世界のをのこ、貴なるも卑しきも、いかでこのかぐや姫を得てしがな、見てしがなと、音に聞きめでて惑ふ。……
その中になほ言ひけるは、色好みと言はるる限り五人、思ひやむ時なく夜昼来ける。その名ども、石作の皇子・庫持の皇子・右大臣阿部のみむらじ・大納言大伴の御行・中納言石上のまろたり、この人々なりけり。
―7―
この幻想郷という世界は、認識することが何よりも力をもつ世界と推定される。
外の世界において存在を否定された妖怪や、信仰を失った神様が流れ着くこの世界では、認識されることによって存在が成立する。故に妖怪は人間に畏れられなければ存在を維持できない。神様も信仰されなければ存在できないのだろう。
その前提から、我が相棒が導きだした仮説がある。即ち、「この世界では虚構や通俗的イメージこそが真実たり得る」――ということだ。
端的に言えば、狐は油揚げが好きだし、まだ会ったことはないが鼠の妖怪はおそらくチーズが好きだろう。平将門は藤原純友と共謀していたし、西行法師は人造人間を造るのだ。外の世界では事実に反するとされた俗説、通俗的イメージ。認識が物理的な力を持つこの世界では、それらこそが逆に現実、事実たり得るわけである。
とすれば、物語の登場人物が現実に存在していても、確かに何らおかしくはない。幻想郷においては、竹取物語は史実なのだ。しかし――。
「……かぐや姫は月に帰ったんじゃ?」
「まあ、色々あってね。月に帰らず、ここで暮らしてるの。かれこれ千年以上になるかしら」
私の問いに答えて、輝夜さんは妹紅さんを見やる。妹紅さんは憮然とした顔で黙りこくっていた。輝夜さんの顔に、どこか酷薄な笑みが浮かぶ。そのぞっとするような美しさに、私は身震いした。彼女がかぐや姫本人だというなら、この美貌も納得するしかないのだが――。
「まさか、私の置き土産を飲んでしまった人間がいたなんてねえ」
「黙れ」
「いい加減、逆恨みもやめてほしいものだわ」
「黙れと言ってる!」
轟、と妹紅さんの腕が炎に包まれた。熱い。というか木造建築の中で火をおこさないでほしい。火事になってしまう。私は慌てて水の入った桶を手に取る。妹紅さんにその水をぶっかけるべきか躊躇していると、我に返ったように妹紅さんは炎を引っ込めてくれた。だがその表情は、見たこともないほどに憎々しげに歪んでいる。
「おお、怖い怖い。そこの貴方、もこたんには気を付けた方がいいわよ。死ぬことを何とも思っていないような人間なんだから」
「……誰のせいだと思ってやがる」
「あれを飲んだのはもこたんの勝手でしょう?」
「お前らがあんなものを残さなければ――」
「だからそれが逆恨みだと言ってるのよ、もこたんってば、物わかりが悪いわねえ」
「――――ッ、私をからかいに来ただけなら屋敷に戻れ! こっちは病人がいるんだ。それもお前らのせいでのな。それとも蓮子をこんな風にした責任でも取りに来たのか」
「永琳から聞いたけど、それは不幸な事故よ。そんな人間がいるなんて、永琳ですら予想していなかったんだもの」
「……あの月がお前らの仕業だってことは認めるわけだ」
妹紅さんの言葉に、輝夜さんは目を細めて「ええ、そうね」とあっさりと頷いた。
「別に貴方たちに隠し立てすることでもないし。あの月を出したのは永琳よ」
「何を企んでいる?」
「人を悪の権化みたいに言わないでほしいわ。私たちにだって事情があるのよ」
「よほどご大層な事情なようだな」
「それはもう、一大事なのよ。私たちにとってはね。聞きたい?」
大げさに手を広げて言う輝夜さんに、妹紅さんは舌打ちする。
「お前らの事情には興味はない」
「なら聞かないでほしいわ」
「どうせまた地上の人間を弄んで楽しんでるだけだろう、傲慢な月の民め」
「あらあら、もこたんにだけは言われたくないわねえ。あれを飲んでなお、まだ自分が人間だって言い張ってる方がよほど傲慢ではないのかしら?」
「――――殺すぞ」
「殺せるものならどうぞ。でも、貴方が先に殺したいのは自分ではないの? もこたん」
あまりに殺伐とした雰囲気に、私は蓮子を庇うようにしながら身を竦めるしかない。
喧嘩ならせめて、蓮子や私のいないところでやってもらいたいものである。
「輝夜、そのあたりにしておきなさい」
「あら、永琳」
と、そこへまた永琳さんが姿を現した。永琳さんは眉を寄せて、輝夜さんの手を引く。
「貴方はこんなところに長くいてはいけないわ」
「ええー。いいじゃない、ちょっとぐらい」
「何のために私がこの屋敷に結界を張っていると思っているの。屋敷に戻って頂戴」
「……はーい。永琳は過保護なんだから。どうせ死なないのに」
ふて腐れた顔で、輝夜さんは踵を返す。その後ろ姿を、永琳さんは何かひどく複雑そうな顔で見送って、それから私たちに向き直った。
「うちの姫様が失礼したわ」
「――もう少し、あいつを躾けておいたらどうだ」
「それは、貴方に口出しされることではないわね。――ところで、そこの貴方」
