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聖白蓮さん、あなたに仏のお恵みを白蓮さん 後編   白蓮さん後編 第7話

所属カテゴリー: 聖白蓮さん、あなたに仏のお恵みを白蓮さん 後編

公開日:2016年02月04日 / 最終更新日:2016年02月04日

 【Interlude】


 わたしはわたしになり、草陰から飛び出した。

 彼女のことを窺い続けてはや一週間、このままでは埒があきそうになかった。
「でも、あんなことしたんじゃ怒られるよなあ。雷落とされて、また封印されちゃうかも」
 彼女が実に人の善い性格であることはここ数日、寺の様子を観察してつくづく分かっていた。そんな彼女でも、村紗たちの邪魔をしていたと知れば、腹に据えかねるだろう。おまけに博麗の巫女があることないこと吹き込んでいる可能性が強い。
 どうしようか腕を組み、獣道を一人うろうろしていると、寺のほうから何かが飛び出していくのが見えた。聖と、それから船幽霊の村紗であり、どうやら二人でどこかに出かけるようだった。時間を置かないうちにもう一人、今度は星と呼ばれている妖獣が外に出ていった。然るにいま、中には一輪と呼ばれている尼が一人だけのはずだ。
「もしかしなくてもいま、寺は手透きじゃない?」
 そこそこ広い寺に一人では管理も大変だろうし、加えて参拝客の相手もあればてんてこまいになる可能性もある。
「ここで恩を売っておけば、あらまあ偉い妖怪ねえ、お手伝いしてくれるなんて……という展開になるわけで。ここで涙ながらに事情を説明すれば」
 完璧すぎるシナリオであった。わたしは逸る気持ちを抑え、寺の門を叩く。少しして、計算通りに一輪が忙しない様子で姿を現した。
「はい、どちらさまでしょうか?」一輪はわたしに訝しげな視線を寄せてきた。「見慣れない妖怪だが、この命蓮寺に如何なる用向きで?」
 一輪は相手が妖怪だと見抜き、俄に警戒の色を浮かべる。ここは人妖を問わず分け隔てなく受け入れる所ではないのか。そんな気持ちが先に立ち、わたしは微かに棘を立てた。
「用事はないの。ただ困ったことがあるんじゃないかって、そんなことを思ったから声をかけてみたのよ」
「別にそのようなことはない」一輪はそう言って、更に険しくこちらを臨んできた。「聖はいま、所用で出かけられている。わたしで済む用事であれば良いのだけれど」
「用はないんだって、分からんちんだなあ。お役に立てることがないか、訊きに来たのよ」
 すると一輪は宝輪を構え、わたしを威嚇(いかく)してきた。
「だから、ないと言っている。この寺に害なそうと言うのであれば、この身にかけても叶わないと知るが良い」
 あまりの剣幕にわたしはその場を素早く立ち去り、大きく息をついた。
「ああ、おっかない奴。聖が人間も妖怪も平等に受け入れるって話は眉唾だったのかな」
 よく考えればそんなに都合の良い話なんてあるわけがないのだ。きっと博麗の巫女はわたしを担いだに違いない。
「もう、腹が立つ。腹が立つったらありゃあしない!」誰かをからかってやらなければ、もはや腹の虫が収まりそうになかった。「もうすぐ真昼だけど、その程度でわたしの正体不明は負けたりしないわ!」
 わたしはそろりそろりと門に近付き、わたしを散々に脅した尼の様子を遠くから窺う。見たところ位の高そうな感じだけれど、ああいう澄ました顔をした奴に限って、色々と冥いものを溜め込んでいるに違いない。
「正体不明の種をちょちょいのちょい。さて、堅物そうだからあまり美味しくないかもしれないけど。泣き喚いたりしてくれたら嬉しいな」
 何か大事なことがあったような気がしたけれど、すぐに思い出せないのだからきっとどうでも良いことだ。わたしはそう結論付けて、正体不明たちを一輪に差し向けた。



