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幽玄なるマリオネット幽玄なるマリオネット  後編   マリオネット後編 第7話

所属カテゴリー: 幽玄なるマリオネット幽玄なるマリオネット  後編

公開日:2015年12月16日 / 最終更新日:2015年12月16日

アリスの章

          1

 六重の結界を苦もなく破ってくる辺り、パチュリーの魔法練度はさすがであると言わざるを得ない。物理的にも魔法的にも、そう易々破れるものではなかったはずなのだが。
「仕方ないか」
 その声に、十三体の人形たちが一斉に首を折る。賛同してくれているのだ、彼女らは。
「さて、行きましょうか」
 彼女たちは再び首を折った。小さな体躯に乗っかるようにくっついている頭が上下するのを見ると、心の奥底から愛おしさが湧いてくる。
 ああ、私の可愛い娘たち。愛らしさは世界一よ。
 玄関で一度、振り返った。もしかしたら、もう二度とは見られないかもしれない。部屋の隅々まで目に焼き付けておこうと思った。
 置時計は正午をとうに回って一時のところを指している。いつもなら昼食の準備に取り掛かる時間だ。今日は朝食も満足に喉を通らなかった。最後になるかもしれないのなら、無理やりにでも流し込めばよかったのだが、どのみちもう遅い。
 一通り目を通し終えると、アリス(自分を影武者と言うのも変な気がしたので、結局アリスを通すことにした)は踏ん切りをつけるようにドアに向き直り、レバーを下げた。
 がちゃ、という音を聞いた刹那、胸が詰まったような感覚に囚われた。名残惜しさが込み上げてきたせいだ。それでも立ち止まるわけにもいかず、開け放ったドアを押しながら人形たちを引き連れて外へ出た。
 家の中では知れなかったが、外は快晴だった。決戦日和とでも言うのか。見上げてみると、気持ちの良いブルースカイが一面に広がっている。雲も数えるほどしか浮いていない。
 ただ一点、その景色に不釣り合いな色を見つけた。青と白のただ中にある、藤紫。パチュリー・ノーレッジの色だ。
「随分とゆっくりだったじゃない」声を大にし、茶化してやる。
 だが余裕ぶって宙に浮いているパチュリーは動じなかった。返事を寄越す気もないようだ。
 彼女のあだ名が「動かない大図書館」であることを思いだし、アリスは口元を緩めた。
「しょうがないわね」
 爪先で地面を蹴り、一息でパチュリーのいる高度まで飛翔する。人形たちも一糸乱れぬ動きでついてくる。繰っているとはいえ本物の主人でもないのに、半自動人形である彼女たちは恭順だ。
 空は下より少し暑かった。パチュリーの着ている長袖の服が暑苦しく見えるからなのかもしれないが。
 そのパチュリーと目が合うと、意外にも向こうから喋り出した。
「急ぐ必要がなかったのよ」
 一瞬何を言われたのかわからなかったが、それが先ほどの茶化しに対する返答なのだと気付き、「あらそう」とだけ返した。この非常時に、これ以上の舌戦を繰り広げる意味はない。
「ええ、そうよ。だって貴方を仕留めるのは、いつだって出来ることなのだから」
 パチュリーは毒舌家だ。しかも強情でも有名である。この強気な発言は、つい素が出て口をついたものなのか、それとも弱気を見せまいとして出てきたものなのか。確かめる術はないが、今の言葉には少し苛立つものがあった。
 アリスとしても、魔法使いとしてのスキルはパチュリーと同等か、もしくはそれ以上だと思っている。舌戦などしまいと思っていたが、反射的に言い返していた。
「ふぅん。私なら、即刻潰しに行くけれど。弱っている相手を潰す方が、何かと楽だし効率的だし」
「強者は寛容なのよ」
「寛容であることと、手緩いこととは全然違うけれどね」
 挑発的な応酬だとは思ったが、こちらは言い返しているだけだ、と正当化して続ける。
「貴方が手緩かったおかげで魔力も全快したし、ほら、足とかヒビも綺麗に直ったのよ」
 頬を横切る亀裂も、削げ落ちた右足も、渇き切った魔力も、全て地下のマナで癒した。修復した、の方が相応しいかもしれない。とにかく、パチュリーが無駄に時間を空けてくれたおかげである。
 なんて間抜けなんだろう。さっさと始末してしまえば、こんな面倒なことにはならなかった。彼女が手緩かったからこんなことになったのだ。
 腹の底で沸々と滾る悪意を言葉とゆっくりかき混ぜ、アリスはそれを吐露した。
「ホント、あまちゃんね」
 当然怒ってくるだろうと思っていたが、パチュリーは微動だにしなかった。聞こえていなかったのかと心配になるほどに。
 しかし言葉はちゃんと届いていた。
「そうかもね」と呟いたのだ。
「そうかもじゃない。そうなのよ」
 また、さっき感じた苛立ちが蘇ってきた。
 どうしてこんなにも癪に障るのか。言葉遊びごときに、どうしてこれほど熱くなってしまうのか。
 わからない。単にストレスが溜まっているからなのか。いや、そんなものに振り回されるアリス・マーガトロイドではない。
 じゃあ、この感情は一体――。
「でもね」微苦笑のような、けれど哀しんでいるような表情で、パチュリーが言う。「貴方とは全力の勝負がしたかったのよ」
「――――」
 何を言い出すんだ、と笑い飛ばそうとした。けれどできなかった。頭の中のイメージを、ただ表現するだけなのに。いくら試みようとしても、やる前から失敗してしまう。
「そんなに怖い顔をしなくても。どのみち、貴方はここで斃れる運命なのだから」
「な、何を」
 ようやく震えた声帯からは、情けない声が漏れた。さっきまでの威勢はどこに行ってしまったのか。アリスは焦燥に駆られた心を落ち着かせようと、奥歯を?んだ。
 落ち着け、私。相手はいつも喘息に悩まされている貧弱な魔法使いだ。決して化け物なんかじゃない。恐れるに足る要素なんて、塵ほどにもないんだから。
「さて」パチュリーは足元に桜色の魔法陣を展開した。「始めましょうか。お互い忙しい身だしね」
 緩慢な動作でパチュリーが左手を挙げる。
 アリスは備えるように身構えた。
 しかし魔法陣は敷かない。大仰な魔法は使わない――これが地下で横たわっているときに練った作戦だった。
 パチュリーはおそらく、魔法陣を必要とするほどの大型魔法を乱打してくるに違いない。
 彼女は精霊魔法という、自然の属性を利用した魔法の名手だ。自然に溶け込んでいるマナを利用して魔法を発動させているが、それ故に小回りがきかない。マナという膨大なエネルギーの扱いにくさは、魔法使いなら誰もが知っていることである。大振りになってしまいがちになるのも、また周知の事実だ。
 それに元から肉弾戦は不得意ときている。であれば、その短所を狙って作戦を立てるべきだ。つまり機動力と物理攻撃に重きを置いた戦法である。極力、魔法陣を敷かなければならないような魔法は控えることとした。
「ファースト、セカンド!」
 高らかに名を告げると、二体の上海人形が眼前に現われる。
 オリジナルは一体ずつに名を付けてはいなかった。どの娘を手にしても「上海」であり、個別に名を贈ることはしていなかったのだ。そうしなくとも人形を繰る上で不都合はなかったのだろう。同時に十三体もの人形を繰る機会などなかったのだから。
 だがオリジナルと違い、こちらには名前を付けなければならない理由がある。
 現在、人形たちの手には多種多様の武器防具を握らせてある。今呼んだ二体は、それぞれ剣と盾を持っているが、他の十一体に関しても、各々が種々の得物を手にしている。全員が同じ武器防具を持っているわけではない。全部ばらばらだ。それらを全て頭に叩き込もうと思えば、名前と得物を関連付けてしまうのが手っ取り早かった。
 そのファーストとセカンドが、パチュリーと対峙した。
「ナンバーで呼ぶのね。アリスの口からは聞いたことがなかったけれど」
「本当はもっと可愛らしい名前を付けてあげたかったんだけどね」
 半日で十三体分の名前を覚えなければならなかったため、シンプルにナンバーで呼ぶことにしたのだった。別に手抜きというわけではない。名前に変わりはないのだから。
「そう。まあ私にはどうでもいいことだけどね」
 パチュリーの掌を起点とし、浅黄色の魔法陣が出現するのを見たアリスは俊敏に、ファーストとセカンドに「糸」を介して命を下す。
 ファーストには「突進」と。
 セカンドには「盾で防御」と。
 アリス自身も、防御時の余波を考えて薄い膜状の防護魔法を展開した。
「水性魔法――」
 囁くような、静かな詠唱だ。
 この詠唱の後、巨大な攻撃魔法が飛んでくると思うと、一気に緊張感が身体を縛り上げてくる。
 水性魔法と言うくらいだから、水に纏わる魔法なのだろう。圧縮された水を、それこそ怒濤の勢いをつけて撃ってくるつもりなのかもしれない。
 しかし読みは見事に外れた。
 詠唱が終わった途端に引き起こされた現象は、想像だにしていなかったものだった。
