楽園の確率~Paradiseshift.第5章『黒谷返上』 黒谷返上 第2話
所属カテゴリー: 楽園の確率~Paradiseshift.第5章『黒谷返上』
公開日:2018年04月09日 / 最終更新日:2018年04月09日
楽園の確率 ~ Paradise Shift. 第5章
黒谷返上 第2話
「私は知りませんよ」
妖怪の山の行政を担う『西塔(さいとう)』の――その全体の規模からするとミクロレベルに――せせこましい一室。文は同じ鴉天狗の姫海棠はたてと鼻を突き合わせ、ピシャリと言った。
最低限の事務用品のみが見台と共に揃えられたこの四畳半の板間が、文書関係の業務を行う文の執務室。文書を扱うための棚も無ければ資料の類いもここには無い。そういった共有の資産はいちいち書庫から持ってこなくてはならない、極めて不便な職場環境に押し込められている。唯一の救いは、ここ一週間戻っていない住まいより清潔なことぐらい。
しかしはたてには、そんなヒラ法師ほどの待遇も無い。
緊急時の召集以外は特段の職務を負わず、妖怪の山構成員としての最低限の食い扶持のみに甘んじる専業新聞屋。そんな自由家業の彼女の用件は、当然ながら――
「そもそもなんで、私が亡霊みたいに火の霊(たま)なんて引き連れなきゃならないんですか」
取材。らしい。
ライバルの『文々。新聞』がこの通り活動縮小中なのを見て一気に部数の差を詰めようと、メインの情報源である念写のみに頼らず足で情報を稼いで回っているのだ。
その『文々。新聞』の発行者に対してすら、こうして。
(裏取りもろくにしない『花果子念報』がライバル視してくるなんて、身の程知らずって言うだけじゃ足りないと思うけど……)
ともあれその取材内容は――文は彼女から聞くまで知らなかったが――近頃妖怪の山を構成する山麓や、それのみならず門前町にまで火の霊が漂い始めたとの噂の追及だった。
なお、文がこれを知らなかったのはプライベートと業務の慌ただしさが重なったためであり、決して情報収集能力が不足しているのではない。
なるほど、これが墓場の話なら程良い怪談になろう。
だが妖怪の山には、その中核より四方一里に渡って法力防衛網と言える“界”が張り巡らされているため、亡霊の類いがその探知をかいくぐって入り込むなどまず考えられない。
地中から直接湧き出たとしてもまた同じく。もし他の妖怪が全く察知されずに入り込むなどしていれば、まず白狼哨戒団がその責を問われようが。
門前町の歓楽街にならよく出掛けるはたてが、普段滅多に寄り付かない役場街に現れて手当たり次第の取材とは考えづらい。あちらでは手がかりあらずと見切りを付けたうえでここに訪れているのだろう。と言うより、彼女が西塔で面会名目のアポ無し取材ができる相手など今は文か椛ぐらいしか居ないため、ここに来たのも目当てはあれど苦し紛れ。
こうして応じる文も暇では無く、とっとと追い出して仕事に戻りたいのが本音。
ただ邪険にするのは愚策。はたてとは対照的に足で稼ぐのがメインの文にとって、彼女の念写能力は新聞作りの上で有用にもなり得るからだ。
なのでここは適当に話をいなすのが上策かと、一応どんな理屈かを問うてみたのだった。
「いやさ、天狗の怪火と言えば天狗火。天狗火イコール松明丸(たいまつまる)って名前みたいだし、でもって『丸』の字が付く天狗なんて文ぐらいしか知らないしさ。もしかしたら知り合いでもいるのかなって」
火の霊の知り合いというのがいよいよ意味不明だが、天狗火は当然知っている。
江戸時代の人間の画家鳥山石燕(とりやませきえん)が、妖怪観察記『百器徒然袋(ひゃっきつれづれぶくろ)』に記す、
――「松明の名はあれども、深山幽谷の杉の木(こ)ずゑをすみかとなせる天狗つぶての石より出る光にやと、夢心におもひぬ」――と。
そこに描かれているのは一応鴉天狗のような何かではあるが、名前と絡めてもこじつけにすらならない。それに天狗火とはここにある通り火の玉ではなく、天狗礫(ファフロツキーズ)の地面などへの衝突が発する光を言うのに。
斯く考える文も、弾幕ごっこにそれを採り入れているから知っていたのだった。
ただそういった辺りも踏まえて訂正するのが面倒で、適当に言いくるめようと試みる。
「そんな知り合い居ませんよ。そもそも私がどこ出身の天狗か知ってて言ってるの?」
「信州でしょ?」
「それは生まれ故郷」
文の、天狗としての出身地はそちらとは異なる。
「うそうそ知ってる、秋葉山(あきはさん)。で、それが何?」
「……秋葉権現の御利益は?」
「火防に病魔退散、それと生業繁栄ね。らしいよね、俗っぽい御利益ばかり」
いずれもが現世においてもたらされる利益であり、彼岸より向こうで極楽浄土に至るだの、大悟による救済などといった、浮世離れしたものではない。即ち俗である、という言い方は誤解を招きかねないものの、秋葉大権現を知るゆえにはたてはそう言うのだろう。
「分かってるじゃない。まがりなりにも火防の信仰を戴く山で転変した私が、なんで火の玉なんて引き連れなきゃならないの。って言ってるの」
「えー、だって秋葉大権現の験力(げんりき)って真言読んだら分かるけど、元々は風繰りじゃなくて火繰りじゃん。火山の富士山が御神体になった木花咲耶姫(このはなさくやひめ)なんかと同じでさ、火を上手く操るって意味で」
とっとと話を終わらせようと婉曲ながらそれらしい事を言ったのに、彼女が文の想像以上に物を知っていたため裏目に出た。天狗火については全く誤解しているくせに。
文は腹の中で舌打ちしながら「やはり出所など知らない」と、やむなく単刀直入に否定。
ただし独自の考察を添えてみる。
「御山の“界”をくぐって現れたとなると、あと考えられるのは都市伝説(オカルト)ね。けど自分で言っておいてなんだけれど、オカルトなんて人里で流行ってるだけだと思ってたから御山だとどこまで影響が出るか……」
「オカルト?」
「ええ。先の異変はさておき、あれなら“界”を抜けて現れても不思議はありませんし」
もしそうなら新たな対策が必要だと、文は感情を隠さず頭を振る。事実、この大地で最も強大な結界群を抜け、
「ぶっちゃけると西塔に勤務してる文なら別の結論にいくと思ってたんだけどそうか、オカルト、オカルトねぇ……それにしても対策って何すんの?」
期せずしてはたての興味がそちらに移ったと見るや、文はすぐさま会話終了への道筋を描き、彼女をそちらへ誘導する。
「例えばですが、そうですね、ひだる神やジキトリへの対処を例にしましょう」
文が挙げたのはオカルトではなく憑き物として認識されるモノ達。いずれも、旅人や長時間労働する人々に襲いかかる妖である。
「この名前負けした、神様どころか妖怪としても希薄な妖の仕業などは、外の世界では身体の急性的飢餓、特に糖分不足を原因として起こるハンガーノックとして対処が為されます。私がこれまで試みたオカルトカウンターはこれの応用ですよ」
しかしながら、それで全ての都市伝説に対処できれば苦労は無い。
オカルトへの対処ではないが、狢の親玉絡みのプロパガンダでは文も骨を折った。化け狸絡みでこれに似た手法を用いた際には『出所の分からない悪評』なる新たな対抗手段を取られるなどされ、一筋縄ではいかなかったのだ。
この余談の通り厄介なのは、狢の親玉と言わず、知性を持つ主体なり協力者が存在する場合。逆に言えば、それさえ無ければ鴉天狗としての働きだけで対処は充分。
――もしオカルトを保護しようなどと考えるモノが居たなら、付喪神で百鬼夜行を形作ろうとする件の狢の親玉よりずっと酔狂に思える――
これらは反ミーム(遺伝的特性を持つ言語や文化的な認識情報、の対抗的な物)を一様に広げようという手法。妖怪の山でも広報活動を主な業務とする鴉天狗が得意とするもの。
先ほどから文が述べているのはオカルトの原理を別の理論に仮託する反ミームだったが、あえてオカルトの存在を認めて対抗手段を上乗せするという反ミームも有効である。
そもそもオカルトとは、主体を除けば殆どがミームで構成されている。反ミームはこれを干上がらせオカルトを打ち消す物であり、今の場合は端的に反オカルトとも換言できる。
オカルトの主体は、ひだる神などと同様そこらを漂う心霊に近く、本来はおよそ複雑な思考や知性を持たず、反射や本能的な挙動を超えた自発的な活動も少ない。そのため文の手法で充分間に合うのだ。
それに、付喪神が妖怪化しないまま魔力を尽きさせればただの器物に戻るのと同様、オカルトも妖怪化しなければ蒸発する。翻って、都市伝説の拡散の早さは揮発性の高さに比例している。(各種結界を抜ける可能性が高いのも、この揮発性の高さが原因と見える)
言ってしまえば、主体の存在を保証する“背骨”が無い限り放っておいても消えるのだ。
「鴉天狗総出でそんなことしてたの? 私には何のお声もかからなかったんだけど」
自分はなんの職にも就いていないから呼ばれなかったのだろう。どうせいつも通りだと、はたては問いを自己解決する。
「いえ、それをやってたのは私一人」
「は? なんで」
そんな厄介を、一人で、忙しいと言いながら労力を割いて、しかもこの前の件で新聞作りすら自重している状態でと、はたては問いに至る疑問をいくつも浮かべるが、
「人間の里で騒動が起こると犯人捜しとかあって面倒じゃない。だから大ごとになる前にこまごまと潰して回ってたの」
文の答えはそれら全てを押してでもという動機。
はたてが妖怪の山での怪火に目を向けたのと同様、人間も異常を見つければその原因を探そうとする。畜生とて、星の運行に不安を覚えたり感動したりもするのだから智恵を持つ者なら当然だ。モノによっては命に関わる恐れもあるのだから尚のこと。
人里での件も今は小康状態。こまめに動いた甲斐もあって目に付くオカルトはあらかた潰し負えたのだと、文は鴉天狗ながら鼻を高くする。ここで鼻高々とするのは良いが、まだいくつものオカルトが蠢いている事実には目を瞑っている。
それらを踏まえても余りにも浅い動機だと、はたては言う。
「何が楽しくて下界でそんな面倒引き受けてんだか。文ってさ、人間好きだよねー」
大きな面倒を起こさせないために小さな面倒を負っているつもりだった。しかし彼女に言われた問いの答えがいずれか考えてみると、案外すんなりと答えは出てくる。
山の神社が幻想郷に越して来た直後、その巫女の東風谷早苗や、そちらからの喧嘩を買った博麗の巫女による襲撃に真っ先に当たったのも、里に近い天狗として白羽の矢が立ったゆえだった。
上番中の駐屯吏を例外とするなら、自他共に近しいと認識されるほどには――
「そうね。好きか嫌いかで言われれば、好きよ」
雑談に近い応答になったのを機と見てひとしきり語り尽くしたかと判断し、「これでお開きでいいだろう」と、はたてを帰させるのではなく自分から席を立とうとする文。
廊下に出ようとした文の鼻にいささか不快な、西塔で嗅ぐことなどまず無いはずの特徴的な匂いが襲いかかる。
「ちょっとどうしたのよ」
ゆっくりと、しかし慌てた様子で室内に逃げ戻った文を、はたては訝しげな視線で追う。
彼女の鼻にも匂ってるはずだが臭くないのか。いや当然だ、つい先ほどまで歓楽街に居たなら、これに麻痺していても不思議は無い。
「どっかの大権現よりもたちが悪いのがいるの、今更でしょ」
匂いの元が徐々に近付くと、はたてもようやくそれを認識して顔をしかめる。
「なーる、あのオッサ……」
