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楽園の確率~Paradiseshift.第5章『黒谷返上』   黒谷返上 第5話

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公開日:2018年04月30日 / 最終更新日:2018年04月30日

黒谷返上 第5話
楽園の確率 ~ Paradise Shift. 第5章
黒谷返上 第5話



 人里での二度目の事態も、昨日の事件に続いて速やかに幻想郷に広まっていた。
 あれだけ強烈な神通力が発揮されたのだ、視覚的には今朝の事態の方が強烈だった。
 それは命蓮寺に避難する人々の不安を煽ったが、天狗や人間よりも動揺するモノ達がそれとは別に在った。
 この旧地獄も、地上での事態を聞いて黙ってはいなかったのだ。
「昨日の今日でこれだ。しかもやられたのは天狗のお偉いさんだったらしい」
「どうやって知ったの? と言うかそのお面? 取ったら?」
 行きつけの居酒屋『どん底』に、珍しく昼間から屯する、ヤマメを始めとする土蜘蛛達。その向かいに座る魔理沙は、ヤマメに促されてようやく面体を除く。
「ぷはっ、良い空気だぜ」
「いや、瘴気は除けたけど、悪い空気だからあんまり吸い込まない方がいいよ」
 面体に押さえられていた金髪を振りほぐし、帽子を被り直す魔理沙。ミアズマ(瘴気)を以て人に疾病をもたらす事も出来るなら、その瘴気を除いた空間を作り出すのも可能。
「そうそう、どうやって知ったかだったな。あいつら無線通信みたいに、よく念話を飛ばすんだ。昨日の今日で動きがあると思ってな、近所の魔法使いに頼んで傍受したんだ」
 近所の魔法使い。前に魔理沙を送り込ませたアリス・マーガトロイドか。状況が状況とは言えさぞかしうざったかっただろうと、ヤマメは思い浮かべる。しかし実際にこうして情報が入手できたのだから、魔理沙の行動も彼女の苦労も報われたと言えよう。
「ヤマメよ。あんたらの里から出奔したような奴はいないんだね?」
 勇儀が問いかける。普段の余裕に満ちた貌はそこに無い。この事態が、旧地獄にも何らかの形で影響を及ぼすものと、既に認識していた。
「ええ、それは間違いなく。長老衆と私で確認しました。偽ることは何もありません。姐さんにも、魔理沙にも、誓って」
 土蜘蛛には誓うべき神仏は居ない。そのため、これを伝えるべき二人にそう宣言する。
「まあ、嘘偽り無いのは信じるよ。数え間違いは知らないけどね」
 少しだけ冗談交じりに言ってみるが、いつもの調子が出ないと勇儀は溜め息をつく。
 瘴気を放つ大蜘蛛。
 その存在が旧地獄へ与える影響の大きさは、嫌でも理解できる。既に地霊殿の古明地さとりを経由し、地獄から土蜘蛛へ召喚の御触れが出されてた後。そちらへは長老衆から数人、ヤマメが今もたらした人員調査の更に詳細を携えて赴いていたりもする。
「ここらって元々、八大地獄の周辺地域の一つだからね。是非曲直庁なんて行き来するだけで難儀なんだよねぇ」
 それでも大寒地獄から始まる階層状になった欧州の地獄と比べてお役所へのアクセスは良い方だと、一応勇儀はここの地域の良い点も添えてフォローする。
 人間の感覚でそれが良いか悪いかは兎も角。
「本当に地獄に行きっきりになった人間には、そんな事言ってられないだろうがな。幸い、今の所は妖怪も手を出しあぐねてるみたいだけど、今後どうなるかも分からないし」
 自分だってやがてはそこに至るのを考えれば、生きたままのアクセス以外は御免被ると魔理沙は嘆息。
「でもさ、死んで地獄に行って。酷い悪さしてなければちゃんと輪廻の輪に戻れるようには出来てるんだよ。酷い死に方はそれは、嫌だろうけど」
 妖怪にはそれが無い。少なくとも鬼や土蜘蛛には。
「まあ地獄観は年を取ってからゆっくり聞くもんだろうな。それより今は、アレをどうするかって話だ」
 面体を人差し指でクルクルと回しながら、魔理沙は提案する。
 まず旧地獄に赴いた理由は、土蜘蛛がこれに関わっているかを問い糾すため。誰に頼まれたでも無い独断だが、かつては霊夢と共に異変解決のため地底に潜った魔理沙であればこそこうして対当に迎えられているし、誰も文句は言えない。
 理由はもう一つ。土蜘蛛は関わっていないとした前提で考えたのが、その力を用いて瘴気を除くなどの対策。
 瘴気の中では魔力の発揮が阻害され、大出力の神通力ですら無力化されるのが確認された。それに人間や禽獣の卑妖化という現象にも、瘴気が寄与しているものと考えられた。
 事に当たるのが天狗だろうが魔法使いだろうが、これを除かなければ肉弾戦すら危うい。
 そして剛力を以ての肉弾戦にはまだ懸念がある。白蓮と魔理沙は凌いだが、大蜘蛛の放つ言霊の力がそれ。これにも瘴気が関与してるかも知れないが、確証は無い。
 ただいずれにせよ、瘴気が極めて重大な障害となるのは変わらない。
「でも、集団でぞろぞろ行くのはアウトだ。鬼は約定を守る。こんな異変が進行してる中で、土蜘蛛の衆が地上に出るのは見逃せないね」
「けど、前の正邪の時は――」
「あの時だってヤマメが勢いに任せて出てったんだ。お陰で方々の地上の妖怪の面子はべっこり、さすがに私もヤマメを叱らざるを得なかったね」
 程度は兎も角、一応叱ったのだから嘘ではない。ただし詭弁にはなりそうだ。
「誰の許しが要る?」
 この魔理沙の問いに、勇儀は肩をすくめて答える。
「幻想郷全ての人妖。って言ったら、それを取り付けてくれるかい?」
「もう少し負からないか? 例えば天狗のトップや、幻想郷が出来たぐらいからの古い妖怪。人間なら自警団の組長。それとか賢者って言われる奴らとか」
 言ってもそれがどこまでの範囲か、誰なのか。名前を知ってるのは人里の自警団の者と八雲紫ぐらいのもの。
 そもそも特定の誰かの許しを得ようというのが認識違いだと、勇儀は首を振る。
「いや、冗談でなく、全ての人妖の許しが必要なんだよ。幻想郷には管理者然とした奴はいても、統治者なんていない。妖怪の山の天狗達がオッケーって言ったところで、全く組織にも属してない妖怪が徒党を組んでそれは認めない、って声を上げ始めたらそれだけで大混乱だ。それなりに本拠地を持って、話の通じる奴らが集まればいいけど、主体的に治める奴がいない幻想郷じゃあ、どこかが主導するとなればそうなる。理解できるかい?」
