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幽玄なるマリオネット幽玄なるマリオネット  後編   マリオネット後編 第4話

所属カテゴリー: 幽玄なるマリオネット幽玄なるマリオネット  後編

公開日:2015年11月25日 / 最終更新日:2015年11月25日

パチュリーの章

          1

「本当にやる気ですか?」
 こぁの非難は、小声ながらも力強かった。「絶対見つかっちゃいますって」
「嫌なら帰ればいいって、さっきから言ってるじゃない。私一人でもやるから」
 パチュリーはうんざりとしながら手を振った。
 二人は今、アリスの家宅近くの茂みに身を潜めている。
 魔法の森は草木が鬱蒼と生えている場所で、身を潜めるにはもってこいの地形だ。その利を生かし、こうして蒸し暑さに耐えながら機会を待っているのだが、とにかくずっと隣のこぁが喚いていてうるさい。嫌なら嫌で帰ればいいものを、それでもしつこく居残り、いい加減鬱陶しかった。
「やめましょうよ、こんなこと」
 やんやとこぁが喚き散らす理由はただ一つ。これからしようとしていることが、道徳から外れることだからだ。
「ああもう、鬱陶しいわね。だから帰れと言っているのに」
「そんなこと言わないでくださいよ。今ならまだ間に合いますって」
 服の裾を引っ張り、こぁが抗議を続けてくる。それでもパチュリーには辞める気など、砂粒ほども湧いてこなかった。
「もうこれしか手立てがないのだから仕方がないでしょう」
 まだ早朝だというのに、ここら一帯は蒸し蒸しとしている。極度に高い湿度のせいで苛立ちが加速した。
「それともなに、何か妙案でもあるの」
「そ、それは」
 あるわけがない。パチュリーでさえない案を、より思考力の劣るこぁから出てくるはずがない。
「ほら、答えられないのなら大人しくしなさい。それが出来ないなら帰って頂戴」
「うぅ……パチュリー様の馬鹿……」
「馬鹿で結構よ」
 未練がましく唸るこぁに、パチュリーはぴしゃりと言い捨てた。
 これから行おうとしているのは、まさしく家捜しだった。しかも不法侵入である。持ち主に無断で中を探ろうというのだから、倫理的には大いに問題のある行動だ。見つかればただでは済まされない。交友関係は断絶になるだろうし、郷では非難の的になるのは免れないだろう。
 それでも敢行を決意したのは、もう、この方法でしかゴーレムのことは明らかにできないだろうという確信があったからだ。
 昨日こぁが開いてくれた食事会。その時に閃いたアイディアを、あれからずっと吟味していた。
 本物と偽物――この言葉が引き金だった。
 気付いてしまえば単純な話だ。偽物(この場合は偽者か)が本物と入れ替わっているのではないか、というのがパチュリーの推理だ。
 ゴーレムの秘法は成功したと、アリスは口にした。それが真実だとして、ではゴーレムはどこへ消えたのか。
 これまでは幻想郷のどこかを彷徨っていると考えてきたが、盲点となる場所が一箇所存在した。それがアリスの家だ。
 アリスの証言は、ゴーレムは彼女を殴り倒した後、どこかへ逃走した、というものだった。
 だが、その内容全てが正しいわけではないとしたら? ゴーレムがアリスを昏倒させたのは事実でも、逃げ出したりなどしていないとしたら?
 家に留まっているとすればそれは、ただ人形のように息を潜めて隠れているわけではないはずだ。つまり偽者であるゴーレムが、本物のアリスと入れ替わって「自分がアリスだ」と謳っているのではないか――。
 もし考えが正しければ、かなりの疑問点を解消することができる。事件にしても、ゴーレムにしても。
「あっ、あれ」
 押し殺した声が耳に届き、パチュリーは反射的に顔を上げた。同時に、呼吸も一瞬止まった。
 アリスが出てくるところだった。
 玄関から出てきたアリスが、ドアの施錠もせず、頭を右に左にふらつかせ、夢遊病者のような歩き方で家を離れていく。ここからでは顔色まで確認できないが、どうやら体調がよくなさそうだ。
「どうしちゃったんですかね」
「わからない。それより――」
 ようやく家が空になる。待ちに待った機会だ。
「行きましょう」
 鍵をかけていくのを忘れてくれたのは僥倖だった。開錠魔法は扱えるが、あれは時間のロスが大きい。使わないにこしたことはない。
 パチュリーはこくりと喉を鳴らし、ドアを開いた。
 中は静寂に包まれていた。アリスと人形以外この家には住む者がいないのだから、当然といえば当然の静けさか。
「お邪魔します」と後ろから随行してきたこぁが言った。
 不法侵入なのだからそれはないだろう、とパチュリーは溜め息をついた。
 本当なら今ここにいるのは咲夜のはずだったのだが、多忙を理由に断られてしまい、こぁがくっついてきたというわけだ。咲夜なら能力もあてにできたのだが。
「なんだか薄暗いですね」
 こぁが言うように、部屋の中は採光が乏しく、沈んだような暗さだった。部屋を見渡してみると、カーテンがどれもきっちりと閉じられているのが目に入った。
「まだ寝起きだったのかしら」
「かもしれませんね。起きたらカーテンぐらい開けそうなものですし」
 ふと、先程見たアリスのだるそうな顔が浮かんできた。もしかしたら体調不良と何か関係があるのかもしれない。
「さて」パチュリーは人差し指を立てた。「本格的に探しましょうか」
 言って、短い呪文を口にする。「消える」という意味の呪文だ。
「わっ、消えた!」
 こぁが驚き半分、喜び半分といった具合に声を上げた。目の前から忽然と主人の姿が消えたのだから、このくらいのリアクションは普通なのかもしれない。
「消えたわけじゃないわ」パチュリーは一応の説明を付けた。「迷彩とでもいえばいいかしら。光を歪曲させているだけよ。ちなみに、貴方の身体も今、私から見れば消えているわ」
「えっ、本当ですか」
「残念ながら本当よ。私だけ消えてもしょうがないでしょ。もしものための魔法なんだから」
「もしものため?」
「そうよ。ちょっとは頭使いなさい。突然引き返してきたときのためよ」
「ああ、なるほど」
 本当にわかったのかどうか、怪しい返事だった。
「とにかく時間がないわ。外に出て行ったとはいえ、下手をすれば十分ほどで帰ってくるかもしれないし。急ぐわよ」
 だが、こぁはすぐに動かなかった。「ちょっと質問があるのですが」
「何よ」尖った声が出た。
「えっと、お互いの姿が見えないって……もしかして、結構ぶつかったりしてしまうのでは?」
 間の抜けた疑問に、パチュリーは怒りを込めて答えた。
「魔力を感知しながら動くに決まっているでしょう! ちょっと待って。まさかとは思うけれど、アリスが帰ってきたとき、どうするつもりだったのよ」
「どうするというと……」
「アリスも魔法使いなのよ? いの一番に魔力遮断しなくてどうするの!」
「はっ、はい! わかりました!」
 威勢のいい返事が返ってくるとすぐ、パチュリーは指示を飛ばした。
「私は地下を探しに行くから、貴方は寝室を探しに行きなさい」
「はいっ」
 こぁが走り出す気配を見せてから、パチュリーも急ぎ足で地下に潜っていった。

          2

 地下は、暗黒の深淵そのものだった。部屋の輪郭さえ把握できないほどの闇が広がり、そのせいか足底から冷えてくるような冷気を感じる。六月とは思えぬ寒さだった。
 パチュリーはさっそく、頭のすぐ上に仄光る球体を出現させた。この球体、光量こそ少ないが、呪文の詠唱さえも必要としない魔法の灯りであるため、隠密に動くにはもってこいである。
 光球を少しずつ動かし、目を凝らしながら部屋の様子を窺っていく。
 地下室は名の通り、純粋に家の下を掘って作られていた。数本の支え木があるだけで、壁などは土が剥き出しとなっている。床はさすがに絨毯が敷かれているが、それにしてもアリスが手がけたとは思えぬほど簡素な作りである。
 そうやって入り口の手前から順に観察していったパチュリーだったが、中腹辺りの場所で足を止めた。眼前に広がる光景を、前のめりになって見つめる。
 そこには一枚の板が敷かれていた。薄い木材で、表面のあちらこちらに土のようなものが付着している。
「ここか……」
 知らず、呟いた。
 ここか、ゴーレムの生まれた場所は――。
 板の両脇には灯りを固定するための台が生えており、奥には棚が取り付けられていた。中には分厚い本や瓶、箱が並んでいるのが見える。どうやらこの地下室なる場所は、魔法の研究に必要な道具を置いておくために設けられた部屋らしい。その場所でゴーレムが生み出された、というわけだ。
 だが今探しているのはゴーレムではなく、本物のアリスの方だ。そしてこの部屋に彼女の気配はない。魔力の潮流さえも感じ取れない。まさか死んでしまったわけではないだろうから、ここにはいないということだろう。
 ただ念には念を入れた方がよかろうと、パチュリーは右手をかざした。掌に魔力を集めると、すっと横に引く。
 立て付けの悪そうな音と共に開いたのは、奥の壁から生えるように設置されている棚の下部の戸だった。上部はガラス戸になっており中身が見えたが、下部は引違い書庫のようになっていて中の様子がわからない。念のため中を検めておこうと、魔力を使って開けたのだった。
「そりゃそうよね」
 開いた引違い戸を同じ方法で閉じると、パチュリーは苦笑交じりに独り言を呟いた。
 中には数点の瓶と小さな箱以外、何も入ってはいなかった。

