」
「詩を歌い上げたいのだそうです」
思わず頭を抱えたくなるほどの難問だった。鉄の龍は警笛を雄叫びのように鳴らすだけで、歌はおろか会話すらできないのだから。
「あの子が付喪神を支配下に置いていたときは、彼女たちの体を借りて歌っていたそうです。きっとわたしが一人でぼそぼそやっていたやつだと思います。どうしても暗い気持ちが拭えないとき、好きな作家の詩を口にして己を鼓舞していたんですよ。例えばこんなやつです」
心象のはひいろはがねから
あけびのつるはくもにからまり
のばらのやぶや腐植の湿地
いちめんのいちめんの諂曲(てんごく)模様
いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
唾し はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
ぼそぼそというにはあまりに朗々として、透き通るような声は美しく、霊夢の心を強く打つものがあった。言葉一つ一つのなんと力強く、時には物事を鮮やかに切り取り、そして時には激情を高らかに歌い上げるものか。これをいつも聞いていたならば、無機物であろうと歌を歌いたいと願ってしまってもしょうがないだろう。
「この郷では、ものは付喪神として人型を得ることがあると聞いています。もしかするとあの子はこの世界に適した形を得るかもしれませんし、そんなことはないのかもしれません。もしも付喪神になるようなことがあれば、せめてもの罪滅ぼしとして歌を教えてあげられたら良いなと思っています」
その結論が幾分か腑に落ちたのだろう。美真はそう言うとゆっくり立ち上がり、どんちゃん騒ぎの方を指差した。
「長々と話に付き合ってくれてありがとうございます。ここは色々と大変な場所だけど、溜め込まずに話すことができるというだけで大分ましになるみたいです」
「……どうしようもなく暇だったら、話くらいは聞いてあげる。あとこれは忠告だけど、悪い大人がお酒を飲ませようとしてもきちんと断るのよ」
「あ、それはもう手遅れです。でもよくある物語のように顔が赤くなったり意識が飛んだり、思考が先走ったりということはありませんでしたね」
「念のために聞くけどどれくらい飲んだの?」
「日本酒が徳利一本ほど、ワイン一本、ビール二杯ってところですかね。元いた世界と違うところもありますが、アルコールに関しては然程変わらないみたいです」
それでけろりとしているならば、笊といって差し支えない。この郷で妖怪やら神様やらに関わって生きていくならばある意味最も必要な技能を彼女は有しているらしい。これなら霊夢が付いていく必要もないと判断し、一人でここに残ることにした。喧騒に戻るにはまだもう少し回復したかった。
「何か他に訊きたいことはありますかね?」
霊夢は少し考えてから一つだけ、些細だけどとても大事なことを訊ねることにした。
「あんたのこと、美真って呼べば良いの? それとも霧子って呼べば良いの?」
「本当の名前は差し当たってここでは必要ありません。ですから今まで通りに」
「了解。その名前、もう少し慣れた方が良いわね。何度か自分の名前じゃないみたいにぼんやりしていたことがあったわ」
「気をつけます。堂々と名乗れるよう、聞き逃さないよう、霧雨美真という名前を身につけることにします」
それでよしと頷き、そして蛇足と分かっていたがもう一つだけ質問を追加する。
「霧子って下の名前よね? 苗字のほうはなんなの?」
「宮沢です。あの詩を作った人でもあり、わたしの曽祖父だか、曽々祖父だかでもあります。どうやらこちらの世界でも有名な人らしいんですが、若い頃から病弱で病を繰り返し、子供を作ることもなく早逝したと聞いて酷く驚きました。元いた世界の彼は遺産の分配で一悶着起きるくらい子孫を残していましたから」
霊夢自身は宮沢某も、その人物が残した詩や物語もまるで知らなかった。今度、遠子に会ったとき本を持っていたら借りようかなと思った。
美真は心なしか堂々とした調子で祭りの喧騒のほうに向かっていく。自慢のご先祖様を紹介できて満足したのかと思ったが、そういうことではなく、木陰にひっそりと隠れていた風祝を目聡く見つけ、こんな所にいてびっくりしたという風を装って見せた。それから半ば強引に手を引いて宴会の輪に加わっていく。
「いやー、うん。良い子だわー。魔理沙には勿体ないなあ」
霊夢はにやつく頬を抑えながら石畳にごろりと寝転がる。ひんやりとした感触は人の行き来と喧騒でぐらぐらした感覚を徐々に取り戻していく。こちらもそろそろ復帰しようかなと思ったところでにゅっと亀裂が開き、紫の顔がひょっこりと覗いた。
「どうしたの、そんなとこで寝転がって。というかどうしてわたしの顔を見て怒ったような表情を浮かべるの?」
「自分の胸に聞いてみなさいよ」
紫は首を引っ込めて隙間を閉じると地面からせり上がって来て、大地に足をつけると改めて霊夢の顔を覗き込む。その顔は幼子のように不安げで、悪いのは彼女のほうなのに何故か罪悪感が湧いてきた。
紫は平たい胸に手を当て、しばらくじっとしていたが、すぐに小さく息をついた。
「そりゃ監督不行き届きだったのは認めるわよ。けど全ては丸く収まったのだし、今後の見通しもついたのだし、そのことを示すための宴会なのでしょう?」
霊夢はぷいとそっぽを向いたが、紫は屈み込むと顔を両側から挟んで無理矢理上を向かせ、頬をぐにっと摘んできた。
「あひへへへ、なにふるのほ!」
頬を摘まれてうまく喋ることができないことに抗議すると、紫はすぐに離してくれたが手は間近に構えている。気にくわないことをされたらまたやるぞと言わんばかりに。
「何をするのよって、それはこっちの台詞よ。今はプライベートとはいえわたしはあんたの上役なんだから、不満があったらきちんと言いなさい。拗ねて黙り込むのが一番駄目!」
あんなことをしておいて無茶苦茶だとは思ったが、何も知らない風を装われると流石に腹の一つも立ってくる。
「わたしのパソコンを勝手に操作して、わたしの代わりに報告書を作ったでしょう!」
すると紫は目をぱちくりとさせ、何言ってんだこいつとばかりに目を細めてきた。
「そちらは休暇中だし、こっちも報告書なんて読んでる暇はないからしばらくはゆっくり休んでおきなさいって言いに来たのよ。休みなのに無理したらいざというとき力が発揮できないでしょう? それなのにまるで駄々っ子みたいに拗ねて、おまけに変なことを言い出して。そもそもなんでわたしが犯人だって決め打ちなのよ」
「だってわたしがやって来たこと、まるでわたし自身のように書いてあったから。そんなの自在に現れたり隠れたりできる能力がないと無理でしょう?」
「そうかしら、かつて覚妖怪だったほうの古明地なら気付かれないように後をつけるなんて容易いことだし、最近になって郷にやって来た咲夜ってやつは時間を停止させることができるそうじゃない。パソコンの不正使用なんてそれこそショルダーハックでもすれば、普通の人間にだって可能よ。それなのに何故わたしだけ疑われるの?」
紫は怒りに鼻息を荒くしているが、目元は微かに潤み、どことなく意気消沈しているようにも見える。それはもしかすると紫が犯人であるという確信が揺らいだからそう見えているだけなのかもしれないが、ことの次第がはっきりしていないというのに、彼女を追求しようという気持ちがみるみる失せていくのだった。
「まあしょうがないか、古今東西において八雲紫というのは疑われるものらしいし」
どう声をかけて良いか迷っていると紫は勝手にそう結論付ける。それで霊夢の疑いもほとんど消えてしまった。まだ完全になくなったわけではないが、彼女の態度はあまりにも犯人らしくなかった。
「それはさておき、あの書類は無効ってことになるから改めて提出して頂戴ね」
「えー、内容的には完璧なのに」
ずっと見られ続けていたのは腹立たしいが、しかしあれほどの報告を霊夢は書ける気がしなかった。出所は分からなくても成果物があればそれで良いと思ったのだが、紫はそうは考えていない様子だった。
「駄目よ、こういうのは自分で書くことに意味があるの。それに突出して出来の良い書類があったら監査が入った時に無用な疑いを持たれかねない」
「うへえ、面倒臭いなあ」
「その面倒な一手で後の面倒さを回避できるならば時間を割く価値はあるのよ。時は金なりなんてさもしいことは言いたくないけれど、人間の生涯は短い。無駄なことはしても良い、でも無意味なことを避けるに越したことはない」
それを言うなら監査自体に意味はあるのかと言いたかったが、ここで公務のあれこれを話すのも虚しいだけだった。
「分かったわ、明日中か遅くても明後日には……」
「まだ休暇中なんだから明けてからにしなさい」
厳しいのだか甘いのだか分からないようなことを言われてしまい、少しだけ困ってしまったが、そう言うならお言葉に甘えることにした。買い物を楽しむのも良いし、遠子の家に行って今回の事件のことをだらだらと語ったり、他愛のないお喋りをしながら半日を過ごすでも良い。とにかくだらだらと休みを謳歌するつもりだった。
そんなことを考えていると紫が全身をじっくりと観察していることに気付く。
「回復はすこぶる早いし、尾を引く症状はない、霊脈の流れも極めて良好。規格外というわけではないけど霊的にとても頑健なのね。博麗をこなしながら消耗した形跡もない、驚く程に健康だわ。精神も話をした感じ、特に異常はなし。いきなりわたしに突っかかってきたから最初は異常ありかなとも疑ったのだけど」
「わたしの健康を心配してくれてるんだ」
「福利厚生の一環よ」紫は厚意であることをあっさりと否定し、額の辺りに視線をじっと注ぐ。「他に何か気になることがあれば言ってみなさい。妙な声が聞こえるとか、怪しい声が聞こえるとか、不思議な声が聞こえるとか」
「声ばかりじゃない。何も聞こえないわよ」
「ふぅん、じゃあこれは放置で良いのかしらね」
「えっとなに、放置で良いってちょっと気になるじゃない。なんか妙なものが体に溜まってるの?」
「気にしなくて大丈夫よ、穢れが溜まっているだけだから」
「いや、それって一大事じゃない?」
穢れというのは人にも物にも溜まるものとされており、良くないものという話だけはとかく伝わっている代物だ。しかしそれが何であるのか、神職だというのに霊夢にはよく分かっていないし、そんなものが蓄積してるだなんて言われても困るだけだった。そもそもどこで穢れを浴びてしまったというのだろうか。霊夢は先日の足跡を辿り、思い当たる節を一つだけ見つけることができた。
