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聖白蓮さん、あなたに仏のお恵みを白蓮さん 後編   白蓮さん後編 第1話

所属カテゴリー: 聖白蓮さん、あなたに仏のお恵みを白蓮さん 後編

公開日:2015年12月24日 / 最終更新日:2016年01月07日

白蓮さん後編 第1話
 聖と羽根つき、二人の契約を解除するという魔界最後の仕事も恙無(つつがな)く終わり、わたしたちは混沌の門を抜けて地上に戻ってきた。門の出口は本や巻物などが散漫と収められた倉の中であり、聖はそれらを見渡してほうと溜息をついた。
「定期的に手の入った跡があります。然るにまだ、ここには人がいるようです」
 そう言って、聖はぐっと立ち上がり。しかし前に一歩、踏み出すのをためらっていた。
「どうされたのですか?」
 わたしが訊ねると、聖は力なく微笑んだ。
「わたしは生きていたい、手の届くものを守りたいという一心で、異なる法を身につけました。覚悟はしていたというのに、その事実が無性に怖ろしく感じられるのです」
 そんな聖の弱々しい姿を見て、わたしは鼻息とともに一歩を踏み出し、倉の扉を開けて一気に外へ出た。すると朧気な陽光がわたしのもとに降り注ぎ、同時に煌めく道が一筋、こちらの方に伸びてくる。
「大丈夫ですよ。人を食らい、魔界に堕とされたわたしとて、拒まれることはないのです。どうして聖が拒まれ……」
 倉の中にいる聖の方に振り向いた途端、背中に強い一撃を感じた。どういうことかと再び前を向けば、そこには棒を手にした僧形の人間が立っており、あっという間にわたしを取り囲んだ。
「おのれ物の怪、よもやこのような真昼に命蓮様の倉に現れるとは!」
 彼らの顔は皆、一様に強い憎悪を形作っていた。
「しばし待て。わたしが何をしたと言うのですか?」
「しらばっくれるな。そのような姿をして倉の中から現れたのが何よりの証拠」首魁らしき人物が、棒の先を突きつける。「かつてこの場所で、白蓮様がお隠れになられたと分かったとき、童子様が現れてこう告げられたのだ。白蓮様はいつかここに戻ってくると。だから昼も夜も番を立て、そのときを待ち続けていた。そして今日、お前がのこのこと出てきたわけだ」
 彼らはじりじりと輪を狭め、わたしに迫ってくる。この程度の囲いなら抜けることはたやすいけれど、下手に動いて彼らの気を立てるのは良くないと思った。わたしはこれから彼らと共に過ごすことになるかもしれないからだ。
 わたしは地面の上にどっかりと胡座をかいた。ただの人間に棒で殴りつけられるくらい、大したことではないし、これをもって恭順の意を示したかったのだ。
「物の怪め、観念したか?」
「何を観念する必要があるのですか?」わたしは倉のほうに視線を向ける。すると聖がまるで、後光を感じさせる悠然さで皆の前に姿を現した。「貴方たちの主がいま、ここに帰還したのですよ」
 わたしの言葉にしかし、彼らは怪訝の色を消さなかった。それどころか、わたしのことを俄に嘲笑してみせた。
「これが聖だと? 白蓮様であると? 馬鹿め、確かに聖は善く老いられその姿は聖と呼ぶにふさわしくあった。しかし彼女はと言えば、誘惑者のように魔的で、しかも鬼のような金髪と来たものだ。彼女のどこが聖で、白蓮様であるというのだ」
 そうして彼らはわたしにいよいよ、殺気にも似た感情を放ってきた。
「魔のものよ、去れ。そうしてお前の主に伝えるのだ。我らの元に白蓮様を返したまえ、さもなくば我が寺の童子様が仏罰の鉄拳を撃ち込むとな」
「仏罰の鉄拳……」聖はか細くそう呟くと、何故か嬉しそうに頬を綻ばせた。「約束を守ってくれたのですね。わたしは彼女にあんなにも酷かったのに」
 そうして大きく息をつくと、聖はぴんと背筋を張り、皆の前に堂々と立ってみせた。
「確かにわたしは魔のもの、斯様に仏の威光満ちるこの地に留まること叶わぬのでしょう」聖はわたしに目配せをし、それから朗々と言葉を続けた。「わたしたちはすぐにでもここから立ち去ります。それで宜しいですか?」
 僧形のものたちは一様に頷きかけ、しかし慌てて首を横に振った。
「鬼の如きものの言葉など信用ならぬ。童子様に裁定して頂くべきだ」