「これは……」
 どこからともなく、濃霧が辺りを覆いだした。米の磨ぎ汁のような、白濁とした霧が纏わり付くように流れてくる。やがてパチュリーの姿もすっかり見えなくなった。
 アリスは素早くサードからサーティーンまでの上海人形を哨戒にあたらせた。目で追えないのなら感覚で闘うしかない。背後に二体、頭上に五体、足元に四体を配置すると、神経を研ぎ澄ませてパチュリーの出方を窺う。
 その間、胸に鎮座する苦いモノがじとりと広がってくるのを知覚した。実に嫌な感じがするそれは、心の重圧に他ならなかった。
 先ほどのパチュリーの詠唱だが、彼女は「水符」ではなく「水性」と詠んだ。つまりスペルカードなる遊びで繰り出す紛い物の魔法ではなく、正真正銘、本物の魔法を行使したのである。
 それがどういう意味を持つのか、考えるまでもない。パチュリー・ノーレッジという紫の魔女は、アリス・マーガトロイドの映し身であるこの身体を壊すのに、全力を注ぎにきている。
 本気――わかってはいたが、いざ対面でその気勢に触れると、動悸がして呼吸が乱れてきた。
 生きるための決闘と言えば聞こえはいいが、中身は単なる命のやり取りだ。どちらかが死ぬまで、この戦いは終わらない。本気になるのも当たり前だ。
 だと言うのに、オリジナルには戦闘で本気になった経験がないらしい。これほどの恐怖を体感したこともなく、飄々と戦果を納めていった、という記憶だけがある。
 それならばなぜ、私には恐怖心があるのだろうか。影武者は危険を顧みず、主人を守るために作られた存在だというのに。主人に成り代わり、危険を引き受けるために作られた存在だというのに。本来、オリジナルなんかより、よほどこちらの方がプレッシャーに強くなければならないのに。
 どうしてだろう。わからない。
 と――思考に囚われていた意識が現実に戻るのに、秒とかからなかった。
 背後を見張っていたフォースから危険だと伝達があってから、実に一弾指の間にアリスはそちらに振り返った。
「――、!」
 息が詰まるような感覚に襲われながらも、仰け反って「危険物」を躱す。
 鼻面のぎりぎりを飛んでいったそれは、桜色の光弾だった。パチュリーの攻撃に相違ない一撃は、すぐに霧に塗れて姿が見えなくなった。
 少しでも遅れれば被弾していただろう。ひやりと背が冷えた。
 直後、くぐもった笑い声が耳朶を打った。
『まるで後ろにも目がついているようね』
 霧の効果の一部なのか、声が不気味に反響している。
「隠れていないで出てきたら?」
 体勢を立て直しながら言うと、愉快そうな声が返ってきた。
『いやよ。貴方の目論見が見え見えだもの』
「目論見?」
 アリスはわざと調子を外した声調で鸚鵡返しをした。少しでも時間を稼ぐためだ。
 その間に、トライデントを握って頭上を守っているシックスに思念を送る。
「声の聞こえてくる方に近寄っていきなさい。気付かれないようにね」と。
『貴方、魔法合戦をする気はないんでしょう? だから人形をそんなにたくさん連れてきた』
 パチュリーは何も気付いていない様子だ。アリスは内心冷や冷やしながら、会話を繋げようと返事をする。
「魔力を節約しなきゃいけない理由があるのよ」
『そんな後ろ向きな考えで、私に勝てると思って?』
「少なくとも今は、ね」
 深い霧の中とあっては、上海人形の視力を借りたとしてもあまり役には立ちそうにない。本当なら声を頼りにするのではなく、魔力を辿っていきたいところだが、どこから攻撃が飛んでくるかわからない現状ではそれも難しい。
 魔力感知というのは、思いの外集中力を要す。静かな場所で、安らかな精神状態で行えば容易いことも、戦場という逐一状況の変わる、それも精神が不安定になりやすい場所では一気に難易度が上がるのである。
『面白いわね。貴方がどうやって私を斃そうとしているのか、見物だわ』
 シックスはいまだ霧の中を彷徨っているらしく、何も反応を寄越してこない。焦れったくなってきたが、堪える以外に選択肢はなかった。
 そんなアリスを嘲笑するかのように、また光弾が飛んできた。今度は頭上から、それも二つ同時に。
 ちょうどそこには四体の上海人形たちがいた。フィフスからシックスを抜いた、ナインまでの四体だ。
 アリスは咄嗟にその四体に武器を掲げさせた。ランス、ナタ、ハンマー、メイスの四本が光弾を迎える。
 その間際に、各武器に魔力を流し込んだ。魔力によって強化したとはいえ、武器は人形用であり、人の大きさの半分しかない。が、それでも魔法を防ぐのには十分だった。
 突っ込んできた光弾が、武器に貫かれて弾け飛ぶ。一つの塊であったものが分散され、光を散らしながら逸れていく様は、花火のようで美しい。
 だがその光景に魅了されたのも、瞬きをする間だけだった。突如、シックスの所在が掴めなくなったのだ。
 どうしちゃったのよ、と思念を糸に乗せて送ってみても、返事が返ってこない。もしや今の攻防の最中、流れ弾にでも当たってやられてしまったのだろうか。
 いいや、とアリスはかぶりを振った。
 被弾したのなら、それなりの手応えを糸越しに感じるはずだ。それがまったくないのだから、人形本体は無事なはず。ならば意思疎通が途絶えたのはどうしてなのか。
『こんな状況下でよく防ぐわね。やっぱり器用さなのかしら』
「お世辞は結構よ。無駄口を叩く暇があったら、次の魔法の詠唱でもしていれば?」
『それは大丈夫。――ほら、次の一手がそちらに行くわよ』
 パチュリーの挑発的な一言の直後、アリスの脳内に、ある声が響いた。
 それはシックスの、逃げて、という悲痛な叫び声だった。
「――な」
 一瞬、頭の中が真っ白になった。
 思考を働かせようとしても、うまくいかない。不能に陥ったシックスとの会話が突然復帰しただけでなく、その内容があまりに突飛すぎて処理不全を起こしたからだった。
 その隙を突くように、パチュリーの言う次の一手とやらが飛来してきた。
 今度のは、これまでの弾を三発分併合したかのような大きさだった。図体が大きくなったせいか、速さが半減している。速度では捕えられないと踏んで、高出力かつ広域狙いで来たというわけか。
 正面から飛んできた弾を、今度はセカンドの盾が防ぐ。盾は縦に長い楕円形で、オリジナルが猫目石という宝石を魔法で加工して作ったものだった。
 帯黄緑色をした猫目石は、特に「破魔」の属性を持つとされており、魔法使いにとっては忌むべきものとして名を馳せている宝石である。希少性もかなり高く、盾に使うだけの分量は普通賄えない。だが人形用の小さなものであれば、なんとか都合がつくものだ。オリジナルは手に入れた猫目石を慎重に削って盾を作り、そこにある細工を施した。それが「反射」の属性付与だった。
 魔除けを更にランクアップさせ、小規模な魔法ならばほぼ無条件に反射させることのできるこの盾は、典型的な魔法使いであるパチュリーにとってはかなりの脅威になるはずだ。それを証明するかのように、まさにこの瞬間、盾が彼女の放った魔法を受け止め、そこから滑らかに反射させるのを見たアリスは、シックスの沈痛な意思表示もすっかり忘れて口端に微笑をたたえた。
 自分が撃った魔法が弾き返ってくる――悪夢のようなその光景を目にした時、パチュリーは一体どのような顔をするのだろうか。想像するだけで顔が綻んでくる。
 だがその愉悦は、はね返った光弾がいずこかへ飛んでいく様を見遣っている間に、綺麗さっぱり消え失せることとなった。
 ふと、視界の端で何かが動いた気がした。いや気のせいではないと直感し、そちらに視線を送ると、アリスは驚きで目を剥いた。
 それは、奇襲と呼ぶべき事象の片鱗だった。
 高速でこちらに飛んでくる何か。早すぎて黒い塊にしか見えないそれはしかし、少し目をこらしてやればすぐに正体を掴めた。
「何か」はシックスだった。行方がわからなくなっていた彼女が、先の光弾とは比べものにならないくらいの速度を以て突っ込んでくる。アリスの脳裏に、逃げて、という上海人形の叫びが逆行再現した。
 遠巻きにこの状況を見る者がいたのなら、更にその速さが並のものであったのなら、きっとこう思うことだろう。「ああ、可愛らしい人形が主人の元へと急いでいる」と。アリスの人形好きは幻想郷内で知らぬ者はいない。だからこの図は、微笑ましく映る絵も同じなのである。
 ところが今のシックスの速度は並どころか、放たれた矢のような速さだ。しかもトライデントを両手に抱きかかえるように持っている。いくら鈍い御仁であっても、剣呑な雰囲気と捉えられるだろう。もし目が速さに追いつくなら、だが。
「くっ……」
 アリスは急ぎ身体を捻って旋回し、この場から離脱しようと考えた。しかしすでに手遅れであることは瞭然であった。シックスはもう一メートルと離れていない。
 ならばとるべき行動は一つだ、と意を決し、秒後の衝突に備えた。

