2XXX年の幻想少女第4章 チャイルド52 チャイルド52 第2話
所属カテゴリー: 2XXX年の幻想少女第4章 チャイルド52
公開日:2018年04月12日 / 最終更新日:2018年04月12日
三日後、わたしは稗田の屋敷を訪れていた。
山本某が与えてくれた体力と獣のような静養のお陰で翌日にはすっかり良くなっていたのだが、それから二日かけて博麗神社の文献を探してみた結果、四季祭りについての俄に信じ難い記述を見つけてしまったのだ。
過去の博麗が嘘を吐くとも思わなかったが、念を入れるに越したことはない。遠子にメールで連絡を入れたところ、興味深い話だからすぐにでも聞かせて欲しいとせっつかれたので買い出しがてら直接足を運ぶことにしたのだった。
屋敷を訪ねると予め知らされていたのか、初老の使用人がいつものように門を開け、わたしを中に案内してくれた。
「いつもと比べて少し顔色が優れないようですが、悪い夢でも見ましたか?」
「珍しく風邪を引いたの。完治はしたはずだけど、疲れが少し残っているのかもね」疲れの原因は別にあるのだが、わざわざ語ることでもないから風邪ということにしておいた。「ここにはわたししかいないんだから、老人を装う必要もないと思うけど?」
どこからどう見ても初老の男性だが、それは単なるガワに過ぎない。その正体はリグル・ナイトバグという名の妖怪であり、擬態を用いて人間に化けているのだ。人間社会に紛れ込むことによって擬態できるらしいが、その徹底ぶりたるや普通の人間はおろかわたしですら完璧に欺くものであり、先の異変がなければ一生気付かなかったかもしれない。
「誰かが見ているところと誰も見ていないところで態度を変えれば、咄嗟の出来事でぼろがでやすくなるものです。狸と違い、わたしの化けるは長年をかけて環境や社会の一部になりきるもの。もっとも完璧ではなかったようですが」
確かに一度は過ったが、それはリグルが世を乱す計画を発したからである。企みを捨ててなお人に混じろうとするならば、もはや誰も彼女が虫の妖怪であると気付くことはないだろう。
「さて、遠子様のお部屋に案内しましょう。今回はまた気合いを入れて調べ物をしていたようですが、また近い内に異変などが起きるのでしょうか?」
「異変ではなくて祭りらしいわ。六十年に一度開かれるという奇祭なのだけど」
「ああ、あれか」リグルには思い当たる節があるらしい。しかもよほど傍迷惑な祭りであるのか顔中の皺がくっきりと現れ、口調もリグルの素に戻っていた。「ごほん、あの祭りでしたら話だけは聞いたことがあります。わたしが生まれて間もなくの頃にあったことですから詳しくは知りませんが」
リグルが擬態している老人のプロフィールではそういうことになっているのだろう。そして擬態を崩すことがないと分かった以上、聞き出せることは何もなさそうだ。
「ここで立ち話もなんですし、お部屋までご案内します」
わたしも同意して話を打ち切り、リグルの案内に従う。相変わらず一部の隙もない身のこなしであり、強いて言うならばここから人間らしくないと推察することもできたかもしれない。まあ、わたしより体術に長けた人間はどの里にもいるし、人外の証明だなんて感じることはなかっただろう。
遠子の部屋の前に立つと、打鍵音がひっきりなしに聞こえてくる。調べ物で興に乗っているらしく、これはしばらく部屋の中で待機する必要がありそうだった。
一際大きなターンという打鍵音とともに静寂が訪れ、遠子はくるりとこちらを向く。わたしはようやく終わったかと読んでいた本を棚に戻し、そっと顔色をうかがった。季節の変わり目は体調を崩すことが多いのだが、長時間の作業に集中して息を乱すことも疲れを示すこともない。今日はいつも以上に体調が優れている様子だった。
「霊夢ったら体調が優れないみたいだけど」
遠子の目は普段のわたしを仔細漏らさず記憶している。そんな彼女が言うのだから実際に顔色を悪くしているのだろう。少々の寝不足だけと思っていたが、そうではないのかもしれない。
「風邪を引いていたのよ」
「あら珍しい、学校に通っていた頃は学級閉鎖になるような状況でもけろりとしていたのに。これは槍か雹でも降ってくるに違いないわ」
そこまで言うこともないと思ったが、楽しそうに笑っている遠子の顔を見ていると怒りも毒気もすぐに抜けてしまう。我ながら甘いことだ。
「わたしが言うのもなんだけど、霊夢はただでさえ健康を害しやすい立場に就いてるんだから特に気を付けないと」
「分かった分かった、不摂生しないようにするから」
日々の訓練は欠かさないし、食事も一人暮らしなりに気を配っているからやることはないのだが、このままでは遠子のお説教が捗るばかりだ。その前に楔を打ち、話を切り替えるためわざとらしく手を打った。
「で、聞きたいことって何なのよ?」
「おお、そうだそうだ。神社を訪ねてきたその山本某について聞かせてくれないかしら?」
「というと思い当たる節でもあるの?」
「多分こいつだろうなという見当はつけているけど念のためにね。姿形や服装はこんな感じだった?」
遠子は一枚の写真を霊夢に差し出す。ところどころ色が褪せ、カラーとセピアの入り混じった状態になっていたが、その中に写る少女は先日の訪問者と全くの同一人物だった。
「その通りよ。色々と妙なことを言い残してさっさと立ち去ってしまったの」
遠子は小さく息をつく。口にはしなかったが、困った奴だと言いたげな表情を浮かべている。
「まず言っておくと、そいつは山本某なんて名前じゃない。摩多羅隠岐奈、この郷を創った賢者の一人よ」
「この郷を、創った……?」ただならぬ奴だとは思っていたけれど、まさかそこまで大層な奴だとは考えていなかった。「賢者ってことはつまり、郷を載せて宇宙を飛んでいる船の建造主なの?」
霊夢の問いに対し、遠子は口元に指を立てる。それで他に聞かれてはならないことを大声で喋っていることに気付き、慌てて手で口を塞ぐ。
「既に口から出ていった言葉は二度と戻ってこないわ。この屋敷にいる人たちが聞いても子供同士が夢物語でも話しているで片付けてくれると思うけど、もしかしたら気付くかもしれない。人間は時にとんでもない想像を膨らませる生き物だからね」