そこまで言い掛けたはたての口を、鼻ごとふさぐ。
「しっ。そう、玄庵――」
「げ・ん・あ・ん・さーま、と呼んで欲しいな。姫海棠嬢などは久々だし特に」
着崩した法衣の腰に狢のような徳利を提げた天狗が、体内を経た酒精の臭気を吐き出しつつ柱に手を付いて出口を塞ぐ。
痩身に見えるが、法衣の上からではその体軀も明らかではない。ただ整え損ねた不精髭の目立つ顔は、酒精の入った顔色も相まって不健康極まりなく見える。
これが妖怪の山で鞍馬(くらま)衆に次ぐ勢力を比良山(ひらさん)衆と競う英彦山(ひこさん)衆の――彦山豊前坊(ひこさんぶぜんぼう)を首とする――次席にして、実質的に英彦山衆を率いる小天狗だというのだから驚きである。
その実力の程は文もはたても見たことは無いが、いかに優れた験力の持ち主だとしても、心情的にそんな大人物と認められるか怪しい。
酒は元より、女天狗(めてんぐ)と見れば文やはたてに限らず声を掛け、それでは足りず女性(にょしょう)の多い白狼哨戒団屯所にまで近寄ろうとするのだ。俗とかそういうレベルですらない普段から総身丸ごと破戒僧という惨たんたる挙措は、西塔や東塔(とうとう)の多くの者に知られるほど。
「これは、げ・ん・あ・ん・さまぁ~。実は私、ちょっと文の取材で来たんですぅ~。ついでにお金にも困ってて~、お小遣いとかくれたらうれしいなぁ~」
サブイボが立つような猫撫で声でたかるはたてを、文は引きつった貌で横目に見る。厠だ何だと理由はどうでもいいから、はたてを人身御供に差し出してとっととこの場から立ち去りたかった。(と言うかその人柱自体がこの通り、ケレンは承知でも極めて気色悪い)
「やめなさい姫海棠さん、はしたない。西塔での破廉恥な真似はご法度ですよ。玄庵様こそ、範を示すべきお方がそのような有様では、豊前坊様もお嘆きになりましょうに」
「普段から破廉恥が板に付いた文がなに言うかなぁ。ねー、玄庵さまー」
「うむうむ、そうだのおそうだのお」
下界に降りた時の振る舞いまで釈明する気は無いが、少なくとも今のこの場に集う――寒空でもミニスカートのギャル天狗や、役所内で酔っ払う生臭天狗などの――酷い面子と比べてみれば、法衣を小奇麗に着込んで職務に精励する文は模範的な姿に見えように。
そんな破廉恥どもに破廉恥と言われては、何を言う気を失せる。
「いいですよ。私は席を外しますので、お互い気の済むまで!」
事が済んだら掃除だけはするように言いつけ、玄庵の横をすり抜けようとする文。はたての事だ、揶揄したようなコトにまでは及ぶまいと一切を憂うことなく置き去りにかかる。
そこへ玄庵は、わざわざ腕を下げてまで行く手を塞ぐ。
文ももう苛立ちを隠さない。
「厠へ行きたいのですが」
「見目通りしとやかに言い換えてみてはどうだ。それはよい、また言付けだ」
酷く酒を入れているのも、また下っ端の仕事を仰せ付かって腹を立てているためか。
文はいい迷惑だと思いつつも、畏まって彼に向き直る。
「して、此度はどなたのお呼び出しでありましょう?」
「中堂(ちゅうどう)へ。御八葉のお呼びだ」
「御八葉の、どなたの?」
鬼が去った後、天魔をして長と戴く妖怪の山において、実務上の意思決定機関となるのが御八葉。普段から豊前坊に使い走りさせられては酒をかっ喰らうのが常の玄庵如き、彼らに掛かってはいよいよい小間使いも同然だろう。
ただ文の直属上司の飯綱(いづな)三郎などが玄庵を遣わすとは考えにくい。飯綱の場合は誰かを使いに遣るより――厄介にも――まず自分が前に出てくるタイプ。
ならばいつも通り豊前坊か、はたまた玄庵が毛嫌いする鞍馬僧正坊(そうじょうぼう)か。
「御八葉は『御八葉』だ」
それ以上は察しろと、慇懃無礼にうやうやしく道を開ける玄庵。
彼を睨みながら、文は歩み出す。
「おや、そっちの厠は遠いぞ?」
背中からあからさまな嫌味を投げかける彼には一切答えず、文は『御八葉』が待つ中堂の方へ向かうのだった。
∴
玄庵の言付け。彼が「御八葉が――」と言ったのは、特定の誰かではなく組織としての呼び出しという意味。
これまでに無かった話ではない。しかし珍しくはある。
正邪絡みの裁定は全て下されているし、追訴も無いと評定所からの言質も取っている。文もそれ以上裁かれる材料に覚えは無いし、何かをでっち上げられる恐れも――地位を鑑みれば――無い。役所勤めとは言え下っ端の権官など失脚のしようもなく、単に職を失ったら新聞作りに専念して今以上の食い扶持を確保する自信だってある。
そう、こういう事も希にあるし、偉くなればなっただけある種の政治的な策動に物に巻き込まれる面倒も生じるので、出世しようなどとは考えたくもない。
なのでもし万が一今の職を失ってもデメリットは安定した禄と身分を失う事、そして西塔への出入りが気軽に出来なくなる程度だろう。
(まあ遠くはなるけど東塔からでも行けるし、急ぎの時は椛をダシにしてもいいか)
祭礼や祈禱などの儀式一般を司る東塔へは、基本的に天狗(河童を水天狗とするような、広義の天狗称はさすがに除かれる)であれば自由な出入りが許されている。聖域であるため、それなりの距離があるのに飛び回るのはご法度とされているのがやや煩わしいだけか。
その東塔との間、ちょうど中間に、今の文の目的地である中堂はそびえている。東西の役場群の中間に位置するのと同時に、妖怪の山の中枢であるためにそう呼ばれるのだ。
鬼が去り、密教や仏教諸宗派に帰依していた天狗が集って作られた、妖怪としての存在を確固たる物とするための信仰の山。そこでも最も絢爛かつ荘厳な佇まいを誇る伽藍(がらん)。
優に二間(約三メートル半)は拓かれた圧雪された山道を十町は歩んだのち、やや凍り付いた九十九折りの石段を徒歩で数百段も上った先に、それは常と変わらずそびえていた。
大伽藍の山門を十間先に見上げてから、ふと振り向いて崖側を見下ろす。
寿命も近いシラカンバが、森林限界も超えたはずのここで雪に負けない白さを誇ってまばらに列を成す。他は低木やシダの類いが茂っている程度なので大変見通しが良い。ただし下界までは一つ山を越えるため、谷の先にはまた、雪に覆われた山肌が広がっている。
常からの寂しげな光景は、垂れこめた雪雲や色の無い峻険と共に険しさを増している。
「おーい射命丸、何をぼさっとしている。御八葉の召喚ではないのか」
武装した門衛が文の背に呼びかける。山門の両側に二人、阿吽の護法善神のように佇んでいた。とはいえ彼らはただの当番であって、本物の天部などではない。
文に呼びかけたのは向かって右側の、薙刀と胴丸で武装した天狗だった。逆側の火仗(かじょう)を立てて腕を突き出した天狗は、口をキッチリ吽の字にしている。当番のくせに芸が細かい。
「いえ、突然のお呼び出し、しかも久々の御上(おかみ)の御前とあって、少しばかり緊張していまいまして」
こうしてリラックスするために景色を眺めていたなどと言い訳してみれば、「お前が緊張するのは飯綱様だけだろう」などと返される始末。
「あやや。仰る通り、飯綱様に会うのが憂鬱なのよ」
滅多に会わないうえ基本御簾(みす)越しで直接口も利かない天魔より、口喧しい直属上司の方がよほど恐ろしいというもの。
今言ったことは彼に黙っておいて欲しいと、門衛二人に宗教的儀礼とは関係ない合掌をしつつ、頭を下げて頼み込む。
すると吽形の門衛が反応を示す。火仗と腕を体側に寄せ、視線は文の後方に向いているが。
「憂鬱でもなんでもいい、とっとと入らんか」
後方からの重々しい声、極めて憂鬱である。
文が体勢はそのままに、首だけを後方に巡らせると、そこには明王も青くなるであろう憤怒相を浮かべる飯綱三郎の姿があった。
すわ問注所へ逃げ込もうかと覚悟する程の形相。それはすぐに収まる。
「服装を整えたら西の大会議室へ入って待て。ああ、支度は下の二間間で、それぞれ場所は分かるな? それとだ、またお前を裁こうと言うのではないから安心しろ」
事細かな指示に、珍しく優しい声だと文は安堵する。
規律第一のお堅い人物だが、公私混同にも厳しいのが下々にとってはある意味救いだ。同時に御八葉としての彼の態度からは、自身を頼みにするか、これからしかと命ぜられよう何かが裏にあるのが察せられた。
「なあ射命丸よ」
早く入れと行った彼が、山門を跨ごうとした文を呼び止める。
「はっ、なんでありましょう」
「このやまなみ、美しいと思うか?」
先ほどはただ寂しいとしか思わなかった。雪が溶けた後は、春も夏も代わり映えのしない風景。唯一、紅葉の運ぶ風が美しいと言えるか。
いや――
「はい、とても美しいと思います」
素直な、心からの答え。
光溢れる望月より新月の夜空の星々を、柔らかな薄紅の桜花より岩清水を浴びる苔の森を、遠くに近くに見ては愛おしく感じてきたのを思い出す。銀嶺の鋭い煌めきもそうだ。
天狗としての始めの頃、多くの人妖の側に寄り添いながら心に留めて来た風景も、この神々と妖怪の箱庭に収まっていた。
「うむ」
彼は満足げに頷くと、今度こそ早く行けと手を振って追い払い、文も僅かにおどけながら彼に促された通りに山門をくぐって境内へ立ち入った。
文は指示されたとおり、道程で崩れた服装を整え直し、大会議室へと向かう。
会議室へ着いてみれば、巨大な板間の中央には既に飯綱の姿があった。
直接天魔の元へ赴かずここでワンクッション置くのは、お目見えする際の事前説明のため。有り体に言ってしまえば、粗相の無いようにするための念押し。加えて何ゆえの召喚であるのかもここで語られる。
百人規模の法会すら可能な広間に、今は文と飯綱の二人きり。面積的にはとても贅沢だが、こうして面を向かい合わせるなら西塔での居城の四畳半でも事足りる。
「此度の召喚は天魔様直々のご指示だ」
曰く、これから行われる評定(ひょうじょう)にて、直接文の意見を聞きたいとの旨。
飯綱は何も前置きせずに話を始めたが、彼が長を勤める宗務庁、そしてその下に設置され文も所属する書陵課でも、この流れをは常からのごく自然なもの。
ともあれ、天魔直々の指図と聞いても文は驚かない。属吏ではあっても、この大地で最も古い天狗の一人である文には、こうして意見を求められる事もこれまで幾度かあった。
ではその議題とは何か、文からは問わない。これも漏れなく語られるのは承知している。
「お前、人間の間で流行っている都市伝説とやらについて対応していたそうだな?」
「はっ」
彼には断りこそ入れていなかったが、何かの掟に触れてはいなかったはず。それを侵すほど阿呆ではない。
文は自信を持って短く答え、次の問いを待つ。
「先頃、伯耆坊殿が麾下の白狼を人里へと使いに遣った」
その使いが腐れ縁の椛だったのは知る由も無いが、使者を出す先なら決まり切っている。
「駐屯吏へ、ですか」
「ああ、最近どうもあれらの働きが盛んでな、その理由を尋ねるためだ」
妖怪の山から長く離れての派遣を強いられている彼ら。山に属する妖怪からは所払いを喰らった閑職であるとすら思われている。実際、山を所払いになったモノの内、ヒトに姿形が近いモノはそちらに身を寄せる事がままある。
そんな扱いの彼らの動きが盛んになっては、御八葉が何かを警戒しても不思議は無い。
彼らだけでは無理でも、人間と結託しつつも人間を盾にして、妖怪の山に対して何かをしでかすかも知れないのだ。しかもあちらには、権現格に匹敵する通力の持ち主である小天狗の桜坊が長として就いているのだからいよいよ。
