楽園の確率~Paradiseshift.第1章 火の国のヤマノメ 火の国のヤマノメ 第3話
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公開日:2016年12月05日 / 最終更新日:2016年12月05日
楽園の確率 ~ Paradise Shift. 第1章
火の国のヤマノメ 第3話
ヤマノメ達が太宰府側のひょうずの里に逗留し始めてから、十日ほど経った。
届けられた銑鉄が鋳造され、鉄の鱗として唐繰の大蛇に用いられた事で、ひょうずの側の態勢は整った。もし筑紫、あるいは豊前を平らげようと為朝が前進するとなれば、これを要撃に掛かる算段。
だが肝心の為朝に、その動きが無い。
「わらわ達がこちらに来る時の、阿蘇での動き、気にならぬかえ?」
万寿がのんびりと語りかける相手は、肩衣のまま木の棒を振り回すヤマノメ。傍から見ると相当に珍奇な動きであるが、本人こそがいよいよそう思っているのだから仕方ない。
ヤマノメは万寿に正対すると、こんな時にそんな話をするなと非難の眼差しを向けつつも答える。
「ああ、何か急いでいる様子だったな」
「あれがのお、どうも嫌な予感がするのだ」
「と、言うと?」
「あれがもし、阿蘇の平忠国へのお目通りなどだったりしたら、とな」
少々うかつであったか、などと笑う万寿。ヤマノメは驚き、笑うどころでは無い。
「どうするんだ、オレ達、いやお前は、忠国と面識がある事になっているんだぞ」
「まあ、あくまで間接的にということにしたのでそちらは。それより阿蘇の一宮へ赴いた事にしているのも少々問題でなぁ」
「あの近辺で為朝がうろうろしてるなら、一宮に行く可能性もあると?」
「うむ、ありなん」
「どうする、一旦肥後まで戻って、奴の動向を探るか?」
「と、言いたかったのだ」
ひょうずの準備が整った時点でそう考えていたのだと、万寿は明かす。
なぜ今それを言い出したのかと、ヤマノメは問い詰める。
「お許の舞などがもっと早く仕上がれば、早々にもその様にしたかったのだがのお」
「オレの所為かよ……」
ただし万寿の教えは、普段の様子から思われるよりも熱心なもので、飲み込みが悪いのはヤマノメの要領が悪い所為であるのは明らか。ヤマノメ自身もそれを自覚しつつ、万寿に対しては僅かなりとも敬意に近い念も抱くに至っているが、やはり一から十まで彼女がやれば良かろうにという不満がぶり返してしまう。
実のところ、水干の着付け着こなしだけでも時間を食い、舞もなんとか最低限の動きを覚えた程度。当然ながら、本業の白拍子などとは比べるだけでも恥ずかしい程。これもヤマノメ本人は自覚している。不満は、そういった事もこなせぬのが情けないと恥じる心から起こっているのかも知れなかった。
加えて、いくつかの付随する芸事。神楽歌や、最近では今様なども吟じられるらしい。色事もその内にあると言えるが、これらどれもがヤマノメにとっては絶望的。
「それにしても、お前は本当に何でも知っているな」
この辺りは、ヤマノメも素直に認める長所で、一定の敬意は抱いている。
「妖も人間同様、得手不得手というものがある。わらわには、斯様な事が得意だっただけの事よの」
とは言うが、やはり少々誇らしげである。謙遜が美徳とは言わないが、この様な振る舞いには、やはりそりが合わないとヤマノメは思う。
「で、いつ頃発つ?」
「なるべく早くに」
為朝の赴く場所に先んじて入り、そこで白拍子として近づく。
しかしあちらは、為朝を含めた三人がヤマノメ達の顔を知っている。しかもその内の一人は、万寿を勿怪の類と確かに見立てていたのだ。
以前、地元の荘官の女郎とでもした事は、特段問題では無い。もとより万寿は、いずれでも立ち回れるよう最低限を語り、最低限騙るだけに止めていたのだ。
為朝が幾度か肥後内ノ牧と豊後を行き来している事をひょうずから聞き及んだヤマノメ達は、すぐに里を発つ。
そのひょうずのもたらした動向の要点は二つ。
一点目。やはり為朝は忠国につなぎを付け、肥後から薩摩国にかけての平定の準備をしているらしいとの旨。
二点目。彼らはしばしば阿蘇へ赴き、門前町から、あろう事か幣殿(へいでん)(※1)にまで上がり込んで酒盛りをすることまであるとの旨。
その他、兵や馬、武具や兵糧の確保などの動きも見えるが、これは為朝が常に行っているもので、特別な動きでは無かった。
この様な話であったため、ヤマノメと万寿は出発を決意したのであった。一旦、本所に戻ることも考えたが、そのまま一宮へ向かう事に決めたのだった。
往路と違って、荷と言えば水干の入った行李と食料を下げた袋のみ。万寿は食料と水を提げる。
その唯一の荷に手を当てながら、万寿が口を開く。
「ヤマノメよ」
「何か」
「食料ならそこらへんにあると、そうは思わないかえ?」
筑前から一旦豊後に至る山間の国境に入り、僅かな耕作地に張り付いた邑に着いた辺りでの、唐突な問い。
何を言っているのかは想像が付く。万寿の視線は、畠を耕す百姓に向いているのだ。
「急に何を、面倒だろうが」
「本当に? 何故そう思うのかえ?」
これから戦になるかも知れない。その中で殺すのと、文字通りの食い物にするのとどう違うのかと、万寿は問いを重ねる。
「難しいことは、分からん」
鹿や猪、鳥を捕って食うのと違うと言えば、明らかに違う。それらの獣と異なり、人とはおよそ言葉が通じるのだから。
考えるのは億劫だし、手元に食料があるのならそれを食べれば良いだけであろうとだけ言って、ヤマノメはこの問いに口を閉ざす。
「では、戦になって奴らを倒すのは?」
「それはやるさ。お前の分も存分に働いて見せよう」
むしろお前こそどうするのかと、ヤマノメは既に覚悟の決まった眼差しを向け、逆に問いかける。
「若いのお。わらわには、その時が来ねば分からぬ」
この美貌の土蜘蛛に『若い』などと言われるとは、ヤマノメは面食らって目をしばたかせる。確かに万寿は己より里に長く居ると思われるが、年嵩がどうかまでは気にしたことが無かった。それに見た目で言えばさほど変わらない。
長老や古老と言われる者達も居るが、彼らとて実際の歳はどうか。ただ見た目だけがそうであるのは、勿怪にはよくある事である。
ただヤマノメも、己が何年前から生きているかなど知らないし、気にしたことも無い。今こうして思い浮かべた思惟も、一時で揮発することであろう。
「戦で敵を殺せるかはわからぬが、わらわなら、糧が無ければ人を食らうぞ?」
それが妖だと、万寿はこともなげに言う。
ヤマノメはこれに是非を唱えない、それも自然な事と思えたからだ。
「糧がある限りはそうしない、か」
「うむ、その通りだ」
だから食料を絶やさぬ様に注意しろと、まるでヤマノメの主人の様に言う。
(結局、コイツは何を言いたいんだ……)
殺せとも殺すなとも、食えとも食うなとも、確かな事は言わない。ただ確かなのは、毎度の様にヤマノメを端た女として使い走らせようとしている事だけだった。
豊後を過ぎ、肥後山中を南下すればすぐ阿蘇。というのは、あくまでも地形図の上での話。実際には山間と川沿いを蛇行し、並の旅人なら二、三日は掛かる道のりである。
ただ土蜘蛛の二人には、これは一日でこなせるものであったし、そもそも荷を満載していた往路ですら、並の旅人と同じ運びで終えられたのだ。
外輪の山々一峰々々が、鋸の歯の如くそびえ立つ阿蘇の山。
古代から幾度も噴火を繰り返して来たが、今となっては白い蒸気をその奥の火口から吹き上げるだけになっている。
いつまたその『神火』が昇るか分からない、それでも人も妖もここに住まい続ける。それだけの価値がここにはあるのだ。
人々が神火と呼ぶ火柱を奔らせた跡には、大地がひり出したはらわたとも言える多くの鉱脈が顕れることは土蜘蛛や一部の人間も知っていたし、なによりここは森も水も豊かである。
表向き水利の無い地域であっても地下には水が走り、井戸を掘ればすぐに、ただのそれとは思えぬ芳醇な水がわき出る。
火と水と森は、胴にも鉄にも重要な物でもある。
「そう、わらわ達がこの山の裾に住まうのは、ごく自然な事なのだ」
とは、万寿が幾度となく山々を見上げながら言ったこと。色々と気を遣うことが多かった行き道と違い、今はこういった物に目を向ける余裕が二人にはあった。
「しかし吹き出るほど水が湧くというのは、今更だが面白いな」
「ああ、それもあの山のお陰よの」
火は阿蘇の座その物の恩恵であるが、水はこの外輪の山々の恩恵。
急峻の集まりから、地面の、水をよく通す層を一挙に抜け、水を通さぬ層に至ってまんべんなく地下に水利が広がる。その勢いのまま遠くに届く水脈もあれば、何かに突き当たって勢いそのままに噴出する水脈もあるのだ。
土蜘蛛が瘴気を放ち、水を汚すなどと言われるのは、多くは金属を精錬した後の屑による物。無闇にそれらをうち捨てれば、やがては地下に毒が染み込む。
「――とはよく言われる。それと炭を作るために木々を倒せば山からごっそり土が流れ出してこれも水を汚す、などと言われるが、こちらは非道い言いがかりだの」
「言いがかり、なのかな?」
「燃石を用いずとも、我らが使う炭の量など限られよう。山を丸裸にするほど使いもせぬ。それよりも山を壊し、水を汚してしまうのは――」
外輪山に沿って西に伸びていた往来から、大通りが北へ延びる。
「思ったより早かったの。――そう山を壊し水を汚すのは、森を考えなしに拓き、稲と言う名の財を増やす事に躍起になり続ける、瑞穂の民よ」
「瑞穂の民?」
「こやつらがのさばっている地には、我らは行けぬのよ。そして、まさしくその権化が、この道の先に祀られているのだ」
