東方二次小説

楽園の確率~Paradiseshift.第5章『黒谷返上』   黒谷返上 第4話

所属カテゴリー: 楽園の確率~Paradiseshift.第5章『黒谷返上』

公開日:2018年04月23日 / 最終更新日:2018年04月23日

楽園の確率 ~ Paradise Shift. 第5章
黒谷返上 第4話



 迂回はしたものの、避難する人間達に先んじて、夜に至る前に命蓮寺へと到着した一行。善八郎だけが離脱して妖怪の山に向かったほかは、誰一人欠けていない。
 だが白蓮の傷は見た目よりも深く、頭の包帯を始めとして痛々しい姿を晒している。
 外傷こそ皆無だが、濃密な瘴気に長時間曝されたであろう神子達の消耗もまた同じく。面体で瘴気を防ぎ、目立った傷も無い魔理沙だけが健在。
 布都を除く四人は、命蓮寺の本堂に集っていた。
 白湯を飲む僅かな暇に、雲状の大入道を連れた尼僧、雲居一輪が白蓮に耳打ちし、去る。
「幸い、火の手は上がってないみたいです」
 弟子に里の様子を見に向かわせていた白蓮は、報告を受けそう伝える。
 炊煙が上がっている時分での事態だったうえ、火伏に走るはずの駐屯吏も揃って避難している今、それは文にも大きな不安だった。火の手が上がらなかったのは、家々で火の前に人がおり、避難に当たってそれの処理を確実にしたお陰だろう。
 いくらあの状況でも、失火の末に大火になったとあっては、火元となった一族がどんな目に遭うことか。掟としては罪を問うなどは無くても、人々の感情はそうはいくまい。
 それに帰る所があるのと無いのとでは、これから先の生活での精神状況も違ってくるし、何より里には幻想郷の過去を記した重要な資料が多く保管されている。
 やはりこれには魔理沙が一番安心した様子を見せていた。
「弟子達には、避難してくる人々の受け入れの準備をさせています。それと皆さんに伺いたいのですが、どなたか里で山彦の娘を見掛けませんでしたでしょうか?」
 まず魔理沙が答える。
「ここの弟子のか? すまないが私は見てないな」
 命蓮寺に訪れる者には、マスコット的に顔を知られている。白蓮の言った山彦の娘とは、習わぬ経を叫ぶ門前の妖怪、幽谷響子。
 霊廟の二人も文も、首を振って応じる。
「そうですか。いえ、もしかしたら避難する人達に混じって帰って来るかも知れませんし、気にしないで下さい」
 聞いてしまっては、気にするなと言うのに無理がある。
 善八郎ならば知っているだろかと文は思い浮かべてみる。しかしあの混乱の中ではとても一人一人の確認する余裕は無かったろう。
「弟子の事なら心配するのは当然ではないかな。そう言えば、君も霊夢が動くと聞いて里に待機していたのか?」
 弟子諸共危うい状況に陥った神子が尋ねる。普段は信仰を競うライバルのような間柄でも、こうなっては互いに同じ方を向く同志だ。
「いえ、あの子を連れて説法に出ていたんです。もちろん正体は隠してだけれど」
 山彦と言っても、尾と尻尾を隠してしまえば稚児にしか見えまい。
 菰雲の様な法力の持ち主ですら瘴気に飲み込まれたのなら、山彦程度の妖怪が瘴気の影響を受けないとは考えられない。
 彼女だけではない、常から人に混じって暮らす妖怪や、生業に出入りするモノだって居た。それらもおよそ、大した力も持たないモノ達だ。
「そうか。私達は霊夢が動くと聞いて、仙術で道場からその様子を見ていたのだ。だがああなったため駆けつけた。無意味どころか君の足を引っ張る羽目になってしまったがね」
 どれだけの人妖が飲み込まれたのか、それに霊夢も。たかがオカルトと、皆が油断した結果か。
 それとも、どの時点からか分からないが、そういった事態が進行していたのか。
 責めるべきは干渉を控える決を下して霊夢を仕向けた妖怪の山か、それとも力の及ばなかった自分たちか。文は自責の念に苛まれる。誰に何を任された訳でも無いのに。
「ったく。こうなるなら私も早めに来とくんだったぜ……」
 そう言う魔理沙は魔理沙で、赴いていた河童の里で事態を聞き、全力で駆けつけたのだ。
 誰にも未来は分からない。この静寂な堂の中にすら、偶然と必然が入り混じっていた。
「さて、これから先どうするかな」
 続けて魔理沙が呟く。その言葉は重大な意味を含んでいた。
 異変となれば、誰を置いても博麗の巫女が動く。しかし霊夢が敗れた先にはこの通り、混乱だけが待っていた。幻想郷の秩序の大きな部品が損なわれたのだ。
 人はいつか死ぬもの、損なわれたのなら新たな者を立てればよいだろう。しかしそれは適当に決められる役目でも無いし、必要とされる資質もある。何より、その霊夢の安否が不明となっては、軽々に代替わりさせるわけにもいかない。
 だからと言って、いっそ喪われていればなどと言い出す者も無い。
 その巫女が不在の今、舵取りをする者が居るとすれば、普段は表に出て来ない賢者か。
 そうでなければ困る。事態の推移によっては、各勢力の主導権争いにもなろう。紅い館の吸血鬼が、冥界の亡霊姫が、竹林の姫が。守矢神社や、それ以前に妖怪の山はどうするつもりか。
 地獄はおいそれと打って出まいが、そもそも――
(あの大蜘蛛の出自、一体どこから来たモノなのか)
 叛乱をそそのかしに旧地獄へ向かった正邪の動向をいち早く知れた発端を、文は思い出す。はたての念写した蜘蛛らしき影こそ、あの大蜘蛛だったのではないか。それにはやはり、土蜘蛛が関わっていたのではないのか。
 思考の中で疑念と臆測が先走るのを文は振り払う。
「まず考えるべきは人間を救い出す事。それに奴の企図を知り、挫く事かな」
 神子が発した意見は、誰が主導するでも無い、至極当然の考えのみ。問題はそれをまとめ上げ、実行する段階になってからだ。主導権争いの恐れは彼女も考えている。彼女自身この事態を察知した時からそれを意図していたのだから。
