東方二次小説

聖白蓮さん、あなたに仏のお恵みを白蓮さん 後編   白蓮さん後編 第2話

所属カテゴリー: 聖白蓮さん、あなたに仏のお恵みを白蓮さん 後編

公開日:2016年01月02日 / 最終更新日:2016年01月02日

 翌日の朝、わたしは聖を伴い、弟様の墓前に足を運んだ。またあの迫力に出くわすのは少し肝が冷えるなと思っていたから、あまりにも軽く名前を呼ばれたとき、それが使者であると気付かなかった。
「星という化性は、君のことではないのかい?」
 咎めるような声を受け、わたしは辺りを見回した。するとわたしの胸元くらいの背丈を持つ化性が尊大そうに立っていた。その耳と尾からするに鼠の変化であり、わたしは慌てて膝をついた。鼠は毘沙門様の使いとされているからだ。
「貴女様が使いでありましょうか?」
 聖が有り難そうに手を合わせると、鼠変化は鬱陶しそうに声をあげた。
「そういう畏まった態度はやめてもらいたいね。わたしは一介の卑しい鼠変化に過ぎないのだから」鼠は自分のことを尊大に卑下すると、わたしの目を覗き込んできた。「しかしご主人様も性格が悪い。猫の案内を鼠にさせるとは。軽口を叩き過ぎて疎まれているのかねえ」
 桑原桑原と雷避けの呪いを唱える鼠変化を尻目に、わたしは素直に感心していた。わたしが猫の妖獣だと見抜いたからだ。どうやら毘沙門様の使いであるというのは間違いないらしい。
「では早速だけど、この娘は預かっていく。なあに、そんな長く徴発する訳じゃない。そちらの事情も知ってはいるし、超特急で立派な代理人に仕上げてみせるさ」
 鼠変化はあくまでも軽い調子で言うと、わたしに小さな手を伸ばしてきた。わたしは聖の顔を見、小さく頷いてからその手をそっと握った。
「よろしい。では朝護孫子寺の聖白蓮よ、我が名はナズーリン。本当はもう少し長い名前を持っていたのだが、漂白の果てに遺棄されてしまったため、簡素な名前しか名乗れない。この無礼を許して欲しい」
 鼠妖怪は口上を述べるとわたしに目配せし、最後に一言付け加えた。
「この娘、暫し借り受ける。異存はありやなしや?」
 聖はほんの僅かだけ躊躇ってから、小さく首を縦に振る。それからわたしが大きく頷くと、ナズーリンはあっという間にわたしを連れて中空に至り、紫雲の直中に身を投じた。もやもやとしたその道を通ることしばし、わたしの目に雲を大地とした宮殿が見えてきた。
「ここは既に楽土の階(きざはし)にかかっている。迷い込むと大変なことになるから気をつけること。あとご主人様の姿を見て驚かないことだ」
 もしや地上に出たときは周りに被害を与えないよう、存在を最小限に保っていたのだろうか。あれだけの仏格なら有り得ない話ではなかった。わたしは心を正し、宮殿の門を潜り、広間へと通された。すると簡素ながら細工の行き届いた椅子の上に小童が一人、悠然と座っていた。
 その身は随分と気安かったけれど、滲み出る圧力は昨日、わたしと相対した仏であることを示していた。わたしはまたもや慌てて傅き、相手の出方を待った。
「そう畏まることもない、面を上げるが良いよ」
 何とも可愛らしい声で言われ、わたしはそろそろと身を起こした。わたしのほうが背の高いことに一瞬だけ気後れを覚えたけれど、向かい合うとそのような気遣いは無用あるとすぐに分かった。
「姿形に惑わされないか。真に宜しい」
 もしかすると、小童の姿をしているのはわたしを試すためであったのだろうか。そのようなことを考えていると、彼はからからと悪戯もののように笑ってみせた。
「そのような魂胆はないのだ。人間は神にそれらしい形を求めるゆえ、地上ではあのような姿を取っているだけだ。こちらのほうが本性に近いし、何より楽だからな」
 彼は戸惑うわたしをじろじろと眺め回し、しかし何も言わずにどっかりと椅子に腰掛けた。
「今日よりお前は我が代理人として大いに励んでもらう。その証として寅丸の姓を受けるが良い。お前は今日この時より寅丸星である。その名、意味を努々(ゆめゆめ)忘れるなかれ」
「寅丸、星」か弱い猫として生まれ、浅ましくも聖人を食らい、また人を食らってきたわたしを、彼は寅であると言ってくれたも同じだった。「わたしにはあまりにも勿体ない」
「奢らぬものならば、できるだけ良いものを身につけるべきだ。そのうち身の丈にあってくる。そうだ、ナズーリンよ。彼女に似合う服も見繕っておくれ。あとここで何をするべきかを教えてやってくれ」
「御意のままに」ナズーリンは傅いてそう言うと、わたしに何故か羨ましげな視線を向け、それからこちらについて来いと無言で語った。わたしは最後に深く一礼し、謁見(えっけん)の場を後にする。「良い名をもらったじゃないか。しかもご主人様と来たら、ひどく上機嫌だった。よほど君のことが気に入ったようだね」
 わたしにはとてもそうは思えなかったけれど、付き合いの長そうな彼女が言うのだから間違いないのだろう。そう思えたからこそ最初の緊張はほぐれたけれど、これからの生活を考えただけで不安は土に落ちた水のように黒く染み込んでくるのだった。
 それらを紛らわせるため、そして小さな側近に馴染むため、わたしは彼女にぎこちなく話しかけていた。
「貴女は仏に仕えてどれくらいになるのですか?」
