かやうに、御心を互ひに慰めたまふほどに、三とせばかりありて、春の初めより、かぐや姫、月のおもしろくいでたるを見て、常よりももの思ひたるさまなり。ある人の、「月の顔見るは忌むこと」と制しけれども、ともすれば人間にも月を見ては、いみじく泣きたまふ。七月十五日の月にいでゐて、せちにもの思へるけしきなり。
―16―
物語は再び、私――マエリベリー・ハーンの一人称にて、永遠亭へと戻る。
「鬼さんこちら、手の鳴る方へ」
「んー……そこだ!」
蓮子の手が、飛び跳ねていた兎の一匹を捕まえた。「んー」と捕まえた兎をモフモフしていた蓮子は、ターゲットの印がないことを理解して手を放す。蓮子の手を逃れた兎は、ぴょこぴょことてゐさんの元へ逃げていった。
「へへっ、ざーんねーん」
てゐさんの言葉に、蓮子は首を傾げる。
「むう、今は捕まえたと思ったんだけど。ねえメリー、てゐちゃんたちズルしてない?」
「してないわ、私の見てる限りでは。今のも惜しかったわよ、もうちょっとだけ右にいた子がターゲットだったから」
「ううん、まだ詰めが甘いわね。さあもう一丁!」
蓮子がそう声をかけると、また兎たちが散らばっていき、てゐさんがターゲットの印であるリボンをつけた兎とともに手を叩きながら「鬼さんこちら」と歌い出す。――私はそれを、庭石に腰掛けて眺めていた。
永遠亭での入院という名の軟禁生活が始まって、早くも四日目の午後である。その間私たちが何をしていたかといえば、専らてゐさん率いる兎たちとこうして遊び呆けることだった。
とは言うものの――。
「捕まえた!」
蓮子の手が、今度こそターゲットの印のついた兎を捕まえる。兎をモフモフしながら印を確かめ、「やった、大正解」と笑う蓮子に、てゐさんは「あーあ、鈍くさいなあ。鈴仙じゃないんだから捕まるなよぉ」と捕まった兎に舌打ちする。
「よーし、じゃあ難易度を上げるよ!」
「かかってらっしゃい。今の蓮子さんは視覚なくしてなお熟練の兎ハンターよ」
「へへーん、どうかな。ほーれ鬼さんこちら」
手を叩いて逃げ回るてゐさんと兎たちを、蓮子はアイマスクをつけたまま追い回す。
――にわか盲目の蓮子を相手に、てゐさんが提案した遊びが、この目隠し鬼だった。音を頼りにターゲットを捕まえるこの遊びは、目の見えない蓮子にとって絶好の気晴らしとなり、同時に盲目生活に慣れるいい訓練になっているようだ。兎を追いかける蓮子の顔は、目が見えなくなってしまっているとは思えないほど明るい。あの離れに病人のように引きこもって、私と雑談しているだけでは、こうはいかなかっただろう。最初の頃はまごついていた蓮子だったけれど、今は音だけでかなり周囲の状況を把握できているようである。
そんな蓮子の姿を見ながら、私は改めて、目が見えない、という状態のことを考える。もし、目が見えなくなったのが私の方だったら、今の蓮子ほど明るく振る舞っていられただろうか。そしてあるいは――私の目は、視力を失っても、境界を視てしまうのだろうか?
「メリー」
「なに?」
不意に呼びかけられ、私は物思いから引き揚げられた。兎を追いながら、蓮子は私の姿を探すように首を振り、私のいるのとは微妙にずれた方向に呼びかける。
「メリーも混ざってよ。兎もいいけどメリーを捕まえてモフモフしたいわ」
「私は兎みたいにモフモフしてないわよ」
ぴょこぴょこと兎が一匹、私の元に跳ねてくる。その子を膝の上に抱え上げて、モフモフの毛並みを撫でた。ああ、藍さんの尻尾ほどじゃないけど、これはこれで。
「へーい、じゃあ交替」
と、てゐさんがこちらに駆け寄ってきて、ハイタッチとばかりに手を差し出す。私は息を吐いて、膝の上の兎を抱いて立ち上がった。仕方ない、付き合ってあげよう。ぼんやり眺めているのにも退屈していたところだし。
「じゃあ蓮子、いくわよ。鬼さんこちら」
ターゲットの印のついた兎の元へ歩み寄って、私は歌いながら手を叩く。飛び跳ねる兎とともに、蓮子の手から逃げ回りながら――こうやって何も考えず遊んで過ごす遊惰な毎日も、たまには悪くない。そんなことを考えていた。
さて、そうしてこの数日、私たちの遊び相手になってくれている――というより、彼女と兎たちの遊びに私たちが付き合わされていると言った方が正確かもしれないが、そんな因幡てゐさんは、この永遠亭の住人というわけではないらしい。
「もともと、お師匠様たちが突然勝手にこの竹林にあの屋敷を建てたのさ。あっちが新参。だから私が永遠亭の住人なんじゃなく、お師匠様たちが竹林の住人と言う方が正しい」
ということは、目の前のこの少女も少なくとも一千歳以上であるらしい。日本神話の因幡の素兎本人だとしたら、果たして何歳になるんだったか。
「そのわりには、八意先生のこと、お師匠様って尊敬してるのね」
「長生きのためには健康第一だからねえ。腕のいいお医者さんは尊敬するよ」
蓮子の問いに、てゐさんは何か含みのありそうな笑みを浮かべてそう答えた。
「それにしても、こんな竹林の奧に逼塞して隠者みたいな暮らしをしてるって、八意先生って何者なのかしら?」
蓮子は首を傾げる。「さてねえ」とてゐさんはすっとぼけて口笛を吹いた。私は蓮子に気付かれないように無言で肩を竦める。――八意さんたちの正体に関しては、彼女たちが企んでいる何かが一段落するか、蓮子の目が見えるようになるまで伏すという情報秘匿の協定に、てゐさんも協力してくれているわけで。
「ううん、この目が見えたらもっと色々、この屋敷の中を見て回っていろいろ調べてみたいんだけど、ままならないわねえ」
「そうやって他人様のことを嗅ぎ回ってばっかりいるから、罰が当たったのよ」
「ひどいわメリー、人をゴシップ記者みたいに。私はこの灰色の脳細胞が求めるままに知的好奇心をもって世界の真理を探究せんと――」
