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幽玄なるマリオネット幽玄なるマリオネット  後編   マリオネット後編 第6話

所属カテゴリー: 幽玄なるマリオネット幽玄なるマリオネット  後編

公開日:2015年12月09日 / 最終更新日:2015年12月09日

パチュリーの章

          1

「まだ目が痛むわ」
 安楽椅子に背をもたれさせ、閉じた瞼の上から濡らしたタオルを当てながら、パチュリーは嘆きを漏らした。
「本当に、永琳さんに来てもらわなくて大丈夫なんですか?」
 隣にはこぁの気配がある。もう一時間近く、ずっとつきっきりだ。
「大丈夫よ。閃光が目に直撃しただけだから」
「視力の方は戻ってきました?」
 こぁに言われ、パチュリーはタオルをずらし、ゆっくりと瞳を開けてみた。
 ここに辿り着くまで視界が白一色で、まるで目が機能していなかった。慧音に肩を担いでもらい、なんとか館までは戻れたが、意識的に瞬きを繰り返してもまったくよくなる兆しがなかったのである。
「んー……」
 結果は微妙だった。真っ白というわけではないが、はっきり見えるわけでもない。濁った灰色、と表現するのがしっくりくるか。天井のシャンデリアの一片がぼんやりと滲んでいるのがわかるが、これで見えていると答えるのは違う気がする。
「駄目ですか」
「まぁ、もう少し様子見といったところね」
 その様子見が、あとどれだけかかるのかもわからないが、三時間も四時間もかからないはずだというのがパチュリーの見方だった。
「喉とかは乾きませんか?」
「ああ、それならちょっと」
「わたし、取りに行ってきますね」
 ぱたぱた、ばたん。こぁが部屋から出て行った。
「音だけでも意外にわかるものね」
 独り言を呟いて、タオルを瞼の上に戻す。
 こうしていざ目が使えなくなると、どれだけ視覚に頼っていたかがよくわかる。人間なら――厳密に言えば人間ではないが――五感というものが働いているはずだが、はて、他の感覚はどこへ行ってしまったのだろうか。全くとは言わないが、ほとんど機能していないような。
 それにしても、とパチュリーは小さな吐息をついた。
 ゴーレムだと看破したまではよかったが、よもや偽者のアリスがあれだけ強力な閃光魔法を隠し持っていたとは。アリスといえば人形師、という先入観があるせいか、完璧に油断していた。
 これほどの不覚は、いつ以来だろう。相手はゴーレムであるといっても、さすがはアリスの生き写しだ。生半可な気持ちで望めば、命をも失いかねない。パチュリーは自分がどれだけ慢心していたか、目の痛みを通して文字通り痛いほど思い知らされた。平和ボケとは恐ろしいものである。戦乱の世に生きていれば、慢心などしなかったろうに。
 だが考えようによっては、これは天罰の類ともとれる。人工物とはいえ、相手に全ての罪をなすりつけ、しかもその命まで獲ろうとしていたのだから。
 やはり下策だったかなと嘆息を吐くと、扉の閉まる音がした。どうやらこぁが帰ってきたらしい。
「お待たせしました。はい、どうぞ」
 こぁがコップを握らせてくれた。ガラス製品のひやりとした感触が伝わってくる。それと同じくして、濡らしたタオルも剥がされた。
「ありがとう」
「いいえ。気をつけて飲んでください」
 貴方じゃないんだから大丈夫よ――喉から出かかった言葉を、パチュリーはかろうじて押し留めた。いつもの毒舌は、今日はお休みだ。
 コップの中身は冷水だった。一口だけのつもりだったのだが、思っていた以上に身体は水分を欲していたらしく、すぐに空にしてしまった。
「豪快にいきましたね」
「ちょっとね。喉が渇いていたから」
「お代わりはいります?」
「もう結構よ。それより、これからのことを考えなくちゃね」
 ゴーレムを犯人に仕立て上げたまではよかったが、逃げられてしまっては元も子もない。完全に破壊しなければ、精力奪取の犠牲者が増えるだけでなく、一旦は落ち着いた人間たちの暴走も再開してしまうだろう。スピードが求められている。
「ゴーレムさん、どこに逃げたんでしょうね」
「我が家に戻ったんじゃないかしら。人形とか、その他の道具とかを取りに」
「ですかね。他に行く宛もないでしょうし」
「ああ見えてアリス、友人少ないからね」
 休みだと決めても、毒を含んだ舌が勝手に動いてしまう。
「友人が少ないというか、どう考えても復讐のためじゃないですかね。パチュリー様に対する」
「ま、そうでしょうね。化けの皮を剥いじゃった張本人だし」
 と言いつつも、パチュリーには少しばかり気になることがあった。偽者アリスをゴーレムだと証明せしめた時のことだ。
 彼女は、魔法でヒビを演出しているんじゃないのか、と言っていた。本物のゴーレムであれば、ヒビを入れられた瞬間にでも観念すると思うのだが、彼女は目を剥いて心底驚いていた。初耳だと言わんばかりに。
 これをどう受け止めるかだが、もしかしたら本当に、自分がゴーレムであるという自覚がなかったのかもしれない。理由こそ不明だが、無自覚でなければあんな反応にはならないだろう。もしこの考え通りなら、この先、最低最悪を更に下回る――底が抜けるほどの――気分を味わう羽目になるのが目に見えている。だからパチュリーは、ゴーレムは無自覚を装って私たちを欺いているのだ、と頑なに願った。
「やっつけちゃうしかないでしょう」
 今や普段通りの幻想郷を取り戻す術は、それくらいしか思いつかない。嘘までついて大見得を切ったのだ、きっちりゴーレムを壊し、人間たちに怒りの矛を納めてもらわなければ。
「そうですよ。早く終わらせて、みなさんに笑顔になってもらわないと」
 そうだ。実証を以てゴーレムと明かしたのだから、躊躇うことはない。壊してしまえばいい。それが幻想郷を元に戻す方法だ。ひいては本物のアリスを救う道だ。
 それが私のとるべき行動だ――パチュリーは瞼に力を持たせて開いた。目に入ってきた情景は、実に鮮明だった。