自分がやっていることの滑稽さに気付き、霊夢は慌てて口から手をどける。その様を見てくすりと笑ったのも一瞬のこと、遠子はぐっと声を潜め、霊夢の耳元に顔を近づける。そしてか細い声で話を続けるのだった。
「創ったのは船に載る前の郷よ。もっとも船に載ってからの郷を維持するのにもなくてはならない存在だし、重要なことは変わらない……いや、重要度はより増したと考えるべきでしょうね。船に載る前の郷を維持するのに彼女の力は必須ではなかったのだから」
遠子の話によってようやく霊夢にも山本某……もとい、隠岐奈なる存在の重要さが分かってきた。それならそうと言ってくれれば良かったのに、名前すら明かさず怪しい言動に終始していたのは賢者の病気みたいなものとして諦めるしかないのだろう。
「四季を定義するための祭りを起こすと言っていたわ。六十年に一度行われるとのことだから、ネットにも情報が載っているだろうと思ってまずはそちらを調べたのだけど、なんというか傍迷惑な内容が書かれていたわ。一日のうちに春夏秋冬が目まぐるしく移り変わり、力を与えられてハイになった妖精たちが暴れ回るそうじゃない」
「逆よ、力を与えられてハイになった妖精たちの影響で春夏秋冬がめまぐるしく移り変わるの。妖精は自然の具現だから強い力を与えられれば四季をねじ曲げるような現象も起こし得るということね」
「順番なんてどっちでも良いじゃない。どちらにしろ面倒なことが押し寄せてくるのに変わりはないのだから」
不貞腐れたように言うと、遠子もまた不機嫌さを剥き出しにする。話が長くなるスイッチを踏んでしまったと気付いたがあとの祭り、遠子の口はミシンのようにだだだだと動き始めていた。
「いいえ霊夢、因果の順番はとても大事なのよ。わたしは歴史を修めているからそのことをよくよく承知しているの。物事は全て原因、中途の過程があって結果が現れる。その順番を逆にしたり安易に入れ替えたりするととんでもない間違えを犯しかねない。そうね……例えばここに一人の男がいるとする。彼は地学の資料を基に地面を掘る機械を導入して温泉を掘り当て、苦労して土地を整え、温泉宿を立て、上手く宣伝したために繁盛して裕福となった。
それを組み替えて男は裕福である、何故ならば温泉を掘り当てたからだという流れにしてしまうと、温泉を掘り当てた《幸運》が彼を金持ちにしたと解釈されかねない。苦労してことを成したエピソードは無視され、下手すると金持ち特有の傲慢な男であるという正反対の人物像が後世で確立されかねない。
これは極端な例だと言われそうだけど、歴史の世界にはそうした誤解釈がごまんと生まれているの。決して暴君ではなかった王がそう解釈されて歴史の教科書に載ったり、逆に悪逆非道を働いた王がさも名君であるように記されたりもする。過去の出来事になればなるほど原因と結果しか残らず、その過程が徐々に省略されたり省かれたりして上手く伝えられなくなるからある程度は誤解釈も仕方ないのだけど、それはあくまでも古い出来事を掘り返す必要が現れた場合の話。原因も過程も結果も明確に分かる出来事の因果をばらばらにして解釈するのは感心できないと思うわけで……」
「分かった、分かったってば! わたしが悪かったわ!」
ここで遮らなければ話が説教だけで終わってしまう。強引でもここで区切りをつけなければならないと判断したのだ。遠子は辛うじて我に返り、照れ臭そうに頬をかく。またぞろ悪い癖が顔を覗かせたと言わんばかりだ。
「いやうん、わたしもがみがみ言い過ぎた、ごめんなさい。霊夢は歴史を学ぶ学生や研究者ではないのよね、うん……分かってるのだけど」
遠子の屋敷にはインターネットにも他の図書館にも存在しない文献が数多く保管されており、大学で歴史の研究をしている人たちが時折訪れてくる。同様の訪問が最近あったのかもしれない。遠子はどうも大学の人間や市井の歴史研究者が苦手……もっときつい言い方をすれば嫌っている節があり、棘のある言葉を平気でぶつけるのだ。
わたしと接する際には見せない表情だが、長々と口上を垂れる遠子にはその片鱗がうかがい知れた。
「スイッチが入ったかのようにまくし立てるのは遠子の癖だもの。それに気にしているならこうして気安く訪ねることもないから」
遠子は本当かなあと言いたげに視線を送ってくる。小さく何度か頷くとようやく少しだけ安心したのか、少なくとも表面上はいつもの調子に戻っていた。
「話を元に戻しましょうか。先程、妖精が力を得てハイになると言ったけど、その力を与えるのが摩多羅隠岐奈を名乗る秘神の部下連中なのね。まあ、部下といっても二人しかいないんだけど」
「二人しかいないってことは、よほどの使い手だったりするの?」
「力があるってことは間違いないわね」
なんとも曖昧で配慮の感じられる言い回しだった。それで霊夢にも二人の部下がどのようなタイプなのかを俄に察することができた。力はあるが、そのせいでしょっちゅう調子に乗ったりへまを打ったりするのだろう。
「わたしに山本某と名乗った不審者、摩多羅隠岐奈は非常に強い力の持ち主のはずよ。彼女に背後に立たれ、凄まれただけで背後を振り向くことができなくなったもの。それほどの圧を放てる実力者が使えない部下二人だけを抱えるなんてあり得るのかしら」
真っ当な疑問のはずだが、遠子は困ったように首を傾げるのだった。
「過去には新しい部下を作ろうと動いたこともあるみたい。というのも四季祭りは元々、彼女の人事活動の一環だったの。妖精だけでなく見込みがありそうな者に片っ端から力を与え、使えるかどうか確かめようとしたのね。その手が妖精にも及び、ハイになって四季を散々にかき乱してしまい、その時は四季異変と呼称されたのだけど」
「ちょっと、待って……待って頂戴!」
遠子は先程から聞き捨てならないことばかりを口にしている。話を遮らないほうが良いかなと思っていたが、このままでは頭がパンクしてしまう。不躾でも一度、話を整理する余裕を与えて欲しかった。
「その四季祭りって、元は異変だったの?」
「ええ……その際は人事活動が無差別に行われたせいで全貌がつかみにくくなり、摩多羅隠岐奈もそのことを示すことなくしかも堂々と活動を行い続けた。だからこそ正体不明の出来事として異変扱いされたわけだけど、今では正体も仕組みも公言されている。四季がぐるぐる入れ替わるのは傍迷惑だし、妖精たちが暴れるからその過程で霊夢も郷中をかけずり回る羽目になるかもしれない。でも四季祭りは摩多羅神が引き起こす単なる自然現象であり、決して異変ではないの」