と、永琳さんは不意に私の方を向いて言った。私は思わず目をしばたたかせる。
「わ、私ですか?」
「そうよ。ちょっと聞きたいことがあるから、おいでなさい」
「え……でも」
私は蓮子を見やる。静かに寝息をたてている蓮子に対し、確かにここにいても私にできることはほとんどないだろう。だが、放っておくわけにも――。
「そこの病人は、そっちに任せておけばいいから」
「……メリーをどうする気だ」
「心配しなくても、とって食いはしないわ。丁重に扱うから安心して頂戴」
睨む妹紅さんに、永琳さんは素っ気なくそう言って、「ほら」と私を促す。
どうやら私が断るという可能性は全く考慮に入れていないらしい。私はため息をついて立ち上がった。お世話になっている立場であるし、医師として相棒への問診を私に代行しろということかもしれない。まあ、とって食われることはないだろう。たぶん。
「気を付けろよ。蓮子のことは任せておけ」
私を見上げて心配そうに言う妹紅さんに、私は頷いて歩き出した。
―8―
案内された先は玄関ではなく、庭先の縁側だった。
「こんなところでごめんなさいね。屋敷の中に外の人間を上げるわけにはいかなくて」
「はあ……」
縁側に腰を下ろし、永琳さんはその隣を叩く。私がその隣に腰を下ろすと、永琳さんはすっと顔を近づけて、私の目を覗きこんだ。瞼を指で押し広げられて、私は小さく呻く。
「貴方、魔法や仙術、あるいは巫女の心得は?」
「……特にありません。普通の人間です」
「何の心得もなく、結界を肉眼で目視できる人間を、地上では普通と言うのかしら?」
「――――」
「とすると、純粋な境界視の能力ね。貴方、私の被検体にならない?」
「え? い、いや、被検体って――」
「眼球と脳を摘出させてもらえればベストなんだけど」
「お、おおお、お断りします!」
「冗談よ」
心臓に悪すぎる。真顔で言わないでほしい。
「倒れた貴方のお友達は、月と星から位置と時刻を演算できるのだったわね」
「――は、はい。月を見ると今いる場所が解って、星を見ると今の時刻が解ると、蓮子は言ってますけど」
普通は逆ではないかと思うのだが、相棒はそう言い張っている。まあ、要するに天測航法の暗算ということだろう。それ自体、かなり常人離れした能力であるのは確かだが――。
「お名前は?」
「ま、マエリベリー・ハーンです」
「お友達の方よ」
「……宇佐見蓮子です」
「うさみ? どんな字を書くの」
「宇佐神宮を見る、の宇佐見……宇宙の宇に、人偏の左です」
この幻想郷ではひょっとしたら宇佐神宮が通じないかと言い直してみたが、はたして必要だったのか。永琳さんは何か難しい顔で唸った。
「まさか……ね」
「え?」
「何でもないわ。お友達には、今後もあまり月を見ないようにと伝えておきなさい。月の狂気に対して彼女の目は無防備に過ぎるわ。もちろん貴方もね」
「はあ……」
勝手に自己完結したり、説明抜きで話を進めないでほしい。蓮子が倒れて以降、私は完全に展開から置いてけぼりである。何が何やら――。
説明してくれないなら、こちらから訊ねるしかないか。私は意を決して口を開く。
「あの……貴方たちは何者なんですか? どうして妹紅さんと敵対を……?」
「あら、何も聞いていないの?」
私は頷き、それから「あの、彼女はかぐや姫……?」と付け加えると、永琳さんは頷いた。
「姫のことが、外ではそういう風に言い伝えられているそうね」
ではやはり、輝夜さんはかぐや姫本人なのか。
「そして私は、姫――蓬莱山輝夜に仕える従者、八意永琳よ。本当の名前は地上の人間には発音できないから、永琳でいいわ」
「……じゃあ、貴方もかぐや姫と同じく、月から……?」
「そうよ。月からかぐや姫を迎えに来た使者のひとり。言い伝えではそのまま帰ったことになっているそうだけど、実際はそのまま帰らずにここに隠れ住んでいたの。事情があってね」
その事情には、触れられたくなさそうな口ぶりだった。かぐや姫を月に連れ戻しに来たはずの月の使者が、かぐや姫とともに幻想郷に隠れ住んでいる……その事情とは、いったい何だろう。かぐや姫は確か、月で罪を犯して地上に落とされたのだったか……。
想像する代わりに、もうひとつ訊ねたいことがあった。妹紅さんのことだ。
「妹紅さんは……?」
「ああ――彼女は姫の遊び相手。退屈しのぎのね」
いや、あんな険悪な遊び相手は見たことがない。
「輝夜さんに求婚した貴族の娘だって、輝夜さんが……」
確かに輝夜さんはそう言っていたが、おかしな話だ。かぐや姫が実在したとして、その時代は今から千年以上――千三百年近く前の話のはずである。妹紅さんが人間なら、そんなに永く生きているはずがない。慧音さんは確かに妹紅さんを人間と言っていたはずだが――。
「そのようね」
だがあっさりと、永琳さんは私の言葉を肯定した。
「何を不思議そうな顔をしているの? ――貴方、ひょっとして、彼女が蓬莱人であることも知らなかったの?」
