東方二次小説

聖白蓮さん、あなたに仏のお恵みを白蓮さん 後編   白蓮さん後編 第8話

所属カテゴリー: 聖白蓮さん、あなたに仏のお恵みを白蓮さん 後編

公開日:2016年02月11日 / 最終更新日:2016年02月11日

 じりじりと進むことしばし、遠くのほうから聞き覚えのある音が微かに聞こえてきた。
「寺のほうで弾幕ごっこが始まったみたい」
「ふむり、誰かは分からないけれど戦力が分散されればこちらの目的は達しやすくなる。天は我に味方しているようだね」
 そのとき、少し離れた場所をがさがさと通り抜ける音が聞こえ、二人は同時に動きを止めた。
「またこの音。それに少なからぬ気配が動いている感じもする」
「大きさ的には鼠っぽいね。戦力を集めて一斉に襲ってくるつもりなのかも」
 まさかと言いかけ、橙は迷家の里に住む猫の噂話を思い出した。最近になって人里周辺に鼬すら噛み殺す鼠の集団が現れ、猛威を振るっているのだと。与太話の類だと思っていたが、もしかしたらあの鼠は斥候か何かだったのかもしれない。
「その顔、心当たりがあるみたいだね」燐は恐るべき鼠たちが集いつつあるというのに、どこか気楽そうな表情を浮かべ、あろうことかぺろりと舌なめずりしてみせた。「博麗神社付近に住む猫にもそういう噂があってね。何を馬鹿なことをと確かめに向かった猫たちが一匹たりとも戻ってこない。だから長老猫たちの間では憂慮の種なのさ。実をいうとそれも今日、ここに来た理由の一つでね」
 燐は微妙にぼやかした言い方をすると髭をぴんと立て、警戒の念を示してみせた。
「どちらにしろ、こちらの居場所は気付かれていると踏んだほうが良いね。やることがあるならちゃっちゃと済ませる、拙いと思うのなら撤退したほうが良いかも」
 危うきを覚えたら迷わず退くこと、これこそが真の勇気というものだ。
 藍がかつて、橙に強く話して聞かせた戒めだった。どうにも不穏な空気が拡がっているようでもあるし、日を改めるのが賢いやり方なのだろう。
 否と、橙は首を振る。ここで躊躇えばまた殴られるかもしれない。あんな酷いことをされる主人を橙はできうる限り見たくなかった。
 橙は中腰になると、少しの音が立つのを覚悟で茂みをそろりと駆け抜け始めた。猫を襲うのが寺の住人だと分かっただけでも十分に有用な情報となる。最低でもそいつのなりと能力だけは確認するのだ。
 そんな決意を挫くように、あれほど激しくがつんがつんと響いていた音が不意に消えてしまった。燐に声をかけようとすると、人差し指を口に置き、発声を制してきた。
「何か来る。くんくん、鼠と化け物が混ざったような臭いだ」
 鼠は小さいしはしっこい。力はないけれど、急襲されて喉元に噛みつかれでもしたらその鋭い歯であっという間に食いちぎられてしまう。窮鼠(きゅうそ)は確かに猫を噛むのだ。いつ、どの方向から来ても対処できるよう、橙は身をきゅっと縮める。かさ、かさ、まるで悠々と歩くような音の間隔。猫が怖くないのだろうか。
「あいつがこの辺りの猫を食い散らかしたやつかな」
 そうだろう。でなければ猫の妖怪二匹の目前で、余裕でなどいられないはずだ。
「正面、来る!」「待って!」
 飛び出そうとした燐を橙は手で制する。
「旗、みたいなものを振ってる」白い、穿き物のような。いや、あれはまるきり穿き物だった。「下着を振ってる?」
 向こうもこちらに気付いたのか、下着を旗のように振りながら近づいてきた。
「何の真似だい、あれは。あたいたちをからかってる?」
「違う。あれは降伏の合図だったと思う」
「何もやってないのにどうして降伏してくるんだい? おかしくない?」
 そう言われると、橙も自信がなかった。昔そういう合図があると本で一度読んだきりだったからだ。