「もしかして鉄の龍が放っていた光がそれだったの?」霊夢はそれが放つ光を散々に浴びているし、気力が抜けるような感覚を何度も味わっている。穢れを当てられたのだとしたらそのことにも説明がつくかもしれないと思ったが、すぐに否定材料がいくつも頭の中に浮かぶのだった。「でも魔理沙や美真には効いてなかった気がするんだけど。紫もきっと平気なんでしょ? あと効果があったのは付喪神たちくらいじゃない」
「うん、それが不思議なのよね。普通の人間は雑多なものを食らい、排出する過程で自ずと穢れるようにできているしなあ。考えられるとすれば穢れの密度というか、種類の違いというかそんなところかしら。やはり本物の月が放つそれは一味違うってことなのか……」
「月に本物も偽物もないと思うけど」
紫ははっとした顔をしてから慌てて手を振る。
「ああいや、そのね……そう、知ってた? あの電車と女の子がいた世界には月がないらしいのよ」
いま露骨に話を逸らされた気もするが、あまりにきょどきょどしていて哀れさすら感じるほどであり、つつくと子供のように泣き出してしまいそうだった。とてもではないが追求できそうになかったし、紫が振ってきた話にも興味がないわけではなかったから騙されたふりをしてあげることにした。
「でも最初からなかったわけではない。向こうでは月という呼称ではないけれど、同様の衛星はかつて地球の周りを回っていたみたいなのね。それほどの質量がなくなれば地球の環境に影響が発生することは避けられないから、前後の変化が地質などを調べる過程で判明したのでしょう。では消えた月はどこに行ったのか?」
そんなの分かるはずがないと言いかけ、ふと奇妙な考えが頭の中に浮かぶ。美真が話してくれた楽園に関する話も考えると、それ以外に行き先はないように思えた。
「もしかして、太陽を巡る巨大な輪っかの材料になったの?」
「その通り。リングワールド……もとい、太陽の周囲を巡る輪っかを作るともなれば、その質量は莫大なものとなる。太陽系に存在する質量をかき集める必要があるし、火星と木星の間に存在するアステロイドベルトも向こうの世界では存在しないという事実がそのことを裏付けているのだけど……あらどうしたの? 頭の上で妖精が盆踊りを踊っているように見えるのだけど」
「あのね、気をつけないと人が死ぬわよ」
紅魔館の魔法使いといい、こちらの頭に余るような知識をさも当然のように披瀝するのは本当にやめて欲しかった。
「つまり彼女が口にする楽園とは、宇宙を航行するほどの技術を持ったインベイダーの文明が星々を解体して材料とし、築き上げたものであるということよ。ファンタジー的なものでは決してない」
それならば確かにファンタジーではなくなるが、かといって現実とするにはあまりに途方のないことだった。少なくともこの郷では宇宙船はおろか飛行機すらまだ実現していないのだから。
「この仮定を真とするなら道具だけが楽園に還ることの意味もがらりと変わってくる。極めて高度な技術を持つリングの創造主たちはその材料となる物質を未だにあらゆるところから集め続けており、既にある程度の錬成や加工がなされた人間の道具は素材として非常にうってつけだと考えられる」
「それってつまり、楽園に辿り着いていたら鉄の龍は鋳潰されていたってこと?」
「そういうことになるわね。もしかするとあちらの世界の地球は創造主たちによって、下請け工場のようなものかもしれない。従順な種族を知的に進化させ、巡礼教団を通して教えをばらまき、疑いを持たせることなく奉仕させる。これはもちろんわたしの推測でしかないけれど、おそらくはそういう構図なのでしょう」
おそらくはと言いつつ、紫は疑いを持っているようには見えなかった。だが、そこまでの確信を抱く理由が霊夢にはよく分からなかった。これも霊夢が垣間見た郷の秘密らしき事実と同様、容易には明かすことのできないものなのだろうか。わざわざ話してくれたのならば、問えば教えてくれるかもしれないが、理解出来る自信もなく、口を噤んでいるほかに霊夢には何もできなかった。
「そんなわけで美真とかいう少女も、あの鉄の龍も元の世界に帰すつもりはない。まあ帰して欲しいと言われてもその方法がないんだけどね。全く、あの歯車お化けといい、どうやって入り込んだのだか」
「結界を管理しているあんたにも分からないんだ」
「そうよ、だから日々不眠不休で調査に当たっているの。冬眠から目覚めたばかりだっていうのに」
沈みがちな表情からして調査はあまり芳しくないらしい。
「じゃあ、同じようにしてまた何かが入ってくるかもしれないんだ」
「可能性は否定できない。こんな状況が続くのはわたしのプライドが許さないから一日でも早く原因を突き止めるつもりではあるけれど。これからも迷惑をかけるかもしれないし、訳の分からない、事情も教えられない事態に首を突っ込ませることになるかもしれないけど、そこは勘弁して欲しいというか、手心を加えて欲しいというか」
指と指をちょんちょんと合わせ、霊夢から顔を背けながら目だけちらりとこちらをうかがってくる様子はなんともいじましいものがあった。
「じゃあさ、お願いが二つほどあるんだけど。神社の洗濯機と掃除機、どっちもかなりがたが来てて本格的な修理がしたいんだけど、それってどちらも公費で落ちる?」
質問と同時に指の動きがぴたりと止まり、ぎろりと睨まれる。それは厚かましいのかと思ったら、紫は「ばかものー!」とまるで仙人のような雷を落とした。
「そんなの当たり前でしょ! 申請して経費で落としなさい。もしかしてこれまで自腹切ってたやつとか他にもあるんじゃないでしょうね?」
「あ、いや少しだけ、ほんのちょっぴりだけだから」
「公務員は無駄遣いが多いとかそういう風評は気にしたら駄目。あんた命かけて仕事してるんでしょ? だったら尚更よ」
正直なところいちいち申請するのが面倒臭いし、収入は保証されているから少しくらいさぼっても良いかなと考えていたのだ。しかし紫にはそれが許せないようだった。
「面倒でもそこは手を抜いては駄目。一人で何もかも切り盛りするのがきついならば人を雇いなさい。そのための権限も博麗の巫女にはあるはずよ。就労規則とかちゃんと読んでる?」
「そんなもの、読み飛ばしているに決まっているじゃない」
堂々と言うと紫は特大の溜息をつく。
「了解了解。だったらうちの式を一人、しばらくあんたにつける。それで事務や経理の一切合切を全てやらせるから。でもいつまでもじゃないわよ。ちゃんと人を雇い、切り盛りできるようになるまでだからそのつもりで」
紫はそれだけを一方的にまくし立て、ようやく気が済んだらしい。表情から説教の色が抜け、霊夢は内心ほっとする。まさかここまでのがみがみ屋だとは考えてもみなかったのだ。過去の記録から察するにもう少しふわっとした存在かと思っていたのに。
「それじゃあ、わたしはこれで失礼するわ」
「あんた、宴会には参加していかないの?」
「忙しいって言ったでしょう? それにここまで長話するつもりもなかったのよ。事情をぱぱっと説明して、あとは宴会の参加者がもう一人来るから出迎えてあげなさいって言うつもりだったの。ということで今日はこれまでだけど、また来るからね。あんたには公務員の心得、博麗神社で就労することについてのあれこれをきっちり頭に叩き込まなければいけないみたいだから。また叱られるのが嫌なら規則を読んでおきなさい、もちろん休みが明けたあとでね」
それだけまくし立てると紫は境界を開き、するりと中に駆け込んでいく。それから腕だけをにゅっと出し、階段の下を指差す。つられて視線を向けると、遠子がゆっくりと石段を上がってくるのが見える。こんなところを夜も遅くに一人で出歩いていることに驚き、霊夢は慌てて石段を下りていく。
「あんた、どうしてこんなとこいるのよ。どうやって屋敷から抜け出してきたの? というか仮に抜け出せたとしても一人でやってくるなんて危ないでしょう?」
思ったことをそのままにまくし立てると、遠子は霊夢を宥めるように淡く笑みを浮かべるのだった。
「それだったら問題ないわ。知り合いの式が二人がかりでお供をしてくれたの。知り合いといってもかつての稗田なんだけど、それは大体わたしの知り合いと一緒よね」
遠子のその言葉でようやく危険なことではないことが分かり、霊夢は小さく息をつく。今夜は本当、驚かされることばかりだ。
「宴会は異変の関係者全員が参加するもの。あなたもその例外ではないから参加しなさいと言って半ば強引に連れ出されたのよ。当代の八雲はなんというか随分と分かりやすく情が厚いのね」
「あの態度、たまにうちにやってくる仙人を思い出すわ」
そう言うと思い当たる節があるのか、遠子は思わず忍び笑いを漏らす。
「そういうこと言いながら自分は忙しいって帰るんだもの。最後のほうに少しだけ参加してたのに」
その身勝手さは力のある妖怪らしいとも言えたのだが、あるいは宴会に参加することもできないほど裏では逼迫しているのかもしれない。思い悩むにしても情報が足りなさ過ぎて、結局のところ何もできそうになかったのだが。
「まあ良いか、何か知ったところで何もできるわけでもなし。必要になったらいやでも声をかけられるんだし」
などと自分を納得させたところで、宴会の輪の中からどっと騒ぎが起きる。どうやらこれから一勝負始まるようだ。
「では桜と弾幕を肴にと洒落込みましょうか」
霊夢の提案に遠子も面白そうに頷き、二人は影から光の当たる宴会の只中に入っていくのだった。
その一部始終をじっと空の上から眺めているものがいた。誰もそれに気付かないのは気配を念入りに消し、姿を隠す布を被っているからだ。といっても輪に混じりたくて遠巻きから様子をうかがっているわけではない。昔はそうだったかもしれないが、その程度の天邪鬼は既に通り越している。率先して馬鹿騒ぎしている雷鼓に対してはしようのない奴だと思ってもいるのだが、現状にはなんら関係がない。
正邪はある人物を待っていた。楽しそうな宴会を見下ろせる場所でという指定を受け、あてもなく空を漂っていたのだ。自分も人のことは言えないが、彼女が正邪に輪をかけた皮肉屋あることは間違いない。そして天邪鬼でもないのに、正邪と同じくらいに天邪鬼な捻くれ者だった。
何しろ彼女ときたらかつて、あらゆるものから逃れおおせた自分の前にひょっこり姿を現し、ハートを放ってきたのだ。お前もまた愛されるものとでも言いたげに。郷の実力者が放って来る苛烈な弾幕に恐怖を抱いたことは何度もあったが、相手の底知れさに対して畏怖を抱いたのはその時が二度目だった。一度目は言わずと知れた博麗の巫女だ。
