―22―
「……で、聖徳太子が実は女性で、しかも道教の術で復活したって?」
異変の翌日。寺子屋の教室で私たちの話を聞いた慧音さんは、「お前は何を言っているんだ」という顔で首を傾げた。まあ、私でもこの話を聞かされれば同じ顔をするだろう。
――大祀廟を後にし、命蓮寺で報告を済ませたあと、外は深夜になっていたので命蓮寺で朝まで休ませてもらい、翌朝に私たちは白蓮さんに付き添われて里へ戻った。白蓮さんが先んじて慧音さんに頭を下げてくれたので、慧音さんも毒気を抜かれて、おかげで長時間のお説教と頭突きは回避できたわけだが、代わりに寺子屋の授業が終わったあと、詳細な経緯の説明を慧音さんから求められたのである。
ちなみに神霊はまだ里に漂っているが、前日より数は減らしていたし、霊夢さん経由で「特に害はない」という報告が里にもたらされたこともあり、今日はもう人々は漂う神霊に慣れていつも通りの生活を送っていた。
まあ、それはともかく。
「歴史家としては、にわかに信じがたい話だな」
「慧音さん的にはどうなんです? 外の世界では聖徳太子虚構説なんてのもありますが、聖徳太子の業績は事実だと思いますか」
「まず古代は決定的に史料が少ないから、事実と伝説の区別は難しい。可能な限りそこを厳密に区別すべきだという立場は理解できる。しかし歴史が権力者によって装飾され、あるいは隠蔽されるのも確かだとしても、だからといって後世の我々が、当時の権力者の意向やら意図やらを後世の視点から勝手に類推し、その類推に基づいて史料の記述の真贋を判定しようというのは、結論ありきの恣意的な判定という誹りを免れないだろう」
「じゃあ、慧音さんはあくまで史料の記述そのものを尊重すると?」
「もちろん無批判に受け入れはしない。事実は伝えられる過程で必ず単純化されるものだからな。実際の歴史は無数の人間がそれぞれに生きた結果の集合体で、全てを正確に記述すればそれはあまりにも冗漫になる。だからそれが後知恵で単純化されて、ひとりの偉人が様々な業績を残して国を導いたというわかりやすい物語にまとめられるわけだ。歴史の研究というのは、そういうわかりやすい物語にまとめられる以前の冗漫な情報を、公平な目でひとつひとつ丁寧に拾い集めて比較検討し、確からしいと思われることを突き止めていく作業のことだよ。だから私は軽々に断言はしないし、何らかの結論ありきで史料を眺めるのも予断を生むから、可能な限り史料に対して公平でありたい。特に古代史はな」
「つまり、慧音さん的には聖徳太子が実在しようがしまいが、どっちでもいいと」
「言ったそばからそう単純化されてもな。聖徳太子の事績とされているもののうちでも、中国の史料や発掘作業の結果として裏付けが取れている部分に関しては、実際にあったものと考えていいだろう。ただそれが《聖徳太子》という個人の事績なのか、それとも複数の人間の事績を一人に集約して単純化したものであるかは、古代の少ない史料からではなんとも言えない。逆に言えばなんとでも考えられる」
「魏志倭人伝の記述から邪馬台国の場所を推定する論争みたいなものですね」
「そうだな。もちろん常に公平であればいいというものでもない。特定の立場から仮説を立ててみることも、議論を進展させる上では重要だ。ただそれは、それまでの先行研究によって確かめられた『最低限確からしいこと』に基づいた上でなければ机上の空論だよ。その上で、だが――『日本書紀』の記述には確かに装飾が多いだろう。だが、厩戸皇子という有力な皇族が、推古朝の政治の中心部にいたのは事実だったろうと思われる。ここから先は私の考えだが、厩戸皇子は実際に聡明な人物で、当時から何らかの逸話が伝わっており、後に子孫が滅亡させられた悲劇性が加味されて、徐々に逸話や業績が付け加えられて、太子信仰が出来上がっていったのではないかと思う。どれが実際の業績や逸話で、どれが後世の後付けかの判断は困難だな」
「部分肯定って感じですね」
「そのあたりが穏当な解釈だろう」
「昨日復活した太子様は、大半の聖徳伝説を事実と言い切りましたが」
「さて、そもそもその《太子様》とやらが本当に厩戸皇子本人なのかどうか。仮に本当に本人だったとしても、その人物の話をそのまま歴史的事実として受け取ってはいけない。当事者の発言や記録も歴史においては史料のひとつでしかないからな。事実は見る者の立場によって全く違う形を示す。一方の言い分のみを事実として受け取ってはいけないんだ」
「ははあ、現世でも肝に銘じておくべきお言葉ですね」
蓮子が畏まってみせる。慧音さんは腰に手を当ててため息をついた。
「まあ、それはそれとして、その《太子様》とやらとは話をしてみたいところだ。本当に厩戸皇子本人ならば、歴史家としては歴史の当事者の証言が聞けるわけだからな」
「構いませんよ。なんでもお聞きください」
「おわあ!?」
突然、私たちの間の畳が持ち上がり、その場に第三者の声が割り込んだ。畳の下から顔を出したのは、なんと噂の本人、太子様である。というか、なんで畳の下から出てくるのか。その下は床下のはずだけれども。
「私のことを話している様子だったもので、足元から失礼。蓮子殿、メリー殿、ゆうべはどうも。改めて挨拶に伺いました」
「こ、これはこれは太子様。どうして床下から?」
「大祀廟を仙界に移転したので、幻想郷のどことでも繋がるようになりました。君たちのいるという里の寺子屋の庭に出ようと思ったのですが、ちょっと狙いがずれましたね」
どこでもドアか何かか。青娥さんの壁抜けの能力とはどうやら違うらしい。
しかし、昨日よりなんだか、太子様の物腰が妙に丁寧なような……。
「はじめまして。寺子屋の歴史教師をされている上白沢慧音殿ですね。蓮子殿とメリー殿の保護者でもあられるとか。豊聡耳神子と申します。以後お見知りおきを」
持ち上げた畳から這い出て畳を元に戻し、正座して太子様は慧音さんに向き直る。呆気にとられた顔の慧音さんは、我に返ったように咳払いひとつ。
「……これはどうも。上白沢慧音です」
頭を下げた慧音さんに、太子様はあの人なつっこいカリスマスマイルを向け、「先ほどの、歴史に対する姿勢についてのお話、とても興味深く聞かせていただきました」と言う。
