東方二次小説

聖白蓮さん、あなたに仏のお恵みを白蓮さん 後編   白蓮さん後編 第4話

所属カテゴリー: 聖白蓮さん、あなたに仏のお恵みを白蓮さん 後編

公開日:2016年01月14日 / 最終更新日:2016年01月14日

 寺に新しい象徴が生まれてからしばし、参拝に訪れるものが更に増え、寺のものたちは正にてんてこ舞いの日々であった。あの船は迫りくる末世に備え、聖が造られたのだという噂が俄に広まってしまったらしい。密教の寺がこんなに大っぴらで良いのかは分からなかったけれど、聖は特に気にする様子もなく、わたしやナズーリンに雑務を任せてしまい、本人はしばしば船に乗ってどこかに行ってしまうのだった。
 そして寺には裏の参拝客も増えた。夜になると妖の臭いをぷんぷんさせた奴らが、例の船を目当てに姿を現すようになったのだ。不思議なことに彼らは人を襲わず、聖の説教をじっと聞き、夜が明けないうちに各々の塒へと帰っていくのだった。
これには傍観者であった一輪が顔を顰め、聖に厳しく忠言した。
「船に妖を入れるのは不用意で危険です、おやめください」
「人間と同様、妖怪の中にも仏の教えを学びたがっているものはいるのです。また彼らには学ぶ権利があると思います」
「彼らは人を食らい、驚かせ、拐かすのですよ。仏の教えを学んだだけでその性分が収まるほど妖は単純ではありません」
「それを言うならば人間にも悪行に走るものはいますし、そのことを悔い改めて善き余生を過ごすものもここにいます」
 そう言って、聖は嬉しそうにわたしを見るのだった。要するに聖はわたしに対する信頼をあらゆるものに偏く発揮しているのだ。もしかしたらわたしがここにいることで、聖を始めとして周りのものにいらぬ迷惑をかけているのかもしれない。そう思うとあんなことを言った身でありながら、口を挟まずにはいられなかった。
「わたしだって人を美味しそうだと思うことは稀にありますし、存分に猛り上げ、吠えたいという衝動に駆られることもあります」
「そうですね」聖はまるで素知らぬ風であり、そうして夢を見るように言うのだった。「だからこそわたしは確かめたいのです。人間とは、妖怪とは、神仏とは、わたしとは。そして、世界とは何であるか。そのためにもこの場は絶対に必要なのです」
 聖のどこか浮世離れした態度が気にはなったものの、わたしは聖を応援する立場であり、これ以上は何も言わなかった。一輪は眉間に皺を寄せ、なおも納得しないようであったが、聖の変わらない決意に折れ、退散せざるを得なかった。

 それから数日後、寺に精悍そうな男が数人、実に険しい顔でやってきた。彼らは美味そうな食べ物やきらびやかな装飾品を伴い、聖の前に示すと額を頭に擦りつけた。
 聖は贅沢品の山に珍しく分かりやすい溜息をつき、どっかりと床に腰掛けた。
「そのような格好では話もできないでしょう。海から来られた御方たちよ」
 素性を言い当てられたためか、男たちは顔を上げ、戸惑いながら視線を寄せ合った。読心術でも使えるのかと戦々恐々したのかもしれない。
「潮の香りがしますから」続けての言葉に男たちはきょとんとし、ほうと肩を撫で下ろす。然るに彼らはどうやら腹に一物を秘めているらしかった。「先に言っておきますが、あの船を利用したいのであればすぐにお帰り願います。あれは戦や貿易のために造られたのではありません」
「滅相もない。斯様に目出度いものを、我らが如き賤(せん)業に費やそうなどと夢にも思いませぬ」
「この度は何卒にもお願い申しあげたいことがあり、こうして参上した次第でして」
 彼らは慇懃な言葉を次々とぶつけてくる。ご機嫌伺いにしては些か大袈裟で、だから彼らなりに切羽詰まっているのだと感じた。
「実は最近、滅法力の強い船幽霊が出没するようになりまして」