「そんなことどうでも良いじゃないか」対するナズーリンの言葉は何とも素っ気ないものだった。「名前からして外来のものであると検討はつくだろう。それで十分ではないのかい?」
 やんわりと、そしてはっきりとした拒絶だった。聞いてはいけないことだったのかと思う一方で、そもそも彼女がわたしのことを好いていないのではないかという危惧が広まりつつあった。それがわたしの種族的要因に端を発しているのではないかと思い、わたしは努めてにこやかな笑顔を浮かべた。
「わたしはとうに殺生はやめています。安心してください」
「そんなことは心配してないし、わたしは猫に食われるほど間抜けじゃない」その割には尻尾が少しだけ震えているようだが、わたしは何も言わなかった。「君は少し頭が弱いな。仏の代理人などと、豪放磊落なだけで勤まるものじゃないよ」
「その、それは……」頭が良くないことは自覚していたから、わたしは畏まることしかできなかった。「真に申し訳ない」
「そこで素直に謝られても困るのだがね。全く、君はわたしが鹿を指して馬だと言ったら、素直に受け止めるのかい?」
 いくらなんでもそこまで酷くはないと思うけれど、彼女ほどの弁舌であれば丸め込まれないという自信もなく。わたしは曖昧に誤魔化し笑いを浮かべることしかできなかった。いよいよ彼女は呆れてしまったらしく溜息をついてから、次に頑丈そうな扉の前で立ち止まった。
「ここが君の勤め先だよ」ナズーリンは小さいなりをして実にあっさりと扉を押し開けた。するとそこには視界を覆わんばかりの本がずらりと並んでいるのだった。「どうだい、これほどの書籍を誇る場所、地上には到底見あたるまい」
 わたしは魔界の首都でとんでもなく広い図書館を見たことがあり、あそこに比べればたかだか数十畳の閑散とした書庫であるが、しかしわたしにとっては本の大山なのであった。
「凄いですねえ」わたしは素直に感嘆の息をつき、次いでナズーリンに訊ねた。「するとわたしの仕事はさしずめ、書庫の整理といったところでしょうか?」
 いかにも下積みらしい仕事であったけれど、ナズーリンは小さく首を横に振った。
「ご主人様の代理を務めるということは、正しくそのように振る舞えということだ。幸いにしてそのための知識は、この部屋の本や巻物の中に収まっているのだよ。君にはこれからひたすらに、知識を身につけてもらう。そうして十分だったとわたしやご主人様が判断すれば、君は晴れて正式な代理人ということになる」
 自慢ではないけれどわたしは学問の類がすこぶる苦手である。聖は教え上手でもあったから、わたしのような頭でも仏の教えをそれなりに学ぶことができた。しかしここに教え手はおらず、何よりもわたし一人で取り組まなければならないのだ。目眩のする思いであった。
「どうだね、尻尾を振ってのこのこと帰るかい? だがその場合、誰か別のものをここに寄越してもらうことになるがね」
 その誰かが聖であることは明白も明白であり。わたしは挫けかけた心を立て直し、意地悪げに笑う鼠変化に言ってみせた。
「何をこれしき程度、すぐに読み干して見せますよ」
「それだけでは駄目だよ。きちんと頭に叩き込んでもらわないと」
 ぐ、と重たい息を飲み込み、わたしは毅然と棚を見上げる。目の前に立ち塞がるは冷厳たる本の山。やはり毘沙門様は厳しかった。
 せめて思い立ったが吉日であると思い、わたしはその日から早速、代理人としての修行を始めることにしたのだった。

 光陰矢の如し、とは正にこのことであろうか。あらゆる苦難に耐えて一刻も早く聖のもとに戻ろうと考えていたわたしであったが、ひたすらの勉強はわたしの想定する苦難に入っておらず、しかも大半は遠い異国の言葉で書かれてあるから、逐次理解できる言葉に訳して行かねばならなかった。だから学問は遅々として進まず、しかもそれ以外のことは何も命じられる気配がない。毘沙門様の代理を名乗るのであれば然る力を身につけるべきであり、そのための修行も取り組まなければならないはずなのに。仏の居殿なのだから、いて然るべき眷族(けんぞく)たちも一向に見当たらず、よもや狸にでも化かされているのではないかという気持ちが俄に高まってきた。
 そんな折にナズーリンが「苦戦しているようだねえ」とからかうように話しかけてきたのだから、鬱屈もぶちまけようというものであった。
「ええ、来る日も来る日も同じことの繰り返しで頭が変になりそうですよ」わたしは大袈裟に本を閉じ、床の上にだらしなくごろんと寝転がった。「お前の脳味噌でも腹に収めれば、少しは捗るかもしれません」
 野蛮なことを丁寧な言葉で語れば、ナズーリンは鼻息を一つ鳴らしてみせた。
「出来もしないことを語るのは箔が落ちるだけだよ。まあ、気持ちは分からないでもない。わたしだってご主人様に同じことを課せられた時には随分と苦労したからね」
「じゃあ代理人なんて貴女がやれば良いじゃないですか。どうして聖をせっつくような真似したんですか?」
 するとナズーリンはつと視線を逸らした。どうやらあまり聞かれたくないことらしい。
「人間がわたしの姿を見て威光を感じるような存在であれば、別段問題はないんだけどね。人間は強さに見合う姿形をしていなければ納得しない。例えば鬼のような金髪の麗しき女性や、高い知性を持つ猛々しい獣などだ。良いかね、人間ってのは基本、浅墓でどうしようもないものだ。君の仕えている白蓮とやらが特別なだけだね。もっともそんなこと、散々に人を食した君ならば理解して然るべきだとわたしは考えているのだけれど」