「本当に目が見えなくなっても知らないからね」
「そうなったらメリーに介護してもらうしかないわねえ」
「既定事実みたいに言わない!」
「仲が良いねえ」
てゐさんが意地の悪い笑みを浮かべて私たちを見やる。私はため息をついて、蓮子を小突いた。「あ痛」と蓮子は大げさにのけぞる。全くもう。
「はいはい、私に介護されたくなかったら、大怪我しないうちに休みなさい」
「えー。目が見えないだけで他は何ともないんだから病人扱いしないでよ」
「目が見えないのは立派な病人でしょうが。自分が思ってる以上に神経使ってること、自覚してるでしょ?」
「むう」
口を尖らせる蓮子を離れに連れ戻し、手を引いて布団に寝かせる。「寝てれば目が見えても見えなくても一緒よ」と私が言うと、「確かに、目が見えなくても夢は見られるけどね」と相棒は目を閉じて息を吐き出した。
「お休み。夕飯の時間になったら起こすわ」
「はいはい、お休み」
布団を被った蓮子の顔をしばらく見下ろし、それから私は息を吐いて立ち上がる。
離れの外に出ると、屋敷の縁側に腰を下ろして、てゐさんが足をぶらぶらさせていた。
「健気だねえ」
「……別にそんなんじゃ。そっちのお師匠様に軟禁されてるだけだし」
「ふうん? ま、お師匠様が何を企んでようと、地上の兎にゃ関係ないけどねえ」
膝の上にお仲間の兎を一匹乗せて、てゐさんはその毛並みを撫でている。
「まあ、千年以上張ってた結界を実質解除したようなもんだし、よっぽどのことなんだろうね。月から追っ手でも来るのかな? 鈴仙は脱走兵だしねえ」
私は特に返事も思い浮かばず、黙っててゐさんの隣に腰を下ろした。屋敷は静まりかえっている。輝夜さんは最初の夜以来姿を見せないし、鈴仙さんは離れに食事を持ってきてくれるけれど、ぶっきらぼうにお膳を置いて、文字通り脱兎のごとく去って行ってしまうので、てゐさんと違って打ち解けようがなかった。
「……鈴仙さんは、どうして私たちを怖がるの?」
ふと、私はそうてゐさんに問う。鈴仙さんのあの態度は、最初は単につっけんどんなだけだと思っていたのだが、この数日様子を見ている限り、彼女は何かを怖がっているのではないか、という気がしていた。だからすぐ逃げてしまうのだし、極力私たちと関わり合わないようにしているのではないか、と。
ただ、いくら彼女が脱走兵だとしても、別に月の追っ手でもない私たちを彼女が怖がる理由がさっぱり解らない。妖怪である以上、私たちより彼女の方が生物として強いだろうに。
「ああ――」
と、てゐさんは目を細め、頬杖を突いて鼻を鳴らした。
「そりゃあれだ、お師匠様や姫様と同じ理由だよ」
「同じ?」
「あんたたちを怖がってるんじゃなく、地上の穢れを怖がってるのさ」
私は目をしばたたかせる。穢れ――というと、科学世紀の霊的研究の根幹を為す穢れ思想のことか。古代から現代に至るまで、人間の行動は穢れ思想に縛られているとするのが、私たちのいた科学世紀の日本での、一般的な考え方であるが。
「お師匠様から聞いた話だけどね、月の民は元々は地上の民だったのが、地上の穢れを忌み嫌って穢れのない月に移り住んだんだそうだよ。穢れのない月で、永遠の寿命を得ようってわけだったみたいだね。長生きしたいだけなら、私みたいに健康に気を使えばいいだけなのにさ」
そういう次元の問題ではないと思うが。
「お師匠様と姫様は罪を犯して、鈴仙は脱走して穢れに満ちた地上に逃げてきたわけだけど、やっぱり月の民だから穢れが怖いんだろうね。屋敷の周りに強い結界が張ってあったろ? あれは穢れを屋敷の中に入れないためのものなのさ。だから私ら地上の兎も、屋敷の庭とあの離れまでしか入れてもらえない。私は入ろうと思えばもうちょっと奧まで入れるけどね」
にい、と不敵な笑みを浮かべて、てゐさんは言う。
――穢れ、か。私は首を捻った。ひとくちに穢れといっても、その意味する範囲は非常に広い。たとえば古くから死や病が穢れであるのは言うまでもないし、女性の月のものや出産も穢れと見なされた。科学の時代になってそういった穢れ思想は、一度は科学的合理性の前に駆逐されたに思われたが、実際は決してそんなことはなかった。二一世紀末に暮らしていた私たちもまた、穢れ思想に深く囚われている。
たとえばマンションなどの事故物件が心理的瑕疵とされるのは、死の穢れが場所に残留するとする穢れ思想そのものであるし(そういえば小野不由美の『残穢』というホラー小説があったっけ)、犯罪において加害者のみならず被害者までもが白い眼で見られてしまうのも、ある種の穢れ思想である。犯罪被害者に対し、被害者には被害者になるだけの理由や落ち度があったはずだと考える公平世界信念は、即ち犯罪という穢れに対する忌避感への理屈付けだ。
何につけても、一度ついた悪いイメージがぬぐい去りがたいのもまた穢れである。特定の対象への理屈を超越した拒否感、拒絶感を生むのが穢れという目に見えない概念であり、そのため何を穢れと見なすかは人によって異なるわけだが、どんなものであれ全ての人に好かれるものがない以上、この世のあらゆるものは穢れを背負っていると言える。
まあ、これは穢れという言葉も最も広い用法である。永琳さんたち月の民が恐れている穢れというのは、おそらくもっと狭い範囲のものだろう。穢れのない月で永遠の寿命を求めた――ということは、彼女たちが恐れているのはおそらく、生死にまつわる穢れだ。
「……あれ?」
ふと私の脳裏に何かが引っ掛かった。何かがおかしい気がする。どこか理屈に合わない、辻褄が合っていない。そんな違和感。
だが、その正体を私が精査する前に、「あら、ここにいたの」と第三者の声が割り込んで、私の思考は中断させられる。八意永琳さんが、私たちの方へ歩いてきていた。
「おや、お師匠様。鈴仙はどこで何してるの?」
