楽園の確率~Paradiseshift.第1章 火の国のヤマノメ 火の国のヤマノメ 第7話
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公開日:2017年01月09日 / 最終更新日:2017年01月09日
楽園の確率 ~ Paradise Shift. 第1章
火の国のヤマノメ 第7話
踏み入れた事も無い山中。それでも山に慣れた足は、気配の大元に向かって駆ける。そうして森を行くヤマノメには、緑の間に落ちる闇が異界の入り口のようにも見えている。
音とも匂いとも、光とも違う何かがヤマノメを導く。
この先に何が現れるのか。己が追う万寿と為朝だけのはずであるのに、脳裏には見も知らぬ、しかしながら畏れるべきモノの姿が浮かぶ。
「万寿、お前は――」
それはとても己の眷属とは、ましてや万寿とは思えなかった。なのに、そちらに居るのが彼女であるとの確信は揺るがない。
ヤマノメは何かに導かれるまま沢を渡り、シダの茂みを掻き分けると、崖の上でうねる古いクヌギの幹に右腕を掲げる。生糸を束にした風な綱をその手元から投げかけると、
「――何者なんだ! 何をしてるんだ!」
そう叫んでから己が身を一息で宙に引き揚げ、崖の上に出る。
不意に、今まで追って来た気配が失われた。
やはり足跡を辿るべきだったか。いや、向かうべき方向は分かっているのだからこのまま進めばいい。焦燥感がヤマノメの心を包む。
小さな尾根を一つ下り、小川に並んで走る獣道を川上に向かって遡ると、行く手にあった古い樫の木立が、風も無いのに一斉に梢を揺らした。
既に事に臨む態勢にあったヤマノメは、この異常にすぐ身構える。次に誰何の声を張り上げようと息を大きく吸い込むが、次に呆然となり、一瞬言葉を失う。
そこには、千々に裂けた袿で、真っ赤に染まった裸身を覆う万寿の姿があった。
「万寿。なんだ、その……」
そのザマは、その傷は。素直におもんばかるとも、無論貶すとも出来ず、ヤマノメは声を絞り出しながら駆け寄り、万寿を脇から支えてから群生するシダの上に横たえさせる。
「ああ、ヤマノメよ」
呟く万寿の片目に、己の姿が無いのにヤマノメは気付く。彼女の左目その物が無いのだ。
「気を確かに持て!」
「彼奴を……」
「奴?! 為朝だな!」
あの男にやられたのだ。何があってどの様に立ち会ったのかは分からずとも、ただ戦ったのだけは間違いあるまい。この土蜘蛛らしくない土蜘蛛は、己ですら二の足を踏む事を成してきたのだ。
ヤマノメは、己が身体の奥底で血が沸き立つのを感じる。
だが、斃せなかったのだろう。
ならば己が仇を討ってやる、どのみち斃す所存であったのだ、為すことに何ら変わりは無い。忠国の館に残る郎党もろとも鏖殺してやる。息も絶え絶えの万寿の意を推し量ったヤマノメは、これらの言葉を一挙に投げかけた。
だが万寿の首は僅かにだが明らかに横に振れ、この申し出に否と答える。
「ならば、オレはどうすればよい!」
お前が違うと言うのならそうなのであろう。ヤマノメは、己に先んじて一人戦いに身を投じた土蜘蛛の言葉を、思惟を、今は全て信じていた。
白く変色し、瘴気を放ち始めた血で濡れた万寿。蟲妖としての本性の体現だ。ヤマノメは彼女の身体に余りにも深く穿たれた傷をいくつも認め、手の施しようが無いのを悟ると手を強く握り、黙して次の言葉を待つ。
「あの童の横面、殴りつけ、たもれ」
殺す必要すら無い。鎧を着て太刀を佩いたところで、図体ばかりが大きなだけの童など、殴りつけてやるだけでよい。万寿は血を吐きながら、そう途切れ途切れに請う。
それはおそらく、ただ斃すより困難極まりない所行である。
恐らく万寿は、己等が身にまつわる本性に化身してなお、この体たらくとなったのだ。そもそもなぜ、このらしくない――とこれまで思わせてきた――土蜘蛛は、一人で為朝に襲いかかったのか。
ヤマノメの思考は答えに及ばない。
全ては万寿の心底にしか無い。例えヤマノメが事の成り行きを全て目にし、あるいは耳にしたとしても、彼女にしか分かり得ぬのだ。その心を読み取れたとて、これだけは。
「どういう事だ。なぜ奴を生かそうとする」
事ここに至ってしまったなら、殺すか殺されるかしか無い、だのに。ヤマノメは、そうと信じる己の思考より万寿の思いを信じながらも、問うた。
「悪たれの、尻を叩いて、泣かせて、親元に帰らせる、だけだ」
だが己にそれはもう叶わない、後はお許に任せる。言った万寿の、残る片方の漆黒の目が、黄金色の瞳を求めて僅かに動く。二人の視線は僅かに重なった。
「すまぬ。願わくば、お許の……」
