人間はどのような場所にでも住み着く生き物であるらしい。
かつて郷が外の世界と繋がっていたとき、そこに住む人たちは夏でも雪が降る極寒の地から常夏の南国まで至る所に住んでいたそうだ。発端が何かはよく思い出せないが、遠子の話はいつの間にかそんなところに転がり込んでいた。
自分にはどちらもおよそ想像がつかないし、外の世界は郷にも増して変てこな場所なのだなと、そんなことをぼんやりと考えてしまった。
『本当にそんな世界があるのかなんて顔をしてる』遠子はそんな霊夢の心を読んだかのように指摘し、目に見えて機嫌を悪くする。『わたしの能力は知ってるでしょ?』
話半分に聞いていたことではなく、求聞持の法を疑われたことに腹を立てているらしいと分かり、霊夢は慌ててきちんと聞いていたというポーズを取った。
『いや、だって四季は巡るものでしょう? 冷夏と言っても冬のように寒いわけではないし、暖冬だからといって夏のように暑くなるわけでもない』それが霊夢にとっての覆ることない常識である。多少の差異はあっても四季は必ず訪れる。いかなることが起こり得るこの郷であってもなお、それを疑ったことは一度もない。『人がどこにでも住むってのには割と同感だけど』
霊夢は妖怪の山の麓に築かれた『北の里』や彼岸にずっと近い場所に拓かれた『西の里』を思い浮かべる。前者は天狗や河童といった強力な妖怪と近く、後者は生と死の境目に近い。それなのにかつて人間たちは見事開拓に成功し、その頒図を拡げてみせたのだ。かつて唯一の里だった人間の居住区は『東の里』と呼ばれるようになり、今は緩やかな過疎の一途を辿っている。人口比率は東、北、西の順で二対五対三だと言われているが、そこには元祖の見栄が多分に入っていると霊夢は常々疑っている。
『いずれは妖怪の脅威を克服し、人間は何処にでも里を築けるとうたう者もいるわね。でも今はそんなこと関係ない。わたしは常夏の地も一年中氷に閉ざされた極寒もあると言いたいのよ』
霊夢はもう一度そうした光景を思い浮かべようとした。しかしいくら想像を重ねても湖に張った氷はいつか溶ける。春はそれを告げる妖精とともに訪れ、短く鬱陶しい梅雨が明けるとじりじりした夏がやって来る。暴力にも似た暑さはしかし次に訪れる季節に確かな恵みを約束し、豊かな色彩の秋を謳歌しているうちに冬はするりと忍び込む。そうして四季はぐるぐると回る。
『わたしにはやはり思いもよらないことよ。でもそれは遠子の話を信じていないというわけではないの』
遠子はこめかみに指を当て、ぐりぐりと刺激し始める。きっと彼女が持つ記憶の中から説得に使えそうな過去を取り出そうとしているのだろう。はたして彼女は自信に溢れた表情を霊夢に向けてきた。
『この郷でも必ずや四季が訪れるわけではないのよ。過去にはそのうちの一つがあわやのところで喪われようとしたこともあったの』
どう、凄いでしょうとばかりに言い切られても霊夢には答えようがなかった。四季の一つが喪われるのは確かに大事だし、遠子の記憶から引っ張り出してきたのだからそれは間違いないことなのだろう。かといって容易に納得できるわけでもない。
遠子には昔から説明の足りなくなる癖のようなものがある。完全な記憶を有しているせいか必要な説明を省き、どうして分かってくれないのと一人で勝手に怒り出してしまうのだ。逆に聞かれてもいないのにぺらぺらと知識を語り出すこともある。どちらが優勢になるかは分からないし、分かったところでどうしようもない。
今日はどうやら前者のようなので、霊夢は物分かりの悪さを装うことにした。
『四季の一つが喪われるなんてわたしにはやっぱり想像もつかないわ。是非ご教授いただけると助かるのだけど』
『あら、珍しく殊勝な心掛けね。では話してあげましょうか』
上手く機嫌が直ったようでほっとするのも束の間、遠子の体がぐらりとかしいだ。倒れようとする体を慌てて支えてから横にすると、霊夢は外で控えているはずのお付きの人に慌てて事情を説明する。この手の事態には慣れているらしく、あっという間に寝床を作って遠子を寝かしつけると『今日はお引き取り願ったほうが良さそうですね』と重たげな様子で言った。
『こういうこと、よくあるんですか?』
『幼い頃はしょっちゅうでしたね。最近はお身体が弱いなりに健やかでしたから体調が悪くなるところまで行っても前後不覚に陥るようなことはなかったのですが、油断してはならないということでしょうか』
気を失った遠子のことは気になったが、ここに詰めていてもできることは何もない。彼女の性格からして余計に気を使わせるだけだろう。
『あの、わたししばらくは来ないほうが良いでしょうか?』
『そうですね、二、三日は。その後でしたら問題がなければ通されるでしょうし、体調が悪いようでしたらお引き取り願うことになるかと』
それはつまりどうすれば良いのか訊ねようとすると、お付きの人は皺だらけの顔をさらにくしゃくしゃにして微笑むのだった。
『いつも通りで良い、ということでございますよ』
それでようやく僅かな安堵が胸に灯り、霊夢は辞去の挨拶を残し、稗田の屋敷を後にしたのだった。
『例の話はまた次に会ったとき、聞かせてもらおう』
そんなことを呟きながら霊夢はふと空を見上げる。日は随分と伸びてきたし、日向にいて風がなければ心地良いと感じるほどにもなった。長い冬ももうすぐ終わり、郷に春が訪れようとしている。それは喜ばしいことのはずだ。
それなのに背筋を走るのは何故か形容し難いむず痒さだった。視線を地上に戻すと収まったし、再び空を見上げても何も感じなかったけどやはり気になった。かつて同様の予兆を感じたとき、異変は霧の形で姿を現した。今回も似たようなことが起きるのではないかという危惧を覚えるのは当然のことだった。
『警戒はぬかりなく、とは言うけれど……』
予想外のものを迎え撃つのにできるのは精々が装備を整えることくらいだ。重い訓練を行うことも考えたが、そのために疲弊して体調が整わないまま急場の探索へ赴くことになれば本末転倒となる。あるいはその隙を突いて背後からぐさりと一撃を食らうかもしれない。歯痒いけどいつも通りの暮らしを続けるほかないのだ。
『背後の用心もぬかりなく、ね』
そう言い聞かせると霊夢は買い物を済ませ、神社への帰途に着くのだった。
目が覚めてもしばらく心が現実に戻って来なかった。夢が現実のように鮮明で、しかも過去の繰り返しだったからだ。
「ううむ、これはなんというか……」
あまりにもあからさまな霊夢だった。子供の頃から普通の夢と異なる示唆的な夢を時折見るのだが、ここまではっきりしたものを見るようになったのは先の異変を解決してからである。力を搾り尽くすような経験によって霊能力が鋭く研ぎ澄まされるようになったからだと推測はできるものの、仕組みが分かったからといって止められるものではなく、見えるからといって便利なわけでもない。むしろ悩みばかりが深くなる。それに現実と夢の境目があやふやになるので、本当に目が覚めたのか疑わしくなるのも地味に難点だった。
カレンダーとパソコンの内臓時計によって前に遠子を訪ねた時から一週間経っていることを確認してから、霊夢は夢で見た遠子とのやりとりを頭の中で反芻する。
あの話の中にこれから起きる厄介事のヒントが含まれているならば、それは遠子が話そうとしていた、幻想郷から四季の一つが喪われたという出来事に違いなかった。そして今が冬と春の狭間であることを考えれば答えは一つしかないように思われた。
「春が、喪われるかもしれない?」
口にしてみてなんだがあまりにも現実感がなかった。梅が花開く兆候さえ見せ始めているというのにそんな想像はあまりにも馬鹿げていると冷静な自分が訴えかけている。だがあれほどはっきりと見たものを否定するのは己の能力を否定することにも繋がる。力の行使が半ば義務である霊夢にとって予兆を含む夢は避けられないものであり、無理矢理にでも春が喪われる可能性を考えなければならなかった。
辛うじて浮かんできたのは春告精を拉致するという方法だ。しかしあの妖精は春を告げる際に問答無用の力を発揮することで知られており、妖精だと侮った多くの挑戦者が悉く失敗している。不可能ではないにしても相当の難行であることは確かだし、そもそも春告精を確保したところで春の到来を防げるわけではない。彼女が通過しなかった所でもやがて春は訪れる。春告精はあくまでも号令に過ぎないのだ。却下の印を捺して脳の外へと追い出し、新たな可能性を検討しようとしが、隙間を埋めてくれるアイデアはいつまで経っても現れなかった。
霊夢は切りの良いところで思索を打ち切り、いつものように朝のお勤めを片付けにかかる。最近は雪下ろしや雪かきの必要もないからもう少し遅く目覚めても良いのだが、あんな夢を見てしまったのに寝直す気にもならなかった。
朝のお勤めが終わり、いつものように雑な朝食を作ろうと冷蔵庫を物色していたらいきなり勝手口が開き「おはようございます、新聞でーす!」の威勢良い挨拶が響いた。振り向くまでもなく文だということが声で分かり、霊夢は冷蔵庫をそっと閉じて戸口に視線を向ける。
文は半袖に丈の短いスカートという寒々しい格好をしており、営業用の爽やかな笑みを浮かべていた。いつもなら挨拶だけで備え付けのポストに新聞を入れて次の場所に向かうのだが、わざわざ声をかけてきたということは別件の用事があるのだろう。
「やあやあ霊夢さん、今日もお勤めご苦労様です」
はたして文は断りもせず中に入って来ると、腰の鞄から封筒を取り出し、何も言うことなく差し出してきた。特に変わったところのないクリーム色の封筒だったが、霊夢はそれを見た瞬間、思わず「げっ」と声をあげた。
雷をモチーフにしたコミカルな意匠のシールはその封筒が堀川雷鼓によって閉じられたことを示している。ありふれたデザインであり、実際に類似品ならばそこらの商店でも買えるのだが、オリジナルのシールは雷鼓の妖力が込められており、差出人である雷鼓の想定しない相手が開こうとすると電撃を放つようになっている。封筒は中身もろともに消え、不埒な覗き魔は手痛いお仕置きを食らうという仕組みだ。霊夢もそれで酷い目に遭ったことがある。
「これ、本当にわたしが開けても大丈夫なものなんでしょうね?」
「その気持ちは分かります、分かりますとも」文はもっともらしくうんうんと頷いてみせる。この性格だから迂闊に封を開けようとして雷撃を食らったことがあるに違いなかった。「ただ今回は大丈夫だと思いますよ。本人から霊夢さんに渡して欲しいと指名されましたから」
「それなら大丈夫か……ってちょい待ち。あんた雷鼓と直に会ったってことは逆さ城にも顔が効くってこと?」
「はい、前から新聞を届けてますよ。なんと百年来のお得意様だったりします」
それならば例の霧が湧いたとき、不自然に慌ただしくしていたのにも気付いていたはずだ。それなのに自分は何も知らないという振りを装っていたということになる。
「あんた、わたしに色々と隠してたわね?」
「別に隠してたわけじゃありませんよ。逆さ城が騒がしいのはいつものことですし、外の世界ですら建造されなかった巨大機械が異変を引き起こしていただなんて誰が想像できますか?」
それを言われると霊夢には何も言い返せなかった。あんなものが郷に現れるだなんて全く想像できなかったからだ。