「こっちの仕事をしているわ。あの子は?」
「蓮子なら、寝ていますけど……」
「そう。それなら丁度いいわ。貴方、ちょっと私と一緒に来てもらうわよ。てゐ、貴方は手下のイナバたちを集めて、屋敷の方に来て頂戴」
「おお?」
きょとんとてゐさんは目をしばたたかせ、私は眉を寄せた。
どうやらまた、永琳さんに何かをやらされることになるらしい。
彼女は私の境界を視る目に、いったい何を期待しているのだろう――。
―17―
「やーやー、こんな中まで入っちゃっていいの? お師匠様」
「これも、月からの追っ手に対する防衛策の一環よ」
「それってつまり、私たちを盾にするってことじゃん」
「輝夜が連れていかれたら、貴方の部下たちは悲しむんじゃなくて?」
そうだー、とばかりにてゐさんの足元のイナバたちが飛び跳ねる。輝夜さんはイナバたちにも人気であるらしい。さすがはかぐや姫というところか。
私とてゐさん、それにイナバたちは永琳さんに導かれて、屋敷の中に足を踏み入れていた。長い廊下を、永琳さんの先導で歩く。いったいこの屋敷にはいくつの部屋があるのだろう。というか、この廊下はあまりにも長すぎはしないか?
「――――」
不意に頭痛めいたものを覚えて、私はこめかみを押さえる。何かがおかしい。この廊下は明らかに何かが歪んでいる。紅魔館もそういえば無闇と広かったけれど、あれとはまた別の意味で空間が歪められているのだ。
私の視界が、すっと音もなくずれていく。ああ――世界の位相が狂っている。だからこの廊下はこんなにも長いのだ。この空間は、ひたすら廊下に沿って引き延ばされている――。
私は足を止めた。長すぎる廊下の一角に、閉ざされていない扉がある。いや、物理的には閉まっているのだが、結界的な意味で、この扉は開け放たれている。――そして私は気付く。この廊下に面した襖、扉のほとんどが、結界に閉ざされていることを。それもまた、この廊下に対する違和感のひとつだったのだ。
私はため息を漏らして、その扉に手を掛けようとし――。
「やはり、解るのね」
肩を掴まれ、私は振り返った。永琳さんは私に向かって目を細め、それから「ウドンゲ」とどこへともなく呼びかける。すぐに世界の断層の向こうから、鈴仙さんが姿を現した。
「ここ、塞がっていないわ」
「ああ、すみません――」
鈴仙さんの赤い目が輝き、結界の隙間が塞がれていく。――ひょっとして、私はこのために呼ばれたのか? 永琳さんを見やると、彼女は愉しげに笑った。
「やっぱり、貴方の目は貴重だわ。他に結界の不備を見つけたら言って頂戴」
「はあ……」
なるほど、どうやら永琳さんはこの廊下を袋小路にしてしまうつもりらしい。
どういう原理なのかはともかく、この廊下を引き延ばした上で、屋敷の奧へと通じる扉は全て結界で塞いでしまう。そうして月からの追っ手を、この長すぎる廊下に足止めしてしまおうということなのだろう。私の目は、その結界に隙間がないかを確かめるチェック機構として求められたわけだ。
「てゐ、貴方とイナバたちには万一のときは、この廊下で侵入者を迎撃してもらうわ。ウドンゲと一緒にね」
「へえへえ、部下が姫様の無事を望むなら仕方ないねえ」
後頭部で腕を組んで、てゐさんは口笛を吹きながら不真面目に答える。永琳さんもてゐさんにはあまり期待してはいないのか、「よろしく頼むわね」とだけ言った。
「マエリベリー・ハーンさん。もちろん、貴方にも協力してもらうわ」
「……あの、私は戦えませんけど」
「貴方にはその目があるじゃない」
私の頬に手を伸ばして、永琳さんはどこか剣呑に目を細める。
「貴方のその目、たとえ月の追っ手がウドンゲと同じ力で身を隠しても見破れるし、逆に貴方がこちらについている限り、こちらの結界の隙間を見破られる可能性は低い。その力、大いに活用させてもらうわ」
それって、いざ戦いになったら前線で指揮を執れ、と言われている気がするのだが。
しかし、ある意味で蓮子が人質に取られているこの状況で、永琳さんの言葉に逆らう度胸も私は持ち合わせていない。せいぜい物陰に隠れていよう。できれば月の追っ手とやらが来ないままで終わってほしいものだが――。
「今夜中にこの封印を完成させてしまわなくては、ね」
独り言のように呟く永琳さんに、私は目を細める。――月の追っ手。逃亡者であるという彼女たちがそれを恐れるのは当たり前なのかもしれない。だが、いくらこんな目を持っているからとはいえ、通りすがりの人間に過ぎない私を巻き込むほど、彼女が強く恐れる月の追っ手とは、いったい何なのだろう。いや、そもそも――。
「……あの、永琳さん」
「あら、なに?」
「結局……貴方たちはどうして月から逃げているんですか? 昔話で、かぐや姫は罪を犯して地上に落とされたということになっていましたけど、その罪を許されたから迎えが来たのではなかったんですか? 輝夜さんはいったい、どんな罪を犯したというのですか?」
――こんな問いを正面から彼女にぶつけてしまったのは、相棒の悪影響に違いない。
そして私に問いに、永琳さんはふっと表情を消して、「……そうね」と呟いた。
「夜までの間に、少し話をしましょうか。これだけ巻き込んでいるのだから、こちらの事情ぐらいは説明してもバチは当たらないでしょう。ウドンゲ」
「は、はい」
「お茶を淹れて頂戴」
――月の民もお茶を飲むんだ、と私は全くどうでもいいことを考えていた。
―18―
というわけで、以下は永遠亭の一室でお茶を飲みながら、永琳さんが語った話の聞き書きである。異変の後、相棒に私が伝えた内容と同一であることを、ここに明記しておこう。
* * *
――輝夜が犯した罪。それは、蓬莱の薬を飲んだことよ。