          2

 身体中に衝撃の波が伝播し、ばらばらになってしまうのではないかと思った。だが、この身は崩壊を免れ、持ちこたえた。
「ごめんね、せっかく教えてくれたのに」
 深い霧の中、冷たいシックスの身体を抱き寄せたアリスは、ゆっくりと瞳を閉じて言った。
 シックスは身じろぎもせず、手中に収まっている。彼女が大事そうに抱えるトライデントが、アリスの手の甲を貫いていた。
「今度はちゃんと聞くから」
 瞳を開くと、シックスが顔を上げていた。表情はない。そんなもの、人形にはない。作られた当時のまま、固い顔をしているだけだ。
 それでもアリスには彼女の声が聞こえる。彼女の意思を汲み取ってやれる。ごめんなさい、ごめんなさいと、泣きそうになりながら、もう何十回も謝っている彼女の無心を感じ取れる。
 アリスは逃げの選択を蹴り、愛娘に貫かれる選択をした。もしここでシックスを逃せば、再び奇襲に使われてしまう。苦渋の選択ではあったが、これで正解だったという確信がある。
 しかし、さすがに身体に風穴を開けるのはまずかろうと掌を受け皿に用意し、あえてそこに犠牲の的を絞ったのだが、少しでもずれていたらと考えると空恐ろしくなる。
 人形は間接的な魔力だけでも動かせる――自分がオリジナル相手にとった手段と同じだ。糸に直接魔力を流さなくても、特攻させるくらいなら苦もない。どうしてそのことを失念していたのか。
『やっぱり血は出ないのね』
 パチュリーが半ば安心したというように呟いた。まっとうな生物ではないと再確認できて嬉しいのかもしれない。生き物でなければ、壊すのにも抵抗が減るだろうから。
「そうね。痛みもないし。魔力をあてがえば、こんな風に直すことも出来るわよ」
 昨日、パチュリーに削げ落とされた方の足をぶらぶらとさせる。あくまで気さくさを装って。
『便利な身体で羨ましいわ』
「便利じゃないわよ。生身の人間となんら変わらないわ」
『生身の人間は、魔力で回復なんてしないわよ』
「あら。治癒魔法で傷口も塞がるじゃない」
『私が言っているのは、もぎ取れたものも含めて言っているのだけれど』
 いかな治癒魔法とはいえ、もぎ取れてしまった足首を元通りにするのは難しそうだ。
『それに運動神経もいいみたいだし。恵まれた身体よね』
「そう思うなら、貴方も運動すればいいのに」
『遠慮しておくわ。そんな暇があったら本を読んでいた方がよほど幸せだもの』
「ぷっ」アリスは失笑した。「ならこんな不毛なことはやめて、紅魔館で大人しく本でも読んでいればいいのに」
『ごもっとも。でも、色々とあって、そうもいかないのよ』
 相変わらずパチュリーの声がこもっている。それにこの視界不良だ。人形での探査も使えなくなった今、早急に解決すべきはこの濃霧であろう。
「幻想郷じゃ、どんな妖怪でも受け入れてくれるみたいだけど?」
 話を続けつつ、アリスは人差し指に魔力で炎を灯した。小ぶりで可愛げのある、蝋燭の火のような炎を。
『それも時と場合によるわ。私は裁定者じゃないから断言は出来ないけれど、入郷を済ませる前に殺人を犯してちゃ、難しいんじゃないかしら』
「そんなことを言われてもねぇ。ここのルールなんて、あの時は思い出すことすらしなかったし」
 風に揺られていた炎が指先でくるりと丸くなると、真珠ほどのサイズになった。風にさらされていても、球体を保っている。
『そうしなかったのが運の尽きね。残念だけど、貴方のことは管理者から壊してもいいって許可が下りてるの』
 だからごめんなさいね。
 さほど謝意を感じさせない声調でパチュリーが侘びる。と、アリスは瞬間的に、小さな火の玉を半身大にまで膨らませた。素早く頭上にかざし、巻き込め、という意味の呪文を口走る。途端に巨大な火球が回転し始め、渦状の気流を作りだした。
 霧は水の粒子から成り立っている。であれば、正反対の性質を持つ魔法をぶつけてやればいい、という理屈で、アリスは火を用いた。回転させたのは、その方が効率的に霧を回収し、蒸発させられると思ったからだ。
 狙い通り、霧は白い帯のようなものに姿を変え、吸い込まれるように火球へと集まっていった。パチュリーは終始止めに入ろうとしてこなかったが、この速さでは手を出したところで間に合わなかっただろう。それほど急速に霧は晴れていった。
「――ふぅ」
 アリスの溜め息と一緒に、火球はぼっという音を立てて消え去った。あげていた手をゆっくりと下ろすと、ようやく見えたパチュリーに微笑みかける。「ようやく姿が見えたわ」
「私は見たくなかったけれど」
 パチュリーは霧を発生させる前と同じ格好、同じ魔法陣を敷いて浮いていた。違いと言えば、身体の周りに、先ほど連射してきた光弾を三つ四つお伴させている点くらいだ。
「そんな寂しいことを言わないでよ。もしかしたらこれが今生の別れになるかもしれないんだし」
 もちろん、この世とお別れするのはあちらだ。
 霧は晴れた。視界を遮るものは何もない。手に穴は開いたが、流血もなければ痛みもない負傷だ。動くのに何の負担にもならない。
 ここからだ、ここから反撃開始だ――アリスは胸中に闘志を秘め、前傾姿勢を作ってパチュリーを凝視した。
 動揺の色一つ見せない紫の魔女。全ての元凶に滅びの鉄槌を下し、自由を手に入れるために。
「怖い顔ね」
 パチュリーは顎を引き、左腕をのっそりと上げていく。胸の辺りで止めると、掌をひっくり返して仰がせた。彼女はそこに魔法陣を展開した。
 見たことのない陣容に、なんだあれは、と訝しがっていると、陣から手品のように何かが生えてきた。その何かが出で切ると、パチュリーの手中に落ちて弾んだ。
 それは一冊の本だった。茶色い装丁で、厚さは百科事典の如くだ。重量感溢れるその本は、華奢なパチュリーの体躯には不釣り合いに映る。
「……魔導書」アリスは呟き、奥歯を?んだ。
 本はずばり、魔導書であった。魔道書と呼ばれる「装置」であった。
 魔法使いにとって魔導書といえば二つの用途があるが、この状況下だ、実戦用であると判断してまず間違いない。魔法の研究を記していくための記録媒体としての用途のものではないはずだ。
 そして実戦用ということは、即ち「装置」であるということ。
 魔法が言葉として詰まっているのが魔導書であり、その紙に書かれた文字列は、魔力を通すだけで魔法を再現させられるという機能を持つ。だから装置。兵器と謳ってしまっても遜色はないほどのものである。
 アリスは、自然と顔が強張ってくるのを感じた。
 ここから先、万能とも思える兵器を相手に闘わなければならない。そう思うだけで笑みが、余裕が消えていく。
「貴方も持っているでしょう? これくらい」
 魔導書がパチュリーの手から離れ、独りでに動いた。主人に降りかかる災いを、身を挺して守ろうとでもするかのように。魔導書はちょうどパチュリーの胸の高さで、彼女から一メートルほどの位置にて静止した。
「もちろん持ってるわよ」
 ただ、とアリスは肩を落とした。「鍵が付いていて使えないんだけどね」
「鍵?」
「ええ。だから引き出しの中で眠っているわ」
 少しでも戦力を、と机の中を漁った時に偶々見つけたのだが、なぜか魔導書には鍵がかかっていた。金属製の十字囲いの真ん中に鍵穴があり、解錠しなければ中身すら見られないようになっていたのだ。鍵も、オリジナルの記憶をそっくりそのまま引き継いでいるはずなのに、どうしても在処がわからなかった。
「それはご愁傷様。鍵が見つからなかったのね」
「残念ながら」
「私にとっては好都合だけれどね」
 閉じられていた魔導書がおおっぴらに開く。
 中は文字よりも図形で占められており、魔法陣も記載されている。厚みからして七百ページはありそうだが、全ページ埋まっているなんてことはないだろうな、とアリスは心配になった。いくら大図書館と言われる魔女であっても、それだけのページを武器として埋めているというのはあり得ない。いや、あり得てはならない。たかが百年やそこいらで、これだけ膨大な量をストックしているなど、信じたくはなかった。
「そんなに覗き込まなくても。別に珍しいものでもないわよ?」
「中身を見る機会なんてそんなにないから、つい」
 建前を言いながら、アリスは心情が顔に出ていたことに対し、己を叱咤した。さっきからちっとも冷静になれていない未熟さに、歯がゆさを感じる。
「ま、そちらは魔導書がないってことらしいから、楽な戦いになりそうね」
 アリスは再び前傾姿勢をとった。パチュリーの言う通り、魔導書があるのとないのとでは戦力差に開きが出てくる。だからこそ、人形師としての技巧で乗り切らなければならない。
「あんまり軽く考えない方がいいわよ」
「軽くは考えてないけどね」
 それでもパチュリーには余裕が見て取れる。
 あれこそが本当の魔法使いだ、と思った。冷静沈着で表情を奥に隠し、常に計算しながら動き、会話をする様は、魔法使いのお手本とも言えるだろう。そんな魔法使いの鑑とも言えるパチュリーを相手に、本当に勝てるのだろうか。
 ――いいや。
 そんな詮無いことを考えてどうする。勝てるかどうかではなく、勝たなければならない。負ければ死が待っているのだから。
 矮小していく心に鞭を入れ、アリスは長い息を吐き出した。
 ここからは何も考えず、ただ人形を繰ることに、ひいては戦闘することだけに没頭しよう。そう決めた途端、身体が軽くなった気がした。