 文はそれを察しながらも話を進めるための疑問を投げかける。。
「魔理沙さんは、貴女方は、あの卑妖が人間が変容したモノだと知っているのですか?」
 それぞれ言葉に出しては応じず、神妙に頷く。
「卑妖、と名付けたか。そう、変じた場面に立ち会ってはいなかったが、どの卑妖にも被服の残骸が見えたため、私達はそう判断した」
 神子の答えは文の考察と同じ。白蓮もまた同じく思ったのか改めて頷く。
 そして魔理沙も、
「ああ、それらしい様子は見た。だから河童にガスマスクを借りたんだ」
 河童自慢の望遠装置で見た当初は、瘴気でなく、火事でも起こったものと彼女は考えていた。以前にも貸本屋に火が付きかけた事があったし、あれだけ煙に似た瘴気が立ち上ればそう考えて不思議は無い。煙と違って空に立ち上らずに、地表に漂い続けていたが。
 それにしても、よくそんな事にサバサバと答えられるものだと、文は感心より困惑する。
「しかし、その瞬間までは見えなかったでしょう?」
 ただの望遠装置なら、あの瘴気の向こうを見る事など叶わなかったはず。
 また、そうなる瞬間を見ていなかったのなら考察が間違いだとの結論に逃げ込む事も出来たが、それはすぐ彼女の発言に否定される。
「残念ながら、見ちゃったんだよなぁ」
「どうやって?」
「熱を画像に出来る機械でだ。河童が古いタイプの隠れ蓑の弱点をどうにかするために開発したんだとさ。可視光ほど鮮明じゃなかったが、見える距離はそっちより遠いんだと」
 天狗にも納めさせている準能動光学迷彩、隠れ蓑。なるほど、それを自ら曝くために開発した物なら、瘴気の向こうでも、熱の届く範囲なら見透せるのだろう。
「なんてこと。それが確かなら、やはり迂闊に手を出すわけにはいきませんね」
「……人間の保護、って奴か」
 それ自体が不満なのか、魔理沙はここで初めて不愉快そうな貌を覗かせる。
「その通りですよ。ともあれ魔理沙さんの話が確かなら、私の一存では卑妖に対して手の出しようがありません」
 文の言葉は、あくまでも妖怪の山に属するいち天狗としての立場から。それに対して、
「それは私達も同じですね」
 白蓮の言葉に神子もまた同意と答える。
 こちらはそれぞれ勢力を為すモノ達の長としての判断だ。幻想郷の掟としての人間の保護もそうする理由の一つだが、二人はそれよりも別個の理屈を持っている。
 白蓮は人妖分け隔ての無い救済を。神子は人間を治める為政者としての秩序の履行を。
「妖怪の山からも、また何か動きがあるかも知れません」
 言って文は、暇乞いをしようとする。どうせここに留まっての議論にも意味は無い。
「宮仕えは辛いってところか? 自由に動けない組織人はご苦労様だな」
 魔理沙の先ほどからの行きすぎた軽口に、文は席を立つのを止め、ようやく気付く。
 彼女の軽口はただの空元気だ。ならばその裏側に、どれだけの想いを抱えていることか。
 ちょうど外から人のざわめきが聞こえて来た。避難民の最初の一団が到着したのだろう。
「確かに妖怪の山には、お宮もお寺もありますけれどね。まあそんな所ですよ。それよりも、あなたももう少しわきまえたらどうですか?」
「どういう意味だ?」
「人間のあなたがこれ以上首を突っ込んでも霊夢の二の舞です。いえ、霊夢でさえ敵わなかったモノにあなたが敵いますか? 保護される側ならそれらしく口をつぐみ、大人しくすべきだと言ってるんです。普通の人間の魔法使いよ」
 先ほど危機を救ってくれた相手に対して、文はそう吐き捨てる。
「人間など精々保護され続けてきただけの存在です。ご存じなかったでしょう? 柵に囲われた貴方たちを守るため、里に守護のための天狗まで常駐していたなど」
 精神的な栄養や嗜好品になるだけの、家畜と大差ない存在。その自覚を思い出せなどと、文は秘すべきだった駐屯吏の存在まで明かしてしまう。
 魔理沙の表情は少し怒った風に見えたが、それだけ。彼女も相当な天邪鬼だ。
「人間が無理をするのは私も望まないが、ちょっとは口を慎んだらどうだ? 天狗」
 代わりに今度は、神子が不機嫌そうな貌を向けて言う。
 彼女は幻想郷の為政者として、人妖の上に立つことを望んでいる。家畜の群れの王を目指しているのではない。
 人間は脆弱で、導く者が無ければ愚かしくもなろうが、それは智恵を持つ存在としての話。故に魔理沙に対する、ひいては人間に対する罵倒は、そこに和を以て貴しと為す王道を敷こうとする彼女への侮辱でもあったのだ。
 白蓮はこの諍いを、ただ困った様子で見守る。
 確かにこれは人間――とその上に立とうとする者――には許しがたい侮辱だったろうが、幻想郷での現実でもある。それに白蓮の望む救済には、人妖も人畜の違いも無い。救済を望むものが在るなら、あまねく光明をもたらそうというのが彼女のスタンスだからだ。
「現実として人間でも最強の戦力が敗れたんです。その最強戦力も、博麗の巫女としての加護が無ければ、妖怪の山でヒラ法師をやっている私ですら手加減しても役不足ですよ。どこをどうしたら常にその後塵を拝するだけの魔法使いが敵うと言うんですか」
 博麗の巫女でない霊夢など想像も出来ないが、文はあえてそれを冷静に見積もってみた。
「それは否定しないさ。今はな」
 暇乞いした文よりも先に、散々に言われた魔理沙が席を立ち、本堂の正面扉から出て行く。誰もそれを止める者は居ない。
「さて、助けて頂いたのにお騒がせしてすいませんでした。私も御山に帰参しませんと、また上司にお叱りを受けてしまいますので」
 魔理沙から間を置き、文は白蓮に対して騒がせた侘びをしてから立ち上がる。
「まだ私の話は終わってないのだが?」
 神子も立ち上がり、その後を追おうとすると、
「道々でも構わないでしょう」
 文は歩みを止めずに揃って外に出でた。