蓬莱の薬というのは、藤原妹紅が飲んだものと同じ、不老不死の薬。月ではそれは作るのはともかく、飲むことは禁忌とされていた。蓬莱の薬を飲んだ者は、穢れを生じるために、地上へ流刑となる。それが月の法だったのね。
輝夜は月生まれのお姫様で、私は輝夜の教育係をしていた。ある日、輝夜が私に、『蓬莱の薬を作ってみない?』と言ったの。私は止めたのだけれど、『作るだけならばいいのでしょう?』と言うので――私も、一度作ってみたかった、というのもあるわ。蓬莱の薬を作るには、輝夜の須臾を操る力が必要だったから……須臾は解るかしら? 時間を極限まで分割した一瞬のことよ。時間は連続に見えるけれど、それは無数の須臾の連なりで出来ている……飛んでいる矢は止まっている。それはパラドックスではなく、ただの自明の真実なのよ。
まあ、地上の民に蓬莱の薬の作り方を教授したところで無意味だから、細部は省くけれど。そうして、私は蓬莱の薬を作ってしまった。輝夜がなぜそれを求めたのかも知らずに。
――輝夜は、月での暮らしに退屈して、いつしか地上に行くことを望んでいたの。そう、蓬莱の薬を飲んだ罪で、地上に流刑になるために、輝夜はあの薬を私に作らせた。――そうして、私の目を盗んで、輝夜はその薬を飲んでしまった。
そこから先は、貴方たちが知っているかぐや姫の物語とほぼ同じよ。月の民であったことを忘れ、地上でかぐや姫として暮らしていた輝夜を、私は月の使者として迎えに行った。
けれど、私は知っていたの。地上の穢れの中で長い時間暮らした輝夜は、もう月で元の生活には戻れない。月の奥深くに幽閉されることになる、と。
蓬莱の薬を作ること自体は罪ではなかったから、私は罰されなかった。けれど私は自分自身を許せなかったの。そして、この先に待つ月での迫害から輝夜を守りたかった。
そして何より、地上で暮らしたいという輝夜の願いを叶えたかった。
――だから私は、月の使者を皆殺しにして、輝夜とここへ逃げ出したのよ。
輝夜と同じく、蓬莱の薬を飲んで、同じ罪人となって。
怯えなくてもいいわ。そんな穢れにまみれる真似をしたのはあれっきりよ。
だから私たちは、こんなところに厳重に隠れているのよ。私は、月の民を十人単位で殺して逃げ出した大罪人。月では、私と輝夜をきっと今でも血眼になって探しているはず。
けれど私の一番の罪は、あの薬を輝夜に飲ませてしまったこと。
だから私は、輝夜の永遠の命に、自らの永遠をもって贖うために生きているの。
私の全ては輝夜のためにある。
だから、輝夜を月に連れ戻させるわけにはいかないのよ。
もちろん私も、もう月に帰ることはできない。それは、輝夜が流刑になったときから決心していたこと。私はこの地上で、輝夜の従者として永遠を過ごす。
まだたった千年。私たちの永遠は、始まったばかりなのよ。
こんなところで、終わらせてしまってなるものですか。
* * *
長い話だった気がしていたが、こうして文章にまとめてみるとむしろ非常に短い話だ。
長く感じたのは、永琳さんの静かな口調に滲んだ狂気に、私が気圧されたせいかもしれない。
――この人は、たぶん狂っているのだ。
いや、地上人の感覚で月の民の常識を計っても仕方ないのだろう。だが、だとしても、いくらなんでも仲間を皆殺しにして逃げたというのはやり過ぎだ。まして、自らも永遠の命となって、永遠にたったひとりの少女に尽くすことを誓い、実行するなど――。
永遠。千年を「たった」と言い切れるほどの永い永い時間というものがいかなるものなのか、卑小な人間でしかない私には、想像がつくはずもない。
「……どうしてそこまで、輝夜さんに尽くすんですか?」
私が、そう問うと、永琳さんは不思議そうな顔をして、小首を傾げた。
「ただ、私がそうしたいから、そうするだけよ」
それは愛なのだろうか? 罪悪感なのだろうか? それとも――。
解らない。やはり私などには、想像の及ばぬスケールの物語だ。
だから私は、彼女たちの背景について考えることを止めた。
――そのことを、私はあとで相棒からさんざん呆れられることになる。
メリーともあろう者がどうして、こんなおかしな話を聞き流してしまったの? と。
だが、それはまた後の話だ。
「お師匠様、作業終わりました」
「ご苦労様、ウドンゲ。夕飯にしましょう。今夜と明日が正念場よ」
「わかりました。じゃあ、支度しますね」
顔を覗かせた鈴仙さんが、踵を返してぱたぱたと走り去っていく。その背中を見送り、それから私は「今夜と明日って?」と永琳さんに問うた。永琳さんは無表情で答える。
「明日が満月。――月と地上の間に道が通じる夜だからよ。今夜のうちに、私たちはこの地上の密室を完成させてしまわなければならないの」
だが、このとき永琳さんでさえも、まだ知らなかったのだ。
この日の夜、魔法使いふたりと、吸血鬼と従者が、夜を止めるということを。
満月を取り戻すため、ふたりの人間とふたりの妖怪が、この永遠亭に殴り込んでくるという未来を、まだこの場の誰ひとりとして知らなかった。
―16―
物語は再び、私――マエリベリー・ハーンの一人称にて、永遠亭へと戻る。
「鬼さんこちら、手の鳴る方へ」
「んー……そこだ!」
蓮子の手が、飛び跳ねていた兎の一匹を捕まえた。「んー」と捕まえた兎をモフモフしていた蓮子は、ターゲットの印がないことを理解して手を放す。蓮子の手を逃れた兎は、ぴょこぴょことてゐさんの元へ逃げていった。
「へへっ、ざーんねーん」
てゐさんの言葉に、蓮子は首を傾げる。
「むう、今は捕まえたと思ったんだけど。ねえメリー、てゐちゃんたちズルしてない?」
「してないわ、私の見てる限りでは。今のも惜しかったわよ、もうちょっとだけ右にいた子がターゲットだったから」
「ううん、まだ詰めが甘いわね。さあもう一丁!」