それはそれとして文に問い詰めたいことは他にもあった。
「そちらはまあ不問に伏すとして、逆さ城がお得意さんなのだとしたらこれまであいつらが起こして来た悪巧みもそれなりに把握していたのよね?」
「多少は勘付くところもありましたが、解放派のお歴々たちは貴重な情報源でもあります。不興を買うのは避けたいところですね」
「あいつらに何度も右往左往させられたの、あんただって知ってるでしょう?」
「はい、いつも楽しそうだなあと。だから霊夢さんには何も話さなかったのですよ。ネタバレを知らされたらどんなに刺激的な出来事も魅力半減ですからね」
ああ言えばこう言うを地で行く舌の回りようだった。閻魔様に頼んでその舌引っこ抜いてやろうかと思ったが、意を込めて睨みつけても動じる様子はまるでない。
「早苗さんに言いつけるわよ」
だから前に効いた脅しを再度突きつけてやった。解放派は郷にある機械の解放が目的であり、山のお偉方にとって目の上のたんこぶのはずだ。そんな奴らとつるんでいるのが知られるのはまずいはずだった。だが文はどこ吹く風といった調子で余裕の態度を崩さなかった。
「反対勢力の知り合いがいるからといってそちらに贔屓し倒しではジャーナリズムなるものは成り立ちません。どの勢力にも平等に接するからこそ勝ち得る信頼というものがあるのです。それを日和見だ、蝙蝠だと言うのならそれも結構。風見鶏こそがわたしの矜持です」
いつもはふざけた態度だからいきなり真面目な持論をぶつけられると頭がついて来なくなる。こういうところが狡いなと霊夢は常々思っているのだが、口にすれば図に乗らせるだけなので不機嫌を表明するだけに留めておいた。
「それに彼女はそんなこととうの昔に知ってますよ。そんなことで気持ちは変わらないから好きにやりなさい、その代わりわたしも好きにやりますからと言われましたね」
口から砂を吐き出しそうになるほどの惚気だった。あまりに甘くて怒りを抱えているのが急に馬鹿らしくなり、負の気持ちも重い息と共に消えてしまった。
「了解。どうしてもあんたに言うこと聞かせたい時は……」霊夢は札を構え、文に突きつける。「こいつに訴えることにする」
「素晴らしい、それでこそ博麗の巫女です」
文はおざなりの拍手で霊夢の態度を認めると、改めて封筒を差し出して来る。
「そういうわけで受け取っていただけるとありがたいです」
霊夢はそろりと封筒を受け取り、意を決して封を開ける。もし罠だったらせめて隣にいる烏天狗も痺れてしまえという少し意地悪な気持ちでの行動だったが、雷撃が放たれることはなくあっさりと中身を取り出すことが出来た。
中に入っていたのは雷鼓、九十九姉妹、山彦、夜雀、プリズムリバー姉妹の八人がそれらしいポーズを取っている写真がプリントされたチケットだった。堀川操楽団 with 鳥獣戯楽 feat プリズムリバーという、始めから終わりまで耳を塞いでなければやってられないような恐ろしい組み合わせであり、霊夢は思わず眉を顰めてしまった。
「これ、新手の嫌がらせ?」
「いえいえ、プラチナチケットですよこれは。人妖問わず音楽関係に興味があるならば垂涎の代物といって良いでしょう。実は早苗さんが彼女たちのファンでして、山にも隠れファンは多いと聞きます」
そんな馬鹿なと思ったが文の目は特ダネを追いかけている時のようにきらきらと輝いている。これは嘘ではないと思い、手紙の中身を全て確認する。
チケット十枚に便箋が一枚。こんなものをいきなり送りつけてきた事情を知りたかったので次に便箋を開くと、姉御肌の性格からは想像できないような丸っこい文字で書かれた文面が姿を現した。
『
幻想郷の素敵な巫女、博麗霊夢へ
やあやあご機嫌いかがかな、などと近況を書いても貴方には鬱陶しいだけだし、わたしも面倒臭い。だから要点だけを語るとする。
先日は我々のために例の機械を懲らしめてくれてありがとう。あれは力のない付喪神や妖精と酷く相性の悪いモノでありかなり手を焼いていたんだ。
そのささやかなお礼を同封させていただいた。どう配るかは自由だし、こんなものは要らないと全て破棄してくれても構わない。
あ、そうだ。今度久しぶりに神社を訪ねようかと思ってるので好物の雷饅頭を用意してくれるとありがたい。
堀川雷鼓
』
便箋一枚の中によくもまあこれほど神経を逆撫でさせる要素を盛り込めるなと、途中から半ば諦めの気持ちで読み進めたほどの失礼極まる文面だった。何が書かれているのか気になっている文に押しつけるとげらげら笑い始めたので、もしかすると妖怪一流の冗句が盛り込まれていたのかもしれない。
「いやすみません、取り乱してしまって」
「まあ良いんだけど」
妖怪が人間に失礼なのは何も今に始まったことではないし、いちいち腹を立てていたら堪忍袋の尾がいくらあっても足りない。さっと受け流したのち、霊夢は封筒からチケットを二枚取り出して差し出した。
「えっと、いいんですか?」
「悪かったらこんなことしないわよ。ああ、別に賄賂とか恩に着ろとかそういう意味じゃないから」
「ありがとうございます。しかもよく見たらS席じゃないですか。これはきっと喜びますよ。もう一枚はそうですね、諏訪子様にでも差し上げましょうか」
「いや、もう一枚はあんたの分なんだけど」
「やー、実はあの手の音楽は苦手でして」
苦笑いで誤魔化そうとしているが上手くいっているとはとても言えなかった。つまりは本気で苦手ということだ。天狗の中でも特にあらゆるものから浮いているような余裕の塊だと思っていたが、伴侶以外に不得手なものがあるとは少しばかり意外だった。
「あはは、わたしにだって苦手なものはありますよ」そんな霊夢の心を読むように、文はわざとらしく笑い声をあげる。一時の狼狽からはするりと抜け出した様子だった。「天狗だって弓で心臓を射られたら死にますし、銃で頭を撃たれたらやはり死にます。ほら、意外と弱点はあるでしょう?」
「いや、その理屈はおかしくない? いくら人間と比べて耐久力が桁外れといっても急所は同じ場所にあるのだから、そこを狙われたらそりゃ死ぬでしょう」
「そうですか? 頭を吹き飛ばしても死なない妖怪はそれなりにいますけどね」
最後まで冗談を貫いてくれたら良かったのに真面目な顔をされるとどう返して良いのか悩んでしまう。あるいはそれを狙ったのだとしたらやはり意地悪い奴だなと思う。
「おっと、まだまだ配達先があるのに話し込んでしまいました」文はそう言ってチケットを受け取り、大事にしまい込むと小さく頷いてみせた。「今回は一つだけヒントを差し上げましょう。解放派の面々ですが近々大きなことを仕掛けてきますよ」
できれば聞かなかった振りをしたい情報だったが、耳に入ったからには無視することもできない。霊夢は心底嫌そうな態度を取り、それからふと思いつきを口にする。
「それはもしかして春を奪うとかそういう計画じゃない?」
「おや、今回は霊夢さんも耳が早いようですね。分かっているならば対策も立てようがあるでしょう。ではわたしはこれで、健闘を祈っていますよ」
それだけ言い残すと文は風のように去り、ひゅうと小気味良い音が内から外へと抜けていく。なんとも烏天狗らしい退場だった。
「あれはやはり予兆を伴う夢だったのね。春を奪う、か……」
新たな情報が得られても霊夢の中で実感が増すことはなかった。ましてや解放派の連中ならばせいぜい嫌がらせの延長みたいな騒動を起こすのが関の山……そう結論付ける寸前で思い留まり、ひとまず結論を先延ばししておくことにした。
「そんなことができるとは思えないけど、前例があるから無視できないのよね」
湖にそびえ立つ階差機関を最初に発見し、起動させたのは解放派の連中だ。郷の誰よりも機械に詳しい河童に先んじたとなれば、今後も機械に関連する騒動を起こさないという保証はない。その後の動きこそ失敗だらけだが、次は成功するかもしれない。
解放派に優れた頭脳が現れたことを示す兆候も霊夢の懸念を後押ししていた。痒いところに手が届かないような嫌らしい計画、団員たちの行動パターンの変化、どちらもこれまでは見られなかった行動だ。
霧の異変が起きた際にその正体が咲夜ではないかと推察したのだが、すぐに見当違いの方向を見ていたことが明らかになった。彼女は作られたばかりの世間知らずな少女であり、とてもではないが策謀を巡らせるような性格ではなかった。つまり悪巧みの主犯は他にいるということだ。
機械ないし道具の扱いに長け、嫌がらせにかけて他に類を見ない才能を発揮する何者かがいる。そいつの首根っこを捕まえて押さえつけない限り、似たような騒動はいつまでも続くだろう。
霊夢の頭にふと、階差機関の付喪神に力を与えた少女の姿が浮かぶ。一連の騒動を呼び水と言った彼女こそ解放派の背後に控える頭脳なのだろうか。だとしたら郷の境界を管理する強力な妖怪が敵に回ったということになる。
面倒なことばかりが過ぎり、朝から気が滅入りそうだった。こんな時は凝った料理でも作ろうと本気の料理モードに気持ちを切り替え、改めて冷蔵庫の中身を漁る。とにかく巫女としての仕事以外のことで頭を一杯にしたかった。
そしてすぐに後悔した。食卓には明らかに一人では食べきれない料理がずらりと並び、しかも朝食べるには重たいものばかりだった。特に塩漬け肉がふんだんに入ったスープなんて、夜に食べても胃がびっくりするかもしれない。
手を付ける前からどうやって保存しようかと考えていたら、箒に乗った魔法使いという助け船が空から颯爽と姿を現した。
魔理沙は先日の異変からこちら、時折神社を訪ねて来るようになった。先日の異変で疲弊した姿を見て、こいつは放っておけないとでも判断されたのか、あるいはこれまでも見えない所から動向をうかがっていたのかもしれない。箒を立てかけるといつものように断ることなく上がり込み、これを食べる権利があると言わんばかりに食卓をぐるりと見回すのだった。
「育ち盛りとは思っていたが予想以上に健啖だな。というか流石にこの量では太ると思うんだが」
歯に衣着せぬ発言も今はそこまで気にならなかった。この料理を少しでも胃に収めてくれるならば神にでも仏にでも縋りたい気分だったからだ。
「少し作り過ぎちゃって。だから遠慮なく食べていって頂戴」
「ふむ、では少しだけいただくとするか。実を言うと食べなくても平気なんだが、たまには食べないとそれはそれで体に悪いしな」
魔理沙は霊夢を通して何か遠くのものへと心を向ける。きっと同姓同名の違う霊夢に心を向けているのだろう。その頃もちょくちょくと神社を訪れ、食事や茶を所望していたのだろうか。その姿を霊夢はありありと思い浮かべることができた。
重い料理に臆することなく、魔理沙は食事に手を付け始める。種族としての魔法使いは食べなくても良いから少食なのだと思っていたが、腹ぺこの霊夢と同じくらいには健啖であり、見ているだけで腹の虫がぐうと唸りをあげた。
とは言っても食欲が湧けばどうにかなる量でもない。半分ほど片付けたところで双方の手が止まり、魔理沙から苦笑いが漏れた。
「なにかこう、色々なものを忘れたい気持ちだったの」
からかわれる前に先回りして弁明すると、魔理沙はふむと頷いてみせた。
