聖白蓮さん、あなたに仏のお恵みを白蓮さん 後編 白蓮さん後編 最終話
所属カテゴリー: 聖白蓮さん、あなたに仏のお恵みを白蓮さん 後編
公開日:2016年02月18日 / 最終更新日:2016年02月18日
ぬえは馬鹿の一つ覚えのように放ってくる童子の弾幕をいなしながら、考えていた。どうしてこうなったのだろう。殊勝な気持ちを掲げてやって来たというのに何故、寺の住人と戦っているのだろう。
「あいつが悪いんだ」
ぬえは強い視線を彼女に向ける。あいつがしかつめらしい様子で門番をしているから、少しだけからかいたくなったのだ。そうしたら彼女と来たら予想以上に怯え出して、それが面白いからつい羽目を外してしまったのだ。
続いてやって来た鼠変化にも悪戯したら、忌々しいことに童子を立ち直らせてしまい、撤退を余儀なくされた。その後、鼠変化が慌てて出て行ったから何事かと舞い戻ってみれば、今度は追い縋ってきた童子から攻撃を受ける始末だ。
「馬鹿馬鹿しくなってきたなあ。もう逃げちゃおうかなあ」
聖はいないのだから、そうしても別に構わなかった。それでも相手を続けているのは童子から得られる怯えや恐怖が美味しいからだ。最初ほど露骨ではなくなったけれど、彼女は未だに正体不明の種から怖れるべきものを垣間見ているらしい。一つ倒されると腹が満たされる。二つ倒されるとなお満たされる。この感覚は随分と久しぶりだったから、なかなかに離れられない。
これもひとえに、あの緑の巫女のせいだとぬえは思う。
あの緑の巫女と対決して以来、明らかに運気が落ちてしまい、脅かしの技が悉く外れを引き、あるいは少々のことでは動じない強者ばかりにぶち当たる始末だった。当の巫女本人には写真を撮られる、色々な服を着せられて可愛がられる、すると神社にいた神様たちが妙に苛々して睨みつけてきたものだからたまらない。そこで何かの呪いをかけられたに違いなかった。
それからもこちらの正体を明らかにしようとする天狗に散々つきまとわれる、竹林に逃れれば新しい食材になるかもと火で炙られかける、気配のまるで分からぬ少女に襲われて散々に脅かされるとひどいものだった。挙げ句の果てには聖を倒した紅白の巫女に祓われ、あわや封印再度という危機にまで陥ったのだ。
だが良いことも一つだけあった。聖の正体を知ることができたのだ。だからこそぬえは今日、この命蓮寺にやって来たのだった。しかしまだ不運は続いているらしい。
思い出すと途端に惨めな気持ちとなり、ぬえは自らの分身とも言える種たちを引っ込めた。このまま相手が疲弊するのを待っても良かったけど、気が変わった。一、二の、三ですっぱりと退場願おう。その隙に逃げて。
逃げてどうなるのかは分からなかった。でもここにはもう居たくなかった。
憤怒した菩薩様たちと唾競り合いを続けることしばし、一輪はおかしいと感じ始めていた。どちらも力を使いっぱなしだというのに、相手が一向に疲弊する気配すら見せないのだ。圧倒的な力の差という絶望的な考えが頭に浮かびかけ、すんでのところで首を振った。遊ばれているとは思いたくなかったのだ。
そんな一輪の願いを断ち切るように、鵺的な何かがすっと瞳の形を鋭くする。
「もう遊ぶのは飽きたから、さっさと終わらせることにしたよ」
一輪はぐっと歯を噛みしめる。一番言われたくないことを言われた。先程から見せたくないものを見せられているし、もしやこいつは他者の心を見透かせるのではないだろうか。そんな危惧を抱きながら、一輪は胸を張って相手を見据える。
「そんなに怖がってくれる相手との戦いをやめるのは勿体ないけど。それとも黙って逃がしてくれるのかい?」
「脅かしの法をもって寺社に入ろうとしたものをただで逃がすわけには行かないよ」
すると鵺的な何かは癇に触る出鱈目な笑い声をあげる。
「脅かしの法だって、馬鹿じゃないの? わたしがいつ、お前のことを脅かした? まあそういう性質のある攻撃をしたのは確かだけど」言いながら、鵺的な何かは腹を抱えてくつくつやりながら一輪を指差した。「でもね、一番悪いのはお前だよ。妖怪のくせに恐れるべき何かを胸に深く抱え込んでいるのが悪いんだ。先程から漏れ聞こえる言葉を繋ぎ合わせてみれば、どうやら仏の怒り姿らしいね。寺を護る童子が、不遜にも仏の怒りを垣間見るなんて。真面目そうな顔をしてお前はどれだけの破戒を繰り返してきた? どうして愚にもつかぬ恐怖を胸に溜め込んでいるんだい? 」
「そんなもの……」一輪の中にかつての情景がふと浮かび、蝋燭の炎のようにちりちりと燃え上がる。うっすらとした灯りに照らされ、浮かび上がるのは老いた聖の激しい怒りの顔であった。「違う、わたしは怖くなんかない!」
「嘘だね。いま動揺したよ。心が揺らぎ、怯え、わたしの腹が満たされた」言いながら鵺的な何かはスペルを宣言し、すると緑色に光る蛇のような光線が渦巻き、言葉の毒とともに一輪に差し向けられた。「何を見た? 何が怖い?」
一輪は意地の悪い軌道を持つ緑色の光線をすんでのところでかわし続ける。妙にくねくねしているが、速度は地を這う蛇と比べてもなお鈍重なくらいだ。しかし光線は一輪の心を読んだかのように、巧みに逃げ道を防ぎ、遂には一斉に襲い掛かってきた。かわしきれなかった一発が肩を掠り、思わず呻き声をあげる。その一瞬のうちに鵺的な何かは妖しげな暗闇を見出し、周囲に展開させていた。
「己の中に愚者を見よ。仏の道に背きし恥部を見よ!」
頭を突き刺すような嫌らしい声とともに、暗闇から雨のような黄色の光線が降り注いで来る。真昼であってもなお、あらゆるものを覆い隠し、目をくらまそうとゆらゆら揺れる。しかし先程の蛇に比べれば単純であるため、一度タイミングを掴めばかわすのは難しくなかった。だがほっとする気持ちにはなれなかった。明らかに手を抜かれ、遊ばれている。忌々しいと思う気持ちをなんとか収め、一輪はこんなもの余裕であるとばかりに宝輪を構え直す。
「こんな虚仮(こけ)威しで、どうにかなると思ったのか?」
虚勢とばれていることを半ば覚悟して言うと、鵺的な何かはきゃはきゃはと苛立たしい笑い声を立て、暗闇を払うと更に新たなスペルを取り出してみせた。
「さあて、お次はどうかな?」
次に彼女が生み出したのは蒼色の光線だった。その動きは緑色の光線みたく複雑ではなく、黄色の光線ほど早くもない。どんどんと攻撃の質が下がってきている。今度は初撃からあっさりと回避し、虚勢でないことを示すため、分かりやすい挑発を鵺的な何かに飛ばす。
「そんな、しょぼくれたレーザーばかり撃ってきて……」
そのとき、辺りの空気がぞわりと変化した。まずいと気付いたときには左右から強い力を受け、弾き飛ばされていた。歯を食い縛って痛みを堪え、目を見開くとレーザーがいつの間にか蛇に変化しており、次発を辛うじて避けると再びレーザーに形を変える。縦と横の動きが一瞬で切り替わる攻撃なのだと気付き、思わず舌を打つ。
曲芸のような蛇の動きののち、単純な攻撃が続いたから咄嗟に反応できなかったのだ。
反撃しようと手に力を込め、宝輪が失われていることに気付く。落下していく宝輪を追いかけようとしたが、待ち受けていたかのように蛇がレーザーへと再び姿を変え、一直線にこちらへと向かって来る。
こんな子供じみた陥穽(かんせい)さえ見抜けないとは。己の未熟さを嘆きながら、一輪は最後の矜恃(きょうじ)をもって鵺的な何かを睨みつける。
「それではさようなら、童子さん。妖怪だから死なないとは思うけど、死ぬほど痛いと思うよ」
さもありなん。一輪は完全に同意して頷き、レーザーがこの身を貫くのを黙して待ち。
その直前でするりと体が掠われた。
「ふう、危ない危ない。こういうの、人間の言葉で間一髪って言うんだっけ?」
何者かと視線を向ければ、暗い色調のひらひらした服を着た猫変化だった。地底にいた頃、何度か見かけたことがある。確か地霊殿子飼いの妖怪変化の一匹だったはずだ。
「自力で空を飛べるなら、そうしてくれないかな。お姉さん、ちょっとあちらの鵺的な何かに用事があってね」
猫変化は一輪の返事を待たずに手を離す。宝輪がないから落ち着かないけれど、何とか中空に姿勢を保つことはできた。
「事情は知らないが、かたじけない」冥い力の気配、身に帯びた怨霊からただならぬ目的を秘めているのだと思われたが、今は問い詰めなかった。正しく猫の手も借りたい状況だったからだ。「わたしも宝輪を回収したらすぐ駆けつける」
「らじゃった。あの鼠ちゃんはゆえあって別行動するけど、すぐに合流するとさ」
やはりナズーリンが何らかの手を打ったのだ。鼠がどうやって猫を説得し、こちら側に引き入れたかは知らないけれど、今はその采配を信じるしかない。
「あ、こら待て、逃げるな!」
鵺的な何かがこの混乱に乗じて逃げだそうとしたが、その前に怨霊猫が先手を打った。怨霊と針がその周囲を覆い、退路を封じたのだ。そのことを確認すると、一輪は失くしものを求めて地上に降りる。こういうときナズーリンがいてくれれば便利なのだが。
「別行動だなんて、何があったのだろうな」おそらくは今の状況と同じ重さをもって取りかかるべき何かなのだろう。そう思えるくらいには、一輪はナズーリンのことを信頼できるようになっていた。そしてふと、一つの考えが脳裏を過ぎる。「もしかするとあの時も、他の用事があって飛倉の破片を回収できなかったのかも」
一輪は束の間の思考を振り切ると、宝輪の回収に向かう。体のあちこちが痛むけれど、そんなものに構ってなどいられなかった。
鵺的な何かを取り囲んだ怨霊たちはじりじりと距離を詰めながら、中心に向けて収束していく。何をされているかも理解できないのか、彼女は突っ立ったままぴくりとも動こうとしない。