言葉が途切れる。
万寿はシダの床にその身を溶かし、血濡れの襤褸だけを残して消えた。骸を晒す事すら無く、彼女はこの世から失せたのであった。
∴
ヤマノメは一昼夜を置いた夕刻に平忠国の山城に帰り着くと、出て来た時と同じく、門衛らの死角を選んで館の内に入り込んだ。
万寿が事切れた後は当然、為朝の姿を求めて山中を駆け回った。だが彼の姿はどこにも無く、二人が争ったであろう跡も見出せなかった。
その相貌には、失意より強い決意が浮かぶ。
ここ二月足らずの旅を共にしただけの、それほど深い仲でなかったにせよ、悼む気持ちが無いではない。しかし哀悼よりも彼女の遺言を果たそうという心が、更にそれよりも、今になって彼女をもっと知りたいと思う気持ちが胸の奥に広がっていた。
「今になって、なんでなんだろうな」
生きている内に聞けば良かったではないか。何を聞くつもりだった、どう話せばよかった。否、少なくともこれだけは聞き漏らしていた。
「……義親。そうだ」
今回の件で、万寿と為朝だけでなく、ひょうずの長、田道間からも聞いた名。彼女と彼らと、その男の間に、何が横たわっているのか。ただ為朝の祖父というだけではあるまい。
ひょうずと為朝らが戦に至るかによらず、今ひとたび田道間に会う必要がある。為朝の鎮西平定とは関係ないかも知れない、それでもだ。
それに万寿の死も里の古老達に伝えねばなるまい、そちらを経由して北へ向かおう。そうヤマノメが道のりを思い浮かべた時であった。
「ヤマノメ、帰っていたのか。万寿はどうした」
濃緑や紺などの暗めの色がちな彩りながら、紋様が縫い込まれた単衣を纏った白縫姫が部屋に訪れる。彼女の訪れを見越して小袖に着替えていたヤマノメは、努めて落ち着いた振る舞いで、予め用意していた理由を答える。
「断りも無く遠出をしたご無礼、何とぞお許し下さい。実は主人に捨てられてしまったようでありまして、それで後を追ったのですが……」
為朝が昨日のうちに目に見える異状も無く館に戻っている事は、館の下女から聞いていた。二人の間に某かの事態があったのを、姫は気付いてすらいないであろうと考えた。
しかし、その姫の顔色は暗い。
「では、万寿はもう、帰って来ぬのだな」
「ええ、はい。申し訳ありませぬ……」
姫がそれ以上の訳も聞いたりしないのが気になったが、今それ以外の答えは無い。
「ヤマノメ。詫びるのは私の方かも知れぬ」
「姫、何を――」
「もし、もしもだ。これより私の身に何かが起こっても、お前は何も気にかけるな」
姫はヤマノメが問い返そうとしたのを遮って言い放つと、これ以上の問答は不要と立ち去ってしまった。
つい先日まで、こんな場面に直面すれば困惑し苛立つだけのヤマノメであったが、今は己を取り巻く状況を見極めようとしていた。ただそれは自身の考えと言うより――
「こんな時、お前ならどうする」
万寿ならばどう考えるのか。もはや此方にも彼方にも無い彼女の思惑を、どこまでも延長しようという試みであった。
この館に仇が居る。しかし、これまでそうして来た通り感情に任せて彼を倒すわけにはいかないし、今は万寿の遺言もある。
もとより激高するほど憎き仇とはもう、ヤマノメも考えていない。万寿の惨たらしい姿を見た時は頭に血が上っていたが、それも驚くほどに冷め切っている。彼女の望みを果たすためには相応の舞台が必要であろうとまで、冷静に思考を進めるほどに。
その舞台を、いつ、どこに、どうやって整えるのか、未だに見通しは立たぬのに。頭も足りぬくせに、己はこんなに回りくどい輩であったろうか。ヤマノメは自嘲する。
まずは為朝の今後の動きを探らねばならない。どのみちこれは、従前通りの行動である。
館を行き交う女房に紛れて為朝達の房へと足を運ぶと、尋常ならざる様子に打ち当たる。房の四方に戸が立てられていたのだ。この蒸し暑くなりつつある時期に、少し前の一宮では弊殿の壁を除いてすらいた彼らが、である。
帰り着いた為朝には何の異状も無いと聞いていたが、実際に見たわけでも無い。やはり万寿が一矢報い、負傷させるなりしていたのであろうか。それとも別の理由でか。
ヤマノメは、庭とは反対側の廊下に回り込むと、戸の側に寄って耳をそばだてる。中からは為朝の他、数人の話し声がかすかに聞こえた。
「しかし若殿様。本当にその様な事をなさるんで?」
「重季の奴めが託してくれた最後の策だ。かくなった上は、これを果たす他ない」
郎党の問いに答える為朝の声音は、確固とした決意を表している。
しかし最後の、とはどんな意味か。いくらなんでも喧嘩別れした訳ではあるまい。
(まさか万寿と相打ったのは、為朝ではなく重季か?)
