今はとて天の羽衣着るをりぞ君をあはれと思ひいでける
とて、壺の薬添へて、頭中将呼び寄せて奉らす。中将に天人取りて伝ふ。中将取りつれば、ふと天の羽衣うち着せ奉りつれば、翁をいとほしく、かなしとおぼしつることも失せぬ。この衣着つる人は、もの思ひなくなりにければ、車に乗りて、百人ばかり天人具して上りぬ。
―34―
そうして、永夜異変から一ヵ月が過ぎた。
その間、特に何事があったわけではない。私たちはいつも通りに寺子屋を手伝い、お客さんの来ない事務所で遊惰な時間を過ごした。永夜異変のことなど忘れたかのように。
もちろん私はその間、この記録をまとめていたので、図らずも相棒の推理についてじっくりと考えることになった。提示された謎と、指摘された矛盾について。
月の民が穢れを厭うということは、不老不死を求めるということではないのか。
それなのになぜ、月の民は蓬莱の薬を禁忌としたのか。
そもそも、穢れとはいったい何か。
そして――あの異変はなぜ起きたのか。
「これもまた、いつものパターンなのかしら? でも、永琳さんたちはずっとあの竹林の奧に引きこもっていたんだし……」
これまで私たちが――というか、我が相棒が推理を繰り広げてきた異変の謎は、極言すれば全て根底にあるのは同じパターンである。要するに、認識が力を持つこの幻想郷において、認識を望む形に操るために異変が起こされたとするものだ。
紅霧異変も、春雪異変も、三日置きの百鬼夜行も。もちろん、それが正解であるか否かは確言できないにしても、相棒の推理はおそらく、真実のストライクゾーンを掠めている。
「ああ、でも妹紅さんっていう窓口があったのよね。三百年も殺し合ってるとか……」
――矛盾が生じるときは、前提が間違っている。
相棒はそう言った。では、いったいどの前提が間違っているというのか?
「…………はあ」
私は畳の上に寝転がる。やはり、私の頭は相棒のような妄想力を秘めていない。どれほど考えても、結論のとっかかりすら見いだせそうにない。
ワトソン役はそうでなければならないとしても、なんだか悔しい話である。今回の異変は、私の方が蓮子よりも深く首を突っ込んだというのに――。
「なーにメリー、ため息なんかついて」
突然、視界に相棒の顔がぬっと突き出てきて、私は目をしばたたかせる。
「……別に。ていうか授業終わったの?」
「ええ、そろそろ子供たちも帰り始める頃じゃないかしら?」
相棒の言葉に答えるように、外から子供たちの歓声が聞こえてきた。「せんせー、さよーならー」「ああ、気を付けて帰るんだぞ」と子供たちと慧音さんの声。私たちも子供たちを見送りに、離れの事務所を出て寺子屋の玄関へ向かう。
「あ、蓮子せんせー、メリーせんせーも、さよならー」
「はい、みんなまた明後日ねー」
私たちに気付いて手を振る子供たちに手を振り返す。子供たちの姿が途切れたところで、慧音さんが振り返り、「さて、今日もご苦労様」と笑った。
「ところでふたりとも、今夜はどうする? 満月なので私は竹林に行くが、君たちも一緒に妹紅のところに行くか?」
「ええ、そうさせていただきますわ。永遠亭の方々にもまたご挨拶したいですし」
蓮子が笑ってそう答えると、慧音さんは困ったように頬を掻く。
「……それはいいが、妹紅があいつらと喧嘩しないように気を付けてくれるか? いや、それが妹紅の生きがいだってことは解ってるんだが、私としてはやはりな……」
「はいはい、解っておりますわ」
にやにやと笑って頷く蓮子に、慧音さんはただ肩を竦めた。
そんなわけで夕刻、私たちは慧音さんとともに、妹紅さんのあばら屋を訪ね、夕飯をご馳走になった。美味しいのだけど、いつも筍尽くしなのはもう少しバリエーションが欲しいと思う。
夕飯を終えたあとは、慧音さんが歴史家としての仕事に向かうために、大量の史料を抱えて立ち上がる。
「それじゃあ、私は仕事に出るからな。妹紅、今夜ぐらいは喧嘩するんじゃないぞ」
「ああ、解ってるよ」
「あ、妹紅。私たちも永遠亭にご挨拶に伺いたいから、一緒に出ない?」
「おん? なんであいつらのところに――」
「先月お世話になったお礼を改めて言いたいの。いいでしょ?」
「……義理堅い奴だな。あの藪医者に人体実験されないように気を付けろよ」
妹紅さんはため息をついて立ち上がる。そうして、私たちは慧音さんに続いてあばら屋を出た。いつもの広場に向かう慧音さんと別れ、私たちは妹紅さんの先導で竹林の奧へ向かう。
「……永遠亭に行くってことは、結論は出たってことよね?」
歩きながら、私は蓮子に耳打ちする。相棒は帽子を持ち上げて、にっといつもの猫のような笑みを浮かべた。
「まあ、永琳さんにぶつけられる程度の仮説はね。それが真実かどうかは神のみぞ知る」
「どうせいつもの誇大妄想でしょう?」
「そうよ。この世界と異変を、私なりに面白くするためのね」
全く、その自信はどこから出てくるのか。
ともかく、妹紅さんに導かれて竹林の奧へと進むうちに、ほどなく永遠亭が見えてきた。かつて永遠亭を隠していた強固な結界は既にない。どうやら、永夜異変を機に屋敷を隠していた結界自体を解いてしまったらしい。
妹紅さんが屋敷の中を覗きこもうとするように伺うと、中からてゐさんが顔を出した。
「おん? いつぞやの人間に姫様の友達じゃん」
「誰が友達だ! あいつは宿敵だ!」
「姫様なら、外に遊びに行ってるよ。たぶん神社」
「神社ぁ?」
博麗神社か。箱入りの姫様が、勝手に出歩いていいのだろうか?
