―10―
復活前のお姿を見せるわけにはいかないと言われ、太子様が眠るという大祀廟の中心部には入れてもらえなかった。代わりに応接間的な場所であるらしい部屋に通され、私たちは屠自古さんと向き合う。布都さんは「怪しい奴が入り込んでいないか見張っておけ」と屠自古さんに言われ「承知したぞ!」と出て行った。体よく追い払われただけかもしれない。
「……聖徳太子って、やっぱりあの紙幣に使われた肖像画の姿なのかしら?」
「あれは聖徳太子の肖像かどうかは確定してなかったはずだけど、幻想郷は通俗的なイメージが実体化する世界だからねえ」
小声でそんなことを言い合いながら、茣蓙的な敷物に私たちが腰を下ろすと、「申し訳ないが、特に出せるものはない」と屠自古さんが軽く頭を下げた。「お気になさらず」と蓮子が首を振る。玄爺さんは我関せずという顔で、手足も首も甲羅の中に引っ込めてしまった。寝たのかもしれない。
「……で。お前たちは結局何が目的なんだ?」
じろりと半目で屠自古さんは私たちを睨む。怪しまれるのは当然だ。こういう場は相棒の口先八丁に任せるに限る。私が横から突くと、任せなさいとばかりに蓮子はにっと笑った。
「先ほども言いました通り、地上のお寺、命蓮寺の白蓮住職に依頼され、地下に眠る聖者の調査に参りましたの。主な目的は、ここへ通じる入口の発見だったのですが、存外簡単に見つかったので、ついでに中まで調べに来た結果、あの仙人の女性に捕まったという次第で」
蓮子の答えに、屠自古さんは舌打ちする。
「青娥の奴め……。まあいい。問題はあの寺だ。この大祀廟の上に寺を建て、太子様を封印しようとしたあの連中の仲間だというなら、お前たちをここから帰すわけにはいかない」
ぱちぱちと身体を帯電させて屠自古さんは凄む。私としては今すぐ回れ右して帰宅したいところだが、相変わらず恐怖心という感情の欠落した相棒は呑気な笑みを浮かべたまま。
「さて、私たちが白蓮さんの意向でここに来たのは事実ですし、ここから先は私たちを信用していただくしかないわけですが。――結論から申しますれば、私たちはあくまで中立の交渉人ですわ。命蓮寺の檀家ではありませんし。そちらの事情を伺った上で、命蓮寺と交渉し、双方の妥協点を見出すことができれば、それに勝ることはないと思いますが」
「交渉? 何を交渉する余地がある」
「その点から調べさせていただきたいのですわ。何はさておき、双方のことをよく知らないことには交渉の余地も見出せません。こちらは命蓮寺の事情には通じておりますので、そちらの事情について詳しくお聞かせ願えませんでしょうか。なぜ聖徳太子――厩戸皇子殿下が幻想郷の地下で眠りについておられるのかを。――ねえ、刀自古郎女さん」
蓮子にそう呼びかけられ、屠自古さんははっと目を見開き、視線を逸らす。
「……それはもう捨てた名。今の私は、太子様の部下の蘇我屠自古だ」
刀自古郎女。四人いたといわれる聖徳太子の妃のひとりで、蘇我馬子の娘。山背大兄王の母である――といかにも詳しそうに書いているが、私がこの記録を書いているのは異変の後なので、地の文での歴史に関する記述は後からのカンニングが多く含まれる点をご了承願う。ともかく、目の前の亡霊の女性は、その刀自古郎女ご本人らしい。古代史の生き証人、いやもう肉体的には死んでいるのだろうから死に証人と言うべきか?
「私の名まで知られているということは、太子様の業績は千四百年後にまで語り継がれているということだな。まあ、当然か――」
屠自古さんは目を細め、少し警戒心を緩めた顔で私たちに向き直った。
「太子様について、お前たちはどの程度のことを知っている?」
「用明天皇の子、山背大兄王の父。厩戸の前で生まれたので厩戸皇子と呼ばれ、十人の話を同時に聞き分けるほどの聡明さをもった皇子だった。仏法の加護を得て物部氏を討ち滅ぼし、推古天皇のもと、蘇我馬子とともに政治を司った為政者。遣隋使を派遣して中国に学び、冠位十二階や憲法十七条を制定。四天王寺や法隆寺を建立し、仏教を厚く信仰した。『三経義疏』を執筆し、晩年には『国記』『天皇記』などを編纂。……というところですかね」
蓮子がすらすらと語る。このへんはもともと外の世界の歴史の授業で習ったことに加えて、歴史家の慧音さんと一緒に長いこと寺子屋をやっている関係で、覚える気がなくても頭に入ってしまった知識の一部である。
「随分とまあ、太子様のことをよく知っているじゃないか。――青娥の奴、まさかあの話、デタラメだったんじゃあるまいな……」
驚いたように屠自古さんは言い、それから小さく唸る。「それほどでも」と蓮子は笑った。
はて、私たちが外の世界で習った歴史では、後世に『聖徳太子』の業績として伝えられたものは、太子信仰による神格化の要素が多く含まれており、前世紀の間はそこが混同されたまま研究されていたが、今世紀に入ってからは、信仰の対象としての『聖徳太子』と、実在の人物としての厩戸皇子は切り離して考えなければならないというのが史学上の通説である――みたいな話であったはずだ。
今蓮子が列挙した聖徳太子の伝説や業績も、史学的には後世の後付け、太子信仰の産物が多く含まれているはずである。――だが、厩戸皇子の妃・刀自古郎女ご本人であるらしい屠自古さんが、その伝説を肯定している。ということは――。
「しかし、大きな間違いがひとつある」
屠自古さんが口を開く。おっと、何を訂正されるのだろう。厩で生まれた点か? 十人の話を同時に聞き分けた伝説か? それとも――。
「どこでしょう?」
「太子様が厚く仏教を信仰されたという点だ」
全く予想外のところを訂正され、私は蓮子と顔を見合わせた。
――聖徳太子が仏教徒ではなかった?