 そうだそうだと他のものも同調し、かくしてわたしは聖と一緒に、見知らぬ塚に連れて行かれた。そこでは頭巾を被った少女が、溜息の出るような深い深い祈りを捧げていた。
「童子様」一人がその祈りを堂々と妨げた。しかし彼女は怒ることなく顔を上げ、わたしたちのほうを向いた。そうして事情を逐一説明すると、わたしたちへの裁定を迫った。「こ奴ら、どう致しましょう」
 一輪は聖の顔を厳しく見据えた。あまりの険しさに、彼女にも聖のことが分からないのではないかという、少なからぬ危惧を抱いた。しかしそれは杞憂であることがすぐに分かった。彼女は瞳を微かに潤ませ、それから聖の下に額付いてみせたのだ。
「よくぞお帰りになられました。しかもうってつけの守護者まで引き連れて。何とも、ご立派になられましたね。この一輪、感無量で御座います」
 一輪と名乗った頭巾姿の少女がそう口にすると、周りが俄にざわつき始めた。すると一輪はゆっくりと顔を上げ、それから取り巻きの僧形たちを厳しく睨みつけた。
「愚か者めが。姿形の変わったくらいで、かつて仰いだ師の面影すら見失ったか」その声はびりびりと空気を震わせ、僧形たちはまるで像のようにぴたりと固まってしまった。「申し訳ありません。わたしは無礼に無礼を重ねてしまいました」
 一輪は今度はすっかりとしょげてしまい、すると聖は小さく首を横に振った。
「かつて無礼だったのはわたしのほうです。それなのに一輪は、もはや縁のないこの寺を護ってくれた。感謝の言葉もありません」
 一輪は何か言おうとして咄嗟に口を噤み、僧形のものたちに改めて鋭い視線を向けた。
「先も言ったとおり、この御方は白蓮様である。今後はこの方を中心として、寺を盛り立てていくのだ。良いな!」
 僧形たちは揃って頷き、それからおそるおそる聖の顔を見上げた。聖は彼ら一人一人の名を優しく呼び、その特徴を微に細に穿ち、温かく語ってみせた。するともはや誰も、聖のことを疑うものはなかった。
 その様子を見て一輪は含蓄深げに頷くと、麗しい光景に背を向けた。そのことに気づいた聖が一輪を見やると、彼女は深く俯いた。
「行ってしまうのですか?」
「わたしは兄(あに)さん……もとい、命蓮様との約定を果たしたまでのこと。それも白蓮様がこうして戻られたからには必要のないことです」
「でも、わたしは購いたいのです。この寺を護ってくれた貴女のことを」
「それも約定の一つです。気にすることはありません。それにわたしは雲、流れ流れる定めにあります」
「わたしでは縁になりませんか?」聖はそういって、一輪の手をそっとつかんだ。「それにわたしには、己の愚を正すものが必要です。貴女ならその役目にうってつけだと思うのです」
 一輪はしばし躊躇っていたけれど、やがて小さく息をついた。
「では、何かありましたらここに。正しければ認めましょう、愚かならば諫めましょう。しかし白蓮様、しょせんは小童の戯言。信じるは己であると心得て下さい」
 それから一輪はわたしに耳打ちをし、それに従ってこの身を獣のものとした。すると僧形のものたちから一斉にざわめき声があがった。
「彼女は寅である。白蓮様同様、共に立てよ。さすればこの寺はますます栄えゆくだろう」
 その言葉に一同の視線が、尊意をもって寄せられる。わたしはうおんと虎のように吠え、歓喜の先触れと成した。僧たちは一様に涙し、その日は失われた願いの取り戻されたことが、ささやかながらに祝われたのだった。
 
 
 とろとろと香しい匂いにあてられ、わたしは慌てて目を覚ます。床に丸まって眠ったはずなのに何故か頭の下は枕のように柔らかく、直上には聖の穏やかな表情があった。それでわたしはようやくことの次第に気付き、慌てて膝枕から転がり落ちた。背筋を伸ばして正座し、動揺を悟られないように顔つきを改める。
「如何なる用向きでありましょうか?」
「特に何も。ただ、元気がないようでしたから」
 それで膝枕するという聖の思考がわたしにはよく分からなかったけれど、あるいは固い床に頭がついていることを不憫に思っただけかもしれない。そうやってひょいひょいと自分を貸し与えてしまうのが、昔からの聖であり、そういったところはちっとも変わっていないようだ。
