楽園の確率~Paradiseshift.第1章 火の国のヤマノメ 火の国のヤマノメ 第1話
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公開日:2016年11月21日 / 最終更新日:2016年11月21日
楽園の確率 ~ Paradise Shift. 第1章
火の国のヤマノメ 第1話
ゆらり、ゆらり。
あそこに仄明るく揺らめき、煌めく光は何であろうか。
怨霊が宿す灯火か、火車が持ち帰った遺骸から溢れた燐火か。
幻想郷の地下に封じられた妖、土蜘蛛――の一人である黒谷ヤマメは、自身の足下を見る。足下とは言うが、旧地獄への縦坑を真っ逆さまに落ちる彼女の見るそちらは、奈落より天を見通す方向。
しかしここは閉じられた地。超空の天蓋より更に手前、大地には確固たる封が有る。
虫食いだらけではあるが。
既に地獄としての機能を失したこの奈落には、底がある。このまま落ちれば、如何に強靱な私でも頭が砕け、首から腰までことごとく砕けて死ぬだろう。ヤマメは、そんな事すら朧気に思い浮かべながら、なおも重力に身を任せている。
一度だけ見通すこと叶わぬ天道に手を差し出し、また戻す。
そうしてからまた、夢うつつの眼差しをそちらに向け続けた。
∴
何者かが肩を揺さぶる。
「……い……おい」
その様に呼ぶ声にも、瞼が重く、全く持ち上がらない。持ち上げようという気が起きない。眠いのだから眠る。それは、どの様なモノにも共通する自然(じねん)の理だ。
だが声の主はそれを許さない。
「起きぬか、ヤマノメ!」
ふが、と途中で止められたイビキを自覚しつつ、ヤマノメは目を覚ます。
「ったく、オレが居ようがおるまいが、何かが変わる話でもありますまい」
そもそも此度、なぜ己が呼ばれたのかも全く分からぬのだ。ただただ、面倒な寄り合いに参加させられただけであるのに。
山吹色の髪を揺らし、煤けた面(おもて)の中で場違いに輝く鳶色の目を向け、彼女はそう応じる。
周囲の長老――服装はまちまちで見た目相応の年寄りも居れば、人間で言えば初老の男も居る――は一斉に彼女を睨む。
またその輪から離れた場に座し、素肌全面を毛に覆われた一人の男は、呆れ顔の後に盛大に嘆息。残る一人の、真黒な生糸の如き垂れ髪の女だけが、愉快そうにころころと笑う。
「んで、なんだって?」
「ちょうど、お前の手持ちの山の、赤い鉄の話をしていたところだ」
「ああ、あっちはオレが好きに掘ってるだけだし、好きに持ってけばいいでしょう」
山も石も、別に己が占有している物ではない。手間暇かけて掘り出した食いブツを持って行かれるのは堪らないが、そうでないなら勝手にしろと言う。
「それとも何か、そこまで面倒を見にゃならんのかな?」
言い募るヤマノメ。今度は先ほど嘆息した男が、にわかに表情を険しくして声を上げる。
「これは俺らだけの問題では無い。鎮西(ちんぜい)(※1)にある妖物にとって――否、俺らや、わぬしらを知る土豪らにあっても、合力して当たるべきだ」
「鉄ならお前らも扱ってるはずだろ、ひょうずよ」
毛むくじゃらの――ひょうずの男は、屋根の下でもなお被ったままの笠を持ち上げ、明らかに憤慨した目を向ける。ヤマノメはなおも、ひょうひょうとした様子で見返す。
ヤマノメが言うとおり、ひょうずは水棲の妖であるが、鉄を嫌う水界のモノの中でも珍しく金気を、殊に苦手とするはずの鉄をも取り扱う。
ヤマノメら土蜘蛛と同じく炉や蹈鞴(たたら)により、砂鉄を主に用いて精錬するのだ。
刀剣類等に必要な粘り強くしなやかな鋼ならば、彼ら自身で手にできる道理。
「いや、足りぬのだ」
足りぬ、単純に絶対的な量が。
「お前が寝ているのが悪いぞえ、ヤマノメよ」
垂れ髪の女は袖で口元を覆い、困り顔で諭す。他の土蜘蛛達は、既にひょうずの話に理解の意を表した後であった。
「万寿(まんじゅ)よ。ならオレが聞き漏らした話を教えてくれ」
戦うだけなら鋤鍬でも用は足りる。真っ向からのただの人間との立ち会いには、矛を取り出す必要すら無い。ひょうずはその様に言った。しかし、この度寄せて来た人間というのが、矛を手に取り、有るだけの鏃を揃えてもいささか足りぬ、とも言った。
「斯様(かよう)に危うい事を認められるのは、さすがにひょうずと言うところ。意地っ張りな我らと比べて賢い事よ」
褒めているのか貶しているのか、渋色の小袖を着た垂れ髪の土蜘蛛、万寿は、微笑みを浮かべながら、薄くも紅の映える唇でささやく。
「で、矛や刀の他に、一体何に大量の鉄を使う気だ」
「それも話しておったのだがな」