「と言いますと?」
「それは、なぜ太子様が今この大祀廟で復活の時を待っておられるかという話に繋がる。要するに――太子様が実際に信仰されていたのは、仏教ではなく、道教だったのだ」
―11―
「太子様は幼少のみぎりから天才として名を馳せられた。だがそれだけに太子様は、いつか必ず死にゆかねばならない人間の運命に不満を抱かれていた。大地は神々の御世から変わらず存在するのに、なぜ人間は死ななければならないのか。自分に永遠の命があれば、世をずっとより良い方向へ導き続けることができるのに、と」
――実際に不老不死となり、永遠の命を手にした知り合いがいる身としては、どんな顔をして聞けばいいのか判じかねる話である。藤原妹紅さんが蓬莱の薬を飲んだのは千三百年前。太子様は百年遅く生まれていれば、かぐや姫から蓬莱の薬を貰えたというのに――。
「そこへ現れたのは、あの邪仙、霍青娥だ。あいつが太子様に、道教の思想を吹きこんだ。自然と一体化して不老不死を実現する道教は、太子様の望みに適うものだった」
「――ということは、仏教を広めたのは、道教の力で不老不死を目指すことを隠すため?」
「それだけではない。道教は、個人主義ゆえに国を治めるには向かない宗教だ。規律の厳しい仏教の方が、国を治めるには向いている。太子様はそう判断され、表向きは仏教を広め、裏で道教を研究した。そして、道教の力をもって為政者として多大な業績をあげられた。先ほどお前が語ったような、後世まで語り継がれるような伝説を残されたわけだ」
聖徳太子の業績は道教のおかげ! 道教を学べばあなたも聖徳太子に! ――って、これでは怪しげな通信講座とかの宣伝文句である。
「そうして太子様は為政者として為すべきことを為したあと、尸解仙として一度眠りにつき、仏教の力が弱まって国が乱れる頃に復活しようとお考えになった。私と布都は、太子様に付き従い、共に眠りについたのだ」
「尸解仙というと、一度死んで仙人になる方法ですよね」
蓮子はそう言って、屠自古さんの幽霊足に視線を向ける。屠自古さんはひとつ嘆息。
「私は、ちょっとした手違いで肉体の再生に失敗して、亡霊になってしまったんだ。まあ、この身体はこれで、楽でいいがな。布都は問題なく尸解仙となって、つい最近復活した。太子様も間もなく復活される」
「それはそれは……。しかし、国乱れる頃に復活するにしても、千四百年はいささか気が長すぎでは。それに、どうして幻想郷に?」
「それは、仏教のせいだ」
苦々しく、屠自古さんはそう言い捨てる。
「太子様が国を治めるための方便でしかなかった仏教が、予想以上の力を持ってしまったせいだ。権力を握った仏教は太子様の復活を恐れ、太子様の眠るこの大祀廟の上に寺を建て、太子様を封印してしまったのだ」
「そのお寺……というのは、外の世界の」
「法隆寺だ。太子様が国を治めるために建立された寺を、仏教徒どもは一度焼失したのをいいことに、わざわざこの太子様が眠る大祀廟の上に再建したんだよ」
――なんとまあ。私たちは思わず顔を見合わせる。
奈良県の法隆寺は、『日本書紀』の中に全焼したという記述があり、現在残っている伽藍は後に創建時とは違う場所に再建されたものであることが、発掘調査で解っている。全焼したから再建したというなら、なぜ元と同じ場所に再建しなかったのか――というのは法隆寺の謎のひとつなのだが、それが復活を目指す聖徳太子を封印するためだったとは……。前世紀に「法隆寺は子孫を根絶やしにされた聖徳太子の怨霊を封じるための寺」という説がセンセーションを巻き起こしたという歴史的事実があるが、まさに当たらずと言えども遠からず。
「では、それで復活できなくなって、大祀廟ごと幻想郷に移ってきたのですか?」
守矢神社が神社と湖ごと幻想郷に移ってきた前例があるから、この大祀廟が外の世界から移転してきたと言われても納得はできる。
「端的に言えばそういうことになる。だが、だからといって太子様を侮るなよ。太子様が御自分が必要とされる時と場所をじっと待っておられたのだ」
「要するに、外の世界では神様が必要とされなくなったから、神様が必要とされる幻想郷に来たというだけのことですけれどね」
愉しげな声が不意に割り込む。
「青娥!」
屠自古さんが鋭い声をあげた先、大祀廟の壁に穴を開けて、そこからにゅっと上半身を出した青娥さんが、どこか意地の悪い笑みを浮かべていた。――あの穴は、物質的な穴ではない。建物の壁という概念そのものに穴を開けているのだと、私の目が告げていた。
「突然壁から現れるなと言ってるだろう、邪仙」
「あら、さっき玄関から行ったら文句を言われましたから、いつも通り壁から顔を出しましたのに、つれないわね」
「私は貴様の訪問場所に文句があるんじゃない、貴様の存在自体に文句があるんだ。貴様がいると廟の空気が穢れる、さっさと去ね。そしてそのまま大陸に帰れ」
「嫌われたものですわねえ。幻想郷への大祀廟の移転は私がやったことですのに。もう少しその点に感謝してもよろしいのではなくて?」
「ここなら寺がないからいつでも復活できると言ったのはどこの誰だ」
「あら、私だっていきなり魔界から空飛ぶ船がやって来てお寺になるなんて想像もできませんでしたわ。そんなことまで私の責任にされてはたまりませんわよ」
屠自古さんと青娥さんが剣呑な空気で言い合う傍らで、私は蓮子を横目で見やる。
「……ねえ蓮子、これ私たちの立場がバレたらまずくない?」
「確かにちょっとまずそうねえ」
小声でそんなことを言い合う。――つまり、再建法隆寺に封印されてしまった太子様は、復活するために寺のない幻想郷に移転したのに、移転先の上にも命蓮寺ができたせいで復活が遅れたということらしい。私と蓮子が魔界から白蓮さんを救出する手引きをして、あの場所に命蓮寺ができるきっかけを作った人間だと知れたら、屠自古さんは何と言うだろう。感電は覚悟しておかねばなるまいから、ここは隠し通すしかあるまい。
「ところで屠自古さん、疑問がひとつあるのですが」
「ちっ、なんだ?」
挙手した蓮子に、屠自古さんが舌打ちしつつ振り返る。「おお、怖い怖い」と青娥さんは笑って、壁に空いた穴に身体を引っ込めた。穴はそのまま閉じ、壁には穴が存在した痕跡すら残らない。やはりあの穴は、蓮子の語彙で言えばワームホールみたいなものだったらしい。
蓮子もその穴のことは気になっている様子だったが、しかし話しかけた相手は屠自古さんである。姿を消した青娥さんへの関心を振り切り、蓮子は屠自古さんに向き直る。
「先ほどの布都さんなんですけど、彼女は物部氏の人間ですよね。太子様と蘇我氏に滅ぼされた物部氏の人間が、どうして太子様の弟子に?」
蓮子の問いに、屠自古さんはひとつ嘆息した。
「――もともと、大陸から仏教と道教が入ってきたとき、自然信仰で廃仏派の物部氏は道教寄りの思想だった。だが、太子様がお考えになったように、道教では国がまとまらないことを布都も理解していたし、大陸から伝わる新しい知識で国を変えていかねばならないという考えも太子様と共有していた。だから、表向き仏教を広め、裏で道教の力を得ようとする太子様のお考えに、布都は同調して、旧来の土着信仰に執着する物部氏を裏切り、蘇我氏の崇仏化と物部氏の滅亡へ向けて裏で糸を引いたのだ。全ては太子様のために。ああ見えてあいつは策士なのだよ。――今はしばらくぶりに甦って頭がだいぶボケたのか、なんだか随分子供っぽくなったがな」
「ははあ。ということは、蘇我氏と物部氏の宗教戦争は巷間に知られる仏教対土着信仰という構図ではなく、実際は道教の力で新たな神になろうとした太子様と、日本の土着神の争いだったわけですね。ところが、結局最終的な権力を得たのは、太子様が利用しただけの仏教だったというのは、歴史の皮肉と言うべきなんでしょうかしら」