「そこの二人に告げる。当方には戦闘の意志はない」冷静で少しだけしゃがれていて、知性を多分に感じさせる声だった。「いまその証拠を見せる」
 声の主は旗を投げ捨てると懐をまさぐり、スペルに使用する符を何枚か、それにきらきらとして整然と光る正八面体の水晶、半ダースほどを次々と地面に置き、それから両手をあげた。
「この通り、武器は全て捨てたよ」その目にはどこか決意の煌めきのようなものがあって。戦意の喪われていないこともあって、橙にはすぐ信用できなかった。「まさかと思うなら身体検査でもするが良い。それともここで服を全て脱げば納得してくれるかい?」
 鼠耳と悪魔のように長い尻尾を持つ彼女は、その姿に似合わず潔く、勇ましかった。猫を食い散らかすようには見えなかったけれど、しかし猫変化と対峙してみせる胆力があるなら力を持たない猫などものの数ですらないのだろう。
 どう訊ねるべきか悩んでいると、燐が横から単刀直入に問いを投げつけた。
「これはまた賢しそうな鼠だね。あんたかい? ここいらで猫を食い散らかしたのは?」
「そうさ。やったのは同士たちだが徒党を組み襲うことを教えたのはわたしだ。そのことについてはわたしに咎が求められるべきだろう」
「ふむり、良い根性してるね。でも、これを見ても同じことが言えるかい?」
 燐は懐から怨の感じられる符を取り出し、スペルの実行を宣言した。辺りはたちまちのうちに針のような弾幕で満ちていく。
「死んでいった猫たちは百も噛まれて死んだろう。ならばお前は千度刺されて苦悶にあがきながら朽ち果てるが良いよ」
 口上とともに無数の針が、雨のようにして鼠変化に降り注いでいく。見ているだけで痛みすら覚える怒濤の攻撃に、橙は小さく息を飲んだ。地底の妖怪はしぶとく、たちが悪く、強者揃いだという話は聞いていたけれど、これほどまでとは思わなかった。式が憑きたてでも対等に渡り合えるか分からない。
 こんなものを目の前にしてどうするのかと思ったが、対面の鼠変化は逃げることなく緋色の棘弾を浴び続けた。血が噴き出し、呻き声をあげながらも、彼女はまっすぐと燐のことを見据えていた。
 燐は小さく息をつくと、符を収める。針山は一瞬のうちに消え、辺りには静寂が戻ったかのように見えた。すると今度は寺のほうから争いの音が聞こえ始めた。
「どうしたんだい、何故止める。猫を殺してきた元凶であるわたしが憎いのだろう?」
「あたいはそんなつもりでここに来たんじゃないよ。かつての同類が殺されるのは少しばかり癪に触るけど、君子にうかうかと近づいた彼らが悪いと言えなくもない。鼠が猫を食らうのはちょいとばかし道理に逆らっているような気もするけど」
「普段ならそんなことはしないよ。昨年の天候不順の影響で人間たちはいつもより厳重に穀物を貯め込むし、秋の実りも芳しくなかったから仕方がなかったんだ。それに徒党を組むよう訓練したのはわたしの同士たちに限るから、連鎖も本当に最低限しか崩してない。これは誓って本当だよ」
 信じられる? と言いたげに燐が視線を向けてくる。橙は少し考えてからゆっくりと頷いた。警戒は怠らないけれど、退ける必要はないと判断したのだ。
「わたしも同感だね。鼠ってのはやばければ逃げるもんだ。そりゃ腹立たしいくらいにね。変化したとはいえ、鼠がここまで一人で来ると言うなら、のっぴきならない何かがあるのさ。それは寺のほうでやってるドンパチと関係してる?」
「そう。わたしは今すぐ加勢しに行かなければならない。というのに、きみたちはそろそろと近づいてくる。同じ目的をもって寺を襲おうとしているのではないかと思ったんだ。でも、それはどうやらわたしの勘違いだったようだ」
 鼠変化はやれやれと言わんばかりに溜息をつくと、訝しむような視線を向けてきた。
「それならきみたちは何のために来たんだい?」