「わたしは至って健康健啖です。聖に心配されることなど何もありません」貴女がその原因であると言いかけて、わたしはそれをぐっと飲み込んだ。「労って頂き、ありがとうございます」
 そう言うと聖は詰まらなさそうに唇を尖らせた。
「欲がないのですねえ。一輪といい村紗といい、わたしが何を言っても黙って首を振るだけなのだから困ってしまいます。これだけ無心であると、わたしが必要とされていないみたいで、少しだけ寂しいです」
「滅相もありません」わたしは思わず首を横に振る。「わたしも、おそらく一輪や村紗も、聖の側にいることが望みなのです。だからこそそれ以上を望むことがないのです」
「そうかしら。それならば嬉しいのだけれど」聖は微かに赤らんだ頬に手を当て、小さく息をついた。「本当に何もないのかしら。わたしにできるのはささやかなことだけれど、遠慮することはないのですよ」
 仄かに熱を帯びたその姿にくらくらして、わたしはぐっと唇を噛みしめる。聖を押し倒してしまいたいだなんて、言えるわけがなかった。
「わたしの心は先程と変わりません。ただし、ナズーリンでしたら何か所望するものがあるかもしれません」
 苦し紛れに部下の名前を出すと、聖はぱっと顔を明るくした。
「そう言えば、ナズーリンは飛倉の破片を集めるために東奔西走してくれたのですよね」功徳の示し先を見つけたためか、聖は表情を明るくし、わたしの手を握ってきた。「ありがとう。星には昔から助けられてばかりですね」
 ええと頷きながら、顔があまりにも近くてわたしはふいと視線を逸らす。すると聖はますます顔を近付けてきた。
「どうしたのですか? そのように不貞腐れた顔をして。もしかして何か怒らせるようなことをしましたか?」
「してません。してませんから、後生だから離れて下さい」
「理由を口にするまでは離れません」
 そうして聖はいよいよ、わたしの鼻先にまで顔を近付けてきた。あまりにいきなりのことでわたしは理性を押し留めることができず、聖のことをぐいと押し倒した。口元には一筋の涎が浮き、糸を引いてぽたりと落ちる。これでは事故や弾みで誤魔化しようがなく、わたしは胡乱に表情を固めるよりほかなかった。
「やはり、そうでしたか」聖は飢えた獣にのしかかられているというのに、眉一つ動かさずに厳粛な面持ちを浮かべた。「以前に魔界を旅していたとき、同じような視線を送っていたと今日になって思い出したのです。星はまた、わたしを食べたくなったのですね」
「違います。わたしは聖を食べたいだなんて思っていません」
 そのことを示すために、わたしは聖の両肩に置いた手を離すだけで良かった。しかし一度弾みのついた欲望が、わたしにそれを許してくれなかった。だからわたしは退けるための力を、聖に与えて欲しかった。
「聖よ、わたしをお叱り下さい。仏門に下ること幾星霜、わたしはこの浅ましい性分を正すことついぞ叶わず、ここにのうのうとして居るのです」
 聖が叱ってくれれば、一層のことここから立ち去れと言ってくれれば楽だった。でも、聖はただ黙って首を横に振った。そう、優しい御方だけれど、決して安楽な道を許さない厳しさを持っているのだと、わたしは改めて思い知らされた。
「わたしには何も言うことができません。星が良くやっていること、素晴らしいものであることを、誰よりもよく知っているからです。今も必死に己を抑え、悔い改めようとしています」
「でも、気持ちだけでどうにかなる問題ではないのです」
「なります」聖はわたしの悲痛を真っ向から受け止め、断言する。「わたしほど堕ちたものでさえ、収まる場所を見つけられたのです。星ほどのものが見つけられないはずがありません」
「わたしは人食いの獣です。聖者を食らって知恵をつけ、その後も数多の人間を食らった。その浅ましい根性は仏に帰依しようが変わらないのです。それどころかますます酷くなったに違いありません」
 わたしは冥い気持ちに衝き動かされ、胸のうちを示唆する言葉を思わず口にしていた。
「聖よ、わたしは貴女の肉を食いたいだけではない。より浅ましく卑しい気持ちを抱いているのです。それが分かればいよいよ、嫌悪の情すら覚えるに違いありません」
 すると聖は初めて、体を僅かに強ばらせた。