 相手が天狗だけなら、それだけの状況と認めるなら、自分たち鬼によるゴリ押しも辞さないと自信満々に勇儀は言う。が、それは望まざる事態であるとも理性的に考えている。
 ああ、博麗の巫女はそこにも必要なのか。魔理沙は、今もその安否を気遣う友人を思い浮かべる。彼女が健在なら、全方位へ無理筋を通すことだって叶うだろうに。
 いや、そんな物は知らない。
 彼女の後塵を拝してきた、文に言われたことは事実だ。しかし友としては共に歩み、時には追い抜こうともしてきた。敵わないのはまだまだ何かが足りないからだ。負けるものか。彼女が不在だからこそ、この異変をどうにかしてみせる。
 魔理沙はどこまでも真っ直ぐで、とことんひん曲がった、健やかな天邪鬼だった。
 理解できるかと言われたことは理解した、よく分かると口では言う。だがそれをねじ曲げるにはどうすればいいのかを考え続けている。
 勇儀は「それは結構」と、魔理沙の意思を言葉通りと受けて続けていた。
「それにだ、この期に土蜘蛛が徒党を組めばいくら申し開きをしても、いや、それに乗じて土蜘蛛を、旧地獄の勢力丸ごと潰しにかかる奴だって出かねない。事実がどうかなんて関係なく、ね」
 適当な口実にされて終いと言う事だ。
「けど勇儀」
「なぁに、パルさん」
「このままにすれば、遅かれ早かれその“口実”を地上の奴らに与えるんじゃないの?」
「そこなんだよねぇ……」
 既存のオカルト同様に自然消滅する類なら、地上としては放っておいてもいいのだろう。
 それが消えた後でも、犠牲者が発生した事実は消えない。昨日の時点までで天狗が、人間と同族が変じた卑妖を一体ずつ斃したのまで確認している。この責こそ、天狗が取るべき筋ではなかろうが。
 明確な無実の主張、そして信頼された勢力による認定が必要。
 だからこそ土蜘蛛は事態の把握から間を置かず人員掌握。予期された地獄の召喚に応じる体勢を整え、いざとなって即座に応じた。しかしその地獄の方からは、申し開きを承知したとの回答は無い。
 それ以前に提出資料が正しいか実地への観察が入らなければならないのに、今以てそれが訪れるとの沙汰すら無いのだから。
「と言うことでさ、魔理沙よ。ここは一旦地上に戻っちゃくれないかい?」
「あぁ。無駄足かよ……」
 手で顔を拭う素振りをして、魔理沙は呟く。
 彼女の素振りはいつも通りでもやはり焦っている。霊夢や里の人々のこと。肉親は無事だったが、霊夢以外にも友人知人の多くが、卑妖と化して大蜘蛛に囚われているのだから。
「本当にごめん、魔理沙」
「いや、ヤマメが謝る必要なんて無いぜ。無理を通して道理を引っ込めろなんて、私が言えた義理でもないからな」
 ならば別に事態打開の助けか糸口を求めるだけ。ここでグチグチ言い続けて徒に時間を浪費する魔理沙ではない。出来ればさっきの話を心に置いといて欲しいと言って彼女は席を立ち、せめて見送ろうとヤマメがその後に続く。
 魔理沙は面体を装着すると、往来に出て二歩三歩と助走を付けてからホウキに跨がり、脇目も振らずに地上に至る風穴へと向かって行った。
「ヤマメよぉ」
 あっという間に遠くなる後ろ姿を見送ってから戻ろうとするヤマメに、いつの間にか外に出て来た勇儀が呼びかけて来た。
「なんでしょうか?」
「黒白の期待に応える気はあるかい?」
「向けられるべき期待があるなら応えたいのが人情ですし、事が事です。最終的に旧地獄のためになるなら、私は進んで行きたいです」
 ヤマメが従うのは旧地獄を治める鬼でも、閻魔が治める地獄でもない。今ここに広がる平穏な暮らしと、それを囲む秩序だ。地上がどんな凶事に見舞われても、それが今後旧地獄までも覆うようになるまで、秩序には従い続けようと。
 旧地獄では秩序が星熊勇儀という鬼の形を取っているから、彼女の言に従っているだけ。
「そうかい、人情なら行きたいかい。いいよ、旧地獄の事なんて考えなくても」
 急に何を言い出すのだろう。行きたいのは本音でも、理由も無く手放しで喜んで向かうなど、とても出来はしない。
「ただしヤマメ、あんた一人だ。これは曲げられない、譲れない最後の一線だ」
「ちょっと勇儀」
「パルスィ。ここまで妬ましい光景なんて、そうそう無いと思わない?」
 確かに、パルスィにとっては信じられないほど妬ましい光景。そして、何よりも焦がれる世界でもある。彼女は緑眼に嫉妬の光を灯さず、その光景を穏やかに見ていた。
 店内に戻ってみれば、そこは足の踏み場も無くなっていた。床には隙間無く、かしずく土蜘蛛達の姿があったのだ。一人残らずそうしている。店主はただただ困惑していた。
 彼らはまつろわぬ者。旧地獄を治める鬼にも、地獄の円魔王にも従わない。ここに居て何かの指示や意に沿って動くのは、あくまで旧地獄の秩序に従っているだけ。そう、彼らもヤマメと変わらないのに、それが今揃って頭を下げ、請うている。
 そして皆口々に言うのだ、ヤマメを行かせてやって欲しいと。
 責任は土蜘蛛で持つ。勇儀達や地霊殿に迷惑はかけない。ここに全ての土蜘蛛が居るのではないが、これは総意だと先頭で頭を下げる男が言う。
 彼ら彼女らは、誰もがヤマメの導きでここに辿り着いた者達だ。ヤマメは常にその同胞の先に立ってきた。今も、これからもそうあるのだろう。
「無理だ。私は皆の代表者でも、ましてや願いの体現者なんかじゃない……」
「だろうね。あんたはあんたのやりたいようにやればいい。だから私からも頼むよ」
 土蜘蛛にだけは背負わせない、これは旧都を代表して己が負おうと、勇儀は宣言する。
 パルスィは何という浅慮だと呆れ、勝手に巻き込まれたのを理解して顔を覆う。
「さあさ、飲み食いするってのにいつまでも床に手を付けてたらばっちいよ。ヤマメ、これは多分あんたじゃなきゃ駄目だ。それと、いざとなった時、私が出る口実になっておくれ」
「どういう、意味です?」
「他人様のケツ持つのが嫌で地上に出さないのにお前は好き勝手か、なんて、ここらの界隈で後々になって陰口叩かれたかないからね」
「いえ、そうじゃなくって」
 魔理沙の前では決して言えなかったろう、勇儀自身が出るなどとは。
 妖怪の山で天魔に次ぐモノが倒れたのなら、地底からは彼女が出るのも分かる。だがそれこそ、地上の妖怪に全面対決の口実と、対決せざるを得ない理由を与えてしまう。