「聞いてなかったのなら、幾度でも話そうぞ」
今度はひょうずが前のめりになり、恐らくは自慢も半分混じるであろう話を繰り返す。
「此度我らは、銅と鉄で覆った唐繰(からくり)を用い、彼奴らと当たるつもりだ」
唐繰は既に青銅の鱗をまとい、松や樫の骨を巡らせている。後は鉄の鱗で要所を守るだけ。やはり自慢げに語る彼に、ヤマノメはそれなら納得と感心し、首を縦に振る。
万寿はその様子を見逃さず、口元は微笑ませたまま、胡乱げに眉を寄せて言葉を挟む。
「こりゃ、そも戦の相手が誰かも聞いておらなんだな? ヤマノメ」
これについては、話すまでも無いだろうと周囲の誰もが思っているが、ヤマノメだけは素の顔で、「分からん」と言って放つ。
これに男衆は一挙に脱力し、対照的に、声を上げて笑い出した万寿が教える。
「源八郎。河内源氏(かわちげんじ)の御曹司、源為朝(みなもとのためとも)じゃ」
皇統にも連なる血。彼より遡って七代、清和(せいわ)帝(※2)の孫の経基(つねもと)王が臣籍降下(※3)して源姓を賜って後よりの、清和源氏の血族。
これこそ我らが戦うべき相手だ。年寄りの土蜘蛛は、万寿の言葉にそう続けるが、その句だけは、ヤマノメをしても聞く必要すら無い事であった。
これは、どの様な思考よりも深く、ヤマノメら土蜘蛛の肚に刻まれているのであるから。しかしその中にあって、万寿だけはまた、これを笑い飛ばすかの様に言う。
「ほんに、殿方だけかと思えば、ヤマノメも血の気が多い。それに古老なればこそ諭すべきであるのに、あの様な強りしおのこを前に擬勢を示したところで、事は良い方向に運びませぬぞえ」
ヤマノメがここに居る意味は先の通り、鉄鉱の都合であるが、鉄どころか金や銅を掘るようにも見えぬ万寿が同席するのは、この様な威勢を抑え、踏みとどまらせる為であった。
土蜘蛛の古老達は、万寿の言葉に頭を冷やし、今後の事の運びに話を戻す。
「まあ先に言ったとおり、ヤマノメは鉄を、掘り出すのも含めて都合を付けてくれ」
やれやれと言う代わりに肩をすくめ、これには渋々ながらも承諾したヤマノメ。だが次に万寿から飛び出した言葉には――
「それとヤマノメ、わらわと筑前(※4)へ赴き、ひょうず等の戦いぶりを目に納めようぞ」
「何でオレが、それもお前などと行かなきゃならないんだ?!」
――気遣いなど全く無い言葉を吐き、頭を振る。
とにかく彼女とはそりが合わない。
土にまみれる仕事はしないのに、よく沐浴をし、その上でどこから手に入れたのか分からぬ香まで焚き染め、ヤマノメらから見ればだいぶ上等な衣まで纏う。彼女はこの辺境にありながら、実に雅な佇まいをしているのだ。
夏も冬も、殆ど袖も無い同じ衣を着込み、いつも薄汚れた顔をしたヤマノメとは正反対。傍からしてもその髪と瞳の色が、二人が真っ向から異なる者であると思わせる。
「だから申したであろう? [お前が寝ているのが悪い]と」
鉄鉱云々の話よりずっと早くに決まっていた事であったと、当初から寝ていたヤマノメもこれには反論の出来ず、押し黙るほか無かった。
∴
山野に花の咲き誇っていた季節が終わり、緑が溢れ、大気が潤いの匂いを放ち始めた時分。褐鉄の鉱石――ではなく、炉にくべて取り出した銑鉄(せんてつ)(※5)の塊を満載した荷駄車を引きながら、ヤマノメは一路、筑前国を目指す。
大力のひょうずですら及ばず、本邦にて鬼と呼ばれるモノ達にも比肩する剛力はぬかるみをものともせず、後方に深い轍を残す。
轍の間にはまた、車を引くヤマノメの足跡に続き、一対の軽やかなそれが刻まれている。ヤマノメは、ちらとそちらを見やってから、大きなため息をつきつつ口を開く。
「万寿よ」
「何か?」
「お前様はいつ、この荷を引いてくれるのか」
阿蘇南西の里より出でて百里――とはいかないが、往来を延々十里余りこうして車を引いて来た。当然のようにヤマノメが。
ようやく一宮(いちのみや)の脇に至ろう辺り。背に額に汗しつつも、弱音も吐かずに車を引き続けていた彼女ではあったが、その乾きかけた唇がとうとう非難の声を上げたのだ。
薄布の垂れ衣で覆った傘を被ぎ、新緑に溶け込む碧の袿を着た万寿の姿は、その素の美貌も相まって、公家の妻や女房と言っても十二分に通じる。
対照的に、袖の無い肩衣(かたごろも)(※6)と、裾を紐でくくっただけの粗末な袴という服装のヤマノメ。こちらは使わし女どころか、傍からは奴婢(ぬひ)にも見える。それも男の。
「この装いで? わらわが車を引くのは可笑しいであろ?」
それともヤマノメが代わりにこれを纏うかと、万寿は小さく笑いながら言う。