いきなり勝負が決まったかと思った瞬間、蛇のようなものがいくつも飛び出し、目を疑うようなものに変化したかと思えば、光線を発して怨霊を次々と撃ち抜き、針をなぎ倒して悠々と脱出した。こちらをからかうような笑みを浮かべるのも束の間、彼女は鬱陶しいものでも見るかのように目を細め、口元を窄めた。
「あのさ、わたしはもう飽きたんだよ。お前はあの童子より頭が良さそうだから、言いたいことは分かるよね」
燐は分かっていないとばかりにからからと笑う。もちろん分かっていたが、彼女をここで逃がすわけにはいかない。
「いやあ、あたいってば頭の中がからっきし妖精風でさ。強そうなやつがいるから戦ってみないかと唆されてここまで来ただけなんだよ」
「嘘をつくな。わたしを見たとき、こいつはって目をしただろ。殺気ぎらぎらの気味悪い瞳だったよ。でもね、わたしはお前に恨みを買うような真似なんてしてないよ。いくら怨霊つきの猫だからって、難癖つけないでもらいたいね」
「恨みなんてないよ。ただね、お前に好き放題させるわけにはいかないんだよ」こんな危ないやつの封印を解いたと知られるのは困るのだ。「大人しくするか、それができないのなら巫女の前に突きだして、お前を封印することになるだろうね」
燐の言葉に、鵺的な何かは先程までの余裕をかなぐり捨て、怒りを露わにした。
「お前が! 妖怪がそれを言うのか! 封印されろと言うのか!」
その言葉を無視し、燐はもう一度針と怨霊による包囲を実行する。すると彼女はUFOを周りに生み出し、先ほどと同じように怨霊たちをレーザーで貫くと、体当たりで針を弾き飛ばす。それから燐の指を差して宣言した。
「気が変わった。お前は三味線の材料にしてやる。泣いたって喚いたって許してやるものか。かつて京をも脅かした鵺の力に、怯えながら死ね!」
鵺的な何か――否、もはや鵺と名乗った彼女は、手をあげるとUFOを横一列に並べる。これがナズーリンの言っていた幻かと思ったが、しかし不思議なものだ。
「正体不明の何かを生み出すとは聞いてたけど。これは面白いね」
UFOが見えるのは早苗が博麗神社に持ってきた怪奇ものの雑誌――どこかの雑貨屋で手に入れたらしい――を読んだ影響なのだろう。面白い趣向ではあるけれど、燐の心を乱すほどではない。寧ろこの程度のものとしか感じられない。心を読んで攻撃を仕掛ける専門家がごく間近にいるからだ。
「お前はさっきの童子みたいには驚かないんだね」燐の態度に、ぬえはいらっとした態度を示す。「まるであいつみたいだ。わくわくしてる。ますます気にくわないよ、お前」
鵺は手を上げると、UFOから柱に蛇の巻き付いたような光線を放ってくる。燐は先ほどナズーリンに使おうとした針山を再度、周囲に展開させて迎撃にかかる。ふわふわとした風船みたいなUFOなんて地獄の怨霊に比べればさしてのものではない。はたして無数の針を受け、UFOはぱちんぱちんと壊れていく。鵺も壊されるたびにUFOを補充するけれど、それよりも燐の怨霊が破壊するほうが早かった。
「撃ち合いとしぶとさではそうそう負けないってね。あ、言っとくけどさっき彼女に撃った不意打ちもあたいには効かないよ。じっくり観察させてもらったからね」
針を避けるのに精一杯できりきりしている鵺に、燐は虚勢を放つ。あいつは精神を司る妖だから気持ちで優位に立つ必要がある。そのためには嘘でもはったりでもなんでも打ってやるつもりだった。
「これでお終いかい? だとしたら、あとはわたしに大人しく打ちのめされるだけになるのだがね」そう言いながら、燐はちらと背後の気配を窺う。どうやらあの童子は必要なものを回収できたようだ。「そして、こちらには助っ人がやってきた。他にも後詰めに二人残してある」
だから後は痛めつけて、こんな悪戯は二度としないと誓わせるのみだと思った。そのとき、鵺の体からぶわりと冥い気配が滲み出してきた。ただならぬ妖気と感づいたときには、辺りはすっかりと得体のしれない闇に包み込まれており、そしてまるで祭りの日の街のように灯籠がぽつぽつと火を灯し……否、弾幕が縦横無尽とした道を表現し、ゆらゆらと揺れていた。
「これまた面妖な」追いついてきた一輪が眉を潜める。「上下左右にはしる弾幕、そしてこの闇。まるで夜の街に浮かぶ灯火のようだ」
どのような性質のものか計りたかったけれど、当然ながらその余裕は与えられなかった。上のほうから巨大な弾の塊が、まるで光線のように迫ってきたからだ。上下左右に展開された弾幕の揺らぎを縫い、辛うじて抜け出したものの、同じような弾幕が次から次へと迫ってきて息をつく暇さえなかった。
「まるで釣瓶打ちだ。こんなところ、さっさと抜け出してしまいたいけど」
暗闇が濃く空間を閉鎖しており、迂闊に動けないのだ。微かに光を放つ弾幕を頼りにちょいちょいと逃げるしかなかった。
「これまで饒舌だったあいつが一言も喋らない。本気でこちらを潰しにかかってるのかな?」
「かもしれない。だが、こっちも黙って攻撃を受けてやるつもりはない」
一輪は暗闇の中でも変わらぬ存在感を示す入道を生み出すと、一点に集中して暗闇を拳で穿っていく。間隙を埋めるように闇が充填されるけれど、入道はそれよりも早く闇を払い、縦横無尽に配置された弾幕は本来の動きでない揺らぎを見せ、今にも消えそうに喘いでいた。
「虎の子なスペルの割には大したことないな」
「そうだね……」
同意しかけ、燐は心の中で首を振る。暗闇を駆る技だけあって、昼間に扱うには限界のあるスペルなのかもしれない。しかし燐は三種類の光線を使い分け、一輪を見事に陥穽へと追いやったスペルワークを目撃していた。
わざわざふるわないスペルを使うならば、何らかの意図があるはずだ。そんな警戒と同時、闇と灯籠のような弾幕が一気に晴れた。辺りに鵺の姿はいない。逃げたのかと思う間もなく、上空に妖力の集う兆しが感じられ、燐と一輪は同時に上を向く。
寺の直上に、鵺はスペルを展開し終えて待ち構えていた。数十にも及ぶ弾幕の弓が燐と一輪のみならず、直下の全てに対して据えられていたのだ。
謀られたと思った。この晴天下に敢えて闇のスペルを使ったのは、直上に陣取りこちらを一気に殲滅する準備を整えるためだったのだ。
「源三位頼政の弓――あまり使いたくないスペルなんだけどね」
先ほどまでの不遜な態度が嘘のような暗い宣言とともに、鵺は号令を下すように手を振る。雨霰のような弾幕が燐や一輪、寺の施設全体に向けて轟々と降り注いでいく。
「さあ、頑張って受け止めないとみんな壊れちゃうよ。建物も、そしてお前たちも!」
言われるまでもなかった。燐は火焔の車輪を展開し、少しでも多くの矢を焼き払おうとするも、怨弓は正に雨の如く。自分の身は守ることができても、敷地全域をカバーできるほどではなかった。一輪は入道をできるだけ薄く広く展開して、かなりの範囲をカバーしているものの、いかんせん強度が足りないようだ。至るところを矢に貫かれ、流石の入道もどこか苦悶しているように見受けられた。
「どうせ駄目なんだ! だったらみんな壊してやる! お前たちから手を尽くしても守りきれずに寺を壊された苦悶を、わたしへの畏怖と恐怖を食らってやる!」
鵺が怒りにも八つ当たりにも似た声を張り上げると、矢の量はますます増え、恫喝にも似て満ちていく。これは拙いなんてものじゃなかった。露を払っているだけの自分は兎も角、一輪は入道の守りがあまり得られないいま、常に被弾の危機へと曝されているはずだ。
そのことを示すように、一輪が悲痛な声をあげる。横目で一瞬確認しただけだが、肩にまともに食らったらしい。再び法輪を落としそうになるが、唸るような気合いのこもった大声とともに強く握りしめ、離さなかった。
「怨みの矢に撃たれて哀れな身を地面に曝せ。血を流せ。のうのうと寺にこもるものたちよ、この憎しみのたけの強さを思い知るが良い!」
鵺が再度宣言すると、矢の速度が速まり、先ほどよりも深く入道の身を穿っていく。どうやらこの弓矢は鵺の恨み辛みの深さに応じてより強さを増していくらしい。彼女の瞳はぎらぎらと輝くようであり、のべつまくなしな怨みを感じさせる。怨霊を扱っている燐だから、その強大さは誰よりも強く理解できて。その恐ろしさに震え上がりそうだった。この憎しみを植え付けたのが自分の挑発であるから、後悔は尻尾の先にまで染みるようだった。
叫びにも似た大気の震えが空にはしり、入道の姿が一瞬はかき消えるほどに弱まった。直下の建物を見捨て、一輪の守りに専念しようと臍(ほぞ)を固めたそのとき、入道の体がみるみる濃くなり、紅潮したかのように赤くなっていく。寺の全域を覆っているのに、速度を増した弓矢も通さなくなった。何事かと思えば一輪が歯を食い縛り、怒りを剥き出しにして鵺の怨みと対峙していた。
「わたしたちの生き様を! のうのうなどという一語で片付けるな!」鵺の発言が余程、許せなかったのだろう。一輪は入道と同じくらいに顔を赤くし、冷静さをかなぐり捨てていた。「否、わたしに関してならば甘んじて受けようじゃないか。だが、それ以外のやつは駄目だ!」
「聖などという胡乱な人間に丸め込まれ、あまつさえ仏門に甘んじて降る輩が抜かすな!」
それが鵺にとっての最後の怨みだったのだろう。矢は更に数を増し、入道を刺し貫こうと気勢をあげる。しかしそれすらも赤みを増した入道を制することはできなかった。
「お前が! 何も知らないお前が聖を語るな!」
一輪の大口上には強烈な覇気が含まれていたのだろう。鵺は肩をびくりと震わせ、それと同時に怨弓の勢いが弱まり、その数もみるみる少なくなっていく。機会とみるや一輪は躊躇うことなく入道を攻撃に転じ、鵺に気の毒なほどのラッシュを見舞った。何発かをまともに受け、しかし老獪な彼女は一本調子の拳をするりとかわし、ふらふらと飛び去っていく。
