楽園の確率~Paradiseshift.第1章 火の国のヤマノメ 火の国のヤマノメ 第5話
所属カテゴリー: 楽園の確率~Paradiseshift.第1章 火の国のヤマノメ
公開日:2016年12月19日 / 最終更新日:2016年12月19日
楽園の確率 ~ Paradise Shift. 第1章
火の国のヤマノメ 第5話
忠国の館の裾に広がる街は遠目で見えた通り豊かであり、往来に並ぶ店も人も活気に溢れていた。
往来を横断する形で犬を追い立てていた子供が、鎧武者を乗せた足の太い赤馬を見て、すぐに道の端に避ける。他の人々は既に、その隊列の進路から退いていた。
それらは畏れからの行動では無い。誰も彼もが、その騎馬武者に喜ばしげな眼差しを向けていた。
黒鹿毛に跨がる騎馬武者は当然、白縫姫。街の人々は「姫御前のお帰りだ」などと、敬いつつもはやし立てる。
「調練を兼ねた狩りから帰っただけだけなのに、みんな大げさだなぁ」
そう馬上で呟く姫であるが、兵が板に乗せて馬で引く獲物は、尋常では無い大物。それを見た人々は益々沸き立ち、姫は物憂げに溜め息を漏らす。
そんな彼女の様子には気付かず、横に並んで歩くヤマノメは切り出す。
「ときに白縫様、オレ、、、私達は宿を取ろうと思っていたので、ここでお別れを――」
「折角の縁だ、客として館に招こうぞ」
もし父が何か文句を言うならばそれも説得すると、彼女は意気揚々と言い放つ。
「しかし、猪から救って頂いた上にこれ以上お世話になるのは、私達も心苦しいのです」
「何を言う、あの様な満足な獲物を授けてくれたでは無いか。それに万寿にも手当の用があろうに」
先の狩りの様子を見る限り武芸にも明るい姫らしく、それに見合う程に、ヤマノメですら負ける程に、押しが強い。
忠国に取り入って館に出入りし、彼女と為朝の仲がどうなるか――ではなく、為朝と忠国との連合が成るか否かを見極めるのが、ヤマノメ達の目論見である。館に招かれるのは望むところであり、断る理由は何も無い。
ヤマノメが、後方の馬上にある万寿をチラと見やれば、彼女はやはり上機嫌。何か懸念を抱いている様子はどこにも無い。
「では、恐れ多くはありますが、ご厄介になります」
「気にせずともいい。それより私こそ、お許らには世話になるやも知れぬからな」
己らが何をとヤマノメは思うが、その問いは肚に収めて、そびえる山城を見上げる。
活気のある街、領民に慕われる姫、そしてこの城。
(なるほど、為朝が協力させようとする訳だ)
攻めるよりも、懐柔出来るならそうした方が上策に決まっている。それが為朝本人の考えか郎党からの献策か、いずれにせよ、実際にそれを採ったのは彼に違いない。
音に聞こえる彼個人の武などは、誰にも疑いようは無い。その上でこれだけの戦略を取れるなら、人心はより彼に傾くであろう。この程度の理合はヤマノメにも分かる。
ただそれは同時に、この姫に対する彼の思いが、ヤマノメ達が思う以上に打算的な物である裏付けにもなりそうである。
ヤマノメは、逆に彼女の思いは如何なのであろうかと、大部分が吹き返しに隠れた姫武者の横顔を僅かに見上げる。
「どうした?」
死角から向けた視線に気付かれるとは思っていなかったため、ヤマノメは驚く。
「ああいえ、山のお館までだと、ずいぶん登るなぁと思いまして」
「安心せよ、あそこまでは行かぬ」
ヤマノメが「えっ」と声を漏らす時には、既に山道に差し掛かっていた。
「それより、くたびれたなら乗せてやるぞ」
「それは大丈夫、いえ、恐れ多い事ですので」
開かれた山道を行き、山の中腹に拓かれた土地に忠国の館はあった。それより上、遠目から見えていたおよそ八合目辺りの城は、あくまで戦向けの館なのであろう。
門衛は白縫姫の一団の帰還を待ち受けていたようで既に門扉は開かれていたが、ヤマノメがそこを通ろうとすると、門衛はそれを見咎めて立ちはだかる。
ヤマノメは小さく舌打ちをしてから、万寿に救いを求める目を向ける。一応は。
馬上の彼女が、若葉の肩越しに門衛に事の次第を述べようとすると、先んじて姫が言いつける。
「この者達はあの大猪に追われていたのだ。猪は私が仕留めたが、あの通り、若葉と共に馬に乗る万寿なる者が怪我をしてしまったので、手当もしようと思ってな」
門衛は板の上の大猪に目を見開きながら、しどろもどろと反論。
「しかし、お殿様がどう言われるか」
「聞けば万寿と、このヤマノメは、京から下って鎮西で興行をしてきた白拍子との事。父上もたびたび京風に触れたいと言っていたし、快く迎えるであろう」