 その無理を押してもそうする事情とはなんなのだろうか。
「まだ分からない。けど、とんでもない事態が動き始めてる。それだけは分かるんだ」
 ヤマメと魔理沙、それに地上の妖怪達で事が片付くならそれでいいのだ。だがそれだけでは済まない予感がすると、古き猛き鬼は言った。
 彼女はヤマメの背を強く押し、頭を垂れる土蜘蛛達はさっさと立たせて盃を持たせる。
「行っといでよ。さあみんな、ヤマメの武運を祈って乾杯だ!」
 静かな空気はどこかへ飛んで行き、酒場にはいつもの喧噪が戻る。
 またここで、この通りの騒ぎを迎えるために。ヤマメは魔理沙の後を追って飛び立った。

 地上の光に向かって飛ぶ魔理沙。
 次にどこへ行くべきか、何をすべきか。あらゆる不安は捨て置いて、これからやるべきは何か、為せることだけを見据えて飛び続ける。協力を得られなかった無念より、ここで見出せた確かな方向へ向かって、毅然と。
 だがそれは、地の底からの呼び声によりあっさりと揺らいだ。
「魔理沙!」
 ヤマメが呼びかけると、魔理沙は速度を落としてそれを迎える。
 風穴の出口はすぐそこ。地上からの光に向かう姿は今、二人になっていた。
「おおっと、考え直してくれたのか?」
「うん。ただし私一人だけだから、どこまでの事が出来るかは分からない。でも可能な限りの事はするよ。それでこれからどこに?」
 考えるのは苦手だし、自分はあくまでも魔理沙を助ける立場。
 行く先は、既にそれを見据えている彼女に委ねる。
「とりあえず命蓮寺に向かう。あそこには人間が避難してるし、元々が妖怪寺だ。妖怪と人間で話し合いの場が持たれるから私もその間に立つ事になってる」
 人間と妖怪が膝を突き合わせる。それも魔法も方術も使えない人間と、それなりに力を持つ妖怪が。これまでならまずあり得ない光景だろう。
「お前の事だって私が無理に連れ出したようにするし、能力の有効性だって説明する。実際、とんでもない無理を通して貰ったんだしな」
 この大胆さこそが魔理沙なのだろう。
 話しているうちに地上に出で、進路は西に取られていた。
 博麗神社が後方に見える。その佇まいはいつも通りなのに、主の姿はそこには無い。それを意識してみると、地上との交流を再開してから何年も経っていないというのに、博麗の巫女の不在はヤマメにも寂しく思えた。
「見えてきたぜ。いつもは遠く感じるけど、空を飛べばあっという間だなぁ」
 避難民は門の外にも溢れ、あり合わせの天幕の隙間からは力無い人々の目が見上げている。あの目、昨日の今日のただ一昼夜の出来事ではあれど、先行きが全く見えないためか。
 遠く里を見てみれば、そちらには依然として濃密な瘴気が停滞していた。
 あの中に件の大蜘蛛が居るのか。果たして己にどれだけの事が為せるのか。
 ヤマメはそちらに意識を向けながら、魔理沙に続いて降下する。なるべく難民を刺激しないよう、ほとんど直接本堂に降り立った。
「こっちだ。ちょっと遅刻気味だったが、謝り倒すとするか」
 魔理沙は開け放たれた戸の脇にホウキを立て掛けると、さっそく立ち入る。既に、長屋の大家や問屋の旦那、大店の店主など、人里でも一定の発言権を持つ名士が並んでいる。
 その向かいには住職の白蓮と、別に避難先を提供する神子、それに――
(ああ、貴女も来てたんだ……)
 文の姿もあった。妖怪側はいずれも、事の始めの間もなくからを見たモノ達だ。
「遅れて申し訳ない、私なりに色々と考えて動いてたんだ。慧音もわざわざ呼び出してくれたのにすまなかった」
 帽子を取って深々と、勢いよく頭を下げる魔理沙に、慧音は静かに頭を下げて応じる。
「いや、私こそいきなり持ち掛けた話だったからな。お前にも事情があるだろうに来てくれてありがたい。それにしても土蜘蛛の黒谷ヤマメか、なるほど」
 ヤマメの存在に得心がいった風に頷くのは、寺子屋の師匠でもある半獣、上白沢慧音。彼女は妖怪側と人間側の間に座している。魔理沙が腰を下ろすのもその横だった。

「――と、一応先ほども申し上げたが、稗田家に関しては、当主が直々に来ては別宅の場所が知れる恐れもある。そのため個々は私が名代に立っている旨、承知願いたい」
 魔理沙と共に、慧音が改めて双方に対して頭を下げる。稗田家の当主、阿求が已む無くセーフハウスに身を隠すのを伝えるのと同時に、この場の音頭を取るという宣言でもあった。
 しかし双方とも、予定外のヤマメの登場に驚きを隠せないでいる。
 土蜘蛛、瘴気を操って病をもたらす妖怪。それは里の人間にも知られていたし、文の他の一同からすれば言わずもがな。事態の中核に在るかも知れない種族が現れたのだから。
 むしろ慧音が驚きを催さないのが、ヤマメには意外だった。しかしそれも先程「なるほど」と言った通り、魔理沙の意図を察したのだとすれば理解できた。
「まず避難民の統計を取るというお話ですが、住職殿と聖徳王殿、時間が限られた中でしたがそれぞれまとまりましたでしょうか? 人別帳と照らし合わせが出来ればよいのですが」
「それは大丈夫だ。こちらに並んでおられる方々と避難された皆様方のご協力ですんなりと終わった。君の方が人数が多いようだがどうかな?」
「こちらも統計だけは何とか終了したわ。慧音さん、人別帳との照合はまだ難しいですが、ひとまず現状はこちらです」
 白蓮と神子はそれぞれに、紐で綴じた紙束を差し出す。
 厚さは命蓮寺の方が倍以上あり、それはそのまま受け入れ人数の差を表している。これでも、閉鎖空間となる霊廟は既に満員以上だと、神子は手を引きながら言い添えた。
「合計でおよそ一千四百名、ですか」
 冒頭に記された数字だけを読み取って慧音が呟くと、米問屋の旦那がぼそりと口を開く。
「数だけを照らし合わせるなら、二・三百人があれに飲み込まれた訳ですな」
 普段なら、一人二人が居なくなっても騒動なのに、今は百人の差すら適当な“数字”と化している。彼が普段大きな数字を扱う者だからではない、むしろ商人なら細かな数字にも気を配る所が、それすらしえないほど麻痺しているのだ。
 文達はおよそ弾き出していた数字だったが、この場でこうして口に出されると、えもいわれぬ心持ちになった。
「避難者数の掌握は今後の生活のためにも重要です。もし他に頼る先があって去る方、あるいは新たに避難して来る方があったら、逐次更新して下さい」