 ここで天狗と聖徳王が弾幕ごっこなどとなったら、さぞかし酷いことになろう。白蓮がそんな心配をしたかは不明だが、実際は二人の間に険悪な空気は無かった。
「魔理沙を、人間をなるべく危険から遠ざけたい。そう欲するのはなるほど分かるが、何というかその、もう少し手頃を加えたらどうだったんだ?」
 神子の能力は十の言ノ葉を聞き分ける豊聡耳。それは漏れ出る欲を聞き分ける物でもある。彼女は文の欲を聞き分けていた。
「乗ってくれてたんですか」
「それに里の他の人間に聞かれても構わないと思ってただろう。いくらなんでも無茶だ」
 これは欲を聞いたのではあるまい。洞察力も流石のものだ。
「妖怪は恐れられてこそです、別に構いませんよ」
「いや、君自身の話だけではない。さっきの善八郎殿や仲間のこと、今後も人里が存在するなら、ばらしてしまうなど――」
 神子は、はたとした顔で言葉を止める。混じり合った欲の声を、豊聡耳の能力は聞き分けてしまったのだ。
「それが君の欲か……君は、人間が好きなのだな」
 驚きの後に、優しい顔を浮かべる神子。
 そんなに驚くような事だったろうかと、文は目を逸らし、沈黙を答えにする。
「全く、そんな顔をするぐらいなら、もっと真心を込めて訴えればよかったろうに」
 それこそ『和を以て貴しと為す』だとだけ神子は言って、口を結んだ。

 かがり火がそこかしこで焚かれ、立錐の余地無く着の身着のままの人が溢れる境内で連れ立つ二人に、男が呼びかける。
「ちょっとよろしいですか? 仙人様と、そちらが里に来た天狗さんでしょうか?」
 文は崩れた顔を抑えて彼を見る。そこには文の見知った顔があった。
 彼は名を井伊谷(いいのや)の井三郎と言う、駐屯吏に属する鴉天狗である。
 善八郎と同じ短髪に、彼よりもやや気さくな印象の、がっしりした面構えとひょうきんそうな眼差しが共存した男。その表情の通り、善八郎よりも遙かに話がしやすい人物だ。また都市伝説(オカルト)取材の協力を頼んだ彼が無事だったのにも文は安心した。
「では神子さん。今後また、対応について妖怪の山から協議の要請があるかも知れません。その時は、どうぞ応じて下さいますよう、よしなにお計らいを」
「それは君の役目ではないのか?」
「私はしがない、妖怪の山の文書係です。ちょっと人間に近しいだけの」
 神子は残念そうな顔で「そうか」と言うと別れを告げ、布都の様子を見に戻って行った。
 人混みの中に残された二人。他にも多くの天狗がこの中に混じっている事だろう。
 その人混みを形成する九割九分の人間達は、より居心地の良い場所を我先にと確保しようとしている。なるべく冷えないように岩場ではなく草地の上に、雨風を凌げるよう庇の下へ、鐘楼に筵を敷き始めた者までも。
 門の外にも、多くの人間が列を成しているだろうに。
「なんとも、非道い有様じゃないか」
「こんな状況でのエゴがですか? それとも彼らが焼け出された事が?」
「両方だよ。まあそもそも俺達も何が起こったのかは掌握しとらんし。おっと、それは言わんでいいぞ、後で正式な筋から聞くまで情報はいらん」
 これからの活動もある、もしかしたら件のオカルトが襲いかかってくるかも知れない。しかし彼はそれを意識しつつも、要らぬ話を聞いて予断を上乗せするより、確定した情報を求めている。普段は天狗の例に漏れず、ああだこうだと臆測を重ねる人物なのに。
「ともあれこれだけの人を助け出せたのは無駄にせんさ。避難生活でエゴ丸出しにさせて、戻るべきコミュニティを壊すのはよろしくない。とは、大旦那様も言っておられたし」
 今は大蜘蛛と瘴気のため戻れないが、それが去れば避難した人間はそちらに戻ることになろう。卑妖化した人々がどうなるかはさておいて。
 二人の会話は闇の中で避難民のざわめきの一つとなり、特に他の誰の意識にも上らない。人混みの中の話は却って、秘密話に都合がいい場合もある。そう、これは秘するべき話だ。先ほど文は公にしようとしていたが。
「でだ。ここにお前だけと言う事は、八郎様は山か?」
 彼が辻の方へ進出したのは把握されていたし、文がこうして帰って来たのなら彼も生き延びていて当然と思っての問い。
 しかしそこで同胞が取り込まれ、善八郎がそれを屠ったのは、文も口にするのを迷う。
「あ、ええ、先に上がってこの報告をとの事でした。そう言えばその桜坊様も上に?」
「桜坊様って、お前なぁ……まあいい、そうか。いや、それをお前に尋ねたかったのだが」
 善八郎と違い、避難を先導していた駐屯吏の誰にも断り無く、彼は姿を消したのだと言う。
 少なくとも里を出た辺りまでは一緒だったので避難できたのは間違いない。
 先にこちらに来ていたのかもと命蓮寺に着くなり探し回ってみても桜坊の姿が無かったため、井三郎は本堂の燈火の下に見掛けた文へ接触を試みたのだった。
「まあ、八郎様と一緒に報告に上がったと考えるのが妥当かな?」
 己ならば好んで赴きたくないのだがと、彼は僅かに伸びた髭をさすりながら首を傾げる。彼ら駐屯吏は警察職の管轄であり、その上部には僧正坊が長を勤める検非違寮がある。
 彼が苦手とするのは、駐屯吏に当てられた善八郎以下のとある山の衆を冷遇しているとしか見えない、僧正坊麾下(きか)の鞍馬衆を、だ。
 僧正坊が文には甘く当たり、時には後見しようとまで言うのとまるで対照的。かの大権現自身はどうか知らないが、それが鞍馬山としての総意なのだろうと理解していた。
 事の次第はどうあれ、己もそちらへ赴かねばならないか。井三郎の言葉に文もそれを思い出す。しかし人里での出来事が余りに強烈で、そんな下らない憂鬱などは鈍麻した心に影を落とすほどのものでは全く無かった。

