かぐや姫、石作の皇子には、仏の御石の鉢といふ物あり、それを取りて賜べ、と言ふ。庫持の皇子には、東の海に蓬莱といふ山あるなり、それに白銀を根とし黄金を茎とし白き珠を実として立てる木あり、それ一枝、折りて賜はらむ、と言ふ。いま一人には、唐土にある火鼠の皮衣を賜へ、大伴の大納言には、龍の頸に五色に光る珠あり、それを取りて賜へ、石上の中納言には、燕の持たる子安の貝、一つ取りて賜へ、と言ふ。
―10―
窓から差し込む朝日が瞼を貫いて、私は目を覚ました。
「ん、ぅ……」
見慣れぬ天井に目をしばたたかせて、――そうだ、ここは永遠亭だ、と思い出す。歪な月、倒れた蓮子、私たちの前に現れたかぐや姫とその従者、それから兎の少女。そして、彼女たちから聞かされたいくつかの秘密――。
「……蓮子?」
私は身を起こし、隣の布団を見やる。――相棒は変わらず、そこに横になっていた。その向こう側では、妹紅さんが私たちに背を向ける格好で横になっている。私は息を吐いて、蓮子の寝顔を覗きこんだ。アイマスクをつけた寝顔は穏やかで、昨晩の苦しんでいた様子は既にそこからは感じ取れない。
――と、不意に蓮子が身じろぎして、その右手が目元にかかった。無意識に、目を覆っているアイマスクを剥ぎ取ろうとしているらしい。私は思わず、その手を掴む。
「…………あれ?」
ぼんやりと、蓮子の唇がそう言葉を発した。ゆるゆると蓮子は首を動かし、それから私に掴まれた右手と、空いた左手をもぞもぞと動かす。
「蓮子」
「……メリー? あれ……いま、夜? 何も見えないんだけど……」
蓮子の左手が目元を探り、私は慌ててその手を掴んだ。
「駄目よ、蓮子」
「え? ……う、痛っ……頭痛い」
顔をしかめて蓮子は呻く。私は蓮子の手を握る手に力を込めた。
「蓮子、覚えてない? 貴方、ゆうべ倒れたのよ?」
「……え? ええと……ああ……そう、なんか、月が変で……それを見たら、急に目と頭が痛くなって……」
思考の焦点が定まらない、というようなぼんやりとした口調で、蓮子は言う。
「大変だったのよ。夕飯全部吐いちゃって、仕方ないから慧音さんが担いで、妹紅さんの知り合いのお医者さんのところに担ぎ込んだの。そこに泊めてもらったのよ。あと、今はその翌朝」
「……そうなの?」
「そうなの」
「じゃあ……目が見えないのは」
「ゆうべの後遺症。一週間ぐらい、そうやって目と頭を休めないとダメだって」
「え? 一週間?」
「一週間。お医者さんの言うことだから素直に守ること。今アイマスクつけてるけど、それ外しちゃダメよ。いいわね?」
「…………なにそれぇ」
がくりとその手から力が抜けて、布団に落ちる。ため息のように蓮子は大きく息を吐いた。ため息をつきたいのはこっちだ。全く――人がどれだけ心配したと思っているのか。
「うう、失明したんじゃないことを喜ぶべきなのかしら。でもなんでそんな……」
「はいはい、頭を使わない。目元も弄らない」
「ええー? ちょっとメリー、このプランク並の頭脳を持つ蓮子さんに考えることを止めろっていうのは呼吸するなっていうのと同じことよ? あとこのアイマスク気になるんだけど」
「なんでもいいけど、それがお医者さんの言うことなんだから従いなさいってば」
「むぅ……」
頬を膨らませ、それから蓮子の手が彷徨うように私の前で宙を泳いだ。
「何か探してるの?」
「ん」
私がそう問うと、蓮子は不意にその手をのばして、手探りに私の頬に触れる。
「あ、メリーみっけ」
「……ちょっと蓮子」
「んー……この柔らかさは紛れもなくメリーのほっぺたね。しかし、こうでもしないとメリーの存在を確かめられないって、人間がいかに視覚情報に依存してるか痛感するわ」
「ひょっほれんほ、やめへ」
むにむにとほっぺたを引っ張られて、私はその手に自分の手を重ねる。と、それを待ち構えていたように、ずい、と蓮子の顔が近付いてきた。ひくひくとその鼻が私の眼前で動く。
「犬みたいなことしない」
「だって視覚が使えない以上、他の五官を駆使してメリーを感じ取らなきゃ。んー」
「舌を出さない!」
思わずチョップした。「あ痛、頭を使うなって言っておいて頭を叩かないでよ」と抗議の声をあげながらも、蓮子は私の頬から首を伝って肩へと手を這わせるのをやめようとしない。くすぐったいからやめてほしいのだけど――。
「――メリー」
と、不意に蓮子が、私の胸にもたれかかってきた。
「蓮子?」
「……ん」
私の胸元に顔をこすりつけるようにして、蓮子は私にぎゅっとしがみつく。どうしたものか、と私は視線を彷徨わせて――それから、仕方なく蓮子の背中に腕を回した。
ああ――そうだ。蓮子だって不安なのだ。わけのわからぬままに、急に視覚を奪われて、暗闇の中に放り出されて……それで、必至に私の存在を確かめて、そこにすがりついてきたのだ。いつものおどけた口調で繕いながら。
そう思うとなんだかたまらなくなって、私は蓮子の背中に回した腕に力をこめた。
「大丈夫よ、蓮子。……私がここにいるから」
「メリー……」
「蓮子の目が見えるようになるまでは、私がついていてあげるから。私が、蓮子の目の代わりになってあげるから。蓮子はゆっくり養生して、私が早くその役目から解放されるようにして頂戴。ね?」
寝癖の立っていた蓮子の髪を梳くと、「んぅ……」とむずがるように蓮子は私の胸に強く顔をおしつけて、「メリー」と囁いた。
「なに?」
「メリーよね?」
「うん、私よ。疑ってるの?」
「だって見えないんだもの……だから、もっと強くメリーを感じさせて」
「え?」
そう言うと蓮子は、私の胸から顔を上げて、心もち唇を突き出すようにした。
私はその顔を見下ろして、しばし考え込む。ええと、この体勢はつまり――。
