東方二次小説

聖白蓮さん、あなたに仏のお恵みを白蓮さん 後編   白蓮さん後編 第6話

所属カテゴリー: 聖白蓮さん、あなたに仏のお恵みを白蓮さん 後編

公開日:2016年01月28日 / 最終更新日:2016年01月28日

 その夜は聖の住む離れの院に、寝ずの番として立った。魔法の力で眠らずにいた反動が一気に来たためか、聖が泥のような眠りについてしまったからだ。寺はおそらく不届きな兵士たちで囲まれており、不埒な輩が出没しないとも限らない。最後の奉公になるかもしれないという悲しみを必死で押し殺し、わたしは鼠一匹入らぬよう、比喩なしに眼を光らせていた。
すると本当に鼠が一匹やってきた。
「聖なら久方ぶりに眠りを享受されています。束の間の休息かもしれませんが、できる限り取らせてやりたいのです」
「起こすつもりはありません。ただ、ご主人に一つ知らせたいことがありまして。聖の処遇についてです」
「調べてくれたのですか?」
「良い知らせではありませんよ?」
「構いません。それで聖は処断されるのですか?」
「そう主張するものもいましたが、かつて命蓮上人が醍醐帝を快癒せしめた功績を考慮し、流刑ということになりました」
「流刑、ですか?」貴人への罪としては最も重いが、殺されるというわけではない。それは何よりも有り難い希望であった。「それでどちらへ? 佐渡ですか? 隠岐ですか?」
「法界」ナズーリンはまるで聞き慣れない地名をさらりと口にした。「人間の術師が強い力を得るために手を伸ばす異界のことを指すそうです。ご主人には魔界と言ったほうが分かりやすいでしょうか?」
 魔界はかつてわたしや聖が冒険を繰り広げた世界のことである。かつて積極的に求めた場所へと追い立てられる羽目になるとは、何とも皮肉なことであった。
「人間たちは法界への門を開き、鬼にすら施されないほどの厳重な封印を聖にかける手筈を整えています。聖は時代に咲いた徒花として隠されてしまうのです」
 どこか芝居じみた言い方をすると、ナズーリンは次にわたしを強く見据えてきた。
「それともう一つ。人間たちは寺にいる妖怪を退治するつもりです」
「なんだって? 奴らはそんなこと、何も言ってませんでしたよ」
「斯様なやり口の輩どもです。立てられる手柄は一つも見逃すつもりはないのです。彼らは聖を捕らえ、配下の妖怪を倒し、寺を浄化したという三つの手柄を手に入れるつもりなのですよ」
 何とも悪辣な手口である。しかし仏所にありて僧を二人も斬り殺すという非道を行う輩なら、やりかねなかった。
「その中にはもちろん、ご主人も含まれています。聖を引っ立てて行こうものなら、奴らにとっては一挙両得。然るに、わたしはご主人に逃亡をお勧めします」
「馬鹿な! 寺にいる妖怪ということはナズーリンや村紗に、下手をすれば一輪だって狙われるかもしれない」
 一輪はかつて弟様が行った加持祈祷の終わりを示すものとして、帝の夢枕に立ったことがある。都の権力者にとっては恩寵そのものであるが、そのことを斟酌してくれるとは思えなかった。
「奴らは四方八方に兵を伏せています。正に蟻の這い出る隙もありません。このまま留まっていたのであれば、夜明けと同時に襲いかかられる可能性が高いです。幸いなことに、聖は眠られておりますから、今すぐにでも決行しましょう。実を言うと彼女を説得するのが一番、骨だと考えていましたから、手間が省けたというものです」
「どうしてです? これが長き別れになるならば、せめて聖に今一度お声を……」
「君は馬鹿かね!」主人に向けるものではない辛辣な言葉を、わたしは久々に聞いた気がした。「失礼しました。しかし、聖が退治されるわたしたちを見て、黙っていられるでしょうか? それでもし、聖が妖怪に力を貸したらどうなると思いますか? その場で殺されるに違いありません。流刑の手間はかけたくない、後顧の憂いを徹底的に断ちたいと思っている輩も都には大勢いるのです」
 ナズーリンに懇切に説かれてさえ、わたしの頭は混乱したままで。それもこれも、あまりにも唐突で残酷な別れのせいであった。
「ご主人は先程、存分に話をされたではありませんか。一輪や村紗はそのような機会がないというのに、快く決心してくれましたよ。彼女たちはご主人を逃がすための囮となってくれます」