【第四話 リングワールド】


 捜索は抜かりなく。背後の用心も抜かりなく。
 主人である藍に、口を酸っぱくして言われていることを心の中で復誦しながら、橙は茂みに身を潜めじりじりと目的の場所向けて前進していた。腹ばいになりながら腕の力だけでじりじりと。遠眼鏡を見やりながらじりじりと。音を立てぬよう、あくまでもじりじりと。
「あのさ、一つ訊いても良いかな」
 任務中だと言うのに、不用心な声を立てる友軍に橙は無言で口元に指を立てる。私語は厳禁だという合図だったが、地底の猫は礼儀を知らないのか、さして気にすることもなく引き続き話しかけてきた。
「いかに未知の妖怪が集う寺とはいえ、そんなにおっかなびっくりだと日が暮れちゃうよ。それとも夜になるのを待ってから乗り込むつもり?」
「そんなにはかからないって」橙は葉のささやきにも似た迷彩的な声で答える。「わたしの計算だと、日が昇りきるまでには到着できるはず。寺の周りを観察したあと、同じくじりじりと撤退。目標予定時刻は日の暮れる一時間前と言ったところ」
 橙の事細やかな説明に地底の猫(おりん)はうへえと嫌そうな顔を浮かべた。
「そんなの面倒臭いって。もっとこう、ちゃちゃっと行って帰ってこようよ。あたいはさ、こんなの早く終わらせて、昼一杯は神社の境内下でごろごろにゃんにゃんする予定なんだよ」
 それはあくまでも燐の予定であって、橙はあくまでも自分の決めた時間割に従って偵察を実行するつもりだった。
「嫌なら別行動すれば良いよ。わたしは別に連れ合いなんていらないんだから」
「ふぅん、道の端に座り込んで途方に暮れてたくせにそんなことを言うんだ」
「それは……」図星をつかれ、橙は声を荒げそうになって咄嗟に口元を抑える。「どの道から行くのが良いか思案していただけ」
 橙の言葉に、燐はにやにやとチェシャ猫のような笑みを浮かべる。やっぱりこんなの連れ合いにしなければ良かった。同じ場所に用事があると言うから、少しは役に立つと思ったのに。よく考えれば彼女の服装と来たらやたらと派手で、隠密行動になんて一つも向いていない。自分の選択を恨みながら、橙は務めて彼女の振る舞いを無視し、再びじりじりと進み始める。すると燐も少し後ろを同じような仕草で進み始めた。音をまるで立てないというのにその進みは橙よりもよほど早く、瞬く間に横へ並ばれてしまった。
 どうやら自分はこの地底猫に、鼠のように遊ばれているらしかった。妖怪としての成り立ちが違うとはいえ、同じ猫として劣っていることに、橙は悔しさを感じずにはいられなかった。張り合ってやりたいという気持ちが胸の上まで出かかったけれど、小さく息をついて抑えた。そんなことをして見つかれば、藍がその主人である紫に再度折檻を受けるかもしれないからだ。
 数日前、主人の庵を訪れたとき橙は偶然にも見かけてしまったのだ。紫が藍のことを厳しい目つきで一方的に足蹴にしていたのを。藍が平伏したまま黙って耐えていたところを。理由なく物事を成さぬのを大いに嫌う紫は、片手でぐいと藍の体を持ち上げ、拳で顔をがつんがつんと殴りながら、冷えるような声で言ったのだ。
 人里に新しくできた妖怪寺への斥候を命じられていること、しかしいつまで経っても藍が命令を果たさないこと、このまま役に立たないなら式を剥がして放逐するとまで言った。
 その凄惨さがあまりに怖くて橙は一目散に庵から逃げ出した。それから丸一晩、布団の中でがたがたと震え続けて、ようやく何事かを考えられるようになってきた。
 主人は命じられたことを意味なく投げ捨てるような方ではない。きっと何か動けない理由があるのだ。それならば、わたしが何とかするべきではないのか。命令されてもいないことを実行に移すのは怖いけど、主人の主人からの命令であるのならば、それは自分への命令にもなると己に嘯(うそぶ)き、意を決して新興された寺への偵察を果たそうと思った。