 これは後で写しを頂こうと、慧音は臨時の人別帳を差し戻す。
「今後は稗田家を通して農家に可能な限りの援助を請います。私としては、これを持ち帰って避難生活の手助けをするための話しか出来ませんが――」
 誰かそれを除くための提案は無いかと、慧音は視線を文達の方に向ける。人間の側にはこれをしうる者は無いと、始めから分かっている。残念ながら。
 これに真っ先に答えたのは、文だった。
「御存じの方は御存じでしょう、私は妖怪の山の首脳部の名代として参りました。鴉天狗の射命丸文と申します」
 人間の中にも、僅かながら妖怪と交流を持つ者は居るし、ここに集った名士などは、直接の面識は無くとも何らかの形でその存在を把握していたりもする。しかし文が首脳部、つまり御八葉の名代として来たと言うのは、全くの嘘だった。
 文は己が比較的人間に知られていること、それに始めから人間の避難を支援した事による好印象を武器にして、ある企みを抱いている。
「率直に申し上げますが、妖怪の山は、かのモノの退治に動くのを厭っております。それというのも、まずあの瘴気が妖術を無力化してしまうこと。何よりも、人質兼兵隊を、奴が囲っていることにあります。妖怪が幻想郷の人間に手出しするのはご法度だからです」
 まずこのままでは遠距離からの戦闘が不可能であるため、卑妖化した人々を除かなければ大蜘蛛との対峙すら難しい。
「またあの瘴気は人間にとって極めて有害であり、かつ、人妖の身を我らのようなただの妖怪より、ずっとおぞましい姿に変える作用を持っていると考えられます」
 これらの言葉にも偽りは無い。
「つまり、あなた方にはこれ以上動く気は無く、我々には手の打ちようが無いと?」
「はい、このままあの大蜘蛛が瘴気ごと消えてくれるのを待つか、移動して瘴気の影響が失われるのを待つかしか。それがいつのことになるかは分かりませんが」
 しかし妖怪の山は今後、大蜘蛛に向けるべき矛先を地底に向けさせられる可能性が高い。文はそれを企図する何者かの機先を制するため、ここからとんでもない嘘を重ねる。
「先ほども申し上げたとおり妖怪の山は卑妖を人間と見なし、それを直接斃すのを控えております。ですが動く気が無いと言ったのはあくまで矢面での話。協力は惜しみません」
「人間の依頼で卑妖とやらを抑えに向かうのは駄目なのか?」
 言った慧音も、斃すとまでは口に出せないのだろう。彼女の問いに文は大仰に首を振る。
「ええ、私達が卑妖との戦いの矢面に立つ事で、妖怪同士の争いを招く恐れが高いので」
 慧音の案、そんな事はとっくに考えた。だが妖怪の山の外にも、駐屯吏の存在を知っている妖怪は居る。人間に協力の要請を強要させたとの疑いを吹っ掛けられれば、証明するのは難しい。あくまでも後方か、直接的なら後詰めに回らなければいけないのだ。
「ならば協力と言うのは?」
「まず、妖怪の山より『火仗』を貸与いたします」
 それは一体何だ、初めて聞いた物だと、人間達も慧音達も、白蓮達まで顔を見合わせて問い掛け合う。当然の予想できた光景だ。
 説明不足は文の演出。続いて場の混乱を治めようと、火仗についての子細を述べる。
「当方では儀礼・祭礼用に『火仗』と称する軍用銃を備えております。威力だけなら猟銃の方が勝る場合もあるでしょうが、これは戦に用いるのを前提として、強度や精度、取り回しの良い戦闘用の火器。つまり今回の様な事態には最適な兵器と言えます」
 人里にも猟師は居る。猟銃の扱いに慣れた者ならすぐ火仗の扱いにも慣れよう。
 そして、これはあくまでも祭礼用であり、何より天狗がこんな物を用いても重しにしかならないと文は殊更に強調し、一同はそれぞれに程度の違いはあれどひとまず納得する。
 まず大蜘蛛の周辺を囲む卑妖を斃すのが大前提。上空から襲撃が出来ればその必要も無いが、ただでさえ卑鳥の、今は卑妖化したであろう鞍馬衆の存在もある。むしろそれらは某かの方法で空中に引き寄せ、地上で卑妖を人間に、大蜘蛛を本隊に任せようという腹だ。
 これを、人間に瘴気の影響の及ばぬ遠距離から為させる方法が、猟銃や火仗による射撃。
 ただ卑妖を除いた後、何者が本隊となって、地上から大蜘蛛に肉薄するのか。ヒントは河童のガスマスクや白蓮の無呼吸闘法。そしてまたも白蓮と、善八郎の示した法力。
「そして、人間が卑妖を斃した後ならば、この時こそ天狗が前面に、大蜘蛛の前に進出するのも可能になります」
 装具さえ整えれば、あるいは高い通力を持つ者でも構わない。そして火仗を貸与した妖怪の山はその期に至った時にはもう、高みの見物など許されなくなっているだろう。
 僧正坊は敗れたが、残る御八葉ら権現格の大天狗のいずれかなら。また、正邪の手によって旧地獄が溢れるのを恐れた際に作成した兵器も、未だ密かに温存している。
 文は今、妖怪の山を戦に巻き込むために動いているのだ。旧地獄を始めとした他の勢力と争わせず、あくまでも妖怪の山だけを大蜘蛛にぶつけるため。
 それが幻想郷の被害を最小限にする道だと信じて。
(ああ、私もあなたみたいになってしまっている)
 古き時代に、ただの鴉から天狗に変じる切っ掛けを呉れた人物の末路を、文は思い出す。今まさに、己が“彼”の後を辿ろうとしているのも。
 これは大多数の人間と妖怪のための、極めて迂遠な自死だと文は信じている。この企みを通し、妖怪の山と人間を戦火に投じた後、自分は間違いなくそうなるのだ。
 しかし実は今、それはゆっくりと揺らいでいる。
 最も懸念し、最も頼みと出来たであろう存在が、すぐ側に居るためだ。
(なのにヤマメさん。なんで貴女が今、ここに来てしまったんだ……)
 始めから居てくれれば、己は何を懊悩することも無かっただろう。何も知らないうちに妖怪の山と旧地獄と、その他の勢力が、大蜘蛛を中心にこの箱庭での覇を争っていただろうに。
 それかもっと早く、シンプルに、あんなモノなど退治してくれたのかも知れない。
 彼女なら、土蜘蛛なら、瘴気に呑まれはすまい。あんな言霊には従うまい。鬼と並び立つ、まつろわぬ民たる『土蜘蛛』ならば。
 文のそんなエゴに満ちた苦悩など知らない慧音は、ただただ憤る。人間のために。
「人間同士で殺し合わせようと言うのか、君は!」
 激昂する慧音に、文は極めて冷たく問い返す。