館で唯一、万寿と為朝の遠出を認識していた人物だ。ヤマノメに先んじて馬で後を追っていたのだったとしても不思議は無い。ヤマノメも馬の足跡が一頭だったか二頭だったかなど見分けは付かないし、覚えてもいない。
だが追跡が確かだとしても果たして、為朝に比して明らかにひ弱そうな彼が、己をも一時怯ませた『土蜘蛛』万寿になど敵うものか。否、彼は手にしていたではないか。“我ら土蜘蛛”を退治し得たと彼らが豪語していた兵器を。
(源氏重代の重宝――)
今は『吠丸』、かつて『蜘蛛切』との銘を謳う太刀。あの刃の真価を発揮させ、万寿を討ったのではあるまいか。
ヤマノメが思考を巡らせる間にも、なにがしかの謀議は続いている。
「城下には既に、夜叉丸が呼び寄せた彦山(ひこさん)の衆が着いている」
「では、明日が明後日でも?」
彦山(※1)、豊前国に属する、修験の道場でもある山だ。鎮西の拠点である豊後の兵だけでなく、そちらからも兵を。あの怪僧を伴っていたのはその為であったのか。
その事実に驚き、戸にへばり着くぐらいに耳を寄せようとするヤマノメ。その口を、木肌のような不快な肌触りの手が唐突に塞ぐ。反射的にそれをへし折りそうになるのを堪え、されるがまま任せると、手の主は緩やかにヤマノメを退かせ、解放する。
「何をしておる、ヤマノメ」
薄暗い中、黄色い歯を見せながら囁きかけたのは、今し方為朝達の話題に上っていた夜叉丸本人であった。ヤマノメも同じく、囁き声で答える。
「いえ、この暑い中、房を閉じ切って何をなさっているのか気になったものですから」
一応は納得できる答えに、彼は「ほぅ」と息を吐いて応じる。
「知らない方がよい事も世の中にはある。それにな、お主は今や自由の身なのだ。本所へ帰るなり……いや、帰る所もあるまい、必要であれば拙僧が養ってやろう」
己が何から自由になったと言うのか。やや不格好な作った微笑みを向けつつ、夜叉丸の言葉を推し量る。だが考えるには及ばず、彼の方から勝手に話し出した。
「俺は知っているのだ。お前の様な、大陸から連れられて来たはよいが寄る辺も無く放たれた異人や、世に捨てられた力なき童。何者にも成れず彷徨うままを強いられた者が、勿怪の、、、そう、殊に鬼や土蜘蛛などの慰みものとして、延々と飼われているのを」
その程度ならまだ良い。死してからも、手足や頭を好きに継ぎ接ぎされ、永久に慰みものにされる。そんなおぞましい呪法を施される者すら在るのだと、夜叉丸は続けた。
彼も一応は僧としての行いを、救済を果たそうとしているのであろう。
万寿が短い旅の中で長々と語ってくれた知恵が、ヤマノメの心中で彼の言葉を確かに読み解き、次の句を滑らかに紡ぎ出す。
「それは、お役人が令の下で攫っていく賦役の徒や采女などと、何が違うのですか?」
「何をか、お前も知っていただろうに。あの、万寿といった主人が勿怪であると」
「それを私が知っていたとは?」
そうと読み取られる物言いをした覚えは有る。そしてやはり、彼はそこを突いて来た。
「とぼけなくてもよい。俺が始めに忠告した時、お前は何も問い返さずにただ「承知した」と答えただろう。あれは、あの女の正体知っていたからこその応答だ。違うか?」
心中で舌を打ち、自身の至らなさに腹を立てるヤマノメ。
夜叉丸は、一切表出せぬヤマノメの心には気付かず、言葉を重ねる。
「もう恐れる者は居ないのだ。行く当てがあるならそちらに行けばよい。もし無いのなら、俺と共に若大将の、鎮西八郎為朝の大業を見守ろうではないか」
しっかと結ぼうとする彼の手をすり抜け、ヤマノメは問い返す。
「私は、万寿様が私を捨てたのだと思っていたのです。貴方様の言葉が確かなら、万寿様は今、いずこにいらっしゃるのです?」
「もはやどこにもおらんぞ。此方は無論、彼方にもな」
勿怪などは、既に六道輪廻(りくどうりんね)(※2)より外れた『外道』である。目に見えるその身が潰えれば、何ものも残さず霧散するのだ。夜叉丸は淡々と、先の言葉の理合を述べた。
なるほどそうなのであろう、“我ら”は。
ヤマノメは今の彼の言葉も飲み下しつつ、知らぬふりを続ける。
「お坊様の説法は、むつかしゅうて分かりませぬ」
彼は哀れむ風な眼差しをヤマノメに向けつつ、一度息を呑んでから言葉を吐き出す。
「ふむ、では端的に言おう。あの女は若大将が討った。奴め、本性を現して襲いかかって来たのだ」
「本性、でございますか。仰る通り、私は万寿様が妖と知っておりましたが、本性が何かまでは知りませんでした。御前様は如何なるお姿を晒したのです?」
「蜘蛛だ。奴は牛の首をも一噛みに砕かん程の大蜘蛛に化けたのだ。恐らく阿蘇明神に滅ぼされたという旧き妖――土蜘蛛の裔(すえ)か、生き残りだろう」
大蜘蛛。ヤマノメも話に聞いた覚えがあるだけで、誰かがその様な姿になったのを見た事は無い。当然、自身をそうする術も知らない。
「なんと……では、為朝様がそれを?」
「ああそうだ。若大将は、やはり古今無双の武者だった」
そう為朝を讃える夜叉丸の貌は、決して愉快そうな物では無く、しかめた風になっている。彼はまた勝手に、その“戦ぶり”を語り始めた。