          2

 ゴーレムとの決戦は翌日まで持ち越すことにした。その前に会っておきたい人物がいたからだ。
「会うそうです。どうぞ、こちらへ」
 案内役として出てきたのは、九尾狐である八雲藍だった。訪ねてきた時に応対していたのは橙だったはずだが、あのおチビさんはどこへ行ってしまったのだろう。そう思いながら藍の背(尻尾?)を眺めつつ、黒檀仕様の廊下を渡っていく。
 とにかく広い家だな、とパチュリーは思った。紅魔館もほとほと広大だが、こちらも負けてはいない。八雲家にあがらせてもらうのは初めてだが、どこからともなく甘い香りが香ってくるのが、紅魔館との大きな違いのようだった。もしかしたら、いたるところで香でも焚いているのかもしれない。
 藍は、ある部屋の前で足を止めた。襖が行く手を遮っている。彼女はその襖に向かって一礼し、声を投げた。
「紫様、お見えになりました」
 言い終えると、そろりと両膝を床に付け、襖を開ける。音を立てずに緩慢と襖が開いていくのを見守っていると、すぐに中の様子が見て取れた。
 目当ての人は部屋の一番奥にいて、パチュリーの真正面に位置していた。簡易的な肘置きにもたれかかるように座っている。廊下で感じた甘い香りが吹き飛び、今度は畳の青々とした香りが鼻孔をくすぐってくる。
「どうぞ、お入りなさいな」
 紫の声が聞こえてくると、藍は小声で「では、私はこれで」と言って引き返してしまった。一緒にいてくれた方が何かと気が楽だったのだが。
「失礼するわ」
 部屋に足を踏み入れると、足裏が畳の感触を拾った。ざらつきのある、けれど滑るような感じだ。何度踏んでも、慣れない感覚だった。
「そこにかけて頂戴」
 手で示された先には、一枚の座布団があった。どうやらそれを尻に敷けと言っているらしい。洋館とはまるで勝手が違い、なんとも居心地が悪くなってきた。
「今日はどういった御用向きで?」
 座布団の座り心地は悪くなかったが、少しばかり足のやり場に困った。きちんと座布団の中に足が収まらないのは仕様なのだろうか。
「ちょっと相談があるのだけれど」
「相談?」
 艶かしく顔を上げる紫に、パチュリーは思わず同性であるのも忘れてどきりとした。齢はとうに千を超えているはずだが、一挙手一投足に女としての魅力が帯びている。
 空咳をして居住まいを正してから、パチュリーは言った。
「相談というよりは質問ね」
「なんでしょう」
 手の甲で髪を払う仕草まで艶かしい。日頃どんな手入れをすれば――もしくは意識でいれば――これほど色っぽくなれるのか。不思議でならなかったが、もちろん口には出さない。
「例の事件のことなのだけれど」
「なにやら派手に騒ぎを起こしたようね」
「いや、それは」
 自分のことを言われたと思い、パチュリーはすぐに釈明しようとしたが、
「聞いているわ。人間たちが乱を起こしているって。ついさっきだけどね」という、まるで見当違いな言葉を聞き、内心慌てて口にチャックをした。危うくいらぬ情報を与えて、余計な恥をかくところだった。
「さすが情報通ね」
「情報通というのは間違いじゃないけど、あれだけ綺麗な決起花火を見れば、子供でも異変に気付くわよ。お祭りがあるわけでもないし」
「それもそうね。花火が上がってたこと、すっかり忘れていたわ」
「それで、質問というのは?」
「確認したいのだけれど」一度言葉を切り、唾を飲み込んでから続けた。「今回の事件、真犯人は割れているのかしら」
「割れていると言えば割れているし、割れていないと言えば割れていないわね」
 さばさばと答えてくれるも、中身は微妙だ。
「どういう意味?」
「そのままの意味よ。一連の事件を通して、真犯人はもうわかっている。けれど、どちらの事件も、果たして犯人と言ってしまってもいいものか。そういうこと」
 ゴーレムは確実に、そして故意に人の命を奪っているはずだが、それでも犯人ではないと?
「ちょっとわかりにくいわね。つまり、どちらの事件にも犯人はいない、ってこと?」
「そうじゃないの。この事件は、そもそも事件ですらない、と言いたいわけ」
「事件ですらない? じゃあ、何だって言うのよ」
 苛つきが声に乗ってしまったが、紫は気にした様子もなく答えた。
「不可抗力、ってやつ?」
「不可抗力?」
「そ。だから事故だと言ってしまってもいいかもしれないわね」
「ちょっと待って」パチュリーは腹に力を込めた。「リグルの一件は、そりゃあ不幸な事故だったと思うけれど、一つ目の事件は故意なのよ? それなのに不可抗力って」
「いいえ、不可抗力よ」
 澄まし顔の紫に、パチュリーはむかっ腹を立てた。まるで犯行を見てきたかのような物言いが気に障る。
「そう断じられる根拠は何?」
「捕食は事件じゃないもの」
 捕食は事件じゃない――それは、真相に辿り着いている者の台詞だった。犯人捜しに勤しむ姿を見かけなかったことから静観を決め込んでいたのかと思いきや、どうやらそうではなかったらしい。
「犯人は捕食のために人を殺したっていうこと?」
 確認のために訊くと、
「その通りよ。貴方も知っているでしょうけれど」
「どうして私が犯人を知っていると?」
「そりゃあ、殺害が故意だと断定していたし。それにあの騒ぎ、貴方が黙らせたんでしょう?」
 紫は愉快そうに微笑んだ。何もかもお見通しだぞ、という意地悪い笑い方だった。
「どうやら駆け引きするまでもないみたいね」
 パチュリーは肩をすくめてみせた。
「時間ももったいないしね」と、より目を細める紫。
「本当、かなわないわ」
「貴方も十分、知恵者よ」
「お世辞は結構。それより、犯人がわかっていて、なんで捕まえないのよ。人間の捕食は厳禁なはずでしょ」
「それはそうなんだけどね」紫は再び、簡易肘立てにもたれかかって溜め息をついた。「そこが難しいところで」
「何が難しいのよ。問題は明瞭じゃない」
「もちろん明瞭だわ。けれど今回の場合、問題であるはずのその規則自体、適用外な気もしていてね」
「はあ?」
 パチュリーは思いっきり顔をしかめた。さっきから会話が回りくどすぎてストレスになる。
「貴方って意外に短気なのね」
「意外でもなんでもないわよ。温和な私をここまでさらけ出させる貴方が大したものだわ」
「まぁ、否定はしないけど。でもね、ちょっと考えればわかることだと思うのよ」
「わかるなら、今の会話だけで結論を導けているわ」
「かもね」
 紫はくすっと笑いを漏らしたあと、真顔に戻った。
「捕食禁止令は確かに規則なのだけれど、規則って、知らなければ守りようがないと思わない?」
「そりゃあ」
 そうでしょう、と続けようとしていた口が、中途半端なところで固まった。驚きで塞がらなくなってしまったのだった。
「わかったみたいね。そうなのよ、今回の犯人は外部者も同じなのよね。つまりこの規則を知らなかった者の犯行なの。そして捕食は生きるためにすることだから、不可抗力なわけ」
 食事をしなければ命を繋ぐことができない。それがまっとうな生物の宿命だ。だから不可抗力。食べなければ死ぬのだから、食べるに決まっている。ただ本能に従っただけで、そこに善悪や罪の意識が割り込む余地はない。
 幻想郷で暮らす妖怪たちには独自の規則が設けられており、それを守る代わりに食事が用意されている。それがここに住まう者たちの常識だ。が、外部の者にそんなものはない。食事は呼吸と同じくらい当然のことであり、制限がかけられているなど、考えもしないはずだ。
「微妙なのは、犯人の食事が普通の人と違う、という点ね。おかげで郷中大騒ぎになったし。どうせなら骨まで全部食べてくれれば、双方にとって好ましい決着が迎えられたと思うのだけれど」
 紫が言わんとしている好ましい決着とやらは、つまりこういうことだろう。
 被害者の遺族には「行方不明」という淡い期待を抱かせてやれる。もしかしたら帰ってくるかもしれない、と。
 犯人にも、規制を教え、ここでの生きる術を教えてやれる。
 前者は、犯人が見つからなければ怨恨は彷徨うはずで、後者は、深い罪の意識に苛まされる羽目になっても公にて罰せられることはなくなる。望ましい決着になるかは置いておくとしても、今回の蜂起のような大袈裟な事件が起こることはなかったはずだ。
 だが死体は残された。しかもミイラという形で。そこから人々の憤懣が募っていき、ついには乱にまで発展した。もう、秘密裏に解決しようとしても遅きに失している。
「なら一連の騒動は、どう決着をつけようとしているの?」
 確認したかった一言を質した。今日はこのためだけに来たと言っても過言ではない。
「本当なら慧音さんが説得してくれるはずだったのだけれど」
 暴動が起きたんじゃねぇ、と紫は頬杖をついて明後日の方を見る。「今の彼らには、どんな言葉も届かないでしょうから。困ったわ」
「困ってるのはみんな一緒よ。そう言うってことは、具体的には何も固まっていないってこと?」
「そうなるわね。だって、怒った人間って、自分のことは棚に上げて反論ばっかりしてくるから。骨が折れるのよ。話の通じない相手は私の出番じゃないわ」
「じゃあ、慧音ならその役回りがこなせたと?」
「今となっては手遅れだけどね。もうちょっと早く動けていれば、十分こなせたと思うのだけれど」
「ふうん。それなら、私が考えた解決案を聞いてくれるかしら」
 紫はこくりと無言で頷いた。
 パチュリーは後ろ髪を手で鋤きながら、胸の内を述懐した。
「ゴーレムに全てをなすりつけようと思っているの。全ての罪をゴーレムに着せて、危険な古代技術の結晶も破壊も出来る。――どうかしら」
 ゴーレムと対峙したときに閃いたアイディアだ。話さなくてもいいかとも思ったが、一度ゴーレムには逃げられ、こうして相談する時間もとれたのだからと明かすことにした。紫に許可を求めるのもおかしな話ではあるのだが、一応幻想郷の管理者とも言える立ち位置にいる彼女には、筋を通しておいた方が後々災いにならずに済むと考えた。
 紫はしばらく無言だったが、顔を上げると、
「うまくいくかしらね、その案」
「自信は半々くらいにはあるのだけれど」
 紫は再び考え込んでしまった。頭の回転が速いことで有名な彼女だ、きっと何かを計算しているのだろう。