文には、彼らが実際にそんな叛意を抱くとは考え難いが、幻想郷その物への下克上を画策した正邪が今も行方を眩ませているとなれば、そんな疑いも起こりえようと思い直す。
つまり臨時の使者派遣は当初、御八葉としての牽制だったのだろう。
そして話の流れから、それが結果として見当違いだったのも分かる。
「その理由と言うのが、オカルトであったと?」
話の諸端がそれだったのだから、当然この考えに至る。オカルトによる直接的な被害は今まで目にしていないため、それに起因する何かであろうとも。
「うむ。桜坊殿曰くとする話では、里の内に外に現れたオカルトを追って、若者などが夕刻を過ぎた後に里の外に出たり、禁足地に踏み入ったりする事案が多く発生。そのたびに『天狗攫い』を行わざるを得なくなった、との由だ」
こうなるとすんなり話が読めてくる。また飯綱達がこの理由を受け入れていると言うことは、既に裏も取った後なのだろう
「あの、それ以上桜坊様からは何か?」
桜坊には断りを入れていた。裏を取ったならこれも聞き及んでいようが、一応確認。
「良い働きをした、とは言っていたそうだ」
不機嫌な声音。独断を責められるかと思っていたため、桜坊の口添えはありがたい。
先の正邪追跡に続く独断行為になるものの、役目まで疎かにはしなかったため今の所は責める理由も飯綱には無い模様。いいからととと話せと急かす。
「私は目に付きそうなオカルトの対処を行っただけで、根絶までは意図しておりませんでしたので」
妖怪であるなら滅する事も叶おうが、オカルトは湧いて出てはつかみ所も無く散らばる物。氷を砕くことが出来ても、水は手に掬うことすら難しいのと同じく。これは先ほどはたてに説いて聞かせた、警戒網すらすり抜けてしまう揮発性の論理に近い。
「だがオカルトとやらの跋扈に合わせて、人間が危険な時間に出歩いたり、余計な場所に立ち入るのが続くのはいかん。駐屯吏が粛々と役目をこなしていると言ってもな。そこでお前の採った手立てをより多くの者に実行させてはどうかと、桜坊殿が提案されたのだ」
やりすぎれば人間に察知されるかもとの己の危惧は伝えていなかったが、桜坊も飯綱もそこまで推し量ってはくれなかったか。彼らそれぞれの考え方は大きく異なるが、いずれもここまで察しの悪い人物ではないと思っていただけに、文は歯痒い気分になる。
「だがそれをすべきか否かで、八葉の間でも意見が割れている」
「そこで御上の御前で陳述しつつ御八葉で決を採ろうというのが、此度のお呼び出しの理由でありますか」
「うむ、その通りだ」
彼はそうとだけ答えるが、駐屯吏が公に大きな動きを見せるのを厭う者や、文と同じ判断をした者も中にはいるはず。
真逆に人間を確実に囲っておくため、あるいはイニシアチブを握るため、他の妖怪などに先んじて人里の小異変に介入しようという考えもあるかも知れない。
「とは仰られても、私の如き輩が何の役に立つかのか分かりませんが――」
文が謙遜を込めて言おうとした所へ、飯綱が右の掌を突き出して制する。
「要らぬ心配をするな。これ以上はワシも問答が許されておらぬ、行くぞ」
事前説明は終わり、と言う代わりだ。
ならばこれから、評定に先んじて自分の意見を押し付け、望む結論に誘導する下準備をすることも出来るだろうに。それをせず評定に臨もうとする辺りがこの厳格な権現らしい。
「あ、はぁ」
何も言うなと言われては、文もそう答えるのが精一杯で後に続くのだった。
飯綱に連れられて訪れた先は当然、天魔との謁見の間。
先の会議室ほどの大部屋ではないが、それでも裏通りの長屋が丸々一棟は収まってしまいそうな広さ。そしてそこには既に、六人の天狗が座していた。
ここは中堂の中核、即ち妖怪の山の中心と言っても過言では無い。また集うモノ達も、文を除けば妖怪の山の枢軸たる面々。
便宜上横並びの御八葉だが、それぞれの配下を含めた建制――席次は定まっている。
信濃国(しなののくに)飯縄山(いいづなやま)を本所とする飯綱三郎は、文を導き終えると、日本第三の天狗と呼ばれるとおり第三席に収まる。
その上座には二人の大天狗が据えられているが、現在臨席するのは次席の一人。
その次席は近江(おうみ)に隣する比良山山麓の大天狗、比良山次郎坊。古くは比叡山(ひえいざん)に在しており、最澄法師の開創に伴って比良山に移ったと言われるが、十分な勢力を保って近江(琵琶湖)近辺を勝手していたのが現実。曲者らしい人物像は、高い鼻と不敵な顔にそのまま現れている。
そして飯綱に次ぐのは、見るからに福々しく豪奢な身形をした彦山豊前坊。戦国の世の末に迎えた最盛期には三千の宗徒と八百の僧坊を誇った彦山を治めていただけあり、見た目からは判断し切れぬ実力者。文には彼の笑顔がどこまでも黒く見えている。
次いで大天狗らしからぬ、いかにも中間管理職然とした天狗は、白峯相模坊(しらみねさがみぼう)。相模坊との名を持つが、外の世界での本所は相模(神奈川県)でなく讃岐(香川県)の白峯山にあった。
かの鎮西八郎為朝が親子共々敗れた保元(ほうげん)の乱の後、讃岐国(さぬきのくに)に遠流(おんる)となった崇徳院(すとくいん)が日本一の怨霊とも大魔縁(魔縁、即ち天狗と呼んだのはあくまで比喩だろうが)とも言われる荒ぶる御霊となったのを鎮めるため、坂東から勧請されたためだ。
一人置いて、こちらも少々くたびれた風で――人間ではないが――人の良さそうな初老の見た目をした男、大山(だいせん)伯耆坊。伯耆の名を持つこちらは、相模坊の勧請により生じた坂東の修験の空白を埋めるため、伯耆国(鳥取県)大山(だいせん)から相模国大山(おおやま)に本所を移した大天狗。天狗の世界にも古くからこういう人事があるのだ。
戻って六席に当たるのが、日光山(にっこうさん)東光坊(とうこうぼう)。かつて下野(しもつけ)に訪れた隼人(はやと)が開いた古峯ヶ原(こぶがはら)の社を本拠地としていた天狗。
大天狗としては大変珍しく、大きな帽子(もうす)の下には少年然とした姿があり、行儀良くちょこんと座る姿は幼くすら見える。(少年趣味、少女趣味揃いの天狗社会に居るのを、見ている方が不安になるぐらいだ)
そして末席に座するのは、実直な修験者らしい面持ちの羽黒山(はぐろさん)三光坊。こちらは典型的な山伏天狗といった居住まいに、堂々たる体軀。飯綱にも負けぬ厳つい面構えで前方を直視している。かつて陸奥(みちのく)にて出羽三山(でわさんざん)を治めていた程の信仰はともかく、それが遠国であったためか、妖怪の山でもこうして末席に甘んじている。
そして、これら七人の首席となるのが――
「各々方、誠に申し訳ありませぬ。天魔様の取り次ぎ役が用件にて不在となりまして、急きょ代役を都合しておりましたゆえ」
礼拝(らいはい)しながら優しい声音でそう伝え、しゃなりという擬音が聞こえてきそうなほど優雅に歩む、鞍馬僧正坊。
正装として被いた帽子や普段の立ち居振舞、何より帽子の下に――尼剃りですらなく――長く伸ばした黒髪といい、そこらの女天狗よりも女性的に見える。元が密教から始まった天狗の集団――男性社会である妖怪の山において、女性が最高役職に就くなどあり得ないため、誰が言わずとも男なのは間違いのだろうが。
これで妖怪の山の名代、御八葉が揃った。
改めて見回すとそうそうたる顔ぶれ。伝統的に八大天狗と呼ばれる者だけで席が六つ埋まっている。
日本には八大天狗を始め、それを含めた四十八天狗と呼ばれる著名な天狗が在るが、その全てが幻想郷に訪れている訳では無く、集った大天狗、権現格の天狗にも一貫性は無い。
また大天狗になるのはおよそ尸解の者であるが、密法の秘術で鴉天狗に変じた文のように、生きて大天狗となった例も多くあり、御八葉にもそれらが入り混じっている。大天狗等のみならず、その配下の顔ぶれも事情も様々だ。
なお仙人などの場合、生きて仙道を極めて昇仙した者に対して尸解仙を下に見る向きがあるが、天狗にそれは全く当てはまらない。尸解の末に天狗となった僧正坊が、こうして御八葉の首席に座していることがその証左。
こうして御八葉を前にした時に不思議になるのが、まだ外の世界でも一定の信仰を保っているだろうに、わざわざ幻想郷に在している事。ただこれにも理由がある。
幻想郷が、信仰の多寡などに関わらず、妖怪としての力を蓄えるのに望ましい場所として作られているのがそれ。そして幻想郷と外の世界とを繋ぐ『天狗の抜け穴』を通って往来を繰り返していたりする者も密かにあろう。
逆に、次郎坊と肩を並べ、猿田彦(さるたひこ)大神とも同一視される愛宕(あたご)太郎坊など、既に顕界から姿を消して幽――形而上の存在となったため、訪れるのすら不可能な者もいたりする。
実を言えば、大半の天狗はある時にこぞって幻想郷に移住を始めた。本邦の大転換点である御一新(語義である明治維新と、以降の政策に伴って起こった廃仏毀釈)が天狗の社会に与えた影響は極めて大で、これを堺に一斉に本拠地を幻想郷に移したのだ。これは八大天狗以外の権現格ですら例外ではない。
一応外の世界にも、自前の信仰だけで十分と考えている者がまだまだ多く残っているが。
そんな事情の上に立つ天狗達の長、今も特段に讃えられるモノ達を前にしても、文の顔色に――飯綱を前にした以上の――変化は無い。己が彼らと同等であるとの思考とは全く逆で、直属上司の飯綱以外とは縁もゆかりも無い者と達観しているためだ。
「ご苦労であったな、一貫坊(いっかんぼう)。今日は忌憚無い意見を聞かせておくれ」
僧正坊は己の席まで歩むと、そこに座す前に、微笑みを文に向けながら労う。
一貫坊とは、鴉天狗になったばかりの文がその身軽きこと一貫ほどとの理由から与えられた僧坊の名であり、しばらく文自身の名乗りとしていたもの。今は彼以外そう呼ぶ者は居ない名でもある。
「はっ、有り難きお言葉、誠に恐縮であります」
文は礼拝でなく両拳を突いて頭を下げる。細分化した各宗派と、宗派に伴う作法やしきたりが入り混じった妖怪の山で、それを単純化するために導入された武士の挙措様式だ。
「まあ力を抜きなさい。それに今日は先の通り申し継ぎの代役を立てておるのだが、お目見えがお前ということもあって、特に特別な者を迎えておる」
取り次ぎ役――申し継ぎは、御簾の向こうの天魔からの言葉を下し、あるいは個々の言葉を奏上するための役目。位に依らず定められたもので代役を立てるのが異例と言えるが、それに相応しくかつ特別な者とは誰であろうかと、文は面(おもて)を上げながら心中で首を傾げる。
僧正坊の笑みに悪意は無い。元より御八葉の中でも、否、妖怪の山で最も文を高く評価する彼の事だ、その辺りの心配はあるまい。
その申し継ぎが、奥の袖から現れる。文字通りの意味の緑髪の揺れに、さすがの文の心も揺れる。
(なるほど、これはサプライズね)
現れたのは、妖怪の山で信仰を争う、言わば商売敵のはずの人物。
「皆様、御上の御出座しでございます!」
朗らかな声でそう宣言したのは、守矢神社の巫女、東風谷早苗だった。
∴
「いやー、神奈子様のお使いでちょっと来ただけだったのに、突然あの天狗さんに「天魔様の取り次ぎ役を」なんて言われたから驚いちゃいましたよ」
早苗にかかれば、日本一の大天狗、魔王大僧正こと僧正坊ですら、文達鴉天狗と一括りの『天狗さん』なのだろう。己はいいが、さすがに大天狗のお歴々の前でそれはやめて欲しいものだと心の中で祈りつつ、文は相槌を打つ。