「二人を囮に? どうしてわたしだけが逃げなくてはいけないのだ?」
「その宝塔です」ナズーリンはわたしの持つ授かりものを指さした。「ご主人は元主より宝塔の使用を許された正式な代理人です。今はまだ無理ですが、やがてその力は聖を救い出す一助となるはずです」
 ナズーリンは試すような視線をじっと、わたしに向けてきた。
「毘沙門様の代理として働くのです。宝塔を法の光で満たすのです。そうしてじっと機会を待ってください。何十年でも、何百年でも」
 何十年、何百年。それはかつてのわたしにとって、そこまで大した時間ではなかった。しかし今のわたしが聖のいない暮らしに耐えられるだろうか。
 いや、耐えなければならない。聖を助けたいと思っているのは、わたしだけではないのだ。
「分かりました。しかし、囮とは言いましたが、二人では難しいと思います。わたしも途中までは手伝うべきではありませんか?」
「いえ、こちらには敵を引きつける絶好の物体があります」
 ナズーリンが意味深に断言したとき、遠くのほうから村紗の響く声が聞こえてきた。
「おうい、ナズーリン。準備は粗方、終わったよ」
「こちらもいつでも良いよ」
 隣にいた一輪が続けて声をかけると、ナズーリンは重苦しく頷いてみせた。
「さて、諸君。これからは希望を未来に繋ぐための正念場となる。各自の奮闘を期待する」
「言われなくても分かっているよ。ネズミに指図されるまでもない」
 どうやら一輪は先のわだかまりをまだ残しているらしい。時間があれば二人の関係もどうにか繕ってやりたかったけれど、今はそんなことをしている時間がなかった。
「これから村紗と一輪で聖輦船を動かしてもらう。幸いなことにあの船は先代が残した聖遺物で動くため、聖の力は必要ない。思う存分、ぱあっと派手に輝いてくれ」
 ナズーリンはどうやらあの船に色々と仕込んだらしい。それに加えて一輪の入道が宵闇に輝けば、相当に派手でおどろおどろしいものとなるだろう。人目を存分に引きつけるに違いなかった。しかしそれは、いよいよ二人に攻撃が集中するということだ。熾烈を極まる逃亡が予想されるだけに、わたしは訊ねずにはいられなかった。
「二人はそれで良いのですか? 怖ろしい目に合わされるかもしれないのですよ」
 するとまずは村紗が首を横に振った。
「星を助けることが将来、聖を助けることに繋がるんでしょ? だったらわたしはやるよ。それで聖に恩を返せることにもなるから」
「別に黙って退治される謂われなどない」次に一輪がそう言って鼻を鳴らした。「適当に目を眩ませてから、隙を見て逃げるさ」
「そしてわたしと星が脱兎の如く逃げる。これで良いかね?」
 各々が役目を果たせるのかどうか、ナズーリンが最終確認する。村紗と一輪が首尾良しとばかりに頷くのを確認してから、わたしは全員に令を発そうとした。
「では、各員持ち場に……」
「待ってください!」
 わたしたちがそれぞれの持ち場に着こうとしたその瞬間、切羽詰まった声が必死に制止してきた。振り向くと、そこには慌てた様子の聖がいて、裸足でこちらに駆けてくるのだった。
「どうしたのですか? 日の出まではまだ時間があるはずです。どうしてそうも慌ただしくしているのですか?」
 聖は四人の顔をざっと見渡し、一番冷静さを保っていたナズーリンにひたと視線を向けた。
「これはどういうことですか? 説明してください」
「人間たちは妖怪を許す気がありません。聖が御身を犠牲にされても、ここに留まっていれば全員が退治されてしまう。だから先を打って脱出するのです」
「そんな……」聖は驚きのあまり声を失い、それからぎちりと歯ぎしりの音を立てた。いつもの穏和な様子から計り知れないほどの覇気を滲ませていた。「わたしは恩を一方的に押しつけ続けたために魔女となった。それは理解しました。それならば何故、あなたたちが退治されなければならないのですか?」
「同じ穴の狢(むじな)」ナズーリンは苦みばしった顔でそう言った。「人間は同族にすら残酷ですが、異人には更に容赦がありません。それに彼らは武勇談を欲しています。女一人を無傷で捕らえただけでは、逆に鼻で笑われると怖れているのです。戦を交わし、遠征に箔(はく)をつけたいのです」
「しかし、戦をすれば死人が出るでしょう?」