いいから通すのだと、これ以上の問答は無用と門衛を押しのける。ヤマノメが門をくぐる時に見えた門衛の表情はしかし柔らかいもので、姫のこの様な面も含めて慕われているのだと察せられた。
二人きりの白拍子の一座は、荷と共に館の一室へ通される。
四方の襖には金箔も施した風景画が描かれ、寝所には畳まで敷かれている。ヤマノメなどは、この様な場所へ立ち入った覚えも無い。
「ふむ、これは京の公家もかくやと言うところか」
万寿が感心して呟く。
「そうだ、さっき門を通る時に姫様が、ここの殿様が京風に触れたがっていると言っていたぞ」
天井にも施された細工を見上げながら、ヤマノメがそう伝える。
「なるほど、それでかの」
「それで? ああオレ達の、この待遇がか」
傷を負った――と見せかけた――万寿の身をおもんばかったのも嘘ではあるまい。しかし、そういった事情もあっての招きと見て取れる。
「それならそれで、逗留についての心配は無いかのぉ。それにしてもこの襖の箔、最近肥後の国内だけで金の卸が順調と聞いておったが、ここであったか」
万寿が庭に面した襖を眺めながら答えていると、開かれたそちらに、浅葱色の袿(うちぎ)を纏った少女が姿を現す。
万寿はすぐに彼女に正対し、片膝を着いて頭を垂れる。ヤマノメもそちらには向いたものの、何事か分からず突っ立ったまま。
「こりゃヤマノメ! こちらの姫御前、白縫様ぞ」
万寿がは珍しく声を荒げて一喝。そうは言われても、ヤマノメには虫も殺せなさそうなこの姫が、大猪を二矢で仕留めたあの武者と同一人物とはとても思えず、ますます呆気にとられて立ち尽くす。
文字通り頭のてっぺんからつま先まで完全武装であったため、その上背と兜から覗いた顔しか認識し得なかった。
ヤマノメが膝を着くより先に、彼女からは「楽にしてくれ」と言葉が掛けられる。声を聞いてようやく、その顔が姫武者と一致する。そして思いの外に若い事にも気付いた。
よく日に当たっているにも関わらず肌はきめ細かく、白粉いらずの白さを保っている。少し広い額はそこに知恵が詰まっている事を表し、そこにはこれも塗っていない地の眉が、低いながらもスッと通った鼻筋と共に意志の強さを見せる。腰より下まで伸びた垂れ髪は万寿のように艶やかとは言えないが、兜に押し込んで駆け回る日常ならば仕方が無い。
ヤマノメ達の見た目の歳よりもなお若く、それこそ為朝と同い年と見られる。もっともあちらは見た目より歳を経た風にも感じるが、これは体格を加味しての印象でもある。
為朝の好みに沿うかどうかは分からないが、ヤマノメから見れば羨ましいほどの美しさではある。これまで、美しいのが羨ましいなどと、意識した覚えは無いが。
「ご無礼いたしました。先の見事な武者姿に違い、余りに美しかったもので……」
僅かな語彙で心情を表そうとするが、早速それも尽きる。これに対し姫が大きな溜め息をつき、ヤマノメは失言だったかと脂汗を流す。
「言葉は嬉しいが、それが悩みなのだ」
どうやら気分を害した風では無く、ヤマノメは一安心。ただ次に、姫がどかりと腰を下ろしたのには、これは武者姿の方が似合っていると半ば考えを改めた。
万寿などは姫の今の有様に、膝に添えていた腕から力を抜かし、盛大に体を傾ける。
「白縫様、なんと申しましょうかその、女子らしい所作を――」
万寿の直接的な苦言にヤマノメは驚くが、すかさず発せられた姫の言葉には更に驚く。
「そう、それなのだ! 万寿、ヤマノメ、私にその“女子らしさ”を授けてくれ!」
二人は顔を見合わせ、次いでうなだれる姫に視線を戻す。
姫曰く、今まで武術や軍事には親しんで来たが、詩歌(しいか)の嗜みなどは皆無。舞も田楽に親しむ程度であり、それらを合わせて女子らしい振る舞いには全く馴染んでいない。それもこれも、父である忠国の方針故である。
「一人娘の私を、籠の鳥のようには閉じ込めなかった父上には感謝している。しかし、己が手で疱瘡病魔を退けられるようにとの由で、鍛えられすぎた……」
そこまで聞いてふと、ヤマノメは気付いた。
そんな忠国が今になって京風に触れようとしている。これは京から下って来た源氏の御曹司である為朝を当地に迎えようと意識してでは、と。
「白縫様。誠に申し訳ないのですが、私もその、まだ白拍子などは真似事程度ですので、その辺りは私の師でもある、この万寿御前に師事されるのがよろしいかと」
後は任せたというヤマノメの求めにも、彼女は笑顔で応える。
「ええ、その様な事情でしたら、お引き受けいたしましょう。ときに白縫様は、何故今になって、斯様な振る舞いの手習いをと仰るのです?」
無論承知しているが、ここは本人の口からも確認したい。
姫は、その白い頬を瞬く間に紅く染める。