「メリー……んー」
「んー、じゃないわよ!」
咄嗟に再びチョップ。「あう」と額を押さえて、蓮子は呻く。
「ひどいわメリー、今はどう考えてもキスしてくれる雰囲気だったじゃない」
「どういう雰囲気よ!」
「突然の失明で弱った私、頼れる相棒の見せたいつもと違うか弱い姿に、メリーは気付くの。ああ、宇佐見蓮子はこんなにも自分にとってかけがえのない存在だったのだと――この気持ちが恋だったと。これぞ青春! 恋の芽生え!」
「勝手に人の気持ちを決めない! だいたいそれ、いつの時代の少女漫画よ」
チョップチョップチョップ。「痛い痛いメリーやめて」と頭を抱える蓮子に、私はため息。
「そのぐらい元気なら放っておいても大丈夫そうね、里に帰ろうかしら」
「ああっメリーそんなご無体なぁ。……っていうか、そういえばここ、どこなの? いや見えないから全然解らないんだけど……」
見えない目でそれでも周囲を確かめようとするように顔を巡らす蓮子。――と、その隣の布団で横になっていた妹紅さんが、ぼりぼりと頭を掻きながら起き上がった。
「……あー、愛の語らいは済んだか?」
「え、あ、も、妹紅さん、起きてたんですか……?」
私がそう問うと、妹紅さんは半眼で私たちを睨む。
「そりゃ、こんな近くでそう大騒ぎされちゃあな。出来ればそういうのは私のいないところでやってくれ、こっ恥ずかしくて見てられん」
妹紅さんの言葉に、私は赤面して身を縮こまらせる。これも全て蓮子のせいだ。
だが相棒は「ああ、妹紅さん」と安堵したようにその声のほうに顔を振り向ける。
――その瞬間、不意に妹紅さんが私の顔をちらりと見た。
私はその視線に気付いて、解っています、という意志をこめて頷いた。
―11―
話は昨晩に戻る。永琳さんから解放されて離れに戻った私を、妹紅さんが出迎えた。
妹紅さんが蓬莱人――不老不死の人間であるという情報を私が知ってしまったことは、私の表情から妹紅さんは敏感に察したらしい。私の顔を見るなり、彼女はどこか諦観の混じったような薄い笑みを浮かべた。
「私のことを、あの藪医者から聞いてきたって顔だな」
「…………」
「誤魔化さなくていい。どうせいずれは話さないといけなかったことだ」
ため息をついて、妹紅さんは畳の上にあぐらをかいた。私はその前に腰を下ろす。
「どこまで聞いてきた?」
「……妹紅さんは、かぐや姫の残した不死の薬を飲んでしまったのだと」
「ああ、そうだ。――私の父親は誰だと思う?」
「かぐや姫に求婚した五人の貴族のひとり……なんですよね?」
「ああ。昔話では、車持の皇子と呼ばれている奴だ。蓬莱の珠の枝の贋物を造ったはいいが、職人に報酬を出さなかったせいで赤っ恥を掻いた間抜けな男さ」
――藤原妹紅、という彼女の名前に、改めて思い至る。
ふじわらの、というのは、蓮子の〝宇佐見〟のような苗字とは違う、古代の本姓のことだということか。だとすれば、彼女は藤原氏――古代豪族の娘だったということになる。
「だが、当時の私はそんなことは知らなかった。ただ父が恥を掻かされたと聞いて、怒りに駆られてかぐや姫に復讐しに行ったんだ。だが――アイツはそれより先に月へ帰ってしまっていた。少なくとも私はそう聞いた。……それから」
と、そこで妹紅さんは言いにくそうに言葉を切り、首を横に振った。
「……それから色々あって、私はアイツが残していった不死の薬を飲んで、死ねない身体になってしまったのさ。あれから一三〇〇年、あちこちを放浪して、今はここにいるってわけだ」
妹紅さんが今言いよどんだ部分には、おそらく言いたくない事情があるのだろう。そこまで詮索する権利はもちろん私にありはしないから、ただ口を噤むしかない。
「半信半疑、って顔だな」
「……いえ、そんな」
「証拠を見せてやろうか」
皮肉げな笑みを浮かべて、妹紅さんはそう言った。
「証拠、って――」
「何かあるだろ……ううん、こんなもんしかないか」
立ち上がり、戸棚を開けて中を漁っていた妹紅さんは、そこから何かを取りだした。見ればその手には果物ナイフがある。――嫌な予感がした。
「妹紅さん、まさか――」
「不老不死ってのは、要するに、こういうことさ」
畳の上に左手を置き、果物ナイフを持った右手を振りかぶって――その切っ先が妹紅さんの左手の甲に吸い込まれる瞬間、私は思わず目を逸らした。
「見てるだけで痛いって気持ちは解るが、私だって痛いんだから見てくれよ」
苦笑混じりにそう言った妹紅さんの左手の傷は――数秒後には音もなく塞がって、最初からそこには傷などその痕跡すら見当たらなくなっていたことは、言うまでもない。
「この通り、私の身体はどんな傷を受けても元通り再生しちまう。首がもげようが、心臓を貫かれようが、バラバラにされようが、燃やし尽くされて灰になろうが、な」
「…………」
「もちろん、病気や老衰なんて論外だ。千年以上、いろいろ試してきたが、ひとつも成功しなかった。そりゃそうだな、成功してたら今ここにはいない」
笑って言われても、いったいどんな顔をすればいいのか。二十年程度しか生きていない人間の私には、そんな話を笑ってすることができるようになるまで、妹紅さんがどんな思いで千年以上生きてきたのかさえ、想像することも困難だった。
「恐ろしいか?」
「――――」
「正直に言ってくれていい。慣れてるからな」
どこまでも、その顔は笑ったままで、妹紅さんはそう言う。その笑みの裏には、果てしなく深い諦観が滲んでいるのだ。私には想像すべくもない、千年以上分の諦観が。
そんな過去の前に、ただの人間に言える言葉などあるはずもないのだけれど――、
「……去年、この幻想郷に迷い込んだとき、私たちは吸血鬼の館にいました」