 程なくして開かれた口からは、予想外な事実が告げられた。
「貴方は今ゴーレムと言っていたけれど、あれはゴーレムなんかじゃないわ」
「――――え?」
 一体何を言い出したんだ、このスキマ妖怪は――パチュリーはすっかり混乱をきたした頭で紫を詰った。
「ちょ、ちょっと待ってよ。ゴーレムじゃないっていうのなら、あのアリスは一体――」
 何だって言うのよ、と続けるはずだった言葉の上に、紫が違う言葉をぽんと乗せる。
「影武者よ」
「かげ……むしゃ?」
「影武者というのも、この場合ちょっとおかしいか。影武者を目的として造られた、泥が主成分の複製人形。コピードールとでも言えばいいのかしらね」
 言い終えると、紫はふっと虚空に息を吹きかけた。するとそこが突然、ぱっくりと割れた。裂けたと表現してもいい。空間が裂け、まるで半開きのポケットの口のようになった。
 彼女は何の躊躇いもなく、その口の中に手を入れる。そして何かを引き抜くと、裂け目は勝手に閉じられた。ぴたりと、何の痕跡も残すことなく。
「これよね、貴方がゴーレムだって言っている根拠は」
 紫が手にし、見せてきたのは一冊の本だった。厚さはそれほどないが、傷み方が少々目立つ本だ。
「な、なんでここに?」声が裏返りかけた。
「貴方、アリスの家を探し回っていたのでしょう? その時、この本があったかしら」
 パチュリーは息を呑んだ。
 言われてみれば、見かけなかった気がする。今この瞬間まで忘れていたが、視界に入れば気がついたはずだ。
「まさか」
 信じられない気持ちで紫を凝視すると、彼女は微笑みをたたえた。
「驚いているわね。イェツィラの書だっけ? この本、早い段階で私が回収しておいたの。何かわかるかと思って」
「不法侵入に窃盗とは恐れ入るわ。ちょっと閻魔様に相談しないと」
「いやぁねぇ」紫は口に手を当てて破顔一笑した。「声をかけたけれど留守だったから、ちょっと入らせてもらっただけよ。で、ちょっと借りただけ。ちゃんと返すつもりだったんだし。それに、不法侵入は貴方だってしたじゃない」
「む」
 言われて、ようやくさっきの紫の言葉の意味を理解した。というより、ようやく気がついた。アリスの家の中を探し回っていた――どうしてそれを紫が知っているのか、という意味に。
「……覗いていたわけ?」
「たまたまよ、たまたま。コピードールの様子がおかしかったから、何かあったのかと思って。その時に丁度、中に入っていく貴方を見かけたってわけ」
 それに、と彼女は続ける。「窃盗は、郷の保全のためだったんだから仕方ないじゃない」
 彼女は博麗の巫女と同じか、それ以上にこの幻想郷維持のために奔走している人物だ。保全だからといって、やりたい放題やらせるのはどこか間違っているような気もするが、逆説的に、賢者と呼ばれるほどの頭脳の持ち主が――しかも幻想郷を心底愛している者が――郷に不利益をもたらすはずがない、とも言える。
 少なくとも過去、幻想郷の維持という面において、彼女は細心の注意を払って難事を解決してきた実績がある。それを信用するならば、今回の行動にも何か意味があるはずだし、そうでなくてはとても許されるものではない。もちろん、パチュリーの不法侵入についても同じだ。
「具体的にはどんな?」
「そんなの、聞かなくてもわかっているでしょう。コピードールの危険性についてよ」
「どうして貴方がゴーレ……じゃなくて、コピードールのことを知っているの? 最初に知っていたのは私とアリス、それに霖之助くらいだったはずなのに」
 紫はくすっと笑いを漏らした。
「香霖堂の主人は、私には何でも話してくれるから」
「え、それは初耳よ? いつからそんな関係に?」
「関係って、なんだかいやらしい響きね。ただの――そうね、色々と提供してあげている見返りよ。それでこの本のことがわかったの」
「……釈然としない部分もあるけれど、まぁそれはいいとして。どうしてコピードールが危険だと?」
「第一の事件が発生した時のこと、覚えているかしら。死体はミイラ化していて、迷いの竹林に棄てられていたわよね」
「そうね」パチュリーは頷いた。
「その時にすぐ、私はこう思ったの。ああ、これはここの規則を知らない新手の妖怪か神でも紛れ込んだかってね。知っていたらここでの殺人なんてリスクの高いことはしないだろうし、死体をあんな風にわかりやすい場所に捨てたりするはずがないもの。だけど事件のあった前後日に結界を通過してきたのは、自殺願望を持った人間の男一人だった」
「あ」
 そうか、とパチュリーは唸った。犯人捜しにあぐねいていたが、結界にまで考えが及んでいなかった。殺人の手法にばかり気がいっていたせいだ。もし早くに気付いていれば、すぐにでもここに来ただろうに。
「つまり内部の者の仕業っていうことになる。じゃあ、それは誰なのか。一人ずつ調べていった結果、その時点では二人しか犯行が可能な人物が浮かんでこなかった」
「それは?」
「本人たちの名誉のために明かせないわ。けれどその二人は調べていた時点の幻想郷で、唯一生物を枯死させられる能力を持っていた。もしかしたら私が把握していない能力や魔法を会得した可能性も捨てきれなかったから『時点』という言葉を使ったけど、その時は二人だったの」
「そういう言い方をするからには、そこから先があるんでしょうね」
「もちろんよ。その二人には動機がなかった。そもそも、これだけ平和になった幻想郷だもの、妖怪であっても好きこのんで殺人を犯そうとは思わないでしょ。食事だってちゃんとあるんだし。憎んだとしてもスペルカードという捌け口がある。スペルカードで手に負えないような相手を謀殺しようと考える輩はいるかもしれないけれど、少なくともその二人には当てはまらなかったわ。なぜって、どちらも現状に満足していたし、片方は厄介事なんてごめんだという人物で、もう片方はそんなことをする必要がないほど圧倒的な力量がある人物だったから。まぁ、弾みで殺してしまったということならあるかもしれないけれど、どちらにせよ不慮の事故で相手を死なせてしまうような二人ではなかったわ。こうやって検証していくと、この二人は対象から外れるし、犯人像は限られていくわよね」
 首でも痛くなってきたのか、紫はうなじに手を伸ばし、擦った。
「犯人は幻想郷内での知識が無く、そして殺人を犯さなければならない理由があった人物。内部犯なら規則を知っているだろうから、殺人を犯すにももっと慎重になるだろうし、足がつかないような細工を施したりするはず。これらを総合した結果、犯人はこの幻想郷の中で新しく生を受けたのではないか、という推測に至ったわけ。じゃあ、人間の新生児にそれは可能か? 妖怪の新生児にそれは可能か? そうやって考えていって辿り着いたのが、犯人は新しく生まれたのではなく、造り出されたのではないか、ってことだった」
「造り出された、ね」
 パチュリーはアリスの複製人形の顔を思い浮かべた。
 泥から造られた疑似生命体。偽物の命。
「そこに的を絞って探していたら、香霖堂の主人が面白いことを聞かせてくれたわ。曰く、イェツィラの書というものにはゴーレムの作り方が記載されているそうだ――」
 話し疲れたのか、紫は間を設けた。その間はごくごく短く、続きはすぐに再開された。
「だから、ちょっとアリスの家にお邪魔して、本を拝借したっていうわけ。本人がいなかったから了解の意は得ていないけれど、地下室の使っていなさそうな棚の中にあったから、まぁいいかと思ってね」
「よくはないと思うけれど、話としてはよくわかったわ。で、コピードールに危険性は認められたの?」
「いいえ。真っ当な妖怪となんら変わりがないわ。捕食は不可抗力の末の行為だし、快楽殺人者というわけでもなさそうだしね」
「じゃあ、私の案は却下っていうこと?」
「さっき言っていたように、ここでの規則を覚えさせて暮らしてもらう分には問題ないと思っているのよ。ただ、それも人間たちに受け入れるだけの用意があるかどうかにかかってくるのよね。妖怪たちは自分たちと似たような境遇の仲間を迎え入れるわけだから受け入れやすいだろうけれど、人間にしてみれば、悪意がなかったかったとしても若い娘を惨殺した犯人であることに変わりはないわけだし」
 でなければ暴動なぞ起こるはずがない。紫は暗にそう言っているようだった。
「だから貴方の案を取り入れるという選択肢もありだとは思うわ。生け贄という考え方と同じだから、きっと人間も納得してくれると思う」
 人間は強大な相手を鎮めるために、度々生け贄という手段をとってきた。それは彼らの歴史が物語っている。趣旨が同じなら、頑な拒絶には遭うまい。
「でもねぇ」紫はずっと手中に収めていた本を、畳の上にそっと置いた。「うまくいくとは限らないでしょ? もう人間は立ち上がってしまった。彼らも獲物を横取りされたくはないでしょう」
「代行とは考えてもらえないかしら」
「そこはやってみないとわからないところね。でも分は悪いと思うわ。どうせなら自分たちの手で断罪したいと考えるのが彼らだから。娘の無念をこの手で晴らしたい、と息巻いて詰め寄ってくる父親の姿が目に浮かんでくるわ」
 やはりあの時、コピードールに止めをさせなかったのは、とんでもない大失態だったようだ。あのまま仕留めていたら、そういった意見も無視することができたろうに。
 もう彼女はこの世にいません、どうか矛を納めて、娘さんを供養してやってください――そう押し切れたはずなのだから。
 パチュリーは鼻から息を吐き、立ち上がった。
「結論が聞きたいわ。時間も限られているし」
「同感ね。といっても、貴方が片を付けてくれるのなら、私は暇になるけど」
「その返事、勝手に解釈しろってこと?」
「ご自由に。でも、答えはここを出て行く前に置いていってね」
「しょうがないわね。でも……本当に、もう他の手立てはないの?」
 その問いには、瞼を閉じるという形で答えが返ってきた。
 パチュリーはしばらくその顔を眺めていたが、
「わかった。私が失敗したときは、後始末くらいしてよね」
 いつの間にか閉じられていた襖に向かって歩き出した。
 と、急に襖が左右に開かれた。だがその奥に藍の姿はない。
 どうやらこれが紫の返事のようだった。