 橙と燐は手短にそれぞれの事情を話す。ナズーリンはウムフムと頷いた。
「火車に、そちらはなんと境界の賢人の眷族か。先日、そちらのことが話題に出てきたばかりだよ。実を言うとうちの代表が近いうちに一度、挨拶に伺う予定となっていた」
 偵察紛いの前進をあっさりと否定され、橙は腰が砕けそうになった。あと数日待てば、問題はすっかり解決されていたのだ。何のための苦労かと顔をしかめ、するとその表情を勘違いしたナズーリンが小さく頭を下げた。
「じりじりとさせてしまったのなら申し訳ない。だが聖も落ち着くまでは命蓮寺を離れることができなかったし、まずは直近に恩を受けたものへ伺わなければならなかったのだ。先日は守矢の神社、そして今日は地霊殿……」
「地霊殿だって?」地底の猫がそんなこと聞いてないよと言いたげに声を荒げる。「ここの主人は確か魔界に封じられていたんだろ? どうして地底へ向かうんだい」
「理由は分からない。ただ、この寺に棲む妖怪には、聖に従ったため地底に封じられたものもいるからその関連だと思う。あるいは本当に、黒き聖なる翼を探しに行ったのかもしれない」
「黒き聖なる翼?」燐は嫌な予感を顔に浮かべ、そろそろと訊ねる。「そんなものがいるなんて聞いたことがないけど」
 どう考えても燐の友人である空のことに違いなかった。彼女はいや増す力に増長し、のべつまくなし地獄炉に火をくべては楽しんでいただけなのだが。八咫烏が宿っているなら、それなりに聖性は感じられたかもしれないが、それにしたって空が聖なる黒き翼だなんて。こんな場でなければ燐は思わず笑い転げているところだった。
「物凄い勘違いをしてるような気がするんだけどね」
「わたしもそう思う。だが村紗と来たら地獄に神を見たと言って聞かなくてね」
「はははは」燐が乾いた笑いを浮かべたそのとき、寺のほうからさらに激しい弾幕の音が響き、目をぱちくりさせながら鼠変化に視線を向ける。「おっと、どうやらここで立ち話をしている訳にはいかないようだね」
「そのようだ。わたしは寺に戻ってなか……知り合いの手助けをする。もてなしができないのは申し訳ないが、もてなし手がいないのだから仕様がない。日を改めてくれると助かる」
「わたしは既に目的を果たしたから、日を改める必要もないんだけどね」
 まだ墓を見てもいないのに、燐はあっさりと言ってのけた。猫の敵討ちが理由でないことも先の会話からすると明らかであり、つまり彼女は第三の動機を胸に潜めているのだ。どういうことかと好奇心を膨らませかけたそのとき、寺から離れた場所で別種の派手な音が上がった。
「あれは、第二集会所のほうか!」
 そこには何か彼女の大切なものがあるのだろう。ナズーリンは橙や燐と対峙したときでさえ示さなかった狼狽を強く表していた。
「ええい、こんなときに次から次へと!」
 どうやら寺を襲っているものにもまだ手数が残っていたらしい。
「やばいのなら、手を貸そうかね?」
 燐はどこか計るような目で鼠変化を見やる。どうやらここで貸しにしておこうとの考えのようだ。そしてそれは自分にとっても有利に働くと気付き、橙も続けて申し出る。
「わたしも、手を貸せると思うけど」
 彼女は二人の厚意に縋るべきかしばし考えたのち、とっくりと頷いた。
「かたじけない。この借りは同士の供出以外で返すよ」この期に及んで鼠を食べさせておくれなどと言うつもりはなかったけれど、すんでのところで飛びかかろうとしていたこともあり、橙は何も言わなかった。「ではそちらの火車さん」
「わたしのことはお燐と呼んでくれれば良いよ」
「ではお燐、きみには寺で鵺的なものと戦っている一輪――入道遣いを助けて欲しい」
「鵺的なもの?」鵺と言えば妖の闇に紛れ、都を脅かしたとされる大妖怪だ。その知名度や威風は主人にも引けを取らない。「そんな凄いのに襲われてるの?」