「料理で発散するのは十分ありだと思うよ。わたしの知り合いなんて似たような状況になると半月ほど工房に引きこもって奇妙な生物のぬいぐるみをたんまりと拵えるんだ。ホームシックに由来するものとわたしは睨んでいるんだがね、あまりに奇怪だから子供は見ただけで泣きじゃくるし大人は気絶する。かといって処分するのもしのびない。そうだ、魔除けになるはずだから一つどうだ?」
「遠慮しとく」魔理沙の話が本当ならば、魔除けどころか逆に魔を呼び寄せそうな代物である。義理人情であってもとても受け取る気にはならなかった。「それにしてもまだ大分残ってるけど、どうしようかしら」
「何とかなるんじゃないか? 現にわたしがやって来たし、きっと誰かが来るだろう。霊夢もあいつと同じでその辺りの巡り合わせは良さそうだし。それよりも凝った料理を山ほど作るような発散が必要になる事態というのがわたしには気になるな」
そう言ってくれるのはありがたいし、魔理沙ならば過去に起きた事件も覚えているかもしれない。昔のことだから忘れているかもしれないが、聞いておいて損はないと判断し、夢から始まるあやふやな推測を話してみることにした。
「誰かが春を奪おうとしているかもしれないの」
魔理沙の余裕ありげな表情がぴたりと凍りついた。明らかに何かを知っているという顔であり、視線がきょどきょどと遠くの方を彷徨っているところからして、過去に何かがあることを示していた。
文が仄めかしたのはこれから何かが起きるということである。だが魔理沙は過去に起きた事件のことを考えている。そして霊夢が見た夢でも遠子は過去の事件を話そうとしていた。
「もしかすると過去に起きたことがもう一度起きるのかもしれない」
ぽつりと口にすると魔理沙の眉間に皺が寄り、残されていた余裕もすっかりと顔から追い出されてしまった。
「その情報、どこから聞いた?」
魔理沙は一切の曲解を許さないと言いたげな厳しさで霊夢に問うて来る。夢とあやふやなヒントが根拠だなんて言ったら雷を落とされそうな雰囲気だったが、中途半端な嘘を吐いてもあっさり看破されそうな気がした。だから包み隠さず一から説明することにした。魔理沙は最初こそ真剣そのものだったが、途中から訳が分からないと言わんばかりの渋そうな顔に変わり、最後はすっかりと安堵の様子を見せた。
「それならまあ特に気にすることもないかな。あのお騒がせ集団にだって流石にあんなことはできないだろうし。だが霊夢の見た夢は少し気になる。確か昔からこの手の夢は見るんだったよな?」
「ええ、しかも最近は妙に鮮明な夢ばかり見るようになって」
「なるほど、力が伸びたことによる能力の強化、あるいは副作用と言うべきか。誰にも伝える必要のない霊夢なんて傍迷惑も良いところだからな」
霊夢は全くだとばかりに頷く。可能ならば燃やせるゴミと一緒に出してしまいたいほどだった。
「それにしても面白いな。かつての霊夢は予知夢なんて一切見なかったのに」
それを聞いて霊夢は自然と大きな息をつく。偉大な先人に似ている、そっくりだと言われるのは皆を騙しているようで少しばかり心苦しいのだ。違いを見つけてきちんと言葉にしてくれるのはとてもありがたかった。
「ところであんなことと言ったけど、何か心当たりがあるのかしら」
そうだとしたら耳に入れておきたかったが、魔理沙は黙したまま俯いてしまった。
「わたしには話せないことなの?」
誰かの秘密に関わるなら無理に聞き出すことはないと思ったのだが、魔理沙は顔を上げると静かに首を横に振るのだった。
「そうじゃない、迂闊に話して予断を持たせたくないんだ。わたしの中には一つの可能性がある。だがね、霊夢には自力で答えを出して欲しい」
「つまり半人前はもっと苦労するべきだと?」
「いいや、半人前はノウハウを駆使して楽するべきだよ。苦労は一人前になれば嫌でも付いてくるからな」
魔理沙の持論は霊夢に剣を仕込んだ天人とは全く反対の見解だった。彼女は艱難辛苦を求める心が大事なの、さもないとわたしみたいなろくでなしになるわとからから笑いながら言っていた。きっと二人の気質や性格の差なのだろう。
「霊夢に答えを探して欲しいと考えるのには理由がある。実はここしばらく、星が妙なざわつきを見せるものだから気になって定期的に読んでいるんだが、そうしたら求めるものとは異なる乱れというか落ち着きのなさみたいなものを読んでしまったんだ。時季は春を指していたからきっと霊夢の予感に関わるものだろう。少なくともわたしはあのような星の乱れを見たことがない、それならばわたしが既に知っている答えは間違っているということになる」
「占いなんて当てにならないと思うけど」
巫女らしくないと言われることを覚悟で口にしてみたが、魔理沙はからかうどころかさもありなんとばかりに頷くのだった。
「占術とはすなわち統計であり、未知のものを暴くには向いてない。これはわたしもよくよく承知している。そもそも人間だった頃は占いが持つ統計外の側面なんてこれっぽっちも信じていなかった。だが人の身を外れたより大きなサイクルに慣れた頃、突如として理解できるようになったんだ。占いは人を通してより大きなもの、すなわち世界や未来を見通そうとする情念によっても形作られているのだと。その想いは稀に統計の意味を超えて真実を指し示すことがある。そして出来事にまつわる想いの総量が強ければ強いほど見えるものもよりはっきりとしてくる。古来より巫女や預言者の中には占いを介してそうしたその想いを見通せる者がいたんだろう」
魔理沙の話は自分に占いの才がないということを改めて突きつけたように思えた。巫女に抜擢されてから色々な占いを試してたが、まるで当たった試しがないのだ。
「わたし、占いは本当にからっきしなの」
だが魔理沙の瞳は失望に染まるどころかより強い期待の光を帯びるのだった。
「それも昔の霊夢とは違うんだな。あいつは積極的に卦を見るタイプだったが、お前は周りの念を受け取るタイプらしい。だから有象無象の意識が混線する夢の中において色々と見てしまうんだろう。実はそれもまた占いの一種なんだよ。夢占いって聞いたことないか?」
「そりゃまあ聞いたことくらいはあるけど」
「だから占いがからっきしというわけではないと思う。きっと霊感の発揮される方向性が違うんだろう。霊力は魔力と違い、個々の才能によるものが大きくてあまり研究されていない分野なので詳しくは言えないが。例えば昔の霊夢は迷ったとき積極的に卦を打つ……と言えば聞こえは良いかもしれないが、要は行き当たりばったりで兎に角突き進むことが良い結果に繋がるタイプだった。超音波を飛ばして暗闇を飛ぶ蝙蝠のような感じだな。対して今の霊夢は迷ったとき一度立ち止まって念を感じるように心掛けると良いのかもしれない。そうすれば霊感は自ずと正しい方向へと導いてくれるだろう。余裕があれば眠るのも良いかもしれない。今はまだ木陰に寄りかかって一眠りなんてわけにもいかないが、これからどんどんと暖かくなって来るだろう」
魔理沙の話に霊夢は思わず眉をひそめる。今後も異変が起きることを前提とした語り口だったからだ。
「あんな騒ぎは何度も起きるものじゃないと思うけど」
「いや、大きな事件は立て続けに発生すると見た方が良い。郷は狭い上に多くの勢力がひしめき合っているから、一度生じた波紋の影響は計り知れない。これまで刺激されずに眠っていたものを起こしてしまった可能性があると見るべきだ。霊夢が見た夢もそのことを示唆しているように思える」
それを言われると霊夢には何も返せなかった。面倒なことはあまり好きではないが、かといって見ないふりをするわけにもいかない。
「星占いもそれを示していたが、わたしは魔法使いだ。お告げを受けるのは本業ではない。だから専門家を訪ねたというわけだ」
いつもの冷やかしかと思ったら今日は目的があって来ていたらしい。そして満足に値する結果が得られたらしく、一人で納得するように何度か頷いてみせた。
「その用事も終わり、望外に腹も膨れた。その代わりと言ってはなんだが今日は片付けくらいだったら手伝っていこう」
「良いわ、身から出た錆だもの……あ、そうだ」
雷鼓からもらったチケットのことを思い出して魔理沙に見せると、まるで宝物を手に入れたかのように頭上に掲げる。どうやら本物であるかを確かめているらしかった。
「よく取れたな、わたしは電話もネット予約も失敗してしまった」
「雷鼓が迷惑料代わりだと言って送りつけて来たの。あと七枚までなら自由に譲ることができるのだけど。無駄になるのはもったいないし遠慮しなくて良いから」
「では二枚、わたしと良人の分をいただけると」
「良人、って霖之助さんのこと?」魔理沙に数百年来の連れ添いがいることは霊夢もよく知っている。ずっと昔には東の里で商いをしていたがとうの昔に引退し、今は開店しているのかどうかも分からないほど古びた店を構えている。「相当しっちゃかめっちゃかで派手なライブだと思いますが」
霊夢が気にしているのは彼が翁のように年老いているということだ。あまり強い刺激は体に良くないと思ったのだが、魔理沙はすました顔で指を横に振るのだった。
「そう思うかもしれないが、香霖はあのなりで騒がしい音楽が好きなんだよ。それに強い刺激は単調になりがちな生活に潤いを与えてくれる。今は日がな一日ぼんやりしているだけだからね。いくら半分は妖怪だと言ってもあれじゃ流石に耄碌するだろ」
魔理沙はけらけらと笑っていたが、ひとしきり気持ちが落ち着くと今度は重い息を吐く。そして急に真剣な表情を浮かべた。
「ぼくが魔理沙に約束してあげられることが一つだけある。君よりも決して先には死なないということだ」
魔理沙はぽつりとそんなことを呟き、苦笑いを浮かべる。
「あいつのプロポーズの言葉だよ。約束は守ってもらわないとな。そのためにはもっと張りのある暮らしを送ってもらわなきゃ」
それから少し間を置き、柄でもないことを言ったなと付け加える。
「夢の件はわたしの方で少し心当たりを探ってみる。馳走になった、それにチケットもありがとな」
魔理沙はチケットを受け取ると腰を上げ、そそくさと帰っていく。惚気て見せたのが今になってはずかしくなったのかなと思った。
第二の助け船は日の沈む少し前に姿を現した。昼を抜いてもなお重たい胃をなんとか鼓舞し、気力を振り絞って箸を手にしたところで、神社にやって来る人ならざるものの気配が二つやって来たのだ。一つは妖力、もう一つは魔力であり、それでなんとなく察しがついて箸を置き、障子を開ける。はたしてそこには蝙蝠のような羽根の生えた子供と、大きな日傘を差してあげている少女の姿があった。
傘を差されているほうが紅魔館の主であるレミリア・スカーレット、傘を差しているほうが最近になって館でメイド働きをするようになった十六夜咲夜である。正確には故人となった咲夜の能力と容姿を写し取った別人なのだが、館の連中は皆そう呼んでいるので霊夢も咲夜と呼んでいる。
レミリアは霊夢の姿を見た途端、早足となって近付いてくる。咲夜も歩調を合わせようとしたのだが、見事に何もないところで躓いてしまった。レミリアの体から白い煙が立ち上がり始めたので思わずぎょっとしてしまったが、慌てた咲夜が急いで傘を差して日光を遮るまでも痛がる素振りは全く見せなかった。
「あんた、それ平気なの?」
だから日光に弱いのは演技なのかという疑惑が過ぎり、心配する振りをして気遣うようなことを口にする。昼間も平気で歩けるならば今後はより警戒しなければいけないと考えてのことだったが、レミリアは愉快そうに笑うだけだった。