 地下を調べ終えたパチュリーが上に上がっていくと、いきなりこぁの悲鳴が聞こえてきた。続いてガン、と金物を叩いたような音がした。
 何事かと声のした方に駆けつけてみると、大きな置時計の前でへたり込んでいるこぁの後姿があった。迷彩の魔法がいつの間にか解けている。
「どうしたの」自分の迷彩魔法も解いて、パチュリーは慌てて近寄った。「何かあったの?」
 こぁが振り向いた。両目の端に、うっすらと涙を溜めている。
「パチュリー様……」
 後続の言葉は謝罪だった。「すみません」
「何があったの」
「実は……」
 こぁが前に向き直ったため、パチュリーもそちらへ視線を投げた。と、彼女が何を言おうとしているのか、聞く前にわかってしまった。
「ちょっと、何してるのよ!」思わず叫んだ。「どうしてこんなことに」
「す、すみません」
 うな垂れるこぁの声に力はない。
 それはそうだろうと、パチュリーはこめかみがひくつくのを感じながら思った。
 こぁはドジな娘だ。それは今に始まったことではないし、十分理解しているつもりだった。あくまで「つもりだった」だけなのだと、今この瞬間痛感したのだが。
「ちゃんと説明して御覧なさい」なんとか怒りを抑えて訊いた。「どうしたらこんなことになるの」
 こんなこと、というのは、目の前の惨事を示している。
 こぁが座り込んでいる真ん前には置時計が佇んでいるのだが、どうしたことか側面が開かれている。そのこと自体は驚くこともない。置時計には修繕のための扉が付いているのだから。
 問題は、その側面から見えている金色の物体だ。じっくり見ればそれが金ではなく真鍮であることは見抜けるが、そんなことは瑣末なことである。こぁがしでかしたことに比べれば。
「それが……」
 ぼそぼそと釈明し始めるこぁ。
 なんとも彼女らしい失態が次々に語られる。瞳を閉じれば、その時の光景がありありと浮かんできそうだった。
 寝室に入り込んだ際、こぁは直感でこの置時計が怪しいと睨んだらしい。ひと一人分の大きさがあるが故の憶測だった。――この中にアリスが眠っているのではないか、と。
 ところが側面蓋を開けてみると、振り子が勢いよく左右に振れているだけだった。ちなみに、真鍮の正体はこの振り子である。
 普通ならこの振り子を見て、中に誰もいないことくらいはわかりそうなものだが、こぁはそうは思わなかったようだ。振り子の揺れ動くその奥に、アリスが隠されているのではないかと疑ったのである。振り子の背面は影が落ちていて暗く、もしやと勘繰ったのだという。どこからどう見ても、振り子から後ろにそれほどの奥行きはないのだが、そこがこぁらしいところだ。
 次いで、両手でしっかりと振り子を掴んで挙動を止めてから、中に体半分と頭を突っ込んで見渡した。幸いにも振り子の力は強くなく、容易に動きを止められた。
 ここまでで終わっていれば、馬鹿だなぁと笑って済ませられる話であったろうが、ここから先に続く物語がそれを許さない。
 アリスがおらず、こぁは落胆から肩を落とした。そして脱力に引きずられる形で頭が下がった時、目があるものを捉えた。直後、身体中の神経が一気に緊張した。
 こぁが見、全集中力を注ぎ込んだものは、一匹の蜘蛛だった。なんと底の隅の方で巣を張り、獲物を待ち構えていたのだ。
 彼女は怖気から、声の限り絶叫した。握っていた両手には更なる力が加わり、突っ込んだ頭と身体をなんとか脱出させようと、反射的に立ち上がってしまった。
 結末は考えるまでもない。時計の中はがらんどうとはいえ、その範囲は外郭よりも狭い。側面の上部には文字盤もある。そこに頭を打ちつけるは自明の理であり、しかも、しっかりと握った振り子も持ち上げる形になれば、どこかしらに過負荷がかかって時計が壊れてしまっても不思議はない。
 かくして驚きのあまり立ち上がったこぁは、頭を強打した挙句、後方に尻餅をつく形で倒れこんだ。手には振り子を握り締めたまま。
「まるで間抜けな童話でも聞いているようだわ」
 話を訊き終えたパチュリーは、額に手を当て嘆息を吐いた。どこまで間抜けになれば気が済むのかと、小一時間と言わず徹底的に詰問してやりたくなった。
 だが今はそんな悠長なことを言っている場合ではない。時限はもう、すぐそこまでやってきている。外してしまってはならない部品を外し、途方に暮れたままその部品を握り続けているこぁを叱りつけたところで、問題が解決するわけでもない。
 建設的に動かなければ。
「とにかく、その壊れた振り子を直さないと」
「ですが……」こぁはしどろもどろになりながら言った。「構造もわかりませんし、中の様子もよくわかりませんで……」
「だからってこのままにしておけるわけがないでしょ」
「それはそうですが」
「いいから貸してみなさい」
 パチュリーは振り子をこぁの手から奪い取ると、上から順に舐めるように見ていった。
 真鍮はくすみ、輝きを失っていた。ほこりや錆のようなものが薄っすらと付着している。こぁが握っていたであろう部分だけが、ほんの少しだけ本来の輝きを取り戻している。
 しかし振り子そのものには、傷やへしゃげた痕のようなものは一切みられない。メンテナンス不良故の汚れが目立つのみである。
 となると、壊れたのは振り子本体ではなく、接合部ということになる。面倒だと思いつつも、パチュリーは確認のために身体を屈めて時計の内部に顔を入れた。
 途端、つん、と酸味を帯びた独特な臭いが鼻についた。悪臭とまではいかないが、快くも思えない臭気だ。樹液とかびを混ぜてやると、こんな臭いになるのかもしれない。
 鼻が慣れるまでの辛抱だと割り切り、パチュリーは目を上に向けた。接合部は時計盤のすぐ裏にあるはずだった。
 だがそこには闇が広がっているだけで、何も見えなかった。バネも歯車も、何一つ。
 光源がないんだから当たり前じゃない――はたと気がつき、そのあまりの間抜けさにパチュリーは思わず舌打ちしていた。どうして灯りを用意してから入らなかったのかと、心の中で自分自身を罵倒した。
 直ちに魔法で光を生み出し、内部を照らしてやると、隅々までよく見えた。本当によく見えた。部品たちが一種のオブジェになり果てている様まで、ばっちりと。
 飛び出したぜんまいらしきものを見遣りながら、パチュリーは苦虫を噛み潰したような渋面になった。ぜんまいのすぐ隣には、くの字に折れた棒が一つある。時計に関しては素人だが、これだけでも完全に時計としての機能が破壊されたと断定できる。
「――有り得ないわ」
 軽い眩暈に襲われた。どうしてこうなるのか。
 中から這い出ると、こぁが真っ青な顔をしてこちらを見ていた。何を言われるのかと気が気でないのかもしれない。
「これはちょっと、簡単には直りそうにないわね」
 想像の斜め上をいく破壊のされ方をしていたが、これを五、六分程度で直すなど、それこそ技能を持っている河城にとりでも無理だろう。咲夜の能力なら、なんとかなるかもしれないが。
「とりあえず、形だけでも整えておかないと」
「かたち、ですか」
「そうよ。修理が無理そうだから、見た目だけでも元に戻すの」
 接合部が滅茶苦茶になっていては、時計としての機能は望むべくもない。ならば見た目だけでも元に戻しておいた方が、不審がられずに済むはずだ。時計の針が動いていないとなれば、真っ先に中を覗くだろうから。
 一瞬だけ、バレても平謝りすれば許されるだろうと打算が働いたが、不法侵入を咎められては立つ瀬がなくなると思い直した。これは失態を犯したこぁのために行っていることではなく、道徳に反した己のためなのだ。
 パチュリーは不思議そうに惚けるこぁに説明を入れることなく、呪文を紡ぎ始めた。独り言のような詠唱を、淀みもなく。
『土は金に、金は水に。流転は原初から、我に従い逆さ動け――』
 呪文を口ずさみながら振り子から手を離すと、振り子は独りでに浮き上がり、置時計の中へと吸い込まれていった。
 数秒後、ぎゃり、ぎゃりっという金切り音がいくらか鳴ったところで詠唱を止めた。巧くいったという手応えがあった。
「どう……ですか?」
 おそるおそるといった感じでこぁが聞いてくる。
 たぶんオッケーだと答えると、
「よかった……」と、こぁが安堵の息を吐いた。
「よくはないわよ。ただくっついてるだけで、時計としてはもう役に立たないんだから」
「あ、ですか……」
「まぁでも」パチュリーはしゃがんで振り子に触れると、横に軽く力をかけた。「振り子くらいはちゃんと動くはずだけれどね」
 つと手を引っ込めると、振り子は再びリズムに乗って左右に揺れ出した。長短針の方に影響は与えないが、それでも即興で作ったにしては上出来だ。接合部もぱっと見、正常にしか見えない。
 あとはアリス(もしくはゴーレム)がどこまで自力で解決しようとするかだが、そこはもう賭けるしかない。手先が器用なだけに、もしかしたら全部分解してまで直そうとするかもしれないが、そうならないことを願うばかりだ。
「ご迷惑をおかけしました」こぁは頭を下げた。
「まったくもってその通りだわ。頼むからもうちょっと考えて行動して頂戴」
「う……。了解です」蝙蝠翼がしょげた。
「さてと」パチュリーは口から息を吐き、気合いを入れ直した。「もうちょっと探してみましょう」
「ですね。今度こそ気をつけます!」
「口だけにならないように」
「もちろんですよ」
 二人は再び二手に別れてアリス捜索にあたった。

 この館に立ち入った時からまったくアリスの魔力を感じなかったが、やはり彼女はどこにもいなかった。
「おかしいわね……」
 三十分と時間を決めて家捜しをしたのだが、何も出てこなかった。洋ダンスからクローゼット、ベッドの下や天井裏まで隅々探してみたのだが、アリスの影さえ捕らえられない。手分けして探していたこぁが見落としたとも考えられなくはないが、相手は人間という大きな個体だ。いくらこぁの視野が狭いといっても、片鱗さえ見つけられないのはどういうことか。
「どうしましょう」
 こぁはすっかり弱り切った表情だ。「探せるところは全部探しちゃいましたけど」
 特に怪しいと睨んでいた大きな黒檀造りのクローゼットも物抜けの空であったし、台所の物入れのような小ぢんまりとしたところまで目を光らせたのだが、収穫はなかった。結果として、またも時間を浪費しただけとなってしまった。
「本当にこの館にいるんでしょうか」
 もっともな質問だ。だがパチュリーはすでに、その問いに対する答えを用意している。
「いるはずよ。私の仮説が正しいなら、ゴーレムは彼女なしでは生きられない。となれば、自分の目に届くところに置くはずだもの」
 ここに来る前、こぁには仮説を言い聞かせた。納得した素振りを見せていたが、現実としてアリスが見つからないのでは、訝る彼女を咎めることもできない。
 パチュリーもまた、焦りに身を焦がしはじめていた。だから「いる」と断言できなかったのである。自信が揺らいでいる証左だった。
「こんな小さなタンスまで調べたのに」
 真っ黒なクローゼットの横に置かれた、真っ白なタンスの引き戸をこぁが引く。昔、パチュリーがアリスに、色のセンスが悪いと小馬鹿にした家具だった。
「そうねえ」
 ぼんやりと答え、ぼんやりと部屋を眺める。
 この寝室は特に念入りに探した。気になったのは、置時計の底辺横にこびりついていた謎の物体くらいだ。物体というより染みに近い何かは、押すと少々の弾力が返ってきた。色は赤黒く、なんとなくワインの深みある赤を連想させるものだった。
 正体はいまだにわかっていない。が、パチュリーはこれを魔法の実験と結び付けていた。ゼリー状の何かしらを作ろうとして失敗し、飛散して時計にまで付着したのではないか、と。
「あと調べていないといえば、玄関先にあるポストと、小さな庭くらいね」
「あと屋根も探していませんよ」
「屋根ねぇ」
 屋根の上に括り付けておくというのは考えにくい。ポストは論外だ。可能性があるとすれば庭だが――。
「ざっと見た感じじゃ、いそうにないのよねぇ」
 厚めのカーテンを開き(戸棚を開けたときと同じ魔法で)、庭を眼下におさめてみても、怪しく思えるのは小鉢の並ぶ花棚くらいだった。あとは畑もなければ芝と雑草だけが生い茂る庭である。物置すらない庭では、隠しようがないだろう。
「そりゃあパチュリー様、庭に転がっているわけがありませんよ」
 いつの間にかこぁが隣に来ていた。
「それを言ったら、屋根にも転がってなんかいないわよ、きっと」
「ですね。でも庭なら――」
 何気に続けたこぁの次の一言は、パチュリーの心臓を止めるのに十分な威力を持っていた。
「――埋めてしまえば、見た目だけじゃわかりませんよね」
「――――」
 脳が稼動を放棄し、意識にぽっかりと空白が生まれた。心停止に脳停止。時間にして刹那という瞬間ではあったが、パチュリーには分を跨ぐほど長く感じられた。
 空白の一瞬から回帰すると、心臓が大きく一跳ねした。直後、思考もフラッシュバックを起こしたかのように一気に回復した。
「だ、大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫よ――」
 そう答えるパチュリーは、自分が胸を押さえていることに、今になって気がついた。きっとこぁはこの状況から、主人の心臓に異変が起きたのではないかと察したのだろう。眉が綺麗に八の字を描いている。
「それより」こぁへ気遣いの言葉をかけるより先に、閃光と共に流れてきたアイディアを口にした。「もう一度地下に行かないと」
「地下、ですか」
 大丈夫だと態度で示しても、心配の霊が祓われない様子のこぁが聞き返してくる。「本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫。それにあんまり時間も無いし」
 これで外れだったら引き上げようと心に決め、パチュリーは歩き出した。例に漏れず魔力でカーテンを閉じながら。
          3