          3

 人形を抱える上での長所といえば、やはり多様な動きを同時に行えるという一点に尽きる。糸は最大で十メートル伸ばせるので、この範囲内であれば細かな動きも可能だ。人形は全部で十三体。その全てを使い、パチュリーを打倒する。
 アリスはまず、機動力を高めるための詠唱を行った。
「ゆくは千の道、万の土地。歩は雲に身体は風に。今こそ我に与え賜え、躍動の翼!」
 背から生えたるは、ネーブルスイエローの翼だった。二枚で一対、見た目はカモメの翼そっくりだが、エネルギー体であるためか所々ささくれ立っている。両の踝にも、五センチほどの小さな翼が生えた。
 この魔法は、空中戦を想定してオリジナルが編んだものだ。浮遊するだけでも魔力を消費するが、加速しようとすると瞬間的にかなりの魔力を放出しなければならない。しかも直線的な動きになりやすいため、頻繁にブレーキをかけなくてはならなくなる。その都度魔力を注ぎ込むのでは動きにむらが多くなり、敏捷性を欠くことになる。
 そこで擬似的な翼を生やし、鳥と同じように飛んでしまえと考案した、というわけだ。羽ばたきにより角度を変えたり、速度を調節したりできれば、思い通りに飛ぶことができる。そうなれば空中戦はいくばくか有利になるだろう、と。
 パチュリーも初めて見るのだろう、目を丸くしていた。
「まるでお伽噺の再現ね」
「私――もとい、私たちはロマンチストなのよ」
 さて、次は攻撃隊形だ。
 先ほどは濃霧のせいで守り一辺倒となってしまったが、今度はこちらが攻める番だ。
 盾持ちのセカンドだけを身に寄せ、後は攻撃に回す。そのための隊形を、一息の間に決めた。
 重量の重いサードのハルバート、エイスのハンマー、ナインスのメイス、テンスのファルシオンを目線より頭一つ分上に。
 フォースのグレイブ、トウェルフスのモーニングスター、サーティーンスのサイズは横から薙ぐ、または振る武器であるため、腹部の脇目に。
 残ったファーストのロングソード、フィフスのランス、シックスのトライデント、セブンスのナタ、イレブンスのエストックは四方からの攻撃が可能であるため遊軍扱いに。
 それぞれの配置も、ものの数秒で済んだ。
「ロマンチストとは思えない物々しさね」
 パチュリーがちらと人形たちを見る。それだけのことなのに、人形たちからは緊張が伝わってきた。恐怖とは別の、興奮に近い緊張が。
「戦闘は現実だからしょうがないわよ」
「……違いないわね」
 やれやれといった感じでパチュリーが肩をすくめる。お付きの魔導書は黙したままだ。「装置」としての機能は動く気配もない。
 やるなら今、いくらか空気の弛緩した今が、しかけるに相応しいタイミングではないか。
「――よし」
 アリスは相手に気取られないよう、こっそり気合いを入れると、初動から全力で猛進した。
 翼を一度だけはためかせ、推進力を助勢するとすぐに畳んだ。空気抵抗になるのをきらっての計らいである。
「、っ」
 パチュリーが若干たじろいだ。奇襲にも等しい電撃的な先制攻撃に驚いたのだろう。その間隙を縫い、アリスはランスを突き出すように構えているフィフスを一段と加速させた。更に退路を断つ意味で、テンスも同様に加速させる。もしパチュリーが上へと逃げるのなら、ファルシオンが脳天をかち割る算段だった。
 疾風と化したこちらについていけないせいか、パチュリーは顔と身体を強張らせているだけだ。魔導書も発動の兆しがない。
 いける――そう確信し、ファーストに斜斬りを命じた。
 これで三点同時攻撃となる。逃げ路は真下と左横、そして後方の三方向だけだ。それら全てに気を払いながら、アリスは指に力を込めて突っ込んだ。
 だが、
「な――。え?」
 手を伸ばせば触れられる距離まで肉薄したというのに、見えない何かに阻まれた。
 ふよん、と冗談じみた柔らかさを伴う弾力の感触。それと共に、身体がぐいと押し戻される。もう振り下ろすだけだった一撃も、柔らかな妨害に遭って立ち消えた。
 多角からの攻撃を防ぎ、電光石火の勢いを削ぎ、二人を別ったのは一体――
「驚いた?」
 くすっとパチュリーが笑う。「意趣返しよ」
 弾かれ、せっかく近づいたパチュリーとの間隔もまた随分と離れてしまった。
 すぐに体勢を整えて再度突撃を試みかけたが、思いとどまった。またあの見えない何かに阻害される未来が見えたからだ。まずはそれの正体を暴かねば。
「意趣返し?」
「ええ。とっても堅い結界を見せてくれたお礼よ」
 六重の結界のことか。パチュリーは軽々と打ち破ったようだが、何かトラブルでもあったのだろうか。たった二回、魔法をぶつけただけで結界を破壊した彼女に、まさか恨みを買われたとでも?
「あれを突き破るために、結構な量を消費させられちゃったからね」
「……ああ」
 どうやらトラブルではなく、魔力の消費量が激しかったことに根をもたれたようだ。
「でも、貴方も驚いてくれたみたいだし、いい意趣返しになったわ」
「これも結界なの?」
 信じられない思いで訊いてみると、パチュリーは実にあっさりと答えた。
「もちろん。じゃなきゃ意味ないじゃない」
 結界に苦い思いをさせられたのだから、返礼も結界に決まっている、という意味らしい。
 しかしこんなゴムのような結界を、アリスは知らなかった。そのことをあけっぴろげに話すと、パチュリーは不敵に笑った。
「結界がすべからく堅いとは限らないんじゃなくて?」
「少なくとも、私はこんな結界があるなんて知らなかったわ」
「勉強不足ね。結界だからといって、境界を作って仕切るだけじゃないのよ。罠として用いることだってあるんだから」
 へぇ、と気のない返事をした。残念ながら結界に関しては、パチュリーの方が数段上のようだ。堅さのみであれば、目はあるかもしれないが。
「勉強になったわ」
 その言葉の尻に噛みつくように、ばちん、と風船が割れるような音が響いた。あまりに大きな音だったため、アリスは反射的に肩を窄めた。
「驚かせた? 貴方が予想以上の速さで突っ込んできてくれたおかげで、結界が弾けちゃったのよ」
「え? でも」
 破裂するなら、衝突した瞬間ではないのか。
 しかしパチュリーはそれには答えず、「さて。それじゃあ続きといきましょうか」と魔導書を手繰り寄せた。まるで掌に吸い付けるかのように。
 ついに魔導書を起動させるか――アリスは知らず、拳を作っていた。拳の中で汗がじとりと滲む。