「ふん、何とでも言うがいい。太子様が復活されれば、全てが変わるのだから」
屠自古さんは腕を組んで鼻を鳴らした。妹紅さんを刺々しくしたような印象で、言葉の端々に荒っぽい性格が滲む人(亡霊だが)である。生前の性格のままだとすれば、夫の聖徳太子にとってもなかなか手綱を握るのが大変なタイプの妻だったのでは――と余計なことを考えた。
「しかし、ですね」
蓮子が片手を挙げる。「なんだ」と屠自古さんは苛立たしげに眉を寄せた。
「今のお話を伺う限り、太子様の目的は、国乱れる時に聖人として復活し、神となって国を導くことだったのですよね。そちらが幻想郷のことをどこまでご存じか解りませんが、ここは外界から結界で隔離された山里。一四〇〇年後の日本は、科学世紀の平和な民主主義国家になってますけれど、幻想郷はその文明社会からも隔絶したところにある秘境ですよ。こう言ってはなんですが、こんな隔離された辺境で復活されても、太子様の本来の目的が叶うとは考えにくいのですが……」
確かに、神となって国を治めようというような為政者には、幻想郷は小さすぎよう。単に小さな国ならばそこから大きくしていく野望も持てようが、大結界で外から鎖国状態にある幻想郷ではそれも叶うべくもない。
「ふん、太子様を貴様らごとき常人の秤で量ろうなどと不遜な」
だが、蓮子の疑問は鼻で笑われた。この相棒を常人と言い放つとは、神になろうとする聖人はスケールが違うのか。身近に現人神の友人がいる身としてはなんとも。
「太子様の目的は第一にご自身が神となられることにある。そもそも、太子様の治めていた時代から国の有り様はとうに変わり果てているのだから、太子様がこの国にこだわる理由もさほどないのだ。それに、太子様が眠られている間、国が幾多の危機を乗り越えてきたことぐらい私も知ってる。だがそれは所詮、太子様がお目覚めにならずとも乗り越えられる、その程度の危機だったということだ。その上で今、太子様の力がなくとも国が安定しているというなら、国はまだ太子様が目覚めるべき時ではないということに過ぎないんだ」
元寇も黒船来航も第二次大戦も「その程度」ときたか。やはりスケールが違う。私たちが二〇八〇年代に学んだ近現代史では、この後の日本はなんやかんやでどんどん暗い時代になっていくはずだが、太子様のスケールではそれも「その程度」に過ぎないのだろう。
「では、今は太子様が目覚めるべき時なのですか?」
「さあな。こっちに移ってきてまで寺の坊主どもがちょっかいをかけてきたから、太子様もいい加減痺れを切らしたのかもしれない。幻想郷を足がかりに、いずれは乱れた国に聖人として凱旋することを考えておられるのかもな。いずれにせよ、我々は太子様のご意向に従うだけだ」
――あれ、それってつまり、白蓮さんがちょっかいをかけたせいで太子様が復活する、ということなのでは? という疑問を抱いたが、口には出さないでおくことにした。
「なるほど、復活した聖徳王伝説の始まりは幻想郷からと。ふむ……」
蓮子は口元に拳を当てて、ひとつ唸った。
「おおい、屠自古!」
と、そこへ扉を乱暴に開けて布都さんが騒々しく駆け込んでくる。
「やかましい。静かにしろ」電撃。
「おおおおおしびびびびびび、い、いきなり電撃を喰らわす奴があるか!」
「落ち着けそして少し黙れ。それでどうした」
「そうじゃ、青娥の奴を見なかったか! あやつ我を馬鹿にして! 今しがた特に理由なく侮辱されたぞ! 成敗してくれる!」
「お前は馬鹿だからお前を馬鹿にしたところで侮辱にはあたるまい」
「おお、それもそうじゃな――とでも言うと思ったか屠自古! 先に貴様から成敗してやってもよいのだぞ!」
「ええい皿を投げるな! 散らかるだろう!」
どこかから皿を取り出して投げ始める布都さんを、屠自古さんが呆れ顔で部屋の外へ連れ出していく。残された私たちは、顔を見合わせて首を傾げた。
「……で、メリー。今の話、どう思う?」
「どうって言われてもね……」
屠自古さん自身が太子様を神格化している節があるせいか、屠自古さんの話には全てを太子様の深謀遠慮と解釈することによって話の筋が奇妙に歪んでいる印象を受けた。
虚心坦懐に話を聞く限り、太子様は再建法隆寺によって封印され、法隆寺がこの科学世紀に至っても信仰を集めているせいで復活できないままなので、復活の地を求めて幻想郷に逃れてきた――というのが身も蓋もない事実関係のようだが。蘇る聖人というよりは、企みを見抜かれて落ち延びた敗残兵……というのは言いすぎにしても、あんまり格好良くは思えない。
私がその旨を口にすると、「その見方には私も賛成だけど」と言いつつ、蓮子は帽子の庇をしきりに弄りながら、「にしても、妙よねえ」と呟く。
「妙って?」
「――メリー、聖徳太子虚構説は知ってるでしょ?」
「信仰の対象としての聖徳太子と、実在の厩戸皇子を切り離す考えの中から生まれた極論でしょう? 高校の歴史の授業で習ったわ」
今世紀に入り、神格化された《聖徳太子》と、実在人物の《厩戸皇子》を史学上において切り離すにあたって、《聖徳太子》は実在しない架空の存在である、という極論まで出てきたという話は、外の世界での歴史の授業で習った記憶がある。要するに、後世で藤原氏が歴史を編む際に、蘇我氏の業績だったことを天皇サイドの人物の業績とするために生み出された、架空の聖人が《聖徳太子》だという説だったはずだ。
「私も高校生のときに習った知識程度だけど――確か外の世界だと今頃じゃなかった? 《聖徳太子》の実在やその業績を懐疑の眼で見る視点が人口に膾炙したのって」
「――ああ、蓮子が何を言いたいか解ったわ」
それはさっき、私もちらっと考えたことである。つまり――。
「今ここで眠っている《太子様》は、実在の人物の《厩戸皇子》本人ではなく、信仰の対象としての《聖徳太子》が、外の世界での実在への懐疑によって幻想入りした存在なんじゃないかってことでしょう?」
「さすがメリー、以心伝心ね」
蓮子は猫のように笑い、「でもね」と帽子を深く被り直す。
「それだと一点、どうも腑に落ちないのよね」
「え?」
「簡単なことよ。――ここに眠る《太子様》が《それまで人口に膾炙していた聖人としての聖徳太子の幻想入り》なら、どうして仏教より道教の方がメインなの?」
―12―
確かに、言われてみれば奇妙な話である。伝説上の聖徳太子といえば、かの有名な十七条憲法の「篤く三宝を敬え」の一文にも見られる通り、敬虔な仏教徒のイメージのはずだ。冠位十二階の色には儒教思想の影響があるというが、当時の仏教や道教はまだ完全に分化されておらず、日本に入ってきたのはそれらのちゃんぽん気味だったとか何とか聞いたような。
「でも、幻想郷ではかぐや姫が月に帰ってなかったりするじゃない」
「だとしても、竹取物語の大筋そのものは幻想郷では史実でしょう」
確かに、永遠亭の八意永琳さんが月の使者を皆殺しにして蓬莱山輝夜さんと永遠亭に隠遁したのは、『竹取物語』で語られる物語が終わった後のことである。
「聖徳太子が仏教を広めたのは国を治めるための方便で、実際は道教で神になろうとした――っていう物語は、およそ広く伝えられた聖徳太子伝説からはかけ離れた物語だと思わない?」
「……そうね。でも、それだったらどういうことになるの? まさか、これだけ聖徳太子を示す状況証拠が揃っていて、《太子様》は聖徳太子ではないとか言い出すつもり?」
過去の事件簿をお読みの方なら既にこのぐらいの考えは予想されていることだろう。この相棒なら、もはや意外ですらない考え方である。
しかし、仮に青娥さんや屠自古さんたちが、自分たちを《聖徳太子とその仲間たち》に見せかけたい思惑を持って、私たちに架空の物語を語っているのだとしても、そこまでするメリットが果たして存在するのだろうか?