ただヤマノメはと言えば、着こなし以前にその様な窮屈な物は着たくない。
(そういう問題じゃ無いだろ……)
だが彼女が常にそれを着る必要も無いはず。逆に、こんな田舎で護衛も付けず、旅姿の女房が奴婢と二人旅などとは、山賊どもの格好の獲物。
当然ヤマノメはそんな輩に負けるとは思っていないが、面倒は避けたいし――
(そうなったらコイツは、どこまでやれるのかな)
万寿も、紛れもなく土蜘蛛である。だがこの体の――一部を除いて――線の細い、金堀どころか土仕事すらした事も無さげな女が戦うなど、ヤマノメには想像できない。
「おや、やはり「心得ず」とでも言いたそうだのう」
「当たり前だろうが」
納得など出来ない。正直なところ、ヤマノメは万寿を馬鹿にしているし、逆にあちらもそう思っているであろうと考えている。頭が足りぬ、という事では無い。むしろ教養については、ヤマノメこそ己が三人どころか十人集まっても万寿に及ばないのを自覚している。
土蜘蛛というモノに確たる本分が有るわけでは無いが、ある者は金を掘り、銀を掘り、またある者は銅や錫を掘り出し、ヤマノメの様に鉄を掘る者こそ多々在る。(もっとも、ヤマノメの様に、何かと手間のかかる褐鉄(※7)を掘り出す者は、物好きの類いにされている)
土に籠もる、故に土蜘蛛。少なくともヤマノメは、自らの属する一族をそう捉えていた。逆に言えば、荷車を引く者でも、断じて京風に着飾る者でも無い。
「せめて道案内はちゃんと勤めてくれよ」
万寿は袖を口元に持って行き、「ほほほ」とわざとらしい笑いと共に承知と答える。
肥後国(ひごのくに)、阿蘇南方を中心に、日向国(ひゅうがのくに)や薩摩国(さつまのくに)といった鎮西南部にしか足を運んだ事が無いヤマノメにとっては、筑前などは海の彼方の大地にも等しい。要は位置関係すらよく分からず、道のりなどは言わずもがな。(※8~10)
対して万寿は、その見た目に違って旅慣れており、筑前はおろか海峡の先の長門(ながと)以東へも足を運んだ事がある。
ただ女二人が、この様な装束で、荷を引いて、真っ昼間の山間の往来を堂々とという、あからさまに面倒を呼び寄せかねない状況にものほほんとしている万寿を見ると、本当に旅慣れているとは――
「納得、いかん」
林の向こうの道に五人ばかりの悪漢を認めたヤマノメは、舌打ちしながらボヤいた。
荷駄車を往来の端に寄せたまま、ヤマノメと万寿は林の茂みに身を潜める。
ヤマノメと同様の肩衣を纏うか、上半身裸の男達。いずれもが刀子か鍬で武装している。彼らは確かに荷駄車を目に留めると、当然それと、周囲を探り始める。
「どうする。オレ達は隠れ仰せても、あれを持って行かれたらコトだぞ」
「とはいえ多勢に無勢、真っ向から当たるのはどうかと」
お前が居なけりゃ真っ向からでもどうにかなるがな、と言いたいのをヤマノメは腹に押し込める。
見たところ、本所から逃げ出した流民に見える。これが徒党を組んだ武士なら争うのに二の足を踏むところであるが、腕っ節だけならヤマノメも負ける気は無い。
幸いにして、賊の興味はヤマノメ達よりも荷駄車に向いたようで、彼らはそれを引こうと、両側から梶棒を持ち上げる。車は動かない。
「まあ、荷を解かない限りは持って行かれん、か」
だが諦めるとは思えない、あれだけの量の鉄を放っておくなど。それも目の利く者が見れば、混じり物の少ない良品と分かるであろう。
となれば、ここは一旦退き、回収の算段を整えてから改めて現れるとも考えられる。
取り返すとすればその時が適当か。
ヤマノメらはジッと機を窺う、そんな時であった。
賊の一人の頭が一瞬で弾け、次に颶風(ぐふう)(※11)の如き風切り音が通り過ぎる。また別の賊が「何もんだぁ!」とあさっての方向に叫び、他の者は右往左往。傍から見ていたヤマノメ達ですら、何事が起きたのか分からず、固唾を呑んで状況を見守る。
またも響く怪音。今度は、並んでいた二人が同時に倒れる。そこでようやく、何が彼らを倒したのかが明らかになった。
「矛……いや、矢なのか?」
見紛うたのも無理はない。素槍の穂の如き鏃(やじり)、その先端から、熊鷹の美しい縞が映える矢羽根まで、優に十八束二つ伏(※12)。およそ五尺にも及ぶのだ。これが確かに矢だとしても、並の者には番(つが)えるのすら至難の業。
残った賊二人もこれを確認し、矢の飛来した方とは逆に駆け出す。姿を隠すべきであったのに素直に往来を逃げた彼らは、ほとんど同時に背から射られ、絶命する。
射手はいずこか。ヤマノメが僅かに頭を上げながら辺りを見回すと、三町(※13)も先の丘の上に馬が二頭と、脇に人影が一つ。