「奴らが欲しいのはその死人なんです」ナズーリンは聖の苦悶を受けてなお、きっぱりとそう言い切った。苦みなくひたすら冷静に。「死ねば、傷つけば勇敢に戦ったことが証明される。死者を秤に掛けて地位を売り買いできる。もう一度言いますが、彼らは戦いたいのです。そのためには寺に住まう妖怪ほど都合の良いものはない。彼らはおそらく最初から、寺を焼き討ちするつもりだった」
 そこまでやるかと思ったけれど、しかしナズーリンは眉をきつくするばかりだった。彼女ほどの賢人に本気の面構えをさせるというのが、推測の正しさを物語っているように思えた。
 村紗も一輪も、人間の苛烈さに衝撃を受けていたが、聖の驚きようはそれを更に上回るものだった。拳を握りしめ、怒りにすら身を委ねようとしていたことからも、それはよく分かった。
「わたし、人間にはどうしようもないところもあると、それくらいは分かっていたつもりでした。でも、ここまで酷いことができるなんて思いもよりませんでした」
「人間は心に課すべきたがを、どうにでも外すことのできる唯一の生き物です。集まればその方向性は更に助長される。どうですか? これが貴女の救おうとしてきたものたちの、拭い難い本性です。仏に近い階梯を持ちながら、人間が何故一度に地獄まで転げ落ちるのか理解できたでしょう? 聖よ、こんなものを救うだなんて馬鹿げているのです。そのために貴女は封じ込められる。側にいたもの全てに忌禍が及ぶ。何もかもが間違っていたのですよ」
「黙れ!」ナズーリンの長口上に遂に耐えかねたのか、一輪がぐいと襟を掴み、一気に捻り上げた。「確かに斯様な結末を向かえたかもしれない。しかし、姐さんの行いが徹底的に間違っていたなどとは言わせない。もしそうならば、人間は決して助けることも助けられることもない、悪魔のような生き物だということになる。全ての人間がそこまで落ちているとは思わないし、そもそも姐さん自身もかつては人間だったのだぞ」
「人間をやめたからこそ、際限のない慈悲に目覚めたのかもしれない」
「姐さんは人間だった頃から、誰よりも他者のことを考えられる人だった。だからこそ誰よりも悩み、遂には魔の法を使うようにさえなったのだ。見たこともないネズミ風情が……」
「一輪!」聖の檄たる叱責は童子を一瞬で硬直させるほどに強烈なものであった。それから一輪を促してナズーリンの戒めを解かせると、聖はあろうことか彼女の頭をゆっくりと撫で回した。「ナズーリンの言うことは正しいと思います。人間は堕ちようと思えばどこまでも堕ちます。どこまでも情けなくなります。わたしはそのことを、身を持って理解していたはずでした。他者のことばかり考えていて、すっかり失念していたのでしょう。あるいはそのことを心に留めておけば、もっと良い結末があったかもしれません」
 詮無きことと言わんばかりに首を横に振ると、聖は大きく息をついた。
「でも、誰かに手を差し伸べることが間違いであるとは思いません。理解しようとすれば、理解してもらおうとすれば、それらを積み重ねることは決して悪いことではありません」
「その相手が、極悪人だとしたら? 聖のことを殺そうと襲いかかってくるかもしれない」
「その時は刺されましょう」聖はさらりととんでもないことを口にした。「しかし、殺されるつもりはありません。わたしの体は鉄よりも固くなるのですから。余りに死ななければ、殺すのが馬鹿馬鹿しいと思うかもしれません。他に何かするべきだと思うかもしれませんし、さもなければ一生殺し続け、その愚かさに死んでから気付けばよろしい」
「では、聖の大切なものを傷つけようとしたら?」
「そのときは制止し、説教をします。それでも駄目ならば当世の法にて、その罪科を問うことになりましょう」
「では、この世に法がなければ? 聖にしかそれができないとしたら?」
 ナズーリンは聖に次々と問答をぶつけていく。まるで聖を試すかのように。しかし聖は動じることなく、厳しい問いに答えていった。
「その時は全力で阻止します。傷つけるだけでも済むかもしれませんし、殺してしまうかもしれませんね」
「では、貴女の慈悲とは何か?」
「それは手を尽くすということです。そしてそれこそ、手を差し伸べるということです。ナズーリンの言うとおり、どうやっても手が届かないこともあるでしょう。しかし最初から、人間はこうだとか妖怪はこうだとか、決めつけたりはしません。わたしというものを曝け出し、あなたは誰だと問い続けます。精一杯まで続けます。