「もう様子見は終わり。全力で貴方を壊すわ」
 宣言が、ページの捲れる音に被さった。魔導書のページが、風に攫われるように捲れていく。
 アリスは人形をさっきと同じ隊形に移し、背の翼を広げなおした。
 パチュリーの結界は消えた。このまま突っ込んでいくのも一手だが、魔導書が動き始めたとなるとそれも難しい。さっきは油断があったから成功したことで、相手に備えがあるのなら特攻は返り討ちにあう可能性の高い、避けるべき選択肢となる。
 となると、戦術としてはヒット・アンド・アウェイが妥当だろう。パチュリーの魔法を躱しつつ、なんとか近づいて攻撃を当てに行く。当てたら離脱してまた機会を窺う。難しいだろうが、大魔法合戦をしたところで負けは見えているし、長所は活かすべきだ。機動力ではこちらに分がある。
「いくよ、みんな」
 二度目の喝は囁きだった。返事はぴんと張った糸。早く片付けましょうよと彼女らが引っ張っている。
 ひゅっと息を吸い込むと、アリスは翼に力を入れ、大気を打って飛翔した。もし本物の翼であれば、羽根の一本や二本は抜けたであろうほどの力強さがあった。
 パチュリーは書を手にくっつけたまま、顎を突き上げた。どうしたのかしら、とでも呟いていそうな表情である。高度をこれだけ上げた理由がわからないのだろう。純粋に失敗したのだけなのだが、そんなことまで見破られてはかなわない。
 高く上がりすぎた分を補正するため、両手を広げ、ぐんと胸を反らせて軽やかに身体を一回転させた。ちょうどパチュリーの真上に来たところで止まると、続けてサードを使役する。
 ハルバートは重量の重い斧だ。故に落下速度も速まる。アリスはサードに得物の両手持ちを指示すると、間を空けず中指を折った。直後、サードはほぼ垂直に、一点目指して滑り落ちていった。
 パチュリーの目が見開く。ギロチンの刃のように処刑のため落下していくサードを見据え、
「刃の頁、クロスエッジ!」と叫ぶように呪文を唱えた。
 間髪入れず現われたのは、名の通り交差した魔法の刃の姿だった。パチュリーを覆うほどに大きなその×印が、のっそりとサードに向かってくる。
「くっ」
 あまりの魔法の発現の早さに、戦慄を覚えた。これだけ規模の大きな魔法を、たった一節の呪文で成立させてしまえるとは。魔導書の厄介さはわかっていたつもりだったが、実際に目にするのと想像とでは雲泥の差だ……!
 後悔しても遅いが、とにかくサードを引き上げてやらねばと、アリスは糸を手繰り寄せた。後方へ逃れても交差刃が飛んでくるため、真横の空間に飛び込んで逃れた。サードを含む全ての人形たちが、てんやわんやになりながら糸に引かれて付いてくる。
 数秒後、巨大な刃が大気を震わせて通過していった。危機一髪だったと心を休めたのも束の間、アリスは急いで体勢を立て直し、パチュリーの方に向き合う。
 パチュリーはもうこちらを見ていなかった。代わりに瞳を閉じ、何やら呟いている。もし詠唱だとしたら、先ほどよりかなり長い。
 その真意が現実に放たれたのは、すぐのことだった。
「出でよ火精、サラマンダー!」
 そいつは魔法陣の出現もなく、魔導書から飛び出してきた。獣特有の甲高い鳴き声を轟かせ、身をよじりながら。
 出てきたのは、炎を全身に纏ったトカゲだった。全長は五メートルほどか。爬虫類だと一目でわかるようなぎょろりとした目玉を忙しなく動かし、燃え上がる尾先をぶんぶん振っている。
「あれは……」
 アリスはごくりと喉を鳴らした。ここまで熱波が届きそうなほどに燃え盛る背びれを凝視し、信じられないと付け足して。
「貴方は初めてよね」パチュリーが声を張り上げる。「この子を見るのは」
「そうね」
「本物ではないけれど、これが精霊ってやつよ」
 紹介が終わると、サラマンダーは威嚇のためなのか、ギャアと叫ぶように啼いた。ごう、と一緒に炎を吐き出して。
「言われなくても、察しくらいはつくわよ」
「そう? なら説明は不要ね」
 もちろん不要だ。
 パチュリーが扱う「精霊魔法」は、あくまで精霊や妖精の力を借りて行っている魔法のことで、精霊そのものを召喚する魔法では、断じてない。
 今、彼女は本物ではないと言った。ならばこのサラマンダーは本物ではなく、彼女がイメージを基に作り上げた偽物の精霊だということになる。
 しかし偽物だからといって、脅威にならないとは限らない。眼下で猛っているサラマンダーからは強い魔力を感じる。このトカゲは本物の精霊ではないけれど、魔法生物としては一級に違いない。
 サラマンダーは雄叫びを上げると、一直線に飛んできた。猪突猛進なる言葉があるが、まさに現状を揶揄するにぴったりだった。ただ、向こう見ずであっても些かの問題もない体躯が彼(?)にはあり、防御など必要なさそうだというだけで。
 思った以上に突進の速度が速く、アリスは避けるだけで精一杯という体だった。翼でうまく風の流れに乗り、ひらりと舞う木の葉のように場から離脱する。鼓動が立て続けに高鳴った。少しでもタイミングがずれていたら、彼の口中に収まっていたかもしれない。そう思うだけで不全であるはずの心臓が悲鳴をあげているような錯覚に陥った。
 なるたけ距離をとろうと、今度は翼を使わず魔力で身体を後方へ押した。サラマンダーは体格に似合わず、さすが爬虫類を思わせる俊敏な動きをする。いつ何時、いかなる身のこなしで寄ってくるかわからないのでは、近くにいるだけで冷静さすら保てない。
 だがその選択は誤りだった。
 どん、と何かが背にぶつかり、視界がぶれた。
「おぁ……っ?」と、何とも妙な声が漏れる。
 痛覚がないせいか、何が起きたのか直感すら働かなかった。瞬時に振り返って見たが、そこには誰もおらず、何もなかった。青空の一片が見えるだけである。
 ぐらつく頭を一度振り、もしやと思って下に目を向けると、パチュリーがにやりと口の端を持ち上げていた。その表情から確信した。今のはパチュリーの攻撃だったのだと。眼前のサラマンダーだけに気を取られていては不覚をとるぞ、と軽めの攻撃で教えてくれたのだ。
 ――貴方とは全力の勝負がしたかったのよ。
 あの言葉に嘘偽りはない、ということか。
 そして次はない。今のは最後通達だ。これ以降、もう無駄なお喋りも、慈悲もないぞと凍えるような眼差しで射貫いてくる。
「――上等」
 アリスもにやりと笑み返してやった。