馬上にも人の姿がある。矢を射たのはそれらのいずれかか、はたまた両方。いずれにせよ、あれだけの距離を一発必中以上の精度で射て、貫いたのだ。巨大な矢からして、既にただ者ではないのに。
その射手達もまた、当然のように荷駄車に向かって歩み出していた。
「新手の賊かな?」
ヤマノメは隣の万寿に呟くが、応答が無い。ヤマノメは改めて彼女に問いかける。
「おい、万寿……!?」
居ない。
慌てたヤマノメが視線を往来に向ければ、いつの間にか彼女の姿はそちらにあった。
茂みから転び出る土豪の女郎、と彼らには見えたであろう。
馬上と二人と徒の一人、いずれも男であった。彼らが荷駄車から二十間ほどの距離に近づいたのと同時に、万寿は往来に出でた。当然、機を見計らっての動き。
(何を考えてるんだ、あいつは)
ヤマノメは依然として茂みの陰に潜みつつも、湿気で音を出しにくくなった茂みの中を、静かに前進する。
近くに寄ってみただけで、先ほどの『射手』がいずれか、明らかになった。
馬上に在るのは両方とも武士らしく、鎧直垂に身を包んでいる。いずれも矢筒を提げ、弓を携えているが、先ほどの尋常で無い矢を備えているのはそのうちの一人であり、同じ人物が持つ九尺もある重籐(しげどう)の弓(※14)は、見るからにこの矢を番えて放つのにふさわしい。
それ以前に、彼の風体が全てを物語っていた。
若々しい面に鋭い目つき、馬が小さく見えるほどの体躯。馬同士の体格を差し引いても、隣の男とは頭一つ以上の差がある。
名のある武士か。否、賊で無いとは限らない。
先ほどの山賊を射殺したのも、横から荷をふんだくろうとしたものかも知れない。ヤマノメはそう考え、だからこそ「なぜ己ですら考えつく事に思い至らず、彼らに姿を晒すのか」と、薄衣の下の万寿の顔色を注視する。
「もし、お武家様。危ういところを助けて下さり、かたじけのう存じます」
九尺の弓の大男はこれに応じず、もう一人の馬上の男を見やって言う。
「ほうれ重季(しげすえ)、やはり言った通りだったろう」
「若殿の見立て云々はさておき、派手な行いはお控えなされよ」
重季と呼ばれた青年は、大男に比べて明らかにひ弱そうな生白い顔で、しかし怖じける風も見せずに堂々と言い返した。
それを受けてから、大男は改めて万寿の方を向く。
「地元の百姓かも分からぬから放って捨ておけ、などとコイツが言ったのでな。こんな時間に百姓が、それも刀子を手に往来をうろちょろしているものかと、俺が奴らを射たのは斯様な由だ」
「そうでございましたか。実を申せば、供の者が牛を誤って軛(くびき)から放ってしまいまして。その者に牛を追わせ、わらわは車の側に居たところ、突然賊が現れて――」
面を上げ、垂れ布から顔をのぞかせながら万寿がそう言うと、大男ははたとした風に目を見張り、彼女を見返す。
「そこな茂みに隠れ、やり過ごそうとしていたのです」
「大事な荷だったのだな」
「ええ。これを納めねば、我が主人も忠国(ただくに)様に合わせる顔がのうなる所でした」
忠国とは、阿蘇周辺に広く所領を持つ、平(たいら)三郎忠国の事。
己をいずこかの荘官の女房か何かとし、荷はあくまでも税か献納品として騙る万寿。潜んで聞いていたヤマノメもそこまでは理解し、しかし次にはどうすべきか、出方を窺う。
「ならば俺達の馬を貸そう。おぅい、夜叉丸(やしゃまる)!」
馬に乗る二人の後から悠々と歩んでいた徒(かち)(※15)の男だったが、呼ばれたのに応え、すぐに駆けつけて側に立つ。
「応、これに」
大男の体躯に隠れて目立たなかったが、近くで見ればこちらも異様な輩であった。
行者風の装束にいくつかの法具を携えており、これだけを見れば密教僧かとも思えるが、剃髪せぬばかりか顎に黒髭を長々と伸ばし、太刀まで佩(は)いているのだ。二人よりも更に年かさを経て、中年男に見える。
夜叉丸は、背に負った、己の頭頂よりも高い行李(こうり)を地に下ろすと、そこから縄を取り出す。大男は何ら指示をしていない、以心伝心といった風にも思える。
ヤマノメは焦る。あの荷が馬一頭で引けるとは思えないが、引けないなら引けないで、別の策を取る事であろう。目立つお節介をして賊を倒したような人物だ、そのぐらいはしかねない。
どうしようかと、いよいよと戸惑うヤマノメの足を何かが引く。
「これは、万寿の糸か?」
土蜘蛛と言われるだけあって、ヤマノメ達は、そのような技を持つ。
