楽園の確率~Paradiseshift.第5章『黒谷返上』 黒谷返上 第8話
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公開日:2018年05月28日 / 最終更新日:2018年05月28日
楽園の確率 ~ Paradise Shift. 第5章
黒谷返上 第8話
瘴気の中からの、井三郎を背負った文の飛翔を見た椛は、すぐさま以心の術を飛ばす。
《文様! こちらは河童台場に到着してます。そちらは何か?》
《井三郎殿が卑妖化しかけたけど元には戻した。後送のため一旦退くところ》
元に戻せた。妖怪の事とは言えそれは朗報で、同時に戦闘の大きな制限にもなり得た。
《なるだけ早く戻って下さい。このままだと連携できません》
《承知!》
文は可能な限り上昇し、巡行飛行に移行。椛は一旦それを見送って、にとりに向き直る。
「ちょっと椛、射命丸さん行っちゃったじゃん!」
「すいません、負傷者の搬送らしくて」
それでは仕方ない、とも言ってられないにとりは苛立ちを募らせている。他はと言えば、あまり危ない真似をせずに済んで割と安心といった感。川杜以外は。
「にとりさん、対物センサに感。なんか近付いてます、回り込みながら」
「はぁ?」
目視では何も見えない。四人とも。
「どこらへんよ、あたしには何も見えないけど」
「一時方向から三時方向へ、まだ遠い。けど、明らかに回り込んで来ますよ、これ」
にとりは例しに偏光グラスを掛けてみる。もし既知の準能動光学迷彩ならこれである程度は見えるはず。しかし見えず。
「いや確かに、何か来てる……!」
横に並ぶ椛の“眼”は、瘴気から飛び出たそれをかすかに捉えていた。
「河藤! 対空射撃準備!」
「すぐには無理ッスよ! 一旦駐鋤引き上げんとそっちまで回らんス!」
そちらは急がせ、にとりと椛は自力での迎撃も考える。それ以前に――
「他に天狗様は?」
「実は、はたてさんが「秘密兵器を持ってく」って抜け出して……」
あのギャル天狗が何を持ち込むつもりなのか、そしてなぜ椛も一番混乱を招きそうな人物を止めなかったのかと、にとりは視線で責める。
「でもあれ、明らかに敵側から飛んで来てましたよ」
「ならプロット保存しといて」
「無理です。こいつ最低限のモジュールしか持ってきてないんですから」
それ自体はフィン状に送受信素子(アレイ)を並べた移相配列電探の一種。しかし周辺機器は殆ど持ち込めていないため、本来の機能を全く発揮できず。
「それにルックアップ能力も殺してますから、測高も不可です」
えいくそとまたも悪態をつくにとりに、迎撃も椛の眼が頼りと、彼はついでに言った。
「来るよ、にとり」
「どっちよ!」
「私が撃つ方!」
距離はまだ数百メートル。椛は三尺五分の大太刀を抜き放ち、鞘の内で練っていた通力を弾幕に換えて放つ。それは連続するのの字の幾何学模様を描いて虚空に打ち付けられた。
(障壁?)
迫っている者は瘴気を纏っていない、となれば己より高い験力の持ち主か。しかし姿を完全には見透せないというのがこの吃緊の状態でも違和感をもたらしている。スペルルール下ならスペルによる攻撃で撃退できようが、今は全力で妖術を放っても弾かれかねない。目標が全く変針しないのは、的確に力量を量った結果とも言えよう。
「椛は見張っといて。河藤、急ぐよ!」
攻撃に対して退く様子も、ジェスチュアか術によるコンタクトを取る様子も無い。椛もにとりも、これを明確に敵と認識した。
「恐らくあちらさん、元々向けてた方向にしか射角が取れないって考えてると思う。どのみち榴散弾は射程短いし、椛の指示でいっせーので撃つから、よろしく」
「よろしくされた!」
あれが卑妖なら、そもそも“考える”という活動を行っているのかも怪しいが、卑妖で無い可能性が高い今はそう思う方が自然。
「距離二町。そして、もう一丁!」
椛は再度、刃からの遠当てを放つ。それはやはり凌がれたが、距離と方向は示せた。
「にとり! 降下してる、水平、から拳一個上げて」
「承知! 河藤、あたしが砲を回すから、号令と一緒に引き金引け!」
「アイ、マム!」
言ってにとりは〇号砲を旋回させ、号令を準備する。
「五十間……三十間!」
「射撃用意。連射、三発!」
最初に撃鉄が上げられていた分の射撃は見事に狙った方へ、タイミング通りに。しかし続く二発は駐鋤も無く、ダブルアクションで引金が重くなっていたためあさってへ逸れる。
だがその初弾が見事に弾幕を為した。河童台場の今回の初戦果。
「やったか!?」
にとりの言葉に椛は頷くが、その顔には一瞬だけ驚愕の様相を見せる。
「椛?」
「大丈夫、墜とした。間違いなく消滅したよ」
亡骸も衣も残さず消える。それは妖怪の死に様であって、人間や禽獣の卑妖が迎えた死では無かった。そして椛は、今際に正体を現したそれを、千里眼で見ていた。
戦果に喜ぶでも無く、筒先を正面に復させるにとり達。そちらの方からは、瘴気を纏った大小多くの卑鳥が舞い上がって来ている。
「河藤ぉ! 撃った分再装填! 距離三十から射撃。腹括れ!」
「にとりさんこっちは!」
「全弾榴弾。号令と同時に撃ちまくれ!」
こうなれば本当に自棄だ。卑妖の被害も戦術も知ったことかと、およそここに来た時から自棄気味だった鬱憤を炸裂させようとした。その矢先、霧の中から複数の火線が上がる。
「もしかして、椛……?」
《命中弾複数、良好です。参道に沿うと、三町行った先から瘴気が濃いです。それ以上進行するならご注意を。それと十分な思考能力、魔力を有した未知の敵も上がって来ました。穏形の術を用いているものと思われます。そちらも充分警戒して下さい》
「う、撃ち方待て! 椛、まさか念話で? あれ全部天狗様達だったの? なんで?」
一対一の器用な通話など出来ない。人間でいなければならない彼らに向かって椛は禁を破って以心の術を飛ばし、彼らも禁を破ってそれに応えた。
「どっちのリスクが大きいかを判断してこうした。だから黙っててね」
周囲に念話が使えるモノが居れば、さっきの以心の術も聞かれていただろう。それも込みの上で。彼らと違い、人間を守るという信念からではない。椛のはあくまでも打算だ。
《でも見積もり、甘いよ!》
口に出した言葉と切り離せず術にそれを乗せてしまった椛に、文が返信する。
墜としきれなかった卑鳥の群れ。低空に瘴気の雲を形作りつつあるそれらを、黒い光の翼が叩き斬る。妖力の発露であり、翼それ自体が推力であり、八咫にも及ぶ剣だった。
《河童! 砲弾の精度に自信があるなら、手柄を譲ってもいいですよ!》
「――って、文さんが言ってるけど」
文にとっても予定外だったこの二門の砲の存在は、卑妖に対して無用な被害をもたらす恐れがある物であるのと同時に、ここに最も期待された戦力だったと文は気付いた。
「おうよ乗ったろうじゃん。二号、発煙弾三、後は選別榴弾装填。ゼロ、発煙弾装填」
破天荒なくせに上役に弱い河童は、あたふた動き出し指示に従う彼らから目を離し、肉眼で遠景を見る。目標の進路が完全に定まる一点を、その目と図上から選び出した。
「文さんに言って。これから一門ずつ照準の確認するから、撃つ時上空の風止めてって」
風繰りは天狗の、秋葉衆の本領。椛の送話に文からは了解の返信。
《何秒ぐらいいけそうですか?》
《馬鹿にしないでよ。日が暮れるまで止めていたっていいんですから》
それは当然ものの例え。そちらに妖術を割いては、空戦もままならない。
文からの返答を――椛が適度に意訳して――にとりに伝えると、すぐに〇号砲が火を噴く。
「……にとりさん、どこ狙わせたんですか」
砲隊鏡を覗く川杜が、クリック操作しつつ流れる煙の元を見ながら問う。
「あ、言ってなかったわ。照準地点は『い3』西、博麗神社参道石段」
三河童からは「あんたは何を考えてるんだ」と揃って大ひんしゅく。
「高台になりかけのあの地点なら、この陣地との高低差が少ない。それに、奴が参道を行くなら、必ずあそこを通るだろうし」