否、ひらひらと墜落しようとしていた。燐はあんなもの放っておけば良いと思ったけれど、一輪は先程までの敵をひょいと拾い、地面にゆっくりと下ろした。
燐はその後を追って着地すると一息し、それから生来の癖で一輪の善行に茶々を入れる。
「さっきまであんなに腹を立てていたのに、助けちゃうんだ」
「腹なら今でも煮えくり返ってるよ。ただ、あそこまでのべつまくなしに恨み辛みをぶつけられちゃ――放っておけないよ。少なくとも聖ならそうするはずだから」
聖というのはナズーリンも使っていた名称だ。その響きからして尊称の類なのだろう。妖怪を仏の道につかせるほどなのだから、余程の高僧に違いない。
「その人だったら、この厄介者もきちんと躾けてくれるのかい?」
「聖は妖怪を躾ける訳じゃない。命蓮寺は妖怪奇術団ではないのだから。仏の道を説き、人間と妖怪が融和して生きる社会を打ち立てること――これが聖の願いだ」
どこぞのスキマ妖怪が聞いたら腹を立てそうな台詞だが、燐にはさして興味のないことだった。忌み嫌われて追いやられ、地底を心地の良い住処にしてきたものたちにとって、人間がしゃしゃり出てきて平等だのなんだの言われても釈迦に説法なのだ。
しかしその志は面白い。そして燐のような猫は愉快なことが大好きだ。だからここは黙して誰にも語らないことにした。主人がどのような判断をするかは分からないけれど、おそらく自分とさして考え方は変わらないだろう。主人は自然とペットに似るものだから。
そう判断したところで、燐はううんと苦しそうな声をあげる鵺に気付き、視線を寄せる。彼女は目を開いたかと思うと燐や一輪から素早く離れ、しかし力が入らないのか地面にぺたんと尻餅をつき、警戒の視線を向けてきた。
「逃げたいところだけど、もうぐうの音も出ない。そちらはわたしをどうしたいの? その猫が言った通りにわたしのことを再封印するの?」
「聖がそんなことをするわけがない。寧ろ聖にとって、お前みたいなきかん坊は大好物だろうな。寺へ入れと頻りに誘われるに違いない」
鵺は最初こそ嫌そうな顔をしたけれど、どこかに興味を覚えたらしく、一輪に期待するような眼差しを寄せる。
「そんなことあるものか。だって、わたしは……」鵺は何やら口を濁したあと、頭をがしがしと掻き毟り、首を大きく横に振ると最後の力を振り絞り、空へと逃げていった。「ちくしょー、また来るからな。せいぜい覚えてろー!」
何とも分かりやすい負け惜しみだったけれど、彼女からは先程までの身が竦まんほどの怨み辛みは感じられなかった。だからこそ一輪も今度は追いかけたりしなかったのだろう。
「結局のところ、何がしたかったんだろうな」
「さあね。案外、軽い悪戯が大事になって後に引けなくなったとか、そういうことじゃないかな」
空よりは賢いようだけど、妖怪である限りはどんなに賢くても愚かから逃れられないものだ。燐の主人でさえ、時に遊びや面白半分で人間を脅かそうとするのだ。
「すると最初にわたしがあそこまで動じなければ良かったのか。斯様な幻に騙される辺り、わたしはやはり修行が足りないのだな」
気落ちしてしまったのか、それともダメージの蓄積が今になって現れたのか、一輪は膝をがっくりとつき、溜息のような深呼吸を何度か繰り返した。
「やれやれ、もう膝にも力が入らない。怒りに任せて力を行使しすぎたのかね」
怒りが未熟さだとしても、今回はそのために助かったのだから気にすることはないと思うのだが、一輪にとってはそうでないらしい。おそらく、あの力を常に使えなければいけないという考えをするのだろうと思った。
「おっと、そうそう。今回は随分と助けられたな、礼を言う。寺に忍び込み、死体を失敬しようとしたのは見逃せないが、それも今回だけは不問に付そう」
燐は誤魔化すような笑いを装う。こちらとしては地底から出てきたものが悪さをしないと分かれば良かったのだ。もし悪さをするようなら、封印を解いた張本人である空、ひいては主のさとりにまで咎が拡がる可能性がある。それだけは防がなければならなかった。
しかし先程の鵺と、何よりも一輪の漢気を見る限り、おそらく問題はなさそうだった。
「では許しも出たところであたいは退散するけど。辛いなら寺の中まで運んであげようか?」
「いや、どうやら大丈夫そうだ」
そう言って一輪はひょこひょことこちらに近づいてくる橙とナズーリンを指差した。どうやらあちらでも割合に熾烈(しれつ)な戦いがあったらしい。橙とは互いに健闘を称え合いたかったけれど、するとこちらの事情を詳しく説明する羽目になるだろう。それは何となしに照れ臭く、だから燐はさっさと退散することにした。
「あちらの猫変化には挨拶していかなくても良いのか?」
「縁は異なもの味なもの。またどこかで会えるさね」所詮は行きずりの地上猫であり、同じ猫であっても繋がりは非常に薄い。境界の賢人が式であれば尚更のことだ。「あの子には急に用事ができたから帰ったと伝えておくれ」
それだけを言伝すると、燐は鳴き声をあげるのをぐっと堪え、地底へと続く空洞へ向かう。その途中に少しだけ、寺の見取りを確かめなかったのを後悔した。
「まあ良いか。人間なんてどこでも死ぬものだしね」
燐の冥い呟きと続く不吉な鳴き声は、いつにも増して愉快に地底を駆け巡っていった。
多々良小傘は引っかかっていた木の枝からようやく抜け出すと、大きく首を横に振った。
「あの猫と来たら小さいくせに物凄い力。わたしでなければ背骨が折れていたに違いないわ」
骨という言葉で傘の存在を思い出し、視線を左右に巡らせると近くの枝に逆さ吊りで引っかかっていた。小傘は茄子色の分身を手に取ると木の頂上に立ち、くるくると傘を回す。
「これも猫の体当たりのせいね。ああ、うらめしい、うらめしい。この怨み、あいつを驚かさなければ収まらないわ」
そこで小傘ははてなと首を傾げる。当初の目的は誰か人間を脅かすことだったような気がしたからだ。しかし、そのあいつが一体誰なのか、小傘にはちっとも思い出せなかった。
「うむむ、思い出せないなあ。それとも気のせいだったのかしら」
思い出せないなら大したことではないと自分に言い聞かせ、小傘はふらふらと風に舞っていく。そうして雲の彼方に姿を消した。
封獣ぬえは入道の拳で受けた傷を抱えながら、まるでUFOのようにふらふらと飛んでいた。
「あの入道女と来たら、プッツンしたら急にやばくなったなあ。ああいう真面目なのって怒らせるとやばいんだな」
ぬえはそのことを心に刻みつけ、まだ当分落ちそうにない太陽を疎ましく思う。早く夜になって欲しかった。己の過ちも何もかも、闇の中に叩き込んでしまいたかった。
「謝りたかっただけ、なんだけどな」
博麗の巫女に退治されかけたとき、聞かされたことがぬえの脳裏を過ぎる。
聖は妖怪の味方であり、自分のように封印された妖怪すら庇護する存在であること。その復活を自分はあろうことか妨害し、混乱を振りまいてしまったこと。
「おまけにこんなことまで起こしては、聖はいよいよわたしを許してくれないに違いない」
別に寺を住処にするような妖怪と馴れ合いたいわけではない。妖怪の味方をするような人間を邪魔したなんて風評が立てば、煩わしいことになると危惧しただけのことだ。聖本人に膝をつく気なんてさらさらなかった。それも今となってはあとの祭りだと、ぬえは小さく息をつく。
「一層のこと、地底にでも逃れようかな」
あそこなら忌み嫌われた妖怪が身を寄せても不自然ではない。
「でもあそこには脅かせる人間がいないんだよなあ」
はした妖怪を脅かしても良いけれど、人間ほど美味しくない。折角封印が解けて表に出られたのだから、食べるならばやはり人間の驚きや恐怖であるべきだ。
「ああもう、なんか棚からぼたもち的に全てが上手く行かないかなあ」
そんなことばかり考えていたから、ぬえは反対側から飛んでくる存在に気付かず、ぽよんと体をぶつけてしまった。
「もうっ、見えてるんならどいてよ!」
自分のことを棚に上げ、ぬえは怒りと共に声を張り上げ、それからゆっくりと顔を上げた。
「おいっすー、いま帰ったよってうわ!」寺の入口に立った村紗はぼろぼろの一輪を見て思わず後じさった。「そんな使い古した雑巾みたいになっちゃって、どうしたの?」
「妙ちきりんで滅法強いやつに襲われたんだ。何とか追い払えたんだが、こちらも無傷というわけにはいかなかった」
かくかくじかじかと事情を話せば、村紗は実に疑わしいばかりに眉をしかめた。
「ナズーリンと猫変化二匹ねえ。どうにも信じられない話だけど……まあ、わたしも他人のことは言えないか。それで、その二匹はどうしたの?」
「一匹は疚しいところがあったのか、姿を消すように地底へと戻っていったよ。もう一匹のほうだが、主だった人物が誰もいないと知り、後日訪れると丁重に頭を下げて帰っていった」
「境界の賢人の式、ねえ。聖が近々挨拶に行く予定だと話していたけど、向こうが焦れてしまったか。これはスケジュールを前倒ししないといけないかも。何しろ幻想郷の成り立ちを創った妖怪だもの。機嫌を損ねてしまっては色々と不都合がありそうじゃない?」
さもありなんと頷きかけ、一輪はそう言えばと村紗に訊ねる。
「ときに聖はどうしたんだ? 一緒じゃなかったのか?」
「いや、えっとそれがですねえ。そうそう、聖ったら人里の年寄り連中に捕まってね。何とも鬼気迫る世間話に引きずり込まれてしまい、すぐには帰れなくなったのよ。だから、わたしだけが先に帰ってきたのよ」