ヤマノメの足首に巻き付く生糸よりか細い糸。細くはあるが、これだけで縄に近い強度を誇る。ヤマノメの側を去る際に、気づかれないようにこれを巻いていたのであろう。抜け目の無さに感心はしつつも、やはり虚仮にされた感もヤマノメは覚える。
「分かった。行けばいいんだろ、行けば」
糸を千切ると、忍び足で男達が来たのとは逆方向に回り込み、林の向こうの曲り道から姿を現す。
「御前様、ようやく牛を捕らえました。あちらの林に繋いでおりますので、大人しくなってから引いて参ります」
いつもは後ろ頭で髪を結うのに使っている布を開き、山吹色の髪をまとめて覆い隠している。いよいよ、奴婢にしか見えない。
「どこに行っておったか。心細く、その上に山賊まで現れる始末。これも皆、そなたのせいじゃぞ」
ヤマノメは腹の中で散々に悪態をつきながらも、ここは頭を下げて耐える。
万寿は振り向いて、ヤマノメのその姿を背にしてから、今度は大男に言う。
「聞いての通り、荷は事も無く、ここからの道のりも、お武家様の通り過ぎた後ならば易く進められましょう」
なので助けは要らないと、万寿は迂遠に断った。
「若殿、我らも世話を焼いている暇はござらぬ。この女房方が構わぬと言うのであれば、それでよろしいではありませんか」
大男はこの諫言に眉をひそめるが、更に眉をひそめるべき行いをする者が一人。
「おい、礫の! 何をしておる!」
重季の叫びと、ヤマノメが驚いたのは同時。気付かぬ間に、夜叉丸がヤマノメの側で膝をつき、下げたままの彼女の顔をのぞき込んでいたのだ。
「いや、先ほどの声を聞いて、もしやと思いましてな」
女、と分かったのであろう。ヤマノメが疎ましげに夜叉丸を見返すと、彼は更に顔を寄せ、耳打ちする。
「異人の女よ、お前の仕える者には注意しろ」
「……はぁ?」
「拙僧にはな、分かるのだ」
何が分かったのかはヤマノメにも察せられたが、如何せん、あべこべにも思える。
姿を全て晒せば、この場で最も異様なのは他ならぬヤマノメだ。万寿は確かに、この様な場所には不釣り合いな装束であるが、異様と言うほどでも無い。なのに夜叉丸は、ヤマノメに対し「万寿には気をつけろ」と言ったのだ。
「わかった……」
「して、お前達はいずこに向かうのか?」
「はい……ひとまず、一宮へと」
一宮とは肥後国一宮、即ち阿蘇神社の事。ヤマノメはこの先にある地を挙げたのであるから、男達の行き先とは当然ながら逆。
「左様か。一宮ならば古くから夷狄調伏(いてきちょうぶく)の神がおわす、もし困ったのなら頼ればよい」
そんな事は天地がひっくり返っても真っ平だとヤマノメは思ったが、これは口に出さず、夜叉丸には礼を述べる。
「若大将、どうやら女二人連れの様子ではあるが、我らの出番は無さそうだ。既に露払いは済んだ所だからな」
露払いとは、本当に道々で何事かをして来たのか。夜叉丸の真意も不明だが、こちらもヤマノメには気になった。
「若!」
重季がきつく促す。
「おう、お前達がそう言うなら急ごう。お主等も道中気をつけよ」
「お武家様より斯様な言葉をたまえるとは、ほんに心安らぐ思いであります」
馬に戻る大男と行李を背負い直す夜叉丸。重季は馬上で待つ、やはり何事か急いでいる様子。
彼らは慌ただしく準備を整え直すと、改めて軽く別れの挨拶をし、元の道のりに戻って行った。
残されたヤマノメと万寿は、彼らと違いすぐには動かない。動けなかった。
「ヤマノメよ」
「何だ」
「して、“牛”が大人しゅうなるのは、いつぐらいになるかえ?」
「夜までは無理だ。あの夜叉丸という男、お前に気づいたようだぞ」
おや、と珍しく素の顔で万寿は驚く。
「で、お許は?」
「……やはり解せん」
ふて腐れた風な貌を隠さず、ヤマノメは言う。
なんで己の方が半端者の様に見られなければならないのかと。それも己が知る中で最も“らしくない”奴と比べて、と。
「だから、あの忙しそうな侍二人はともかく、夜叉丸とやらがどう出るか分からん。この荷をオレが引っ張っているのを見られたら、いよいよ共倒れだ」
万寿もこれに同意と頷く。
「もしかしたら、お許の見目に騙されて、そうと考え至らなかったもやとも思えるの」
人間から見た異人風の風体がこんな所で役に立つのかと、ヤマノメはしかし複雑な心持ちで顔をしかめる。
「しかしよもや、この様な辺地で出くわすとは……」
明らかに知っていた風な万寿の口ぶりに、ヤマノメは詰問する。
「ちょっと待て。ならお前は、あの夜叉丸という男を知っていたのか?!」
それなら先ほどからの会話は何だったのかと言う事にはなるが、夜叉丸の言葉のつじつまは合う。
だが万寿は首を振り、いよいよと神妙な面持ちで答える。
「あの偉丈夫こそ、此度ひょうず達が戦う敵ぞ」