「なんだ、輝夜の奴いないのか……」
妹紅さんはちょっと寂しそうだった。なんだかんだ言って、輝夜さんと口喧嘩するのも彼女の楽しみなのかもしれない。本人は否定するだろうけど。
「永琳さんも一緒におでかけ?」
「ん? ううん、お師匠様は居るよ。なに、頭の病気?」
「まあ、蓮子は病気みたいなものよね」
「ひどいわねメリー。先月のお礼というかご挨拶に伺ったんだけど」
「ほいほい。じゃ、案内するからついてきな。そこのはどうする?」
「……輝夜がいないなら乗り込んでも仕方ないな。ここで待ってるから、何かあったら叫べ」
「了解」
腕を組んだ妹紅さんに片手を挙げて答え、蓮子はてゐさんに続いて屋敷の敷地に足を踏み入れる。私もその後に続いた。先月蓮子を担ぎ込んだときには離れの方に案内されたけれど、今回はまっすぐに屋敷の玄関の方へ導かれる。
「中に入っていいの?」
「こないだの騒ぎで穢れだらけになっちゃったから、封印を解いたんだってさ」
そういえば、先月輝夜さんがそんなことを言っていた気がする。穢れが入ってきて、ものが壊れるようになったとかなんとか――。
廊下は正常なようだった。床板を軋ませながら奧に進み、てゐさんが「お師匠様ー」と襖のひとつを開く。机に向かっていた永琳さんが振り向き、「あら」と小首を傾げた。
「こんばんは。改めましてその節はお世話になりました」
「ごきげんよう。その後、目の具合に問題はないかしら?」
「ええ、おかげさまで前よりよく見えるぐらいで」
「そう。それなら今日は何の用? どこか別のところでも具合が悪くなった? それともそっちの境界視のお嬢さんの目と脳を私の研究に提供してくれるのかしら?」
「え、メリー、そんな約束してたの?」
「してないしてない!」
「冗談よ。興味があるのは事実だけれど」
真顔で怖いことを言わないでほしい。月の民はやっぱり何かズレているのかもしれない。
と、相棒が不意に帽子の庇を持ち上げて、永琳さんを見つめた。
「永琳さん。今日は少し、お話を伺いに参りましたわ」
「話? あのときの、貴方の目の症状について、かしら」
「それはそれで興味がありますが――それよりも、先月のあの騒ぎについてのことです。いったいなぜ、あの騒ぎが起こったのか。貴方はそれで何を為そうとしたのか」
「――――」
「より端的に申し上げれば、永琳さん。貴方が満月を隠した本当の理由についてです」
永琳さんが訝しげに眉を寄せた。蓮子は部屋の隅から勝手に座布団を引っ張り出して、そこに腰を下ろす。椅子を回して、永琳さんが私たちに向き直った。
「その事情については、そこの子に説明したと思ったけれど、聞いていないのかしら?」
「聞きましたわ。聞いた上で、この相棒が見聞きしたことと、私自身の調べたこととを考え合わせると、どうも永琳さん、貴方の表向きの説明では辻褄の合わないことが多いのですよ。だから、その辻褄合わせを勝手に考えてみました」
「…………」
「端的に申し上げましょう。――永琳さん、貴方が満月を隠したのは、鈴仙さんを迎えに来る月の追っ手から身を隠すためではない」
そして蓮子は、いつものように、真実へと斬り込んでいく。推理という名の妄想を武器に。
「逆なんです。――月からの追っ手が来ないことを隠すために、満月を隠したのですね?」
―35―
永琳さんの表情は変わらなかった。地上の民に、永遠を生きる月の民の感情など忖度のしようもないのだけれども、少なくともその表情からは何の感情も伺えなかった。
いや、感情が伺えないということが、あるいは最も雄弁な感情表現だったのかもしれないが。
「さて、その問いに私は何と答えればいいのかしら?」
「何とでも構いませんが――私がそう考えた根拠を説明しても?」
「せっかくだから、聞きましょうか」
ありがとうございます、と蓮子は軽く頭を下げ、言葉を続ける。
「永琳さん。貴方は輝夜さんに対する罪滅ぼしのため、千三百年ほど前、輝夜さんを迎えに来た月の使者を殺して、同じ蓬莱の薬を飲んで不老不死となり、月の追っ手から逃れるため、この永遠亭に強固な結界を張って隠れ住んだのでしたね」
「ええ、その通りよ」
「また、この永遠亭に張られていた結界は、穢れの侵入を防ぐ目的もあった。けれど先日の騒動で外の人間や妖怪が大挙してやって来たため、屋敷は穢れだらけになってしまった。てゐさんや輝夜さんがそのようなことを言っていました。そのため、今はもう結界を解いている――永遠亭の現状はこの理解で正しいですね?」
「ええ。結局、地上の密室を作らずとも月の民は博麗大結界に阻まれて幻想郷に辿り着けないということのようだったからね。先月の騒ぎの後、妖怪の賢者からそう聞いたわ」
「――それがおかしいと、私は考えるわけです」
「ふうん?」
永琳さんは鼻を鳴らし、蓮子を見つめた。蓮子はそれを見つめ返し、そして斬り込む。
「なぜなら、数十年前に既に鈴仙さんが永遠亭に辿り着いているからです」
「…………」
「貴方たちが本気で月の追っ手を恐れて隠れていたなら、鈴仙さんが永遠亭を見つけられるはずがないんですよ。鈴仙さんはその目の能力で永遠亭を囲む結界を発見したと言いましたが、これそのものが最大の矛盾です。鈴仙さんの目の能力は月の兎ならば大なり小なり持っているものだと言います。それによって見破られる結界など、月から隠れるための結界として用を為していないではありませんか」
永琳さんは黙って手にしていた筆を指の間で回した。蓮子は言葉を続ける。
「また、先月の騒動が起きたのも、鈴仙さんに月から帰るように連絡が入り、貴方たちが見つからないために鈴仙さんを帰さないことに決めたのが引き金だったそうですが――これもおかしい。貴方たちが本気で隠れているなら、鈴仙さんの元に月から連絡が入ることも防ごうとしたはずではないですか?