「ならばこちらから伺います。あの、妖怪化現象に曝され、我らが卑妖と呼ぶモノ。あなたはあれを確かな人間と呼べるのですか?」
「それは……いや、君たちが卑妖と呼ぶモノでも、君たち自身が未だに彼らを人間だと判断するから手出しを迷っているのだと、そう言ってたろうが。その問いは矛盾を含むぞ」
 文は首を振り、その灰色の状態ゆえに手を出しあぐねているのを伝える。妖怪の山はその灰色の状態を武器に出来ず、動きを縛り付けられている側であるのを。それに――
「元に戻せる方法が今ここにあるのならいいでしょう。もはやそれすら叶わぬなら、せめて滅せられる事こそが救いとなり得るかも知れません。そもそも仏道で言う所の救済には、穢土(えど)からの、六道輪廻からの開放が含まれています。そして妖怪と見なすのであれば、我らは既に外道、六道の外に在ります故、滅せられればそのまま消滅、救済されるのです」
 文は言いながら白蓮を見る。怒りに満ちた視線が注がれているが、彼女は何も言わない。方便にもならぬ非道い詭弁に憤ってはいるが、この事態の解決に己が寄与できない限り文に任せるしかないとも理解しているためだ。
 手傷を負った白蓮と同じく、何故か言霊に抗えなかった神子も同じ。文の意図がどう動くのかを見定めるため黙っている。文の“欲”などはとうに聞こえていように。
「ちょっと待った」
 当然、彼女は手を挙げるだろうと文も予想していた。
「瘴気を除く必要があるのは私もこの目で見た。だから瘴気を操れる妖怪をここに無理矢理引っ張って来たんだ。それに文、お前らお得意の風で飛ばすってのは――」
 魔理沙の提案に、言わずもがなと文は首を振る。
 昨日は己らなど家禽と変わらぬと突き放したのに、彼女は“力”を携えてあっさりと戻って来た。なんという意志の強さだと文は感じ入ってすらいたが、その根底は変わらない。
「じゃあやっぱりヤマメの出番だな」
 人間同士を殺し合わせてたまるものか。彼女の真っ当な感情だろう。
 そうだ、それが出来るのなら何も問題は無い。だが白蓮や神子は、里の人々はどう考えるのか。家出娘の案に乗って、嫌われ者と言われる妖怪に任せるのか。それとも文の口車に乗って人間同士で殺し合うのか。
「私は、人間が戦うのに賛成するよ。地底の妖怪に必要以上の事をさせれば重大な事態を招く。その通りだろう? 天狗。それに人間は同族同士で戦ってきた。私も昇仙する前は、一軍を率い大王(おおきみ)に反抗する氏族を倒しもした。それにこれは、誇りを守ることにもなる」
 神子が静かに持論を紡ぐと、それに白蓮が反駁する。
「ヤマメさんに必要以上の業を背負わせる必要が無いのには同意します。しかし、何者にも生き死にを好き勝手する権利はありません。倒すべきは、かの大蜘蛛のみです」
 ただし白蓮は、自身も共闘しようと言う。それに力ある弟子も連れて。
 共に人里に説法に赴いていた白蓮の弟子、幽谷響子は結局戻らなかった。卑妖と化して、今も人里に居るかも知れない彼女を、白蓮は自身の手で救いたいと願っているのだ。
 これに甘えるべきか。もし魔理沙が思ったとおりの手段をヤマメが実行できたなら、文にはそれ以上何も言うべき事は無い。
「魔理沙さん、ヤマメさん。あなた方が意図するとおりにあの瘴気を除けると言うのなら、私は何も言いません。どうですか? 先だって試しにそれをやってみては」
 実際に試してみればいい、分かり易い話だ。当然、卑妖に手を出す訳にはいかないし、ヤマメ単独でも問題がある。魔理沙と一緒に向かう前提だ。
「待て! 既にどちらかしか選択肢が無いように君たちは言っているが、まだまだ考えられる事はあるはずだ。もっと慎重になったらどうだ!?」
 これにはしかし、人間の側から声が上がる。里一番の米問屋の旦那が、疲れ果てた顔で白髪頭を撫でながら言う。
「慧音先生。先生の言われることももっともだが、いきなりの出来事に皆不安に怯え、先行きも分からない様子だ。中には飢えずに済むと刹那的に安心している貧しい者も居るが、奴が居座ったままではすぐに食料も尽きてしまうでしょう」
「君は。まだ丸一日経っただけだろうに、何を弱気になってるんだ」
 ヤマメは目が瞑る。選択肢を絞ってしまった彼らに、上空から見た避難民の目を重ねていた。戦える者は、その意思を持つ者なら、刹那に腹を満たせば前に進めるだろう。
 彼らはしかしその気力をも萎えさせている。これでは戦えない。文の案を遂行するのは無理だ。
「されど一日なんですよ。私には分かります、あなたに教わった算術だって満足にこなしたし、長年この商売をやって来たから易く見積りは立てられます。早晩食料は尽きる」
「それはこれから稗田家を通して、里の外の農家にでも依頼して――」
「私らももう使いは走らせたんです! ですが、奴らは法外な額を吹っ掛けてきた。それに応じていたら、四日と持たないんですよ……」
 このままなら、食うためだけに人間が争うことになる。この命蓮寺に在する限りは白蓮と弟子達がそれをさせまいが、郊外の農家はそうもいくまい。
「……それも仕方が無いんじゃないかな。君達はこれまで、その百姓が丹精込めて育てた米などの作物を、どれだけ買い叩いたんだい? それに使いを走らせたきりで、自分で行く暇が無かったとも思えない様子だったが」
 目端をよく利かせていた慧音は責める。自分の胸に手を当てて見ろ、それは百姓の側も同じだ。あくまで互いのエゴと非を慧音は責め、巻き込まれる人々の身の上を思う。
「私は需要と供給を見て値を決めていただけです。それに、稗田家の備蓄は?」
「知ってるだろうが、残念ながらほとんど無い。何せ急だったからな。だが、だからと言って稗田家の名を以て願い出るのはまだしも、徴発するなどはしない。させられないぞ」
「でしたら、なるようにするしか……」
「それも妖怪の山に掛け合いましょう」
 文の言葉に、泣き出しそうだった米問屋の旦那は顔を上げる。
「妖怪の山にも備蓄食料があります。時間は掛かるでしょうが、認められればこれの供出も叶います。もう一ヶ所、米だけならばすぐ、相当量を提供してくれる当てがあります」
 彼らはその言葉に希望の色を取り戻す。
「じゃあ文さんはそのために飛んでよ」
「え?」
 呼ばれたことよりも、ヤマメに名を覚えられていたことに、文は一瞬だけ呆ける。