だからと言って万が一社(やしろ)に傷を付ければ、河童は後々全方位から責めを受けかねない。
「にとり、煙弾は止めた方がいいと思う」
「なんで?」
「あいつか周りの奴か分からないけど、能のある奴が居る。考え無しに進んでる訳じゃない。火仗隊の結成に対して移動を開始して、砲撃に気付いて“兵”を寄越したんだよ。一見して堂々と進んでるけど、いざとなったら進路を変えかねない」
「となると実際に狙うまでは榴弾も駄目、徹甲弾で照準規制は――」
にとりが川杜の方を向くと、彼は呆れた顔をそのままにして手を激しく振っている。
「大丈夫、瘴気の効果範囲に入るまでなら、私の眼で見られるから」
しかし殆ど音と同じ速度で大地を穿つ砲弾だ。そちらまでを正確に見透したとしても、着弾地点を見つけるのに時間が掛かるのではとにとりは危惧する。しかし、
「やるっきゃない。両門、全弾徹甲弾装填」
《文さん。戦術変更のため、現在弾を込め直してます》
すぐに返答が返ると思っていた椛は、しばらくしても返らないそれを先方に求める。
《……文さん?》
《はたて! 何やってるの、戻れ!》
彼女が今になって到着したのか。しかし文がそれほどまでに焦るとは何事かと、椛は千里眼を空域に走査させ、驚く。彼女は全く迷わず、蠢く瘴気の中枢に向かっていたのだ。
《へーきだって。その為に作ったんでしょ、これ。蜘蛛切の写し》
腰には真噛のもたらした剣を提げ、手には鞘を黒く漆塗りした太刀を携えている。
かつて、みやこに現れ、源頼光を熱病に悩ませた土蜘蛛を斬ったという、源氏の重宝。ここにあるのは妖怪が鍛えた写しであり、本科の霊威が確かに招かれている、はずである。
正邪が旧地獄に叛乱を唆しに向かった際、彼女の企みに乗った鬼や土蜘蛛が溢れるのを恐れた文が、鬼切と共に制作させた物だった。
《瘴気に、言霊の危険もある! 下がれ!》
《それにある人に言われたんだよね。“あの人”の娘の私なら、どっちも大丈夫って!》
何をか。誰が彼女をけしかけたのだ、功名心など新聞大会で発露するのが精々の彼女を。
はたては片手に電子カメラを取り出し、更に加速する。彼女の正面の瘴気が断続的にかき消え、空中に回廊が開けていた。
《どうよ! フィルムカメラなんて媒介にしてる文には無理っしょ!》
この射影機による術。霊撃に近い広範囲の妖力無効化、それも妖力を“撮影”するスペルによって連続的にそれを為すのは、はたてと電子カメラの組み合わせだからこその技。
ヤマメと魔理沙は。あの二人なら瘴気と言霊の中枢でも耐えられる実積がある。早く探して向かわせないと間に合わない。いや、
「私が、あいつを継ぐんだ!」
文はまた、黒い光の翼を背負う。雀ほどの飛行から、瞬時に火仗の弾よりも速く飛び、回廊に飛び込もうとするはたてに手を伸ばす。だが何者かに阻まれた。霊撃よりもずっと強力な方術。こんな物を卑妖が使うのか。文がそう思い浮かべ、視線を向けた先では、はたてが大蜘蛛に斬りかかっていた。
体勢を立て直すのがやっとの文は「はたて」と口にしたつもりだったが、その声は出ず、手も翼も、何もかも届かなかった。また、間に合わなかった。
すぐ瘴気の深奥に飛び込めば間に合うか。否、文は進路を真逆に向け、距離を取る。
《文さん、はたてさんは!?》
《瘴気の向こう。あいつが勝ったら無事解決。負けた時は、貴女達が頼りよ》
文からの以心の術は、その心の弱まりからか恐ろしくか細く、椛に届く。
「遅い!」
にとりの発破が、千里眼や以心の術と飛んでいた椛の心をその場に戻す。にとりは当然、砲への弾込めに対して叱責の声を張り上げたのだったが。
六発全部、何度も換えさせられたら遅くもなる。一人で操作する物じゃないから限界がある。と彼らは弁明するが、速度は僅かに上がっている。気持ちが逸っているのだ。
「文さんも、準備できたみたいです」
瘴気は収まる様子を見せず、依然として参道を征く。はたては敗れたのか。
《両門、僅かに時間差を付けていきます。最低三発ずつとの事》
《了解。発射前に凪の回廊を作る。目標は鳥居前の石段ね》
河童の台場から博麗神社までの風が瞬時に止み、快音が空を貫いた。
確実な機会は一度きり。照準は石段に合わせられている。当然ながら、石段の周辺は砲弾の着弾によって弾幕ごっこの後よりも酷い有様。
「ねえ、流石にバレてない?」
「祈るしか、無いね……」
両門、装填一回分を全弾撃ち尽くし、ようやく照準を合わせられたという体たらく。
「それに徹甲弾使えって。照準規制に使ったのがそれだからって、理には叶ってるけど」
「……ごめん。多分私も文さんも、覚悟が足りなかったんだと思う」
徹甲弾の使用は文の提案で、椛もそれを支持した。理由が分からないにとりではない。
「それは上手くいった後に、あのギャル天狗に言わせてやってよ」
跳弾の危険は高くなり、博麗神社に被害を及ぼす可能性も上がる。それでもやるのみ。
「火仗隊! 大蜘蛛はあと少しで博麗神社の石段へ着きます。徐々に前進し、交戦した地点の卑妖の回収を行って下さい!」
もはや隠す意味も薄くなったが、それでも文は彼らの上を飛び回って口頭で伝えている。
「射命丸。はたてがどうとか言っていたが何があったんだ!」
「何者かに唆されて先走って、瘴気に呑まれました」
淡々とした文の答えに、問いかけた善八郎は「ギリ」と歯を鳴らす。
「いずれにせよ、こちらとしては倒すしかないな」
「ええ……」
文は短く答えて飛び立ち、博麗神社上空へ向かう。その途上にようやく魔理沙達を見る。
さほど傷も無く、魔力も温存している様子の魔理沙に、服はボロボロでも傷は少なく、まだ気力も十分と言った風なヤマメ。倒すよりも難しい戦いは、上手くいっていたようだ。
「さっきからドカドカ音がしてたが、まさか大蜘蛛を仕留めた、なんて事は無いよな?」
今になって彼女との約束を思い出す。最後の突撃の前に猶予が欲しいと言っていたのを。
「いえ、まだです。ただこれから、河童台場が十数発一斉に撃ち込みます。これだけは、チャンスが限られますから――」
「出番はその後、か。分かった、さっき言ったのだって私の憶測に我が侭だ」
今は文も出番待ち。それに出立の時とは違い、身の内には決して言霊にも屈するまいという強い心と、自信が満ちていた。
だが、もしかしたら河童の攻撃で終わってしまうかも知れない。霊夢や、はたての命諸共。いや、魔理沙が憶測と言い放つ“予感”が当たっていたら、霊夢などは確実に。
魔理沙は覚悟を決めている。人里の人間と霊夢一人を天秤に掛けたのではなく、文よりも冷静にこの状況を判断しているのだ。確実な打撃を与えるにはそれしかないだろうと。
「文さん。私が先に飛び込んであれを止めるっていうのは?」
「駄目だヤマメ。奴の回りは卑妖が固めてたろ、砲撃なら言い訳の余地もあるが……」
肉弾戦となって、土蜘蛛が本気を出せば、卑妖などあっさり叩き潰せてしまうかも知れない。しかも、互いの姿が見える状態でのそれは、巻き込んだでは済まない。
「大丈夫、祈って下さい。特に秋葉三尺坊大権現への請願をオススメしますよ」
文は少しだけ冗談めかして言い、僅かな余裕を見せてから配置に付く。
《さっきの通り、砲撃中は連続して凪の回廊を形成する。椛、周りの警戒は任せたよ》
《了解しました》
既に博麗神社は見えない。肉眼より千里眼がその影響を顕著に受け、今は文の周囲を見守るしか、椛にやるべき事は無くなっていた。
《卑妖が石段に掛かりました。大蜘蛛の姿はまだ、あと一町後方》
凍気と瘴気が混じり合った地表で、その姿が徐々に明らかになってゆく。
そのモノ自体の姿は人里で見た時と変わらないまま、まき散らす瘴気は濃密になり、それ以上に卑妖が勢力を増していた。
良民と夷(えびす)を従える、支配者の性(しょう)。それは神子が感じた通りのモノになろうとしている。
(だから、そんな物はここにも、外の世界にも、いらないんですよ!)