 そのためには挑発になど無闇に乗ってられないのだ。橙はそう自分に言い聞かせると、あくまでも能力の範囲を逸脱しない速度で前進していく。先行するならすれば良いと思ったけれど、燐は橙の横を保ったまま、口を挟まなくなった。一度だけ訝しんで燐のほうを横目で見ると、彼女は口元を引き締め、先程までのちゃらんぽらんな態度を一掃していた。どうやら彼女にも自分に負けないくらいの理由があるらしい。
 三十分ほど進んだところで休憩のために進行を止めると、橙はそろりと訊ねてみた。
「あの、貴女はどうしてお寺を偵察したいの?」
 そんなことを訊かれるとは思わなかったのか、燐は一瞬驚いたようだったが、すぐに訳知り顔で語り始めた。
「あたいは死体を掘り出して持ち運ぶ妖怪だからね。寺ができるのは大問題なのさ。だって死体をお墓に埋めて厳重に管理しちゃうじゃない」
 どうやら先ほどの真面目な表情は、自分のことを一心に考えていたためらしい。少しがっかりしたけれど、存在意義を奪われるのは妖怪にとって一大事なのだろうと考え直す。式である橙はときどきそのことを忘れてしまう。気をつけなければいけないと思った。
「あんたは確か境界の賢人の式だったよね。声だけしか聞いたことがないけど、召使いの人間を遣うその声は、ゆったりとしているのに妙な威厳があったよ」
 燐はおそらく博麗の巫女が通信装置を伴って、地底に下りたときの話をしているのだろう。橙は断片的にしか知らなかったけれど、さもありなんと頷いた。
「ああいうおっかないのが主人だと下につくものはきついだろうね、同情するよ」
 実際には紫の下にいるのが藍で、橙はその下に過ぎないのだが、敢えて間違いを訂正しなかった。面倒だったし、知った風に内情を推測されて少しだけ面白くなかったからだ。
「まあ、何はともあれ乗りかかった船だ。お互いの目的を無事に果たして……」
 かさり。枝葉のすれる音がして、橙と燐は緊張に耳と尻尾を欹てた。こちらのことが気取られていた場合に備え、いつでも戦闘と離脱の双方が選択できるようにするためだ。
「ごめん、あんたの言う通りだった。無駄口叩いちゃ駄目だったね」
 橙は無言で首を横に振る。先に話を持ちかけたのが自分だったからだ。
 再び梢が揺れ、橙は息を止めるくらいに飲み込み、先方の微かな気配を待ち受ける。
 三度の音とともに、それは素早く姿を現した。灰色の体躯、嗜虐(しぎゃく)心を巧みにそそるその姿形は紛うことなき鼠のそれであり。橙は瞬く間に『獲物』の姿に釘付けにされた。何しろ丸々と太っていて、とても美味しそうなのだ。
 隣を見ると燐が涎をたらさんくらいに口を開き、鼻息を荒くしていた。
「駄目だよ、ここは我慢しないと」飛びかかろうとする気持ちを抑えきれないでいる自分が言えた台詞ではないけれど、ここは衝動を噛み殺すべきだ。無思慮に鼠を追いかけたならば、自分はそこらにいる野良猫と何ら変わりがないことになる。誉れある式の一匹として、それだけは勘弁願いたかった。「わたしは、藍様の式なんだから!」口にすることで想いを留め、橙はだらしなく開いた口元をぐっと引き締めた。「単なる鼠一匹に乱されてはいけない!」
 このやり方が有用と気付いたのか、燐も隣でぶつぶつと何かを口にし出した。
「…とり……、…くう…………」
 どうやら地底には、鼠よりも美味しい鳥がいるらしい。どれほどの味か知りたかったけれど、ご飯のことを考えては鼠に飛びかかってしまう。橙は鼠に威嚇の声をあげ、鼠を退散させると涎を拭い、大きく息をついた。