 そう言われると、返す言葉もなかった。わたしが食べて来た人間は腐ったような臭いのする奴ばかりだったからだ。わたしが初めて食らった聖者のように甘く良い香りのする肉など地上にはほとんどいなかったし、そういったものたちは一人も食べなかった。だからといって、わたしの行為が正当化されるとはこれっぽっちも思っていないけれど。
「人間に対抗するための、最大の武器は知識だよ。誰も知らないことを知っていることほど人間を怖れさせるものはない。だからね、神仏のように振る舞う知を持つというのは大切だ。全てと言っても良いかもしれない。人が請うて来たら適当に誤魔化し、何も叶えず騙くらかして、塵みたいな虚栄心を満足させるが良いのさ」
 彼女の言はまるで仏の使いが発するものではなかった。少なくとも彼女が人間を酷く嫌っているのは確かなことのように思えた。
 わたしは初めてナズーリンに少なからぬ興味を覚えていた。初対面のとき素性を聞いたのは単なる儀礼心であったけれど、今は彼女のことを純粋に知りたいと思った。
「貴女は毘沙門様の眷族なのに、人間を信じていないのですか?」
「それならばまだ猫の方が信じられる」ナズーリンの言はほとんど錐のように鋭かった。「猫は獰猛で残酷だけど、人間にけしかけられなければ、生きていくより多くの鼠を捕らえたりしない。しかも奴らと来たらあまつさえ、鼠を効率的に捕まえるような猫さえ生み出す始末だ。わたしにしてみれば人間は始末に負えないし、ことあるごとに手を差し伸べようとするものたちの気もしれない。放っておけば良いのだ」
 それなりに長い話となるのだろう。ナズーリンはわたしの隣に腰を下ろすと、ざっくり胡座(あぐら)をかいてみせた。その様はわたしよりも実に堂々としており、なるほど仏様の眷族であるのだなあとわたしは無駄に納得してしまった。
「なに獲物を見つけた猫のように目をきらきらとさせているんだ。貴女は時々、よく分からないなあ」ナズーリンはわざとらしく溜息をついてから、わたしに諭すような表情を向けた。「ほら、何をぼうっとしてるんだい。分からないところだらけなんだろ。拙い脳味噌を振り絞って、まずは何を訊きたいのか整理したまえ」
 どうやらこの鼠は色々と厳しいことや皮肉を述べながら、わたしを助けてくれるらしい。
「勘違いしてはいけない。こんな所に二人で長いこといたら、弾みで食欲を向けられるかもしれないからね。なけなしの頭を常に使わせて煩悩を断とうとしているだけのことだ」
 わたしはナズーリンの言葉に、別の驚きを見出していた。
「二人? ここは毘沙門様の居殿ではないのですか?」
「ここはほんの別荘みたいなものに過ぎないよ。わたしは君を教え、導くように仰せつかっている。それらが滞りなく終わった暁には、ご主人様にまたここへ来て頂くことになるだろう」
「なるほど、そうだったんですね。道理で誰の気配も感じないはずだ」これだけ立派な建物なのだから、多くのものが住んでいると思っていたのだけれど、早とちりであったらしい。「しかし、わたしに確かな見識が備わったとどうやって判定するのですか?」
「わたしが試験する。十分だと判断すれば、それで終了だね」
「ふむり」然るに彼女はわたしに対することを一任されるくらいの権限者であるらしい。あれだけの毒舌を振るうというのに。あるいはだからこそ逆に信頼され、また重用されているのだろうか。「では、早く貴女に認められるよう頑張ります」
 わたしは袖を捲り、何を訊くべきかという問題と格闘を始める。するとナズーリンは、半ば呆れたように言った。
「わたしは試験官なんだよ。手心を加えて欲しいなどと思ったりしないのかい?」
「それを期待できるようなものではないでしょう、貴女は」口調と裏腹にそこまで意地悪くはないようだけれど、おそらく厳格であるに違いない。「それにわたしは聖のお役に立てるようなものになりたいのです。だから、ずるはできません」
「聖のお役に立つ、ね」ナズーリンはやや含むところがあったのか、どこか思わせぶりにそう口にした。「結局のところ、貴女が選ばれた理由もそれなのだ。ご主人様は彼女に執心……というのは違うな。目をつけられていたからね。そして今の姿を憂慮している」
「聖は皆の役に立ちたいという、純粋な願いだけで行動しています。何を憂慮する必要があるというのですか?」
「ご主人様が彼女を気に入られていたのは、力を持たないにも関わらず仏の道を体現し、素直に老い、近づく死を穏やかに受け入れる心を持っていたからだ。仏を直に感じ、そのための力を振るえるのはなるほど、仏に愛されている証と思えるのも無理ではない。だが仏は無力で、しかし自分たちを愛してくれるものを誰よりも愛するのだ。だから力を得た若々しい身で戻ってきたとき、ご主人様は憂慮なされたのだ」
 ナズーリンは黙って首を横に振り、わたしの肩に手を置いた。
「いずれ分かる。まずはその拙い頭で学びたまえよ」
 その頭を散々にかき乱すことを言ってきたのはナズーリンのほうであったけれど、わたしは何も知らぬ無学な獣に過ぎない。だから黙って書物に向かった。

 時計もない、太陽と月が昼と夜を交互に演じる訳でもない。毘沙門様の別荘はいつでも勉学に励むことができるくらいに明るく、また安眠できるほどには穏やかであった。この二つは元来矛盾するはずだが、ここでは共に存在できるのであった。