 直感が正しかったと証明されたのは、それから五分後のことだった。
 家中をくまなく探しても見つからなかったわけだ、と思わず天上を仰ぐ。魔力を一切感じなかった理由もすぐに判明した。
 アリスは地下室の下にいた。
 いた、というのはいかにも正しくない。今現在も、彼女は閉じ込められているのだから。
 地下室の奥側に設置された棚の真ん前には、土汚れのある薄い板が敷かれている。土汚れはゴーレム作成時に付いたものだと思っていたが、これが盲点の入り口だった。
 その板は、確かにゴーレムを造る時に使ったのかもしれない。だが、その下のモノを隠すために再度使われたのだとは思いもよらなかった。床一面に敷かれている絨毯も見落としの原因の一端を担っていたが、板の下はご丁寧にアリスを納めた穴と同じ大きさに切り抜きしてあった。これで疑えと言うのは、些か無理があろう。
「間違いなくアリスさんですよ」
 珍しくこぁの声が低い。
 パチュリーも首を縦に振る。
「どう見てもアリスよね。これで違ったら、今後人形師を信用することはやめるわ。真贋を気にするだけ疲れそうだし」
 板の下には、底のあまり深くない穴が掘られており、アリスはそこに隠されていた。身体は猫が眠る時のように丸められており、瞼は降りきっている。口元もしっかりと横一文字に結ばれており、眠っているというよりは死んでいるように見えた。
「にしても、空間魔法とは畏れ入るわ。彼女、いつの間にこんな高度な魔法を習得したのかしら」
 アリスは魔法によって閉じ込められていた。薄紫色の淡い光が身体全体を覆っている。
 パチュリーは彼女の四肢に纏わりつく光を見てすぐ、これは空間魔法だと看破した。
 まず、アリスを観察する限り、呼吸が行われているようには見えないことが一つ。それから、視覚情報から魔法であると見抜けても、まったく魔力が感じられないことが一つだ。
 どちらも、空間の固定化が原因であると考えれば辻褄が合う。空間そのものが固定されてしまえば、空間内は時間が止まっているも同じだ。だから呼吸していないように見える。
 魔力が感じられない理由についても、複雑な話は何もない。空間の固定に使われていたのは、霊脈と呼ばれる、土地そのものが有する魔力だったのだ。大気に魔力が満ちているのと同じで、大地にも魔力が満ちている。これを魔法使いは『マナ』と呼んでいるが、おそらくゴーレムは、魔法でアリスを擬似空間に閉じ込めて固定した後、空間維持のために地面から湧出するマナを吸い上げるよう、ラインのようなものを設けるという細工をしたのだろう。現状の魔力経路を見るに、アリスは地面に縫い付けられているような形になっている。空間魔法は、常に魔力を流し続けなければならないという制約がある。だからこそ高度な魔法であるとされているのだ。
 そして魔法使いにとってマナは常識中の常識であり、普段からずっと肌で感じているものでもある。マナに乱れなどがない限り、特段気にかけるようなものではない。魔法使いであるパチュリーがアリス本人の魔力を探知していては、見落としてしまうのも仕方のないことだった。
「空間魔法って難しいんですか」
「そうね。咲夜の能力がそのまんま使えるようになる、と言えばわかりやすいかしら」
「それは凄いですね」感嘆の声があがった。
「ま、私も使えないわけじゃないけど」
 それにしたってかなり限定的だ。「精進不足は否めないわ」
「パチュリー様でも難しいんですか」
「神代から現代にかけて、場所によっては禁呪だと言われていたくらいだからね。凄い人になると、擬似空間に閉じ込めた物質をぺちゃんこに潰しちゃえたりするし、逆に膨張させて世界そのものを作ってしまえたりとか。神代では巨大な生体兵器を隠すのにも使われていたらしいけど」
「す、スケールが大きいですね」こぁは苦笑いを浮かべた。
「だからこそ禁呪なのよ。ただ、これくらいの小規模な空間魔法なら、なんとか修得できたりするものよ。魔力だって、マナを極少量しか使っていないし」
 あるいは、かなりの工夫が凝らされているか。少なくとも、パチュリーには扱えない代物である。
「アリスさん、勤勉ですからねぇ」
「才能も必要よ。特に形状成形のスキルは特出したものがないと駄目ね。空間魔法はとにかく固定維持が難しいから。ちょっとでも歪みが出たりすると、あっと言う間に弾けて消えちゃう」
「シャボン玉みたいですね」
「ああ、イメージとしてはどんぴしゃり、って感じね。シャボン玉って、常に一定の大きさに留めておくのは難しいでしょう。空気を一定に保つのも難しいし、外からちょっと触るだけでも割れちゃうし。空間魔法も同じよ」
 さて、とパチュリーは再び、板で眠るアリスに蓋をした。
「どうしてまた隠しちゃうんですか?」
「今の説明でわからないの?」
 返事の代わりに、蝙蝠翼がしょげる。
「ちょっとでも触れて御覧なさいよ。すぐに魔法が解けて、術者のゴーレムにばれるわ」
「あっ、そうか。そうですね」
「そもそも、ここから運び出すのも一苦労だしね」
 人間というのは重く、そして大きいものだ。魔法で運び出せないこともないが、その場合はかなりの魔力消費を覚悟しなければならない。
「じゃあこれからどうするんです?」
「まずは脱出が先ね」
 パチュリーは出口の階段に目を遣った。

          4

 アリス宅を出るまで、ついにゴーレムは帰ってこなかった。心もとない姿をしているように見えたが、実はそこまで体調は悪くなく、遠くにまで足を延ばしたのかもしれない。もしくはどこか談話でもしに行ったか。
 どちらにせよ、パチュリーにとっては幸運だった。こうして平穏無事に紅魔館の真上まで辿り着くことができたのだから。ゴーレムと鉢合わせて戦闘にならずに済んだのは僥倖というべきだ。
 しかしこれからが本番でもある。
 これまで様々な推測をたててきたが、アリスがゴーレムであったことを突き止めた今、ばらけていた道がくっつき、一本の道になろうとしている。完全な一本道にはまだ遠いが、だからといって遠すぎることもない。考えなければならないことは、ぐっと減った。
 待っていなさい、アリス――パチュリーがそう意思の炎を燃え上がらせていると、前方に見知った人物が浮遊しているのが目に入った。記者の文だ。
「あら、珍しい」
 上空では声が届きにくいため、意識的に声量を上げて喋った。「何かあったの?」
「何かあったというか、これからですね」
「これから?」
 とりあえず移動を中断すると、「私は先に戻っていますね」とこぁが滑らかなカーブを描いて中庭の方へ下降して行った。
「ここで話すのもなんだし、中に行きましょう」
 言って、パチュリーも高度を下げていく。
 着地はちょうど正門前だった。美鈴は――ちゃんと起きていた。
「あ、お帰りなさいませ」
「門番お疲れ」
 挨拶を返すと、文が後に続いた。
「どうもです」
「文?」美鈴が素っ頓狂な声を出す。
「ついさっき、上で逢ったの」
 パチュリーは空に人差し指を向けた。
「そうなんですか」
 今度は何の用なのか、と美鈴が「不審者用」の見えない色眼鏡をかけて文を見つめる。なぜか彼女は、文のことを斜に構えている節がある。
「話があるみたいだから通してあげて」
「了解です」
 美鈴は帽子を脱ぐと、そこから一本の細長い金色をした鍵を取り出し、鍵穴に差し込んだ。解錠は一瞬で味気がなかったが、西洋の歴史を象徴しているかのような槍付きの門扉が、軋みを上げて開いていく様はなかなかなものだった。
 二人は美鈴だけを残して中へと入っていった。