「歴史家として、とても誠実な態度であると思います。貴方のような人にこそ、私の過去を歴史として新たにまとめていただきたい。歴史、特に貴方たちにとっての古代を直に知る者として、私に答えられることでしたら、何でも聞いてください」
「は、はあ」
「どうぞご遠慮なさらず」
「で、では――」
と、慧音さんによる太子様への歴史インタビューが開始されてしまった。慧音さんの様々な質問に、太子様は朗々と答えつつ、随所で慧音さんを褒めるのを忘れない。そのうち、慧音さんの方が身を乗り出して、歴史家として目を輝かせ始めた。――ああ、ここにも太子様のカリスマスマイルに籠絡されてしまった人が約一名。
「……ところで蓮子、私たち太子様に寺子屋と慧音さんの話したかしら?」
「してない気がするけど、私たちの欲を読んだときに知ったんじゃないの?」
いつ終わるとも知れない歴史談義を聞きながら、私たちはただ肩を竦めた。
―23―
そうして、慧音さんと太子様の歴史対談が二時間を超えた頃。
「ところで、私の方からも少しお話を伺っても?」
話が少し落ち着いたところで、太子様がそう切り出した。「はあ」と虚を突かれたように慧音さんが目を見開く。
「ここに来る前に、少しこの里の様子を見させていただきました。なかなか平和で落ち着いた里ですね。慧音殿はこの里の自警団員も務めておられるとか」
「ええ、まあ」
「貴方の欲を見る限り、貴方はこの里への愛着が人一倍強いようだ。そこで伺いたいのですが、この里は今、どのような問題を抱えていますか? 私はやや時代錯誤ではありますが、かつて国を導く立場にあった者です。私であればそれを解決できるかもしれない」
おっと、やはり太子様の目的は里を足がかりに幻想郷の指導者になることなのか。しかし、太子様の能力ならばそんなことは、わざわざ慧音さんに聞かずとも、里を歩き回って大勢の人の欲を見ればいいのでは――と私は思う。
慧音さんもやや不審を覚えたのか、眉を寄せて腕を組み、ひとつ唸った。
「……無論、今の里に全く問題がないとは言いません。いや、むしろいつだって問題は山積していると言っていい。まだまだ行き届いていない教育、里の中心部とそれ以外の貧富の格差、あらゆる業種の慢性的な人手不足、この里以外に人間のコミュニティが存在しない故の閉鎖性に対して若い世代が抱いている閉塞感、妖怪との関係……」
ぶつぶつと呟いた慧音さんは、しかし顔を上げ、まっすぐに太子様を見つめた。
「しかし、それはあくまで里に暮らす人間が、自分の力で解決していくべき問題です。為政者としての貴方の業績には敬意を表しますが、まだこの人間の里は、伝説の聖人にすがらなければならないほど落ちぶれても追いつめられてもいない。この幻想郷唯一の人間のコミュニティとして、里は人間の力で運営される、あらゆる人間以外の勢力から独立した場であるべきだ。私はそう思います」
慧音さんの力強い言葉に、太子様は――人なつっこく笑った。
「貴方ならそう答えると思いました。貴方は本当に、人間と里を愛しているのですね」
太子様の微笑に、慧音さんは少し恥ずかしそうに咳払いする。
「私は、国が乱れるときに真の指導者として復活することを目的に尸解仙となりました。故に私は、私の力が真に必要とされる時と場所でこそ、指導者として立とうと思います。どうやら、この人間の里という場所は、まだその時ではないようだ」
太子様はそう言って立ち上がり、教室の縁側の障子戸を開け放った。午後の里の光景が広がる。――そこに、あれだけ漂っていた神霊の姿は、もうほとんど残っていなかった。
「慧音殿。私は、私の力が必要とされる時まで、気ままな仙人として暮らすつもりです。せっかく仙人となったのだから、仙人生活を楽しまなくては」
「……はあ」
「貴方が人間を信じられなくなったら、いつでも私を呼んでください。私は貴方の救いになりましょう」
――ああ、つまりその話をしに太子様はここへ来たわけか、と私は納得する。
要するに太子様は、この平和な幻想郷を見て、当てが外れたのだろう。どうやら指導者としての自分の力はそんなに必要とされてなさそうだ、と。だが霊夢さんたちに、幻想郷の指導者となると一度宣言してしまっている。そこで、私たちを基点に話を通しやすく、各方面に顔が広い慧音さんに宣言の一時撤回を伝えに来たというわけだ。ついでに自警団員の慧音さんに取り入ることで、里での行動の自由を確保しようという一石二鳥の策か。策士である。
「ありがたいお言葉ですが――自分ぐらいは、自分で救ってみせますよ」
「それは頼もしい。では、今日はこのあたりで失礼します」
慧音さんの返事に満足げに頷いて、太子様はさっき出てきた畳を持ち上げた。って、そこから帰るのか。せめて玄関から帰ってほしい。
「では、またいずれ」
ばたん。畳の下に太子様は姿を消す。慧音さんは肩を竦め、ひとつ息を吐いた。
「……で、慧音さん、どう思われました? 太子様と実際に話してみて」
「彼女の言うことが全て真実かどうかはともかく、話に矛盾はなかったな。女性の姿なのも、尸解仙となる術で好きな姿を選んでいるということだし……。まあ、厩戸皇子本人かどうかは、幻想郷に厩戸皇子と会ったことがある妖怪でもいない限りは証明しようもないな。それを抜きにすれば、少なくとも人間に対して害意や悪意を持っていないのは確かだろう。そういう意味でなら信頼できる人物のようだ。彼女の部下になっているという刀自古郎女や太媛とも話をしてみたいところだが」
「太媛、ですか?」私は首を捻る。物部布都さんのことだろうか。
「太媛は物部守屋の妹で、蘇我馬子の妻、蘇我蝦夷の母親だ。物部氏滅亡を裏で手引きしたと言われている。布都姫と書かれた史料もあるな」
なるほど、それは青娥さんから聞かされた話とも一致する。しかし、蘇我馬子は確か聖徳太子よりかなり年上ではなかったか。その妻ということは、布都さんはもともと太子様より年上なのだろうか? 尸解仙となるにあたって、あの幼い姿を自ら選んだのだろうか。
いや、それ以前に、刀自古郎女は馬子の娘だったはずだ。ということは――。
「……ねえ蓮子、ってことは布都さんって屠自古さんの義母?」
「血縁上はそういうことになるわねえ」
大祀廟で見た二人は、どっちかというと屠自古さんの方が母親みたいだったが。布都さんは尸解仙となったときに幼児退行してしまったとでもいうのか?