本性を現した土蜘蛛、万寿。その体高は七尺に及ぼうとする為朝の背丈をも上回り、脚などは馬よりずっと長く、多くの節を持っている。
四対の闇色の眼は、各個自在に動かずとも確かに為朝を捉えていた。
尋常な相手ならば、全くの徒手空拳であっても殴り斃し、あるいはくびり殺すも叶う為朝ではあれど、この大蜘蛛相手では、敵う見込みも無かった。
だがそこへ一人の男が駆けつける。「うおぉぉぉ!」と雄叫びを上げて崖の上から躍りかかったのは、為朝の郎党、重季であった。
彼は為朝の巨躯を押し飛ばし、大蜘蛛との間に己が身を挟み込むと、
「若! これを!」
左手に太刀を提げながら、右手に持っていた弓と矢筒を投げて寄越し、すぐさま黒漆塗りの鞘から刃を抜き放つ。太刀は他ならぬ吠丸であった。
矢筒から飛び出た矢を二本だけ手に取り、次いで弓に手を伸ばしながら為朝は叫ぶ。
「待て、重季!」
彼は既に、分厚い剥き身の白刃を大蜘蛛へ向けていた。重季からすれば「何を待てと言われるのか」と疑問であったろう。だが何の答えも返さず、彼は大蜘蛛へ斬りかかった。
眼と同じく四対ある大蜘蛛の脚、その左前脚の脛節へ向けて、尋常に人と立ち会うのと同じ太刀筋で逆袈裟に刃が走る。だが堅い毛に覆われた、素槍を数口束ねたほどの太さの脚は、その刃をあっけなく弾き返す。
重季と『蜘蛛切』に、大蜘蛛――万寿を斬る事は叶わなかった。
彼は驚きの表情で手元を、そして目線を大蜘蛛へと移す。
「礫の!!」
明らかな恐怖がその声音からも滲むが、戦うのを諦めてはいない。
樹冠を貫き、数発の光弾が大蜘蛛の右腹を叩く。同時に重季は右足を踏み出すと大蜘蛛の脚の間をかいくぐり、脚に比べるとずっと柔らかそうな腹に向かって上段から太刀を振り下ろし、更に突きを繰り出した。
斬撃はまたも弾かれたが、刺突は腹を貫いた。
「手応え、あり!」
重季は太刀を僅かに捻って抉ると、すぐに引き抜いて飛びすさり、残心をとる。だが彼は太刀を取り落とし、その場に膝を着くと、喉をかきむしり始めた。
大蜘蛛の躯から漏れ出た濃密な瘴気が、彼の身体を冒し始めたのだ。
「退け! 重季、逃げろ!」
為朝が矢をつがえるうちに、飛来する光弾も速射に変わる。僅かの間も置かず、重季の身体は宙を舞い、滝の側の岩に叩き付けられた。指で虫を弾くように、大蜘蛛の脚で弾かれたのだ。為朝は微動だにしない重季を視界に収めつつ、続けざまに二本の矢を放った。
「実に、実に見事だったぞ。弓の名手と謳われ、鬼をも遣わした阿蘇明神が、いにしえに土蜘蛛を屠った様は、正にあのようなものだったろう」
彼はこれに加えて、果敢に立ち向かった重季も讃える。
ヤマノメはしかし、これらの話には特段の心の動きも示さない。
「では御前様、いえ、その大蜘蛛の最後、如何なる様でありましたか?」
そう、今語った通り、彼もその場に居合わせたのだ。
「ああ、俺の放った礫などはせいぜい牽制するに留まったが、若大将の矢が二射とも、大蜘蛛の頭を貫いたわ」
話の限りなら至近距離、彼女の目を正確に射貫いたであろう。如何に強靱な体躯を誇ろうとも、それではひとたまりもあるまい。
片目を失ったまま、常の通りの人と同じ姿で最期を迎えた万寿を、ヤマノメは思い返す。
「して、その死体は」
「死体? 何故そんな事を聞くんだ」
「夜叉丸様や殿様を疑うつもりはございませぬが、もし万が一にも討ち漏らしていたら、ここに寄せてくるやもと」
「ううむ、それなのだがな。俺が着いた時には消え失せておった。もとより妖など、そうそう骸を晒すものではないのだ」
「お坊様やお侍様はお強いからそれでよろしいでしょう。しかし、それでは私は安心できませぬ」
万寿の最期は確かに看取った、彼女は間違いなく死んだ。だが今のヤマノメはあくまでも、――夜叉丸が勝手に定義した――邪悪な勿怪に囚われていた哀れな女を演じる。
「うぐ、だからな……」
彼は返答に困り、声を詰まらせる。そこへ助け船を出すかの様に部屋の戸が開く。
「若大将」
窮屈そうに鴨居をくぐって廊下に出でたのは為朝。彼は二人を見下ろしながら言う。
「なんだ、戻っておったか。それにお前はヤマノメ、何をしておった」
「いや、先の大蜘蛛との戦いを聞かせておったのです。もう何を恐れる事も無いぞ、と」
ヤマノメが言い訳をする暇もなく、また勝手に話を進める夜叉丸。今の所これはありがたかった。
「そうか。それはもう、どうでもよい。それよりも例の件、進めるぞ」
これに夜叉丸は膝を叩き、すっくと立ち上がる。
「おお、ようようと決心なされましたな。して、いつ頃に」
「明後日にでもと考えておる。出来るな?」
動くのは夜叉丸の手下である彦山の衆と見て間違いあるまい。しかし何をどうするつもりか。ヤマノメはある事を思い出す。
(そうだ、白縫姫が)
彼女が言っていた[私の身に何があっても]との言葉。あれがもし為朝の謀議に係る懸念であったなら、彼らは姫を拐かすか何かして、この地の領主である忠国に強引な連合を持ちかけるつもりかも、という想像も出来る。
実態はまだ不確かなものの、不可解であった姫の言葉と今の彼らとの謀議を照らせば、それらしい企図は見えて来た。
ならば、どうするべきか。