      ∴

 夜半の山を征き、自宅にも寄らず西塔に帰着した文を待っていたのは、明らかな戦闘態勢に移行した西塔と、予想したとおりの人物だった。
「随分遅かったのではあるまいか? 射命丸」
 職場に燈を灯した途端に飯綱が現れ、文は即座に頭を垂れる。
 地上での出来事は既に、桜坊や善八郎から、僧正坊のみならず御八葉に奏上されているだろう。蝋燭に照らされた彼の顔はどれほど恐ろしかろうかと文が面を上げると、意外にも彼は冷静な面持ちだった。
「無連絡での遅参、平にご容赦を。下界でのお話はお耳に?」
「入っておる。それへの対応も既に決定した」
 子細は善八郎より聞いたため、特に文への聴取の機会は設けないと彼は言う。既に定まった話がひっくり返るような証言が飛び出るのを“御八葉”が嫌っているのだろう。
 対応とはなんだ。山から誰かを差し向けるのか、駐屯吏を再度人里へ送り込むのか。
「明朝、いや本日の朝、鞍馬僧正坊殿が自ら御出陣なさる。駐屯吏の不備の責任を取ると共に、当初より主張するオカルトへの干渉を誤りなく遂行するため、まず偵察すると」
 だがオカルトを発現させる前提である都邑は既に、大蜘蛛に額ずく卑妖の跋扈する魔界と化している。それをどうこうするより重要なのは、駐屯吏の尻拭いなのだろう。
(いや、ここでまた力を示して、御山と、幻想郷での地位を誇示するつもりか?)
 気が滅入っているためか、邪推も過ぎるぞと、文は自身に反駁する。
「お教え下さり、誠にありがとうございます。それよりも、勝手な動きをした私の責めは如何になりましょうか?」
「遠間からの観察と、駐屯吏への取材は承諾したと記憶しているが」
「それを破って、里に入り込み戦闘に及びました」
「……残念だろうが、それは責を問うに及ばぬ。それより、人が瘴気の中で妖怪に変化したというのは本当か?」
「え? それは既に桜坊様から奏上されたはずでは」
「桜坊殿は知らんが、善八郎からはそう聞いた。だが俺はお前に問うておる」
 聴取の機会は無いと言ったのに、どういう意図で改めて問うのか。それに駐屯吏の長である桜坊から何の話も無かったのか。その疑問よりもまず飯綱の問いに答える。
「仰る通りです。私はあれを『卑妖』と称してみました。中核に在る大蜘蛛の周囲を固めるそれは全く、既存の何モノとも、古き妖である魑魅魍魎などとも称しかねましたので」
 そう称してはみたが、文も“卑”などと呼んでみたのを少し悔いていた。そんな言葉で何者かを称するなどとはと。他に何か呼び名があるならと言い添えた文に、彼は答える。
「呼称も定まっていなかったが、卑妖か。お前には皮肉だろうが、なるほど分かり易い」
「はっ」
「それと桜坊殿がどうとか言ったが、かの方は逐電されたのではないかと噂されている」
 任を全うできなかった長吏としてけん責が及ぶのを恐れたのか、はたまたこの異常事態を目の当たりにしてとっとと逃げ出したのか。いずれかは分からないと飯綱は続ける。
 なぜそんな考えに至るのか。のんびりした風に見える人物だが、したたかで、断じて簡単に責任を放り出すような人物などではない。それは飯綱も知っているはず。それを留意してもそう判じるに足る根拠があったのだろう。
「信じられぬと言った風だな、ならば聞かせてやろう。先頃[抜け穴]を通じて黒戌真噛(くろいまかみ)殿が渡って来られた。白狼哨戒団の権佐(ごんのすけ)だ、お前もよく知っていよう」
 それは確かに桜坊が逃亡したとする根拠になろう。信じられない、信じたくないと祈る文も、奥歯を噛みながら飯綱の述べた断定的な臆測に納得する。
 桜坊が逃げたのには、何がどうあっても納得しがたいが。

――妖怪の山には[天狗の抜け穴]と呼ばれる、外の世界と幻想郷を行き来するための秘密の通路がある。
   幻想郷は結界で隔絶されてはいても、その実は地続きだ。太陽の光は降り注ぐし、水は流れ込み風も走る。鳥や野の獣も自然のままに往来する。ただ智恵を持つ者は幻想になるか、その他の例外が無ければ幻想の内側に入れない。その例外の一つとなるのが[天狗の抜け穴]。これは主に、妖怪の山の刑罰に使われている。大結界の内と外を比べた時、妖怪は己が確かに存在できる空間の少なさに驚くであろう。今の世において、幻想郷は寄る辺の無い妖怪のオアシスと言える。外の世界で十分な信仰や畏怖を集めることの出来ないあやかしは徐々にその存在を希薄にしてゆき、やがては無に帰すのみとなるからだ。幻想郷に一大勢力を為す天狗ですら、外で一匹狼となればそれは変わらない。折角辿り着いた幻想郷からあえて出れば、そうなる。外の世界で生きていけるのは、一定の規模を維持する寺社や信仰に関わるモノ達だけ。真綿で首を絞めるが如き消滅。故に、モノによってはある意味、凌遅刑にも代わる恐ろしい刑罰となる。幻想郷に留まる所払いと違い、放逐されたまま生き延びた者は居ない。死罪に当たらない、殺生戒に触れない罰として採用しているが、これは全くの詭弁だ。
   そして[天狗の抜け穴]の使用にはある制約があり、この制約こそが、刑罰を成立させる理屈にもなる。その条件とは、近しい妖力の持ち主を内と外で交換する事。新たに刑を下されたモノが発生すれば、既に刑を執行されたモノの罪を減じて再び幻想郷の内側に囲うこともある。
   また御八葉には、外の本拠地に残る複数の天狗と入れ替えに出入りする者もある。桜坊の場合、それを黒戌真噛なる人物と一対で成立させている。故に黒戌真噛なる人物が幻想郷に訪れたのと桜坊の不在は、不可分の話になるのだ。――

「そうですか。この事態にあっては、かの方でもそうなって仕方ないのかも知れません」
 あの笑顔の裏に何を秘めていたのか、誰にも分かったものではあるまい。面従腹背とは本当によく出来た言葉だと文は思った。だが意外にも飯綱が首を振る。
「あの方は蔵王様の下で修行していた頃からの馴染みだった。無念だ」
 珍しく至極無念そうな顔で吐露し、そう告げると、彼は退出しようと背を向ける。
「既に全山体勢が上がっている。朝には無職無官の者も一部召集し、事態対応の補佐に当たらせる予定だ。もしかしたらでなく、我らにも正面の活動があるやも知れぬ」
 だからとっとと帰って休め、とまで彼は言わない。しかし言外に含めるのはそれ。
 そうと言われても、これから帰って雑然とした自宅で眠る気にもならない。門前町に繰り出して酒に頼るなども以ての外。そもそもこんな気持ちで眠れるのかも怪しい。
 飯綱が去った後、一応は彼の含めに沿って仮眠室から布団を借りて執務室に広げてみたが、睡魔は半時経っても訪れてはくれなかった。