「うん?」
「そこで、吸血鬼の姉妹や、魔法使いや、時間を操る人間と出会いました。吸血鬼の少女に気に入られてしまって、何時間も本を読み聞かせたこともあります。――今年の春先には、冥界で亡霊のお姫様と知り合いましたし、夏場には鬼と出逢いました」
「……顔が広いんだな」
「相棒が、無駄に好奇心旺盛なもので」
私は――つとめて笑って、布団で眠る蓮子の顔を見下ろした。
「まして、里での私たちの保護者からして半人半妖です。だから……不老不死の人間がいると言われても、この幻想郷なら、そのぐらい普通じゃないかと、私は思います」
その言葉に、妹紅さんは目をしばたたかせて。
「……普通、か。普通ねえ」
困ったように、またぼりぼりと頭を掻いた。
「普通、と言われるとは思わなかったな」
「――――」
「でも、満月の慧音の姿を見ても怖がらなかった、お前たちらしいな」
「妹紅さん……」
「――ありがとう、メリー」
目を伏せて、ぼそりとそう言い、それから妹紅さんは蓮子の顔を見下ろす。
「だけどな。蓮子には、自然に耳に入るまで黙っておいてくれないか」
「…………」
「こいつが怖がらないのは解ってるさ。でも、なんていうかな……もうちょっと、不老不死とか関係ないままで、蓮子と将棋指したりしていたいんだ」
「……解りました」
その希望に対しても、私に言えることは何もない。
妹紅さんがそう言うなら、私はそれに従うまでだった。
――で、話は現在に戻る。
「私のこと、妹紅さんが運んでくれたんですか?」
「物理的に運んだのは慧音だよ。私は道案内しただけだ。里に戻ったら慧音に礼を言っておけ」
「了解です。……で、ここは? 何も見えないので何が何だか……」
「あら、おはよう。目が覚めたようね」
がらり、と離れの玄関が開いて、八意永琳さんが顔を出した。反射的に声の方を振り向き、それから目が見えないことに気付いたように蓮子が首を傾げる。
「お医者様です?」
「そうよ。私は八意永琳、蓬莱山輝夜に仕える従者で薬師。今は貴方の主治医よ、宇佐見蓮子さん。――それからここは、私と姫が暮らす屋敷の離れ。永遠亭、とでも呼んで頂戴」
「これはどうもご丁寧に。ご迷惑をお掛けしてすみません、お世話になります」
ぺこりと頭を下げる蓮子に、永琳さんは頷いて、その前に屈み込む。
「じゃあ、目を診せてもらうわ。薬の副作用が出ていないかも確かめたいから」
蓮子のアイマスクを外し、その瞼を押し上げて、永琳さんは覗きこむ。蓮子の視力はやはり失われているらしく、アイマスクの下の目は焦点を結んでいない。
「問題なさそうね。薬で強制的に視神経を休ませてる状態だから、不便なのは我慢して頂戴」
「はあ。……あの、記憶がどうもはっきりしないんですが、私はなんでここに?」
こめかみのあたりを押さえて、蓮子はそう問いかける。永琳さんは少し眉を寄せて答えた。
「月の狂気にあてられたのよ」
「月の?」
「そう。月の光は狂気を孕んでいる。昨晩はそれが特に強かったの。貴方は少々、普通の人間よりも敏感な目を持っているようだから、その影響を受けすぎてしまったのよ」
「…………」
釈然としない顔で首を捻る蓮子。永琳さんはその肩をぽんぽんと叩いた。
「聞いてるでしょうけど、視力が戻るまで一週間はかかるわ。貴方が今するべきことは、目を休めて安静にしていること。見えるようになるまで、この離れを使っていていいわ。退屈でしょうけど、我慢して頂戴ね」
立ち上がり、永琳さんは私の方を振り返って、これでいい? と言いたげに首を傾げた。私は頷く。――彼女たちの企みについて、相棒には詳細を告げないでほしい、と永琳さんにお願いしたのは私だった。永琳さんと輝夜さんが、あの贋物の月を出すことで何かをしようとしている――そのことを蓮子が知れば、絶対に首を突っ込みたがるに決まっている。相棒の頭脳を休ませないといけないときに、それはあまり好ましくないことだ。
「マエリベリー・ハーンさん。薬は貴方に渡しておくわね。一日三回、食後に一錠」
「解りました」
渡されたのは瓶詰めの錠剤だった。もし科学世紀にこの薬を持っていって専門家に鑑定してもらったら、どんな結果が出るのだろう――と益体もないことを私は考える。
「食事はあとでウドンゲに持ってこさせるわ。あ、そこの貴方の分はないわよ」
「お前らのメシなんざ頼まれても食わないっての。何が入ってる解ったもんじゃない」
ふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向く妹紅さん。「入院患者の前で人聞きの悪いことを言わないでほしいわね」と永琳さんは肩を竦め、「それじゃあ」と踵を返す。
「あ、そうそう。――あとでイナバたちが来るから、暇なら遊んであげて」
そう言い残して離れを出ていく永琳さん。蓮子は妹紅さんを振り向き、「何かあったんですか?」と問う。「……ここの連中とはそりが合わないだけだ。気にするな」と妹紅さんは頭を掻いた。
―12―
少しして、鈴仙さんがお膳を持って来た。「朝食です」とぶっきらぼうに言って、私と蓮子の分のお膳を畳の上に置く。ご飯と吸い物、筍と人参の煮物と何かのおひたしだった。病院食らしいと言えばらしいメニューだが、動物性タンパク質が無さ過ぎではないだろうか。
「さっきのお医者様とは別のひとね。看護師さん? 私は宇佐見蓮子、お世話になりますわ」
声で別人と判断したらしく、蓮子はそう言ってぺこりと一礼する。
鈴仙さんは口を尖らせたまま何も答えない。と、蓮子が握手を求めるようにその右手を差し出す。――次の瞬間、鈴仙さんはびくりと身を竦め、弾かれたように立ち上がった。
