楽園の確率~Paradiseshift.第1章 火の国のヤマノメ 火の国のヤマノメ 第6話
所属カテゴリー: 楽園の確率~Paradiseshift.第1章 火の国のヤマノメ
公開日:2016年12月26日 / 最終更新日:2016年12月26日
楽園の確率 ~ Paradise Shift. 第1章
火の国のヤマノメ 第6話
やはり、妖と見破られていた。
めまいの自覚と共に、「今すぐこの男をなんとかせねば」とすら考えるヤマノメとは対照的に、万寿に動揺した様子は一切無く、あえて芝居じみた風に応じる。
「それを聞いて安心いたしました。しかしあの年頃の女子は、心の機微を感じやすいものであります。歳経たヤマノメですらこうなのですから、お心得なさいませ。それにしてもわらわが勿怪とは。確かに京の姫君らには劣るやも知れませぬが、心外にございます」
袖で目元を覆い、「よよよ」とわざとらしい声を上げる万寿。ヤマノメも辛うじて正気を保つが、早鐘を打つ胸の音は止まらない。
為朝はまた、ヤマノメの心奥からの音すらかき消す笑いを上げてから、万寿を慰める。
「気にするな、これこそ物のたとえだ! ところで万寿、義親公の武勇、また聞かせてくれぬか」
「おやおや、わらわの拙いお伽噺もどきが、そんなに気に入りましたかえ?」
「なんの“もどき”なものか。かの東国の英傑や八幡太郎義家公の物語も霞むほどに、お前の語りには熱が籠もっておった。俺の目指した義親公の息吹、そこにまだ在るようにも思えたぞ」(※)
義親とは何者か、いや己の拙い頭でも微かに覚えがある。ヤマノメがここしばらくの記憶を遡ってみると、ひょうずの里での事が思い浮かんだ。そこで交わされた、万寿とひょうずの長、田道間との会話に、僅かに義親なる名が現れていた。
「万寿―御前。義親様とは、一体何者なのですか?」
ずっと里や山に潜んでいた己は、人界の運びなど全く知らぬ。しかし、里を出て旅をしていた万寿や、筑前のひょうずの田道間、それに為朝、彼らが共通して知る人物であるのは理解した。ヤマノメも今、彼らにどの様な繋がりがあるのかが気になっていた。
「お許もか。御曹司に献じたは風説をまとめたただの昔話。さして珍しい物でも無いぞ」
「しかし俺は何度でも聞きたい。どこにも、何者にも、これは綴られていないのだ。そうだヤマノメよ、義親公は俺より遡って二代の源氏嫡流、即ち俺の祖父だ」
だが己が生まれた頃には既にこの世に亡く、自身にとっては最も近しい伝説であるのだと、為朝もまた熱を持って語る。
「そういうことなのだ。万寿よ、次こそ最後まで語ってくれ!」
「それはやぶさかではありませぬ。ただしわらわの願い、叶えた上あれば」
「なんなりと申してみよ。俺にできる限りは応えよう」
「白縫姫とねんごろになりなされ。それで足りぬなら、このヤマノメを迎えるのもよろしい。しかし、わらわを側に置こうなどとは、お思いなさるな」
ヤマノメは「何を勝手に言い出すのだ」と叫び出したいのを堪え、万寿を睨む。しかしそれより、今の言葉も普段通りに笑い飛ばしそうな為朝が存外に静かなのが気になり、視線をそちらへ移す。
彼は尋常に立ち上がり、暇乞いをしようとしていた。
「万寿よ。お前が美しいとか、心地よいとか、なんと言おうか、その様な理合では無い。これはおそらく、予め定まった縁であるのだ」
白縫姫との仲よりも、という意図もあるのか。
為朝はそう言ったきり、黙ったまま重い足音を鳴らして廊下の向こうへ去って行った。
「おい万寿。これはどういうことだ」
「……もう一つの懸念、失念しておったのじゃ」
物憂げな彼女の様子を見るに、やはり自身と為朝との仲が深まるのは本意で無い様子。
これを見てしまうと、先の言葉は戯れとは思えない。しかしながら、確かな思惑があっての言葉でもそれは御免被ると、ヤマノメも先の言に対してだけは憤る。
「そ、それはまあ良い。だが、オレを奴に供するような真似はやめろ」
万寿はこの当然の叱責にも、表情を変えない。
「ヤマノメ、旅は良い。お許も草を枕に彼方へ出でよ。そして微睡み、惑え。あのおのこなどは、その旅路に見合った者ぞ」
浮き世離れした返答。彼女こそ、認識を彼方へ飛ばしているようにも思える。
「突然何を言い出す」
「人と妖が同じ処に居れば、いずれはよからぬ事になる。それより前に安住の地を探すのも、我らの“ありよう”の一つなのだ」
ヤマノメも、そういった者達を多く見送った。誰が彼がと、名や顔も全て覚えている訳でも無いが、その殆どは帰ってこなかったのは知っているし、帰って来た者にも目的を果たした者はいない。
だが――