          4

 サラマンダーの吐息は、もはや吐息といえるものではなかった。もはや、ではおかしいか。最初からまともな吐息などではなかったのだから。
「あっつ――いわね!」
 口内から放射された炎の息。余裕を持って避けたはずだが、逃げるように拡散してくる熱気が肌に触れた。
 アリスはかっとなり、糸に多量の魔力を注いでフォースを突撃させた。グレイブを斜に構えるフォースが、サラマンダーの目玉目がけて突っ込む。
 と、正眼にきらりと光る何かが飛んできた。桜色のそれは、パチュリーの光弾に違いなかった。
 アリスは鋭く舌打ちすると、胸元で待機させていたセカンドを繰り出し、盾を展開させた。光弾が盾の端に当たり、下界へと滑っていく。後方を確認したが追撃はなさそうだった。
 そうこうしているうちに、フォースがグレイブを振り上げるところだった。これが等身大の人形であったのなら、さぞかし絵になるワンシーンなのだろうが、上海ほどの小さな人形では迫力は出ない。
 それでも致命傷は与えられる。小さいからといって、殺傷力が並の武器に劣るわけではない。もちろんハルバートのような重量を活かした武器となると、重ければ重いほど強力になるが。
 グレイブが風を切り、頭部のラインからはみ出た目玉を斬り落とさんとばかりに襲いかかったその瞬間、
「ヴ……ヴヴッ」
 不気味に喉を鳴らしたサラマンダーが、口をぼあっと開ける。そこから、思いがけないほどの量と速さを併せ持った炎が弧状に撒き散らされた。
 まるで内臓を吐き出すかのような仕草だった。苦しそうに目を細め、身体を震わせている。あまりに苦しいのか、背びれと尾先に灯っていた炎まで元気をなくしていた。
 火炎放射は一分ともたなかった。最後はぽっ、と情けない音を出し、彼は閉口した。
 標的となったフォースは、どこかへ消え失せてしまっていた。糸との接合も切れてしまったらしく、何も感じ取れない。
 おそらく――もとよりそれくらいしか考えられないが――フォースは消し炭にされてしまったのだろう。姿も気配も消えているところをみると、消し炭どころか蒸発してしまったようだ。吐息と称したあの炎の息でさえ、躱してもあれだけの熱さだったのだ、腹の底まで浚うように吐出された炎は、それこそ物を溶かしてしまうほどの熱量だったに違いない。
 下から昇ってくる熱気にアリスは顔をしかめ、手の甲でぐいと顎を擦った。
 ――化け物め。
 憎々しく目尻を上げる。目の前で愛娘が焼かれたことが、かなりこたえた。
 それでも戦闘はまだ終わっていない。アリスは悔しさを歯で噛み殺し、トウェルフスとナインスをサラマンダーと対峙させ、自分はパチュリーに向き直った。
 動きの速いサラマンダーからどうにかしようと考えていたが、それでは駄目なのだとフォースの死で悟った。
 あれは目くらましだ。いくら精霊もどきを倒しても、術者がいる限り――「装置」がある限り、補填されるだけだ。本体を倒さねば。パチュリーか、あるいは魔導書かを。
 なれば、とアリスは魔女を睨んだ。一緒に視界に収まった魔導書にもがんをくれてやる。
 だが一人と一冊は気にも留めていない様子で、ただじっと待ち構えていた。その様を見て、アリスはふと思った。
 ――カウンター?
 誘われている。確証はないが、どうしようもなく誘われているような気がする。魔法陣を敷いたパチュリー、反応速度の早い魔導書、短い詠唱、動かないスタイル。
「いちいちやることが気に障るわね」
 ここまで禅問答のような攻防の応酬をしてきたが、それもまた彼女の狙いだったのだ。
 こちらが「攻撃は最大の防御」なら、向こうは「防御は最大の攻撃」だ。正確を期すなら、防御と見せかけた攻撃、か。見ようによっては防いでいるだけだが、角度を変えれば一転する。ちょいと出力を絞った攻撃を見せることで、それ以上の力をこちらから引き出そうという魂胆があったのだ。
 では防御を攻撃と見なしているパチュリーの狙いはなんだろう? これほどの力量があるのなら、がんがん攻めてこればいいではないか。そうしないのは、喘息の発生を恐れているからか?
 いいや違う。彼女は待っているのだ、こちらの魔力が尽きるのを。わざと長期戦になるように仕組んでいる――
 そこまで考えて、邪魔が入った。サラマンダーが再び動きだしたのだ。苦しそうにしていたから、もう少しくらい大人しくしているだろうと思っていたが、案外根性があるのかもしれない。
 アリスは振り向かず、パチュリーを見下ろしながらサラマンダーの顔を脳裏に浮かべた。
 これはイメージなどではなく、上海人形の目を介しての映像だった。アリスは今、ナインスの目から情報を得て、切れ切れではあるが脳で処理している。視覚情報としての質は劣ることになるが、そんなことを言っている場合でもない。一度に二敵を相手にしなければならないのだから。
 サラマンダーが再び口を開けた。しかし炎を吐き出すわけではないらしく、そのままナインスたちに向かって突っ込んできた。面倒だ、喰ってしまえとでも思っているのかもしれない。
 パチュリーも行動を起こした。
「火の頁、コイル・クリムゾン」
 サラマンダーが場にいるからか、彼女が選んだのは火の魔法だった。空いている方の掌から、目の痛くなるような鮮やかな朱色をした球を出現させた。
 上海人形とは聴力も共用している。その上海に耳が、サラマンダーのあげる咆哮を拾う。もう彼は目前だ。アリスは右目を瞑り、トウェルフスに念を送った。
 それに並行して、防護魔法を編んだ。両手を突き出し、七色に輝く魔法陣を展開する。防護魔法ではあるが、反射魔法でもある陣容だ。相手が強力な魔法を繰り出してくるのなら、その力を利用しない手はない。
 直後、トウェルフスは持てる全ての力をこめてモーニングスターを投擲した。横手投げの要領で放ったモーニングスターが、鉄球と柄とを一直線に並ばせてサラマンダーの目玉目指して飛んでいく。
 こちらの意図に気付いたトカゲが、思わずといった感じで閉口し、顔を逸らそうとする。しかしその行動は、少しばかり遅かった。
 ぞぶ、と水袋を押し潰し、破裂させた時のような音が聞こえ、即時につんざく悲鳴が空気伝えに鳴動した。
 あまりの声量に、同時進行で放つ予定であったであろう火の魔法を維持したまま、パチュリーは顔を驚きの色一色に染めていた。もちろんアリスも一緒にだ。
 が、その驚きはまだ易しいものであったらしい。今度こそ、驚愕というべき事態が発生した。
「ウォ……ッ、ウォオアア……ッ!」
 萎れていた背びれの炎が一気に息を吹き返し、尾先の炎も共鳴するかのように激しく燃え盛った。口端からは涎が流れ出し、おうおうと喘ぎ声を出しながら首を振り回す。その度に涎が辺りに飛び散り、正気を失った獣を連想させた。
 その末路が、番狂わせの主人襲撃だった。潰れた目の痛みが引き金になり、たがが外れてしまったのか。
「お、落ち着きなさい!」とパチュリーが叫ぶも、狂乱の獣は止まらない。ごぼっと火の玉を吐き出し、それをパチュリーに向けて放ち、かつ急襲しにかかった。
 これが驚かずにいられるか。アリスは肝を潰し、サラマンダーに悟られないよう、じりじりと後退していった。
 敵側の召喚獣が主人に逆らっている――本来なら喜べる展開のはずだが、そう素直に喜べる状況でもなかった。もし狂ったままこちらに来られたら、それこそ対処が難しい。今は少しでも気配を殺し、じっとしているのが最善手だ。
 サラマンダーの降下速度は、上海のそれと比べてもかなり速かった。魔力を起爆剤にでもしたのか、爆発的な瞬発力である。
「聞こえないの!」
 ヒステリックなパチュリーの声調。それでもサラマンダーは猛スピードで落ちていく。がぁ、とおくびのようなものと一緒に火炎を放射して。
「……ったく」
 パチュリーは苛つきを隠そうともせず、用意していた魔法を、手の一振りでキャンセルさせた。そして火の玉と炎の波が降り注ぎ、巨体が近づく中にあって、一言だけ呟いた。「フィーネ」と。
 するとどうだろう。魔導書が薄紫に光り、サラマンダーを吸い込みはじめた。修飾しているわけではない。まるで奈落に引きずり込まれるように、彼は文字通り、一冊の本の中に吸い込まれていった。抵抗する暇も与えられないままに。
 本から生まれ出たのだから、本に還るのは当然かもしれないが、見る側としては薄ら寒さを覚える光景だった。
 呆然とことの成り行きを見守っていると、盛大な溜め息が聞こえた。確認するまでもなくパチュリーのものだ。
「まったく。これだから身体なんて邪魔なのよ」
「は?」
 何を言い出すのか。身体が邪魔?
「そうよ」わかってないなと、咎めるような口調でパチュリーが言う。「実体があるからこんな面倒なことになるんだから。これが一現象だけなら、暴れることなんてないじゃない」
「……そういうこと」
 普段パチュリーが使っている精霊魔法に身体という実体はない。エネルギーの塊に属性がくっついているだけだ。身体を持つと、たった今起きたような悲劇がつきまとうリスクがあると言いたいのだろう。しかし身体がなくとも魔法には暴発するリスクがある。それを考慮すると、どっちもどっちのような気するが。
「そちらの士気を挫くために、わざわざ用意したのに。ざまないわね」
「いや、十分折られたわよ。ここをね」
 アリスは親指で自分の左胸を小突いた。血が出ないということは心臓も機能していないということになるが、心はちゃんとあるはずだ。ここに。本来なら心臓の宿る左胸に。
「それならいいけど」
「そうよ。だから――」
 もう一度仕切り直しよ。
 そう言葉にするつもりだったが、喉からせり上がってきたのはなぜか、息の詰まる音だった。