「全身を槍でざくりと刺されるされる程度だ。どうということはないよ」
例えの痛々しさに霊夢は思わずぎょっとしてしまう。とは言ってもレミリアの態度からは日光でやられたことに対するいかなる感情も読みとれない。いくら幼そうに見えてもそこは老獪な妖怪の一人ということなのだろうか。
咲夜は霊夢と違い、レミリアのことを信じ切っているらしく槍に刺されるという例えを訊いて酷く怯えた表情を浮かべた。
「ああ、またやってしまった。すみませんお嬢様」傘を差した状態でぺこりと頭を下げようとするから体の一部が影からはみ出し、再び白い煙が浮かぶ。前々からそうではないかと思っていたが、彼女はどうやらとんでもない粗忽者らしい。「この始末はいかようにでも……」
「いいよ、こんなのは傷のうちに入らないから。いちいちしょげてしまうほうが面倒だ。それより煙を吸い込まないよう気をつけるんだぞ、無駄に寿命が延びるからな」
「はい、気を付けます」
再び頭を避けようとして今度は思い留まり、そこでようやく霊夢に一部始終を見られていたことに気付く。敵意と羞恥のない混じった視線を向けられるが迫力は全くなかった。歯車の塔を背に初めて対峙した時はそれなりに威圧感もあったのだが、いまやすっかり粗忽さを身に着けてしまったらしい。
「それで今日は何をしに来たの?」
「わたしがどこかを訪ねるのに理由は必要ないのさ」
「つまり遊びに来たのね」
「わたしくらいになるとあらゆることに楽を見出せるんだよ」
やはりいちいち回りくどいなと思ったが、咲夜は感心した様子で頷いている。こんな奴の下で働かせて情操教育には非常によろしくないと思ったが、あの傍迷惑な機械は紅魔館で管理されているから他の場所に移すこともできない。きっとあと数年もすればどんなことにも悪びれない妖怪じみたメイドが誕生してしまうのだろう。
「まあ、ちょうど良かったわ。少しばかり食事を作り過ぎて困っていたの」
「素晴らしいね。昔の霊夢はいつ行っても茶の一杯すら渋る奴だった。弁えているのは良いことだ」
たまたまが重なっただけでありそこまで褒められると若干むず痒くもあるのだが、偶然といってなんだとがっくりされるのも癪に触るので計算通りの振りをした。
神社に招き入れるやいなや、レミリアはお前正気かと言いたげな目を向けて来た。
「肉肉しいかしょっぱいか甘辛いものばかりじゃないか。どれもこれも酒のつまみにするようなものだぞ、宴会でも開くつもりだったのか? それとも毎日こんなものを食べながら晩酌してるのか? もしそうだとしたらやめておけ、ただでさえすぐ死ぬ人間だというのに余計に早く死んでしまう」
「流石にいつもはこんなんじゃないわよ」それにしても吸血鬼に寿命の心配をされるのは少しばかりの奇妙さを感じないでもなかった。「悩みを料理で発散させようとしたらこのざまよ。一人じゃ食べきれないから食べていって頂戴」
「そういう事情なら遠慮なく」レミリアは当然の権利のように腰を下ろすと自分のために用意していた箸で料理をぱくぱくと摘み始める。「色合いは辛そうだったが味はそこまできつくないな」
これも良い、これも美味しいと言いながら食を進めるレミリアは普通の子供にしか見えない。館の時と違い、威圧感を一切覚えないから余計にそう思えた。
「咲夜さんも食べていったらどう? 箸をもう一つ持ってくるから」
霊夢は先程から恨めしそうな視線を向けている咲夜にそう声をかける。もちろん的外れなことを口にしたのはよく分かっていた。咲夜は決してお腹が空いているわけではなく、主人が美味しいと言って他人の料理を食べているのが気に入らないだけなのだ。
彼女の料理は一度だけ食べたことがあるけれど、かなり独特の味付けであり本人にも少なからぬ自覚があるらしい。味覚は普通の人間とさして変わらないようなので、あとはしばらく料理の勉強を続け、毎回きちんと味見する習慣さえ身につければ料理に関しては大丈夫になるとは思うのだが、そう忠告して未熟さから来る劣等感を何とかしてやれるわけではない。結局のところは気付かない振りをするのが一番良いのだ。
「では、いただきます」その目は食卓に並ぶ料理を研究してやろうという気概に満ちている。霊夢は箸と茶碗、湯のみをもう二つずつ用意すると一つを咲夜に差し出し、できるだけゆっくりと料理に手をつけた。大分ましにはなっていたが、朝に食べた料理が未だに胃の辺りに残っているような感じでやはり食欲が湧かなかった。
料理は三十分もしないうちに完売となり、レミリアは少し食べ過ぎたのか畳の上にごろんと寝転んでしまった。対する咲夜は平然とした調子で、その目はもっとないのか訴えているようではあった。
「細く見えるのによく食べるのね?」
「この体は血肉ではなく魔力で動きますから」
すると彼女は普通の飲食をして魔力を生み出すのだろうか。霊夢がいくら食事をしても生み出されるのは熱量だけで、もし魔法を使いたければ外部から魔力の源を摂取する必要がある。魔理沙のような種族としての魔法使いになると体内に魔力を精製する器官があるけれど、食事の熱量を転換しているわけではない。咲夜はやはり人間でも妖怪でもない別種の存在なのだ。まあ、それはこの郷において別段問題になることではない。人間を捕食しなければの話ではあるが。
「そう言えば吸血鬼って普通の食事でも大丈夫なの?」
「普通の人間と同様の代謝は可能だよ。でも吸血鬼として生きるならやはり血は必要だ。昔はあまり口にできない方法でごにょごにょしていたんだが、今は月に一度だけ西の里に出没すれば良い。西の里はフランが一時期名誉里長のような立場に就いていて優れた業績を上げたためか、吸血鬼に血を吸われるのが一種のステータスにすらなっているんだ。その仕組みにわたしも相乗りしているというわけだ」
「そんなことをして吸った相手が吸血鬼になったりしないの?」
「わたしもフランも吸血鬼化させるほどの血は吸えない。それができたのは我が師父、名君としてもよく知られるかの偉大な……」
「あ、そう言えば!」レミリアが過去の話を始めたら長くなることを知っていたから慌てて話を遮り、例のチケットを見せる。レミリアはずっと地下で過ごしていたためかこの手の流行に疎いらしく、なんだこれと目で訴えてきた。「付喪神や妖怪が何ユニットか合同でコンサートを開くみたいなの。無駄に数を押し付けられたから欲しければあげる」
「付喪神と妖怪のコンサートなんて騒々しいだけだろ。前にも聞いたことがあるけど静聴に耐えない代物だったような……まあ、わたしの記憶違いかもしれないし、何百年もの時間により研鑽されているかもしれない。試してみないことにはどうなるか分からないか」
「ずっと昔に赤い霧で郷を包もうとしたのもそういうことなの?」
「さてなんのことやらまったくきおくにないな」
露骨な棒読みになったところからして過去の過ちであること、明白な失敗であったことをきちんと認識し、また記憶もしているらしい。おそらくはよほど痛い目に遭わされたのだろう。
「聞いてくれるな。既に塞がった傷だが触れられるとむずむずする。そうした傷は人間妖怪を問わず安易につついて良いものじゃない」
霊夢はレミリアの過去を突つきたいのではなく、かつての巫女がどのように戦ったかを知りたかっただけだ。それは喪われた博麗の技を再構築するための助けとなるかもしれない。だがいかなる理由を付けてもレミリアは何も教えてくれないだろう。適当な過去を平然と口にするくせして、本当の過去になるとあからさまに誤魔化してしまう。生まれる前の咲夜とロンドンなる都市で出会った経緯も結局教えてもらえなかった。それが処世術であるのか、かつて傷つけられた心を守るためなのかは判断がつきかねたし、どちらにしても霊夢には黙って引き下がることしかできない。
「もうじき日も沈む。わたしはこれからもう少し、夕陽の下での散歩を楽しむことにするよ。咲夜、物欲しそうな犬のような顔をしてもここではもう何も出てこないよ。帰ったら夜食を摘むくらいは許す。そろそろ出立といこうじゃないか」
「そんなに嫌ならそう言ってくれれば良かったのに」
嫌な話を振られたからそそくさと立ち去るつもりなのだと思ったが、レミリアは弱々しい微笑を浮かべるだけだった。逃げるのではなく他に何か理由がありそうだった。
「チケットは何枚までならもらって良い? もしかしたら喜ぶ奴もいるかもしれん。何枚いるか分かったら改めて取りに行くということで良いだろうか?」
「それなら四枚までなら」魔理沙と文が持って行ったチケットを除いて手持ちは六枚、一枚は自分、もう一枚は遠子の分だ。「ただし早い者勝ちだからね」
「大して期待はしていないコンサートだから手に入らなければそれで構わないよ。では夕飯も馳走になったことだし、次にうちへ来た時には豪勢な料理で返すとしよう。それとも目の眩むような弾幕を所望かな?」
「普通のもてなしで良いわよ。チケットも夕飯も余り物なんだから」
吸血鬼の気合の入ったおもてなしなどあまり受けたくはない。きっと派手で面倒臭いものに違いないからだ。
「そうか、ではこちらも余りものの分だけ趣向を凝らすとするよ。では咲夜、夜になる前にもう少し散歩と洒落込もう」
昨夜は霊夢にちらと視線を寄せる。どんな理由かは知らないが、この場を離れるのが名残惜しいと考えているようだった。
「頻繁に来られると面倒だけど、土産物を持って来るなら茶の一杯くらいは出さないでもないわ」
「考慮しよう」
明らかに誤魔化す気満々だったが、そこは気にしないことにした。吸血鬼の傲慢な振る舞いにいちいち目くじらを立てていれば堪忍袋の尾がいくらあっても足りなくなるからだ。
レミリアはまるで普通の人間のように夕陽の下へと姿を晒す。再び白い煙を立て始めたのを見て咲夜も慌てて飛び出し、急いで傘を差す。その様子を見てようやくレミリアが何をやりたいか霊夢には分かった気がした。
吸血鬼の体を損なわないように日傘を差し続ける練習というわけだ。
「しかしあの子、ほんと……」時間を止める能力があるのに、そのことが頭にも浮かばないような行動ばかり取っているのが気になった。「慌てると頭が真っ白になるタイプなのかしら。あるいは……」
レミリアが時間停止の使用を制限している可能性がある。咲夜は人ならざる者の従者になってしまったが、濫用される様子はなく新たな騒動を起こす兆しもない。しばらくは定期的に様子をうかがう必要があるかもしれないが、いずれは監視の目を離しても良いのかもしれない。
「甘いのかなあ、わたしも」
異変を起こすような危ない機械を壊さず、妖怪の管理に任せているのも本来ならよろしくないはずだ。でもあの憐れな機械と付喪神に手を下すことができなかった。前回はそれがたまたま上手くいったが、異変において博麗の行うことは全てに優先することの意味を決して取り違えてはいけない。前回は上手くいったけど、それが今回も通用するとは限らないのだから。
「馬鹿、なに考えてるのよ。今回、ですって?」
再び異変が起きると考えてしまったことに気付き、霊夢は慌てて首を横に振る。噂をすれば影、悪魔の話をすれば悪魔が出てくる。霊夢はくわばらくわばらと雷避けの呪いを唱え、すっかり制覇されて空になった食器の片付けに取り掛かるのだった
