楽園の確率~Paradiseshift.第1章 火の国のヤマノメ 火の国のヤマノメ 第2話
所属カテゴリー: 楽園の確率~Paradiseshift.第1章 火の国のヤマノメ
公開日:2016年11月28日 / 最終更新日:2016年11月28日
楽園の確率 ~ Paradise Shift. 第1章
火の国のヤマノメ 第2話
山賊や、何より為朝との唐突な遭遇の後の約四十里の道のりには幸いにして特段の異常も無く、ヤマノメ達は豊前国(ぶぜんのくに)を抜け、ひょうず達の在所に訪れる。
『筑紫(つくし)に大堤を築て水を貯え名付けて水城(みずき)という』と日本書紀に記されるほどの由緒を持つ太宰府。背振(せぶり)山系を西に戴き御笠(みかさ)の森を北東に見る平野に、御笠の川に架けて築かれた外敵防禦の城塞であり、今時には貿易の要所として機能する鎮西府。
そこからまた南西、かつて謀略により当地に遠流となった菅原道真(すがわらのみちざね)が、身の潔白を訴え幾度も天を拝した天判山(てんばんさん)。その山裾の昼なお昏い、特に今時分は水の匂いも濃い森の中、数多の支流や淵に沿ってひょうずは集落を築いている。
一つ一つの住居はヤマノメら土蜘蛛より簡素な、縦穴に柱を立てて藁を乗せただけの物。颶風が来るたびに雨に濡れては立て直す。そも水界のモノである彼らには、大雨こそ無くてはならぬもの。
これを見て、土蜘蛛同様に普請(ふしん)には慣れているはずなのに、などとうそぶく万寿。
「お前がそれを言うか」
「ひょうずには、太宰府造営の頃から番匠(ばんじょう)(※1)の下で働いた者もおるし、わらわもその働きぶりを見取った覚えがあるが、お許はどうかえ?」
言われてみれば、坑道に潜るか、踏鞴と炉に向き合う事は知っていても、木の組み方や穿ち方などについて、ヤマノメは殆ど知らない。辛うじて柱を立て、壁で覆って梁を架け、屋根に藁などを葺くのを知っている程度だ。
「オレの事は、捨て置け……」
この集落にあって別格の佇まいを誇る高床の邸で、ひょうずの長を待つ。ヤマノメが運んで来た銑鉄は既に預けた。後はもう、彼ら次第となっている。
そこへ蓑を羽織ったひょうずが現れる。土蜘蛛達の里に来たのとは別の者だ。
上座に移ると、床に両拳を突いて頭を下げる。全身の毛深さと対照的に禿げ上がった頭が、それを向けられたヤマノメには眩しく感じる。
「万寿御前、ご無沙汰だな。して、お前さんは、初めて会うか」
「こちらこそ、ご無沙汰しております、田道間(たぢま)様。こちらはわらわと同じ土蜘蛛、褐鉄山の女と言います、『ヤマノメ』とお呼び下さいまし」
紹介され、万寿に倣って頭を下げるヤマノメ。
「この度は遠路ご苦労、それに無理を言って済まなかった」
お気になさらずとにこやかに応じる万寿、彼女を白眼視するヤマノメ。鉱石を掘り返したのはヤマノメを始めとする他の土蜘蛛であるし、銑鉄への加工も同じく。運ぶのに至っては道案内以外は全て――道々に必要な諸事も含めて――ヤマノメの手による。
調子の良い事ばかり言ってくれると、ヤマノメが毎度の如く心中で悪態をついていると、それを見透かしたかのようにその名が話題に上がる。
「此度の事の運び、あらかたはヤマノメによるものでありますゆえ」
己の事を取り立てて語るとはと、それはそれでヤマノメも気味が悪くなる。
「ヤマノメ、と言います」
改めて頭を下げる。他のひょうずとは違う雰囲気にヤマノメも居住まいを正すが、何を言って良いか分からずに名乗るのみ。
「褐鉄からの精錬か、山はさぞ寒くなった事であろうか」
土蜘蛛とて山に糧を頼る。鉄を作るためには、その木を倒して炭を多く用いなければならないし、褐い鉄ならば尚更。山は禿げ上がるし、何をするにも不可欠な水利すらも、大きな煽りを受ける。
田道間の言葉は、それらを押しての土蜘蛛の助力をおもんばかっての物である。
「いや、田道間様。これには燃石(もえるいし)(※2)を使ったんだ、炭はあまり使わなかったな」
「ほほう、炭を使わぬ精錬とは、ぜひ聞きたいものだ」
もし可能であれば、山や水への影響を大きく減らせる。それを期待した彼は、興味をそちらに向けて問いかける。
「阿蘇の西の縁から出て来た燃石を使うんだが……うん多分、田道間様達じゃダメだ」
「燃石ならばワシ等も用いる。一体何が問題なのだ?」
「燃石は、上手くすれば炭よりもよく燃えてくれる。しかしそのまま使うと、柔い鉄が出来ちまう。原因は燃石の中の瘴気だ。これを除けるには、炭を作るみたいに燃石を蒸し焼きして、瘴気を出し切らなきゃならない。これは多分、ひょうずには毒だ」
ただ燃やすだけでも若干の瘴気を吹き出すのに、この様に処理すれば、瘴気はより濃密な物になる。ずっとそれと共に在った土蜘蛛にとっては空気の一部と変わりないが、他の人妖、のみならずほとんどの生物にとって、それは致命の毒ともなり得る。