阿蘇の岳から北の直線上に拓かれたこの大通りの先にあるのは、目的地である肥後一宮、阿蘇神社。そこに祀られるのは――
「阿蘇大明神、健磐龍尊(たけいわたつのみこと)という。これも我らに仇なし、多くの眷属を屠った輩よ」
神武天皇の子であり、古代の鎮西に遣わされ多くの功を上げた者である。
「鎮西平定を、か。まるで為朝の様だ」
万寿はヤマノメの言葉に、フッと、小さな笑いを漏らす。
「何が可笑しい」
「いや、何も可笑しくない、何もな」
「ならばなぜ笑った」
「ちょっと思い出したことがあった、それが余りにも懐かしゅうて愚かしゅうて、つい笑ってしまったのだ。お許を笑ったのでは無いぞ」
ならば良いがと腑に落ちない風にするヤマノメ。
そうこうしている内に、二人は阿蘇神社の北側、門前町に到着した。
さすがに一宮と言うだけあり、その門前町も立派な物。旅人や役人を受け入れるに足るだけの長屋が建ち並び、それに付随して細々とした商店も、表通りに店を開く。
おそらく太宰府ほどでは無かろうがと、そちらに行った覚えの無いながらもヤマノメは想像するが、それでも目の前の通りは里に比べれば段違いに賑わい、物も揃っている。
「これヤマノメ、はしゃぐでないぞ」
「いつ、誰がはしゃいだ」
これから厄介な事に当たらねばならないのだ。とてもでは無いが、そんな心持ちでは居られない。
まずは為朝のこちらでの動向を探る。他のどこよりも、ここならば彼への接触が容易であろう。何せここは彼の遊び場なのだ。
ヤマノメはふと、先ほど万寿が笑った理由に思い当たった。
土蜘蛛に敵した健磐龍尊や小碓命の治めた地で、今これを嘲笑うかの様にはしゃぎ回る若武者。しかも彼は清和源氏嫡流、河内源氏の御曹司。その体躯には確かに、それら神々から連綿と続く血が流れているのに、である。
これらの関係性、ヤマノメは万寿から聞いて初めて知ったが、それを知っていた彼女には、実に面白く思えたのかも知れない。
彼女こそ、ただ笑ったのでは無く、嘲笑していたのか。
しかし為朝は、人妖にとってだけの敵では無い、おそらく神にとっても厄介な敵対者なのかも知れない。彼は全てに対する反逆者でもあり得るのだ。
「ヤマノメよ、こちらへ」
「ああ今行く」
いつの間にか離されていた。
万寿は道々に、もっともらしい理由で為朝の噂を聞き集めつつ、宿を探していたのだ。
粗末な長屋の前で待つ万寿。これもまた、ヤマノメには意外に思えた。
路銀は十分にある。神楽舞か奉納の演舞のためだと言いつつ若干の金を握らせれば、役人が泊まる様な宿にでも入れるだろうにと。
よくよく考えれば万寿も、風雨にさらされようが、蒸されつつ天頂の陽光に晒されようが、一度も弱音を吐いたりはしなかった(もっとも荷は常にヤマノメが運んでいるが)。
ずっといけ好かない人物だと思っていたが、妙な美点があるものだと、ヤマノメは感心しつつ、万寿の元へと駆け寄る。
「どうしたのだ?」
「いや。聞き込みを任せっ放しですまん」
「お許が源八郎殿の事を探ったとて、何処かの間者と疑われるばかりだからの」
ヤマノメの今の服装は、着たきりの肩衣。日を凌ぐために袖は付けてみたが、また新たな小袖に着替えている万寿と比べれば、どちらが聞き込みに向いているかは嫌でも分かる。
「それはいいだろう。で、何か分かったのか?」
「本当に折りが良いぞ。為朝はまだ、当地に逗留しているらしい」
それもやはり、幣殿を借り切って。
神をも恐れぬ行為とはこの事かと、ヤマノメは感心するやら驚くやらと繰り返しながら、唸る。
次の動きがいつになるかは定かで無いが、これまでの動向からすると、まだ二、三日は当地に居るらしい。益々都合が良いと、万寿もやや興奮気味で言う。
「そうと決まれば明日にでもお目見えが叶うよう、お宮に願い出て来るとしよう」
「ちょっと待て、まだ準備が出来てないぞ!」
「本日中に沐浴して身を清めれば間に合おうぞ。舞の稽古なら散々やったではないか」
後は覚悟次第だとヤマノメに言い放ち、万寿は長屋から出て行ってしまう。
神職に金を握らせれば、為朝に会うぐらいはどうとでもなろう。神社からすれば、彼は不敬な厄介者に違いないからだ。
「だから、そのオレの心の準備がだな……」
ヤマノメは力なく呟いてから、こうなれば、とまた肚に力を入れ直した。
明くる日、すっかり日も昇った時分。
肥後一宮、門前町の一等粗末な長屋から不釣り合いな装いの二人が出で、阿蘇神社へ向かって静かに歩む。
先導するのは真白な袿に小袖を纏い、紅の袴と共に地に着く部分のそれをたくし上げた緑髪の女、万寿。顔には面脂(※2)も白粉もかすかに乗せただけで、歯黒も塗らず、逆に唇には桜色の口脂(※3)を施している。
ヤマノメは、やはり水干に、袴の裾を持ち上げて後に続く。久々に汚れを落としただけの面はそれだけでも万寿の常よりも明るく、映えるものであったが、今は白粉を塗り込められている。
この格好のまま練り歩くのもかなり目立つものである。
「万寿、境内に入ってから支度した方が良かったんじゃないか?」
「今更申すな。それに、あのみすぼらしい装いでは、門前払いになるであろうに」
ここの神はそこまで狭量な奴なのかと、あらぬ方に更なる恨みを向けるヤマノメであったが、宿から一の鳥居までは三町も無いため、すぐにたどり着く。
しかし問題はここからである。
「ヤマノメよ、気を確かに持てよ」
「言われずとも」
当然、この内は神域。ヤマノメ達にとっては、過ぎるほどに清い地である。参道の砂利を踏みしめ、足を上げるのですら億劫に感じるほど。
(果たして、こんな体たらくで舞えるのか?)
自身に問いかけ、あるいは叱咤しながら、ヤマノメは歩を進める。先を行く万寿も当然、足取りが目に見えて重くなっている。
「おい、万寿」
「ここで一説打とう」
「何を言い出す」
「小碓命はの、かつて熊襲建(くまそたける)の兄弟を征伐せんとした際、髪を下ろし童女姿となって宴席に紛れ込み、兄弟を立て続けに討ったそうな」
「また無理を言うな。要は、機を見て為朝を殺そうと言うことか。オレか、お前が」
残念ながら、これは困難を極める。
剛勇極まる若武者の当人に加え、今は彼が頼りにする手勢十数人も同席しているのだ。己が命を省みずに挑んだとて、討てるとは限らない。そうなれば何の報せも持って帰れず、犬死にとなるのみ。
「小碓命は逃げおおせたぞ?」
「それは、今と昔じゃ違ったんだろ、色々と」
熊襲兄弟征伐の折、まず兄の建を一突きで殺した小碓命は、すぐさま弟の建に詰め寄った。弟の建はその武勇に感嘆し、彼に『タケル』の尊号を献上した程なのだ。
「それもあったであろ。だがまあ、今のはたわぶれに言ったまでだ」
今日のお目見えは、あくまでひょうずの戦の為の情報を得るのが目的。それにここで安易に為朝を討ったならば、情勢があらぬ方向に動く切っ掛けを作りかねない。これも懸念の一つ。
「ったく、滅多な事を言うな」
抜けかけていた気が緊張と共に取り戻された様にも感じながら、ヤマノメは一回深呼吸をする。
「軽口を叩くのもここまでにしようぞ」
お前から言っておいて何をかと言いたいのを抑え、楼門を抜けて左に折れる。威圧する様な何かを明らかに感じるが、これもなんとかこらえた。
「これが神威と言う物よ。そこらの僧や神職の方術では、こうはならぬ」
身体の芯から力を抜き取る何かが、大気と共に延々流れ続けている様でもある。
「もしかして為朝がここを逗留の場所に選んだのは、オレ達を警戒してか?」
「さもありなん。殊に、わらわをだ」
ヤマノメもその注釈に同意する。
為朝と共に在った怪僧、夜叉丸の入れ知恵だとすれば、これは有効と言わざるを得ない。神職達にとっては不敬な行いに見えて、為朝は神威だのみであったのかもと。
「さても、この地にまつわる神威がここまでとは。うかつであったのぉ」
昨日は二の鳥居をくぐった所までであったのだと、万寿は油断を認めた。
土蜘蛛を征伐したという神だ。その威光が今も残っているのであれば、ヤマメ達にこうも災いなすのも当然と言えた。
「どうする、引き返すか?」
「否、此度はこのまま事を運ぼう。しかし、やはり小碓命の真似は無理そうだの」
「やはり本気で言っていたのか?」
「無論、たわぶれよ」
いざ征かんと二人は幣殿へ向かった。
「なあ万寿よ。やはりオレには、奴が神に敬意を持っているとは思えん」
「うむ、わらわもじゃ」
本来ならば四方を木壁に囲われているはずの弊殿は、その内の二面の壁が取り払われている。つい最近外されたようにも見える事から、風通しを良くするためであろう。
そこで行われる酒盛り。やはり暑いのか、大抵の者が上半身をはだけている。
唖然としつつ木階の前まで来た二人を、その内の一人が認めた。
「おお、神主が言っておった白拍子か! こんな田舎にまで興業とは、若殿の武名故かな。おぉい! 若、白拍子らが来ましたぞ!」
なんだ一人だけか、異人ではないか、あの緑髪の方が好みだ、などと言われ、主にヤマノメが本来の目的も忘れて苛つく。
なんだかんだと言われても、こうして比べられ――そして負け――るのは、やはり癪に障るのだ。
「まあまあヤマノメよ、見るべきものを見ようではないか」
「……分かってる」
万寿に続き、ヤマノメが憤りながらも静かに木階(きざはし)を上がると、一応は、やんややんやとはやし立てる男達に迎えられる。
それを無視し、気取られぬよう、右へ左へと素早く視線を走らせると、やはり十二、三人の、それも皆武士と見える者達。そこには夜叉丸や重季、当然と為朝の姿もあり、ヤマノメが彼の顔を改めて拝もうとすると――
(しまった!)