「大小構わず手当たり次第、浮かぶものなら貿易船から桶まで沈める凶暴な手合いでして。これまで何度も討伐隊を出しましたが、芳しい成果はなく、正に仏に縋る思いでここを訪れたので御座います」
 船幽霊とは確かに、海路を往くものたちにとっては退っ引きならない存在である。しかしこれほどの財を積めるのならば、都を訪ねて如何様な力でも借りられるはずだ。船幽霊は怖ろしいけれど、聖でなければ解決できないという訳でもない。先に帝の使いが訪れた例もあるけれど、あれは正に特例中の特例である。
 聖は干物を数束、簡素な木造の仏像を吟味して一体だけ選び取ると、後日に伺いますとだけ約束し、その旨を認めた文を渡して、使者を丁重に返した。それからしばらくの間、寺を開けると宣言して、準備のために離れの院へ籠もってしまった。その表情が芳しくなかったのでわたしはそろりと後を追い、物思いに耽る聖に声をかけた。
「彼らは何か隠していますよ」
「都には妄りに持ち込めない事情があるのでしょう。おそらく納めるべき税を誤魔化しているに違いありません」
聖は使者たちの隠し事をあっさりと見抜いてみせた。すると憂慮の種はそれ以外にあるのだ。
「海にあり、行き交う船を沈めるもの……星よ、わたしはそこにある一致を見ました。それゆえにこの依頼を受けたのです」
「それはもしかして、魔界の海獣ですか?」
「然り。あるいはただ凶暴なだけの存在であるかもしれませんが」
 言葉と裏腹、聖はそう考えていないらしい。
「まあ、出たとこ勝負ですね」
 何だか無性に不安を煽る言い方ではあったけれど、あの船ならどのような存在であれ、容易に沈められはしないだろうと思った。
 
 聖は日中、夜ともに寺を開けることが多くなっていたから、不在だからといってこちらの生活がそう変わるわけでもなかった。最初の数日こそ船の飛び立った跡で、聖の代わりに仏の教えを説いていたけれど、すぐに誰も現れなくなった。然るに彼らは聖目当てで集まっていたのだろう。故に寝不足もすぐに解消され、わたしはじりじりする気持ちを押し殺しながら、己の責務を果たして日々を過ごしていた。
 不在から数えて丁度二十一日目に聖は船を伴い、寺に戻ってきた。荒波に揉まれたためか、船からは強い潮の香りがした。海の持つ特徴は魔界と地上でさして変わらないらしい。
 空飛ぶ船は着陸のとき、どことなく不安定であった。船に破損した様子は見られなかったけれど、流石の聖も相当の力を使ったのかもしれない。どのように労おうか考えていると不意にぴしゃん、とわたしの足下を水が跳ねた。猫の本能でさっとかわし、水の跳んできた方を見やると、船の縁に陰気な顔色をした濡れ鼠の幼い女が座っていた。彼女は恨みがましい目でわたしを睨つけると、柄杓を使って潮の臭いがする水をかけ、わたしを船から遠ざけようとした。
 するといつのまにか背後に近づいていた聖が、ひょいと柄杓を取り上げてしまった。
「船を守ろうとしてくれるのはありがたいですが、彼女は敵ではありません。先に話したでしょう? 彼女が寅丸星、寺の護りを担当してくれる可愛い寅さんです」
 些かくすぐったくなるような紹介であったけれど、悪い気はしなかった。わたしは寺の守護者として威厳あるように見せるため、ぴんと背筋を伸ばす。すると濡れ鼠の少女は明らかな敵意を容赦なくぶつけてきた。理由は分からないが、一見で嫌われてしまったらしい。
「怖がらなくても良いのですよ。彼女はとても優しいですから」
 聖が声をかけると濡れ鼠の少女はかちこちに体を強ばらせ、かくかくと頷いた。それからやはりわたしのことを鋭く睨んでくるのだった。どうやら彼女はわたしを怖れているのではなく、聖の信頼を受けるものとして嫉妬しているようだった。
「星には先に紹介しておきますね。彼女は村紗の水蜜、いよいよ素性がなくあてもないというので、ここに住まわせることにしました」