「あくまでも仮定だが、本物かもしれないね。まったく、あんなものはついぞ見かけたことがなかったのにね。もしかしたら寺の連中と同じで、地底か魔界に封印されていたのが出てきたのかもしれない」
 その言葉に燐の耳がぴくりと反応する。
「なるほど。では、そいつが悪さをしないように徹底的に懲らしめてやるよ」
「追い払うだけでよい。もしかしたら他にも兵を伏せてあるのかも……って」ナズーリンの言葉など聞く気もないという風に、燐は寺に向けて一目散に飛んでいった。あいつは妙な幻覚を生み出せるのだと声を張り上げたが、届いたかどうかは分からなかった。「まったく、だから猫は嫌なんだ。気紛れで、人の話をちいとも聞かないんだから」
 それからはっと肩を震わせ、猫変化である橙の顔を見る。
「すまない、失言だった。さて、きみにはわたしと一緒に来てもらうよ。鼠の一群を敢えて散らすような輩だ、大物ではないと思うが念のためにな。言っておくが、同士たちがうろちょろしてるのをとって食おうとしないでくれたまえよ、きみ」
「分かってる。そんなことしない」
 悪いやつではないけど、嫌なやつだ。橙はそう心の中で呟くと、当初の目的から脱線しつつあることを危惧しながら、ナズーリンの後に続いた。
 
 多々良小傘が一番嫌いなのは自分を放擲した、そして放擲するかもしれない人間たち全てだ。そしてその次に鼠が嫌いだった。何故なら傘張りに使われる糊を食ってしまい、それでも満足できないと骨組みや傘布まで食べてしまうからだ。猫は傘を爪研ぎに使うし、犬は歯を鍛えるために柄をがしがし囓るけれど、鼠ほどは酷くない。
 人間と鼠は本当に嫌なやつだと思っており、だから人間のように鼠が集合しているのを見てついちょっかいを出したくなった。傘をぐるりと一回し、ぱらぱらと降り注ぐ弾幕の雨はたちまちのうちに鼠を散らし、小傘はくるくると傘を回しながら一本足ですとんと着地する。
「ああ、せいせいしたわ。ここの鼠ったら随分と太っていたから、きっと沢山の傘を食べたんだわ、良い気味よ。あの驚いた顔、びくびくした動き」
 それから小傘はお腹をすいすいとさする。
「でも、駄目ね。鼠の驚き程度では、ちっともお腹が膨れやしない。やはり人間を脅かさないと。あんなものはもう用なしだわ」
「ところがわたしのほうではきみに用があるんだな」背後からの鋭い声に小傘は肩を震わし、驚かされたことへの恨めしさを抱きながら素早く振り向く。「ここに集まっていた鼠たち、どうしたんだ?」
 鼠ではないが鼠変化だって似たようなものだ。そんなものに驚かされたと知り、小傘はつい意地悪な気持ちになり、ぺろりと舌なめずりした。
「ふふふ、みんなごくりと食べちゃったわ」
 小傘の言葉に、鼠変化の顔つきが固まった。人間ほどじゃないけれど、鼠変化の驚きはなかなかに腹ふくるるものだった。傍若無人な緑の巫女に再戦を挑んで容赦なく叩きのめされてからこちら、まるで運が逃げたかのように誰も驚かすことができなかったから、先程まで苛々していたのだけど。少しだけ気分が良くなった。
「あはは、そんなの冗談に決まってるじゃない。鼠なんて食べたらお腹を壊してしまうわ」何しろ鼠の中には、ばい菌がうようよしているらしい。肉を食べない小傘にはまるで関係のないことだが。「おっと、上からもご登場みたい」
 小傘を挟むように、猫変化が背後に着地する。その姿をちらと盗み見た小傘は、またもや意地悪くくすくすと笑った。
「今度は猫の変化さんね。もしかしてそちらの鼠を追ってきたの? その割には鼠さんと来たら、ちいとも驚いてないようだけど」
「そちらの猫は功徳を積むことを心得たものでね。今日は寺にやって来た不届きものの退治を手伝ってくれている」