「何か恨まれるようなことでもしたの?」
 こぁが運んできた紅茶を啜りながら訊いてみると、文は「わかりません」と溜め息交じりにお手上げのポーズをとった。
 彼女はこぁの淹れる紅茶が大好きなはずだが、今日は手もつけていない。喉は渇いていないということだろうか。
「昔からあまり仲はよさそうに見えませんでしたが」
 隣の椅子に腰掛けているこぁは、人差し指をこめかみのところに当てて言った。
「確かに仲はよさそうじゃなかったわよね。どうしてかしら」
「記者は嫌われる運命にあるのですよ」
「嫌われるような記事でも書いたわけ?」
 文は笑った。「そんなことをしたら、不審がられるどころか逢っただけでも蹴りをいれられますよ」
「かもね」
 それで、とパチュリーは居住まいを正した。
「私を待っていたんでしょ? 理由を聞こうじゃない」
「あやや、理由を聞こうって、酷い話ですね」
 片眉をあげ、文が呆れ返る。
 はて、呆れられるようなことをしたかなと思っていると、
「情報を集めてくれって言ってきたのはそちらじゃないですか」
「あ、その件ね」
 パチュリーはわざとらしく咳払いをした。「ちゃんと覚えているわよ」
「とてもそんな風には見えませんでしたが」
「貴方が先に用件を言ってくれれば、すぐに思い出したわよ」
「今、思い出す、って言いましたね? 言いましたよね?」
「ああもう、鬱陶しいわね」パチュリーはハエを払うように手を振った。「こうしてちゃんと思い出したじゃない。嘘は言ってないわ」
「なるほど、忘れてはいたけれど、聞いたら思い出せたから嘘じゃないと。なかなかな言い訳をしますね」
 本気で感心する文に、パチュリーは先を促した。
「それで情報は?」
「そのことなんですけど」文は耳の後ろを掻いた。「ちょっと複雑な話になってきまして」
「複雑?」
「ええ、それも迷宮並みに」
 言いながら手帳を開く。こぁはその中身が気になったようで、前かがみな姿勢になった。
「まずはわかったことをお報せします。岸崎玲奈殺しの犯人ですが、ルーミアではなくリグルだったことが判明しました」
「リグルが?」
 多少の驚きはあったものの、動揺にまでは繋がらなかった。こぁと話していたことが現実になっただけのことだ。
「ルーミアはリグルを庇っていたようですね」
「理由は?」
「簡単にいうと、リグルは殺意があって犯行を起こしたのではなく、岸崎玲奈に悪戯をしただけだったのですが、運悪く彼女が死んでしまったらしいです。で、ルーミアがこの事実を隠そうとして、金本理沙の犯人に濡れ衣を着せようと細工をしたのだとか。リグルを守ろうとしたんですね。けれど霊夢さんがあれこれ嗅ぎまわったせいで画策したことがバレそうになったんで、ルーミアが出頭したと。リグルが出て行くより、犯人ではないルーミアが出て行った方が、ボロが出ずに済むという計算があったみたいです」
「美しい仲間愛だこと」
 欠片も思っていないことをパチュリーは口にした。皮肉を言ったつもりだったのだが、意外にも文はのってきた。
「庇い合うどころか、なすり合うのが普通ですからね。そう考えるとルーミアは大したものですよ。もしかしたら永遠に地上に戻ってこれなくなるかもしれないんですから」
「まぁ、そうね」
 毒気を抜かれてしまった。
 文は話を続けた。
「これがまず一つ目。で、二つ目なのですが、ナズーリンが帰ってきたそうです」
「ああ、ナズーリン」
「え、あれ?」
 疑問を口にしたのはこぁだった。そう言えば勇儀から聞いたことを話し忘れていた。
「パチュリーさんはあまり驚いていませんね。もう情報を掴んでおられたのですか?」
「ええ、まぁ」しどろもどろになりかけた。
 文の言は、半分正解で半分間違いだ。監禁されているとは聞いているが、釈放されたとは聞いていない。
「それならこぁさんはパチュリーさんからお聞きになった方がいいかもしれませんね。時間の短縮のためにも」
「あとで話しておくわ」
 ちらとこぁに目を配ると、膨れっ面になっていた。今にも詰問してきそうな雰囲気である。
「何を探しているかまでは教えてくれませんでしたが、何かお聞きになってます?」
「いいえ、何も」
「まぁこれについては情報が何もないのでしょうがないですね。で、最後の三つ目ですが」
 文は一旦言葉を止め、唇を湿らせてから再開した。「里に不穏な動きがあります」
「不穏な動き?」
「ええ。人間たちが頻繁に集会を開いているようで」
 人間の男たちが、ある一箇所に集まって何時間もこもりっきりになっているという。しかも一度ではなく、確認できただけでも四回は会合を設けたようだ。
「弔いの打ち合わせでもしているんじゃないの?」
 あんな惨たらしい事件で亡くしたのだから、葬儀も慎重になるのではないか。こぁも同意見らしく、何度も頷いた。
 ところが文はそうは思っていないようだった。
「それなら女性たちも参加するのではないですか?」
「そうかもしれないけれど、仕切るのは大体男性じゃない? 人間って確か」
「でも一度だって集まっていないんですよ、一人も」
 そう言われてしまうと強く出られない。女性が参加しない葬儀など考えられないし、不自然に映ってきてしまうのも頷ける。
「なるほどね、それが不穏だと」
「何を話し合っているかはわかりませんが、女性は参加していないのではなく、参加させてもらえないんじゃないでしょうか」
「男性陣にとって不都合なことでもあるのかしら」
「どうですかね。ただ、歴史を遡っていくと、大抵男衆集まるところに騒乱あり、ですから」
 例えば――百姓一揆とか。
「ヒャクショウイッキ?」こぁが目を丸くする。
 パチュリーも文献でちらりと触れたことがあるだけの言葉だった。
「お二方にはなじみがないかもしれませんが、ここ日本では珍しいものでもないんですよ」
 百姓一揆は主に、食料が不作に陥った時に発生したらしい。旱魃や冷夏で作物が駄目になっても、豪族が「税だから」という理由だけでわずかな食料をも根こそぎ持っていってしまう。そうなると百姓たちは飢え死にするしかなく、ならばと商売道具の鍬や鎌を手に役所へ押し寄せる。どうせ死ぬのだからと腹を括った彼らは、武力で挑まれても怯まない。初めから戦力差を悟っているからこそ、彼らが手にした武器はただの脅しで、やることといえば免税処置等を聞き入れてもらうまで粘り続けるくらいだ。窮状を救ってもらおうと必死になって。
「百姓一揆というのは、まぁざっとこんなものなのですが、そのときもほぼ、男のみでことを起こしていましたね」
「女の人が参加しなかった理由はあるんですか?」
 こぁの質問に、文はちょっと困った顔になった。
「これといった理由は知りませんね。推測でなら、子孫を残すために女体が必要だったとか、非力すぎて迫力に欠けるから頭数に入らなかった、とかは考えられますが」
「そっか。役所の人たちは完全武装なんでしたね」
「ですね。正規の武人たちですから強いですよ。まともに挑めば死ぬ確率の方が遥かに高いでしょうね」
「悲惨な話ね。だから今回も似たようなことが起こるんじゃないかと心配しているってこと」
「ま、心配はしてませんけど。私ら妖怪に牙を向けようとは思っていないでしょうし。どうせ歯向かったところで無駄だっていうのは理解できているでしょうからね。もし妖怪を相手取った一揆なら、いくらでもやってもらって構いませんよ。うちら山の妖怪には、それこそ関係ないことですし」
 あっけらかんという文に、パチュリーは閉口した。妖怪の心は冷たいとよく聞くが、納得してしまえそうだ。たとえ窮状の改善を求めるだけの暴動だとしても(暴動ですらないように感じるが)。
「なら何が不穏なのよ」
「霊夢さんですよ」
「「は?」」こぁの声とはもった。
「考えてもみてください。騒動そのものが妖怪を襲うものなら返り討ちにすれば事足りますが、博麗神社に押しかけるような事態になれば、私たち妖怪にまで何かしら影響が出てくる可能性があるじゃないですか」
「何もしていないのなら、そんなことにはならないでしょ。何もしてないならだけど」
「わかってませんねぇ。私らはただでさえ制約を課せられているんですよ? これで騒ぎが起きて、霊夢さんが紫と結託したらどうなると?」
 その様を思い描いてみる。
 憤慨する霊夢に、じゃあもうちょっと制約をつけましょうか、と軽々しく口にする紫。
 思わず苦笑が漏れてしまった。
「有り得そうね」
「笑い事じゃありませんよ。今度は何を言い出すかわかったものじゃありません」
 文は憤りを見せたが、こぁはまったく別の思想を持っているようだった。
「別にいいんじゃないですかね」と言い出したのだ。
「な、何がです?」文の声が上擦る。
 面白い光景だ、とパチュリーは思った。頭脳明晰な鴉天狗が、悪魔とさえ名乗れないような未熟者の小悪魔に圧されている。
「だって、ここは平和の国じゃないですか。争いの種がなくなるなら、いくらでも制約を付けられても」
 無論、その言葉は自身にも向けているのだろう。妖怪ではないにせよ、こぁは立派な人外だ。魔法使いも立派に対象であろう。つまりは主人にも降りかかる話なのだが、きっとこぁはそこまで考えていない。
 それでも、こぁの言い分はもっともらしく聞こえるのだから不思議だ。ここは平和の国、ここは平和の郷。だから武力は全て放棄してしまえ――確かに、確かにである。
 どうやら文も反撃の糸口は見つけられなさそうだ。
「む」と唸り、しかめ面になる。
 必死に頭を使っているようだが、おそらく名案は浮かんでこないだろう。こぁの一撃は、持たざる者の側面から放たれている。能力も高く、頭もいい文に、この難題は解けない。
 その昔、かぐや姫が五人に対し突きつけたという難題と同じだ。かぐや姫は意地悪で難題をふっかけたのではない。諦めて欲しかった。情に流され、地上に悔恨を残したくはなかったから。だから挑戦者はみな不運を掴まされたのだ。姫の立場になって胸の裡を慮ったのなら、それを無念と思いながらも飲み込む者がいたのなら、別れ以外の不運を握ることはなかっただろう。求婚を跳ね除けられ、友人としてかぐや姫を受け入れた帝のように。
 こぁの意見も、根は同じなのだ。平和を謳おうとするのなら、力ある者は力なき者の胸の裡を慮り、その力を棄てればいい。確かに平和に力はいらないのだから。
 だが、文も簡単には陥落しない。難攻不落を思わせたこぁの言葉の城を、違う角度で切り崩そうとしてきたのだ。
「その意見は一理あると思いますが、争いは何も内部だけで起こるものではないのですよ。むしろ外敵の方が多いでしょう。力に制約をかけてしまえば、いざというときに外敵から郷を守れなくなりますよ」
 なるほど、こちらも筋の通った意見だ。結界にて隔離されているとはいえ、この幻想郷とて絶対安全とは言い切れない。流れ着いてくるものの中に外敵が混じっている可能性もある。もしそれが凶悪で強大な力の持ち主であったら、力を制限された妖怪たちだけでは解決できないほどの大物であったなら、果たして郷は無事で済むだろうか。
 いつものこぁなら、ここですぐに折れてしまっていただろうが、今日は一味違った。
「別に外敵に襲われたときだけ制約を緩めればいいと思いますが」と切り返したのである。
「む」と二度目の熟考に入る文。
 二人を見て、パチュリーは鼓動が高鳴ってくるのを感じた。討論など久しく見ていない。知と知がぶつかりあう様は、やはり何度見ても心が躍る。
 次はどんな応酬を見せてくれるのかしら――膝の上で拳を握ったパチュリーだったが、その興奮は一気に吹き飛ばされることになった。
 比喩でもなんでもなく、突然発生した突風によって。
「な、なに」
 咄嗟に手をかざして顔を背けたが、巻き起こった旋風はなかなかに威力があり、足にも力を込めて踏ん張らなければならなかった。
 次第に風が止んでくると、首を元の位置に捻り戻し、何が起きたのか視線を奔らせる。すると目の前に、犬走椛が立っていた。それも派手にテーブルをひっくり返して。
「いたいた」椛はにやりと口元を歪めて言った。「まったく、こんなところで暢気にお茶会をしていたとは」
 いかにも天狗といった衣装を纏っている椛は、態度も天狗らしく大きかった。パチュリーは「天狗の鼻をへし折る」という諺を思い出さずにはいられなかった。
 文は口を、お碗が入ってしまうのではないかと思わせるほど大袈裟に開き、唖然としている。肩口を見ると、小刻みに震えているのがわかった。椛の突飛な出現に、それほど衝撃を受けたのだろうか。
 と、その疑問の解はすぐに出た。
「なっ、なんていうことを! せっかく残しておいたのに!」
 大仰に叫ぶ文。
 残していた、という台詞から、たった今横倒しになったテーブルと、その上に載っていた、駄目になったティーセットを眺めると、なるほどと納得してしまえた。文は喉が渇いていなかったから紅茶に手をつけなかったのではない。楽しみを後に残しておくために手をつけなかったのだ。
 あまりに悲痛な叫びを上げた文のせいで後ずさった椛が、ようやく事態を悟ったらしく、
「わ、悪かったよ」と小さな声で詫びを入れる。
 だが文はなおも喚いた。
「悪かったで済まされると?」
 そこまで紅茶に執着する意味もわからない、とパチュリーは呆れながら仲裁に入った。
「はいはい、そこまで。どうやら犬走さんは急用で来てるみたいだから、用件だけでも聞いてあげたら?」
 急ぎでなければ、あんな現れ方はしないだろう。
「さすが図書館。話がわかるね」
「――――」
 どうやら妖怪の山では図書館と呼ばれているらしいことが判明した。忌々しき事態である。
「何の用ですか」
 ふて腐れ顔で文が応える。どうやら二人の仲はそれほどいいものではないらしい。椛の文に対する風当たりも強すぎる気がする。
「山に来てるんだよ、スキマが」
「紫が?」
 八雲紫は隙間妖怪として知られているが、どうやら山ではスキマとだけ呼ばれているようだ。
「詳しいことは知らないよ。連れて来いって言われたから呼びに来たんだ。いい迷惑だよ、本当」
「それはこっちの台詞でもありますね。しかし……何の用だろう」
「知らないよ。じゃ、伝えたからな」
 それだけ言い残し、犬走椛はつむじ風と共に姿を消した。ガラス窓が一度、一斉にドンと悲鳴を上げる。来た時もそうだが、一体彼女はいかにして窓を開けたのだろうか。動作が速すぎて見えないだけなのか?
「すみませんね、こんなことになっちゃって」
「いえいえ、あとはこちらで片付けておきますので」
 さっきまで熱い討論を交わしていたのが嘘のように、こぁはやんわりと応対する。
「じゃあ、お言葉に甘えて。それでは」
 文もまた、椛が出て行った窓を使って外に出て行った。またつむじ風を巻き起こされると身構えたパチュリーだったが、それは杞憂に終わった。文は音もたてず、そっと旅立っていった。
 その後ろ姿が見えなくなると、こぁと一緒にテーブルを起こし、再び外出の準備をするよう命じた。
「またどこかにお出かけするんですか」
「話を聞いているうちに、気になってきちゃったから」
 気になりだすと中途半端に捨て置けなくなる。本当はこれからゆっくりとアリスとゴーレムの入れ替わりについて思考を巡らせるはずだったが、予定を変更することにした。
「了解です。ちょっとお待ちください。床だけ綺麗にしていきますから」
 絨毯の上で転がるティーポッドを見つめ、これはちょっとでは済みそうにもないな、とパチュリーは小さく吐息をついた。