目が合った。
上座に敷いた藁蓋(わろうだ)に座し、鬼や天狗もかくやと言うほどの大男。座していても、立ち姿のヤマノメや万寿の上から目線を浴びせて来るのだ。
「うむ、どこかで見た顔だな?」
酔いが回っているのか、眠たそうな眼。ヤマノメは目が合ったのは偶然であったかと安堵する。
万寿は当然、落ち着いて応じる。既に練っていた理由を添えて。
「過日は危ういところをお助けいただき、かたじけのうございました。庄司様宅での奉公が終わり、これより太宰府に赴こうとしていた折り、こちらに巨漢のお武家様がご逗留との噂を聞きつけ参じた次第。噂が確かなのを知って、安心いたしました」
眠気が飛んだのか、為朝は目を見開き、巨躯を大きく揺らして叫ぶ。
「おお、あの時の女だな! ではそちらは、あの時連れていた共の者かな?」
深く頭を下げながら万寿が口上を述べると、ヤマノメも同じく膝を突き、頭を垂れる。
「大変申し遅れましたが、わらわは万寿と申します。これに在る者は白拍子のヤマノメ。見た通り異国の出で、薩摩言葉よりもなお言葉が怪しく、半人前ではございますが、皆様に楽しんで頂けるよう精一杯努めます」
言って、万寿はすぐさま為朝の横で片膝を着き、いつの間にか手にしていた甁子で酌を始める。
ヤマノメはと言えば、酌よりも先に一舞をと、佩いていた竹光を腰から外して手に取る。そこへ制止の声。
「しばし待たれよ。若殿、こんな田舎で珍しく白拍子に舞ってもらえるのだ。ここは一つ、例の重宝を以て舞って頂くのは如何であろう?」
例の重宝とは一体何か。ヤマノメは竹光を床に置いて片膝を着き、万寿の方を覗う。彼女は鷹揚に頷き、その意に従えとの意を示す。
周囲の男達も揃って「それがよい」と、再度はやしたてる。
「おお、こいつでか」
側に立てかけていた太刀を手に取ると、抜き身にして刀身を明らかにする。
二尺七寸の刀身、反りは一寸余り。一見すると単調でありながら、幾層もの青い光を放つが如き美しさの際立つ直刃(すぐは)(※4)の刃文。黒漆拵えなのは、実践を想定した為朝自身の好みか。
「親父が熊野に納めたのを、行きがけにくすねて来たんだ」
立てた刃を陽光に煌めかせる為朝に、万寿が人懐こそうな声で問いかける。
「若殿様、それは何なのですか?」
「そう言えば名乗ってなかったな。俺は源朝臣(あそん)八郎鎮西惣追捕使為朝、為朝と呼んでくれ」
「ええ、為朝様」
「これはな、万寿。我らが源家重代の重宝、『吠丸(ほえまる)』という」
その由来は辟邪の武との誉れ高い摂津源氏の祖、源頼光が手にした兄弟刀の一振りであり、彼の父源満仲が、唐国(からくに)より渡って来た鉄細工に鍛えさせた物。
「この太刀は頼光公の武に相応しく、かの方を悩ませた山蜘蛛を切り捨てた逸品でな。故にかつては『蜘蛛切(くもきり)』と称されたそうだ」
大蜘蛛を退治たという太刀。明らかに、当地土着の勿怪である土蜘蛛の存在を意識した、夜叉丸の策と思えた。
少なくとも彼は勘づいている、ヤマノメはそう察した。万寿も同じく驚きの表情を見せている。
己が手にしても平気な物なのか。ヤマノメは戸惑うが、先に万寿がそれに手を伸ばす。
「おや、わらわは刀の事などよくわかりませぬが、この太刀はお美しゅうございますね」
「おう、意趣返しで親父殿の手元からくすねたつもりだったが、惚れ込んでしまった」
それをあっさりと万寿に渡してしまう為朝。ヤマノメは、彼女に何か変調は無いかと注視するが、何ら異常は見られず、その刀身や拵えを、鞘も含めて隅から隅で検分している。
「本当にお美しい。これをヤマノメなどに持たせ、舞わせても?」
「ああ、構わん。実を言えば、俺はお前にこそ舞って欲しいのだがな」
あら世辞を、世辞ではないぞ、などとやりとりしているのを見てヤマノメはなお安堵しつつ、これを言い出した夜叉丸の方を見る。
彼は驚いた風に二人の方を向き、目を見開いていた。
(どうやら、当てが外れたみたいだな)
そして、万寿が持っても異常が無い事から、己が手にとっても問題無かろうと判じた。
「ヤマノメ、こちらへ」
「はいっ」
答え、袴を引きながら、ゆるゆると足を運ぶ。
大丈夫だとは思いつつも、改めて鞘に収められたそれを手に取り、検分する。
(本当にコレが、妖を斬ったという刃なのか?)
それなりの由縁があれば、殊に大蜘蛛を斬ったなどという逸話がついて回るなら、己等に害なして当然と、ヤマノメにも思える。
だがこの刀身からは、この境内に満ちる神威ほどの威も感じない。善く鍛えられた銘刀であると思えるし、人は斬った事があるかも知れないが、それだけの刀にしか見えない。
ともあれ、何の問題も無いとなれば、当初の予定通りに舞うだけ。竹光と違い重量が気になるが、これも膂力で御せると判じた。
太刀――吠丸を提げ、為朝を正面に見て、蹲踞の姿勢を取る。
男達は皆、土器(かわらけ)(※5)や甁子を手放さず、ヤマノメの前側に回っている。
「お武家様がた、ヤマノメはこちらのみを向いて舞うわけではありませぬゆえ、ご安心下さいまし」
万寿が言うが、がっついた男達はそんな事など耳に届かないかの様に、ずいと寄る。
「しようのない奴らですまんな、万寿」
笑いながら、為朝自身も杯を傾ける。
ヤマノメに、白粉以外の顔色は無い。神事舞を納める巫女の様に無表情で、視線を正中に、水平に保っている。
実際の所、こう色を失った風に見えるのは、しくじりはしないかという不安からである。酔っ払い集団の、それも敵対者の前での、一回こっきりの舞であるのに。
不安を押してスッと立ち上がり、刃を抜き身にする。
鞘を逆手に持つと背後で正中に沿わせて立て、目線の前で刃を水平にする。
銀の 目貫の太刀を さげ佩きて
遠のみやこを ねるは誰が子ぞ
「ねるはたが子ぞ~」
南蛮の鳥の様な心地よい声で、神楽歌を朗々と吟じるのはヤマノメ――では無く万寿。
奈良のみやこを懐かしみ、そこに居たであろう清廉な若武者の練り歩く様子を唄った物である。それを、今は太宰府を脅かそうとする為朝を意識して、本来の歌をたがえている。
ただ、本来からしてこれは、陽気な女が歌い出した物で、万寿にはうってつけの雰囲気に過ぎる。その様な意図は一切伝わらない。
吟じるのに応じてヤマノメも、前へあとへと運歩(はこび)を踏み、ゆるゆると八方を拝んでから、また正面に復し、今度は正眼に太刀を構える。
ヤマノメの厳しい表情には、男達も気圧されるほどであるが、本人はやはり、しくじらないよう依然として必死。
正眼に構えた刃を一旦振り上げ、しかしそれは振り下ろさず、太刀を持つ馬手から弓手にかけて、楕円に近い弧を描き、正面でのその所作を終える。
石の上 対馬男の 太刀もがな
組の緖垂でて 宮路通はむ
「宮路かよわむ~」
ヤマノメは、これにも合わせて一歩進む毎に円弧を描く所作をし、左に直角に転身しては同じ所作を繰り返す。
そして、これも歌を違えている。本来、太刀を持っているのは万葉集の歌にも唄われる勇者である。これも平城京を懐かしむ歌なのであるが、万寿は強い思いを以て、これに対馬の語を盛り込んだ。
この場でこの思いを知るのは、万寿ただ一人である。
男達にその様な雅を嗜む者は皆無。為朝や重季も京から下って来た人物であるが、こちらは兵法を修めるのに手一杯だった模様。
当然と歌の内容にかかずらわずに舞を進めるヤマノメには、そんな事は分からない。一周して、また元の位置に戻る。
祝し来し 地祇は祀りつ 明日よりは
組の緖垂でて 遊べ太刀佩き
今度は太刀を持つ袖を大きく振り、開いてなびかせながら、男達に太刀が届かぬ間際まで周囲をぐるりと回る。
地に潜む蟲妖よりも、春を舞う蝶にも見える。
杵築に 岐の神を 祝し来し
心は今ぞ 楽しかりける
ゆっくりと運歩を進めながら、袈裟に逆袈裟にと縦横に太刀を振るう。その様は自由であり、同時にヤマノメにもようやく余裕が生じてきていた。
初度の位置に戻ると、万寿がまた同じ歌を繰り返す、それに倣ってまた舞う。今度は男達の手拍子など適当な伴奏も加わり、宴は白拍子ヤマノメの舞いに盛り上がっていった。
まだ日の長い時期。ただこの地の陽は傾きが大きくなると外輪山のまた更に辺縁の山系にかかるため、見かけではもう沈みかけている。
それでも陽光だけ映じる空は明るい。
男達の中には、既に大イビキをかいている者すらある。
舞を早々に終えたヤマノメは、何を気にする事も無くとっとと白粉を落としてしまったが、酔っ払いの男達にはどうでもよかったのか、酌をして回った先でそれでも満足されていた。
その中で一人、あの夜叉丸がややしつこく言い寄って来るのに辟易しつつ。
どうも彼は、ヤマノメの異人風の見目に忌避感は無いらしい。ただ彼だけにかかずらっていては、聞ける話も聞けない。
万寿はと言えば、ずっと為朝の側に侍り、本人からじっくりと話を聞き出している。
今までは門前町の遊女などを招いていたが、女達が為朝の絶倫さにすぐに参ってしまい、中々集まらないのだという話を聞いて、ヤマノメは万寿をおもんばかる。だが、
(オレの方には来ないだろうな……)