即ち、鈴仙さんの存在自体が、貴方たちの逃亡者としての立場に対する矛盾に他なりません。よもや永遠の命を持って輝夜さんとともに永遠に逃げることを誓った貴方が、たかが千三百年ごときで気が緩んで守りをおろそかにした、などとは言わないでしょう?」
「あら、それがただの気の緩みだと言ったら、貴方は引き下がるの?」
「いいえ。永琳さん、貴方たちの抱える矛盾は他にもあります。それは、輝夜さんが三百年ほど前から妹紅さんと殺し合っているということです。それの何がおかしいのか? ――貴方たちが永遠亭という結界の内側に引きこもっていたなら、輝夜さんが妹紅さんと出会うことも無かったはずだからですよ。
メリーによれば、永遠亭の結界は屋敷の周囲の狭い範囲のみだったようですね。妹紅さんも直接永遠亭に辿り着く術は知らないようで、私を担ぎ込むときに外から輝夜さんを呼び出していたようですが――それは即ち、三百年前から、輝夜さんは結界の外を出歩いているということです。そして、妹紅さんと殺し合っている。
――結界の目的が、月の民から隠れるためであり、また穢れの侵入を防ぐためであるなら、なぜ輝夜さんは月の民から見つかるかもしれず、穢れに満ちている結界の外へ、そう何度も出入りしているのですか?」
「姫の気晴らし、とでも答えておきましょうか。永遠の命を持っていても、年単位で引きこもっていると気が詰まるのよ。それに、月と地上の間に道が通じるのは満月の夜だけ。それ以外のときは問題ないわ。――屋敷を結界で覆ったのは、穢れのない月で暮らしていた私たちには、地上の穢れに囲まれて生活するのはいい気分ではなかったから。それだけの話」
「なるほど」
さらりと答えた永琳さんに、しかし蓮子は食い下がるでもなく頷いた。
「堅固なアリバイよりも、曖昧なアリバイの方がかえって崩しにくい――というのは推理小説の中でよく言われることですが。そうのらりくらりとかわされると、かえって想像を逞しくしたくなるのが性分なもので。
少なくとも事実として、月から逃げてきた鈴仙さんは永遠亭を見つけているし、輝夜さんは結界が解かれる前から永遠亭の外を出歩いている。これは動かしがたい事実です。それは貴方と輝夜さんが逃亡者であるという物語と矛盾する。そして、あれほど大がかりな騒ぎを起こしてまで月の追っ手から逃れようとしたという事実とも矛盾する。――となれば、まず前提がどこかで間違っていると考えねばなりません。
そして、鈴仙さんが永遠亭を見つけ、鈴仙さんに月から連絡が入り、輝夜さんが外を出歩いているという事実が示す前提の誤りとは、すなわち――貴方たちが、月から隠れてなどいなかったということです。――永琳さん、貴方が輝夜さんとともにこの幻想郷に隠れていることは、月の民は最初から承知していたのではありませんか? そして、少なくとも永琳さん、貴方はそのことを知っていた」
「まるで、私が月のスパイみたいな言いぐさね。私は輝夜と逃げるとき、同行していた月の使者を皆殺しにしているのよ? それも虚偽だというの?」
「いいえ、それは事実でしょう。輝夜さんがそれを記憶しているはずですし、永遠に輝夜さんを欺き続けるには、そのぐらいのことは必要だったはずです」
「つまり私は、輝夜を欺くためだけに同胞を皆殺しにした殺人鬼だということね」
「さて――それはどうでしょうか」
蓮子の言葉に、永琳さんが初めて微かに眉を寄せた。
相棒は不敵な笑みを浮かべて、さらなる追及の言葉を続ける。
「どうせ前提を疑うのなら、さらに疑念を遡ってみましょう。竹取物語の時代――さらにそれ以前、輝夜さんが月で暮らしていた頃まで。輝夜さんは、永琳さんの作った不老不死の薬を飲んだことで穢れを生じ、その罪で地上に落とされたという、全ての発端から。ここに今回の異変の孕む、最大の疑問があります。
月の民は穢れを厭って、穢れのない月へと移り住んだ者だと聞きました。では、穢れとは何か。私の知る限り、穢れとはまず何より、生命の理です。生と死。出産、病、そして死、それらは地上においても永く穢れとして忌まれてきました。
貴方たち月の民が、そのような穢れを避けて月へと移り住んだのならば――月の民がそれによって求めたのは、永遠の命のはずではありませんか? 生と死を超越し、生きても死んでもいない、穢れのない状態となること――。穢れを厭うとは、つまりそういうことでしょう。
だとすれば、最大の矛盾がここにあります。月の民が永遠の命を求めたならば、それをもたらす蓬莱の薬を禁忌とするはずがないではありませんか。それは、月の民の宿願でなければならないはずです。
それなのに、輝夜さんはその罪で地上に落とされたという。蓬莱の薬が禁忌であるはずがないとすれば、彼女は罪となるはずのないことで罰を受けた。それはなぜか? ――それも矛盾であり、だとすれば前提が誤っています。
輝夜さんは何の罪も犯していない。蓬莱の薬を飲むのは罪であるという輝夜さんの認識そのものが、永琳さん、貴方たち月の民が彼女に植え付けた欺瞞だったのではありませんか。
そして、貴方が月から真の意味で隠れていないとすれば――輝夜さんの飲んだ蓬莱の薬が、貴方の作ったものであるならば」
そこで蓮子は言葉を切り、永琳さんをまっすぐに見つめた。
「輝夜さんが蓬莱の薬を飲み、地上に落とされ、そして今も永琳さん、貴方と地上で暮らしていること――それ自体が、蓬莱の薬の効果を確かめるための人体実験だったのではないですか」
―36―
永琳さんは何も答えない。それを話の続きを語る許可と受け取って、相棒は口を開く。
「そう、竹取物語から今回の異変に至るまで、全ては一連の、ひと繋がりの出来事なんです。全ては輝夜さんから、これが壮大な人体実験であることを隠すために全てが仕組まれていた。輝夜さんに、自分が罪人であり、そのために逃亡しているという偽りの物語を信じ込ませるために、今回の異変も起こされたのです。貴方が月から隠れていなかった以上、貴方と月との間には秘密のホットラインが存在したと考えるのが自然であり、鈴仙さんが永遠亭に転がり込んだのも、月と貴方の間で情報が共有された結果導かれたと考えるべきでしょう。
そして、鈴仙さんに月から帰ってこいという連絡が入ったことは、貴方たちにとって予定外のイレギュラーだったのでしょう。この人体実験を仕組んだ側とは別の――おそらくは鈴仙さんと同じ月の兎からの私的な連絡だったのでは? それに感化されて鈴仙さんが帰ると言い出したために、永琳さん、貴方は満月を隠さなければならなくなった。自分と輝夜さんが月からの逃亡者であるという物語を守るために。月から追っ手など来ないのだということを、輝夜さんから隠すために」
「随分と、おかしな話ね」