「蓬莱人?」
「かぐや姫の言い伝えにあるでしょう。かぐや姫が去り際に残していった不死の薬」
私は目を見開く。――確かに、竹取物語のラストで、月に帰る間際にかぐや姫は帝に対して不死の薬を残していく。帝はかぐや姫がいないのに不死になっても仕方ないと、それを山で燃やしてしまい、その煙が今も上がっているから〝ふじのやま〟――富士山と呼ばれているのだ、というのが竹取物語のオチだったはずだ。
――と、いうことは。
「あれは私が作った薬なんだけど、彼女はどうやら、それを飲んだらしいわね」
「……つまり、妹紅さんは……不老不死?」
「そうね、人間の語彙に直せば、そういうことになるでしょう。もちろん、私と輝夜もね」
私はただ、ぽかんと口を開けているしかなかった。
―9―
伊達に永く生きてない――と、妹紅さんはついうっかり漏らしたように口にした。
それはつまり、そのことだったのか。かぐや姫の残していった不死の薬を飲んで、不老不死の身であること――。そう考えると、妹紅さんが里ではなく、竹林のあばら屋に暮らしている理由も解った。不老不死ということは、永遠に姿形が変わらないままでいるということ。永くても百年ほどの寿命しか持たない人間のコミュニティの中で、不老不死の存在が人間として生きていくことはできないだろう。この幻想郷において、人間でないということは、妖怪であるということだ。だから妹紅さんは人目を避けるように竹林で暮らし、妖怪の血が混ざっている慧音さんはそんな妹紅さんの面倒を見ている――。
ふっと、私の脳裏に、蓮子の言葉が甦ってきた。
――月にも忘れられた世界が隠されているはずよ。高度な文明を持ち、高貴な人が住む月の都。兎が不老不死の薬を搗き、太陽に棲む三本足の鳥を眺めながら、月面ツアーで騒ぐ人間を憂えているのよ。……
いつだったか、まだ科学世紀の京都にいた頃、相棒とそんな話をしたことを思い出す。民間月面ツアーに行きたいけどお金がない、という話だったはずだ。
確かそのとき、相棒は不老不死の薬の話をしたはずだ。
――じゃ、不老不死の薬が手に入ったら、蓮子は使うの?
――不老不死の薬? 勿論、使うわよ。
相棒がそう答えたことを覚えているけれど――あくまでそれは、議論のための議論であったはずだ。相棒は不老不死の薬は実在すると言っていたけれど、果たしてどこまで本気だったのかは定かでない。
もし相棒が、妹紅さんのことを聞いたら――不老不死の薬を飲むと言っていた蓮子は、妹紅さんに対してなんと言うのだろう?
私がそんなことに考えを巡らせていると、永琳さんは不思議そうに首を傾げた。
「そんなに驚くようなことかしら? 地上にも人間から見れば不老不死に近いような妖怪がいくらでもいるでしょうに。まあ、その程度も私の歴史で割ればゼロの近似値だけれど」
「ゼロの近似値って……」
思わず意識が永琳さんに引き戻される。彼女はいったい何歳だというのだ。
「それはともかく。貴方のお友達の件はもういいとして」
「い、いいんですか?」
「薬は明日の朝渡すわ。一週間分ね。それを飲ませて安静にさせること、私からは以上よ。それよりも――今は貴方の方に興味があるわね」
ずい、と永琳さんは私の顔を覗きこむ。いや、私の目を――だ。
境界を、結界を、世界の裂け目を見つけてしまう、私のこの目を。
「貴方は、結界が視えるだけ? それとも、結界に干渉することもできるのかしら?」
「え、ええと……」
自分では視るだけのつもりではあるが、干渉してしまったような覚えもいろいろなくはない。紅魔館でフランドール嬢の封じられた部屋を開けてしまったこととか、そもそもこの世界に迷い込んだことだって、広義の結界干渉のような。
「……か、干渉できるとしたら、何なんですか?」
「彼女の治療代として、貴方に協力してもらいたいのよ」
私は、ただ目をしばたたかせた。
「なぜ私たちがあの贋物の月を出したのか、そこから説明した方がいいかしら」
永琳さんに半ば拉致されるような格好で、私は屋敷の門から外へと出ていた。私の目には、屋敷の周囲に張り巡らされた結界が視えている。普段、神社仏閣などで目にするものよりも遥かに強い結界だ。物理的に認識を歪めるのだから相当なものである。
「私と輝夜はある事情から月に帰らず、この屋敷に隠れていたの。千年以上もね。この結界は、月からの追っ手の目から逃れるためのもの。この千年以上、この永遠亭にやってくるのはせいぜい、竹林に暮らす兎たちぐらいのものだったわ」
「はあ」
「ところが少し前、月から一匹の兎が逃げてきて、何の因果かこの屋敷に転がり込んだ。すわ追っ手かと思ったら、聞けば脱走兵で、人間が月に攻めてきたというのよ。脱走者なら同じ追われる身、私たちはその子をここに匿うことにした」
「……ひょっとして、あの子ですか?」
「そう、ウドンゲのことよ。鈴仙・優曇華院・イナバという名前をつけて、ペット兼助手として暮らさせることにしたの」