それも白拍子の仕事の一環だとは聞いているが、ヤマノメはその種の事は不得手。どちらかが供されるならあちらを願いたいものだと、万寿をおもんばかった気持ちを、即座に撤回した。
明くる日、ヤマノメは元の肩衣で、粗末な宿の板床に寝そべっていた。
酒は男達以上に呑んだが、そもそも酒精への強さが違う。彼らが全員潰れるまでは飲み続けられた。一人を除いては。
残った一人――為朝は延々、万寿と何事か語らい合っていた。ヤマノメはまた、よくああも話が続くものだと、新たに感心る点を見つけた気がした。
万寿はどこまでも朗らかだ。威勢はあっても陰鬱に落ちやすい土蜘蛛達の中にあって、彼女は実にこの眷属らしくなく、明るい。
彼女が時折見せつける風雅は、あくまでそれを表すための道具なのであろう。ヤマノメはそれを、彼女がお高くとまっているものと捉えていたが、この旅の中でようようとそれを見直しつつあった。
昨日吟じた神楽歌の、春の陽光に鳥が虫が啼くが如き歌声などは、その最たるものだ。
そして――
「ヤマノメよ、随分と早く帰ってしまったではないかえ。あのおのこ、なかなかの傑物であったぞ」
何が傑物であったのかは聞かずとも分かる。
この様な点でも開けっぴろげで朗らかなのだなと、ヤマノメは苦笑して彼女を迎えた。
∴
土蜘蛛の里にて、ひょうずが来た時の様な会合がまた開かれる。
だがここにひょうずは居ない。今は代表の長老達を前に、ヤマノメと万寿が持ち帰った情報を元に、今後の策を練ろうという段階。
先日のヤマノメ達の活躍により、土蜘蛛はいくつか有用な情報を得るに至った。これは後々、ひょうず達にも知らされる予定である。
「では戦まではまだ時間があると?」
「はい。まずは北の原田を睨んでか、先に内ノ牧(うちのまき)の平忠国との連合を企図しているらしく、まだ筑前を平らげようという段階では無いようで。ただ――」
ヤマノメに視線を投げる万寿、ここからはよろしく頼むという意味だ。
「奴と話す中で万寿が下手を打ったとは見えなんだが、正体が知れている恐れがありましてな」
長老の一人が自身の黒髭をなでつつ、ヤマノメに声を掛ける。
「お前では仕方あるまい」
「いや、万寿がだ」
これに、居並ぶ長老は揃って目を見開き、彼女は他人ごとの様に「ホホホ」と笑い声を漏らす。
「これではヤマノメを連れて行った意味がありませんで」
「なるほど、あえてオレの怪しさを隠れ蓑に使うつもりだったのか」
これはヤマノメが寝ている時にも話に上がらなかった。いや、その前に意図されていた事であった。
「しかしながら、あのおのこ自身はこれを察している様子は見られませぬ。わらわの見立てが確か、であればですが」
「オレにも、同じく見えたな」
勿怪、特に穢れた蟲妖などと気付いていれば、褥を共にしたりはすまい。
判断に困るところではある。だからこそ、こうして長老古老に諮っているのだ。
「ひとまずお主等は、つかず離れず接触を続けろ。それと真偽の程は別として、この情報もひょうず達、田道間殿に伝えよう」
結局は、当初の予定通り。
分かる限りの情報の整理で、この会合はお開きとなった。
久しぶりに自身の住み処に戻ったものの、しばらく山から離れていたからか、手持ち無沙汰にしつつも元の仕事に帰る気が起きず、ヤマノメはただ寝転ぶ。
どうせ明日、遅くとも明後日には、また同じ顔を突き合わせて出発する。今度は豊後から内ノ牧へ足繁く通う為朝の動向を注視、何か動きがあれば対応という事になろう。
なので今は身体を休めるのが得策と、まどろみに身を任せた。
だが夢を見る間もなく、ヤマノメは揺り起こされる。
「う、む、誰だ……」
「起きや、ヤマノメ」
まだ山向こうに陽光が残る、宵闇の手前。
その微かな明かりの中、既に闇を呑んだ緑髪がなびき、同じ色の瞳が鳶色の瞳を見返す。
「こんな時分に何の用だ」
そっぱを向いてまた眠り込もうとするヤマノメを、万寿は強引にひっくり返し、強引に自身の方を向かせる。
「なんなんだ一体!」
今度こそ起きたヤマノメ。苛つきながら、まどろみの向こうへの闖入者に抗議。
「今のうちに、お許に伝えておきたい事があってな」
「次の旅の道中でもいいだろうが」
どうせまた、彼女と動き回る事になるのだ。今この場で特段に言うべき事は無かろうと、ヤマノメは万寿を追っ払う様に手を振る。
「素面では話せそうに無くての」
そう言えば阿蘇から濁酒を持ち帰っていたな、などと、荷物が増えたのを思い出す。
「勝手に話せ」
「お許は、わらわをどう思う?」
「オレ達とは違う、土蜘蛛らしくない奴だとは思う」
「では土蜘蛛とは、何なのだろうか」
これを聞いたヤマノメは、にわかに「次の言葉を聞きたい」と思い、その意思に応えた頭が自然に覚醒する。
「土に籠もるモノ、だろう」
故に地の底で生きる、そう始めから決まっているのだ。
「違う、断じて違うぞ。我らはな、ヤマノメよ、地の底で生きよと我らに言ったのは、人だ。天つ神の前に後に、人がそう言ったのよ」
どれだけ呑んだのか、やや前後不覚になっている様にも思える。しかし、この朗らかな土蜘蛛の放つ言葉、何故か聞き漏らしたくないと思った。
「神代、上代から続く、虚ろの理があるのだ。もしかしたら、あのおのこはやってくれるやも知れぬ。その理を、打ち砕いてくれるやも知れぬ」
ヤマノメの胸中を、急速に不安が浸食していく。
自身の由来に興味を持った事は無い、考えた事も無い。しかし己がいつ、どこから来たのかを考えた時に、口に出せる確かな答えは無い。
人間の様に、母や父という者は居ない。しかし、それが如何なる存在かだけは知っている。この不可思議な矛盾が胸の奥を叩き付ける。
今以て、己の由来を知りたいとは思わない。その代わりに――
「万寿、お前はいつからここに居るんだ。お前は、どこから来たんだ?」
彼女の事を知りたいと思った。
この思いは憧憬なのか、もしや羨望から顕れたのか、ヤマノメにも分からない。
そして返事は無い。
「万寿?」
目が覚めた。
藁を葺いた屋根すらもが雨音を立てる豪雨が、空間を埋め尽くしている。
先ほどまでの万寿の独白、どうやら夢であったのか。ヤマノメは、夢の中にまで現れた彼女が目覚めと共に失われたのを、何故か切なく思った。
次の日にヤマノメが起きてみれば、常と変わらぬ佇まいで万寿は現れた。
当然、酒精の匂いも無い。困惑するやら安堵するやらと、ヤマノメが表情をころころ変えていると、それを察した万寿の方から語りかける。
「どうしたのかえ? 新たに焚いた沈香の香りが気になるか?」
いつの間にそんな嗜好品を、もしや路銀を使い込んだのか。などと、自身も濁酒をだいぶ買い込んだのはさておいて、万寿に疑惑の視線を向ける。
「ああ、沈香は為朝がわらわにくれたのよ。どうも忠国の娘への進物であったらしいが、褥を同じくしたからかのお」
これだから男は扱い易いと、また笑いながら言う。
今の言葉、対象は人間だけではない。他の土蜘蛛が聞いたらどう思うかと眉を寄せるが、里での彼女の生業もおよそそれであったのを思い返し――なおのこと眉をひそめる。
「ったく。次の旅で、沈香も荷に含めるなどとは言い出すなよ?」
「砕いた物は常に忍ばせておる。芳香は薄くなるがの」
本当に抜け目が無い、こんな点でも。むしろこんな点だからか。
大きく嘆息してから、忠国の娘へ、という言葉にようやく気付く。
「もしかして、奴はその娘に惚れているのか?」
ならば忠国との連携などは建前、そちらが本命という可能性もある。しかしその進物を、行きずりの白拍子の主人に渡してしまう事を考えると、腑に落ちないようにも思えた。
ただ、例え人界から離れて暮らす土蜘蛛とは言っても、この万寿という女なら、男女の機微は本人達よりよく捉えていよう。
ならばと、二人は今後の運びについて結論を出す。
「為朝とはつかず離れず、だったな」
「うむ。ならば我らの行く先は決まったの」
認識を同じくし、ヤマノメと万寿は頷き合う。
当然、目的の第一は、あの怪童がいつ寄せてくるのかを探る事。とはいえ、この――見た目だけは――うら若い乙女の土蜘蛛二人には、新たな興味も芽生えたのであった。
第3話注釈
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※1 弊殿:参詣者が弊物(供え物)を供進するための建物。本殿に隣するか独立して建てられる。
※2 面脂:頬紅。紅花等から色素を抽出する。
※3 口脂:口紅。同上
※4 直刃:直線的でシンプルな刃文。黒漆拵は、柄や鞘、金具までも黒い漆で塗った拵え。
※5 土器:素焼きの盃。磁器と異なり、焼成温度が低く割れやすい。
火の国のヤマノメ 第3話
ヤマノメ達が太宰府側のひょうずの里に逗留し始めてから、十日ほど経った。
届けられた銑鉄が鋳造され、鉄の鱗として唐繰の大蛇に用いられた事で、ひょうずの側の態勢は整った。もし筑紫、あるいは豊前を平らげようと為朝が前進するとなれば、これを要撃に掛かる算段。
だが肝心の為朝に、その動きが無い。
「わらわ達がこちらに来る時の、阿蘇での動き、気にならぬかえ?」
万寿がのんびりと語りかける相手は、肩衣のまま木の棒を振り回すヤマノメ。傍から見ると相当に珍奇な動きであるが、本人こそがいよいよそう思っているのだから仕方ない。