          3

 六月の夕焼けは、それこそ燃えるような空模様だった。一面が茜色に染まり、雲は焦げたように黒々としている。まるで夕陽が、全てを焼いてしまおうとしているかのようだ。
 その夕陽に向かって飛行を続けるパチュリーは、先の紫との会合でのやりとりを何度も思い返していた。そして八雲紫という人物に対し、改めて恐ろしさを感じた。
 式神といわれる、使い魔のような立ち位置である八雲藍でさえ、かなりの頭脳を持っていると聞く。その主人なのだから頭がいいのはわからないでもないが、あれは度が過ぎているのではないか?
 アリスでさえ二ヶ月かかったイェツィラの書の解読を、彼女はどのくらいの期間で終えたのか。アリスがコピードールと入れ替わってからだと考えると、一週間ほどということになる。下手をすれば一日もかからなかったかもしれない。二ヶ月で読み解いたアリスを天才だと賞賛したが、アリスが天才なら、紫は化け物だ。心底そう思った。
 紅魔館の門前に着地すると、待ってましたとばかりに美鈴が寄ってきた。
「門番、ご苦労様」
 いつも通りにねぎらいの言葉をかけたが、彼女の耳には届かなかったらしい。
 開口一番、美鈴はこう言った。
「聞きました?」
「何を?」
「被害者のお父様が亡くなられたという話です」
 初耳だった。
「どうして? というか、どっちの被害者?」
「岸崎さんのお父様ですよ」
「ああ、実さん、だったっけ。昨日慧音さんに聞いたばかりだわ。そういえば失踪したとか言っていたような……」
「そうなんですか。あ、でも被害者の旦那様も瀕死の重傷だそうですよ」
「ええ?」
 人間たちの蜂起劇の裏には、小さな――いや、死者が出ていることを踏まえると、こちらの方が大きいかもしれない――事件が発生していたようだ。
「なんでも、旦那様の懐からは遺書らしきものが出てきたらしいです」