永琳さんは筆を机に置いて、ひとつ鼻を鳴らした。
「仮に貴方の言う通りだとして。私が月の使者を殺したことも、その人体実験のためだったというの? 永遠の命を求めた月の民が、人体実験のために命を投げ出すなど愚の骨頂ではないかしら?」
「ええ、その通りですね」
その反駁に、しかし蓮子は平然と頷いてみせる。
「いくらなんでも、輝夜さんの人体実験のために同じ月の民を何人も殺すなんていうのはあまりに不合理です。だとすれば、ここにも矛盾があり、前提の誤りがあります。
逆なんですよ。輝夜さんの人体実験のために月の使者が殺されたのではありません。
――月の使者を殺すために、輝夜さんの人体実験が仕組まれたのです」
初めて、永琳さんがはっきりと目を見開いた。
「それがどういう理由で起こったのかは解りません。月での勢力争いなのか、粛清なのか。いずれにせよ、永琳さん、貴方が殺した月の使者は、この計画を立てた者たちにとって不都合な、邪魔な存在だったとすれば。生と死の理という穢れを忌避する月の民が、月で彼らを殺してしまうわけにはいきません。月の民を始末するには地上に送り出すしかない。そのために、輝夜さんの人体実験が仕組まれ、彼らは殺されるために月の使者として送り出された――あるいは、この人体実験の関係者に対する口封じだったのかもしれませんが。そして永琳さん、貴方はその罪人の役割を引き受けたのではないですか」
「――――」
「月の使者の殺害計画が先か、輝夜さんの人体実験が先かまでは確証が持てませんが、いずれにせよ輝夜さんが蓬莱の薬を飲んだことが罪であるはずがなく、永遠亭が実際は月から隠れていなかったとすれば、永琳さん、貴方の輝夜さんに対する贖罪という行動原理は成立していません。だとすれば、ほぼ全てが貴方の計画であると考えた方が自然です」
――答えは、永琳さんの大きなため息だった。
「じゃあ、こちらからも、貴方の前提の誤りを指摘しましょうか」
「というと?」
「穢れという概念に対して、貴方は根本的に誤解しているわ」
永琳さんは立ち上がり、部屋に置かれていた水差しから、空になった湯飲みに水を注ぐ。
「穢れとは、単純な生と死の理そのものではないのよ。それは――」
「認識、ですね?」
永琳さんの言葉に割り込んで、相棒はそう言った。永琳さんが今度こそ大きく目を見開く。
「ええ、もちろんそこも、考えておりましたわ。そもそも穢れとは何か。それは生と死の理そのものか? それは違うはずです。それならば、蓬莱の薬を飲んで不老不死になった輝夜さんも、その薬を作りあげた永琳さんも、月が地上にいつまでも放置しておくはずがない。
だとすれば、これもやはり前提が間違っています。生と死が穢れであることは事実でしょう。では、それを穢れであると定義するのは何か? ――それは、認識です。生と死を認識すること。物事に始まりがあり、終わりがあるということを認識すること。それこそが穢れなんです。
――つまりそれは、認識が力をもつこの幻想郷の論理です。この世界では、認識されることで存在が維持される。つまり、有限であると認識することによって全ては有限と化すのです。無限を否定する認識の力。その認識こそが穢れなんです。
そう考えれば、蓬莱の薬が穢れを生じるという矛盾も説明できます。不老不死を求めるということは、それを得ていない自身は有限であると定義するという行為だからです。その意味で、貴方は輝夜さんに完全な嘘をついてはいなかったのでしょう。輝夜さんは確かに、蓬莱の薬を求めた時点でその魂に穢れを生じていたのでしょうから」
「――――」
「そして、妹紅さんから伺いました。蓬莱の薬とは、命の主体を魂にすることで肉体を再生可能にする薬であると。――認識こそが穢れであるなら、穢れの影響を受けるのは、肉体ではなく魂のはずです。
そして、妹紅さんは不老不死になってからの長い年月で体術や妖術を身につけ、また黒かった髪が銀髪になるという変化を生じたといいます。その変化は即ち、妹紅さんの魂の変質が再生する肉体に反映されたのではないでしょうか。穢れの影響を受けた魂の――。
その上で、妹紅さんの飲んだ薬が、輝夜さんの飲んだものと同じならば、輝夜さんもまた同様に、その魂は穢れの影響を受けていることになります。竹取物語の中で、かぐや姫が赤子の姿から短期間に成長したのも、翁たちへの愛着を抱くに至ったのも、その魂が穢れの影響を受けていたからだとすれば――だから貴方は、永遠亭に結界を張って輝夜さんを穢れから隔離したのではありませんか? 穢れの濃度が、輝夜さんの魂に与える影響を計るために」
蓮子はひとつ咳払いして、「整理しましょう」と言った。
「永琳さん、貴方は月で蓬莱の薬――生命の主体を肉体から魂に移す薬を開発した。その被験者として輝夜さんが選ばれ、彼女は何も知らず、自分が求めたつもりでその薬を飲み、存在しない罪によって地上に落とされた。貴方は月の使者の一員として輝夜さんを迎えに行き、そして何らかの事情で邪魔者となっていた他の月の使者たちを殺害し、輝夜さんと偽りの逃亡生活に入った。地上の穢れが輝夜さんの魂に与える影響を観察する実験を継続するために――」
「……つまり私は、輝夜を騙して人体実験を行い、かつ邪魔な同胞を皆殺しにした、冷酷無比なマッドサイエンティストということなわけね。なかなか光栄だわ」
皮肉げに、永琳さんは笑う。けれど、蓮子は――。
「いいえ、それが全てでもないでしょう」
「――――」
「永琳さん、貴方が本当に冷徹な支配者であり首謀者であり観察者でしかないなら、わざわざ輝夜さんとともに地上で暮らす必要はないはずです。輝夜さんの世話と観察は他の誰かに任せ、自分は月で研究を続ければいい。けれど貴方はそうしなかった。自らもその薬を飲んで、穢れにまみれた地上で輝夜さんと暮らすことを選んだ。――そこまで身体を張るのは、冷徹な首謀者のやることではありません。
だとすれば――これもまた、前提に誤りがあるんです。つまり、これが永琳さん、貴方を含む月の民の仕組んだ壮大な実験であるという前提そのものが誤りということになります。
――いや、月に残った側は、そうだと思っているのでしょう。貴方は実験のために輝夜さんのそばにいるのだと。貴方はこの一連の計画の首謀者であり観察者であると」
そこで大きく息を吐いて、蓮子は最後の言葉を、永琳さんに投げかける。
「永琳さん。貴方は輝夜さんだけでなく、月すらも騙したのではありませんか?
この、地上での輝夜さんとの生活――貴方が本当に求めたのは、それだったのではありませんか? 貴方は、月を離れ、輝夜さんと別天地で暮らす――そのためだけに、蓬莱の薬を作り、月を欺き、輝夜さんを欺き、同胞を殺し、輝夜さんと地上へ逃げたのではないですか?