「随分、長い名前ですね」
「あら、変? 地上の普通の名前をつけようと思ったのだけれど」
いや、普通ではないと思う。そもそも優曇華って、三千年に一度咲くという伝説の花の名前ではなかったっけか。月から来た人の感覚がズレているのは当然のことだろうが。
しかし、人間が月に攻めてきた、って。前世紀のSFでもあるまいに――いや。
「その、あの兎さんがここに転がり込んできたのって、何年ぐらい前ですか?」
「外の暦で、三、四十年前ね。外の人間もいつの間にか月に攻め入るほどの力と知恵と傲慢さを蓄えていたとは、驚いたわ」
三、四十年前? というと――今は外の世界の暦で二〇〇四年頃のはずだから……ひょっとして、一九六九年のアポロの月面着陸のことか。あのとき、月に文明が発見されたなんてことはなかったはずだが――いや、幻想郷の歴史と科学世紀の私たちの知る歴史を混同してはいけない。何しろ、かぐや姫が実在する世界なのだ。
私がそんなことを考えている間にも、永琳さんの話は続く。
「ところが、つい先日、ウドンゲの元に月から連絡が入ったのよ」
「連絡?」
「月から、使者がウドンゲを迎えに来るというのね。私と輝夜は月に帰れないし、ウドンゲを帰したら私たちの居場所が月に知られてしまう。だから、ウドンゲを月に帰さず、月の使者もここに来られないようにすることにしたの」
「……あの贋物の月は、そのために?」
「そうよ。あの月が本物の月と地上の間を塞いでいる限り、月と地上の間に通路は開かない。それでやり過ごせれば、それに越したことはないのだけれど、念には念を入れて、もう一段階の結界を張っておこうと思うの」
話は見えてきたが、しかしそれに対して私に何ができるというのだろう。結界は視えるけれど、私は自力で結界を張れるわけではないのだ。
訝しむ私に構わず、永琳さんは屋敷の周囲に張り巡らされた結界に触れる。
「この結界、貴方の目には視えるのね?」
「あ、はい……」
「やはり、貴方の目はウドンゲのものに近いようね。波長や位相の変化を検知する目ということかしら。なるほど――少し、実験に付き合ってもらうわ」
永琳さんは微笑んで、結界から手を放す。
「ウドンゲ、聞こえているでしょう。おいでなさい」
「は、はい!」
塀の向こうから返事があり、塀を跳び越えてきたのは、例のウサミミ少女だ。長い名前だったが、鈴仙さんというのだったか。彼女は怯えた様子で永琳さんを見上げる。
「お師匠様、あの、また実験ですか……?」
「大丈夫よ、薬を飲ませるわけじゃないわ」
露骨にほっと息を吐く鈴仙さん。普段から人体(兎体?)実験でもされているのか。
「ウドンゲ、ちょっと位相を変えて隠れてごらんなさい」
「は? 今ここで、ですか?」
「そうよ。ほら早く」
「は、はい」
釈然としない顔をしながらも頷いた鈴仙さんは、不意にその赤い瞳を輝かせた。――次の瞬間、私の目の前の光景がずれる。私は思わず目を押さえた。世界がずれ、その隙間に鈴仙さんの姿が隠れる。不可視の結界の裏側に身を潜めるように――。
「さて、貴方。ウドンゲがどこにいるかわかるかしら?」
永琳さんに言われ、私は眉を寄せた。――ああ、そうか。この世界のずれを、普通は感じ取れないのだ。私の目は、それに気付いてしまう。世界が一部、ずれてしまっていることを。
「――そこですよね?」
私は、目の前の光景がずれている箇所を指さす。そのずれがどのようなものかは非常に言語化しにくいが、とにかく違うのだ。その空間だけ、背景と同じ映像を流したビジョンを立てかけているような――パッと見では同化しているけれど、物体としてのビジョンの作る存在しないはずの影、それが作るビジョンと背景の境界を、私の目は見つける。
――そしてその影から、鈴仙さんが訝しげな顔で姿を現す。
「嘘、なんで? ただの人間に見つかるはずが――」
「この子がただの人間ではないということよ。マエリベリー・ハーンだったわね、合格よ」
「……はあ」
受験した覚えはないのだが。私に構わず、永琳さんは鈴仙さんを振り返る。
「ウドンゲ、結界の範囲を広げるわ。手伝って頂戴」
「ええ? 屋敷が見えるようになっちゃいますよ」
「月の連中に見つからない方が優先よ。穢れに対する防御が薄くなるけど、やむを得ないわ」
「……解りました」
頷く鈴仙さん。永琳さんは私の方を振り返り、「貴方はもう戻っていいわ」と言った。
「ただし、あの患者が目覚めたら帰ってもいい、という前言は撤回するわ」
「え?」
「彼女は入院。貴方はその付き添いとして、永遠亭に残ってもらうわよ」
「――――」
「怯えなくてもいいわ。人体実験はしないから」
有無を言わさぬその言葉に、私は「……解りました」と答えるしかなかった。
その中になほ言ひけるは、色好みと言はるる限り五人、思ひやむ時なく夜昼来ける。その名ども、石作の皇子・庫持の皇子・右大臣阿部のみむらじ・大納言大伴の御行・中納言石上のまろたり、この人々なりけり。