「万寿御前の見立てではどうかな?」
「わらわも、ヤマノメと同じです。もっとも、この業はヤマノメ等が編み出した物で、わらわにも確たる事は言えませぬが。もし同じ事が出来るモノが在るとするならば、それは『鬼』ぐらいでございましょう」
田道間は残念そうにしながらも、納得したと何度か頷く。
「鬼でなくば無理、か。諦めるしか無さそうだな」
これから銑鉄を溶かし、鍛えるか鋳掛けるかするのであるが、それには従来通りの手法を用いる事になろうと、田道間はあっさりと諦めた。
「では、わらわとヤマノメは、用が済み次第お暇いたしますゆえ」
渡す物を渡してしまえば、こちらには用は無い。周辺に潜み、ひょうずと為朝の戦をとくと見極めるだけ。残る用事があるとすれば、せいぜい帰途の食料の都合ぐらい。
しかし田道間はそれを止める。
「見ては、行かぬのですかな?」
直接の協力をしない土蜘蛛を責めるどころか、我等が戦をとくとご覧じろと、目の奥にほの明るい灯火を点しながら彼は言った。
ひょうず達、本邦においては総じて『河童』と呼ばれるモノ達には、ある種の劣等感がある。それは特に、鬼や土蜘蛛に向く事が多い。今こそ、これを覆す。河童の中でも最も武に優れたひょうず達は、為朝撃退を己らだけで為さんと、彼らは彼らで必死なのだ。
そして田道間がこの戦を見せようとするのには、それと全く逆の意図も込められている。
「あの悪童に鎮西を踏みにじらせはせぬ。万が一には、お許らが頼りだ」
ひょうずで敵わなければ土蜘蛛が、それが無理ならば、もはやこの鎮西に奴を追い払う者は居ない。土着の豪族は皆既に、為朝の、源氏の御曹司と言う名に震え上がっている。その上、彼個人が異様なまでの武を誇るのだ。
「悪対馬殿なら、この様な無体は許さなかったであろうに……」
「ようよう気をたわめなさるな。それに義親(よしちか)様は、もはや此方におわしませぬ」
「しかし、京に近江に、遠く常陸国にまで、対馬殿は現れたのだと」(※3・4)
それは人間の口を渡って、ここまで届いた話である。確かに人の世で起こった事なのだと、田道間は拳を握り込みながら言い募る。
「それこそ、かずなき程の者達が、かのお方を偲ぶあかし。しかし、わらわは確かに、かのお方の彼方へ逝くのを見届けましたゆえ」
逆に、彼を恐れる者達こそ、その名の言霊を追い払おうとし、口にもしないであろう。その人物の死はいずれにせよ確かだと、万寿は重ねて言った。
悪対馬、義親なる人物が何者かヤマノメは知らないが、この二人にとって並ならぬ思いを抱く『人間』だと言うのだけは彼女も察した。しかしそれ以上は聞こうとしない。
暗い思い出にしか見えないし、興味本位で聞いたところで己の頭では、すぐに忘れてしまうであろうと考えたからだった。
そう押し黙っていたヤマノメには、田道間の方から話しかける。
「妙な思い出話などしてすまぬな。ときに、宿が無いならこちらで用意するが、万寿御前も、如何しようか?」
僅かなりとも瘴気を放ち、川を汚すという認識のある土蜘蛛の逗留。言うほどのわだかまりが無いとは言え、他のひょうず達がどれほど許容するかは分からない。
万寿はこれも踏まえてか、否と、鷹揚に首を振る。
「もとより戦は見届けるつもりでありましたが、少々用もありますゆえ。時来たら、呼ばれずとも」
万寿はそう言って確かに逗留を断り、田道間もこれに承知と、食料などの都合について約束してから立ち上がり、場を後にした。
こちらでの用事とはなんだったか、などとヤマノメが思い巡らせる横で、万寿が答えを寄越す。
「お許には言ってなかったが、先に田道間殿に申した通り、少し太宰府に用があるゆえ“わらわは”あちらに出向いてくる」
ここでヤマノメは、これまで無かったほど酷く眉根を寄せる。
「今更何を言い出す!? 田道間様にオレも出向く様な風に言ったばかりだぞ」
「お許だけ残ると申せばよい。童では無いのだ、それぐらいは如何ともなろうぞ?」
そう言い残すと、今度は万寿が席を立ち、木階を降りて行った。
「なるほど、あの格好はあっちに行くための物か……」
遠の朝廷(とおのみかど)とも称される太宰府。その呼び名にふさわしく、政庁官衙(かんが)を核として条坊制(※5)に即した都邑(とゆう)が備えられている。
それでもみすぼらしい服装の良民も居住しているし、ヤマノメの様な服装で赴いても差し支える事は無いはず。
だがそこはあの万寿。無闇に京風を表に出した彼女が、そんな賑わいのある場所に己と同じ旅姿で居て耐えられようはずは無い。ヤマノメはそう、ここまで万寿がして来た装いから、一人納得する。
それはともかく置き去りにされたヤマノメ。自身も戸の代わりに垂らされた筵を除けて、建屋の外に出る。そこで一旦伸びをしてから辺りを見渡すが、万寿の姿は既に無い。駆けて行ける様な服で無いし、そもそも彼女が本気で走る様子も想像しがたいが。