「さあねえ。まだ情報が少なくてなんとも言えないわ」
帽子の庇を持ち上げ、蓮子はぐるりと室内を見回した。
「とにかく、太子様の復活を待たないことには、なんともね」
そう呟いた蓮子の近くに、どこかから神霊がふよふよと寄りついてくる。
神霊――あるいは欲霊。人間の欲が見えるようになっただけの低俗霊。だけど、それも信仰を受ければ神霊となり、神奈子さんのような神様にもなり得る。
幽霊は気質の具現であるという。気質とは物事に対してどう感じるかという、生物の感覚の根幹だが、人間は誰しも多面性を持つわけで、ひとつの物事に複数の感情を同時に抱くものだ。故に人間は複数の気質を持ち、一人の人間からは複数の幽霊が生まれる。その中でその人物の最も根幹にあたる気質――幽霊に魂が宿るのだという。
ここで肝心なのは、信仰を受けて神様になる幽霊は、その人物の本質、魂の宿った霊とは限らないわけだ。たとえば、自身の本質が極度の人間不信である小説家が、人間愛を高らかに謳った作品で名を残した場合、信仰されるのは作品に現れる人間愛の方だろう。逆もまた然り。そういうことになると、信仰の対象としての霊が、本人の本質とは別個に存在することになるわけだ。信仰されるのは個人そのものではなく、その思想や業績であるからして。
さて――では、今ここで長い眠りについているという《太子様》はどうなのだろう?
歴史学における《聖徳太子》と《厩戸皇子》の切り離し作業は、まさにこの複数の幽霊という概念から説明することができる。信仰される《聖徳太子》の幽霊と、実在した《厩戸皇子》の幽霊は、同一の人間から生じた別々の幽霊だという話だ。《厩戸皇子》は実在したのだろうし、推古朝の政治に携わったのも事実だろう。ただ、後世に《聖徳太子》として信仰されたのは、その業績の神格化によって生み出された、本質とは別個の霊だ。
ここで眠る《太子様》が、信仰される《聖徳太子》だとすると、仏教徒ではなく仙人であることに説明がつけにくい。だが、実在人物の《厩戸皇子》だとすると、神格化された《聖徳太子》の業績を屠自古さんが事実として認めたこととの整合性が――。
ううん、なんだかよくわからなくなってきた。不自然といえば不自然にも思えるし、けれど厩戸皇子が道教思想に全く触れていなかったはずもないわけで、そう考えると《厩戸皇子》本人が仙人だったというのもあり得なくはなさそうに思えてくる。
自分自身の歴史知識が曖昧なのもあって、結論が出せそうにない。あとで帰ったら慧音さんに聞いてみよう。長い話を覚悟することになるだろうが。
「ねえメリー。仙人になってみたいと思う?」
「なに、急に。私は別に――そんなに大それた野望は持ってないわ」
不意に蓮子に問われ、私は首を傾げる。相棒は膝に頬杖をついて、どこを見るともなくぼんやりとした視線を虚空に向けていた。
「これからもずっと幻想郷で暮らすなら、そういうのもアリかなあとはちょっと思うのよ。不老不死になりたいって言ったら妹紅に怒られるにしてもね。――だって私たちの周り、なんだかんだ言って、みんな私たちよりずっと寿命が長そうな人たちばかりじゃない」
「人たちっていうか、妖怪たちよね」
「人間だってそうでしょ。早苗ちゃんが私たちより早死にすると思う?」
――想像できない。霊夢さんや魔理沙さんにしたって、もともと半分人間やめているようなところがないでもないし、そのうち霊夢さんは神様に、魔理沙さんは妖怪になっていたとしても違和感はないだろう。
「だったら私たちも、仙人になって長生きして、みんなと幻想郷の時間で生きるのもアリかなあってちょっと思うのよね。なんか悔しいじゃない。知り合いみんな長生きなのに、私だけ普通の人間の寿命しか生きられないなんて。人間だって世界に飽きるまでは生きる権利があると思わない?」
「なに蓮子、柄にもなく自分の運命を思ってセンチメンタルなの?」
「そうよ、蓮子さんは繊細なんだから」
「戦災の間違いじゃなくて?」
「それは苦しいわよメリー。まあ、メリーが別に長生きしなくていいって言うならそれに付き合うけど。他の誰がいても、メリーがいないんじゃ長生きしても仕方ないし」
「――――」
いきなりそういう、反応に困ることを言わないでほしい。どんな顔をすればいいのか。
「……まあ、私個人としては、蓮子が仙人になってくれた方が気が楽かもね。ただの人間よりは死ににくいでしょうから、無茶しても寿命が縮まなくて済むわ」
「あら、メリーの寿命を縮めるのは私も本意じゃないわよ。一緒に長生きしましょ。死ぬまで」
「死ぬまで蓮子に振り回されるの?」
「死んでも一緒よ。幽霊になって白玉楼で仲良く暮らすの」
「それで成仏して天界行くの?」
「地獄でも輪廻でも、メリーのいるところならたとえ火の中水の中」
「――だったらもうちょっと、普段から私の寿命を気遣ってくれてもいいんじゃないの?」
「い、いひゃいいひゃい」
うりうりと蓮子の頬をつねってやる。悲鳴をあげる蓮子に、私は大げさにため息をついた。
復活前のお姿を見せるわけにはいかないと言われ、太子様が眠るという大祀廟の中心部には入れてもらえなかった。代わりに応接間的な場所であるらしい部屋に通され、私たちは屠自古さんと向き合う。布都さんは「怪しい奴が入り込んでいないか見張っておけ」と屠自古さんに言われ「承知したぞ!」と出て行った。体よく追い払われただけかもしれない。