―7―
この幻想郷という世界は、認識することが何よりも力をもつ世界と推定される。
外の世界において存在を否定された妖怪や、信仰を失った神様が流れ着くこの世界では、認識されることによって存在が成立する。故に妖怪は人間に畏れられなければ存在を維持できない。神様も信仰されなければ存在できないのだろう。
その前提から、我が相棒が導きだした仮説がある。即ち、「この世界では虚構や通俗的イメージこそが真実たり得る」――ということだ。
端的に言えば、狐は油揚げが好きだし、まだ会ったことはないが鼠の妖怪はおそらくチーズが好きだろう。平将門は藤原純友と共謀していたし、西行法師は人造人間を造るのだ。外の世界では事実に反するとされた俗説、通俗的イメージ。認識が物理的な力を持つこの世界では、それらこそが逆に現実、事実たり得るわけである。
とすれば、物語の登場人物が現実に存在していても、確かに何らおかしくはない。幻想郷においては、竹取物語は史実なのだ。しかし――。
「……かぐや姫は月に帰ったんじゃ?」
「まあ、色々あってね。月に帰らず、ここで暮らしてるの。かれこれ千年以上になるかしら」
私の問いに答えて、輝夜さんは妹紅さんを見やる。妹紅さんは憮然とした顔で黙りこくっていた。輝夜さんの顔に、どこか酷薄な笑みが浮かぶ。そのぞっとするような美しさに、私は身震いした。彼女がかぐや姫本人だというなら、この美貌も納得するしかないのだが――。
「まさか、私の置き土産を飲んでしまった人間がいたなんてねえ」
「黙れ」
「いい加減、逆恨みもやめてほしいものだわ」
「黙れと言ってる!」
轟、と妹紅さんの腕が炎に包まれた。熱い。というか木造建築の中で火をおこさないでほしい。火事になってしまう。私は慌てて水の入った桶を手に取る。妹紅さんにその水をぶっかけるべきか躊躇していると、我に返ったように妹紅さんは炎を引っ込めてくれた。だがその表情は、見たこともないほどに憎々しげに歪んでいる。
「おお、怖い怖い。そこの貴方、もこたんには気を付けた方がいいわよ。死ぬことを何とも思っていないような人間なんだから」
「……誰のせいだと思ってやがる」
「あれを飲んだのはもこたんの勝手でしょう?」
「お前らがあんなものを残さなければ――」
「だからそれが逆恨みだと言ってるのよ、もこたんってば、物わかりが悪いわねえ」
「――――ッ、私をからかいに来ただけなら屋敷に戻れ! こっちは病人がいるんだ。それもお前らのせいでのな。それとも蓮子をこんな風にした責任でも取りに来たのか」
「永琳から聞いたけど、それは不幸な事故よ。そんな人間がいるなんて、永琳ですら予想していなかったんだもの」
「……あの月がお前らの仕業だってことは認めるわけだ」
妹紅さんの言葉に、輝夜さんは目を細めて「ええ、そうね」とあっさりと頷いた。
「別に貴方たちに隠し立てすることでもないし。あの月を出したのは永琳よ」
「何を企んでいる?」
「人を悪の権化みたいに言わないでほしいわ。私たちにだって事情があるのよ」
「よほどご大層な事情なようだな」
「それはもう、一大事なのよ。私たちにとってはね。聞きたい?」
大げさに手を広げて言う輝夜さんに、妹紅さんは舌打ちする。
「お前らの事情には興味はない」
「なら聞かないでほしいわ」
「どうせまた地上の人間を弄んで楽しんでるだけだろう、傲慢な月の民め」
「あらあら、もこたんにだけは言われたくないわねえ。あれを飲んでなお、まだ自分が人間だって言い張ってる方がよほど傲慢ではないのかしら?」
「――――殺すぞ」
「殺せるものならどうぞ。でも、貴方が先に殺したいのは自分ではないの? もこたん」
あまりに殺伐とした雰囲気に、私は蓮子を庇うようにしながら身を竦めるしかない。
喧嘩ならせめて、蓮子や私のいないところでやってもらいたいものである。
「輝夜、そのあたりにしておきなさい」
「あら、永琳」
と、そこへまた永琳さんが姿を現した。永琳さんは眉を寄せて、輝夜さんの手を引く。
「貴方はこんなところに長くいてはいけないわ」
「ええー。いいじゃない、ちょっとぐらい」
「何のために私がこの屋敷に結界を張っていると思っているの。屋敷に戻って頂戴」
「……はーい。永琳は過保護なんだから。どうせ死なないのに」
ふて腐れた顔で、輝夜さんは踵を返す。その後ろ姿を、永琳さんは何かひどく複雑そうな顔で見送って、それから私たちに向き直った。
「うちの姫様が失礼したわ」
「――もう少し、あいつを躾けておいたらどうだ」
「それは、貴方に口出しされることではないわね。――ところで、そこの貴方」
と、永琳さんは不意に私の方を向いて言った。私は思わず目をしばたたかせる。
「わ、私ですか?」
「そうよ。ちょっと聞きたいことがあるから、おいでなさい」
「え……でも」
私は蓮子を見やる。静かに寝息をたてている蓮子に対し、確かにここにいても私にできることはほとんどないだろう。だが、放っておくわけにも――。