          5

 人間の里を目指して上空を飛行していると、眼下に慧音を認めた。小走りになっている。急いでいるなら飛んでしまえばいいのに、と思いつつ、気になったので降りることにした。こぁも同じ軌道を描いて降りていく。
「どうも」
 パチュリーが挨拶しながら降り立つと、慧音はその脚を止め、息を乱しながら目を大きく開いた。
「なんだ、パチュリーたちか」
「急がれていたみたいですが……何かあったんですか?」
「ちょっとね。気になる話を耳に挟んだものだから」
 それより、と慧音は一瞥をくれて訊いてきた。
「そちらこそ珍しいじゃないか。神社にでも行く途中だったのかな」
「いや、私たちは里に行こうと思っていて」
「里に?」
 慧音の瞳に不審の色が滲むのを、パチュリーは見逃さなかった。
「どうかされました?」
「あ、いや」完全に虚をつかれた、という顔だ。
「実は里に不穏な動きがあるという話を聞いたものですから」
 こぁの絶妙なタイミングでの切り込みが入ると、慧音の口が閉じた。ぐっと何かに耐えるように、眉間にしわまで寄せている。
「里に何かあったんですか?」
 問うてもしばらくは口を結んだままだったが、これ以上は誤魔化しきれないと悟ったのか、慧音は重々しく語り出した。
「実は、岸崎実が失踪したんだ」
「岸崎ミノル?」
「ああ。岸崎玲奈の父親なんだが、昨日の夜から姿が見えないらしい。奥方が泣きついてきてな。今探し回っていたところだ」
 それで飛んでいなかったのか、と得心がいった。空から探すよりも、同じ目線で探した方が見つかりやすいと考えたのだろう。
 そうでしたか、と答えかけたパチュリーだったが、
「それからもう一つ」と慧音に先を越され、口を噤んだ。
「岸崎忠志も一緒にいなくなった。併せて探しているところだ」
「ええと、そのタダシというのは」
「岸崎玲奈の夫だ。こちらも昨晩から姿を見た者がいないらしい」
「二人一緒に……」
「そこがひっかかるところだな」
 慧音の真剣な眼差しを見て、パチュリーは自分が今考えていることがそれほど的外れなものではないと感じた。
 おそらく――おそらくだが、そのタダシという男は、ミノルを亡き者にしようとしている。いや、すでにそうなっているか。一夜もあれば十分可能なことだ、それは。
 動機も、それなりにある。ミノルは貧困を解消する代わりに婿入りしろなどと脅した輩だ、タダシに恨みも相当買われていることだろう。
「それに」と慧音が続ける。「奥方の言動も何か変なんだ。他に頼れる者も、相談できる者もいないと言うんだよ。里には大勢の人々がいるというのに」
「単に知り合いがいないだけなのでは?」
「それはあまり考えられないと思う。何せ岸崎家は金貸しで有名でな、人脈もそれなりにあるはずなんだ。それなのに相談できる者がいないなんておかしくないか?」
「……確かに」
 金のあるところに人あり、人のあるところに金ありという。それに貧民層でさえ仲間が集まるのだから、金持ちのところに仲間が集まらないのは些か不可解だ。
「だろう? 何か他人には漏らせない秘密でも抱えているのかと思ってね」
「それは大いに考えられますね。もしかしたら――」
 ある突拍子もない考えが頭に浮かび、つい口から出かかってしまった。慌てて何でもないと訂正したが、慧音はどうにも気になるようで、結局話してしまうしかなくなった。
「いや、まったくの妄想なのですが」と念押ししてから話した。「そのミノルなる者が、タダシを殺めようとした、とか」
「またとんでもなく突飛な発想だな。どうしてそう思う?」
「ミノルはタダシに経済的困窮の解消を餌に婿入りさせたんですよね? つまり娘を押し付けたかった。けれども娘がいなくなってしまえば、タダシはただのお荷物です。守銭奴のようですから、タダシに流れる金がもったいないと思ったんじゃないでしょうか」
「なるほどな……」慧音は腕を組んで唸った。
 それからたっぷりと考え込み、顔を上げた。
「しかしそんなことをすれば、岸崎実は周りから顰蹙をかうだろう。金貸しは信用が命だ。そんなことをするかな」
「どうでしょう。娘の仇討だ、とでも言えば、世間は同情すると思いますが」
 事実、人間の里ではそういうことが過去にあった。結婚を反対された若い男女二人が彼の世で結ばれようと自害してしまった時のことだ。二人はどちらも助からなかった。両家の両親は嘆き暮れたのだが、突如として娘側の父親が刃物を手にし、相手の父親を刺し殺してしまったのだ。当然非難されるのは刺した男のはずなのだが、人間と言うのは不思議なもので、娘さんのことを思えばわからないでもない、と同情の声が多数上がったのである。
 パチュリーはその時、人間というのはなんと勝手なのかと呆れたのだが、当時のことを思えば今回も同じではないかと思うのだった。
「いかにも有り得そうだ。動機といい、筋書きとしては悪くない」
「でも妄想ですから」
 パチュリーは社交辞令の笑みを浮かべたが、胸中では、あながち間違いではないのではないかと肯いていた。人間は勝手だ、魔法使い以上に。
「そうだ、妄想だから聞き流してしまおう――そう言えないのが悲しいな。あまり岸崎家には縁がないが、少なくともつい先程逢った奥方は、腹に一物ありそうな顔をしていた」
 業腹な夫、それに毒されきった妻、という構図は、いかにも創作の設定に使われそうだ。現実にいるとは考えたくもないが。
「パチュリーの言う通りなら、身内の恥を曝したくなくて私のところに来たという解釈になるな。里の人間に漏らせば、一気に風聞が広まるだろうから」
「でもそうなると」顎に人差し指を当てたこぁが言う。「文さんの話はどういうことなんでしょう」
「文?」耳ざとく慧音が反応する。
「はい。文さんの話によると、里で頻繁に男の人たちが集会を開いているということでして。イッキでしたっけ? それを画策しているんじゃないかって」
「え――?」
 本当なのか、と目線をこちらに向けてくる。パチュリーの答えは勿論一つだ。
 そうなんですよ、本当なんです、慧音さん。
「それで私たち、調べようと思ってこちらに来たんですけど。慧音さんが気にされている里の話とはちょっと噛み合わないかな、と」
「いやまさか」
 みるみるうちに、慧音の顔から血色が失せていく。「あれがそうなのか……?」
「何か心当たりでも?」
「心当たりというか」
 極端に少なかったんだ、と慧音は言った。
「あれはいつもの里じゃなかった。男たちというより、人そのものがほとんど歩いていなかったんだよ。まったくいなかったと言ってしまっても差し支えないくらいに。奥方にどうしてか訊ねた時、彼女はみんなが祭りの準備をしているからだと言っていたが」
 男は花火を、女は食事を各家庭で用意しているから、みんな出歩いていないんですよ、と説明したという。
「おかしいとは思いつつも、捜索を急かされていたんでな、あまり深くまで考えなかったんだが」
 しまったな、と慧音は悔しそうに歯を噛む仕草を見せた。長めの糸切り歯がちらりと覗いた。
「私はね、本当は別件で里に向かっていたんだ。今回の事件のことで、みんなを説得するためにね。しかしそうも言っていられなくなってきたな。どうにも嫌な予感がしてならない」
「私もそう思います」
 パチュリーは神妙に同意した。これから一体何が起きようとしているのか。
 消えた里の住人。密かに会合を開いているという男衆。
 不安を育てるように、ガア、と近くでカラスが鳴いた。
「とりあえず、私は一旦里に戻るよ。そちらはどうする?」
「そうですね」
 考えるための間を少し置いて、それから返事をした。「香霖堂に行こうと思います」
「香霖堂に?」
「ええ。霖之助さんの師は魔理沙のご尊父様ですから。きっと里の中の事情にも詳しいでしょうから、何か聞いていないかと思いまして」
「なるほど。では二手に別れるとしよう。早く終わった方がもう片方の場所に行くというのはどうだろうか」
「こちらはそれでいいです」
「では後ほど。道中、気をつけてな」
 返事を待たず、慧音は走り出した。
 飛んでいけば早いのに、とこぁが言ったのを合図に、パチュリーも目的地に急ぐため身体を浮かせた。
「あっ、ちょっと待ってくださいよ」
 こぁのすがるような言葉は、背中に当たって推進力となった。