騒ぎが郷中で起こり、その解決に東奔西走する必要があるなら異変と何ら変わらない。第三種の宣言がないこと、故に事件が起きても博麗の裁量ではなく各里に敷かれた決まり事に従わなければならないからより厄介とも言える。
「それ、もしかして異変よりも面倒だったりしない?」
「かもしれないわね。でも郷を揺るがすような事件ではないのだから、わたしとしては安心できる。だって第三種が発令されたら、霊夢は解決するまでずっと止まることができないんだから」
遠子がわたしの進退や在り方まで心配してくれたと気付き、思わず相好を崩す。博麗の巫女になってそれなりの年月が経っているし、遠子は巫女がどのような役目を負うべきかはっきりと理解している。今更気遣われても嬉しくないわけではないが、むず痒さはある。
「大丈夫だって、色々と事件は起きてるけど全て切り抜けてるじゃない。こう見えても日々の鍛錬は欠かしてないし、これからも大丈夫だって」
「でも、郷中に巨大な虫が飛び交うような、あんな事件がこれからだって起きるかも知れない。博麗の巫女だって死なないわけではないのよ」
今日の彼女はところどころおかしいところがある。いつも以上に調子が良いのも健康というわけではなく、もっと別の要因でハイになっているだけかもしれない。
「肝に銘じとくわ」
ここは不安に駆られた遠子を宥める必要がある。幸いにして小さな子供の恐怖を宥めるのは職業柄、割と慣れている。
「大丈夫だって。わたしは面倒ごとが嫌いだし、一人で手に負えないと分かったら上司や似たような立場の人間や妖怪に協力を求めるから。最近は守矢神社の風祝とも上手くやってるし、異変の内容によっては協力してくれるとはずよ」
佳苗とは弾幕決闘の模擬戦を定期的に行っているし、取り留めのない話をよく交わすようになった。彼女もまたかつての異変で郷の仕組みを知ってしまった一人なのだが、そのせいで妙な使命感に目覚めてしまったらしい。
『過去の遺恨を引きずって、それで郷に何かがあったとき手遅れになるようなことがあったらまずいじゃない』
そう言って深々と頭を下げられた時は酷く困ってしまったものだ。わたしとしてはお互い気まずいより上手くやっていけるほうが良いに決まっている。守矢神社をできるだけ避けていたのは佳苗との確執があったせいで、それがなくなればもっと密に交流することもやぶさかではない。博麗神社には守矢の分社があるし、元々頼みごとをするのに遠慮する必要もないのだ。
「他にも色々と伝手はあるし、大丈夫だって」
いつもの遠子ならそれで察してくれるのだが、今日に限っては妙に反応が渋かった。もじもじしてはっきりとせず、気持ちを言葉にすることもなく黙りを決め込んでいる。何か気分を害するようなことを言ったのかもしれなかったが、振り返ってみても思い当たる節は何もない。
「そうね、ごめんなさい……今更こんなことを言っても仕方がないわね」
気を取り直してくれたようだが、どこか取り繕った物言いである。わたしへの気持ちを溜め込んでいるなら、遠慮せずに言って欲しかったのだが。
「四季祭りに関しては遠子の言う通り、問題のない現象として扱うことにする。それはそれとして一つ訪ねたいことがあるのだけど、良いかしら?」
「ええ、何でも訊いて頂戴」
微妙な表情はすっと隠れ、いつもの物知り顔な遠子が現れる。だからわたしもそれに甘えることにした。
「神社の祭祀に関する書物にこんな記載があったわ。六十年に一度行われるこの祭りはかつて同じサイクルで起きていた、四季の花が一斉に咲き誇るという特異な自然現象の代わりとして開かれるものである」
「あら、その通りよ。博麗神社では遠い過去の出来事を記した文献がほぼ失われていたと聞いていたのだけど、きちんと受け継がれた記録もあるのね」
遠子はわたしが見つけた驚くべき事実にも動じることはなかった。遠い過去を実際に記憶しているのだから当然かもしれないが、とっておきの情報だっただけに眉一つ動かさないのは少しだけ悔しかった。
「天翔る船に移る前の郷では六十年ごと、大量の幽霊が流れ込んでいたの。わたしも詳しいことは理解していないのだけど、六十年というのは生死の巡りがぐるりと輪を描いて元の場所に戻って来るまでの時間らしくて、その影響だと考えて頂戴。その数は彼岸の向こう側におわす十王の配下、彼岸の渡し守を総動員してなお手が足りなくなるほどで、三途の川を渡ることができずにいる霊がどうしても発生してしまう。それらの霊は仮初めの居場所として植物や妖精といった自然現象を選ぶのだけど、その影響で花が咲いてしまうみたい」
霊が植物に憑依することはあるし、季節外れの花を咲かせる姿も何度か目撃したことがある。常日頃より霊を扱うわたしにとっては然程珍しい現象でもないが、郷を覆い尽くすほどの開花となれば話は別だ。
「それほどまでに大量の死が、かつての郷では起きていたということよね?」
「いえ、そんなことはないわ。なるほど、霊夢が危惧していたのは郷を揺るがすような大災害が起きるからこそ一斉開花が発生するのではないかということね。でも心配する必要はなかったの。大量の霊は外の世界から流れてくるものだったから」
「外の世界というのはかつて郷とは別に存在していた場所のことよね。沢山の国があり、広大な土地があり、湖を何百倍、何千倍にも広げた海と呼ばれる地形がある」
「ええ、そこには何十億という人が住んでいた。そして外の世界は妖の恐怖が存在しなかった……と言えば人間にとって理想の世界と思うかもしれないけど、その数ゆえに社会と社会、国と国が起こす摩擦は時に凄まじいものとなり、容赦のない殺し合いに発展することも稀ではなかった。あとは単純にスケールの問題で、何千万と住む土地で巨大災害が起きれば、数万から数十万の単位で人が亡くなるのは十分にあり得ることね」
前に聞いたことがあるとはいえ、数十万の単位で人が死ぬというのはわたしの想像を遙かに越えている。郷の人間が全滅してお釣りが来るほど亡くなるだなんて考えただけでも怖気が走ることだった。
「今の郷は外の世界との繋がりがないし、大量死が起こってもその影響がやって来ることはない。だから霊夢が心配する必要は何もないのよ」