ふむ、と相棒は唸り、しきりに帽子の庇を弄り始めた。何やら、また妙な誇大妄想を頭の中で組み立て始めているらしい。
「ああ、そうだ慧音さん。聖徳太子の周辺で『芳香』という人名に心当たりありません?」
「よしか? はて、覚えが無いな。歴史上の人物で『よしか』といえば、浮かぶのは都良香だが、聖徳太子より二百年も後の人物だぞ。彼女には他にも部下がいるのか?」
「いえ、太子様とは無関係かもしれませんので」
首を振る蓮子に、慧音さんは不思議そうに首を傾げた。
「まあ、何にしてもだ。彼女の動向は、自警団員としてもう少し注視してみよう。人間に害意はなさそうとはいえ、仙人の価値観で里の平穏を引っかき回されても困るからな。突然床下から出てきたり、どうも人間としての常識には欠けていそうなところがあるし」
腕を組んで、慧音さんはそう結論を出したようだ。結局のところ、霊夢さんも白蓮さんも慧音さんも「とりあえず様子見」で意見は一致ということらしい。いかにも日本的な処遇であるが、幻想郷は全てを受け入れるらしいので、幻想郷らしい結論ではあるのだろう。
「しかし、仙界といったか。どこにでも現れられるとはいうのは……いや、まさかな」
「どうしました?」
蓮子が問うと、慧音さんは「いやなに」と苦笑した。
「ゆうべ、妙なことがあってな」
「と言いますと?」
「夕方、妹紅のところに持って行こうと思って作ってあった弁当が、ちょっと目を離した隙にどこかに消えてしまったんだよ。妖精あたりのいたずらかと思ってたんだが……。いや、まさか聖徳太子が弁当の盗み食いはしないだろうな、うん」
――あれ? それってひょっとして……いや、ひょっとしなくても間違いなく。
いや、何も言うまい。私は蓮子と目配せして、その弁当の行方については口を噤むことに決めたのだった。
―24―
場所は変わって、我らが閑古鳥養殖場、じゃなかった探偵事務所。
「で、蓮子。今回は何を考え始めたの?」
畳の上に寝転んで思索という名の誇大妄想に耽る相棒に、私はそう声をかけた。
蓮子は顔の上に載せた帽子をずらして私の方を見やり、ひとつ唸る。
「気になることは色々あるけど、推理を組み立てるにも基礎情報が不足してるわ。ちゃんと話を聞けてない関係者が約二名いるしね」
「布都さんと芳香さん?」
「そういうこと。まあ、まずは情報収集よね。情報の空白を埋めていけば、思考の道筋もそのうち見えてくるわ」
身を起こし、相棒は帽子を被り直す。私は文机に頬杖をついて息をついた。
「蓮子が何を考えてるかは知らないけど、私を引っ張り回すなら、少しぐらいは情報共有してくれてもいいんじゃないの? わけもわからず命の危険に晒されるのは嫌よ」
「あらメリー、名探偵は推理をもったいぶる生き物でしょう?」
「推理をもったいぶった挙げ句に犠牲者を増やす名探偵は、現実では迷惑だわ」
「わざと犠牲者を増やそうとする名探偵もいるしねえ。ま、いいわ。じゃあメリーのために、現時点の疑問点を整理しておきましょうか」
――というわけで、以下はそのときにまとめた、今回の異変の主要な謎である。
太子様の謎
一、彼女は本当に聖徳太子、あるいは厩戸皇子本人なのか?
一、彼女が伝説上の人物としての聖徳太子であるなら、なぜ仏教徒ではなく仙人なのか?
一、尸解仙となった目的は本人の言う通りなのか?
一、女性の姿なのはなぜか? 本人の意志で女性の身体を選んだなら、その理由は?
一、千四百年眠っていたというが、復活直後からそのブランクを感じさせないのはなぜか?
蘇我屠自古さんの謎
一、彼女は刀自古郎女本人なのか?
一、彼女はなぜ亡霊になったのか? 何の未練や怨みで?
一、同じ亡霊の幽々子お嬢様は五体満足なのに、なぜ彼女は足がないのか?
一、亡霊になった原因が布都さんなら、なぜ布都さんをそれほど憎んでいない様子なのか?
一、彼女はなぜ青娥さんをあれほど嫌っているのか?
物部布都さんの謎
一、彼女は太媛本人なのか? 本人ならなぜあんな幼い姿なのか?
一、物部氏滅亡を裏で手引きした策士というわりに、今の彼女が子供っぽいのは何故か?
一、屠自古さんの依り代の壺をすり替えたのが彼女なら、その動機は何か?
霍青娥さんの謎
一、彼女は何のために太子様に取り入ったのか? その本当の目的は?
一、太子様たちを尸解仙にすることは、彼女にとって何のメリットがあったのか?
一、千四百年も経ってなお、太子様の復活に手を貸しているのはなぜか?
芳香さんの謎
一、彼女はそもそも何者なのか? 誰の屍体なのか?
一、太子様たちの関係者なのか、それとも全く無関係なキョンシーなのか?
一、青娥さんはいつ彼女をキョンシーにし、部下としたのか?
この謎を列挙するスタイルも、そういえば久しぶりだ。
「確かに、こうして見るとひっかかる点が結構あるわね。特にそれぞれの動機まわり」
「そう。太子様たちと青娥さんの四人は、同じ方を向いているようで、それぞれ違う動機で動いているっぽいのよ。今回の鍵は、おそらくそのへんにあるんだわ」
「違う動機、ねえ」
太子様の動機は、民を導く神となること――というのはまあ、信じていいだろう。問題は他の三人である。特に青娥さんだ。彼女は何のために太子様に取り入ったのだろう?