 彼女が船幽霊であることは肉体のない霊だけの存在であること、手持ちの柄杓や海水を操ること、びしょ濡れのなりから明らかであった。船の軌道が安定しなかったのも、聖の力不足ではなく船を脅かす存在である船幽霊を乗せていたからなのだろう。
「わたしが不在の間、この子の面倒を見てもらえると助かるのだけど」
 聖に真剣な顔で希われたら、わたしには断る術などなかった。しかし陸に船幽霊など、おかしなことになったりしないのだろうか。わたしに対する明白な対抗心も含め、これからしばらくは平穏でいられないなと思った。
 
 村紗水蜜は聖の存在如何で行動を一変させた。聖がいるときはその教えをしっかりと聞き、模範的な良い子であった。しかし寺を空けると途端に悪戯ものとなった。言うことも聞かず辺りを駆け回り、寺のもの参拝客を区別せず、海水を引っかけて回った。どこから海水を仕入れているのかと思ったら、べったりと濡れた襦袢(じゅばん)からいくらでも塩辛い水が滴り落ち、悪戯の源を供給しているのであった。
 そのことを知った聖は腕を捲り、おかしな形をした服を一着仕立てた。それは魔界の船乗りが身につけていたもので、幽霊でも着られるように幽体の糸で紡がれているのだった。村紗は少し躊躇ってから濡れ襦袢を脱ぎ、船乗りの服をするすると身に着けていった。新しい服からは海水が滴り落ちることもなく、村紗は最初こそ驚いていたものの、べたべたとしない服を素直に喜んでいた。然るに彼女も好んであの襦袢を身に着けていたわけではないらしい。
 涼しげで活動的な出で立ちのせいか、青ざめきった肌の色が少しだけ明るくなったような気がした。これだけで船幽霊としての本性がすぐに洗い切れるものではないにしても、彼女の何かを確実に変えたようであった。悪戯の手段を失ったこともあって、誰かを驚かせたりすることがなくなり、その時間を慣れない読書や写経にあてるようになった。
 そうしてある日、村紗はわたしにおそるおそる、話しかけてきた。
「わたし、貴女をどう呼べば良いのかしら」
 独り言のようであったから、わたしは村紗の目当てが誰であるか分からなかった。計らずも無視する形となったことで彼女の声は寂しさと切実さを込めたものとなった。
「わたしのこと、怒ってる? 悪戯したから?」
「あ、ええと、わたしに話しかけてきたのですか?」これまでほとんど聖としか会話しない聞かん坊であったから、わたしは半ば自分に言い聞かせ、それから先程の問いに答えを返した。「お好きなように。寅丸でも、星でも」
「では、星様」
「敬称などつけなくて良いですよ」
「ふむり、では星で良いかしら。わたしのことは村紗で良いわ」
 話すうちに村紗はどんどんと砕けた態度になっていった。畏まった態度で遇されることが今でも得意でなかったから、彼女の距離感はわたしにとってありがたいものであった。
「わたし、星に聞きたいことがあるの。貴女は聖と長い付き合いなのでしょう?」
「長いといってもほんの少しです。この寺に暮らす僧たちのほうがよほど、聖と暮らしてきた時間は長いはずです」
「だってあの人たち、わたしが姿を現すだけでびくびくするんだもの。お寺に務める人間があれで良いのかしら」
 夜中にひたひたと音を立て、おどろおどろしい声をあげて彼らを怯えさせたことなどまるで覚えていないらしい。
「まあ良いわ。それで、どうなの?」
「それならば、聖本人から聞けば宜しいでしょう。余すところなく話してくださるはずです」
「聞いたけど分からないから言ってるんじゃない」わたしの正論を村紗はぷいと跳ねのけ、中空にぷかぷかと胡座をかいた。「地上でのこと、魔界でのこと、失礼にならない範囲で聞かせてもらったわ。でもわたしには聖がどうしてああなったのか、まるで分からないの」
「ああなったとは具体的に、どういうことですか?」
「聖はわたしの知る誰よりも強く、空のように深い御方よ。頭上には紫雲がたなびき、わたしのように哀れな素性をまるで極楽のように受け入れてくださった。それなのに聖はわたしと同じ人間生まれなのよ」