どうしたものかと考えた後、ひとまず再び田道間に会おうと、彼の姿を探しに里の中をさまよう。
ヤマノメはそこでふと、ひょうずの集団を見る。一様に蓑を背負い、鑿や槌を携えるかした彼らが、何か巨大な物体の前に屯しているのだ。
「何者か?」
ヤマノメに気づいた一人が誰何する。
ここで逃げては却ってよろしくないと見たヤマノメは、大人しく姿を現す。
「火の国の土蜘蛛だ。先般より頼まれていた荷を届けた者だ」
土蜘蛛との語に彼らは僅かにざわつくが、先ほどヤマノメを呼びかけたひょうずが田道間を連れて現れると、それはすぐに落ち着いた。
「これはヤマノメ、太宰府に向かったのでは無かったか?」
「万寿に置いてかれちまいました。あいつめ、始めから一人で行くつもりだったらしい」
何ともはやと頭をかくヤマノメを、田道間は集団の中へ誘う。
そこに寄ってようやく、その巨大な物体が何かが分かる。先に話を聞いていなければ、こうしても分からなかったであろうが。
巨大な青銅の鱗に覆われた大蛇。しかし死体の様に何の挙動も見せない、始めから生きていないのだから当然だ。
四尺ほどの高さの胴、しかし全長は不釣り合いに短い。その頭部に牙らしき物は見えないが、巨人が振るう鉄槌の如きその重々しさは、それだけで十分恐ろしげに見える。
「これが、前に言っていた唐繰か……」
これなら太刀の斬撃も凌ぎ、強弓(こわゆみ)の射撃も弾く事が叶うであろう。
「見た通り、ほとんど出来上がっておる。後は逆鱗を貼り付けるのみだ」
唐繰りの要所を鉄で覆うと言っていたが、それが今言った『逆鱗』なのであろう。
「すまないが、逆鱗とは一体、如何なる物なんだ?」
それに幾人かがきょとんとし、また数人が笑いを押し殺している。無知を馬鹿にされたところをヤマノメがこらえていると、特段の反応も見せなかった田道間がひょうずに説く。
「夫龍之為蟲也、柔可押而騎也、然其喉下有逆鱗頸尺、若人有嬰之者、則必殺人」
「??」
「今の詞を知る者は?」
ヤマノメを含めて、誰一人として声を上げない。
「これは、かつて大陸で説かれた治世論の一節だ。ここで逆鱗を如何なる物か、人倫に交えて語ったのだ。他者を馬鹿にする暇があったら、己がより深く識るよう努めよ」
田道間は、ヤマノメに対してはこれに続いて、逆鱗とは、普段は穏やかな龍でも触られれば怒り出す鱗の事であり、先の詞は本来臣下のあるべき姿を謳った物の一部であるが、ここでの抜粋はこれが却って痛点であるのを示唆した物である、と丁寧に説いた。
ひょうず達は素直に反省したのか、皆、恥じ入った風な貌を見せる。
「ヤマノメよ、大変な無礼をした。ワシの顔に免じて許してくれ」
深々と、また禿げ頭を向けて腰を折る田道間に、ヤマノメは苦笑しながら言う。
「と言われても、オレが物を知らぬのは里でも皆からよくよく言われているし、気にする方がおかしかった」
「しかしワシ等や、万寿御前でも知らぬ事を知っている」
それぞれに知る事が違うのだと、恐らくは漢籍にも通じた彼は、また別の新しい知識に通じているであろうヤマノメに、密かな賛辞を送る。
「それもまあ、そうか。にしても田道間様、この唐繰はどうなっているんだ?」
間接的にでも自身が関わる物。これは興味本位以上に、知っておくのが義務であろうと、ヤマノメは認識していた。
「ゆくゆくは披露しようと考えていたのだ。だが皆も揃っておるし、ここで見せるのもちょうど良いかも知れぬな」
いずれは万寿にも見せよう。田道間はそう言って、ヤマノメに唐繰の大蛇を見分させるべく再びいざなう。
ヤマノメの顔も里の者に知れ、どうやら彼のお陰でよろしく過ごせそうでもある。まだ為朝との対峙までは日もあろうと、ひとまず当地に腰を据えようと決めたのだった。
∴
万寿が太宰府に赴いてから三日経った夕刻、彼女はヤマノメが在する住居に帰着する。
こんなにすぐに帰って来ると思っていなかったヤマノメは、また、宿や食料はどうするのだと、田道間らの厚意に甘えっぱなしになっている事を伝える。
これに万寿は、「あれだけの鉄の代わりと思えば、この程度でも足りないであろう?」と、平気で言い放った。
「そうだ、あの唐繰、聞けばひょうずが数人で乗り込んで内側から動かすらしい」
「ほう、水妖の中には水を操って仮の経絡を巡らせ、あの様な機巧を操る者も居ると聞いた事があるが、その唐繰、そんな力業だったとは」
それも剛力のひょうずだからこそ叶う事。
またこれを、内部の機巧を以て倍力しつつ振り回し、青銅と鉄の鱗で押しつぶそうというのが、唐繰大蛇を用いる際の構想。
それに加え水辺での待ち伏せ。と言うよりは、あの大蛇は敵の戦意を挫き、攪乱し、翻ってひょうず達の戦意を鼓舞する物でもあり、予定する主力は水辺に潜む者達だ。川縁や淵に敵が在れば、それをこちらへ引きずり込み、平地に在っては霧で巻いて忍び寄り、矛を以て貫く。水妖としては、至極単純かつこれ以上は無い理合の運びの戦。