「そう、なのかしら?」
遠子がそう言うのなら間違いないと思う反面、どうしても引っかかりを覚えて仕方がなかった。
「浮かない顔をしているわね。風邪が尾を引いているだけではなく、巫女としての能力によって問題のないはずの自然現象に何らかの危惧を覚えたのかしら。だとすれば放っておくわけにはいかない。霊夢の見る夢はその名前の如く何らかの予兆を示すと考えるべきなのだから。それで、どんな夢を見たのかしら?」
前のめり気味の提案に押され、わたしは先日見た夢の断片を語ることにした。実を言えば屋敷に来る前まではどう話して良いか見当もつかなかったが、遠子との会話によって僅かだが分かったこともあり、少しはまともに話せそうだった。
「水が、広がっていたような気がする。どちらを向いても陸がまるで見えなくて……遠子の話でそれが何なのか分かったわ。わたしはきっと海を夢見ていた」
「なるほど、海は郷に存在しない。外の世界にのみ存在する。だから霊夢はわたしの話に問題があると考えたのね。それで霊夢はその海に何を見たのかしら?」
「それが……よく覚えてないの」
「珍しいわね。霊夢は昔から夢を現実のようにはっきりと見る体質なのに」
遠子の指摘通り、わたしはやけにはっきりした夢を見る。子供の頃には一度ならず、他人の見る夢を事細かに語られても困るだけと言われたことがある。
「山本某、つまり摩多羅隠岐奈なる怪異にそのことを話したら、お前は夢のことを思い出さなければならないと言われたわ。あまりにも酷い内容で夢の内容を無意識のうちに拒もうとしたのではないかって」
「一概にそうとも言い切れないと思うけどね。夢なんて本来あやふやなものなんだから覚えていなくても別に問題はない。でも一理あることは確かだし、霊夢はいま海の夢を見ていたのだという認識を獲得した。連鎖的に何かを思い出せるかもしれない。霊夢、その海はどちらを向いても水以外に何もなかったと言うけど、本当にそうかしら? 何かが浮いていた、あるいは飛んでいたということはなかったかしら」
「いえ、あるのはどこまでも続く海だけ……」夢の出来事を頭の中で再現しようと試みたが、海の色以外に何も出てこない。「海が、海が続いている。どこまでも、どこまでも……他には何もなく、どこを目指したら良いかも分からない」
頭がずきずきする。夢を思い浮かべようとしてこんなことになるのは初めてだった。まるで酒に酔った時のようだ。
「ごめん、どうしても思い出せない。酷く辛いの……」
「無理をしなくても良いわ。記憶というものは無理に思い出そうとすれば逆に遠くへ逃げていくのよ。頭の中にあるものだからいつか思い出せると気楽に考えておいたほうが良いと思う」
何も忘れない少女の言うことであり、わたしに当てはまるとは思えなかった。でも今はどうやっても思い出せそうになく、そのことが酷く苦痛になる。ここは遠子の言葉に甘えるしかなかった。
「きっと風邪の後遺症ね。そのせいで考え込むと頭痛がしてしまうのよ」
「いいえ、そんなの風邪の症状にはない。霊夢の反応は健忘した記憶を思い出そうとする時の強い精神的疲労(ストレス)だと考えられる。それは摩多羅氏の指摘が的を射ていることを示しているわね。霊夢は思い出すのも嫌なことを夢の中に置いてきたの」
「わたしはそれを思い出さなければならない?」
「博麗の巫女を遵守すべきだとは思うけど、苦しみはできる限り回避されるべきよ。霊夢は強いけど、それでも十年と少ししか生きていない人間でしかないんだから」
「それは遠子だって同じじゃない」
それは嘘だ。遠子は十と少しの年月に二千年近くを足した月日を持ち、膨大な記憶を頭の中に秘めている。分かっていてそれでも嘘を口にしたのは子供扱いされたのがどうにも癪に触ったからだ。
「そうね、霊夢の言う通りよ。ゲーム風に言うならばわたしは強くてニューゲームを繰り返して知識を貯めてきたチート人間だけど、それでも基盤は十と少しだけ生きた小娘に過ぎない。年頃の少女のように振る舞いたくなるし、それを避けることはできない。それはそれとして、使命の子として振る舞うのもれっきとしたわたしなの」
なんとも面倒だが、それはわたしも同じことだ。別の名前を持ちながら、博麗の巫女である間はそれを完全に投げ捨てて霊夢を名乗り、役目を果たさなければならないのだから。
「それも含めて同じってことよ」
遠子はよろしいとばかりに頷き、それから人差し指をぴんと立てた。
「一つ気になることがある。霊夢が夢の内容を思い出そうとしたとき、目指す場所が分からないと言ったわよね。おそらく霊夢は海の上を行く何かを見たはずなの。海を行くもの、それはきっと船よ」
ちくりと棘を刺したような頭痛とともに、海を浮かぶ船の記憶が朧気に浮かぶ。だがどれほどの大きさでどのような形をしているのかまでは思い出せなかった。
「船……はあったと思う。あと、トンボを見た気がする」
「トンボって、夏から秋にかけて空を飛ぶ虫のことよね。幼虫であるヤゴは水棲だし、川辺を飛んでいる姿はありふれているけれど、海を飛ぶトンボは聞いたことがないわ。確かに長距離を飛ぶ虫ではあるけど。わたしが知らないだけなのかしら?」
遠子は思案を巡らせ始めたのかぴたりと固まってしまう。こういうとき大抵はわたしの思いもよらない知識を引っ張り出してくるものだが、今回に限っては力なく首を横に振るのだった。
「該当なし。でも霊夢が見たってことは何か意味があるはず。外の世界に住んでいる虫の知識が収録された図鑑を当たってみるわ。トンボの種類が分かれば霊夢の夢がどのようなものか分かってくるはず」
「わたしももう少し思い出してみる。分かったら連絡するから」
「そうしてもらえると助かる。大事にならなければ良いのだけど」
今まで予兆を感じることは何度かあったが、今回は全く何も感じられない。夢見の内容を拒んだことが影響しているのだろうか。
「逸る気持ちは分かるけど焦らないでね。わたしは例外だけど、記憶は追えば追うほど逃げていくものだから。そっと近付いて、えいやっと一気に捕まえるの」
「それじゃまるで虫取りみたいじゃない」
思わず笑いが零れ、気持ちが少しだけ楽になる。摩多羅隠岐奈には酷く脅されたが、遠子の言う通り焦りは良くない結果を生む。常に頭の片隅には置いておくが、ひとまずは近く訪れる春や四季祭りのことを考えて暮らすことにした。