「国の中枢にいる人間に取り入る理由なんて、普通は便宜を図ってもらって優雅な生活を送ることよね」
「そりゃね。でも、青娥さんは仙人よ? 不自由な人間という軛から脱却して、気ままな生活を選んだ人が、わざわざ権力者に取り入って、道教を教えて救世主に仕立て上げようとするなんて、なんだか不自然じゃない? そういう世俗から超越するからこその仙人でしょう? メリーが引きこもるのだって同じ理由じゃない」
「引きこもりで悪かったわね。別に権力者に取り入って酒池肉林の贅沢三昧をしたい、俗っぽい仙人がいてもいいと思うけど。――でも、だとしても千四百年もそれに付き合うのは、どう考えてもやりすぎよね」
「そう、そこなのよ」
畳の上にあぐらをかいて、蓮子はこちらに身を乗り出す。
「青娥さんは千四百年、あの大祀廟で太子様につきっきりだったわけじゃないとしても、彼女の目的が権力によって得られる富や栄華なら、法隆寺に封印されてしまった時点で太子様の件はもう失敗でしょう。さっさと見捨てて次の権力者に乗り換えるはず。なのに千四百年経っても、大祀廟を幻想郷に移すなんていう大仕事をやっている」
「青娥さんの目的は、つまり単純な富や栄華じゃないと」
「太子様を仙人として復活させることが、彼女にとってとてつもなくメリットの大きい行為か。あるいは太子様という人物そのものに対して、よほど強い執着があると考えるのが自然ね」
「強い執着……だから屠自古さんが青娥さんを嫌ってるんじゃないの? 愛人がいつまで経っても夫と別れようとしないから」
「千四百年の純愛不倫って? そういう女性には見えないけどねえ」
誘惑された蓮子が言うと説得力がある。というか純愛不倫というのも変な言葉だ。
何にしても、全ての元凶は青娥さんである。ということはやはり、彼女の動機の解明がこの異変の鍵になるのか。その点、キョンシーの芳香さんが太子様たちに関係があるのか否かは、なるほど確認しておくべき事象だろう。青娥さんが彼女を霊廟の門番として置いていたのは、単なる便利な手駒だったからなのか、それとも他の理由があるのか――。
それから、もうひとつの大きな疑問は、やはり布都さんだ。物部氏を滅亡させた策士には到底見えない今の彼女は、どうしてあのような性格なのか。血縁でいえば義母子になるはずの屠自古さんとの関係性も含め、背後関係と目撃した実態がうまく噛み合わないわけで。
だからこそ、まず情報収集すべきは、布都さんと芳香さんについてというわけだ。話を聞けば、今ある疑問点も自然に埋まるかもしれないし。
「ま、とにかく、まずは調べられる範囲から調べてみますか」
蓮子は立ち上がり、帽子を被り直すと、私を見下ろして猫のように笑った。
「ちょっと蓮子、どこ行くの?」
「そりゃもちろん――」
と、蓮子が言いかけたそのとき。
「所長! メリーさん!」
騒々しく事務所に飛びこんでくる影がひとつ。振り向くまでもなく早苗さんである。
「あら早苗ちゃん、どうしたの?」
「大変ですよ! やっぱりあのひと偽物ですって!」
「あのひとって、ひょっとして太子様?」
「そうです! あの自称聖徳太子さん! あれ絶対偽物です! 別人です! 間違いなく!」
早苗さんは意気込んで力説する。はて、なぜそう断言できるのだろう。
「どうどう、早苗ちゃん。そのこころは?」
「決定的な証拠があります! これです!」
早苗さんがそう言って、懐から取りだして掲げたのは――。
「……お札?」
「見てください! これが本物の聖徳太子ですよ!」
聖徳太子の肖像が描かれた、古い一万円札だった。おお、これがかの聖徳太子の一万円札。
「このヒゲ面のおじさまが聖徳太子です! あんなイケメン女子じゃないですよ! だからあのひとは偽物です! 自分を聖徳太子だと思い込んでしまったかわいそうな人です!」
――いや、ちょっと待て早苗さん。
「……ねえ早苗ちゃん、ひとつ言いたいんだけど」
「なんですか?」
「それは、あの太子様が聖徳太子だと名乗った瞬間に考えるべきことだと思うんだけど、ひょっとして早苗ちゃん……家に帰ってお札見てから疑問に思ったの? 聖徳太子って言われて、普通はすぐこの肖像が思い浮かぶものだと思うんだけど」
「――――――」
早苗さん、お札を掲げたまま固まる。
「え、聖徳太子のこの顔って常識だったんですか!?」
「そこから!?」
「げ、幻想郷では常識に囚われてはいけないのです!」
「早苗ちゃん、そのお札使ってたんじゃないの?」
「いやいや、さすがに旧一万円札は使ってませんよ。一万円札は福沢諭吉です! 普通に生きてたら聖徳太子の顔なんて見ませんよ!?」
「教科書に載ってなかった?」
「私は理系ですから! 日本史はわかりません!」
いやいや、早苗さんの時代なら小学校の教科書にでも載ってたのではないか?
早苗さん、蓮子とわりと普通に理系トークしてるから学力はそれなりのレベルだと思っていたが、どうやら得意教科だけ滅法強くて他はさっぱりというタイプだったらしい。少なくとも日本史の知識は中学生レベル以下なのでは……。
まあ、人間興味のないことに関する知識は身につかないものだから、それなりの学歴のある人でも大人になって勉強から離れるとみるみる知識を失って、中学レベル以下になってしまうという例は珍しくはないけれども。
「早苗ちゃん、うちの寺子屋で慧音さんの授業受けた方がいいんじゃない?」
「ええー。幻想郷に来てまで学校通いたくないですよお。せっかく宿題からもテストからも解放されたんですから」
「人生とは勉強し続けることよ」
「大学ドロップアウトして幻想郷で探偵事務所やってる所長たちに言われたくないです!」
「不可抗力なんだけど……」思わず私は呟く。
「だったら私も不可抗力です!」
早苗さんは胸を張る。結局ここにいるのは、外の世界の社会システムからこの幻想郷に転げ落ちてしまったアウトサイダー三人である。何の自慢にもならない。
まあ、早苗さんが慧音さんの授業を受けても、寝落ちするのが関の山だろうが。
「やれやれ。まあ、早苗ちゃんの疑問は私たちのそれとも通じてはいるんだけどね」
「え? どういうことですか?」
「太子様たちについて、気になることが多いから、もうちょっと調べてみたいってこと」
蓮子は帽子の庇を持ち上げ、早苗さんに笑いかける。