「しょ、食器は、離れの前に出しておいてください! じゃあ!」
大声でそう言い捨てるようにして、ばたばたと鈴仙さんは離れを出て行った。差し出した手をぶらぶらとさせて、「メリー、私何か怒らせるようなことした?」と蓮子は首を傾げる。私も彼女の態度の意味はよくわからないので、何とも答えようがない。
ともかく、味の薄い朝食をとる。――それはいいのだが、何しろ蓮子は目が見えないので、私が「はい、あーん」してあげるしかない。
「あーん。……ううん、要介護のおばあちゃんになった気分。メリー、お箸を私の鼻に突き刺したりしないでよ?」
「しないわよ。お吸い物いる?」
「いるー」
「気を付けてね」
私が手渡したお椀をおっかなびっくり受け取って。探るように口をつけて蓮子は啜る。
ちなみに妹紅さんは、「人が飯食ってるところ眺めてても仕方ないな」とどこかへぶらぶらと出かけていってしまった。妹紅さんは朝食はいいのだろうか。不老不死になってもお腹がすかなくなるわけでもないだろうに。というか彼女はいつまで私たちに付き合ってくれるつもりなのだろう。永琳さんたちを信用していないようだから、護衛のつもりなのかもしれないが。
「んー、美味しいけど全体的に味が薄いわねえ。病院食って感じ」
むぐむぐと筍の煮物を咀嚼しながら蓮子が言う。まあ、朝食だからこんなものなのかもしれない。これで昼に豪勢なものが出てきてもそれはそれで反応に困るが――。
「ああ、でも五十年後ぐらいにこうやって、メリーに介護してもらえるおばあちゃんになってるという未来予想図もそれはそれで」
「ちょっと、半世紀後も私は蓮子の面倒見なきゃいけないの?」
「つれないわねえ。私はメリーの足腰が立たなくなったら介護してあげるわよ?」
「蓮子に介護されたくはないわね。危なっかしくて」
そんなことを言い合いながら、――この場に妹紅さんがいなくて良かった、と私は内心で思う。本当に不老不死ならば、彼女はおばあちゃんになることさえ許されていないのだ――。
それから私は、相棒の顔を見やる。……この相棒との付き合いも、京都に住んでいた頃から数えてもう何年目だったか。
もし、私たちが京都で暮らし続けていたら、私たちの関係はどうなっていただろう。
大学生活は四年で終わる。院に進んだり、留年したりすれば何年かは延びるにしても、どこかの時点で私たちはモラトリアムに区切りを付けて社会に出なければならなかった。そうすればきっと、オカルトサークルとして深夜の探索に繰り出すことも、喫茶店で長っ尻して雑談に耽ることもなくなり、私も蓮子も凡庸な社会人として世間に埋もれていったのかもしれない。
だけど、私たちはこの世界に迷い込んでしまった。八〇年前の異世界に。
いつまでこの世界で暮らすことになるかは解らないけれど、慧音さんの寺子屋という仕事場と、道楽めいた探偵事務所を構えたことで、私たちはこの世界にいる限り、《秘封倶楽部》であることを継続する運命にあることがほぼ定まったと言える。
それはつまり、私と蓮子の離れられぬ腐れ縁が確定したということで――。
「ちょっとメリー、まだご飯残ってるでしょ?」
「え? あ、ああ。どれ?」
「煮物まだある?」
「はい、人参。あーん」
煮物の人参をつまんで相棒に差しだしながら、私はこっそり息を吐く。
全く、考えても詮無いことだけれど、だからといってこの世界で、相棒と離れて暮らす理由もないし、そうしたいとも思わない。
そう考えると、結局私は、この相棒に依存しっぱなしなのかもしれなかった。
ゆっくりした朝食を終える頃、離れの外が騒がしくなった。
無数の足音。それから、離れの戸を開く音。私たちが振り向くと、また見知らぬ顔がそこに佇んでいた。
「おおっ? 妙な匂いがすると思ったら人間とな?」
そう声をあげたのは、小柄な黒髪の少女である。薄紅色の半袖ワンピースを着て、その頭部には鈴仙さんのものとはまた少し違う、白い大きな兎の耳が生えていた。彼女も兎の妖怪か。赤い目をくりくりとさせて、少女は興味深げに私たちを見やる。
「お師匠様がここに人間を上げるたぁどういう風の吹き回しかね。てか病人?」
「入院患者ですわ。今目がちょっと見えないんだけど、貴方はどなた?」
蓮子がそう問うと、兎の少女は何かあくどい笑みを浮かべた。
「私かい? この私は地上のイナバ、幸運の素兎、因幡てゐ様であるぞ」
ふふん、と胸を張って少女は名乗る。鈴仙さんもイナバという名前を貰っていたようだけれど、幻想郷の兎はイナバという名を名乗る決まりでもあるのだろうか。
「あらら、ひょっとして因幡の素兎さん?」
蓮子がそう問うと、「お目が高いね。いかにも」と少女は頷く。因幡の素兎というと、ワニを騙してその背を踏んで海を渡ろうとし、嘘がばれて皮を剥かれたところを大国主に助けられた神話の兎ではないか。かぐや姫本人、月の民、月の兎ときて今度は日本神話の登場人物(登場兎?)とは、相変わらず幻想郷は歴史と伝説のオールスター博覧会である。
「病人とはいえこの屋敷の結界を超えて中に入るとはねえ。ゆうべの月といい、お師匠様は何を企んでるんだか……まあいいや。目が悪いんだって? ヤツメウナギを食べるといいよ」
「ヤツメウナギ?」
あの気持ち悪い生き物だっけ。蓮子の目の症状はそういう問題ではないのだが。
「長生きの秘訣は、日頃から健康に気を使うことさ。あとは運次第、そこはこの幸運の素兎の御利益にすがるがよいぞ。お賽銭はこちら」
どこからか小さな賽銭箱を取りだして、てゐさんは「にしし」と笑う。いまいち信用しかねる感じの笑みである。
「有難いお申し出だけど、生憎持ち合わせがなくて。ご免なさいね」
蓮子が言うと、「ちっ」とてゐさんは小さく舌打ちした。詐欺だったのか?