 突如、巨大な足が文を押し潰そうとする。文はすんでの所で転がってそれを避けた。
 足が更に追撃をかけようとし、目を覚ます。
「何をするんですか!」
「呼集が掛かってるのに寝てるからですよ!」
 文を踏み潰そうとしたのは椛だった。職に就いている者は総員呼集、それ以外の一部の者も召集と、昨夜飯綱が言っていた通りだ。
 どうやら眠れず半時を過ぎ、一時に至る前にはぐっすりと眠れていたらしい。それは幸いとして、呼集があった割には暇ではないかと、文は恥知らずにも椛に皮肉をぶつける。
「哨戒団は輪番で監視の後方任務です。出陣は検非違寮のみですから。それより――」
 椛は明らかに怒り、涙目になりながら何かを訴えようしている。
「それより?」
「文様が起きなかったせいで、はたてさんが連れてかれちゃったんですよ!」
「もしかして、記録係を連れて行くって話だったんですか!?」
 飯綱以下の上司は、なぜ誰もそれを言ってくれなかったのか。単に失念していたとも、突発の発案とも考えられるが、そうであっても普通ならたたき起こされるはず。太巻よろしくくるまった布団から出てみれば、肌寒くはあるものの、もう朝の凍気は抜けていた。
「そうですよ! 新聞大会だけはいつもにトップなのもこういう時のためでしょうが!」
 こういう時に重用されれば、その分の手当を賜れる。そこで文がこの体たらくだったため、同じく新聞大会上位常連で適当に当てられる者としてはたてを選んだのだ。
 なんの因果で僧正坊とはたてが共に出立する事態になったのか。半分は当然文のせい。
「出陣って、人里に出たんですか!?」
「それ以外どこがありますか!」
 興奮しきりの椛に、文もつられて興奮しながら応答する。
 こうしてはいられない、すぐにはたてと交代しようと準備を整えようとする。
「今更行ったってどうにもなりませんよ!」
 当然、手柄や手当が目当てではない。ただあの二人を一緒に行かせたくないのだ。
「って言ったって……」
 戦闘を想定し、人里向けのショートパンツにジャケットではなく、法衣で向かおうと、慌ただしく上衣を纏い、袴を履きかけたところで、見計らったかのように来訪者。
「おう、随分と良いタイミングだったようだな」
 やはり暇を持て余した生臭天狗、玄庵だった。
 生娘のように恥じらいで顔を赤くすることは無いが、それよりも怒りが先立って叫ぶ。
「出て行って下さい!」
 この暇人がと付け加えたかったが、三年寝太郎と化していた文には――先ほど椛には平気でそれを言ったが――言えた義理は無かった。
「どうぞ、気の済むまで眺めていって下さい」
「と、椛ちゃんも言っておるが? というのは冗談だ」
 途中までは常通りの、腹が立つほどの卑陋さを見せていた顔は、急に真剣な面持ちになる。文字通りに、真剣を向けているような貌だ。
 酒精の抜けた口を文の耳元に寄せ、彼は囁く。
「残念だったな、一貫坊殿。お前を可愛がっていた鞍馬様、大事に見舞われたそうだぞ」
 どういう意味だ。いや、僧正坊などはどうでもいい。
「ならはたては、私の代わりに付いて行った姫海棠はたてはどうなったんですか!?」
 文のこの反応は予想外だったのか、彼は目をしばたかせて顔を離す。
「姫海棠嬢、か? ああ、あの娘だけは遠くからの撮影だったとかで無事らしい。と言うより、僧正坊以下検非違寮。鞍馬衆の者共ことごとく大蜘蛛に飲み込まれたらしいがな」
 正確には瘴気に飲み込まれたのだろう。
「悲報を嘆くかと思ったが、ふむ。姫海棠嬢ならば逃げ戻っている最中だ。御八葉の前で、白狼隊がリアルタイムの報告を上げていたのを聞いたから間違いない。今から八葉堂へ向かえば、ちょうど無事が確認できるやも知れんぞ」
 文は一瞬大きく脱力してから、すぐに装束を整えると玄庵が示した殿堂へ向かう。そちらは妖怪の山で何かの行動を実施する状況になった際に、指揮所活動も想定された大伽藍。
 安心したのは椛も同じで、彼女は何も言わずに文のすぐ後ろに続いた。

 絢爛な堂の内には、僧正坊以外の御八葉の七人が集う。周囲では舎人(とねり)職の者が忙しなく走り回り、更に四方には白狼が四人ずつ、曼陀羅の最外院に当たる場所に配置されていた。
 御八葉は人里の地籍図を中心に置き、各々の座す方向からそれを見つつ押し黙っている。
「射命丸、ご無礼いたします。飯綱様、昨日に続いての遅参、平に平にご容赦を」
 椛は堂の入り口で待機し、文だけが彼の後ろで膝を着き、叩頭する。
 彼からの返答は無い。昨日もだったが、今も珍しく怒りの様子が無い。それよりもあの怖ろしげ、否恐ろしい権現が、これまで見たことが無いほど顔を青くしていた。
「よい射命丸。後ほどお前の話を聞くことになるかも知れん、そこに侍していろ」
「はっ、有り難うございます。ときに私の代わりに赴いた姫海棠はたては――」
 彼は一瞬だけ奇妙そうな表情を浮かべた後、いつも通り厳しく命じる。
「黙って、待っていろと言った!」
「はっ!」
 文は白狼の一団の外側まで出ると、壁際で膝を着く。待機するのは苦痛では無いが、今はたては無事なのか、彼女がいつ帰還するのか、それだけがただただ気掛かりだった。
 そわそわと落ち着かない文に、椛が近付いて耳打ちする。
「もう西塔には入ってますから、少し落ち着いたらどうですか?」
 知り合いとは思われたく無いほど恥ずかしいと椛がたしなめると、文もようやく落ち着く。先ほど文を足蹴にしようとするまで取り乱していたのは誰なのか。
 それはいい、既にここにまで来ていると言うのなら、もはや何を憂慮するも無い。
「姫海棠はたて、ただ今帰参いたしました」
 文が激しい戦闘を想定するような事態の最中、驚くことに彼女はいつものミニスカートにブラウス姿。いくら距離を取っての撮影が任務だからと言っても、不用意にも程がある。
「はたてよ、カメラはどうした?」
 東光坊が労いの言葉や状況の確認より先に、自身が気になったそれを尋ねる。
「ああ、これです。私が使ってるのフィルム使わない奴なんで」
 河童謹製の折りたたみ型電子式射影機をポケットから取り出して答えると、東光坊はしげしげと眺めながら何度か頷く。そのタイプのカメラを見たのは初めてだったのか。
 それよりも文は、彼女の左の腰に目が行った。見慣れない物が提げられている。
(小脇差、いや剣?)
 反りが無く、中央先端が錐体になった白木の鞘を見てそう判断した。
 本来は提げる物ではなく、懐に忍ばせるような類いの物。どこから持ち出したのか。服装とのアンバランスさもあって興味を引かれる。
 剣術の心得など彼女にあったかと思い返してみても、最低限の取り回しを習っているのを見た覚えがあるだけで、まともに刀を振り回している様子などは見た記憶が無い。文ですら武術と言えば槍棍術が主で、刀剣などはまず扱わないのだから当然なのだが。
「それはよい、姫海棠。まずご苦労だった。早速だが僧正坊殿以下の隊が件のオカルトとやらに飲み込まれた?末、語ってくれ」
 僧正坊が居ない今、次郎坊が場を取り仕切ってそう問いかける。
 周囲の白狼達は人払いしないのかと動揺した様子で互いを見合ったり、御八葉の方を向いたりしているが、そちらからの指示は無い。舎人職の者も言いつけられた作業を終えた後は壁際まで下がり、文と同様に待機する。
 かなりの広さの堂内ではあるが、こうも静かになれば声もよく届く。はたても首脳部への報告とあって普段より声量を上げているため尚のこと。
「しからば。姫海棠はたて、先の下界での事態、謹んでご報告申し上げます!」