かつて郷が外の世界と繋がっていたとき、そこに住む人たちは夏でも雪が降る極寒の地から常夏の南国まで至る所に住んでいたそうだ。発端が何かはよく思い出せないが、遠子の話はいつの間にかそんなところに転がり込んでいた。
自分にはどちらもおよそ想像がつかないし、外の世界は郷にも増して変てこな場所なのだなと、そんなことをぼんやりと考えてしまった。
『本当にそんな世界があるのかなんて顔をしてる』遠子はそんな霊夢の心を読んだかのように指摘し、目に見えて機嫌を悪くする。『わたしの能力は知ってるでしょ?』
話半分に聞いていたことではなく、求聞持の法を疑われたことに腹を立てているらしいと分かり、霊夢は慌ててきちんと聞いていたというポーズを取った。
『いや、だって四季は巡るものでしょう? 冷夏と言っても冬のように寒いわけではないし、暖冬だからといって夏のように暑くなるわけでもない』それが霊夢にとっての覆ることない常識である。多少の差異はあっても四季は必ず訪れる。いかなることが起こり得るこの郷であってもなお、それを疑ったことは一度もない。『人がどこにでも住むってのには割と同感だけど』
霊夢は妖怪の山の麓に築かれた『北の里』や彼岸にずっと近い場所に拓かれた『西の里』を思い浮かべる。前者は天狗や河童といった強力な妖怪と近く、後者は生と死の境目に近い。それなのにかつて人間たちは見事開拓に成功し、その頒図を拡げてみせたのだ。かつて唯一の里だった人間の居住区は『東の里』と呼ばれるようになり、今は緩やかな過疎の一途を辿っている。人口比率は東、北、西の順で二対五対三だと言われているが、そこには元祖の見栄が多分に入っていると霊夢は常々疑っている。
『いずれは妖怪の脅威を克服し、人間は何処にでも里を築けるとうたう者もいるわね。でも今はそんなこと関係ない。わたしは常夏の地も一年中氷に閉ざされた極寒もあると言いたいのよ』
霊夢はもう一度そうした光景を思い浮かべようとした。しかしいくら想像を重ねても湖に張った氷はいつか溶ける。春はそれを告げる妖精とともに訪れ、短く鬱陶しい梅雨が明けるとじりじりした夏がやって来る。暴力にも似た暑さはしかし次に訪れる季節に確かな恵みを約束し、豊かな色彩の秋を謳歌しているうちに冬はするりと忍び込む。そうして四季はぐるぐると回る。
『わたしにはやはり思いもよらないことよ。でもそれは遠子の話を信じていないというわけではないの』
遠子はこめかみに指を当て、ぐりぐりと刺激し始める。きっと彼女が持つ記憶の中から説得に使えそうな過去を取り出そうとしているのだろう。はたして彼女は自信に溢れた表情を霊夢に向けてきた。
『この郷でも必ずや四季が訪れるわけではないのよ。過去にはそのうちの一つがあわやのところで喪われようとしたこともあったの』
どう、凄いでしょうとばかりに言い切られても霊夢には答えようがなかった。四季の一つが喪われるのは確かに大事だし、遠子の記憶から引っ張り出してきたのだからそれは間違いないことなのだろう。かといって容易に納得できるわけでもない。
遠子には昔から説明の足りなくなる癖のようなものがある。完全な記憶を有しているせいか必要な説明を省き、どうして分かってくれないのと一人で勝手に怒り出してしまうのだ。逆に聞かれてもいないのにぺらぺらと知識を語り出すこともある。どちらが優勢になるかは分からないし、分かったところでどうしようもない。
今日はどうやら前者のようなので、霊夢は物分かりの悪さを装うことにした。
『四季の一つが喪われるなんてわたしにはやっぱり想像もつかないわ。是非ご教授いただけると助かるのだけど』
『あら、珍しく殊勝な心掛けね。では話してあげましょうか』
上手く機嫌が直ったようでほっとするのも束の間、遠子の体がぐらりとかしいだ。倒れようとする体を慌てて支えてから横にすると、霊夢は外で控えているはずのお付きの人に慌てて事情を説明する。この手の事態には慣れているらしく、あっという間に寝床を作って遠子を寝かしつけると『今日はお引き取り願ったほうが良さそうですね』と重たげな様子で言った。
『こういうこと、よくあるんですか?』
『幼い頃はしょっちゅうでしたね。最近はお身体が弱いなりに健やかでしたから体調が悪くなるところまで行っても前後不覚に陥るようなことはなかったのですが、油断してはならないということでしょうか』
気を失った遠子のことは気になったが、ここに詰めていてもできることは何もない。彼女の性格からして余計に気を使わせるだけだろう。
『あの、わたししばらくは来ないほうが良いでしょうか?』
『そうですね、二、三日は。その後でしたら問題がなければ通されるでしょうし、体調が悪いようでしたらお引き取り願うことになるかと』
それはつまりどうすれば良いのか訊ねようとすると、お付きの人は皺だらけの顔をさらにくしゃくしゃにして微笑むのだった。
『いつも通りで良い、ということでございますよ』
それでようやく僅かな安堵が胸に灯り、霊夢は辞去の挨拶を残し、稗田の屋敷を後にしたのだった。
『例の話はまた次に会ったとき、聞かせてもらおう』
そんなことを呟きながら霊夢はふと空を見上げる。日は随分と伸びてきたし、日向にいて風がなければ心地良いと感じるほどにもなった。長い冬ももうすぐ終わり、郷に春が訪れようとしている。それは喜ばしいことのはずだ。
それなのに背筋を走るのは何故か形容し難いむず痒さだった。視線を地上に戻すと収まったし、再び空を見上げても何も感じなかったけどやはり気になった。かつて同様の予兆を感じたとき、異変は霧の形で姿を現した。今回も似たようなことが起きるのではないかという危惧を覚えるのは当然のことだった。
『警戒はぬかりなく、とは言うけれど……』
予想外のものを迎え撃つのにできるのは精々が装備を整えることくらいだ。重い訓練を行うことも考えたが、そのために疲弊して体調が整わないまま急場の探索へ赴くことになれば本末転倒となる。あるいはその隙を突いて背後からぐさりと一撃を食らうかもしれない。歯痒いけどいつも通りの暮らしを続けるほかないのだ。
『背後の用心もぬかりなく、ね』
そう言い聞かせると霊夢は買い物を済ませ、神社への帰途に着くのだった。
目が覚めてもしばらく心が現実に戻って来なかった。夢が現実のように鮮明で、しかも過去の繰り返しだったからだ。
「ううむ、これはなんというか……」
あまりにもあからさまな霊夢だった。子供の頃から普通の夢と異なる示唆的な夢を時折見るのだが、ここまではっきりしたものを見るようになったのは先の異変を解決してからである。力を搾り尽くすような経験によって霊能力が鋭く研ぎ澄まされるようになったからだと推測はできるものの、仕組みが分かったからといって止められるものではなく、見えるからといって便利なわけでもない。むしろ悩みばかりが深くなる。それに現実と夢の境目があやふやになるので、本当に目が覚めたのか疑わしくなるのも地味に難点だった。
カレンダーとパソコンの内臓時計によって前に遠子を訪ねた時から一週間経っていることを確認してから、霊夢は夢で見た遠子とのやりとりを頭の中で反芻する。
あの話の中にこれから起きる厄介事のヒントが含まれているならば、それは遠子が話そうとしていた、幻想郷から四季の一つが喪われたという出来事に違いなかった。そして今が冬と春の狭間であることを考えれば答えは一つしかないように思われた。
「春が、喪われるかもしれない?」
口にしてみてなんだがあまりにも現実感がなかった。梅が花開く兆候さえ見せ始めているというのにそんな想像はあまりにも馬鹿げていると冷静な自分が訴えかけている。だがあれほどはっきりと見たものを否定するのは己の能力を否定することにも繋がる。力の行使が半ば義務である霊夢にとって予兆を含む夢は避けられないものであり、無理矢理にでも春が喪われる可能性を考えなければならなかった。
辛うじて浮かんできたのは春告精を拉致するという方法だ。しかしあの妖精は春を告げる際に問答無用の力を発揮することで知られており、妖精だと侮った多くの挑戦者が悉く失敗している。不可能ではないにしても相当の難行であることは確かだし、そもそも春告精を確保したところで春の到来を防げるわけではない。彼女が通過しなかった所でもやがて春は訪れる。春告精はあくまでも号令に過ぎないのだ。却下の印を捺して脳の外へと追い出し、新たな可能性を検討しようとしが、隙間を埋めてくれるアイデアはいつまで経っても現れなかった。
霊夢は切りの良いところで思索を打ち切り、いつものように朝のお勤めを片付けにかかる。最近は雪下ろしや雪かきの必要もないからもう少し遅く目覚めても良いのだが、あんな夢を見てしまったのに寝直す気にもならなかった。
朝のお勤めが終わり、いつものように雑な朝食を作ろうと冷蔵庫を物色していたらいきなり勝手口が開き「おはようございます、新聞でーす!」の威勢良い挨拶が響いた。振り向くまでもなく文だということが声で分かり、霊夢は冷蔵庫をそっと閉じて戸口に視線を向ける。
文は半袖に丈の短いスカートという寒々しい格好をしており、営業用の爽やかな笑みを浮かべていた。いつもなら挨拶だけで備え付けのポストに新聞を入れて次の場所に向かうのだが、わざわざ声をかけてきたということは別件の用事があるのだろう。
「やあやあ霊夢さん、今日もお勤めご苦労様です」
はたして文は断りもせず中に入って来ると、腰の鞄から封筒を取り出し、何も言うことなく差し出してきた。特に変わったところのないクリーム色の封筒だったが、霊夢はそれを見た瞬間、思わず「げっ」と声をあげた。
雷をモチーフにしたコミカルな意匠のシールはその封筒が堀川雷鼓によって閉じられたことを示している。ありふれたデザインであり、実際に類似品ならばそこらの商店でも買えるのだが、オリジナルのシールは雷鼓の妖力が込められており、差出人である雷鼓の想定しない相手が開こうとすると電撃を放つようになっている。封筒は中身もろともに消え、不埒な覗き魔は手痛いお仕置きを食らうという仕組みだ。霊夢もそれで酷い目に遭ったことがある。
「これ、本当にわたしが開けても大丈夫なものなんでしょうね?」
「その気持ちは分かります、分かりますとも」文はもっともらしくうんうんと頷いてみせる。この性格だから迂闊に封を開けようとして雷撃を食らったことがあるに違いなかった。「ただ今回は大丈夫だと思いますよ。本人から霊夢さんに渡して欲しいと指名されましたから」
「それなら大丈夫か……ってちょい待ち。あんた雷鼓と直に会ったってことは逆さ城にも顔が効くってこと?」
「はい、前から新聞を届けてますよ。なんと百年来のお得意様だったりします」
それならば例の霧が湧いたとき、不自然に慌ただしくしていたのにも気付いていたはずだ。それなのに自分は何も知らないという振りを装っていたということになる。
「あんた、わたしに色々と隠してたわね?」
「別に隠してたわけじゃありませんよ。逆さ城が騒がしいのはいつものことですし、外の世界ですら建造されなかった巨大機械が異変を引き起こしていただなんて誰が想像できますか?」
それを言われると霊夢には何も言い返せなかった。あんなものが郷に現れるだなんて全く想像できなかったからだ。
それはそれとして文に問い詰めたいことは他にもあった。
「そちらはまあ不問に伏すとして、逆さ城がお得意さんなのだとしたらこれまであいつらが起こして来た悪巧みもそれなりに把握していたのよね?」