《大蜘蛛、石段下に到着。照準地点までのカウントを開始します》
初弾から最終弾の発射まで、五・六秒はかかる。更にその前、錘形の砲弾が砲身の中で一回転し、音速の倍にもなる砲口初速で撃ち出され、空気抵抗を受けながら低伸弾道を描いて飛翔し命中するまで、感覚的でも五秒。にとり達も弾道計算のための電子式神(コンピュータ)など持ち込まず、計算尺と手計算での単純計算を行っていた。
カウントなど目安でしかないが、卑妖を巻き込む全くの盲撃ちより、ずっとマシだった。
《初弾射撃まで、五秒前――》
四、三、二、と文の秒読みを椛が伝えた時点で、にとり達も独自に拍を刻んでいた。
「一、〇」 「撃て!」
椛のカウント終了と完全に一致してにとりが号令し、復唱の刹那に両門が火を噴く。
各個に六発。二の矢はもう無い。観測の仕事などは戦果確認のみになろうというほど。
銃身が僅かに跳ねながら雪煙を飛ばし尽くし、駐鋤は地を抉り続けた。
「ゼロ撃ち終わり!」 「二号撃ち終わり!」
「各砲了解。観測!」
「駄目っす、見えないです!」
瘴気に霧に、おまけに撃ったのは徹甲弾。本当に照準地点に当たったのかも分からない。
しかし直上の文は見ていた。
「慢心、したな……!」
二発の砲弾が、それぞれ左の第一脚と右の第三脚をもぎ取り、同時に胴にも穴を穿っていた。そこからは体液の代わりに激しく瘴気が漏れ出している。それが大蜘蛛の血肉その物であるかのように。実際そうなのかも知れない。
巨体を支えるのが億劫そうに、大蜘蛛はその歩みを緩める。卑妖もそれに歩度を合わせていた。それでもそれらは階段を上り続け、鳥居の前で初めて動きを止めた。
「やあ、お初にお目に掛かる、かな。あんたが地上で暴れ回ってる大蜘蛛だね。この濃い瘴気の中なら誰にも気兼ねなく話せると思って待ってたんだよ」
《かしずけ》
「ちょいと聞きたいんだけど。あんた、どこの生まれで、なんて名なんだい?」
《ぬかずけ》
「実はさ。地底に可哀相な娘が居るんだよ。自分が仕える神様やそいつを崇める人間達と海の向こうから渡って来たのに、人間はこの国の中に溶け去って神様もいなくなって、一人残されちまった娘が。栄枯盛衰は世の常だけどさ、やり口が汚いってのはどう思う?」
濃密な瘴気にも、度重なる言霊の発揮にも、そのモノは少しも同じないばかりか、極めて穏やかな声音で問いかけ続ける。
「……あは、たそ」
「吾は誰そ? あんた、自分の名すら知らないってのか。そんなわきゃないだろ」
怪力乱神を振るう鬼、星熊勇儀は。
彼女との睨み合いを続ける巨蟲の横に、より濃密な瘴気を纏った人物が、忠臣のように膝を着いて侍する。
「あなた様は、我らが、みかど。葛城(かつらぎ)の大王(おおきみ)に、あらせられます」
勇儀に代わって答えたのは、その美しい顔の半分を不気味に歪ませた僧正坊だった。
その類い希な験力が、思考を保ったままの従属を叶えたのか。残った彼の目には、まともな認識など無いようにも文には見えた。
「葛城の大王ね、やっぱりお前だったのかい。西方の民の神を、巫女を、二度も堕としてくれた大悪党。人を貶める大蜘蛛と聞いてピンと来たよ。古き憑き物(オカルト)、いや……」
相対する勇儀は僧正坊の言葉に、長らく催してなかった感情を呈する。それは怒りだ。空気が熱を持つほどに拳を握り込み、傷付いた大蜘蛛に殴りかかる。一切油断は無い。
「葛城山一言主(かつらぎやまひとことぬし)!」
その拳の発する圧が鳥居を内側からひしぎ、大蜘蛛を消し飛ばそうとする。
しかしその巨体は微動だにせず、逆に勇儀の身体が袈裟懸けに切り裂かれていた。
「くそっ、酒なんて断つんじゃなかったね……いらん事して焼きが回ったかな……」
飛び退り、傷を押さえる勇儀。その傷口からは鮮血が止めどなく流れ出る。大蜘蛛の傷口から雄々しく拳が突き出され、拳にはそれに相応しい太刀が握られていた。
「蜘蛛切、か。化けの皮(大蜘蛛)を切ったのは分かるけど、鬼を斬ったなんて話あったっけか?」
脂汗を流しながら、依然として不敵な様を崩さない勇儀。腕の主は彼女を仕留めようとしてか、変態する虫が皮を剥ぐように、その内から姿を現す。
堂々たる体躯をした人型のそれは、青銅の鎧兜に身を包み、面頬で顔全面を覆って素肌を一切見せない。上古の武人の姿に似たそれが、右手に蜘蛛切を握っていた。
悠々と、まともに動けぬ勇儀に爪先を向けた一言主。その目前に流星が突っ込む。
「小さくなってくれて都合が良いぜ! 霊夢を返せ、この野郎!」
天儀『オーレリーズユニバース』
魔理沙は左手に持ったミニ八卦炉で推進力を得ながらスペルを宣言。七色の衛星が宙に現れ、その場に呆気なく落ちる。それ自体が魔力を持たないためか、浮力を失っていた。
「今後の課題、かなっ!」
スペルを宣言しながらも始めから肉弾戦を前提にした機動だった。飛び去りざま、胴に魔力の籠もったホウキの一撃を浴びせる。やはりその体躯は全く微動だにしない。
「くっそ重いな!」
一言主が振り向く前に左脚に一撃。挫かせるつもりだったがこれも不発。魔理沙はその如何にかかずらわず、甲に鎧われた頸へホウキを叩き付ける。
重いし固い、それに見合って動きは鈍い。これは大蜘蛛がそのまま凝集した姿なのか。
「四つ!」
振り向きかけた顎に、地を摺ながらライジングスウィープ。
「鈍いぜ、木偶の坊!」
七尺近い上背の一言主より更に一丈も上で、魔理沙はまたミニ八卦炉に火を灯して極端に角速度を増しながら降下し、スウィープアサイドで漣撃で加える。
縦横無尽の魔理沙に一言主はなすすべ無しのまま。僧正坊を始めとした卑妖達が全く動きを見せないのが気になったが、普通の人間の魔法使いの活躍に、文の胸は躍っていた。
「これで終わりだ、ぜ!」
魔理沙は一言主の腰下まで身を伏せると、推力を偏向しながら猛禽のように飛び立つ。真っ向からのウィッチレイラインが一言主の正中を捉える。はずだった。
(誘い込まれた?)