「そう、ですね。わたしは幼い頃から仏門の身であったため、その欲を知りません。それがもたらす快は非常に大きいと聞きます」聖は口にすらしていないわたしの欲望を当然のように見抜き、それでも臆する様子はどこにもなかった。「わたしとて流されてしまうかもしれません。でも、星がそれを望むならわたしはそれを受け入れたいと思います」
 聖は体の力を抜き、わたしに全てを委ねた。欲望を退けるだけの強い羞恥心が突如として生まれ、わたしはすんでのところで聖を解放すると部屋の隅にうずくまる。顔を合わせることすら恥ずかしくて溜まらなかった。
「すいません、今日のところはお引き取り下さい、お願いします。明日になったらわたしはいつものわたしに戻ります。後生ですから、わたしに一夜の時間をください。お願いいたします」
 わたしは神仏に縋る熱心さで、聖がここから立ち去ることを願った。すると聖はしばらく無言で留まっていたけれど、そっといなくなってくれた。気配が完全に過ぎ去ったことを確認してからわたしはようやく体を起こし、己のしたことに呆然とするしかなかった。
 あんなことをして、あんなことを言わせて。ここにいられるはずなどなかった。わたしはここからいなくならなければいけない。しかし聖はこんなわたしすら救おうとして下さるだろう。共に堕ちるところまで堕ちて下さるだろう。聖にそんな思いをさせるわけにはいかなかった。わたしはここから立ち去らなければならない。
 でも、どうやって? わたしはすっかり暗くなった部屋のなか、算段もなく辺りに視線を巡らせる。そしてふと、ナズーリンの持ってきた資料に行き着いたとき、天啓が走った。
 幻想郷の結界を維持する八雲紫の懐刀。わたしのことを心底怖れているであろう彼女を散々に脅し、追い立てて嬲り殺しにする。そうすればいかなる賢人と言えど黙ってはいないはずだ。八雲紫は落とし前を要求するだろう。ここから追い出されるのは確実だし、もしかしたら殺されるかもしれない。聖はさぞかし悲しむだろうが、わたしは聖を害する怪物でありたくなかった。
 とばっちりを食らわせる相手には悪いと思うけれど、もはやそれしか道がなかった。すると覚悟がぴたりと決まり、わたしは気力を充実させるための深い眠りにつくことができた。
 
 
 聖は寺に戻ると、かつて弟様が護法を用いて仏の威光を見せて回ったように、魔界で身につけた力を揮うようになった。その初めとして空を駆って近隣の村々へ、自ら托鉢に回ったのだ。見慣れぬ金髪の乙女がいきなり姿を現したので、村人たちは最初、やれ化性だの鬼だのと囃したてた。そういうものたちを説得するに役立ったのは、わたしや一輪であった。
 一輪は先代より、其に仕える護法として俄に知られており、聖なき間に寺の象徴として稀に姿を現していた。その彼女が付き従っている姿は人々の心を安堵させた。そしてわたしはと言えば獣の姿に戻り、聖はわたしの毛並みをそっと撫でるのである。かくも怖ろしき妖の、しかも虎によく似たわたしが恭順する姿は、寅に縁起の良い寺のことを尚更、人々に思わせるのだった。
 そして何よりも聖本人が、実に精力的だった。深刻な揉め事が起これば辛抱強く話を聞いてことを収め、あるいは厳しいお灸を据えた。新たな土地を開墾することがあれば、数十人の人手が必要なほどの大岩を一人で担いで持っていく。弱きを脅かす乱暴者がいれば八面六臂の立ち回りで不殺のうちに解決し、都から落ちてきた害なす妖怪もえいやっと退治して見せる。そのようなことを四季が巡るうちに、実に超人的にこなしたから、聖を慕わないものは誰もいなかった。噂が遠方にまで広がるとかつて寺を去ったものがぽつぽつと戻り、また新たに門を潜るものも現れた。聖は彼らにも仏の教えを学ばせるため、弟様の残した書物を驚異的な早さで写経し、また実に分かりやすくまとめてみせた。
 当然ながら聖に眠る暇など殆どなかった。周りのものたちがどれだけ諫めても、三時間より多くは決して眠らなかった。わたしは猫科の生き物であるから、眠らずに務め続けることが怖ろしく、あるとき明かりもつけずに書を読んでいた聖に強く訴えたことがあった。
「いまの聖はいくらなんでも睡眠を削り過ぎです。いかにそのような体を身につけたとはいえ、いずれ体を壊してしまいますよ」
 すると聖は暗がりにおいてなお開く花のように、儚く微笑んでみせた。
