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楽園の確率~Paradiseshift.第5章『黒谷返上』   黒谷返上 第3話

所属カテゴリー: 楽園の確率~Paradiseshift.第5章『黒谷返上』

公開日:2018年04月17日 / 最終更新日:2018年04月17日

黒谷返上 第3話
楽園の確率 ~ Paradise Shift. 第5章
黒谷返上 第3話



 山の上で人間が妖怪に入り混じっていた翌日、山の下にも似た光景が発現していた。
 妖怪の山の警戒網の僅かに外側、玄武の沢にほど近い河童淵に姿を現したのは、普通の人間の魔法使い、霧雨魔理沙。
「よお」
 魔理沙が淵に向かって呼びかけると、とぷんと水音が鳴り何かが沈む。山へ分け入る人間なら、この兆候に河童の存在を察知し、逃げ出す場面だが――
「よおってば、よお」
 今度は音がした方へ自慢の呪具である『ミニ八卦炉』を向ける。すると再び水音が鳴り、清流の端の淀みに勢いよく男の河童が頭を出した。
「待て待て、撃つな! 前触れも無く何しに来たんだよ一体!」
 河童は両手を挙げて制止を試みる。魔理沙も顔見知りと見て筒先を降ろした。
「河藤(かとう)か、ちょうど良かった。ちょっと暇でな、それに聞きたい事もあるから来てみた」
 暇を持て余した挙げ句に用件も言わずに撃ちにかかるなどと、どちらが襲われる側か分からない。
「にとりさんにか? なら大工房で作業中だぞ」
「別にお前でもいいんだが、てかお前は何してるんだ?」
「見張り。最近お前みたいな奴が多いって、おやっさんに言いつけられてな」
 おやっさんというのは、彼ら河童の長老衆の一人だろう。
 対応する暇などこちらに無い、通るならとっとと通れと彼は促す。見張りが警戒対象を通したら意味が無いだろうと魔理沙は首を傾げるが、自分が通れる分には文句は無い。
 妖怪の山に立ち入る人間など普通は生業がある者に限られるが、魔理沙はやや例外。半ば生業とも言えるし、物見遊山に立ち入ったりもする。
 また、これが妖怪の山に住まうモノ以外の妖怪なら彼らも積極的な排除を試みるだろうが、人間に対しては彼らも対応に難儀するようで、看過できる相手なら今の通り。
 魔理沙が看過してよい相手か、これも判断がつきかねるが。
「じゃあ勝手口から入らせてもらうぜ」
「あいよ。先に連絡しとくから、にとりさんの迎えを待ってから入れよ」
 慣れたやりとりを経て、魔理沙は河童の集う洞穴へと向かう。勿論徒歩で。
 異変の起きている最中ならいざ知らず。そうでない時に飛べばさすがに排除対象になる。この幻想の大地にあっても、普通の人間は空を飛ばないという常識が生きている――というのもあるが、魔力の消費よりコストが少ないとの合理的判断でもある。河藤という男の河童が示した場所まで、なだらかな林道を四半時も掛からない程度歩くだけだからだ。
 潤ったこの近辺の空気は、真冬の凍気の中でも凍てつかず、雪が積もるのを許さずにいる。二本足にはいよいよ有り難い。
 大きな岩がそこかしこに転がる、渓流に面した岩場に着いてみると、そこには既に、にとりの姿があった。ただし極めて不機嫌、客人を迎える顔ではない。
 魔理沙は客人でなく侵入者に近いのだから当然なのだが。
「突然なんだよ、聞きたい事って」
「まあそれはおいおい。折角こっちに来たんだから中を見せてくれよ」
 この先の隠された洞穴に、大工房なる河童の里の施設がある。
 技術者であれば、普段は個々人の工房に籠もり、学者であれば研究所に籠もる。しかし河童の里を挙げての事業があればこの大工房が開かれ、ギークの群れの河童達を、歳の長じた長老衆が強引にまとめ上げる事になっている。(一定の方向性に無理にでもまとめ上げなければ、いくら技術があろうと河童に事業を成し遂げさせるなど不可能だ)
 魔理沙はそれを気軽に見せてくれなどと言ってみたが――
「ダメだっての! 用件だけ済ませてとっとと帰れって!」
「なんだよ、やましい事でもあるのかよ。それに私の用件だって、そのやましいかも知れない事を尋ねに来たんだ」
 にとりは隠し立てよりも押し問答に耐えかね嘆息する。それは同時に分かったという、諦めの答え。加えて外での立ち話を避けようという意図も彼女にはあった。
「分かったよ。でも、そっち話は一応聞くけど、ここで何やってるかは他言無用だよ」
「おっ、話が早くて助かるぜ。でだ――」
 勝手知ったる勝手口から、魔理沙が先に立って歩み出す。
 妖怪のアジトにこうも気軽に踏み入ろうとする人間などは、今も昔もそうはいなかったろう。少なくともにとりには、魔理沙以外覚えが無い。
「――本題。お前らまた山でサバイバルゲームってのやってないか?」
「は? なんで」
 過去の話なら、にとりにも覚えがある。それは河童同士(山に生活基盤を移せば山童(やまわろ)という適当さだったが)の水争いから発展した、弾幕ごっこ未満の抗争の際の出来事。理由を見れば、ゲームとは言っていられない切実な話なのだが。
「里の猟師が山に入った時に銃声を聞いたんだとさ。前にそんな騒動あっただろ」
 誤射を避けるため、誰彼がいつ山に入ると、最低限の連絡が猟師相互にあるのだと言う。本来なら各人の猟場なり縄張みたいな物もあろうが、それよりも事故防止という考えはあるらしい。そんな中、誰も山に入っていないはずなのに銃声を聞いた猟師複数いたというのが、魔理沙の質問の理由。
「実包なんて使わないからね、河童は関係ないよ」
「大砲の弾は作ってたのに? それに河童“は”?」
 魔理沙が気付いた言葉尻の含みをにとりは誤魔化そうとするが、どうせすぐに知れるだろうと思い直す。
「あー……あたしらは使わないけどさ、天狗様が使ってんだよ。火仗って呼んで、銃を」
「それ初耳だぞ。それに天狗が鉄砲なんて使う意味があるのか?」
 魔理沙が想像する鉄砲とは、里の猟師が用いる水平連装の猟銃か、火縄銃やゲベール銃(フリントロック式、あるいはパーカッション式の滑腔銃)などの骨董品。にとりが思い浮かべるのはそれよりやや時代が下った程度の物になるが、魔理沙の、天狗が銃を使う事への疑問には納得する。
 天狗ほどの強力な妖術の使い手が、あえて制約も多く使い勝手も悪い銃など好んで用いるものか。使うとしてそもそも何に使うのか、と。
「ああ、狩りや戦闘に使うんじゃないみたいだよ。なんでも儀式用なんだって」
 礼砲や弔砲、何かの儀式を執り行う際の花火代わりの号砲など、空包射撃が主。実包も備えてはいるが、そちらは装薬や雷管を湿気らせるか腐らせてしまうほどに出番が無い。
 妖怪の山の儀式関係の単純化のためというのが使用の理由と、にとりは知ってる範囲で説明するが、ネイティブ幻想郷人の魔理沙にはピンとこない。
「へー、宗派がごちゃごちゃしてるから、武士や軍隊の様式を、かぁ」
「天狗様なんて元から僧兵みたいなもんだったし、割とそういうのに慣れてたらしいよ」
 特に室町時代末期など、陰に日なたに戦国大名の側で天狗が暗躍していたらしい。とは、にとりをしても聞いた話でしかない。実際、いわゆる忍者と同じく、天狗も様々な場所で戦の手助けをしていた。特に山岳における進軍は、天狗の協力が必須であったろう。