この想像が的を射ており、姫の身に危害が及んだとて、ヤマノメがそれを阻む由は無い、ように思える。しかしヤマノメは、それとは別の思考を浮べていた。
歓喜に近い笑みを浮かべる夜叉丸と、対照的に無表情で語る為朝。ヤマノメは二人に暇乞いする。
「夜叉丸様、お話、楽しゅうございました。白縫様との約束がありますゆえ、そろそろ」
言いながらすぐに身を翻し、彼らに背を向ける。刹那に見えた為朝の眼が酷い悲しみに沈んでいる風にも見えたが、それを気にも留めず歩を進める。
今のヤマノメの胸にあるのは、万寿を討った者達への怒りでもなければ、土蜘蛛に仇為すかも知れない彼らへの敵愾心でもない。
(万寿、お前は何を知って、何をしたかった。奴をどうするつもりだった)
本性を現してまで敵対した相手なのに、最期にはそれを生かすようにと託した。この相反する行為がどこから生まれたのか。
ヤマノメは改めて、喪われた一人の土蜘蛛の後を辿ろうと心に決めた。
第7話注釈
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※1 彦山:現在は英彦山と表記される、福岡県から大分県に跨がる修験の山
※2 六道輪廻:天道、人道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道からなる死後の世界、あるいは心象
火の国のヤマノメ 第7話
踏み入れた事も無い山中。それでも山に慣れた足は、気配の大元に向かって駆ける。そうして森を行くヤマノメには、緑の間に落ちる闇が異界の入り口のようにも見えている。
音とも匂いとも、光とも違う何かがヤマノメを導く。
この先に何が現れるのか。己が追う万寿と為朝だけのはずであるのに、脳裏には見も知らぬ、しかしながら畏れるべきモノの姿が浮かぶ。
「万寿、お前は――」
それはとても己の眷属とは、ましてや万寿とは思えなかった。なのに、そちらに居るのが彼女であるとの確信は揺るがない。
ヤマノメは何かに導かれるまま沢を渡り、シダの茂みを掻き分けると、崖の上でうねる古いクヌギの幹に右腕を掲げる。生糸を束にした風な綱をその手元から投げかけると、
「――何者なんだ! 何をしてるんだ!」
そう叫んでから己が身を一息で宙に引き揚げ、崖の上に出る。
不意に、今まで追って来た気配が失われた。
やはり足跡を辿るべきだったか。いや、向かうべき方向は分かっているのだからこのまま進めばいい。焦燥感がヤマノメの心を包む。
小さな尾根を一つ下り、小川に並んで走る獣道を川上に向かって遡ると、行く手にあった古い樫の木立が、風も無いのに一斉に梢を揺らした。
既に事に臨む態勢にあったヤマノメは、この異常にすぐ身構える。次に誰何の声を張り上げようと息を大きく吸い込むが、次に呆然となり、一瞬言葉を失う。
そこには、千々に裂けた袿で、真っ赤に染まった裸身を覆う万寿の姿があった。
「万寿。なんだ、その……」
そのザマは、その傷は。素直におもんばかるとも、無論貶すとも出来ず、ヤマノメは声を絞り出しながら駆け寄り、万寿を脇から支えてから群生するシダの上に横たえさせる。
「ああ、ヤマノメよ」
呟く万寿の片目に、己の姿が無いのにヤマノメは気付く。彼女の左目その物が無いのだ。
「気を確かに持て!」
「彼奴を……」
「奴?! 為朝だな!」
あの男にやられたのだ。何があってどの様に立ち会ったのかは分からずとも、ただ戦ったのだけは間違いあるまい。この土蜘蛛らしくない土蜘蛛は、己ですら二の足を踏む事を成してきたのだ。
ヤマノメは、己が身体の奥底で血が沸き立つのを感じる。
だが、斃せなかったのだろう。
ならば己が仇を討ってやる、どのみち斃す所存であったのだ、為すことに何ら変わりは無い。忠国の館に残る郎党もろとも鏖殺してやる。息も絶え絶えの万寿の意を推し量ったヤマノメは、これらの言葉を一挙に投げかけた。
だが万寿の首は僅かにだが明らかに横に振れ、この申し出に否と答える。
「ならば、オレはどうすればよい!」
お前が違うと言うのならそうなのであろう。ヤマノメは、己に先んじて一人戦いに身を投じた土蜘蛛の言葉を、思惟を、今は全て信じていた。
白く変色し、瘴気を放ち始めた血で濡れた万寿。蟲妖としての本性の体現だ。ヤマノメは彼女の身体に余りにも深く穿たれた傷をいくつも認め、手の施しようが無いのを悟ると手を強く握り、黙して次の言葉を待つ。
「あの童の横面、殴りつけ、たもれ」
殺す必要すら無い。鎧を着て太刀を佩いたところで、図体ばかりが大きなだけの童など、殴りつけてやるだけでよい。万寿は血を吐きながら、そう途切れ途切れに請う。
それはおそらく、ただ斃すより困難極まりない所行である。
恐らく万寿は、己等が身にまつわる本性に化身してなお、この体たらくとなったのだ。そもそもなぜ、このらしくない――とこれまで思わせてきた――土蜘蛛は、一人で為朝に襲いかかったのか。
ヤマノメの思考は答えに及ばない。
全ては万寿の心底にしか無い。例えヤマノメが事の成り行きを全て目にし、あるいは耳にしたとしても、彼女にしか分かり得ぬのだ。その心を読み取れたとて、これだけは。