「わたしなら本当に大丈夫ですよ。どうやらわたしは食べなくても、寝なくても良いみたいです。無理はしてないのですよ。要するにこれが、人の道を外れるということであり、法の道を外れるということです」
 そうしてわたしを逆に気遣ってくれた。
「星こそ寺のものに合わせ、昼起きて夜に眠る生活を繰り返していますが、大丈夫ですか? あとここの空気は合いますか? 故郷が寂しいと感じたりしていませんか?」
 矢継ぎ早に問われ、わたしは口を噤む以外に何もできなかった。わたしには人ならざる力があるけれど、それでも聖の足下にすら及ばないのだと身に沁みたからだ。すごすごと寝所を後にしてから、わたしは高地特有の薄く冷え冷えした空気を身にいれ、改めて誓った。わたしはいずれ、聖の右腕になりたい。かつて右腕を食らおうとしたわたしを許してくれた聖に対する、それが何よりの恩返しであると思った。
 
 その機会は何と翌日にやってきた。早朝の務めを終え、今や日課である弟様へのお参りを済ませた直後のことであった。ごろごろと激しい音と共に紫の雲が、寺の上にかかったのだ。わたしは聖の功績によって証が戻ってきたのだと思った。
 そんなわたしの喜びを打ち砕くかのように、雷のような轟音が辺りに響き渡った。すると次の瞬間、目の前に人の背丈を遙かに越える益荒男(ますらお)が、強大な圧とともに出現していた。羽衣のような衣服を身に纏い、その手には人間では到底扱えないほどの長鉾が収まっている。
 益荒男の声はごろごろと低く、それだけでわたしの心を圧した。魔界にいた頃、わたしは声だけで並々のものを脅かす力の持ち主に出会ったことがあるけれど、彼の方もまた力を抑えているにも関わらず、何とも総毛立ちそうな声である。位の高い神仏の類に相違なかった。
 聖は現れたものの姿に慌てて傅き(かしず)、毘沙門様と述べ立てた。然るにこの強面の持ち主が寺の守護者なのだ。わたしはほぼ反射的に聖を倣い、一輪も同様に傅いた。
 すると寺の守護者はごろごろとした声を抑え、心に響かないような声を出した。
「面を上げて欲しい。我は格式張られるのが苦手なのだ」
 そう言われ、わたしは顔を上げたけれど、聖はいつまで経っても顔を伏せたままであった。
「わたしは仏の道を外れました。ただただ面目もなく、姿を顕して頂く価値もない愚か者で御座います」
 すると寺の守護者は地に降り立ち、まるで錫杖のように鉾をしゃらんと鳴らした。
「己を愚かと知り、身を正すは愚者の成すことに有らず」威圧感はさほど変わらなかったけれど、その言には聖に対する強い慈悲が感じられた。「面を上げよ。我に相対し、その言を聞け」
 命令口調ではあったけれど、そこに怒りは感じられなかった。聖はそれでも随分と躊躇ったのち、そろりそろりと顔を上げ、ゆっくりと身を起こした。
「いかなる箴言(しんげん)であろうと受ける覚悟が出来ております。さあ、何なりと仰って下さいませ」
「箴言、になるのだろうか」
守護者はぼそりとそう呟いてから、低い声で述べ立てた。
「白蓮よ、そなたは寺に尽くし、また周りのものによく尽くしている。その働きは真に天晴れである。だがそれ故に、我への帰依心が薄まりつつあるのだ。この寺にて奉られるは今や我に有らず。そなたなのだ」
 守護者は聖の顔をまじまじと見据えた。その眼には強い力がこもっており、並の人間では一目たりとも耐えられなかっただろう。しかし聖は仕えるべき仏の身と真っ向から相対した。
「それでは、わたしに務めを控えろと仰るのですか?」
「それも一つの方策である。あるいはそなたを新たな仏として迎えるという手もある」
「ご冗談を」聖は二つ目の案を、激しささえ感じられるほどに真っ向から切り捨てた。「わたしは斯様に堕ちた身なれば」
「この地に初めて我らの教えを広めた男は生まれたとき、我に並ぶものなしと豪語した。また二十数余に至るまで王族として何不自由のない暮らしをして来たのだぞ。その後に入滅を果たしたいかなるものでさえ、そこまで傲慢ではなかったのだ」
 守護者はもしかしなくても、この地における仏法の始祖を謗(そし)っているのであった。そのため聖の顔にはひたすらな困惑が浮かび、辛うじて固辞の言を絞り出した。