「平行して話を進めよう。私達は瘴気がどうにかできるかを試してみる。そっちは食料確保の先と、私が駄目だった時の火仗ってのの準備を進める。いいでしょ?」
 それならば、整えられるオプションを揃えられるだけ揃え、いずれにも余裕を持って進められよう。文が次にここを訪れる事が出来るかは別として。
「それは良い案ですね。私は承知しました」
 文はそう答えて慧音を見る。
「射命丸はそう言っているが、如何でしょうか?」
 神子はもちろん、可能な限り早く動きたかった白蓮も、同意して頷く。人里の代表達も、呼応するように首を縦に振った。
「決まったな。では魔理沙とヤマメ、君たちは人里で瘴気の操作を試してみてくれ。くれぐれも殺生はご法度だ。いいな。それと射命丸は食料と火仗の手配を頼む。場合によってはそれぞれ無駄骨になるかも知れないが、頼む」
「ええ、頼まれました! 少なくともお米の心配はさせませんから安心して下さい」
 文はここ一番の笑顔でそう答えるが、それは余りにも空虚な物だった。

      ∴

 文は妖怪の山へ戻ると、自宅からいくつかの私物を持ちだしてから職場へ向かう。心は極めて落ち着き、今なら何が起ころうとも動じない自信があった。
 既に日は暮れている。宿直(とのい)以外どれだけの者が残っているだろうかなどと考えつつ、上司の飯綱の執務室へ向かう。
 いつも夜半まで灯火の消えない執務室。当然のように見台を書類で埋めた彼がいた。
「射命丸、申し上げたき儀がござり、参上しました」
 こんな時分に何事かと、飯綱は鬱陶しそうに文に視線をくれる。
「おう、その場で話せ」
 距離は三間もあるが、彼が本気を出せば己なら痛みを感じる間も無く滅せられようか。文は既にそんな事すら考えていた。
「先ほど、人間が避難する命蓮寺へ出向き、妖怪の山にのみ為し得る懸案を、いくつか耳にして参りました」
「また勝手に……何か、申せ」
「まず一件は、人里より焼け出された避難民の食料です」
 人間同士の不和で食料の供給に支障が出ている事、避難生活が続けば諍いから本格的な抗争に発展するであろう恐れを、文は説明する。
「それを主計庁に提案しろ、と言う事か。さて豊前坊殿はどう言うかな。まあいい、この状況では当然出るべき話だな。だが可否の決が下されるまで時間がかかるぞ」
「当面、米だけなら当てがあります」
「守矢神社か?」
「然り」
 山の神社に生活するのは受肉した神様二柱に現人神が一柱。それも食べる量は常識的な三柱、と言うか三人。彼女らの元には米が多く奉納され、この通り神様達には日々にそれが供されているが、消費し切れていない。
 時には参拝者や、社の奉仕者への振る舞いにしたり、酒米でもないのに酒造りに用いるなどしているのだが、古古米までもが今も数十俵は蔵で唸っていると早苗がぼやいていた。
「それはお前の伝手でどうにかしろ」
 彼は、御用聞きよろしく文が人間の懸念を聞いてきただけと考えているし、食料の供出は妖怪の山に信仰を寄せさせるためなら安い出費だろうとも考えている。主計庁の判断はともかくとして、彼自身は前向きだろう。
「それで、他には?」
 さらりと次の要件を促す彼に、文もすんなりと重大事を切り出す。
「人間達に火仗の貸与を提案しました」
「提……どういう、意味だ?」
 彼の顔には既に青筋が浮かんでいる。文はそれに動じず話を続ける。
「再度申し上げます。妖怪の山の全権を騙り、人間の代表達に火仗の貸与を提案しました。これを以て人間に、大蜘蛛と対峙するに邪魔な卑妖を除かせ、それが為った後には、存分な験力を誇る権現が直々にお出ましになり吶喊(とっかん)すると、彼らに確約しました」
 見台を弾き飛ばし、散った書類束を舞わせながら、彼は一瞬で文の胸倉を掴みに掛かる。
「お前は! 己が何をしたのか分かっているのか!」
 例えようのない怒声が文の鼓膜を震わせる。
 彼の下で長く勤めた文でも耳にした覚えが無く、その憤怒の相も八ヶ岳のような険しさ。そして握りしめられた彼の右拳は、法力のためか錯覚でか、文の頭の倍にもなって見えた。
 この拳で殴られたなら、善八郎が菰雲の頭を飛ばしたように、易々と滅してくれよう。既に浮き世から離れつつある心の端で、文はそんな風にすら思った。
 彼にこれらの言葉を伝えた時点で、己の役目は終わったのだと。
「全て承知のうえ。これらを私の偽りであったと人間に伝え、約定を翻したならば、それは妖怪の山の無力を人間達に晒すに等しいと存じます。私という不埒者を放置したのも含めて。それに、いち天狗が命を賭してまでこんな詐話を弄するなど、誰が信じますか?」
「お前という奴はぁ!!」
 その拳が大きく後方に引かれる。いつそれが放たれるのかを文が待つ、その刹那だった。
「待った! 待たれよ飯綱殿! その大馬鹿者の身、ワシに預からせて下さらんか?!」
 聞き覚えのある、とても懐かしい声がそう叫ぶ。
 何故“彼”の時は誰も間に合わなかったのに、私には助けに来られる者が、来てくれる者がこんなにも居るのか。私には“彼”の後を辿ることすら許されないのか。
 喜びより、まだ終わらないのだという忍苦への道を、文は思った。
「いくらお主の言葉でも、それは聞けぬぞ!」
 声の主はどかどかと足音を鳴らし、小走りに近づきながら飯綱に言い募る。
「子細は知らぬが、おおかたこの大馬鹿者が先走ってとんでも無い事をしでかしたのだろう? 分かる、よおぉっく分かる。ワシも同じ様な目に遭わされた例しは片手では利かないからな。しかしこやつも一応、元々はワシの山の者だ。せめてワシがここに招かれたこの日に免じて、この場はその剛拳を納めてもらえまいか?」
 七尺を超えようかという上背に、それに見合って飯綱をも上回る堂々たる体?の赤ら顔の男が、微かな酒精の匂いをさせながら頼み込む。
「三尺坊(さんじゃくぼう)殿。斯様な粗忽者なぞ知らぬ存ぜぬとしてしまえばよろしいものを……」
 三尺とは名ばかりの大男は、かつて文の天狗としての出自である山を治めていた権現。
「いや、秋葉三尺坊大権現の預かりとなさるなら、ここは引きましょう」
 そう言って飯綱は、三尺坊の方へ文を突き放す。怒りの表情は嘘のように治まり、彼は書類を拾いながら見台の方へ戻って行った。
 浮き立っていた心が収まった文は、何故か彼に詫びようと手を伸ばしかけ、
「ほれ、行くぞ。ここでの仕事などもう無かろう」