「ああ嫌だ嫌だ、思い出しただけで寒気がする」
「あらあら、天邪鬼というのは寒がりなのね」
漏れた独り言を拾い、彼女はさも最初からそこにいたかのように話しかけてきた。猫のように笑うその様子からは、正邪がどんなことを考えていたか察しているようでもあった。
「遅いんだよ、わたしだって暇じゃないんだ」
「だったらわたしのように隠退して悠々自適の生活を始めたら良いのに」
「その割に最近はちょろちょろと動いているようじゃないか。きっとわたし以外にもアプローチをかけてるんだろ?」
正邪が湖に現れた歯車の塔や、魔法の森に現れた鉄の龍の在り処を真っ先に知ることができたのは彼女……八雲紫のリークがあったからだ。最初こそ半信半疑……否、一信九疑だったが、二度とも確かな情報とあっては彼女の情報を信じないわけにはいかなかった。
「できればそうしたかったけど、憂慮すべきことが次から次へと湧いてくれば眠っているばかりでもいられなくなるの。あと三百年くらいは食っちゃ寝して英気を養うつもりだったんだけど」
紫は手に頬を当て、わざとらしく息をつく。いちいち一挙手一投足が胡散臭い奴だった。
「それで、今日は何の用だ。また新しいのが入ってきたのか? 言っておくけど今度はもう少しましなやつをあてがってくれよ。どちらも強い力を持っていたのは確かだが、我々解放派の面々が扱うにはあまりにも相性が悪過ぎた。それともそういった輩どもをぶつけてこちらの勢力を削ごうとしているのか?」
八雲紫は幻想郷のバランサーであり、悪戯が度を越し始めた解放派を押さえつけるために情報を与えていたのだとしたら辻褄が合いそうだった。すると紫は心外と言いたげに口元を窄めてみせた。
「それだったら冤罪をでっち上げ、郷の有力者総出で叩き潰すよう仕向ければ良いだけ」
さらりと怖いことを言われたが、正邪は彼女がやると言ったら本気でやることを誰よりもよく知っている。実際に叩き潰されそうになったことがあるからだ。もっとも正邪の場合は幻想郷の転覆という真っ黒なことを考え、実行に移そうとしていたから自業自得ではあったのだが。
「あら、お針子のお姫様が恋しいって顔してるわよ」
「してねえよ!」思わず激しかけ、正邪は慌てて口を噤む。良いように会話のペースを握られていると気付いたからだ。「それなら何故、わたしにあんなことを教える?」
「そうね、流石に目的も知らせず駒として動いてもらうのには限界があると感じたからかしら。貴方は極めて動かし難いし、吹けば飛ぶような実力しか持っていないけど、その内に眠る精神をわたしは高く買っているの。ここで手離すわけには些か惜しいものがある」
「わたしの中にあるのは反骨の相ばかりだがな」
「故に世の逆を張りたければ如何なる危険をも顧みない。かつて小槌の力で郷を転覆させようとしたように」
「なるほど、つまりあんたには転覆させたい何かがあるってわけだ」
きな臭くなってきたなと思いながら正邪はにやりと口元を歪ませる。こいつは本当、天邪鬼の動かし方をよく知っているのだ。
「ご明察。わたしが転覆させて欲しいのは郷の科学技術を仕切る勢力、即ち妖怪の山の大勢力よ。それは幻想機械を解放するという組織の目的とも合致しているはず」
「だから得体の知れない異世界の機械を、こちらに呼びつけてるってことか」
未知の進んだ技術を手に入れることができれば、妖怪の山や北の里にある生産工場を一手に占拠することは可能かもしれない。小槌ほどではないが、湖に現れた歯車のお化けも魔法の森に現れた鉄の龍もそれだけの潜在能力は秘めていた。だが口にしてはみたがあまりしっくりと来なかった。
「まあ、それも目的の一つであるとだけ言っておくわ」
はたして紫の答えは多分に含みを持たせたものだった。
「そんなことだろうと思ったよ」八雲紫が動くならば、それは蜘蛛が精緻に巣を張り巡らせるが如く、網羅的で容赦のない企みとなるはずだ。その執念とも言える智謀はかつて月の頭脳すらも欺き切ったと言われている。今回も何らかの、正邪には読み解くことすら難しい企みが巡らされているはずだった。こんな確度の低い事象に縋ったりはしないはずだし、もっと別の主たる目的が隠されていると考えるべきだ。「わたしはどうあがいても盤上の駒、そう言いたいわけだ」
紫はその問いに口元を歪ませるだけで何も答えない。
「良いだろう、お前が何を考えているか、今はさっぱり分からないがね。わたしがただ盤面で踊るだけの駒になるとは思わないことだ」
口にしてみて、それが自分の役目なのかもしれないとふと気付く。仕掛けた盤面をひっくり返すことができる存在として自分は抜擢されたのかもしれない。
「期待しているわ。それではまた第三の幻想が現れたら連絡するから。今度こそは上手くやりなさいな」
紫は正邪の推測を肯定するようなことを仄めかすと、正邪の前からふっと消えてみせた。
「本当、食えない奴ってのはああいうのを言うんだな。さて、しかしどこまでが本当なのやら」
「あ、そうだ」
独り言を口にした正邪を咎めるように、隙間が僅かに開く。こいつ、本当に性格が悪い!なと思ったのも束の間、その奥底から低くくぐもった声が聞こえてくる。
「虫に、気をつけることね」
紫は意味深な発言を残し、不吉そのものであるかのように亀裂は閉じていく。しばらく口を噤んでいたが、今度こそ本当に立ち去ったと考え、正邪はぽつりと呟く。
「虫、だって?」正邪の頭にぱっと浮かんだのは虫を操る力を持つ妖怪のことだったが、紫がそんなに直截的なヒントを与えるとは思えなかった。「獅子身中の虫、ってことか?」
解放派の内側で何かを企んでいる奴がいるということを知らせたかったのだろうか。それとも組織の内部を無駄になる疑わせるためのブラフなのか、それとも全く別の意味を秘めているのか。
「用心するに越したことはないのかね。全く……」
影を招かないよう、続く言葉は喉の奥に飲み込み、そして正邪は眼下を見下ろす。あいつらはみな、全てが解決したと言いたげに羽目を外してどんちゃん騒ぎをしている。なんともおめでたいことだ。
正邪はにやりと、嘲るような笑みを浮かべる。これは終わりではない。次こそ挽回し、郷を転覆させるのだ。そして全ての目論見の上に立ち、指を差して笑ってやろう。
正邪は夜空に浮かびながら一人、反撃を決意するのだった。
事件の終わりの裏で画策するものたちの算段は、しかし全てが虚しく崩れ落ちることになる。これから半年ほどのち、郷に第三の幻想が現れ、あらゆるものの目論見を超える未曾有の大混乱が引き起こされることになるからだ。
再び閉ざされる太陽、絶えなき夜に浮かぶは偽りの満月。終わりなき一夜、即ち永夜の中で不可能をも可能にする機械仕掛けの神を巡り、複数の勢力がぶつかり合うことになる。
だが、今はまだ誰もそのことを知る由もないのだった。
修羅と修羅 終
ようやく回復したとはっきり自覚できたのは、部屋の外から雀の鳴き声が聞こえてきた時だ。もちろんそれまでに雀が鳴かなかったなんてことはない。霊夢の耳がようやく朝の喧噪を感じられるまでに回復しただけだった。
体のあちこちがひきつるように痛く、老婆のようにあちこちつかまりながら前屈みで進むことしかできなかった。なんとかパソコンの前に座ると電源を起動させ、時間を確認すると異変解決のために神社を出てからほぼ丸三日が経っていた。
出かけたのはその日の朝早く、巨大な鉄の龍を地上に連れて帰ったのは同じ日の太陽が沈む寸前だったと記憶している。それから今朝までのことは朧気にしか覚えていないが、異変解決に出かけた日の時間感覚が正しいならば、残りのほぼ丸々二日を朦朧とした意識の中で過ごしたことになる。
前回の時は一日経てばそれなりに動けるようになったから、今回はそれよりも回復が遅いことになる。心身を酷使したのは前回も変わらないから同じように回復しないのは今回だけ行ったことが原因なのだと思われた。
「やっぱり霖之助さんからもらった道具のせいかな」
かつての霊夢が使っていたオリジナルの札と針は通常の攻撃だけでなく符の威力までも大きく底上げしてくれたが、消耗が激しいだけでなく後々まで尾を引くという難点もあるようだった。解析して大量生産すれば戦力アップが期待できると思っていたが、扱えるだけの自力を手に入れるまでは無闇に使わないほうが良さそうだ。
「切り札になることは確かだから、なるべく早く使いこなせるようにならないと」
今後の課題を胸の中に刻みつけると、霊夢は次にメールをチェックする。最初に確認したのは上司からの報告ご苦労様という件名のメールだった。そこには異変に関する早速の報告を感謝する旨、先々日から数えて七日間の休みを承認すること、ゆっくりと休んでもうじきやって来るはずの春をゆっくり堪能して欲しいという労いの言葉が記載されていた。
異変の報告など書いた記憶はまるでないし、無意識のうちに仕事を済ませていたなんて都合の良いことを考えるほど霊夢は自分を信じていない。他の誰かが勝手に報告書を作って提出したのだ。
霊夢には誰がこんなことをしたのかおおよその見当がついている。それを確認するために添付されていた文書を開き、その内容を詳細に確認する。彼女が事件の関係者として現れたのは終盤も終盤だから、それ以前のことは何らかの出鱈目で埋められていると思ったのだ。しかし報告書には霊夢が神社を出発してからのことが何一つ過つことなく記されていた。まずは稗田の家に立ち寄り、太陽の眼前で繰り広げられた異変の元凶との対決に至るまで霊夢自身でなければ書けないことばかりだった。
霊夢はメールを閉じ、パソコンをシャットダウンすると大きく息をつく。そうしなければ込みあげてきた怒りに耐えられそうになかったからだ。
「何が冬眠していて気付くのが遅れたよ!」紫は最初から霊夢の挙動を逐一観察し、どうやっても単独では解決できないのを見かねて姿を現したに違いない。そうでなければ霊夢しか知らないことを報告書に盛り込めるはずがない。「ちょっとでも感謝して損したわ。ああもう、我ながらお人好し過ぎて涙が出そう。妖怪を信じるだなんて!」
体は相変わらずがたぴし言っていたが、無理をしていつもと同じように掃除をし、洗濯物を洗い、料理もいつも通りに作った。弱気な態度を取ってきたらまたぞろ姿を現して恩を売って来るに違いない。
だが体は正直であり、いつも通りのことを終えるのに酷く汗を掻いてしまった。思わず汗を拭い、つんとした臭いに思わず顔をしかめる。それで怒りも痛みも全て吹き飛び、まずは汚れを全て洗い流そうという気持ちになった。