「ふぅん。猫と鼠が仲良くか。だったら貴女、橙色じゃないとおかしくない?」
「わたしは橙色じゃなくて橙……って、どうしてわたしの名前を知ってるの?」
 橙と名乗った猫変化は瞳をぱちぱちさせながら、不思議そうな顔で小傘を見る。何ともたっぷりとした美味しい驚きで、これまでの飢餓が嘘のように満ち足りてきた。
「なに満足そうな顔をしてるんだ。まるで試合に勝ったようじゃないか」
「ふふふ。貴女たちが驚きを饗してくれたから、とても良い心地なの。そんなわけで、わたしは空をふわふわお散歩する予定だけど、あなたたちはどうしてここへ?」
 すると猫変化は戸惑い顔で鼠変化を見、お互いに小さく息をついた。
「大きな音がしたから侵入者かと思ったんだ。でもここを襲う気がないなら詮索はしない。同士たちは全員無事のようだし。さあ行った行った!」
 鼠変化が蠅を払うような仕草を小傘に向ける。少しむっとしたけれど、無駄な争いは面倒だし、小傘は相手の言うことを受け入れることにした。
「それではまたお腹が空いたら来るねー」
「二度と来るな!」
 鼠変化が怒鳴るのを耳を塞いでかわし、小傘はひょいと空に舞う。
「ああ、素敵な満足だったわ、と……おや?」
 小傘が立ち去ったのを見るや、無数の鼠が変化の元へ集まってきていた。それらは猫変化の姿を見ると慌てて散開し、しばらくするとそろりそろり戻ってきた。その仕草が小傘の嗜虐心に再び火を付けた。
「面白いなあ。脅かしてやりたいなあ」
 そんなことを口にしていると、小傘のお腹がぐうと音を立てる。よく考えてみれば飢えて飢えてたまらなかったのに、あれだけの驚きで足りるわけがない。さっきのは一時的に満腹になっただけで、驚きは全然足りていないのだと気付き、小傘はさっきよりも勢いよく傘を回す。
「さてさて、ではでは。楽しい第二幕の始まり始まりー」
 小傘は誰も聞くもののない宣言を虚空に飛ばし、傘に収めておいた符を取り出す。
「さあさ、とくとみよ。忘れられし輝かしい世界を(ハロウフォゴットゥンワールド)!」
 
「危ない!」橙がそう叫びながらナズーリンを突き飛ばすと同時、元いた場所に煌びやかな錐の弾幕が降り注ぐ。「上から来る! どんどん来てる!」
 まるで雨のように降り注いでくるから、橙にとっては心に優しくない弾幕だった。
「くそっ、言った側から反故にしてくるなんて。鳥頭より酷い」
 しかし相手は鳥でなく、唐傘変化だ。それもなかなかの力を持っている。ナズーリンは八角錐を上部に展開すると、橙にまくし立てた。
「わたしは同士たちを逃がさなければいけない。すまないがあいつを迎撃してくれ」
「了解」橙はすばしこい動きで弾幕の隙間を縫っていく。最初は弾の量に驚いたけれど、軌道は単純で読みやすい。質よりも量で攻め立てるタイプなのかもしれない。「ああいうの、あまり好きじゃないけど」
 押し切ってくるタイプに押し切られる負け方が多いから、尚更だ。でも今は相性だのと文句を言っている場合ではなかった。
「ちょっと、ここから立ち去るって言ったのになんで攻撃するの?」
「だって、まだ食べ足りないもの。驚き、戸惑い、怖れ、絞り尽くしてぐうの音も出ないくらいに食べてやるのよ」
 唐傘変化の話しぶりに、橙はすぐ心を食べるタイプの妖怪だとあたりをつける。あくまでも平常心で挑まなければと己に言い聞かせて対峙すると、傘はぺろりと舌を出した。
「獲物が釣れたようね。さて、貴女は猫変化だからこれでもどうかしら」
 唐傘変化がくるくる傘を回すと、辺りに水の力を持つ顆粒状の弾幕が飛び交い始めた。
「あはっ、驚いてる。あなた、普通の猫以上に水が苦手なのね」