村紗はどこか隠し事をしているようであり、そもそも護衛だったら常に側にいるべきだと思うのだが、一輪は何も言わなかった。自分にはそれを口にする資格などないと思ったからだ。
「どうしたの、急に浮かない顔をして。もしかしてここまでぼろぼろにされたのは修行が足りないからだと思ってる?」
「そうだな。修行が足りないだけならまだ良いだろう」実際に一輪が足りないと思っているのは信心だった。「わたしはな、酷いやつだったのさ」
得体の知れぬものとして、怒り顔の菩薩様を思い浮かべてしまった。それが何を意味するか、鵺が弓矢のスペルを撃つときの口上で理解したのだ。
聖はかつて大事な肉親を失い、だというのに自分は寺を護りたいという一心で彼女を容赦なく追い込んだ。そのために聖は魔法使いとなり、後の苦しみを背負い込む羽目になった。そのことを聖が怒っているのではないかと、心のどこかで考えていたに違いなかった。
あの時のことを、まさか千年以上も引きずっているとは自分でも思わなかったけれど。
一輪は何とも恥じ入るような気持ちで俯き、そのことを知ってか知らずか、村紗は実にあっけらかんとした様子だった。
「わたしは一輪を酷いやつだと思ったことはないよ。聖ならば尚更のこと、それに一輪はぼろぼろになるまで寺を護ったんだから。何を言おうと思おうと責める奴なんていないし、そんなやつがいたらわたしの錨で月まで吹っ飛ばしてやるから」
細い腕に見せた微かな力こぶが何だか微笑ましくて。一輪は何とか息をついて気持ちをいなそうとする。しかし微妙に上手くいかなかった。
「まあお互いに積もる話もあるみたいだし、そんな体では立っているだけで辛いでしょ」
せめて聖が戻るまではここに立っていたかった。あるべき場所がここにあると示したかったからだ。しかしそのような気負いは必要なかった。風上からふわりと覚えのある心地良い気配が流れてきたからだ。
「丁度、聖も帰ってきたことだし」
聖はにこにこした様子でこちらに歩いてくる。そしてその後ろには何者かが……否、一輪はそいつが何者かをよく知っていた。先程までここにいて、寺を壊そうとした張本人だからだ。
「えっと、お帰りなさいませ」一輪は動揺を抑えつつ聖を迎え、それから隠れるようにして後ろに立つ鵺に鋭い視線を寄せる。彼女はべえっと舌を出してから聖の後ろに隠れてしまった。「それで、その……後ろの妖怪は?」
「ああ、この子ですね。随分とぼろぼろのようでしたから、介抱してあげたら急にわんわんと泣き出したのですよ。事情を訊いてみれば色々と不憫な事情があるようでして。過ちを償いたいと頻りに言うものですから置いてあげることにしました」
ほわほわとした聖の物言いに、一輪は腰が砕けそうだった。何のためにあそこまで必死になったのか。これではまるで茶番であり、目眩すら覚えて膝をつきそうになった。そんな一輪を見て、聖は目を丸く見開き、慌てて近づいてきた。
「酷い怪我を負っているではありませんか。どうしたのですか?」
「えっと、これは……」後ろに隠れている鵺がやりましたとぶちまけるのは簡単だろう。しかし、それでは色々なものが台無しになってしまうような気がして。一輪は村紗に目配せし、意を決して嘘をついた。「修行をしていたときにうっかり怪我をしてしまいまして」
決して上手くない嘘だったろう。だが、聖は咎めることなく一輪をぎゅっと抱きしめた。
「あまり無茶をしてはいけませんよ。一輪の真面目なところは好ましいと思いますが、度を超して根を詰めれば辛くなるだけですから」
かつて根を詰めすぎたせいで壊れかけたことなどまるでなかったように言われると、一輪の胸はちくんと痛んだ。包み込むように抱きしめられるのが心地良いから、余計にそう感じた。
「そうですね、以後気をつけます」
くぐもった声をあげ、一輪は聖に縋るようにしがみついた。このまま負ぶって運んでくれたら気持ち良いなと考えていたら、不意に手の甲がつねり上げられた。その痛みでお尻のほうから聖にしがみついているもう一人の存在に気付き、一輪は内心で溜息をつく。元凶のくせにいつのまにか聖にでれでれ懐いているのは非常に気に入らなかったけれど、ここで甘えきってしまうのは良くないと考え直すことができた。
あのときとは違うと分かっていても、それでも聖にだって弱さを吐露したくなるときがある。そんなとき、少しでも頼ってもらえるよう、整然として強くあるべきなのだ。だから一輪は聖から身を離し、しっかりと地面に立ってみせた。聖の苦笑するような表情を見て、一輪はこのような顔を、慌ただしさを、温もりを今度こそ護り続けたいなと心の底から思った。
橙はあれだけの立ち回りを見せながら、実質的に何もできなかったことに少しだけしょげていた。寺の妖怪たちがそんなに悪いものじゃないと分かったのは収穫だったけれど、さして有益な情報でもない。それに主人はどうしているのか、また殴られていないか――そのことが気になって、橙はなかなか八雲の庵に入ることができなかった。
そんな橙の気持ちを押したのは背後からの気配ない一声だった。
「遠慮しないで入ってくれば良いのよ」それは藍の主人である紫の声であった。辺りを見回しても姿はなく、かといってこのまま引き下がることも許されず、橙はそろりそろりと家に上がるしかなかった。そうして一部屋ずつ、怪物を怖れるように中を進むことしばし、中庭に面した部屋の一つで紫を見つけた。その膝にはぼろぼろの藍が、しかし健やかそうに寝息を立てていたのだった。
橙は目の前の光景が俄に想像できず、戸惑ったまま立ち尽くしていた。
そんな様子を藍の主人ほどの妖怪が気付かないわけもなく。
「そんなにびくびくしないで。こちらへいらっしゃいな」
先日の苛烈さが嘘のように優しげな声であった。彼女は笑うときでもどこか計算しているところがあって、橙にはそれがいつも怖いのだけれど。今日は本当に笑っているようであった。然るにとても機嫌が良いのだろう。
「あの、藍様はどうされたのですか?」
「虎の威を借る狐から、ちゃんとした狐になったのよ」よく分からないことを口にすると、紫は藍の尻尾をふわふわと撫でる。「まあ、その前にわたしの式なのだけどね」
二人の間に蟠っていたものはいつのまにか解けていたようであった。それでは何をしに偵察へ出かけたのか。橙はいよいよ自分のことが残念に思えてしょうがなかった。
そのような気持ちを察したのか、紫は藍の尻尾をぽんぽんと叩き、橙を誘った。
「あなたも見たところ、藍のために頑張ってくれたみたいだし」
色々と考えることはあるに違いない。でも、ふわふわの尻尾で眠る誘惑はいまの橙にとって抗いがたく。二人の仲が元通りになったならば、自分の頑張りなんてどうでも良い気もして。橙はもふりと尻尾に飛び込み、目を瞑る。
眠気が訪い始め、橙は柔らかな感触の中で思う。偵察は意味のないものだったけれど、寺で起きた出来事はどれも華々しいものであった。地底猫との友情に、あとは鼠変化と共闘して妙な唐傘を追いやったこと。そのことを後日に語ることができるだけでも、今日の価値はあったのではないだろうか。
目を覚ましたら、主人たちにこの小さな冒険を存分に語ろうと思った。きっと驚いてくれるに違いない。橙の心は俄な満足に満たされ、あっという間に穏やかな眠りへと落ちていった。
【Outro】
星が泣き疲れて眠ったのは、深夜も大分過ぎてからだった。最近は日の出の前に目覚め、日が落ちて少しもしないうちに寝ていたから、夜の夜というのは本当に久しぶりであった。
わたしは屋根の上に登ると、無数に煌めく星々と、半月に少し足りない月をぼんやりと眺める。そうしてこのような光景も実に久しぶりであることに気付く。かつては一日中起きていても、天の光を垣間見る余裕すらなかった。ただひたすらに方々を駆け巡り、誰かのためを続けていた。それがいくらでも大きく広げられそうで、わたしは完璧な充実と喜びを覚えていた。どんなに苦しくても疲れなど感じなかった。
しかし今日、わたしは重たさと疲れを覚えていた。未知の領域に踏み込んだのだからそのせいもあるかもしれないけれど、それにしても出し尽くした感じがする。
「ただ一方的に善意を押しつけるというのは、あんなにも軽いことだったのですね」そして双方向に触れ合おうと務めることの何と重たいことか。「わたしは正しくも完璧に間違えていた」
そのことを実感させてくれた彼女たちに対する感謝の念が、胸の奥からこんこんと湧いてくる。封印を解かれてすぐの頃は、もう一度地上に出てきて良かったのかと日々悩んだものだったけれど。この重たさがやり直せたことの意義をわたしの心に刻んでくれる。
「真に有り難いことです」
今でこそ普通に使われているけれど、ありがたいとは有るに難きという意味だ。
わたしは瓦の上に寝転がり、大きく欠伸をした。そして不意に、このまま眠っても良いのではないかという気がしたし、すぐに名案であると思った。この地が今やわたしの寝床である。わたしの暮らすべき世界である。
「今日は沢山の出会いがあった。既に出会っているものの心をより深く知ることができた。そうして出会い、知ることを続け、もしかするといつかは幻想郷に住むもの全てに繋がるかもしれない」それは素敵なことだとわたしは思う。「人間も、妖怪も、神も、全てが等しくわたしに繋がる。里も、山も、湖も、神社も、館も、ありとあらゆるものをわたしは知る。そうして全てを慈しみ、愛することができたならば」
きっと、世界はわたしのものだ。かつての確信がいま、より鮮やかで地についた形を伴ってわたしの中に現れるのを感じた。
「わたしがわたしだけであった世界は今や、広がり続けている。わたしはきっとどこまでも行ける。いや、行って見せましょう」