三日ぶりの入浴から戻ってくると、魔理沙が居間で胡座をかいていた。いよいよ神社を第二の家だと考えているような気がしてならなかったが、土壇場で助けてもらったこともあって無碍にできなかったし、日常に戻って来たという実感を得ることもできた。かつての霊夢が現役だった頃にはしばしば神社を訪ねていたらしいが、そのことを共時性によって感じ取ったのかもしれない。
「心配して来てみたが、いやはや元気そうで何よりだ」
魔理沙は霊夢が入ってくるのを見て、まるで客を迎えるような口振りで声をかけてくる。
「今朝までは生きる屍のようだったわ。そういえば誰かが食事を用意してくれた記憶があるのだけど、今回も魔理沙が持ってきてくれたの?」
前回の異変後にぐったりしていた時には豪勢な弁当を持ってきてくれたし、同じように世話を焼いてくれたとばかり思っていたのだが、魔理沙は首を傾げるばかりだった。
「いや、今回はわたしじゃない。なにしろこの二日はほとんど休む暇もなく色々な場所を駆け回っていたからな。一月遅れてしまった春を埋め合わせるため、美真を連れて他の季節を司る妖怪や神様に一人ずつ頭を下げに回っていたんだ」
霊夢がかつて口にしたことを魔理沙は律儀にも実践していたらしい。
「わたしから言っておいてなんだけど、それってかなりきつくなかった?」
四季を司る者たちは基本的に寛容だが、一度怒りを爆発させると手がつけられなくなる傾向がある。かつて森の木を伐採し過ぎて秋の神様を怒らせたとき、人間がどんなに反省しても決して恵みを与えず飢えるに任せたという説話はその最たるものだし、他にも似たような話はいくつもある。はたして魔理沙は頬を掻きながら苦笑いを浮かべるのだった。
「いやー、そりゃきつかったよ。めちゃめちゃ怒られた。七百年以上も生きてきたわけだが、秋の姉妹があんなにおっかない神様だとは思わなかった。かつて森の伐採が過ぎた時も人間を飢えるに任せたのは彼女だけでなく秋を司るものたちの総意だったし、あの二人はいつもほやーっとしているから雷を落とすなんてことはしないだろうと考えていたんだ」
霊夢は幸いにして秋姉妹の怒るところを見たことはない。それどころか秋が来るたびどうぞどうぞと山の味覚を届けてくれる。あのような話が広まってしまいすっかり畏れの対象となってしまったが、いつか誤解を解いてあげたいと思っているほどだ。しかし魔理沙はそんな秋姉妹の異なる一面、説話で語られる恐ろしさを垣間見たらしい。
「正座させられて丸々一時間、四季のバランスについてみっちりお説教を食らったよ。まるで閻魔様が乗り移ったようだった。まあ、お小言で済んだのなら温情のある対応だったんだろうな」
霊夢は同意するように頷き、美真の弱々しい表情を思い出してほっと息をつく。彼女を罰するのではなく受け入れるという方針であると察したからだ。
「美真については外の世界からやって来て郷の事情をよく知らなかったからということもあるし、どうやら既に合意ができていたらしい。話がついているんだからがみがみ叱られても罰を食らうことはないというわけだな。ちなみに今年は梅雨も夏も秋も一ヶ月遅く到来し、その分だけ冬が短くなるとのことだ」
さらりと口にしたが、霊夢にとっては驚くべき合意だった。自然現象の最たるである季節を仕事のスケジュールみたいに調整するだなんて、神の手にも余る所業だからだ。守矢の乾坤が全力を出しても難事を極めるはずだった。
「そんなこと簡単に言うけど、どうやって実現するのよ」
「そこはできるとだけ考えてくれ。美真にも同じことを質問されたが、郷には自然現象に対するある程度の裁量が与えられている、としか答えることはできない」
魔理沙の悩ましそうな顔に、霊夢はそれ以上の追求を諦める。今回の件は郷の禁則事項に抵触しているらしいと分かったからだ。もしそうならば霊夢がいくら脅しつけても話してくれることはない。実際にかつて飛行機や宇宙船について事細かに訊ねたとき、同じような反応を返されたことがある。だから渋々ながらも通説で納得せざるを得なかった。
「だから太陽を動かしたり止めたりできるってこと?」
紫はそれがさも当然のように話を進めていたが、改めて考えればそれもおかしなことだった。だが魔理沙はそれにも頷くだけで霊夢の求める答えを何もくれなかった。
「何も言えなくてすまない。でも世の中には知らなければ良かったこと、知ってもどうしようもならないことがいくらでもある。あるいは霊夢が博麗の巫女を続けるならば、段幕決闘が流行りのこのご時世だから、答えに辿り着くこともあるかもしれないな」
魔理沙の口はそれらの事実について固く噤まれている。そして今の自分にそれらを開かせることはできないのだ。
ともに黙り込んでしまい、気まずくなってしまった空気はしかし、長くは続かなかった。春を告げる妖精の声が外から聞こえてきたからだ。慌てて外に出ると博麗神社の周りに植えられている桜の木が一斉に花開き、淡い色の花びらがひらひらと舞い始めていた。ふと地面を見やれば春の草花が芽吹き、辺りにより鮮やかな彩りを与えていた。
「事後処理が全て終わったらさ、ぱーっと宴会でもやるか」
それは実に良い案であり、同意せざるを得なかった。人が沢山集まってわいわいやる場はあまり得意ではないが、いつもより長く厳しい冬を越したのだから、一夜くらいは羽目を外してぱーっと騒ぐ場所が欲しかったのだ。
「どうやら賛成のようだから、伝手を当たって人を集めてみるよ。場所は伝統に則り、この博麗神社で開催ということにしようと思うが」
そんな伝統があるものかと思ったが、思いとは裏腹に大きく頷いていた。それが正しいことであり、いつも通りでもあると何故か得心してしまったからだ。かつての霊夢が異変を解決した際にも、人を呼んで神社でわいわいと騒いだのかもしれない。博麗の巫女は成人相当だし、一夜だけならば問題はないだろうということにしておいた。
「実はわたしに一つ良い考えがあるんだ。もし霊夢のほうで良ければ、宴会のセッティングや後始末などはこちらに一任してもらえないだろうか?」
その提案は霊夢にとって願ったり叶ったりだった。宴会を開くにおいて準備と片づけほど面倒なことはないからだ。
それから三日の後、博麗神社で宴会が開かれることとなった。天候が崩れて桜が散ることも、冬の寒気がぶり返すこともなく、ほど良い肌寒さが飲酒と場の熱気によって暖められ、丁度良い心地となり、至る所で話に花が咲いた。
神社を訪れた人たちはみな魔理沙が用意した趣向に大なり小なりの驚きを示していた。それもそのはず、宴会の開かれる神社の庭が巨大な鉄の龍が放つ光によって照らされていたからだ。といっても霊夢に浴びせかけてきた目を灼くような光ではなく、所々に提灯を下げているのと変わらないくらいの控えめなものだった。電灯などの無機質な光とは違い、妖精や力の弱い妖怪が照らされても害はなく、やる気が削がれることもない。もちろん付喪神が妙な気分になることもなかった。先日は自分や魔理沙の弾幕を真似してきたし、器用な光の使い方ができるらしかった。
魔理沙は本当に色々な所から人間、妖怪、神様と節操なく声をかけたらしく、人が増えるに従い庭だけでなく神社全体を貸さなければ収まりきらないほどとなっていた。この場に遠子がいればさぞかし目を輝かせただろうが、妖怪の集まる夜の宴会に参加できるほど自由な家ではなかった。きっと今頃は屋敷の中で拗ねているだろうから、明日にでも土産話の一つ二つ持って訪れようと思った。
霊夢は宴会が始まった直後はあらゆるところで引っ張り蛸だった。何しろ郷に住む誰もがろくに知らない機械が異変を起こし、その一部始終に関わった唯一の存在なのだから。なんとも憎たらしいことに雷鼓や弁々、八橋を中心とした解放派の主要メンバーまでもが、かつて桜を散らすと宣言したことなどなかったかのように霊夢の話を求め、飲み食いをし、夜桜を盛大に楽しんでいた。
話を粗方聞き終わると一つになっていた場は徐々にばらけていき、ちびちびと酒を楽しむもの、料理に舌鼓を打つもの、桜を愛でるもの、話に興じるもの、即興で歌い出すものなど様々な動きを見せ始める。元より雑多な集まりなのだから協調性なんてものはなく、各々が楽しみたいことを楽しむ。楽しくないことは誰も強要しない。
霊夢は誰の目や耳にも止まらないことを祈りながら宴会の輪から徐々に外れていき、鉄の龍の横を抜けて鳥居の下までゆっくりと歩いていく。石段に腰掛け、騒々しさや忙しなさを徐々に体から抜いていくつもりだった。雷鼓主催のコンサートでもそうだったが、一定以上の目まぐるしさに長時間触れると気分が悪くなるのだ。そんな時は静かな場所で一人休むというのが常だった。
宴会から遠く外れた所だから誰もいないと思っていたのだが、今回は先客が二人もいた。霊夢の足音に気付いたのか二人はゆっくりと振り向き、一人は屈託のない笑顔を、もう一人はどうしてお前がここにいるのだという渋い表情を浮かべていた。
「ごめん、わたし用事を思い出したから。また話、聞かせてよね」
守矢の風祝はそう口にすると、霊夢の側をするりと通り抜けていく。青のラインが入った巫女服に青袴、袖は霊夢が身に着けているものとよく似ている。初めてその姿を見たときは同じ巫女の仲間なのだと思い、胸が熱くなったものだ。
でもそんなことはなかった。余所余所しさを装ってはいたが、彼女……東風谷佳苗の瞳の奥には霊夢に対する怒りと妬みが覗いていた。結果として彼女の居場所を奪うようなことをしたのだから仕方ないとは分かっていても、同い年の子にあからさまに嫌われるというのはやはり穏やかならざるものがある。
「こんばんは、霊夢さん」美真はそんな二人の関係を知らないのだから当然のことなのだが、邪気のない笑顔が少しだけ痛かった。「少し顔色が優れないみたいですけど、大丈夫ですか?」
「うん、ちょっとね。騒がしさに酔いやすい体質なのよ」
「ああ、分かります。わたしもそういうのは苦手でして。それになんというか居辛いじゃないですか、その……」
「良いように使おうとした連中がいるから?」
「ええ、あまり気にしていない様子でしたが。それにこの衣装がですね」
美真は恥じらうように少しだけ頬を赤らめる。先日着ていた青いローブのような服ではなく、魔理沙とお揃いの白いエプロンドレスと黒のベストという姿だった。どうやらそのことを少し気にしていた様子だった。
「嫌ならば断れば良かったのに。それとも弟子入りするならその服じゃないと駄目って言われた?」
「いえ、わたしが悪いんですよ。魔法の練習をしていたら一張羅を酷く汚してしまって。替えの服がないからこれを着ていくしかなかったんです」