ヤマノメは万寿に正対すると、こんな時にそんな話をするなと非難の眼差しを向けつつも答える。
「ああ、何か急いでいる様子だったな」
「あれがのお、どうも嫌な予感がするのだ」
「と、言うと?」
「あれがもし、阿蘇の平忠国へのお目通りなどだったりしたら、とな」
少々うかつであったか、などと笑う万寿。ヤマノメは驚き、笑うどころでは無い。
「どうするんだ、オレ達、いやお前は、忠国と面識がある事になっているんだぞ」
「まあ、あくまで間接的にということにしたのでそちらは。それより阿蘇の一宮へ赴いた事にしているのも少々問題でなぁ」
「あの近辺で為朝がうろうろしてるなら、一宮に行く可能性もあると?」
「うむ、ありなん」
「どうする、一旦肥後まで戻って、奴の動向を探るか?」
「と、言いたかったのだ」
ひょうずの準備が整った時点でそう考えていたのだと、万寿は明かす。
なぜ今それを言い出したのかと、ヤマノメは問い詰める。
「お許の舞などがもっと早く仕上がれば、早々にもその様にしたかったのだがのお」
「オレの所為かよ……」
ただし万寿の教えは、普段の様子から思われるよりも熱心なもので、飲み込みが悪いのはヤマノメの要領が悪い所為であるのは明らか。ヤマノメ自身もそれを自覚しつつ、万寿に対しては僅かなりとも敬意に近い念も抱くに至っているが、やはり一から十まで彼女がやれば良かろうにという不満がぶり返してしまう。
実のところ、水干の着付け着こなしだけでも時間を食い、舞もなんとか最低限の動きを覚えた程度。当然ながら、本業の白拍子などとは比べるだけでも恥ずかしい程。これもヤマノメ本人は自覚している。不満は、そういった事もこなせぬのが情けないと恥じる心から起こっているのかも知れなかった。
加えて、いくつかの付随する芸事。神楽歌や、最近では今様なども吟じられるらしい。色事もその内にあると言えるが、これらどれもがヤマノメにとっては絶望的。
「それにしても、お前は本当に何でも知っているな」
この辺りは、ヤマノメも素直に認める長所で、一定の敬意は抱いている。
「妖も人間同様、得手不得手というものがある。わらわには、斯様な事が得意だっただけの事よの」
とは言うが、やはり少々誇らしげである。謙遜が美徳とは言わないが、この様な振る舞いには、やはりそりが合わないとヤマノメは思う。
「で、いつ頃発つ?」
「なるべく早くに」
為朝の赴く場所に先んじて入り、そこで白拍子として近づく。
しかしあちらは、為朝を含めた三人がヤマノメ達の顔を知っている。しかもその内の一人は、万寿を勿怪の類と確かに見立てていたのだ。
以前、地元の荘官の女郎とでもした事は、特段問題では無い。もとより万寿は、いずれでも立ち回れるよう最低限を語り、最低限騙るだけに止めていたのだ。
為朝が幾度か肥後内ノ牧と豊後を行き来している事をひょうずから聞き及んだヤマノメ達は、すぐに里を発つ。
そのひょうずのもたらした動向の要点は二つ。
一点目。やはり為朝は忠国につなぎを付け、肥後から薩摩国にかけての平定の準備をしているらしいとの旨。
二点目。彼らはしばしば阿蘇へ赴き、門前町から、あろう事か幣殿(へいでん)(※1)にまで上がり込んで酒盛りをすることまであるとの旨。
その他、兵や馬、武具や兵糧の確保などの動きも見えるが、これは為朝が常に行っているもので、特別な動きでは無かった。
この様な話であったため、ヤマノメと万寿は出発を決意したのであった。一旦、本所に戻ることも考えたが、そのまま一宮へ向かう事に決めたのだった。
往路と違って、荷と言えば水干の入った行李と食料を下げた袋のみ。万寿は食料と水を提げる。
その唯一の荷に手を当てながら、万寿が口を開く。
「ヤマノメよ」
「何か」
「食料ならそこらへんにあると、そうは思わないかえ?」
筑前から一旦豊後に至る山間の国境に入り、僅かな耕作地に張り付いた邑に着いた辺りでの、唐突な問い。
何を言っているのかは想像が付く。万寿の視線は、畠を耕す百姓に向いているのだ。
「急に何を、面倒だろうが」
「本当に? 何故そう思うのかえ?」
これから戦になるかも知れない。その中で殺すのと、文字通りの食い物にするのとどう違うのかと、万寿は問いを重ねる。
「難しいことは、分からん」
鹿や猪、鳥を捕って食うのと違うと言えば、明らかに違う。それらの獣と異なり、人とはおよそ言葉が通じるのだから。
考えるのは億劫だし、手元に食料があるのならそれを食べれば良いだけであろうとだけ言って、ヤマノメはこの問いに口を閉ざす。
「では、戦になって奴らを倒すのは?」
「それはやるさ。お前の分も存分に働いて見せよう」
むしろお前こそどうするのかと、ヤマノメは既に覚悟の決まった眼差しを向け、逆に問いかける。
「若いのお。わらわには、その時が来ねば分からぬ」
この美貌の土蜘蛛に『若い』などと言われるとは、ヤマノメは面食らって目をしばたかせる。確かに万寿は己より里に長く居ると思われるが、年嵩がどうかまでは気にしたことが無かった。それに見た目で言えばさほど変わらない。
長老や古老と言われる者達も居るが、彼らとて実際の歳はどうか。ただ見た目だけがそうであるのは、勿怪にはよくある事である。
ただヤマノメも、己が何年前から生きているかなど知らないし、気にしたことも無い。今こうして思い浮かべた思惟も、一時で揮発することであろう。
「戦で敵を殺せるかはわからぬが、わらわなら、糧が無ければ人を食らうぞ?」
それが妖だと、万寿はこともなげに言う。
ヤマノメはこれに是非を唱えない、それも自然な事と思えたからだ。
「糧がある限りはそうしない、か」
「うむ、その通りだ」
だから食料を絶やさぬ様に注意しろと、まるでヤマノメの主人の様に言う。
(結局、コイツは何を言いたいんだ……)
殺せとも殺すなとも、食えとも食うなとも、確かな事は言わない。ただ確かなのは、毎度の様にヤマノメを端た女として使い走らせようとしている事だけだった。
豊後を過ぎ、肥後山中を南下すればすぐ阿蘇。というのは、あくまでも地形図の上での話。実際には山間と川沿いを蛇行し、並の旅人なら二、三日は掛かる道のりである。
ただ土蜘蛛の二人には、これは一日でこなせるものであったし、そもそも荷を満載していた往路ですら、並の旅人と同じ運びで終えられたのだ。
外輪の山々一峰々々が、鋸の歯の如くそびえ立つ阿蘇の山。
古代から幾度も噴火を繰り返して来たが、今となっては白い蒸気をその奥の火口から吹き上げるだけになっている。
いつまたその『神火』が昇るか分からない、それでも人も妖もここに住まい続ける。それだけの価値がここにはあるのだ。
人々が神火と呼ぶ火柱を奔らせた跡には、大地がひり出したはらわたとも言える多くの鉱脈が顕れることは土蜘蛛や一部の人間も知っていたし、なによりここは森も水も豊かである。
表向き水利の無い地域であっても地下には水が走り、井戸を掘ればすぐに、ただのそれとは思えぬ芳醇な水がわき出る。
火と水と森は、胴にも鉄にも重要な物でもある。
「そう、わらわ達がこの山の裾に住まうのは、ごく自然な事なのだ」
とは、万寿が幾度となく山々を見上げながら言ったこと。色々と気を遣うことが多かった行き道と違い、今はこういった物に目を向ける余裕が二人にはあった。
「しかし吹き出るほど水が湧くというのは、今更だが面白いな」
「ああ、それもあの山のお陰よの」
火は阿蘇の座その物の恩恵であるが、水はこの外輪の山々の恩恵。
急峻の集まりから、地面の、水をよく通す層を一挙に抜け、水を通さぬ層に至ってまんべんなく地下に水利が広がる。その勢いのまま遠くに届く水脈もあれば、何かに突き当たって勢いそのままに噴出する水脈もあるのだ。
土蜘蛛が瘴気を放ち、水を汚すなどと言われるのは、多くは金属を精錬した後の屑による物。無闇にそれらをうち捨てれば、やがては地下に毒が染み込む。
「――とはよく言われる。それと炭を作るために木々を倒せば山からごっそり土が流れ出してこれも水を汚す、などと言われるが、こちらは非道い言いがかりだの」
「言いがかり、なのかな?」
「燃石を用いずとも、我らが使う炭の量など限られよう。山を丸裸にするほど使いもせぬ。それよりも山を壊し、水を汚してしまうのは――」
外輪山に沿って西に伸びていた往来から、大通りが北へ延びる。
「思ったより早かったの。――そう山を壊し水を汚すのは、森を考えなしに拓き、稲と言う名の財を増やす事に躍起になり続ける、瑞穂の民よ」
「瑞穂の民?」
「こやつらがのさばっている地には、我らは行けぬのよ。そして、まさしくその権化が、この道の先に祀られているのだ」
阿蘇の岳から北の直線上に拓かれたこの大通りの先にあるのは、目的地である肥後一宮、阿蘇神社。そこに祀られるのは――
「阿蘇大明神、健磐龍尊(たけいわたつのみこと)という。これも我らに仇なし、多くの眷属を屠った輩よ」
神武天皇の子であり、古代の鎮西に遣わされ多くの功を上げた者である。
「鎮西平定を、か。まるで為朝の様だ」
万寿はヤマノメの言葉に、フッと、小さな笑いを漏らす。
「何が可笑しい」