「多少は勘付くところもありましたが、解放派のお歴々たちは貴重な情報源でもあります。不興を買うのは避けたいところですね」
「あいつらに何度も右往左往させられたの、あんただって知ってるでしょう?」
「はい、いつも楽しそうだなあと。だから霊夢さんには何も話さなかったのですよ。ネタバレを知らされたらどんなに刺激的な出来事も魅力半減ですからね」
ああ言えばこう言うを地で行く舌の回りようだった。閻魔様に頼んでその舌引っこ抜いてやろうかと思ったが、意を込めて睨みつけても動じる様子はまるでない。
「早苗さんに言いつけるわよ」
だから前に効いた脅しを再度突きつけてやった。解放派は郷にある機械の解放が目的であり、山のお偉方にとって目の上のたんこぶのはずだ。そんな奴らとつるんでいるのが知られるのはまずいはずだった。だが文はどこ吹く風といった調子で余裕の態度を崩さなかった。
「反対勢力の知り合いがいるからといってそちらに贔屓し倒しではジャーナリズムなるものは成り立ちません。どの勢力にも平等に接するからこそ勝ち得る信頼というものがあるのです。それを日和見だ、蝙蝠だと言うのならそれも結構。風見鶏こそがわたしの矜持です」
いつもはふざけた態度だからいきなり真面目な持論をぶつけられると頭がついて来なくなる。こういうところが狡いなと霊夢は常々思っているのだが、口にすれば図に乗らせるだけなので不機嫌を表明するだけに留めておいた。
「それに彼女はそんなこととうの昔に知ってますよ。そんなことで気持ちは変わらないから好きにやりなさい、その代わりわたしも好きにやりますからと言われましたね」
口から砂を吐き出しそうになるほどの惚気だった。あまりに甘くて怒りを抱えているのが急に馬鹿らしくなり、負の気持ちも重い息と共に消えてしまった。
「了解。どうしてもあんたに言うこと聞かせたい時は……」霊夢は札を構え、文に突きつける。「こいつに訴えることにする」
「素晴らしい、それでこそ博麗の巫女です」
文はおざなりの拍手で霊夢の態度を認めると、改めて封筒を差し出して来る。
「そういうわけで受け取っていただけるとありがたいです」
霊夢はそろりと封筒を受け取り、意を決して封を開ける。もし罠だったらせめて隣にいる烏天狗も痺れてしまえという少し意地悪な気持ちでの行動だったが、雷撃が放たれることはなくあっさりと中身を取り出すことが出来た。
中に入っていたのは雷鼓、九十九姉妹、山彦、夜雀、プリズムリバー姉妹の八人がそれらしいポーズを取っている写真がプリントされたチケットだった。堀川操楽団 with 鳥獣戯楽 feat プリズムリバーという、始めから終わりまで耳を塞いでなければやってられないような恐ろしい組み合わせであり、霊夢は思わず眉を顰めてしまった。
「これ、新手の嫌がらせ?」
「いえいえ、プラチナチケットですよこれは。人妖問わず音楽関係に興味があるならば垂涎の代物といって良いでしょう。実は早苗さんが彼女たちのファンでして、山にも隠れファンは多いと聞きます」
そんな馬鹿なと思ったが文の目は特ダネを追いかけている時のようにきらきらと輝いている。これは嘘ではないと思い、手紙の中身を全て確認する。
チケット十枚に便箋が一枚。こんなものをいきなり送りつけてきた事情を知りたかったので次に便箋を開くと、姉御肌の性格からは想像できないような丸っこい文字で書かれた文面が姿を現した。
『
幻想郷の素敵な巫女、博麗霊夢へ
やあやあご機嫌いかがかな、などと近況を書いても貴方には鬱陶しいだけだし、わたしも面倒臭い。だから要点だけを語るとする。
先日は我々のために例の機械を懲らしめてくれてありがとう。あれは力のない付喪神や妖精と酷く相性の悪いモノでありかなり手を焼いていたんだ。
そのささやかなお礼を同封させていただいた。どう配るかは自由だし、こんなものは要らないと全て破棄してくれても構わない。
あ、そうだ。今度久しぶりに神社を訪ねようかと思ってるので好物の雷饅頭を用意してくれるとありがたい。
堀川雷鼓
』
便箋一枚の中によくもまあこれほど神経を逆撫でさせる要素を盛り込めるなと、途中から半ば諦めの気持ちで読み進めたほどの失礼極まる文面だった。何が書かれているのか気になっている文に押しつけるとげらげら笑い始めたので、もしかすると妖怪一流の冗句が盛り込まれていたのかもしれない。
「いやすみません、取り乱してしまって」
「まあ良いんだけど」
妖怪が人間に失礼なのは何も今に始まったことではないし、いちいち腹を立てていたら堪忍袋の尾がいくらあっても足りない。さっと受け流したのち、霊夢は封筒からチケットを二枚取り出して差し出した。
「えっと、いいんですか?」
「悪かったらこんなことしないわよ。ああ、別に賄賂とか恩に着ろとかそういう意味じゃないから」
「ありがとうございます。しかもよく見たらS席じゃないですか。これはきっと喜びますよ。もう一枚はそうですね、諏訪子様にでも差し上げましょうか」
「いや、もう一枚はあんたの分なんだけど」
「やー、実はあの手の音楽は苦手でして」
苦笑いで誤魔化そうとしているが上手くいっているとはとても言えなかった。つまりは本気で苦手ということだ。天狗の中でも特にあらゆるものから浮いているような余裕の塊だと思っていたが、伴侶以外に不得手なものがあるとは少しばかり意外だった。
「あはは、わたしにだって苦手なものはありますよ」そんな霊夢の心を読むように、文はわざとらしく笑い声をあげる。一時の狼狽からはするりと抜け出した様子だった。「天狗だって弓で心臓を射られたら死にますし、銃で頭を撃たれたらやはり死にます。ほら、意外と弱点はあるでしょう?」
「いや、その理屈はおかしくない? いくら人間と比べて耐久力が桁外れといっても急所は同じ場所にあるのだから、そこを狙われたらそりゃ死ぬでしょう」
「そうですか? 頭を吹き飛ばしても死なない妖怪はそれなりにいますけどね」
最後まで冗談を貫いてくれたら良かったのに真面目な顔をされるとどう返して良いのか悩んでしまう。あるいはそれを狙ったのだとしたらやはり意地悪い奴だなと思う。
「おっと、まだまだ配達先があるのに話し込んでしまいました」文はそう言ってチケットを受け取り、大事にしまい込むと小さく頷いてみせた。「今回は一つだけヒントを差し上げましょう。解放派の面々ですが近々大きなことを仕掛けてきますよ」
できれば聞かなかった振りをしたい情報だったが、耳に入ったからには無視することもできない。霊夢は心底嫌そうな態度を取り、それからふと思いつきを口にする。
「それはもしかして春を奪うとかそういう計画じゃない?」
「おや、今回は霊夢さんも耳が早いようですね。分かっているならば対策も立てようがあるでしょう。ではわたしはこれで、健闘を祈っていますよ」
それだけ言い残すと文は風のように去り、ひゅうと小気味良い音が内から外へと抜けていく。なんとも烏天狗らしい退場だった。
「あれはやはり予兆を伴う夢だったのね。春を奪う、か……」
新たな情報が得られても霊夢の中で実感が増すことはなかった。ましてや解放派の連中ならばせいぜい嫌がらせの延長みたいな騒動を起こすのが関の山……そう結論付ける寸前で思い留まり、ひとまず結論を先延ばししておくことにした。
「そんなことができるとは思えないけど、前例があるから無視できないのよね」
湖にそびえ立つ階差機関を最初に発見し、起動させたのは解放派の連中だ。郷の誰よりも機械に詳しい河童に先んじたとなれば、今後も機械に関連する騒動を起こさないという保証はない。その後の動きこそ失敗だらけだが、次は成功するかもしれない。
解放派に優れた頭脳が現れたことを示す兆候も霊夢の懸念を後押ししていた。痒いところに手が届かないような嫌らしい計画、団員たちの行動パターンの変化、どちらもこれまでは見られなかった行動だ。
霧の異変が起きた際にその正体が咲夜ではないかと推察したのだが、すぐに見当違いの方向を見ていたことが明らかになった。彼女は作られたばかりの世間知らずな少女であり、とてもではないが策謀を巡らせるような性格ではなかった。つまり悪巧みの主犯は他にいるということだ。
機械ないし道具の扱いに長け、嫌がらせにかけて他に類を見ない才能を発揮する何者かがいる。そいつの首根っこを捕まえて押さえつけない限り、似たような騒動はいつまでも続くだろう。
霊夢の頭にふと、階差機関の付喪神に力を与えた少女の姿が浮かぶ。一連の騒動を呼び水と言った彼女こそ解放派の背後に控える頭脳なのだろうか。だとしたら郷の境界を管理する強力な妖怪が敵に回ったということになる。
面倒なことばかりが過ぎり、朝から気が滅入りそうだった。こんな時は凝った料理でも作ろうと本気の料理モードに気持ちを切り替え、改めて冷蔵庫の中身を漁る。とにかく巫女としての仕事以外のことで頭を一杯にしたかった。
そしてすぐに後悔した。食卓には明らかに一人では食べきれない料理がずらりと並び、しかも朝食べるには重たいものばかりだった。特に塩漬け肉がふんだんに入ったスープなんて、夜に食べても胃がびっくりするかもしれない。
手を付ける前からどうやって保存しようかと考えていたら、箒に乗った魔法使いという助け船が空から颯爽と姿を現した。
魔理沙は先日の異変からこちら、時折神社を訪ねて来るようになった。先日の異変で疲弊した姿を見て、こいつは放っておけないとでも判断されたのか、あるいはこれまでも見えない所から動向をうかがっていたのかもしれない。箒を立てかけるといつものように断ることなく上がり込み、これを食べる権利があると言わんばかりに食卓をぐるりと見回すのだった。
「育ち盛りとは思っていたが予想以上に健啖だな。というか流石にこの量では太ると思うんだが」
歯に衣着せぬ発言も今はそこまで気にならなかった。この料理を少しでも胃に収めてくれるならば神にでも仏にでも縋りたい気分だったからだ。
「少し作り過ぎちゃって。だから遠慮なく食べていって頂戴」
「ふむ、では少しだけいただくとするか。実を言うと食べなくても平気なんだが、たまには食べないとそれはそれで体に悪いしな」
魔理沙は霊夢を通して何か遠くのものへと心を向ける。きっと同姓同名の違う霊夢に心を向けているのだろう。その頃もちょくちょくと神社を訪れ、食事や茶を所望していたのだろうか。その姿を霊夢はありありと思い浮かべることができた。
重い料理に臆することなく、魔理沙は食事に手を付け始める。種族としての魔法使いは食べなくても良いから少食なのだと思っていたが、腹ぺこの霊夢と同じくらいには健啖であり、見ているだけで腹の虫がぐうと唸りをあげた。
とは言っても食欲が湧けばどうにかなる量でもない。半分ほど片付けたところで双方の手が止まり、魔理沙から苦笑いが漏れた。
「なにかこう、色々なものを忘れたい気持ちだったの」
からかわれる前に先回りして弁明すると、魔理沙はふむと頷いてみせた。
「料理で発散するのは十分ありだと思うよ。わたしの知り合いなんて似たような状況になると半月ほど工房に引きこもって奇妙な生物のぬいぐるみをたんまりと拵えるんだ。ホームシックに由来するものとわたしは睨んでいるんだがね、あまりに奇怪だから子供は見ただけで泣きじゃくるし大人は気絶する。かといって処分するのもしのびない。そうだ、魔除けになるはずだから一つどうだ?」