「よくそんな役をひょいひょい受けましたね。むしろそれに一番驚きましたよ、私が」
いつものように砕けた調子で話し合う文と早苗。天魔の前での会議は、開始からものの十分もしないうちに終わり、決は下されていた。
ころころと笑う早苗に、文の心もようやくほぐされる。
「でも会議が始まったら、私が誘われた理由も分かりました」
時間こそ短かったが、込められた思惑は決して希薄なものでは無かった。
先に結論。
オカルトへの対応については別示するまで全面的に控えるようにとの決に至り、それは近々妖怪の山全体へ、加えて駐屯吏にも通知される運びとなった。
「人間の里でのお話ですからね。天狗の独善で話を進めるより、人間が場に居た方が議論も慎重になるだろうというのもあったんでしょう。僧正坊様」
「そういう風に言われると、やっぱり文さんって天狗なんだなって思えますね」
幻想郷に訪れたばかりで飛行すら不慣れだった頃、よく一緒に飛んだのは誰だったのか。そう、早苗の前では常に天狗としての姿を誇っていたつもりだったが、そんな風に言われては苦笑するほか無い。
「ええ、天狗ですよ。だから人里を護ってるんじゃないですか」
早苗は保護される側からは遠い、むしろ「妖怪退治が楽しい」などと言い放つ側の人間だが、やはり先の会議の場での彼女の存在は大きかった。
まず文がこれまで出現したオカルトの概要を説明し、それへの対応を語り終えた所からが会議の始まりだった――
まず口を開いたのは僧正坊。進行役は彼だ。
「さても、オカルトの危険性は低いと伺っておりますが、一貫坊、貴女が積極的な介入を半ばで止めたのも、そう悟ったからでしょうか?」
答えは半分否。今は誤解無く対応をやめた意図を伝えようと、理由も添える。
それを聞いて手を上げたのは東光坊。
彼は見た目通りの無邪気さで「人間がそんな簡単に気付くものか。もし気付かれるような者がいたなら、それはそいつがトロすぎるだけだ」と、人間の無能を揶揄するかのように言い放った。
人間である早苗の前でのこの発言に、場はいっとき凍り付く。
彼女自身を恐れているのでは無い。布教のため人里にも足繁く通う彼女を怒らせて、この場での話をバラされるのを恐れたのだ。そうなればこの会議自体無意味になるし、東光坊のみならず彼ら全員が天魔の不興を買うことにもなろう。
早苗自身はそのきらいもあるかと眉を寄せるだけだったが、東光坊の発言をフォローするように伯耆坊は「人間もそこまで愚かとは思えぬ。それに人間の中にも過激派が居ることを承知しておいた方がよい」と言う。
これに次郎坊が「ならば伯耆坊殿は、オカルト排除は人間に任せた方がよいと仰るのか?」と問うと、伯耆坊はやや遠慮がちに「いや、あくまでも人間を侮った考えはまずいと申しただけ。細心の注意を払う前提で介入は行うべきであると考える」と答えた。
それぞれに、人間に対する考え方はまちまち。ただいずれも信仰を己らに寄せさせようとする考えだけは共通している。故に――発言の機会が無いとは言っても――早苗の臨席は彼らの思考にしっかりと楔を打ち込んでいた。あくまでも、人間を軽く見てはならない事だけは忘れないようにと。
僧正坊の意図がそれだとすると、彼の考えは人里への不介入が前提か。
彼は、それら二言三言のやりとりを聞いてから、何かに納得したように文に問いかける。
「さて一貫坊。先ほど言った通り忌憚の無い意見を聞きたい。お前は目に見える限りのオカルトを排除したと言っておったが、未だ里の内にて相当に目立つオカルトが現れると、駐屯地及び我が手下からの報告が上がっておるのだ」
彼がどちらへ結論を持っていきたいのか分からなくなった。
半端な対応を責めているのか、または見識の浅さをなじっているのか。いや、彼以外が言うならそのきらいもあったろうが、彼に限ってそんな意図は持つまい。文自身は、そうされないのが不思議でたまらないが。
文がゆっくりと頭を下げつつ思惟を巡らす時間を稼ぐ間に、飯綱が答える。
「恐れながら、鞍馬殿。此奴の動き、拙者の監督不行き届きも含め、本来は一から十まで擁護の余地がありませぬ。いや、書陵課での役目に関して不備があったらば、拙者と我が一党が全面的に責を負いましょう。とまれ此度の件、これまでの対応を参考にするのまでは分かりますが、新たな対応をいずれとするか問うなどすべからざる事」
飯綱は、己が責を負うと追わざるに確固な線を引き、また文に求めるべきものにも同様に線を引いた。四角四面な彼に、僧正坊はまた温和な声音で答える。
「部下に対する飯綱殿のけん責も然りと存じますが、ここは縛りを設けず話を聞くのがよろしいでしょう。よい一貫坊、このオカルトについてなのだが、心当たりと、そもそもの要件として対応の如何、どうか?」
「慢心があったようであります。私の、見逃しでありましょう」
事実として、知らぬ、存ぜぬ。そんなに目立つモノなら真っ先に対処していた。
しかしさっきはたてに話して聞かせたとおり、オカルトは妖怪以上に神出鬼没。新たな姿形を持って現れても不思議は無いが、自身の不備ゆえ平に平にと文は頭を下げる。
「それもよい。知らぬとのことなら、件のオカルトの特長を話そう」
飯綱を始めとする大天狗達の視線が文に突き刺さり、早苗が気遣う眼差しを向ける中で、僧正坊だけが変わらぬ微笑みを向けたまま語る。
曰く――それは夕刻、いや刻限によらず黄昏時に合わせて現れる。それも人里でも豪商が長い擁壁を建て回した往来と、また別の往来が交わる辻に。
そこへ見越し入道に似た巨大な影が現れ、こう言うのだ。「あわ、たそ」と。
ただそう問いかけるだけ。
それ以上の何者でも無い。何かの行動を起こすのでも無い。行動原理も目的も、挙動も不明。だがこの場では、一度手を付けた者として意見を述べねばならない。
「はっ。私のこれまでの対応の延長として思量し、申し上げます。現れる場所と人倫の心理に与える影響を考慮するならば、積極的な排除に当たって然るべきであろうかと――」
似たようなオカルトはそれまでにも現れていたし、どれも危険性は皆無だった。ただし目立つモノは人間に不安を起こさせるし、それが在来の妖怪の排除、争乱に波及する恐れもある。基本、文が対処してきたのも、その事態を惹起させかねないモノだった。
このオカルトがそこまで影響力のあるモノか、実際に見ていないため判断がつきかねる。そしてこれを含めた対処の可否が、今後のオカルト対処の可否にそのまま繋がろう。
「――ただ対処に当たっては、本質を見極めねば逆にこのモノの増長を招きかねません」
手元に与えられた物とは言え、対処には少なからず妖怪の山の貴重な資材を割いていた。どんな手立てを取ったのかも知らされれていよう。
「肝に銘じよう。次郎坊殿、豊前坊殿、相模坊殿、三光坊殿、意見はありませぬか?」
彼らの心は既に決まっているのか、この僧正坊の問いには否と答える。
「他、各々に申すべき事があれば、なんなりと」
これにも否。
評定とはこの程度の物か。既に定まった話であれば、文が招かれたのは単なる儀式と言える。文には早苗というイレギュラーの配置がいまいち腑に落ちないが、この時点までは。
「さすれば各々方、この対応を御山主導にて行おうと想われる方は挙手を――」
「待たれよ僧正坊殿。ただ可否を問うだけでは足りぬ。もしこれより関わると決が下ったならば、そこから先で今後の対応を決めればよろしいが、関わらぬとなったらばまたこうして集うのも無意味というもの。この場でそれを決めておきたいのだが」
僧正坊が決を求めようとするのを次郎坊が遮った。
「ふむ。確かに、後者については改めて集う必要もありませぬか」
「それと一件、失念しておった。もし後者となったらば、別途対応を準備させておりますゆえ、各々ご承知下され」
決を採る段になって何をと、文も含めた一同は、腰を浮かせるか頭を巡らせるなどする。これが下々の会議なら、なじられた挙げ句に会議その物がご破算となるだろう。この首脳会議であっても、次席となる次郎坊だからこそ叱責の声が上がらないようなもの。
僧正坊は予め知っていたかのように顔色を変えず「その対応とは?」と、問うだけ。
「駐屯吏への断りは必要と思えぬゆえ入れておらぬが、別の伝手で以てこのオカルト対処に博麗の巫女を担ぎ出す算段を進めております。人間の自主性がどうであっても、里の寄り合いの手に余るなら最終的に巫女の出番となろうかと思いましてな」
唯一の、幻想郷の管理者側の人間、博麗霊夢。その身と住まう社その物が大結界の要たる彼女。人間にとって、幻想郷の異変を解決するのはその博麗の巫女と決まっている。次郎坊の算段は、言わば幻想郷の主役にお出まし願おうという事だ。
勿論、次郎坊ほか御八葉は、彼女を主役だの英雄だのと見ていない。天性の才能に恵まれ、この大地の中で特別の加護と役目が与えられているだけの“人間”としか。
山の神社の巫女は言葉面のこれをどう思うのだろうか。文が早苗の方を見てみれば、彼女は口角を下げてへの字に口を結んでいる。大変分かり易い。
「では、改めて決を採りましょう」
僧正坊が宣言する。今度は口を挟む者も無い。
手を挙げたのは、およそ介入を明言していた東光坊と伯耆坊。そして意外にもと当然とも言える、早苗をこの場に招へいした僧正坊本人も。
他の者は微動だにしない。霊夢に対処させようとする発言が重かったのだろうか。
「おや、これはまた。では駐屯吏を始めとした人里での……活動については、従来のまま据え置きますが、オカルトに係る対応は、別示するまで控えるよう命じましょう」
僧正坊は初めて表情を変え、早苗の方に苦笑いを向ける。便宜上、しかも臨時とは言え、結論の奏上は早苗の役割。それを促したのだ。
天魔が臨席し、全てを聞いてはいても、改めて奏上する。回りくどいものである。
「畏みて御上に言上いたします。下界における外来の不可思議の取り回し、人間の中において収めさせるよう御八葉が定められました。またこれにつきまして、御山は一切分け入るらず次第を見定める旨、全山に申し下します」
奏上する本人が明らかに不機嫌そうなのは天魔の目に入らなかったのだろうか。御簾の向こうの人影は首から上を鷹揚に振ると、より大きな影の中に去って行った。
早苗の不機嫌さはもう顔から消えているが、その感情は胸の中で燻っていた様子。笑い合ったまま愚痴をこぼす。
「でも霊夢が人里で活躍するって言うのに私は何にも出来ないなんて、なんかこう、もうやもやするって言うかもどかしいって言うか、何て言うか」
早苗は盛大な溜め息を吐いて、妖怪の山というしがらみに取り込まれている事を嘆く。
霊夢の活躍としがらみに囚われている事、どちらの嘆きが深いのか文に知る術は無いが、ただ慰める代わりに諭す。
「それも妖怪の山に住んでいる者の宿命ってことですよ」
オカルトへは不介入とした『妖怪の山』の範疇には、神社ごと山に居候する彼女らも含まれていた。彼女は直接評定の場で聞いていたため、屁理屈をこねて出張る事も叶わない。
文が続けて、冗談交じりに「嫌なら御山を降ります?」と言ってみると、早苗は「そんな事するわけ無いじゃないですか」と頬を膨らませて答え、またお互いに笑い合う。
しがらみとは負の面だけの言葉では無い、こんな風に誰かとの繋がりを指す正の言葉でもある。
そうだ、妖怪の山に住んでいるなら、人間であってもそのしがらみの中にいられるじゃないか。文はふとそんな想いを浮かべ、すぐにかき消す。