『これを母上が読まれる頃には、私はもうこの世にはいないことでしょう。今日、義父さんに呼ばれたからです。おそらく私を亡き者にするためでしょう――』
 この一文から始まる遺書は、二十枚もの和紙と細筆を使って書かれていたらしい。しかも血で染まることを事前に予知していたのか、桐箱に入っていたという徹底ぶりだ。
 そこに書かれていたのは、里中の人々がおしなべて納得してしまうような内容だった、と美鈴は言う。
「岸崎実さんですか? とにかくその人はとんでもない人間で。娘の玲奈さん、実は生まれつき心臓が悪かったんですって」
 世継ぎにと男子を欲していた実だったが、なかなか子に恵まれなかった。そのせいで彼の妻はひどく惨めな思いをしてきたという。親族たちから「子を為せぬ女は女にあらず」と罵られ、いじめ抜かれたらしい。後年、彼女がひねた人間になったのも、この時の仕打ちが関係しているといっても過言ではないだろう。彼女もまた、岸崎家の手にかかった被害者だったのだ。
 それからいくばくかの月日が流れ、待望の子が生まれたのは、二人が人生の折り返し地点にさしかかった時だった。それが玲奈である。
 しかし待ち望んでいたはずの子は女子であり、しかも生まれつき心臓に疾患を抱えているという、劣悪な条件が揃った子だった。かかりつけの医師には、もって十までと言われ、たとえ生き抜いたとしても、子は産めぬ身体だと断じられた。その時の妻の心痛はいかほどだっただろう。きっと、しばらくは涙の涸れぬ日はなかったのではないか。
 だが実は違う意味で絶望していた。男子が欲しいが、たとえ女であったとしても、利用価値はいくらでもあると考えていた。権力者に嫁がせれば、それだけで自分の地位はより盤石になるのだから。
 だからこそ、彼は絶望した。十まで育てて死なれては、ただの損でしかない。
 そんな娘はいらない――何度喉から出かかったことか。その度に、何度必死で言葉を飲み込んだことか。商売人は信用が命だ、非情の人だと噂でも流れれば命取りになる。
 彼は絶望を抱えたまま、いつ死んでもおかしくない、損の塊のような娘を受け入れた。幸い、子を育てるのは女の役目だというのが世の常識だったおかげで、直接面倒を見なければならないという事態は避けられたが、気分としては暗くなるばかりだった。
 ところが、絶望はそれだけではなかった。暗いと思っていた心裡は、まだ明るい方だったのである。
 それは、玲奈が三歳のときに発覚した。
 赤ん坊の時から泣き声が変だと思っていたが、その原因がわかったのだ。なんと彼女は口がきけなかったのである。女で心臓病だというだけでも最悪なのに、より下があるとは、さすがの実も予見できなかった。
 こうなると、妻もお手上げだった。自分が生んだ娘に愛情がなかったわけではないが、育児に疲れ果てていた彼女にとってその診断は、訃報にも等しかった。己の神経に対する訃報だ。その日を境に、彼女は変わった。今では誰もが知る、里の腹黒夫婦の片割れに。
「どうやら被害者の夫は、奥さんから色々と聞かされていたみたいですね。手話なのか、筆談なのかはわかりませんが」
 遺書に事細かく書かれていたのなら、そうなのだろう。遺書というよりは暴露書に近い気がするが。
「で、どうして玲奈さんが夫――忠志さんだったかな――と結婚したかっていうとですね」
 これがまた酷いんですよ、噂通りでしたと美鈴は顔をしかめた。
 十まで生きられないと言われていた子が十を生き、十五を生き伸びると、実の心の中に、ある想いが蘇ってきた。諦めていた嫁入りの話しである。もとい、地盤固めの戦略である。
 ところが、娘盛りも終わりという頃になっても、もらい手は見つからなかった。
 確かに器量はいまいちかもしれないが、それにしたって炊事をやらせれば人並み以上だし、裁縫や礼儀は人様に教えられるほどの実力を備えている。病気持ち、しかもいらぬ娘とはいえ、少なくともそこいらのロクに家事もこなせぬ小娘などよりは、格段に条件の良い人材であるはずだった。
 それがどうだ、二十歳を過ぎても誰一人声をかけてこようとしない。中流家庭からすら、声がかかってこない始末だ。
 里に住む人間の娘が二十歳を過ぎたら、世間からは立派な年増として扱われる。その年増が結婚しないともなれば、一家はいい笑いものだ。実際、彼は旧友らに会うたび、そちらの娘さんはまだかい、などと冗談を交えてせっついてきた。彼にはそれがたまらなく嫌だった。もちろん彼としても様々な手段を用い、なんとか娘を貰ってもらおうと努力したが、結局は無駄だった。誰も二重苦を背負った娘など欲しくないのだ。
 玲奈が二十二の時、ついに彼の堪忍袋の緒が切れた。もはや利用価値など考えている場合ではない。このままでは商売にまで影響が出てくる。玲奈のせいで人生が滅茶苦茶だ。
 ならば、と彼はある手段に出ることにした。それが金で人を釣る、という手段だった。選ばれたのは言うまでもなく忠志だ。
 本来なら結婚など絶対に許さない相手だが、荷物よりも邪魔な娘を処分できるのなら、別に気にすることもないと考えた。どうせ子は為せない身だ、相手が誰であれ、将来なんのマイナスにもならない。むしろ売れ残りである娘を捌ければ、それだけで一家――ひいては一族にはプラスである。
「忠志さんはその犠牲者ってわけね」
「そうなんですよ。子供が出来なかったのは生まれつきみたいですから、文の新聞はデタラメってことになりますけどね」
 美鈴は勝ち誇ったような顔をした。
「あの時はまだ情報が不十分で、憶測で書いていたんじゃない? らしい、とか多用していたはずだし」
「でも新聞にしてばらまくなら、それなりに調べてからじゃないと」
「それなり、っていうのがまた難しいところね。――話を戻すけれど、どうして岸崎実は死んだの? 娘が捌けたのなら、もう悠然と暮らしていけるでしょうに。というか、死んだのは忠志の方ではないの?」
「それがですね」
 彼は忠志と金で取引をしたが、その内容がまずかったらしい。
「お金をいっぺんに渡したわけではなくて、毎月少しずつ渡していたらしいです。玲奈さんと結婚すれば、生活費としてこれだけの金をやる――という感じで」
「ふぅん。ということは、私と慧音の考えはおおよそ合っていた、ってことね」
 忠志の経済的困窮の理由までは想像できなかったが、慧音から聞いた限り、岸崎実という人物はかなりの守銭奴だという印象を抱いた。だから金で婿を買うというのも、拘束力を高めるために大金は用意しないだろうと睨んでいたのだ。生殺しという言葉があるが、彼はそれを地でいった。これなら一挙に多くの金を失うこともない。
 だが肝心の娘が死んでしまったら、最善であるはずのこの手は最悪手となってしまう。もう荷物はなくなったのに、契約は生き続け、毎月支払いをしなければならないのだから。。
 実は大層苦しんだに違いない。そして、忠志のことが酷く邪魔になったはずだ。だから彼は殺人を犯した。
 こう聞けば、誰もが馬鹿な話だと笑うだろう。そんなわけないじゃないか。実行に移すなんてあり得ない話だ、と。
 けれど、現実として彼は事件を起こした。しかも妄想だと口にした推理通りに。なんと愚かな人間だ、とパチュリーは呆れ返ることしかできなかった。たとえ契約書を交わしていて、他にどうしようもないとしても、所詮金は金だと割り切って忠志に流しておくべきだったのだ。そうすれば死も免れたろうに。
「慧音さんとお話をされていたんですか」
「ちょっとね。彼女はその二人を捜していたから、流れで話しを聞いたの。それで、どうして死んだのは忠志じゃなかったの?」
「忠志さんの話しによると、なんでもつむじ風が助けてくれたとか」
「は? つむじ風?」
「はい。本人にもよくわかっていないようなのですが、うわごとのように何度もそう言っていたらしいです。ちなみに忠志さんは今、里の町医者のところにいますよ。詳しい話しを聞きたいんでしたら行ってみてはどうでしょうか。腹部を刺されて重傷みたいですが、死ぬほどではないと言っていました」
「死ななくてなによりね。岸崎実の方の死因は?」
 つむじ風に巻かれて遠くに飛ばされてしまって――などという展開を予想し、パチュリーはげんなりしかけたが、その予想よりはマシな回答が寄越された。
「忠志さんの腹部に包丁が突き刺さったとき、強烈なつむじ風が巻き起こったんですって。で、実さんの身体がちょっと浮いたらしいんですが、着地を誤ったみたいで。そこいらに転がっていた岩石のようなものに、頭から突っ込んだらしいですよ」
 しかも後頭部から、と美鈴は痛そうな顔を作った。
「そりゃ惨事だったわね。天罰でも下ったんじゃない?」
 素直な、忌憚のない意見が口をついて出た。美鈴は嬉しそうに首を上下させる。
「そうでしょうとも! これだけあくどいことをやっていて、のうのうと生きながらえて貰っちゃ困りますよ」
「気持ちはわかるけれど、そういう人間はごまんといると思うわよ。もちろん妖怪もだけど」
「それは……」
 そうかもしれませんが、と美鈴は口をもごもごさせた。
「話しはわかったわ。とりあえず覚えておきましょう。でも私は明日、大事な用があるからもう休ませてもらおうわ」
「早いですね」
 美鈴が目を瞬かせる。コピードールなど眼中にないようだった。
「まぁね。世紀の合戦をやらかしにいくから」
 パチュリーは手を振り、そのまま館内へと入っていった。