 わたしは世に出た偉大なものたちに比べれば心も体も取るに足らない。星に諭され、そしていまナズーリン……貴女に諭され、そのことを散々に理解しました。もし次があるとすれば、わたしは一人でも多くのものに出会いたい。人間でも妖怪でも、遠き星からの使者でも良い、誰でも出会って手を差し伸べます。困っていたら助けたい、そうでなければわたしはきっと笑ってこういうでしょう。あなたと友達になりたい」
 そう言って、聖はナズーリンにそうっと手を差し出した。ナズーリンはしばし呆然と立ち尽くしていたが、やがてぐいと聖の手を握ってみせた。
「こうなる前にあなたと会えていたら、わたしもきっとここまでのすれっからしにはならなかったでしょう。否、あなたの側でなら、わたしはもう少し……」
 ナズーリンは余計なことだと言わんばかりに首を横に振り、わたしと村紗、一輪をぐるりと見回した。お互いの間にはわだかまりも存在したけれど、今はきっと皆が同じことを考えていた。
 ここから何としても逃げ出して、聖に次の機会を与えることだ。
「これから皆で寺にある主立った宝を、船に運びます。金銀財宝を見ればそれを使いたい、生きたいと思うのも人の性。ひざまずいて命乞いをすれば、殺すほどのものじゃないと考えてくれるかもしれない」
「わたしはそのようなこと……」一輪は抗弁しようとして、しかし聖の縋るような顔に絆され、小さく息をついた。「分かりましたよ。みっともない真似は嫌ですが今回だけは別です。せいぜいネズミのように情けなく命乞いしてみせましょう」
 一輪はそういってわざとらしく軽薄に笑ってみせた。ナズーリンが少し唇を尖らせたのが、こんな時だというのに少しだけおかしかった。
 それからわたしたちは期せずして蓄えられた財宝をありったけ船に詰め込んだ。最後の共同作業はあっという間に終わり、すると聖は事情を知っていながら、縋るように訊ねてきた。
「他に、わたしでお役に立てることは?」
「抵抗せずに捕まってください。殊勝に、逆らわずに、わたしたちに何があっても決して取り乱したり、怒鳴りたてたりしないように。一番大事なのは殺されないということです」
 ナズーリンがそう言い含めると、聖は目に涙を浮かべながら、大きくはっきりと頷いた。そうしてこれから船で飛び立っていく一輪と村紗に潤んだ瞳を向けた。
「村紗よ、わたしはあなたにほとんど何もしてあげられませんでした」
「そんなことはありませんよ。聖は荒んだわたしに、手を差し伸べてくれました。悪戯しかできないわたしに辛抱強く法を説いてくださりました。本当はもっと別の形で恩を返したかったのですが」
「そう言ってくれるだけで、身に余ります。もし次があれば、今度は村紗ときちんと相対することができればと心から思います」
 村紗は聖の抱擁を受け、しばらくくすぐったそうに収まっていたが、意を決して温もりから抜け出し、決意と緊張を相合わせた初陣の顔を浮かべた。
「では一丁、派手にやってきます」
 聖はびしっと背筋を伸ばした村紗を見て微かに頷くと、次に一輪のほうへ視線を向けた。
「一輪、かつては弟を、そしてわたしを見守ってくれてありがとうございます」
「そんなこと、言わないでください」一輪は涙を流せない村紗の分まで顔をぐしゃぐしゃにし、ぼろぼろと涙を流していた。「わたしはみすみす兄さんを死なせてしまっただけでなく、姐さんを一度は酷く追いつめた。わたしがもっと姐さんのことを労ってあげられれば、こんなことにはならなかったかもしれないのに」
「過ぎたことです。それに一輪が、弟の中興したこの寺を大事に思い、陰日向から護ってくれたこと、わたしはよく知っていますよ」
「その結果がこの有様です」一輪は入道を遣うための宝輪を強く握りしめ、もう片方の手でぐしぐしと涙を拭った。「かくなる上はこの役目だけでも立派に果たしてみせます。そうして力尽きたときには、いかなる無様をも演じ、恥にまみれきってでも生き残って見せましょう」
 一輪はそう宣言すると恥ずかしそうにわたしたちから背を向け、一足早く船に乗り込んでしまった。そうして船の舳先付近を、入道ですっぽりと包み込んでしまった。