 苦手なんてものではなかった。式憑きである橙に取って過度の水に曝されるのは致命的ですらあった。死ぬわけではないが力をごっそり奪われてしまう。冷静になるべきだと分かってはいるけれど、どうしても動きが過敏になり、頭が上手く働かない。主人にもよく指摘される駄目な癖だ。分かっているけれど、止められなかった。反撃の弾を撃つことすらできず、橙は徐々に密度の濃い空間へ追いやられていく。
「鼠ほどではないけれど、猫も嫌いよ。びしゃびしゃになって泣きながら帰ってしまえ」
 彼女はこちらの戸惑いが嬉しいのか、ますます盛んに傘を振り回し、すると水色の弾幕が大挙して、そしてあらぬ角度から一斉に降り注いでくる。相性の悪さで押し切られると覚悟した瞬間、ナズーリンの操る八角錐が弾幕を一気に薙ぎ払った。
「何をやってるんだ。敵の前にぼうっと突っ立っているだけなら、邪魔なだけだ」
 鋭い叱責を投げかけられ、橙は肩を震わせながら我に返る。
「勢いづいてるってことは食べられてるんだ。つまり舐められてるってことさ」
 背後にいる橙にそう声をかけながら、ナズーリンは八角錐を己の周りに展開させ、楕円軌道を描く錐を自由自在に繰り、降り注ぐ雨を完全に防ぎきっていた。のみならず攻撃に転じ、唐傘変化を薙ぎ払おうとする。大味な攻撃だから簡単に避けられるが、そこから八角錐自体も攻撃を開始し、唐傘変化を巧みに追いやっている。緩急をつけた上手い戦い方だった。力はそこまで強くないけれど、まるで主人のようにきちんと計算して弾幕とスペルを組み立てている。
「ほら、だからぼうっとしてないで。きみも加勢したまえ」
 しかしその前に唐傘変化はスペルを引っ込め、大きく身を後ろに退かせた。と同時、傘の骨組みのような弾幕と、傘を模した弾幕が生み出された。どうやら攻撃手段を変えたらしい。
「物量による二元攻撃か。あいつ、こちらが力押しに弱いと見抜いたのか?」
 傘をくるくると楽しそうに回しているところを見ると、何も分かっていないように見える。おそらく八角錐の鬱陶しさに対抗できるスペルを選んだだけなのだろう。
 橙は左右に二匹の鬼を喚び、ナズーリンに提案する。
「貴女はその八角錐で、傘の骨組みみたいな弾幕を集中して防いで。わたしはふわふわと飛んでくる傘を迎撃するから」
 あらゆる角度から飛んでくる傘に、狙いを定めて砲台のように撃ち込む。傘自身の耐久度は脆いらしく、軽い攻撃で壊れるものの、プロペラのような飛翔音からして当たればさぞかしすっぱり切れそうな感じだ。
「どうやらその役割分けで良さそうだね。ではペンデュラム四門を防御に、一門は本体への緩やかな迎撃用に。防御一辺倒だが、相手も撃て撃てというわけにはいくまい」
 決定と同時に、傘の骨組みのような弾幕が正面一杯に迫ってくる。あれらを見てはいけないと橙は自分に言い聞かせる。その中に紛れて迫ってくる色彩センスのない唐傘だけを撃ち落とせば良い。視野を広げ、余計なものを計算から外す。一つのことに集中する。パラレルな思考は苦手だし、沢山のことを同時にこなす力もない。でも一つに絞り込めば。
 鋭い鳴き声で迫ってくる傘に、冷静に狙いをつけて撃つ。狙いをつけて撃つ。荒波のように飛び交う骨組みを気にせず、傘だけを的確に射貫き、撃ち落としていく。良い感じだと思った。完全に連携が取れて、上手くいっている。主人ほどの一体感はないけれど、まさか鼠とこれだけ上手く力を束ねることができるとは思わなかった。
「良い感じだ。多分、もう一息」
 ナズーリンの言葉に橙も頷く。飛び交う弾も傘も、徐々に力を失いつつある。ペンデュラムによる遊撃が功を奏しているのだ。
 更に凌ぐこと数十秒ほど。荒れ狂うようだったスペルの攻撃が完全に止まり、あとには肩を切らして苦しそうな唐傘変化だけが中空に残されていた。
「妖力切れかな?」あれだけガンガンと弾幕を撃ったのだ。並でない妖怪であってもそろそろ限界が近いはずだ。「できればどっか行って欲しいけど」