 何とも際どいところだった。燐が隣にいなければ、一人なら思慮を無くして飛びかかっていたかもしれない。それほどに美味しそうな鼠だった。
「いやはや、何とも怖ろしい罠だったね」
 燐は橙の健闘を称える笑みを浮かべ、そっと親指を立てる。それが何の合図かは分からなかったけれど、橙も同じ仕草をして相手の健闘を称えた。
 寺まではまだ距離があるけれど、彼女と一緒ならば辿り着けるに違いない。そんな思いを胸に秘めながら、橙は再び前進を始めた。
 
 
 その鼠は、一目散に駆け出していた。あんなところに猫変化が、しかも二体と来たものだ。これまでも仲間が何体かやられたことはあるけれど、主の命を訊かず猫やら鼬やらにちょっかいを出したものばかりだ。
 主の言うことを聞いて徒党を組んでかかれば猫だろうと鼬だろうと、賢しき狐だろうと駆り立て貪ることができる。人間には流石に叶わなかったけれど、主に言わせればあれは酷い例外なのだそうだ。
『何しろあの人間たちと来たらわたしの主人はおろか、あの聖さえも倒してしまうほどだからね。あれは最早、天災に近い。颱風(たいふう)に襲われれば、いくら徒党を組もうと鼠は溺れるより他ないのさ、悲しいことにね』
 主の言葉はいつだって正しいから、頷くしかなかった。あれは仕方のないことだったのだ。
 今回はどうだろう。もしや鼠に食い散らかされることに業を煮やし、猫たちが相談して名うての猫変化をこちらに寄越したのではなかろうか。すると今度は天災ではなく、猫災だ。
 長年の怨敵同士による激しい戦いの予感を覚え、その鼠は身震いと泣き声を辺りに響かせながら走る。主よ主、どこへ行き申したか。一大事、一大事でありますぞ!
「おや、同士。狭い狭い幻想郷、そんなに急いで何処へ行く? 一大事とは何かね?」
 おお我が主よ大変です。猫変化が二匹、じりじりと寺のほうに近づいてきております。
「猫変化?」主と呼ばれた鼠変化――ナズーリンは鸚鵡返しとともに眉を潜める。「最近ちょいと猫を狩り過ぎたかな。徒党を組まぬ上に誇り高い種族だから、鼠に狩られての報復はないと踏んでいたんだけどね」
 彼女はくるくるとロッドを回しながら何やら考え込んでいたようだが、同士の怯えるような視線を見て、心配いらぬと言わんばかりに顔を上げ、不敵に微笑んでみせた。
「我が同士、連絡網に情報を流してくれ。緊急事態、女子供を所定の場所に避難させたあと、第二集会所に全員集合と」
 伝達を受けた鼠は二本足で敬礼の仕草をすると、一目散に駆けてゆく。残されたナズーリンは大きく息をついた。
「猫変化が二匹、か。こいつはあまりよろしくないな」
 いつもだったら主人である星に、適当な理由をつけて追い払ってもらうよう画策することもできるし、いざとなれば白蓮の慈悲に縋ることもできたのだが、あいにく両者ともに不在だった。しかも聖は村紗を共連れとしたため、寺には頼る相手が一人しか残っていなかった。
「一輪かあ、彼女に頼るのは気が進まないんだが」
 ナズーリンは星の監督者という立場であり、ひいては毘沙門様の白蓮に対する不信を具現化しているようなものだ。ようよう事情を察している星や白蓮は良いのだが、水蜜や一輪はナズーリンをそろりと疎む様子すら見せる。
 飛倉の欠片を探索する際に芳しい結果を出せなかったこともあり、余計に折り合いが悪くなっていた。あのときは遺失した宝塔を探す特別な任務を帯びていたからしょうがないと言い張ることもできたのだけれど。
「まあ、因果応報の範囲に入るのかね」しかしこの辺りに集う鼠たちにその責を及ばせるわけにはいかなかった。頭を下げるだけなら無料だ。ただでできることならいの一番に試さなければならない。「プライドに負けて命を失うのは愚か者のすることだよ」