 わたしは大和言葉のみならず唐言葉や梵言葉すら学び、偉人貴人の教えや考え方について読み耽り、また毘沙門という仏の由来を紐解いていった。その多義性には目眩がするようであり、また同じ仏の教えであっても相矛盾するような発言が数多く見つかったため、その度にナズーリンを訪ね、いつまでも言葉を交わした。彼女はどんなに簡単なことであっても、嫌な顔一つせずわたしに教えを垂れてくれた。その語り口はいつも丁寧で分かりやすく、だからわたしは着実に仏の知識を深めていくことができた。
 それでいてわたしは、一つの疑問を抱きつつあった。ここにある書物を全て読み、理解したら確かに毘沙門様の教えを身につけたことになるかもしれない。だがそれはたった一つでしかない。全てを知ることなどできはしないのだろう。教えを定めた本人たちでさえ、不可能であるに違いない。学ぶということにはおそらく限りがないのだろう。
 そのようなことをナズーリンに語ると、少し驚いたような顔をしてから小さく「ふむん」と頷いた。然るに彼女のような頭の持ち主に取っては戯言であったのかもしれなかった。
 
 いくつもの言葉で書を読みほどくことにもようやく慣れ、しかし読むべき本は一向に減る気配がない。煩悶ともに床へ転がり、知恵熱を収めていると、いつもと違い神妙な顔をしたナズーリンが現れた。わたしは彼女に言われ、ここへ来て最初に通された広間に足を運んだ。
 毘沙門様は例の気安い姿で腰をかけられており、如何様にして勉学に励んでいるかを語るように言われた。そこでわたしが最近になって考えたことを纏めると、童子のような姿をした仏は大きく頷き、それから塔のような物体を渡してきた。
「これを持ち、地上に戻ると良い」
 いきなりの宣告であった。まだ読み切れていない本が山ほどあるというのにこの仕打ちはよもや、一向に知識を身に着けられぬわたしにほとほと愛想が尽きたのであろうか。 そんなことを考えながら戦々恐々していると、毘沙門様は次にわたしの左後ろで傅いていたナズーリンを手招きで呼び寄せた。そうして何やらひそひそと耳打ちをした。彼女は驚きに顔を歪め、それから神妙に頷いた。
「寅丸よ、彼女を貴君の下につける。なりは小さいが頭は良く、また捜し物の才能もある。如何様にもこき使ってくれたまえ」
 どうやら二人の間では全てが当然のように動いているらしい。しかしわたしには何をどう捉えて良いのか分からず、ナズーリンを部下につけるなど青天の霹靂に過ぎなかった。
「ちょっと待って下さい。わたしが彼女を従えて地上に降りるなど、それではまるで……」そう、これは最後通牒などではないとわたしは今更ながらに気付いた。「わたしが代理人として認められたようではありませんか」
「然り。寅丸にはこれから地上で我が代理人としての勤めを果たしてもらう」
「しかし、わたしはまだ塵ほどの知識も身につけておりません」
「そんなものはナズーリンに訊けば良い。彼女は元々そのためにここへ呼んだのだ。お前はその偉容で人々の前に姿を表し、我の代理を演じれば良い」
「それでは、わたしは何のために長い時間を費やしたのですか?」
「長い、か。それは地上に戻り、確認すれば良いだろう」
 毘沙門様は意味ありげなことを口にすると、宝塔にぱっと灯りを点した。するとこれまで何の変哲もなかった物体が、突如としてその偉容を示し始めた。
「では、わたしはこれで失礼する。寅丸よ、お前は我が代理である。努々そのことを忘れるなかれ。どのようなことがあろうと絶対にだ。良いな?」
 それだけをきつく言い残すと、毘沙門様はわたしの返事を待たず、まるで煙のようにするりと消えてしまった。その念の押しように怪訝なものを感じたけれど、かといって何を言い返して良いのかも分からず、わたしは寄る辺を求めてナズーリンを見た。すると彼女は表情を氷のように固まらせ、身に受けた衝撃をいなしているようだった。
「もしかして、わたしの下につけられたのが嫌なのですか?」
「いや、そういうわけではないよ」ナズーリンは慌てて首を横に振り、それから盛大な溜息をついた。「あまりにその、いきなりだったからね。戸惑っただけさ。それよりも……」
 ナズーリンは少し考えてから恭順の意を感じさせる表情を浮かべた。
「これからは貴女がわたしのご主人と言うことになりますね。どうか宜しくお願いします」
「別に改まらなくて良いですよ」
「こういうことにはけじめが大事です」
 そんなことはないと言いたかったけれど、わたしも聖に従うと誓ったとき、すっぱりと言葉遣いを改めたのだと思い出し。だからナズーリンの丁重さを受け入れるしかなかった。
「では、行きましょうか。でも、ここを管理するものがいなくなってしまいますが、大丈夫でしょうか?」
「それなら心配しなくても良いですよ。準備がありますから、ご主人は外に出ていて下さい」
 それならわたしも手伝って良かったのだが、かといって何をして良いのかも分からず、わたしはナズーリンに全てを一任して外に出る。薄い紫色をした雲の上に立つというのはやはり何とも落ち着かない。かの斉天大聖は雲を駆り、千里を疾ったとされるけれど、わたしにはとても真似できそうになかった。