「源御曹司様が、たびたび私の元へいらっしゃるのだが、私は弓矢の手ほどきを受けるだけで、その、私は女子らしい行いが何一つ出来ぬのでな……」
源御曹司とは鎮西八郎と称する源為朝、二人とも知っているだろう等と、今度は早口になってまくしたてる姫。
先の狩りの様子から、為朝の弓術をあっさりと体得したであろう手前には流石だと感心。しかしそれとの壮大な落差を見せる彼女の落ち込みようは、二人の土蜘蛛もある意味微笑ましく思っている。
「もちろん、存じております。先日もわらわ達が一宮への寄進で訪れた折、ちょうど御曹司の御前でヤマノメが一舞いたしました故」
「本当か! ならば尚のこと、お許に色々と習いたい!」
「ええ、ええ、わらわとしても、それが成るなら大業と言えましょう。しかと引き受けます故、よろしくお願いいたします。それとこのヤマノメも先の様に申し上げましたが、わらわが不在であれば、代わりにこれが必要な手ほどきはいたします」
最後に何を言い出すのかとヤマノメは睨むが、口に出して反論する訳にもいかない。
「うむ、まずは手当をしてからになろうが、よろしく頼むぞ」
言って、堂々と立ち上がって去って行く姫。
ヤマノメは今度こそ姿勢を崩し、身体を床に投げ出してから喚く。
「お前が居ない時はオレが、だと? 寝言は寝てから言え」
「しかし他に適任者などおらぬだろう?」
「あの若葉という女はどうなんだ」
「姫の立場からすれば、今更侍女にそんな事を習う訳にもいかぬであろうに」
「まあ、それもそうかも知れないが……」
ヤマノメも、それらしい所作については、舞と共に万寿に教え込まれた。最近の事でもあるし、これを姫に教えろと言われれば身につけた限りの事は出来ようと一応納得。
「あの娘と為朝の仲が深まるのは、やはりオレ達にとっても良い事なのか?」
「然り。姫との婚姻関係が成れば、為朝もこれ以上周囲で暴れる様な真似はせぬであろうからの。しかし懸念はある」
「あの夜叉丸とかいう坊主か」
「わらわを土蜘蛛と察したのであれば、為朝との婚姻、連合の後にも、里に対して何らかの行動を起こさせるやも知れぬ」
「しかしそれを除けば、為朝と姫がねんごろになるのは、と」
「その通りじゃ。だがそれに加えてもう一つな」
「まだ何か?」
「忠国からすれば、ただ一人のいとおし娘を京に送り出すのは辛かろう。為朝を婿入りさせるつもりかとも考えられる。これを為朝が、否、郎党が飲むであろうかと」
万寿の言葉は、ヤマノメ自身の推測を裏付ける物であるが、ヤマノメは腑に落ちない風に首を傾げる。
「人間とは、そういう物なのか。それはさておき、場合によっては、はなから婚姻関係が成らぬ恐れもあったか」
万寿は「その通りだと」答えてから頬杖を突き、ほぉと息を吐く。
「わらわとしては、なんとしてもくっつけたいのではあるがのぉ」
彼女は言いながら、寝転がるヤマノメを見やる。
「なぜそんな事を言いながら、オレを見る」
「ふむ、何でも無いぞえ」
またぞろろくでも無い事を考えているのではとヤマノメは思うが、今までは万寿の考えに従ってここまで上手くやれてきた。ならばこれからも同じくするのみ。それに、彼女の思惑の全体像はともかく、為朝と姫の婚姻の重要性については異議も無かった。
∴
ヤマノメ達の逗留以来、白縫姫はよく万寿の元に訪れ、ヤマノメと共に教えを受けた。
まず女性らしい所作などは、普段から行動を共にする事で学び、作法や事細かな立ち居振舞などは、万寿が細々と説く。
武芸からはなるべく遠ざけたい所、身に染みついた習慣であり父親の方針でもあり、それを止めさせる事は出来なかった。
それでもヤマノメより覚えは良く、今は詩歌についての手習いの最中。
「歌などは己の思うままに作れば良いのです。ただ、先達の歌によく親しみ、多くの事物にも触れるのが、上達の助けになりましょう」
言って万寿は、万葉集や勅撰(ちょくせん)(※1)の歌集から覚えている限りの歌を選び、そらんじつつも、その意味を語る。一首をとってもよく覚えられる物だと感心するばかりなのに、それが十首もまとめて淡々と吟じられるのである。ヤマノメなどは口を開けて呆けてしまっている。
「これらの歌、何事かを唄った物であるか、解せましょうや?」
問われたのは姫。ヤマノメには語りかけるのも無駄であると、万寿は承知していた。
いずれの歌も、一貫した様式の物であった。それが分かるかと問うたのである。
「うむ、いずれの歌も天象や草花を唄っているが、裏に秘めている物があるように思う」
「お見それいたしました。その通り、これらは寄物陳思(きぶつちんし)と申しまして、事物に思いを乗せた歌でございます。例えば――」
ふりさけて 三日月見れば