 誰にともなくそう嘯くと、ナズーリンは命蓮寺を護る正門に向かう。一輪と同士たちの力を上手く束ねれば、化け猫の二匹くらいなら追い払えるはずだ。
「他に兵を伏せているとも考えられるが……」ナズーリンは四方に鼻を寄せ、忌々しい猫の臭いがしないことを確かめると、ダウジングの対象を猫にして丁寧に反応を探る。すると風下のほうからびんびんと反応が来た。「化け猫の他にやばそうなのはいないようだな」
 ロッドの動きを信じ、ナズーリンは一目散に寺へと向かう。そしてすぐに先までの算段が脆くも崩れたことを知った。一輪が何かに襲われたかのようにぐったりと倒れていたのだ。あの猫は陽動で、既に本体は一輪ほどの屈強を倒し、内部に侵入したのだろうか。しかし自分の鼻とダウジングをかいくぐる猫がいるなんて、とてもではないが信じられなかった。
 事情を訊く必要があると、ナズーリンは一輪の元に駆け寄り、頬をぴしゃぴしゃと叩く。誰かにやられたらしく随分とぼろぼろだが、妖怪だから無理矢理起こしても問題ないはずだ。
 頬が林檎のようになるまで引っぱたくと、一輪はうなり声をあげながらゆるゆると目を開く。前髪にかかる波立った髪を鬱陶しそうに払うこと数度、がばりと身を起こしてナズーリンを揺さぶりだした。
「おい、これは一体どういうことだ!」
 あまりに強く前後に振るものだから、ナズーリンは一輪の頬を拳で殴りつけた。
「落ち着け! そんな揺さぶられては会話にならないだろうに。一体、何があった! 君ほどの猛者がやられるなんて、余程のことがあったというのは分かるが!」
 そこはかとなく世辞を混ぜて今後の交渉に有利な材料を織り込もうとしたが、一輪は揺さぶりこそ止めたものの狼狽を隠そうともしていなかった。
「や、や、なんと怖ろしきこと。あ、あろうことか、ぼ、菩薩様が憤怒の表情で真っ赤になりながら、わたしを襲ってきたのだ」
 どう考えてもあり得ない情景にナズーリンは目を瞬かせることしかできなかった。
「わたしにはきみが何を言ってるか分からないんだが……」
「わたしにだって分かるものか。ああ、もしや第二の末世到来の兆しなのか……」
「聖という善性の塊のような御仁が復活したばかりだというのに、何故に仏自らが末世を現のものとする? しっかりしたまえよ、きみ」
 言いながら往復ビンタを二、三度お見舞いするとようやく我に返ったのか、一輪はその場にぺたりと足をついた。しかしこれではどうにも戦力として期待できそうにない。
「落ち着いたかね? ではこちらの用向きを話すのだが、寺に賊が忍び込もうとしている。わたしは下愚の輩を遊撃し、誘導する。君はここでしっかりと待ち受けてくれたまえ」
「賊、だと?」分かりやすい敵対象を得て、一輪の顔にようやく凛々しさが戻ってくる。「了解した。しかし、お前が?」
 一輪はどうにも悪いタイミングでナズーリンへの不信を思い出していた。口には出さないけれど、この騒動に自分が噛んでいるのではないかと訝しんでいるようでもあった。
「信じる信じないは勝手だがね。わたしも傍らにて庇護(ひご)を受ける身であることくらい自覚している。斯様な恩に背く不届きものを毘沙門様が寄越すと思うかい?」
 一輪はその素性ゆえ、神仏への帰依心を疑われることに弱い。案の定、一輪はしゃきんと立ち上がり、手に持つ宝輪を胸に構えてみせた。
「よく考えればわたしは名誉を濯がれたも同然。口応えできるはずもない。含むところを流すわけにはいかないが、今は手を合わせるとしようではないか」
 ナズーリンは無言で頷くと、頭の中で算盤(そろばん)を弾いていく。化け猫とはいえさもしく鼠を狩る本能はあるに違いない。それならばわたしと同士たちで化け猫たちを上手く門まで誘導し、挟撃してやるのだ。一輪の話していた憤怒する菩薩様のことが少しだけ気になったけれど、おそらく居眠りでもして夢の中でそのようなものを見たのだろう。