それならば仕方がないと思いながら、霊夢は美真の隣に腰掛ける。そして今更ながらこの場所を佳苗から奪ったことになるのかなと仄かな後悔が湧いてくる。
「彼女と何を話していたの? というか邪魔してごめんね」
「いえ、軽い雑談ですしまだまだ後からいくらでも話はできますから」
「なんだか初めて会ったという風には見えなかったけど」
二人とも初対面の相手に砕けた話ができるほど社交的ではないからそう推測したのだが、美真は嬉しそうな顔をしてその時のことを語ってくれた。
「彼女とは魔理沙さんの後について四季を司る妖怪や神様に謝って回っている最中に出会いまして。守矢神社の東風谷早苗様ってきっとご存じですよね? 彼女は冬の神様なんですけど」
美真の話に霊夢は、そういえばそんな肩書きもあったなと今更ながらに思い出す。機械や技術を司る側面が強いからすっかり頭の隅に追いやられていた一面だった。
「鉄の龍とともに外の世界からやってきたことを知ると、わたしが一人になった時を狙ってこっそり話しかけてきたんです。目を輝かせながら外の世界はどういうところなのか、博麗の巫女はどのような活躍を見せたのか、などと訊いてきました。その時は行脚の最中でしたから後日改めてお話ししますと約束しまして」
「だからさっきまで話を聞かせていたのね」
「ええ、お互いのことを少しだけ話しました。彼女は年端もいかないというのに、あんなに大きな山の中に建つ神社で一人、神様に仕えているとのことでした。霊夢さんもそうですが、わたしと然程年が変わらないのに一人前の役割を果たしていて。わたしなんて流されるままに生きてきただけですから二人とも凄いなあと思うわけですよ」
意図しているわけではないが、だからこそ邪気のなさは霊夢の心をちくちくつついてくる。
「……あまり仲がよろしくないんですか?」
そして絶妙的な察しの良さだ。彼女は外の世界だと、例えば覚妖怪みたく煙たがられていたのかもしれない。根拠のない推測だが、そう思えて仕方がなかった。
「色々あるのよ。といっても商売敵ってわけではなくてね」
「分かりました。それでは詮索しません」
そして好奇心も十分に制御できている。彼女が度を失っていたのはあくまでも鉄の龍が絡んでいたからなのだ。それ以外のことであれば大人に勝るとも劣らない分別ぶりを発揮できるに違いなかった。
会話が途切れると美真は話し難そうに俯いてしまった。どうやら会話を交わすのがあまり得意というわけではなさそうだ。それならばこちらから話しかけた方が良いと判断し、霊夢は気になっていたことを訊ねてみることにした。
「美真って呼んで良いんだっけ?」この手の大人しい性格の人間は呼び捨てにされることを酷く嫌がることがあるから確認を取ったのだが、美真は少しの間ぼんやりとした様子を見せたのち慌てて何度か頷いた。やはり偽名なのではないかと思ったが、それを訊いたら萎縮させるかもしれない。だから最初に訊こうと思っていたことをそのまま口にした。「あんた、これからどうするつもりなの?」
「しばらくは魔理沙さんの家に泊めてもらいます。ただしいつまでも置いておくわけにはいかない、魔法使いになりたければ他人に成果を知られることなく研究できる工房を構える必要があるとも言われました。魔法の森には魔法使いが居を構えるのに相応しい空間が点在するし、大昔の魔法使いの工房がまるまる残っている場合があるから、そこを探せば良いということでしたが」
自分にそんなものが見つけられるのかと不安に感じているようだった。彼女ほどの才能であればそこは問題なさそうだったし、霊夢が気になるのはそのことではなくもっと根本的な身の振り方についてだった。
「その言い方だと郷に居着くつもりらしいけど、元の世界に帰る気はないの? 両親や家族がいるんでしょう?」
その質問が美真にとって望ましくないものであることは嫌悪に歪んだその表情から明確に伝わってきた。すぐに笑顔を繕ったが、あまり深掘りしないほうが良い事柄なのは明らかだった。
「色々な人に訊きましたが今のところ帰る手段がないそうです。紫さんでしたっけ? あの方が語るところによると、異世界とかそういうレベルではない壁を超えてやって来たのではないかということでした。マルチバース、と言って分かりますかね?」
「いいえ、さっぱり分からないわ」
「簡単に説明すると、我々が今いる宇宙以外にも無限に等しい可能性の宇宙が存在しているということです」
「……ごめん、できるだけ簡潔に説明してくれているとは思うのだけど、それでも分からない」
時間と空間に関する知識を霊夢はまるで持ち合わせていない。それは高等教育の領分だからだ。
「いえ、わたしの説明が下手なのだと思います。そうだなあ……」
美真は地面をじっと見つめ、石段の端に転がる石を数個拾うと、そのうちの一つを指差して「これがいまわたしや霊夢さんのいる宇宙です」と、それから隣に置いた石を指差して「これが一ヶ月前までわたしがいた宇宙です」と言った。
「このようにして無数の宇宙が隣り合い、干渉することなく独立して存在しているという仮説がありまして」
「うーん、その世界って冥界とか彼岸とかそういうものではないの?」
「各宇宙がそれぞれに全てを内包していると考えてください。あらゆる星々、あらゆる生命、世界を構成するあらゆる法則や原理。そしてそれらの宇宙は無数に存在する」
「それはなんと途轍もない……あー、以前に命蓮寺の住職が話してくれたことに少し似てるのか。一つの山を中心として四つの大陸、九山八海あり、もって世界となす。それを千集めて小千世界、それを千集めて中千世界、更にそれを三千集めて大三千世界、だっけ?」
あまり真剣に聞いていたわけではないから細部は曖昧だが、この世は無駄に途方もなく広いと言いたいことだけは伝わって来た。それにしても仏の世界というのはあらゆることを盛り過ぎで、たまに酷く胡散臭くなるなと、驚愕するふりをしながらそんなことを考えていた記憶がある。
「面白い話ですね。それは何かの物語の記述ですか?」
「いえ、宗教よ。仏教ってあんたのいた世界にはないんだっけ? 似たようなものはあったみたいだけど」
魔理沙との戦いが終わって気絶していたとき、夢の中で巡礼教団とかいう胡散臭い教えが出て来た記憶がある。胡散臭いことにかけては郷にあるどの宗教にも負けず劣らずといったものだった。
「ええ、わたしの住む世界は道具に奉仕する生涯を定められており、職業も得るべき知識も制限されてるんです……って霊夢さんよくご存知ですね。魔理沙さんから聞いたんですか?」
「それもあるけど、実を言うとあんたの夢を見たの」霊夢は美真の視点を追体験するような夢を見たことを彼女に説明する。最初は興味深そうな様子だったが、その顔色は徐々に青ざめ、そして暗く落ち込んでいった。だから単なる夢以上のものを見たのだと改めて確信することができた。「巫女というのはお告げを受け取るものらしいのだけど、わたしには夢の形で降りてくるの」
「それお告げなんてものじゃないですよ。わたしのいた世界にも楽園の意志を受け取ることのできる信託者なる存在はいましたが、曖昧でお茶を濁すようなことばかり言ってましたよ。霊夢さんみたく細部までぴたりだなんてことはありませんでした。なんというか、わたしの記憶や思いをまるでアンテナのように受診したみたい」
霊夢は魔理沙が同じようなことを言っていたのを思い出していた。自分はどうやら卦を占うのではなく卦を受け取る体質らしいと納得せざるを得なかった。
「それではわたしがあの世界でどうやって生きて来たか、どれほど息苦しかったのかも既に知っているんですね?」
美真は急に気恥ずかしくなったのか頬を赤くし、深く俯いてしまった。悩みや苦しみについて考えていると己の最も嫌な部分がどうしても滲み出るから、他人にそれを逐一把握されているというのはそれだけで辛いものがある。霊夢もこいしに初遭遇した際、心の奥底にある悩みをずばずばと当てられて羞恥心で心臓が止まりそうになったことがあるから、気持ちはよく分かった。
「そうね、大体は」だからあんなにも傍迷惑なことをしながら霊夢は彼女を突き放すことができなかったのだ。「まあ全てを垣間見たわけではないけど」
「……では、わたしの本名も知ってますか?」
「いえ、それは分からなかった。あんた、思考する時の主語は全部わたしだったから」
霊夢も心の中で何かを考える時はわたしが主語に来る。自分の名前なんて考えるまでもなく明らかだからだ。
「あー、確かにそうですよね。言われてみれば霧……名前で考えたりしませんよね」
ふと本名が口をつきかけたようだが、霊夢は何も言わなかった。本当の名前を知られたくない事情というのは大体深く、指摘されたくはないものだ。現に霊夢も本名を博麗霊夢という名前で上書きしている。妖怪が仕掛けて来る、名前から来る呪いを避けるためだ。
「霧子、って言うんです、本当の名前」
しかし彼女にそこまでの事情はないらしく、あっさりと本当の名前を口にしてしまった。
「いや、その……偽名を使うつもりはなかったんですよ。魔理沙さんに出会ったとき、霧子と名乗ったんです。でも森の魔力や瘴気で意識が朦朧としていて語尾が途切れてしまったらしく、おそらく霧の部分しか聞こえなかったのだと思います。そうしたらいきなり血相を変えて、お前の苗字は霧雨ではないか? と訊ねてきたんです。あんなに熱心な顔をされたらいいえとは口にできないですし、曖昧に口を濁したら今度は下の名前を聞かれまして。なんというかその……ペンネーム? 的なものを口にしてしまいました。魔理沙さんの顔ときたら蒼ざめるやら赤くなるやらで、とても違うとは言えなくなってしまって」
嘘を弁解するためか、彼女の話し方は始終しどろもどろだった。ただこれは明らかに魔理沙の早合点が原因だ。何かの理由はあるのかもしれないが、魔理沙をしてそんな勘違いを引き出すような特徴を彼女は有していたのだろうか。記憶を辿っても霊夢には何も思い浮かばなかった。
「まあ、魔理沙は変わり者だからそういうものだと思って割り切りなさい」
そう言うと美真は分かりやすく苦笑を浮かべる。どうやら魔理沙の性格に早速振り回されているらしい。
「善い人ではないですが、悪い人でないことも分かります。少なくとも一度見ようとした面倒は最後まで見る人なのでしょうね。偽名ってことはきっとばれてますけど何も言わないですし、魔法のことも、この世界でどう生きれば良いかも教えてくれます。わたしと一緒におっかない神様や妖怪を回り、頭を下げてもくれました。それに魔理沙さんが紹介してくれた方のお陰であの子が何を考えているのも分かりましたし」