      ∵

 呼集を受け、無職の中から予め指名をされていたはたてはすぐに上番。前日の内には既に、人里での事態と共に呼び出しが掛かる旨が伝達されていたため、遅れる事無く参上。
「それはよい、出立から先を述べよ!」
 せっかちな次郎坊の注意を受け、話は先へ。
 払暁(夜明け時)を迎えると共に部隊は出発。はたて以外、編成は全て検非違寮直轄の検非違使。即ち僧正坊以下の純粋な鞍馬衆のみで固められている。言うまでも無く、妖怪の山でもトップクラスの陣容、だった。
 人里への前進に障害は無く、道程に目立った異常も無し。
 目標が黄昏時に辻に現れるオカルトとの話であったのも考慮し、完全な夜明けを以て調査を開始。当初は人里から数町の距離を置いて、周囲からの観察に専念。
 卑妖と称するいびつな人型の様子は、前日に駐屯吏、善八郎から報告された夕刻からの様子と大した変化は無かったが、この時はこれに加えて飛行する小柄な卑妖を確認。これを[卑鳥(ひちょう)]と呼称するよう僧正坊が臨時に決めた。
「卑鳥、と。白狼隊、これの存在は認めていたか? 姫海棠が何かを振り払っていた以外は確認できていない? うむ分かった。姫海棠、後で写真を見せてくれ」
 流石に伯耆坊は話の分かる人物で、要らぬ疑いを向けるような真似はしない。それに確かに写真は撮った。記録係が同行した意義があったと言うものだ。
 他に異常を認めなかったため、偵察を終えた検非違使――鞍馬衆は、隊伍を四つに分けて強行偵察に移行を始めた。

 妖怪の山一番の戦力であっても、前代未聞の異変に慎重な動きになるのは当然のこと。とは言え、流石に慎重になりすぎやしないかと、はたては既に飽いていた。殲滅して終いにするなら無思慮だと責めるところだが、逆に長々と偵察に時間を割くのもどうなのか。
 それに、大蜘蛛への対処は倒すように決定されたが、問題は取り巻きの卑妖。それに新たに確認できた卑鳥もどうすべきなのか。
「第一隊より第四隊、それぞれ北、東、南、西の壁から三町離れて待機せよ、私は第一隊に随伴して全体の指揮を執る。配置後、以心の術は伍長と隊長のみが用いよ」
 不要な交話で混乱を招かぬよう、また瘴気の中では疎通不能となる事にも留意と、予め定めていた事項の再確認として、僧正坊はこと細かに鞍馬衆に命令する。
 なんでお偉いさんが一緒に付いて行くのかと考えていたはたてだったが、これを聞いて初めて理解した。それ以前に、人里でこの様な事件があったという他は、瘴気の性質や事の発端についてほとんど聞かされていなかったのだから仕方ない。
「あのー、私はどの隊に入ればいいんです?」
 それぞれ五・六人の隊伍を三個まとめて一隊を編成。三人の伍長を置き、一人の隊長がそれをまとめる。十六人から十八人の隊に別れての前進。
 そのどれにも、はたてが組み込まれる余地はあったが――
「いや、姫海棠は我々の前進開始地点で状況を観察、撮影していればよい。上空でも危険があるかも分からぬゆえ、決して門の内には入らぬようにな」
 僅かな気遣いを感じる僧正坊の忠告に、それは助かるとはたては胸をなで下ろす。
 鞍馬衆などは、事態の重大さに比して始めから落ち着いた様子のまま。慎重ではあるが、自信は十分との表れか。
 それぞれ装備は法衣の下に胴丸を着込み、金剛仗を携えるのみ。白兵戦を想定するにも準備不足に思えるが、長の僧正坊が全くの無手で法衣に半袈裟を掛けるだけなのと比べれば、それでも重武装に見える。
 そもそも大蜘蛛以外は殺傷前提ではないのだから、この程度で足りるとの考えなのか。
「それよりも姫海棠、もしも、万が一の話として聞いてくれ。もし我らがあれらに敗れ、あるいは滅された駐屯吏の者の様な有様になったなら、後始末は任せたぞ」
 万が一と前置きされても、事件現場での縁起でもない話には答えようが無い。
 はたてから気遣う言葉を掛けても鞍馬衆の神経を逆撫でするだけだろうし、洒落の利いた話で返せるほど親しい人物でもない。
「承知、しました。まずは調査の完遂を見守っております」
 当たり障り無く、そう言うのが精一杯。
 僧正坊は明るい顔で「うむ」と鷹揚に頷くと、それぞれの隊に配置を命じ、自身も北の隊に続いて行った。
 はたては一番手近な第二隊の後を辿って進むが、はたてが合流しようとする頃には前進を開始。以心の術を飛ばした様子は感じられなかったが、僧正坊と隊長が一対一の疎通を行っているのだろうと考える。
 とうとう一人になってみると、心細くはないが、独り言が口から漏れ出る。
「嫌な奴って言っても、やっぱやられちゃうなんて、考えたくないんだよねぇ」
 はたての僧正坊嫌いの根は極めて深いが、その脳天気にも見える性格もあって、傍からは少しも深刻そうに見えない。
 せめて任務はこなそうと、カメラを取り出して最大望遠。光学望遠は二倍程度でも、河童の画像処理技術を用いたデジタルズームはそれを補って余りある。加えて冬の冬期が湿気を地に落として大気は清澄。人里に張り付いた瘴気との境目がはっきりと見えるほど。
 まず一枚。徒歩で前進する第二隊の後ろ姿が、意気揚々との感と共に映る。その先にある、一切生活の動きの無いゴーストタウンと化した人里との対比が激しい。
《我は鞍馬僧正坊。人里の周囲に人妖の姿無し。昨夜確認された夜盗と思しき者の姿も無し。予定通り、六つ半(朝7時)を以て進入を開始する》
 僧正坊の以心の術、それも範囲を絞らない大出力の放送状態(ブロードキャスト)。これは妖怪の山への通知と共に、他の勢力へ対して「妖怪の山はこれより人里への事態にこの様な対応を始める」という牽制を兼ねた宣言をしているのだ。
 彼らは全く同時に、東西南北それぞれの門から内側に入る。その内に入って、ようやく卑妖や卑鳥が動き始めた。予め布陣するといった様子は無かったため、あくまでも領域内に入った者を迎撃するだけの、反射的な活動なのだろう。
 今以て、かの大蜘蛛の意図は分からない。およそ智恵など持たず、単に手下を増やすだけと言われても得心はいくのだが。
 いくら強靱になったとは言っても、鞍馬衆の敵ではない。
 しかしはたてはそうも行かない
「オイオイオイ……」
 断続的に撮影していたはたてのフレームに、徐々にぼやけた影が映り込み始める。ピンボケでそう写っているのかとオートフォーカスをそれぞれに合わせてみるが、影の姿は明らかにならず、更には数を増し続け、大きくなっている。
 瘴気を纏った卑鳥が里の擁壁を越え、はたてに向かってきたのだ。
「ちっとも安全じゃないじゃん!」
 撮影モードを切り替え、まずはスペルの行使を試みる。