「お前は、己の言う事が矛盾しているのに気付かないのか? 人と妖が同じ処に居て良からぬ事になると言うのに、なぜ奴が、オレの旅の供に見合うとも言ったのだ」
万寿はいつもの様に、くすりと笑う。
「これはしたり。いや、これもたわぶれであった。しかし意外だの」
「何がだ?」
「お許が姫の為に腹を立てた事じゃ」
「それの何が意外なんだ」
「わらわの様になよっとした、殿方におもねるばかりの女は、嫌いではなかったのかと」
「お前は土蜘蛛だ。人間の女とお前じゃ、事情が違う」
万寿は、はたとした顔をしてから、すぐにクツクツと笑い出す。
「何が可笑しい」
「いやいや確かに、言われてみればその通り。お許がわらわを嫌うのは、土蜘蛛らしく無いからであったな」
ヤマノメはうんざりとして眉を寄せるが、万寿の瞳の奥に今まで見た事も無い色を見て、それ以上詰め寄るのをやめてしまった。
∴
為朝一行の来訪が一時の事では無く、ここしばらく逗留するとの由を聞いた白縫姫は、常に為朝の側に寄り添うようになっていた。
彼女の父忠国の思惑が、婿にとるか嫁に出すかのどちらであれ、二人の仲を引き離そうと考える者はこの館には居ない。無論、ヤマノメと万寿も。
「姫と奴との仲は、順調なようだな」
「うむ。これ以上は、わらわ達がいらぬ世話を焼く必要も無かろう」
為朝が素の姫を愛していると知れたのだ、後は尋常にその仲が落ち着けばよい。
「だが、そうなったとしても、オレ達が奴の監視を離れるわけにはいかないな」
「その通りじゃ、心得るようになったの。わらわが迂闊であったのが一因であるが、あのおのこが駄々をこねたらば、やはり里は危うい」
そうなるならやはりお前が、と喉の奥まで出しかけて、ヤマノメは口をつぐむ。そんな望まぬ身の上に身をやつすなど、土蜘蛛は決して受け入れぬ。この“らしからぬ”土蜘蛛、万寿とて、同衾したのはその必要があるという己の意思の上での行動でしかなかった。
ならば己に例えてと、ヤマノメは切り出す。
「里のためなら、オレは奴に付いて行くべきか?」
万寿の答えは決まっていた。
「お許がそうしたいなら、わらわは諸手を振って送り出し、里にその旨を持ち帰ろうぞ」
万寿は神妙な顔でそう言う。ヤマノメがこれを望まないのは、彼女も承知しているのだ。
「まあ、オレが奴の側に仕えたいと言ったところで、奴の方が受け入れんだろう」
本邦の大半の者には見られぬ、特異な髪と眼の色の持ち主を、人間であれば異人としか見られぬであろう己を好んで側に置く者など居るものか。
人間の嗜好を詳しく知らないながらも、流されたか勝手に連れられて来られた、朝廷に抱えられた者以外の異人の末路などはヤマノメにも想像はつく。
「果たしてそれはどうかの?」
「なにを、そんな物好きが居るもんか」
「少なくとも――源御曹司のお側には、そういう方もおられたろう?」
急に言葉を選び始めた万寿。彼女の視線が廊下の方を向いているのにヤマノメは気づき、耳を澄ませる。耳鳴りと風の音に紛れる程の小さな足音を、ヤマノメの耳は捉えた。
しかし足の運びは、不審な様子も無く自然な物。その主が何の気もなさげに姿を現すと、万寿は「噂をすればなんとやらじゃ」と耳打ちする。
「おうおう。一宮以来だな、ヤマノメ」
襦袢をだらしなく着崩した、ボサボサの長髪に不精髭の男が笑顔で語りかける。
「夜叉様の、わらわを思い消つが如き様。そんなにこの娘にご執心ですかえ?」
男を思い出せず、戸惑っていたヤマノメは、万寿の問いかけでようやく彼を思い出す。万寿をすぐに妖と見破り、しかしヤマノメの正体には気付いた様子も無い、見るからに破戒僧と言った風な男。
同時に彼の表情は、あからさまに嫌な物を見る風な物に変わる。
「万寿とか言ったな。俺は夜叉丸、八町礫の夜叉丸だ。殊更気を遣った風に呼ぶな」
「これはこれは、とんだご無礼を」
頭を下げながらも舌を出して嘲笑う風な貌にする万寿を見て、同じく頭を下げていたヤマノメはこれを少しばかり可笑しく思い、笑いを堪える。
「ほれ、言った通りであろう」
「ああ、しかし参ったな」
二人がヒソヒソと語らうのには気付かないまま、夜叉丸はヤマノメの横に腰を下ろす。
「そろそろ若大将も来る。義親公の逸話を聞くのだと言っていたが、語り部はお主か?」
「いえ、それはわらわが」
顔を上げた万寿に対して、夜叉丸はやはり不快そうな眼差しを向ける。
「お前如きが義親公の何を語る気だ」
「今、夜叉丸様が仰られた通りにございます」
「俺が若大将の側に居る限り、決してお前如きに誑かさせんぞ」
夜叉丸は、ヤマノメを挟んで万寿に顔を寄せ、低い声で更に言い募る。
「……それともう一つ。お前が義親公の最期を知っていたとしても、決して語るなよ」
「何を仰いますやら。もとよりわらわが知るのは、人伝の話でしかありませぬ故」