と、不意に彼女の背後から、ぴょこぴょこと飛び跳ねてくる兎――これは普通の兎の格好をしていた――が複数。兎たちはてゐさんの足元にまとわりつき、それから一斉にこちらを見やる。兎はかわいいけれど、大量に見つめられるとさすがにちょっと怖い。
兎たちがまたてゐさんを見上げて鼻をすんすんと鳴らした。同族(?)同士、コミュニケーションが成立しているらしく、てゐさんは「おう、そうだねえ」と頷いている。
「よし! 決定!」
と、てゐさんは突然びしっと私たちを指さした。私は目をしばたたかせ、目の見えない相棒はただ首を捻っている。
「せっかくの珍しい機会だし、今日はそこの人間ふたりと遊ぶよ!」
「は?」
喜んでいるのか、ぴょんぴょんとてゐさんの足元で兎が跳びはねる。
私は思わず蓮子の顔を見やる。蓮子はあらぬ方向に顔を向けて、「私、病人なんだけど」と呟いたが、てゐさんたちには全く聞こえていないようだった。
―10―
窓から差し込む朝日が瞼を貫いて、私は目を覚ました。
「ん、ぅ……」
見慣れぬ天井に目をしばたたかせて、――そうだ、ここは永遠亭だ、と思い出す。歪な月、倒れた蓮子、私たちの前に現れたかぐや姫とその従者、それから兎の少女。そして、彼女たちから聞かされたいくつかの秘密――。
「……蓮子?」
私は身を起こし、隣の布団を見やる。――相棒は変わらず、そこに横になっていた。その向こう側では、妹紅さんが私たちに背を向ける格好で横になっている。私は息を吐いて、蓮子の寝顔を覗きこんだ。アイマスクをつけた寝顔は穏やかで、昨晩の苦しんでいた様子は既にそこからは感じ取れない。
――と、不意に蓮子が身じろぎして、その右手が目元にかかった。無意識に、目を覆っているアイマスクを剥ぎ取ろうとしているらしい。私は思わず、その手を掴む。
「…………あれ?」
ぼんやりと、蓮子の唇がそう言葉を発した。ゆるゆると蓮子は首を動かし、それから私に掴まれた右手と、空いた左手をもぞもぞと動かす。
「蓮子」
「……メリー? あれ……いま、夜? 何も見えないんだけど……」
蓮子の左手が目元を探り、私は慌ててその手を掴んだ。
「駄目よ、蓮子」
「え? ……う、痛っ……頭痛い」
顔をしかめて蓮子は呻く。私は蓮子の手を握る手に力を込めた。
「蓮子、覚えてない? 貴方、ゆうべ倒れたのよ?」
「……え? ええと……ああ……そう、なんか、月が変で……それを見たら、急に目と頭が痛くなって……」
思考の焦点が定まらない、というようなぼんやりとした口調で、蓮子は言う。
「大変だったのよ。夕飯全部吐いちゃって、仕方ないから慧音さんが担いで、妹紅さんの知り合いのお医者さんのところに担ぎ込んだの。そこに泊めてもらったのよ。あと、今はその翌朝」
「……そうなの?」
「そうなの」
「じゃあ……目が見えないのは」
「ゆうべの後遺症。一週間ぐらい、そうやって目と頭を休めないとダメだって」
「え? 一週間?」
「一週間。お医者さんの言うことだから素直に守ること。今アイマスクつけてるけど、それ外しちゃダメよ。いいわね?」
「…………なにそれぇ」
がくりとその手から力が抜けて、布団に落ちる。ため息のように蓮子は大きく息を吐いた。ため息をつきたいのはこっちだ。全く――人がどれだけ心配したと思っているのか。
「うう、失明したんじゃないことを喜ぶべきなのかしら。でもなんでそんな……」
「はいはい、頭を使わない。目元も弄らない」
「ええー? ちょっとメリー、このプランク並の頭脳を持つ蓮子さんに考えることを止めろっていうのは呼吸するなっていうのと同じことよ? あとこのアイマスク気になるんだけど」
「なんでもいいけど、それがお医者さんの言うことなんだから従いなさいってば」
「むぅ……」
頬を膨らませ、それから蓮子の手が彷徨うように私の前で宙を泳いだ。
「何か探してるの?」
「ん」
私がそう問うと、蓮子は不意にその手をのばして、手探りに私の頬に触れる。
「あ、メリーみっけ」
「……ちょっと蓮子」
「んー……この柔らかさは紛れもなくメリーのほっぺたね。しかし、こうでもしないとメリーの存在を確かめられないって、人間がいかに視覚情報に依存してるか痛感するわ」
「ひょっほれんほ、やめへ」
むにむにとほっぺたを引っ張られて、私はその手に自分の手を重ねる。と、それを待ち構えていたように、ずい、と蓮子の顔が近付いてきた。ひくひくとその鼻が私の眼前で動く。
「犬みたいなことしない」
「だって視覚が使えない以上、他の五官を駆使してメリーを感じ取らなきゃ。んー」
「舌を出さない!」
思わずチョップした。「あ痛、頭を使うなって言っておいて頭を叩かないでよ」と抗議の声をあげながらも、蓮子は私の頬から首を伝って肩へと手を這わせるのをやめようとしない。くすぐったいからやめてほしいのだけど――。
「――メリー」
と、不意に蓮子が、私の胸にもたれかかってきた。
「蓮子?」
「……ん」
私の胸元に顔をこすりつけるようにして、蓮子は私にぎゅっとしがみつく。どうしたものか、と私は視線を彷徨わせて――それから、仕方なく蓮子の背中に腕を回した。
ああ――そうだ。蓮子だって不安なのだ。わけのわからぬままに、急に視覚を奪われて、暗闇の中に放り出されて……それで、必至に私の存在を確かめて、そこにすがりついてきたのだ。いつものおどけた口調で繕いながら。
そう思うとなんだかたまらなくなって、私は蓮子の背中に回した腕に力をこめた。
「大丈夫よ、蓮子。……私がここにいるから」
「メリー……」
「蓮子の目が見えるようになるまでは、私がついていてあげるから。私が、蓮子の目の代わりになってあげるから。蓮子はゆっくり養生して、私が早くその役目から解放されるようにして頂戴。ね?」
寝癖の立っていた蓮子の髪を梳くと、「んぅ……」とむずがるように蓮子は私の胸に強く顔をおしつけて、「メリー」と囁いた。
「なに?」
「メリーよね?」
「うん、私よ。疑ってるの?」
「だって見えないんだもの……だから、もっと強くメリーを感じさせて」
「え?」
そう言うと蓮子は、私の胸から顔を上げて、心もち唇を突き出すようにした。
私はその顔を見下ろして、しばし考え込む。ええと、この体勢はつまり――。
「メリー……んー」
「んー、じゃないわよ!」
咄嗟に再びチョップ。「あう」と額を押さえて、蓮子は呻く。