一言主には白刃を返す間も無かったが、峰をそのまま振り上げ、魔理沙の迎撃にかかった。そちらの動きは決して早くないが魔理沙が速すぎ、そのまま薙ぎ払われる。
彼女は空中でもんどり打ち、飛行のコントロールを失ったまま石段の下に落ちかけようとしながらも――
「今度こそ、必殺!」
ミニ八卦炉の推力偏向のみでネズミ花火のように目茶苦茶に飛びながら、その身を矢弾に変えて不動の王にぶつける。面体が外れ、瘴気の中に生身を舞わせながら――
「よし、出番だぜ。主人公……」
――いつの間にか手に握っていた符を宙へ投げ出していた。
その符は意思を持っているかの如く、抜け殻となった大蜘蛛の方へ漂ってゆく。
これが彼女の“策”だったのか。
文は、地に落ちた衛星の輝きがまばゆいモノクロ(大極)に代わるのを見ながら瘴気の中に中に身を沈め、魔理沙の身を掬い上げながら思った。
『夢想天生』
幻想郷の主人公、博麗の巫女。喪われたと思われたその声が今、スペルを宣言していた。
亜空の穴が開き、一言主を見下ろす紅白巫女が宙に立っている。その周囲では、陰陽玉となった衛星が八方を固めていた。
ここに至って僧正坊が、卑妖が動き出す。四つ足の卑妖は足下から貪ろうと跳び、僧正坊は更なる上空から躍りかかるがしかし、霊夢の姿は朧になり、一言主の前に現れる。
攻防一体の奥義が、その巨体を捉えた。
貪狼から破軍までの星々が七方向から自在に襲いかかり、一言主は初めて膝を着く。
追い打ちを掛ければ仕留められるか。しかしこの場に動ける者はいない、生身で瘴気に曝された霊夢もまた、今の働きが嘘のように突っ伏していた。
指先一つ動かす様子を見せない霊夢に、再び立ち上がった一言主が迫る。その歩みは緩やかだが確か。しかしその影は霊夢の横を過ぎ、勇儀の方へ向かう。
「なるほど、博麗の巫女は結界を抜けるのに必須って訳かい」
対して己はただの邪魔者か。勇儀はそう呟き、傷を押さえながらも立ち向かおうとする。その頭上に、かつて蜘蛛を切り、今は鬼を切り刻もうとする刃が振り下ろされた。
その刃はしかし、彼女には届かなかった。それはか細い糸に止められていたのだ。
「ああ助かったよ、ヤマメ。でもって、ここからどうする?」
策と言える物など無い、全力で戦うのみ。かつて土蜘蛛を斬ったという刃を携えた大王と、地の底で密やかに過ごしてきた土蜘蛛が相対する。
(ヤマメさんの糸? 斬られていない……?)
それは当然のことなのか、文には判断が付かなかった。
「そうかあなたが、みやこで、黒谷で討たれたっていう土蜘蛛だったのか。旅先で噂話を聞いた時から、とんでもない奴だとは思ってたよ。でもここまでとは思わなかった。やっぱり私には不似合いな名だね」
ヤマメは言って、あっさりとその場に両膝を着いて見せる。
言霊にやられたのか。否、そうではなかった。
勇儀を斬ろうとしていた刃が切っ先の向きを変え、張り巡らされた糸を除けてヤマメに振り下ろされた。それを彼女は二の腕で迎える。
「支配者にまつわる名……黒谷の名、返上する」
かつて土蜘蛛を切ったはずの刃は全く鋭さを発揮せず、立ち上がるヤマメに押し返された。
「誰でもない、何者でもない、ただの土蜘蛛が、お前を倒す!」
敢然と立ち上がって一言主を見上げ、無手で対峙しようとするヤマメ。
勝ち目はあるのか。その危惧はしかし、一言主の側から取り下げる。
「一言主、様。もはやここより、あちらへは、渡れませぬ。潮時、です……」
僧正坊が側に寄り、唐繰り人形のようなギクシャクとした動きで首を傾げながら一言主に伝える。忠臣の諫言が届いたのか、一言主は踵を返し、石段の方へ向かい始めた。
「待て!」
ヤマメが叫んで彼らを追う。文も魔理沙を抱えたまま瘴気の向こうの姿を追おうするが、周囲の瘴気が急速にそちらに集まって行き、視界が急速に遮られた先へ――
「消え、た?」
「そんな……」
霊夢は戻ったが、はたては、僧正坊は、他の卑妖化した人々は、どうなったのだろう。
《文さん、駄目です。河童の電探も範囲外で、新型カメラも戦闘中に壊れたらしく――》
椛が全力でそちらから限界を超えた以心の術を送っていた。
同胞が死傷し、あるいは助けるべき人間と相討ち息絶え、勇儀すら深い傷を負い、何より、はたてまでも取り込まれた。しかし多くの卑妖の身を確保した上に大蜘蛛――一言主の撃退は為り、霊夢を助ける事までも叶った。
やるべき事は為した。卑妖を殺せるだけ殺し、こちらも最後の一人まで戦う腹を決めていた当初を思い返せば、信じられないほどの大戦果と言えよう。
《御山へ。御八葉のどなたか、応じられましょうか。こちらは射命丸であります》
《おう三尺坊だ。急に瘴気が晴れたのはこちらでも確認した、どうなったのだ?》
文は同胞の死もはたての消失も、包み隠さず伝える。犠牲も獣道に立ち入った隊が僅かに討たれたと、誇らず嘆かず。目に映る以上に正確に、伝統の幻想ブン屋は伝えた。
《人間にも我らにも犠牲が出たのは無念だ。が、皆よくやった。ご苦労だった。今後の対応の前に犠牲者を悼みたい所だがしかし、今すぐに知らせることがある》
《そちらでも何か、事故(ことゆえ)が?》
《ああ、誤解を恐れず一言で言えば、クーデターだ》
昏迷を深める神々と妖怪の箱庭に、更なる混沌の影が差す。
頭上に深く垂れこめ始めた真黒な雪雲は、幻想郷を覆う瘴気にも見紛う物だった。
黒谷返上 第8話
瘴気の中からの、井三郎を背負った文の飛翔を見た椛は、すぐさま以心の術を飛ばす。
《文様! こちらは河童台場に到着してます。そちらは何か?》
《井三郎殿が卑妖化しかけたけど元には戻した。後送のため一旦退くところ》
元に戻せた。妖怪の事とは言えそれは朗報で、同時に戦闘の大きな制限にもなり得た。
《なるだけ早く戻って下さい。このままだと連携できません》
《承知!》
文は可能な限り上昇し、巡行飛行に移行。椛は一旦それを見送って、にとりに向き直る。
「ちょっと椛、射命丸さん行っちゃったじゃん!」
「すいません、負傷者の搬送らしくて」
それでは仕方ない、とも言ってられないにとりは苛立ちを募らせている。他はと言えば、あまり危ない真似をせずに済んで割と安心といった感。川杜以外は。
「にとりさん、対物センサに感。なんか近付いてます、回り込みながら」
「はぁ?」
目視では何も見えない。四人とも。
「どこらへんよ、あたしには何も見えないけど」
「一時方向から三時方向へ、まだ遠い。けど、明らかに回り込んで来ますよ、これ」
にとりは例しに偏光グラスを掛けてみる。もし既知の準能動光学迷彩ならこれである程度は見えるはず。しかし見えず。
「いや確かに、何か来てる……!」
横に並ぶ椛の“眼”は、瘴気から飛び出たそれをかすかに捉えていた。
「河藤! 対空射撃準備!」
「すぐには無理ッスよ! 一旦駐鋤引き上げんとそっちまで回らんス!」
そちらは急がせ、にとりと椛は自力での迎撃も考える。それ以前に――
「他に天狗様は?」