蓮子がそう声をかけると、また兎たちが散らばっていき、てゐさんがターゲットの印であるリボンをつけた兎とともに手を叩きながら「鬼さんこちら」と歌い出す。――私はそれを、庭石に腰掛けて眺めていた。
永遠亭での入院という名の軟禁生活が始まって、早くも四日目の午後である。その間私たちが何をしていたかといえば、専らてゐさん率いる兎たちとこうして遊び呆けることだった。
とは言うものの――。
「捕まえた!」
蓮子の手が、今度こそターゲットの印のついた兎を捕まえる。兎をモフモフしながら印を確かめ、「やった、大正解」と笑う蓮子に、てゐさんは「あーあ、鈍くさいなあ。鈴仙じゃないんだから捕まるなよぉ」と捕まった兎に舌打ちする。
「よーし、じゃあ難易度を上げるよ!」
「かかってらっしゃい。今の蓮子さんは視覚なくしてなお熟練の兎ハンターよ」
「へへーん、どうかな。ほーれ鬼さんこちら」
手を叩いて逃げ回るてゐさんと兎たちを、蓮子はアイマスクをつけたまま追い回す。
――にわか盲目の蓮子を相手に、てゐさんが提案した遊びが、この目隠し鬼だった。音を頼りにターゲットを捕まえるこの遊びは、目の見えない蓮子にとって絶好の気晴らしとなり、同時に盲目生活に慣れるいい訓練になっているようだ。兎を追いかける蓮子の顔は、目が見えなくなってしまっているとは思えないほど明るい。あの離れに病人のように引きこもって、私と雑談しているだけでは、こうはいかなかっただろう。最初の頃はまごついていた蓮子だったけれど、今は音だけでかなり周囲の状況を把握できているようである。
そんな蓮子の姿を見ながら、私は改めて、目が見えない、という状態のことを考える。もし、目が見えなくなったのが私の方だったら、今の蓮子ほど明るく振る舞っていられただろうか。そしてあるいは――私の目は、視力を失っても、境界を視てしまうのだろうか?
「メリー」
「なに?」
不意に呼びかけられ、私は物思いから引き揚げられた。兎を追いながら、蓮子は私の姿を探すように首を振り、私のいるのとは微妙にずれた方向に呼びかける。
「メリーも混ざってよ。兎もいいけどメリーを捕まえてモフモフしたいわ」
「私は兎みたいにモフモフしてないわよ」
ぴょこぴょこと兎が一匹、私の元に跳ねてくる。その子を膝の上に抱え上げて、モフモフの毛並みを撫でた。ああ、藍さんの尻尾ほどじゃないけど、これはこれで。
「へーい、じゃあ交替」
と、てゐさんがこちらに駆け寄ってきて、ハイタッチとばかりに手を差し出す。私は息を吐いて、膝の上の兎を抱いて立ち上がった。仕方ない、付き合ってあげよう。ぼんやり眺めているのにも退屈していたところだし。
「じゃあ蓮子、いくわよ。鬼さんこちら」
ターゲットの印のついた兎の元へ歩み寄って、私は歌いながら手を叩く。飛び跳ねる兎とともに、蓮子の手から逃げ回りながら――こうやって何も考えず遊んで過ごす遊惰な毎日も、たまには悪くない。そんなことを考えていた。
さて、そうしてこの数日、私たちの遊び相手になってくれている――というより、彼女と兎たちの遊びに私たちが付き合わされていると言った方が正確かもしれないが、そんな因幡てゐさんは、この永遠亭の住人というわけではないらしい。
「もともと、お師匠様たちが突然勝手にこの竹林にあの屋敷を建てたのさ。あっちが新参。だから私が永遠亭の住人なんじゃなく、お師匠様たちが竹林の住人と言う方が正しい」
ということは、目の前のこの少女も少なくとも一千歳以上であるらしい。日本神話の因幡の素兎本人だとしたら、果たして何歳になるんだったか。
「そのわりには、八意先生のこと、お師匠様って尊敬してるのね」
「長生きのためには健康第一だからねえ。腕のいいお医者さんは尊敬するよ」
蓮子の問いに、てゐさんは何か含みのありそうな笑みを浮かべてそう答えた。
「それにしても、こんな竹林の奧に逼塞して隠者みたいな暮らしをしてるって、八意先生って何者なのかしら?」
蓮子は首を傾げる。「さてねえ」とてゐさんはすっとぼけて口笛を吹いた。私は蓮子に気付かれないように無言で肩を竦める。――八意さんたちの正体に関しては、彼女たちが企んでいる何かが一段落するか、蓮子の目が見えるようになるまで伏すという情報秘匿の協定に、てゐさんも協力してくれているわけで。
「ううん、この目が見えたらもっと色々、この屋敷の中を見て回っていろいろ調べてみたいんだけど、ままならないわねえ」
「そうやって他人様のことを嗅ぎ回ってばっかりいるから、罰が当たったのよ」
「ひどいわメリー、人をゴシップ記者みたいに。私はこの灰色の脳細胞が求めるままに知的好奇心をもって世界の真理を探究せんと――」
「本当に目が見えなくなっても知らないからね」
「そうなったらメリーに介護してもらうしかないわねえ」
「既定事実みたいに言わない!」
「仲が良いねえ」
てゐさんが意地の悪い笑みを浮かべて私たちを見やる。私はため息をついて、蓮子を小突いた。「あ痛」と蓮子は大げさにのけぞる。全くもう。
「はいはい、私に介護されたくなかったら、大怪我しないうちに休みなさい」
「えー。目が見えないだけで他は何ともないんだから病人扱いしないでよ」
「目が見えないのは立派な病人でしょうが。自分が思ってる以上に神経使ってること、自覚してるでしょ?」
「むう」
口を尖らせる蓮子を離れに連れ戻し、手を引いて布団に寝かせる。「寝てれば目が見えても見えなくても一緒よ」と私が言うと、「確かに、目が見えなくても夢は見られるけどね」と相棒は目を閉じて息を吐き出した。
「お休み。夕飯の時間になったら起こすわ」
「はいはい、お休み」
布団を被った蓮子の顔をしばらく見下ろし、それから私は息を吐いて立ち上がる。
離れの外に出ると、屋敷の縁側に腰を下ろして、てゐさんが足をぶらぶらさせていた。
「健気だねえ」
「……別にそんなんじゃ。そっちのお師匠様に軟禁されてるだけだし」