 森近霖之助は平時通り、香霖堂で店を開いていた。愛想の悪さまでいつも通りである。
「珍しいな、肩で息をしているなんて。健康を気にして走り込みでもし始めたのかい?」
 客に対しての第一声がこれである。店が繁盛しないのは、接客の仕方が悪すぎるからではないだろうか。
 パチュリーは息を大きく吐いた。
「溜め息をつかれるとは心外だな。僕は正しいことしか言っていないのに」
「溜め息じゃない。疲れたからよ。誰だって魔力を使えば疲れるものなの」
「天才魔法使いの君が疲れるとはね。ってことは飛んできたってことか。どんな飛び方をしてきたんだか」
「そうね。里からここまで五秒で来れるくらいの速さを誇る飛行魔法よ」
 勿論口から出任せだが、これを真に受けるのが霖之助という人物である。
「魔法の研究もそこまでいけば大したものだな」と妙に感心された。
 こういう霖之助の姿を見るたび、こぁの姿と重ねないわけにはいかなくなる。どうしても二人が似たもの同士にしか見えない。口の悪さを除けば、二人は親子でも通じそうだ。
「それで今日はどうしたんだ? 新しいものなんて一週間やそこらで手に入るものでもないんだが」
「今日は商品を見に来たんじゃないの。ちょっと話を聞きたくてね」
「ふむ」霖之助はカウンターの奥にある椅子に着席し、メガネのブリッジを人差し指で押し上げた。「どんな話かな?」
「あなたのお師匠様、最近ここに来なかった?」
「いや、来ていないが」
 空振りだった。それもフルスイングでの空振りだ。
「そんな残念そうな顔をされてもな。第一、師は一年に一度来るか来ないかだぞ」
「その一度に期待していたんだけどね」
 となると、里での不吉な予感は考えすぎだということだろうか。男衆の集会も、岸崎夫人の言っていた通り、祭りに関連するものだったということなのか。
「何やら深刻そうだな」
「そう見える?」
「君はともかく、お隣さんを見るとね」
 言われて隣を向くと、萎れた翼のせいか妙に小さくなったこぁがいた。顔も青白く、やっと立っているという体である。
「パチュリー様……」
 こぁは悪魔の端くれであるはずだが、争い事が大の苦手だ。妖精たちの可愛らしい喧嘩であってもオロオロとするほどに。
 繊細すぎる彼女には、今回の案件は荷が重すぎたようだ。畏縮しきった双眸が、克明に物語っている。
 こぁのことなら大体は把握していると思っていたが、霖之助に指摘されるまで気付かなかった自分に、パチュリーは情けなさを感じた。これでは主人失格だ。
「ここのところの疲れが出たみたいね。あなたは先に館に帰っていなさい」
「えっ、でも」食い下がってくるこぁの意気は、まるで棄てられてしまうのではないかと怯える愛玩動物のようだった。
 その姿に、心がずきりと痛んだ。
「また明日から同行してもらうから。それにそろそろ夕飯の支度をしなきゃいけないでしょう。もうこっちは大丈夫だから帰りなさい」
 もっと食い下がってくるかと思ったが、こぁは案外すんなりと受け入れてくれた。「……わかりました」
「私も、もう一度里に行って慧音と話をしたら帰るから、そんなに遅くならないと思うわ」
「了解です」
 無理やりの笑みを見せ、こぁが香霖堂から出て行く。ごん、と扉の閉まる音が、静かな店内に響いた。
「事情を話してもらえると助かるな。もしかして例の汚れから何か分かったのかな?」
「それはまだよ。それに事情といっても、こちらも憶測の範疇を出なくてね」
 それでも話すのが筋だろうと、パチュリーは頭の中で整理し始めた。さて、どうやったらうまく伝わるだろうか。
 考えをまとめ、さて話し始めようとしたまさにその時、どこからか爆音が響いた。即座に思ったのは、誰かが大砲でも撃ったのかということだったが、すぐにその考えを打ち消した。ありえそうにもない妄想だ。
 音のせいで、地震とまではいかないが建物が微震した。天井から煤らしき黒い粒がはらはらと落ちてくる。
「な、なんだ」
 霖之助は狐につままれたような表情で立ち上がり、すぐ後ろの窓を覗き見た。パチュリーも遠巻きに窓の向こうを窺った。
 すると二発目の轟音と共に、間近で紅い光が咲いた。蓮華のように美しい華を咲かせたかと思うと、すぐに空気に溶けて消えていく。
「なんだ、花火か」霖之助は、はっと鼻で笑った。「驚かせてくれる。ちょっと近すぎる気もするが」
 だがパチュリーには、その花火が不吉の始まりを示す合図にしか見えなかった。自分でも驚くような俊敏さで回れ右をし、店から出る。
「あ、おい」と声を上げて霖之助が追ってきたが、振り返っている場合ではない。
 パチュリーは里に身体を向けると、ありったけの魔力をこめ、己を弾丸に変えて飛んだ。それこそ、先に彼に言った冗談を実現するかのような速度が出た。

 風圧でうまく呼吸ができないくらいの速度で里に来てみると、ちょうど着地した場所に慧音がいた。あまりに出来すぎた偶然に、少し狼狽してしまった。
「もの凄い偶然ね……」
「ああ、私も驚いたよ。二重の意味でな」
 一つはばったりと出逢えた偶然に。もう一つは空から弾丸が降ってきたことに、だろう。
「とにかく、のんびり話をしている場合じゃない。文の情報は正しかった」
「と、いうと?」
「集会の意味だよ。親しくしている老夫婦にさっき訊いた。この花火はおそらく、その合図だ」
 不吉の始まる合図――ずばりイメージに描いた通りで、パチュリーは知らず身震いしていた。
「何の合図なの?」
「蜂起だ。変乱といってもいい」
「――まさか」
 これまで幻想郷には様々な事件、異変があったようだが、変乱というのは聞いたことがない。
「信じられないかもしれないが、本当だ。主格は金本理沙の父親で、賛同者はどれだけいるかわからない」
「幽霊街になっていたのは、みんながこのことを知っていたからか。ということは、もしかしたら里中の男たちが総出で乱を起こしているじかもしれないってこと?」
「可能性は捨てきれん。規模までは掴んでいなかったようだが、何分老夫婦は自分たちが教えたことを漏らさないでくれと言っていた。報復を恐れてのことだろうが、かん口令を敷くくらいだ、かなり計画的だと見て間違いなかろう」
「厄介なことになったわね。それで――」
 言いかけたパチュリーの声を、雄叫びのようなものが遮った。地から湧いてくるような、地鳴りに近い音だ。
「な、なに」
「喊声だと思う。戦場では珍しくもなんともないんだろうが」
 ここは平和の郷、幻想郷だ。戦のないところで喊声など聞けるものではない。
「それなりに人数はいそうね。さて……どうするか」
 その独り言に、慧音は間断なく答えた。「止めに行く」
「狂える相手に、どう止めようと?」
「彼らは計画していた。狂ってなんかはいないはずだ。話せば通じるはず」
 それは貴方の願いでしょう――言ってしまうのは易しいが、武力行使の末路を簡単に想像してしまえるだけに、反論はできなかった。
「とにかく行ってみよう」
 慧音には殺されてしまうという危惧がないのだろうか。もしかしたら蜂起した全員が武器を持っているかもしれないというのに。不思議に思いつつも、パチュリーは同伴することにした。
 大きな流れに身を委ねているような、奇妙な感覚が肌に付きまとって離れてくれない。それを払いに行くのだ、と自分に言い聞かせた。