「――というわけで早苗ちゃん、《秘封探偵事務所》、今から出動するわよ!」
「……で、聖徳太子が実は女性で、しかも道教の術で復活したって?」
異変の翌日。寺子屋の教室で私たちの話を聞いた慧音さんは、「お前は何を言っているんだ」という顔で首を傾げた。まあ、私でもこの話を聞かされれば同じ顔をするだろう。
――大祀廟を後にし、命蓮寺で報告を済ませたあと、外は深夜になっていたので命蓮寺で朝まで休ませてもらい、翌朝に私たちは白蓮さんに付き添われて里へ戻った。白蓮さんが先んじて慧音さんに頭を下げてくれたので、慧音さんも毒気を抜かれて、おかげで長時間のお説教と頭突きは回避できたわけだが、代わりに寺子屋の授業が終わったあと、詳細な経緯の説明を慧音さんから求められたのである。
ちなみに神霊はまだ里に漂っているが、前日より数は減らしていたし、霊夢さん経由で「特に害はない」という報告が里にもたらされたこともあり、今日はもう人々は漂う神霊に慣れていつも通りの生活を送っていた。
まあ、それはともかく。
「歴史家としては、にわかに信じがたい話だな」
「慧音さん的にはどうなんです? 外の世界では聖徳太子虚構説なんてのもありますが、聖徳太子の業績は事実だと思いますか」
「まず古代は決定的に史料が少ないから、事実と伝説の区別は難しい。可能な限りそこを厳密に区別すべきだという立場は理解できる。しかし歴史が権力者によって装飾され、あるいは隠蔽されるのも確かだとしても、だからといって後世の我々が、当時の権力者の意向やら意図やらを後世の視点から勝手に類推し、その類推に基づいて史料の記述の真贋を判定しようというのは、結論ありきの恣意的な判定という誹りを免れないだろう」
「じゃあ、慧音さんはあくまで史料の記述そのものを尊重すると?」
「もちろん無批判に受け入れはしない。事実は伝えられる過程で必ず単純化されるものだからな。実際の歴史は無数の人間がそれぞれに生きた結果の集合体で、全てを正確に記述すればそれはあまりにも冗漫になる。だからそれが後知恵で単純化されて、ひとりの偉人が様々な業績を残して国を導いたというわかりやすい物語にまとめられるわけだ。歴史の研究というのは、そういうわかりやすい物語にまとめられる以前の冗漫な情報を、公平な目でひとつひとつ丁寧に拾い集めて比較検討し、確からしいと思われることを突き止めていく作業のことだよ。だから私は軽々に断言はしないし、何らかの結論ありきで史料を眺めるのも予断を生むから、可能な限り史料に対して公平でありたい。特に古代史はな」
「つまり、慧音さん的には聖徳太子が実在しようがしまいが、どっちでもいいと」
「言ったそばからそう単純化されてもな。聖徳太子の事績とされているもののうちでも、中国の史料や発掘作業の結果として裏付けが取れている部分に関しては、実際にあったものと考えていいだろう。ただそれが《聖徳太子》という個人の事績なのか、それとも複数の人間の事績を一人に集約して単純化したものであるかは、古代の少ない史料からではなんとも言えない。逆に言えばなんとでも考えられる」
「魏志倭人伝の記述から邪馬台国の場所を推定する論争みたいなものですね」
「そうだな。もちろん常に公平であればいいというものでもない。特定の立場から仮説を立ててみることも、議論を進展させる上では重要だ。ただそれは、それまでの先行研究によって確かめられた『最低限確からしいこと』に基づいた上でなければ机上の空論だよ。その上で、だが――『日本書紀』の記述には確かに装飾が多いだろう。だが、厩戸皇子という有力な皇族が、推古朝の政治の中心部にいたのは事実だったろうと思われる。ここから先は私の考えだが、厩戸皇子は実際に聡明な人物で、当時から何らかの逸話が伝わっており、後に子孫が滅亡させられた悲劇性が加味されて、徐々に逸話や業績が付け加えられて、太子信仰が出来上がっていったのではないかと思う。どれが実際の業績や逸話で、どれが後世の後付けかの判断は困難だな」
「部分肯定って感じですね」
「そのあたりが穏当な解釈だろう」
「昨日復活した太子様は、大半の聖徳伝説を事実と言い切りましたが」
「さて、そもそもその《太子様》とやらが本当に厩戸皇子本人なのかどうか。仮に本当に本人だったとしても、その人物の話をそのまま歴史的事実として受け取ってはいけない。当事者の発言や記録も歴史においては史料のひとつでしかないからな。事実は見る者の立場によって全く違う形を示す。一方の言い分のみを事実として受け取ってはいけないんだ」
「ははあ、現世でも肝に銘じておくべきお言葉ですね」
蓮子が畏まってみせる。慧音さんは腰に手を当ててため息をついた。
「まあ、それはそれとして、その《太子様》とやらとは話をしてみたいところだ。本当に厩戸皇子本人ならば、歴史家としては歴史の当事者の証言が聞けるわけだからな」
「構いませんよ。なんでもお聞きください」
「おわあ!?」
突然、私たちの間の畳が持ち上がり、その場に第三者の声が割り込んだ。畳の下から顔を出したのは、なんと噂の本人、太子様である。というか、なんで畳の下から出てくるのか。その下は床下のはずだけれども。
「私のことを話している様子だったもので、足元から失礼。蓮子殿、メリー殿、ゆうべはどうも。改めて挨拶に伺いました」
「こ、これはこれは太子様。どうして床下から?」
「大祀廟を仙界に移転したので、幻想郷のどことでも繋がるようになりました。君たちのいるという里の寺子屋の庭に出ようと思ったのですが、ちょっと狙いがずれましたね」
どこでもドアか何かか。青娥さんの壁抜けの能力とはどうやら違うらしい。
しかし、昨日よりなんだか、太子様の物腰が妙に丁寧なような……。
「はじめまして。寺子屋の歴史教師をされている上白沢慧音殿ですね。蓮子殿とメリー殿の保護者でもあられるとか。豊聡耳神子と申します。以後お見知りおきを」
持ち上げた畳から這い出て畳を元に戻し、正座して太子様は慧音さんに向き直る。呆気にとられた顔の慧音さんは、我に返ったように咳払いひとつ。
「……これはどうも。上白沢慧音です」
頭を下げた慧音さんに、太子様はあの人なつっこいカリスマスマイルを向け、「先ほどの、歴史に対する姿勢についてのお話、とても興味深く聞かせていただきました」と言う。