 村紗は聖に対し、実に分かりやすい感情を示していた。思慕と、相反する嫉妬の気持ちである。わたしにもそれは分からないでもなかった。聖には側にいて恥ずかしくないものでありたいと、周りのものを鼓舞する何かがあるのだ。種族こそ違うけれど、わたしと村紗はどことなく近い思いを持っており、だからこそ素直に親近感を覚えた。
「村紗は聖のことを尊敬しているのですね」
「ええ、わたしはあの方を敬愛しているわ」予想していた以上に素直な言葉であり、わたしは少しだけ胸が痛むような、そんな心地を覚えた。「わたしは若き身空で溺れ死に、余りある未練に浸されたまま、生あるものを呪い続けることしかできなかった。通りがかる船の一隻一隻には異なる物語があり、希望があり、生があるというのに、わたしはそれらを否定して腹の底から憎しみを浮かべていたのよ」
 その時のことを思い出したのか、村紗は苦いものでも食べたかのように顔をしかめ、息をつく素振りを見せた。薄い体から何も吐き出されないことは彼女の嘆きを余計に煽ったようだった。
「何故、どうしてという顔をしながら沈んでいくものたちを見るときだけ、わたしの心は満たされた。そんなことをどれだけ続けていたのかは覚えていない。沈められればあとはどうでも良かったから。そうやって海上に一人凝り続けたある日、いつになく頑丈な船を伴って、あの御方がやってきたの。わたしはその船を一度は沈めてやったのに、より強く浮かび上がってきたわ。光を帯び、その先には紫雲を帯びた彼女がただ一人でいたの。
 わたしはその時になって初めて、己が死んだことを自覚したの。それに気付かせてくれた彼女は幽世からの遣いだと思ったわ。でもわたしはいくつもの船を沈め、絶望する人の心を啜り続けてきた。こんなことをする奴が、極楽になど行けるはずがないと思った」
 村紗は実際、極楽には行けなかった。彼女の言う通り、その身に抱え込んだ妄執はあまりに重く、背負い込んだ罪の数々もまた同様にのし掛かっているのだろう。
「その代わりに聖はわたしをここに連れてきてくれたの。いくらでもここにいて、少しずつでも良いから学びなさいと言ってくれたのよ」
 その割にはここへ来た頃は悪戯し放題だったけれど、そのことは村紗にも自覚があるようで、どこかしゅんとした表情を浮かべた。
「でもわたし、薄いくせに凝り固まってるから、生きてる人間を見るのがやっぱり憎らしくて、驚かしては心を食らったわ。肉を食べたいとは思わなかったけれど、やってることは同じよね。海の香りが、潮の音がわたしを駆り立てるの。言い訳にはならないけど、気持ちが落ち着くと人間じゃないこの身を嫌でも思い知らされるわ」
 わたしは何も言わず、ただ頷いてみせた。飢えた挙げ句に聖者を食らい、それからもなお人を食らい続けてきた獣に、目の前の船幽霊を責められるはずがなかった。
「そんなわたしに、聖はいつでも優しくて。それに動きやすくて恨みを和らげる服まで作ってくれた。それだけじゃないわ、本当は居てはいけないわたしを心の底から肯定してくれるの。嬉しくて、でも聖がいなくなると途端に辛くなる」
「分かるような気がします」
「嘘よ。貴女のように仏様の代理をするような光輝に分かるものか」
 刺々しく断言され、わたしは獰猛な唸り声をあげた。それからひゅうひゅうと、体のないものにも響く息を立てる。村紗は幽体を震わせ、初めてわたしを畏怖の視線で見つめてきた。
「わたしの本性は獣。この知性も数多の人間を食らい、そして聖の知見に当てられ、辛うじて身についたものです」
 野生の気配をわたしは奥底に戻し、できるだけ柔らかく微笑んでみせた。村紗は床に正座し、背筋をぴんと伸ばした。
「それほどまでの野生を秘めてなおも、そんなに穏やかでいられるなんて。聖も凄いけど、星も十分に凄いわ」