「あの子って鉄の龍のこと? 魔理沙ってそんな技使えたかしら」
霊夢が首を傾げていると、何故か美真も同じように首を傾げてしまった。
「誰かを紹介してもらったんです。でもそれが何故か思い出せなくて」
それで霊夢には魔理沙が誰を紹介したのか検討がついた。
「古明地こいしって名前じゃなかった? 奇妙なコードのついた目玉のようなオブジェを持ち歩いているやつなんだけど」
「そう、その人です。大事なことを教えてもらったのにどうして忘れてしまったんでしょう?」
「あいつはそういう妖怪なの。人の思考の隙間、意識しない場所へとその身を置くことができる。だからすぐに見えなくなるし、感じられなくなるし、覚えていられなくなる」
「霊夢さんは覚えていたようですけど」
「神社にも時々遊びに来るから他の人より少しだけ思い出しやすいってだけ。それでも彼女のことを明確に意識していない時は忘れていることもある。目を開けている時だけははっきりと認識できるんだけど」
能力的な限界なのか、瞳を一度閉じた弊害なのか、三十分ほどしか開けていられないのだ。そして力を使った後はすうすうと眠りに落ちてしまう。
「不思議な人でしたね。最初は半信半疑でしたけど、こちらの思っていることをずばずばと当てられるから否応でも本物だと認めるしかありませんでした。読心術者ってわたしがいた世界では嘘っぱちばかりでしたけど」
「わたしだって彼女以外の読心術者なんて一人しか知らないわよ。それで鉄の龍はなんて考えていたのかしら?」
特に咎められることなく、今も宴会を緩やかに照らしていることからして敵意や害意を持ち合わせていないことは容易に想像もつくが、具体的なことが聞けるならばそれに越したことはない。そう思って訊いたのだが、美真は少しだけ言いにくそうにしたのち、ぼそぼそと聞き取りにくい声で答えを口にするのだった。
「あの子、わたしのいる所にいたいそうなんです。こいしさんが言うには雛鳥が最初に見たものを親と思い込む、刷り込み的な親愛らしいんですが……嫌われているわけではないと分かってほっとしてる反面、あれほどの巨大なものを子供と扱う難しさも感じていまして」
確かにそれは難儀だし、それとは別に一種の危うさを含んでもいた。彼女が行きたい、やりたいと思うことに、鉄の龍はほとんど無思慮に追随する可能性が高い。あんなものがもしも異変のたびにほいほい乗り込まれてきたらたまったものではない。
「幸いというか先程の異変で蓄えてきた力をほぼ全て放出したみたいでして、あんなことはもうできないみたいです。太陽から力を直接取得することも禁止されましたし、自然に照りつける光からはろくに力を摂取できないみたいですから、あの時のように、怒りで我を失って大暴れということはないみたいですが」
その言葉に霊夢はほっとしたが、美真はすっかりと表情を曇らせてしまった。
「あの子には本当に可哀想なことをしました。円環世界の楽園はこの宇宙には存在しないみたいですし、かといって他に赴く場所もない。光素の力は元いた世界よりもずっと弱く、満足に力を振るうことすらできない。一番辛いのはそれらの全てを恨んですらいないということです」
「まあ、恨んでないならそれで良いじゃない。あの巨体にすり寄られるのは何かと難儀かもしれないけど……いずれここで本当にやりたいことを見つけたなら、その時は手伝ってあげると良いんじゃないかしら」
霊夢に言えることは本当にこれくらいしかなかったが、美真の落ち込んでいた表情は晴れることなく逆に深く考え込んでしまった。
「実は一つだけあるんですが、なんというかその」
「そんなに難しいことなの? 例えばいつか宇宙に飛び立ちたいとか」
「詩を歌い上げたいのだそうです」
思わず頭を抱えたくなるほどの難問だった。鉄の龍は警笛を雄叫びのように鳴らすだけで、歌はおろか会話すらできないのだから。
「あの子が付喪神を支配下に置いていたときは、彼女たちの体を借りて歌っていたそうです。きっとわたしが一人でぼそぼそやっていたやつだと思います。どうしても暗い気持ちが拭えないとき、好きな作家の詩を口にして己を鼓舞していたんですよ。例えばこんなやつです」
心象のはひいろはがねから
あけびのつるはくもにからまり
のばらのやぶや腐植の湿地
いちめんのいちめんの諂曲(てんごく)模様
いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
唾し はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
ぼそぼそというにはあまりに朗々として、透き通るような声は美しく、霊夢の心を強く打つものがあった。言葉一つ一つのなんと力強く、時には物事を鮮やかに切り取り、そして時には激情を高らかに歌い上げるものか。これをいつも聞いていたならば、無機物であろうと歌を歌いたいと願ってしまってもしょうがないだろう。
「この郷では、ものは付喪神として人型を得ることがあると聞いています。もしかするとあの子はこの世界に適した形を得るかもしれませんし、そんなことはないのかもしれません。もしも付喪神になるようなことがあれば、せめてもの罪滅ぼしとして歌を教えてあげられたら良いなと思っています」
その結論が幾分か腑に落ちたのだろう。美真はそう言うとゆっくり立ち上がり、どんちゃん騒ぎの方を指差した。
「長々と話に付き合ってくれてありがとうございます。ここは色々と大変な場所だけど、溜め込まずに話すことができるというだけで大分ましになるみたいです」
「……どうしようもなく暇だったら、話くらいは聞いてあげる。あとこれは忠告だけど、悪い大人がお酒を飲ませようとしてもきちんと断るのよ」
「あ、それはもう手遅れです。でもよくある物語のように顔が赤くなったり意識が飛んだり、思考が先走ったりということはありませんでしたね」
「念のために聞くけどどれくらい飲んだの?」
「日本酒が徳利一本ほど、ワイン一本、ビール二杯ってところですかね。元いた世界と違うところもありますが、アルコールに関しては然程変わらないみたいです」
それでけろりとしているならば、笊といって差し支えない。この郷で妖怪やら神様やらに関わって生きていくならばある意味最も必要な技能を彼女は有しているらしい。これなら霊夢が付いていく必要もないと判断し、一人でここに残ることにした。喧騒に戻るにはまだもう少し回復したかった。
「何か他に訊きたいことはありますかね?」
霊夢は少し考えてから一つだけ、些細だけどとても大事なことを訊ねることにした。
「あんたのこと、美真って呼べば良いの? それとも霧子って呼べば良いの?」
「本当の名前は差し当たってここでは必要ありません。ですから今まで通りに」
「了解。その名前、もう少し慣れた方が良いわね。何度か自分の名前じゃないみたいにぼんやりしていたことがあったわ」
「気をつけます。堂々と名乗れるよう、聞き逃さないよう、霧雨美真という名前を身につけることにします」
それでよしと頷き、そして蛇足と分かっていたがもう一つだけ質問を追加する。
「霧子って下の名前よね? 苗字のほうはなんなの?」
「宮沢です。あの詩を作った人でもあり、わたしの曽祖父だか、曽々祖父だかでもあります。どうやらこちらの世界でも有名な人らしいんですが、若い頃から病弱で病を繰り返し、子供を作ることもなく早逝したと聞いて酷く驚きました。元いた世界の彼は遺産の分配で一悶着起きるくらい子孫を残していましたから」
霊夢自身は宮沢某も、その人物が残した詩や物語もまるで知らなかった。今度、遠子に会ったとき本を持っていたら借りようかなと思った。
美真は心なしか堂々とした調子で祭りの喧騒のほうに向かっていく。自慢のご先祖様を紹介できて満足したのかと思ったが、そういうことではなく、木陰にひっそりと隠れていた風祝を目聡く見つけ、こんな所にいてびっくりしたという風を装って見せた。それから半ば強引に手を引いて宴会の輪に加わっていく。
「いやー、うん。良い子だわー。魔理沙には勿体ないなあ」
霊夢はにやつく頬を抑えながら石畳にごろりと寝転がる。ひんやりとした感触は人の行き来と喧騒でぐらぐらした感覚を徐々に取り戻していく。こちらもそろそろ復帰しようかなと思ったところでにゅっと亀裂が開き、紫の顔がひょっこりと覗いた。
「どうしたの、そんなとこで寝転がって。というかどうしてわたしの顔を見て怒ったような表情を浮かべるの?」
「自分の胸に聞いてみなさいよ」
紫は首を引っ込めて隙間を閉じると地面からせり上がって来て、大地に足をつけると改めて霊夢の顔を覗き込む。その顔は幼子のように不安げで、悪いのは彼女のほうなのに何故か罪悪感が湧いてきた。
紫は平たい胸に手を当て、しばらくじっとしていたが、すぐに小さく息をついた。
「そりゃ監督不行き届きだったのは認めるわよ。けど全ては丸く収まったのだし、今後の見通しもついたのだし、そのことを示すための宴会なのでしょう?」
霊夢はぷいとそっぽを向いたが、紫は屈み込むと顔を両側から挟んで無理矢理上を向かせ、頬をぐにっと摘んできた。
「あひへへへ、なにふるのほ!」
頬を摘まれてうまく喋ることができないことに抗議すると、紫はすぐに離してくれたが手は間近に構えている。気にくわないことをされたらまたやるぞと言わんばかりに。
「何をするのよって、それはこっちの台詞よ。今はプライベートとはいえわたしはあんたの上役なんだから、不満があったらきちんと言いなさい。拗ねて黙り込むのが一番駄目!」
あんなことをしておいて無茶苦茶だとは思ったが、何も知らない風を装われると流石に腹の一つも立ってくる。
「わたしのパソコンを勝手に操作して、わたしの代わりに報告書を作ったでしょう!」
すると紫は目をぱちくりとさせ、何言ってんだこいつとばかりに目を細めてきた。
「そちらは休暇中だし、こっちも報告書なんて読んでる暇はないからしばらくはゆっくり休んでおきなさいって言いに来たのよ。休みなのに無理したらいざというとき力が発揮できないでしょう? それなのにまるで駄々っ子みたいに拗ねて、おまけに変なことを言い出して。そもそもなんでわたしが犯人だって決め打ちなのよ」
「だってわたしがやって来たこと、まるでわたし自身のように書いてあったから。そんなの自在に現れたり隠れたりできる能力がないと無理でしょう?」
「そうかしら、かつて覚妖怪だったほうの古明地なら気付かれないように後をつけるなんて容易いことだし、最近になって郷にやって来た咲夜ってやつは時間を停止させることができるそうじゃない。パソコンの不正使用なんてそれこそショルダーハックでもすれば、普通の人間にだって可能よ。それなのに何故わたしだけ疑われるの?」