両手両足を大きく広げ、この郷に一つの世界があることを示す。そうして近くに遠くに思いを馳せながら、わたしはゆっくりと目を閉じるのだった。
終
「あいつが悪いんだ」
ぬえは強い視線を彼女に向ける。あいつがしかつめらしい様子で門番をしているから、少しだけからかいたくなったのだ。そうしたら彼女と来たら予想以上に怯え出して、それが面白いからつい羽目を外してしまったのだ。
続いてやって来た鼠変化にも悪戯したら、忌々しいことに童子を立ち直らせてしまい、撤退を余儀なくされた。その後、鼠変化が慌てて出て行ったから何事かと舞い戻ってみれば、今度は追い縋ってきた童子から攻撃を受ける始末だ。
「馬鹿馬鹿しくなってきたなあ。もう逃げちゃおうかなあ」
聖はいないのだから、そうしても別に構わなかった。それでも相手を続けているのは童子から得られる怯えや恐怖が美味しいからだ。最初ほど露骨ではなくなったけれど、彼女は未だに正体不明の種から怖れるべきものを垣間見ているらしい。一つ倒されると腹が満たされる。二つ倒されるとなお満たされる。この感覚は随分と久しぶりだったから、なかなかに離れられない。
これもひとえに、あの緑の巫女のせいだとぬえは思う。
あの緑の巫女と対決して以来、明らかに運気が落ちてしまい、脅かしの技が悉く外れを引き、あるいは少々のことでは動じない強者ばかりにぶち当たる始末だった。当の巫女本人には写真を撮られる、色々な服を着せられて可愛がられる、すると神社にいた神様たちが妙に苛々して睨みつけてきたものだからたまらない。そこで何かの呪いをかけられたに違いなかった。
それからもこちらの正体を明らかにしようとする天狗に散々つきまとわれる、竹林に逃れれば新しい食材になるかもと火で炙られかける、気配のまるで分からぬ少女に襲われて散々に脅かされるとひどいものだった。挙げ句の果てには聖を倒した紅白の巫女に祓われ、あわや封印再度という危機にまで陥ったのだ。
だが良いことも一つだけあった。聖の正体を知ることができたのだ。だからこそぬえは今日、この命蓮寺にやって来たのだった。しかしまだ不運は続いているらしい。
思い出すと途端に惨めな気持ちとなり、ぬえは自らの分身とも言える種たちを引っ込めた。このまま相手が疲弊するのを待っても良かったけど、気が変わった。一、二の、三ですっぱりと退場願おう。その隙に逃げて。
逃げてどうなるのかは分からなかった。でもここにはもう居たくなかった。
憤怒した菩薩様たちと唾競り合いを続けることしばし、一輪はおかしいと感じ始めていた。どちらも力を使いっぱなしだというのに、相手が一向に疲弊する気配すら見せないのだ。圧倒的な力の差という絶望的な考えが頭に浮かびかけ、すんでのところで首を振った。遊ばれているとは思いたくなかったのだ。
そんな一輪の願いを断ち切るように、鵺的な何かがすっと瞳の形を鋭くする。
「もう遊ぶのは飽きたから、さっさと終わらせることにしたよ」
一輪はぐっと歯を噛みしめる。一番言われたくないことを言われた。先程から見せたくないものを見せられているし、もしやこいつは他者の心を見透かせるのではないだろうか。そんな危惧を抱きながら、一輪は胸を張って相手を見据える。
「そんなに怖がってくれる相手との戦いをやめるのは勿体ないけど。それとも黙って逃がしてくれるのかい?」
「脅かしの法をもって寺社に入ろうとしたものをただで逃がすわけには行かないよ」
すると鵺的な何かは癇に触る出鱈目な笑い声をあげる。
「脅かしの法だって、馬鹿じゃないの? わたしがいつ、お前のことを脅かした? まあそういう性質のある攻撃をしたのは確かだけど」言いながら、鵺的な何かは腹を抱えてくつくつやりながら一輪を指差した。「でもね、一番悪いのはお前だよ。妖怪のくせに恐れるべき何かを胸に深く抱え込んでいるのが悪いんだ。先程から漏れ聞こえる言葉を繋ぎ合わせてみれば、どうやら仏の怒り姿らしいね。寺を護る童子が、不遜にも仏の怒りを垣間見るなんて。真面目そうな顔をしてお前はどれだけの破戒を繰り返してきた? どうして愚にもつかぬ恐怖を胸に溜め込んでいるんだい? 」
「そんなもの……」一輪の中にかつての情景がふと浮かび、蝋燭の炎のようにちりちりと燃え上がる。うっすらとした灯りに照らされ、浮かび上がるのは老いた聖の激しい怒りの顔であった。「違う、わたしは怖くなんかない!」
「嘘だね。いま動揺したよ。心が揺らぎ、怯え、わたしの腹が満たされた」言いながら鵺的な何かはスペルを宣言し、すると緑色に光る蛇のような光線が渦巻き、言葉の毒とともに一輪に差し向けられた。「何を見た? 何が怖い?」
一輪は意地の悪い軌道を持つ緑色の光線をすんでのところでかわし続ける。妙にくねくねしているが、速度は地を這う蛇と比べてもなお鈍重なくらいだ。しかし光線は一輪の心を読んだかのように、巧みに逃げ道を防ぎ、遂には一斉に襲い掛かってきた。かわしきれなかった一発が肩を掠り、思わず呻き声をあげる。その一瞬のうちに鵺的な何かは妖しげな暗闇を見出し、周囲に展開させていた。
「己の中に愚者を見よ。仏の道に背きし恥部を見よ!」
頭を突き刺すような嫌らしい声とともに、暗闇から雨のような黄色の光線が降り注いで来る。真昼であってもなお、あらゆるものを覆い隠し、目をくらまそうとゆらゆら揺れる。しかし先程の蛇に比べれば単純であるため、一度タイミングを掴めばかわすのは難しくなかった。だがほっとする気持ちにはなれなかった。明らかに手を抜かれ、遊ばれている。忌々しいと思う気持ちをなんとか収め、一輪はこんなもの余裕であるとばかりに宝輪を構え直す。
「こんな虚仮(こけ)威しで、どうにかなると思ったのか?」
虚勢とばれていることを半ば覚悟して言うと、鵺的な何かはきゃはきゃはと苛立たしい笑い声を立て、暗闇を払うと更に新たなスペルを取り出してみせた。
「さあて、お次はどうかな?」
次に彼女が生み出したのは蒼色の光線だった。その動きは緑色の光線みたく複雑ではなく、黄色の光線ほど早くもない。どんどんと攻撃の質が下がってきている。今度は初撃からあっさりと回避し、虚勢でないことを示すため、分かりやすい挑発を鵺的な何かに飛ばす。
「そんな、しょぼくれたレーザーばかり撃ってきて……」
そのとき、辺りの空気がぞわりと変化した。まずいと気付いたときには左右から強い力を受け、弾き飛ばされていた。歯を食い縛って痛みを堪え、目を見開くとレーザーがいつの間にか蛇に変化しており、次発を辛うじて避けると再びレーザーに形を変える。縦と横の動きが一瞬で切り替わる攻撃なのだと気付き、思わず舌を打つ。
曲芸のような蛇の動きののち、単純な攻撃が続いたから咄嗟に反応できなかったのだ。
反撃しようと手に力を込め、宝輪が失われていることに気付く。落下していく宝輪を追いかけようとしたが、待ち受けていたかのように蛇がレーザーへと再び姿を変え、一直線にこちらへと向かって来る。
こんな子供じみた陥穽(かんせい)さえ見抜けないとは。己の未熟さを嘆きながら、一輪は最後の矜恃(きょうじ)をもって鵺的な何かを睨みつける。
「それではさようなら、童子さん。妖怪だから死なないとは思うけど、死ぬほど痛いと思うよ」
さもありなん。一輪は完全に同意して頷き、レーザーがこの身を貫くのを黙して待ち。
その直前でするりと体が掠われた。
「ふう、危ない危ない。こういうの、人間の言葉で間一髪って言うんだっけ?」
何者かと視線を向ければ、暗い色調のひらひらした服を着た猫変化だった。地底にいた頃、何度か見かけたことがある。確か地霊殿子飼いの妖怪変化の一匹だったはずだ。
「自力で空を飛べるなら、そうしてくれないかな。お姉さん、ちょっとあちらの鵺的な何かに用事があってね」
猫変化は一輪の返事を待たずに手を離す。宝輪がないから落ち着かないけれど、何とか中空に姿勢を保つことはできた。
「事情は知らないが、かたじけない」冥い力の気配、身に帯びた怨霊からただならぬ目的を秘めているのだと思われたが、今は問い詰めなかった。正しく猫の手も借りたい状況だったからだ。「わたしも宝輪を回収したらすぐ駆けつける」
「らじゃった。あの鼠ちゃんはゆえあって別行動するけど、すぐに合流するとさ」
やはりナズーリンが何らかの手を打ったのだ。鼠がどうやって猫を説得し、こちら側に引き入れたかは知らないけれど、今はその采配を信じるしかない。
「あ、こら待て、逃げるな!」
鵺的な何かがこの混乱に乗じて逃げだそうとしたが、その前に怨霊猫が先手を打った。怨霊と針がその周囲を覆い、退路を封じたのだ。そのことを確認すると、一輪は失くしものを求めて地上に降りる。こういうときナズーリンがいてくれれば便利なのだが。
「別行動だなんて、何があったのだろうな」おそらくは今の状況と同じ重さをもって取りかかるべき何かなのだろう。そう思えるくらいには、一輪はナズーリンのことを信頼できるようになっていた。そしてふと、一つの考えが脳裏を過ぎる。「もしかするとあの時も、他の用事があって飛倉の破片を回収できなかったのかも」
一輪は束の間の思考を振り切ると、宝輪の回収に向かう。体のあちこちが痛むけれど、そんなものに構ってなどいられなかった。
鵺的な何かを取り囲んだ怨霊たちはじりじりと距離を詰めながら、中心に向けて収束していく。何をされているかも理解できないのか、彼女は突っ立ったままぴくりとも動こうとしない。
いきなり勝負が決まったかと思った瞬間、蛇のようなものがいくつも飛び出し、目を疑うようなものに変化したかと思えば、光線を発して怨霊を次々と撃ち抜き、針をなぎ倒して悠々と脱出した。こちらをからかうような笑みを浮かべるのも束の間、彼女は鬱陶しいものでも見るかのように目を細め、口元を窄めた。