「遠慮しとく」魔理沙の話が本当ならば、魔除けどころか逆に魔を呼び寄せそうな代物である。義理人情であってもとても受け取る気にはならなかった。「それにしてもまだ大分残ってるけど、どうしようかしら」
「何とかなるんじゃないか? 現にわたしがやって来たし、きっと誰かが来るだろう。霊夢もあいつと同じでその辺りの巡り合わせは良さそうだし。それよりも凝った料理を山ほど作るような発散が必要になる事態というのがわたしには気になるな」
そう言ってくれるのはありがたいし、魔理沙ならば過去に起きた事件も覚えているかもしれない。昔のことだから忘れているかもしれないが、聞いておいて損はないと判断し、夢から始まるあやふやな推測を話してみることにした。
「誰かが春を奪おうとしているかもしれないの」
魔理沙の余裕ありげな表情がぴたりと凍りついた。明らかに何かを知っているという顔であり、視線がきょどきょどと遠くの方を彷徨っているところからして、過去に何かがあることを示していた。
文が仄めかしたのはこれから何かが起きるということである。だが魔理沙は過去に起きた事件のことを考えている。そして霊夢が見た夢でも遠子は過去の事件を話そうとしていた。
「もしかすると過去に起きたことがもう一度起きるのかもしれない」
ぽつりと口にすると魔理沙の眉間に皺が寄り、残されていた余裕もすっかりと顔から追い出されてしまった。
「その情報、どこから聞いた?」
魔理沙は一切の曲解を許さないと言いたげな厳しさで霊夢に問うて来る。夢とあやふやなヒントが根拠だなんて言ったら雷を落とされそうな雰囲気だったが、中途半端な嘘を吐いてもあっさり看破されそうな気がした。だから包み隠さず一から説明することにした。魔理沙は最初こそ真剣そのものだったが、途中から訳が分からないと言わんばかりの渋そうな顔に変わり、最後はすっかりと安堵の様子を見せた。
「それならまあ特に気にすることもないかな。あのお騒がせ集団にだって流石にあんなことはできないだろうし。だが霊夢の見た夢は少し気になる。確か昔からこの手の夢は見るんだったよな?」
「ええ、しかも最近は妙に鮮明な夢ばかり見るようになって」
「なるほど、力が伸びたことによる能力の強化、あるいは副作用と言うべきか。誰にも伝える必要のない霊夢なんて傍迷惑も良いところだからな」
霊夢は全くだとばかりに頷く。可能ならば燃やせるゴミと一緒に出してしまいたいほどだった。
「それにしても面白いな。かつての霊夢は予知夢なんて一切見なかったのに」
それを聞いて霊夢は自然と大きな息をつく。偉大な先人に似ている、そっくりだと言われるのは皆を騙しているようで少しばかり心苦しいのだ。違いを見つけてきちんと言葉にしてくれるのはとてもありがたかった。
「ところであんなことと言ったけど、何か心当たりがあるのかしら」
そうだとしたら耳に入れておきたかったが、魔理沙は黙したまま俯いてしまった。
「わたしには話せないことなの?」
誰かの秘密に関わるなら無理に聞き出すことはないと思ったのだが、魔理沙は顔を上げると静かに首を横に振るのだった。
「そうじゃない、迂闊に話して予断を持たせたくないんだ。わたしの中には一つの可能性がある。だがね、霊夢には自力で答えを出して欲しい」
「つまり半人前はもっと苦労するべきだと?」
「いいや、半人前はノウハウを駆使して楽するべきだよ。苦労は一人前になれば嫌でも付いてくるからな」
魔理沙の持論は霊夢に剣を仕込んだ天人とは全く反対の見解だった。彼女は艱難辛苦を求める心が大事なの、さもないとわたしみたいなろくでなしになるわとからから笑いながら言っていた。きっと二人の気質や性格の差なのだろう。
「霊夢に答えを探して欲しいと考えるのには理由がある。実はここしばらく、星が妙なざわつきを見せるものだから気になって定期的に読んでいるんだが、そうしたら求めるものとは異なる乱れというか落ち着きのなさみたいなものを読んでしまったんだ。時季は春を指していたからきっと霊夢の予感に関わるものだろう。少なくともわたしはあのような星の乱れを見たことがない、それならばわたしが既に知っている答えは間違っているということになる」
「占いなんて当てにならないと思うけど」
巫女らしくないと言われることを覚悟で口にしてみたが、魔理沙はからかうどころかさもありなんとばかりに頷くのだった。
「占術とはすなわち統計であり、未知のものを暴くには向いてない。これはわたしもよくよく承知している。そもそも人間だった頃は占いが持つ統計外の側面なんてこれっぽっちも信じていなかった。だが人の身を外れたより大きなサイクルに慣れた頃、突如として理解できるようになったんだ。占いは人を通してより大きなもの、すなわち世界や未来を見通そうとする情念によっても形作られているのだと。その想いは稀に統計の意味を超えて真実を指し示すことがある。そして出来事にまつわる想いの総量が強ければ強いほど見えるものもよりはっきりとしてくる。古来より巫女や預言者の中には占いを介してそうしたその想いを見通せる者がいたんだろう」
魔理沙の話は自分に占いの才がないということを改めて突きつけたように思えた。巫女に抜擢されてから色々な占いを試してたが、まるで当たった試しがないのだ。
「わたし、占いは本当にからっきしなの」
だが魔理沙の瞳は失望に染まるどころかより強い期待の光を帯びるのだった。
「それも昔の霊夢とは違うんだな。あいつは積極的に卦を見るタイプだったが、お前は周りの念を受け取るタイプらしい。だから有象無象の意識が混線する夢の中において色々と見てしまうんだろう。実はそれもまた占いの一種なんだよ。夢占いって聞いたことないか?」
「そりゃまあ聞いたことくらいはあるけど」
「だから占いがからっきしというわけではないと思う。きっと霊感の発揮される方向性が違うんだろう。霊力は魔力と違い、個々の才能によるものが大きくてあまり研究されていない分野なので詳しくは言えないが。例えば昔の霊夢は迷ったとき積極的に卦を打つ……と言えば聞こえは良いかもしれないが、要は行き当たりばったりで兎に角突き進むことが良い結果に繋がるタイプだった。超音波を飛ばして暗闇を飛ぶ蝙蝠のような感じだな。対して今の霊夢は迷ったとき一度立ち止まって念を感じるように心掛けると良いのかもしれない。そうすれば霊感は自ずと正しい方向へと導いてくれるだろう。余裕があれば眠るのも良いかもしれない。今はまだ木陰に寄りかかって一眠りなんてわけにもいかないが、これからどんどんと暖かくなって来るだろう」
魔理沙の話に霊夢は思わず眉をひそめる。今後も異変が起きることを前提とした語り口だったからだ。
「あんな騒ぎは何度も起きるものじゃないと思うけど」
「いや、大きな事件は立て続けに発生すると見た方が良い。郷は狭い上に多くの勢力がひしめき合っているから、一度生じた波紋の影響は計り知れない。これまで刺激されずに眠っていたものを起こしてしまった可能性があると見るべきだ。霊夢が見た夢もそのことを示唆しているように思える」
それを言われると霊夢には何も返せなかった。面倒なことはあまり好きではないが、かといって見ないふりをするわけにもいかない。
「星占いもそれを示していたが、わたしは魔法使いだ。お告げを受けるのは本業ではない。だから専門家を訪ねたというわけだ」
いつもの冷やかしかと思ったら今日は目的があって来ていたらしい。そして満足に値する結果が得られたらしく、一人で納得するように何度か頷いてみせた。
「その用事も終わり、望外に腹も膨れた。その代わりと言ってはなんだが今日は片付けくらいだったら手伝っていこう」
「良いわ、身から出た錆だもの……あ、そうだ」
雷鼓からもらったチケットのことを思い出して魔理沙に見せると、まるで宝物を手に入れたかのように頭上に掲げる。どうやら本物であるかを確かめているらしかった。
「よく取れたな、わたしは電話もネット予約も失敗してしまった」
「雷鼓が迷惑料代わりだと言って送りつけて来たの。あと七枚までなら自由に譲ることができるのだけど。無駄になるのはもったいないし遠慮しなくて良いから」
「では二枚、わたしと良人の分をいただけると」
「良人、って霖之助さんのこと?」魔理沙に数百年来の連れ添いがいることは霊夢もよく知っている。ずっと昔には東の里で商いをしていたがとうの昔に引退し、今は開店しているのかどうかも分からないほど古びた店を構えている。「相当しっちゃかめっちゃかで派手なライブだと思いますが」
霊夢が気にしているのは彼が翁のように年老いているということだ。あまり強い刺激は体に良くないと思ったのだが、魔理沙はすました顔で指を横に振るのだった。
「そう思うかもしれないが、香霖はあのなりで騒がしい音楽が好きなんだよ。それに強い刺激は単調になりがちな生活に潤いを与えてくれる。今は日がな一日ぼんやりしているだけだからね。いくら半分は妖怪だと言ってもあれじゃ流石に耄碌するだろ」
魔理沙はけらけらと笑っていたが、ひとしきり気持ちが落ち着くと今度は重い息を吐く。そして急に真剣な表情を浮かべた。
「ぼくが魔理沙に約束してあげられることが一つだけある。君よりも決して先には死なないということだ」
魔理沙はぽつりとそんなことを呟き、苦笑いを浮かべる。
「あいつのプロポーズの言葉だよ。約束は守ってもらわないとな。そのためにはもっと張りのある暮らしを送ってもらわなきゃ」
それから少し間を置き、柄でもないことを言ったなと付け加える。
「夢の件はわたしの方で少し心当たりを探ってみる。馳走になった、それにチケットもありがとな」
魔理沙はチケットを受け取ると腰を上げ、そそくさと帰っていく。惚気て見せたのが今になってはずかしくなったのかなと思った。
第二の助け船は日の沈む少し前に姿を現した。昼を抜いてもなお重たい胃をなんとか鼓舞し、気力を振り絞って箸を手にしたところで、神社にやって来る人ならざるものの気配が二つやって来たのだ。一つは妖力、もう一つは魔力であり、それでなんとなく察しがついて箸を置き、障子を開ける。はたしてそこには蝙蝠のような羽根の生えた子供と、大きな日傘を差してあげている少女の姿があった。
傘を差されているほうが紅魔館の主であるレミリア・スカーレット、傘を差しているほうが最近になって館でメイド働きをするようになった十六夜咲夜である。正確には故人となった咲夜の能力と容姿を写し取った別人なのだが、館の連中は皆そう呼んでいるので霊夢も咲夜と呼んでいる。
レミリアは霊夢の姿を見た途端、早足となって近付いてくる。咲夜も歩調を合わせようとしたのだが、見事に何もないところで躓いてしまった。レミリアの体から白い煙が立ち上がり始めたので思わずぎょっとしてしまったが、慌てた咲夜が急いで傘を差して日光を遮るまでも痛がる素振りは全く見せなかった。
「あんた、それ平気なの?」
だから日光に弱いのは演技なのかという疑惑が過ぎり、心配する振りをして気遣うようなことを口にする。昼間も平気で歩けるならば今後はより警戒しなければいけないと考えてのことだったが、レミリアは愉快そうに笑うだけだった。
「全身を槍でざくりと刺されるされる程度だ。どうということはないよ」