「ひどいわメリー、今はどう考えてもキスしてくれる雰囲気だったじゃない」
「どういう雰囲気よ!」
「突然の失明で弱った私、頼れる相棒の見せたいつもと違うか弱い姿に、メリーは気付くの。ああ、宇佐見蓮子はこんなにも自分にとってかけがえのない存在だったのだと――この気持ちが恋だったと。これぞ青春! 恋の芽生え!」
「勝手に人の気持ちを決めない! だいたいそれ、いつの時代の少女漫画よ」
チョップチョップチョップ。「痛い痛いメリーやめて」と頭を抱える蓮子に、私はため息。
「そのぐらい元気なら放っておいても大丈夫そうね、里に帰ろうかしら」
「ああっメリーそんなご無体なぁ。……っていうか、そういえばここ、どこなの? いや見えないから全然解らないんだけど……」
見えない目でそれでも周囲を確かめようとするように顔を巡らす蓮子。――と、その隣の布団で横になっていた妹紅さんが、ぼりぼりと頭を掻きながら起き上がった。
「……あー、愛の語らいは済んだか?」
「え、あ、も、妹紅さん、起きてたんですか……?」
私がそう問うと、妹紅さんは半眼で私たちを睨む。
「そりゃ、こんな近くでそう大騒ぎされちゃあな。出来ればそういうのは私のいないところでやってくれ、こっ恥ずかしくて見てられん」
妹紅さんの言葉に、私は赤面して身を縮こまらせる。これも全て蓮子のせいだ。
だが相棒は「ああ、妹紅さん」と安堵したようにその声のほうに顔を振り向ける。
――その瞬間、不意に妹紅さんが私の顔をちらりと見た。
私はその視線に気付いて、解っています、という意志をこめて頷いた。
―11―
話は昨晩に戻る。永琳さんから解放されて離れに戻った私を、妹紅さんが出迎えた。
妹紅さんが蓬莱人――不老不死の人間であるという情報を私が知ってしまったことは、私の表情から妹紅さんは敏感に察したらしい。私の顔を見るなり、彼女はどこか諦観の混じったような薄い笑みを浮かべた。
「私のことを、あの藪医者から聞いてきたって顔だな」
「…………」
「誤魔化さなくていい。どうせいずれは話さないといけなかったことだ」
ため息をついて、妹紅さんは畳の上にあぐらをかいた。私はその前に腰を下ろす。
「どこまで聞いてきた?」
「……妹紅さんは、かぐや姫の残した不死の薬を飲んでしまったのだと」
「ああ、そうだ。――私の父親は誰だと思う?」
「かぐや姫に求婚した五人の貴族のひとり……なんですよね?」
「ああ。昔話では、車持の皇子と呼ばれている奴だ。蓬莱の珠の枝の贋物を造ったはいいが、職人に報酬を出さなかったせいで赤っ恥を掻いた間抜けな男さ」
――藤原妹紅、という彼女の名前に、改めて思い至る。
ふじわらの、というのは、蓮子の〝宇佐見〟のような苗字とは違う、古代の本姓のことだということか。だとすれば、彼女は藤原氏――古代豪族の娘だったということになる。
「だが、当時の私はそんなことは知らなかった。ただ父が恥を掻かされたと聞いて、怒りに駆られてかぐや姫に復讐しに行ったんだ。だが――アイツはそれより先に月へ帰ってしまっていた。少なくとも私はそう聞いた。……それから」
と、そこで妹紅さんは言いにくそうに言葉を切り、首を横に振った。
「……それから色々あって、私はアイツが残していった不死の薬を飲んで、死ねない身体になってしまったのさ。あれから一三〇〇年、あちこちを放浪して、今はここにいるってわけだ」
妹紅さんが今言いよどんだ部分には、おそらく言いたくない事情があるのだろう。そこまで詮索する権利はもちろん私にありはしないから、ただ口を噤むしかない。
「半信半疑、って顔だな」
「……いえ、そんな」
「証拠を見せてやろうか」
皮肉げな笑みを浮かべて、妹紅さんはそう言った。
「証拠、って――」
「何かあるだろ……ううん、こんなもんしかないか」
立ち上がり、戸棚を開けて中を漁っていた妹紅さんは、そこから何かを取りだした。見ればその手には果物ナイフがある。――嫌な予感がした。
「妹紅さん、まさか――」
「不老不死ってのは、要するに、こういうことさ」
畳の上に左手を置き、果物ナイフを持った右手を振りかぶって――その切っ先が妹紅さんの左手の甲に吸い込まれる瞬間、私は思わず目を逸らした。
「見てるだけで痛いって気持ちは解るが、私だって痛いんだから見てくれよ」
苦笑混じりにそう言った妹紅さんの左手の傷は――数秒後には音もなく塞がって、最初からそこには傷などその痕跡すら見当たらなくなっていたことは、言うまでもない。
「この通り、私の身体はどんな傷を受けても元通り再生しちまう。首がもげようが、心臓を貫かれようが、バラバラにされようが、燃やし尽くされて灰になろうが、な」
「…………」
「もちろん、病気や老衰なんて論外だ。千年以上、いろいろ試してきたが、ひとつも成功しなかった。そりゃそうだな、成功してたら今ここにはいない」
笑って言われても、いったいどんな顔をすればいいのか。二十年程度しか生きていない人間の私には、そんな話を笑ってすることができるようになるまで、妹紅さんがどんな思いで千年以上生きてきたのかさえ、想像することも困難だった。
「恐ろしいか?」
「――――」
「正直に言ってくれていい。慣れてるからな」
どこまでも、その顔は笑ったままで、妹紅さんはそう言う。その笑みの裏には、果てしなく深い諦観が滲んでいるのだ。私には想像すべくもない、千年以上分の諦観が。
そんな過去の前に、ただの人間に言える言葉などあるはずもないのだけれど――、
「……去年、この幻想郷に迷い込んだとき、私たちは吸血鬼の館にいました」
「うん?」
「そこで、吸血鬼の姉妹や、魔法使いや、時間を操る人間と出会いました。吸血鬼の少女に気に入られてしまって、何時間も本を読み聞かせたこともあります。――今年の春先には、冥界で亡霊のお姫様と知り合いましたし、夏場には鬼と出逢いました」
「……顔が広いんだな」
「相棒が、無駄に好奇心旺盛なもので」
私は――つとめて笑って、布団で眠る蓮子の顔を見下ろした。
「まして、里での私たちの保護者からして半人半妖です。だから……不老不死の人間がいると言われても、この幻想郷なら、そのぐらい普通じゃないかと、私は思います」
その言葉に、妹紅さんは目をしばたたかせて。
「……普通、か。普通ねえ」
困ったように、またぼりぼりと頭を掻いた。
「普通、と言われるとは思わなかったな」
「――――」