そして――貴方が作った蓬莱の薬が、生命の主体を魂に移すものであり、その魂が有限の認識という穢れの影響を受けるものでしかないのであれば――。
穢れの影響を受ける以上、その魂は有限のはずです。
だから貴方たちは――貴方と輝夜さん、そして妹紅さんは、完全な不老不死ではない。
肉体のくびきから解き放たれていても、その魂が摩滅するとき、貴方たちは滅ぶ。
だとすれば――」
――この月と永遠を巡る物語は、この言葉に集約される。
「貴方は、偽りの永遠を共にすることで、二人で死ぬことを願ったのではないですか。――輝夜さんとともに地上で死ぬために、かりそめの永遠の命を手にしたのでは、ないですか?」
とて、壺の薬添へて、頭中将呼び寄せて奉らす。中将に天人取りて伝ふ。中将取りつれば、ふと天の羽衣うち着せ奉りつれば、翁をいとほしく、かなしとおぼしつることも失せぬ。この衣着つる人は、もの思ひなくなりにければ、車に乗りて、百人ばかり天人具して上りぬ。
―34―
そうして、永夜異変から一ヵ月が過ぎた。
その間、特に何事があったわけではない。私たちはいつも通りに寺子屋を手伝い、お客さんの来ない事務所で遊惰な時間を過ごした。永夜異変のことなど忘れたかのように。
もちろん私はその間、この記録をまとめていたので、図らずも相棒の推理についてじっくりと考えることになった。提示された謎と、指摘された矛盾について。
月の民が穢れを厭うということは、不老不死を求めるということではないのか。
それなのになぜ、月の民は蓬莱の薬を禁忌としたのか。
そもそも、穢れとはいったい何か。
そして――あの異変はなぜ起きたのか。
「これもまた、いつものパターンなのかしら? でも、永琳さんたちはずっとあの竹林の奧に引きこもっていたんだし……」
これまで私たちが――というか、我が相棒が推理を繰り広げてきた異変の謎は、極言すれば全て根底にあるのは同じパターンである。要するに、認識が力を持つこの幻想郷において、認識を望む形に操るために異変が起こされたとするものだ。
紅霧異変も、春雪異変も、三日置きの百鬼夜行も。もちろん、それが正解であるか否かは確言できないにしても、相棒の推理はおそらく、真実のストライクゾーンを掠めている。
「ああ、でも妹紅さんっていう窓口があったのよね。三百年も殺し合ってるとか……」
――矛盾が生じるときは、前提が間違っている。
相棒はそう言った。では、いったいどの前提が間違っているというのか?
「…………はあ」
私は畳の上に寝転がる。やはり、私の頭は相棒のような妄想力を秘めていない。どれほど考えても、結論のとっかかりすら見いだせそうにない。
ワトソン役はそうでなければならないとしても、なんだか悔しい話である。今回の異変は、私の方が蓮子よりも深く首を突っ込んだというのに――。
「なーにメリー、ため息なんかついて」
突然、視界に相棒の顔がぬっと突き出てきて、私は目をしばたたかせる。
「……別に。ていうか授業終わったの?」
「ええ、そろそろ子供たちも帰り始める頃じゃないかしら?」
相棒の言葉に答えるように、外から子供たちの歓声が聞こえてきた。「せんせー、さよーならー」「ああ、気を付けて帰るんだぞ」と子供たちと慧音さんの声。私たちも子供たちを見送りに、離れの事務所を出て寺子屋の玄関へ向かう。
「あ、蓮子せんせー、メリーせんせーも、さよならー」
「はい、みんなまた明後日ねー」
私たちに気付いて手を振る子供たちに手を振り返す。子供たちの姿が途切れたところで、慧音さんが振り返り、「さて、今日もご苦労様」と笑った。
「ところでふたりとも、今夜はどうする? 満月なので私は竹林に行くが、君たちも一緒に妹紅のところに行くか?」
「ええ、そうさせていただきますわ。永遠亭の方々にもまたご挨拶したいですし」
蓮子が笑ってそう答えると、慧音さんは困ったように頬を掻く。
「……それはいいが、妹紅があいつらと喧嘩しないように気を付けてくれるか? いや、それが妹紅の生きがいだってことは解ってるんだが、私としてはやはりな……」
「はいはい、解っておりますわ」
にやにやと笑って頷く蓮子に、慧音さんはただ肩を竦めた。
そんなわけで夕刻、私たちは慧音さんとともに、妹紅さんのあばら屋を訪ね、夕飯をご馳走になった。美味しいのだけど、いつも筍尽くしなのはもう少しバリエーションが欲しいと思う。
夕飯を終えたあとは、慧音さんが歴史家としての仕事に向かうために、大量の史料を抱えて立ち上がる。
「それじゃあ、私は仕事に出るからな。妹紅、今夜ぐらいは喧嘩するんじゃないぞ」
「ああ、解ってるよ」
「あ、妹紅。私たちも永遠亭にご挨拶に伺いたいから、一緒に出ない?」
「おん? なんであいつらのところに――」
「先月お世話になったお礼を改めて言いたいの。いいでしょ?」
「……義理堅い奴だな。あの藪医者に人体実験されないように気を付けろよ」
妹紅さんはため息をついて立ち上がる。そうして、私たちは慧音さんに続いてあばら屋を出た。いつもの広場に向かう慧音さんと別れ、私たちは妹紅さんの先導で竹林の奧へ向かう。
「……永遠亭に行くってことは、結論は出たってことよね?」
歩きながら、私は蓮子に耳打ちする。相棒は帽子を持ち上げて、にっといつもの猫のような笑みを浮かべた。
「まあ、永琳さんにぶつけられる程度の仮説はね。それが真実かどうかは神のみぞ知る」
「どうせいつもの誇大妄想でしょう?」
「そうよ。この世界と異変を、私なりに面白くするためのね」
全く、その自信はどこから出てくるのか。
ともかく、妹紅さんに導かれて竹林の奧へと進むうちに、ほどなく永遠亭が見えてきた。かつて永遠亭を隠していた強固な結界は既にない。どうやら、永夜異変を機に屋敷を隠していた結界自体を解いてしまったらしい。
妹紅さんが屋敷の中を覗きこもうとするように伺うと、中からてゐさんが顔を出した。
「おん? いつぞやの人間に姫様の友達じゃん」
「誰が友達だ! あいつは宿敵だ!」
「姫様なら、外に遊びに行ってるよ。たぶん神社」
「神社ぁ?」
博麗神社か。箱入りの姫様が、勝手に出歩いていいのだろうか?