「それが本当ならば良いがな」
夜叉丸は寄せていた顔を離すと拳を握る。ヤマノメが身構え、対照的に万寿が落ち着いたままその拳を見ていると、彼はそれを誰も居ない外へと向けた。握り拳から親指だけが弾かれると、そちらに咲いていた紫陽花の花が一朶、瞬時に散って砕ける。
某か飛ばしたのか、八町礫の二つ名の所以はそれかと、ヤマノメは察する。
「その様ななりをされていても、やはり明らかな法力の持ち主でありますな」
「思い知ったか。よいな、決して語るなよ。若大将はこれより大事に向かって動くのだ。それに障るような事は、俺だけでなく郎党の誰も、決して許さん」
彼はそう言って立ち上がり、ヤマノメに目配せをしてから立ち去って行った。
「お前を見張るつもりかと思ってたが、あっさり引き下がったな」
ヤマノが夜叉丸の目配せを思い出して身震いしながら言うが、万寿からの返答は無い。
「彼奴らめ、焦ってよからぬ謀(はかりごと)を巡らすつもりか……」
「万寿?」
「あのおのこがそれに乗ったなら、仕置きせねばなるまい」
何を察知したのか知らぬが、いきなり最終手段に打って出ようというのか。彼が倒れた後、里どころか鎮西がどうなるか分からぬため、己ですら幾度も辛抱したと言うのに。
ヤマノメの困惑を正しく読み取り、万寿は笑顔で応える。
「心を落ち着けよ。お許の危ぶむ様にはならぬゆえ、な」
万寿が何を考えているのか、ますます分からない。不安だけがヤマノメの胸中に募る。
「話しておきたいが、そろそろあのおのこが来る。後は結果をご覧ぜよ、じゃ」
「あちらからだと。オレ達の方から出向くんじゃなかったのか?」
「先ほど夜叉丸が言っておったろうに」
万寿が言うのと同時に足音が近づく。今度こそ為朝が、一の郎党であろう重季を伴って現れた。
ヤマノメ達はそちらに向き直り、威儀を正して迎え入れる。
「これは源御曹司様。こちらより赴こうとしておりましたに」
「楽にしろ。いや俺から求めたのだから、こちらから足を運ぶのが道理だ」
そう言って部屋に立ち入ろうとする為朝を、万寿はなぜか制する。
「不躾ながら此度は趣を重んじ、場所を変えて語りたく存じます」
先の夜叉丸の謀から発した考えであろう、これはヤマノメも聞かされていない。
「ほう、場所を変えるとな」
「はい。あのお方を語るに相応しい地で、と」
何をどうするつもりか。ヤマノメは全く読み取れず、成り行きに任せるのみと見守る。為朝の側に控えていた重季はしかし、慌てた様子で彼を諫める。
「若! 今は大事を控えた身、軽率な振る舞いはなりませぬ」
「軽率というなら、今この場に居るのが既にそうだ。今更だ。それに俺はなんとしても聞きたい、聞かねばならぬのだ。あの方の足跡を辿るために」
ならば、と万寿の手を引き、立ち上がらせる為朝。身の丈七尺にも届く大丈夫を、それが五尺にも及ばぬ乙女が見上げる様は、神代の荒神とそれに救われた女のようでもある。
「さあ万寿。いずこなりとも誘ってくれ!」
「ええ、参りましょう!」
邪魔者は無用とばかりに、二人は駆け出す。
残された重季は呆れた風に頭を振る。
「若、自らの武を過信なさるな……」
独りごちてからやおら立ち上がり、二人が去った後の廊下を歩む重季。ヤマノメがよく見れば、彼の手には、一宮で自身も手にした太刀が携えられていた。
ヤマノメが万寿達の後を追おうとした時には、多くが遅過ぎていた。二人は馬で走り去った後。夜叉丸ほかの郎党は残っていたが、重季の姿は無い。彼も為朝を追ったのだ。
馬に乗れぬヤマノメが彼ら彼女らを追う手段は、己が二本の足のみ。今纏う袿では走るのもままならぬと、慣れた肩衣に着替えて飛び出す。丘の中腹の館からほとんど一息に駆け下り、人目に付かぬ経路を辿る。ただ蹄の跡だけは見逃さぬよう、目を懲らしながら。
「どいつもこいつも、いったい何を考えているんだ!」
街から離れた所で息をつかせながらヤマノメは叫ぶ。そうしながら心底に抱えるのは、己以外の誰も彼もが常に様々な思惑の中で過ごしていた事への、忸怩たる思いであった。
万寿は為朝の馬に乗せられ、阿蘇外輪山の内側を南へ延々遠駆けしていた。手綱を握るのは無論為朝であるが、彼は何の疑問も抱かず、万寿に導かれるままに馬を走らせる。
約束通り、万寿が、彼の望む物語を披露しながら。
風情も何もうち捨てた、叫ぶほどの語りが終わる頃には、二人は外輪山から流れ出る小川の一つに辿り着いていた。
馬を降りて河原を遡ると、そこにあったのは静閑な滝を抱く森。初夏の賑々しい虫の声も鳥の声も無い、水の音以外は何も。
幾層にも重なる厚い樹冠の下、肌寒くも感じる小さな滝と淵の側で、万寿と為朝は見つめ合う。