「どういう事だ。なぜ奴を生かそうとする」
事ここに至ってしまったなら、殺すか殺されるかしか無い、だのに。ヤマノメは、そうと信じる己の思考より万寿の思いを信じながらも、問うた。
「悪たれの、尻を叩いて、泣かせて、親元に帰らせる、だけだ」
だが己にそれはもう叶わない、後はお許に任せる。言った万寿の、残る片方の漆黒の目が、黄金色の瞳を求めて僅かに動く。二人の視線は僅かに重なった。
「すまぬ。願わくば、お許の……」
言葉が途切れる。
万寿はシダの床にその身を溶かし、血濡れの襤褸だけを残して消えた。骸を晒す事すら無く、彼女はこの世から失せたのであった。
∴
ヤマノメは一昼夜を置いた夕刻に平忠国の山城に帰り着くと、出て来た時と同じく、門衛らの死角を選んで館の内に入り込んだ。
万寿が事切れた後は当然、為朝の姿を求めて山中を駆け回った。だが彼の姿はどこにも無く、二人が争ったであろう跡も見出せなかった。
その相貌には、失意より強い決意が浮かぶ。
ここ二月足らずの旅を共にしただけの、それほど深い仲でなかったにせよ、悼む気持ちが無いではない。しかし哀悼よりも彼女の遺言を果たそうという心が、更にそれよりも、今になって彼女をもっと知りたいと思う気持ちが胸の奥に広がっていた。
「今になって、なんでなんだろうな」
生きている内に聞けば良かったではないか。何を聞くつもりだった、どう話せばよかった。否、少なくともこれだけは聞き漏らしていた。
「……義親。そうだ」
今回の件で、万寿と為朝だけでなく、ひょうずの長、田道間からも聞いた名。彼女と彼らと、その男の間に、何が横たわっているのか。ただ為朝の祖父というだけではあるまい。
ひょうずと為朝らが戦に至るかによらず、今ひとたび田道間に会う必要がある。為朝の鎮西平定とは関係ないかも知れない、それでもだ。
それに万寿の死も里の古老達に伝えねばなるまい、そちらを経由して北へ向かおう。そうヤマノメが道のりを思い浮かべた時であった。
「ヤマノメ、帰っていたのか。万寿はどうした」
濃緑や紺などの暗めの色がちな彩りながら、紋様が縫い込まれた単衣を纏った白縫姫が部屋に訪れる。彼女の訪れを見越して小袖に着替えていたヤマノメは、努めて落ち着いた振る舞いで、予め用意していた理由を答える。
「断りも無く遠出をしたご無礼、何とぞお許し下さい。実は主人に捨てられてしまったようでありまして、それで後を追ったのですが……」
為朝が昨日のうちに目に見える異状も無く館に戻っている事は、館の下女から聞いていた。二人の間に某かの事態があったのを、姫は気付いてすらいないであろうと考えた。
しかし、その姫の顔色は暗い。
「では、万寿はもう、帰って来ぬのだな」
「ええ、はい。申し訳ありませぬ……」
姫がそれ以上の訳も聞いたりしないのが気になったが、今それ以外の答えは無い。
「ヤマノメ。詫びるのは私の方かも知れぬ」
「姫、何を――」
「もし、もしもだ。これより私の身に何かが起こっても、お前は何も気にかけるな」
姫はヤマノメが問い返そうとしたのを遮って言い放つと、これ以上の問答は不要と立ち去ってしまった。
つい先日まで、こんな場面に直面すれば困惑し苛立つだけのヤマノメであったが、今は己を取り巻く状況を見極めようとしていた。ただそれは自身の考えと言うより――
「こんな時、お前ならどうする」
万寿ならばどう考えるのか。もはや此方にも彼方にも無い彼女の思惑を、どこまでも延長しようという試みであった。
この館に仇が居る。しかし、これまでそうして来た通り感情に任せて彼を倒すわけにはいかないし、今は万寿の遺言もある。
もとより激高するほど憎き仇とはもう、ヤマノメも考えていない。万寿の惨たらしい姿を見た時は頭に血が上っていたが、それも驚くほどに冷め切っている。彼女の望みを果たすためには相応の舞台が必要であろうとまで、冷静に思考を進めるほどに。
その舞台を、いつ、どこに、どうやって整えるのか、未だに見通しは立たぬのに。頭も足りぬくせに、己はこんなに回りくどい輩であったろうか。ヤマノメは自嘲する。
まずは為朝の今後の動きを探らねばならない。どのみちこれは、従前通りの行動である。
館を行き交う女房に紛れて為朝達の房へと足を運ぶと、尋常ならざる様子に打ち当たる。房の四方に戸が立てられていたのだ。この蒸し暑くなりつつある時期に、少し前の一宮では弊殿の壁を除いてすらいた彼らが、である。
帰り着いた為朝には何の異状も無いと聞いていたが、実際に見たわけでも無い。やはり万寿が一矢報い、負傷させるなりしていたのであろうか。それとも別の理由でか。
ヤマノメは、庭とは反対側の廊下に回り込むと、戸の側に寄って耳をそばだてる。中からは為朝の他、数人の話し声がかすかに聞こえた。
「しかし若殿様。本当にその様な事をなさるんで?」
「重季の奴めが託してくれた最後の策だ。かくなった上は、これを果たす他ない」
郎党の問いに答える為朝の声音は、確固とした決意を表している。
しかし最後の、とはどんな意味か。いくらなんでも喧嘩別れした訳ではあるまい。
(まさか万寿と相打ったのは、為朝ではなく重季か?)