「ふうん? ま、お師匠様が何を企んでようと、地上の兎にゃ関係ないけどねえ」
膝の上にお仲間の兎を一匹乗せて、てゐさんはその毛並みを撫でている。
「まあ、千年以上張ってた結界を実質解除したようなもんだし、よっぽどのことなんだろうね。月から追っ手でも来るのかな? 鈴仙は脱走兵だしねえ」
私は特に返事も思い浮かばず、黙っててゐさんの隣に腰を下ろした。屋敷は静まりかえっている。輝夜さんは最初の夜以来姿を見せないし、鈴仙さんは離れに食事を持ってきてくれるけれど、ぶっきらぼうにお膳を置いて、文字通り脱兎のごとく去って行ってしまうので、てゐさんと違って打ち解けようがなかった。
「……鈴仙さんは、どうして私たちを怖がるの?」
ふと、私はそうてゐさんに問う。鈴仙さんのあの態度は、最初は単につっけんどんなだけだと思っていたのだが、この数日様子を見ている限り、彼女は何かを怖がっているのではないか、という気がしていた。だからすぐ逃げてしまうのだし、極力私たちと関わり合わないようにしているのではないか、と。
ただ、いくら彼女が脱走兵だとしても、別に月の追っ手でもない私たちを彼女が怖がる理由がさっぱり解らない。妖怪である以上、私たちより彼女の方が生物として強いだろうに。
「ああ――」
と、てゐさんは目を細め、頬杖を突いて鼻を鳴らした。
「そりゃあれだ、お師匠様や姫様と同じ理由だよ」
「同じ?」
「あんたたちを怖がってるんじゃなく、地上の穢れを怖がってるのさ」
私は目をしばたたかせる。穢れ――というと、科学世紀の霊的研究の根幹を為す穢れ思想のことか。古代から現代に至るまで、人間の行動は穢れ思想に縛られているとするのが、私たちのいた科学世紀の日本での、一般的な考え方であるが。
「お師匠様から聞いた話だけどね、月の民は元々は地上の民だったのが、地上の穢れを忌み嫌って穢れのない月に移り住んだんだそうだよ。穢れのない月で、永遠の寿命を得ようってわけだったみたいだね。長生きしたいだけなら、私みたいに健康に気を使えばいいだけなのにさ」
そういう次元の問題ではないと思うが。
「お師匠様と姫様は罪を犯して、鈴仙は脱走して穢れに満ちた地上に逃げてきたわけだけど、やっぱり月の民だから穢れが怖いんだろうね。屋敷の周りに強い結界が張ってあったろ? あれは穢れを屋敷の中に入れないためのものなのさ。だから私ら地上の兎も、屋敷の庭とあの離れまでしか入れてもらえない。私は入ろうと思えばもうちょっと奧まで入れるけどね」
にい、と不敵な笑みを浮かべて、てゐさんは言う。
――穢れ、か。私は首を捻った。ひとくちに穢れといっても、その意味する範囲は非常に広い。たとえば古くから死や病が穢れであるのは言うまでもないし、女性の月のものや出産も穢れと見なされた。科学の時代になってそういった穢れ思想は、一度は科学的合理性の前に駆逐されたに思われたが、実際は決してそんなことはなかった。二一世紀末に暮らしていた私たちもまた、穢れ思想に深く囚われている。
たとえばマンションなどの事故物件が心理的瑕疵とされるのは、死の穢れが場所に残留するとする穢れ思想そのものであるし(そういえば小野不由美の『残穢』というホラー小説があったっけ)、犯罪において加害者のみならず被害者までもが白い眼で見られてしまうのも、ある種の穢れ思想である。犯罪被害者に対し、被害者には被害者になるだけの理由や落ち度があったはずだと考える公平世界信念は、即ち犯罪という穢れに対する忌避感への理屈付けだ。
何につけても、一度ついた悪いイメージがぬぐい去りがたいのもまた穢れである。特定の対象への理屈を超越した拒否感、拒絶感を生むのが穢れという目に見えない概念であり、そのため何を穢れと見なすかは人によって異なるわけだが、どんなものであれ全ての人に好かれるものがない以上、この世のあらゆるものは穢れを背負っていると言える。
まあ、これは穢れという言葉も最も広い用法である。永琳さんたち月の民が恐れている穢れというのは、おそらくもっと狭い範囲のものだろう。穢れのない月で永遠の寿命を求めた――ということは、彼女たちが恐れているのはおそらく、生死にまつわる穢れだ。
「……あれ?」
ふと私の脳裏に何かが引っ掛かった。何かがおかしい気がする。どこか理屈に合わない、辻褄が合っていない。そんな違和感。
だが、その正体を私が精査する前に、「あら、ここにいたの」と第三者の声が割り込んで、私の思考は中断させられる。八意永琳さんが、私たちの方へ歩いてきていた。
「おや、お師匠様。鈴仙はどこで何してるの?」
「こっちの仕事をしているわ。あの子は?」
「蓮子なら、寝ていますけど……」
「そう。それなら丁度いいわ。貴方、ちょっと私と一緒に来てもらうわよ。てゐ、貴方は手下のイナバたちを集めて、屋敷の方に来て頂戴」
「おお?」
きょとんとてゐさんは目をしばたたかせ、私は眉を寄せた。
どうやらまた、永琳さんに何かをやらされることになるらしい。
彼女は私の境界を視る目に、いったい何を期待しているのだろう――。
―17―
「やーやー、こんな中まで入っちゃっていいの? お師匠様」
「これも、月からの追っ手に対する防衛策の一環よ」
「それってつまり、私たちを盾にするってことじゃん」
「輝夜が連れていかれたら、貴方の部下たちは悲しむんじゃなくて?」
そうだー、とばかりにてゐさんの足元のイナバたちが飛び跳ねる。輝夜さんはイナバたちにも人気であるらしい。さすがはかぐや姫というところか。
私とてゐさん、それにイナバたちは永琳さんに導かれて、屋敷の中に足を踏み入れていた。長い廊下を、永琳さんの先導で歩く。いったいこの屋敷にはいくつの部屋があるのだろう。というか、この廊下はあまりにも長すぎはしないか?