「……聖徳太子って、やっぱりあの紙幣に使われた肖像画の姿なのかしら?」
「あれは聖徳太子の肖像かどうかは確定してなかったはずだけど、幻想郷は通俗的なイメージが実体化する世界だからねえ」
小声でそんなことを言い合いながら、茣蓙的な敷物に私たちが腰を下ろすと、「申し訳ないが、特に出せるものはない」と屠自古さんが軽く頭を下げた。「お気になさらず」と蓮子が首を振る。玄爺さんは我関せずという顔で、手足も首も甲羅の中に引っ込めてしまった。寝たのかもしれない。
「……で。お前たちは結局何が目的なんだ?」
じろりと半目で屠自古さんは私たちを睨む。怪しまれるのは当然だ。こういう場は相棒の口先八丁に任せるに限る。私が横から突くと、任せなさいとばかりに蓮子はにっと笑った。
「先ほども言いました通り、地上のお寺、命蓮寺の白蓮住職に依頼され、地下に眠る聖者の調査に参りましたの。主な目的は、ここへ通じる入口の発見だったのですが、存外簡単に見つかったので、ついでに中まで調べに来た結果、あの仙人の女性に捕まったという次第で」
蓮子の答えに、屠自古さんは舌打ちする。
「青娥の奴め……。まあいい。問題はあの寺だ。この大祀廟の上に寺を建て、太子様を封印しようとしたあの連中の仲間だというなら、お前たちをここから帰すわけにはいかない」
ぱちぱちと身体を帯電させて屠自古さんは凄む。私としては今すぐ回れ右して帰宅したいところだが、相変わらず恐怖心という感情の欠落した相棒は呑気な笑みを浮かべたまま。
「さて、私たちが白蓮さんの意向でここに来たのは事実ですし、ここから先は私たちを信用していただくしかないわけですが。――結論から申しますれば、私たちはあくまで中立の交渉人ですわ。命蓮寺の檀家ではありませんし。そちらの事情を伺った上で、命蓮寺と交渉し、双方の妥協点を見出すことができれば、それに勝ることはないと思いますが」
「交渉? 何を交渉する余地がある」
「その点から調べさせていただきたいのですわ。何はさておき、双方のことをよく知らないことには交渉の余地も見出せません。こちらは命蓮寺の事情には通じておりますので、そちらの事情について詳しくお聞かせ願えませんでしょうか。なぜ聖徳太子――厩戸皇子殿下が幻想郷の地下で眠りについておられるのかを。――ねえ、刀自古郎女さん」
蓮子にそう呼びかけられ、屠自古さんははっと目を見開き、視線を逸らす。
「……それはもう捨てた名。今の私は、太子様の部下の蘇我屠自古だ」
刀自古郎女。四人いたといわれる聖徳太子の妃のひとりで、蘇我馬子の娘。山背大兄王の母である――といかにも詳しそうに書いているが、私がこの記録を書いているのは異変の後なので、地の文での歴史に関する記述は後からのカンニングが多く含まれる点をご了承願う。ともかく、目の前の亡霊の女性は、その刀自古郎女ご本人らしい。古代史の生き証人、いやもう肉体的には死んでいるのだろうから死に証人と言うべきか?
「私の名まで知られているということは、太子様の業績は千四百年後にまで語り継がれているということだな。まあ、当然か――」
屠自古さんは目を細め、少し警戒心を緩めた顔で私たちに向き直った。
「太子様について、お前たちはどの程度のことを知っている?」
「用明天皇の子、山背大兄王の父。厩戸の前で生まれたので厩戸皇子と呼ばれ、十人の話を同時に聞き分けるほどの聡明さをもった皇子だった。仏法の加護を得て物部氏を討ち滅ぼし、推古天皇のもと、蘇我馬子とともに政治を司った為政者。遣隋使を派遣して中国に学び、冠位十二階や憲法十七条を制定。四天王寺や法隆寺を建立し、仏教を厚く信仰した。『三経義疏』を執筆し、晩年には『国記』『天皇記』などを編纂。……というところですかね」
蓮子がすらすらと語る。このへんはもともと外の世界の歴史の授業で習ったことに加えて、歴史家の慧音さんと一緒に長いこと寺子屋をやっている関係で、覚える気がなくても頭に入ってしまった知識の一部である。
「随分とまあ、太子様のことをよく知っているじゃないか。――青娥の奴、まさかあの話、デタラメだったんじゃあるまいな……」
驚いたように屠自古さんは言い、それから小さく唸る。「それほどでも」と蓮子は笑った。
はて、私たちが外の世界で習った歴史では、後世に『聖徳太子』の業績として伝えられたものは、太子信仰による神格化の要素が多く含まれており、前世紀の間はそこが混同されたまま研究されていたが、今世紀に入ってからは、信仰の対象としての『聖徳太子』と、実在の人物としての厩戸皇子は切り離して考えなければならないというのが史学上の通説である――みたいな話であったはずだ。
今蓮子が列挙した聖徳太子の伝説や業績も、史学的には後世の後付け、太子信仰の産物が多く含まれているはずである。――だが、厩戸皇子の妃・刀自古郎女ご本人であるらしい屠自古さんが、その伝説を肯定している。ということは――。
「しかし、大きな間違いがひとつある」
屠自古さんが口を開く。おっと、何を訂正されるのだろう。厩で生まれた点か? 十人の話を同時に聞き分けた伝説か? それとも――。
「どこでしょう?」
「太子様が厚く仏教を信仰されたという点だ」
全く予想外のところを訂正され、私は蓮子と顔を見合わせた。
――聖徳太子が仏教徒ではなかった?