「歴史家として、とても誠実な態度であると思います。貴方のような人にこそ、私の過去を歴史として新たにまとめていただきたい。歴史、特に貴方たちにとっての古代を直に知る者として、私に答えられることでしたら、何でも聞いてください」
「は、はあ」
「どうぞご遠慮なさらず」
「で、では――」
と、慧音さんによる太子様への歴史インタビューが開始されてしまった。慧音さんの様々な質問に、太子様は朗々と答えつつ、随所で慧音さんを褒めるのを忘れない。そのうち、慧音さんの方が身を乗り出して、歴史家として目を輝かせ始めた。――ああ、ここにも太子様のカリスマスマイルに籠絡されてしまった人が約一名。
「……ところで蓮子、私たち太子様に寺子屋と慧音さんの話したかしら?」
「してない気がするけど、私たちの欲を読んだときに知ったんじゃないの?」
いつ終わるとも知れない歴史談義を聞きながら、私たちはただ肩を竦めた。
―23―
そうして、慧音さんと太子様の歴史対談が二時間を超えた頃。
「ところで、私の方からも少しお話を伺っても?」
話が少し落ち着いたところで、太子様がそう切り出した。「はあ」と虚を突かれたように慧音さんが目を見開く。
「ここに来る前に、少しこの里の様子を見させていただきました。なかなか平和で落ち着いた里ですね。慧音殿はこの里の自警団員も務めておられるとか」
「ええ、まあ」
「貴方の欲を見る限り、貴方はこの里への愛着が人一倍強いようだ。そこで伺いたいのですが、この里は今、どのような問題を抱えていますか? 私はやや時代錯誤ではありますが、かつて国を導く立場にあった者です。私であればそれを解決できるかもしれない」
おっと、やはり太子様の目的は里を足がかりに幻想郷の指導者になることなのか。しかし、太子様の能力ならばそんなことは、わざわざ慧音さんに聞かずとも、里を歩き回って大勢の人の欲を見ればいいのでは――と私は思う。
慧音さんもやや不審を覚えたのか、眉を寄せて腕を組み、ひとつ唸った。
「……無論、今の里に全く問題がないとは言いません。いや、むしろいつだって問題は山積していると言っていい。まだまだ行き届いていない教育、里の中心部とそれ以外の貧富の格差、あらゆる業種の慢性的な人手不足、この里以外に人間のコミュニティが存在しない故の閉鎖性に対して若い世代が抱いている閉塞感、妖怪との関係……」
ぶつぶつと呟いた慧音さんは、しかし顔を上げ、まっすぐに太子様を見つめた。
「しかし、それはあくまで里に暮らす人間が、自分の力で解決していくべき問題です。為政者としての貴方の業績には敬意を表しますが、まだこの人間の里は、伝説の聖人にすがらなければならないほど落ちぶれても追いつめられてもいない。この幻想郷唯一の人間のコミュニティとして、里は人間の力で運営される、あらゆる人間以外の勢力から独立した場であるべきだ。私はそう思います」
慧音さんの力強い言葉に、太子様は――人なつっこく笑った。
「貴方ならそう答えると思いました。貴方は本当に、人間と里を愛しているのですね」
太子様の微笑に、慧音さんは少し恥ずかしそうに咳払いする。
「私は、国が乱れるときに真の指導者として復活することを目的に尸解仙となりました。故に私は、私の力が真に必要とされる時と場所でこそ、指導者として立とうと思います。どうやら、この人間の里という場所は、まだその時ではないようだ」
太子様はそう言って立ち上がり、教室の縁側の障子戸を開け放った。午後の里の光景が広がる。――そこに、あれだけ漂っていた神霊の姿は、もうほとんど残っていなかった。
「慧音殿。私は、私の力が必要とされる時まで、気ままな仙人として暮らすつもりです。せっかく仙人となったのだから、仙人生活を楽しまなくては」
「……はあ」
「貴方が人間を信じられなくなったら、いつでも私を呼んでください。私は貴方の救いになりましょう」
――ああ、つまりその話をしに太子様はここへ来たわけか、と私は納得する。
要するに太子様は、この平和な幻想郷を見て、当てが外れたのだろう。どうやら指導者としての自分の力はそんなに必要とされてなさそうだ、と。だが霊夢さんたちに、幻想郷の指導者となると一度宣言してしまっている。そこで、私たちを基点に話を通しやすく、各方面に顔が広い慧音さんに宣言の一時撤回を伝えに来たというわけだ。ついでに自警団員の慧音さんに取り入ることで、里での行動の自由を確保しようという一石二鳥の策か。策士である。
「ありがたいお言葉ですが――自分ぐらいは、自分で救ってみせますよ」
「それは頼もしい。では、今日はこのあたりで失礼します」
慧音さんの返事に満足げに頷いて、太子様はさっき出てきた畳を持ち上げた。って、そこから帰るのか。せめて玄関から帰ってほしい。
「では、またいずれ」
ばたん。畳の下に太子様は姿を消す。慧音さんは肩を竦め、ひとつ息を吐いた。
「……で、慧音さん、どう思われました? 太子様と実際に話してみて」
「彼女の言うことが全て真実かどうかはともかく、話に矛盾はなかったな。女性の姿なのも、尸解仙となる術で好きな姿を選んでいるということだし……。まあ、厩戸皇子本人かどうかは、幻想郷に厩戸皇子と会ったことがある妖怪でもいない限りは証明しようもないな。それを抜きにすれば、少なくとも人間に対して害意や悪意を持っていないのは確かだろう。そういう意味でなら信頼できる人物のようだ。彼女の部下になっているという刀自古郎女や太媛とも話をしてみたいところだが」
「太媛、ですか?」私は首を捻る。物部布都さんのことだろうか。
「太媛は物部守屋の妹で、蘇我馬子の妻、蘇我蝦夷の母親だ。物部氏滅亡を裏で手引きしたと言われている。布都姫と書かれた史料もあるな」
なるほど、それは青娥さんから聞かされた話とも一致する。しかし、蘇我馬子は確か聖徳太子よりかなり年上ではなかったか。その妻ということは、布都さんはもともと太子様より年上なのだろうか? 尸解仙となるにあたって、あの幼い姿を自ら選んだのだろうか。
いや、それ以前に、刀自古郎女は馬子の娘だったはずだ。ということは――。
「……ねえ蓮子、ってことは布都さんって屠自古さんの義母?」
「血縁上はそういうことになるわねえ」
大祀廟で見た二人は、どっちかというと屠自古さんの方が母親みたいだったが。布都さんは尸解仙となったときに幼児退行してしまったとでもいうのか?