「実は、はたてさんが「秘密兵器を持ってく」って抜け出して……」
あのギャル天狗が何を持ち込むつもりなのか、そしてなぜ椛も一番混乱を招きそうな人物を止めなかったのかと、にとりは視線で責める。
「でもあれ、明らかに敵側から飛んで来てましたよ」
「ならプロット保存しといて」
「無理です。こいつ最低限のモジュールしか持ってきてないんですから」
それ自体はフィン状に送受信素子(アレイ)を並べた移相配列電探の一種。しかし周辺機器は殆ど持ち込めていないため、本来の機能を全く発揮できず。
「それにルックアップ能力も殺してますから、測高も不可です」
えいくそとまたも悪態をつくにとりに、迎撃も椛の眼が頼りと、彼はついでに言った。
「来るよ、にとり」
「どっちよ!」
「私が撃つ方!」
距離はまだ数百メートル。椛は三尺五分の大太刀を抜き放ち、鞘の内で練っていた通力を弾幕に換えて放つ。それは連続するのの字の幾何学模様を描いて虚空に打ち付けられた。
(障壁?)
迫っている者は瘴気を纏っていない、となれば己より高い験力の持ち主か。しかし姿を完全には見透せないというのがこの吃緊の状態でも違和感をもたらしている。スペルルール下ならスペルによる攻撃で撃退できようが、今は全力で妖術を放っても弾かれかねない。目標が全く変針しないのは、的確に力量を量った結果とも言えよう。
「椛は見張っといて。河藤、急ぐよ!」
攻撃に対して退く様子も、ジェスチュアか術によるコンタクトを取る様子も無い。椛もにとりも、これを明確に敵と認識した。
「恐らくあちらさん、元々向けてた方向にしか射角が取れないって考えてると思う。どのみち榴散弾は射程短いし、椛の指示でいっせーので撃つから、よろしく」
「よろしくされた!」
あれが卑妖なら、そもそも“考える”という活動を行っているのかも怪しいが、卑妖で無い可能性が高い今はそう思う方が自然。
「距離二町。そして、もう一丁!」
椛は再度、刃からの遠当てを放つ。それはやはり凌がれたが、距離と方向は示せた。
「にとり! 降下してる、水平、から拳一個上げて」
「承知! 河藤、あたしが砲を回すから、号令と一緒に引き金引け!」
「アイ、マム!」
言ってにとりは〇号砲を旋回させ、号令を準備する。
「五十間……三十間!」
「射撃用意。連射、三発!」
最初に撃鉄が上げられていた分の射撃は見事に狙った方へ、タイミング通りに。しかし続く二発は駐鋤も無く、ダブルアクションで引金が重くなっていたためあさってへ逸れる。
だがその初弾が見事に弾幕を為した。河童台場の今回の初戦果。
「やったか!?」
にとりの言葉に椛は頷くが、その顔には一瞬だけ驚愕の様相を見せる。
「椛?」
「大丈夫、墜とした。間違いなく消滅したよ」
亡骸も衣も残さず消える。それは妖怪の死に様であって、人間や禽獣の卑妖が迎えた死では無かった。そして椛は、今際に正体を現したそれを、千里眼で見ていた。
戦果に喜ぶでも無く、筒先を正面に復させるにとり達。そちらの方からは、瘴気を纏った大小多くの卑鳥が舞い上がって来ている。
「河藤ぉ! 撃った分再装填! 距離三十から射撃。腹括れ!」
「にとりさんこっちは!」
「全弾榴弾。号令と同時に撃ちまくれ!」
こうなれば本当に自棄だ。卑妖の被害も戦術も知ったことかと、およそここに来た時から自棄気味だった鬱憤を炸裂させようとした。その矢先、霧の中から複数の火線が上がる。
「もしかして、椛……?」
《命中弾複数、良好です。参道に沿うと、三町行った先から瘴気が濃いです。それ以上進行するならご注意を。それと十分な思考能力、魔力を有した未知の敵も上がって来ました。穏形の術を用いているものと思われます。そちらも充分警戒して下さい》
「う、撃ち方待て! 椛、まさか念話で? あれ全部天狗様達だったの? なんで?」
一対一の器用な通話など出来ない。人間でいなければならない彼らに向かって椛は禁を破って以心の術を飛ばし、彼らも禁を破ってそれに応えた。
「どっちのリスクが大きいかを判断してこうした。だから黙っててね」
周囲に念話が使えるモノが居れば、さっきの以心の術も聞かれていただろう。それも込みの上で。彼らと違い、人間を守るという信念からではない。椛のはあくまでも打算だ。
《でも見積もり、甘いよ!》
口に出した言葉と切り離せず術にそれを乗せてしまった椛に、文が返信する。
墜としきれなかった卑鳥の群れ。低空に瘴気の雲を形作りつつあるそれらを、黒い光の翼が叩き斬る。妖力の発露であり、翼それ自体が推力であり、八咫にも及ぶ剣だった。
《河童! 砲弾の精度に自信があるなら、手柄を譲ってもいいですよ!》
「――って、文さんが言ってるけど」
文にとっても予定外だったこの二門の砲の存在は、卑妖に対して無用な被害をもたらす恐れがある物であるのと同時に、ここに最も期待された戦力だったと文は気付いた。
「おうよ乗ったろうじゃん。二号、発煙弾三、後は選別榴弾装填。ゼロ、発煙弾装填」
破天荒なくせに上役に弱い河童は、あたふた動き出し指示に従う彼らから目を離し、肉眼で遠景を見る。目標の進路が完全に定まる一点を、その目と図上から選び出した。
「文さんに言って。これから一門ずつ照準の確認するから、撃つ時上空の風止めてって」
風繰りは天狗の、秋葉衆の本領。椛の送話に文からは了解の返信。
《何秒ぐらいいけそうですか?》
《馬鹿にしないでよ。日が暮れるまで止めていたっていいんですから》
それは当然ものの例え。そちらに妖術を割いては、空戦もままならない。
文からの返答を――椛が適度に意訳して――にとりに伝えると、すぐに〇号砲が火を噴く。
「……にとりさん、どこ狙わせたんですか」
砲隊鏡を覗く川杜が、クリック操作しつつ流れる煙の元を見ながら問う。
「あ、言ってなかったわ。照準地点は『い3』西、博麗神社参道石段」
三河童からは「あんたは何を考えてるんだ」と揃って大ひんしゅく。
「高台になりかけのあの地点なら、この陣地との高低差が少ない。それに、奴が参道を行くなら、必ずあそこを通るだろうし」
だからと言って万が一社(やしろ)に傷を付ければ、河童は後々全方位から責めを受けかねない。
「にとり、煙弾は止めた方がいいと思う」
「なんで?」
「あいつか周りの奴か分からないけど、能のある奴が居る。考え無しに進んでる訳じゃない。火仗隊の結成に対して移動を開始して、砲撃に気付いて“兵”を寄越したんだよ。一見して堂々と進んでるけど、いざとなったら進路を変えかねない」
「となると実際に狙うまでは榴弾も駄目、徹甲弾で照準規制は――」
にとりが川杜の方を向くと、彼は呆れた顔をそのままにして手を激しく振っている。
「大丈夫、瘴気の効果範囲に入るまでなら、私の眼で見られるから」
しかし殆ど音と同じ速度で大地を穿つ砲弾だ。そちらまでを正確に見透したとしても、着弾地点を見つけるのに時間が掛かるのではとにとりは危惧する。しかし、
「やるっきゃない。両門、全弾徹甲弾装填」