館で唯一、万寿と為朝の遠出を認識していた人物だ。ヤマノメに先んじて馬で後を追っていたのだったとしても不思議は無い。ヤマノメも馬の足跡が一頭だったか二頭だったかなど見分けは付かないし、覚えてもいない。
だが追跡が確かだとしても果たして、為朝に比して明らかにひ弱そうな彼が、己をも一時怯ませた『土蜘蛛』万寿になど敵うものか。否、彼は手にしていたではないか。“我ら土蜘蛛”を退治し得たと彼らが豪語していた兵器を。
(源氏重代の重宝――)
今は『吠丸』、かつて『蜘蛛切』との銘を謳う太刀。あの刃の真価を発揮させ、万寿を討ったのではあるまいか。
ヤマノメが思考を巡らせる間にも、なにがしかの謀議は続いている。
「城下には既に、夜叉丸が呼び寄せた彦山(ひこさん)の衆が着いている」
「では、明日が明後日でも?」
彦山(※1)、豊前国に属する、修験の道場でもある山だ。鎮西の拠点である豊後の兵だけでなく、そちらからも兵を。あの怪僧を伴っていたのはその為であったのか。
その事実に驚き、戸にへばり着くぐらいに耳を寄せようとするヤマノメ。その口を、木肌のような不快な肌触りの手が唐突に塞ぐ。反射的にそれをへし折りそうになるのを堪え、されるがまま任せると、手の主は緩やかにヤマノメを退かせ、解放する。
「何をしておる、ヤマノメ」
薄暗い中、黄色い歯を見せながら囁きかけたのは、今し方為朝達の話題に上っていた夜叉丸本人であった。ヤマノメも同じく、囁き声で答える。
「いえ、この暑い中、房を閉じ切って何をなさっているのか気になったものですから」
一応は納得できる答えに、彼は「ほぅ」と息を吐いて応じる。
「知らない方がよい事も世の中にはある。それにな、お主は今や自由の身なのだ。本所へ帰るなり……いや、帰る所もあるまい、必要であれば拙僧が養ってやろう」
己が何から自由になったと言うのか。やや不格好な作った微笑みを向けつつ、夜叉丸の言葉を推し量る。だが考えるには及ばず、彼の方から勝手に話し出した。
「俺は知っているのだ。お前の様な、大陸から連れられて来たはよいが寄る辺も無く放たれた異人や、世に捨てられた力なき童。何者にも成れず彷徨うままを強いられた者が、勿怪の、、、そう、殊に鬼や土蜘蛛などの慰みものとして、延々と飼われているのを」
その程度ならまだ良い。死してからも、手足や頭を好きに継ぎ接ぎされ、永久に慰みものにされる。そんなおぞましい呪法を施される者すら在るのだと、夜叉丸は続けた。
彼も一応は僧としての行いを、救済を果たそうとしているのであろう。
万寿が短い旅の中で長々と語ってくれた知恵が、ヤマノメの心中で彼の言葉を確かに読み解き、次の句を滑らかに紡ぎ出す。
「それは、お役人が令の下で攫っていく賦役の徒や采女などと、何が違うのですか?」
「何をか、お前も知っていただろうに。あの、万寿といった主人が勿怪であると」
「それを私が知っていたとは?」
そうと読み取られる物言いをした覚えは有る。そしてやはり、彼はそこを突いて来た。
「とぼけなくてもよい。俺が始めに忠告した時、お前は何も問い返さずにただ「承知した」と答えただろう。あれは、あの女の正体知っていたからこその応答だ。違うか?」
心中で舌を打ち、自身の至らなさに腹を立てるヤマノメ。
夜叉丸は、一切表出せぬヤマノメの心には気付かず、言葉を重ねる。
「もう恐れる者は居ないのだ。行く当てがあるならそちらに行けばよい。もし無いのなら、俺と共に若大将の、鎮西八郎為朝の大業を見守ろうではないか」
しっかと結ぼうとする彼の手をすり抜け、ヤマノメは問い返す。
「私は、万寿様が私を捨てたのだと思っていたのです。貴方様の言葉が確かなら、万寿様は今、いずこにいらっしゃるのです?」
「もはやどこにもおらんぞ。此方は無論、彼方にもな」
勿怪などは、既に六道輪廻(りくどうりんね)(※2)より外れた『外道』である。目に見えるその身が潰えれば、何ものも残さず霧散するのだ。夜叉丸は淡々と、先の言葉の理合を述べた。
なるほどそうなのであろう、“我ら”は。
ヤマノメは今の彼の言葉も飲み下しつつ、知らぬふりを続ける。
「お坊様の説法は、むつかしゅうて分かりませぬ」
彼は哀れむ風な眼差しをヤマノメに向けつつ、一度息を呑んでから言葉を吐き出す。
「ふむ、では端的に言おう。あの女は若大将が討った。奴め、本性を現して襲いかかって来たのだ」
「本性、でございますか。仰る通り、私は万寿様が妖と知っておりましたが、本性が何かまでは知りませんでした。御前様は如何なるお姿を晒したのです?」
「蜘蛛だ。奴は牛の首をも一噛みに砕かん程の大蜘蛛に化けたのだ。恐らく阿蘇明神に滅ぼされたという旧き妖――土蜘蛛の裔(すえ)か、生き残りだろう」
大蜘蛛。ヤマノメも話に聞いた覚えがあるだけで、誰かがその様な姿になったのを見た事は無い。当然、自身をそうする術も知らない。
「なんと……では、為朝様がそれを?」
「ああそうだ。若大将は、やはり古今無双の武者だった」
そう為朝を讃える夜叉丸の貌は、決して愉快そうな物では無く、しかめた風になっている。彼はまた勝手に、その“戦ぶり”を語り始めた。
本性を現した土蜘蛛、万寿。その体高は七尺に及ぼうとする為朝の背丈をも上回り、脚などは馬よりずっと長く、多くの節を持っている。
四対の闇色の眼は、各個自在に動かずとも確かに為朝を捉えていた。
尋常な相手ならば、全くの徒手空拳であっても殴り斃し、あるいはくびり殺すも叶う為朝ではあれど、この大蜘蛛相手では、敵う見込みも無かった。
だがそこへ一人の男が駆けつける。「うおぉぉぉ!」と雄叫びを上げて崖の上から躍りかかったのは、為朝の郎党、重季であった。
彼は為朝の巨躯を押し飛ばし、大蜘蛛との間に己が身を挟み込むと、
「若! これを!」
左手に太刀を提げながら、右手に持っていた弓と矢筒を投げて寄越し、すぐさま黒漆塗りの鞘から刃を抜き放つ。太刀は他ならぬ吠丸であった。