「では、わたしもそろそろ行きます。ど派手にやるから、星とナズーリンはちゃんと隙を見つけて逃げるのよ」空元気を精一杯に見せつけると、村紗は最後に聖へ向けて深く一礼した。「今までお世話になりました。またいつかどこかで、皆で会えることを祈ってます」
 聖はそうであって欲しいとばかりに強く頷き、すると村紗は固さの抜けた様子でするりと船に滑り込んでいった。それからしばし、山も寺もしんとした静寂に包まれた。ぴりぴりとした緊張だけが辺りを覆い、わたしは何度も唾を飲み込み、時を待った。
 次の瞬間、船がすいと飛び立ち、同時に舳先から煌やかな光が発せられた。甲高い破裂音が四方八方から響き、そして昼間の光のように濃い光がぬらぬらと地上を照らし始めた。
 闇夜に現れた強烈な飛行物体の効果は抜群であった。満遍なく散らされた気配が一つの方に向かい、篝火が至るところに灯り始めた。散発的ではあるが矢の射かけられる音も遠くから聞こえてくる。
 ナズーリンは火の様子を逐一確認しながら、両手の探水棒をくるくると操り、それはやがて船のほぼ真向かい側を向き、ぴんと固定された。
「よし、こっちにはいまほとんど人間がいません。木々を縫いながら高速で離脱しましょう」
 わたしは頷くと、激しい攻撃を受ける船を祈るように見やる聖におそるおそる声をかけた。
「聖、どうやらわたしも立たねばならぬようです」
 そう告げると、聖は船から目を逸らさず、わたしの手をそっと握りしめた。
「わたし、この光景を忘れません。あなたたちがしてくれたこと、絶対に忘れません。わたしは必ずや、この恩に報いてみせます。だから、さよならは言いません。またいつか、どこかで」
「ええ、いつか、どこかで」
 聖はわたしのことを一瞬だけふわりと抱きしめ、それからまた船に視線を向ける。まだ言いたいことはいくらでもあった。本当はずっと聖の側にいたかった。でも、それは皆の頑張りに背くことだから。何よりも聖の決意に背くことだから。
 わたしは聖に背を向け、ナズーリンに決断を伝えた。
「行きましょう。わたしは聖を失い、それでも毘沙門天の代理として永き時を生きることになります。ナズーリンは脱出できたらどうしますか?」
「わたしはご主人の赴く所、いかなる場所にでも付いていくだけです」
「本当に永い旅になりますよ。それでも構わないのですか?」
 ナズーリンほどのものならばかつての主の元に戻り、如何様にでも安穏と暮らせるはずだ。彼女はそれほど波乱が好きではなく、元々人嫌いであるから、衆生を巡るなど真っ平であるはずだ。だからこそわたしは再度、ナズーリンに意志を確認した。すると彼女は、当然とばかりに言ってみせた。
「ご主人が意志を失われない限り、わたしはあなたのものです。何があろうと」
 わたしはすまないという言葉を飲み込み、それからありったけの決意を込めて宣言した。
「行きましょう。そして、生きましょう。わたしたちは誰欠けることなく、再び出会うのです」
 ナズーリンは大きく頷くと探水棒を構え、先に進んでいく。わたしはその後を追い、離散への一歩を踏み出した。そしてわたしは密かに祈る。
 ばらばらに分かれたいくつもの道が、どうかいつの日か再び一つになりますように、と。


 体中が何故だか無性に痛かった。身を起こそうにもぽっかりと心に穴が空いたようで、些かの気力すら沸いてこない。夕刻を過ぎ、夜闇の色で徐々に覆い尽くされていく。暑いのか寒いのか、それすらも定かではなく、だがこうしていたら何れは朽ち果てるのだなと、そんな諦観にも似た思いが薄く心をよぎる。
「どうしてわたしはこんなに酷いのだろう?」
 記憶を揺り起こす気にならず、わたしはぼんやりと空を眺める。
「どうしてわたしは暮れゆく空を悲しいと思うのだろう?」
 掘り起こすまでもなく、それはわたしの心の一番冥い場所で、ひっそりと佇んでいるのだった。いよいよ聖のことを助けられず、ただお互いに散りゆくしかなかったあの日。聖と最後に見た景色によく似ていた。
「わたしは……わたしは愚かだ」
 自嘲するように呟き、わたしは目を瞑る。この空をこれ以上、見ていたくなかったからだ。しかし端から現れた気配がそれを許してくれなかった。
「ご主人、このような所で寝ていると風邪を引きますよ」