あれがこそが鎮西追捕使源為朝(※16)である。あっさりとそう明かす万寿に、ヤマノメはまた困惑する。
「ならば、さっきが好機だったじゃないか!」
たった三人。なぜみすみす取り逃がしたのかと、かの人物の正体を知っていた万寿を、ヤマメはいよいよ詰め寄る。
「あの弓箭(きゅうぜん)(※17)の手前を目の当たりにしてもなお、そう思うかえ?」
重季はともかく夜叉丸、それなりの法力を持つであろう怪僧の存在もある。やはりヤマノメに反駁の余地無く、やり込められるままであった。
源八郎為朝なる人物、如何なる生まれの者であるのか。
かの人物、出立前に聞いた通り河内源氏の御曹司と言われる身ではあるが、市井の遊女を母に持つ庶子であり、名乗りの通り父源為義の八番目の男子であるため、家督とは関わりの無い立場である。
とはいえ何故その彼が、今この鎮西に在るのか――
「豊後国(ぶんごのくに)(※18)の権守、尾張家遠(おわりいえとお)なる者の後見で鎮西へ下向との由らしいが、京では余程手に余ったのであろうなぁ」
「話が見えん」
「今に至り、豊後のみならず、筑豊全域や、後の運び次第では我らの火の国(※19)にまで寄せようとする輩ぞ。どれだけの悪たれか、それだけでよう分かろうというものでないかえ?」
「鎮西を平定せんと、源氏の奴らが放ったのでは無いか?」
「それはあり得ないぞ、ヤマノメ」
「なぜだ?」
「鎮西を脅かして太宰府(だざいふ)が黙っていると思うかえ? 勅(みことのり)を受けてであるならいざ知らず」
事実それが無いからこそ、筑豊に在し、殊に太宰府に本拠を置くひょうずの衆などは、為朝に対して抗戦の姿勢を見せているのだ。これがもし、太宰府が為朝の鎮西平定を容認する状況であれば、今頃はひょうずと土蜘蛛が争っていた事であろう。
「人界の運び次第か、情けない連中だ」
「ひょうずが、かえ?」
「奴らも、為朝とやらの勢いを止められぬ人間の土豪どももだ」
これに万寿は、「言ってやるな」と首を振る。
「とまれ有り体に言えば、あのおのこ、みやこを追われたのであろう」
ここまで話が進んでから、ヤマノメも得心する。京でも暴れ、それがどこかの偉い者の勘に触れでもしたため、表向きの事由はともかく実質的に流されたのであろうと。だがヤマノメは、根本的な所で納得出来ず、苛立ちながら言う。
「ったく、ならオレ達には、為朝とのいざこざなどただのとばちりじゃないか」
「うむ、そうとも言えるの。それともう一つ、寺社や公卿の荘園なり御厨(みくりや)(※20)なりを無視し、本気で鎮西平定を考えるなら、齢十三になったばかりの童を遣わすかの?」
「十三の、童……? あれがか!?」
面倒だと思う話を耳にしてもこれまで驚きはしなかったヤマノメであったが、万寿がたった今語った、かの人物の歳には驚きを禁じ得ず、聞き返す。
「いや、今は十六かの。それに為朝などと諱(いみな)を戴くからには、加冠はしておるはず」
歳については、見た目を加味すればやはり驚くのみであるが、それでも男子としては十分な年齢。童などと言うのは不適切。あえてこう言ったのは、それよりずっと長く生きて来た万寿やヤマノメからすればこそではある。
だが元服していたとしても、嫡男でも無く官職にも就いていなかったはずの為朝が勅命を受ける事も、逆にそれ無くして鎮西へ兵を進める事も、あろう由が無いのだ。
「そんなガキを相手に、ひょうず共がオレ達を巻き込んで右往左往か。やってられんな」
ひょうずは今でこそ豊前から鎮西北部にかけて水界に潜むモノではあるが、古い時代に大陸より渡って来た矛を司る者の眷属であり、同時に大力も誇る。
その一族が何をそんなに騒ぎ立てるのか、万寿との話の中で、ヤマノメはますます思う。
「とは言うがの、わらわが聞いた話によるならば、あのおのこの戦ぶり、一見の価値があるかともや思うぞ」
言って、万寿は口元を袖で隠してくつくつと笑う。
彼女が何を聞いたのかヤマノメが知る由も無いが、この女のこの様な振る舞いがしゃくに障るのだけは、今この瞬間に再認識していた。
第1話注釈
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※1 鎮西:西方を治めること、転じて九州をそう呼んだ。
※2 清和帝:清和天皇。第56代天皇、在位天安2年~貞観18年(858~876)
※3 臣籍降下:皇族を離れ、姓を賜る事
※4 筑前:筑前国、現在の福岡県西部
※5 銑鉄:鉄鉱石から最初に取り出された鉄。酸素は大きく除かれるが、炭素を多く含有した段階