「あのさ、わたしはもう飽きたんだよ。お前はあの童子より頭が良さそうだから、言いたいことは分かるよね」
燐は分かっていないとばかりにからからと笑う。もちろん分かっていたが、彼女をここで逃がすわけにはいかない。
「いやあ、あたいってば頭の中がからっきし妖精風でさ。強そうなやつがいるから戦ってみないかと唆されてここまで来ただけなんだよ」
「嘘をつくな。わたしを見たとき、こいつはって目をしただろ。殺気ぎらぎらの気味悪い瞳だったよ。でもね、わたしはお前に恨みを買うような真似なんてしてないよ。いくら怨霊つきの猫だからって、難癖つけないでもらいたいね」
「恨みなんてないよ。ただね、お前に好き放題させるわけにはいかないんだよ」こんな危ないやつの封印を解いたと知られるのは困るのだ。「大人しくするか、それができないのなら巫女の前に突きだして、お前を封印することになるだろうね」
燐の言葉に、鵺的な何かは先程までの余裕をかなぐり捨て、怒りを露わにした。
「お前が! 妖怪がそれを言うのか! 封印されろと言うのか!」
その言葉を無視し、燐はもう一度針と怨霊による包囲を実行する。すると彼女はUFOを周りに生み出し、先ほどと同じように怨霊たちをレーザーで貫くと、体当たりで針を弾き飛ばす。それから燐の指を差して宣言した。
「気が変わった。お前は三味線の材料にしてやる。泣いたって喚いたって許してやるものか。かつて京をも脅かした鵺の力に、怯えながら死ね!」
鵺的な何か――否、もはや鵺と名乗った彼女は、手をあげるとUFOを横一列に並べる。これがナズーリンの言っていた幻かと思ったが、しかし不思議なものだ。
「正体不明の何かを生み出すとは聞いてたけど。これは面白いね」
UFOが見えるのは早苗が博麗神社に持ってきた怪奇ものの雑誌――どこかの雑貨屋で手に入れたらしい――を読んだ影響なのだろう。面白い趣向ではあるけれど、燐の心を乱すほどではない。寧ろこの程度のものとしか感じられない。心を読んで攻撃を仕掛ける専門家がごく間近にいるからだ。
「お前はさっきの童子みたいには驚かないんだね」燐の態度に、ぬえはいらっとした態度を示す。「まるであいつみたいだ。わくわくしてる。ますます気にくわないよ、お前」
鵺は手を上げると、UFOから柱に蛇の巻き付いたような光線を放ってくる。燐は先ほどナズーリンに使おうとした針山を再度、周囲に展開させて迎撃にかかる。ふわふわとした風船みたいなUFOなんて地獄の怨霊に比べればさしてのものではない。はたして無数の針を受け、UFOはぱちんぱちんと壊れていく。鵺も壊されるたびにUFOを補充するけれど、それよりも燐の怨霊が破壊するほうが早かった。
「撃ち合いとしぶとさではそうそう負けないってね。あ、言っとくけどさっき彼女に撃った不意打ちもあたいには効かないよ。じっくり観察させてもらったからね」
針を避けるのに精一杯できりきりしている鵺に、燐は虚勢を放つ。あいつは精神を司る妖だから気持ちで優位に立つ必要がある。そのためには嘘でもはったりでもなんでも打ってやるつもりだった。
「これでお終いかい? だとしたら、あとはわたしに大人しく打ちのめされるだけになるのだがね」そう言いながら、燐はちらと背後の気配を窺う。どうやらあの童子は必要なものを回収できたようだ。「そして、こちらには助っ人がやってきた。他にも後詰めに二人残してある」
だから後は痛めつけて、こんな悪戯は二度としないと誓わせるのみだと思った。そのとき、鵺の体からぶわりと冥い気配が滲み出してきた。ただならぬ妖気と感づいたときには、辺りはすっかりと得体のしれない闇に包み込まれており、そしてまるで祭りの日の街のように灯籠がぽつぽつと火を灯し……否、弾幕が縦横無尽とした道を表現し、ゆらゆらと揺れていた。
「これまた面妖な」追いついてきた一輪が眉を潜める。「上下左右にはしる弾幕、そしてこの闇。まるで夜の街に浮かぶ灯火のようだ」
どのような性質のものか計りたかったけれど、当然ながらその余裕は与えられなかった。上のほうから巨大な弾の塊が、まるで光線のように迫ってきたからだ。上下左右に展開された弾幕の揺らぎを縫い、辛うじて抜け出したものの、同じような弾幕が次から次へと迫ってきて息をつく暇さえなかった。
「まるで釣瓶打ちだ。こんなところ、さっさと抜け出してしまいたいけど」
暗闇が濃く空間を閉鎖しており、迂闊に動けないのだ。微かに光を放つ弾幕を頼りにちょいちょいと逃げるしかなかった。
「これまで饒舌だったあいつが一言も喋らない。本気でこちらを潰しにかかってるのかな?」
「かもしれない。だが、こっちも黙って攻撃を受けてやるつもりはない」
一輪は暗闇の中でも変わらぬ存在感を示す入道を生み出すと、一点に集中して暗闇を拳で穿っていく。間隙を埋めるように闇が充填されるけれど、入道はそれよりも早く闇を払い、縦横無尽に配置された弾幕は本来の動きでない揺らぎを見せ、今にも消えそうに喘いでいた。
「虎の子なスペルの割には大したことないな」
「そうだね……」
同意しかけ、燐は心の中で首を振る。暗闇を駆る技だけあって、昼間に扱うには限界のあるスペルなのかもしれない。しかし燐は三種類の光線を使い分け、一輪を見事に陥穽へと追いやったスペルワークを目撃していた。
わざわざふるわないスペルを使うならば、何らかの意図があるはずだ。そんな警戒と同時、闇と灯籠のような弾幕が一気に晴れた。辺りに鵺の姿はいない。逃げたのかと思う間もなく、上空に妖力の集う兆しが感じられ、燐と一輪は同時に上を向く。
寺の直上に、鵺はスペルを展開し終えて待ち構えていた。数十にも及ぶ弾幕の弓が燐と一輪のみならず、直下の全てに対して据えられていたのだ。
謀られたと思った。この晴天下に敢えて闇のスペルを使ったのは、直上に陣取りこちらを一気に殲滅する準備を整えるためだったのだ。
「源三位頼政の弓――あまり使いたくないスペルなんだけどね」
先ほどまでの不遜な態度が嘘のような暗い宣言とともに、鵺は号令を下すように手を振る。雨霰のような弾幕が燐や一輪、寺の施設全体に向けて轟々と降り注いでいく。
「さあ、頑張って受け止めないとみんな壊れちゃうよ。建物も、そしてお前たちも!」
言われるまでもなかった。燐は火焔の車輪を展開し、少しでも多くの矢を焼き払おうとするも、怨弓は正に雨の如く。自分の身は守ることができても、敷地全域をカバーできるほどではなかった。一輪は入道をできるだけ薄く広く展開して、かなりの範囲をカバーしているものの、いかんせん強度が足りないようだ。至るところを矢に貫かれ、流石の入道もどこか苦悶しているように見受けられた。
「どうせ駄目なんだ! だったらみんな壊してやる! お前たちから手を尽くしても守りきれずに寺を壊された苦悶を、わたしへの畏怖と恐怖を食らってやる!」
鵺が怒りにも八つ当たりにも似た声を張り上げると、矢の量はますます増え、恫喝にも似て満ちていく。これは拙いなんてものじゃなかった。露を払っているだけの自分は兎も角、一輪は入道の守りがあまり得られないいま、常に被弾の危機へと曝されているはずだ。
そのことを示すように、一輪が悲痛な声をあげる。横目で一瞬確認しただけだが、肩にまともに食らったらしい。再び法輪を落としそうになるが、唸るような気合いのこもった大声とともに強く握りしめ、離さなかった。
「怨みの矢に撃たれて哀れな身を地面に曝せ。血を流せ。のうのうと寺にこもるものたちよ、この憎しみのたけの強さを思い知るが良い!」
鵺が再度宣言すると、矢の速度が速まり、先ほどよりも深く入道の身を穿っていく。どうやらこの弓矢は鵺の恨み辛みの深さに応じてより強さを増していくらしい。彼女の瞳はぎらぎらと輝くようであり、のべつまくなしな怨みを感じさせる。怨霊を扱っている燐だから、その強大さは誰よりも強く理解できて。その恐ろしさに震え上がりそうだった。この憎しみを植え付けたのが自分の挑発であるから、後悔は尻尾の先にまで染みるようだった。
叫びにも似た大気の震えが空にはしり、入道の姿が一瞬はかき消えるほどに弱まった。直下の建物を見捨て、一輪の守りに専念しようと臍(ほぞ)を固めたそのとき、入道の体がみるみる濃くなり、紅潮したかのように赤くなっていく。寺の全域を覆っているのに、速度を増した弓矢も通さなくなった。何事かと思えば一輪が歯を食い縛り、怒りを剥き出しにして鵺の怨みと対峙していた。
「わたしたちの生き様を! のうのうなどという一語で片付けるな!」鵺の発言が余程、許せなかったのだろう。一輪は入道と同じくらいに顔を赤くし、冷静さをかなぐり捨てていた。「否、わたしに関してならば甘んじて受けようじゃないか。だが、それ以外のやつは駄目だ!」
「聖などという胡乱な人間に丸め込まれ、あまつさえ仏門に甘んじて降る輩が抜かすな!」
それが鵺にとっての最後の怨みだったのだろう。矢は更に数を増し、入道を刺し貫こうと気勢をあげる。しかしそれすらも赤みを増した入道を制することはできなかった。
「お前が! 何も知らないお前が聖を語るな!」
一輪の大口上には強烈な覇気が含まれていたのだろう。鵺は肩をびくりと震わせ、それと同時に怨弓の勢いが弱まり、その数もみるみる少なくなっていく。機会とみるや一輪は躊躇うことなく入道を攻撃に転じ、鵺に気の毒なほどのラッシュを見舞った。何発かをまともに受け、しかし老獪な彼女は一本調子の拳をするりとかわし、ふらふらと飛び去っていく。
否、ひらひらと墜落しようとしていた。燐はあんなもの放っておけば良いと思ったけれど、一輪は先程までの敵をひょいと拾い、地面にゆっくりと下ろした。