「万寿、よくぞ語ってくれた。武勇の誉れ高き義親公が如何な最期を迎えたのか、俺にはずうっと疑問だったのだ」
「それはようございました。さすれば、わらわの願いもお聞き届け下さいまし」
白縫姫を妻と迎え、同時に万寿を諦める。それが為朝への願い、否、約定であった。
彼は万寿の髪を、その大きな手で荒々しく漉きながら言う。
「……此度、俺は京に呼び戻される事になった」
生糸の如き万寿の髪は、風よりもなめらかに彼の指を透かす。
「ええ、存じております。白縫様にも伺いましたゆえ。みやこへお戻りなさいませ、それが御曹司様の為でもあります」
本来これは、万寿ら土蜘蛛達にとって朗報である。だが彼女の顔にはそれを喜ぶ様子も、当然ながら残念がる様子も無い。今の彼が、これに従わないのが分かっているからだ。
当の為朝は首を振り、万寿の闇色の瞳を覗き込む。
「お前も一緒だ、万寿」
共に京へ、そういう意味だ。采女として迎えるような物か、まさか室として迎えようと言うのではあるまい。どちらにせよ、万寿の答えは決まっている。
「何をのたまうのかと思えば、斯様なたわぶれを。それに我が願いを違えるのですか」
「俺は本気だ。このままでは姫を、鎮西を持ち帰れぬ。ならばせめて義親公の側に在ったお前だけでも。そうでなくば俺は……」
弱々しい眼差しを向ける彼に、万寿は冷ややかな声で応じる。
「鎮西を持ち帰るなどと。ただ姫とねんごろになり、みやこへお戻りになられれば、今はそれでよろしいでしょうに」
「策ならばあるのだ」
「それは、義親様の嫡孫たる御曹司がなさることですかえ」
その企みも、万寿は既に看破していたのだ。これに為朝はうろたえ、苦々しい貌をするが、万寿の非難は更に厳しくなる。
「武に優れた大丈夫、正に彼のお方の再来かと思えば、とんだ悪たれでありますなぁ」
万寿の眼差しは為朝から離れ、滝壺を向く。
「わらわが話の仕舞いに何故この地を選んだのか、如何にお思いですかえ」
為朝は沈黙を続ける。物語を聞くのに夢中で、それ以外の何にも思いを巡らせていなかったのだ。言われてようやく思考をそちらに向けるが、すぐに出る答えでは無い。
「分からぬ。お前に、義親公に、ここで何があった」
「ここは我ら眷属の興った地であり、義親様がわらわを見いだして下さった場所」
この地は、神火を吹く山と青い杜を同時に戴く、瑞穂を育む大地とはまた異なる水の郷。
「ここでお前が、義親公と? はっ、ならばますますの事、俺とお前は、共に在るべきではないか。お前を連れ帰るのは、俺にとって鎮西を持ち帰るのに等しい」
「義親様の末路を知ってまだそう仰るか」
万寿は視線を交わさぬまま半歩あゆみ、軽やかに衣を脱ぎ捨て、彼にしなだれる。
ゴキリ、と万寿の足下で背後で、骨をいくつも一同にへし折った様な、不気味な音が響く。為朝がそちらを見れば、そこには毛に覆われた巨大な蟲の足が六本、突き出ていた。
「これをご覧ぜらるとも、そう、のたまうかえ?」
「ああ、お前が鬼であるなら、俺も鬼となろう」
事を為すためなら、己の形骸すらもすげ替えて見せようと、為朝は語る。
万寿の変化は、足だけで無く腕にも及び、為朝が幾度となく麗しいとまで言ったその顔も、皮を裂いて膨れ上がり、蟲の躯に変わってゆく。
為朝は一切の動揺も見せず、今は己の頭頂より高みで黒く光る、八つの眼を見つめ返す。
「なればいざ見やれ! わらわが、古き妖が、如何なるモノか!」
そこには、為朝が一目で惚れた絶世の美女の姿も、古き縁から一層それを深めさせた女の姿も無かった。ただ巨蟲の体表を覆う真黒な毛は万寿の絹の如き緑髪を思い起こさせ、奈落へ繋がっているとすら思える闇色の八つの眼が、彼女の憂えた瞳を象っていた。
足跡を見失い、森の中をさまようヤマノメの周囲で、ざわりと木々と空気が啼く。
そればかりでなく、明らかな異常を察したであろう山鳥や猛禽ですらも飛び去り、鹿達は遠くを群れで駆けて行く。
ヤマノメは辺りをうかがい、その異変が己から染み出す物と同一の物によるのを知覚する。鳥が風と共にあり、魚が流れる水を求めるのと同じく、常に自身と共にある物。瘴気。
だがそれは今、ヤマノメですら酔ってしまう程に濃密。これほどまでの気に当てられた事など、ヤマノメの暮らしの中では一度も無い。それでも確信する。
「万寿、そっちか!」
鳥獣達の往来を逆に辿る。そうすればこの大元に、彼女らの元へたどり着けるであろうと、ヤマノメは本能的に感じ取っていた。
第6話注釈
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※ 義家:前九年の役、後三年の役で活躍した武将。為朝の曾祖父に当たる。