「でも、満月の慧音の姿を見ても怖がらなかった、お前たちらしいな」
「妹紅さん……」
「――ありがとう、メリー」
目を伏せて、ぼそりとそう言い、それから妹紅さんは蓮子の顔を見下ろす。
「だけどな。蓮子には、自然に耳に入るまで黙っておいてくれないか」
「…………」
「こいつが怖がらないのは解ってるさ。でも、なんていうかな……もうちょっと、不老不死とか関係ないままで、蓮子と将棋指したりしていたいんだ」
「……解りました」
その希望に対しても、私に言えることは何もない。
妹紅さんがそう言うなら、私はそれに従うまでだった。
――で、話は現在に戻る。
「私のこと、妹紅さんが運んでくれたんですか?」
「物理的に運んだのは慧音だよ。私は道案内しただけだ。里に戻ったら慧音に礼を言っておけ」
「了解です。……で、ここは? 何も見えないので何が何だか……」
「あら、おはよう。目が覚めたようね」
がらり、と離れの玄関が開いて、八意永琳さんが顔を出した。反射的に声の方を振り向き、それから目が見えないことに気付いたように蓮子が首を傾げる。
「お医者様です?」
「そうよ。私は八意永琳、蓬莱山輝夜に仕える従者で薬師。今は貴方の主治医よ、宇佐見蓮子さん。――それからここは、私と姫が暮らす屋敷の離れ。永遠亭、とでも呼んで頂戴」
「これはどうもご丁寧に。ご迷惑をお掛けしてすみません、お世話になります」
ぺこりと頭を下げる蓮子に、永琳さんは頷いて、その前に屈み込む。
「じゃあ、目を診せてもらうわ。薬の副作用が出ていないかも確かめたいから」
蓮子のアイマスクを外し、その瞼を押し上げて、永琳さんは覗きこむ。蓮子の視力はやはり失われているらしく、アイマスクの下の目は焦点を結んでいない。
「問題なさそうね。薬で強制的に視神経を休ませてる状態だから、不便なのは我慢して頂戴」
「はあ。……あの、記憶がどうもはっきりしないんですが、私はなんでここに?」
こめかみのあたりを押さえて、蓮子はそう問いかける。永琳さんは少し眉を寄せて答えた。
「月の狂気にあてられたのよ」
「月の?」
「そう。月の光は狂気を孕んでいる。昨晩はそれが特に強かったの。貴方は少々、普通の人間よりも敏感な目を持っているようだから、その影響を受けすぎてしまったのよ」
「…………」
釈然としない顔で首を捻る蓮子。永琳さんはその肩をぽんぽんと叩いた。
「聞いてるでしょうけど、視力が戻るまで一週間はかかるわ。貴方が今するべきことは、目を休めて安静にしていること。見えるようになるまで、この離れを使っていていいわ。退屈でしょうけど、我慢して頂戴ね」
立ち上がり、永琳さんは私の方を振り返って、これでいい? と言いたげに首を傾げた。私は頷く。――彼女たちの企みについて、相棒には詳細を告げないでほしい、と永琳さんにお願いしたのは私だった。永琳さんと輝夜さんが、あの贋物の月を出すことで何かをしようとしている――そのことを蓮子が知れば、絶対に首を突っ込みたがるに決まっている。相棒の頭脳を休ませないといけないときに、それはあまり好ましくないことだ。
「マエリベリー・ハーンさん。薬は貴方に渡しておくわね。一日三回、食後に一錠」
「解りました」
渡されたのは瓶詰めの錠剤だった。もし科学世紀にこの薬を持っていって専門家に鑑定してもらったら、どんな結果が出るのだろう――と益体もないことを私は考える。
「食事はあとでウドンゲに持ってこさせるわ。あ、そこの貴方の分はないわよ」
「お前らのメシなんざ頼まれても食わないっての。何が入ってる解ったもんじゃない」
ふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向く妹紅さん。「入院患者の前で人聞きの悪いことを言わないでほしいわね」と永琳さんは肩を竦め、「それじゃあ」と踵を返す。
「あ、そうそう。――あとでイナバたちが来るから、暇なら遊んであげて」
そう言い残して離れを出ていく永琳さん。蓮子は妹紅さんを振り向き、「何かあったんですか?」と問う。「……ここの連中とはそりが合わないだけだ。気にするな」と妹紅さんは頭を掻いた。
―12―
少しして、鈴仙さんがお膳を持って来た。「朝食です」とぶっきらぼうに言って、私と蓮子の分のお膳を畳の上に置く。ご飯と吸い物、筍と人参の煮物と何かのおひたしだった。病院食らしいと言えばらしいメニューだが、動物性タンパク質が無さ過ぎではないだろうか。
「さっきのお医者様とは別のひとね。看護師さん? 私は宇佐見蓮子、お世話になりますわ」
声で別人と判断したらしく、蓮子はそう言ってぺこりと一礼する。
鈴仙さんは口を尖らせたまま何も答えない。と、蓮子が握手を求めるようにその右手を差し出す。――次の瞬間、鈴仙さんはびくりと身を竦め、弾かれたように立ち上がった。
「しょ、食器は、離れの前に出しておいてください! じゃあ!」
大声でそう言い捨てるようにして、ばたばたと鈴仙さんは離れを出て行った。差し出した手をぶらぶらとさせて、「メリー、私何か怒らせるようなことした?」と蓮子は首を傾げる。私も彼女の態度の意味はよくわからないので、何とも答えようがない。
ともかく、味の薄い朝食をとる。――それはいいのだが、何しろ蓮子は目が見えないので、私が「はい、あーん」してあげるしかない。
「あーん。……ううん、要介護のおばあちゃんになった気分。メリー、お箸を私の鼻に突き刺したりしないでよ?」
「しないわよ。お吸い物いる?」
「いるー」
「気を付けてね」
私が手渡したお椀をおっかなびっくり受け取って。探るように口をつけて蓮子は啜る。
ちなみに妹紅さんは、「人が飯食ってるところ眺めてても仕方ないな」とどこかへぶらぶらと出かけていってしまった。妹紅さんは朝食はいいのだろうか。不老不死になってもお腹がすかなくなるわけでもないだろうに。というか彼女はいつまで私たちに付き合ってくれるつもりなのだろう。永琳さんたちを信用していないようだから、護衛のつもりなのかもしれないが。
「んー、美味しいけど全体的に味が薄いわねえ。病院食って感じ」
むぐむぐと筍の煮物を咀嚼しながら蓮子が言う。まあ、朝食だからこんなものなのかもしれない。これで昼に豪勢なものが出てきてもそれはそれで反応に困るが――。
「ああ、でも五十年後ぐらいにこうやって、メリーに介護してもらえるおばあちゃんになってるという未来予想図もそれはそれで」