「それを誤魔化すために出鱈目を口にした可能性もあるな」
 彼女がそのように軽々しい嘘をつくとも思えなかったけれど、幻想郷にやって来た門番は途端にねぼすけになるという噂を耳にしたこともある。加えて誰もかもがちゃらんぽらんと来たものだ。少しばかりくだけてしまってもしょうがないだろう。
「まあ、推測は後だ。集まった同士たちに急いで説明を……」
 ぶつぶつと呟きながら集会所に向かうナズーリンの眼前に、それは突如として現れた。三日月のような裂け目が三つ。その姿にナズーリンの顔が一気に青ざめた。
「まさか、チェシャ猫だっていうのか?」
 人間の魔法使いによって生み出された彼方の怪物。空間そのものを体とし、どこにでも現れるにやにや笑いの猫。ナズーリンが遥か西の大陸にいた頃、一族郎党を鏖(みなごろし)にした恐るべき邪悪が紛うことなく浮かんでいた。
 しかもそいつらは連をなして近づき、彼女に向けて一斉に光線状の弾幕を発射してきた。
「こいつが猫たちの首領?」ナズーリンは慌てて回避すると、奥歯をぎりりと噛みしめる。「しかし、だとすればわたしの鼻やダウジングにかからなかったのも頷ける」
 チェシャ猫は空間を渡ることができる。否、空間そのものが体なのだから距離など関係ない。行きたいところにならどこにでも行ける。
「これはまずいなんてもんじゃないな……」
 もしかするとチェシャ猫はこちらの様子をずっと窺っており、寺が手薄になるのを手ぐすね引いて待ち構えていたのかもしれない。猫の癖に狡猾なと思った。
 しかもチェシャ猫の動きは速かった。すばしこさでは自信のあるはずだったのに、気がつけばチェシャ猫は回り込んでおり、鋭い光線を容赦なく撃ち込んでくるのだ。ペンデュラムで防いではいたけれど、四方を囲まれればおそらく終わってしまう。
「チェシャ猫ならそんなことお茶の子さいさいだろう」
 だから自分は遊ばれているのだと思った。
「何のためにこんなことを? いや、猫が鼠をいたぶるのに理由なんて必要ないね。だが、こちらとてやられてばかりじゃないよ」
 一人になってすぐの襲撃で助かった。弾幕の発射音を聞きつけた一輪が、入道を顕現させた状態で、既に間近まで来ていた。ナズーリンは必死の声をあげ、一輪を誘導する。
「一輪、こっちだ。すまないが手を貸してくれ。敵はあいつらだ!」
「わかっ、た――」一輪が指差したほうを見た途端、動きがぴたりと止まった。のみならず、地面に跪きガタガタと震え始めたではないか。「お、お許しください、菩薩様……」
「ちょ、何をやってるんだきみは! 気でも狂ったかね?」
 あまりにも奇矯な行動に慌てふためいた声をあげると、チェシャ猫の群れに混じって奇妙な鳴き声が聞こえてきた。
 笑い声のような、泣き声のような。叫び声のような、囁き声のような。
「これを操ってるやつの声? あの声か何かで集団幻覚でも見せているのか?」
 しかし、弾幕は現実の光景を破壊している。では何か、物理的なものを核とした幻覚装置かもしれないと考えたところで、ナズーリンは似たような出来事を思い出していた。
 聖を救出した人間たちには、飛倉の欠片が別のものに見えていた。これも同じことではないだろうか。
「そこでがたがた震えている情けない童子さん」
 あからさまな挑発を向けると、一輪は膝をつきながらナズーリンをじろと睨む。
「あれは菩薩様でもなんでもないよ。正体は分からぬが単なる幻覚だ。お前の繰る輪入道で片っ端から叩き伏せてしまえ」
「いや、しかし後光まで指しておられるのだぞ」
「それも含めての幻覚だよ。きみは仏への帰依がとても篤いから、きっと後光も再現されているのだ。しかし仏がこんなことをするわけがない。信心をもっとしっかり感じるんだよ、きみ」