「そこの病人は、そっちに任せておけばいいから」
「……メリーをどうする気だ」
「心配しなくても、とって食いはしないわ。丁重に扱うから安心して頂戴」
睨む妹紅さんに、永琳さんは素っ気なくそう言って、「ほら」と私を促す。
どうやら私が断るという可能性は全く考慮に入れていないらしい。私はため息をついて立ち上がった。お世話になっている立場であるし、医師として相棒への問診を私に代行しろということかもしれない。まあ、とって食われることはないだろう。たぶん。
「気を付けろよ。蓮子のことは任せておけ」
私を見上げて心配そうに言う妹紅さんに、私は頷いて歩き出した。
―8―
案内された先は玄関ではなく、庭先の縁側だった。
「こんなところでごめんなさいね。屋敷の中に外の人間を上げるわけにはいかなくて」
「はあ……」
縁側に腰を下ろし、永琳さんはその隣を叩く。私がその隣に腰を下ろすと、永琳さんはすっと顔を近づけて、私の目を覗きこんだ。瞼を指で押し広げられて、私は小さく呻く。
「貴方、魔法や仙術、あるいは巫女の心得は?」
「……特にありません。普通の人間です」
「何の心得もなく、結界を肉眼で目視できる人間を、地上では普通と言うのかしら?」
「――――」
「とすると、純粋な境界視の能力ね。貴方、私の被検体にならない?」
「え? い、いや、被検体って――」
「眼球と脳を摘出させてもらえればベストなんだけど」
「お、おおお、お断りします!」
「冗談よ」
心臓に悪すぎる。真顔で言わないでほしい。
「倒れた貴方のお友達は、月と星から位置と時刻を演算できるのだったわね」
「――は、はい。月を見ると今いる場所が解って、星を見ると今の時刻が解ると、蓮子は言ってますけど」
普通は逆ではないかと思うのだが、相棒はそう言い張っている。まあ、要するに天測航法の暗算ということだろう。それ自体、かなり常人離れした能力であるのは確かだが――。
「お名前は?」
「ま、マエリベリー・ハーンです」
「お友達の方よ」
「……宇佐見蓮子です」
「うさみ? どんな字を書くの」
「宇佐神宮を見る、の宇佐見……宇宙の宇に、人偏の左です」
この幻想郷ではひょっとしたら宇佐神宮が通じないかと言い直してみたが、はたして必要だったのか。永琳さんは何か難しい顔で唸った。
「まさか……ね」
「え?」
「何でもないわ。お友達には、今後もあまり月を見ないようにと伝えておきなさい。月の狂気に対して彼女の目は無防備に過ぎるわ。もちろん貴方もね」
「はあ……」
勝手に自己完結したり、説明抜きで話を進めないでほしい。蓮子が倒れて以降、私は完全に展開から置いてけぼりである。何が何やら――。
説明してくれないなら、こちらから訊ねるしかないか。私は意を決して口を開く。
「あの……貴方たちは何者なんですか? どうして妹紅さんと敵対を……?」
「あら、何も聞いていないの?」
私は頷き、それから「あの、彼女はかぐや姫……?」と付け加えると、永琳さんは頷いた。
「姫のことが、外ではそういう風に言い伝えられているそうね」
ではやはり、輝夜さんはかぐや姫本人なのか。
「そして私は、姫――蓬莱山輝夜に仕える従者、八意永琳よ。本当の名前は地上の人間には発音できないから、永琳でいいわ」
「……じゃあ、貴方もかぐや姫と同じく、月から……?」
「そうよ。月からかぐや姫を迎えに来た使者のひとり。言い伝えではそのまま帰ったことになっているそうだけど、実際はそのまま帰らずにここに隠れ住んでいたの。事情があってね」
その事情には、触れられたくなさそうな口ぶりだった。かぐや姫を月に連れ戻しに来たはずの月の使者が、かぐや姫とともに幻想郷に隠れ住んでいる……その事情とは、いったい何だろう。かぐや姫は確か、月で罪を犯して地上に落とされたのだったか……。
想像する代わりに、もうひとつ訊ねたいことがあった。妹紅さんのことだ。
「妹紅さんは……?」
「ああ――彼女は姫の遊び相手。退屈しのぎのね」
いや、あんな険悪な遊び相手は見たことがない。
「輝夜さんに求婚した貴族の娘だって、輝夜さんが……」
確かに輝夜さんはそう言っていたが、おかしな話だ。かぐや姫が実在したとして、その時代は今から千年以上――千三百年近く前の話のはずである。妹紅さんが人間なら、そんなに永く生きているはずがない。慧音さんは確かに妹紅さんを人間と言っていたはずだが――。
「そのようね」
だがあっさりと、永琳さんは私の言葉を肯定した。
「何を不思議そうな顔をしているの? ――貴方、ひょっとして、彼女が蓬莱人であることも知らなかったの?」
「蓬莱人?」
「かぐや姫の言い伝えにあるでしょう。かぐや姫が去り際に残していった不死の薬」
私は目を見開く。――確かに、竹取物語のラストで、月に帰る間際にかぐや姫は帝に対して不死の薬を残していく。帝はかぐや姫がいないのに不死になっても仕方ないと、それを山で燃やしてしまい、その煙が今も上がっているから〝ふじのやま〟――富士山と呼ばれているのだ、というのが竹取物語のオチだったはずだ。