山本某が与えてくれた体力と獣のような静養のお陰で翌日にはすっかり良くなっていたのだが、それから二日かけて博麗神社の文献を探してみた結果、四季祭りについての俄に信じ難い記述を見つけてしまったのだ。
過去の博麗が嘘を吐くとも思わなかったが、念を入れるに越したことはない。遠子にメールで連絡を入れたところ、興味深い話だからすぐにでも聞かせて欲しいとせっつかれたので買い出しがてら直接足を運ぶことにしたのだった。
屋敷を訪ねると予め知らされていたのか、初老の使用人がいつものように門を開け、わたしを中に案内してくれた。
「いつもと比べて少し顔色が優れないようですが、悪い夢でも見ましたか?」
「珍しく風邪を引いたの。完治はしたはずだけど、疲れが少し残っているのかもね」疲れの原因は別にあるのだが、わざわざ語ることでもないから風邪ということにしておいた。「ここにはわたししかいないんだから、老人を装う必要もないと思うけど?」
どこからどう見ても初老の男性だが、それは単なるガワに過ぎない。その正体はリグル・ナイトバグという名の妖怪であり、擬態を用いて人間に化けているのだ。人間社会に紛れ込むことによって擬態できるらしいが、その徹底ぶりたるや普通の人間はおろかわたしですら完璧に欺くものであり、先の異変がなければ一生気付かなかったかもしれない。
「誰かが見ているところと誰も見ていないところで態度を変えれば、咄嗟の出来事でぼろがでやすくなるものです。狸と違い、わたしの化けるは長年をかけて環境や社会の一部になりきるもの。もっとも完璧ではなかったようですが」
確かに一度は過ったが、それはリグルが世を乱す計画を発したからである。企みを捨ててなお人に混じろうとするならば、もはや誰も彼女が虫の妖怪であると気付くことはないだろう。
「さて、遠子様のお部屋に案内しましょう。今回はまた気合いを入れて調べ物をしていたようですが、また近い内に異変などが起きるのでしょうか?」
「異変ではなくて祭りらしいわ。六十年に一度開かれるという奇祭なのだけど」
「ああ、あれか」リグルには思い当たる節があるらしい。しかもよほど傍迷惑な祭りであるのか顔中の皺がくっきりと現れ、口調もリグルの素に戻っていた。「ごほん、あの祭りでしたら話だけは聞いたことがあります。わたしが生まれて間もなくの頃にあったことですから詳しくは知りませんが」
リグルが擬態している老人のプロフィールではそういうことになっているのだろう。そして擬態を崩すことがないと分かった以上、聞き出せることは何もなさそうだ。
「ここで立ち話もなんですし、お部屋までご案内します」
わたしも同意して話を打ち切り、リグルの案内に従う。相変わらず一部の隙もない身のこなしであり、強いて言うならばここから人間らしくないと推察することもできたかもしれない。まあ、わたしより体術に長けた人間はどの里にもいるし、人外の証明だなんて感じることはなかっただろう。
遠子の部屋の前に立つと、打鍵音がひっきりなしに聞こえてくる。調べ物で興に乗っているらしく、これはしばらく部屋の中で待機する必要がありそうだった。
一際大きなターンという打鍵音とともに静寂が訪れ、遠子はくるりとこちらを向く。わたしはようやく終わったかと読んでいた本を棚に戻し、そっと顔色をうかがった。季節の変わり目は体調を崩すことが多いのだが、長時間の作業に集中して息を乱すことも疲れを示すこともない。今日はいつも以上に体調が優れている様子だった。
「霊夢ったら体調が優れないみたいだけど」
遠子の目は普段のわたしを仔細漏らさず記憶している。そんな彼女が言うのだから実際に顔色を悪くしているのだろう。少々の寝不足だけと思っていたが、そうではないのかもしれない。
「風邪を引いていたのよ」
「あら珍しい、学校に通っていた頃は学級閉鎖になるような状況でもけろりとしていたのに。これは槍か雹でも降ってくるに違いないわ」
そこまで言うこともないと思ったが、楽しそうに笑っている遠子の顔を見ていると怒りも毒気もすぐに抜けてしまう。我ながら甘いことだ。
「わたしが言うのもなんだけど、霊夢はただでさえ健康を害しやすい立場に就いてるんだから特に気を付けないと」
「分かった分かった、不摂生しないようにするから」
日々の訓練は欠かさないし、食事も一人暮らしなりに気を配っているからやることはないのだが、このままでは遠子のお説教が捗るばかりだ。その前に楔を打ち、話を切り替えるためわざとらしく手を打った。
「で、聞きたいことって何なのよ?」
「おお、そうだそうだ。神社を訪ねてきたその山本某について聞かせてくれないかしら?」
「というと思い当たる節でもあるの?」
「多分こいつだろうなという見当はつけているけど念のためにね。姿形や服装はこんな感じだった?」
遠子は一枚の写真を霊夢に差し出す。ところどころ色が褪せ、カラーとセピアの入り混じった状態になっていたが、その中に写る少女は先日の訪問者と全くの同一人物だった。
「その通りよ。色々と妙なことを言い残してさっさと立ち去ってしまったの」
遠子は小さく息をつく。口にはしなかったが、困った奴だと言いたげな表情を浮かべている。
「まず言っておくと、そいつは山本某なんて名前じゃない。摩多羅隠岐奈、この郷を創った賢者の一人よ」
「この郷を、創った……?」ただならぬ奴だとは思っていたけれど、まさかそこまで大層な奴だとは考えていなかった。「賢者ってことはつまり、郷を載せて宇宙を飛んでいる船の建造主なの?」
霊夢の問いに対し、遠子は口元に指を立てる。それで他に聞かれてはならないことを大声で喋っていることに気付き、慌てて手で口を塞ぐ。
「既に口から出ていった言葉は二度と戻ってこないわ。この屋敷にいる人たちが聞いても子供同士が夢物語でも話しているで片付けてくれると思うけど、もしかしたら気付くかもしれない。人間は時にとんでもない想像を膨らませる生き物だからね」
自分がやっていることの滑稽さに気付き、霊夢は慌てて口から手をどける。その様を見てくすりと笑ったのも一瞬のこと、遠子はぐっと声を潜め、霊夢の耳元に顔を近づける。そしてか細い声で話を続けるのだった。