          4

 安楽椅子に身を委ね、天井を仰いでいるとこぁが入ってきた。
「調子はよさそうですね」
「目の方もすっかりいいしね。それより明日のことで頭がいっぱいよ」
 こぁには明日の決戦の運びを伝えてある。彼女も参加したいと言ったが、丁重にお断りした。戦力どころか足を引っ張られかねない。
「きっとアリスさん――じゃなくてコピードールさん、かなり強いですよ」
「でしょうね。隠し玉も色々と持っているでしょうし」
 今まで本気での対峙など、アリスとは一度としてなかった。魔法使いとして互いに研鑽はしていたが、秘儀について話し合うわけでもない。だから見聞きしたことのない技がぽんぽん出てきてもおかしくはないのだ。
 明日は否応なしに真剣勝負となるだろう。
「命のやりとりをしなきゃいけないってのも辛いわ」
「どこから見てもアリスさんなのに……やっぱり戦うんですか?」
「全力でね」パチュリーは吐息をついた。「自分で進言しておいてなんだけど、これでいいのかって気はしないこともないわ」
「事件を解決するためにですか?」
 もちろん、とパチュリーは言った。「この方法でなら、リグルやルーミアたちも救えるでしょうしね」
「それはそうかもしれませんが」
 こぁからは歯切れの悪い返事ばかりが返ってくる。いつもなら苛立ってくる言動だが、今日は不思議と心に棘の一本も生えてこなかった。
「一人を犠牲にして十人を助けるか、十人を犠牲にして一人を助けるか。貴方はどちらをとる?」
「わたしは……前者ですかね、やっぱり」
「そうよね。私もよ」
 ただ、とパチュリーは心の中で熟考する。
 もしその一人がこぁで、十人が里の人間だとしたらどうか。私はそれでも前者を選ぶだろうか、と。
 身近な人間が前者の一人であった場合、その選択をするのはただの偽善ではないか? 人数が多いからと、どうでもいい十人を救うために、かけがえのない一人を犠牲にするのは偽善であるはずだ。そんな選択を、本当にするか?
 するはずがない。
 ではゴーレム、コピードールではどうか。
 かけがえのない一人、というわけではないが、生まれて間もない、しかもアリスが必死に創造した人形を、この手にかけることを、自分は善しとするのか。蜂起した人間たちと郷を救うために。
「パチュリー様?」
「えっ? ああ、どうかした?」
 急に大声が耳の中に入ってきて、驚きから脈が荒れた。こぁの心配そうな顔が、いつの間にか間近にあった。
「顔色が悪いようですが」
「いえ、大丈夫よ。ちょっと疲れが出てきただけだと思うから」
「そうですか? ちょっと最近無理してません?」
「そんなことはないわよ。無理してないから、今日もこうしてのんびりしていたわけだし」
「のんびりなんてしてなかったと思いますけど」と、こぁは不満そうに唇を尖らせる。
「散歩がてらに聞き込みしていただけだから、のんびりしていたようなものよ」
 心配性な従者を安心させようと、パチュリーはそう答えた。
「ならいいですけど」
 安心とは程遠い表情だったが、それ以上突っ込んでくることもなく、こぁは退室していった。
「ふーっ」
 パチュリーは太い息を吐いた。どうして主人が従者に気を使わねばならないのか。安楽椅子の揺れが大きくなった。
 落ち着いてくると、またしてもアリスの顔が浮かんできた。考えても出口のない迷路にはまるだけだというのに、考えずにはいられない。
 こちらを散々騙してくれたコピードールを成敗しようとした瞬間は、絶対的な正義が軸にあった。アリスを地中に埋め、金本理沙を殺し、郷を混乱に陥れた犯人を罰するのは正しいのだと、それこそ悦に入るほど自分を信じ切っていた。悪を断罪してやると意気込むだけで身震いしたものだ。
 ところが冷静になって考えれば考えるほど、反対に罪悪感が湧いてくる。自分のことが卑劣にも思えてきた。
 相手は生まれて間もない、幻想郷でのルールさえ知らない、幼子も同然の人形一体だ。金本理沙を殺めたのも、快楽のためではあるまい。真実はともかく、その公算が大きい。彼女はお腹がすいたから、人間を食したに過ぎない。たとえそれが他の生物とは違った食事の仕方だとしても。
 人間だって動物を殺して食べている。しかも美味しいと目を細めて幸せそうに。自分だってそうだ。コピードールだけが、食事をしたからと罰せられるのは、いかにもおかしい。
 だのに、どうして自分にコピードールを殺める権利がある? 自己正当化のために、わざと「殺める」ではなく「壊す」と使い分けていたことは、恥じることではないのか。よくよく考えれば、これらのことはすぐにでもわかったはずなのに。
 もう後には退けないと、わかってはいる。自分からやりだし、言い出したことだから。それでも考えてしまうのは、ようやく事の重大さに気が付いたからだ。一つの創造物を殺すことの重大さを。
 あの時コピードールに止めをさせなかったのは本当に手痛い失敗だった、と悔恨したことを、改めて心の奥底から恥じ入りながら、パチュリーは休息のために瞳を閉じた。