《文さん。戦術変更のため、現在弾を込め直してます》
すぐに返答が返ると思っていた椛は、しばらくしても返らないそれを先方に求める。
《……文さん?》
《はたて! 何やってるの、戻れ!》
彼女が今になって到着したのか。しかし文がそれほどまでに焦るとは何事かと、椛は千里眼を空域に走査させ、驚く。彼女は全く迷わず、蠢く瘴気の中枢に向かっていたのだ。
《へーきだって。その為に作ったんでしょ、これ。蜘蛛切の写し》
腰には真噛のもたらした剣を提げ、手には鞘を黒く漆塗りした太刀を携えている。
かつて、みやこに現れ、源頼光を熱病に悩ませた土蜘蛛を斬ったという、源氏の重宝。ここにあるのは妖怪が鍛えた写しであり、本科の霊威が確かに招かれている、はずである。
正邪が旧地獄に叛乱を唆しに向かった際、彼女の企みに乗った鬼や土蜘蛛が溢れるのを恐れた文が、鬼切と共に制作させた物だった。
《瘴気に、言霊の危険もある! 下がれ!》
《それにある人に言われたんだよね。“あの人”の娘の私なら、どっちも大丈夫って!》
何をか。誰が彼女をけしかけたのだ、功名心など新聞大会で発露するのが精々の彼女を。
はたては片手に電子カメラを取り出し、更に加速する。彼女の正面の瘴気が断続的にかき消え、空中に回廊が開けていた。
《どうよ! フィルムカメラなんて媒介にしてる文には無理っしょ!》
この射影機による術。霊撃に近い広範囲の妖力無効化、それも妖力を“撮影”するスペルによって連続的にそれを為すのは、はたてと電子カメラの組み合わせだからこその技。
ヤマメと魔理沙は。あの二人なら瘴気と言霊の中枢でも耐えられる実積がある。早く探して向かわせないと間に合わない。いや、
「私が、あいつを継ぐんだ!」
文はまた、黒い光の翼を背負う。雀ほどの飛行から、瞬時に火仗の弾よりも速く飛び、回廊に飛び込もうとするはたてに手を伸ばす。だが何者かに阻まれた。霊撃よりもずっと強力な方術。こんな物を卑妖が使うのか。文がそう思い浮かべ、視線を向けた先では、はたてが大蜘蛛に斬りかかっていた。
体勢を立て直すのがやっとの文は「はたて」と口にしたつもりだったが、その声は出ず、手も翼も、何もかも届かなかった。また、間に合わなかった。
すぐ瘴気の深奥に飛び込めば間に合うか。否、文は進路を真逆に向け、距離を取る。
《文さん、はたてさんは!?》
《瘴気の向こう。あいつが勝ったら無事解決。負けた時は、貴女達が頼りよ》
文からの以心の術は、その心の弱まりからか恐ろしくか細く、椛に届く。
「遅い!」
にとりの発破が、千里眼や以心の術と飛んでいた椛の心をその場に戻す。にとりは当然、砲への弾込めに対して叱責の声を張り上げたのだったが。
六発全部、何度も換えさせられたら遅くもなる。一人で操作する物じゃないから限界がある。と彼らは弁明するが、速度は僅かに上がっている。気持ちが逸っているのだ。
「文さんも、準備できたみたいです」
瘴気は収まる様子を見せず、依然として参道を征く。はたては敗れたのか。
《両門、僅かに時間差を付けていきます。最低三発ずつとの事》
《了解。発射前に凪の回廊を作る。目標は鳥居前の石段ね》
河童の台場から博麗神社までの風が瞬時に止み、快音が空を貫いた。
確実な機会は一度きり。照準は石段に合わせられている。当然ながら、石段の周辺は砲弾の着弾によって弾幕ごっこの後よりも酷い有様。
「ねえ、流石にバレてない?」
「祈るしか、無いね……」
両門、装填一回分を全弾撃ち尽くし、ようやく照準を合わせられたという体たらく。
「それに徹甲弾使えって。照準規制に使ったのがそれだからって、理には叶ってるけど」
「……ごめん。多分私も文さんも、覚悟が足りなかったんだと思う」
徹甲弾の使用は文の提案で、椛もそれを支持した。理由が分からないにとりではない。
「それは上手くいった後に、あのギャル天狗に言わせてやってよ」
跳弾の危険は高くなり、博麗神社に被害を及ぼす可能性も上がる。それでもやるのみ。
「火仗隊! 大蜘蛛はあと少しで博麗神社の石段へ着きます。徐々に前進し、交戦した地点の卑妖の回収を行って下さい!」
もはや隠す意味も薄くなったが、それでも文は彼らの上を飛び回って口頭で伝えている。
「射命丸。はたてがどうとか言っていたが何があったんだ!」
「何者かに唆されて先走って、瘴気に呑まれました」
淡々とした文の答えに、問いかけた善八郎は「ギリ」と歯を鳴らす。
「いずれにせよ、こちらとしては倒すしかないな」
「ええ……」
文は短く答えて飛び立ち、博麗神社上空へ向かう。その途上にようやく魔理沙達を見る。
さほど傷も無く、魔力も温存している様子の魔理沙に、服はボロボロでも傷は少なく、まだ気力も十分と言った風なヤマメ。倒すよりも難しい戦いは、上手くいっていたようだ。
「さっきからドカドカ音がしてたが、まさか大蜘蛛を仕留めた、なんて事は無いよな?」
今になって彼女との約束を思い出す。最後の突撃の前に猶予が欲しいと言っていたのを。
「いえ、まだです。ただこれから、河童台場が十数発一斉に撃ち込みます。これだけは、チャンスが限られますから――」
「出番はその後、か。分かった、さっき言ったのだって私の憶測に我が侭だ」
今は文も出番待ち。それに出立の時とは違い、身の内には決して言霊にも屈するまいという強い心と、自信が満ちていた。
だが、もしかしたら河童の攻撃で終わってしまうかも知れない。霊夢や、はたての命諸共。いや、魔理沙が憶測と言い放つ“予感”が当たっていたら、霊夢などは確実に。
魔理沙は覚悟を決めている。人里の人間と霊夢一人を天秤に掛けたのではなく、文よりも冷静にこの状況を判断しているのだ。確実な打撃を与えるにはそれしかないだろうと。
「文さん。私が先に飛び込んであれを止めるっていうのは?」
「駄目だヤマメ。奴の回りは卑妖が固めてたろ、砲撃なら言い訳の余地もあるが……」
肉弾戦となって、土蜘蛛が本気を出せば、卑妖などあっさり叩き潰せてしまうかも知れない。しかも、互いの姿が見える状態でのそれは、巻き込んだでは済まない。
「大丈夫、祈って下さい。特に秋葉三尺坊大権現への請願をオススメしますよ」
文は少しだけ冗談めかして言い、僅かな余裕を見せてから配置に付く。
《さっきの通り、砲撃中は連続して凪の回廊を形成する。椛、周りの警戒は任せたよ》
《了解しました》
既に博麗神社は見えない。肉眼より千里眼がその影響を顕著に受け、今は文の周囲を見守るしか、椛にやるべき事は無くなっていた。
《卑妖が石段に掛かりました。大蜘蛛の姿はまだ、あと一町後方》
凍気と瘴気が混じり合った地表で、その姿が徐々に明らかになってゆく。
そのモノ自体の姿は人里で見た時と変わらないまま、まき散らす瘴気は濃密になり、それ以上に卑妖が勢力を増していた。
良民と夷(えびす)を従える、支配者の性(しょう)。それは神子が感じた通りのモノになろうとしている。
(だから、そんな物はここにも、外の世界にも、いらないんですよ!)