 空に上がってみると、集団はすぐに見つかった。天に挑むように二つの旗が突き上げられている。中には松明を持っている者もちらほらいた。
「降りよう」
 慧音が短く言った。殺気漲るあの集団のところへ降りよう、と。
 彼女に迷いはなかった。ふっと魔力を抜いて、垂直落下していく。パチュリーはあくまで緩やかに降りて行った。その間、集団を観察しようと思ったのだ。
 しかし眺めてみたところで、規模があまり大きくないということくらいしかわからなかった。五十人もいなようだ。見た感じでは、男のみの集まりのようだった。
 ただ、感じるものはある。
 彼らは怒っていた。とてつもなく大きな怒りがとぐろを巻き、彼らを囲っている。何かの弾みでその表皮に触れてしまえば、たちまち殺気に昇華してしまいそうなほどに強い思念だ。
 慧音の隣に着陸すると、それを待っていたかのように彼女が言葉を発した。
「止まってくれ!」
 両手を大きく広げ、懇願する。だが集団はとうに止まっていた。慧音が降り立った時から。
 集団の先頭を歩いていた男が一歩前に出てきた。禿頭というわけではないが、かなり髪の薄くなった中年男性だった。背は低いが恰幅がよく、目尻が細くなっているせいで目つきが鋭く見える。
「先生、そこをどいていただけませんか」
 口調は丁寧だが声音は硬い。慧音の言うことなど聞く耳もたないといった感じだ。
「それはできん。物騒な物を手にして何をしようとしているんだ」
 そこでようやく、パチュリーは彼らの手に注目した。各々が鎌のようなものを持っている。中には刀を持っている者もいた。怒気の源は、何も心身のみで生み出されているわけではなかったのだ。武器を手にして無心になれる者など、まずいまい。
「先生には関係のないことです。ですからどいて下さい」
「関係ないわけがないだろう。私も里の住人だ。聞く権利がある」
 その時だった。男の顔がぐにゃりと歪んだのは。まるで怨敵でも睨むように、憎しみが具現したかのような歪みが、顔中を覆った。
「先生、貴方には娘がお世話になった。だからこうして手を出さないんです。それをわかっていただきたい」
「こんなことをして、理沙さんが喜ぶとでも?」
 娘――理沙さん。なるほど、この中年男性が金本理沙の父親か。
「あいつが喜ぶ喜ばないは関係ない。私たちは後世のために決起したんだ。邪魔をしないでくれ」
 金本父は気づいているだろうか。言葉遣いがぞんざいになっていることに。そして後世のためだと言う口が、般若仮面のそれになっていることに。
「そんなのは詭弁だ。貴方は仇討がしたいだけなのだろう」
「何を勘違いされているかは知らんが、私たちは交渉をしようとしているだけだ。話より闘争を好む妖怪連中を相手にな」
 ハ、と彼が鼻で笑うと、後ろで待機していた群集の面々もつられる形でせせら笑った。どうやら皮肉がうけたらしい。
「そういうことだから、そこをどいてもらえませんかね」
「嫌だと言ったら?」
「そのときは仕方ありません。腕ずくでも通させてもらいますよ」
 金本父は徒手空拳だ。強がりを言ったところで、半獣である慧音にかなうわけがない。それでも強気になれるのは、後ろに控える何十という男たちのおかげに違いない。彼らの手には獲物が握られている。今この瞬間にも飛びかかれるよう、心の準備も済ませているはずだ。
 さすがにこれ以上の交渉は無理があるのではないか、という視線をパチュリーは送ったが、慧音は諦める気がないようだった。
「貴方たちにも家族がいるはずだ。その家族を悲しませるようなことはしないでくれ」
「悲しむ?」今度こそ金本父は素の笑顔を曝した。「あのね先生。私どもは家族の承諾を得てここにいるんですよ。だから悲しむなんてことにはならない」
「な、に」
 愕然とする慧音の両腕が、だらりと垂れ下がる。
「ここにいる者たちはみんなそうです。家族賛同の上で来ている。そうでない者は全て里に置いてきています」
「馬鹿な……」
 驚く慧音に、どこまでお人好しなのか、とパチュリーは内心で呆れた。いくら日頃里で生活しているからといって、人間を信じすぎだ。彼らの心がどれだけ移ろいやすいか、永く生きている慧音にならわかっているはずだろうに。
 平和を願う心も、瞬く間に反転するのが人間ではないか。
「本当の話ですよ。それにね、今回私たちが決起したのは不平等是正のためです。それのどこが悪いんですかね?」
「不平等?」
「ええ。岸崎さんのところの犯人は妖怪だったそうじゃないですか。うちの理沙もどうせ犯人は妖怪なんでしょう?なのに、どうして私たちの手で裁かせてくれないのです。 どうして妖怪の頭がことを収拾しようとしているんですか」
 その問いに答えようとするなら、妖怪頭の八雲紫を連れて来なければならない。そしてそれはパチュリーも望むところであった。彼らと同じ疑問を、この心の中に宿している。
 どうして犯人である妖怪を、霊夢越しに妖怪のトップが匿っているのか。どうしてルーミア――ああいや、リグルを、人間たちの手に委ねず、事件を秘密裏に収拾しようとしているのか。
 これが逆であったのならどうだ。人間が妖怪を殺めたのなら、紫は犯人を庇うだろうか。
「そ、それは……」
 そう言えば慧音は、今回の事件のことで人間たちを説得しようとしていたと言っていた。彼女はどんな言葉で、どんな内容で説得を試みようとしていたのか。
 不和をおそれ、とにかく許してやってくれと哀願するつもりだったのか。それとも真実を全てぶち撒き、事故だったんだから諦めてくれとでも言おうとしていたのか。小さな故意から起きた大きな事故だというのに。
「答えられないのなら、そこをどいていただきたい。直接巫女に訴えますから」
 ずいと肩を張って歩き始める金本父。慧音は顔を青くさせるだけで何も言えずにいる。
 さて困った、わかっていた展開ではあるがこのままでは後味の悪いことになりそうだ――途方に暮れるというのはまさにこのことを言うのだろうなと、半ば自棄になりながらパチュリーは腕を組んだ。そして無意識に空を仰ぎ見ると、ちょうどそのタイミングでこちらに向かって降りてくる何かが目に映った。
「え」驚きで反射的に声が出た。
 そのせいで皆が一斉にこちらを向いた。殺気のこもった瞳ではなく、純粋に「どうしたのか」という疑問を灯した瞳で以って。
 空から降りてくる何かの影は二つ。一つは長方形の物体で、もう一つは――アリス?
「アリスなの?」
 問いかけるのと、着陸するのは同時だった。ふわりと衣服が舞い、それが重力によって戻るのを待って、アリスは顔を上げた。
 目と目が合う。瞬間、心臓が爆ぜたかのような音を立てた。続く鼓動はしかし、病に冒されたように痛みが伴った。
 アリスが来た。たったそれだけのことだと言うのに、腋下から胴にかけて冷たい汗が流れた。頭の天辺がじんと痺れる。身体のありとあらゆる部分が、危険を報せようと躍起になっているようだった。
 理由は明らかだ。目の前にいるのはアリスではなく、ゴーレムだと知ってしまったから。周囲を欺き、パチュリーをも欺いて演技を続けているのだと知ってしまったから。
 だというのに、ゴーレムはまたも白々しく話しかけてくる。その手に旅行鞄のような長方形のケースを下げて。
「パチュリー、大丈夫? それに慧音さんも」
「そちらこそ。しかし、どうしてここに?」
 大きく開いた瞳を真っ直ぐゴーレムに向ける慧音は、いまだ相手がアリスだと思っているようだ。
「人間の里に用があって来たんですけど、誰もいなくて。で、花火があがったので、何かあったのかと空を飛んでいたら」
 二人を見つけたんです、と馬鹿みたいに丁寧に言う。
 アリスの偽者は、見た目だけなら本物そのものだ。見分けなんて、血縁であったとしても簡単にはつかないだろう。
「そうだったのか。しかしアリス、君もまたタイミングの悪い娘だな。こんな局面に立ち会ってしまうとは」
「実はそうでもないんですけど」
 ゴーレムがちらりと群集を見る。「私、大体のことを知ってここまで来たんです」
「大体のこと?」
「ええ。里の子供のおかげで」
 どうやら彼女はその子から情報を得てやってきたらしい。だから第一声が「大丈夫?」だったのだ。
「蜂起したんですよね、彼ら」
 呆気にとられている群集を横目で見、耳打ちするようにゴーレムは口を片手で覆った。「だから鎌とか持ってる」
「嘘だと信じたかったけどな」
 この有様だよ、と慧音は視線を群集へ投げた。その仕草を不審とみたのか、先の金本という中年男性が声を上げた。
「内緒話はやめてくれないかな。するならするで、そこをどいて欲しいんだが」
「思いなおしてくれないか」
 さっきまでのやりとりで、それは不可能だと身に染みたはずだが、慧音は構わず声を張り上げる。「このままでは双方のためにならない」
 必死に説得を繰り返す慧音だったが、思いは届かなかったようだ。
 ちっ、と舌打ちが聞こえてきた。相手に聞かせるためのわざとらしい舌打ちだ。
「妖怪のためだけになるのも我慢ならないんだがね」
「どこかに必ず折衝点があるはずだ。どちらにも禍根が残らないように、そこをじっくり検討し合って欲しいんだ」
 慧音は誠心誠意を尽くしたことだろう。
 しかし、誠意を見せているからといって受け入れられるとは限らないものだ。
「あのさぁ」旗を持った若い男が首を回しながら、苛立った口調で言う。「最初からお宅とは話はできっこないって言ってるだろ? どいてくれないなら容赦しないよ、言っておくけど」
 男は勢いよく旗を地面に突き立てた。先端に刃の付いた、槍そのものの旗を。
「本気なのか?」
「冗談で出来るようなことじゃない」
 ぴしりと言い捨てる金本父に、慧音はついに言葉を繋げることができなくなったようだった。さっきもゴーレムが降ってこなければあのまま行軍を許していただろうから、当然といえば当然の結果ではある。
 が、今は異分子たるゴーレムがいる。アリスに取って代わった生き人形が、すぐ目の前に。
 その口が開く。
「まだ第一の事件も解決していないのに、こんなことをするんですか」
 非難めいた口調だった。アリスは元々物事をストレートに言うタイプだったが、そういう面までそっくりだ。
「確かに解決はしていない。だが妖怪の仕業だというのは見ればわかると思うがね」
「それはどうでしょう。人間には知恵があります。死体の状況だけで妖怪の仕業だと決め付けるのはどうかと思いますが」
 死体――確かに死体だ。それでも、その一言を彼に言ってはならない。ゴーレムは知らないかもしれないが、彼は被害者遺族なのだから。
 しかしゴーレムは気にした様子も見せず続ける。
「どうやったらあんな状態に出来るのか、今は想像することさえ難しいですが、きっとそのうち誰かが解決すると思います。それまで待った方がいいんじゃありませんか?」
 案外、里の人間が犯人かも知れませんし。
 言い終えた直後から、場に沈黙が降りた。パチュリーは途端に気まずくなり、息苦しくなった。ぱちぱちと松明の燃える音が妙に耳に付く。
 その如何ともしがたい沈黙を破ったのは、金本父だった。
 旗持ち男の手から旗を奪い取ると、切っ先を眺めた。目は矛先と同じくらいに細められ、まるで何か眩しいものでも見ているかのよう。
 だが彼は、矛先など見ていなかった。その先にある未来を見ていた。
 空気を裂く音が聞こえた。そう思った時には既に、ゴーレムの喉仏に旗の切っ先が突きつけられていた。槍と化した旗の重さなど、まったく感じさせない電光石火の動きであった。
「貴方の人形劇を見たことがある」金本父が独白する。「理沙も一緒にだ」
 理沙、という単語にゴーレムは反応した。身体は微動だにさせず、目だけを大きく開けて。彼が金本理沙の父親であることを、たった今知ったようだ。
「貴方はもう忘れてしまっているかもしれないが、私たちには素晴らしい思い出として残っている。今この瞬間も」
 彼はわざわざ「私たち」の部分を強調した。
「まだ寺小屋に通わせてもいないくらいの幼さだったが、理沙は貴方の人形劇を目にしたその日から、人様のために生きたいといって勉強をし始めた。人形劇は無理でも、勉強さえしていれば、きっとみんなの役に立てるはずだと言ってね」
 ゴーレムの顔に変化はない。人形のように透き通った空色の両眼も、目一杯開かれたままだ。
「先生にも大変お世話になった。だからこうして下手に出ているんだ。それをわかって欲しい。でなければ――」
 鎬がゴーレムの喉首に触れる。「頼む。この通りだから退いてくれ」
 ここまでだな、とパチュリーは思った。慧音も、これ以上は説得など無理だと悟ったのだろう。俯くばかりで口を開こうともしない。