「そうそう、銃は使わないけど大砲の方。さっきも言ったけど黙っといてよ」
「へ?」
 ちょうど通路の終点に着き、朝日ほどの緩やかな光の中に歩み出しながらにとりは言う。
 洞穴を補強して広げた大工房。天井まで最も高い所で一〇メートルはある。その波打った天井からは、ハロゲン灯や水銀灯が等間隔で下がっている。今現在、電源は旧地獄の間欠泉地下センターで回されているタービンから引かれており、非常用の――河童由来の――地下水脈発電施設も残されているとのこと。
 その煌々した光源に近いキャットウォークが、勝手口からの出口となっていた。
 暗さに慣れていた魔理沙は少し目を細めながら下を向き、にとりの言葉の意味を理解。
「へえ、また面白い物を持ちだしてるなぁ。封印してたんじゃなかったのか、あいつは」
 魔理沙が見下ろす先には男女の天狗が入り混じって、何やら鉄塊を弄くり回している。大小多数の部品が毛布の上にずらりと並び、ドーリーの上にはしっかりと据えられた砲身らしき太い鉄棒。これが先ほど言っていた『大砲』の分解された姿なのはすぐに分かった。
 湿気に満ちている洞穴内、金属にはさぞかし毒だろうと思われるが、そこは河童の技術でなんとかしているらしい。
 そもそも、河童を始めとした水界のモノにとって金気、特に鉄は忌避の対象となるのだが、幻想郷の河童にはそれがあてはまらない。
 あえて水界のモノが火と鉄を用いる事、殊に河童がそれらを扱うというのは、古くから人を助けて来た多くの河童達の系譜の先――人間の盟友の証ともなるのだから。
「でもなんで今更こんなもん引っ張り出したんだ?」
「さあ、それはちょっと――」
 にとりが視線を大砲から逸らす、そちらには長老衆が揃って茶を啜る光景があるだけ。姿を求めた人物がいなかったのか、彼女は視線を更に他の方に走らせるが、
「よお嬢ちゃん、久しぶりだな」
「ひゅいっ!」
 にとりが小さく悲鳴を上げる横で、魔理沙は片手を上げ、声の主に軽い挨拶を返す。
「おやっさん、お久しぶり。最近山の中で鳴ってる銃声について尋ねに来ただけだったんだが、折角だからここまで押しかけてたんだ」
「なるほど」
 ツナギ姿にティアドロップ型のサングラスがよく似合う河童の長老、瀧が、隠れた目線をにとりへ向ける。彼女も視線を察してか、蛇に睨まれたガマの如く脂汗を流し始める。
「じゃあそっちの話はちゃんとコイツから聞いたな?」
「ああ、儀式用の鉄砲のだって言うのは聞いた。で――」
 魔理沙が眼下の大砲を指差した所で、にとりは激しく首を振る。
「ちょお待った魔理沙! ほらこっちも企業秘密とかそういうのあるから、ね? ね?」
 説得と言うより、それ以上は聞いてくれるなとの懇願。必死だ。
「ったく。てめぇがブン屋さんに勝手なこと言ってお叱り受けた話と混同してやがるな。別に大したことはねぇぜ? 嬢ちゃん。これは上の指示でやってんだ、けどそれ以上は詮索されても何も出て来ねぇ」
 にとりに聞こうが自分に聞こうが、興味を満たす情報は無いのだと彼は言う。
 魔理沙も今日は山中での銃声の調査に来ただけなので、手間を増やそうとまで考えない。
 彼もまだ作業があるのか、また二言三言と言葉を交わすと、いつの間にかまたキャットウォークの下に下りていた。
「ブン屋って文の事だろ。あいつ絡みで何かやらかしたのか?」
「関係ないだろ。それより質問されてばっかりはうんざりだ。そっちの要件が済んだんだったら、今度はこっちから聞きたかった事を聞いてやる」
 少々苛立っている風なにとり。これは意趣返しが来るかもと魔理沙は身構える。
「銃声の元を嗅ぎ回ってるとか暇だとかってのはアレだろ、異変解決ごっこ」
 にとりがしたり顔で人差し指を向けると、魔理沙は軽く嘆息。思っていたほどの意趣返しでなかったのに肩すかしを食らった感が強い。
「なんでそう思ったんだ?」
「妖怪の山からお達しがあったんだよ。人里のオカルトを退治するために霊夢が動くから、そっち関係のモノには一切手を出すな。命じられた者以外は人里に近付くな、って」
 にとりが言う『妖怪の山』とは、河童も含めた構成員全体を指す言葉でなく、あくまでも、鬼の居ない山を勝手する天狗のみを言っている。
 魔理沙の方はそういった事情を読み取りつつ、今度は感嘆の声を上げる。
「へえ、やっぱり天狗って大したもんだな。それ、昨日の今日の話だぜ?」
「そりゃ新聞大会開いたりしてるし、そもそも電話なんて無い時代からビュンビュン飛び回って情報を武器にしてたんだから。そのぐらいはすぐ嗅ぎ付けるだろうよ」
 元より天狗というモノは情報を糧とし、あるいは矛よりも鋭い武器とし、その身も情報により形成させてきた妖怪。目に見える限りの事なら、即座に知りうるだろうと補足する。
「正邪の行方も知らないし、月人の時には山の中の事件なのに動かなかったくせに?」
「あ、天邪鬼の方は知らないけど、月人の件はどうにかして把握してたみたいだよ。そっちは「妖怪は手を出すな」って御触れがあったし」
 この霊夢の対応に限っては、因果が逆なのを二人とも知らない。
 ただし天狗の情報の早さはにとりが言った通り。看過したか、手出ししたくても出来なかった例が天狗にはこれまでにも多々ある。
「妖怪は、ね。なら今回は早苗にもそんな話が行ってるのか?」
「知らないよ、それに今は私が質問する番だろ。魔理沙が暇な理由は霊夢が人里に行って異変解決してる最中だから。異変解決ごっこしてるのはあいつへの対抗心、違う?」
 意趣返しを通り越し、殆ど喧嘩を売っている風な言葉。周囲は苛立ちを亢進させるような喧しさにも溢れている。
 流石に怒るか。にとりは物理的に影の差した魔理沙の顔を覗き込む。
「ご明察。異変解決は巫女の仕事、所詮私は端役の魔法使いだ。だから意外だったんだよなぁ、早苗まで動かなかったの」
 平静な顔色で魔理沙は頷く。
 驚くほど素直に納得する彼女に、今度はにとりが肩すかしを食らう。
「なんだよ、随分落ち着いてるじゃん」
「あーん? 怒らせるために話をしてたのか。じゃあ……異変解決に呼ばれなくて悔しい! 脇役扱いされて腹が立つ! コンチクショウ! これで満足か?」
「なんかこっちの方が腹立ってきた……」
「分相応ってものがあるさ。私だってあの里で生まれた人間だ。家出してからは真っ当に顔も見せてないけど、肉親だって友達だって居る。ちゃんと解決してくれる奴が頼まなくても動いてくれるなら、それに越した事は無いさ」
 普段から飄々とした人物とは知っていたものの、ここまでとはにとりも思わなかった。殊勝と言えばそうなのだが、とても歳にそぐうとは言い難い。
 ただ、自分の身の上まで含めて語ったそれは本音なのだろう。全てが本意では無くとも。
 そんな達観した少女に、にとりもこれ以上の悪意を向ける気が失せた。そんな徒労より、今は仮にでも盟友と呼ぶ者を思いやってみる。
「そうだよね。生まれ故郷の話なら、無事に済むといいね」
「サンキュー。お前も、あれの整備を主体でやってるんだろ。無事に終わるといいな」
 お互い、気に障る話は忘れ、笑い合ってそれぞれの先行きがよくなるようにと祈念する。
 河童の里で迎えた昼下がり、幻想郷は未だ平和だった。