※6 肩衣:貫頭衣よりやや発展した程度の、袖の無い着物。江戸時代の裃の一部とは異なる。
※7 褐鉄:褐鉄鉱、リモナイト。鉄の酸化鉱物で、国内では古くから阿蘇で産出されている。
※8 肥後国:現在の熊本県。西海道に属する一国
※9 日向国:現在の宮崎県周辺。同上
※10 薩摩国:現在の鹿児島県西部。同上(島津氏が入植したのは鎌倉時代に入ってからの事)
※11 颶風:強い風の意味。台風や熱帯低気圧等による、暴風を伴った豪雨
※12 束:数量の単位、ここでは長さの単位として使用。約8cm強を表す。伏せも長さの目安
※13 町:距離の単位。作中では便宜上、1町を約110メートルとしている。
※14 重籐の弓:補強のため藤を巻き付けた弓。現在の和弓の標準は7尺3寸(約220cm)
※15 徒:徒歩の事。徒武者と言えば歩兵、雑兵を指す。
※16 追捕使:ついぶし。律令制下の令外官。現代の州兵的存在であり、官職としてはその指揮官
※17 弓箭:弓と矢。――に携わる者と言えば、これは武士を指した。
※18 豊後国:現在の大分県の大半の地域で、西海道に属する。豊国(とよのくに)とも言った。
※19 火の国:肥前肥後をまとめて肥の国とも称するが、火の国と言うと、阿蘇を意識した肥後国
※20 御厨:神饌(しんせん)を調進する場所。転じて、有力な神社が持つ荘園(神領)の事
火の国のヤマノメ 第1話
ゆらり、ゆらり。
あそこに仄明るく揺らめき、煌めく光は何であろうか。
怨霊が宿す灯火か、火車が持ち帰った遺骸から溢れた燐火か。
幻想郷の地下に封じられた妖、土蜘蛛――の一人である黒谷ヤマメは、自身の足下を見る。足下とは言うが、旧地獄への縦坑を真っ逆さまに落ちる彼女の見るそちらは、奈落より天を見通す方向。
しかしここは閉じられた地。超空の天蓋より更に手前、大地には確固たる封が有る。
虫食いだらけではあるが。
既に地獄としての機能を失したこの奈落には、底がある。このまま落ちれば、如何に強靱な私でも頭が砕け、首から腰までことごとく砕けて死ぬだろう。ヤマメは、そんな事すら朧気に思い浮かべながら、なおも重力に身を任せている。
一度だけ見通すこと叶わぬ天道に手を差し出し、また戻す。
そうしてからまた、夢うつつの眼差しをそちらに向け続けた。
∴
何者かが肩を揺さぶる。
「……い……おい」
その様に呼ぶ声にも、瞼が重く、全く持ち上がらない。持ち上げようという気が起きない。眠いのだから眠る。それは、どの様なモノにも共通する自然(じねん)の理だ。
だが声の主はそれを許さない。
「起きぬか、ヤマノメ!」
ふが、と途中で止められたイビキを自覚しつつ、ヤマノメは目を覚ます。
「ったく、オレが居ようがおるまいが、何かが変わる話でもありますまい」
そもそも此度、なぜ己が呼ばれたのかも全く分からぬのだ。ただただ、面倒な寄り合いに参加させられただけであるのに。
山吹色の髪を揺らし、煤けた面(おもて)の中で場違いに輝く鳶色の目を向け、彼女はそう応じる。
周囲の長老――服装はまちまちで見た目相応の年寄りも居れば、人間で言えば初老の男も居る――は一斉に彼女を睨む。
またその輪から離れた場に座し、素肌全面を毛に覆われた一人の男は、呆れ顔の後に盛大に嘆息。残る一人の、真黒な生糸の如き垂れ髪の女だけが、愉快そうにころころと笑う。
「んで、なんだって?」
「ちょうど、お前の手持ちの山の、赤い鉄の話をしていたところだ」
「ああ、あっちはオレが好きに掘ってるだけだし、好きに持ってけばいいでしょう」
山も石も、別に己が占有している物ではない。手間暇かけて掘り出した食いブツを持って行かれるのは堪らないが、そうでないなら勝手にしろと言う。
「それとも何か、そこまで面倒を見にゃならんのかな?」
言い募るヤマノメ。今度は先ほど嘆息した男が、にわかに表情を険しくして声を上げる。
「これは俺らだけの問題では無い。鎮西(ちんぜい)(※1)にある妖物にとって――否、俺らや、わぬしらを知る土豪らにあっても、合力して当たるべきだ」
「鉄ならお前らも扱ってるはずだろ、ひょうずよ」
毛むくじゃらの――ひょうずの男は、屋根の下でもなお被ったままの笠を持ち上げ、明らかに憤慨した目を向ける。ヤマノメはなおも、ひょうひょうとした様子で見返す。
ヤマノメが言うとおり、ひょうずは水棲の妖であるが、鉄を嫌う水界のモノの中でも珍しく金気を、殊に苦手とするはずの鉄をも取り扱う。
ヤマノメら土蜘蛛と同じく炉や蹈鞴(たたら)により、砂鉄を主に用いて精錬するのだ。