「さて……」ナズーリンが鋭い視線を投げかけたと同時、唐傘変化はこれまでにも増して激しく唐傘をぶん回し、空中で地団駄を踏んだ。「まだやる気みたいだ」
「よくもわたしの傘をあんなに壊したわね!」自分で投げつけてきたくせに、理不尽なことを言うものだと思う。しかしああいう自分手前の輩は、それゆえに理屈を超えたことをしてくるのだ。だから橙は口上をあげる唐傘変化の挙動を油断なく見守った。「人間ほどじゃないけど、猫や鼠も傘を捨てたり壊したりすることを躊躇わないんだってよく分かったわ」
 小傘がぐるぐると傘を回していると、先ほど破壊した傘たちが恨めしそうに集い、踊るようにくるくると回り出した。まるでこれからお祭りでも始めるのかと、そんなことさえ感じさせる騒がしさだった。
「さあ、これが最後よ。忘れ傘たちの恨めしくも騒がしい祭典に翻弄されて、驚きながらどこまでも落ちていくが良いわ!」
 ぶわりと妖気が噴き出したかと思えば、橙とナズーリンの周りがあっという間にあらゆる傘で埋め尽くされた。折れた傘、捻れた傘、布の取れかけた傘、五体満足なのに放擲された恨みで猛る傘。更にはもはや原型を残さず骨だったり皮だったりする傘の残滓(ざんし)たち。そんな傘たちの群れが、囃し立てるように駆け巡っていた。
「力押しここに極まるだな。もちろんそれだけではないだろうが」言った側から傘たちが己の一部を上下左右から放ってきた。それに加え、傘の残骸たちがからかうようにぶつかってくる。「無茶苦茶だぞこんなの。しかも逃げ場がないと来てる」
「お祭りから逃げるなんて野暮は許されないのよ」
 そう言いながら傘たちの元締めは、賑やかしのように先ほどとは違う形の、骨組みのような弾幕を放ってくる。そうしてまるで囃し立てるように傘をくるくると回すのだ。
 各々がただ楽しんでいるだけ、明確な方向性はない。だが常に密度は濃く、ひっきりなしにかわし続けなければいけないのが厄介だった。相手がこれだけの量の弾幕をどれだけ維持できるかは分からないけれど、時間切れを待つ前に祭りの喧噪に巻き込まれ、押し流されるだろう。
 橙の眷族もナズーリンのペンデュラムも直近の危機を回避することはできたけれど、それだけだった。防戦しながら隙を窺う戦法ではどうしようもなく、かといってこれだけの質量を問答無用で吹き飛ばすだけの力質もない。
「こういうとき宝塔の力があれば便利なんだがね。ああもう、どうしてこういうときに行き場所も告げず出かけるのだ、あの粗忽(そこつ)者め!」
 ナズーリンは誰にともない恨み言を述べると、橙にちらと視線を寄越す。
「あれを何とかできるかね。わたしの手元には残念ながらそのための手段がない。もしきみのほうで何か開陳していない技があるならば、それに賭けようと思う。無論ないからといって恨むわけでもないが……」
 またもや上下左右からの攻撃で、微妙に立ち位置が離される。このまま分断されるのは拙いと思うけれど、再接近することすら難しい。あれを突き抜けて本体に攻撃をぶち当てる方法が何かないだろうか。体当たりで蹴散らしながら突貫する? だが、あの弾幕では届く前に撃ち落とされるに違いなく……そこまで考えたとき、橙の頭に一つの案が浮かんだ。
「いや、防御はペンデュラムを使えば補強できる。ならば……」
 解決策を口にしようとした途端、まるで二匹の間を妨げるように四方八方から傘の残骸が飛んでくる。もはやいかなる躊躇いも許されない状況だった。
「ぶつかるから、守って!」
 弾幕の飛び交う音の忙しさで聞こえたかどうかは分からない。前に突っ込んでいく様を見て、能力の如何と必要なサポートを汲み取ってくれると期待するしかなかった。