      ∴

 初動の鈍さはともかくとして、これまでひとたび博麗の巫女が動き出せば解決しない異変は無かった。オカルトの一つや二つ、否、これが人に害なす妖怪であったとしても、彼女が明確に退治の意思を持って出張ったとなれば解決する。
――それが妖怪の山が仕向けた話であっても、異変は異変だ――
 当然、人々もその期待と共に里に迎え入れ、宿の手配まで終わっている。これを苦々しく思う者など、手柄や食い扶持を奪われた武芸者ぐらいであろう。
 霊夢も贅沢が利くだけの食い扶持は欲しいが、手柄を以て神社への参拝者集めをするべきだと考えているため、あえて実費以上の報酬を受け取ろうとはしない。
 期待するのは人間だけではない。
 人里に紛れる力無い妖怪や、力を持ちながらも妖怪の山から干渉を控えるよう言いつけられた駐屯吏、そして文も、これより始まる霊夢の活躍を注視していた。

 日は傾き、彼女らの睨む空には青と赤が混じり合う。

 往来は人界の境界であり、それが交わる辻は異界との境界。更に黄昏は昼夜、ある種の幽顕の境界。(常世は常夜、即ち幽界にも重なり、顕界は人の世、この世との言もあるが、幽界は幽霊の世界では無いし、顕界が目に見える限りの現世だけを指すのでもない)
 さても、スキマ妖怪の出番が待たれそうなシチュエーションではあるものの、今ここに彼女のお出ましは期待されていない。
 現れるべきは、誰(た)そ彼(かれ)時の辻の怪人。
 これについて文も僅かながら独自に調べてみたが、子細は知れず。ただ平安の世の頃は陰陽の方術を以て避けられていたであろう、古き都市伝説(オカルト)とだけは分かった。
 ただ辻に影を落とすだけ。影から呼びかけ、あるいは答えるだけのモノ。夕闇に怯えた人が作り出した新たな影が、黄昏の辻に姿を取ったモノだった。
「本当にそんなモノが居ても、我々の敵になどならなそうなものですが」
 要する所、能力らしい能力は何も無い。
 物理的制圧(弾幕ごっこ)、論理的解決(反ミーム流布)、どちらをするにしても己一人でも充分と思えるほどの対象なのにと、里を一望する丘に立った文は大きく嘆息。
 これへの干渉を禁じた妖怪の山、御八葉の意思は理解している。
 まず、下手に動いては、駐屯吏ほか妖怪の山のモノが人里に屯するのが明らかになろう。これは先の評定が開かれた理由でもあり、同時に最大の懸念。
 また閑職とは言え、天狗ではある駐屯吏や文が、そんな取るに足らないモノを相手にして万が一にも後れを取った場合に、妖怪の山の面子が潰れるのも恐れているだろう。
 加えて先の評定、結局は早苗にもまとめて釘を刺す物になった。こちらは当初偶然だった早苗のお使いにかこつけ、手柄を上げようとする勢力を局限する意図も働いたと見える。
「ま、手間は少ない方がいいですけどね」
 そして今、これから自分が手柄を挙げたとしても、賞与があるでもない。逆に士分然とした妖怪の山の社会で、抜け駆けなど御法度。
 命令とあれば、あるいは先の天邪鬼追跡など何を置いても必要と認めれば、他の誰にも先だって飛び立つのだが。
 ただ、胸騒ぎがする。何の根拠も無い虫の知らせが。
「駄目ね。あの霊夢がまんまと乗って出て来たんだから、あとは記事にするだけなのに」
 頭を振って、腰に提げた革製の小さな鞄から『文花帖』を取り出す。
 相手の地味さを鑑みると、どれだけ現実から外れず誇張するかが悩みの種。いっそ霊夢が笑いのネタになるしくじりでもしないものかと、不謹慎な期待をしてみる。
 そう、笑い話になればいい。暗い記事は『文々。新聞』に不要、人死になど以ての外。
 この件は既に解決したものとして頭の中で紙面のレイアウトを組み、草稿を手元の文花帖にしたためる余裕も生まれていた。
「『博麗の巫女、経費水増し』なんて、数字に頓着する霊夢がする訳ないか。いや『勢い余って大惨事。貧乏巫女に損害賠償請求?!』。ああ見えて人里では結構慎重だからなぁ」
 起こりそうで、かつ面白そうな事態を妄想しながら筆を進めていた文の手元に、じわりと影が落ちる。誰が現れたのでもない、日が暮れて木々がその影を伸ばしているだけ。
 木々に囲まれたこの丘よりもゆっくりと暗くなってゆく人里、そろそろ刻限か。
 一部始終を己の目で見られないのは残念だが、その観察は駐屯吏の馴染みにこっそり頼み込んでいるし、せいぜい記事が映えるよう派手に暴れて欲しいものだと改めて期待する。
 その期待ゆえか、脈が早くなるのを自覚する。
 いや、これはやはり胸騒ぎだ。何かが起ころうとしている。
 まさかと、文は現場である辻を見つめる。山に沈む日の光がその何かに射し込んでいた。
 辻が闇より深い何かに覆われている。遠目からは煙った様子が見られるが、霧が出る兆候も無かったし、火の気なども無い。
 霧や煙にまつわる妖怪にも心当たりはある。それが件の怪人の正体だったのかと文は刹那だけ思い浮かべ、すぐさま自身に反駁する。そんなモノが相手であっても霊夢は反撃するであろうし、正体不明ゆえにそれが困難な状況に陥ったなら、現場にいる駐屯吏の誰かが緊急避難で命令違反に及んででも、風繰りの術を以て彼女をサポートするだろう。
 干渉を控えさせられたとは言っても、霊夢をはじめとする人間に害が及ぶ段に至ったなら、そこから先は駐屯吏本来の責務となる。
 否、衆人環視の中どこまで出来るのか。文は更に反駁を重ね、迷う。
 行くべきか。征こう。これまでも、事態はいつも矢庭に訪れた。
 取材などと言っている余裕すら無く、文は丘から伸びる影の先に躍り出た。