 妖怪が人間を殺めたのだから、人間に妖怪を裁かしてくれ。その権利をくれ。犯人を隠し、庇護するなんて酷すぎるだろう――こう主張する彼らのどこに非があるのか。
 どこにもないからこそ、彼らを退けられないのだ。こちらにはその名分すらない。
 しかしアリスの顔をしたゴーレムは違った。
 彼女が手に持っていた長方形のケースが突如、地面に落ちた。ばかん、と派手な音が木霊する。金本父は驚きからか、旗の柄を握ったまま動かない。
 落ちた衝撃で、ケースがばっくりと開いた。中に納められた四体の人形が、勢いよく中空に放られる。
 本来ならそのままケースの中に舞い戻る運命であるはずの人形たちはしかし、その寸前、まるで各々が意思を持っているかのように、自在に空を飛び回り始めた。人形劇すら知らない者がこれを見たら、さぞ異様な光景に見えたことだろう。
 そのうちの一体が、硬直している金本父の手に突っ込んだ。ちょうど親指と人差し指の間である。
 ぐっ、と彼は顔を歪めながら低く呻き、その手から旗を滑り落とした。大の大人が握っていた旗を落とすくらいだ、それなりの威力を帯びていたと解することができる。さすがはアリスの人形だ。凶器となんら変わりがない。
 ケースを落としてからここまで、実に瞬きの間ほどしかない。巧遅拙速などではなく、これぞプロと唸らせられるほどの速さと技巧が、ゴーレムには確固としてある。それこそ、本当のアリスの業と見間違うほどに。
「退くのはそちらでしょう」
 いつの間に嵌めたのか、ゴーレムの十指には金色に光る指輪が嵌められていた。アリスが人形を繰るときに用いる、特殊な形をした指輪だった。「娘さんが悲しみますよ」
 浮遊する四体の人形たちが、金本父の周りを取り囲んだ。彼はまだ手を押さえている。広い額に波打つように刻まれたしわが、苦悶の度合いを物語っていた。
 それでも彼は、腹の底から搾り出すような声で断じる。
「理沙は悲しまないよ。他人のためになることをしようとしているんだ」
 むしろ娘の夢を叶えようとしているんだ。パチュリーにはそう言っているように聞こえた。
 だが応じるゴーレムは顔色一つ変えず、父親の想いを圧壊するための言葉を吐く。
「他人のために生きたいという願いを貴方が叶えようと? それこそ冗談でしょう。貴方のやっていることは、単なるあてつけですよ」
「――――」
 一瞬にして彼の顔から歪みという歪みが消えた。代わりに浮き出てきたのは、表情を消すための硬い肉だった。それが固まり、能面のようなのっぺりとした形――まるで木彫りの面のような――を模る。
 対するゴーレムは、こんな状況でありながら口端に笑みを刻んでいた。更に、勝ち誇ったような、見下すような視線を金本父に送っている。
 パチュリーはその様子を傍らで見ながら、本物のアリスであっても、こういう態度をとるだろうか、と考えた。
 案外冷酷さも併せ持っている彼女だから、可能性としてはあるかもしれない。いや、冷酷さであれば自分も負けじと裡に秘めている。ただ表に出さないだけで。それでも、生身の相手、それも必死の形相で何かを為そうとしている人に冷酷さを貫ける自信はない。
「貴方のせいで不幸になっている娘が、今この瞬間にもいることがその証明です。被害者である娘を盾にして、結局は敵討ちがしたいだけなんでしょ? 妖怪たちを殺してしまいたいだけなんでしょ? 裁きだなんて上等な言葉を使って隠れ蓑にしたところで、貴方の怒り――というより殺意は小さくも弱くもない。違いますか?」
 後ろの方々も、と顎を突き出して、ゴーレムは群衆を窺い見た。
 またしても沈黙が降りてきそうな雰囲気となったが、今度はそうはならなかった。
「金本さん、もういいじゃないか」と誰かが大声で言った。
「やっぱり話し合いなんて無理だったんだよ!」
「そうだ、初めからわかってたことじゃないか。俺たちはとっくに孤立しちまってるんだって」
「弱い者の意見なんて無視されるのが常なんだよぉ! だからうちらが見せ付けてやろうって、あのときみんなで言い合ったじゃないかよぉ……っ!」
 群集が、吼えた。
 先刻聞いた喊声より、更に大きな怒号が上がる。彼らの発した言葉の波が身体にぶつかり、小刻みの振動が全身にくまなく伝播した。まるで電気でも流されているかのように、一本一本、毛の先端まで行き渡っていく。
 ゴーレムの心理分析は正確だった。彼らの本音はやはり、憎悪そのものだったのだ。交渉したいというのは建前だ。
 魔道などに身を費やしたりしていない、また妖怪でもないごく普通の一般人たちは、すべからく弱い。だから強き者が同調してくれないとなれば、たとえ命がけであったとしても淘汰しないと自分たちが生き残れない。
 そんな不安定な立ち位置に甘んじなければならない自分たちが不甲斐なく、また不条理だと怒り、どうしてなんだと怨嗟を溜め込んできた結果が現在なのだ。表面上は平和に見えていた幻想郷だが、それはまやかしだった。少なくとも、強者の側であるパチュリーにしてみれば。
 アリスの生き写したるゴーレムはまだ笑っていた。彼女の瞳にはどう映っているのかはわからない。だが、人間たちを焚きつけたせいで、彼らは冷静さを失ってしまったのは確かなようだった。
「どうせ玩具にされて死ぬくらいだったら、せめて意味ある死を選ぼうや」
「こんな小娘にコケにされて、金本さん、あんた悔しくないのかよ!」
 そうだ、そうだ、という雄叫びが、渦巻いて天に昇っていく。熱気を含んだ気勢と共に。
 抜けるような蒼い空は、下で行われている諍いには一切の興味がないといわんばかりに澄み渡っている。雲も一つとしてない。平時なら穏やかで和やかな昼下がりとなっていたであろう風景だ。
 パチュリーの脳裏に邪悪な閃きが宿ったのは、場違いなことに想いを馳せ、独り長閑な世界に浸っている時だった。
 ――今が好機ではないか?
 アリスの家で真実を目の当たりにした時からずっと、悩んでいることがあった。
 ゴーレムの処分についてだ。
 創造主であるアリスを地に封印したことはいい。よくはないが、それはアリスの落ち度だ。痛い目にあっても仕方がないで済ませられる。どうしてそうなったかは別として。
 そうではなく、現段階では第一の事件が未解決であり、犯人もわかっていないということが肝要なのだ。
 この事件、パチュリーはゴーレムが犯人だと思っている。
 動機は魔力の確保で、手口は精気のドレインだ。遺体がミイラ化していたのは、犯人が精気を吸い尽くしたからに違いない。生まれたてのゴーレムには魔力が必要だったはずだ。本来なら主人から得られるはずの魔力供給が絶たれてしまえば、外部から得るしかなくなる。アリスから奪えればよかったのだろうが、ゴーレムの存在意義は「主人の守護」である。本能的にもできなかっただろうし、なにより守る対象が死んでしまえば存在の意味が失われてしまい、ただの泥に還ってしまうかもしれないと恐れたのだろう。
 とにかくゴーレムは、動き回られると厄介な、自分と瓜二つのアリスを眠ったままの状態で地下に閉じ込め、自らは外に出て獲物を探した。その最中、たまたま標的となったのが金本理沙だったのだ。
 証拠はない。精気のドレインが魔法ではなく能力によるものであったのなら、尚のこと証拠は残らない。魔法を行使したのであれば、遺体に魔力の痕跡が残っていて証拠として上げられるかもしれないが、能力――異能ともいう――は本人ですらその力の原理原則を理解しきっていない場合が殆どだ。証拠として採用されるかは甚だ疑わしい。
 それでもパチュリーは、ゴーレムが犯人であると確信している。ゴーレムは異能を使い、金本理沙をミイラにした。そしてアリスを演じ続け、ことの収拾がつくまで白をきり通そうとしている。もしくはアリスに成り代わり、彼女なりの人生を謳歌しようとしている。もし後者であれば、ゴーレムは再び生きるためのドレイン――方法はわからないが――を行わざるを得まい。
 アリスに扮したゴーレムが言っていたではないか。ゴーレムには食事が必要だと。何も口に食べ物を入れるだけが食事ではない。精気を吸い、糧とするのも立派な食事といえる。
 パチュリーが得た邪悪な閃きというのは、この二つ問題を解消する術についてだった。
 ゴーレムに罪を問えなければ、眼前に群がる男たちは力尽きるまで戦うことだろう。それにゴーレムの生を許せば、新たなドレインの餌食になる者も出てくるはずだ。
 閃きは、この二つを一気に解決してくれる。ただ邪悪だ、というだけで。
 それでも、この邪悪な閃きをパチュリーが一手に引き受ければ、これほど丸く収まるであろう案も他には思いつかなかった。あとはやるかやらないか、決めるだけだ。
 ゴーレムは生物ではない。だから殺める、という言葉は当てはまらない。
 壊す、だ。
 ゴーレムを一体壊せば、それで幻想郷は鎮まる。少なくとも、目の前で半狂乱になっている憐れな人間たちは引っ込むはずだ。
 彼女が金本さんを殺した犯人です、だからこの娘を殺します――そう宣言して処分してしまえばいい。どうせ殺人を犯した人形だ、壊す以外に道はあるまい。罪を被ってもらうくらいのことをしても罰は当たらないだろう。ゴーレムが犯人だと確信は持っているが、証拠もなければ自白を引き出すことも無理。だから彼女を壊そうとするのなら、人柱になってもらうのが今回の事件にとっても都合のいいことだ。犯人は誰であれ許されない、必ず断罪し、それ相応の罰を与えると人間たちに訴えかけることもできる。
 そう、これこそが邪悪な閃きの正体。相手はモノなのだから殺すわけではない、だから何をしてもいいのだと正当化している時点で、相当に真っ黒なアイディアだ。
 自嘲の笑みが漏れる。
 私は何をしようとしているのか――。
「皆さん」
 自分でも驚くほどの大きな声が出た。頬が引きつるのがわかる。馬鹿馬鹿しい、こんなことをしなくても、と思いながら、それでもパチュリーの口は勝手に動いた。
「一つお尋ねしたいのですが」
 ざわめきというよりはどよめきに近い喧騒が響いた。出鼻を挫かれるような格好になったせいで動揺しているのかもしれない。
「貴方たちは犯人をどうしたいのですか? 何を交渉しようとしていたのです?」
 これに答えたのは、代表者の金本父だった。
「もちろん裁く権利を貰うことだ。犯人にはそれなりの制裁を与えたい」
 先程とさほど変わらない弁だ。パチュリーは更にそこから一歩を踏み込んでみた。
「では今回の事件の犯人は、どう裁かれるので?」
「決まっている。故意に殺めたのなら、こちらも故意に殺めるまでだ」
 目には目を、というわけか。その理屈が正しいとして運用されていた時代もあったようだし、案外難しいルールなんて人間には必要ないのかもしれない。
「ならいいことを教えて差し上げましょう」
 衆人の目が点になる。一体何を言い出したのかと呆気にとられているからだろう。中でも目立ったのはゴーレムだった。蜂起人たちに対して焚きつけるような言葉を並べ、彼らの剥き出しになった感情を眺めて愉悦に浸っていた彼女が、今では眉間にしわを寄せて注視してくる。
 パチュリーには、それが愉快でたまらなかった。悦のせいで身震いを起こしてしまうほどに。
 人の不幸は蜜の味だ。
「金本理沙さんを殺害したのは、そこにいる女性です」
 言った。これでもう、後には引けない。
「アリス・マーガトロイドが犯人です」
 え、と誰かの声。全員の視線が、パチュリーの人差し指の指し示す先へと集まる。
 そこにはゴーレムがいる。ああ、そうだ、アリスじゃないな、とパチュリーは思い出し、言い直した。
「いえ、アリスの顔をした、ゴーレムという古代技術の結晶が犯人です」
「――――」
 絶句による沈黙が場を制圧した。
 話についていけないのか。それとも何と切り出していいのかわからず途方に暮れているのか。どちらにせよ、これだけ深く重い沈黙では、いつまでたっても話が進みそうにもない。ゴーレムも、ぼんやりと突っ立っているだけで動こうともしない。これでは激昂してくれた方がまだやりやすかった。
 しかしこの舞台を整えたのは、他でもない自分だ。進行には責任を持たなければ。
「貴方たちに代わって、私が彼女を壊します。それで矛を収めてください」
 宣言し、パチュリーは地面から足を離した。魔力を用いてゆっくりと空に向かって浮上していく。
 さきほど感じていた悦びはもう、心の片隅にすら残っていなかった。

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この小説へのコメント

  1. 緊張感が半端無い。鈴奈庵を読んだあとだと、幻想郷はあくまでも人外のユートピアみたいですからね。

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