「いや、何も可笑しくない、何もな」
「ならばなぜ笑った」
「ちょっと思い出したことがあった、それが余りにも懐かしゅうて愚かしゅうて、つい笑ってしまったのだ。お許を笑ったのでは無いぞ」
ならば良いがと腑に落ちない風にするヤマノメ。
そうこうしている内に、二人は阿蘇神社の北側、門前町に到着した。
さすがに一宮と言うだけあり、その門前町も立派な物。旅人や役人を受け入れるに足るだけの長屋が建ち並び、それに付随して細々とした商店も、表通りに店を開く。
おそらく太宰府ほどでは無かろうがと、そちらに行った覚えの無いながらもヤマノメは想像するが、それでも目の前の通りは里に比べれば段違いに賑わい、物も揃っている。
「これヤマノメ、はしゃぐでないぞ」
「いつ、誰がはしゃいだ」
これから厄介な事に当たらねばならないのだ。とてもでは無いが、そんな心持ちでは居られない。
まずは為朝のこちらでの動向を探る。他のどこよりも、ここならば彼への接触が容易であろう。何せここは彼の遊び場なのだ。
ヤマノメはふと、先ほど万寿が笑った理由に思い当たった。
土蜘蛛に敵した健磐龍尊や小碓命の治めた地で、今これを嘲笑うかの様にはしゃぎ回る若武者。しかも彼は清和源氏嫡流、河内源氏の御曹司。その体躯には確かに、それら神々から連綿と続く血が流れているのに、である。
これらの関係性、ヤマノメは万寿から聞いて初めて知ったが、それを知っていた彼女には、実に面白く思えたのかも知れない。
彼女こそ、ただ笑ったのでは無く、嘲笑していたのか。
しかし為朝は、人妖にとってだけの敵では無い、おそらく神にとっても厄介な敵対者なのかも知れない。彼は全てに対する反逆者でもあり得るのだ。
「ヤマノメよ、こちらへ」
「ああ今行く」
いつの間にか離されていた。
万寿は道々に、もっともらしい理由で為朝の噂を聞き集めつつ、宿を探していたのだ。
粗末な長屋の前で待つ万寿。これもまた、ヤマノメには意外に思えた。
路銀は十分にある。神楽舞か奉納の演舞のためだと言いつつ若干の金を握らせれば、役人が泊まる様な宿にでも入れるだろうにと。
よくよく考えれば万寿も、風雨にさらされようが、蒸されつつ天頂の陽光に晒されようが、一度も弱音を吐いたりはしなかった(もっとも荷は常にヤマノメが運んでいるが)。
ずっといけ好かない人物だと思っていたが、妙な美点があるものだと、ヤマノメは感心しつつ、万寿の元へと駆け寄る。
「どうしたのだ?」
「いや。聞き込みを任せっ放しですまん」
「お許が源八郎殿の事を探ったとて、何処かの間者と疑われるばかりだからの」
ヤマノメの今の服装は、着たきりの肩衣。日を凌ぐために袖は付けてみたが、また新たな小袖に着替えている万寿と比べれば、どちらが聞き込みに向いているかは嫌でも分かる。
「それはいいだろう。で、何か分かったのか?」
「本当に折りが良いぞ。為朝はまだ、当地に逗留しているらしい」
それもやはり、幣殿を借り切って。
神をも恐れぬ行為とはこの事かと、ヤマノメは感心するやら驚くやらと繰り返しながら、唸る。
次の動きがいつになるかは定かで無いが、これまでの動向からすると、まだ二、三日は当地に居るらしい。益々都合が良いと、万寿もやや興奮気味で言う。
「そうと決まれば明日にでもお目見えが叶うよう、お宮に願い出て来るとしよう」
「ちょっと待て、まだ準備が出来てないぞ!」
「本日中に沐浴して身を清めれば間に合おうぞ。舞の稽古なら散々やったではないか」
後は覚悟次第だとヤマノメに言い放ち、万寿は長屋から出て行ってしまう。
神職に金を握らせれば、為朝に会うぐらいはどうとでもなろう。神社からすれば、彼は不敬な厄介者に違いないからだ。
「だから、そのオレの心の準備がだな……」
ヤマノメは力なく呟いてから、こうなれば、とまた肚に力を入れ直した。
明くる日、すっかり日も昇った時分。
肥後一宮、門前町の一等粗末な長屋から不釣り合いな装いの二人が出で、阿蘇神社へ向かって静かに歩む。
先導するのは真白な袿に小袖を纏い、紅の袴と共に地に着く部分のそれをたくし上げた緑髪の女、万寿。顔には面脂(※2)も白粉もかすかに乗せただけで、歯黒も塗らず、逆に唇には桜色の口脂(※3)を施している。
ヤマノメは、やはり水干に、袴の裾を持ち上げて後に続く。久々に汚れを落としただけの面はそれだけでも万寿の常よりも明るく、映えるものであったが、今は白粉を塗り込められている。
この格好のまま練り歩くのもかなり目立つものである。
「万寿、境内に入ってから支度した方が良かったんじゃないか?」
「今更申すな。それに、あのみすぼらしい装いでは、門前払いになるであろうに」
ここの神はそこまで狭量な奴なのかと、あらぬ方に更なる恨みを向けるヤマノメであったが、宿から一の鳥居までは三町も無いため、すぐにたどり着く。
しかし問題はここからである。
「ヤマノメよ、気を確かに持てよ」
「言われずとも」
当然、この内は神域。ヤマノメ達にとっては、過ぎるほどに清い地である。参道の砂利を踏みしめ、足を上げるのですら億劫に感じるほど。
(果たして、こんな体たらくで舞えるのか?)
自身に問いかけ、あるいは叱咤しながら、ヤマノメは歩を進める。先を行く万寿も当然、足取りが目に見えて重くなっている。
「おい、万寿」
「ここで一説打とう」
「何を言い出す」
「小碓命はの、かつて熊襲建(くまそたける)の兄弟を征伐せんとした際、髪を下ろし童女姿となって宴席に紛れ込み、兄弟を立て続けに討ったそうな」
「また無理を言うな。要は、機を見て為朝を殺そうと言うことか。オレか、お前が」
残念ながら、これは困難を極める。
剛勇極まる若武者の当人に加え、今は彼が頼りにする手勢十数人も同席しているのだ。己が命を省みずに挑んだとて、討てるとは限らない。そうなれば何の報せも持って帰れず、犬死にとなるのみ。
「小碓命は逃げおおせたぞ?」
「それは、今と昔じゃ違ったんだろ、色々と」
熊襲兄弟征伐の折、まず兄の建を一突きで殺した小碓命は、すぐさま弟の建に詰め寄った。弟の建はその武勇に感嘆し、彼に『タケル』の尊号を献上した程なのだ。
「それもあったであろ。だがまあ、今のはたわぶれに言ったまでだ」
今日のお目見えは、あくまでひょうずの戦の為の情報を得るのが目的。それにここで安易に為朝を討ったならば、情勢があらぬ方向に動く切っ掛けを作りかねない。これも懸念の一つ。
「ったく、滅多な事を言うな」
抜けかけていた気が緊張と共に取り戻された様にも感じながら、ヤマノメは一回深呼吸をする。
「軽口を叩くのもここまでにしようぞ」
お前から言っておいて何をかと言いたいのを抑え、楼門を抜けて左に折れる。威圧する様な何かを明らかに感じるが、これもなんとかこらえた。
「これが神威と言う物よ。そこらの僧や神職の方術では、こうはならぬ」
身体の芯から力を抜き取る何かが、大気と共に延々流れ続けている様でもある。
「もしかして為朝がここを逗留の場所に選んだのは、オレ達を警戒してか?」
「さもありなん。殊に、わらわをだ」
ヤマノメもその注釈に同意する。
為朝と共に在った怪僧、夜叉丸の入れ知恵だとすれば、これは有効と言わざるを得ない。神職達にとっては不敬な行いに見えて、為朝は神威だのみであったのかもと。
「さても、この地にまつわる神威がここまでとは。うかつであったのぉ」
昨日は二の鳥居をくぐった所までであったのだと、万寿は油断を認めた。
土蜘蛛を征伐したという神だ。その威光が今も残っているのであれば、ヤマメ達にこうも災いなすのも当然と言えた。
「どうする、引き返すか?」
「否、此度はこのまま事を運ぼう。しかし、やはり小碓命の真似は無理そうだの」
「やはり本気で言っていたのか?」
「無論、たわぶれよ」
いざ征かんと二人は幣殿へ向かった。
「なあ万寿よ。やはりオレには、奴が神に敬意を持っているとは思えん」
「うむ、わらわもじゃ」
本来ならば四方を木壁に囲われているはずの弊殿は、その内の二面の壁が取り払われている。つい最近外されたようにも見える事から、風通しを良くするためであろう。
そこで行われる酒盛り。やはり暑いのか、大抵の者が上半身をはだけている。
唖然としつつ木階の前まで来た二人を、その内の一人が認めた。
「おお、神主が言っておった白拍子か! こんな田舎にまで興業とは、若殿の武名故かな。おぉい! 若、白拍子らが来ましたぞ!」
なんだ一人だけか、異人ではないか、あの緑髪の方が好みだ、などと言われ、主にヤマノメが本来の目的も忘れて苛つく。
なんだかんだと言われても、こうして比べられ――そして負け――るのは、やはり癪に障るのだ。
「まあまあヤマノメよ、見るべきものを見ようではないか」
「……分かってる」
万寿に続き、ヤマノメが憤りながらも静かに木階(きざはし)を上がると、一応は、やんややんやとはやし立てる男達に迎えられる。
それを無視し、気取られぬよう、右へ左へと素早く視線を走らせると、やはり十二、三人の、それも皆武士と見える者達。そこには夜叉丸や重季、当然と為朝の姿もあり、ヤマノメが彼の顔を改めて拝もうとすると――
(しまった!)