 擁壁の門をくぐった先の更に向こうには、ただ白いだけの、霧とも煙ともつかない何かが垂れこめる。遠目から見た以上に里は煙っていた。それがあまりに濃密であるため、雲がそのまま大地に降りてきたと思えるほど。
 一里も離れていない位置から風をも追い越して駆けつけたのに、それは辻に留まらず既に四方数十間に及び、まだ勢力を拡大している。
 中心は間違いなく霊夢がオカルト退治に赴いていた辻。干渉を控えよという指示以前に、博麗の巫女の保護も人間の保護も、文の本来業務ではない。そこまでの理屈を確認しながらも往来を疾駆する。
 里の人々の行動は想像よりも鈍かった。それも仕方ない。今時分は家々に炊煙が上がっている、外の様子など見ているはずも無いだろう。そのためすれ違うのは、始めから外にいた者か、外の様子が明らかな店舗などの店員か客ぐらいだ。
 それにしても、この異変を目の当たりにしているであろう野次馬達がこちらに逃げ延びる様子も見えないのが、文には気掛かりだった。それに霊夢も、普段なら人前でひょいひょいとは飛び回らないが、今は異変と言える異常事態。飛行での脱出も考えられるのに。
「いや、もしかして――」
 相手は影法師。光強ければ影もまた強くなるとは、妖を恐れる人間こそよく口にする。光を遮れば、影法師に似た辻の怪人の力が弱くなる道理もあろうか。
 霊夢がオカルトの正体を見極め、巫女らしく、対処に相応しい神をその身に降ろしたのかも知れない。覿面(てきめん)にこれだけの事を起こせる煙や霧の神などすぐに思い浮かばないが、それにまつわる神仏になら心当たりもある。
(三宝様か、でなければ旧正月も近いし、少し早いけど歳神様とか……?)
 否、そんな強力な神格を降ろし、あるいは顕現させるべき相手が思い浮かばない。ただの影法師の相手など、それら神仏には役不足にも程がある。しかし野次馬や、何より霊夢がなすすべ無く一同にやられてしまったというのも考えにくい。
 現場には駐屯吏の者も居る。ならば以心の術が通じるかと、文は術による交話を試みる。
《誰か、博麗の巫女のオカルト退治の現場に居ますか》
 現状は干渉を控えろとの指示も生きている。この場に居るのが妖怪の山に知れたら面倒に繋がるため、妖力を絞って呼びかけ。これに答える声は無いが、叫ぶわけにもいかない。
《誰か。博麗の巫女はどうなったのか、知ってる者はいませんか!?》
 歩みを止めて返信を待つ内に、拡散を続ける霧の壁が目前まで伸びて来た。
 これに飛び込むべきか否か逡巡する文は“声”を知覚する。耳からではない、期待していた以心の術による返信だった。
《まさか射命丸か? 里の中で何をしている》
 己を知る者。しかししばらくぶりに話す相手なのか、誰からの返答か分からない。
《博麗の巫女のオカルト退治が気になって西の丘から見おろしていたのですが、里での異常を察知したので立ち入りました。失礼ですがどなたですか?》
《村邑駐屯吏少允(しょうじょう)、天竜坊(てんりゅうぼう)善八郎だ! 野次馬か何か知らんが首を突っ込むな!》
 御山からこれへの干渉は控えろと言われただろう云々と、彼よりも先に承知している内容をくどくどと説かれるのを堪えてから、文は問いかける。
《委細承知と言うか、それは私も御上の御前に参上しての評定で、経緯も含めて承っております。それより今現在何が起こっているのですか!?》
《分からぬ。件のオカルトについては、事の次第を見極めるために始めから菰雲(こうん)らを遣っているが、そちらからの応答も無い》
 普段は大店の若旦那で通す善八郎。その正体は山伏天狗の中でも特に験力に優れ、大天狗と比肩するか、彼自身をそう呼んでも差し支えが無いほどの力量の持ち主。
 彼が挙げた菰雲も文と古くから見知った山伏天狗で、相当の験力を備えている。
 両者とも文とは違い、特定の相手以外に察知されずに以心の術を飛ばせるし、その疎通距離も桁違いに遠い。里の中に居る限りは、確実に交話可能なはず。
 そのはずの相手と話せないのが、事態がより深刻であるのを示していた。
《それより大旦那様――桜坊様のご指示で、我らは人里の避難誘導を始めている》
 迫り来る薄もやの壁を前に、文は後ずさりながら「何故」と呟く。
 いくら干渉を控えさせられていたとは言っても、なぜ霊夢の安否確認も、彼女と対抗していたであろうオカルトの正体を見極めもせずに逃げを打つのか。
 避難誘導は被害極限に有効であろうが、それよりも大元をどうにかするのが先決であろうと。
《如何に我らが火伏の術を心得ていようが、火の手が上がればまずは人の避難だ。事の正体が掴めぬなら逃がすのは当然だろう!》
 繋げたままの以心の術に乗って僅かに染み出た表象に対し、彼からは叱責が返される。これまでも事が起こるたびにそうしてきた、彼らの標準的な手順なのだ。妖怪の山での、本当の閑職に甘んじていた文が知らなかっただけで。
 暫くぶりの相手から受けた無遠慮の叱責を飲み込んでから、文は己の企図を伝える。
《承知しました。では私は避難誘導に協力しつつ現場へ向かいます》
 当初は確かに野次馬だったが、もはやそんな状況ではない。
 駐屯吏は正体を明かさず、人間の自警団と共に避難誘導を行っているだろう。ならば目に見える形での術の行使も不可。迂闊にも里に立ち入った文も同じ制限を抱えている。
《だから控えろと言っておるだろう!》
《しかし――》
 上空を、天狗達とは別の妖力や、それとはまた質の異なった霊力が通り過ぎるのを認識。同時に非常事態を伝える半鐘の音が鳴り始める。
 半鐘の音は今更と思えるほどのタイミング、しかし幻想郷としてはまだまだ異変と認められていないであろう。現状は白とも黒ともつかない、灰色の事態が進行中。それなのにひょいひょいと里の上空を飛び回るなど、天狗ではありえない。加えて対象は複数。
 目視で確認しようにも、それらは既に視程の先に消えていた。
《八郎様、今のは?》
《我らの手の者ではない》
 彼も同じモノを察知していた。何者かによる新たな企みか、はたまた幻想郷の慣習を知らない新入りか。妖怪の山に属する者ではありえないというのだけは共通した認識。
《やはり私が向かいます!》
《ぐ……やむを得ん、ここは臨時で私が命じる。行け、射命丸》
 わざわざ命じる必要があるのか。ある。
 オカルト対応制限の件はさておいて――里の守りを所掌とする駐屯吏の垣根の内に文は無断で立ち入ったが、彼らの統制を外れてまで動くのはご法度。また善八郎がこれを看過すれば彼の指揮不良、ひいては桜坊の責と見なされよう。
 またそのように命じるのは、自身の下に置く代わりに責任も持つと宣言したのと同じ。
《まず菰雲と合流し奴の指示に従え。もし奴らの身に何事かあったらば、里の人間ともども直ちに後送せよ》
 彼が返答を求める前に――
《孤雲殿達との合流を優先。然るのち、状況に応じて指示に従うか後送。承知!》
 一方的に復唱して返信し、交話を終了する。
 善八郎は以前から説教癖の強い人物であるため、文としてはただ言葉を交わす事すら辟易するし、彼が今の職に就いてからはそれがなお顕著であるからだ。
(いや、霊夢はどうする?)
 問おうとしてからまた止める。今度は以心の術で思考を漏らすようなヘマはしていない。彼ならば、霊夢の身についても漏れなく考えているであろう。菰雲の指示に従えとは、現場の状況を最も知るであろう者に判断を委託する意図があるのだろう。
 これ以上彼と問答したくない文は、今度こそ意を決してもやの中に駆け込む。
 もはや辺りは火事場と大差ない。これは避難誘導第一にした彼らの判断も正しかったかと思いを巡らせたところで、ひとつ大きく息をする。
「むぐっ?!」
 吸気に起こる不意の異常。
 吸い込んでまず覚えた感覚は痛み、あるいは腐臭。霧のようにまとわりついていた感触も、今は肌にひりつかせる感覚に変わっていた。気付けば目も痛み出したように感じる。
 原因はこの煙、否、瘴気と言うべきか。これはたまらない。
 文は辺りを見回してから妖力でこれを斥(しりぞ)けようと試み、はたと気付く。
 人間の姿が全く無い。
 妖怪の文ですら顕著な身体的不調を被るほどの瘴気。これに曝された人間が逃げ惑わないはずがない。戸を閉めればやり過ごせる性質の物であっても、一切の行動を起こさないなど考えづらい。それに今は半鐘が鳴っている。これを火事の煙とでも認識すれば、焼け出されるのを待つ者などいるものか。
 いずれにせよ人の姿が無いのなら、遠慮せずに吹き飛ばす。
「オーム インダラヤ」
 真言(マントラ)により風天の助力を請い願い、己の妖力に上乗せ。辺り一面の瘴気を巻き込みつつ上空への打ち上げを企図し、取り出した羽団扇を振るう。スペル宣言無しの妖術行使。
 天狗ほどの妖力の持ち主には、スペル宣言は却って枷となる。