一目見し 人の眉引き 思ほゆるかも
「――これは、夜空に浮かぶ三日月に思い人の顔を重ねた、十六歳の少年の恋歌であります。そう、姫のその様な眉に、源八郎様も斯様な事を思い浮かべているやも知れませぬ」
これに姫は、頬どころか顔を真っ赤にして、そのまま両手で面を覆ってしまう。
「そんな、眉も引かぬ私如きに、為朝様がその様な事を思うわけが無い! 戯れもほどほどにしてくれ、万寿」
しかし手のひらの覆いから覗く顔は実に嬉しそうである。ヤマノメはその様にようやく認識を取り戻し、なんとかそれらしい言葉を絞り出す。
「私もまだ、男女の間の物事はよく分かりませんが、為朝様は一目惚れし易い方に見えました。姫の元へ幾度となく足を運ぶのは、やはりそう思っての事かと」
「ヤマノメ」
「はぁ?」
「姫の馬にも乗れなんだのに、わらわの話の尻馬には乗るのかえ?」
顔はいつも通り微笑んだままであるが、目だけがいつもと違う。
どの辺りをしくじったのかヤマノメには分からないが、「要らぬ事をのたまうぐらいなら黙っておけ」と言う代わりなのは理解出来た。
万寿には非難されたが、姫だけはますます上機嫌ではしゃいでいる。二人は視線を交わし合い「これでもか?」「これでもだ」と短い応酬をする。
「ほんにヤマノメまで何を言うのだ。いやしかし、私が為朝様をそう歌ったなら、彼のお方は喜んで下さるであろうか!?」
「ああ、その様に姫に言ってもらえたら、俺も嬉しいなぁ!」
女ばかりの場に、唐突に投げ込まれた男の声。為朝当人であった。女三人が恋歌の心を語るのに夢中になっている間に、尋常に現れただけである。
彼は共に訪れた重季を控えさせ、女三人のど真ん中に、どっかと腰を下ろす。
「大猪の話、家人から聞きましたぞ。弓馬の手前に留まらず歌もか、欲張りな姫よのぉ」
そう言われた姫は、人目を憚らず、為朝の手に己が諸手を重ねて目を輝かせる。
「八郎様より賜った弓の技はあの通りですが、まだまだ足りませぬ」
「うむ、うむ。しからば俺も、紅い牡丹の花を口にしたいものだ」
為朝がそう述べると、黙って控えていた重季が前に出る。
「白縫様。実は我らも、行きがけにシシを仕留めて参りました」
「まぁ、姫の獲物には及ばんがなぁ!」
また高らかに笑う為朝。詰まるところ「せめて手ずからの料理を期待する」、との願い。姫はこれに上機嫌で応じる。
「万寿、半端で済まぬが、他ならぬ為朝様のためだ。それにお許らも為朝様とは面識があるのだろう。夕餉まで、話に花咲かせてくれ」
場を辞していそいそと廊下に出る姫を見送りつつ、為朝は重季に目配せする。従前よりの行動だったのであろうか、重季は何も言わず、姫を守る様に後に続いて行った。
二つの足音が遠ざかり、僅かな静寂が戻ると、為朝はすぐに万寿に向き直る。
「久しいな、万寿」
姫の前であったからか、二人には見向きもしなかった為朝も、彼女が居なくなれば遠慮無しと言う風に親しげに語りかける。
「久しいと仰るほど間を開けたかは分かりませぬが、お見知りおき下さった事、嬉しゅう思います」
彼はヤマノメにも一瞥くれる。
「久しい久しい。一日千秋とは、この様な心持ちを言うのであろうか」
今の言葉、白縫姫との相思相愛ぶりを否定しかねぬもの。
この場は唖(おし)(※2)の如く口を閉ざしていようと、暗に心に決めていたヤマノメであったが、今の言葉にこの決意はすぐ崩れた。
「……それが、御曹司のお心でしょうか?」
明るい鳶色の目が金色に光り、為朝の目を見返す。己が心情を上手く表す言葉を持たないヤマノメであるが、この一言には存分に今の感情を込めた。
為朝はこれに何らひるみもせず、その無礼に怒りもしない。
「これは大変なご無礼を。この娘、こういう所だけは聡くてわらわも参っておりまする。しかしわらわも、貴方様の白縫様への想いがただの打算なのか、お聞きしとう存じます」
今現在、姫と彼との仲が、土蜘蛛の運命を決めかねない。万寿はヤマノメを制しつつ、自身こそ計算高く問いかけた。
「惑うまでも無い、いずれの想いも真だ」
英雄色を好むとは古くから言うが、彼もまたその一人なのであろう。
「姫がそこらの市井の娘であっても、あの気性を俺は愛でよう。そして万寿、例えお前が勿怪であったとて、俺の心は変わらぬ」
ヤマノメは、手を差し出せば届く場所に居る為朝との距離を見失う錯覚を覚える。
万寿の最も大きな懸念を、彼は既に手にしていたのだ。
第5話注釈
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※1 勅撰:天皇の命令によって編纂された、詩文をまとめた書物。古今和歌集など。