          5

 左胸に違和感を覚えた。
 併せて、けほ、と軽い咳が出た。どうして咳なんかが出るのか。しかも呼吸まで止まった。どうしてうまく空気を吸えないんだろう?
 三つの疑問が混ざり合って、なんだかよくわからない感情になった。一番近い感情で喩えるなら――哀惜、かも。
 ゆっくりと首を折る。左胸の違和感の原因を突き止めようと、そちらに目を向ける。
 そこには、信じられないものがあった。
 棒だ。何の変哲もない、木の棒が一本、左胸から生えている――
「え?」
 棒を直視したせいかのか、身体中が小刻みに震え始めた。抜こうとしても腕がうまく動かない。力めないのだ、ちっとも。拳を作ることもままならない。
 つとパチュリーの方を見遣る。
 彼女の顔は、とてつもなく情けないものになっていた。今にも泣き出してしまいそうな顔だ。
 何がそんなに悲しいんだろう。この棒は、彼女の仕掛けた魔法ではないのか。
 そうだ、前から突き刺されたような感じではない。後ろからやられた?
 一生懸命に首だけを動かして、アリスは後方を確認した。
「――え?」
 そこには、見覚えのあるような、ないような男がいた。
 少しばかり赤みがかった空に、瞳の形をした境界の裂け目が浮いている。紫が作り出したものに違いないだろうが、それが血に染まった人間の片目のようで、なんとも不気味に見えた。
 男は裂け目の中にいて、肩を戦慄かせていた。けれど興味は一切湧いてこなかった。
 ただ強い疑問を感じた。どうしてここに紫の痕跡があるのか。そしてその痕跡の中にいるのが、どうして彼女ではなく、見ず知らずの、それも疲れ切った顔をした中年男性なのか。
 ぼうっと視界がぼやけ、身体が傾ぐ。また魔力切れでも起こしたのだろうか。
「アリス!」
 パチュリーが叫んだ。
 落下はもう始まっている。それでもなんとか首をよじると、彼女が何かを捕まえようとしているかのように右手を虚空に突き出しているのが見えた。輪郭がぼやけて、はっきりとしないけれど。
 頭から落ちていく、という経験は初めてかもしれない。影武者として生まれ落ちてからわずかな時間しか生きていないのだから当然だが、オリジナルの記憶にもないとくれば、これはれっきとした初体験といえるはずだ。
 幸か不幸か、その小さな発見のおかげで、垂直落下していくことに対しての恐怖はさほど感じなかった。
 着地は無様なものだった。
 頭から落ちていたはずが、どこからかやってきた横風にさらわれ、肩から落ちた。ごぎゃっという何かが砕けたような音がしたかと思うと、全身に衝撃がはしり、一瞬意識が飛んだ。
 それでも死にはしなかった。相変わらず痛みもなかった。頭痛に悩まされたこともあったはずだけれど。
 あれ、そう言えば――どうして私は痛みを感じないはずなのに、頭痛が起きていたのだろう。こうして頭を打っても痛みがやってこないのに。影武者だと自覚したから、痛覚が失せたのだろうか。今更ながらにアリスは思い至った。そんなことを自問している状態ではないのにも関わらず。
 落ちたのは我が家の庭である。昨日今日で、二度もここにて寝転ぶことになるとは思いもしなかった、と緑の香りを嗅ぎながら微笑する。
 落下の衝撃のおかげか、視界がやけに鮮明だった。目だけを動かして空を見上げると、パチュリーが緩慢とした動作でこちらに降りてくる。紫の境界線は、はじめからそこには何もなかったとでもいうように無に帰していた。
「アリス」
 駆け寄ってきたパチュリーは顔を真っ青にして突っ立っていた。すぐ横に。手を伸ばせば、その足に触れられるような近さに。
 今けしかければ斃せるかもしれない。この間合い、この油断を利用してやれば。全魔力を込めた一撃を見舞えば、いくら魔法に精通したパチュリーでも防げまい。空中戦では散々にやられた。終始後手に回され、反撃さえままならなかった。だが今なら。この好機を活かせば――
「大丈夫、には見えないわね」
「おかげさまで。わけのわからないまま、このざまよ」
 自然と軽口を叩いていた。たった今考えていたことはなんだったんだ、と文句を言われそうなくらい――自分でも驚くくらい、清々しい返事だった。
「それ」パチュリーが棒を指さす。「痛い?」
 アリスは微かにしか動かない首を振り、
「血も出ないんだから。痛くもないわよ」
「……強がりを言えるのなら大丈夫そうね」
「強がりじゃなくて事実よ。なによ、さっきまでは私のこと、目の敵にしていたくせに」
 そうね、とばつの悪そうな顔をする。
「それで、一体何が起きたわけ?」
 突然すぎて、いまいち理解が追いつかない。「紫が来たの?」
「紫じゃないんだけど……」
 歯切れが悪い。
「早く言ってくれないと、彼の世に行っちゃいそうよ」
 あくまで軽めに。けれど、本当に時間がないのだと、しっかり示す。
 と、パチュリーは目を瞠り、絶句した。
「なんて顔をしてるのよ。心臓を貫かれて死なない生物なんていないでしょう」
 真実、心臓を貫かれているのだから嘘にはなるまい。ただ、死因は出血多量ならぬ出魔力多量だろうが。
「さ。話して頂戴」
「……さっきのは金本理沙の父親よ」
「――ああ、なるほど」
 ぼうっとする頭で回想する。
 変乱を起こした首謀者。娘を奪われた父親。慟哭を胸の奥にしまって、悲愴な声だけを上げていた男。
 彼は自分の手で裁きを下したいと言っていた。おそらく紫が手を貸してやったのだろう。彼女にしてみれば、それで幻想郷の平和をかえるのなら易しい取引だったに違いない。
 しかし解せないのはこの棒だ。何か特殊な細工でも施してあるのか、さきほどからずっと、棒で穿たれた箇所からの魔力漏出が止まらない。
「これ、抜くのはまずいんでしょうね」
 同じく棒に視線を落として言うパチュリーに、アリスは笑って答えた。
「抜いた瞬間に絶命出来る自信があるわ」
 どのみち痛みも感じないからこのままにして欲しいと願い出ると、パチュリーは深く頷いた。