『天孫降臨の道しるべ』

 しかし期待した現象は一切そこに現れなかった。
 風天の助けはおろか、妖力を込めて振るだけで天狗風吹き荒らす羽団扇が、今はそよ風すらも靡(なび)かせずに手元の瘴気と大気をかき混ぜるだけ。
「何が起こっている……」
 文は動揺しながらもその場に留まらず歩みを進め、羽団扇を腰に提げ直し思考も進める。
 当初から現場に居た菰雲も、他の駐屯吏にも増して風繰りの術に長けた者。この瘴気に対して何の対応もしないなどあり得ない。今のように霊力妖力の類いが封じられているのなら、彼や霊夢は何も出来ず、他の里の人間ともども何かあったと判断するのが妥当。
 口許を押さえ、これ以上進むのは危ういかとも考えつつ、以心の術を飛ばそうと試みる。
《八郎様、どうやらこれは瘴気の模様です。それに妖術も使えません》
 予想した通り彼からの返答は無い。妖術が阻害されるなら当然かと、文は舌打ちする。
 瘴気の密度は拡散に伴ってややまばらとなっているものの、身体に与える影響まで著しく減じたとは感じない。既に受けたダメージで、触覚も嗅覚もまともに働いていないのか。幸いにも視覚は正常、かつ視程も僅かに伸びている。
 その瘴気の先で、文はようやく動く物を認める。人影だ。
「もし、そこの方。大丈夫ですか!?」
 この呼びかけに人影は反応。やおらこちらを向く姿を見て、文は「しまった」と小さく発する。なぜ考えが及ばなかったのか、これが件のオカルトその物かも知れないのに。
 正面だけでなく目に見える限りの全てに注意を向け、影の正体を見極めようと身構える。
 現れたのは半ば期待した者であり、半ば恐れていたモノだった。
 瘴気の向こうから姿を見せたのは、人型らしき姿の他は定まった形骸を持たない、しかし明らかに人間や天狗以外の何か。
 並の人間と比べてずっと大きい。天狗で例えれば、平均的な大天狗にも見える体軀。
 辛うじて手足に頭と五体を為しているが、その手足はしかしいびつであり、肌はタールに浸した樹皮のよう。特に顔面などは凶悪な福笑いとでも言うべき酷い崩れ方をしている。黄色い目や鼻は縦横出鱈目で左右非対称も行き過ぎ、顎は噛み合ってすらいない。
「これが、黄昏時の怪人(オカルト)?!」
 妖怪の文が嫌悪感を催すほどのおぞましさ。
 一口に妖怪とは言っても、普通は何かに依って整えられた姿形をしているもの。それがこのオカルトには当てはまらない。
 あえて言うなら『卑妖(ひよう)』とでも称すべきモノ。
 友好的か否かを問うまでも無く、真っ当な思考を持っているかすらも怪しいそれは、当然の流れとして文に躍りかかる。
 瞬時に二間飛び退き、それを観察する。オカルトへの干渉を控えよとの命令をどこまで履行すべきか。この期に及んでも、文には指示を守ろうと考える余裕があった。
 文のような閑職の鴉天狗でも、真っ向から立ち会えばそこらの妖怪には負けない。術が封じられた、こんな不均衡な条件であっても。
 そう、恐るるに足らず。無力化を試みようと肉薄して、気付く。
(あれは、なんだ……!)
 卑妖の左腕と言うべき部位に、被服と見える花色の布が巻き付いている。驚きの端で冷静なままの文の思考は、更なる驚愕を自身に誘い込む。
 布は巻き付いているのではない。それは袖の作りをして、内側から引き裂かれている。
 文はそれらの意味を一同に理解した。
 その身を総毛立たせる驚愕は、虚脱感に取って代わる。天狗としての始めから今に至る全てが失われたかの様に。
 人が妖怪に変じるという禁忌。
 それは博麗の巫女と、幻想郷を形作った賢者以外には秘された、神々と妖怪の箱庭の確固たる掟。幻想郷におけるこれは、蓄妖場たる幻想郷に粗悪な妖怪が生まれるのを疎む者による、品種改良のための施策だったろう。
 しかし文にとって、そんな物はどうでもよかった。
 神代からのその理(ことわり)は、今や常識と幻想の狭間に落ち込み、あるいは境界の界面に貼り付き、彼方からも此方からも既に失われているはずだった。これも“ある時”を堺にして。
 なぜそれが、ここに有るのだ。己の、あの時からの想いはなんだったのだ。
 冷静だった文の思考はそのまま温度を下げて凍り付き、卑妖はその動揺に一切かかずらわず突進。倒木の如き腕が文に迫り、その華奢な身体を薙ぎ払おうとする。
「オーム マユラ キランティ ソヴァハ!」
 すんでまで迫った腕が慣性と重力にのみ従って飛び、落ちる。卑妖は姿の透けた鳳(おおとり)に飲み込まれ、飲み込んだ鳳も瘴気の中にかき消えて行った。
 今唱えられた真言は、災厄を喰らい、聞こし召す明王への請願。鳳は請い願われた法力の顕現。
この請願を以てしたただの発破なら文にも起こせるが、ここまでの法力を示せる者など、天狗なら権現格かそれに匹敵する者に限られる。
「うぬ、この程度で尽きさせるとは未熟。それより射命丸! 何をボサッとしている!」
 文は卑妖の末路にも呆けたまま、ゆっくりと、両手で印を結んだままの術者の方を向く。
「ああ、八郎様……」
 文の様子は、呼ばれた彼の方が動揺するほど酷かった。その身には傷一つ無いのに、何もかもが蹂躙され尽くした、惨劇の後のような有様だった。
「くっ。何があったのか述べよ、菰雲はどうした!」
「まだ、お会いしてません。それより、ただ今八郎様が滅したのは、人間でした……」
 文の発言は傍から見れば支離滅裂。しかし意外にも彼は、その言葉をすぐに理解した。無残にも残された卑妖の腕は、それだけで文の言葉を証明している。
 妖怪の身は魂を主として肉体を従とする。人間の肉体が魂を駆動できなくなれば死を迎えて肉を朽ちさせるのに対して、妖怪の魂が形骸と大きく切り離されれば、この世に残す物も無く消え失せる。人間は亡骸を残すが、妖怪がそれを晒さないのはこの理屈に依る。