矢筒から飛び出た矢を二本だけ手に取り、次いで弓に手を伸ばしながら為朝は叫ぶ。
「待て、重季!」
彼は既に、分厚い剥き身の白刃を大蜘蛛へ向けていた。重季からすれば「何を待てと言われるのか」と疑問であったろう。だが何の答えも返さず、彼は大蜘蛛へ斬りかかった。
眼と同じく四対ある大蜘蛛の脚、その左前脚の脛節へ向けて、尋常に人と立ち会うのと同じ太刀筋で逆袈裟に刃が走る。だが堅い毛に覆われた、素槍を数口束ねたほどの太さの脚は、その刃をあっけなく弾き返す。
重季と『蜘蛛切』に、大蜘蛛――万寿を斬る事は叶わなかった。
彼は驚きの表情で手元を、そして目線を大蜘蛛へと移す。
「礫の!!」
明らかな恐怖がその声音からも滲むが、戦うのを諦めてはいない。
樹冠を貫き、数発の光弾が大蜘蛛の右腹を叩く。同時に重季は右足を踏み出すと大蜘蛛の脚の間をかいくぐり、脚に比べるとずっと柔らかそうな腹に向かって上段から太刀を振り下ろし、更に突きを繰り出した。
斬撃はまたも弾かれたが、刺突は腹を貫いた。
「手応え、あり!」
重季は太刀を僅かに捻って抉ると、すぐに引き抜いて飛びすさり、残心をとる。だが彼は太刀を取り落とし、その場に膝を着くと、喉をかきむしり始めた。
大蜘蛛の躯から漏れ出た濃密な瘴気が、彼の身体を冒し始めたのだ。
「退け! 重季、逃げろ!」
為朝が矢をつがえるうちに、飛来する光弾も速射に変わる。僅かの間も置かず、重季の身体は宙を舞い、滝の側の岩に叩き付けられた。指で虫を弾くように、大蜘蛛の脚で弾かれたのだ。為朝は微動だにしない重季を視界に収めつつ、続けざまに二本の矢を放った。
「実に、実に見事だったぞ。弓の名手と謳われ、鬼をも遣わした阿蘇明神が、いにしえに土蜘蛛を屠った様は、正にあのようなものだったろう」
彼はこれに加えて、果敢に立ち向かった重季も讃える。
ヤマノメはしかし、これらの話には特段の心の動きも示さない。
「では御前様、いえ、その大蜘蛛の最後、如何なる様でありましたか?」
そう、今語った通り、彼もその場に居合わせたのだ。
「ああ、俺の放った礫などはせいぜい牽制するに留まったが、若大将の矢が二射とも、大蜘蛛の頭を貫いたわ」
話の限りなら至近距離、彼女の目を正確に射貫いたであろう。如何に強靱な体躯を誇ろうとも、それではひとたまりもあるまい。
片目を失ったまま、常の通りの人と同じ姿で最期を迎えた万寿を、ヤマノメは思い返す。
「して、その死体は」
「死体? 何故そんな事を聞くんだ」
「夜叉丸様や殿様を疑うつもりはございませぬが、もし万が一にも討ち漏らしていたら、ここに寄せてくるやもと」
「ううむ、それなのだがな。俺が着いた時には消え失せておった。もとより妖など、そうそう骸を晒すものではないのだ」
「お坊様やお侍様はお強いからそれでよろしいでしょう。しかし、それでは私は安心できませぬ」
万寿の最期は確かに看取った、彼女は間違いなく死んだ。だが今のヤマノメはあくまでも、――夜叉丸が勝手に定義した――邪悪な勿怪に囚われていた哀れな女を演じる。
「うぐ、だからな……」
彼は返答に困り、声を詰まらせる。そこへ助け船を出すかの様に部屋の戸が開く。
「若大将」
窮屈そうに鴨居をくぐって廊下に出でたのは為朝。彼は二人を見下ろしながら言う。
「なんだ、戻っておったか。それにお前はヤマノメ、何をしておった」
「いや、先の大蜘蛛との戦いを聞かせておったのです。もう何を恐れる事も無いぞ、と」
ヤマノメが言い訳をする暇もなく、また勝手に話を進める夜叉丸。今の所これはありがたかった。
「そうか。それはもう、どうでもよい。それよりも例の件、進めるぞ」
これに夜叉丸は膝を叩き、すっくと立ち上がる。
「おお、ようようと決心なされましたな。して、いつ頃に」
「明後日にでもと考えておる。出来るな?」
動くのは夜叉丸の手下である彦山の衆と見て間違いあるまい。しかし何をどうするつもりか。ヤマノメはある事を思い出す。
(そうだ、白縫姫が)
彼女が言っていた[私の身に何があっても]との言葉。あれがもし為朝の謀議に係る懸念であったなら、彼らは姫を拐かすか何かして、この地の領主である忠国に強引な連合を持ちかけるつもりかも、という想像も出来る。
実態はまだ不確かなものの、不可解であった姫の言葉と今の彼らとの謀議を照らせば、それらしい企図は見えて来た。
ならば、どうするべきか。
この想像が的を射ており、姫の身に危害が及んだとて、ヤマノメがそれを阻む由は無い、ように思える。しかしヤマノメは、それとは別の思考を浮べていた。
歓喜に近い笑みを浮かべる夜叉丸と、対照的に無表情で語る為朝。ヤマノメは二人に暇乞いする。
「夜叉丸様、お話、楽しゅうございました。白縫様との約束がありますゆえ、そろそろ」
言いながらすぐに身を翻し、彼らに背を向ける。刹那に見えた為朝の眼が酷い悲しみに沈んでいる風にも見えたが、それを気にも留めず歩を進める。
今のヤマノメの胸にあるのは、万寿を討った者達への怒りでもなければ、土蜘蛛に仇為すかも知れない彼らへの敵愾心でもない。
(万寿、お前は何を知って、何をしたかった。奴をどうするつもりだった)
本性を現してまで敵対した相手なのに、最期にはそれを生かすようにと託した。この相反する行為がどこから生まれたのか。
ヤマノメは改めて、喪われた一人の土蜘蛛の後を辿ろうと心に決めた。
第7話注釈
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※1 彦山:現在は英彦山と表記される、福岡県から大分県に跨がる修験の山
※2 六道輪廻:天道、人道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道からなる死後の世界、あるいは心象
第1章 火の国のヤマノメ 一覧
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