 暫くするとナズーリンが風呂敷包み一つを背負い、宮殿から現れた。彼女はその掌に収まるくらいの宝塔を取り付けると、上の部分を複雑に捻って開けてみせた。すると世にも不思議なことが起こった。しゅうしゅうと煙のような雲が沸き立ち、宮殿がみるみるうちに萎んでいくではないか。そしてとうとう、立派だった建物が跡形もなく消え、後には呆然とした様子のわたしと、何事もないという風に平然としたナズーリンだけがいた。彼女は風呂敷をわたしに放って寄越し、予備の服だと言った。
「天の衣だ。解れたり縮んだりすることはないと思うけれど、ご主人にはそれらしい臭いがありますから。定期的に洗うことをお勧めしておきますよ」
 ナズーリンは先ほどの宝塔を今度は地面に取り付けて、同じように雲へと戻していった。わたしははたと気付いて自分の力で空を飛び、地面の隙間から地上を見下ろした。すると遙か眼下に、聖たちの住まう寺があるではないか。随分と遠くに来たのだと思っていたけれど、それはどうやらわたしの勘違いであったらしい。
 宮殿をしまう作業を終えると、ナズーリンは宝塔をわたしに手渡した。
「この宝には毘沙門様の威光が委譲されている。代理人であることを示す貴重な証だからくれぐれもなくさないように」
 わたしはおそるおそる宝を受け取ると、その中央に灯る光に目を凝らす。それだけで何となしに勇気が湧き、なるほど仏のご加護が込められているだけのことはあると得心するのだった。
 宝塔を大事に抱えると、わたしは改めて眼下に目をやり、辺りを見回す。木々の色や空気の温度からして、わたしが出立した頃と同じくらいの季節であるようだ。日は東のほうから僅かに覗き、まだ朝早い時刻であることを示していた。常に適度な明るさの中に暮らしてきたわたしにとって、太陽の明るくも暗く、痛みすら感じる赤の光は、地上に戻ってきたことを強く実感させてくれた。既に何年もの月日が立っているに違いなく、わたしは懐かしさに涙ぐむものを感じながら一目散に弟様の眠る塚の前に降り立った。するとそのことを察していたのか、それとも塚を訪ねる時分であったのか、聖が墓前に手を合わせていた。わたしが近付くと聖はその気配に気付いて顔を上げ、戸惑いの表情を浮かべた。当然ながらその容姿には些かも変わるところがなく、麗しいままであった。
「えっと、星、ですよね。お帰りなさいと言って良いものかしら」
「ええ。わたしは学問のほどを毘沙門様に認められ、正式な代理人として遣わされたのです」どうしてそうなったのかは未だに謎であったけれど、わたしが代理人となったのは確かな事実であった。「長き間、ここを留守にしてすいませんでした。これからは不在を埋めるべく、更に励む所存です」
 わたしは万感の思いを込めてそう言ったつもりであった。しかし聖はなおも戸惑い、かくりと首を傾げてしまった。
「こういうことを訊いては良くないかもしれませんが、何か不祥事を起こして破門されたとかそういうことではないのですよね。認められてここにいると、そういうことでしょうか?」
「もちろんですとも。いや、実を言うと自信はないですが、お墨付きはもらいました」
 そう言ってわたしは毘沙門様から戴いた宝塔を聖の前に示してみせた。聖は宝具をまじまじと見据え、その力を認めたのだろう。それでも胸中の戸惑いを隠しきれない様子であった。
「どうやら確かなようですね。星がここを出てまだ、太陽と月が丁度七回ずつしか出ていないから、俄に信じられなかったのですが。いやはや、疑ってすいませんでした」
 聖の言葉に、今度はこちらが戸惑わされる番であった。わたしは天の宮殿で相当に長い時間を過ごしたはずだ。それなのに、地上ではまだ七日しか経っていないという。
「七年でも七月でもなく、七日ですか?」
「ええ、七日です」聖はきっぱりと言い切り、次に何やら合点がいったらしく、ふむりと頷いてみせた。「かつてかの斉天大聖は、釈迦の掌を抜けようと遙か遠くまで飛び、しかしそこから抜け出すこと叶いませんでした。力のある仏にとって、時間や空間をその掌とするのはそれほど難しいことではないのかもしれませんね。あるいは心の有り用が、時間や空間をそれほどまでに左右するのかもしれません」
 それにしても、一月や一年といった時間を一日に見せる技など、わたしには到底及びのよらないものであった。
「どちらにしても、星が無事に戻ってきただけでわたしとしては嬉しいです。星はあちらで一体、どんなことを学んできたのかしら。今日のお務めが終わったら、是非とも聞かせてもらいたいわ」
 ひたすら本を読まされ、訳の分からない基準で認められ、それらしい宝具と服装、それに姓を与えられた。わたしが語れることと言えばたったそれだけであり、ひいてはただの一語に集約されるのであった。
 わたしはあの宮殿において、あらゆるものを知ることができないと知ったのである。あるいはそれこそナズーリンや、ひいてはその主がわたしに知って欲しかったことであるのかもしれない。だがわたしはその認識をどう活かして良いのか分からなかった。
 
 この日から寺は二つの顔を持つようになった。聖が精力的な外遊を行い、対するわたしはと言えば本殿に居を構え、参拝者に相対した。そうしてわたしが知ったのは戦に限らず、人間はあらゆる意味で騙される生き物であるということだった。益荒男のような上背と虎の毛並みに似た髪の色を有し、格別の力を持たないものにも伝わる獣の気迫は、意図した通りに人間たちを傅かせ、彼らはわたしに祈りを捧げて満足そうに去っていくのだった。