現人神と言われ、妖怪の山に住まおうとも、人間は人間でしかない。幻想郷においては、保護される種でしかないのだから。
黒谷返上 第2話
「私は知りませんよ」
妖怪の山の行政を担う『西塔(さいとう)』の――その全体の規模からするとミクロレベルに――せせこましい一室。文は同じ鴉天狗の姫海棠はたてと鼻を突き合わせ、ピシャリと言った。
最低限の事務用品のみが見台と共に揃えられたこの四畳半の板間が、文書関係の業務を行う文の執務室。文書を扱うための棚も無ければ資料の類いもここには無い。そういった共有の資産はいちいち書庫から持ってこなくてはならない、極めて不便な職場環境に押し込められている。唯一の救いは、ここ一週間戻っていない住まいより清潔なことぐらい。
しかしはたてには、そんなヒラ法師ほどの待遇も無い。
緊急時の召集以外は特段の職務を負わず、妖怪の山構成員としての最低限の食い扶持のみに甘んじる専業新聞屋。そんな自由家業の彼女の用件は、当然ながら――
「そもそもなんで、私が亡霊みたいに火の霊(たま)なんて引き連れなきゃならないんですか」
取材。らしい。
ライバルの『文々。新聞』がこの通り活動縮小中なのを見て一気に部数の差を詰めようと、メインの情報源である念写のみに頼らず足で情報を稼いで回っているのだ。
その『文々。新聞』の発行者に対してすら、こうして。
(裏取りもろくにしない『花果子念報』がライバル視してくるなんて、身の程知らずって言うだけじゃ足りないと思うけど……)
ともあれその取材内容は――文は彼女から聞くまで知らなかったが――近頃妖怪の山を構成する山麓や、それのみならず門前町にまで火の霊が漂い始めたとの噂の追及だった。
なお、文がこれを知らなかったのはプライベートと業務の慌ただしさが重なったためであり、決して情報収集能力が不足しているのではない。
なるほど、これが墓場の話なら程良い怪談になろう。
だが妖怪の山には、その中核より四方一里に渡って法力防衛網と言える“界”が張り巡らされているため、亡霊の類いがその探知をかいくぐって入り込むなどまず考えられない。
地中から直接湧き出たとしてもまた同じく。もし他の妖怪が全く察知されずに入り込むなどしていれば、まず白狼哨戒団がその責を問われようが。
門前町の歓楽街にならよく出掛けるはたてが、普段滅多に寄り付かない役場街に現れて手当たり次第の取材とは考えづらい。あちらでは手がかりあらずと見切りを付けたうえでここに訪れているのだろう。と言うより、彼女が西塔で面会名目のアポ無し取材ができる相手など今は文か椛ぐらいしか居ないため、ここに来たのも目当てはあれど苦し紛れ。
こうして応じる文も暇では無く、とっとと追い出して仕事に戻りたいのが本音。
ただ邪険にするのは愚策。はたてとは対照的に足で稼ぐのがメインの文にとって、彼女の念写能力は新聞作りの上で有用にもなり得るからだ。
なのでここは適当に話をいなすのが上策かと、一応どんな理屈かを問うてみたのだった。
「いやさ、天狗の怪火と言えば天狗火。天狗火イコール松明丸(たいまつまる)って名前みたいだし、でもって『丸』の字が付く天狗なんて文ぐらいしか知らないしさ。もしかしたら知り合いでもいるのかなって」
火の霊の知り合いというのがいよいよ意味不明だが、天狗火は当然知っている。
江戸時代の人間の画家鳥山石燕(とりやませきえん)が、妖怪観察記『百器徒然袋(ひゃっきつれづれぶくろ)』に記す、
――「松明の名はあれども、深山幽谷の杉の木(こ)ずゑをすみかとなせる天狗つぶての石より出る光にやと、夢心におもひぬ」――と。
そこに描かれているのは一応鴉天狗のような何かではあるが、名前と絡めてもこじつけにすらならない。それに天狗火とはここにある通り火の玉ではなく、天狗礫(ファフロツキーズ)の地面などへの衝突が発する光を言うのに。
斯く考える文も、弾幕ごっこにそれを採り入れているから知っていたのだった。
ただそういった辺りも踏まえて訂正するのが面倒で、適当に言いくるめようと試みる。
「そんな知り合い居ませんよ。そもそも私がどこ出身の天狗か知ってて言ってるの?」
「信州でしょ?」
「それは生まれ故郷」
文の、天狗としての出身地はそちらとは異なる。
「うそうそ知ってる、秋葉山(あきはさん)。で、それが何?」
「……秋葉権現の御利益は?」
「火防に病魔退散、それと生業繁栄ね。らしいよね、俗っぽい御利益ばかり」
いずれもが現世においてもたらされる利益であり、彼岸より向こうで極楽浄土に至るだの、大悟による救済などといった、浮世離れしたものではない。即ち俗である、という言い方は誤解を招きかねないものの、秋葉大権現を知るゆえにはたてはそう言うのだろう。
「分かってるじゃない。まがりなりにも火防の信仰を戴く山で転変した私が、なんで火の玉なんて引き連れなきゃならないの。って言ってるの」
「えー、だって秋葉大権現の験力(げんりき)って真言読んだら分かるけど、元々は風繰りじゃなくて火繰りじゃん。火山の富士山が御神体になった木花咲耶姫(このはなさくやひめ)なんかと同じでさ、火を上手く操るって意味で」
とっとと話を終わらせようと婉曲ながらそれらしい事を言ったのに、彼女が文の想像以上に物を知っていたため裏目に出た。天狗火については全く誤解しているくせに。
文は腹の中で舌打ちしながら「やはり出所など知らない」と、やむなく単刀直入に否定。
ただし独自の考察を添えてみる。
「御山の“界”をくぐって現れたとなると、あと考えられるのは都市伝説(オカルト)ね。けど自分で言っておいてなんだけれど、オカルトなんて人里で流行ってるだけだと思ってたから御山だとどこまで影響が出るか……」
「オカルト?」
「ええ。先の異変はさておき、あれなら“界”を抜けて現れても不思議はありませんし」
もしそうなら新たな対策が必要だと、文は感情を隠さず頭を振る。事実、この大地で最も強大な結界群を抜け、
「ぶっちゃけると西塔に勤務してる文なら別の結論にいくと思ってたんだけどそうか、オカルト、オカルトねぇ……それにしても対策って何すんの?」
期せずしてはたての興味がそちらに移ったと見るや、文はすぐさま会話終了への道筋を描き、彼女をそちらへ誘導する。
「例えばですが、そうですね、ひだる神やジキトリへの対処を例にしましょう」
文が挙げたのはオカルトではなく憑き物として認識されるモノ達。いずれも、旅人や長時間労働する人々に襲いかかる妖である。
「この名前負けした、神様どころか妖怪としても希薄な妖の仕業などは、外の世界では身体の急性的飢餓、特に糖分不足を原因として起こるハンガーノックとして対処が為されます。私がこれまで試みたオカルトカウンターはこれの応用ですよ」
しかしながら、それで全ての都市伝説に対処できれば苦労は無い。
オカルトへの対処ではないが、狢の親玉絡みのプロパガンダでは文も骨を折った。化け狸絡みでこれに似た手法を用いた際には『出所の分からない悪評』なる新たな対抗手段を取られるなどされ、一筋縄ではいかなかったのだ。
この余談の通り厄介なのは、狢の親玉と言わず、知性を持つ主体なり協力者が存在する場合。逆に言えば、それさえ無ければ鴉天狗としての働きだけで対処は充分。
――もしオカルトを保護しようなどと考えるモノが居たなら、付喪神で百鬼夜行を形作ろうとする件の狢の親玉よりずっと酔狂に思える――
これらは反ミーム(遺伝的特性を持つ言語や文化的な認識情報、の対抗的な物)を一様に広げようという手法。妖怪の山でも広報活動を主な業務とする鴉天狗が得意とするもの。
先ほどから文が述べているのはオカルトの原理を別の理論に仮託する反ミームだったが、あえてオカルトの存在を認めて対抗手段を上乗せするという反ミームも有効である。
そもそもオカルトとは、主体を除けば殆どがミームで構成されている。反ミームはこれを干上がらせオカルトを打ち消す物であり、今の場合は端的に反オカルトとも換言できる。
オカルトの主体は、ひだる神などと同様そこらを漂う心霊に近く、本来はおよそ複雑な思考や知性を持たず、反射や本能的な挙動を超えた自発的な活動も少ない。そのため文の手法で充分間に合うのだ。
それに、付喪神が妖怪化しないまま魔力を尽きさせればただの器物に戻るのと同様、オカルトも妖怪化しなければ蒸発する。翻って、都市伝説の拡散の早さは揮発性の高さに比例している。(各種結界を抜ける可能性が高いのも、この揮発性の高さが原因と見える)
言ってしまえば、主体の存在を保証する“背骨”が無い限り放っておいても消えるのだ。
「鴉天狗総出でそんなことしてたの? 私には何のお声もかからなかったんだけど」
自分はなんの職にも就いていないから呼ばれなかったのだろう。どうせいつも通りだと、はたては問いを自己解決する。
「いえ、それをやってたのは私一人」
「は? なんで」
そんな厄介を、一人で、忙しいと言いながら労力を割いて、しかもこの前の件で新聞作りすら自重している状態でと、はたては問いに至る疑問をいくつも浮かべるが、
「人間の里で騒動が起こると犯人捜しとかあって面倒じゃない。だから大ごとになる前にこまごまと潰して回ってたの」
文の答えはそれら全てを押してでもという動機。
はたてが妖怪の山での怪火に目を向けたのと同様、人間も異常を見つければその原因を探そうとする。畜生とて、星の運行に不安を覚えたり感動したりもするのだから智恵を持つ者なら当然だ。モノによっては命に関わる恐れもあるのだから尚のこと。
人里での件も今は小康状態。こまめに動いた甲斐もあって目に付くオカルトはあらかた潰し負えたのだと、文は鴉天狗ながら鼻を高くする。ここで鼻高々とするのは良いが、まだいくつものオカルトが蠢いている事実には目を瞑っている。
それらを踏まえても余りにも浅い動機だと、はたては言う。
「何が楽しくて下界でそんな面倒引き受けてんだか。文ってさ、人間好きだよねー」
大きな面倒を起こさせないために小さな面倒を負っているつもりだった。しかし彼女に言われた問いの答えがいずれか考えてみると、案外すんなりと答えは出てくる。
山の神社が幻想郷に越して来た直後、その巫女の東風谷早苗や、そちらからの喧嘩を買った博麗の巫女による襲撃に真っ先に当たったのも、里に近い天狗として白羽の矢が立ったゆえだった。
上番中の駐屯吏を例外とするなら、自他共に近しいと認識されるほどには――
「そうね。好きか嫌いかで言われれば、好きよ」
雑談に近い応答になったのを機と見てひとしきり語り尽くしたかと判断し、「これでお開きでいいだろう」と、はたてを帰させるのではなく自分から席を立とうとする文。
廊下に出ようとした文の鼻にいささか不快な、西塔で嗅ぐことなどまず無いはずの特徴的な匂いが襲いかかる。
「ちょっとどうしたのよ」
ゆっくりと、しかし慌てた様子で室内に逃げ戻った文を、はたては訝しげな視線で追う。
彼女の鼻にも匂ってるはずだが臭くないのか。いや当然だ、つい先ほどまで歓楽街に居たなら、これに麻痺していても不思議は無い。
「どっかの大権現よりもたちが悪いのがいるの、今更でしょ」
匂いの元が徐々に近付くと、はたてもようやくそれを認識して顔をしかめる。
「なーる、あのオッサ……」
そこまで言い掛けたはたての口を、鼻ごとふさぐ。
「しっ。そう、玄庵――」
「げ・ん・あ・ん・さーま、と呼んで欲しいな。姫海棠嬢などは久々だし特に」