 長く連れ添った部下の声に、わたしは小さく息をついた。ゆっくり目を開くと、彼女は何故か所々に傷を負い、何カ所も包帯を巻いているのだった。
「どうしたんですか、まるで誰かと激しく争ったようですよ」
「寺に賊が現れたのです。正体不明、神出鬼没の厄介な奴でした」
「それは……」大変だったと言おうとして、わたしは不意に思い出した。わたしが先程まで何をしていたのか。「まさかお前だけ、賊から逃れてここまで?」
 八雲紫はわたしが負けたら寺のものを鏖殺すると宣言した。そしてわたしの体たらく、とても勝利できたとは思えない。彼女は幻想郷の実力者を伴って寺に攻め込んだのはないか。だからわたしは食い入るような瞳をナズーリンに向けた。すると彼女はやれやれとばかりに大きく首を横に振った。
「賊はわたしと一輪、それから通り縋りの助っ人によって追い払いましたからご心配なく。追い払ったと言えるのかな?」ナズーリンは苦い顔をしながら、語尾を曖昧にして何かを誤魔化した。「ご主人がいればもう少し恙無くことを運ぶこともできたと思いますが」
 その話しぶりからして、ナズーリンが対峙した賊は八雲の手のものではなかったようだ。しかも大した厄介ごとではなかったらしい。それは不幸中の幸いであったけれど、どちらにしてもわたしは寺の一大事に駆けつけることさえできなかったのだ。何とも恥ずべき事態であった。
「申し訳ありません。ナズーリンにはまた迷惑をかけてしまいましたね。お前は正確には寺のものではないのに」
「旨い飯を食べさせてくれる心地の良い場所をなくしたくないだけです」
 ナズーリンは素っ気なく言い、少しだけ眉を潜めた。
「だから謝る必要はありません。猫の手も借りたい状況ではありましたが、それならば猫の手を借りれば良いだけのことですから。ご主人とてたまには誰にも告げず、ふらりと遠くに行きたくなることもあるでしょう」
 至らぬ主人に対し、ナズーリンはあくまでも丁寧であった。愛想を尽かしてもしょうがないことをやらかしたというのに、あくまでもわたしを立ててくれた。それがわたしには逆に惨めでならなかった。だから先程までのことを、打ち明けずにはいられなかった。
 すると流石のナズーリンも顔色を変え、小さく舌を鳴らした。
「これがわたしの愚かな本性ですよ。だからナズーリンもいい加減、わたしを立てるのはやめて、自由に暮らしなさい。千年も前の命令なんて、もう破棄されても構わないはずです」
「それでも命令は命令ですから。わたしはご主人に付き従うだけです」
「わたしはもう、仏の代理人としてふさわしくありません」
「そう判断されたなら通達が下るはずです。それがないということは、ご主人は依然として代理人なのですよ」
「しかし、わたしは罪と過ちで満ちています」
「いいえ、違います」ナズーリンは倒れたわたしの腹にのしかかると、ぐいと顔を近づけてきた。「あなたは罪にも過ちにもない御方だ。いえ、一つだけわたしがあなたの罪を教えましょう」
 そう言って、ナズーリンは泣きそうな顔を浮かべ、わたしに容赦なく言葉をぶつけた。
「それは偽りです。ご主人はいつでも己を偽られる。それがご主人の罪であり、過ちなのです」
「わたしは浅ましい人食いの獣です」
「いいえ、あなたは悲しみに堪えながら仏の代理を続けてこられた立派な御方です」
「違う!」わたしはナズーリンを突き飛ばし、逆に肩を押さえつけて組み伏せた。好き勝手を言う目の前の鼠が許せなかった。「わたしはお前をいかようにもできるのだ」
「ではわたしを犯し、貪り食えば宜しい」ナズーリンは口元に涼しい笑みすら浮かべ、わたしの重みを受け流していた。「ご主人にそれができるのならば」
 わたしは牙をむき出しにし、ナズーリンの衣服に手をかけようとした。でも眠るように目を閉じ、全てを受け入れようとしている彼女を見ていると、どうしても先に進むことができなかった。どのように己の気持ちを鼓舞しても、そんなことできるはずがなかった。わたしはナズーリンの身を起こし、きつく抱擁(ほうよう)しながら耳元に絶叫のような囁きをもらした。
「では、わたしの中にある聖への深い欲望は何なのでしょうか?」
 ナズーリンはわたしの癖が強い髪の毛を撫でながら、優しく囁き返してくれた。