「ところで、太宰府での用事とは、一体何だったんだ?」
「ほお、わらわから申そうと思っていたのだが、よくぞ聞いてくれた」
言って、嫌な笑みを浮かべる万寿。ヤマノメは、しくじった、聞くべきでは無かったかなどと一瞬思うが、どのみち聞かされる羽目になっていたであろうと、早々に観念する。
「これを」
万寿が自身の背後から、葛を編んだ平たい行李を取り出す。
ヤマノメは促されるまま括られた縄を解き、蓋を開けて中身を検める。しかし、それが何を意味するのかが分からない。
「これは?」
「見ての通り、水干(すいかん)(※5)だが?」
それぐらいはヤマノメにも分かる。紅で薄く薄く染め、控えめに咲く梅の様な色合いになった水干。その下には紅色の長袴も収まっているが、これを一目見たヤマノメはおおよそ理解し、眉を寄せて嫌そうな顔で万寿を見る。
「なんじゃ? その目は」
「おい、この袴。なんか見た事があるこしらえなんだが……」
「それはもう、特別にあつらえた物だからの」
ヤマノメが普段穿いている衣のそれには、裾を整えるのに都合が良いように紐を配している。この長袴にはなぜか、これをあしらった文様が走っているのだ。これが特別にあつらえた物だというなら、万寿の意図の一つは明らかだ。
「オレにこれを着ろと?」
「うむ」
「着てどうしろと」
この類の衣装を女が着てする事、ヤマノメをしても想像がつくが、ここはあえて問う。
「異人の白拍子殿、ほどよく舞ってたもれ」
やはりそうか。だが何故己なのか、ヤマノメにはこれが納得できない。
「お前なら舞も知ってるだろ、なんでわざわざオレにやらせる」
「お許が源八郎殿の側に侍り、少しでも気の利いた話ができるのであれば、わらわが舞ってもよかったがのお」
女二人という時点で気づくべきであったが、今更である。
公家の姫でなくとも、遊女か采女(うねめ)(※6)の様に、いくらか教養があればそれなりには話も出来ようが、それが全く皆無のヤマノメには至難の業。舞とそちら、最低限こなすまでを習得にいずれが時間がかかるかを天秤にかければ、ヤマノメが舞った方が良い。
「こういうことは、始めに言って欲しいものだな」
「いや、全て始めに決まっていた事ぞ?」
「まさかオレが寝ている間に……」
万寿はまた口元を覆い、大層愉快そうに笑って答える。
「異人の白拍子など、京でなどまず見ることも無いからの。上手くすればあの為朝でも籠絡できようぞ?」
戦う前に、可能な限り情報を得るのがまず目的の一つ。
酒に酔わせるかして口を軽くさせ、いつ、どの程度の数で、如何にして寄せるつもりか、それだけでも分かれば戦は十分優位になるであろう。
これが武士同士の戦いであれば、お互いに矢合わせの日取りを決める所から始まるが、この度は双方の間にそんな作法は働かない。それにあの為朝が、そんな作法にどれだけこだわるか。下手をすれば恥も外聞も無く、夜討ち、奇襲に出る事もあり得る。
だからこそ、事前にどう動くかの情報が必要なのだ。
しかしこれらは、ひょうず達が破れた後に必要な物のはず。そしてもう一つの目的もまた、同じく敗退後の運び。
「一定の信用を得れば、場合によっては、かの者の懐の内で、弑することも叶おう」
賊に襲われた後の遭遇の際には危険見積の大きさから見送ったが、事が極まれば、それもまた取りうる策の一つでもある。
そう言い放つ万寿の目をヤマノメは見返す。彼女の黒い瞳には、より深い憂いの色が沈んでいる。
「万寿?」
「のおヤマノメ。あのおのこ、小碓命(おうすのみこと)であろうか、それとも素戔嗚尊(すさのおのみこと)であろうか」
「それは神様の名か、いずれにしても敵だな」
天に通じる者を厭う。土蜘蛛共通の、蟲妖としての本能とも言ってよい理。
為朝が、万寿の言ったいずれの存在に重なろうと、ヤマノメには関係ないはず。
「いずれにしても、か……」
そう呟き、珍しく物思いにふける様に天を仰ぐ万寿。
ヤマノメも、これ以上は彼女に声を掛けられず、今後の運びについて拙い恣意を浮かべ続けた。
第2話注釈
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※1 番匠:木造建築、建設を請け負う職人。中央省庁に属する場合もあった。現在の大工の元祖
※2 燃石:石炭の事。日本で普遍的に使用され始めたのは江戸時代に入ってから。
※3 近江:近江国。現在の滋賀県
※4 常陸国:現在の茨城県の大半の地域
※4 条坊制:規定数の大路を組み合わせる都市設計。福原などはこれが足りず都と出来なかった。
※5 水干:平安時代に男子が着た簡素な装束。白拍子がこれを纏って男装する。