着崩した法衣の腰に狢のような徳利を提げた天狗が、体内を経た酒精の臭気を吐き出しつつ柱に手を付いて出口を塞ぐ。
痩身に見えるが、法衣の上からではその体軀も明らかではない。ただ整え損ねた不精髭の目立つ顔は、酒精の入った顔色も相まって不健康極まりなく見える。
これが妖怪の山で鞍馬(くらま)衆に次ぐ勢力を比良山(ひらさん)衆と競う英彦山(ひこさん)衆の――彦山豊前坊(ひこさんぶぜんぼう)を首とする――次席にして、実質的に英彦山衆を率いる小天狗だというのだから驚きである。
その実力の程は文もはたても見たことは無いが、いかに優れた験力の持ち主だとしても、心情的にそんな大人物と認められるか怪しい。
酒は元より、女天狗(めてんぐ)と見れば文やはたてに限らず声を掛け、それでは足りず女性(にょしょう)の多い白狼哨戒団屯所にまで近寄ろうとするのだ。俗とかそういうレベルですらない普段から総身丸ごと破戒僧という惨たんたる挙措は、西塔や東塔(とうとう)の多くの者に知られるほど。
「これは、げ・ん・あ・ん・さまぁ~。実は私、ちょっと文の取材で来たんですぅ~。ついでにお金にも困ってて~、お小遣いとかくれたらうれしいなぁ~」
サブイボが立つような猫撫で声でたかるはたてを、文は引きつった貌で横目に見る。厠だ何だと理由はどうでもいいから、はたてを人身御供に差し出してとっととこの場から立ち去りたかった。(と言うかその人柱自体がこの通り、ケレンは承知でも極めて気色悪い)
「やめなさい姫海棠さん、はしたない。西塔での破廉恥な真似はご法度ですよ。玄庵様こそ、範を示すべきお方がそのような有様では、豊前坊様もお嘆きになりましょうに」
「普段から破廉恥が板に付いた文がなに言うかなぁ。ねー、玄庵さまー」
「うむうむ、そうだのおそうだのお」
下界に降りた時の振る舞いまで釈明する気は無いが、少なくとも今のこの場に集う――寒空でもミニスカートのギャル天狗や、役所内で酔っ払う生臭天狗などの――酷い面子と比べてみれば、法衣を小奇麗に着込んで職務に精励する文は模範的な姿に見えように。
そんな破廉恥どもに破廉恥と言われては、何を言う気を失せる。
「いいですよ。私は席を外しますので、お互い気の済むまで!」
事が済んだら掃除だけはするように言いつけ、玄庵の横をすり抜けようとする文。はたての事だ、揶揄したようなコトにまでは及ぶまいと一切を憂うことなく置き去りにかかる。
そこへ玄庵は、わざわざ腕を下げてまで行く手を塞ぐ。
文ももう苛立ちを隠さない。
「厠へ行きたいのですが」
「見目通りしとやかに言い換えてみてはどうだ。それはよい、また言付けだ」
酷く酒を入れているのも、また下っ端の仕事を仰せ付かって腹を立てているためか。
文はいい迷惑だと思いつつも、畏まって彼に向き直る。
「して、此度はどなたのお呼び出しでありましょう?」
「中堂(ちゅうどう)へ。御八葉のお呼びだ」
「御八葉の、どなたの?」
鬼が去った後、天魔をして長と戴く妖怪の山において、実務上の意思決定機関となるのが御八葉。普段から豊前坊に使い走りさせられては酒をかっ喰らうのが常の玄庵如き、彼らに掛かってはいよいよい小間使いも同然だろう。
ただ文の直属上司の飯綱(いづな)三郎などが玄庵を遣わすとは考えにくい。飯綱の場合は誰かを使いに遣るより――厄介にも――まず自分が前に出てくるタイプ。
ならばいつも通り豊前坊か、はたまた玄庵が毛嫌いする鞍馬僧正坊(そうじょうぼう)か。
「御八葉は『御八葉』だ」
それ以上は察しろと、慇懃無礼にうやうやしく道を開ける玄庵。
彼を睨みながら、文は歩み出す。
「おや、そっちの厠は遠いぞ?」
背中からあからさまな嫌味を投げかける彼には一切答えず、文は『御八葉』が待つ中堂の方へ向かうのだった。
∴
玄庵の言付け。彼が「御八葉が――」と言ったのは、特定の誰かではなく組織としての呼び出しという意味。
これまでに無かった話ではない。しかし珍しくはある。
正邪絡みの裁定は全て下されているし、追訴も無いと評定所からの言質も取っている。文もそれ以上裁かれる材料に覚えは無いし、何かをでっち上げられる恐れも――地位を鑑みれば――無い。役所勤めとは言え下っ端の権官など失脚のしようもなく、単に職を失ったら新聞作りに専念して今以上の食い扶持を確保する自信だってある。
そう、こういう事も希にあるし、偉くなればなっただけある種の政治的な策動に物に巻き込まれる面倒も生じるので、出世しようなどとは考えたくもない。
なのでもし万が一今の職を失ってもデメリットは安定した禄と身分を失う事、そして西塔への出入りが気軽に出来なくなる程度だろう。
(まあ遠くはなるけど東塔からでも行けるし、急ぎの時は椛をダシにしてもいいか)
祭礼や祈禱などの儀式一般を司る東塔へは、基本的に天狗(河童を水天狗とするような、広義の天狗称はさすがに除かれる)であれば自由な出入りが許されている。聖域であるため、それなりの距離があるのに飛び回るのはご法度とされているのがやや煩わしいだけか。
その東塔との間、ちょうど中間に、今の文の目的地である中堂はそびえている。東西の役場群の中間に位置するのと同時に、妖怪の山の中枢であるためにそう呼ばれるのだ。
鬼が去り、密教や仏教諸宗派に帰依していた天狗が集って作られた、妖怪としての存在を確固たる物とするための信仰の山。そこでも最も絢爛かつ荘厳な佇まいを誇る伽藍(がらん)。
優に二間(約三メートル半)は拓かれた圧雪された山道を十町は歩んだのち、やや凍り付いた九十九折りの石段を徒歩で数百段も上った先に、それは常と変わらずそびえていた。
大伽藍の山門を十間先に見上げてから、ふと振り向いて崖側を見下ろす。
寿命も近いシラカンバが、森林限界も超えたはずのここで雪に負けない白さを誇ってまばらに列を成す。他は低木やシダの類いが茂っている程度なので大変見通しが良い。ただし下界までは一つ山を越えるため、谷の先にはまた、雪に覆われた山肌が広がっている。
常からの寂しげな光景は、垂れこめた雪雲や色の無い峻険と共に険しさを増している。
「おーい射命丸、何をぼさっとしている。御八葉の召喚ではないのか」
武装した門衛が文の背に呼びかける。山門の両側に二人、阿吽の護法善神のように佇んでいた。とはいえ彼らはただの当番であって、本物の天部などではない。
文に呼びかけたのは向かって右側の、薙刀と胴丸で武装した天狗だった。逆側の火仗(かじょう)を立てて腕を突き出した天狗は、口をキッチリ吽の字にしている。当番のくせに芸が細かい。
「いえ、突然のお呼び出し、しかも久々の御上(おかみ)の御前とあって、少しばかり緊張していまいまして」
こうしてリラックスするために景色を眺めていたなどと言い訳してみれば、「お前が緊張するのは飯綱様だけだろう」などと返される始末。
「あやや。仰る通り、飯綱様に会うのが憂鬱なのよ」
滅多に会わないうえ基本御簾(みす)越しで直接口も利かない天魔より、口喧しい直属上司の方がよほど恐ろしいというもの。
今言ったことは彼に黙っておいて欲しいと、門衛二人に宗教的儀礼とは関係ない合掌をしつつ、頭を下げて頼み込む。
すると吽形の門衛が反応を示す。火仗と腕を体側に寄せ、視線は文の後方に向いているが。
「憂鬱でもなんでもいい、とっとと入らんか」
後方からの重々しい声、極めて憂鬱である。
文が体勢はそのままに、首だけを後方に巡らせると、そこには明王も青くなるであろう憤怒相を浮かべる飯綱三郎の姿があった。
すわ問注所へ逃げ込もうかと覚悟する程の形相。それはすぐに収まる。
「服装を整えたら西の大会議室へ入って待て。ああ、支度は下の二間間で、それぞれ場所は分かるな? それとだ、またお前を裁こうと言うのではないから安心しろ」
事細かな指示に、珍しく優しい声だと文は安堵する。
規律第一のお堅い人物だが、公私混同にも厳しいのが下々にとってはある意味救いだ。同時に御八葉としての彼の態度からは、自身を頼みにするか、これからしかと命ぜられよう何かが裏にあるのが察せられた。
「なあ射命丸よ」
早く入れと行った彼が、山門を跨ごうとした文を呼び止める。
「はっ、なんでありましょう」
「このやまなみ、美しいと思うか?」
先ほどはただ寂しいとしか思わなかった。雪が溶けた後は、春も夏も代わり映えのしない風景。唯一、紅葉の運ぶ風が美しいと言えるか。
いや――
「はい、とても美しいと思います」
素直な、心からの答え。
光溢れる望月より新月の夜空の星々を、柔らかな薄紅の桜花より岩清水を浴びる苔の森を、遠くに近くに見ては愛おしく感じてきたのを思い出す。銀嶺の鋭い煌めきもそうだ。
天狗としての始めの頃、多くの人妖の側に寄り添いながら心に留めて来た風景も、この神々と妖怪の箱庭に収まっていた。
「うむ」
彼は満足げに頷くと、今度こそ早く行けと手を振って追い払い、文も僅かにおどけながら彼に促された通りに山門をくぐって境内へ立ち入った。
文は指示されたとおり、道程で崩れた服装を整え直し、大会議室へと向かう。
会議室へ着いてみれば、巨大な板間の中央には既に飯綱の姿があった。
直接天魔の元へ赴かずここでワンクッション置くのは、お目見えする際の事前説明のため。有り体に言ってしまえば、粗相の無いようにするための念押し。加えて何ゆえの召喚であるのかもここで語られる。
百人規模の法会すら可能な広間に、今は文と飯綱の二人きり。面積的にはとても贅沢だが、こうして面を向かい合わせるなら西塔での居城の四畳半でも事足りる。
「此度の召喚は天魔様直々のご指示だ」
曰く、これから行われる評定(ひょうじょう)にて、直接文の意見を聞きたいとの旨。
飯綱は何も前置きせずに話を始めたが、彼が長を勤める宗務庁、そしてその下に設置され文も所属する書陵課でも、この流れをは常からのごく自然なもの。
ともあれ、天魔直々の指図と聞いても文は驚かない。属吏ではあっても、この大地で最も古い天狗の一人である文には、こうして意見を求められる事もこれまで幾度かあった。
ではその議題とは何か、文からは問わない。これも漏れなく語られるのは承知している。
「お前、人間の間で流行っている都市伝説とやらについて対応していたそうだな?」
「はっ」
彼には断りこそ入れていなかったが、何かの掟に触れてはいなかったはず。それを侵すほど阿呆ではない。
文は自信を持って短く答え、次の問いを待つ。
「先頃、伯耆坊殿が麾下の白狼を人里へと使いに遣った」
その使いが腐れ縁の椛だったのは知る由も無いが、使者を出す先なら決まり切っている。
「駐屯吏へ、ですか」
「ああ、最近どうもあれらの働きが盛んでな、その理由を尋ねるためだ」
妖怪の山から長く離れての派遣を強いられている彼ら。山に属する妖怪からは所払いを喰らった閑職であるとすら思われている。実際、山を所払いになったモノの内、ヒトに姿形が近いモノはそちらに身を寄せる事がままある。
そんな扱いの彼らの動きが盛んになっては、御八葉が何かを警戒しても不思議は無い。
彼らだけでは無理でも、人間と結託しつつも人間を盾にして、妖怪の山に対して何かをしでかすかも知れないのだ。しかもあちらには、権現格に匹敵する通力の持ち主である小天狗の桜坊が長として就いているのだからいよいよ。
文には、彼らが実際にそんな叛意を抱くとは考え難いが、幻想郷その物への下克上を画策した正邪が今も行方を眩ませているとなれば、そんな疑いも起こりえようと思い直す。