紫は怒りに鼻息を荒くしているが、目元は微かに潤み、どことなく意気消沈しているようにも見える。それはもしかすると紫が犯人であるという確信が揺らいだからそう見えているだけなのかもしれないが、ことの次第がはっきりしていないというのに、彼女を追求しようという気持ちがみるみる失せていくのだった。
「まあしょうがないか、古今東西において八雲紫というのは疑われるものらしいし」
どう声をかけて良いか迷っていると紫は勝手にそう結論付ける。それで霊夢の疑いもほとんど消えてしまった。まだ完全になくなったわけではないが、彼女の態度はあまりにも犯人らしくなかった。
「それはさておき、あの書類は無効ってことになるから改めて提出して頂戴ね」
「えー、内容的には完璧なのに」
ずっと見られ続けていたのは腹立たしいが、しかしあれほどの報告を霊夢は書ける気がしなかった。出所は分からなくても成果物があればそれで良いと思ったのだが、紫はそうは考えていない様子だった。
「駄目よ、こういうのは自分で書くことに意味があるの。それに突出して出来の良い書類があったら監査が入った時に無用な疑いを持たれかねない」
「うへえ、面倒臭いなあ」
「その面倒な一手で後の面倒さを回避できるならば時間を割く価値はあるのよ。時は金なりなんてさもしいことは言いたくないけれど、人間の生涯は短い。無駄なことはしても良い、でも無意味なことを避けるに越したことはない」
それを言うなら監査自体に意味はあるのかと言いたかったが、ここで公務のあれこれを話すのも虚しいだけだった。
「分かったわ、明日中か遅くても明後日には……」
「まだ休暇中なんだから明けてからにしなさい」
厳しいのだか甘いのだか分からないようなことを言われてしまい、少しだけ困ってしまったが、そう言うならお言葉に甘えることにした。買い物を楽しむのも良いし、遠子の家に行って今回の事件のことをだらだらと語ったり、他愛のないお喋りをしながら半日を過ごすでも良い。とにかくだらだらと休みを謳歌するつもりだった。
そんなことを考えていると紫が全身をじっくりと観察していることに気付く。
「回復はすこぶる早いし、尾を引く症状はない、霊脈の流れも極めて良好。規格外というわけではないけど霊的にとても頑健なのね。博麗をこなしながら消耗した形跡もない、驚く程に健康だわ。精神も話をした感じ、特に異常はなし。いきなりわたしに突っかかってきたから最初は異常ありかなとも疑ったのだけど」
「わたしの健康を心配してくれてるんだ」
「福利厚生の一環よ」紫は厚意であることをあっさりと否定し、額の辺りに視線をじっと注ぐ。「他に何か気になることがあれば言ってみなさい。妙な声が聞こえるとか、怪しい声が聞こえるとか、不思議な声が聞こえるとか」
「声ばかりじゃない。何も聞こえないわよ」
「ふぅん、じゃあこれは放置で良いのかしらね」
「えっとなに、放置で良いってちょっと気になるじゃない。なんか妙なものが体に溜まってるの?」
「気にしなくて大丈夫よ、穢れが溜まっているだけだから」
「いや、それって一大事じゃない?」
穢れというのは人にも物にも溜まるものとされており、良くないものという話だけはとかく伝わっている代物だ。しかしそれが何であるのか、神職だというのに霊夢にはよく分かっていないし、そんなものが蓄積してるだなんて言われても困るだけだった。そもそもどこで穢れを浴びてしまったというのだろうか。霊夢は先日の足跡を辿り、思い当たる節を一つだけ見つけることができた。
「もしかして鉄の龍が放っていた光がそれだったの?」霊夢はそれが放つ光を散々に浴びているし、気力が抜けるような感覚を何度も味わっている。穢れを当てられたのだとしたらそのことにも説明がつくかもしれないと思ったが、すぐに否定材料がいくつも頭の中に浮かぶのだった。「でも魔理沙や美真には効いてなかった気がするんだけど。紫もきっと平気なんでしょ? あと効果があったのは付喪神たちくらいじゃない」
「うん、それが不思議なのよね。普通の人間は雑多なものを食らい、排出する過程で自ずと穢れるようにできているしなあ。考えられるとすれば穢れの密度というか、種類の違いというかそんなところかしら。やはり本物の月が放つそれは一味違うってことなのか……」
「月に本物も偽物もないと思うけど」
紫ははっとした顔をしてから慌てて手を振る。
「ああいや、そのね……そう、知ってた? あの電車と女の子がいた世界には月がないらしいのよ」
いま露骨に話を逸らされた気もするが、あまりにきょどきょどしていて哀れさすら感じるほどであり、つつくと子供のように泣き出してしまいそうだった。とてもではないが追求できそうになかったし、紫が振ってきた話にも興味がないわけではなかったから騙されたふりをしてあげることにした。
「でも最初からなかったわけではない。向こうでは月という呼称ではないけれど、同様の衛星はかつて地球の周りを回っていたみたいなのね。それほどの質量がなくなれば地球の環境に影響が発生することは避けられないから、前後の変化が地質などを調べる過程で判明したのでしょう。では消えた月はどこに行ったのか?」
そんなの分かるはずがないと言いかけ、ふと奇妙な考えが頭の中に浮かぶ。美真が話してくれた楽園に関する話も考えると、それ以外に行き先はないように思えた。
「もしかして、太陽を巡る巨大な輪っかの材料になったの?」
「その通り。リングワールド……もとい、太陽の周囲を巡る輪っかを作るともなれば、その質量は莫大なものとなる。太陽系に存在する質量をかき集める必要があるし、火星と木星の間に存在するアステロイドベルトも向こうの世界では存在しないという事実がそのことを裏付けているのだけど……あらどうしたの? 頭の上で妖精が盆踊りを踊っているように見えるのだけど」
「あのね、気をつけないと人が死ぬわよ」
紅魔館の魔法使いといい、こちらの頭に余るような知識をさも当然のように披瀝するのは本当にやめて欲しかった。
「つまり彼女が口にする楽園とは、宇宙を航行するほどの技術を持ったインベイダーの文明が星々を解体して材料とし、築き上げたものであるということよ。ファンタジー的なものでは決してない」
それならば確かにファンタジーではなくなるが、かといって現実とするにはあまりに途方のないことだった。少なくともこの郷では宇宙船はおろか飛行機すらまだ実現していないのだから。
「この仮定を真とするなら道具だけが楽園に還ることの意味もがらりと変わってくる。極めて高度な技術を持つリングの創造主たちはその材料となる物質を未だにあらゆるところから集め続けており、既にある程度の錬成や加工がなされた人間の道具は素材として非常にうってつけだと考えられる」
「それってつまり、楽園に辿り着いていたら鉄の龍は鋳潰されていたってこと?」
「そういうことになるわね。もしかするとあちらの世界の地球は創造主たちによって、下請け工場のようなものかもしれない。従順な種族を知的に進化させ、巡礼教団を通して教えをばらまき、疑いを持たせることなく奉仕させる。これはもちろんわたしの推測でしかないけれど、おそらくはそういう構図なのでしょう」
おそらくはと言いつつ、紫は疑いを持っているようには見えなかった。だが、そこまでの確信を抱く理由が霊夢にはよく分からなかった。これも霊夢が垣間見た郷の秘密らしき事実と同様、容易には明かすことのできないものなのだろうか。わざわざ話してくれたのならば、問えば教えてくれるかもしれないが、理解出来る自信もなく、口を噤んでいるほかに霊夢には何もできなかった。
「そんなわけで美真とかいう少女も、あの鉄の龍も元の世界に帰すつもりはない。まあ帰して欲しいと言われてもその方法がないんだけどね。全く、あの歯車お化けといい、どうやって入り込んだのだか」
「結界を管理しているあんたにも分からないんだ」
「そうよ、だから日々不眠不休で調査に当たっているの。冬眠から目覚めたばかりだっていうのに」
沈みがちな表情からして調査はあまり芳しくないらしい。
「じゃあ、同じようにしてまた何かが入ってくるかもしれないんだ」
「可能性は否定できない。こんな状況が続くのはわたしのプライドが許さないから一日でも早く原因を突き止めるつもりではあるけれど。これからも迷惑をかけるかもしれないし、訳の分からない、事情も教えられない事態に首を突っ込ませることになるかもしれないけど、そこは勘弁して欲しいというか、手心を加えて欲しいというか」
指と指をちょんちょんと合わせ、霊夢から顔を背けながら目だけちらりとこちらをうかがってくる様子はなんともいじましいものがあった。
「じゃあさ、お願いが二つほどあるんだけど。神社の洗濯機と掃除機、どっちもかなりがたが来てて本格的な修理がしたいんだけど、それってどちらも公費で落ちる?」
質問と同時に指の動きがぴたりと止まり、ぎろりと睨まれる。それは厚かましいのかと思ったら、紫は「ばかものー!」とまるで仙人のような雷を落とした。
「そんなの当たり前でしょ! 申請して経費で落としなさい。もしかしてこれまで自腹切ってたやつとか他にもあるんじゃないでしょうね?」
「あ、いや少しだけ、ほんのちょっぴりだけだから」
「公務員は無駄遣いが多いとかそういう風評は気にしたら駄目。あんた命かけて仕事してるんでしょ? だったら尚更よ」
正直なところいちいち申請するのが面倒臭いし、収入は保証されているから少しくらいさぼっても良いかなと考えていたのだ。しかし紫にはそれが許せないようだった。
「面倒でもそこは手を抜いては駄目。一人で何もかも切り盛りするのがきついならば人を雇いなさい。そのための権限も博麗の巫女にはあるはずよ。就労規則とかちゃんと読んでる?」
「そんなもの、読み飛ばしているに決まっているじゃない」
堂々と言うと紫は特大の溜息をつく。
「了解了解。だったらうちの式を一人、しばらくあんたにつける。それで事務や経理の一切合切を全てやらせるから。でもいつまでもじゃないわよ。ちゃんと人を雇い、切り盛りできるようになるまでだからそのつもりで」
紫はそれだけを一方的にまくし立て、ようやく気が済んだらしい。表情から説教の色が抜け、霊夢は内心ほっとする。まさかここまでのがみがみ屋だとは考えてもみなかったのだ。過去の記録から察するにもう少しふわっとした存在かと思っていたのに。
「それじゃあ、わたしはこれで失礼するわ」
「あんた、宴会には参加していかないの?」