※6 采女:献上され、天皇や皇后に近侍した女官。人質や妾としての性格もあった。
火の国のヤマノメ 第2話
山賊や、何より為朝との唐突な遭遇の後の約四十里の道のりには幸いにして特段の異常も無く、ヤマノメ達は豊前国(ぶぜんのくに)を抜け、ひょうず達の在所に訪れる。
『筑紫(つくし)に大堤を築て水を貯え名付けて水城(みずき)という』と日本書紀に記されるほどの由緒を持つ太宰府。背振(せぶり)山系を西に戴き御笠(みかさ)の森を北東に見る平野に、御笠の川に架けて築かれた外敵防禦の城塞であり、今時には貿易の要所として機能する鎮西府。
そこからまた南西、かつて謀略により当地に遠流となった菅原道真(すがわらのみちざね)が、身の潔白を訴え幾度も天を拝した天判山(てんばんさん)。その山裾の昼なお昏い、特に今時分は水の匂いも濃い森の中、数多の支流や淵に沿ってひょうずは集落を築いている。
一つ一つの住居はヤマノメら土蜘蛛より簡素な、縦穴に柱を立てて藁を乗せただけの物。颶風が来るたびに雨に濡れては立て直す。そも水界のモノである彼らには、大雨こそ無くてはならぬもの。
これを見て、土蜘蛛同様に普請(ふしん)には慣れているはずなのに、などとうそぶく万寿。
「お前がそれを言うか」
「ひょうずには、太宰府造営の頃から番匠(ばんじょう)(※1)の下で働いた者もおるし、わらわもその働きぶりを見取った覚えがあるが、お許はどうかえ?」
言われてみれば、坑道に潜るか、踏鞴と炉に向き合う事は知っていても、木の組み方や穿ち方などについて、ヤマノメは殆ど知らない。辛うじて柱を立て、壁で覆って梁を架け、屋根に藁などを葺くのを知っている程度だ。
「オレの事は、捨て置け……」
この集落にあって別格の佇まいを誇る高床の邸で、ひょうずの長を待つ。ヤマノメが運んで来た銑鉄は既に預けた。後はもう、彼ら次第となっている。
そこへ蓑を羽織ったひょうずが現れる。土蜘蛛達の里に来たのとは別の者だ。
上座に移ると、床に両拳を突いて頭を下げる。全身の毛深さと対照的に禿げ上がった頭が、それを向けられたヤマノメには眩しく感じる。
「万寿御前、ご無沙汰だな。して、お前さんは、初めて会うか」
「こちらこそ、ご無沙汰しております、田道間(たぢま)様。こちらはわらわと同じ土蜘蛛、褐鉄山の女と言います、『ヤマノメ』とお呼び下さいまし」
紹介され、万寿に倣って頭を下げるヤマノメ。
「この度は遠路ご苦労、それに無理を言って済まなかった」
お気になさらずとにこやかに応じる万寿、彼女を白眼視するヤマノメ。鉱石を掘り返したのはヤマノメを始めとする他の土蜘蛛であるし、銑鉄への加工も同じく。運ぶのに至っては道案内以外は全て――道々に必要な諸事も含めて――ヤマノメの手による。
調子の良い事ばかり言ってくれると、ヤマノメが毎度の如く心中で悪態をついていると、それを見透かしたかのようにその名が話題に上がる。
「此度の事の運び、あらかたはヤマノメによるものでありますゆえ」
己の事を取り立てて語るとはと、それはそれでヤマノメも気味が悪くなる。
「ヤマノメ、と言います」
改めて頭を下げる。他のひょうずとは違う雰囲気にヤマノメも居住まいを正すが、何を言って良いか分からずに名乗るのみ。
「褐鉄からの精錬か、山はさぞ寒くなった事であろうか」
土蜘蛛とて山に糧を頼る。鉄を作るためには、その木を倒して炭を多く用いなければならないし、褐い鉄ならば尚更。山は禿げ上がるし、何をするにも不可欠な水利すらも、大きな煽りを受ける。
田道間の言葉は、それらを押しての土蜘蛛の助力をおもんばかっての物である。
「いや、田道間様。これには燃石(もえるいし)(※2)を使ったんだ、炭はあまり使わなかったな」
「ほほう、炭を使わぬ精錬とは、ぜひ聞きたいものだ」
もし可能であれば、山や水への影響を大きく減らせる。それを期待した彼は、興味をそちらに向けて問いかける。
「阿蘇の西の縁から出て来た燃石を使うんだが……うん多分、田道間様達じゃダメだ」
「燃石ならばワシ等も用いる。一体何が問題なのだ?」
「燃石は、上手くすれば炭よりもよく燃えてくれる。しかしそのまま使うと、柔い鉄が出来ちまう。原因は燃石の中の瘴気だ。これを除けるには、炭を作るみたいに燃石を蒸し焼きして、瘴気を出し切らなきゃならない。これは多分、ひょうずには毒だ」
ただ燃やすだけでも若干の瘴気を吹き出すのに、この様に処理すれば、瘴気はより濃密な物になる。ずっとそれと共に在った土蜘蛛にとっては空気の一部と変わりないが、他の人妖、のみならずほとんどの生物にとって、それは致命の毒ともなり得る。
「万寿御前の見立てではどうかな?」
「わらわも、ヤマノメと同じです。もっとも、この業はヤマノメ等が編み出した物で、わらわにも確たる事は言えませぬが。もし同じ事が出来るモノが在るとするならば、それは『鬼』ぐらいでございましょう」