(東国の英傑とは平将門を意識した物です。「将門クライシス」と交えて誰か書いてないですかね by.ハサマリスト)
火の国のヤマノメ 第6話
やはり、妖と見破られていた。
めまいの自覚と共に、「今すぐこの男をなんとかせねば」とすら考えるヤマノメとは対照的に、万寿に動揺した様子は一切無く、あえて芝居じみた風に応じる。
「それを聞いて安心いたしました。しかしあの年頃の女子は、心の機微を感じやすいものであります。歳経たヤマノメですらこうなのですから、お心得なさいませ。それにしてもわらわが勿怪とは。確かに京の姫君らには劣るやも知れませぬが、心外にございます」
袖で目元を覆い、「よよよ」とわざとらしい声を上げる万寿。ヤマノメも辛うじて正気を保つが、早鐘を打つ胸の音は止まらない。
為朝はまた、ヤマノメの心奥からの音すらかき消す笑いを上げてから、万寿を慰める。
「気にするな、これこそ物のたとえだ! ところで万寿、義親公の武勇、また聞かせてくれぬか」
「おやおや、わらわの拙いお伽噺もどきが、そんなに気に入りましたかえ?」
「なんの“もどき”なものか。かの東国の英傑や八幡太郎義家公の物語も霞むほどに、お前の語りには熱が籠もっておった。俺の目指した義親公の息吹、そこにまだ在るようにも思えたぞ」(※)
義親とは何者か、いや己の拙い頭でも微かに覚えがある。ヤマノメがここしばらくの記憶を遡ってみると、ひょうずの里での事が思い浮かんだ。そこで交わされた、万寿とひょうずの長、田道間との会話に、僅かに義親なる名が現れていた。
「万寿―御前。義親様とは、一体何者なのですか?」
ずっと里や山に潜んでいた己は、人界の運びなど全く知らぬ。しかし、里を出て旅をしていた万寿や、筑前のひょうずの田道間、それに為朝、彼らが共通して知る人物であるのは理解した。ヤマノメも今、彼らにどの様な繋がりがあるのかが気になっていた。
「お許もか。御曹司に献じたは風説をまとめたただの昔話。さして珍しい物でも無いぞ」
「しかし俺は何度でも聞きたい。どこにも、何者にも、これは綴られていないのだ。そうだヤマノメよ、義親公は俺より遡って二代の源氏嫡流、即ち俺の祖父だ」
だが己が生まれた頃には既にこの世に亡く、自身にとっては最も近しい伝説であるのだと、為朝もまた熱を持って語る。
「そういうことなのだ。万寿よ、次こそ最後まで語ってくれ!」
「それはやぶさかではありませぬ。ただしわらわの願い、叶えた上あれば」
「なんなりと申してみよ。俺にできる限りは応えよう」
「白縫姫とねんごろになりなされ。それで足りぬなら、このヤマノメを迎えるのもよろしい。しかし、わらわを側に置こうなどとは、お思いなさるな」
ヤマノメは「何を勝手に言い出すのだ」と叫び出したいのを堪え、万寿を睨む。しかしそれより、今の言葉も普段通りに笑い飛ばしそうな為朝が存外に静かなのが気になり、視線をそちらへ移す。
彼は尋常に立ち上がり、暇乞いをしようとしていた。
「万寿よ。お前が美しいとか、心地よいとか、なんと言おうか、その様な理合では無い。これはおそらく、予め定まった縁であるのだ」
白縫姫との仲よりも、という意図もあるのか。
為朝はそう言ったきり、黙ったまま重い足音を鳴らして廊下の向こうへ去って行った。
「おい万寿。これはどういうことだ」
「……もう一つの懸念、失念しておったのじゃ」
物憂げな彼女の様子を見るに、やはり自身と為朝との仲が深まるのは本意で無い様子。
これを見てしまうと、先の言葉は戯れとは思えない。しかしながら、確かな思惑があっての言葉でもそれは御免被ると、ヤマノメも先の言に対してだけは憤る。
「そ、それはまあ良い。だが、オレを奴に供するような真似はやめろ」
万寿はこの当然の叱責にも、表情を変えない。
「ヤマノメ、旅は良い。お許も草を枕に彼方へ出でよ。そして微睡み、惑え。あのおのこなどは、その旅路に見合った者ぞ」
浮き世離れした返答。彼女こそ、認識を彼方へ飛ばしているようにも思える。
「突然何を言い出す」
「人と妖が同じ処に居れば、いずれはよからぬ事になる。それより前に安住の地を探すのも、我らの“ありよう”の一つなのだ」
ヤマノメも、そういった者達を多く見送った。誰が彼がと、名や顔も全て覚えている訳でも無いが、その殆どは帰ってこなかったのは知っているし、帰って来た者にも目的を果たした者はいない。
だが――
「お前は、己の言う事が矛盾しているのに気付かないのか? 人と妖が同じ処に居て良からぬ事になると言うのに、なぜ奴が、オレの旅の供に見合うとも言ったのだ」
万寿はいつもの様に、くすりと笑う。
「これはしたり。いや、これもたわぶれであった。しかし意外だの」
「何がだ?」
「お許が姫の為に腹を立てた事じゃ」