          5

「なにやら大きなイベントでもあるみたいだね」
 早朝、中央バルコニーに置いてある椅子に腰を落ち着かせ、朝陽を眺めながらコーヒーを飲んでいると、後ろからレミリアに声をかけられた。
「あらレミィ。飲んでたの?」
 吸血鬼は太陽が苦手だ。特に朝陽が発する澄みやかな太陽光線は、昼間のぎらぎらとしたそれを上回るほど苦手としている。だからレミリアは朝陽が昇る頃までには眠りにつくのだが、たまにこうして遅くまで起きていることがある。気分良く酒を飲んでいる時などがいい例だ。
「いんや。飲んではいたけれど、未明には切り上げたよ」
「そう。出てきて大丈夫なの?」
 バルコニーに出てこようとするレミリアを制止しかけたが、彼女は何も言わずに斜向かいの席についた。
「たまには宿敵の朝顔も拝んでおかないとな」
「朝顔って。花じゃないんだから」
 レミリアの言葉がおかしく、パチュリーは小さく吹き出した。「それに宿敵って」
「私にとっちゃ花も同じだよ。花粉にやられても花好きなヤツもいるだろ。あれと一緒さ」
「あら。それならレミィも太陽好きにならないと、話しが噛み合わないわね」
 テーブルの上にカップを置く。会話が続けば飲む暇がなくなると思って手から離したのだが、その予測は外れることになった。
 いつもならここで「太陽が嫌いだと言ったことは一度もない」とか、「好きが高じるから宿敵になるんだよ」などと我を張ってくるはずなのだが、意外にもレミリアは口を噤んでしまった。こちらを見ようともせず、じっと太陽を眺めている。
 パチュリーもそれに倣い、無言を通すことにした。
 沈黙の間に、風だけが通り抜けていく。今日は鳥のさえずりも聞こえてこない。昨日の事件のせいで、鳥たちはすっかり怯えてしまったのかもしれない。
 他愛もないことが浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返す。
 影武者は、複製人形はもう起きただろうか。それとも、眠れぬ夜を過ごし、気分の悪い朝を迎えているだろうか。
 コーヒーを入れて飲んでいるかもしれない。以前、彼女の家にお邪魔になった時に出された、うんと香り高くて美味しかったあのコーヒーを、人形たちに囲まれて味わっているのかも。
 とりとめもない思考がぼうっとした靄に包まれて消えると、今度は視覚がはっきりとしてきた。
 朝陽の斜め上、遙かその先に、何かがあるのを認めた。きらりと光る何かが。
 そこは何もない空だった。が、じっと見ていると、確かに何かが光を反射しているのがわかる。空の薄い水色と太陽の白い光に彩られ、きらきらと輝いているのは――どうやらガラスで出来た細工物のようだった。膜のようなものが、空にびっしりと張り付いている。視線をずらしていっても、どこまでも広がっていっている。
 まるで天蓋だ。空にも天井というものがあったのだ。パチュリーは目を瞠った。
 普段はその薄さ故に見られないが、今日のような特別な日には、ちょっとした気紛れで垣間見ることができるのだと、ガラスの天蓋が告げてくる。じゃなきゃ、覆い被さっていることが広く遍くバレてしまうではないか。そうなって困るのはこちらだ、と。
 だからパチュリーはその存在を、レミリアには話さなかった。代わりに心の中だけで話しかけた。
 ねぇレミィ、空をご覧なさい。天蓋が私たちを見下ろしているわよ――。
 レミリアにはこの天蓋が見えているだろうか。吸血鬼にとっては毒気にも近しい、日光の混じる清浄な空気を吸いながら、何を思って景色を眺めているのだろう。
 今この時ほど、さとりの能力が欲しいと思ったこともない。彼女の能力があれば忽ちに心を読み、適切な言葉を贈ってやれるのに。
「静かだね」それこそ静かに、そっとレミリアが呟いた。「それに穏やかだ」
「そうね。鳥が鳴かないせいかしら」
「さてね。咲夜が怒鳴っていないからじゃないか?」
 口端を吊り上げ、レミリアがこちらを向く。
 パチュリーは微笑で応えた。
「こぁがヘマをしなければ、いつもこんな感じよ。おそらく」
「どうかな。こぁが良くとも、妖精連中はどうにもならんだろう」
 紅魔館のメイド組織は咲夜を長に、三十名の妖精とこぁを含め、三十二名で構成されている。メイドたちは主に掃除や洗濯などをするのだが、咲夜はやる気のない妖精たちや不器用なこぁなどを相手に孤軍奮闘しているものだから、いつも何かしら落ち度を見つけては怒声を飛ばしている。騒がしくなるのも無理からぬことだった。
「案外、館から出れば静かなものなのかもしれないわね」
「そりゃあ中よりはマシだろ」
 また会話が途切れた。
 朝陽はじりじりと頂点を目指して昇っていく。透明な天蓋はもう見えなくなっていた。レミリアと会話をしていたことに腹を立て、再び空に溶け込んでしまったのかもしれない。
 小さな発見に満たされていた心が萎む。二度と見られないかもしれないのに、もう終わってしまうなんて。いくらなんでも早すぎやしないか。
 残念がっていると、何の前触れもなく、レミリアが木の擦れ合う音と共に席から立ち上がった。その足で太陽の方へと一歩寄る。バルコニーの外柵ぎりぎりの位置に立ち、彼女は喋り出した。
「王道という言葉がある」
 いきなり何を言い出すのかとパチュリーは訝しがったが、レミリアは気にもせずに続けた。
「それと対をなすのが外道だ。王道には常に迷いがない。だから私は王道が好きだし、自分でもその道を歩んでいるという自負がある」
 パチェ、とレミリアは紅い目を細め、
「お前は王道を歩む者だ。お前と百年の年月を共にした私が言うんだから、間違いない」と胸を張った。
 何の話しをしているのか、パチュリーにはわかりかねた。それだから黙って聞いているしかない。親友は、自分に何を言おうとしているのか。
 だが次の一言で、彼女の言わんとしていることが氷解した。
「だからパチェ、外道を相手に迷うことはない。お前は正しいんだから」
 言いたいことを言い切ったからか、はたまた言い慣れないことを言ったせいで恥ずかしくなったからなのか。レミリアはふいと身を翻してバルコニーから出て行った。
 一人残ったパチュリーはしばらく呆気にとられていたが、ふっと微笑んで吐息をつくと、冷め切ったコーヒーを口に運んだ。
「まったく、みんなお節介なんだから」
 このコーヒーもお節介の一つだ。
 うんと苦いコーヒーでも飲んで眠気を吹っ飛ばして、ついでにリラックスもしちゃってください、とはこぁの言だ。どうして苦みがリラックスに繋がるのかは聞けず終いになってしまったが、彼女の中ではそういうものなのだろう。パチュリーは従者の好意を素直に受け取ってここに来たが、よもやレミリアにまでお節介を焼かれるとは。
「まるで戦地に送られる兵隊みたいね」
 戦いの地に赴くという意味では同じだが、パチュリーにとっては普段のスペルカード戦となんら変わらぬ意気だった。少なくとも、そう思い込んで赴こうとしていた。ところがどっこい、現況は。周りからは心配の種にしか見えないらしい。いつもは素知らぬ顔をして、出迎えにも来ないくせに。
 様々な思いが胸中で蘇ってきて、パチュリーは知らず笑み崩れた。