「なんだ、輝夜の奴いないのか……」
妹紅さんはちょっと寂しそうだった。なんだかんだ言って、輝夜さんと口喧嘩するのも彼女の楽しみなのかもしれない。本人は否定するだろうけど。
「永琳さんも一緒におでかけ?」
「ん? ううん、お師匠様は居るよ。なに、頭の病気?」
「まあ、蓮子は病気みたいなものよね」
「ひどいわねメリー。先月のお礼というかご挨拶に伺ったんだけど」
「ほいほい。じゃ、案内するからついてきな。そこのはどうする?」
「……輝夜がいないなら乗り込んでも仕方ないな。ここで待ってるから、何かあったら叫べ」
「了解」
腕を組んだ妹紅さんに片手を挙げて答え、蓮子はてゐさんに続いて屋敷の敷地に足を踏み入れる。私もその後に続いた。先月蓮子を担ぎ込んだときには離れの方に案内されたけれど、今回はまっすぐに屋敷の玄関の方へ導かれる。
「中に入っていいの?」
「こないだの騒ぎで穢れだらけになっちゃったから、封印を解いたんだってさ」
そういえば、先月輝夜さんがそんなことを言っていた気がする。穢れが入ってきて、ものが壊れるようになったとかなんとか――。
廊下は正常なようだった。床板を軋ませながら奧に進み、てゐさんが「お師匠様ー」と襖のひとつを開く。机に向かっていた永琳さんが振り向き、「あら」と小首を傾げた。
「こんばんは。改めましてその節はお世話になりました」
「ごきげんよう。その後、目の具合に問題はないかしら?」
「ええ、おかげさまで前よりよく見えるぐらいで」
「そう。それなら今日は何の用? どこか別のところでも具合が悪くなった? それともそっちの境界視のお嬢さんの目と脳を私の研究に提供してくれるのかしら?」
「え、メリー、そんな約束してたの?」
「してないしてない!」
「冗談よ。興味があるのは事実だけれど」
真顔で怖いことを言わないでほしい。月の民はやっぱり何かズレているのかもしれない。
と、相棒が不意に帽子の庇を持ち上げて、永琳さんを見つめた。
「永琳さん。今日は少し、お話を伺いに参りましたわ」
「話? あのときの、貴方の目の症状について、かしら」
「それはそれで興味がありますが――それよりも、先月のあの騒ぎについてのことです。いったいなぜ、あの騒ぎが起こったのか。貴方はそれで何を為そうとしたのか」
「――――」
「より端的に申し上げれば、永琳さん。貴方が満月を隠した本当の理由についてです」
永琳さんが訝しげに眉を寄せた。蓮子は部屋の隅から勝手に座布団を引っ張り出して、そこに腰を下ろす。椅子を回して、永琳さんが私たちに向き直った。
「その事情については、そこの子に説明したと思ったけれど、聞いていないのかしら?」
「聞きましたわ。聞いた上で、この相棒が見聞きしたことと、私自身の調べたこととを考え合わせると、どうも永琳さん、貴方の表向きの説明では辻褄の合わないことが多いのですよ。だから、その辻褄合わせを勝手に考えてみました」
「…………」
「端的に申し上げましょう。――永琳さん、貴方が満月を隠したのは、鈴仙さんを迎えに来る月の追っ手から身を隠すためではない」
そして蓮子は、いつものように、真実へと斬り込んでいく。推理という名の妄想を武器に。
「逆なんです。――月からの追っ手が来ないことを隠すために、満月を隠したのですね?」
―35―
永琳さんの表情は変わらなかった。地上の民に、永遠を生きる月の民の感情など忖度のしようもないのだけれども、少なくともその表情からは何の感情も伺えなかった。
いや、感情が伺えないということが、あるいは最も雄弁な感情表現だったのかもしれないが。
「さて、その問いに私は何と答えればいいのかしら?」
「何とでも構いませんが――私がそう考えた根拠を説明しても?」
「せっかくだから、聞きましょうか」
ありがとうございます、と蓮子は軽く頭を下げ、言葉を続ける。
「永琳さん。貴方は輝夜さんに対する罪滅ぼしのため、千三百年ほど前、輝夜さんを迎えに来た月の使者を殺して、同じ蓬莱の薬を飲んで不老不死となり、月の追っ手から逃れるため、この永遠亭に強固な結界を張って隠れ住んだのでしたね」
「ええ、その通りよ」
「また、この永遠亭に張られていた結界は、穢れの侵入を防ぐ目的もあった。けれど先日の騒動で外の人間や妖怪が大挙してやって来たため、屋敷は穢れだらけになってしまった。てゐさんや輝夜さんがそのようなことを言っていました。そのため、今はもう結界を解いている――永遠亭の現状はこの理解で正しいですね?」
「ええ。結局、地上の密室を作らずとも月の民は博麗大結界に阻まれて幻想郷に辿り着けないということのようだったからね。先月の騒ぎの後、妖怪の賢者からそう聞いたわ」
「――それがおかしいと、私は考えるわけです」
「ふうん?」
永琳さんは鼻を鳴らし、蓮子を見つめた。蓮子はそれを見つめ返し、そして斬り込む。
「なぜなら、数十年前に既に鈴仙さんが永遠亭に辿り着いているからです」
「…………」
「貴方たちが本気で月の追っ手を恐れて隠れていたなら、鈴仙さんが永遠亭を見つけられるはずがないんですよ。鈴仙さんはその目の能力で永遠亭を囲む結界を発見したと言いましたが、これそのものが最大の矛盾です。鈴仙さんの目の能力は月の兎ならば大なり小なり持っているものだと言います。それによって見破られる結界など、月から隠れるための結界として用を為していないではありませんか」
永琳さんは黙って手にしていた筆を指の間で回した。蓮子は言葉を続ける。
「また、先月の騒動が起きたのも、鈴仙さんに月から帰るように連絡が入り、貴方たちが見つからないために鈴仙さんを帰さないことに決めたのが引き金だったそうですが――これもおかしい。貴方たちが本気で隠れているなら、鈴仙さんの元に月から連絡が入ることも防ごうとしたはずではないですか?