 一輪が勘繰りながら菩薩様の一群――ナズーリンには未だににやにや笑いの団体に見えるのだが――を見据えると気付くものがあったのだろう。たちまち視線を険しくし、吐き捨てるように言った。
「なんだあれは、虚ろではないか」一輪はぎりと歯を噛みしめ、太腿に拳を打ち付ける。「斯様なものに翻弄されていたとは」
「反省は後だ。殴れ、一輪。仏を騙る不届きに護法の力を見せつけてやれ」
「言われなくても!」一輪は両翼にいかつい顔の入道――雲山を顕現させると、何やら分からぬものに輪をかざし、号令をくだした。「左右から一気に撃ち込んでやるんだ! 仏を騙る不届きもの、一匹たりとも逃してはならない!」
 大気が嘶くように震え、うっすらとした赤に染まった雲状の拳が次々に撃ち込まれていく。チェシャ猫はゆらりと姿をくゆらし、一瞬だけ蛇のような姿になったかと思うと何処かへ消え、そして別所から新しいチェシャ猫が現れる。
 キリがないのかと思ったが、それは雲山のほうも一緒だ。光線で撃ち抜かれたくらいでは微かに揺らぐ程度、拳の勢いは衰えることがない。
 千日手だと悟ったのだろう。幻は一瞬のうちに一ダースもの蛇に姿を変えると少し離れた木の上に、吸い込まれるように消えていった。それと同時、ぼうやりとした発光物体が空に舞い上がったと思えば、奇矯(ききょう)な笑い声を残して姿を消した。
「元凶はあれか?」ナズーリンが頷くと、一輪は怒りと震えをない交ぜにした表情に滲ませる。「あの不気味な声、仏を騙(かた)る不遜。よほどの悪鬼に違いあるまい」
 鵺(ぬえ)的な何か、あるいは鵺そのものなのかもしれない。しかし何故に鵺が化け猫と手を組むのか、ナズーリンにはとんと心当たりがなかった。問うように一輪を見れば、分からないとばかりに首を横に振るだけだった。
「兎に角、聖か星に早く戻ってもらわねば。一輪、きみは星の行き先を知っているのだろう? わたしの同士をそこに向かわせるから教えてくれないか」
 すると一輪は難しそうに口元を引き締めた。まだこちらのことを疑っているのかと思ったが、彼女の目に不信はない。嫌な予感がした。
「星はどこかへ出かけてしまったのか? わたしは何も聞いていないのだが」
 それはいよいよ拙いことになったが、零れたミルクを嘆いても仕方がない。ナズーリンは一輪に厳しい視線を向け、無理難題を口にした。「先ほどの戦いを見る限り、きみはあの鵺的な何かと対等に戦っていた。あれの対処を一手に任せるけど大丈夫かい?」
「お前こそどうなんだ。鼠が猫に勝てるのかい?」
「力で足りない分は頭で補うよ。心配することはない」
 三十六計どころか七十二計あっても逃げるに如かず。ナズーリンは同士の鼠たちにそう教えている。ましてや今の状況ならば、その倍の計があっても逃げることを勧めるだろう。実際にそうしても問題はなかった。命蓮寺は新興の寺であり、蓄えすらままならぬ状態だ。中を荒らされたところで痛くも痒くもないし、建物を壊されても山の神様たちに再依頼すれば事足りる。
 だが、妖怪に平気で荒らされるような寺を人間は敬わなくなるだろうし、妖怪どもは所詮その程度と嘲るだろう。人間と妖怪が仲良くするという聖の甘い夢は崩れてしまうに違いない。ナズーリンはそうなったときに、主人がどれほど肩を落とすかに思いを巡らせ、躊躇いのままに立ち止まることしばし、一つの決心を固めた。
「所詮は厭われる宿命の生き物だ。いなくなったところで、どうということはない」
 身を切り刻まれようと、食べられようと問題ないだろう。そう判断し、ナズーリンは集会所へ向かう身を一転、二匹の化け猫に向けて一目散に進み出した。

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