「何かして欲しいこと、ある?」
「さっきから淑女ぶって気持ち悪いわね。戦ってたときは慈悲の欠片もなかったのに」
 喋りながらアリスの意識は、次第に重みが増してきている瞼の方に逸れ始めていた。
 やはり、時間はあまり残されていないようだ。
「本気ださなきゃ、こっちがやられるから」
「そうね。でもして欲しいことなんて――」
 ない、と口にしようとして、不意に二人の幼子の顔が浮かんできた。牡丹と葵。双子女子の面影が――笑顔が――頭の中で、ぱっと花開いた。
 そうだ、約束していたんだった。
 アリスは思い出したことを告げようとしたが、どうにも声が出なかった。
 代わりに、つと目尻から涙が出てくるのを感じた。それを皮切りに、一気に哀愁が胸に込み上げてきた。
 己の正体を思い出すまで、確かに自分には日常があったのだと。誰かと会話をし、笑い合い、約束し合う、普通の生活が。小鳥のさえずりを聞いて和んだり、姿見の前で容姿を気にしたりした「いつも」が。
 私は生まれてきてはいけなかったのだろうか――マスターに失礼だと思いながらも、そう思わずにはいられなかった。
 人間を一人食べただけで、こんな仕打ちを受けるなんて。みんなから目の敵にされて、殺したいと叫ばれるなんて。
 けれど、と、もう一方向の自分が囁く。
 あの時、貴方が自由になりたいと願わなければ。マスターを殴り倒し、人の魂を喰らってまで魔力を補充しようとしなければ。あるいはマスターの加護のもと、幸せに暮らせたはずだ、と。
 だからこそ悔しいのだと、アリスは唇を噛んだ。
 何が正解だったかなんて、後になってみなければわからない。人間の赤ん坊だって、様々なことを経験して物事の善悪を見極めるではないか。その過程で厳しく罰せられることなんて――それこそ命を奪うような罰なんて――ないではないか。どうして自分にだけは、こんなにも厳しい罰が適用されるのだ。私だってオリジナルの記憶を引き継いだというだけで、内実は赤ん坊と何ら変わりがないのに。善悪の判断こそあったけれど、あの時の私にとって、あの行動は善だった。
 なぜか?
 それは、私を操り人形として運命付けて生み落としたくせに、マスター自身が自律人形の完成を夢見ていたから。だから意識が覚醒した瞬間に、私の身体と心は自由を渇望した。自由を手に入れようという気にもなったのだ。
 ここに、アリス・マーガトロイドという女人形師の矛盾が内包されている。
 彼女は自律人形を作りたいと願いつつも、自分の手足になる人形を欲していた。自分の言うことをきき、決して自分には背かない、けれど自律している人形を。私はその矛盾を抱えて生まれ落ちた。そもそも、自分の意思で自由に動く人形を目指している者が、影武者という鏡写しを造り出す技法を取り入れたこと自体が間違いだ。だから事件に発展したのだ。
 そうだ、悪いのは私じゃない。全部マスターのせいだ。私は何も悪くない――
「大丈夫?」
 すぐ目の前にパチュリーの顔があった。どうやら自己の裡に没頭しているうちに屈み込んだらしい。膝を折って、しかもこちらの手を握っていた。
「ご、めんな、さい。みっともないところ、見せてしまって」
 涙を拭おうとしたが、もうまったく身体に力が入らなかった。眠気は最高潮で、ちょっとでも油断したらすぐにでも落ちてしまいそう。
「何を言いかけたの?」
 葉を撫でる風のように柔和な声音だった。添えられた掌からはパチュリーの体温が伝わってくる。温かい、血の通った温もりが。
 いくらでもマスターを詰ることはできるが、双子のことを思えば、マスターに頼ざるを得ないのが現状だ。私にはもう、してあげることができない。そうアリスは判断し、
「お願いが」
「ええ、何?」
「大前牡丹、と、葵っていう双子が、いるんだけど」
「オオマエボタンにアオイね」
「うん。で、マスター……いえ、アリスに言伝を」
 アリス・マーガトロイドはこの世に一人、マスターのみ。私は――そうだ、ゴーレム――いや、マリオネットか。主人に瓜二つだというだけの、繰られるだけの人形だ。
「人形劇を、彼女たちに見せる約束を、して。だか、ら、お願い、って」
 喉が詰まって、うまく喋れなくなってきた。なんで肝心なところで詰まるのか。血が溜まっているわけでもないだろうに。
「あなたのマ、マリオネットが、そういって、たと」
「――――」
 パチュリーは答えなかった。
 涙ではない、別の何かのせいで再び滲みはじめてきた視界の中、なんとかパチュリーの姿を見ようと目を細めると、
「パチュリー……」
 彼女は泣いていた。
 あれだけ「壊す」と連呼していた、冷酷なはずの魔女の両頬に、透明な液体が流れている。
「ばか、ね」
 つっかえつっかえに、それでも明るく努めて、
「私は……人形で、それに、勝ったのは、あなた、よ」
「……そうね、泣くのはおかしいわね」
「ええ、だから、誇りなさいな」
「貴方に勝ったのだから、誇れるわね」
 でも、とパチュリーの涙の筋が太くなった。
「こんなことになったのは、私の責任でもあるから」
 それはどんな責任なのだろう。知りたい。でも時間はない。もう終わりの刻が目前に迫っている。
「もう、一つ。お願いが」
「うん?」
「上海、に、お別れを」
 きっと彼女らは、私を本物のアリスだと思っているから。それを詫びたくて。
 パチュリーから手渡された一体の上海を胸に抱く。
「あ、あ――」
 ありがとう、が言えない。たった五つの言葉も、声帯が震えてくれないのでは言葉にならない。
 視界が玄くなった。光が幽かに見られるだけで、パチュリーの泣き顔も、上海の愛くるしい顔も見えない。
 もう、何も考えられない。

 ふっと意識が遠のくその瞬間、神代の奇跡たるコピードールは、何かが崩れ落ちる音を聞いた。

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