 故に彼は、遺された異形の腕を見て、その持ち主が人間であるとの文の言葉を信じた。
「あれが、人間が変じた姿か。なにゆえ」
 彼はギリと歯を鳴らす。人里を守る役目を負う駐屯吏が、あろう事か――変容したとは言え――人間を滅した。その大事に歯嚙みしたのだと文は思った。
「分かりません」
「ならば、オカルトの大元は!?」
 それも分からぬと文が言い出す前に、彼は未だに濃密な瘴気の駆け出す。
「待っ――」
 いつまでも呆けては居られない。文も誇る健脚を発揮して続く。
 辺りを見回してみれば屋根に、戸の奥の明かりの下に、歪んだ人影が見える。それら全てが何者かの働きにより変成させられた卑妖と察し、目を逸らす。
「八郎様!」
「足手まといは要らぬ。桜坊様の指揮下に入って避難誘導をお助けしろ!」
 言われても、そうする気は起きない。
「いえ、今は事態への対処を優先いたしたく」
「ならば呆けるな。あの卑妖が確かに人間の変じた姿ならば、容易く滅する訳にもいかぬ。可能な限り戦闘を避けつつ博麗の巫女らの元へ向かうぞ!」
 博麗の巫女の名を聞き、文の心は更に冷える。この瘴気に曝された人間が並べて卑妖に変容したなら、その只中にいた霊夢の身はどうなったのか。
 いや、日頃はのんべんだらりとした少女であっても、彼女は博麗の巫女。彼女には竜神の、幻想郷の加護がある。
「承知!」
 文は霊夢の無事を信じ、いち早くそれを確認しようと己を奮い立たせる。瘴気の只中に在る今は、踏み留まっている場合でも無い。周囲からは卑妖が迫る。
 天狗は飛ばずとも疾(はや)い。それらの追っ手はすぐさま振り切って、瘴気の中枢へ向けて駆ける。二町の距離は十も数えぬうちに後ろになっていた。
 卑妖の姿はまだあるが、それらも今は遠巻きに見える影だけ。
「そろそろだ、備えろ」
「はい!」
 歩度を落として臨戦態勢へ移行。とは言っても二人とも得物らしい物は持っていない。術に用いるべき羽団扇が効力を発揮しなかったため、必然的にスペルの行使も不能。身一つの通力法力が頼みの綱。
 交わる往来からぞろぞろと歩み出る卑妖を背に、二人は件の辻へ到着する。
 瘴気の壁の先に、二人は行く手を塞ぐ影を認める。
「射命丸止まれ。何者か!」
 善八郎は文を制止して一歩前に出ると、得物の代わりに右手の人差し指と中指で利剣(りけん)の印を形作りながら誰何(すいか)の声をぶつける。
 背の低い、何かの塊のような影。かまどが二つ、辻に並べられているようだ。
 新たな卑妖だろうか。二人は慎重に歩み寄り、それらを視程の内側に迎える。。
「仙道の聖徳王?」
 文達に背を向けて座しているが、装束を見る限りそれは豊聡耳神子。その左手に、目立つ烏帽子の尸解仙、物部布都の姿も有るとなれば間違いない。
 布都はその頭を露頂させる事無く、烏帽子を前方へ、ほぼ水平に倒している。神子はそれよりもやや体を起こし、その身を震えさせていた。
 二人とも、何者かに対して臣下の礼を取っている様に見える。
「神子さん。こんな所で何をしてるんですか!?」
 布都は文字通りに額(ぬか)ずいたままで、その表情を窺い知る事は出来ない。神子の顔には脂汗が流れ、何かに抗っている様子が見て取れた。
「天狗、か。これ以上、近付くな……」
 腹の底から辛うじて振り絞った声に反応し、文と善八郎はすぐに足を止めた。
 善八郎は可能な限り己の正体を知られまいと、神子への問いかけを文に任せる。
「何があったんですか!」
「妖、大蜘蛛が、言霊を……」
 大蜘蛛、それがオカルトの本体だと言うのか。それもここまで覿面に力を発揮する言霊を用いるなど、考えられるのか。
 文と善八郎が四周を警戒しつつ思惟を浮かべる足下で、布都も声を絞り出す。
「里の人々は、どうなっておる?」
 絞り出した呼気の代わりに瘴気を強く吸い込み、彼女は激しくむせる。
 彼女達は里の異変をいち早く察知してここに訪れ、返り討ちに遭ったのか。霊夢が動くとなれば、各勢力が注目するのも当然と言えるが。
 それより、当然注意を向けているはずの、妖怪の山からの動きはどうしたのか。文はそちらのリアクションが滞っているのに、今になって思い至る。霊夢をけしかけた張本人達は、白狼に見せるか己の通力により、この事態の起こる前から注視していたであろうに。
「分かりません。それよりここは危険です、一刻も早く立ち去りましょう」
 善八郎もそれに頷き、神子に肩を貸そうとする。
「寄るな!」
 力を振り絞っての制止の声。彼女の判断は正しかった。
「うぬっ!?」
 善八郎は膝を着きかけてから踏み留まり、利剣の印を正面に向けると、先ほどと同じく蛇蝎(だかつ)を喰らう走禽の名を持つ明王の真言を唱える。
 しかし姿を見せるべき鳳は顕現せず、自身が飛び退くので精一杯。
「この瘴気、方術を無力化しているのか」
 妖怪の山が動かないのも、瘴気によって状況の掌握が阻まれているからか。善八郎の通力を以てしてもこの程度という体たらくを目の当たりにしては、それが妥当と思える。
「君も、天狗か。ならば尚、離れた方が、いい」
 殊更に天狗ならと言った理由は分からないが、ここは忠告に従うべきなのは間違いない。
 周囲からは、倒すのに迷う卑妖が包囲を狭めつつあり、今し方彼に加えられた何者かの方術もある。
「せめて貴女方は救おう。射命丸、法力を以て弾いて退くぞ」
 彼女らならそれぐらいは耐えられようが、中々な無茶を思い付くものだと文も驚く。
「駄目だ、遅い……」
 苦悶の表情のまま、神子は顔を起こす。首はへし折れかねないほど湾曲している。言霊と言うだけでは足りない力が彼女に働いているのが見て取れた。
 それより何が遅いと言うのか。そんな状態で伝えたいほど――