連写『ラピッドショット』

 あえてのスペルの行使なのは、卑鳥への対処方針が確定していないため。正当防衛を盾にするにも、攻撃を受けていない段階で初手から殺傷をして、のちのちそれがまずかったでは、申し開きも利かない。
 弾幕をばらまきつつ、妖力を挫くフレームの場を掃射。先に到達した弾幕は、さっき聞いた通り瘴気の性質に飲まれてかき消えたが、フレームが効力を発揮すると、今度は逆に瘴気の相殺に成功した。
「いけるじゃん! って駄目じゃん!!」
 本来ならそのフレームが捉えた時点で対象にダメージを与えるはずなのに、瘴気を消しただけに留まっているのはやはり尋常な状況ではない。
 はたては弾幕の行使を続けるが、卑鳥の体からはまた瘴気が漏れ出ている。結果としては同じ事の繰り返し、しかもそれらは確実に距離を詰めつつある。
《姫海棠です、卑鳥が近付いて来てるんですけど逃げていいですか!?》
 はたての送信はブロードキャスト、多くを言うわけにはいかない。
 僧正坊か、誰でもいいから鞍馬衆に届けと以心の術を飛ばす。返答は無い。あちらも既に瘴気の中に踏み入っていた。
「えいくそっ!」
 悪態をついてみるが、はたてにも鴉天狗としての矜持がある、一応。それに今は、普段は扱わないが頼りになると信じる得物もあった。断続的にスペルを放ち続け、効力停止になると身を翻すと同時にそれを抜いて構えてみる。見よう見まねでそれらしく。
 磨かれた朴木の白鞘には笄(こうがい)だけが打たれ、ちょうどはたての手にフィットする柄には白い鮫皮が巻かれているだけ。全体は合口拵に似せた、極めてシンプルな両刃の剣だ。
 守り刀として相応しく感じる剣には、それ以上の霊威が宿っていた。素人に毛が生えた程度のはたてが振り回しても卑鳥を撃退しうるほどには。
「おりゃおりゃ!」
 と声を上げつつ、目標から視線を外し、縦横に回転しながら素速く振り回してみる。剣術には慣れていないと言っても天狗は天狗。動体視力も身体能力も、人間とは比較にならないほどの水準。寄る卑鳥は触れる先から切り裂かれ、地に落ちるとバタバタと暴れる。
 動きを止めたはたてはこれを横目に見て「うへぇ……」と嫌そうな声を漏らす。妖力で浮いているとも思えず、空力的に飛んでいるのがおかしく見える左右非対称の翼は、羽毛も無く錆鉄の様な肌を曝している。それが地面を抉る勢いで翼をばたつかせているのだ。
 飛べるのはこの異常な筋力のためかと思えるが、こんな勢いの殴打や、嘴爪(しそう)での刺突を喰らうのはごめんだと生理的嫌悪感に恐怖感がより煽られる。地に落ちた卑鳥は断末魔を迎えて酷く暴れ、途端に動きを止める。同時に瘴気の発散も止まっていた。
 第一波は適当に刃を振り回して凌いだが、また次が来たらどうなるか分からない。
 それより鞍馬衆はどうなったのかと、卑鳥の群れから延長した先に位置する彼らの姿を見る。既に瘴気の中に入って数分、何の動きも無い。と思った次の瞬間だった。
 不意に、里の上に垂れこめた雪雲を貫いて光柱が振り下ろされた。
「サナート・クマラの天道力!?」
 噂には聞いていた。護法魔王尊と同一視される、鞍馬僧正坊の霊威。
 永遠の若者として天道の最高位に位置する西方の神の御稜威(みいつ)。純粋かつ恐るべき神威の発露は、物理的な衝撃こそ起こさないが、霊威の障壁ははたてに襲いかかる。
 強行偵察だったはずなのに、あんな本格的な攻撃を行う必要に迫られる状況に陥ったのか。だがあれだけの攻撃を加えたのなら、ただの大蜘蛛など完全に滅されたであろう。卑妖の後始末がどうなるのかは知らないが。
 はたては足下に転がる卑鳥の亡骸を見ながらそう考える。やはりこれらの死体は消えない。妖怪化しているならたちどころに消滅するはずなのに。
 そこから先は己の仕事ではない。さてもあの若作りの大年増がどう立ち回るのかと、里の内にカメラを向ける。天道力に祓われた瘴気が、逆回しの動画の如く元に戻ってゆく。
「え、マジ……?」
 天道力の光柱は瘴気に負けて立ち消える。その最後の光がか細く立ち上る間に、またも大出力の以心の術。しかし今度は、交信相手を絞ったもの。
《姫海棠、逃げよ! 直ちに退いて御山へ事態を報告せよ!》
《何があったんですか!》
《我らは敗れた。皆ことごとく、奴に取り込まれ――》
 交信が途切れる。彼自身が卑妖と化したか、瘴気に阻まれたためか。以降何の動きも無いのを見ると、前者なのだろう。
 退けと言われたが、本当に逃げていいのか。心情的にはさっさと徹底したいはたてに、救いの声が下りてくる。
《姫海棠はたて。ただ今僧正坊様からの連絡を聞いた。お前は鞍馬衆の撤退を待たずに帰参せよ。これは最優先の命令だ》
 術を飛ばしているのは、八葉堂で動いている舎人職の誰かだろう。
 その詮索はともかく、はたてには撤退するより他の選択肢は無かった。