「そんなことはありません。それに村紗には、己を省みる賢さがあります。わたしくらいになら、すぐにでもなれますよ」
「信じられない。でも、そう言ってくれるのは嬉しいな」
 床に足をつけているのが苦手なのか、村紗はすぐにふわりと中空に浮かび上がる。可愛気のある幽霊らしさと言えるのだろう。
「星に相談して良かった。何だか希望が沸いてきたもの」村紗はにこやかにそう言って、それから少しばかりの上目遣いを浮かべてきた。「本当に暇な時で良いから、また話し相手になってくれると嬉しいな」
「良いですよ、お好きな時にとは言えない身ですが」かつてのわたしみたく己の本性を持て余す村紗を見ていると、他人事にすることはできなかった。わたしと話して心が軽くなるなら、いくらでもそうしてやりたかった。「この寺にはわたしより聖をよく知るものがいます。一輪という名の童子です。毎朝早くに弟様の塚で祈りを捧げていますから、折を見て訪ねてみるのも良いかもしれません」
「うん、分かった」村紗は快活に頷き、煙のようにお堂を出ていこうとした。そこで何か気がかりなことを思い出したのか、冥い声でわたしに訊ねてきた。「ねえ、一つ聞いても良いかしら」
「わたしに答えられることで良ければ」
「犯した罪を拭える日が、わたしにも来るのかしら」
 罪を拭うことなど決してできない。どれほどの時が経っても、どれほどの功徳を積もうと、わたしの咥内は食い散らかした人間の味と臭いで満ちている。しかし、それを惑いから必死に抜け出そうとしている船幽霊に語るのは酷だと思い、わたしはできるだけ厳かに言った。
「身を清く正しく保ち、購う心を持ち続ければ」
 わたしの言葉に、村紗が何を感じたかは分からない。だが、心に残るものはあったのだろう。「ありがとう」と一言残し、村紗は今度こそお堂を後にした。わたしはしんみりとした気持ちを払い、自らの務めに戻った。
 
 それからというもの、村紗は聖が不在のとき、わたしの所に姿を表すようになった。
 そしてある日、村紗はわたしの忠言通りに一輪を訪ねたのだろう。彼女のことを些か低い声音で話し始めた。
「あの人、星よりも堅物よね。わたしが寺で悪さしてた時のこと、大声でくどくどと説教するの。朝のお務めをしていた人間の僧侶たちがちらちらと様子を窺ってきて、恥ずかしいったらありゃしない」
 そのことを聞いて、わたしははてと首を傾げた。一輪は聖に心を傾けているものの、どちらかと言えば傍観者に近い立場だ。彼女の第一義はあくまでも聖の弟が中興した寺を護ることにある。わたしには最低限の注意を払うだけで、村紗にも同じような態度を取ると思っていた。そんなわたしの疑問を余所に、村紗は立て板に水の如く言葉を続けた。
「でも仏に関する知識は凄く豊富。分からないことがあったら教えて欲しいと頼んだら、渋々ながらも首を縦に振ってくれたわ。然るに悪い人ではないと思うのだけど」 
「そうですね。一輪はわたしよりも真面目で、そして一本気な方であると思います」だからこそ聖の一本気と稀に衝突もするのだが、一輪は聖のことを立ててくれる。あるいは彼女の柔らかな押しに、一輪ほどの童子ですら抗えないのかもしれない。「善良で、おそらくは絆(ほだ)されやすいのでしょう」
「絆される? わたしにはそんなには見えなかったけど。でも付き合いの長い星が言うなら間違いないのかな?」
 わたしにも良くは分からなかった。聖と同じくらいに一輪もまた、わたしにとって遠い存在だからだ。
 そして次に訪れたとき、村紗は夜中に船で開かれる妖の勉強会について、軽い憤慨とともに述べてくれた。
「あいつらと来たら酷いのよ。わたしのことをえこひいきと言うの。人間に怯えることなく、寺にのうのうと収まっているならば、学が進むに決まっているそうよ。確かにわたしは幽霊だから飢えることがないけれど、最近は人間を脅かしてないからそれなりにひもじくはあるの。でもそれはまだ良いわ、事実なんだもの。わたしが許せないのは隙を見て聖を食おうとしてる奴らよ。しかもあろうことか、手飼いの獣に弟の遺骸(いがい)を食わせて使役していると言ったのよ!」