「忙しいって言ったでしょう? それにここまで長話するつもりもなかったのよ。事情をぱぱっと説明して、あとは宴会の参加者がもう一人来るから出迎えてあげなさいって言うつもりだったの。ということで今日はこれまでだけど、また来るからね。あんたには公務員の心得、博麗神社で就労することについてのあれこれをきっちり頭に叩き込まなければいけないみたいだから。また叱られるのが嫌なら規則を読んでおきなさい、もちろん休みが明けたあとでね」
それだけまくし立てると紫は境界を開き、するりと中に駆け込んでいく。それから腕だけをにゅっと出し、階段の下を指差す。つられて視線を向けると、遠子がゆっくりと石段を上がってくるのが見える。こんなところを夜も遅くに一人で出歩いていることに驚き、霊夢は慌てて石段を下りていく。
「あんた、どうしてこんなとこいるのよ。どうやって屋敷から抜け出してきたの? というか仮に抜け出せたとしても一人でやってくるなんて危ないでしょう?」
思ったことをそのままにまくし立てると、遠子は霊夢を宥めるように淡く笑みを浮かべるのだった。
「それだったら問題ないわ。知り合いの式が二人がかりでお供をしてくれたの。知り合いといってもかつての稗田なんだけど、それは大体わたしの知り合いと一緒よね」
遠子のその言葉でようやく危険なことではないことが分かり、霊夢は小さく息をつく。今夜は本当、驚かされることばかりだ。
「宴会は異変の関係者全員が参加するもの。あなたもその例外ではないから参加しなさいと言って半ば強引に連れ出されたのよ。当代の八雲はなんというか随分と分かりやすく情が厚いのね」
「あの態度、たまにうちにやってくる仙人を思い出すわ」
そう言うと思い当たる節があるのか、遠子は思わず忍び笑いを漏らす。
「そういうこと言いながら自分は忙しいって帰るんだもの。最後のほうに少しだけ参加してたのに」
その身勝手さは力のある妖怪らしいとも言えたのだが、あるいは宴会に参加することもできないほど裏では逼迫しているのかもしれない。思い悩むにしても情報が足りなさ過ぎて、結局のところ何もできそうになかったのだが。
「まあ良いか、何か知ったところで何もできるわけでもなし。必要になったらいやでも声をかけられるんだし」
などと自分を納得させたところで、宴会の輪の中からどっと騒ぎが起きる。どうやらこれから一勝負始まるようだ。
「では桜と弾幕を肴にと洒落込みましょうか」
霊夢の提案に遠子も面白そうに頷き、二人は影から光の当たる宴会の只中に入っていくのだった。
その一部始終をじっと空の上から眺めているものがいた。誰もそれに気付かないのは気配を念入りに消し、姿を隠す布を被っているからだ。といっても輪に混じりたくて遠巻きから様子をうかがっているわけではない。昔はそうだったかもしれないが、その程度の天邪鬼は既に通り越している。率先して馬鹿騒ぎしている雷鼓に対してはしようのない奴だと思ってもいるのだが、現状にはなんら関係がない。
正邪はある人物を待っていた。楽しそうな宴会を見下ろせる場所でという指定を受け、あてもなく空を漂っていたのだ。自分も人のことは言えないが、彼女が正邪に輪をかけた皮肉屋あることは間違いない。そして天邪鬼でもないのに、正邪と同じくらいに天邪鬼な捻くれ者だった。
何しろ彼女ときたらかつて、あらゆるものから逃れおおせた自分の前にひょっこり姿を現し、ハートを放ってきたのだ。お前もまた愛されるものとでも言いたげに。郷の実力者が放って来る苛烈な弾幕に恐怖を抱いたことは何度もあったが、相手の底知れさに対して畏怖を抱いたのはその時が二度目だった。一度目は言わずと知れた博麗の巫女だ。
「ああ嫌だ嫌だ、思い出しただけで寒気がする」
「あらあら、天邪鬼というのは寒がりなのね」
漏れた独り言を拾い、彼女はさも最初からそこにいたかのように話しかけてきた。猫のように笑うその様子からは、正邪がどんなことを考えていたか察しているようでもあった。
「遅いんだよ、わたしだって暇じゃないんだ」
「だったらわたしのように隠退して悠々自適の生活を始めたら良いのに」
「その割に最近はちょろちょろと動いているようじゃないか。きっとわたし以外にもアプローチをかけてるんだろ?」
正邪が湖に現れた歯車の塔や、魔法の森に現れた鉄の龍の在り処を真っ先に知ることができたのは彼女……八雲紫のリークがあったからだ。最初こそ半信半疑……否、一信九疑だったが、二度とも確かな情報とあっては彼女の情報を信じないわけにはいかなかった。
「できればそうしたかったけど、憂慮すべきことが次から次へと湧いてくれば眠っているばかりでもいられなくなるの。あと三百年くらいは食っちゃ寝して英気を養うつもりだったんだけど」
紫は手に頬を当て、わざとらしく息をつく。いちいち一挙手一投足が胡散臭い奴だった。
「それで、今日は何の用だ。また新しいのが入ってきたのか? 言っておくけど今度はもう少しましなやつをあてがってくれよ。どちらも強い力を持っていたのは確かだが、我々解放派の面々が扱うにはあまりにも相性が悪過ぎた。それともそういった輩どもをぶつけてこちらの勢力を削ごうとしているのか?」
八雲紫は幻想郷のバランサーであり、悪戯が度を越し始めた解放派を押さえつけるために情報を与えていたのだとしたら辻褄が合いそうだった。すると紫は心外と言いたげに口元を窄めてみせた。
「それだったら冤罪をでっち上げ、郷の有力者総出で叩き潰すよう仕向ければ良いだけ」
さらりと怖いことを言われたが、正邪は彼女がやると言ったら本気でやることを誰よりもよく知っている。実際に叩き潰されそうになったことがあるからだ。もっとも正邪の場合は幻想郷の転覆という真っ黒なことを考え、実行に移そうとしていたから自業自得ではあったのだが。
「あら、お針子のお姫様が恋しいって顔してるわよ」
「してねえよ!」思わず激しかけ、正邪は慌てて口を噤む。良いように会話のペースを握られていると気付いたからだ。「それなら何故、わたしにあんなことを教える?」
「そうね、流石に目的も知らせず駒として動いてもらうのには限界があると感じたからかしら。貴方は極めて動かし難いし、吹けば飛ぶような実力しか持っていないけど、その内に眠る精神をわたしは高く買っているの。ここで手離すわけには些か惜しいものがある」
「わたしの中にあるのは反骨の相ばかりだがな」
「故に世の逆を張りたければ如何なる危険をも顧みない。かつて小槌の力で郷を転覆させようとしたように」
「なるほど、つまりあんたには転覆させたい何かがあるってわけだ」
きな臭くなってきたなと思いながら正邪はにやりと口元を歪ませる。こいつは本当、天邪鬼の動かし方をよく知っているのだ。
「ご明察。わたしが転覆させて欲しいのは郷の科学技術を仕切る勢力、即ち妖怪の山の大勢力よ。それは幻想機械を解放するという組織の目的とも合致しているはず」
「だから得体の知れない異世界の機械を、こちらに呼びつけてるってことか」
未知の進んだ技術を手に入れることができれば、妖怪の山や北の里にある生産工場を一手に占拠することは可能かもしれない。小槌ほどではないが、湖に現れた歯車のお化けも魔法の森に現れた鉄の龍もそれだけの潜在能力は秘めていた。だが口にしてはみたがあまりしっくりと来なかった。
「まあ、それも目的の一つであるとだけ言っておくわ」
はたして紫の答えは多分に含みを持たせたものだった。
「そんなことだろうと思ったよ」八雲紫が動くならば、それは蜘蛛が精緻に巣を張り巡らせるが如く、網羅的で容赦のない企みとなるはずだ。その執念とも言える智謀はかつて月の頭脳すらも欺き切ったと言われている。今回も何らかの、正邪には読み解くことすら難しい企みが巡らされているはずだった。こんな確度の低い事象に縋ったりはしないはずだし、もっと別の主たる目的が隠されていると考えるべきだ。「わたしはどうあがいても盤上の駒、そう言いたいわけだ」
紫はその問いに口元を歪ませるだけで何も答えない。
「良いだろう、お前が何を考えているか、今はさっぱり分からないがね。わたしがただ盤面で踊るだけの駒になるとは思わないことだ」
口にしてみて、それが自分の役目なのかもしれないとふと気付く。仕掛けた盤面をひっくり返すことができる存在として自分は抜擢されたのかもしれない。
「期待しているわ。それではまた第三の幻想が現れたら連絡するから。今度こそは上手くやりなさいな」
紫は正邪の推測を肯定するようなことを仄めかすと、正邪の前からふっと消えてみせた。
「本当、食えない奴ってのはああいうのを言うんだな。さて、しかしどこまでが本当なのやら」
「あ、そうだ」
独り言を口にした正邪を咎めるように、隙間が僅かに開く。こいつ、本当に性格が悪い!なと思ったのも束の間、その奥底から低くくぐもった声が聞こえてくる。
「虫に、気をつけることね」
紫は意味深な発言を残し、不吉そのものであるかのように亀裂は閉じていく。しばらく口を噤んでいたが、今度こそ本当に立ち去ったと考え、正邪はぽつりと呟く。
「虫、だって?」正邪の頭にぱっと浮かんだのは虫を操る力を持つ妖怪のことだったが、紫がそんなに直截的なヒントを与えるとは思えなかった。「獅子身中の虫、ってことか?」
解放派の内側で何かを企んでいる奴がいるということを知らせたかったのだろうか。それとも組織の内部を無駄になる疑わせるためのブラフなのか、それとも全く別の意味を秘めているのか。
「用心するに越したことはないのかね。全く……」
影を招かないよう、続く言葉は喉の奥に飲み込み、そして正邪は眼下を見下ろす。あいつらはみな、全てが解決したと言いたげに羽目を外してどんちゃん騒ぎをしている。なんともおめでたいことだ。
正邪はにやりと、嘲るような笑みを浮かべる。これは終わりではない。次こそ挽回し、郷を転覆させるのだ。そして全ての目論見の上に立ち、指を差して笑ってやろう。
正邪は夜空に浮かびながら一人、反撃を決意するのだった。
事件の終わりの裏で画策するものたちの算段は、しかし全てが虚しく崩れ落ちることになる。これから半年ほどのち、郷に第三の幻想が現れ、あらゆるものの目論見を超える未曾有の大混乱が引き起こされることになるからだ。
再び閉ざされる太陽、絶えなき夜に浮かぶは偽りの満月。終わりなき一夜、即ち永夜の中で不可能をも可能にする機械仕掛けの神を巡り、複数の勢力がぶつかり合うことになる。
だが、今はまだ誰もそのことを知る由もないのだった。
修羅と修羅 終
第2章 修羅と修羅 一覧
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