※2 唖:聴覚障害等による、発話障害者の古い呼称。盲(めくら)等と同じく差別用語とされる
火の国のヤマノメ 第5話
忠国の館の裾に広がる街は遠目で見えた通り豊かであり、往来に並ぶ店も人も活気に溢れていた。
往来を横断する形で犬を追い立てていた子供が、鎧武者を乗せた足の太い赤馬を見て、すぐに道の端に避ける。他の人々は既に、その隊列の進路から退いていた。
それらは畏れからの行動では無い。誰も彼もが、その騎馬武者に喜ばしげな眼差しを向けていた。
黒鹿毛に跨がる騎馬武者は当然、白縫姫。街の人々は「姫御前のお帰りだ」などと、敬いつつもはやし立てる。
「調練を兼ねた狩りから帰っただけだけなのに、みんな大げさだなぁ」
そう馬上で呟く姫であるが、兵が板に乗せて馬で引く獲物は、尋常では無い大物。それを見た人々は益々沸き立ち、姫は物憂げに溜め息を漏らす。
そんな彼女の様子には気付かず、横に並んで歩くヤマノメは切り出す。
「ときに白縫様、オレ、、、私達は宿を取ろうと思っていたので、ここでお別れを――」
「折角の縁だ、客として館に招こうぞ」
もし父が何か文句を言うならばそれも説得すると、彼女は意気揚々と言い放つ。
「しかし、猪から救って頂いた上にこれ以上お世話になるのは、私達も心苦しいのです」
「何を言う、あの様な満足な獲物を授けてくれたでは無いか。それに万寿にも手当の用があろうに」
先の狩りの様子を見る限り武芸にも明るい姫らしく、それに見合う程に、ヤマノメですら負ける程に、押しが強い。
忠国に取り入って館に出入りし、彼女と為朝の仲がどうなるか――ではなく、為朝と忠国との連合が成るか否かを見極めるのが、ヤマノメ達の目論見である。館に招かれるのは望むところであり、断る理由は何も無い。
ヤマノメが、後方の馬上にある万寿をチラと見やれば、彼女はやはり上機嫌。何か懸念を抱いている様子はどこにも無い。
「では、恐れ多くはありますが、ご厄介になります」
「気にせずともいい。それより私こそ、お許らには世話になるやも知れぬからな」
己らが何をとヤマノメは思うが、その問いは肚に収めて、そびえる山城を見上げる。
活気のある街、領民に慕われる姫、そしてこの城。
(なるほど、為朝が協力させようとする訳だ)
攻めるよりも、懐柔出来るならそうした方が上策に決まっている。それが為朝本人の考えか郎党からの献策か、いずれにせよ、実際にそれを採ったのは彼に違いない。
音に聞こえる彼個人の武などは、誰にも疑いようは無い。その上でこれだけの戦略を取れるなら、人心はより彼に傾くであろう。この程度の理合はヤマノメにも分かる。
ただそれは同時に、この姫に対する彼の思いが、ヤマノメ達が思う以上に打算的な物である裏付けにもなりそうである。
ヤマノメは、逆に彼女の思いは如何なのであろうかと、大部分が吹き返しに隠れた姫武者の横顔を僅かに見上げる。
「どうした?」
死角から向けた視線に気付かれるとは思っていなかったため、ヤマノメは驚く。
「ああいえ、山のお館までだと、ずいぶん登るなぁと思いまして」
「安心せよ、あそこまでは行かぬ」
ヤマノメが「えっ」と声を漏らす時には、既に山道に差し掛かっていた。
「それより、くたびれたなら乗せてやるぞ」
「それは大丈夫、いえ、恐れ多い事ですので」
開かれた山道を行き、山の中腹に拓かれた土地に忠国の館はあった。それより上、遠目から見えていたおよそ八合目辺りの城は、あくまで戦向けの館なのであろう。
門衛は白縫姫の一団の帰還を待ち受けていたようで既に門扉は開かれていたが、ヤマノメがそこを通ろうとすると、門衛はそれを見咎めて立ちはだかる。
ヤマノメは小さく舌打ちをしてから、万寿に救いを求める目を向ける。一応は。
馬上の彼女が、若葉の肩越しに門衛に事の次第を述べようとすると、先んじて姫が言いつける。
「この者達はあの大猪に追われていたのだ。猪は私が仕留めたが、あの通り、若葉と共に馬に乗る万寿なる者が怪我をしてしまったので、手当もしようと思ってな」
門衛は板の上の大猪に目を見開きながら、しどろもどろと反論。
「しかし、お殿様がどう言われるか」
「聞けば万寿と、このヤマノメは、京から下って鎮西で興行をしてきた白拍子との事。父上もたびたび京風に触れたいと言っていたし、快く迎えるであろう」
いいから通すのだと、これ以上の問答は無用と門衛を押しのける。ヤマノメが門をくぐる時に見えた門衛の表情はしかし柔らかいもので、姫のこの様な面も含めて慕われているのだと察せられた。
二人きりの白拍子の一座は、荷と共に館の一室へ通される。
四方の襖には金箔も施した風景画が描かれ、寝所には畳まで敷かれている。ヤマノメなどは、この様な場所へ立ち入った覚えも無い。