目が合った。
上座に敷いた藁蓋(わろうだ)に座し、鬼や天狗もかくやと言うほどの大男。座していても、立ち姿のヤマノメや万寿の上から目線を浴びせて来るのだ。
「うむ、どこかで見た顔だな?」
酔いが回っているのか、眠たそうな眼。ヤマノメは目が合ったのは偶然であったかと安堵する。
万寿は当然、落ち着いて応じる。既に練っていた理由を添えて。
「過日は危ういところをお助けいただき、かたじけのうございました。庄司様宅での奉公が終わり、これより太宰府に赴こうとしていた折り、こちらに巨漢のお武家様がご逗留との噂を聞きつけ参じた次第。噂が確かなのを知って、安心いたしました」
眠気が飛んだのか、為朝は目を見開き、巨躯を大きく揺らして叫ぶ。
「おお、あの時の女だな! ではそちらは、あの時連れていた共の者かな?」
深く頭を下げながら万寿が口上を述べると、ヤマノメも同じく膝を突き、頭を垂れる。
「大変申し遅れましたが、わらわは万寿と申します。これに在る者は白拍子のヤマノメ。見た通り異国の出で、薩摩言葉よりもなお言葉が怪しく、半人前ではございますが、皆様に楽しんで頂けるよう精一杯努めます」
言って、万寿はすぐさま為朝の横で片膝を着き、いつの間にか手にしていた甁子で酌を始める。
ヤマノメはと言えば、酌よりも先に一舞をと、佩いていた竹光を腰から外して手に取る。そこへ制止の声。
「しばし待たれよ。若殿、こんな田舎で珍しく白拍子に舞ってもらえるのだ。ここは一つ、例の重宝を以て舞って頂くのは如何であろう?」
例の重宝とは一体何か。ヤマノメは竹光を床に置いて片膝を着き、万寿の方を覗う。彼女は鷹揚に頷き、その意に従えとの意を示す。
周囲の男達も揃って「それがよい」と、再度はやしたてる。
「おお、こいつでか」
側に立てかけていた太刀を手に取ると、抜き身にして刀身を明らかにする。
二尺七寸の刀身、反りは一寸余り。一見すると単調でありながら、幾層もの青い光を放つが如き美しさの際立つ直刃(すぐは)(※4)の刃文。黒漆拵えなのは、実践を想定した為朝自身の好みか。
「親父が熊野に納めたのを、行きがけにくすねて来たんだ」
立てた刃を陽光に煌めかせる為朝に、万寿が人懐こそうな声で問いかける。
「若殿様、それは何なのですか?」
「そう言えば名乗ってなかったな。俺は源朝臣(あそん)八郎鎮西惣追捕使為朝、為朝と呼んでくれ」
「ええ、為朝様」
「これはな、万寿。我らが源家重代の重宝、『吠丸(ほえまる)』という」
その由来は辟邪の武との誉れ高い摂津源氏の祖、源頼光が手にした兄弟刀の一振りであり、彼の父源満仲が、唐国(からくに)より渡って来た鉄細工に鍛えさせた物。
「この太刀は頼光公の武に相応しく、かの方を悩ませた山蜘蛛を切り捨てた逸品でな。故にかつては『蜘蛛切(くもきり)』と称されたそうだ」
大蜘蛛を退治たという太刀。明らかに、当地土着の勿怪である土蜘蛛の存在を意識した、夜叉丸の策と思えた。
少なくとも彼は勘づいている、ヤマノメはそう察した。万寿も同じく驚きの表情を見せている。
己が手にしても平気な物なのか。ヤマノメは戸惑うが、先に万寿がそれに手を伸ばす。
「おや、わらわは刀の事などよくわかりませぬが、この太刀はお美しゅうございますね」
「おう、意趣返しで親父殿の手元からくすねたつもりだったが、惚れ込んでしまった」
それをあっさりと万寿に渡してしまう為朝。ヤマノメは、彼女に何か変調は無いかと注視するが、何ら異常は見られず、その刀身や拵えを、鞘も含めて隅から隅で検分している。
「本当にお美しい。これをヤマノメなどに持たせ、舞わせても?」
「ああ、構わん。実を言えば、俺はお前にこそ舞って欲しいのだがな」
あら世辞を、世辞ではないぞ、などとやりとりしているのを見てヤマノメはなお安堵しつつ、これを言い出した夜叉丸の方を見る。
彼は驚いた風に二人の方を向き、目を見開いていた。
(どうやら、当てが外れたみたいだな)
そして、万寿が持っても異常が無い事から、己が手にとっても問題無かろうと判じた。
「ヤマノメ、こちらへ」
「はいっ」
答え、袴を引きながら、ゆるゆると足を運ぶ。
大丈夫だとは思いつつも、改めて鞘に収められたそれを手に取り、検分する。
(本当にコレが、妖を斬ったという刃なのか?)
それなりの由縁があれば、殊に大蜘蛛を斬ったなどという逸話がついて回るなら、己等に害なして当然と、ヤマノメにも思える。
だがこの刀身からは、この境内に満ちる神威ほどの威も感じない。善く鍛えられた銘刀であると思えるし、人は斬った事があるかも知れないが、それだけの刀にしか見えない。
ともあれ、何の問題も無いとなれば、当初の予定通りに舞うだけ。竹光と違い重量が気になるが、これも膂力で御せると判じた。
太刀――吠丸を提げ、為朝を正面に見て、蹲踞の姿勢を取る。
男達は皆、土器(かわらけ)(※5)や甁子を手放さず、ヤマノメの前側に回っている。
「お武家様がた、ヤマノメはこちらのみを向いて舞うわけではありませぬゆえ、ご安心下さいまし」
万寿が言うが、がっついた男達はそんな事など耳に届かないかの様に、ずいと寄る。
「しようのない奴らですまんな、万寿」
笑いながら、為朝自身も杯を傾ける。
ヤマノメに、白粉以外の顔色は無い。神事舞を納める巫女の様に無表情で、視線を正中に、水平に保っている。
実際の所、こう色を失った風に見えるのは、しくじりはしないかという不安からである。酔っ払い集団の、それも敵対者の前での、一回こっきりの舞であるのに。
不安を押してスッと立ち上がり、刃を抜き身にする。
鞘を逆手に持つと背後で正中に沿わせて立て、目線の前で刃を水平にする。
銀の 目貫の太刀を さげ佩きて
遠のみやこを ねるは誰が子ぞ
「ねるはたが子ぞ~」
南蛮の鳥の様な心地よい声で、神楽歌を朗々と吟じるのはヤマノメ――では無く万寿。
奈良のみやこを懐かしみ、そこに居たであろう清廉な若武者の練り歩く様子を唄った物である。それを、今は太宰府を脅かそうとする為朝を意識して、本来の歌をたがえている。
ただ、本来からしてこれは、陽気な女が歌い出した物で、万寿にはうってつけの雰囲気に過ぎる。その様な意図は一切伝わらない。
吟じるのに応じてヤマノメも、前へあとへと運歩(はこび)を踏み、ゆるゆると八方を拝んでから、また正面に復し、今度は正眼に太刀を構える。
ヤマノメの厳しい表情には、男達も気圧されるほどであるが、本人はやはり、しくじらないよう依然として必死。
正眼に構えた刃を一旦振り上げ、しかしそれは振り下ろさず、太刀を持つ馬手から弓手にかけて、楕円に近い弧を描き、正面でのその所作を終える。
石の上 対馬男の 太刀もがな
組の緖垂でて 宮路通はむ
「宮路かよわむ~」
ヤマノメは、これにも合わせて一歩進む毎に円弧を描く所作をし、左に直角に転身しては同じ所作を繰り返す。
そして、これも歌を違えている。本来、太刀を持っているのは万葉集の歌にも唄われる勇者である。これも平城京を懐かしむ歌なのであるが、万寿は強い思いを以て、これに対馬の語を盛り込んだ。
この場でこの思いを知るのは、万寿ただ一人である。
男達にその様な雅を嗜む者は皆無。為朝や重季も京から下って来た人物であるが、こちらは兵法を修めるのに手一杯だった模様。
当然と歌の内容にかかずらわずに舞を進めるヤマノメには、そんな事は分からない。一周して、また元の位置に戻る。
祝し来し 地祇は祀りつ 明日よりは
組の緖垂でて 遊べ太刀佩き
今度は太刀を持つ袖を大きく振り、開いてなびかせながら、男達に太刀が届かぬ間際まで周囲をぐるりと回る。
地に潜む蟲妖よりも、春を舞う蝶にも見える。
杵築に 岐の神を 祝し来し
心は今ぞ 楽しかりける
ゆっくりと運歩を進めながら、袈裟に逆袈裟にと縦横に太刀を振るう。その様は自由であり、同時にヤマノメにもようやく余裕が生じてきていた。
初度の位置に戻ると、万寿がまた同じ歌を繰り返す、それに倣ってまた舞う。今度は男達の手拍子など適当な伴奏も加わり、宴は白拍子ヤマノメの舞いに盛り上がっていった。
まだ日の長い時期。ただこの地の陽は傾きが大きくなると外輪山のまた更に辺縁の山系にかかるため、見かけではもう沈みかけている。
それでも陽光だけ映じる空は明るい。
男達の中には、既に大イビキをかいている者すらある。
舞を早々に終えたヤマノメは、何を気にする事も無くとっとと白粉を落としてしまったが、酔っ払いの男達にはどうでもよかったのか、酌をして回った先でそれでも満足されていた。
その中で一人、あの夜叉丸がややしつこく言い寄って来るのに辟易しつつ。
どうも彼は、ヤマノメの異人風の見目に忌避感は無いらしい。ただ彼だけにかかずらっていては、聞ける話も聞けない。
万寿はと言えば、ずっと為朝の側に侍り、本人からじっくりと話を聞き出している。
今までは門前町の遊女などを招いていたが、女達が為朝の絶倫さにすぐに参ってしまい、中々集まらないのだという話を聞いて、ヤマノメは万寿をおもんばかる。だが、