「と言いますと?」
「それは、なぜ太子様が今この大祀廟で復活の時を待っておられるかという話に繋がる。要するに――太子様が実際に信仰されていたのは、仏教ではなく、道教だったのだ」
―11―
「太子様は幼少のみぎりから天才として名を馳せられた。だがそれだけに太子様は、いつか必ず死にゆかねばならない人間の運命に不満を抱かれていた。大地は神々の御世から変わらず存在するのに、なぜ人間は死ななければならないのか。自分に永遠の命があれば、世をずっとより良い方向へ導き続けることができるのに、と」
――実際に不老不死となり、永遠の命を手にした知り合いがいる身としては、どんな顔をして聞けばいいのか判じかねる話である。藤原妹紅さんが蓬莱の薬を飲んだのは千三百年前。太子様は百年遅く生まれていれば、かぐや姫から蓬莱の薬を貰えたというのに――。
「そこへ現れたのは、あの邪仙、霍青娥だ。あいつが太子様に、道教の思想を吹きこんだ。自然と一体化して不老不死を実現する道教は、太子様の望みに適うものだった」
「――ということは、仏教を広めたのは、道教の力で不老不死を目指すことを隠すため?」
「それだけではない。道教は、個人主義ゆえに国を治めるには向かない宗教だ。規律の厳しい仏教の方が、国を治めるには向いている。太子様はそう判断され、表向きは仏教を広め、裏で道教を研究した。そして、道教の力をもって為政者として多大な業績をあげられた。先ほどお前が語ったような、後世まで語り継がれるような伝説を残されたわけだ」
聖徳太子の業績は道教のおかげ! 道教を学べばあなたも聖徳太子に! ――って、これでは怪しげな通信講座とかの宣伝文句である。
「そうして太子様は為政者として為すべきことを為したあと、尸解仙として一度眠りにつき、仏教の力が弱まって国が乱れる頃に復活しようとお考えになった。私と布都は、太子様に付き従い、共に眠りについたのだ」
「尸解仙というと、一度死んで仙人になる方法ですよね」
蓮子はそう言って、屠自古さんの幽霊足に視線を向ける。屠自古さんはひとつ嘆息。
「私は、ちょっとした手違いで肉体の再生に失敗して、亡霊になってしまったんだ。まあ、この身体はこれで、楽でいいがな。布都は問題なく尸解仙となって、つい最近復活した。太子様も間もなく復活される」
「それはそれは……。しかし、国乱れる頃に復活するにしても、千四百年はいささか気が長すぎでは。それに、どうして幻想郷に?」
「それは、仏教のせいだ」
苦々しく、屠自古さんはそう言い捨てる。
「太子様が国を治めるための方便でしかなかった仏教が、予想以上の力を持ってしまったせいだ。権力を握った仏教は太子様の復活を恐れ、太子様の眠るこの大祀廟の上に寺を建て、太子様を封印してしまったのだ」
「そのお寺……というのは、外の世界の」
「法隆寺だ。太子様が国を治めるために建立された寺を、仏教徒どもは一度焼失したのをいいことに、わざわざこの太子様が眠る大祀廟の上に再建したんだよ」
――なんとまあ。私たちは思わず顔を見合わせる。
奈良県の法隆寺は、『日本書紀』の中に全焼したという記述があり、現在残っている伽藍は後に創建時とは違う場所に再建されたものであることが、発掘調査で解っている。全焼したから再建したというなら、なぜ元と同じ場所に再建しなかったのか――というのは法隆寺の謎のひとつなのだが、それが復活を目指す聖徳太子を封印するためだったとは……。前世紀に「法隆寺は子孫を根絶やしにされた聖徳太子の怨霊を封じるための寺」という説がセンセーションを巻き起こしたという歴史的事実があるが、まさに当たらずと言えども遠からず。
「では、それで復活できなくなって、大祀廟ごと幻想郷に移ってきたのですか?」
守矢神社が神社と湖ごと幻想郷に移ってきた前例があるから、この大祀廟が外の世界から移転してきたと言われても納得はできる。
「端的に言えばそういうことになる。だが、だからといって太子様を侮るなよ。太子様が御自分が必要とされる時と場所をじっと待っておられたのだ」
「要するに、外の世界では神様が必要とされなくなったから、神様が必要とされる幻想郷に来たというだけのことですけれどね」
愉しげな声が不意に割り込む。
「青娥!」
屠自古さんが鋭い声をあげた先、大祀廟の壁に穴を開けて、そこからにゅっと上半身を出した青娥さんが、どこか意地の悪い笑みを浮かべていた。――あの穴は、物質的な穴ではない。建物の壁という概念そのものに穴を開けているのだと、私の目が告げていた。
「突然壁から現れるなと言ってるだろう、邪仙」
「あら、さっき玄関から行ったら文句を言われましたから、いつも通り壁から顔を出しましたのに、つれないわね」
「私は貴様の訪問場所に文句があるんじゃない、貴様の存在自体に文句があるんだ。貴様がいると廟の空気が穢れる、さっさと去ね。そしてそのまま大陸に帰れ」
「嫌われたものですわねえ。幻想郷への大祀廟の移転は私がやったことですのに。もう少しその点に感謝してもよろしいのではなくて?」
「ここなら寺がないからいつでも復活できると言ったのはどこの誰だ」
「あら、私だっていきなり魔界から空飛ぶ船がやって来てお寺になるなんて想像もできませんでしたわ。そんなことまで私の責任にされてはたまりませんわよ」
屠自古さんと青娥さんが剣呑な空気で言い合う傍らで、私は蓮子を横目で見やる。
「……ねえ蓮子、これ私たちの立場がバレたらまずくない?」
「確かにちょっとまずそうねえ」
小声でそんなことを言い合う。――つまり、再建法隆寺に封印されてしまった太子様は、復活するために寺のない幻想郷に移転したのに、移転先の上にも命蓮寺ができたせいで復活が遅れたということらしい。私と蓮子が魔界から白蓮さんを救出する手引きをして、あの場所に命蓮寺ができるきっかけを作った人間だと知れたら、屠自古さんは何と言うだろう。感電は覚悟しておかねばなるまいから、ここは隠し通すしかあるまい。
「ところで屠自古さん、疑問がひとつあるのですが」
「ちっ、なんだ?」
挙手した蓮子に、屠自古さんが舌打ちしつつ振り返る。「おお、怖い怖い」と青娥さんは笑って、壁に空いた穴に身体を引っ込めた。穴はそのまま閉じ、壁には穴が存在した痕跡すら残らない。やはりあの穴は、蓮子の語彙で言えばワームホールみたいなものだったらしい。
蓮子もその穴のことは気になっている様子だったが、しかし話しかけた相手は屠自古さんである。姿を消した青娥さんへの関心を振り切り、蓮子は屠自古さんに向き直る。
「先ほどの布都さんなんですけど、彼女は物部氏の人間ですよね。太子様と蘇我氏に滅ぼされた物部氏の人間が、どうして太子様の弟子に?」
蓮子の問いに、屠自古さんはひとつ嘆息した。
「――もともと、大陸から仏教と道教が入ってきたとき、自然信仰で廃仏派の物部氏は道教寄りの思想だった。だが、太子様がお考えになったように、道教では国がまとまらないことを布都も理解していたし、大陸から伝わる新しい知識で国を変えていかねばならないという考えも太子様と共有していた。だから、表向き仏教を広め、裏で道教の力を得ようとする太子様のお考えに、布都は同調して、旧来の土着信仰に執着する物部氏を裏切り、蘇我氏の崇仏化と物部氏の滅亡へ向けて裏で糸を引いたのだ。全ては太子様のために。ああ見えてあいつは策士なのだよ。――今はしばらくぶりに甦って頭がだいぶボケたのか、なんだか随分子供っぽくなったがな」
「ははあ。ということは、蘇我氏と物部氏の宗教戦争は巷間に知られる仏教対土着信仰という構図ではなく、実際は道教の力で新たな神になろうとした太子様と、日本の土着神の争いだったわけですね。ところが、結局最終的な権力を得たのは、太子様が利用しただけの仏教だったというのは、歴史の皮肉と言うべきなんでしょうかしら」