「創ったのは船に載る前の郷よ。もっとも船に載ってからの郷を維持するのにもなくてはならない存在だし、重要なことは変わらない……いや、重要度はより増したと考えるべきでしょうね。船に載る前の郷を維持するのに彼女の力は必須ではなかったのだから」
遠子の話によってようやく霊夢にも山本某……もとい、隠岐奈なる存在の重要さが分かってきた。それならそうと言ってくれれば良かったのに、名前すら明かさず怪しい言動に終始していたのは賢者の病気みたいなものとして諦めるしかないのだろう。
「四季を定義するための祭りを起こすと言っていたわ。六十年に一度行われるとのことだから、ネットにも情報が載っているだろうと思ってまずはそちらを調べたのだけど、なんというか傍迷惑な内容が書かれていたわ。一日のうちに春夏秋冬が目まぐるしく移り変わり、力を与えられてハイになった妖精たちが暴れ回るそうじゃない」
「逆よ、力を与えられてハイになった妖精たちの影響で春夏秋冬がめまぐるしく移り変わるの。妖精は自然の具現だから強い力を与えられれば四季をねじ曲げるような現象も起こし得るということね」
「順番なんてどっちでも良いじゃない。どちらにしろ面倒なことが押し寄せてくるのに変わりはないのだから」
不貞腐れたように言うと、遠子もまた不機嫌さを剥き出しにする。話が長くなるスイッチを踏んでしまったと気付いたがあとの祭り、遠子の口はミシンのようにだだだだと動き始めていた。
「いいえ霊夢、因果の順番はとても大事なのよ。わたしは歴史を修めているからそのことをよくよく承知しているの。物事は全て原因、中途の過程があって結果が現れる。その順番を逆にしたり安易に入れ替えたりするととんでもない間違えを犯しかねない。そうね……例えばここに一人の男がいるとする。彼は地学の資料を基に地面を掘る機械を導入して温泉を掘り当て、苦労して土地を整え、温泉宿を立て、上手く宣伝したために繁盛して裕福となった。
それを組み替えて男は裕福である、何故ならば温泉を掘り当てたからだという流れにしてしまうと、温泉を掘り当てた《幸運》が彼を金持ちにしたと解釈されかねない。苦労してことを成したエピソードは無視され、下手すると金持ち特有の傲慢な男であるという正反対の人物像が後世で確立されかねない。
これは極端な例だと言われそうだけど、歴史の世界にはそうした誤解釈がごまんと生まれているの。決して暴君ではなかった王がそう解釈されて歴史の教科書に載ったり、逆に悪逆非道を働いた王がさも名君であるように記されたりもする。過去の出来事になればなるほど原因と結果しか残らず、その過程が徐々に省略されたり省かれたりして上手く伝えられなくなるからある程度は誤解釈も仕方ないのだけど、それはあくまでも古い出来事を掘り返す必要が現れた場合の話。原因も過程も結果も明確に分かる出来事の因果をばらばらにして解釈するのは感心できないと思うわけで……」
「分かった、分かったってば! わたしが悪かったわ!」
ここで遮らなければ話が説教だけで終わってしまう。強引でもここで区切りをつけなければならないと判断したのだ。遠子は辛うじて我に返り、照れ臭そうに頬をかく。またぞろ悪い癖が顔を覗かせたと言わんばかりだ。
「いやうん、わたしもがみがみ言い過ぎた、ごめんなさい。霊夢は歴史を学ぶ学生や研究者ではないのよね、うん……分かってるのだけど」
遠子の屋敷にはインターネットにも他の図書館にも存在しない文献が数多く保管されており、大学で歴史の研究をしている人たちが時折訪れてくる。同様の訪問が最近あったのかもしれない。遠子はどうも大学の人間や市井の歴史研究者が苦手……もっときつい言い方をすれば嫌っている節があり、棘のある言葉を平気でぶつけるのだ。
わたしと接する際には見せない表情だが、長々と口上を垂れる遠子にはその片鱗がうかがい知れた。
「スイッチが入ったかのようにまくし立てるのは遠子の癖だもの。それに気にしているならこうして気安く訪ねることもないから」
遠子は本当かなあと言いたげに視線を送ってくる。小さく何度か頷くとようやく少しだけ安心したのか、少なくとも表面上はいつもの調子に戻っていた。
「話を元に戻しましょうか。先程、妖精が力を得てハイになると言ったけど、その力を与えるのが摩多羅隠岐奈を名乗る秘神の部下連中なのね。まあ、部下といっても二人しかいないんだけど」
「二人しかいないってことは、よほどの使い手だったりするの?」
「力があるってことは間違いないわね」
なんとも曖昧で配慮の感じられる言い回しだった。それで霊夢にも二人の部下がどのようなタイプなのかを俄に察することができた。力はあるが、そのせいでしょっちゅう調子に乗ったりへまを打ったりするのだろう。
「わたしに山本某と名乗った不審者、摩多羅隠岐奈は非常に強い力の持ち主のはずよ。彼女に背後に立たれ、凄まれただけで背後を振り向くことができなくなったもの。それほどの圧を放てる実力者が使えない部下二人だけを抱えるなんてあり得るのかしら」
真っ当な疑問のはずだが、遠子は困ったように首を傾げるのだった。
「過去には新しい部下を作ろうと動いたこともあるみたい。というのも四季祭りは元々、彼女の人事活動の一環だったの。妖精だけでなく見込みがありそうな者に片っ端から力を与え、使えるかどうか確かめようとしたのね。その手が妖精にも及び、ハイになって四季を散々にかき乱してしまい、その時は四季異変と呼称されたのだけど」
「ちょっと、待って……待って頂戴!」
遠子は先程から聞き捨てならないことばかりを口にしている。話を遮らないほうが良いかなと思っていたが、このままでは頭がパンクしてしまう。不躾でも一度、話を整理する余裕を与えて欲しかった。
「その四季祭りって、元は異変だったの?」
「ええ……その際は人事活動が無差別に行われたせいで全貌がつかみにくくなり、摩多羅隠岐奈もそのことを示すことなくしかも堂々と活動を行い続けた。だからこそ正体不明の出来事として異変扱いされたわけだけど、今では正体も仕組みも公言されている。四季がぐるぐる入れ替わるのは傍迷惑だし、妖精たちが暴れるからその過程で霊夢も郷中をかけずり回る羽目になるかもしれない。でも四季祭りは摩多羅神が引き起こす単なる自然現象であり、決して異変ではないの」