《大蜘蛛、石段下に到着。照準地点までのカウントを開始します》
初弾から最終弾の発射まで、五・六秒はかかる。更にその前、錘形の砲弾が砲身の中で一回転し、音速の倍にもなる砲口初速で撃ち出され、空気抵抗を受けながら低伸弾道を描いて飛翔し命中するまで、感覚的でも五秒。にとり達も弾道計算のための電子式神(コンピュータ)など持ち込まず、計算尺と手計算での単純計算を行っていた。
カウントなど目安でしかないが、卑妖を巻き込む全くの盲撃ちより、ずっとマシだった。
《初弾射撃まで、五秒前――》
四、三、二、と文の秒読みを椛が伝えた時点で、にとり達も独自に拍を刻んでいた。
「一、〇」 「撃て!」
椛のカウント終了と完全に一致してにとりが号令し、復唱の刹那に両門が火を噴く。
各個に六発。二の矢はもう無い。観測の仕事などは戦果確認のみになろうというほど。
銃身が僅かに跳ねながら雪煙を飛ばし尽くし、駐鋤は地を抉り続けた。
「ゼロ撃ち終わり!」 「二号撃ち終わり!」
「各砲了解。観測!」
「駄目っす、見えないです!」
瘴気に霧に、おまけに撃ったのは徹甲弾。本当に照準地点に当たったのかも分からない。
しかし直上の文は見ていた。
「慢心、したな……!」
二発の砲弾が、それぞれ左の第一脚と右の第三脚をもぎ取り、同時に胴にも穴を穿っていた。そこからは体液の代わりに激しく瘴気が漏れ出している。それが大蜘蛛の血肉その物であるかのように。実際そうなのかも知れない。
巨体を支えるのが億劫そうに、大蜘蛛はその歩みを緩める。卑妖もそれに歩度を合わせていた。それでもそれらは階段を上り続け、鳥居の前で初めて動きを止めた。
「やあ、お初にお目に掛かる、かな。あんたが地上で暴れ回ってる大蜘蛛だね。この濃い瘴気の中なら誰にも気兼ねなく話せると思って待ってたんだよ」
《かしずけ》
「ちょいと聞きたいんだけど。あんた、どこの生まれで、なんて名なんだい?」
《ぬかずけ》
「実はさ。地底に可哀相な娘が居るんだよ。自分が仕える神様やそいつを崇める人間達と海の向こうから渡って来たのに、人間はこの国の中に溶け去って神様もいなくなって、一人残されちまった娘が。栄枯盛衰は世の常だけどさ、やり口が汚いってのはどう思う?」
濃密な瘴気にも、度重なる言霊の発揮にも、そのモノは少しも同じないばかりか、極めて穏やかな声音で問いかけ続ける。
「……あは、たそ」
「吾は誰そ? あんた、自分の名すら知らないってのか。そんなわきゃないだろ」
怪力乱神を振るう鬼、星熊勇儀は。
彼女との睨み合いを続ける巨蟲の横に、より濃密な瘴気を纏った人物が、忠臣のように膝を着いて侍する。
「あなた様は、我らが、みかど。葛城(かつらぎ)の大王(おおきみ)に、あらせられます」
勇儀に代わって答えたのは、その美しい顔の半分を不気味に歪ませた僧正坊だった。
その類い希な験力が、思考を保ったままの従属を叶えたのか。残った彼の目には、まともな認識など無いようにも文には見えた。
「葛城の大王ね、やっぱりお前だったのかい。西方の民の神を、巫女を、二度も堕としてくれた大悪党。人を貶める大蜘蛛と聞いてピンと来たよ。古き憑き物(オカルト)、いや……」
相対する勇儀は僧正坊の言葉に、長らく催してなかった感情を呈する。それは怒りだ。空気が熱を持つほどに拳を握り込み、傷付いた大蜘蛛に殴りかかる。一切油断は無い。
「葛城山一言主(かつらぎやまひとことぬし)!」
その拳の発する圧が鳥居を内側からひしぎ、大蜘蛛を消し飛ばそうとする。
しかしその巨体は微動だにせず、逆に勇儀の身体が袈裟懸けに切り裂かれていた。
「くそっ、酒なんて断つんじゃなかったね……いらん事して焼きが回ったかな……」
飛び退り、傷を押さえる勇儀。その傷口からは鮮血が止めどなく流れ出る。大蜘蛛の傷口から雄々しく拳が突き出され、拳にはそれに相応しい太刀が握られていた。
「蜘蛛切、か。化けの皮(大蜘蛛)を切ったのは分かるけど、鬼を斬ったなんて話あったっけか?」
脂汗を流しながら、依然として不敵な様を崩さない勇儀。腕の主は彼女を仕留めようとしてか、変態する虫が皮を剥ぐように、その内から姿を現す。
堂々たる体躯をした人型のそれは、青銅の鎧兜に身を包み、面頬で顔全面を覆って素肌を一切見せない。上古の武人の姿に似たそれが、右手に蜘蛛切を握っていた。
悠々と、まともに動けぬ勇儀に爪先を向けた一言主。その目前に流星が突っ込む。
「小さくなってくれて都合が良いぜ! 霊夢を返せ、この野郎!」
天儀『オーレリーズユニバース』
魔理沙は左手に持ったミニ八卦炉で推進力を得ながらスペルを宣言。七色の衛星が宙に現れ、その場に呆気なく落ちる。それ自体が魔力を持たないためか、浮力を失っていた。
「今後の課題、かなっ!」
スペルを宣言しながらも始めから肉弾戦を前提にした機動だった。飛び去りざま、胴に魔力の籠もったホウキの一撃を浴びせる。やはりその体躯は全く微動だにしない。
「くっそ重いな!」
一言主が振り向く前に左脚に一撃。挫かせるつもりだったがこれも不発。魔理沙はその如何にかかずらわず、甲に鎧われた頸へホウキを叩き付ける。
重いし固い、それに見合って動きは鈍い。これは大蜘蛛がそのまま凝集した姿なのか。
「四つ!」
振り向きかけた顎に、地を摺ながらライジングスウィープ。
「鈍いぜ、木偶の坊!」
七尺近い上背の一言主より更に一丈も上で、魔理沙はまたミニ八卦炉に火を灯して極端に角速度を増しながら降下し、スウィープアサイドで漣撃で加える。
縦横無尽の魔理沙に一言主はなすすべ無しのまま。僧正坊を始めとした卑妖達が全く動きを見せないのが気になったが、普通の人間の魔法使いの活躍に、文の胸は躍っていた。
「これで終わりだ、ぜ!」
魔理沙は一言主の腰下まで身を伏せると、推力を偏向しながら猛禽のように飛び立つ。真っ向からのウィッチレイラインが一言主の正中を捉える。はずだった。
(誘い込まれた?)