「いかに純粋な敬愛とはいえ、千年積もれば莫大にもなりましょう。ご主人にはその気持ちを吐き出すことが必要だ」
「でも、わたしにはそのやり方が分からない。ナズーリンには分かるというのか?」
「ええ、わたしは賢い鼠ですから。でも、別に難しいことではありません。三歳の赤子でもできることです」
 そう前置きしてから、ナズーリンは意地悪そうに微笑んだ。
「寂しかったと胸に縋り、泣き腫らせば良いのですよ」
「そんな恥ずかしいこと……」確かに乳飲み子でさえそれをするだろう。でもわたしは数千の年を重ねた妖獣なのだ。「ナズーリンはわたしを何だと思っているのですか?」
「寂しがり屋のしっかりもの」ナズーリンはさらりと言ってのけた。「時々は粗忽だけれど、そこがまた可愛いのです。だからわたしは千年もの間、側にいました。目を離すと何をうっかりするか分かったものではありませんから」
 ナズーリンはわたしからひょいと体を離し、這々の体であるわたしを置いて飛び去っていく。わたしは気力を呼び起こし、慌ててその後を追った。何だか釈然としなかったけれど、わたしだって聖を食べたいのだと本当に信じたいわけではない。だから、聖と相対して確かめることにした。
 わたしが邪なのではなく、単なる寂しがり屋なのだという恥ずかしいばかりの帰結を。
 
 寺に戻った頃にはすっかり夜となっており、門は当然ながら固く閉ざされていた。寺に住むものは皆が空を飛べるのだから、門なんて大した意味がないと思うのだけど、一輪に言わせれば門は瀬戸際であるらしい。一度許せば通す、許さないものは通さない、その意志を表明するのだという。そのことを聞いたからかもしれないけれど、寺の敷地に直接降り立つのには軽い罪悪感を覚えた。
 辺りを見渡すと、明かりが点いているのは聖の部屋だけだった。もしかすると何も言わずに出ていったわたしのことを待っているのかもしれない。わたしはそのことに嬉しさと後ろめたさを覚えながら、障子の向こう側へ意を決して声をかけた。すると聖は純白の夜具に身を包み、しっとりとした髪をゆらゆらと揺らしながら姿を現した。
 聖はわたしのぼろぼろな姿を見て最初こそ驚いたものの、次にはまるで悪戯ものを迎える母のように微笑んでくれた。
「お帰りなさい。今日は何というか、星には珍しい乱れ方ですね」
「すいません。何も告げずに外へ出て。のみならず、朝夕の務めも疎かにしました」
「良いのですよ。今日は色々とありましたし、些細な面倒事は明日に回してしまいましょう」
「色々というのは、寺が襲われたことですか?」
「寺が襲われた?」聖はかくんと首を傾げてから、小さく手を打った。「もしかしたら彼女のことでしょうか?」
 聖はそう言って開けられた障子の隙間を指さした。すると部屋の中央辺りに敷かれた布団が、こんもりと膨らんでいるのだった。
「つい先日、霊夢さんに話を伺ったでしょう? 飛倉が異邦の乗り物に見えた怪現象について」
 その話なら、わたしも側に居合わせていたからよく覚えていた。なんでも封獣ぬえという名の妖怪が、物体を正体不明にする能力を使っていたのが、その原因であるということだった。
『まあ、彼女も地底に長い間封じられていたからくさくさしていたんでしょう。貴女の素性もよく知らないようだったし。気にしているようだったから、訪ねてきたらよしなにしてあげると良いのではないかしら』
 聖はにこにこと頷いていたが、わたしは少しばかり気がかりなことだと考えたのだ。その彼女がわたしや聖の留守中に寺を訪れたならば、残されているのは事情を知らないものだけだ。
「彼女、つい悪戯心が出てしまい、一輪やナズーリンにちょっかいを出してしまったそうなの。その帰り道に偶然、わたしと鉢合わせしたものだから、彼女と来たら咄嗟に逃げ出そうとしたの。事情を聞かせてもらうのには随分と苦労したのですよ。力が強くてやんちゃもので」
 言葉と裏腹に聖は音のない笑いを立てた。
「聞けばこの地上に縁もない、償いもしたいというではありませんか。それならばと、ここで仏門を学べば良いのではないかと勧めたのです。すると彼女は渋々といった調子でついてきてくれたというわけです」
 話を総合すると、聖はどうやら手の掛かる厄介事を持ち込んだらしい。否、聖は長いこと封じられながらも理想からまるで手を引いていないのだ。