 村紗はきらきらとした怒りをわたしに向けてきた。そいつらの言っていることは半分正しいし、賤しい妖の戯言に腹を立てるなんて虚しいだけだから、わたしは鷹揚に頷くだけだった。そのことが村紗の怒りをかき立てたようで、肉体があれば唾を散らしただろう勢いで更に捲し立てた。
「そんな奴ら追い払ってやれば良いと言ったのに、聖はにこにこ笑うだけなの。わたしは聖を失いたくないわ。それはわたしに取って太陽の光を無くすのに等しいのよ。このままではいつかそうなりそうで怖いの」
 村紗の発言にわたしははっとさせられた。付き合いの短い彼女でさえ、わたしとよく似た聖に対する言いようのない不安を抱いたことがあると知ったからだ。
 聖は今や他利の塊であり、人間はおろか妖怪にさえ惜しみなく施しを与えている。いくつもの諍いや争いを身一つで抑え、皆の幸せを願ってやまない。だというのに聖を怪しみ、疎み、害しようとするものが現れる。それは不思議なことだったけれど、わたしにはその理由がよく分からないし、説明できそうにないのだった。
 だからわたしは村紗に「大丈夫ですよ」と気休めの言葉をかけることしかできなかった。
 
 翌朝、わたしは務めを終えてから一人で弟様の眠る塚へと足を運んだ。一輪はいつものように長い祈りを捧げていたが、わたしの気配に気付くと顔をあげた。何か言いたげなその双眸から、わたしは一輪が似たような思いを強くしているのだと察した。
「星が一人で訪ねてくるとは珍しいな」一輪はそう素っ気なく言ってから、微かに目を細めた。「姐さんについて相談したいことがあるのか?」
「然り、だがわたしにはどう言葉にして良いか分からないのだ」
 わたしは自分や村紗が感じた聖への不安について、たどたどしく一輪に話した。すると彼女は一字一句を噛みしめるように何度も頷き、しばし瞑目したのち、ゆっくりと瞼を開いた。
「わたしにもきちんと言葉にはできない。ただ人間に関してみれば確からしいことが一つある。彼らはもはや神仏の類を求めていないのだ」
「寺にはつらつらと参拝客が訪れる。彼らは皆、神仏を敬い、あやかろうとしていますよ」
「それでいて人間は、危難や障害が人間の手で解決されるべきだと考えている。土地を拓き、田畑を耕し、時には大きな争いを起こしながら、徐々にその気風を強めてきた。そのためにあからさまな奇跡、超力の類は疎まれるようにすらなった。いまや強力な妖を狩るのですら、徒党を組んだ人間なんだ。そんな人間にとって、一人であらゆるものを変える姐さんは、例え善意の塊であっても、怪物に過ぎないのかもしれない」
「そんな!」あまりにもあまりな一輪の言い方にわたしは思わず声を荒げていた。「聖が人間たちにどれだけ施してきたと思っているのですか! それでも怪物なのですか?」
「でも、事実そうなんだ」一輪は躊躇うことなく言い切った。「それで全てが上手く行っていれば良いだろう。だが例えば先程、地主の一人が聖に嫉妬し、その恩恵を与るものたちにより重い税を課したとき、彼らが恨んだのは聖だった。そのことは星も朧気に感じただろう?」
 できればそんなことは否定したかった。でも一時とはいえ、彼らは本当に聖を恨んでいた。聖が余計なことをしたと主張するものさえいたのだ。
「わたしも最初は聖のすることを素晴らしいと考えていた。兄さんがあくまでも寺に籠もり、名を立てず波風を立てずただ穏やかに無風でいることをもったいないと思っていたからだ。しかし聖が起こした大波の余波を見て、わたしは微かな不安を覚えた。わたしは聖の成した行為の後を追い、その影響をじっと観察してきた。そうして今のような結論に辿り着いたのだ」
 一輪は苦しそうに己の気持ちを吐き出すと、深く顔を俯けた。