「ふむ、これは京の公家もかくやと言うところか」
万寿が感心して呟く。
「そうだ、さっき門を通る時に姫様が、ここの殿様が京風に触れたがっていると言っていたぞ」
天井にも施された細工を見上げながら、ヤマノメがそう伝える。
「なるほど、それでかの」
「それで? ああオレ達の、この待遇がか」
傷を負った――と見せかけた――万寿の身をおもんばかったのも嘘ではあるまい。しかし、そういった事情もあっての招きと見て取れる。
「それならそれで、逗留についての心配は無いかのぉ。それにしてもこの襖の箔、最近肥後の国内だけで金の卸が順調と聞いておったが、ここであったか」
万寿が庭に面した襖を眺めながら答えていると、開かれたそちらに、浅葱色の袿(うちぎ)を纏った少女が姿を現す。
万寿はすぐに彼女に正対し、片膝を着いて頭を垂れる。ヤマノメもそちらには向いたものの、何事か分からず突っ立ったまま。
「こりゃヤマノメ! こちらの姫御前、白縫様ぞ」
万寿がは珍しく声を荒げて一喝。そうは言われても、ヤマノメには虫も殺せなさそうなこの姫が、大猪を二矢で仕留めたあの武者と同一人物とはとても思えず、ますます呆気にとられて立ち尽くす。
文字通り頭のてっぺんからつま先まで完全武装であったため、その上背と兜から覗いた顔しか認識し得なかった。
ヤマノメが膝を着くより先に、彼女からは「楽にしてくれ」と言葉が掛けられる。声を聞いてようやく、その顔が姫武者と一致する。そして思いの外に若い事にも気付いた。
よく日に当たっているにも関わらず肌はきめ細かく、白粉いらずの白さを保っている。少し広い額はそこに知恵が詰まっている事を表し、そこにはこれも塗っていない地の眉が、低いながらもスッと通った鼻筋と共に意志の強さを見せる。腰より下まで伸びた垂れ髪は万寿のように艶やかとは言えないが、兜に押し込んで駆け回る日常ならば仕方が無い。
ヤマノメ達の見た目の歳よりもなお若く、それこそ為朝と同い年と見られる。もっともあちらは見た目より歳を経た風にも感じるが、これは体格を加味しての印象でもある。
為朝の好みに沿うかどうかは分からないが、ヤマノメから見れば羨ましいほどの美しさではある。これまで、美しいのが羨ましいなどと、意識した覚えは無いが。
「ご無礼いたしました。先の見事な武者姿に違い、余りに美しかったもので……」
僅かな語彙で心情を表そうとするが、早速それも尽きる。これに対し姫が大きな溜め息をつき、ヤマノメは失言だったかと脂汗を流す。
「言葉は嬉しいが、それが悩みなのだ」
どうやら気分を害した風では無く、ヤマノメは一安心。ただ次に、姫がどかりと腰を下ろしたのには、これは武者姿の方が似合っていると半ば考えを改めた。
万寿などは姫の今の有様に、膝に添えていた腕から力を抜かし、盛大に体を傾ける。
「白縫様、なんと申しましょうかその、女子らしい所作を――」
万寿の直接的な苦言にヤマノメは驚くが、すかさず発せられた姫の言葉には更に驚く。
「そう、それなのだ! 万寿、ヤマノメ、私にその“女子らしさ”を授けてくれ!」
二人は顔を見合わせ、次いでうなだれる姫に視線を戻す。
姫曰く、今まで武術や軍事には親しんで来たが、詩歌(しいか)の嗜みなどは皆無。舞も田楽に親しむ程度であり、それらを合わせて女子らしい振る舞いには全く馴染んでいない。それもこれも、父である忠国の方針故である。
「一人娘の私を、籠の鳥のようには閉じ込めなかった父上には感謝している。しかし、己が手で疱瘡病魔を退けられるようにとの由で、鍛えられすぎた……」
そこまで聞いてふと、ヤマノメは気付いた。
そんな忠国が今になって京風に触れようとしている。これは京から下って来た源氏の御曹司である為朝を当地に迎えようと意識してでは、と。
「白縫様。誠に申し訳ないのですが、私もその、まだ白拍子などは真似事程度ですので、その辺りは私の師でもある、この万寿御前に師事されるのがよろしいかと」
後は任せたというヤマノメの求めにも、彼女は笑顔で応える。
「ええ、その様な事情でしたら、お引き受けいたしましょう。ときに白縫様は、何故今になって、斯様な振る舞いの手習いをと仰るのです?」
無論承知しているが、ここは本人の口からも確認したい。
姫は、その白い頬を瞬く間に紅く染める。
「源御曹司様が、たびたび私の元へいらっしゃるのだが、私は弓矢の手ほどきを受けるだけで、その、私は女子らしい行いが何一つ出来ぬのでな……」
源御曹司とは鎮西八郎と称する源為朝、二人とも知っているだろう等と、今度は早口になってまくしたてる姫。