ふむ、と相棒は唸り、しきりに帽子の庇を弄り始めた。何やら、また妙な誇大妄想を頭の中で組み立て始めているらしい。
「ああ、そうだ慧音さん。聖徳太子の周辺で『芳香』という人名に心当たりありません?」
「よしか? はて、覚えが無いな。歴史上の人物で『よしか』といえば、浮かぶのは都良香だが、聖徳太子より二百年も後の人物だぞ。彼女には他にも部下がいるのか?」
「いえ、太子様とは無関係かもしれませんので」
首を振る蓮子に、慧音さんは不思議そうに首を傾げた。
「まあ、何にしてもだ。彼女の動向は、自警団員としてもう少し注視してみよう。人間に害意はなさそうとはいえ、仙人の価値観で里の平穏を引っかき回されても困るからな。突然床下から出てきたり、どうも人間としての常識には欠けていそうなところがあるし」
腕を組んで、慧音さんはそう結論を出したようだ。結局のところ、霊夢さんも白蓮さんも慧音さんも「とりあえず様子見」で意見は一致ということらしい。いかにも日本的な処遇であるが、幻想郷は全てを受け入れるらしいので、幻想郷らしい結論ではあるのだろう。
「しかし、仙界といったか。どこにでも現れられるとはいうのは……いや、まさかな」
「どうしました?」
蓮子が問うと、慧音さんは「いやなに」と苦笑した。
「ゆうべ、妙なことがあってな」
「と言いますと?」
「夕方、妹紅のところに持って行こうと思って作ってあった弁当が、ちょっと目を離した隙にどこかに消えてしまったんだよ。妖精あたりのいたずらかと思ってたんだが……。いや、まさか聖徳太子が弁当の盗み食いはしないだろうな、うん」
――あれ? それってひょっとして……いや、ひょっとしなくても間違いなく。
いや、何も言うまい。私は蓮子と目配せして、その弁当の行方については口を噤むことに決めたのだった。
―24―
場所は変わって、我らが閑古鳥養殖場、じゃなかった探偵事務所。
「で、蓮子。今回は何を考え始めたの?」
畳の上に寝転んで思索という名の誇大妄想に耽る相棒に、私はそう声をかけた。
蓮子は顔の上に載せた帽子をずらして私の方を見やり、ひとつ唸る。
「気になることは色々あるけど、推理を組み立てるにも基礎情報が不足してるわ。ちゃんと話を聞けてない関係者が約二名いるしね」
「布都さんと芳香さん?」
「そういうこと。まあ、まずは情報収集よね。情報の空白を埋めていけば、思考の道筋もそのうち見えてくるわ」
身を起こし、相棒は帽子を被り直す。私は文机に頬杖をついて息をついた。
「蓮子が何を考えてるかは知らないけど、私を引っ張り回すなら、少しぐらいは情報共有してくれてもいいんじゃないの? わけもわからず命の危険に晒されるのは嫌よ」
「あらメリー、名探偵は推理をもったいぶる生き物でしょう?」
「推理をもったいぶった挙げ句に犠牲者を増やす名探偵は、現実では迷惑だわ」
「わざと犠牲者を増やそうとする名探偵もいるしねえ。ま、いいわ。じゃあメリーのために、現時点の疑問点を整理しておきましょうか」
――というわけで、以下はそのときにまとめた、今回の異変の主要な謎である。
太子様の謎
一、彼女は本当に聖徳太子、あるいは厩戸皇子本人なのか?
一、彼女が伝説上の人物としての聖徳太子であるなら、なぜ仏教徒ではなく仙人なのか?
一、尸解仙となった目的は本人の言う通りなのか?
一、女性の姿なのはなぜか? 本人の意志で女性の身体を選んだなら、その理由は?
一、千四百年眠っていたというが、復活直後からそのブランクを感じさせないのはなぜか?
蘇我屠自古さんの謎
一、彼女は刀自古郎女本人なのか?
一、彼女はなぜ亡霊になったのか? 何の未練や怨みで?
一、同じ亡霊の幽々子お嬢様は五体満足なのに、なぜ彼女は足がないのか?
一、亡霊になった原因が布都さんなら、なぜ布都さんをそれほど憎んでいない様子なのか?
一、彼女はなぜ青娥さんをあれほど嫌っているのか?
物部布都さんの謎
一、彼女は太媛本人なのか? 本人ならなぜあんな幼い姿なのか?
一、物部氏滅亡を裏で手引きした策士というわりに、今の彼女が子供っぽいのは何故か?
一、屠自古さんの依り代の壺をすり替えたのが彼女なら、その動機は何か?
霍青娥さんの謎
一、彼女は何のために太子様に取り入ったのか? その本当の目的は?
一、太子様たちを尸解仙にすることは、彼女にとって何のメリットがあったのか?
一、千四百年も経ってなお、太子様の復活に手を貸しているのはなぜか?
芳香さんの謎
一、彼女はそもそも何者なのか? 誰の屍体なのか?
一、太子様たちの関係者なのか、それとも全く無関係なキョンシーなのか?
一、青娥さんはいつ彼女をキョンシーにし、部下としたのか?
この謎を列挙するスタイルも、そういえば久しぶりだ。
「確かに、こうして見るとひっかかる点が結構あるわね。特にそれぞれの動機まわり」
「そう。太子様たちと青娥さんの四人は、同じ方を向いているようで、それぞれ違う動機で動いているっぽいのよ。今回の鍵は、おそらくそのへんにあるんだわ」
「違う動機、ねえ」
太子様の動機は、民を導く神となること――というのはまあ、信じていいだろう。問題は他の三人である。特に青娥さんだ。彼女は何のために太子様に取り入ったのだろう?