燐はその後を追って着地すると一息し、それから生来の癖で一輪の善行に茶々を入れる。
「さっきまであんなに腹を立てていたのに、助けちゃうんだ」
「腹なら今でも煮えくり返ってるよ。ただ、あそこまでのべつまくなしに恨み辛みをぶつけられちゃ――放っておけないよ。少なくとも聖ならそうするはずだから」
聖というのはナズーリンも使っていた名称だ。その響きからして尊称の類なのだろう。妖怪を仏の道につかせるほどなのだから、余程の高僧に違いない。
「その人だったら、この厄介者もきちんと躾けてくれるのかい?」
「聖は妖怪を躾ける訳じゃない。命蓮寺は妖怪奇術団ではないのだから。仏の道を説き、人間と妖怪が融和して生きる社会を打ち立てること――これが聖の願いだ」
どこぞのスキマ妖怪が聞いたら腹を立てそうな台詞だが、燐にはさして興味のないことだった。忌み嫌われて追いやられ、地底を心地の良い住処にしてきたものたちにとって、人間がしゃしゃり出てきて平等だのなんだの言われても釈迦に説法なのだ。
しかしその志は面白い。そして燐のような猫は愉快なことが大好きだ。だからここは黙して誰にも語らないことにした。主人がどのような判断をするかは分からないけれど、おそらく自分とさして考え方は変わらないだろう。主人は自然とペットに似るものだから。
そう判断したところで、燐はううんと苦しそうな声をあげる鵺に気付き、視線を寄せる。彼女は目を開いたかと思うと燐や一輪から素早く離れ、しかし力が入らないのか地面にぺたんと尻餅をつき、警戒の視線を向けてきた。
「逃げたいところだけど、もうぐうの音も出ない。そちらはわたしをどうしたいの? その猫が言った通りにわたしのことを再封印するの?」
「聖がそんなことをするわけがない。寧ろ聖にとって、お前みたいなきかん坊は大好物だろうな。寺へ入れと頻りに誘われるに違いない」
鵺は最初こそ嫌そうな顔をしたけれど、どこかに興味を覚えたらしく、一輪に期待するような眼差しを寄せる。
「そんなことあるものか。だって、わたしは……」鵺は何やら口を濁したあと、頭をがしがしと掻き毟り、首を大きく横に振ると最後の力を振り絞り、空へと逃げていった。「ちくしょー、また来るからな。せいぜい覚えてろー!」
何とも分かりやすい負け惜しみだったけれど、彼女からは先程までの身が竦まんほどの怨み辛みは感じられなかった。だからこそ一輪も今度は追いかけたりしなかったのだろう。
「結局のところ、何がしたかったんだろうな」
「さあね。案外、軽い悪戯が大事になって後に引けなくなったとか、そういうことじゃないかな」
空よりは賢いようだけど、妖怪である限りはどんなに賢くても愚かから逃れられないものだ。燐の主人でさえ、時に遊びや面白半分で人間を脅かそうとするのだ。
「すると最初にわたしがあそこまで動じなければ良かったのか。斯様な幻に騙される辺り、わたしはやはり修行が足りないのだな」
気落ちしてしまったのか、それともダメージの蓄積が今になって現れたのか、一輪は膝をがっくりとつき、溜息のような深呼吸を何度か繰り返した。
「やれやれ、もう膝にも力が入らない。怒りに任せて力を行使しすぎたのかね」
怒りが未熟さだとしても、今回はそのために助かったのだから気にすることはないと思うのだが、一輪にとってはそうでないらしい。おそらく、あの力を常に使えなければいけないという考えをするのだろうと思った。
「おっと、そうそう。今回は随分と助けられたな、礼を言う。寺に忍び込み、死体を失敬しようとしたのは見逃せないが、それも今回だけは不問に付そう」
燐は誤魔化すような笑いを装う。こちらとしては地底から出てきたものが悪さをしないと分かれば良かったのだ。もし悪さをするようなら、封印を解いた張本人である空、ひいては主のさとりにまで咎が拡がる可能性がある。それだけは防がなければならなかった。
しかし先程の鵺と、何よりも一輪の漢気を見る限り、おそらく問題はなさそうだった。
「では許しも出たところであたいは退散するけど。辛いなら寺の中まで運んであげようか?」
「いや、どうやら大丈夫そうだ」
そう言って一輪はひょこひょことこちらに近づいてくる橙とナズーリンを指差した。どうやらあちらでも割合に熾烈(しれつ)な戦いがあったらしい。橙とは互いに健闘を称え合いたかったけれど、するとこちらの事情を詳しく説明する羽目になるだろう。それは何となしに照れ臭く、だから燐はさっさと退散することにした。
「あちらの猫変化には挨拶していかなくても良いのか?」
「縁は異なもの味なもの。またどこかで会えるさね」所詮は行きずりの地上猫であり、同じ猫であっても繋がりは非常に薄い。境界の賢人が式であれば尚更のことだ。「あの子には急に用事ができたから帰ったと伝えておくれ」
それだけを言伝すると、燐は鳴き声をあげるのをぐっと堪え、地底へと続く空洞へ向かう。その途中に少しだけ、寺の見取りを確かめなかったのを後悔した。
「まあ良いか。人間なんてどこでも死ぬものだしね」
燐の冥い呟きと続く不吉な鳴き声は、いつにも増して愉快に地底を駆け巡っていった。
多々良小傘は引っかかっていた木の枝からようやく抜け出すと、大きく首を横に振った。
「あの猫と来たら小さいくせに物凄い力。わたしでなければ背骨が折れていたに違いないわ」
骨という言葉で傘の存在を思い出し、視線を左右に巡らせると近くの枝に逆さ吊りで引っかかっていた。小傘は茄子色の分身を手に取ると木の頂上に立ち、くるくると傘を回す。
「これも猫の体当たりのせいね。ああ、うらめしい、うらめしい。この怨み、あいつを驚かさなければ収まらないわ」
そこで小傘ははてなと首を傾げる。当初の目的は誰か人間を脅かすことだったような気がしたからだ。しかし、そのあいつが一体誰なのか、小傘にはちっとも思い出せなかった。
「うむむ、思い出せないなあ。それとも気のせいだったのかしら」
思い出せないなら大したことではないと自分に言い聞かせ、小傘はふらふらと風に舞っていく。そうして雲の彼方に姿を消した。
封獣ぬえは入道の拳で受けた傷を抱えながら、まるでUFOのようにふらふらと飛んでいた。
「あの入道女と来たら、プッツンしたら急にやばくなったなあ。ああいう真面目なのって怒らせるとやばいんだな」
ぬえはそのことを心に刻みつけ、まだ当分落ちそうにない太陽を疎ましく思う。早く夜になって欲しかった。己の過ちも何もかも、闇の中に叩き込んでしまいたかった。
「謝りたかっただけ、なんだけどな」
博麗の巫女に退治されかけたとき、聞かされたことがぬえの脳裏を過ぎる。
聖は妖怪の味方であり、自分のように封印された妖怪すら庇護する存在であること。その復活を自分はあろうことか妨害し、混乱を振りまいてしまったこと。
「おまけにこんなことまで起こしては、聖はいよいよわたしを許してくれないに違いない」
別に寺を住処にするような妖怪と馴れ合いたいわけではない。妖怪の味方をするような人間を邪魔したなんて風評が立てば、煩わしいことになると危惧しただけのことだ。聖本人に膝をつく気なんてさらさらなかった。それも今となってはあとの祭りだと、ぬえは小さく息をつく。
「一層のこと、地底にでも逃れようかな」
あそこなら忌み嫌われた妖怪が身を寄せても不自然ではない。
「でもあそこには脅かせる人間がいないんだよなあ」
はした妖怪を脅かしても良いけれど、人間ほど美味しくない。折角封印が解けて表に出られたのだから、食べるならばやはり人間の驚きや恐怖であるべきだ。
「ああもう、なんか棚からぼたもち的に全てが上手く行かないかなあ」
そんなことばかり考えていたから、ぬえは反対側から飛んでくる存在に気付かず、ぽよんと体をぶつけてしまった。
「もうっ、見えてるんならどいてよ!」
自分のことを棚に上げ、ぬえは怒りと共に声を張り上げ、それからゆっくりと顔を上げた。
「おいっすー、いま帰ったよってうわ!」寺の入口に立った村紗はぼろぼろの一輪を見て思わず後じさった。「そんな使い古した雑巾みたいになっちゃって、どうしたの?」
「妙ちきりんで滅法強いやつに襲われたんだ。何とか追い払えたんだが、こちらも無傷というわけにはいかなかった」
かくかくじかじかと事情を話せば、村紗は実に疑わしいばかりに眉をしかめた。
「ナズーリンと猫変化二匹ねえ。どうにも信じられない話だけど……まあ、わたしも他人のことは言えないか。それで、その二匹はどうしたの?」
「一匹は疚しいところがあったのか、姿を消すように地底へと戻っていったよ。もう一匹のほうだが、主だった人物が誰もいないと知り、後日訪れると丁重に頭を下げて帰っていった」
「境界の賢人の式、ねえ。聖が近々挨拶に行く予定だと話していたけど、向こうが焦れてしまったか。これはスケジュールを前倒ししないといけないかも。何しろ幻想郷の成り立ちを創った妖怪だもの。機嫌を損ねてしまっては色々と不都合がありそうじゃない?」
さもありなんと頷きかけ、一輪はそう言えばと村紗に訊ねる。
「ときに聖はどうしたんだ? 一緒じゃなかったのか?」
「いや、えっとそれがですねえ。そうそう、聖ったら人里の年寄り連中に捕まってね。何とも鬼気迫る世間話に引きずり込まれてしまい、すぐには帰れなくなったのよ。だから、わたしだけが先に帰ってきたのよ」
村紗はどこか隠し事をしているようであり、そもそも護衛だったら常に側にいるべきだと思うのだが、一輪は何も言わなかった。自分にはそれを口にする資格などないと思ったからだ。
「どうしたの、急に浮かない顔をして。もしかしてここまでぼろぼろにされたのは修行が足りないからだと思ってる?」