「――――」
不意に頭痛めいたものを覚えて、私はこめかみを押さえる。何かがおかしい。この廊下は明らかに何かが歪んでいる。紅魔館もそういえば無闇と広かったけれど、あれとはまた別の意味で空間が歪められているのだ。
私の視界が、すっと音もなくずれていく。ああ――世界の位相が狂っている。だからこの廊下はこんなにも長いのだ。この空間は、ひたすら廊下に沿って引き延ばされている――。
私は足を止めた。長すぎる廊下の一角に、閉ざされていない扉がある。いや、物理的には閉まっているのだが、結界的な意味で、この扉は開け放たれている。――そして私は気付く。この廊下に面した襖、扉のほとんどが、結界に閉ざされていることを。それもまた、この廊下に対する違和感のひとつだったのだ。
私はため息を漏らして、その扉に手を掛けようとし――。
「やはり、解るのね」
肩を掴まれ、私は振り返った。永琳さんは私に向かって目を細め、それから「ウドンゲ」とどこへともなく呼びかける。すぐに世界の断層の向こうから、鈴仙さんが姿を現した。
「ここ、塞がっていないわ」
「ああ、すみません――」
鈴仙さんの赤い目が輝き、結界の隙間が塞がれていく。――ひょっとして、私はこのために呼ばれたのか? 永琳さんを見やると、彼女は愉しげに笑った。
「やっぱり、貴方の目は貴重だわ。他に結界の不備を見つけたら言って頂戴」
「はあ……」
なるほど、どうやら永琳さんはこの廊下を袋小路にしてしまうつもりらしい。
どういう原理なのかはともかく、この廊下を引き延ばした上で、屋敷の奧へと通じる扉は全て結界で塞いでしまう。そうして月からの追っ手を、この長すぎる廊下に足止めしてしまおうということなのだろう。私の目は、その結界に隙間がないかを確かめるチェック機構として求められたわけだ。
「てゐ、貴方とイナバたちには万一のときは、この廊下で侵入者を迎撃してもらうわ。ウドンゲと一緒にね」
「へえへえ、部下が姫様の無事を望むなら仕方ないねえ」
後頭部で腕を組んで、てゐさんは口笛を吹きながら不真面目に答える。永琳さんもてゐさんにはあまり期待してはいないのか、「よろしく頼むわね」とだけ言った。
「マエリベリー・ハーンさん。もちろん、貴方にも協力してもらうわ」
「……あの、私は戦えませんけど」
「貴方にはその目があるじゃない」
私の頬に手を伸ばして、永琳さんはどこか剣呑に目を細める。
「貴方のその目、たとえ月の追っ手がウドンゲと同じ力で身を隠しても見破れるし、逆に貴方がこちらについている限り、こちらの結界の隙間を見破られる可能性は低い。その力、大いに活用させてもらうわ」
それって、いざ戦いになったら前線で指揮を執れ、と言われている気がするのだが。
しかし、ある意味で蓮子が人質に取られているこの状況で、永琳さんの言葉に逆らう度胸も私は持ち合わせていない。せいぜい物陰に隠れていよう。できれば月の追っ手とやらが来ないままで終わってほしいものだが――。
「今夜中にこの封印を完成させてしまわなくては、ね」
独り言のように呟く永琳さんに、私は目を細める。――月の追っ手。逃亡者であるという彼女たちがそれを恐れるのは当たり前なのかもしれない。だが、いくらこんな目を持っているからとはいえ、通りすがりの人間に過ぎない私を巻き込むほど、彼女が強く恐れる月の追っ手とは、いったい何なのだろう。いや、そもそも――。
「……あの、永琳さん」
「あら、なに?」
「結局……貴方たちはどうして月から逃げているんですか? 昔話で、かぐや姫は罪を犯して地上に落とされたということになっていましたけど、その罪を許されたから迎えが来たのではなかったんですか? 輝夜さんはいったい、どんな罪を犯したというのですか?」
――こんな問いを正面から彼女にぶつけてしまったのは、相棒の悪影響に違いない。
そして私に問いに、永琳さんはふっと表情を消して、「……そうね」と呟いた。
「夜までの間に、少し話をしましょうか。これだけ巻き込んでいるのだから、こちらの事情ぐらいは説明してもバチは当たらないでしょう。ウドンゲ」
「は、はい」
「お茶を淹れて頂戴」
――月の民もお茶を飲むんだ、と私は全くどうでもいいことを考えていた。
―18―
というわけで、以下は永遠亭の一室でお茶を飲みながら、永琳さんが語った話の聞き書きである。異変の後、相棒に私が伝えた内容と同一であることを、ここに明記しておこう。
* * *
――輝夜が犯した罪。それは、蓬莱の薬を飲んだことよ。
蓬莱の薬というのは、藤原妹紅が飲んだものと同じ、不老不死の薬。月ではそれは作るのはともかく、飲むことは禁忌とされていた。蓬莱の薬を飲んだ者は、穢れを生じるために、地上へ流刑となる。それが月の法だったのね。
輝夜は月生まれのお姫様で、私は輝夜の教育係をしていた。ある日、輝夜が私に、『蓬莱の薬を作ってみない?』と言ったの。私は止めたのだけれど、『作るだけならばいいのでしょう?』と言うので――私も、一度作ってみたかった、というのもあるわ。蓬莱の薬を作るには、輝夜の須臾を操る力が必要だったから……須臾は解るかしら? 時間を極限まで分割した一瞬のことよ。時間は連続に見えるけれど、それは無数の須臾の連なりで出来ている……飛んでいる矢は止まっている。それはパラドックスではなく、ただの自明の真実なのよ。