「ふん、何とでも言うがいい。太子様が復活されれば、全てが変わるのだから」
屠自古さんは腕を組んで鼻を鳴らした。妹紅さんを刺々しくしたような印象で、言葉の端々に荒っぽい性格が滲む人(亡霊だが)である。生前の性格のままだとすれば、夫の聖徳太子にとってもなかなか手綱を握るのが大変なタイプの妻だったのでは――と余計なことを考えた。
「しかし、ですね」
蓮子が片手を挙げる。「なんだ」と屠自古さんは苛立たしげに眉を寄せた。
「今のお話を伺う限り、太子様の目的は、国乱れる時に聖人として復活し、神となって国を導くことだったのですよね。そちらが幻想郷のことをどこまでご存じか解りませんが、ここは外界から結界で隔離された山里。一四〇〇年後の日本は、科学世紀の平和な民主主義国家になってますけれど、幻想郷はその文明社会からも隔絶したところにある秘境ですよ。こう言ってはなんですが、こんな隔離された辺境で復活されても、太子様の本来の目的が叶うとは考えにくいのですが……」
確かに、神となって国を治めようというような為政者には、幻想郷は小さすぎよう。単に小さな国ならばそこから大きくしていく野望も持てようが、大結界で外から鎖国状態にある幻想郷ではそれも叶うべくもない。
「ふん、太子様を貴様らごとき常人の秤で量ろうなどと不遜な」
だが、蓮子の疑問は鼻で笑われた。この相棒を常人と言い放つとは、神になろうとする聖人はスケールが違うのか。身近に現人神の友人がいる身としてはなんとも。
「太子様の目的は第一にご自身が神となられることにある。そもそも、太子様の治めていた時代から国の有り様はとうに変わり果てているのだから、太子様がこの国にこだわる理由もさほどないのだ。それに、太子様が眠られている間、国が幾多の危機を乗り越えてきたことぐらい私も知ってる。だがそれは所詮、太子様がお目覚めにならずとも乗り越えられる、その程度の危機だったということだ。その上で今、太子様の力がなくとも国が安定しているというなら、国はまだ太子様が目覚めるべき時ではないということに過ぎないんだ」
元寇も黒船来航も第二次大戦も「その程度」ときたか。やはりスケールが違う。私たちが二〇八〇年代に学んだ近現代史では、この後の日本はなんやかんやでどんどん暗い時代になっていくはずだが、太子様のスケールではそれも「その程度」に過ぎないのだろう。
「では、今は太子様が目覚めるべき時なのですか?」
「さあな。こっちに移ってきてまで寺の坊主どもがちょっかいをかけてきたから、太子様もいい加減痺れを切らしたのかもしれない。幻想郷を足がかりに、いずれは乱れた国に聖人として凱旋することを考えておられるのかもな。いずれにせよ、我々は太子様のご意向に従うだけだ」
――あれ、それってつまり、白蓮さんがちょっかいをかけたせいで太子様が復活する、ということなのでは? という疑問を抱いたが、口には出さないでおくことにした。
「なるほど、復活した聖徳王伝説の始まりは幻想郷からと。ふむ……」
蓮子は口元に拳を当てて、ひとつ唸った。
「おおい、屠自古!」
と、そこへ扉を乱暴に開けて布都さんが騒々しく駆け込んでくる。
「やかましい。静かにしろ」電撃。
「おおおおおしびびびびびび、い、いきなり電撃を喰らわす奴があるか!」
「落ち着けそして少し黙れ。それでどうした」
「そうじゃ、青娥の奴を見なかったか! あやつ我を馬鹿にして! 今しがた特に理由なく侮辱されたぞ! 成敗してくれる!」
「お前は馬鹿だからお前を馬鹿にしたところで侮辱にはあたるまい」
「おお、それもそうじゃな――とでも言うと思ったか屠自古! 先に貴様から成敗してやってもよいのだぞ!」
「ええい皿を投げるな! 散らかるだろう!」
どこかから皿を取り出して投げ始める布都さんを、屠自古さんが呆れ顔で部屋の外へ連れ出していく。残された私たちは、顔を見合わせて首を傾げた。
「……で、メリー。今の話、どう思う?」
「どうって言われてもね……」
屠自古さん自身が太子様を神格化している節があるせいか、屠自古さんの話には全てを太子様の深謀遠慮と解釈することによって話の筋が奇妙に歪んでいる印象を受けた。
虚心坦懐に話を聞く限り、太子様は再建法隆寺によって封印され、法隆寺がこの科学世紀に至っても信仰を集めているせいで復活できないままなので、復活の地を求めて幻想郷に逃れてきた――というのが身も蓋もない事実関係のようだが。蘇る聖人というよりは、企みを見抜かれて落ち延びた敗残兵……というのは言いすぎにしても、あんまり格好良くは思えない。
私がその旨を口にすると、「その見方には私も賛成だけど」と言いつつ、蓮子は帽子の庇をしきりに弄りながら、「にしても、妙よねえ」と呟く。
「妙って?」
「――メリー、聖徳太子虚構説は知ってるでしょ?」
「信仰の対象としての聖徳太子と、実在の厩戸皇子を切り離す考えの中から生まれた極論でしょう? 高校の歴史の授業で習ったわ」
今世紀に入り、神格化された《聖徳太子》と、実在人物の《厩戸皇子》を史学上において切り離すにあたって、《聖徳太子》は実在しない架空の存在である、という極論まで出てきたという話は、外の世界での歴史の授業で習った記憶がある。要するに、後世で藤原氏が歴史を編む際に、蘇我氏の業績だったことを天皇サイドの人物の業績とするために生み出された、架空の聖人が《聖徳太子》だという説だったはずだ。
「私も高校生のときに習った知識程度だけど――確か外の世界だと今頃じゃなかった? 《聖徳太子》の実在やその業績を懐疑の眼で見る視点が人口に膾炙したのって」
「――ああ、蓮子が何を言いたいか解ったわ」
それはさっき、私もちらっと考えたことである。つまり――。
「今ここで眠っている《太子様》は、実在の人物の《厩戸皇子》本人ではなく、信仰の対象としての《聖徳太子》が、外の世界での実在への懐疑によって幻想入りした存在なんじゃないかってことでしょう?」
「さすがメリー、以心伝心ね」
蓮子は猫のように笑い、「でもね」と帽子を深く被り直す。
「それだと一点、どうも腑に落ちないのよね」
「え?」
「簡単なことよ。――ここに眠る《太子様》が《それまで人口に膾炙していた聖人としての聖徳太子の幻想入り》なら、どうして仏教より道教の方がメインなの?」
―12―
確かに、言われてみれば奇妙な話である。伝説上の聖徳太子といえば、かの有名な十七条憲法の「篤く三宝を敬え」の一文にも見られる通り、敬虔な仏教徒のイメージのはずだ。冠位十二階の色には儒教思想の影響があるというが、当時の仏教や道教はまだ完全に分化されておらず、日本に入ってきたのはそれらのちゃんぽん気味だったとか何とか聞いたような。
「でも、幻想郷ではかぐや姫が月に帰ってなかったりするじゃない」
「だとしても、竹取物語の大筋そのものは幻想郷では史実でしょう」
確かに、永遠亭の八意永琳さんが月の使者を皆殺しにして蓬莱山輝夜さんと永遠亭に隠遁したのは、『竹取物語』で語られる物語が終わった後のことである。
「聖徳太子が仏教を広めたのは国を治めるための方便で、実際は道教で神になろうとした――っていう物語は、およそ広く伝えられた聖徳太子伝説からはかけ離れた物語だと思わない?」
「……そうね。でも、それだったらどういうことになるの? まさか、これだけ聖徳太子を示す状況証拠が揃っていて、《太子様》は聖徳太子ではないとか言い出すつもり?」
過去の事件簿をお読みの方なら既にこのぐらいの考えは予想されていることだろう。この相棒なら、もはや意外ですらない考え方である。
しかし、仮に青娥さんや屠自古さんたちが、自分たちを《聖徳太子とその仲間たち》に見せかけたい思惑を持って、私たちに架空の物語を語っているのだとしても、そこまでするメリットが果たして存在するのだろうか?