 わたしは彼らに然るべき加護を与えた。といってもわたしが行ったのは何の力も伴わない単純な説法であり、つまるところ単なる詐欺であった。それでも後日に文句を言って来るものは誰もいなかった。それがわたしには不思議で、ナズーリンにそれとなく訊ねてみたけれど、曰く気にする必要はないとのことだった。
「神仏があらゆる願いを叶えれば、人間たちは喜ぶでしょう。而(しか)して最後に出来上がるのは、強きものに頼ることしかできない脆弱な生き物です。地に満ちるべきは奴隷ではありません」
 辛辣ではあったが、ナズーリンの言葉には頷けるものもあった。
「なるほど、よく分かりました」
 わたしがそう言うとしかし、ナズーリンの視線は大層冷たかった。お前には何も分かっていないと言いたげであった。だが次の瞬間には皮肉げな笑みを浮かべ、ごろんと寝転がってしまった。この鼠変化は仏のいぬ間に何とやらで、境内の隅っこにいつもごろごろしているのであった。そうして極稀に、彼女を見つけられるものが現れた時だけ、気怠そうに仕事をしてみせるのだ。わたしは彼女を見つけられたものこそ、ここを訪れた甲斐があったものたちであると思う。
 寺に毘沙門様の遣いが現れたという話はすぐに広がり、中には相応の対価を伴って現れるものもあった。わたしがどうすれば良いか訊くと、ナズーリンはこれまでと同じで良いと言った。
「錆び付いた銭一枚の願いが、金一袋の願いに勝ると思いますか?」
 そのような道理が通るとは毛一つも思わなかった。だからわたしはそれらを適度に受け取り、かつ退けていった。そのことを聖に話すと、それらは惜しみなく治水工事や新しい田畑の開発に継ぎ込まれていった。するとその慈悲はいよいよ偏く知れ渡り、若返りの聖女に毘沙門様の遣い、我々はいよいよ安泰であると口々に言葉されるようになった。
 わたしは最初、それらの変化を良いものだとばかり考えていた。しかしそのうちにぽろぽろと綻びが現れ始めたのだ。
 まず、寺の周辺にある村々に予告もなくより重い税が課せられるようになった。更にはどこか柄の悪いものたちが潜み始め、行き交うものたちから無理矢理奪うようになってしまった。人間に味方する強力な妖怪退治の出現が、結果として人間の災難を呼び寄せたのだ。彼らはすぐに退治されたけれど、いつまた同じような輩が現れるかもしれなかった。
 のみならず、寺には聖が留守の隙を見て、こそこそと何者かが通うようになった。それから少しして、寺のものたちに変化が出てきた。必要以上に肥え、また貧しい参拝客に対して、横柄な態度を少しずつ増やしていったのである。
 すると、あれほど精力的だった聖に一種の疲れが見え始めた。それが懊悩(おうのう)から来るものであるのは明らかであり、わたしは遂に溜まらなくなってある日の夜、聖の寝所をそろりと訪った。聖は珍しく灯りを点けて書物を読んでおり、だから顔に浮かぶ憔悴の色がいよいよ痛々しく見えた。
「あら、随分と珍しいですね、こんな時間に」わたしは人間を相手にするようになってから、朝起きて夜眠る生活を完全に習慣としていた。故に聖も夜遅くの訪いからわたしの気持ちを察してくれたのだろう。「ささ、隣にいらっしゃい」
 聖はわたしを近くに座らせると、うつらうつらするように首を揺らし、黙して何も語らなかった。しかしその顔つきは決して眠たげではなく、その奥底から何かを必死で引き上げようとしているかのようであった。聖の根底にあるものが何か切に知りたかったけれど、急かしても何も生まれないに違いないと思い、わたしはただ粛々と考えの纏まるのを待った。やがてそれが眠気に変わり、うつらうつらし始めた頃、聖は不意にぽつぽつと語り始めた。
「星よ、世界は誰のものでしょうか?」
 いきなりにも程のある問いかけであった。そんなこと、仏の代理人を任されたといっても、たかが一介の獣に答えられるわけがなかった。しかし聖の顔に傲慢はなく、また実に真摯な顔つきで、わたしに是非をと示しているのだった。
「この世界は誰のものでもありません。神や仏ですら、そのようなことを口にする謂われはないと、わたしは思います」
「魔界神は確信を込めてわたしのものであると言いました。その心情で彼女は荒涼とした土地を統べ、変えてきた。わたしには朧気ながらその気持ちが分かると、いやいつか分かってみせると思い、これまでやってきました。届く限りに手を伸ばし、より遠くを、遠くを見ようとしてきました。しかし世界などまるで見えてこないのです。眼下に広がるもの全てを受け止めるだけでも精一杯で、しかもわたしはその全てを愛そうとしていないのです」
「そんなこと、当たり前でしょう。わたしにだって苦手なもの、嫌いなものはあります」力を振りかざすもの、威張り散らすもの、そのようなものは人妖限らず嫌いであった。「仮にそのようなものがあったとしても、わたしは聖を見損なったりはしません」
 わたしは力を込めて聖に思いの丈をぶつけた。聖の悩みを少しでも解してあげたかったのだ。しかし聖は微笑んでくれたけれど、胸の内を軽くすることはなかったように思えた。
「ありがたいことです。でもわたしは星の気持ちを素直に受け取るわけにはいきません。わたしは最早、この欺瞞(ぎまん)を胸にしまっておくことはできないのです」