「ちょっと、半世紀後も私は蓮子の面倒見なきゃいけないの?」
「つれないわねえ。私はメリーの足腰が立たなくなったら介護してあげるわよ?」
「蓮子に介護されたくはないわね。危なっかしくて」
そんなことを言い合いながら、――この場に妹紅さんがいなくて良かった、と私は内心で思う。本当に不老不死ならば、彼女はおばあちゃんになることさえ許されていないのだ――。
それから私は、相棒の顔を見やる。……この相棒との付き合いも、京都に住んでいた頃から数えてもう何年目だったか。
もし、私たちが京都で暮らし続けていたら、私たちの関係はどうなっていただろう。
大学生活は四年で終わる。院に進んだり、留年したりすれば何年かは延びるにしても、どこかの時点で私たちはモラトリアムに区切りを付けて社会に出なければならなかった。そうすればきっと、オカルトサークルとして深夜の探索に繰り出すことも、喫茶店で長っ尻して雑談に耽ることもなくなり、私も蓮子も凡庸な社会人として世間に埋もれていったのかもしれない。
だけど、私たちはこの世界に迷い込んでしまった。八〇年前の異世界に。
いつまでこの世界で暮らすことになるかは解らないけれど、慧音さんの寺子屋という仕事場と、道楽めいた探偵事務所を構えたことで、私たちはこの世界にいる限り、《秘封倶楽部》であることを継続する運命にあることがほぼ定まったと言える。
それはつまり、私と蓮子の離れられぬ腐れ縁が確定したということで――。
「ちょっとメリー、まだご飯残ってるでしょ?」
「え? あ、ああ。どれ?」
「煮物まだある?」
「はい、人参。あーん」
煮物の人参をつまんで相棒に差しだしながら、私はこっそり息を吐く。
全く、考えても詮無いことだけれど、だからといってこの世界で、相棒と離れて暮らす理由もないし、そうしたいとも思わない。
そう考えると、結局私は、この相棒に依存しっぱなしなのかもしれなかった。
ゆっくりした朝食を終える頃、離れの外が騒がしくなった。
無数の足音。それから、離れの戸を開く音。私たちが振り向くと、また見知らぬ顔がそこに佇んでいた。
「おおっ? 妙な匂いがすると思ったら人間とな?」
そう声をあげたのは、小柄な黒髪の少女である。薄紅色の半袖ワンピースを着て、その頭部には鈴仙さんのものとはまた少し違う、白い大きな兎の耳が生えていた。彼女も兎の妖怪か。赤い目をくりくりとさせて、少女は興味深げに私たちを見やる。
「お師匠様がここに人間を上げるたぁどういう風の吹き回しかね。てか病人?」
「入院患者ですわ。今目がちょっと見えないんだけど、貴方はどなた?」
蓮子がそう問うと、兎の少女は何かあくどい笑みを浮かべた。
「私かい? この私は地上のイナバ、幸運の素兎、因幡てゐ様であるぞ」
ふふん、と胸を張って少女は名乗る。鈴仙さんもイナバという名前を貰っていたようだけれど、幻想郷の兎はイナバという名を名乗る決まりでもあるのだろうか。
「あらら、ひょっとして因幡の素兎さん?」
蓮子がそう問うと、「お目が高いね。いかにも」と少女は頷く。因幡の素兎というと、ワニを騙してその背を踏んで海を渡ろうとし、嘘がばれて皮を剥かれたところを大国主に助けられた神話の兎ではないか。かぐや姫本人、月の民、月の兎ときて今度は日本神話の登場人物(登場兎?)とは、相変わらず幻想郷は歴史と伝説のオールスター博覧会である。
「病人とはいえこの屋敷の結界を超えて中に入るとはねえ。ゆうべの月といい、お師匠様は何を企んでるんだか……まあいいや。目が悪いんだって? ヤツメウナギを食べるといいよ」
「ヤツメウナギ?」
あの気持ち悪い生き物だっけ。蓮子の目の症状はそういう問題ではないのだが。
「長生きの秘訣は、日頃から健康に気を使うことさ。あとは運次第、そこはこの幸運の素兎の御利益にすがるがよいぞ。お賽銭はこちら」
どこからか小さな賽銭箱を取りだして、てゐさんは「にしし」と笑う。いまいち信用しかねる感じの笑みである。
「有難いお申し出だけど、生憎持ち合わせがなくて。ご免なさいね」
蓮子が言うと、「ちっ」とてゐさんは小さく舌打ちした。詐欺だったのか?
と、不意に彼女の背後から、ぴょこぴょこと飛び跳ねてくる兎――これは普通の兎の格好をしていた――が複数。兎たちはてゐさんの足元にまとわりつき、それから一斉にこちらを見やる。兎はかわいいけれど、大量に見つめられるとさすがにちょっと怖い。
兎たちがまたてゐさんを見上げて鼻をすんすんと鳴らした。同族(?)同士、コミュニケーションが成立しているらしく、てゐさんは「おう、そうだねえ」と頷いている。
「よし! 決定!」
と、てゐさんは突然びしっと私たちを指さした。私は目をしばたたかせ、目の見えない相棒はただ首を捻っている。
「せっかくの珍しい機会だし、今日はそこの人間ふたりと遊ぶよ!」
「は?」
喜んでいるのか、ぴょんぴょんとてゐさんの足元で兎が跳びはねる。
私は思わず蓮子の顔を見やる。蓮子はあらぬ方向に顔を向けて、「私、病人なんだけど」と呟いたが、てゐさんたちには全く聞こえていないようだった。
第4章 永夜抄編 一覧
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離れ離れになる未来なんて想像したくないけど、現実ではどうしてもその時が来てしまう。それを仕方ないことと受け入れるのか。それとも心の隙間を恐れて何とかしようとするのか。
メリーの蓮子への想いを強く感じました。
兎の遊びって何だろう。次回も楽しみにしております。
今回の二人のイチャイチャ振りは
目を覆いたくなりますな(/ω\*;)アウ…
次回も楽しみにしてます(・∀・)!
少し気弱になってる蓮子もいいものですね~w
傍で聞いてたら妹紅の気持ちにも共感できますねw
誤字報告
必至→必死 五官→五感(こっちは誤字じゃない?)
咲夜とか霊夢、魔理沙あたりを除くとみんな年取らないか年取りにくいかのどちらかだからなぁ…
秘封倶楽部のコッコ達の気持ちが分かった気がする。
ちゅっちゅ……蓮メリちゅっちゅ……ちゅっちゅ!!ちゅっちゅ!!!!
I’m not quite sure how to say this; you made it exrltmeey easy for me!
誤字報告
何が入ってる解ったもんじゃない→入ってるか