《かしずけ》

 以心の術と同じ、心に直に響く声。これが言霊かと気付いた時には既に遅かった。
 文は、その“言葉”に従って膝を着いて両手を地に張り付け、頭を下げる。
 辛うじて視線を上げてみれば、そこには巨大な影が立ちはだかっている。周囲の卑妖も、それに対しておよそ額ずく様子を見せている。
(これが、黄昏時の辻の怪人?)
 象ほどの巨大さを持つ何者かが、四対の目を光らせている。正しく巨大な蜘蛛。神子が言ったとおりのその姿は、卑妖と比べても人の姿から遠く、ずっと大きい。
 これが当初、人の形を取っていたのか。
「あは、たそ」
 その疑問に応じてか、大蜘蛛は言葉らしき音を放つ。
 しかしこれが言葉であるなら、どんな意味を持つのか。大蜘蛛に答える事無く、文はただ頭を垂れ続ける。
 身じろぎすら出来ない。神子や善八郎はこれを凌いだのか。
 その善八郎が、後方で苦しげな叫びを上げる。
「菰雲! 斯様なモノに遅れを取るとは!」
 何が起こっているのか。文は渾身の力を込めて首をもたげる。
 彼は言霊の効力の外にいたのか、戦闘態勢のまま健在。その彼の目の前に、他の卑妖よりも一際不気味な姿のそれが立ち塞がっている。体のあちこちにはまた、人の纏っていた物と思しき衣が、内側から爆ぜたように張り付いて。
 善八郎が呼んだ名、山伏天狗の菰雲が変じた姿。この大蜘蛛は人間だけでなく、妖怪すらも卑妖にすげ替えてしまったのだ。
 それより、彼は文にとっても同胞と呼べる者だった。深山と下界に離れようとも、かつては他愛も無い言葉を交わせたほどの。
 文が耐えきれないほどの心の疲弊に苛まれる側で、神子は言霊に抗い続け、善八郎は部下でもある同胞に通力の矛先を向けている。
 大蜘蛛の姿はすぐそこまで迫っている。
「射命丸! そちらは己でどうにかしろ!」
 裂帛の気合で発破を飛ばす彼に答える術も気力も無い。文の心は既に折れかけていた。

(私がこれまでしてきた事はなんだったんだ……)
 かつてはそういうものを、理を祓うために、全ての護法を敵に回す戦いすらした。
 それが幻想郷でも最も古い天狗になった理由だし、彼ら多くの同胞と袂を分かったのもそれ故。
 およそ八百年。椛や、はたても後を追って来てくれたが、彼女らとも妖怪の山という組織が出来上がると疎遠となり、心の中ではほとんど一人で過ごしたようなもの。
 覚悟はしていた。それでも数百年も舐め続けた辛酸と終わらない冷遇は、妖怪の山で何かを為そうという心すらも剥ぎ取っていった。
 いや、かつてのあの時に己は生まれた理由を見つけ、その役目を終えられたのだと信じた。だからこそ今、これまでの全てが無意味だったと嘆いているのだ。
 人の形骸をすげ替える理は幻想にも至らず、彼方からも此方からも永劫消え去ったはずだったのに。
「何をしている、射命丸。怨敵を前に悠々と止まっている場合か?」
 大蜘蛛が迫る視界を、法衣姿の女が塞ぐ。懐かしい声が後ろ姿を向け、問いかけていた。
「皆鶴――