「国の中枢にいる人間に取り入る理由なんて、普通は便宜を図ってもらって優雅な生活を送ることよね」
「そりゃね。でも、青娥さんは仙人よ? 不自由な人間という軛から脱却して、気ままな生活を選んだ人が、わざわざ権力者に取り入って、道教を教えて救世主に仕立て上げようとするなんて、なんだか不自然じゃない? そういう世俗から超越するからこその仙人でしょう? メリーが引きこもるのだって同じ理由じゃない」
「引きこもりで悪かったわね。別に権力者に取り入って酒池肉林の贅沢三昧をしたい、俗っぽい仙人がいてもいいと思うけど。――でも、だとしても千四百年もそれに付き合うのは、どう考えてもやりすぎよね」
「そう、そこなのよ」
畳の上にあぐらをかいて、蓮子はこちらに身を乗り出す。
「青娥さんは千四百年、あの大祀廟で太子様につきっきりだったわけじゃないとしても、彼女の目的が権力によって得られる富や栄華なら、法隆寺に封印されてしまった時点で太子様の件はもう失敗でしょう。さっさと見捨てて次の権力者に乗り換えるはず。なのに千四百年経っても、大祀廟を幻想郷に移すなんていう大仕事をやっている」
「青娥さんの目的は、つまり単純な富や栄華じゃないと」
「太子様を仙人として復活させることが、彼女にとってとてつもなくメリットの大きい行為か。あるいは太子様という人物そのものに対して、よほど強い執着があると考えるのが自然ね」
「強い執着……だから屠自古さんが青娥さんを嫌ってるんじゃないの? 愛人がいつまで経っても夫と別れようとしないから」
「千四百年の純愛不倫って? そういう女性には見えないけどねえ」
誘惑された蓮子が言うと説得力がある。というか純愛不倫というのも変な言葉だ。
何にしても、全ての元凶は青娥さんである。ということはやはり、彼女の動機の解明がこの異変の鍵になるのか。その点、キョンシーの芳香さんが太子様たちに関係があるのか否かは、なるほど確認しておくべき事象だろう。青娥さんが彼女を霊廟の門番として置いていたのは、単なる便利な手駒だったからなのか、それとも他の理由があるのか――。
それから、もうひとつの大きな疑問は、やはり布都さんだ。物部氏を滅亡させた策士には到底見えない今の彼女は、どうしてあのような性格なのか。血縁でいえば義母子になるはずの屠自古さんとの関係性も含め、背後関係と目撃した実態がうまく噛み合わないわけで。
だからこそ、まず情報収集すべきは、布都さんと芳香さんについてというわけだ。話を聞けば、今ある疑問点も自然に埋まるかもしれないし。
「ま、とにかく、まずは調べられる範囲から調べてみますか」
蓮子は立ち上がり、帽子を被り直すと、私を見下ろして猫のように笑った。
「ちょっと蓮子、どこ行くの?」
「そりゃもちろん――」
と、蓮子が言いかけたそのとき。
「所長! メリーさん!」
騒々しく事務所に飛びこんでくる影がひとつ。振り向くまでもなく早苗さんである。
「あら早苗ちゃん、どうしたの?」
「大変ですよ! やっぱりあのひと偽物ですって!」
「あのひとって、ひょっとして太子様?」
「そうです! あの自称聖徳太子さん! あれ絶対偽物です! 別人です! 間違いなく!」
早苗さんは意気込んで力説する。はて、なぜそう断言できるのだろう。
「どうどう、早苗ちゃん。そのこころは?」
「決定的な証拠があります! これです!」
早苗さんがそう言って、懐から取りだして掲げたのは――。
「……お札?」
「見てください! これが本物の聖徳太子ですよ!」
聖徳太子の肖像が描かれた、古い一万円札だった。おお、これがかの聖徳太子の一万円札。
「このヒゲ面のおじさまが聖徳太子です! あんなイケメン女子じゃないですよ! だからあのひとは偽物です! 自分を聖徳太子だと思い込んでしまったかわいそうな人です!」
――いや、ちょっと待て早苗さん。
「……ねえ早苗ちゃん、ひとつ言いたいんだけど」
「なんですか?」
「それは、あの太子様が聖徳太子だと名乗った瞬間に考えるべきことだと思うんだけど、ひょっとして早苗ちゃん……家に帰ってお札見てから疑問に思ったの? 聖徳太子って言われて、普通はすぐこの肖像が思い浮かぶものだと思うんだけど」
「――――――」
早苗さん、お札を掲げたまま固まる。
「え、聖徳太子のこの顔って常識だったんですか!?」
「そこから!?」
「げ、幻想郷では常識に囚われてはいけないのです!」
「早苗ちゃん、そのお札使ってたんじゃないの?」
「いやいや、さすがに旧一万円札は使ってませんよ。一万円札は福沢諭吉です! 普通に生きてたら聖徳太子の顔なんて見ませんよ!?」
「教科書に載ってなかった?」
「私は理系ですから! 日本史はわかりません!」
いやいや、早苗さんの時代なら小学校の教科書にでも載ってたのではないか?
早苗さん、蓮子とわりと普通に理系トークしてるから学力はそれなりのレベルだと思っていたが、どうやら得意教科だけ滅法強くて他はさっぱりというタイプだったらしい。少なくとも日本史の知識は中学生レベル以下なのでは……。
まあ、人間興味のないことに関する知識は身につかないものだから、それなりの学歴のある人でも大人になって勉強から離れるとみるみる知識を失って、中学レベル以下になってしまうという例は珍しくはないけれども。
「早苗ちゃん、うちの寺子屋で慧音さんの授業受けた方がいいんじゃない?」
「ええー。幻想郷に来てまで学校通いたくないですよお。せっかく宿題からもテストからも解放されたんですから」
「人生とは勉強し続けることよ」
「大学ドロップアウトして幻想郷で探偵事務所やってる所長たちに言われたくないです!」
「不可抗力なんだけど……」思わず私は呟く。
「だったら私も不可抗力です!」
早苗さんは胸を張る。結局ここにいるのは、外の世界の社会システムからこの幻想郷に転げ落ちてしまったアウトサイダー三人である。何の自慢にもならない。
まあ、早苗さんが慧音さんの授業を受けても、寝落ちするのが関の山だろうが。
「やれやれ。まあ、早苗ちゃんの疑問は私たちのそれとも通じてはいるんだけどね」
「え? どういうことですか?」
「太子様たちについて、気になることが多いから、もうちょっと調べてみたいってこと」
蓮子は帽子の庇を持ち上げ、早苗さんに笑いかける。
「――というわけで早苗ちゃん、《秘封探偵事務所》、今から出動するわよ!」
第11章 神霊廟編 一覧
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【おしらせ】
作者です。いつもコメントありがとうございます。
次週12/29(土)の更新は、冬コミのためお休みさせていただきます。
というわけで、今週が年内最後の更新になります。
次回9話の更新は1/5(土)の予定です。
来年も『こちら秘封探偵事務所』をよろしくお願いします。
ついに謎提示ですね…冒頭の「真実は目の前にある」がヒントなんでしょうが…
そういえば6話で弁当の件を見事に言い当てた方がいらっしゃいましたが紺珠の薬でもお持ちなんですかね。(浅木原先生がコメントを見て採用した可能性が微レ存?)
太子様も、とじっちゃんも、布都も、実は全員芳香と同じ成り立ちだと考えるとしっくりくるね。
本当は元となっている人格や体は死んでいて(というか数年後に元の姿で復活、なんてのは実は最初から無理だった)、青娥が好きなように造り変えちゃったとか。
だから女体化してたり、霊体として下半身が中途半端になってたり、性格が全然違ったりした。
青娥が1400年間、好きなように元となった魂を弄り回してた結果がこれ、とか?
若しくは、あれだ。
太子様のリクエストで女体化してたりとか(笑)
真面目な話、旧一万円札の太子様は本人じゃない説があるくらいだし、例えばそのまんまの姿で生き返ってたら不都合があったから別人になった?
やはり慧音の作った弁当でしたか…w
今の太子・布都・屠自古・青娥は、肉体を器にして人格を入れ替えることができる(もしくは入れ替わってしまっている)のでは?だから太子様の物腰が次の日には低くなったり、布都と屠自古の性格が逆なようになっている?
屠自古の足は復活の上で重要な何かに使われたからないからとか?芳香も太子様復活のために実験されたのだろうか。
今回の謎は奥が深いです。