即ち、鈴仙さんの存在自体が、貴方たちの逃亡者としての立場に対する矛盾に他なりません。よもや永遠の命を持って輝夜さんとともに永遠に逃げることを誓った貴方が、たかが千三百年ごときで気が緩んで守りをおろそかにした、などとは言わないでしょう?」
「あら、それがただの気の緩みだと言ったら、貴方は引き下がるの?」
「いいえ。永琳さん、貴方たちの抱える矛盾は他にもあります。それは、輝夜さんが三百年ほど前から妹紅さんと殺し合っているということです。それの何がおかしいのか? ――貴方たちが永遠亭という結界の内側に引きこもっていたなら、輝夜さんが妹紅さんと出会うことも無かったはずだからですよ。
メリーによれば、永遠亭の結界は屋敷の周囲の狭い範囲のみだったようですね。妹紅さんも直接永遠亭に辿り着く術は知らないようで、私を担ぎ込むときに外から輝夜さんを呼び出していたようですが――それは即ち、三百年前から、輝夜さんは結界の外を出歩いているということです。そして、妹紅さんと殺し合っている。
――結界の目的が、月の民から隠れるためであり、また穢れの侵入を防ぐためであるなら、なぜ輝夜さんは月の民から見つかるかもしれず、穢れに満ちている結界の外へ、そう何度も出入りしているのですか?」
「姫の気晴らし、とでも答えておきましょうか。永遠の命を持っていても、年単位で引きこもっていると気が詰まるのよ。それに、月と地上の間に道が通じるのは満月の夜だけ。それ以外のときは問題ないわ。――屋敷を結界で覆ったのは、穢れのない月で暮らしていた私たちには、地上の穢れに囲まれて生活するのはいい気分ではなかったから。それだけの話」
「なるほど」
さらりと答えた永琳さんに、しかし蓮子は食い下がるでもなく頷いた。
「堅固なアリバイよりも、曖昧なアリバイの方がかえって崩しにくい――というのは推理小説の中でよく言われることですが。そうのらりくらりとかわされると、かえって想像を逞しくしたくなるのが性分なもので。
少なくとも事実として、月から逃げてきた鈴仙さんは永遠亭を見つけているし、輝夜さんは結界が解かれる前から永遠亭の外を出歩いている。これは動かしがたい事実です。それは貴方と輝夜さんが逃亡者であるという物語と矛盾する。そして、あれほど大がかりな騒ぎを起こしてまで月の追っ手から逃れようとしたという事実とも矛盾する。――となれば、まず前提がどこかで間違っていると考えねばなりません。
そして、鈴仙さんが永遠亭を見つけ、鈴仙さんに月から連絡が入り、輝夜さんが外を出歩いているという事実が示す前提の誤りとは、すなわち――貴方たちが、月から隠れてなどいなかったということです。――永琳さん、貴方が輝夜さんとともにこの幻想郷に隠れていることは、月の民は最初から承知していたのではありませんか? そして、少なくとも永琳さん、貴方はそのことを知っていた」
「まるで、私が月のスパイみたいな言いぐさね。私は輝夜と逃げるとき、同行していた月の使者を皆殺しにしているのよ? それも虚偽だというの?」
「いいえ、それは事実でしょう。輝夜さんがそれを記憶しているはずですし、永遠に輝夜さんを欺き続けるには、そのぐらいのことは必要だったはずです」
「つまり私は、輝夜を欺くためだけに同胞を皆殺しにした殺人鬼だということね」
「さて――それはどうでしょうか」
蓮子の言葉に、永琳さんが初めて微かに眉を寄せた。
相棒は不敵な笑みを浮かべて、さらなる追及の言葉を続ける。
「どうせ前提を疑うのなら、さらに疑念を遡ってみましょう。竹取物語の時代――さらにそれ以前、輝夜さんが月で暮らしていた頃まで。輝夜さんは、永琳さんの作った不老不死の薬を飲んだことで穢れを生じ、その罪で地上に落とされたという、全ての発端から。ここに今回の異変の孕む、最大の疑問があります。
月の民は穢れを厭って、穢れのない月へと移り住んだ者だと聞きました。では、穢れとは何か。私の知る限り、穢れとはまず何より、生命の理です。生と死。出産、病、そして死、それらは地上においても永く穢れとして忌まれてきました。
貴方たち月の民が、そのような穢れを避けて月へと移り住んだのならば――月の民がそれによって求めたのは、永遠の命のはずではありませんか? 生と死を超越し、生きても死んでもいない、穢れのない状態となること――。穢れを厭うとは、つまりそういうことでしょう。
だとすれば、最大の矛盾がここにあります。月の民が永遠の命を求めたならば、それをもたらす蓬莱の薬を禁忌とするはずがないではありませんか。それは、月の民の宿願でなければならないはずです。
それなのに、輝夜さんはその罪で地上に落とされたという。蓬莱の薬が禁忌であるはずがないとすれば、彼女は罪となるはずのないことで罰を受けた。それはなぜか? ――それも矛盾であり、だとすれば前提が誤っています。
輝夜さんは何の罪も犯していない。蓬莱の薬を飲むのは罪であるという輝夜さんの認識そのものが、永琳さん、貴方たち月の民が彼女に植え付けた欺瞞だったのではありませんか。
そして、貴方が月から真の意味で隠れていないとすれば――輝夜さんの飲んだ蓬莱の薬が、貴方の作ったものであるならば」
そこで蓮子は言葉を切り、永琳さんをまっすぐに見つめた。
「輝夜さんが蓬莱の薬を飲み、地上に落とされ、そして今も永琳さん、貴方と地上で暮らしていること――それ自体が、蓬莱の薬の効果を確かめるための人体実験だったのではないですか」
―36―
永琳さんは何も答えない。それを話の続きを語る許可と受け取って、相棒は口を開く。
「そう、竹取物語から今回の異変に至るまで、全ては一連の、ひと繋がりの出来事なんです。全ては輝夜さんから、これが壮大な人体実験であることを隠すために全てが仕組まれていた。輝夜さんに、自分が罪人であり、そのために逃亡しているという偽りの物語を信じ込ませるために、今回の異変も起こされたのです。貴方が月から隠れていなかった以上、貴方と月との間には秘密のホットラインが存在したと考えるのが自然であり、鈴仙さんが永遠亭に転がり込んだのも、月と貴方の間で情報が共有された結果導かれたと考えるべきでしょう。
そして、鈴仙さんに月から帰ってこいという連絡が入ったことは、貴方たちにとって予定外のイレギュラーだったのでしょう。この人体実験を仕組んだ側とは別の――おそらくは鈴仙さんと同じ月の兎からの私的な連絡だったのでは? それに感化されて鈴仙さんが帰ると言い出したために、永琳さん、貴方は満月を隠さなければならなくなった。自分と輝夜さんが月からの逃亡者であるという物語を守るために。月から追っ手など来ないのだということを、輝夜さんから隠すために」
「随分と、おかしな話ね」
永琳さんは筆を机に置いて、ひとつ鼻を鳴らした。
「仮に貴方の言う通りだとして。私が月の使者を殺したことも、その人体実験のためだったというの? 永遠の命を求めた月の民が、人体実験のために命を投げ出すなど愚の骨頂ではないかしら?」
「ええ、その通りですね」
その反駁に、しかし蓮子は平然と頷いてみせる。
「いくらなんでも、輝夜さんの人体実験のために同じ月の民を何人も殺すなんていうのはあまりに不合理です。だとすれば、ここにも矛盾があり、前提の誤りがあります。
逆なんですよ。輝夜さんの人体実験のために月の使者が殺されたのではありません。
――月の使者を殺すために、輝夜さんの人体実験が仕組まれたのです」
初めて、永琳さんがはっきりと目を見開いた。