 そう口にすると聖は厳しい問答者の顔でわたしに相対してきた。
「星は獣として生まれ、多くの人を食らって今の知力を得ました。人間に取って、忌むべき存在であったはずです」
 聖はわたしの過去を容赦なく指摘してきた。そこに何か意味があるのだと思い、わたしは頷きとともに聖の言葉を肯定する。
「ええ、そのためにわたしは魔界にまで落とされました。しかしわたしは聖に出会うという幸運に浴し、新たな目的を経て地上に戻りました」
「星は寺の護りとなり、毘沙門様に見出されてその代理人となり、多くの人間に奉られるようになりました。星は人間に仇なす獣でありながら、己によってその身を正した。素晴らしいことだと思います」
 わたしはただ幸運に恵まれたため、このような姿でここにいる。誉め称えられることなど何もないはずだ。それに聖がそのようなことを言いたいのでないと分かっていたから、わたしは表情を崩すことなく聖の結論を待った。
「わたしは昨日、ここから山をいくつも越えた場所で、ある妖怪と対峙しました。そのものは夜な夜な倉を襲い、地主とその周辺を苦しめていました。わたしはそいつを退治しようと単身でその領分に乗り込み、首根っこを押さえつけました。そうして然るべきところへ付きだそうとしたとき、村の人間たちに取り囲まれ、襲いかかられてしまいました」
 聖はそこまで一息で話してから、核心に入るためか口元に力を込め、言葉を続けた。
「その妖怪は、領民を助けるために倉を襲っていたのです。元々は人間の糧を求めてきたのですが、いい感じに弱った赤子や年端もいかない子供が、捨てられるように放置されているのを見て怪訝に思い、声をかけました。そうして苛烈な重税の事実を知ったそうです。その妖怪は里に向かい、倉を襲う代わりに肥えた人間を差し出せと要求しました。欲得にまみれた行動ではありますが、慈悲の一欠片もないならば、弱った子供を食らって通り過ぎれば良いだけのことです。その妖怪はどうしてか分かりませんが、そうすることができなかったのです。もしかしたら飢えに端を発し、遂には妖怪と化してしまったのかもしれません。
 もちろんその行動だけをして、妖怪を善とすることはできないでしょう。しかしその妖怪を狩り出そうとしていたものたちは一様に肥え、神仏の名前を唱えていました。その中には毘沙門様の名前もあったのです。わたしには、ほとほと分からなくなってしまいました」
 もしかするとその名前を唱えていたものの中には、寺を参ったものもいるかもしれない。そうすると聖の懊悩の幾分かはわたしに責があるのかもしれなかった。
「それだけではありません。妖怪は決して仇を成すだけの存在でないと、気付かせてくれる出来事が他にも色々とありました。自然の仄かな営みに色をつけたり、害益を伴ったり、いずれも退治するには根拠の少ないものたちです。しかし世の為政者に目を付けられれば狩られ、そして彼らの行動を正当化するのが、いつも決まって神仏の教えなのです」
 そこまで聞いてわたしにもようやく、話の向かう先が分かってきた。そして何故、打ち明けるのに長い躊躇いをみせたのか。わたしがまがりなりにも仏の代理人であるからだ。
「星は考えたことがありませんか。神仏と妖の類にはどうやって線が引かれたのか。力の強弱? 否、力のある妖怪もあれば戦の苦手な神もいます。善と悪? 秩序と混沌? いいえ、そうでないことを証明するものがいま、わたしの前にいます」
 わたしは人を食らうという悪をなし、混沌に身をやつした。しかし今は秩序の番人として立ち、善なす聖の側に仕えている。
「わたしは思うのです。もしかすると神仏と妖の間に境はないのではないか。人間がどう捉えるかによってのみ、峻別されるのではないか。ならば忌み嫌われ、また恐れられている妖に新たな意味を見出し、与えることができるのならば。新しい物語の可能性を知れば、彼らは変わることができるのではないか。わたしは彼らにそれを語ってあげたいと思うようになりました。人間に教えを垂れるのと同じように、妖怪にも教えを施すのです」
 聖は胸の前で強く手を組み、わたしに頭を垂れてきた。
「わたしはこの様な存在に身を堕としましたが、それでも彼らに語ってあげられるでしょうか。わたしにそのようなことができると思いますか?」
「もちろんですとも」わたしは聖の祈りを迷うことなく肯定した。神仏の代理人としてではなく、聖のことを知っているからこそだった。「だからこそわたしはここにいますし、魔界の空には星が満ち満ちているのです」
 すると聖は大きく息を吐き、胸の中につかえている何かを一気に吐き出した。鼻を啜り、目頭を拭ってから、わたしに朗らかな笑顔を向けた。
「わたし、やってみることにします」
 言葉の調子からは強い決意が感じられ、また朧気であったけれど、どこか貴いものの浸透していく不思議な気配を覚えた。
「相談に乗ってくれてありがとう。星は本当に立派な毘沙門様の代理人です。わたしは星になら安心して後を任せられます」
 そう言われると、信頼されているのにわたしの胸はずきりと痛むのだった。聖の救ったものたちが領主の嫉妬で俄に苦しめられ、寺の僧たちは増長を始めている。これらにどういう態度を取るべきかさえ、わたしは決めかめていたのだ。