先の狩りの様子から、為朝の弓術をあっさりと体得したであろう手前には流石だと感心。しかしそれとの壮大な落差を見せる彼女の落ち込みようは、二人の土蜘蛛もある意味微笑ましく思っている。
「もちろん、存じております。先日もわらわ達が一宮への寄進で訪れた折、ちょうど御曹司の御前でヤマノメが一舞いたしました故」
「本当か! ならば尚のこと、お許に色々と習いたい!」
「ええ、ええ、わらわとしても、それが成るなら大業と言えましょう。しかと引き受けます故、よろしくお願いいたします。それとこのヤマノメも先の様に申し上げましたが、わらわが不在であれば、代わりにこれが必要な手ほどきはいたします」
最後に何を言い出すのかとヤマノメは睨むが、口に出して反論する訳にもいかない。
「うむ、まずは手当をしてからになろうが、よろしく頼むぞ」
言って、堂々と立ち上がって去って行く姫。
ヤマノメは今度こそ姿勢を崩し、身体を床に投げ出してから喚く。
「お前が居ない時はオレが、だと? 寝言は寝てから言え」
「しかし他に適任者などおらぬだろう?」
「あの若葉という女はどうなんだ」
「姫の立場からすれば、今更侍女にそんな事を習う訳にもいかぬであろうに」
「まあ、それもそうかも知れないが……」
ヤマノメも、それらしい所作については、舞と共に万寿に教え込まれた。最近の事でもあるし、これを姫に教えろと言われれば身につけた限りの事は出来ようと一応納得。
「あの娘と為朝の仲が深まるのは、やはりオレ達にとっても良い事なのか?」
「然り。姫との婚姻関係が成れば、為朝もこれ以上周囲で暴れる様な真似はせぬであろうからの。しかし懸念はある」
「あの夜叉丸とかいう坊主か」
「わらわを土蜘蛛と察したのであれば、為朝との婚姻、連合の後にも、里に対して何らかの行動を起こさせるやも知れぬ」
「しかしそれを除けば、為朝と姫がねんごろになるのは、と」
「その通りじゃ。だがそれに加えてもう一つな」
「まだ何か?」
「忠国からすれば、ただ一人のいとおし娘を京に送り出すのは辛かろう。為朝を婿入りさせるつもりかとも考えられる。これを為朝が、否、郎党が飲むであろうかと」
万寿の言葉は、ヤマノメ自身の推測を裏付ける物であるが、ヤマノメは腑に落ちない風に首を傾げる。
「人間とは、そういう物なのか。それはさておき、場合によっては、はなから婚姻関係が成らぬ恐れもあったか」
万寿は「その通りだと」答えてから頬杖を突き、ほぉと息を吐く。
「わらわとしては、なんとしてもくっつけたいのではあるがのぉ」
彼女は言いながら、寝転がるヤマノメを見やる。
「なぜそんな事を言いながら、オレを見る」
「ふむ、何でも無いぞえ」
またぞろろくでも無い事を考えているのではとヤマノメは思うが、今までは万寿の考えに従ってここまで上手くやれてきた。ならばこれからも同じくするのみ。それに、彼女の思惑の全体像はともかく、為朝と姫の婚姻の重要性については異議も無かった。
∴
ヤマノメ達の逗留以来、白縫姫はよく万寿の元に訪れ、ヤマノメと共に教えを受けた。
まず女性らしい所作などは、普段から行動を共にする事で学び、作法や事細かな立ち居振舞などは、万寿が細々と説く。
武芸からはなるべく遠ざけたい所、身に染みついた習慣であり父親の方針でもあり、それを止めさせる事は出来なかった。
それでもヤマノメより覚えは良く、今は詩歌についての手習いの最中。
「歌などは己の思うままに作れば良いのです。ただ、先達の歌によく親しみ、多くの事物にも触れるのが、上達の助けになりましょう」
言って万寿は、万葉集や勅撰(ちょくせん)(※1)の歌集から覚えている限りの歌を選び、そらんじつつも、その意味を語る。一首をとってもよく覚えられる物だと感心するばかりなのに、それが十首もまとめて淡々と吟じられるのである。ヤマノメなどは口を開けて呆けてしまっている。
「これらの歌、何事かを唄った物であるか、解せましょうや?」
問われたのは姫。ヤマノメには語りかけるのも無駄であると、万寿は承知していた。
いずれの歌も、一貫した様式の物であった。それが分かるかと問うたのである。
「うむ、いずれの歌も天象や草花を唄っているが、裏に秘めている物があるように思う」
「お見それいたしました。その通り、これらは寄物陳思(きぶつちんし)と申しまして、事物に思いを乗せた歌でございます。例えば――」
ふりさけて 三日月見れば
一目見し 人の眉引き 思ほゆるかも
「――これは、夜空に浮かぶ三日月に思い人の顔を重ねた、十六歳の少年の恋歌であります。そう、姫のその様な眉に、源八郎様も斯様な事を思い浮かべているやも知れませぬ」