「そんなわけで、もしかしたら食い扶持が一人増えるかもしれません。ここでの暮らしのことも追々、教えていかなければならないでしょう。星にはまた迷惑をかけてしまうと思います」
 聖はわたしを疑うことなく信頼しているらしい。それがわたしには心苦しく、無意識のうちに首を横に振っていた。すると聖が仕方なさそうに口元を歪め、わたしは慌てて弁解した。
「あのですね、嫌というわけじゃありません。ただ、その……」
 わたしの言葉を最後まで聞かず、聖は部屋に戻ってしまった。いよいよ幻滅されたのかと思いただ突っ立っていると、聖は薬の臭いがする木箱を取ってきた。
「ここで騒がしくしてもいけませんから、星の部屋に行きましょう。手当もしたいですし」
 どうやら聖はわたしが断ろうとしたことより、傷を負っていることが気がかりらしい。聖は服の隙間から覗く打ち身やら切り傷にちらと視線を寄せてから、浮かぶような足取りで廊下を進んでいく。わたしは気まずそうに目を伏せながら慌てて後を追った。

 聖はぼろぼろになった服を脱ぐように指示し、全身をまじまじと見て小さく息をついた。
「これではしばらく、湯浴みするにも難儀ですね」
 わたしもつられて自分の体を見回す。わたしは自分の体がどれほど傷ついているのか、確かめようとさえしていなかったのだ。幸いなことに未だ血を流している傷はどこにもなかった。聖もそれは分かっているのか、染みる傷薬を容赦なく塗り込み、全身をミイラにするのではというくらいにぐるぐる巻きにした。
「大雑把ですが、これで十分でしょう。さあ、今日はゆっくりとお休みなさい。暫くは体を拭くだけにして湯浴みは避けること。星はお風呂が好きだから辛いかもしれませんが、これは自業自得というものです」
「はい、その通りです」自分勝手を突き進めての結果なのだから、他に言いようがないくらいに聖の指摘は正しかった。「聖はわたしがどこでこのような傷を帯びたか、問わないのですね」
「話したくないようですから。それにわたしは星のことを信頼しています」
「あのようなことをしたと言うのに?」
 わたしは縋るような視線を聖に向ける。しかし聖は心の乱れる素振りをまるで見せなかった。
「一応言っておきますが、驚かなかったわけではないのです」言葉と裏腹、聖の様子はいかにも涼しげであった。「それでもわたしは星に、側にいて欲しいの」
「どうしてですか?」
「だって、星は寂しがり屋だもの」聖はナズーリンとまるで同じことを口にし、恥ずかしそうに頬をかいた。「初めて出会ったときから、そうだったではありませんか。口の聞き方を丁寧にしても、それだけはまるで変わらなかった。そんな星に千年の孤独を強要したこと、わたしはとても心苦しく思っています。順列をつけるわけではないけれど、星には特にここにいて欲しいのです。そのためだったら腕の一本くらいなくなっても構いません」
 聖は分からず屋のわたしに訥々と、胸の中にある気持ちを語ってくれた。彼女の心には未だに破滅的な他利意識が根付いており、それがわたしの胸を衝いた。
 聖に気を遣わせるくらいならば、寂しがり屋であったほうがどれほどましかとつくづく思った。だからわたしは母を求める子のように、聖の胸に顔を埋めた。すると心の奥底から津波のように、寂しさと悲しさが押し寄せてきた。
 ひとたび堰(せき)を切れば、もはや留めることは出来なかった。わたしは聖に寂しかったと、悲しかったと、酒に呑まれた人間のように何度も繰り返した。聖は呆れることなくわたしの言葉を受け止め、よしよしと頭を撫でてくれた。
「星よ、星よ、ありがとう。わたしのためにこんなにも悲しんでくれて。寂しく思ってくれて。本当に申し訳なかったですね」
 いいえと言いたかった。悲しみも寂しさも、全てはわたしの身勝手に過ぎないのだから。しかし喉の中は嗚咽に満ちていて、心はわたしの想いが少しでも聖に届くことを渇望していた。
 わたしは聖の胸の中でごく控えめに吠え、すると聖はますますわたしのことを抱きすくめるのだった。それだけでこの身に巣くう邪が洗い流されていくようで。
 わたしはただ小さく縮こまり、今夜だけはと、母が見つかって安堵する赤子のように泣いた。

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