「それがどういう理由で起こったのかは解りません。月での勢力争いなのか、粛清なのか。いずれにせよ、永琳さん、貴方が殺した月の使者は、この計画を立てた者たちにとって不都合な、邪魔な存在だったとすれば。生と死の理という穢れを忌避する月の民が、月で彼らを殺してしまうわけにはいきません。月の民を始末するには地上に送り出すしかない。そのために、輝夜さんの人体実験が仕組まれ、彼らは殺されるために月の使者として送り出された――あるいは、この人体実験の関係者に対する口封じだったのかもしれませんが。そして永琳さん、貴方はその罪人の役割を引き受けたのではないですか」
「――――」
「月の使者の殺害計画が先か、輝夜さんの人体実験が先かまでは確証が持てませんが、いずれにせよ輝夜さんが蓬莱の薬を飲んだことが罪であるはずがなく、永遠亭が実際は月から隠れていなかったとすれば、永琳さん、貴方の輝夜さんに対する贖罪という行動原理は成立していません。だとすれば、ほぼ全てが貴方の計画であると考えた方が自然です」
――答えは、永琳さんの大きなため息だった。
「じゃあ、こちらからも、貴方の前提の誤りを指摘しましょうか」
「というと?」
「穢れという概念に対して、貴方は根本的に誤解しているわ」
永琳さんは立ち上がり、部屋に置かれていた水差しから、空になった湯飲みに水を注ぐ。
「穢れとは、単純な生と死の理そのものではないのよ。それは――」
「認識、ですね?」
永琳さんの言葉に割り込んで、相棒はそう言った。永琳さんが今度こそ大きく目を見開く。
「ええ、もちろんそこも、考えておりましたわ。そもそも穢れとは何か。それは生と死の理そのものか? それは違うはずです。それならば、蓬莱の薬を飲んで不老不死になった輝夜さんも、その薬を作りあげた永琳さんも、月が地上にいつまでも放置しておくはずがない。
だとすれば、これもやはり前提が間違っています。生と死が穢れであることは事実でしょう。では、それを穢れであると定義するのは何か? ――それは、認識です。生と死を認識すること。物事に始まりがあり、終わりがあるということを認識すること。それこそが穢れなんです。
――つまりそれは、認識が力をもつこの幻想郷の論理です。この世界では、認識されることで存在が維持される。つまり、有限であると認識することによって全ては有限と化すのです。無限を否定する認識の力。その認識こそが穢れなんです。
そう考えれば、蓬莱の薬が穢れを生じるという矛盾も説明できます。不老不死を求めるということは、それを得ていない自身は有限であると定義するという行為だからです。その意味で、貴方は輝夜さんに完全な嘘をついてはいなかったのでしょう。輝夜さんは確かに、蓬莱の薬を求めた時点でその魂に穢れを生じていたのでしょうから」
「――――」
「そして、妹紅さんから伺いました。蓬莱の薬とは、命の主体を魂にすることで肉体を再生可能にする薬であると。――認識こそが穢れであるなら、穢れの影響を受けるのは、肉体ではなく魂のはずです。
そして、妹紅さんは不老不死になってからの長い年月で体術や妖術を身につけ、また黒かった髪が銀髪になるという変化を生じたといいます。その変化は即ち、妹紅さんの魂の変質が再生する肉体に反映されたのではないでしょうか。穢れの影響を受けた魂の――。
その上で、妹紅さんの飲んだ薬が、輝夜さんの飲んだものと同じならば、輝夜さんもまた同様に、その魂は穢れの影響を受けていることになります。竹取物語の中で、かぐや姫が赤子の姿から短期間に成長したのも、翁たちへの愛着を抱くに至ったのも、その魂が穢れの影響を受けていたからだとすれば――だから貴方は、永遠亭に結界を張って輝夜さんを穢れから隔離したのではありませんか? 穢れの濃度が、輝夜さんの魂に与える影響を計るために」
蓮子はひとつ咳払いして、「整理しましょう」と言った。
「永琳さん、貴方は月で蓬莱の薬――生命の主体を肉体から魂に移す薬を開発した。その被験者として輝夜さんが選ばれ、彼女は何も知らず、自分が求めたつもりでその薬を飲み、存在しない罪によって地上に落とされた。貴方は月の使者の一員として輝夜さんを迎えに行き、そして何らかの事情で邪魔者となっていた他の月の使者たちを殺害し、輝夜さんと偽りの逃亡生活に入った。地上の穢れが輝夜さんの魂に与える影響を観察する実験を継続するために――」
「……つまり私は、輝夜を騙して人体実験を行い、かつ邪魔な同胞を皆殺しにした、冷酷無比なマッドサイエンティストということなわけね。なかなか光栄だわ」
皮肉げに、永琳さんは笑う。けれど、蓮子は――。
「いいえ、それが全てでもないでしょう」
「――――」
「永琳さん、貴方が本当に冷徹な支配者であり首謀者であり観察者でしかないなら、わざわざ輝夜さんとともに地上で暮らす必要はないはずです。輝夜さんの世話と観察は他の誰かに任せ、自分は月で研究を続ければいい。けれど貴方はそうしなかった。自らもその薬を飲んで、穢れにまみれた地上で輝夜さんと暮らすことを選んだ。――そこまで身体を張るのは、冷徹な首謀者のやることではありません。
だとすれば――これもまた、前提に誤りがあるんです。つまり、これが永琳さん、貴方を含む月の民の仕組んだ壮大な実験であるという前提そのものが誤りということになります。
――いや、月に残った側は、そうだと思っているのでしょう。貴方は実験のために輝夜さんのそばにいるのだと。貴方はこの一連の計画の首謀者であり観察者であると」
そこで大きく息を吐いて、蓮子は最後の言葉を、永琳さんに投げかける。
「永琳さん。貴方は輝夜さんだけでなく、月すらも騙したのではありませんか?
この、地上での輝夜さんとの生活――貴方が本当に求めたのは、それだったのではありませんか? 貴方は、月を離れ、輝夜さんと別天地で暮らす――そのためだけに、蓬莱の薬を作り、月を欺き、輝夜さんを欺き、同胞を殺し、輝夜さんと地上へ逃げたのではないですか?
そして――貴方が作った蓬莱の薬が、生命の主体を魂に移すものであり、その魂が有限の認識という穢れの影響を受けるものでしかないのであれば――。
穢れの影響を受ける以上、その魂は有限のはずです。
だから貴方たちは――貴方と輝夜さん、そして妹紅さんは、完全な不老不死ではない。
肉体のくびきから解き放たれていても、その魂が摩滅するとき、貴方たちは滅ぶ。
だとすれば――」
――この月と永遠を巡る物語は、この言葉に集約される。
「貴方は、偽りの永遠を共にすることで、二人で死ぬことを願ったのではないですか。――輝夜さんとともに地上で死ぬために、かりそめの永遠の命を手にしたのでは、ないですか?」
第4章 永夜抄編 一覧
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壮大かつロマンティックですね。永琳の考えるスケールは大きくて、追い付きようがありません。
次はExステージですかね?楽しみです。
なる・・・ほど
まだ頭が追いつきません…
蓮子の頭の中はどれだけ壮大な物語を推理したのか。
来週の続きでどんな展開になるのか楽しみです。
月では永琳は人体実験の為に地上に行ったと考えてるとするなら確かにサグメ様がまだ永琳に様付けしている理由にもなりますね。確かに永夜抄のテキストとか見て矛盾だらけで、永遠の謎になるだろうなとか考えてました。
作成、お疲れ様です。永琳さんの凄く深い愛情ですね~母親の様な心。いや~読ませて戴いて「すげぇ~」っと口に出してしまう程です。でも、色々と頭が混乱しておるのもまた事実です^^;