――と、いうことは。
「あれは私が作った薬なんだけど、彼女はどうやら、それを飲んだらしいわね」
「……つまり、妹紅さんは……不老不死?」
「そうね、人間の語彙に直せば、そういうことになるでしょう。もちろん、私と輝夜もね」
私はただ、ぽかんと口を開けているしかなかった。
―9―
伊達に永く生きてない――と、妹紅さんはついうっかり漏らしたように口にした。
それはつまり、そのことだったのか。かぐや姫の残していった不死の薬を飲んで、不老不死の身であること――。そう考えると、妹紅さんが里ではなく、竹林のあばら屋に暮らしている理由も解った。不老不死ということは、永遠に姿形が変わらないままでいるということ。永くても百年ほどの寿命しか持たない人間のコミュニティの中で、不老不死の存在が人間として生きていくことはできないだろう。この幻想郷において、人間でないということは、妖怪であるということだ。だから妹紅さんは人目を避けるように竹林で暮らし、妖怪の血が混ざっている慧音さんはそんな妹紅さんの面倒を見ている――。
ふっと、私の脳裏に、蓮子の言葉が甦ってきた。
――月にも忘れられた世界が隠されているはずよ。高度な文明を持ち、高貴な人が住む月の都。兎が不老不死の薬を搗き、太陽に棲む三本足の鳥を眺めながら、月面ツアーで騒ぐ人間を憂えているのよ。……
いつだったか、まだ科学世紀の京都にいた頃、相棒とそんな話をしたことを思い出す。民間月面ツアーに行きたいけどお金がない、という話だったはずだ。
確かそのとき、相棒は不老不死の薬の話をしたはずだ。
――じゃ、不老不死の薬が手に入ったら、蓮子は使うの?
――不老不死の薬? 勿論、使うわよ。
相棒がそう答えたことを覚えているけれど――あくまでそれは、議論のための議論であったはずだ。相棒は不老不死の薬は実在すると言っていたけれど、果たしてどこまで本気だったのかは定かでない。
もし相棒が、妹紅さんのことを聞いたら――不老不死の薬を飲むと言っていた蓮子は、妹紅さんに対してなんと言うのだろう?
私がそんなことに考えを巡らせていると、永琳さんは不思議そうに首を傾げた。
「そんなに驚くようなことかしら? 地上にも人間から見れば不老不死に近いような妖怪がいくらでもいるでしょうに。まあ、その程度も私の歴史で割ればゼロの近似値だけれど」
「ゼロの近似値って……」
思わず意識が永琳さんに引き戻される。彼女はいったい何歳だというのだ。
「それはともかく。貴方のお友達の件はもういいとして」
「い、いいんですか?」
「薬は明日の朝渡すわ。一週間分ね。それを飲ませて安静にさせること、私からは以上よ。それよりも――今は貴方の方に興味があるわね」
ずい、と永琳さんは私の顔を覗きこむ。いや、私の目を――だ。
境界を、結界を、世界の裂け目を見つけてしまう、私のこの目を。
「貴方は、結界が視えるだけ? それとも、結界に干渉することもできるのかしら?」
「え、ええと……」
自分では視るだけのつもりではあるが、干渉してしまったような覚えもいろいろなくはない。紅魔館でフランドール嬢の封じられた部屋を開けてしまったこととか、そもそもこの世界に迷い込んだことだって、広義の結界干渉のような。
「……か、干渉できるとしたら、何なんですか?」
「彼女の治療代として、貴方に協力してもらいたいのよ」
私は、ただ目をしばたたかせた。
「なぜ私たちがあの贋物の月を出したのか、そこから説明した方がいいかしら」
永琳さんに半ば拉致されるような格好で、私は屋敷の門から外へと出ていた。私の目には、屋敷の周囲に張り巡らされた結界が視えている。普段、神社仏閣などで目にするものよりも遥かに強い結界だ。物理的に認識を歪めるのだから相当なものである。
「私と輝夜はある事情から月に帰らず、この屋敷に隠れていたの。千年以上もね。この結界は、月からの追っ手の目から逃れるためのもの。この千年以上、この永遠亭にやってくるのはせいぜい、竹林に暮らす兎たちぐらいのものだったわ」
「はあ」
「ところが少し前、月から一匹の兎が逃げてきて、何の因果かこの屋敷に転がり込んだ。すわ追っ手かと思ったら、聞けば脱走兵で、人間が月に攻めてきたというのよ。脱走者なら同じ追われる身、私たちはその子をここに匿うことにした」
「……ひょっとして、あの子ですか?」
「そう、ウドンゲのことよ。鈴仙・優曇華院・イナバという名前をつけて、ペット兼助手として暮らさせることにしたの」
「随分、長い名前ですね」
「あら、変? 地上の普通の名前をつけようと思ったのだけれど」
いや、普通ではないと思う。そもそも優曇華って、三千年に一度咲くという伝説の花の名前ではなかったっけか。月から来た人の感覚がズレているのは当然のことだろうが。
しかし、人間が月に攻めてきた、って。前世紀のSFでもあるまいに――いや。