          6

 ゴーレム――もといコピードールは、予想通りアリスの家にいた。いや、いるであろうことが判明した。
 半球状の結界が地面から生えるように、家宅を覆っている。魔法使いや高位な妖怪にならすぐに看破できる結界だが、通常の人間やそれに近い者たちには、見ることも感じることもできない類のものだ。そんな結界を張っているのだから、ここにいないはずがない。
 しかも結界は二重に張られていた。外側には幻惑作用のある結界が。内側にはおそらく頑強な防護結界が。
 結界は色である程度識別することが可能だ。幻惑作用のある結界は虹色で、防御を目的とした結界は灰色が基本となっている。稀に独特な色をしたものもあるが、それは特殊な結界の場合が多い。
 これらの知識を動員して、パチュリーはどう攻めようか頭脳を稼働させ始めた。宙に浮き、アリスの家を俯瞰しながら。
 一応、周囲にも気を配ったが、魔法の森は魔理沙がいるにも関わらず静まりかえっており、上空にはカラスの一匹も飛んではいない。朝方、レミリアと一緒に眺めた太陽が、熱を帯びて佇むばかりである。
 こちらの存在は、魔力量からしてもとうにコピードールに知られているはずだが、相手にアクションはなかった。まるで家は無人で、罠でもしかけて待ち構えているかのようだ。
 まさか、とパチュリーはその考えを打ち消した。防護の結界は術者を起点に展開されるものだ。その中に術者がいないなど考えられない。
 しかし、と違う角度から切り込んでみる。相手はあのアリスのコピーだ。閃光魔法といい、空間魔法といい、技量は本物であること間違いない。技巧家なアリスになら、そういう芸当も可能ではないか?
 相反する二つの考えを抱え込み、パチュリーは腕を組んだ。自信家のレミリアのように、泰然と構える。
 彼女も言っていたではないか。王道に迷いなし、と。これは迷いなどではない、作戦を練っているだけなのだと自分を鼓舞する。
 十分ほど観察してみたが、やはり相手に動きはなかった。
 ここに来てすでに三十分が経とうとしている。向こうも焦れったい気持ちになり始めているのではないか。そうでないとしたら、はやる心を抑えている自分が馬鹿みたいだ。
 だがそんな内心を見透かすように、アリス邸は沈黙を貫いた。焦る必要なんて、こちらにはこれっぽっちもありはしないんだから、と嘲笑っている。パチュリーの両目にはそう映った。こちらは動かなくても勝てるんだから、動くわけがないじゃない。
「それもそうね……!」
 半ば自棄になりながら、パチュリーは自分の足元に魔法陣を敷いた。空中でゆったりと回転する魔法陣には、大量の文字が書かれている。
 そのうちの四つの文字が、光芒を放った。
 今日はスペルカード戦ではない。だからカードは用意してこなかった。使うのは、純粋な魔法のみだ。見た目や精神戦で勝敗が決まるルールではない、命を賭した実戦である。より攻撃的で、より殺傷能力を有する魔法を選択するのは当然のことだ。
「炎柱よ、氷柱よ。いざ槍となりて、我が敵を穿たん」
 詠唱が終わると、光芒の中から槍と化した炎と氷が二本ずつ生えてきた。それらはパチュリーの真横でぴたりと動きを止めた。号砲を待つ狙撃手の得物のように。
「行きなさい!」と手を振り下ろす。
 命が下ると、炎柱と氷柱は競い合うように、我先にと高速で結界目がけて降下していった。
 四本の柱は秒で目標に到達し、表面の幻惑作用を持った結界を苦もなく弾き飛ばした。
 だが、内側に張られている結界はそうはいかなかった。
 氷柱が、ぎゃりぎゃりと悲鳴をあげ始める。摩擦によって火花でも散らすのではないかと思わせる様相だが、結界にはヒビの一つも入ってはいなさそうだった。炎柱も豪炎を纏って支援するが、効果があるようには見えない。
 魔力消費を嫌って貫通力の高そうな魔法を選んだというのに、それでも貫けないとなると、魔力の追加をせざるを得ない。パチュリーは大きく舌打ちをしたが、すぐに気を取り直して魔力を指先にこめた。
 すぐに反応したのは氷柱の方だ。追加の魔力が得られた氷柱は回転し始め、喜びを表現するように本体の大きさを倍化させ、重みも活かして突き進んでいく。
 炎柱はその逆を行った。まるで小さくても穴さえ開けばいいと叫ぶように、自身を帚星になぞらえるよう細くさせ、炎の尾をはためかせながら一点に集中する。
 どちらも、一結界を突破するに不足はないほどの魔法だった。少なくとも術者であるパチュリーはそう思っていた。
 しかし結果は、その考えが甘いものだと下す内容となった。
「……うそ」
 金属が砕けるような音と共に、四本の柱が割砕した。結界に押し負けたせいで持続できなくなったのだ。
 ひょう、と一陣の風が耳元を過ぎていく。
 防護結界はやはり一点の穴も開いてはいなさそうだった。表面の灰色が堅牢な要塞を連想させ、精神を圧迫してくる。しかもコピードールは、攻撃されたというのに姿を現さない。
 パチュリーは下唇を?んだ。侮っていい相手ではないことは百も承知だったが、想像を超える力量に焦りを感じてきた。そちらの魔法なんて大したことないわね、とコピードールが殻の中でほくそ笑んでいる絵が、脳内で鮮明に描けてしまう。
「まったく……」
 吐息を一つ。瞳は閉じて、次なる魔法を繰り出す。
「集え――」掌を結界に向ける形で開き、そこに拳大の光球を出現させる。
 集え、集え、集え――パチュリーが呟く毎に、光球が膨らんでいく。ついには、顔よりも大きな球が出来上がった。
 それを無言のまま射出した。同時に目を見開き、光球から伸びていくエネルギー砲の行方を追う。
 砲撃は結界のど真ん中に命中した。反動で後退しかけた身体を、魔力を使って押し戻す。
 この魔法は魔力消費が激しい分、直接的な破壊力は、持てる魔法の中でも群を抜いている。それを物語るように、光砲を受け続ける結界が轟音を立て、熱波が髪の房をさらっていく。そのうち眩しさで目を開けられなくなり、パチュリーは目を瞑って魔力を注ぎ続けた。
 まもなく、ぱん、と大気をつんざく破裂音が内耳を突き抜けた。耳を覆いたくなるような爆音で、思わず手を引っ込めてしまった。
 咄嗟の事とはいえ、これで結界が破れていなかったら、更なる魔力消費を覚悟しなければならない。
 気が気でないままに目を開いていくと――灰色の防壁の姿が、綺麗に消えていた。
 眼下には、平穏無事そのものだと言いたげなアリスの家宅が、裸の状態で佇んでいる。守るものは結界どころか薄布の一枚もない。
 良かった、とパチュリーは安堵の息を漏らした。結界を破った達成感より、疲弊感の方が色濃かった。コピードールを相手にすると、本当に疲れることばかりだ。
 しかしながら、この静けさはなんだ?
 結界が消え、無防備な状況になったというのに、本人が出てくる様子がない。今この瞬間、同じ魔法でけしかければ、彼女の家は跡形もなく蒸発するだろう。考える必要すらない危機的状況であるにも関わらず、どうして出てこない? もしや、本当に罠だとでもいうのか?
 だが、その心配は杞憂に終わった。アリスそのものにしか見えない、コピードールがようやく姿を現したからだ。
 彼女は玄関から出てきた。まるで、近所に買い物にでも行くような気軽さで。

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この小説へのコメント

  1. これはパチュリーが正解だともいます。知らなかったとはいえ、人を殺していますし、コピードールということはアリスの知識がコピーされているはずなので、全く知らないとは思えない。

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