これに姫は、頬どころか顔を真っ赤にして、そのまま両手で面を覆ってしまう。
「そんな、眉も引かぬ私如きに、為朝様がその様な事を思うわけが無い! 戯れもほどほどにしてくれ、万寿」
しかし手のひらの覆いから覗く顔は実に嬉しそうである。ヤマノメはその様にようやく認識を取り戻し、なんとかそれらしい言葉を絞り出す。
「私もまだ、男女の間の物事はよく分かりませんが、為朝様は一目惚れし易い方に見えました。姫の元へ幾度となく足を運ぶのは、やはりそう思っての事かと」
「ヤマノメ」
「はぁ?」
「姫の馬にも乗れなんだのに、わらわの話の尻馬には乗るのかえ?」
顔はいつも通り微笑んだままであるが、目だけがいつもと違う。
どの辺りをしくじったのかヤマノメには分からないが、「要らぬ事をのたまうぐらいなら黙っておけ」と言う代わりなのは理解出来た。
万寿には非難されたが、姫だけはますます上機嫌ではしゃいでいる。二人は視線を交わし合い「これでもか?」「これでもだ」と短い応酬をする。
「ほんにヤマノメまで何を言うのだ。いやしかし、私が為朝様をそう歌ったなら、彼のお方は喜んで下さるであろうか!?」
「ああ、その様に姫に言ってもらえたら、俺も嬉しいなぁ!」
女ばかりの場に、唐突に投げ込まれた男の声。為朝当人であった。女三人が恋歌の心を語るのに夢中になっている間に、尋常に現れただけである。
彼は共に訪れた重季を控えさせ、女三人のど真ん中に、どっかと腰を下ろす。
「大猪の話、家人から聞きましたぞ。弓馬の手前に留まらず歌もか、欲張りな姫よのぉ」
そう言われた姫は、人目を憚らず、為朝の手に己が諸手を重ねて目を輝かせる。
「八郎様より賜った弓の技はあの通りですが、まだまだ足りませぬ」
「うむ、うむ。しからば俺も、紅い牡丹の花を口にしたいものだ」
為朝がそう述べると、黙って控えていた重季が前に出る。
「白縫様。実は我らも、行きがけにシシを仕留めて参りました」
「まぁ、姫の獲物には及ばんがなぁ!」
また高らかに笑う為朝。詰まるところ「せめて手ずからの料理を期待する」、との願い。姫はこれに上機嫌で応じる。
「万寿、半端で済まぬが、他ならぬ為朝様のためだ。それにお許らも為朝様とは面識があるのだろう。夕餉まで、話に花咲かせてくれ」
場を辞していそいそと廊下に出る姫を見送りつつ、為朝は重季に目配せする。従前よりの行動だったのであろうか、重季は何も言わず、姫を守る様に後に続いて行った。
二つの足音が遠ざかり、僅かな静寂が戻ると、為朝はすぐに万寿に向き直る。
「久しいな、万寿」
姫の前であったからか、二人には見向きもしなかった為朝も、彼女が居なくなれば遠慮無しと言う風に親しげに語りかける。
「久しいと仰るほど間を開けたかは分かりませぬが、お見知りおき下さった事、嬉しゅう思います」
彼はヤマノメにも一瞥くれる。
「久しい久しい。一日千秋とは、この様な心持ちを言うのであろうか」
今の言葉、白縫姫との相思相愛ぶりを否定しかねぬもの。
この場は唖(おし)(※2)の如く口を閉ざしていようと、暗に心に決めていたヤマノメであったが、今の言葉にこの決意はすぐ崩れた。
「……それが、御曹司のお心でしょうか?」
明るい鳶色の目が金色に光り、為朝の目を見返す。己が心情を上手く表す言葉を持たないヤマノメであるが、この一言には存分に今の感情を込めた。
為朝はこれに何らひるみもせず、その無礼に怒りもしない。
「これは大変なご無礼を。この娘、こういう所だけは聡くてわらわも参っておりまする。しかしわらわも、貴方様の白縫様への想いがただの打算なのか、お聞きしとう存じます」
今現在、姫と彼との仲が、土蜘蛛の運命を決めかねない。万寿はヤマノメを制しつつ、自身こそ計算高く問いかけた。
「惑うまでも無い、いずれの想いも真だ」
英雄色を好むとは古くから言うが、彼もまたその一人なのであろう。
「姫がそこらの市井の娘であっても、あの気性を俺は愛でよう。そして万寿、例えお前が勿怪であったとて、俺の心は変わらぬ」
ヤマノメは、手を差し出せば届く場所に居る為朝との距離を見失う錯覚を覚える。
万寿の最も大きな懸念を、彼は既に手にしていたのだ。
第5話注釈
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※1 勅撰:天皇の命令によって編纂された、詩文をまとめた書物。古今和歌集など。
※2 唖:聴覚障害等による、発話障害者の古い呼称。盲(めくら)等と同じく差別用語とされる
第1章 火の国のヤマノメ 一覧
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