つまり臨時の使者派遣は当初、御八葉としての牽制だったのだろう。
そして話の流れから、それが結果として見当違いだったのも分かる。
「その理由と言うのが、オカルトであったと?」
話の諸端がそれだったのだから、当然この考えに至る。オカルトによる直接的な被害は今まで目にしていないため、それに起因する何かであろうとも。
「うむ。桜坊殿曰くとする話では、里の内に外に現れたオカルトを追って、若者などが夕刻を過ぎた後に里の外に出たり、禁足地に踏み入ったりする事案が多く発生。そのたびに『天狗攫い』を行わざるを得なくなった、との由だ」
こうなるとすんなり話が読めてくる。また飯綱達がこの理由を受け入れていると言うことは、既に裏も取った後なのだろう
「あの、それ以上桜坊様からは何か?」
桜坊には断りを入れていた。裏を取ったならこれも聞き及んでいようが、一応確認。
「良い働きをした、とは言っていたそうだ」
不機嫌な声音。独断を責められるかと思っていたため、桜坊の口添えはありがたい。
先の正邪追跡に続く独断行為になるものの、役目まで疎かにはしなかったため今の所は責める理由も飯綱には無い模様。いいからととと話せと急かす。
「私は目に付きそうなオカルトの対処を行っただけで、根絶までは意図しておりませんでしたので」
妖怪であるなら滅する事も叶おうが、オカルトは湧いて出てはつかみ所も無く散らばる物。氷を砕くことが出来ても、水は手に掬うことすら難しいのと同じく。これは先ほどはたてに説いて聞かせた、警戒網すらすり抜けてしまう揮発性の論理に近い。
「だがオカルトとやらの跋扈に合わせて、人間が危険な時間に出歩いたり、余計な場所に立ち入るのが続くのはいかん。駐屯吏が粛々と役目をこなしていると言ってもな。そこでお前の採った手立てをより多くの者に実行させてはどうかと、桜坊殿が提案されたのだ」
やりすぎれば人間に察知されるかもとの己の危惧は伝えていなかったが、桜坊も飯綱もそこまで推し量ってはくれなかったか。彼らそれぞれの考え方は大きく異なるが、いずれもここまで察しの悪い人物ではないと思っていただけに、文は歯痒い気分になる。
「だがそれをすべきか否かで、八葉の間でも意見が割れている」
「そこで御上の御前で陳述しつつ御八葉で決を採ろうというのが、此度のお呼び出しの理由でありますか」
「うむ、その通りだ」
彼はそうとだけ答えるが、駐屯吏が公に大きな動きを見せるのを厭う者や、文と同じ判断をした者も中にはいるはず。
真逆に人間を確実に囲っておくため、あるいはイニシアチブを握るため、他の妖怪などに先んじて人里の小異変に介入しようという考えもあるかも知れない。
「とは仰られても、私の如き輩が何の役に立つかのか分かりませんが――」
文が謙遜を込めて言おうとした所へ、飯綱が右の掌を突き出して制する。
「要らぬ心配をするな。これ以上はワシも問答が許されておらぬ、行くぞ」
事前説明は終わり、と言う代わりだ。
ならばこれから、評定に先んじて自分の意見を押し付け、望む結論に誘導する下準備をすることも出来るだろうに。それをせず評定に臨もうとする辺りがこの厳格な権現らしい。
「あ、はぁ」
何も言うなと言われては、文もそう答えるのが精一杯で後に続くのだった。
飯綱に連れられて訪れた先は当然、天魔との謁見の間。
先の会議室ほどの大部屋ではないが、それでも裏通りの長屋が丸々一棟は収まってしまいそうな広さ。そしてそこには既に、六人の天狗が座していた。
ここは中堂の中核、即ち妖怪の山の中心と言っても過言では無い。また集うモノ達も、文を除けば妖怪の山の枢軸たる面々。
便宜上横並びの御八葉だが、それぞれの配下を含めた建制――席次は定まっている。
信濃国(しなののくに)飯縄山(いいづなやま)を本所とする飯綱三郎は、文を導き終えると、日本第三の天狗と呼ばれるとおり第三席に収まる。
その上座には二人の大天狗が据えられているが、現在臨席するのは次席の一人。
その次席は近江(おうみ)に隣する比良山山麓の大天狗、比良山次郎坊。古くは比叡山(ひえいざん)に在しており、最澄法師の開創に伴って比良山に移ったと言われるが、十分な勢力を保って近江(琵琶湖)近辺を勝手していたのが現実。曲者らしい人物像は、高い鼻と不敵な顔にそのまま現れている。
そして飯綱に次ぐのは、見るからに福々しく豪奢な身形をした彦山豊前坊。戦国の世の末に迎えた最盛期には三千の宗徒と八百の僧坊を誇った彦山を治めていただけあり、見た目からは判断し切れぬ実力者。文には彼の笑顔がどこまでも黒く見えている。
次いで大天狗らしからぬ、いかにも中間管理職然とした天狗は、白峯相模坊(しらみねさがみぼう)。相模坊との名を持つが、外の世界での本所は相模(神奈川県)でなく讃岐(香川県)の白峯山にあった。
かの鎮西八郎為朝が親子共々敗れた保元(ほうげん)の乱の後、讃岐国(さぬきのくに)に遠流(おんる)となった崇徳院(すとくいん)が日本一の怨霊とも大魔縁(魔縁、即ち天狗と呼んだのはあくまで比喩だろうが)とも言われる荒ぶる御霊となったのを鎮めるため、坂東から勧請されたためだ。
一人置いて、こちらも少々くたびれた風で――人間ではないが――人の良さそうな初老の見た目をした男、大山(だいせん)伯耆坊。伯耆の名を持つこちらは、相模坊の勧請により生じた坂東の修験の空白を埋めるため、伯耆国(鳥取県)大山(だいせん)から相模国大山(おおやま)に本所を移した大天狗。天狗の世界にも古くからこういう人事があるのだ。
戻って六席に当たるのが、日光山(にっこうさん)東光坊(とうこうぼう)。かつて下野(しもつけ)に訪れた隼人(はやと)が開いた古峯ヶ原(こぶがはら)の社を本拠地としていた天狗。
大天狗としては大変珍しく、大きな帽子(もうす)の下には少年然とした姿があり、行儀良くちょこんと座る姿は幼くすら見える。(少年趣味、少女趣味揃いの天狗社会に居るのを、見ている方が不安になるぐらいだ)
そして末席に座するのは、実直な修験者らしい面持ちの羽黒山(はぐろさん)三光坊。こちらは典型的な山伏天狗といった居住まいに、堂々たる体軀。飯綱にも負けぬ厳つい面構えで前方を直視している。かつて陸奥(みちのく)にて出羽三山(でわさんざん)を治めていた程の信仰はともかく、それが遠国であったためか、妖怪の山でもこうして末席に甘んじている。
そして、これら七人の首席となるのが――
「各々方、誠に申し訳ありませぬ。天魔様の取り次ぎ役が用件にて不在となりまして、急きょ代役を都合しておりましたゆえ」
礼拝(らいはい)しながら優しい声音でそう伝え、しゃなりという擬音が聞こえてきそうなほど優雅に歩む、鞍馬僧正坊。
正装として被いた帽子や普段の立ち居振舞、何より帽子の下に――尼剃りですらなく――長く伸ばした黒髪といい、そこらの女天狗よりも女性的に見える。元が密教から始まった天狗の集団――男性社会である妖怪の山において、女性が最高役職に就くなどあり得ないため、誰が言わずとも男なのは間違いのだろうが。
これで妖怪の山の名代、御八葉が揃った。
改めて見回すとそうそうたる顔ぶれ。伝統的に八大天狗と呼ばれる者だけで席が六つ埋まっている。
日本には八大天狗を始め、それを含めた四十八天狗と呼ばれる著名な天狗が在るが、その全てが幻想郷に訪れている訳では無く、集った大天狗、権現格の天狗にも一貫性は無い。
また大天狗になるのはおよそ尸解の者であるが、密法の秘術で鴉天狗に変じた文のように、生きて大天狗となった例も多くあり、御八葉にもそれらが入り混じっている。大天狗等のみならず、その配下の顔ぶれも事情も様々だ。
なお仙人などの場合、生きて仙道を極めて昇仙した者に対して尸解仙を下に見る向きがあるが、天狗にそれは全く当てはまらない。尸解の末に天狗となった僧正坊が、こうして御八葉の首席に座していることがその証左。
こうして御八葉を前にした時に不思議になるのが、まだ外の世界でも一定の信仰を保っているだろうに、わざわざ幻想郷に在している事。ただこれにも理由がある。
幻想郷が、信仰の多寡などに関わらず、妖怪としての力を蓄えるのに望ましい場所として作られているのがそれ。そして幻想郷と外の世界とを繋ぐ『天狗の抜け穴』を通って往来を繰り返していたりする者も密かにあろう。
逆に、次郎坊と肩を並べ、猿田彦(さるたひこ)大神とも同一視される愛宕(あたご)太郎坊など、既に顕界から姿を消して幽――形而上の存在となったため、訪れるのすら不可能な者もいたりする。
実を言えば、大半の天狗はある時にこぞって幻想郷に移住を始めた。本邦の大転換点である御一新(語義である明治維新と、以降の政策に伴って起こった廃仏毀釈)が天狗の社会に与えた影響は極めて大で、これを堺に一斉に本拠地を幻想郷に移したのだ。これは八大天狗以外の権現格ですら例外ではない。
一応外の世界にも、自前の信仰だけで十分と考えている者がまだまだ多く残っているが。
そんな事情の上に立つ天狗達の長、今も特段に讃えられるモノ達を前にしても、文の顔色に――飯綱を前にした以上の――変化は無い。己が彼らと同等であるとの思考とは全く逆で、直属上司の飯綱以外とは縁もゆかりも無い者と達観しているためだ。
「ご苦労であったな、一貫坊(いっかんぼう)。今日は忌憚無い意見を聞かせておくれ」
僧正坊は己の席まで歩むと、そこに座す前に、微笑みを文に向けながら労う。
一貫坊とは、鴉天狗になったばかりの文がその身軽きこと一貫ほどとの理由から与えられた僧坊の名であり、しばらく文自身の名乗りとしていたもの。今は彼以外そう呼ぶ者は居ない名でもある。
「はっ、有り難きお言葉、誠に恐縮であります」
文は礼拝でなく両拳を突いて頭を下げる。細分化した各宗派と、宗派に伴う作法やしきたりが入り混じった妖怪の山で、それを単純化するために導入された武士の挙措様式だ。
「まあ力を抜きなさい。それに今日は先の通り申し継ぎの代役を立てておるのだが、お目見えがお前ということもあって、特に特別な者を迎えておる」
取り次ぎ役――申し継ぎは、御簾の向こうの天魔からの言葉を下し、あるいは個々の言葉を奏上するための役目。位に依らず定められたもので代役を立てるのが異例と言えるが、それに相応しくかつ特別な者とは誰であろうかと、文は面(おもて)を上げながら心中で首を傾げる。
僧正坊の笑みに悪意は無い。元より御八葉の中でも、否、妖怪の山で最も文を高く評価する彼の事だ、その辺りの心配はあるまい。
その申し継ぎが、奥の袖から現れる。文字通りの意味の緑髪の揺れに、さすがの文の心も揺れる。
(なるほど、これはサプライズね)
現れたのは、妖怪の山で信仰を争う、言わば商売敵のはずの人物。
「皆様、御上の御出座しでございます!」
朗らかな声でそう宣言したのは、守矢神社の巫女、東風谷早苗だった。
∴
「いやー、神奈子様のお使いでちょっと来ただけだったのに、突然あの天狗さんに「天魔様の取り次ぎ役を」なんて言われたから驚いちゃいましたよ」
早苗にかかれば、日本一の大天狗、魔王大僧正こと僧正坊ですら、文達鴉天狗と一括りの『天狗さん』なのだろう。己はいいが、さすがに大天狗のお歴々の前でそれはやめて欲しいものだと心の中で祈りつつ、文は相槌を打つ。
「よくそんな役をひょいひょい受けましたね。むしろそれに一番驚きましたよ、私が」
いつものように砕けた調子で話し合う文と早苗。天魔の前での会議は、開始からものの十分もしないうちに終わり、決は下されていた。