「その、あの兎さんがここに転がり込んできたのって、何年ぐらい前ですか?」
「外の暦で、三、四十年前ね。外の人間もいつの間にか月に攻め入るほどの力と知恵と傲慢さを蓄えていたとは、驚いたわ」
三、四十年前? というと――今は外の世界の暦で二〇〇四年頃のはずだから……ひょっとして、一九六九年のアポロの月面着陸のことか。あのとき、月に文明が発見されたなんてことはなかったはずだが――いや、幻想郷の歴史と科学世紀の私たちの知る歴史を混同してはいけない。何しろ、かぐや姫が実在する世界なのだ。
私がそんなことを考えている間にも、永琳さんの話は続く。
「ところが、つい先日、ウドンゲの元に月から連絡が入ったのよ」
「連絡?」
「月から、使者がウドンゲを迎えに来るというのね。私と輝夜は月に帰れないし、ウドンゲを帰したら私たちの居場所が月に知られてしまう。だから、ウドンゲを月に帰さず、月の使者もここに来られないようにすることにしたの」
「……あの贋物の月は、そのために?」
「そうよ。あの月が本物の月と地上の間を塞いでいる限り、月と地上の間に通路は開かない。それでやり過ごせれば、それに越したことはないのだけれど、念には念を入れて、もう一段階の結界を張っておこうと思うの」
話は見えてきたが、しかしそれに対して私に何ができるというのだろう。結界は視えるけれど、私は自力で結界を張れるわけではないのだ。
訝しむ私に構わず、永琳さんは屋敷の周囲に張り巡らされた結界に触れる。
「この結界、貴方の目には視えるのね?」
「あ、はい……」
「やはり、貴方の目はウドンゲのものに近いようね。波長や位相の変化を検知する目ということかしら。なるほど――少し、実験に付き合ってもらうわ」
永琳さんは微笑んで、結界から手を放す。
「ウドンゲ、聞こえているでしょう。おいでなさい」
「は、はい!」
塀の向こうから返事があり、塀を跳び越えてきたのは、例のウサミミ少女だ。長い名前だったが、鈴仙さんというのだったか。彼女は怯えた様子で永琳さんを見上げる。
「お師匠様、あの、また実験ですか……?」
「大丈夫よ、薬を飲ませるわけじゃないわ」
露骨にほっと息を吐く鈴仙さん。普段から人体(兎体?)実験でもされているのか。
「ウドンゲ、ちょっと位相を変えて隠れてごらんなさい」
「は? 今ここで、ですか?」
「そうよ。ほら早く」
「は、はい」
釈然としない顔をしながらも頷いた鈴仙さんは、不意にその赤い瞳を輝かせた。――次の瞬間、私の目の前の光景がずれる。私は思わず目を押さえた。世界がずれ、その隙間に鈴仙さんの姿が隠れる。不可視の結界の裏側に身を潜めるように――。
「さて、貴方。ウドンゲがどこにいるかわかるかしら?」
永琳さんに言われ、私は眉を寄せた。――ああ、そうか。この世界のずれを、普通は感じ取れないのだ。私の目は、それに気付いてしまう。世界が一部、ずれてしまっていることを。
「――そこですよね?」
私は、目の前の光景がずれている箇所を指さす。そのずれがどのようなものかは非常に言語化しにくいが、とにかく違うのだ。その空間だけ、背景と同じ映像を流したビジョンを立てかけているような――パッと見では同化しているけれど、物体としてのビジョンの作る存在しないはずの影、それが作るビジョンと背景の境界を、私の目は見つける。
――そしてその影から、鈴仙さんが訝しげな顔で姿を現す。
「嘘、なんで? ただの人間に見つかるはずが――」
「この子がただの人間ではないということよ。マエリベリー・ハーンだったわね、合格よ」
「……はあ」
受験した覚えはないのだが。私に構わず、永琳さんは鈴仙さんを振り返る。
「ウドンゲ、結界の範囲を広げるわ。手伝って頂戴」
「ええ? 屋敷が見えるようになっちゃいますよ」
「月の連中に見つからない方が優先よ。穢れに対する防御が薄くなるけど、やむを得ないわ」
「……解りました」
頷く鈴仙さん。永琳さんは私の方を振り返り、「貴方はもう戻っていいわ」と言った。
「ただし、あの患者が目覚めたら帰ってもいい、という前言は撤回するわ」
「え?」
「彼女は入院。貴方はその付き添いとして、永遠亭に残ってもらうわよ」
「――――」
「怯えなくてもいいわ。人体実験はしないから」
有無を言わさぬその言葉に、私は「……解りました」と答えるしかなかった。
第4章 永夜抄編 一覧
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永琳の知的好奇心は留まるところを知りませんね。そのせいで二人とも軟禁状態になってしまうとは。
この先の展開が楽しみです。
月の賢者は伊達じゃなかった。頭脳は紫様以上で研究者、考えてみると霊夢と紫様.妖夢と幽々子様ならともかく、他の2チームが良く勝てたなと思います。
If time is money you’ve made me a weahilter woman.