騒ぎが郷中で起こり、その解決に東奔西走する必要があるなら異変と何ら変わらない。第三種の宣言がないこと、故に事件が起きても博麗の裁量ではなく各里に敷かれた決まり事に従わなければならないからより厄介とも言える。
「それ、もしかして異変よりも面倒だったりしない?」
「かもしれないわね。でも郷を揺るがすような事件ではないのだから、わたしとしては安心できる。だって第三種が発令されたら、霊夢は解決するまでずっと止まることができないんだから」
遠子がわたしの進退や在り方まで心配してくれたと気付き、思わず相好を崩す。博麗の巫女になってそれなりの年月が経っているし、遠子は巫女がどのような役目を負うべきかはっきりと理解している。今更気遣われても嬉しくないわけではないが、むず痒さはある。
「大丈夫だって、色々と事件は起きてるけど全て切り抜けてるじゃない。こう見えても日々の鍛錬は欠かしてないし、これからも大丈夫だって」
「でも、郷中に巨大な虫が飛び交うような、あんな事件がこれからだって起きるかも知れない。博麗の巫女だって死なないわけではないのよ」
今日の彼女はところどころおかしいところがある。いつも以上に調子が良いのも健康というわけではなく、もっと別の要因でハイになっているだけかもしれない。
「肝に銘じとくわ」
ここは不安に駆られた遠子を宥める必要がある。幸いにして小さな子供の恐怖を宥めるのは職業柄、割と慣れている。
「大丈夫だって。わたしは面倒ごとが嫌いだし、一人で手に負えないと分かったら上司や似たような立場の人間や妖怪に協力を求めるから。最近は守矢神社の風祝とも上手くやってるし、異変の内容によっては協力してくれるとはずよ」
佳苗とは弾幕決闘の模擬戦を定期的に行っているし、取り留めのない話をよく交わすようになった。彼女もまたかつての異変で郷の仕組みを知ってしまった一人なのだが、そのせいで妙な使命感に目覚めてしまったらしい。
『過去の遺恨を引きずって、それで郷に何かがあったとき手遅れになるようなことがあったらまずいじゃない』
そう言って深々と頭を下げられた時は酷く困ってしまったものだ。わたしとしてはお互い気まずいより上手くやっていけるほうが良いに決まっている。守矢神社をできるだけ避けていたのは佳苗との確執があったせいで、それがなくなればもっと密に交流することもやぶさかではない。博麗神社には守矢の分社があるし、元々頼みごとをするのに遠慮する必要もないのだ。
「他にも色々と伝手はあるし、大丈夫だって」
いつもの遠子ならそれで察してくれるのだが、今日に限っては妙に反応が渋かった。もじもじしてはっきりとせず、気持ちを言葉にすることもなく黙りを決め込んでいる。何か気分を害するようなことを言ったのかもしれなかったが、振り返ってみても思い当たる節は何もない。
「そうね、ごめんなさい……今更こんなことを言っても仕方がないわね」
気を取り直してくれたようだが、どこか取り繕った物言いである。わたしへの気持ちを溜め込んでいるなら、遠慮せずに言って欲しかったのだが。
「四季祭りに関しては遠子の言う通り、問題のない現象として扱うことにする。それはそれとして一つ訪ねたいことがあるのだけど、良いかしら?」
「ええ、何でも訊いて頂戴」
微妙な表情はすっと隠れ、いつもの物知り顔な遠子が現れる。だからわたしもそれに甘えることにした。
「神社の祭祀に関する書物にこんな記載があったわ。六十年に一度行われるこの祭りはかつて同じサイクルで起きていた、四季の花が一斉に咲き誇るという特異な自然現象の代わりとして開かれるものである」
「あら、その通りよ。博麗神社では遠い過去の出来事を記した文献がほぼ失われていたと聞いていたのだけど、きちんと受け継がれた記録もあるのね」
遠子はわたしが見つけた驚くべき事実にも動じることはなかった。遠い過去を実際に記憶しているのだから当然かもしれないが、とっておきの情報だっただけに眉一つ動かさないのは少しだけ悔しかった。
「天翔る船に移る前の郷では六十年ごと、大量の幽霊が流れ込んでいたの。わたしも詳しいことは理解していないのだけど、六十年というのは生死の巡りがぐるりと輪を描いて元の場所に戻って来るまでの時間らしくて、その影響だと考えて頂戴。その数は彼岸の向こう側におわす十王の配下、彼岸の渡し守を総動員してなお手が足りなくなるほどで、三途の川を渡ることができずにいる霊がどうしても発生してしまう。それらの霊は仮初めの居場所として植物や妖精といった自然現象を選ぶのだけど、その影響で花が咲いてしまうみたい」
霊が植物に憑依することはあるし、季節外れの花を咲かせる姿も何度か目撃したことがある。常日頃より霊を扱うわたしにとっては然程珍しい現象でもないが、郷を覆い尽くすほどの開花となれば話は別だ。
「それほどまでに大量の死が、かつての郷では起きていたということよね?」
「いえ、そんなことはないわ。なるほど、霊夢が危惧していたのは郷を揺るがすような大災害が起きるからこそ一斉開花が発生するのではないかということね。でも心配する必要はなかったの。大量の霊は外の世界から流れてくるものだったから」
「外の世界というのはかつて郷とは別に存在していた場所のことよね。沢山の国があり、広大な土地があり、湖を何百倍、何千倍にも広げた海と呼ばれる地形がある」
「ええ、そこには何十億という人が住んでいた。そして外の世界は妖の恐怖が存在しなかった……と言えば人間にとって理想の世界と思うかもしれないけど、その数ゆえに社会と社会、国と国が起こす摩擦は時に凄まじいものとなり、容赦のない殺し合いに発展することも稀ではなかった。あとは単純にスケールの問題で、何千万と住む土地で巨大災害が起きれば、数万から数十万の単位で人が亡くなるのは十分にあり得ることね」
前に聞いたことがあるとはいえ、数十万の単位で人が死ぬというのはわたしの想像を遙かに越えている。郷の人間が全滅してお釣りが来るほど亡くなるだなんて考えただけでも怖気が走ることだった。
「今の郷は外の世界との繋がりがないし、大量死が起こってもその影響がやって来ることはない。だから霊夢が心配する必要は何もないのよ」
「そう、なのかしら?」
遠子がそう言うのなら間違いないと思う反面、どうしても引っかかりを覚えて仕方がなかった。