(オレの方には来ないだろうな……)
それも白拍子の仕事の一環だとは聞いているが、ヤマノメはその種の事は不得手。どちらかが供されるならあちらを願いたいものだと、万寿をおもんばかった気持ちを、即座に撤回した。
明くる日、ヤマノメは元の肩衣で、粗末な宿の板床に寝そべっていた。
酒は男達以上に呑んだが、そもそも酒精への強さが違う。彼らが全員潰れるまでは飲み続けられた。一人を除いては。
残った一人――為朝は延々、万寿と何事か語らい合っていた。ヤマノメはまた、よくああも話が続くものだと、新たに感心る点を見つけた気がした。
万寿はどこまでも朗らかだ。威勢はあっても陰鬱に落ちやすい土蜘蛛達の中にあって、彼女は実にこの眷属らしくなく、明るい。
彼女が時折見せつける風雅は、あくまでそれを表すための道具なのであろう。ヤマノメはそれを、彼女がお高くとまっているものと捉えていたが、この旅の中でようようとそれを見直しつつあった。
昨日吟じた神楽歌の、春の陽光に鳥が虫が啼くが如き歌声などは、その最たるものだ。
そして――
「ヤマノメよ、随分と早く帰ってしまったではないかえ。あのおのこ、なかなかの傑物であったぞ」
何が傑物であったのかは聞かずとも分かる。
この様な点でも開けっぴろげで朗らかなのだなと、ヤマノメは苦笑して彼女を迎えた。
∴
土蜘蛛の里にて、ひょうずが来た時の様な会合がまた開かれる。
だがここにひょうずは居ない。今は代表の長老達を前に、ヤマノメと万寿が持ち帰った情報を元に、今後の策を練ろうという段階。
先日のヤマノメ達の活躍により、土蜘蛛はいくつか有用な情報を得るに至った。これは後々、ひょうず達にも知らされる予定である。
「では戦まではまだ時間があると?」
「はい。まずは北の原田を睨んでか、先に内ノ牧(うちのまき)の平忠国との連合を企図しているらしく、まだ筑前を平らげようという段階では無いようで。ただ――」
ヤマノメに視線を投げる万寿、ここからはよろしく頼むという意味だ。
「奴と話す中で万寿が下手を打ったとは見えなんだが、正体が知れている恐れがありましてな」
長老の一人が自身の黒髭をなでつつ、ヤマノメに声を掛ける。
「お前では仕方あるまい」
「いや、万寿がだ」
これに、居並ぶ長老は揃って目を見開き、彼女は他人ごとの様に「ホホホ」と笑い声を漏らす。
「これではヤマノメを連れて行った意味がありませんで」
「なるほど、あえてオレの怪しさを隠れ蓑に使うつもりだったのか」
これはヤマノメが寝ている時にも話に上がらなかった。いや、その前に意図されていた事であった。
「しかしながら、あのおのこ自身はこれを察している様子は見られませぬ。わらわの見立てが確か、であればですが」
「オレにも、同じく見えたな」
勿怪、特に穢れた蟲妖などと気付いていれば、褥を共にしたりはすまい。
判断に困るところではある。だからこそ、こうして長老古老に諮っているのだ。
「ひとまずお主等は、つかず離れず接触を続けろ。それと真偽の程は別として、この情報もひょうず達、田道間殿に伝えよう」
結局は、当初の予定通り。
分かる限りの情報の整理で、この会合はお開きとなった。
久しぶりに自身の住み処に戻ったものの、しばらく山から離れていたからか、手持ち無沙汰にしつつも元の仕事に帰る気が起きず、ヤマノメはただ寝転ぶ。
どうせ明日、遅くとも明後日には、また同じ顔を突き合わせて出発する。今度は豊後から内ノ牧へ足繁く通う為朝の動向を注視、何か動きがあれば対応という事になろう。
なので今は身体を休めるのが得策と、まどろみに身を任せた。
だが夢を見る間もなく、ヤマノメは揺り起こされる。
「う、む、誰だ……」
「起きや、ヤマノメ」
まだ山向こうに陽光が残る、宵闇の手前。
その微かな明かりの中、既に闇を呑んだ緑髪がなびき、同じ色の瞳が鳶色の瞳を見返す。
「こんな時分に何の用だ」
そっぱを向いてまた眠り込もうとするヤマノメを、万寿は強引にひっくり返し、強引に自身の方を向かせる。
「なんなんだ一体!」
今度こそ起きたヤマノメ。苛つきながら、まどろみの向こうへの闖入者に抗議。
「今のうちに、お許に伝えておきたい事があってな」
「次の旅の道中でもいいだろうが」
どうせまた、彼女と動き回る事になるのだ。今この場で特段に言うべき事は無かろうと、ヤマノメは万寿を追っ払う様に手を振る。
「素面では話せそうに無くての」
そう言えば阿蘇から濁酒を持ち帰っていたな、などと、荷物が増えたのを思い出す。
「勝手に話せ」
「お許は、わらわをどう思う?」
「オレ達とは違う、土蜘蛛らしくない奴だとは思う」
「では土蜘蛛とは、何なのだろうか」
これを聞いたヤマノメは、にわかに「次の言葉を聞きたい」と思い、その意思に応えた頭が自然に覚醒する。
「土に籠もるモノ、だろう」
故に地の底で生きる、そう始めから決まっているのだ。
「違う、断じて違うぞ。我らはな、ヤマノメよ、地の底で生きよと我らに言ったのは、人だ。天つ神の前に後に、人がそう言ったのよ」
どれだけ呑んだのか、やや前後不覚になっている様にも思える。しかし、この朗らかな土蜘蛛の放つ言葉、何故か聞き漏らしたくないと思った。
「神代、上代から続く、虚ろの理があるのだ。もしかしたら、あのおのこはやってくれるやも知れぬ。その理を、打ち砕いてくれるやも知れぬ」
ヤマノメの胸中を、急速に不安が浸食していく。
自身の由来に興味を持った事は無い、考えた事も無い。しかし己がいつ、どこから来たのかを考えた時に、口に出せる確かな答えは無い。
人間の様に、母や父という者は居ない。しかし、それが如何なる存在かだけは知っている。この不可思議な矛盾が胸の奥を叩き付ける。
今以て、己の由来を知りたいとは思わない。その代わりに――
「万寿、お前はいつからここに居るんだ。お前は、どこから来たんだ?」
彼女の事を知りたいと思った。
この思いは憧憬なのか、もしや羨望から顕れたのか、ヤマノメにも分からない。
そして返事は無い。
「万寿?」
目が覚めた。
藁を葺いた屋根すらもが雨音を立てる豪雨が、空間を埋め尽くしている。
先ほどまでの万寿の独白、どうやら夢であったのか。ヤマノメは、夢の中にまで現れた彼女が目覚めと共に失われたのを、何故か切なく思った。
次の日にヤマノメが起きてみれば、常と変わらぬ佇まいで万寿は現れた。
当然、酒精の匂いも無い。困惑するやら安堵するやらと、ヤマノメが表情をころころ変えていると、それを察した万寿の方から語りかける。
「どうしたのかえ? 新たに焚いた沈香の香りが気になるか?」
いつの間にそんな嗜好品を、もしや路銀を使い込んだのか。などと、自身も濁酒をだいぶ買い込んだのはさておいて、万寿に疑惑の視線を向ける。
「ああ、沈香は為朝がわらわにくれたのよ。どうも忠国の娘への進物であったらしいが、褥を同じくしたからかのお」
これだから男は扱い易いと、また笑いながら言う。
今の言葉、対象は人間だけではない。他の土蜘蛛が聞いたらどう思うかと眉を寄せるが、里での彼女の生業もおよそそれであったのを思い返し――なおのこと眉をひそめる。
「ったく。次の旅で、沈香も荷に含めるなどとは言い出すなよ?」
「砕いた物は常に忍ばせておる。芳香は薄くなるがの」
本当に抜け目が無い、こんな点でも。むしろこんな点だからか。
大きく嘆息してから、忠国の娘へ、という言葉にようやく気付く。
「もしかして、奴はその娘に惚れているのか?」
ならば忠国との連携などは建前、そちらが本命という可能性もある。しかしその進物を、行きずりの白拍子の主人に渡してしまう事を考えると、腑に落ちないようにも思えた。
ただ、例え人界から離れて暮らす土蜘蛛とは言っても、この万寿という女なら、男女の機微は本人達よりよく捉えていよう。
ならばと、二人は今後の運びについて結論を出す。
「為朝とはつかず離れず、だったな」
「うむ。ならば我らの行く先は決まったの」
認識を同じくし、ヤマノメと万寿は頷き合う。
当然、目的の第一は、あの怪童がいつ寄せてくるのかを探る事。とはいえ、この――見た目だけは――うら若い乙女の土蜘蛛二人には、新たな興味も芽生えたのであった。
第3話注釈
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※1 弊殿:参詣者が弊物(供え物)を供進するための建物。本殿に隣するか独立して建てられる。
※2 面脂:頬紅。紅花等から色素を抽出する。
※3 口脂:口紅。同上
※4 直刃:直線的でシンプルな刃文。黒漆拵は、柄や鞘、金具までも黒い漆で塗った拵え。
※5 土器:素焼きの盃。磁器と異なり、焼成温度が低く割れやすい。
第1章 火の国のヤマノメ 一覧
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