「それの何が意外なんだ」
「わらわの様になよっとした、殿方におもねるばかりの女は、嫌いではなかったのかと」
「お前は土蜘蛛だ。人間の女とお前じゃ、事情が違う」
万寿は、はたとした顔をしてから、すぐにクツクツと笑い出す。
「何が可笑しい」
「いやいや確かに、言われてみればその通り。お許がわらわを嫌うのは、土蜘蛛らしく無いからであったな」
ヤマノメはうんざりとして眉を寄せるが、万寿の瞳の奥に今まで見た事も無い色を見て、それ以上詰め寄るのをやめてしまった。
∴
為朝一行の来訪が一時の事では無く、ここしばらく逗留するとの由を聞いた白縫姫は、常に為朝の側に寄り添うようになっていた。
彼女の父忠国の思惑が、婿にとるか嫁に出すかのどちらであれ、二人の仲を引き離そうと考える者はこの館には居ない。無論、ヤマノメと万寿も。
「姫と奴との仲は、順調なようだな」
「うむ。これ以上は、わらわ達がいらぬ世話を焼く必要も無かろう」
為朝が素の姫を愛していると知れたのだ、後は尋常にその仲が落ち着けばよい。
「だが、そうなったとしても、オレ達が奴の監視を離れるわけにはいかないな」
「その通りじゃ、心得るようになったの。わらわが迂闊であったのが一因であるが、あのおのこが駄々をこねたらば、やはり里は危うい」
そうなるならやはりお前が、と喉の奥まで出しかけて、ヤマノメは口をつぐむ。そんな望まぬ身の上に身をやつすなど、土蜘蛛は決して受け入れぬ。この“らしからぬ”土蜘蛛、万寿とて、同衾したのはその必要があるという己の意思の上での行動でしかなかった。
ならば己に例えてと、ヤマノメは切り出す。
「里のためなら、オレは奴に付いて行くべきか?」
万寿の答えは決まっていた。
「お許がそうしたいなら、わらわは諸手を振って送り出し、里にその旨を持ち帰ろうぞ」
万寿は神妙な顔でそう言う。ヤマノメがこれを望まないのは、彼女も承知しているのだ。
「まあ、オレが奴の側に仕えたいと言ったところで、奴の方が受け入れんだろう」
本邦の大半の者には見られぬ、特異な髪と眼の色の持ち主を、人間であれば異人としか見られぬであろう己を好んで側に置く者など居るものか。
人間の嗜好を詳しく知らないながらも、流されたか勝手に連れられて来られた、朝廷に抱えられた者以外の異人の末路などはヤマノメにも想像はつく。
「果たしてそれはどうかの?」
「なにを、そんな物好きが居るもんか」
「少なくとも――源御曹司のお側には、そういう方もおられたろう?」
急に言葉を選び始めた万寿。彼女の視線が廊下の方を向いているのにヤマノメは気づき、耳を澄ませる。耳鳴りと風の音に紛れる程の小さな足音を、ヤマノメの耳は捉えた。
しかし足の運びは、不審な様子も無く自然な物。その主が何の気もなさげに姿を現すと、万寿は「噂をすればなんとやらじゃ」と耳打ちする。
「おうおう。一宮以来だな、ヤマノメ」
襦袢をだらしなく着崩した、ボサボサの長髪に不精髭の男が笑顔で語りかける。
「夜叉様の、わらわを思い消つが如き様。そんなにこの娘にご執心ですかえ?」
男を思い出せず、戸惑っていたヤマノメは、万寿の問いかけでようやく彼を思い出す。万寿をすぐに妖と見破り、しかしヤマノメの正体には気付いた様子も無い、見るからに破戒僧と言った風な男。
同時に彼の表情は、あからさまに嫌な物を見る風な物に変わる。
「万寿とか言ったな。俺は夜叉丸、八町礫の夜叉丸だ。殊更気を遣った風に呼ぶな」
「これはこれは、とんだご無礼を」
頭を下げながらも舌を出して嘲笑う風な貌にする万寿を見て、同じく頭を下げていたヤマノメはこれを少しばかり可笑しく思い、笑いを堪える。
「ほれ、言った通りであろう」
「ああ、しかし参ったな」
二人がヒソヒソと語らうのには気付かないまま、夜叉丸はヤマノメの横に腰を下ろす。
「そろそろ若大将も来る。義親公の逸話を聞くのだと言っていたが、語り部はお主か?」
「いえ、それはわらわが」
顔を上げた万寿に対して、夜叉丸はやはり不快そうな眼差しを向ける。
「お前如きが義親公の何を語る気だ」
「今、夜叉丸様が仰られた通りにございます」
「俺が若大将の側に居る限り、決してお前如きに誑かさせんぞ」
夜叉丸は、ヤマノメを挟んで万寿に顔を寄せ、低い声で更に言い募る。
「……それともう一つ。お前が義親公の最期を知っていたとしても、決して語るなよ」
「何を仰いますやら。もとよりわらわが知るのは、人伝の話でしかありませぬ故」
「それが本当ならば良いがな」
夜叉丸は寄せていた顔を離すと拳を握る。ヤマノメが身構え、対照的に万寿が落ち着いたままその拳を見ていると、彼はそれを誰も居ない外へと向けた。握り拳から親指だけが弾かれると、そちらに咲いていた紫陽花の花が一朶、瞬時に散って砕ける。