「浮かない顔をしているわね。風邪が尾を引いているだけではなく、巫女としての能力によって問題のないはずの自然現象に何らかの危惧を覚えたのかしら。だとすれば放っておくわけにはいかない。霊夢の見る夢はその名前の如く何らかの予兆を示すと考えるべきなのだから。それで、どんな夢を見たのかしら?」
前のめり気味の提案に押され、わたしは先日見た夢の断片を語ることにした。実を言えば屋敷に来る前まではどう話して良いか見当もつかなかったが、遠子との会話によって僅かだが分かったこともあり、少しはまともに話せそうだった。
「水が、広がっていたような気がする。どちらを向いても陸がまるで見えなくて……遠子の話でそれが何なのか分かったわ。わたしはきっと海を夢見ていた」
「なるほど、海は郷に存在しない。外の世界にのみ存在する。だから霊夢はわたしの話に問題があると考えたのね。それで霊夢はその海に何を見たのかしら?」
「それが……よく覚えてないの」
「珍しいわね。霊夢は昔から夢を現実のようにはっきりと見る体質なのに」
遠子の指摘通り、わたしはやけにはっきりした夢を見る。子供の頃には一度ならず、他人の見る夢を事細かに語られても困るだけと言われたことがある。
「山本某、つまり摩多羅隠岐奈なる怪異にそのことを話したら、お前は夢のことを思い出さなければならないと言われたわ。あまりにも酷い内容で夢の内容を無意識のうちに拒もうとしたのではないかって」
「一概にそうとも言い切れないと思うけどね。夢なんて本来あやふやなものなんだから覚えていなくても別に問題はない。でも一理あることは確かだし、霊夢はいま海の夢を見ていたのだという認識を獲得した。連鎖的に何かを思い出せるかもしれない。霊夢、その海はどちらを向いても水以外に何もなかったと言うけど、本当にそうかしら? 何かが浮いていた、あるいは飛んでいたということはなかったかしら」
「いえ、あるのはどこまでも続く海だけ……」夢の出来事を頭の中で再現しようと試みたが、海の色以外に何も出てこない。「海が、海が続いている。どこまでも、どこまでも……他には何もなく、どこを目指したら良いかも分からない」
頭がずきずきする。夢を思い浮かべようとしてこんなことになるのは初めてだった。まるで酒に酔った時のようだ。
「ごめん、どうしても思い出せない。酷く辛いの……」
「無理をしなくても良いわ。記憶というものは無理に思い出そうとすれば逆に遠くへ逃げていくのよ。頭の中にあるものだからいつか思い出せると気楽に考えておいたほうが良いと思う」
何も忘れない少女の言うことであり、わたしに当てはまるとは思えなかった。でも今はどうやっても思い出せそうになく、そのことが酷く苦痛になる。ここは遠子の言葉に甘えるしかなかった。
「きっと風邪の後遺症ね。そのせいで考え込むと頭痛がしてしまうのよ」
「いいえ、そんなの風邪の症状にはない。霊夢の反応は健忘した記憶を思い出そうとする時の強い精神的疲労(ストレス)だと考えられる。それは摩多羅氏の指摘が的を射ていることを示しているわね。霊夢は思い出すのも嫌なことを夢の中に置いてきたの」
「わたしはそれを思い出さなければならない?」
「博麗の巫女を遵守すべきだとは思うけど、苦しみはできる限り回避されるべきよ。霊夢は強いけど、それでも十年と少ししか生きていない人間でしかないんだから」
「それは遠子だって同じじゃない」
それは嘘だ。遠子は十と少しの年月に二千年近くを足した月日を持ち、膨大な記憶を頭の中に秘めている。分かっていてそれでも嘘を口にしたのは子供扱いされたのがどうにも癪に触ったからだ。
「そうね、霊夢の言う通りよ。ゲーム風に言うならばわたしは強くてニューゲームを繰り返して知識を貯めてきたチート人間だけど、それでも基盤は十と少しだけ生きた小娘に過ぎない。年頃の少女のように振る舞いたくなるし、それを避けることはできない。それはそれとして、使命の子として振る舞うのもれっきとしたわたしなの」
なんとも面倒だが、それはわたしも同じことだ。別の名前を持ちながら、博麗の巫女である間はそれを完全に投げ捨てて霊夢を名乗り、役目を果たさなければならないのだから。
「それも含めて同じってことよ」
遠子はよろしいとばかりに頷き、それから人差し指をぴんと立てた。
「一つ気になることがある。霊夢が夢の内容を思い出そうとしたとき、目指す場所が分からないと言ったわよね。おそらく霊夢は海の上を行く何かを見たはずなの。海を行くもの、それはきっと船よ」
ちくりと棘を刺したような頭痛とともに、海を浮かぶ船の記憶が朧気に浮かぶ。だがどれほどの大きさでどのような形をしているのかまでは思い出せなかった。
「船……はあったと思う。あと、トンボを見た気がする」
「トンボって、夏から秋にかけて空を飛ぶ虫のことよね。幼虫であるヤゴは水棲だし、川辺を飛んでいる姿はありふれているけれど、海を飛ぶトンボは聞いたことがないわ。確かに長距離を飛ぶ虫ではあるけど。わたしが知らないだけなのかしら?」
遠子は思案を巡らせ始めたのかぴたりと固まってしまう。こういうとき大抵はわたしの思いもよらない知識を引っ張り出してくるものだが、今回に限っては力なく首を横に振るのだった。
「該当なし。でも霊夢が見たってことは何か意味があるはず。外の世界に住んでいる虫の知識が収録された図鑑を当たってみるわ。トンボの種類が分かれば霊夢の夢がどのようなものか分かってくるはず」
「わたしももう少し思い出してみる。分かったら連絡するから」
「そうしてもらえると助かる。大事にならなければ良いのだけど」
今まで予兆を感じることは何度かあったが、今回は全く何も感じられない。夢見の内容を拒んだことが影響しているのだろうか。
「逸る気持ちは分かるけど焦らないでね。わたしは例外だけど、記憶は追えば追うほど逃げていくものだから。そっと近付いて、えいやっと一気に捕まえるの」
「それじゃまるで虫取りみたいじゃない」
思わず笑いが零れ、気持ちが少しだけ楽になる。摩多羅隠岐奈には酷く脅されたが、遠子の言う通り焦りは良くない結果を生む。常に頭の片隅には置いておくが、ひとまずは近く訪れる春や四季祭りのことを考えて暮らすことにした。
第4章 チャイルド52 一覧
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