ころころと笑う早苗に、文の心もようやくほぐされる。
「でも会議が始まったら、私が誘われた理由も分かりました」
時間こそ短かったが、込められた思惑は決して希薄なものでは無かった。
先に結論。
オカルトへの対応については別示するまで全面的に控えるようにとの決に至り、それは近々妖怪の山全体へ、加えて駐屯吏にも通知される運びとなった。
「人間の里でのお話ですからね。天狗の独善で話を進めるより、人間が場に居た方が議論も慎重になるだろうというのもあったんでしょう。僧正坊様」
「そういう風に言われると、やっぱり文さんって天狗なんだなって思えますね」
幻想郷に訪れたばかりで飛行すら不慣れだった頃、よく一緒に飛んだのは誰だったのか。そう、早苗の前では常に天狗としての姿を誇っていたつもりだったが、そんな風に言われては苦笑するほか無い。
「ええ、天狗ですよ。だから人里を護ってるんじゃないですか」
早苗は保護される側からは遠い、むしろ「妖怪退治が楽しい」などと言い放つ側の人間だが、やはり先の会議の場での彼女の存在は大きかった。
まず文がこれまで出現したオカルトの概要を説明し、それへの対応を語り終えた所からが会議の始まりだった――
まず口を開いたのは僧正坊。進行役は彼だ。
「さても、オカルトの危険性は低いと伺っておりますが、一貫坊、貴女が積極的な介入を半ばで止めたのも、そう悟ったからでしょうか?」
答えは半分否。今は誤解無く対応をやめた意図を伝えようと、理由も添える。
それを聞いて手を上げたのは東光坊。
彼は見た目通りの無邪気さで「人間がそんな簡単に気付くものか。もし気付かれるような者がいたなら、それはそいつがトロすぎるだけだ」と、人間の無能を揶揄するかのように言い放った。
人間である早苗の前でのこの発言に、場はいっとき凍り付く。
彼女自身を恐れているのでは無い。布教のため人里にも足繁く通う彼女を怒らせて、この場での話をバラされるのを恐れたのだ。そうなればこの会議自体無意味になるし、東光坊のみならず彼ら全員が天魔の不興を買うことにもなろう。
早苗自身はそのきらいもあるかと眉を寄せるだけだったが、東光坊の発言をフォローするように伯耆坊は「人間もそこまで愚かとは思えぬ。それに人間の中にも過激派が居ることを承知しておいた方がよい」と言う。
これに次郎坊が「ならば伯耆坊殿は、オカルト排除は人間に任せた方がよいと仰るのか?」と問うと、伯耆坊はやや遠慮がちに「いや、あくまでも人間を侮った考えはまずいと申しただけ。細心の注意を払う前提で介入は行うべきであると考える」と答えた。
それぞれに、人間に対する考え方はまちまち。ただいずれも信仰を己らに寄せさせようとする考えだけは共通している。故に――発言の機会が無いとは言っても――早苗の臨席は彼らの思考にしっかりと楔を打ち込んでいた。あくまでも、人間を軽く見てはならない事だけは忘れないようにと。
僧正坊の意図がそれだとすると、彼の考えは人里への不介入が前提か。
彼は、それら二言三言のやりとりを聞いてから、何かに納得したように文に問いかける。
「さて一貫坊。先ほど言った通り忌憚の無い意見を聞きたい。お前は目に見える限りのオカルトを排除したと言っておったが、未だ里の内にて相当に目立つオカルトが現れると、駐屯地及び我が手下からの報告が上がっておるのだ」
彼がどちらへ結論を持っていきたいのか分からなくなった。
半端な対応を責めているのか、または見識の浅さをなじっているのか。いや、彼以外が言うならそのきらいもあったろうが、彼に限ってそんな意図は持つまい。文自身は、そうされないのが不思議でたまらないが。
文がゆっくりと頭を下げつつ思惟を巡らす時間を稼ぐ間に、飯綱が答える。
「恐れながら、鞍馬殿。此奴の動き、拙者の監督不行き届きも含め、本来は一から十まで擁護の余地がありませぬ。いや、書陵課での役目に関して不備があったらば、拙者と我が一党が全面的に責を負いましょう。とまれ此度の件、これまでの対応を参考にするのまでは分かりますが、新たな対応をいずれとするか問うなどすべからざる事」
飯綱は、己が責を負うと追わざるに確固な線を引き、また文に求めるべきものにも同様に線を引いた。四角四面な彼に、僧正坊はまた温和な声音で答える。
「部下に対する飯綱殿のけん責も然りと存じますが、ここは縛りを設けず話を聞くのがよろしいでしょう。よい一貫坊、このオカルトについてなのだが、心当たりと、そもそもの要件として対応の如何、どうか?」
「慢心があったようであります。私の、見逃しでありましょう」
事実として、知らぬ、存ぜぬ。そんなに目立つモノなら真っ先に対処していた。
しかしさっきはたてに話して聞かせたとおり、オカルトは妖怪以上に神出鬼没。新たな姿形を持って現れても不思議は無いが、自身の不備ゆえ平に平にと文は頭を下げる。
「それもよい。知らぬとのことなら、件のオカルトの特長を話そう」
飯綱を始めとする大天狗達の視線が文に突き刺さり、早苗が気遣う眼差しを向ける中で、僧正坊だけが変わらぬ微笑みを向けたまま語る。
曰く――それは夕刻、いや刻限によらず黄昏時に合わせて現れる。それも人里でも豪商が長い擁壁を建て回した往来と、また別の往来が交わる辻に。
そこへ見越し入道に似た巨大な影が現れ、こう言うのだ。「あわ、たそ」と。
ただそう問いかけるだけ。
それ以上の何者でも無い。何かの行動を起こすのでも無い。行動原理も目的も、挙動も不明。だがこの場では、一度手を付けた者として意見を述べねばならない。
「はっ。私のこれまでの対応の延長として思量し、申し上げます。現れる場所と人倫の心理に与える影響を考慮するならば、積極的な排除に当たって然るべきであろうかと――」
似たようなオカルトはそれまでにも現れていたし、どれも危険性は皆無だった。ただし目立つモノは人間に不安を起こさせるし、それが在来の妖怪の排除、争乱に波及する恐れもある。基本、文が対処してきたのも、その事態を惹起させかねないモノだった。
このオカルトがそこまで影響力のあるモノか、実際に見ていないため判断がつきかねる。そしてこれを含めた対処の可否が、今後のオカルト対処の可否にそのまま繋がろう。
「――ただ対処に当たっては、本質を見極めねば逆にこのモノの増長を招きかねません」
手元に与えられた物とは言え、対処には少なからず妖怪の山の貴重な資材を割いていた。どんな手立てを取ったのかも知らされれていよう。
「肝に銘じよう。次郎坊殿、豊前坊殿、相模坊殿、三光坊殿、意見はありませぬか?」
彼らの心は既に決まっているのか、この僧正坊の問いには否と答える。
「他、各々に申すべき事があれば、なんなりと」
これにも否。
評定とはこの程度の物か。既に定まった話であれば、文が招かれたのは単なる儀式と言える。文には早苗というイレギュラーの配置がいまいち腑に落ちないが、この時点までは。
「さすれば各々方、この対応を御山主導にて行おうと想われる方は挙手を――」
「待たれよ僧正坊殿。ただ可否を問うだけでは足りぬ。もしこれより関わると決が下ったならば、そこから先で今後の対応を決めればよろしいが、関わらぬとなったらばまたこうして集うのも無意味というもの。この場でそれを決めておきたいのだが」
僧正坊が決を求めようとするのを次郎坊が遮った。
「ふむ。確かに、後者については改めて集う必要もありませぬか」
「それと一件、失念しておった。もし後者となったらば、別途対応を準備させておりますゆえ、各々ご承知下され」
決を採る段になって何をと、文も含めた一同は、腰を浮かせるか頭を巡らせるなどする。これが下々の会議なら、なじられた挙げ句に会議その物がご破算となるだろう。この首脳会議であっても、次席となる次郎坊だからこそ叱責の声が上がらないようなもの。
僧正坊は予め知っていたかのように顔色を変えず「その対応とは?」と、問うだけ。
「駐屯吏への断りは必要と思えぬゆえ入れておらぬが、別の伝手で以てこのオカルト対処に博麗の巫女を担ぎ出す算段を進めております。人間の自主性がどうであっても、里の寄り合いの手に余るなら最終的に巫女の出番となろうかと思いましてな」
唯一の、幻想郷の管理者側の人間、博麗霊夢。その身と住まう社その物が大結界の要たる彼女。人間にとって、幻想郷の異変を解決するのはその博麗の巫女と決まっている。次郎坊の算段は、言わば幻想郷の主役にお出まし願おうという事だ。
勿論、次郎坊ほか御八葉は、彼女を主役だの英雄だのと見ていない。天性の才能に恵まれ、この大地の中で特別の加護と役目が与えられているだけの“人間”としか。
山の神社の巫女は言葉面のこれをどう思うのだろうか。文が早苗の方を見てみれば、彼女は口角を下げてへの字に口を結んでいる。大変分かり易い。
「では、改めて決を採りましょう」
僧正坊が宣言する。今度は口を挟む者も無い。
手を挙げたのは、およそ介入を明言していた東光坊と伯耆坊。そして意外にもと当然とも言える、早苗をこの場に招へいした僧正坊本人も。
他の者は微動だにしない。霊夢に対処させようとする発言が重かったのだろうか。
「おや、これはまた。では駐屯吏を始めとした人里での……活動については、従来のまま据え置きますが、オカルトに係る対応は、別示するまで控えるよう命じましょう」
僧正坊は初めて表情を変え、早苗の方に苦笑いを向ける。便宜上、しかも臨時とは言え、結論の奏上は早苗の役割。それを促したのだ。
天魔が臨席し、全てを聞いてはいても、改めて奏上する。回りくどいものである。
「畏みて御上に言上いたします。下界における外来の不可思議の取り回し、人間の中において収めさせるよう御八葉が定められました。またこれにつきまして、御山は一切分け入るらず次第を見定める旨、全山に申し下します」
奏上する本人が明らかに不機嫌そうなのは天魔の目に入らなかったのだろうか。御簾の向こうの人影は首から上を鷹揚に振ると、より大きな影の中に去って行った。
早苗の不機嫌さはもう顔から消えているが、その感情は胸の中で燻っていた様子。笑い合ったまま愚痴をこぼす。
「でも霊夢が人里で活躍するって言うのに私は何にも出来ないなんて、なんかこう、もうやもやするって言うかもどかしいって言うか、何て言うか」
早苗は盛大な溜め息を吐いて、妖怪の山というしがらみに取り込まれている事を嘆く。
霊夢の活躍としがらみに囚われている事、どちらの嘆きが深いのか文に知る術は無いが、ただ慰める代わりに諭す。
「それも妖怪の山に住んでいる者の宿命ってことですよ」
オカルトへは不介入とした『妖怪の山』の範疇には、神社ごと山に居候する彼女らも含まれていた。彼女は直接評定の場で聞いていたため、屁理屈をこねて出張る事も叶わない。
文が続けて、冗談交じりに「嫌なら御山を降ります?」と言ってみると、早苗は「そんな事するわけ無いじゃないですか」と頬を膨らませて答え、またお互いに笑い合う。
しがらみとは負の面だけの言葉では無い、こんな風に誰かとの繋がりを指す正の言葉でもある。
そうだ、妖怪の山に住んでいるなら、人間であってもそのしがらみの中にいられるじゃないか。文はふとそんな想いを浮かべ、すぐにかき消す。
現人神と言われ、妖怪の山に住まおうとも、人間は人間でしかない。幻想郷においては、保護される種でしかないのだから。
感想をツイートする
ツイート