某か飛ばしたのか、八町礫の二つ名の所以はそれかと、ヤマノメは察する。
「その様ななりをされていても、やはり明らかな法力の持ち主でありますな」
「思い知ったか。よいな、決して語るなよ。若大将はこれより大事に向かって動くのだ。それに障るような事は、俺だけでなく郎党の誰も、決して許さん」
彼はそう言って立ち上がり、ヤマノメに目配せをしてから立ち去って行った。
「お前を見張るつもりかと思ってたが、あっさり引き下がったな」
ヤマノが夜叉丸の目配せを思い出して身震いしながら言うが、万寿からの返答は無い。
「彼奴らめ、焦ってよからぬ謀(はかりごと)を巡らすつもりか……」
「万寿?」
「あのおのこがそれに乗ったなら、仕置きせねばなるまい」
何を察知したのか知らぬが、いきなり最終手段に打って出ようというのか。彼が倒れた後、里どころか鎮西がどうなるか分からぬため、己ですら幾度も辛抱したと言うのに。
ヤマノメの困惑を正しく読み取り、万寿は笑顔で応える。
「心を落ち着けよ。お許の危ぶむ様にはならぬゆえ、な」
万寿が何を考えているのか、ますます分からない。不安だけがヤマノメの胸中に募る。
「話しておきたいが、そろそろあのおのこが来る。後は結果をご覧ぜよ、じゃ」
「あちらからだと。オレ達の方から出向くんじゃなかったのか?」
「先ほど夜叉丸が言っておったろうに」
万寿が言うのと同時に足音が近づく。今度こそ為朝が、一の郎党であろう重季を伴って現れた。
ヤマノメ達はそちらに向き直り、威儀を正して迎え入れる。
「これは源御曹司様。こちらより赴こうとしておりましたに」
「楽にしろ。いや俺から求めたのだから、こちらから足を運ぶのが道理だ」
そう言って部屋に立ち入ろうとする為朝を、万寿はなぜか制する。
「不躾ながら此度は趣を重んじ、場所を変えて語りたく存じます」
先の夜叉丸の謀から発した考えであろう、これはヤマノメも聞かされていない。
「ほう、場所を変えるとな」
「はい。あのお方を語るに相応しい地で、と」
何をどうするつもりか。ヤマノメは全く読み取れず、成り行きに任せるのみと見守る。為朝の側に控えていた重季はしかし、慌てた様子で彼を諫める。
「若! 今は大事を控えた身、軽率な振る舞いはなりませぬ」
「軽率というなら、今この場に居るのが既にそうだ。今更だ。それに俺はなんとしても聞きたい、聞かねばならぬのだ。あの方の足跡を辿るために」
ならば、と万寿の手を引き、立ち上がらせる為朝。身の丈七尺にも届く大丈夫を、それが五尺にも及ばぬ乙女が見上げる様は、神代の荒神とそれに救われた女のようでもある。
「さあ万寿。いずこなりとも誘ってくれ!」
「ええ、参りましょう!」
邪魔者は無用とばかりに、二人は駆け出す。
残された重季は呆れた風に頭を振る。
「若、自らの武を過信なさるな……」
独りごちてからやおら立ち上がり、二人が去った後の廊下を歩む重季。ヤマノメがよく見れば、彼の手には、一宮で自身も手にした太刀が携えられていた。
ヤマノメが万寿達の後を追おうとした時には、多くが遅過ぎていた。二人は馬で走り去った後。夜叉丸ほかの郎党は残っていたが、重季の姿は無い。彼も為朝を追ったのだ。
馬に乗れぬヤマノメが彼ら彼女らを追う手段は、己が二本の足のみ。今纏う袿では走るのもままならぬと、慣れた肩衣に着替えて飛び出す。丘の中腹の館からほとんど一息に駆け下り、人目に付かぬ経路を辿る。ただ蹄の跡だけは見逃さぬよう、目を懲らしながら。
「どいつもこいつも、いったい何を考えているんだ!」
街から離れた所で息をつかせながらヤマノメは叫ぶ。そうしながら心底に抱えるのは、己以外の誰も彼もが常に様々な思惑の中で過ごしていた事への、忸怩たる思いであった。
万寿は為朝の馬に乗せられ、阿蘇外輪山の内側を南へ延々遠駆けしていた。手綱を握るのは無論為朝であるが、彼は何の疑問も抱かず、万寿に導かれるままに馬を走らせる。
約束通り、万寿が、彼の望む物語を披露しながら。
風情も何もうち捨てた、叫ぶほどの語りが終わる頃には、二人は外輪山から流れ出る小川の一つに辿り着いていた。
馬を降りて河原を遡ると、そこにあったのは静閑な滝を抱く森。初夏の賑々しい虫の声も鳥の声も無い、水の音以外は何も。
幾層にも重なる厚い樹冠の下、肌寒くも感じる小さな滝と淵の側で、万寿と為朝は見つめ合う。
「万寿、よくぞ語ってくれた。武勇の誉れ高き義親公が如何な最期を迎えたのか、俺にはずうっと疑問だったのだ」
「それはようございました。さすれば、わらわの願いもお聞き届け下さいまし」
白縫姫を妻と迎え、同時に万寿を諦める。それが為朝への願い、否、約定であった。