「わたしはかつて、不満だったのだ。我が主を始め、苦難に焦がれるものたちを傍観する仏たちが。でも間違っていたのはわたしだった。人間には最早、人間しか必要でない。そしてやろうと思えばどんな妖でも、そしておそらく神仏でさえ引き倒してしまうだろう」
 わたしは一輪の言葉に一瞬、耳を疑った。
「人間が神や仏を打ち倒すと、一輪はそう言うのですか?」
「もちろん神仏の力は比類なく強大だ。人間は骸の山を曝すだろう。それでも武に群れ、智に寄ればさしもの存在でさえ無傷ではいられないだろう。事実、人間たちは既に鬼すら倒し始めている。神仏をも怖れぬ彼らを、人間は数と知恵で駆逐する。翻ってそれは神仏を同様に駆逐できるということだ。そして神も仏も人間を虐殺したくはない。だからこそ神社仏閣にさえ滅多に姿を現さないのだ。近いうち、この国から神仏の恩恵はほぼなくなるだろう。人間が人間であるがゆえに」
 神仏の恩恵がなくなり、そうすればその教えさえ容易に歪んでいくだろう。一輪は仏の眷族でありながら末世やむなしと言っているのだ。
 そのような結論に青ざめていると、一輪は不意にわたしの肩を強くつかんできた。その顔は怒りと絶望で強く歪んでいた。
「このままでは聖は打ち倒されるかもしれない。数多神仏の身代わりとなり、人間の愚考を一手に受け、購うだろう。かつて遙か西の地でそのような野蛮が起きたという。そのときは父神が聖者に救いの手を差し伸べたが、東の神仏たちに同じことをする気はないはずだ」
 一輪は聖が救われないとはっきり言い切った。おそらく何かの確信があるのだ。
「どうしてそう言える?」
「その理由はお前の部下から聞いてくれ。わたしは確信しているが、同時に極めて可能性の高い推測でしかないからだ。だが一つだけ言っておく。杞憂であれば良いが、もしそうでなかったときのために十分な吟味を重ねて欲しい」
 わたしは一輪の厳しい眼差しを受け、大きく頷く。すると彼女は謎掛けに近いことを、わたしの耳に吹き込んだ。
「寅丸星には神仏の、怒りの代弁者としての役割が振られている」
 その言葉の意味が分からぬまま、わたしはそれを心の奥底に刻み込んだ。
 
 わたしは本堂に戻り、隅っこでだらだらとしているナズーリンに声をかけた。一輪の話したことについて、彼女から改めて話を聞き出す必要があったからだ。
「ナズーリン、わたしの向かいに座りなさい」
「御意」ナズーリンは背筋を伸ばし、わたしの前に正座する。「何か分からないことでも?」
「一つ聞く。聖は破滅するのか?」
「不遜ながら申し上げますと、その可能性は高いと思います」のうのうと肯定したナズーリンの襟を、わたしはぐいと掴んだ。しかし彼女は眉一つ動かさなかった。「我が元主は、一つの願をかけました。彼女の際限ない他者への愛を人間が受け止められるかどうかで、今後を定めるおつもりなのです」
 わたしはナズーリンを突き飛ばし、床に転がした。逃げたら背後から爪を立て、引き裂いてやろうかと思ったが、彼女は一歩も退く様子を見せなかった。
「他に何か言いたいことはありますか?」
 最早、お前のことなど部下でも何でもないと言いたかった。しかしわたしは彼抜きで毘沙門様の代理を演じることができない。いかにこの身が操りの糸に絡められていようと、わたしはできる限り代理人でなければいけない。それだけが聖に報いる唯一の術であるからだ。
「わたしはこれから腹いせのため、あるいは怒りのためにお前を傷つけるかもしれない。それでも決して、わたしの元を離れることは許さない。腸を垂れ流そうとも決して許さない」
「御意のままに」ナズーリンはわたしの激烈な命令ですらあっさりと受け取り、昼行灯に戻っていった。「愛しき我が主よ」
 否、厳しい皮肉を容赦なくぶつけていった。
 

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