一言主には白刃を返す間も無かったが、峰をそのまま振り上げ、魔理沙の迎撃にかかった。そちらの動きは決して早くないが魔理沙が速すぎ、そのまま薙ぎ払われる。
彼女は空中でもんどり打ち、飛行のコントロールを失ったまま石段の下に落ちかけようとしながらも――
「今度こそ、必殺!」
ミニ八卦炉の推力偏向のみでネズミ花火のように目茶苦茶に飛びながら、その身を矢弾に変えて不動の王にぶつける。面体が外れ、瘴気の中に生身を舞わせながら――
「よし、出番だぜ。主人公……」
――いつの間にか手に握っていた符を宙へ投げ出していた。
その符は意思を持っているかの如く、抜け殻となった大蜘蛛の方へ漂ってゆく。
これが彼女の“策”だったのか。
文は、地に落ちた衛星の輝きがまばゆいモノクロ(大極)に代わるのを見ながら瘴気の中に中に身を沈め、魔理沙の身を掬い上げながら思った。
『夢想天生』
幻想郷の主人公、博麗の巫女。喪われたと思われたその声が今、スペルを宣言していた。
亜空の穴が開き、一言主を見下ろす紅白巫女が宙に立っている。その周囲では、陰陽玉となった衛星が八方を固めていた。
ここに至って僧正坊が、卑妖が動き出す。四つ足の卑妖は足下から貪ろうと跳び、僧正坊は更なる上空から躍りかかるがしかし、霊夢の姿は朧になり、一言主の前に現れる。
攻防一体の奥義が、その巨体を捉えた。
貪狼から破軍までの星々が七方向から自在に襲いかかり、一言主は初めて膝を着く。
追い打ちを掛ければ仕留められるか。しかしこの場に動ける者はいない、生身で瘴気に曝された霊夢もまた、今の働きが嘘のように突っ伏していた。
指先一つ動かす様子を見せない霊夢に、再び立ち上がった一言主が迫る。その歩みは緩やかだが確か。しかしその影は霊夢の横を過ぎ、勇儀の方へ向かう。
「なるほど、博麗の巫女は結界を抜けるのに必須って訳かい」
対して己はただの邪魔者か。勇儀はそう呟き、傷を押さえながらも立ち向かおうとする。その頭上に、かつて蜘蛛を切り、今は鬼を切り刻もうとする刃が振り下ろされた。
その刃はしかし、彼女には届かなかった。それはか細い糸に止められていたのだ。
「ああ助かったよ、ヤマメ。でもって、ここからどうする?」
策と言える物など無い、全力で戦うのみ。かつて土蜘蛛を斬ったという刃を携えた大王と、地の底で密やかに過ごしてきた土蜘蛛が相対する。
(ヤマメさんの糸? 斬られていない……?)
それは当然のことなのか、文には判断が付かなかった。
「そうかあなたが、みやこで、黒谷で討たれたっていう土蜘蛛だったのか。旅先で噂話を聞いた時から、とんでもない奴だとは思ってたよ。でもここまでとは思わなかった。やっぱり私には不似合いな名だね」
ヤマメは言って、あっさりとその場に両膝を着いて見せる。
言霊にやられたのか。否、そうではなかった。
勇儀を斬ろうとしていた刃が切っ先の向きを変え、張り巡らされた糸を除けてヤマメに振り下ろされた。それを彼女は二の腕で迎える。
「支配者にまつわる名……黒谷の名、返上する」
かつて土蜘蛛を切ったはずの刃は全く鋭さを発揮せず、立ち上がるヤマメに押し返された。
「誰でもない、何者でもない、ただの土蜘蛛が、お前を倒す!」
敢然と立ち上がって一言主を見上げ、無手で対峙しようとするヤマメ。
勝ち目はあるのか。その危惧はしかし、一言主の側から取り下げる。
「一言主、様。もはやここより、あちらへは、渡れませぬ。潮時、です……」
僧正坊が側に寄り、唐繰り人形のようなギクシャクとした動きで首を傾げながら一言主に伝える。忠臣の諫言が届いたのか、一言主は踵を返し、石段の方へ向かい始めた。
「待て!」
ヤマメが叫んで彼らを追う。文も魔理沙を抱えたまま瘴気の向こうの姿を追おうするが、周囲の瘴気が急速にそちらに集まって行き、視界が急速に遮られた先へ――
「消え、た?」
「そんな……」
霊夢は戻ったが、はたては、僧正坊は、他の卑妖化した人々は、どうなったのだろう。
《文さん、駄目です。河童の電探も範囲外で、新型カメラも戦闘中に壊れたらしく――》
椛が全力でそちらから限界を超えた以心の術を送っていた。
同胞が死傷し、あるいは助けるべき人間と相討ち息絶え、勇儀すら深い傷を負い、何より、はたてまでも取り込まれた。しかし多くの卑妖の身を確保した上に大蜘蛛――一言主の撃退は為り、霊夢を助ける事までも叶った。
やるべき事は為した。卑妖を殺せるだけ殺し、こちらも最後の一人まで戦う腹を決めていた当初を思い返せば、信じられないほどの大戦果と言えよう。
《御山へ。御八葉のどなたか、応じられましょうか。こちらは射命丸であります》
《おう三尺坊だ。急に瘴気が晴れたのはこちらでも確認した、どうなったのだ?》
文は同胞の死もはたての消失も、包み隠さず伝える。犠牲も獣道に立ち入った隊が僅かに討たれたと、誇らず嘆かず。目に映る以上に正確に、伝統の幻想ブン屋は伝えた。
《人間にも我らにも犠牲が出たのは無念だ。が、皆よくやった。ご苦労だった。今後の対応の前に犠牲者を悼みたい所だがしかし、今すぐに知らせることがある》
《そちらでも何か、事故(ことゆえ)が?》
《ああ、誤解を恐れず一言で言えば、クーデターだ》
昏迷を深める神々と妖怪の箱庭に、更なる混沌の影が差す。
頭上に深く垂れこめ始めた真黒な雪雲は、幻想郷を覆う瘴気にも見紛う物だった。
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