彼は万寿の髪を、その大きな手で荒々しく漉きながら言う。
「……此度、俺は京に呼び戻される事になった」
生糸の如き万寿の髪は、風よりもなめらかに彼の指を透かす。
「ええ、存じております。白縫様にも伺いましたゆえ。みやこへお戻りなさいませ、それが御曹司様の為でもあります」
本来これは、万寿ら土蜘蛛達にとって朗報である。だが彼女の顔にはそれを喜ぶ様子も、当然ながら残念がる様子も無い。今の彼が、これに従わないのが分かっているからだ。
当の為朝は首を振り、万寿の闇色の瞳を覗き込む。
「お前も一緒だ、万寿」
共に京へ、そういう意味だ。采女として迎えるような物か、まさか室として迎えようと言うのではあるまい。どちらにせよ、万寿の答えは決まっている。
「何をのたまうのかと思えば、斯様なたわぶれを。それに我が願いを違えるのですか」
「俺は本気だ。このままでは姫を、鎮西を持ち帰れぬ。ならばせめて義親公の側に在ったお前だけでも。そうでなくば俺は……」
弱々しい眼差しを向ける彼に、万寿は冷ややかな声で応じる。
「鎮西を持ち帰るなどと。ただ姫とねんごろになり、みやこへお戻りになられれば、今はそれでよろしいでしょうに」
「策ならばあるのだ」
「それは、義親様の嫡孫たる御曹司がなさることですかえ」
その企みも、万寿は既に看破していたのだ。これに為朝はうろたえ、苦々しい貌をするが、万寿の非難は更に厳しくなる。
「武に優れた大丈夫、正に彼のお方の再来かと思えば、とんだ悪たれでありますなぁ」
万寿の眼差しは為朝から離れ、滝壺を向く。
「わらわが話の仕舞いに何故この地を選んだのか、如何にお思いですかえ」
為朝は沈黙を続ける。物語を聞くのに夢中で、それ以外の何にも思いを巡らせていなかったのだ。言われてようやく思考をそちらに向けるが、すぐに出る答えでは無い。
「分からぬ。お前に、義親公に、ここで何があった」
「ここは我ら眷属の興った地であり、義親様がわらわを見いだして下さった場所」
この地は、神火を吹く山と青い杜を同時に戴く、瑞穂を育む大地とはまた異なる水の郷。
「ここでお前が、義親公と? はっ、ならばますますの事、俺とお前は、共に在るべきではないか。お前を連れ帰るのは、俺にとって鎮西を持ち帰るのに等しい」
「義親様の末路を知ってまだそう仰るか」
万寿は視線を交わさぬまま半歩あゆみ、軽やかに衣を脱ぎ捨て、彼にしなだれる。
ゴキリ、と万寿の足下で背後で、骨をいくつも一同にへし折った様な、不気味な音が響く。為朝がそちらを見れば、そこには毛に覆われた巨大な蟲の足が六本、突き出ていた。
「これをご覧ぜらるとも、そう、のたまうかえ?」
「ああ、お前が鬼であるなら、俺も鬼となろう」
事を為すためなら、己の形骸すらもすげ替えて見せようと、為朝は語る。
万寿の変化は、足だけで無く腕にも及び、為朝が幾度となく麗しいとまで言ったその顔も、皮を裂いて膨れ上がり、蟲の躯に変わってゆく。
為朝は一切の動揺も見せず、今は己の頭頂より高みで黒く光る、八つの眼を見つめ返す。
「なればいざ見やれ! わらわが、古き妖が、如何なるモノか!」
そこには、為朝が一目で惚れた絶世の美女の姿も、古き縁から一層それを深めさせた女の姿も無かった。ただ巨蟲の体表を覆う真黒な毛は万寿の絹の如き緑髪を思い起こさせ、奈落へ繋がっているとすら思える闇色の八つの眼が、彼女の憂えた瞳を象っていた。
足跡を見失い、森の中をさまようヤマノメの周囲で、ざわりと木々と空気が啼く。
そればかりでなく、明らかな異常を察したであろう山鳥や猛禽ですらも飛び去り、鹿達は遠くを群れで駆けて行く。
ヤマノメは辺りをうかがい、その異変が己から染み出す物と同一の物によるのを知覚する。鳥が風と共にあり、魚が流れる水を求めるのと同じく、常に自身と共にある物。瘴気。
だがそれは今、ヤマノメですら酔ってしまう程に濃密。これほどまでの気に当てられた事など、ヤマノメの暮らしの中では一度も無い。それでも確信する。
「万寿、そっちか!」
鳥獣達の往来を逆に辿る。そうすればこの大元に、彼女らの元へたどり着けるであろうと、ヤマノメは本能的に感じ取っていた。
第6話注釈
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※ 義家:前九年の役、後三年の役で活躍した武将。為朝の曾祖父に当たる。
(東国の英傑とは平将門を意識した物です。「将門クライシス」と交えて誰か書いてないですかね by.ハサマリスト)
第1章 火の国のヤマノメ 一覧
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