田道間は残念そうにしながらも、納得したと何度か頷く。
「鬼でなくば無理、か。諦めるしか無さそうだな」
これから銑鉄を溶かし、鍛えるか鋳掛けるかするのであるが、それには従来通りの手法を用いる事になろうと、田道間はあっさりと諦めた。
「では、わらわとヤマノメは、用が済み次第お暇いたしますゆえ」
渡す物を渡してしまえば、こちらには用は無い。周辺に潜み、ひょうずと為朝の戦をとくと見極めるだけ。残る用事があるとすれば、せいぜい帰途の食料の都合ぐらい。
しかし田道間はそれを止める。
「見ては、行かぬのですかな?」
直接の協力をしない土蜘蛛を責めるどころか、我等が戦をとくとご覧じろと、目の奥にほの明るい灯火を点しながら彼は言った。
ひょうず達、本邦においては総じて『河童』と呼ばれるモノ達には、ある種の劣等感がある。それは特に、鬼や土蜘蛛に向く事が多い。今こそ、これを覆す。河童の中でも最も武に優れたひょうず達は、為朝撃退を己らだけで為さんと、彼らは彼らで必死なのだ。
そして田道間がこの戦を見せようとするのには、それと全く逆の意図も込められている。
「あの悪童に鎮西を踏みにじらせはせぬ。万が一には、お許らが頼りだ」
ひょうずで敵わなければ土蜘蛛が、それが無理ならば、もはやこの鎮西に奴を追い払う者は居ない。土着の豪族は皆既に、為朝の、源氏の御曹司と言う名に震え上がっている。その上、彼個人が異様なまでの武を誇るのだ。
「悪対馬殿なら、この様な無体は許さなかったであろうに……」
「ようよう気をたわめなさるな。それに義親(よしちか)様は、もはや此方におわしませぬ」
「しかし、京に近江に、遠く常陸国にまで、対馬殿は現れたのだと」(※3・4)
それは人間の口を渡って、ここまで届いた話である。確かに人の世で起こった事なのだと、田道間は拳を握り込みながら言い募る。
「それこそ、かずなき程の者達が、かのお方を偲ぶあかし。しかし、わらわは確かに、かのお方の彼方へ逝くのを見届けましたゆえ」
逆に、彼を恐れる者達こそ、その名の言霊を追い払おうとし、口にもしないであろう。その人物の死はいずれにせよ確かだと、万寿は重ねて言った。
悪対馬、義親なる人物が何者かヤマノメは知らないが、この二人にとって並ならぬ思いを抱く『人間』だと言うのだけは彼女も察した。しかしそれ以上は聞こうとしない。
暗い思い出にしか見えないし、興味本位で聞いたところで己の頭では、すぐに忘れてしまうであろうと考えたからだった。
そう押し黙っていたヤマノメには、田道間の方から話しかける。
「妙な思い出話などしてすまぬな。ときに、宿が無いならこちらで用意するが、万寿御前も、如何しようか?」
僅かなりとも瘴気を放ち、川を汚すという認識のある土蜘蛛の逗留。言うほどのわだかまりが無いとは言え、他のひょうず達がどれほど許容するかは分からない。
万寿はこれも踏まえてか、否と、鷹揚に首を振る。
「もとより戦は見届けるつもりでありましたが、少々用もありますゆえ。時来たら、呼ばれずとも」
万寿はそう言って確かに逗留を断り、田道間もこれに承知と、食料などの都合について約束してから立ち上がり、場を後にした。
こちらでの用事とはなんだったか、などとヤマノメが思い巡らせる横で、万寿が答えを寄越す。
「お許には言ってなかったが、先に田道間殿に申した通り、少し太宰府に用があるゆえ“わらわは”あちらに出向いてくる」
ここでヤマノメは、これまで無かったほど酷く眉根を寄せる。
「今更何を言い出す!? 田道間様にオレも出向く様な風に言ったばかりだぞ」
「お許だけ残ると申せばよい。童では無いのだ、それぐらいは如何ともなろうぞ?」
そう言い残すと、今度は万寿が席を立ち、木階を降りて行った。
「なるほど、あの格好はあっちに行くための物か……」
遠の朝廷(とおのみかど)とも称される太宰府。その呼び名にふさわしく、政庁官衙(かんが)を核として条坊制(※5)に即した都邑(とゆう)が備えられている。
それでもみすぼらしい服装の良民も居住しているし、ヤマノメの様な服装で赴いても差し支える事は無いはず。
だがそこはあの万寿。無闇に京風を表に出した彼女が、そんな賑わいのある場所に己と同じ旅姿で居て耐えられようはずは無い。ヤマノメはそう、ここまで万寿がして来た装いから、一人納得する。
それはともかく置き去りにされたヤマノメ。自身も戸の代わりに垂らされた筵を除けて、建屋の外に出る。そこで一旦伸びをしてから辺りを見渡すが、万寿の姿は既に無い。駆けて行ける様な服で無いし、そもそも彼女が本気で走る様子も想像しがたいが。
どうしたものかと考えた後、ひとまず再び田道間に会おうと、彼の姿を探しに里の中をさまよう。