 三尺坊に止められる。
 偶然通りかかったと思われた彼には行く先があるのか、文の前に立って確かに歩む。
 文にも何故ここに彼の姿が在るのかは想像も付くが、それよりも今は、その後にただ付き従うだけだった。

 いずこへ連れて行く気か。三尺坊は何も言わず、文には聞く気も起きない。ただその背が、いつも通りの困り果てた風な物なのに安心していた。
 ある時人間に救われ、その人間のために何か出来る存在になろうと、齢百を超えた鴉が訪れたのが、生国からよくその上空を飛んだ秋葉山。そして天狗の身にして欲しいと頼み込んだ権現が、この三尺坊だった。
 我ながら、始めからよく彼を困らせた、出来の悪い弟子だったのを覚えている。
 文はそうした懐かしい日々の思い出を、実に百五十年ぶりに見た背に写し出している。最後に会ったのは、善八郎達がこちらに訪れた、博麗大結界が完全に確立する前夜の話だ。
「まったく。臨時に御八葉とやらに任じられるに当たっての状況報告だなんだがようやく終わってみれば、まーたお前か。ワシが通りかからなかったらどうなっていたことか」
 大きく嘆息しているのに、不機嫌さよりも安心が勝っているような声音に、文も心底申し訳ない心持ちになる。
「ええ本当に、言葉も無く……」
「……らしくない程しょげとるな。もういい。事によっては懲戒処分、最悪クビで結局はワシが面倒を見る羽目になってたろうし。詳しいことはこれから聞かせてもらう」
 正式な処分となれば、極刑でも死刑は無い。天狗の抜け穴から放り出されるだけ。
「承知。して、これからどちらへ?」
「善八郎に呼ばれとる。秋葉衆の代表としてワシを迎えたいとな」
 今、最も会いたくない者かも知れない。しかしいざなわれる限り文に場を辞す権利は無い。
 文の静かな悩みの端に、突如けたたましい声が入り込む。
「あっ三尺坊様! 椛、早く早く! ってなんで文が一緒なの」
 書陵課の堂の側だから当然だという文句も言えずに見つめた姿は、すぐに通り過ぎる。
 西塔の、廊下は走るなと言う軽い掟を破って駆け寄り、その太い腕に抱きついたのははたてだった。後ろの曲がり角からは、彼女に呼ばれた椛が早足で追い付こうとしている。
「だから走っちゃ駄目ですって。あれ、文様。いつの間に戻ってたんですか」
「ああいえ――」
「何かとんでもない事をしでかしたらしい。これから善八郎と一緒に問い詰める所だ」
 容赦なく言う三尺坊だが悪意は無い。それにすぐに知れる事でもある。
「また何かやったんですか」
「おいおい、椛にまで言われるなど、お前こっちでどれだけ問題を起こしとるんだ……」
 三尺坊がまたも呆れるうちに、四人は善八郎の待つ客間に到着する。書陵課の属する宗務庁の区画の最も外側、駐屯吏が属する検非違寮警察職の区画に比較的近い位置だ。
 ちょうど部屋に入ろうとしたところ、向かいから複数の甲高い声が近寄る。はたてほどではないものの、これだけ女性が集まるというのは西塔でもあまり機会が無い。
 白狼、椛の同僚達らしく、椛の姿を認めると口々にその名を呼んで「悔しい」や「よろしくね」などと言ったり、激励の声を向けている。何があるのかは、彼女らの中心を見て分かった。
 白狼らしい白髪の女達の中で、一人だけ特異な黒髪の男の姿がある。
「椛、しばらくぶりだな」
 声を掛けた男の背丈は人間の成人男性と変わらず、天狗としてはやや小柄。見た目の歳は椛と同じぐらいで、青年と言うよりは少年とするべきだろう。
 切れ長の目は少し眠たげに開かれ、その目尻の下には紅で隈取りが入れられている。ただ口許は、本邦の狼を思わせる短吻を模した頬当に覆われ、明らかではない。
「これは誠にご無礼を。昨夏の大祓(おおはらえ)では良き風を有り難うございました。三尺坊様」
 彼がそう言いながら?当を解き、深々と頭を下げると、回りからは更に黄色い声が上がり、椛がそれを「しぃっ」とたしなめる。白狼ガールズのミーハー性は兎も角、鴉天狗の文から見ても美少年であるからしょうがない。すぐ側では、はたても声を上げている。
「なんのなんの、居候を頼ってくれる者などあまり居ないからな。ワシとしても毎度嬉しい話ですぞ、黒戌殿。しかし、御身がこちらにおわすと言う事は……」
「はい、桜坊様は武蔵御岳の奥宮へと帰山しておいでです」
 噂では、彼――黒戌真噛と入替わり、遁走したと見られている件。この場では言えまい。
「あちゃあ、入れ違いだったか」
 顔を手で覆い、大仰に言う三尺坊。今度はその脇から、はたてが語り掛ける。
「真噛様真噛様。この前は剣、ありがとうございました! お陰で助かったよ!」
 はたてが携えていた剣、あれは彼の持ち物だったのかと文は得心する。
「それは重畳。出立のすんでになったが、さるお方の助言だったし役に立って良かった」
「おお? 剣というとひょっとして、ワシの所に奉納されていた駿州嶋田鍛冶のか」
 少しやかましくなった話し声を聞き、室内からは善八郎が歩み出て来た。
「御本尊様! ようこそお越し下さいました。それに黒戌殿に椛。射命丸とはたて?」
 呼ばれたのは椛と真噛だけだったのか。はたても縁があるし、椛から話を聞いて押しかけたのだろう。椛が呼ばれたのは真噛絡みだと考えた方が自然だが。
 ともあれ彼に促され、五人揃って部屋に入ると、分を知る白狼達は静かに去って行く。
「ささどうぞ」
 善八郎はうやうやしく三尺坊を迎え入れ、上座を彼に勧めると、それに次ぐ席に真噛を迎え、自身は真噛の向かいに座する。椛を真噛の横に置いたほか、文達は適当に座る。
「改めて、此度の御本尊様のお出まし、秋葉衆を代表して謹んでお迎えいたします」
 彼から労うことでもなく、お目出度いことでは決してない。ただ彼ら秋葉山の衆としては、ずっとまみえるのを待ち望んでいた人物であった故の歓待だ。
 善八郎ら駐屯吏の基幹要員は、桜坊を除けば皆、遠州秋葉山の出の者である。
「歓迎は有り難いがな、本尊はやめてくれ。もうとっくに山は降ろされたのだからな」
 彼もまた御一新の折り、政策による信仰のパラダイムシフトにより遷座させられた一尊だった。本拠地だった秋葉山を下りた今は、東照大権現にも縁のある、同じく遠州の可睡齋(かすいさい)に御真体ごと奉安されている。彼がさっき居候と言ったのはそういう事だ。
 現状この通りなのに先のように呼んでは嫌味になる。善八郎はすぐにそれを汲んでいた。