「そうだな。修行が足りないだけならまだ良いだろう」実際に一輪が足りないと思っているのは信心だった。「わたしはな、酷いやつだったのさ」
得体の知れぬものとして、怒り顔の菩薩様を思い浮かべてしまった。それが何を意味するか、鵺が弓矢のスペルを撃つときの口上で理解したのだ。
聖はかつて大事な肉親を失い、だというのに自分は寺を護りたいという一心で彼女を容赦なく追い込んだ。そのために聖は魔法使いとなり、後の苦しみを背負い込む羽目になった。そのことを聖が怒っているのではないかと、心のどこかで考えていたに違いなかった。
あの時のことを、まさか千年以上も引きずっているとは自分でも思わなかったけれど。
一輪は何とも恥じ入るような気持ちで俯き、そのことを知ってか知らずか、村紗は実にあっけらかんとした様子だった。
「わたしは一輪を酷いやつだと思ったことはないよ。聖ならば尚更のこと、それに一輪はぼろぼろになるまで寺を護ったんだから。何を言おうと思おうと責める奴なんていないし、そんなやつがいたらわたしの錨で月まで吹っ飛ばしてやるから」
細い腕に見せた微かな力こぶが何だか微笑ましくて。一輪は何とか息をついて気持ちをいなそうとする。しかし微妙に上手くいかなかった。
「まあお互いに積もる話もあるみたいだし、そんな体では立っているだけで辛いでしょ」
せめて聖が戻るまではここに立っていたかった。あるべき場所がここにあると示したかったからだ。しかしそのような気負いは必要なかった。風上からふわりと覚えのある心地良い気配が流れてきたからだ。
「丁度、聖も帰ってきたことだし」
聖はにこにこした様子でこちらに歩いてくる。そしてその後ろには何者かが……否、一輪はそいつが何者かをよく知っていた。先程までここにいて、寺を壊そうとした張本人だからだ。
「えっと、お帰りなさいませ」一輪は動揺を抑えつつ聖を迎え、それから隠れるようにして後ろに立つ鵺に鋭い視線を寄せる。彼女はべえっと舌を出してから聖の後ろに隠れてしまった。「それで、その……後ろの妖怪は?」
「ああ、この子ですね。随分とぼろぼろのようでしたから、介抱してあげたら急にわんわんと泣き出したのですよ。事情を訊いてみれば色々と不憫な事情があるようでして。過ちを償いたいと頻りに言うものですから置いてあげることにしました」
ほわほわとした聖の物言いに、一輪は腰が砕けそうだった。何のためにあそこまで必死になったのか。これではまるで茶番であり、目眩すら覚えて膝をつきそうになった。そんな一輪を見て、聖は目を丸く見開き、慌てて近づいてきた。
「酷い怪我を負っているではありませんか。どうしたのですか?」
「えっと、これは……」後ろに隠れている鵺がやりましたとぶちまけるのは簡単だろう。しかし、それでは色々なものが台無しになってしまうような気がして。一輪は村紗に目配せし、意を決して嘘をついた。「修行をしていたときにうっかり怪我をしてしまいまして」
決して上手くない嘘だったろう。だが、聖は咎めることなく一輪をぎゅっと抱きしめた。
「あまり無茶をしてはいけませんよ。一輪の真面目なところは好ましいと思いますが、度を超して根を詰めれば辛くなるだけですから」
かつて根を詰めすぎたせいで壊れかけたことなどまるでなかったように言われると、一輪の胸はちくんと痛んだ。包み込むように抱きしめられるのが心地良いから、余計にそう感じた。
「そうですね、以後気をつけます」
くぐもった声をあげ、一輪は聖に縋るようにしがみついた。このまま負ぶって運んでくれたら気持ち良いなと考えていたら、不意に手の甲がつねり上げられた。その痛みでお尻のほうから聖にしがみついているもう一人の存在に気付き、一輪は内心で溜息をつく。元凶のくせにいつのまにか聖にでれでれ懐いているのは非常に気に入らなかったけれど、ここで甘えきってしまうのは良くないと考え直すことができた。
あのときとは違うと分かっていても、それでも聖にだって弱さを吐露したくなるときがある。そんなとき、少しでも頼ってもらえるよう、整然として強くあるべきなのだ。だから一輪は聖から身を離し、しっかりと地面に立ってみせた。聖の苦笑するような表情を見て、一輪はこのような顔を、慌ただしさを、温もりを今度こそ護り続けたいなと心の底から思った。
橙はあれだけの立ち回りを見せながら、実質的に何もできなかったことに少しだけしょげていた。寺の妖怪たちがそんなに悪いものじゃないと分かったのは収穫だったけれど、さして有益な情報でもない。それに主人はどうしているのか、また殴られていないか――そのことが気になって、橙はなかなか八雲の庵に入ることができなかった。
そんな橙の気持ちを押したのは背後からの気配ない一声だった。
「遠慮しないで入ってくれば良いのよ」それは藍の主人である紫の声であった。辺りを見回しても姿はなく、かといってこのまま引き下がることも許されず、橙はそろりそろりと家に上がるしかなかった。そうして一部屋ずつ、怪物を怖れるように中を進むことしばし、中庭に面した部屋の一つで紫を見つけた。その膝にはぼろぼろの藍が、しかし健やかそうに寝息を立てていたのだった。
橙は目の前の光景が俄に想像できず、戸惑ったまま立ち尽くしていた。
そんな様子を藍の主人ほどの妖怪が気付かないわけもなく。
「そんなにびくびくしないで。こちらへいらっしゃいな」
先日の苛烈さが嘘のように優しげな声であった。彼女は笑うときでもどこか計算しているところがあって、橙にはそれがいつも怖いのだけれど。今日は本当に笑っているようであった。然るにとても機嫌が良いのだろう。
「あの、藍様はどうされたのですか?」
「虎の威を借る狐から、ちゃんとした狐になったのよ」よく分からないことを口にすると、紫は藍の尻尾をふわふわと撫でる。「まあ、その前にわたしの式なのだけどね」
二人の間に蟠っていたものはいつのまにか解けていたようであった。それでは何をしに偵察へ出かけたのか。橙はいよいよ自分のことが残念に思えてしょうがなかった。
そのような気持ちを察したのか、紫は藍の尻尾をぽんぽんと叩き、橙を誘った。
「あなたも見たところ、藍のために頑張ってくれたみたいだし」
色々と考えることはあるに違いない。でも、ふわふわの尻尾で眠る誘惑はいまの橙にとって抗いがたく。二人の仲が元通りになったならば、自分の頑張りなんてどうでも良い気もして。橙はもふりと尻尾に飛び込み、目を瞑る。
眠気が訪い始め、橙は柔らかな感触の中で思う。偵察は意味のないものだったけれど、寺で起きた出来事はどれも華々しいものであった。地底猫との友情に、あとは鼠変化と共闘して妙な唐傘を追いやったこと。そのことを後日に語ることができるだけでも、今日の価値はあったのではないだろうか。
目を覚ましたら、主人たちにこの小さな冒険を存分に語ろうと思った。きっと驚いてくれるに違いない。橙の心は俄な満足に満たされ、あっという間に穏やかな眠りへと落ちていった。
【Outro】
星が泣き疲れて眠ったのは、深夜も大分過ぎてからだった。最近は日の出の前に目覚め、日が落ちて少しもしないうちに寝ていたから、夜の夜というのは本当に久しぶりであった。
わたしは屋根の上に登ると、無数に煌めく星々と、半月に少し足りない月をぼんやりと眺める。そうしてこのような光景も実に久しぶりであることに気付く。かつては一日中起きていても、天の光を垣間見る余裕すらなかった。ただひたすらに方々を駆け巡り、誰かのためを続けていた。それがいくらでも大きく広げられそうで、わたしは完璧な充実と喜びを覚えていた。どんなに苦しくても疲れなど感じなかった。
しかし今日、わたしは重たさと疲れを覚えていた。未知の領域に踏み込んだのだからそのせいもあるかもしれないけれど、それにしても出し尽くした感じがする。
「ただ一方的に善意を押しつけるというのは、あんなにも軽いことだったのですね」そして双方向に触れ合おうと務めることの何と重たいことか。「わたしは正しくも完璧に間違えていた」
そのことを実感させてくれた彼女たちに対する感謝の念が、胸の奥からこんこんと湧いてくる。封印を解かれてすぐの頃は、もう一度地上に出てきて良かったのかと日々悩んだものだったけれど。この重たさがやり直せたことの意義をわたしの心に刻んでくれる。
「真に有り難いことです」
今でこそ普通に使われているけれど、ありがたいとは有るに難きという意味だ。
わたしは瓦の上に寝転がり、大きく欠伸をした。そして不意に、このまま眠っても良いのではないかという気がしたし、すぐに名案であると思った。この地が今やわたしの寝床である。わたしの暮らすべき世界である。
「今日は沢山の出会いがあった。既に出会っているものの心をより深く知ることができた。そうして出会い、知ることを続け、もしかするといつかは幻想郷に住むもの全てに繋がるかもしれない」それは素敵なことだとわたしは思う。「人間も、妖怪も、神も、全てが等しくわたしに繋がる。里も、山も、湖も、神社も、館も、ありとあらゆるものをわたしは知る。そうして全てを慈しみ、愛することができたならば」
きっと、世界はわたしのものだ。かつての確信がいま、より鮮やかで地についた形を伴ってわたしの中に現れるのを感じた。
「わたしがわたしだけであった世界は今や、広がり続けている。わたしはきっとどこまでも行ける。いや、行って見せましょう」
両手両足を大きく広げ、この郷に一つの世界があることを示す。そうして近くに遠くに思いを馳せながら、わたしはゆっくりと目を閉じるのだった。
終
白蓮さん 後編 一覧
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