「さあねえ。まだ情報が少なくてなんとも言えないわ」
帽子の庇を持ち上げ、蓮子はぐるりと室内を見回した。
「とにかく、太子様の復活を待たないことには、なんともね」
そう呟いた蓮子の近くに、どこかから神霊がふよふよと寄りついてくる。
神霊――あるいは欲霊。人間の欲が見えるようになっただけの低俗霊。だけど、それも信仰を受ければ神霊となり、神奈子さんのような神様にもなり得る。
幽霊は気質の具現であるという。気質とは物事に対してどう感じるかという、生物の感覚の根幹だが、人間は誰しも多面性を持つわけで、ひとつの物事に複数の感情を同時に抱くものだ。故に人間は複数の気質を持ち、一人の人間からは複数の幽霊が生まれる。その中でその人物の最も根幹にあたる気質――幽霊に魂が宿るのだという。
ここで肝心なのは、信仰を受けて神様になる幽霊は、その人物の本質、魂の宿った霊とは限らないわけだ。たとえば、自身の本質が極度の人間不信である小説家が、人間愛を高らかに謳った作品で名を残した場合、信仰されるのは作品に現れる人間愛の方だろう。逆もまた然り。そういうことになると、信仰の対象としての霊が、本人の本質とは別個に存在することになるわけだ。信仰されるのは個人そのものではなく、その思想や業績であるからして。
さて――では、今ここで長い眠りについているという《太子様》はどうなのだろう?
歴史学における《聖徳太子》と《厩戸皇子》の切り離し作業は、まさにこの複数の幽霊という概念から説明することができる。信仰される《聖徳太子》の幽霊と、実在した《厩戸皇子》の幽霊は、同一の人間から生じた別々の幽霊だという話だ。《厩戸皇子》は実在したのだろうし、推古朝の政治に携わったのも事実だろう。ただ、後世に《聖徳太子》として信仰されたのは、その業績の神格化によって生み出された、本質とは別個の霊だ。
ここで眠る《太子様》が、信仰される《聖徳太子》だとすると、仏教徒ではなく仙人であることに説明がつけにくい。だが、実在人物の《厩戸皇子》だとすると、神格化された《聖徳太子》の業績を屠自古さんが事実として認めたこととの整合性が――。
ううん、なんだかよくわからなくなってきた。不自然といえば不自然にも思えるし、けれど厩戸皇子が道教思想に全く触れていなかったはずもないわけで、そう考えると《厩戸皇子》本人が仙人だったというのもあり得なくはなさそうに思えてくる。
自分自身の歴史知識が曖昧なのもあって、結論が出せそうにない。あとで帰ったら慧音さんに聞いてみよう。長い話を覚悟することになるだろうが。
「ねえメリー。仙人になってみたいと思う?」
「なに、急に。私は別に――そんなに大それた野望は持ってないわ」
不意に蓮子に問われ、私は首を傾げる。相棒は膝に頬杖をついて、どこを見るともなくぼんやりとした視線を虚空に向けていた。
「これからもずっと幻想郷で暮らすなら、そういうのもアリかなあとはちょっと思うのよ。不老不死になりたいって言ったら妹紅に怒られるにしてもね。――だって私たちの周り、なんだかんだ言って、みんな私たちよりずっと寿命が長そうな人たちばかりじゃない」
「人たちっていうか、妖怪たちよね」
「人間だってそうでしょ。早苗ちゃんが私たちより早死にすると思う?」
――想像できない。霊夢さんや魔理沙さんにしたって、もともと半分人間やめているようなところがないでもないし、そのうち霊夢さんは神様に、魔理沙さんは妖怪になっていたとしても違和感はないだろう。
「だったら私たちも、仙人になって長生きして、みんなと幻想郷の時間で生きるのもアリかなあってちょっと思うのよね。なんか悔しいじゃない。知り合いみんな長生きなのに、私だけ普通の人間の寿命しか生きられないなんて。人間だって世界に飽きるまでは生きる権利があると思わない?」
「なに蓮子、柄にもなく自分の運命を思ってセンチメンタルなの?」
「そうよ、蓮子さんは繊細なんだから」
「戦災の間違いじゃなくて?」
「それは苦しいわよメリー。まあ、メリーが別に長生きしなくていいって言うならそれに付き合うけど。他の誰がいても、メリーがいないんじゃ長生きしても仕方ないし」
「――――」
いきなりそういう、反応に困ることを言わないでほしい。どんな顔をすればいいのか。
「……まあ、私個人としては、蓮子が仙人になってくれた方が気が楽かもね。ただの人間よりは死ににくいでしょうから、無茶しても寿命が縮まなくて済むわ」
「あら、メリーの寿命を縮めるのは私も本意じゃないわよ。一緒に長生きしましょ。死ぬまで」
「死ぬまで蓮子に振り回されるの?」
「死んでも一緒よ。幽霊になって白玉楼で仲良く暮らすの」
「それで成仏して天界行くの?」
「地獄でも輪廻でも、メリーのいるところならたとえ火の中水の中」
「――だったらもうちょっと、普段から私の寿命を気遣ってくれてもいいんじゃないの?」
「い、いひゃいいひゃい」
うりうりと蓮子の頬をつねってやる。悲鳴をあげる蓮子に、私は大げさにため息をついた。
第11章 神霊廟編 一覧
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更新キタ!
蓮子とメリーが仙人に…なったら面白そうですね
結局最後はのろけで終わり。蓮メリらしいかな?
高校で歴史を習ったって…メリーさんの滞在歴ってこの作品ではどのくらいだろうか?
【おしらせ】
いつもコメントありがとうございます。作者の浅木原です。
作者の冬コミ新刊作業とEOさんのペンタブ故障により、
11/24(土)の更新はお休みいたします。
次回5話の公開は12/1(土)の予定になります。
お待たせして申し訳ありませんが、ご了承ください。
これからも『こちら秘封探偵事務所』をよろしくお願いいたします。
12月の更新楽しみにしてますね!!