「ご無礼を。ですが我ら一同、三尺坊様を慕い、敬う心には変わりなく。御八葉に迎えられたとあっては、より一層の尊崇の念を捧げる次第」
 相変わらず大げさだと苦笑しながら、三尺坊は実情を語る。
「まあ執行部や検非違寮など、僧正坊殿の権能は比良山次郎坊殿に引き継がれると聞いたからな、今のワシはただのお飾りだ。しっかし分かり難いな、この御山の組織とやらは」
 執行部は東塔と西塔に跨がって妖怪の山を統制する、律令時代で言えば内務省や式部省に相当する組織。検非違寮はその名の通りの検非違使庁に相当するのではなく、治部省や兵部省に当たり軍事警察一般を担当するなど、確かに外の世界に慣れた彼には分かり辛い。
「それよりも善八郎。こやつがまた“とんでもない事”をしでかしたらしいのだが」
「……もうこいつが何をやっても驚きません。一応聞いておこう射命丸、何をした?」
 隠す意味は無い。
 文が己の行いを一切合切打ち明けると、彼は呆れるだけ呆れてから言い放つ。
「この通りです。情けない話ですが、此奴のこういう点、何ら改められませんでした」
「そのようだな。しかしワシはもう少し、こう、はっちゃけた事をしでかしたかと」
 はたてや椛も、揃って文を見る目は冷ややかだが全てを見放したものとも違う。見知った仲の何ともならない愚かしさを、それでもどうにかならないかと考える目だ。
「あの……」
「とは言え、今後の御八葉の決心次第では三尺坊様に、ひいては我々秋葉衆に、相当な無理難題が押し付けられるものと予想されましょう」
「そうなるだろうな。ワシも可能な限りよい方向に運びたいが、お前も思い付く限りの準備を頼む。と言うことで射命丸」
「はっ」
「先ほど言った通りお前はワシが預かった身だ。頼むから、今後は言う事を聞いてくれ」
 少なくとも今は、これに抗う気持ちは起きない。普段は鬱陶しいほどの善八郎すら、今は三尺坊の慈悲に沿ってとても優しく感じたからだ。この信を裏切るなど考えられない。
「椛も、そんなにおっかない顔をするな。なるようにはするから落ち着け。許嫁の黒戌殿もすぐそこにおられるだろうが」
 どうやら彼女こそ、周囲にまで累が及ぶ行いに一番憤慨していたらしい。三尺坊が咎めたのは、そんな彼女が「ヲフー」と山犬のような激しい嘆息を漏らしていた事だった。
「む、昔の話です。父上と桜坊様が勝手に進めたご縁でしたし。それに同じ白狼と言っても、名目だけは権佐で哨戒団の長すら上回る権現格と木っ端天狗。全くの身分違いです」
 本当に古い時代の話。まだ椛が坂東で武者として勤め、真噛も先代の大口真神(おおくちのまかみ)の神格を引き継いだばかりの、二人が真に若かった頃の話。また椛が父と呼ぶ者は、育ての親の一人に当たる人間で既にこの世には亡いが、人間らしく婚礼をさせようと腐心していた。
 互いに若かったが故、また周辺に多くの事を抱えていたためにご破算とはなったが、二人とも今以て、まんざらでは無い感情を抱いている――というのは、はたての推察だ。
「まあ、それは、それとして。この場を借り、皆様方にお話ししたいことがあります」
 その真噛が、端正な顔を一層を引き締めて切り出す。同時に四周に視線を走らせ、その眼を以て壁に耳が無く障子に目が無いのを確認していた。
「皆様方。私もこちらに渡りしばらくの間、桜坊様に係る件で事情を聴取されておりました。やはり多くは遁走を疑っておいでですが、皆様方は如何にお考えでありましょう?」
 誰もが言葉に詰まる。一様に、信じたくない話であるが、状況が状況だけにそれが確かな事と思っていた。真噛を身代わりに差し出して逃げ出したものと。
「ワシが話を聞いて客観的に考えた限りでは、まあ逃げ出したと思えるな」
 代表した三尺坊の言葉を聞いた真噛は、片手で印を結び、何やら短く唱えてから答える。
「三尺坊様にすらそう思われているのを聞いて安心しました。遮蔽の術も長くは持ちませぬゆえ率直に申し上げます。此度の桜坊様の帰山、ある筋から掴んだ危機への対応を意図したものであります」
「危機とはあの大蜘蛛に絡んだ事か? それとも外で何かが起ころうとしているのか?」
「両方であります」
 当然のどよめきが僅か五人の間に湧き起こる。彼はいずこより何を掴んだのか。
 かの人物の情報収集能力には、かつて文達も助けられた。それが今になって発揮され、彼自身が動かざるを得ない事態とは。それも大結界の此岸と彼岸のいずれにも跨がって。
「桜坊様は既に、旧来より親交のある密教系各山や旧陰陽寮の別室組織、各宗派の総本山へ働きかけを始めております。併せて英国発祥の考古学遺物蒐集財団や、米国に由来する超常現象収容財団へも接触を。並(な)べて件の大蜘蛛が現世に渡った際の対応の為であると」
 あの都市伝説(オカルト)が外の世界に渡る。如何にして、何を企図して。
「もしかして、霊夢が囚われたのはそのため。そして奴は博麗大結界をも越えようと?」
 この中で最も幻想郷の理を知る文がそう言うと、一同はそちらに続きを求める。
「博麗の巫女は、博麗神社と共に大結界の要。それが損なわれた今、結界を破るのは常よりずっと易くなっているはず。今の事態に、現時点に於いても妖怪の賢者、八雲紫が動きを見せないのも、結界に甚大な損害が及んでいるためと思料します」
 あの時まであの大蜘蛛がさもないオカルトの姿を取っていたのは、霊夢をおびき寄せるためではなかったのか。
「しかし一体、外の世界に出て何をしようと」
「それはまだ確たる事も言えぬと。ただ自身へのそしりはどうでもいいから、私には騙されてこちらへ渡らさせた事にすればよい、とは仰っておりました」
「名誉などより大きく投資して今後の実を取るか。商売人気質も極まっておるなぁ」
 とはいえその名誉も、事を為せば倍になって挽回されよう。
「どうも、お前の先走りも結果オーライにするしかなさそうで、良いのか悪いのか……」
 根拠があろうと無かろうと、文にしても桜坊にしても、規律に反した動きは咎められて然るべきなのだが、運命か必然かそれらが為すべきであった事になりそうな流れが見えてきた。
 三尺坊の戒めに、文も決して予断を含めず、今は真摯に沙汰を待つ心を決めた。

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