「何をしているんです! 射命丸さん!」
 法衣姿とは異なるが、まぼろしの中の懐かしい姿に変わって、確かに僧と言うべき人物が背を向けて立っていた。
 菰雲と相対する善八郎でも、額ずき続ける霊廟の二人でもない、新たな勢力。
 だが確かに、大敵に立ち向かおうとする味方だった。
「白蓮、さん?」
 妖怪寺の魔住職、聖白蓮。彼女は体内に満ちさせた魔力を両の拳に凝集させ、その拳を中段正面に構えていた。
 左前にした半身のスタンスはそのまま、瞬時に距離を詰め――
「シッ!」
 大蜘蛛の頭部へ、縦拳を真っ向から叩き込む。
 文を呼んだほかは一切の呼吸を行っていない。無呼吸により、生命の根源的駆動を数十秒間だけ最大限に引き揚げる闘法。
 望んで妖と同様の身を成した彼女は、この闘法を以て肉体の機能を更に倍加させていた。
 加えて彼女が得意とする、肉体強化の魔法が働いている。身の内で働き続ける魔力は瘴気にかき消されず、生物の限界を遙かに超えて稼動させていた。
 放たれた突きは、その速度と鋭さを見れば鬼すら貫けよう。もし鋼の如く強固なら、彼方まで弾き飛ばせよう。
 しかし大蜘蛛は、そのいずれにもならなかった。
 白蓮は打撃の効果を確認せず、叩き込んだ左拳を引くと同時に、前に出ていた左足ごと体勢を左右入れ替えて大蜘蛛の左側に回り込む。
 天狗にも勝る初撃の素早さには対応しなかった大蜘蛛も、僅かに速度の落としたその動きを追い、左の第一脚を振り下ろした。
 その爪先は白蓮の頭をかすめたが、彼女は少しも怯まず右拳のみで至近から横打ちの連撃を打ち込んで、また距離を取る。
「戦えないのなら神子さんと一緒に逃げなさい。ここは私が凌ぎます!」
 凌ぐ。退けるなどとは言わないのか。
 彼女は殺生を控えるなどと言った意味では無い。白蓮には分かっているのだ、これは己らに倒す事叶わぬ大敵であると。
 立ち上がるべきなのに、それも出来ない。文はただ忸怩たる想いを抱え、せめて白蓮に言われたとおりここから退こうと足掻く。だが体は全く言う事を聞かない。布都も同じようになっているし、神子も身を起こすので精一杯。どうにもしようがないまま。
 白蓮が凌ぐ間にこの状況を打開できる者は――
「本当になにやってんだよブン屋!」
 瘴気を防ぐためか、長吻の犬を想起させる面体を顔に張り付けた魔理沙が覗き込み、垂れ目に見える眼ガラスの奥から、気遣う眼差しを向けている。彼女と分かったのは声もだが、その服装がよく見かける冬服のままだったからだ。
 この濃密な瘴気の中で肌を曝したままなのは迂闊にも無謀にも余りある。しかし彼女は、人間の姿と認識を保ったまま。
 ならば人間や菰雲を卑妖に変じさせたのは、彼らが体内に取り込んだ瘴気が原因か。それならば自身や善八郎、霊廟の二人がそうなっていない理由が分からない。
 いや、それらの考察は後回し。今は魔理沙の導きに従って逃げ延びるのが最優先。
「お前らもだ。くそっ、解呪も出来ないんじゃ……荒っぽいが勘弁してくれ」
 言うと彼女は、布都と神子を、手にしたホウキでゴミでも払うかのように後方へ飛ばす。
 彼女も白蓮ほどではないが身体強化の魔法を使用できる。(そうでなければ日常的に妖怪と殴り合うなど不可能だ)
 白蓮や魔理沙の様子から、外部への発勁(はっけい)は不可能でも、内勁は働くらしい。それには文のみならず、善八郎も気付いた。
「オン キリキリ バサラ ウン ハッタ」
 彼は、我が身祓い清めよと請願して飛び上がると、妖力を最大限に高めて巨大な卑妖――菰雲の頭を一撃で殴り飛ばす。
 人間が変じた卑妖とは異なり、その身は塵となって崩れ落ちて行く。僅かに張り付いていた衣も、その魂を為す一部として同時に消えゆくが、善八郎はそれを千切り取ってから背を向ける。
 部下のケジメを付けるのと同時に、形見を手にしたのだろう。
「ブン屋、お前もだ。白蓮!」
 魔理沙は文もホウキで払い飛ばすと、白蓮の方へ向き直る。叫び声もくぐもった状態。どれだけ聞こえただろうか。
 無呼吸での格闘もそろそろ限界のはず。魔理沙の叫びは退こうとの意思を伝えていた。
 白蓮の、あれだけの法力と身体強化魔法を以てすれば、ただ図体が大きいだけの妖怪など的が大きくなった程度でしかない。なのに――
「ああ……」
 普段なら体格差をものともしない白蓮が、膝を着いている。言霊に囚われたのかと思われた次にはまた瞬時に加速して大蜘蛛の頭上に現れ、再加速で全身を矢弾と化した下突きを巨大な腹に打ち下ろした。百貫の鉄槌よりも重々しいそれすら、有効打となり得ない。
 一進一退。ただ地力はあちらが上か、このまま打ち合ってもジリ貧。
 その限界よりも先に、頭の傷から流れ出た血に目を塞がれ、彼女は足を止めた。
 大蜘蛛も確実に打撃を与えようと意図したのか、今度は鋭利な爪による突きではなく、質量に任せて脚で振り払いに掛かる。
 魔理沙のホウキのように生温くはない。白蓮の身は容易く弾かれて宙を舞う、飛行に移る様子は見られない。
「御住職殿!」
 辛くも善八郎がそれを追い、空中で白蓮を確保する。
「あっちは大丈夫だろ、ずらかるぞ!」
 いつの間にか魔理沙も文の側まで退いていた。
 神子や布都も体を起こしているものの、生命の危機があろう程に消耗した様子。戦うなどとても不可能。何より遠間からの攻撃は行えず、近寄ればあの言霊に阻まれる。それに瘴気の中での活動はそれだけで体力を奪ってゆく。
 白蓮が現れて始めに言った通り、退くしか選択肢は無かった。
「射命丸は自力で逃げろ。仙人方、どうか!?」
 必要以上瘴気を取り込まないため、この激しい動きの中でも呼吸を制しながら、善八郎は問いかける。彼自身にも余裕など見えないのに。
「私は、大丈夫だ。布都、しっかりしなさい!」
 神子はその場に立ち上がるが、逆に布都は重力に逆らいきれずに倒れ込んでいる。
「太子様、我は置いてお逃げ下さい……」
「神子さん、ここは、私が」
 文は脚を震わせながらも、一息に、布都の身を両肩に渡して担ぎ上げる。
「すまない。せめてしんがりは私が勤めよう」
 神子は大蜘蛛の方を向いて大きく息を吐く。白い息と混じり合った瘴気の帳が、ずっと彼方に在るようにその巨体を隠していた。
 まだ卑妖はそこかしこから集結しつつある、しんがりは確かに必要だろう。
(そうだ。もし、この人口密集地の者が全て、卑妖に変じていたのなら――)
 どれだけの人間が犠牲になったのか。いや、彼らを元に戻す方法があるなら“犠牲”という言葉を使うのもまだ早い。そして、彼らをまだ人間と見なすなら――
「う、む。貴方は天狗ですか?」
 意識を飛ばしていた白蓮が気付き、善八郎に問いかける。
「善八郎と申す。博麗の巫女の動向を見届けるため、里に入り込んでいた」
 もう隠す意味も無かろうに、まだ上の指示が無いためそう答えたのか。
「そうでしたか。私は――」
「命蓮寺の御住職殿でしょう、存じております。それにちょうど良かった、里の馴染みのお方が逃げ延びた人間を貴院へと誘導しております。断りも無く申し訳なかったが、受け入れては頂けまいか?」
 人数には限界があろうが、それはひとまずとして避難を断る彼女ではない。
「妖怪の弟子が多いのが懸念ですが、それは我慢して頂きましょう」
「もしそちらが無理なら、太子様も道場を開放するだろう」
 文に担がれたまま布都が言う。彼女達が道場と称する霊廟は、旧地獄よりも更に幻想郷からズレた空間に位置している。命蓮寺よりも受け入れられる人数は限られるものの、安全性は狩るかに高い。
「射命丸、お前は白蓮阿闍梨に付き従って命蓮寺へ行け。俺は擁壁から出たら御山へ報せに走る。狭山屋の皆様方にはよしなにな」
 まだ桜坊の名は出せまい。
「承知しました」
「行き先は決まったのか!」
 追っ手も振り切れたと見て、しんがりの役目を終えた神子が追いつき、彼女に並走した魔理沙も合流するなり声を上げた。
 人里生まれの彼女の不安は如何ほどか計り知れない。だがその表情には不安や嘆き、憤りよりも、ひたすら思索を続ける様子が見える。
「逃げた人間は命蓮寺か霊廟へ避難させることになりました」
 白蓮より先に文が答える。
 神子の方は布都と頷き合っている、霊廟へ避難も承知したと言う代わりだ。
「分かった。逃げた人間達とはかち合わない方がいいだろう。迂回路を教えるから、私も一緒に行かせてもらう」
 どのみち彼女は付いてくるだろう。誰もそれを拒もうとはしない。それにここには、それを拒める立場の者はいない。
 ここにはそれぞれの住まいの主はいても、治める者は居ないのだから。

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