ヤマノメはそこでふと、ひょうずの集団を見る。一様に蓑を背負い、鑿や槌を携えるかした彼らが、何か巨大な物体の前に屯しているのだ。
「何者か?」
ヤマノメに気づいた一人が誰何する。
ここで逃げては却ってよろしくないと見たヤマノメは、大人しく姿を現す。
「火の国の土蜘蛛だ。先般より頼まれていた荷を届けた者だ」
土蜘蛛との語に彼らは僅かにざわつくが、先ほどヤマノメを呼びかけたひょうずが田道間を連れて現れると、それはすぐに落ち着いた。
「これはヤマノメ、太宰府に向かったのでは無かったか?」
「万寿に置いてかれちまいました。あいつめ、始めから一人で行くつもりだったらしい」
何ともはやと頭をかくヤマノメを、田道間は集団の中へ誘う。
そこに寄ってようやく、その巨大な物体が何かが分かる。先に話を聞いていなければ、こうしても分からなかったであろうが。
巨大な青銅の鱗に覆われた大蛇。しかし死体の様に何の挙動も見せない、始めから生きていないのだから当然だ。
四尺ほどの高さの胴、しかし全長は不釣り合いに短い。その頭部に牙らしき物は見えないが、巨人が振るう鉄槌の如きその重々しさは、それだけで十分恐ろしげに見える。
「これが、前に言っていた唐繰か……」
これなら太刀の斬撃も凌ぎ、強弓(こわゆみ)の射撃も弾く事が叶うであろう。
「見た通り、ほとんど出来上がっておる。後は逆鱗を貼り付けるのみだ」
唐繰りの要所を鉄で覆うと言っていたが、それが今言った『逆鱗』なのであろう。
「すまないが、逆鱗とは一体、如何なる物なんだ?」
それに幾人かがきょとんとし、また数人が笑いを押し殺している。無知を馬鹿にされたところをヤマノメがこらえていると、特段の反応も見せなかった田道間がひょうずに説く。
「夫龍之為蟲也、柔可押而騎也、然其喉下有逆鱗頸尺、若人有嬰之者、則必殺人」
「??」
「今の詞を知る者は?」
ヤマノメを含めて、誰一人として声を上げない。
「これは、かつて大陸で説かれた治世論の一節だ。ここで逆鱗を如何なる物か、人倫に交えて語ったのだ。他者を馬鹿にする暇があったら、己がより深く識るよう努めよ」
田道間は、ヤマノメに対してはこれに続いて、逆鱗とは、普段は穏やかな龍でも触られれば怒り出す鱗の事であり、先の詞は本来臣下のあるべき姿を謳った物の一部であるが、ここでの抜粋はこれが却って痛点であるのを示唆した物である、と丁寧に説いた。
ひょうず達は素直に反省したのか、皆、恥じ入った風な貌を見せる。
「ヤマノメよ、大変な無礼をした。ワシの顔に免じて許してくれ」
深々と、また禿げ頭を向けて腰を折る田道間に、ヤマノメは苦笑しながら言う。
「と言われても、オレが物を知らぬのは里でも皆からよくよく言われているし、気にする方がおかしかった」
「しかしワシ等や、万寿御前でも知らぬ事を知っている」
それぞれに知る事が違うのだと、恐らくは漢籍にも通じた彼は、また別の新しい知識に通じているであろうヤマノメに、密かな賛辞を送る。
「それもまあ、そうか。にしても田道間様、この唐繰はどうなっているんだ?」
間接的にでも自身が関わる物。これは興味本位以上に、知っておくのが義務であろうと、ヤマノメは認識していた。
「ゆくゆくは披露しようと考えていたのだ。だが皆も揃っておるし、ここで見せるのもちょうど良いかも知れぬな」
いずれは万寿にも見せよう。田道間はそう言って、ヤマノメに唐繰の大蛇を見分させるべく再びいざなう。
ヤマノメの顔も里の者に知れ、どうやら彼のお陰でよろしく過ごせそうでもある。まだ為朝との対峙までは日もあろうと、ひとまず当地に腰を据えようと決めたのだった。
∴
万寿が太宰府に赴いてから三日経った夕刻、彼女はヤマノメが在する住居に帰着する。
こんなにすぐに帰って来ると思っていなかったヤマノメは、また、宿や食料はどうするのだと、田道間らの厚意に甘えっぱなしになっている事を伝える。
これに万寿は、「あれだけの鉄の代わりと思えば、この程度でも足りないであろう?」と、平気で言い放った。
「そうだ、あの唐繰、聞けばひょうずが数人で乗り込んで内側から動かすらしい」
「ほう、水妖の中には水を操って仮の経絡を巡らせ、あの様な機巧を操る者も居ると聞いた事があるが、その唐繰、そんな力業だったとは」
それも剛力のひょうずだからこそ叶う事。
またこれを、内部の機巧を以て倍力しつつ振り回し、青銅と鉄の鱗で押しつぶそうというのが、唐繰大蛇を用いる際の構想。
それに加え水辺での待ち伏せ。と言うよりは、あの大蛇は敵の戦意を挫き、攪乱し、翻ってひょうず達の戦意を鼓舞する物でもあり、予定する主力は水辺に潜む者達だ。川縁や淵に敵が在れば、それをこちらへ引きずり込み、平地に在っては霧で巻いて忍び寄り、矛を以て貫く。水妖としては、至極単純かつこれ以上は無い理合の運びの戦。
「ところで、太宰府での用事とは、一体何だったんだ?」