「わたしはただ、この寺と手が届く限りのものを護りたいだけで御座います。仏になれなどと、そのようなことは後生ですから、口になさらないで下さいませ」
 守護者は半ば傲然と頷いてみせた。
「あい分かった。しかし、ふん……この寺と、手が届く限りか。狭く、また傲慢なものの見方である」守護者は自分の提案がはねつけられたためだろうか、どこか突き放したような口調となった。「まあ良い。どこまで手が届くのか、その身一つで試してみるのも良いだろう。しかし先も言ったが、そのために仏への帰依を疎かにすることは叶わぬ」
 聖は実に厳しい選択を迫られているのだろう。いつも理想に燃えていた顔が、その瞳がかくも歪んでいる。今まで仏の威光に圧されていたわたしであったが、この時に至ってようやく志願の言葉が口をついた。
「では、わたしが聖の代わりになりましょう」
 すると守護者は初めてわたしに気付いたようで、血走った両眼をぎろりと向けてきた。思わず後じさりそうになる心を必死で鼓舞し、わたしは更に一歩進み出て希った。
「人食いの獣が、我の代理人になると言うのか?」
「然り。望みあれば、この身の全てを捧げる覚悟です」
「それで足りると思うたか、愚者め!」
 守護者は突如として、雷のような声を容赦なくわたしに浴びせてきた。全身がまるで痺れたようになり、わたしはもう少しで気を失いそうになった。しかしその直前、聖の顔が視界にちらと映り、それでわたしは辛うじて我を取り戻した。両足をしかと地面につけ、吠えるような表情を相手に向ける。すると今度は口の中で呪い言葉を唱え、紫雲の中から雷を呼び寄せてわたしの眼前に落とした。それでもわたしが怯まないのを見ると、長鉾を首筋に容赦なく押し当てた。
 殺されるならば、首だけになってでも噛みついてやろうと覚悟したとき、守護者は突然として呵々大笑の響きをあげた。
「蛮勇なり、しかして見事なり!」
 守護者は鉾を収めると、次には穏やかな顔を聖に向けた。
「ではかのものを代理として立て、我への帰依を第一とさせよ。明日の同じ時刻、改めて使いを寄越す。それまでに出立の準備を整えるのだ」
 それだけを告げると、守護者は紫雲に吸い込まれるようにして消えてしまった。それでわたしは危機を抜けたと知り、その場にヘたり込んだ。なるほど、これならばかつて聖徳太子と呼ばれたほどの偉人さえが必勝を祈願するはずだ。あれほどの加護を得られれば、戦に勝ったも同然であるに違いなかった。
 そのようなものの覇気を真っ向から受け、すっかり気の抜けてしまったわたしを見て、聖は側まで駆けつけてきた。
「大丈夫ですか、星。全くもって無茶をする……」
「でも、何とかなりました」わたしは今も心に痺れのようなものを感じていたけれど、何ともないように言ってのけた。「聖はその思うままに振る舞うことが許されたのですから。わたしも体を張った甲斐があるというものです」
 そうして会心の笑みを浮かべてみせると、聖は何か言う代わりに大きく溜息をついた。
「二度とこういうことをしてはなりませんよ。大事なものを失うなんて体験、わたしはもう二度としたくないのですから」
 大事なもの、と。聖はわたしに心を込めてそう言ってくれた。もちろん聖は優しい御方だから、誰に対しても本気でそう言えるだろう。それでもわたしには聖の言葉が嬉しかった。
 それから聖はそろりそろりと集まっていた弟子たちにことの次第を説明し、わたしが毘沙門天のもとに遣わされることを重々しく口にした。すると一同がわたしを誉め称え、寺の代表として粗相のないよう穏やかな諭しを受けた。心の中には更なる誇りが生まれ、わたしは半ば吠え猛りたい気持ちを抑え、堂々と笑みを浮かべたのだった。

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この小説へのコメント

  1. 数時間前の一輪さんの箴言が全く効いておらず、謝りたいと思っていた対象を嬲り殺しにする案を「天啓」と言っちゃったり、非常にヤバい精神状態の寅丸様。
    果たして彼女は、幸せな記憶の中にあるかつての誇りを取り戻せるのか……

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