 聖はこれらのことを知っているのだろうか……否、もちろん知っているのだろう。それでいてわたしに後を任されたのだから、聖の名に恥じぬ毅然(きぜん)さを見せるべきだった。
「わたしの心はいつでも、いつまでも聖のものです。だからご心配なく」
 新たな決意を口にすると、聖はわたしの頭をそうっと抱いてくれた。その感触が柔らかくて、とても甘くて、わたしはその中でいつまでも、とろとろとたゆたっていたかった。涙が出るほどにそう思った。でも、わたしは強くなければいけない。だからそっと距離をおき、一礼して聖の寝所を後にした。
 少なからぬ興奮を冷まそうと夜風に吹かれながら歩くことしばし、突如として厳しい叱責の声が聞こえてきた。
「ふざけるな! どういうことだ!」
 声の質からするに、それは一輪のものであった。
「伝えた通りだよ。まあ仕方がないさ。あれだけ派手にやってるんだから。近い将来、そういうことになるのだと予想もついていただろう?」
 そして冷静で嘲笑に満ちた声は、ナズーリンのもので。この二人がどうして衝突しているのか、わたしにはまるで分からなかった。
「何なら聖やご主人に話してくれても良いよ。どうせ何も変わらないだろうけれど。全く、弟のようにもっと慎ましやかであればこれほどの大事にはならないはずだったのに」
「黙れ、この、ネズミが!」一輪の持つ宝具から紅い靄が揺らめき、それは厳めしい男性の顔を示し、緊張をはらんで固着した。「これ以上、兄さんや姐さんのことを侮辱するな。例え星の部下であっても容赦しないと思え」
「おお、怖い怖い」ナズーリンはひょいと肩を竦め、それからわたしのほうを向いた。「どうやら乱入者のようだ。彼女の手前、ここで騒ぎを起こすのは宜しくないのでは?」
 一輪はわたしのことを見定めるようにきつく睨みつけてきた。しかしわたしには諍いの原因が分からず、一輪が取り乱している理由も分からなかった。わたしの態度や表情からそのことを察したのか、一輪は入道を収め、何か言おうと口を開きかけ、悔しそうに飲み下した。それから何も言わず、暗がりの中に消えていった。
 残されたナズーリンといえば素知らぬ顔で、聖の件もあって、だからわたしはいつもよりきつい口調を作った。
「何を話していたのですか? 聞き取れたのは二言三言だけですが、どうもナズーリンが一方的に悪い態度を取っていたように思えます」
「そうですね、否定しません。謝罪しろと言われれば、今から一輪のことを追いかけて、地に頭を擦りつけるでしょう」
 ナズーリンは縄についた罪人のように粛々とそう言ってのけた。丁寧な中にも譲ることは何もないという強い意志が感じられ、わたしは困ってしまった。
「そのようなことは言いません。ただ、ナズーリンが悪いと思っているなら後で謝っておいた方が良いですね」
「そうします」そう言ってナズーリンは気まずそうに背を向けた。「ではわたしはこれで」
「待ちなさい。ナズーリンは先ほど一輪に何と言ったのですか? 一輪に話して良いと言ったのだから今ここで話せるはずです」
「聖に、いまやっていることを全てやめさせた方が良いと言ったのです。古参の彼女ならば、聖に言って聞かせることができると思いました」
「どうして……」「そのようなことをと言われますか?」
 わたしが曖昧に頷くと、ナズーリンはこちらに向き直り、誤魔化しの聞かないきっぱりとした口調で言った。
「おためごかしはおやめください。その理由をご主人も朧気に悟っているはずです」
「寺の風紀が乱れ、謂われのない税が課せられたことを指しているのであれば、わたしが何とかします」
 虚心坦懐に仏の教えを学ぶよう、寺のものたちには徹底させる。領主には税の取り方を改めさせる。他にも問題は浮かんでくるかもしれないが、公明正大に対処する。それで良いはずだ。
「なるほど」ナズーリンは無関心にそう呟いた。「ご主人がそう心を定められているのであれば、わたしはただ従うのみです」それから威厳に満ちた表情を、容赦なくわたしに向けた。「ご主人、あなたは毘沙門様の代理人です。そのことを努々、お忘れになられぬよう」
 辛うじて頷くとナズーリンは再び背を向け、ぼそぼそと蚊のように呟いた。
「わたしは決して意地悪でこのようなことを言っているわけではありません。ご主人のことが嫌いなわけでもありません」
「分かっていますよ」
「それでもご主人はいつか、わたしを憎むことになるでしょう。喉をかき切りたくなるほどに、腹を引き裂きたくなるほどに。もしそうなってもそれはご主人の罪ではありません。わたしが、ひいては……」
 ナズーリンは敢えて何も言わなかったけれど、わたしには彼女が誰のことを口に出そうとしたか、理解できたと思う。
「否、わたしが悪いのです。そのことも努々お忘れなきよう」
 ナズーリンは不吉な予告を残し、今度こそわたしの前から立ち去ってしまった。わたしは吉兆と凶兆、その二つに挟まれていつまでも立ち尽くしていた。この二つのうち、どちらが正しいのだろうか。わたしの拙い頭ではどのように考えても答えは出なかったし、どのみち聖の行く道に従うほか、わたしには成し得ようがないと思った。
 嗚呼、わたしは愚かものであった。わたしは悲しいほどに、何も分かっていなかったのだ。
 

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