      ∵

 はたての証言に、御八葉は唸ったまま。
 僧正坊の最期の通報と報告された状況に相違は無かったが、詳細を報告されては諮るべき事も増えよう。御八葉だけでなく他の権現格や大天狗も揃っての評定となるかも知れない。それより今のこの場では、白狼から舎人から、文までも、皆揃って脂汗を流していた。
 あの鞍馬僧正坊が斃された。こうなればもはや、大蜘蛛をして“たかが”や“如き”と蔑む段階にない。それにここに居並ぶ誰も口にはしないが、蜘蛛の妖怪と聞いた全ての者が、当初から明確にある勢力を想像していた。文も例外でない。
(やはり旧地獄が溢れたのか?)
 今後の流れ次第では、そちらとの衝突も考えられる。いや――
(これじゃあ、正邪を旧地獄に遣った黒幕の思惑通りになる?)
 正邪は輝針城の異変に先立って、旧地獄に下克上を唆しに向かった。結局旧地獄はそれに乗らないどころか挫いて見せたが、もしそれが成っていれば、旧地獄と地上の妖怪との抗争は避けられなかったろう。
 更にそこから、旧地獄を唆しに向かわせたのはそちらを叩き潰すための正当性を得るためであり、博麗の巫女と賢者以外に、幻想郷でそれに対抗しうる唯一の勢力である妖怪の山にこそ黒幕が居るのではないか、との推理も生まれた。
 それが今、真逆の方向から実現しようとしている。
 当然、他勢力が相争わせようと企図した謀略とも考えられるが、鍵となるのは『打ち出の小槌』が鬼の魔力で駆動する事。それに妖怪の山を引き払った鬼、伊吹萃香が、供給が断たれた小槌の魔力の残滓が残り香として山に漂っている、と示唆したのだ。
 何者の企みか分からないが、オカルトのみならず別の主体が背後に有るなら、妖怪の山のモノの仕業であろうと無かろうと、僧正坊は里の人間共々その犠牲になったと言える。
 これらの推理、そして萃香の言葉を知るのは、文の他には協力者だった椛と、直後に嗅ぎ付けたはたてだけ。保守的な『御八葉』は、こんな企みを起こすまい。一人一人の思惑はどうか知らないが、組織としてのそれはあり得ない。
 はたては、椛は、どう思っているだろう。
 文が彼女らに視線を向け、戻す内に、ようやくと次郎坊が声を上げた。
「今後の事態への対応はともかくとして、僧正坊殿がお隠れになったは一大事であります。実は僧正坊殿御自らはこの様な事態を想定し後任を指定しておりました故、今後はこれを迎え、然る後に事態対応を協議したいと考えます」
 いや、卑妖化はしたかも知れないがまだ死んではいないだろうに。文は声を上げたかったが、その立場に無いのを自覚し、口を結ぶ。
「射命丸! 元駐屯吏副長、天竜坊。呼んで参れ!」
 その文を次郎坊が呼び、命じた。
「はっ、承知しました!」
 何故、善八郎を呼ぶのか。疑問を挟む余地は無く文は応じ、動いた。

 文が別室待機していた善八郎を導いて戻ってみれば、指揮所は閉じられて詰めていた者達の姿も無くなり、大伽藍は常の耳が痛くなるほどの静寂を取り戻していた。
 道中、彼と言葉を交わすことは無く、呼んだ理由も話せずにいた。文は自身の口から言うべき事でも無いと判じ、そのため雑談すらも交わせなかった。
 今は七人となった御八葉の姿があったが、これは会議をするような体勢では無い。恐らくこれから、中堂での評定となるのだろう。
 ならば彼が新たな御八葉として迎えられるのか。流石にそれは考えがたい。
 彼では職位も、その職自体の位置も低い。駐屯吏としての実積は多いが、広く信仰を集めるほどの者ではない。もし彼を首脳部に迎えるなどすれば、十段飛び以上に飛ばされた他の大天狗や権現格が黙ってはおるまい。
「天竜坊善八郎、参上致しました」
 彼はすぐさま膝を着き、拳を突いて頭を下げる。
「射命丸、ご苦労。天竜坊、これより貴山の衆の人事につき、天魔様の御前にて評定を行う。我らに同行せよ」
 次郎坊に退出を命じられた文はすぐに去るが、善八郎は頭を下げさせられたまま命令を聞かされている。とてもこれから同僚に迎えようとする者に対する仕打ちではない。
 やはり別の権現格か大天狗を招くのだろう。それにどう彼らが関わるのか分からない。
 文には、今ここに居る資格すら無い。誰の前にも、後ろにも立つことのない、ただ一人きりの天狗なのだから。
 しかし、だからこそやれる事がある。御八葉がどうあろうが知ったことではない。
 文はもう、一つの覚悟を決めていた。

感想をツイートする

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <s> <strike> <strong>

一覧へ戻る