例えの痛々しさに霊夢は思わずぎょっとしてしまう。とは言ってもレミリアの態度からは日光でやられたことに対するいかなる感情も読みとれない。いくら幼そうに見えてもそこは老獪な妖怪の一人ということなのだろうか。
咲夜は霊夢と違い、レミリアのことを信じ切っているらしく槍に刺されるという例えを訊いて酷く怯えた表情を浮かべた。
「ああ、またやってしまった。すみませんお嬢様」傘を差した状態でぺこりと頭を下げようとするから体の一部が影からはみ出し、再び白い煙が浮かぶ。前々からそうではないかと思っていたが、彼女はどうやらとんでもない粗忽者らしい。「この始末はいかようにでも……」
「いいよ、こんなのは傷のうちに入らないから。いちいちしょげてしまうほうが面倒だ。それより煙を吸い込まないよう気をつけるんだぞ、無駄に寿命が延びるからな」
「はい、気を付けます」
再び頭を避けようとして今度は思い留まり、そこでようやく霊夢に一部始終を見られていたことに気付く。敵意と羞恥のない混じった視線を向けられるが迫力は全くなかった。歯車の塔を背に初めて対峙した時はそれなりに威圧感もあったのだが、いまやすっかり粗忽さを身に着けてしまったらしい。
「それで今日は何をしに来たの?」
「わたしがどこかを訪ねるのに理由は必要ないのさ」
「つまり遊びに来たのね」
「わたしくらいになるとあらゆることに楽を見出せるんだよ」
やはりいちいち回りくどいなと思ったが、咲夜は感心した様子で頷いている。こんな奴の下で働かせて情操教育には非常によろしくないと思ったが、あの傍迷惑な機械は紅魔館で管理されているから他の場所に移すこともできない。きっとあと数年もすればどんなことにも悪びれない妖怪じみたメイドが誕生してしまうのだろう。
「まあ、ちょうど良かったわ。少しばかり食事を作り過ぎて困っていたの」
「素晴らしいね。昔の霊夢はいつ行っても茶の一杯すら渋る奴だった。弁えているのは良いことだ」
たまたまが重なっただけでありそこまで褒められると若干むず痒くもあるのだが、偶然といってなんだとがっくりされるのも癪に触るので計算通りの振りをした。
神社に招き入れるやいなや、レミリアはお前正気かと言いたげな目を向けて来た。
「肉肉しいかしょっぱいか甘辛いものばかりじゃないか。どれもこれも酒のつまみにするようなものだぞ、宴会でも開くつもりだったのか? それとも毎日こんなものを食べながら晩酌してるのか? もしそうだとしたらやめておけ、ただでさえすぐ死ぬ人間だというのに余計に早く死んでしまう」
「流石にいつもはこんなんじゃないわよ」それにしても吸血鬼に寿命の心配をされるのは少しばかりの奇妙さを感じないでもなかった。「悩みを料理で発散させようとしたらこのざまよ。一人じゃ食べきれないから食べていって頂戴」
「そういう事情なら遠慮なく」レミリアは当然の権利のように腰を下ろすと自分のために用意していた箸で料理をぱくぱくと摘み始める。「色合いは辛そうだったが味はそこまできつくないな」
これも良い、これも美味しいと言いながら食を進めるレミリアは普通の子供にしか見えない。館の時と違い、威圧感を一切覚えないから余計にそう思えた。
「咲夜さんも食べていったらどう? 箸をもう一つ持ってくるから」
霊夢は先程から恨めしそうな視線を向けている咲夜にそう声をかける。もちろん的外れなことを口にしたのはよく分かっていた。咲夜は決してお腹が空いているわけではなく、主人が美味しいと言って他人の料理を食べているのが気に入らないだけなのだ。
彼女の料理は一度だけ食べたことがあるけれど、かなり独特の味付けであり本人にも少なからぬ自覚があるらしい。味覚は普通の人間とさして変わらないようなので、あとはしばらく料理の勉強を続け、毎回きちんと味見する習慣さえ身につければ料理に関しては大丈夫になるとは思うのだが、そう忠告して未熟さから来る劣等感を何とかしてやれるわけではない。結局のところは気付かない振りをするのが一番良いのだ。
「では、いただきます」その目は食卓に並ぶ料理を研究してやろうという気概に満ちている。霊夢は箸と茶碗、湯のみをもう二つずつ用意すると一つを咲夜に差し出し、できるだけゆっくりと料理に手をつけた。大分ましにはなっていたが、朝に食べた料理が未だに胃の辺りに残っているような感じでやはり食欲が湧かなかった。
料理は三十分もしないうちに完売となり、レミリアは少し食べ過ぎたのか畳の上にごろんと寝転んでしまった。対する咲夜は平然とした調子で、その目はもっとないのか訴えているようではあった。
「細く見えるのによく食べるのね?」
「この体は血肉ではなく魔力で動きますから」
すると彼女は普通の飲食をして魔力を生み出すのだろうか。霊夢がいくら食事をしても生み出されるのは熱量だけで、もし魔法を使いたければ外部から魔力の源を摂取する必要がある。魔理沙のような種族としての魔法使いになると体内に魔力を精製する器官があるけれど、食事の熱量を転換しているわけではない。咲夜はやはり人間でも妖怪でもない別種の存在なのだ。まあ、それはこの郷において別段問題になることではない。人間を捕食しなければの話ではあるが。
「そう言えば吸血鬼って普通の食事でも大丈夫なの?」
「普通の人間と同様の代謝は可能だよ。でも吸血鬼として生きるならやはり血は必要だ。昔はあまり口にできない方法でごにょごにょしていたんだが、今は月に一度だけ西の里に出没すれば良い。西の里はフランが一時期名誉里長のような立場に就いていて優れた業績を上げたためか、吸血鬼に血を吸われるのが一種のステータスにすらなっているんだ。その仕組みにわたしも相乗りしているというわけだ」
「そんなことをして吸った相手が吸血鬼になったりしないの?」
「わたしもフランも吸血鬼化させるほどの血は吸えない。それができたのは我が師父、名君としてもよく知られるかの偉大な……」
「あ、そう言えば!」レミリアが過去の話を始めたら長くなることを知っていたから慌てて話を遮り、例のチケットを見せる。レミリアはずっと地下で過ごしていたためかこの手の流行に疎いらしく、なんだこれと目で訴えてきた。「付喪神や妖怪が何ユニットか合同でコンサートを開くみたいなの。無駄に数を押し付けられたから欲しければあげる」
「付喪神と妖怪のコンサートなんて騒々しいだけだろ。前にも聞いたことがあるけど静聴に耐えない代物だったような……まあ、わたしの記憶違いかもしれないし、何百年もの時間により研鑽されているかもしれない。試してみないことにはどうなるか分からないか」
「ずっと昔に赤い霧で郷を包もうとしたのもそういうことなの?」
「さてなんのことやらまったくきおくにないな」
露骨な棒読みになったところからして過去の過ちであること、明白な失敗であったことをきちんと認識し、また記憶もしているらしい。おそらくはよほど痛い目に遭わされたのだろう。
「聞いてくれるな。既に塞がった傷だが触れられるとむずむずする。そうした傷は人間妖怪を問わず安易につついて良いものじゃない」
霊夢はレミリアの過去を突つきたいのではなく、かつての巫女がどのように戦ったかを知りたかっただけだ。それは喪われた博麗の技を再構築するための助けとなるかもしれない。だがいかなる理由を付けてもレミリアは何も教えてくれないだろう。適当な過去を平然と口にするくせして、本当の過去になるとあからさまに誤魔化してしまう。生まれる前の咲夜とロンドンなる都市で出会った経緯も結局教えてもらえなかった。それが処世術であるのか、かつて傷つけられた心を守るためなのかは判断がつきかねたし、どちらにしても霊夢には黙って引き下がることしかできない。
「もうじき日も沈む。わたしはこれからもう少し、夕陽の下での散歩を楽しむことにするよ。咲夜、物欲しそうな犬のような顔をしてもここではもう何も出てこないよ。帰ったら夜食を摘むくらいは許す。そろそろ出立といこうじゃないか」
「そんなに嫌ならそう言ってくれれば良かったのに」
嫌な話を振られたからそそくさと立ち去るつもりなのだと思ったが、レミリアは弱々しい微笑を浮かべるだけだった。逃げるのではなく他に何か理由がありそうだった。
「チケットは何枚までならもらって良い? もしかしたら喜ぶ奴もいるかもしれん。何枚いるか分かったら改めて取りに行くということで良いだろうか?」
「それなら四枚までなら」魔理沙と文が持って行ったチケットを除いて手持ちは六枚、一枚は自分、もう一枚は遠子の分だ。「ただし早い者勝ちだからね」
「大して期待はしていないコンサートだから手に入らなければそれで構わないよ。では夕飯も馳走になったことだし、次にうちへ来た時には豪勢な料理で返すとしよう。それとも目の眩むような弾幕を所望かな?」
「普通のもてなしで良いわよ。チケットも夕飯も余り物なんだから」
吸血鬼の気合の入ったおもてなしなどあまり受けたくはない。きっと派手で面倒臭いものに違いないからだ。
「そうか、ではこちらも余りものの分だけ趣向を凝らすとするよ。では咲夜、夜になる前にもう少し散歩と洒落込もう」
昨夜は霊夢にちらと視線を寄せる。どんな理由かは知らないが、この場を離れるのが名残惜しいと考えているようだった。
「頻繁に来られると面倒だけど、土産物を持って来るなら茶の一杯くらいは出さないでもないわ」
「考慮しよう」
明らかに誤魔化す気満々だったが、そこは気にしないことにした。吸血鬼の傲慢な振る舞いにいちいち目くじらを立てていれば堪忍袋の尾がいくらあっても足りなくなるからだ。
レミリアはまるで普通の人間のように夕陽の下へと姿を晒す。再び白い煙を立て始めたのを見て咲夜も慌てて飛び出し、急いで傘を差す。その様子を見てようやくレミリアが何をやりたいか霊夢には分かった気がした。
吸血鬼の体を損なわないように日傘を差し続ける練習というわけだ。
「しかしあの子、ほんと……」時間を止める能力があるのに、そのことが頭にも浮かばないような行動ばかり取っているのが気になった。「慌てると頭が真っ白になるタイプなのかしら。あるいは……」
レミリアが時間停止の使用を制限している可能性がある。咲夜は人ならざる者の従者になってしまったが、濫用される様子はなく新たな騒動を起こす兆しもない。しばらくは定期的に様子をうかがう必要があるかもしれないが、いずれは監視の目を離しても良いのかもしれない。
「甘いのかなあ、わたしも」
異変を起こすような危ない機械を壊さず、妖怪の管理に任せているのも本来ならよろしくないはずだ。でもあの憐れな機械と付喪神に手を下すことができなかった。前回はそれがたまたま上手くいったが、異変において博麗の行うことは全てに優先することの意味を決して取り違えてはいけない。前回は上手くいったけど、それが今回も通用するとは限らないのだから。
「馬鹿、なに考えてるのよ。今回、ですって?」
再び異変が起きると考えてしまったことに気付き、霊夢は慌てて首を横に振る。噂をすれば影、悪魔の話をすれば悪魔が出てくる。霊夢はくわばらくわばらと雷避けの呪いを唱え、すっかり制覇されて空になった食器の片付けに取り掛かるのだった
第2章 修羅と修羅 一覧
感想をツイートする
ツイート
素晴らしいあやさなだすばらしい!
あと起床後の霊夢ってのがWitching Dreamの方だと気づくのにしばらくかかりました・・・