「ほお、わらわから申そうと思っていたのだが、よくぞ聞いてくれた」
言って、嫌な笑みを浮かべる万寿。ヤマノメは、しくじった、聞くべきでは無かったかなどと一瞬思うが、どのみち聞かされる羽目になっていたであろうと、早々に観念する。
「これを」
万寿が自身の背後から、葛を編んだ平たい行李を取り出す。
ヤマノメは促されるまま括られた縄を解き、蓋を開けて中身を検める。しかし、それが何を意味するのかが分からない。
「これは?」
「見ての通り、水干(すいかん)(※5)だが?」
それぐらいはヤマノメにも分かる。紅で薄く薄く染め、控えめに咲く梅の様な色合いになった水干。その下には紅色の長袴も収まっているが、これを一目見たヤマノメはおおよそ理解し、眉を寄せて嫌そうな顔で万寿を見る。
「なんじゃ? その目は」
「おい、この袴。なんか見た事があるこしらえなんだが……」
「それはもう、特別にあつらえた物だからの」
ヤマノメが普段穿いている衣のそれには、裾を整えるのに都合が良いように紐を配している。この長袴にはなぜか、これをあしらった文様が走っているのだ。これが特別にあつらえた物だというなら、万寿の意図の一つは明らかだ。
「オレにこれを着ろと?」
「うむ」
「着てどうしろと」
この類の衣装を女が着てする事、ヤマノメをしても想像がつくが、ここはあえて問う。
「異人の白拍子殿、ほどよく舞ってたもれ」
やはりそうか。だが何故己なのか、ヤマノメにはこれが納得できない。
「お前なら舞も知ってるだろ、なんでわざわざオレにやらせる」
「お許が源八郎殿の側に侍り、少しでも気の利いた話ができるのであれば、わらわが舞ってもよかったがのお」
女二人という時点で気づくべきであったが、今更である。
公家の姫でなくとも、遊女か采女(うねめ)(※6)の様に、いくらか教養があればそれなりには話も出来ようが、それが全く皆無のヤマノメには至難の業。舞とそちら、最低限こなすまでを習得にいずれが時間がかかるかを天秤にかければ、ヤマノメが舞った方が良い。
「こういうことは、始めに言って欲しいものだな」
「いや、全て始めに決まっていた事ぞ?」
「まさかオレが寝ている間に……」
万寿はまた口元を覆い、大層愉快そうに笑って答える。
「異人の白拍子など、京でなどまず見ることも無いからの。上手くすればあの為朝でも籠絡できようぞ?」
戦う前に、可能な限り情報を得るのがまず目的の一つ。
酒に酔わせるかして口を軽くさせ、いつ、どの程度の数で、如何にして寄せるつもりか、それだけでも分かれば戦は十分優位になるであろう。
これが武士同士の戦いであれば、お互いに矢合わせの日取りを決める所から始まるが、この度は双方の間にそんな作法は働かない。それにあの為朝が、そんな作法にどれだけこだわるか。下手をすれば恥も外聞も無く、夜討ち、奇襲に出る事もあり得る。
だからこそ、事前にどう動くかの情報が必要なのだ。
しかしこれらは、ひょうず達が破れた後に必要な物のはず。そしてもう一つの目的もまた、同じく敗退後の運び。
「一定の信用を得れば、場合によっては、かの者の懐の内で、弑することも叶おう」
賊に襲われた後の遭遇の際には危険見積の大きさから見送ったが、事が極まれば、それもまた取りうる策の一つでもある。
そう言い放つ万寿の目をヤマノメは見返す。彼女の黒い瞳には、より深い憂いの色が沈んでいる。
「万寿?」
「のおヤマノメ。あのおのこ、小碓命(おうすのみこと)であろうか、それとも素戔嗚尊(すさのおのみこと)であろうか」
「それは神様の名か、いずれにしても敵だな」
天に通じる者を厭う。土蜘蛛共通の、蟲妖としての本能とも言ってよい理。
為朝が、万寿の言ったいずれの存在に重なろうと、ヤマノメには関係ないはず。
「いずれにしても、か……」
そう呟き、珍しく物思いにふける様に天を仰ぐ万寿。
ヤマノメも、これ以上は彼女に声を掛けられず、今後の運びについて拙い恣意を浮かべ続けた。
第2話注釈
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※1 番匠:木造建築、建設を請け負う職人。中央省庁に属する場合もあった。現在の大工の元祖
※2 燃石:石炭の事。日本で普遍的に使用され始めたのは江戸時代に入ってから。
※3 近江:近江国。現在の滋賀県
※4 常陸国:現在の茨城県の大半の地域
※4 条坊制:規定数の大路を組み合わせる都市設計。福原などはこれが足りず都と出来なかった。
※5 水干:平安時代に男子が着た簡素な装束。白拍子がこれを纏って男装する。
※6 采女:献上され、天皇や皇后に近侍した女官。人質や妾としての性格もあった。
第1章 火の国のヤマノメ 一覧
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