 ぐるぐると回転しながら、橙は唐傘たちの祭りの最中に突っ込んでいく。周囲に展開した弾のほか、身を守るものがまるでないため、全身に唐傘の残骸が容赦なくぶつかってくる。痛みに身を歪めながら、届けと願いながらの突貫をしかし、圧倒的な量の傘たちが防いでくる。
 今度こそ駄目かと、それでも目を開けて前を見据えながら突撃――しかし痛みは感じなかった。五門のペンデュラムが緊密に展開され橙の体を守ったからだ。
 五つと心の中で数え、橙は身を引き締める。ナズーリンは全ての守護をこちらに回してくれたのだから、二度なんて余裕は許されない。だからペンデュラムの外側がどれだけ激しくても、一部が防ぎきれなくて橙の耳を掠めても、本体である唐傘変化だけに集中する。
 数メートルまで来たところでペンデュラムから抜け出す。そして囮のペンデュラムをひょいとかわした小傘の様子を見計らい、異なる角度から思い切りぶつかった。有り余る手応えを感じた瞬間、祭りは嘘のように晴れて静寂となり、辺りには何もいなくなった。
 何も? 先程まで守護してくれていたナズーリンの姿を探し、よろよろと墜落していくさまを見て、橙は最後の力を振り絞って空中で拾い上げた。そのままゆっくりと地上に降り、大きく息をつく。
「捨て身で体当たりとは。式の特効精神かい?」ナズーリンは息も絶え絶えに、しかし嫌みな言葉と不敵な笑みを向けてくる。その体には少なからぬほつれと傷があり、橙は唐傘が見せた祭りの激しさを再認識する。「それとも身体強化の技か何か?」
「高速移動で相手を翻弄しながら攻撃するの。藍様……主人のように身体をもっと強化できれば良いのだけど、そこまではできないから」
「傘が脆いと見て突っ込んだのか。無茶をする。きみは三十六計逃げるに如かずって言葉を知らないのだろうな」
「いえ、知ってるわ」良く逃げるものが強いとは、主人が口を酸っぱくして言い聞かせることの一つだからだ。「でも逃げられないときに逃げるのは、何よりも愚策よ」
「まあね。しかし、あいたたた……まだ前座だというのに、この有様だ。これでは助けに加わることができないな」
 その言葉で橙は、元々の目的が寺に現れた厄介者の撃退であることを思い出した。もっとも先ほどの傘だって十分に厄介ではあったけれど。
「関係者かと思ったけど、どうやら全くの気紛れだったみたい」
「天候の変化はときに気紛れだから、傘もそういう性質を帯びてくるのかね。しかし困ったな、あの鵺的なやつは随分と厄介だったんだが。あのお燐という猫だけで大丈夫かね?」
「あっちの猫はわたしよりも十二分に強いようだったから、問題ないと思う」
「一輪も力ではわたしより強い。なら大丈夫だろうな。そのうち助けが来るだろうから、それまではここで待機していよう。下手に動いてまた同じような妖怪に行き当たっては適わない」
「おっかないこと言わないで……」
 そう口にしようとして、橙は地面の陰りに気付いた。
 木々の隙間から空を見ると、寺の上空を覆うように妖しげな雲がもくもくと立っていた。よくは見えないけれど、暗闇にも似た空間の中では魂のような赤い揺らめきが縦横無尽に漂っていて。まるで白昼に見る悪夢のようであった。
「な、何なの。これ……」
 橙の問いに、ナズーリンは異形の空を凝視したまま微動だにすることができなかった。

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この小説へのコメント

  1. 「自分手前」というのは同じ意味の言葉を2回使っているわけですが、自己中心的であるさまをよく表している表現ですね。

    小傘のさでずむに、ナズーリンの守護に相応しい橙のあのスペカ、
    何よりナズーリンがいちいちイケメンなのがとても良い。

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