まあ、地上の民に蓬莱の薬の作り方を教授したところで無意味だから、細部は省くけれど。そうして、私は蓬莱の薬を作ってしまった。輝夜がなぜそれを求めたのかも知らずに。
――輝夜は、月での暮らしに退屈して、いつしか地上に行くことを望んでいたの。そう、蓬莱の薬を飲んだ罪で、地上に流刑になるために、輝夜はあの薬を私に作らせた。――そうして、私の目を盗んで、輝夜はその薬を飲んでしまった。
そこから先は、貴方たちが知っているかぐや姫の物語とほぼ同じよ。月の民であったことを忘れ、地上でかぐや姫として暮らしていた輝夜を、私は月の使者として迎えに行った。
けれど、私は知っていたの。地上の穢れの中で長い時間暮らした輝夜は、もう月で元の生活には戻れない。月の奥深くに幽閉されることになる、と。
蓬莱の薬を作ること自体は罪ではなかったから、私は罰されなかった。けれど私は自分自身を許せなかったの。そして、この先に待つ月での迫害から輝夜を守りたかった。
そして何より、地上で暮らしたいという輝夜の願いを叶えたかった。
――だから私は、月の使者を皆殺しにして、輝夜とここへ逃げ出したのよ。
輝夜と同じく、蓬莱の薬を飲んで、同じ罪人となって。
怯えなくてもいいわ。そんな穢れにまみれる真似をしたのはあれっきりよ。
だから私たちは、こんなところに厳重に隠れているのよ。私は、月の民を十人単位で殺して逃げ出した大罪人。月では、私と輝夜をきっと今でも血眼になって探しているはず。
けれど私の一番の罪は、あの薬を輝夜に飲ませてしまったこと。
だから私は、輝夜の永遠の命に、自らの永遠をもって贖うために生きているの。
私の全ては輝夜のためにある。
だから、輝夜を月に連れ戻させるわけにはいかないのよ。
もちろん私も、もう月に帰ることはできない。それは、輝夜が流刑になったときから決心していたこと。私はこの地上で、輝夜の従者として永遠を過ごす。
まだたった千年。私たちの永遠は、始まったばかりなのよ。
こんなところで、終わらせてしまってなるものですか。
* * *
長い話だった気がしていたが、こうして文章にまとめてみるとむしろ非常に短い話だ。
長く感じたのは、永琳さんの静かな口調に滲んだ狂気に、私が気圧されたせいかもしれない。
――この人は、たぶん狂っているのだ。
いや、地上人の感覚で月の民の常識を計っても仕方ないのだろう。だが、だとしても、いくらなんでも仲間を皆殺しにして逃げたというのはやり過ぎだ。まして、自らも永遠の命となって、永遠にたったひとりの少女に尽くすことを誓い、実行するなど――。
永遠。千年を「たった」と言い切れるほどの永い永い時間というものがいかなるものなのか、卑小な人間でしかない私には、想像がつくはずもない。
「……どうしてそこまで、輝夜さんに尽くすんですか?」
私が、そう問うと、永琳さんは不思議そうな顔をして、小首を傾げた。
「ただ、私がそうしたいから、そうするだけよ」
それは愛なのだろうか? 罪悪感なのだろうか? それとも――。
解らない。やはり私などには、想像の及ばぬスケールの物語だ。
だから私は、彼女たちの背景について考えることを止めた。
――そのことを、私はあとで相棒からさんざん呆れられることになる。
メリーともあろう者がどうして、こんなおかしな話を聞き流してしまったの? と。
だが、それはまた後の話だ。
「お師匠様、作業終わりました」
「ご苦労様、ウドンゲ。夕飯にしましょう。今夜と明日が正念場よ」
「わかりました。じゃあ、支度しますね」
顔を覗かせた鈴仙さんが、踵を返してぱたぱたと走り去っていく。その背中を見送り、それから私は「今夜と明日って?」と永琳さんに問うた。永琳さんは無表情で答える。
「明日が満月。――月と地上の間に道が通じる夜だからよ。今夜のうちに、私たちはこの地上の密室を完成させてしまわなければならないの」
だが、このとき永琳さんでさえも、まだ知らなかったのだ。
この日の夜、魔法使いふたりと、吸血鬼と従者が、夜を止めるということを。
満月を取り戻すため、ふたりの人間とふたりの妖怪が、この永遠亭に殴り込んでくるという未来を、まだこの場の誰ひとりとして知らなかった。
第4章 永夜抄編 一覧
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今回もワクワクして見させていただきました。次回が楽しみです。
紅魔組と魔女組がAルート、結界組と幽明組がBルートになるのでしょうか?
人妖入り乱れる展開になりそうで楽しみです。
永琳先生の狂った感じがとても良かったです。やはり天才なだけに何処か頭のネジが飛んでるんだろうなと思いました。あと永琳は輝夜にバブミを感じるほどに依存しているのではとか、最近思うようになりました。
色んなジャンルの本を読んでいるんですね。凄いです。
ふたりの人間とふたりの妖怪がってことは
霊夢負けるのかな?
Wow, this is in every respcet what I needed to know.