刀剣類等に必要な粘り強くしなやかな鋼ならば、彼ら自身で手にできる道理。
「いや、足りぬのだ」
足りぬ、単純に絶対的な量が。
「お前が寝ているのが悪いぞえ、ヤマノメよ」
垂れ髪の女は袖で口元を覆い、困り顔で諭す。他の土蜘蛛達は、既にひょうずの話に理解の意を表した後であった。
「万寿(まんじゅ)よ。ならオレが聞き漏らした話を教えてくれ」
戦うだけなら鋤鍬でも用は足りる。真っ向からのただの人間との立ち会いには、矛を取り出す必要すら無い。ひょうずはその様に言った。しかし、この度寄せて来た人間というのが、矛を手に取り、有るだけの鏃を揃えてもいささか足りぬ、とも言った。
「斯様(かよう)に危うい事を認められるのは、さすがにひょうずと言うところ。意地っ張りな我らと比べて賢い事よ」
褒めているのか貶しているのか、渋色の小袖を着た垂れ髪の土蜘蛛、万寿は、微笑みを浮かべながら、薄くも紅の映える唇でささやく。
「で、矛や刀の他に、一体何に大量の鉄を使う気だ」
「それも話しておったのだがな」
「聞いてなかったのなら、幾度でも話そうぞ」
今度はひょうずが前のめりになり、恐らくは自慢も半分混じるであろう話を繰り返す。
「此度我らは、銅と鉄で覆った唐繰(からくり)を用い、彼奴らと当たるつもりだ」
唐繰は既に青銅の鱗をまとい、松や樫の骨を巡らせている。後は鉄の鱗で要所を守るだけ。やはり自慢げに語る彼に、ヤマノメはそれなら納得と感心し、首を縦に振る。
万寿はその様子を見逃さず、口元は微笑ませたまま、胡乱げに眉を寄せて言葉を挟む。
「こりゃ、そも戦の相手が誰かも聞いておらなんだな? ヤマノメ」
これについては、話すまでも無いだろうと周囲の誰もが思っているが、ヤマノメだけは素の顔で、「分からん」と言って放つ。
これに男衆は一挙に脱力し、対照的に、声を上げて笑い出した万寿が教える。
「源八郎。河内源氏(かわちげんじ)の御曹司、源為朝(みなもとのためとも)じゃ」
皇統にも連なる血。彼より遡って七代、清和(せいわ)帝(※2)の孫の経基(つねもと)王が臣籍降下(※3)して源姓を賜って後よりの、清和源氏の血族。
これこそ我らが戦うべき相手だ。年寄りの土蜘蛛は、万寿の言葉にそう続けるが、その句だけは、ヤマノメをしても聞く必要すら無い事であった。
これは、どの様な思考よりも深く、ヤマノメら土蜘蛛の肚に刻まれているのであるから。しかしその中にあって、万寿だけはまた、これを笑い飛ばすかの様に言う。
「ほんに、殿方だけかと思えば、ヤマノメも血の気が多い。それに古老なればこそ諭すべきであるのに、あの様な強りしおのこを前に擬勢を示したところで、事は良い方向に運びませぬぞえ」
ヤマノメがここに居る意味は先の通り、鉄鉱の都合であるが、鉄どころか金や銅を掘るようにも見えぬ万寿が同席するのは、この様な威勢を抑え、踏みとどまらせる為であった。
土蜘蛛の古老達は、万寿の言葉に頭を冷やし、今後の事の運びに話を戻す。
「まあ先に言ったとおり、ヤマノメは鉄を、掘り出すのも含めて都合を付けてくれ」
やれやれと言う代わりに肩をすくめ、これには渋々ながらも承諾したヤマノメ。だが次に万寿から飛び出した言葉には――
「それとヤマノメ、わらわと筑前(※4)へ赴き、ひょうず等の戦いぶりを目に納めようぞ」
「何でオレが、それもお前などと行かなきゃならないんだ?!」
――気遣いなど全く無い言葉を吐き、頭を振る。
とにかく彼女とはそりが合わない。
土にまみれる仕事はしないのに、よく沐浴をし、その上でどこから手に入れたのか分からぬ香まで焚き染め、ヤマノメらから見ればだいぶ上等な衣まで纏う。彼女はこの辺境にありながら、実に雅な佇まいをしているのだ。
夏も冬も、殆ど袖も無い同じ衣を着込み、いつも薄汚れた顔をしたヤマノメとは正反対。傍からしてもその髪と瞳の色が、二人が真っ向から異なる者であると思わせる。
「だから申したであろう? [お前が寝ているのが悪い]と」
鉄鉱云々の話よりずっと早くに決まっていた事であったと、当初から寝ていたヤマノメもこれには反論の出来ず、押し黙るほか無かった。
∴
山野に花の咲き誇っていた季節が終わり、緑が溢れ、大気が潤いの匂いを放ち始めた時分。褐鉄の鉱石――ではなく、炉にくべて取り出した銑鉄(せんてつ)(※5)の塊を満載した荷駄車を引きながら、ヤマノメは一路、筑前国を目指す。
大力のひょうずですら及ばず、本邦にて鬼と呼ばれるモノ達にも比肩する剛力はぬかるみをものともせず、後方に深い轍を残す。
轍の間にはまた、車を引くヤマノメの足跡に続き、一対の軽やかなそれが刻まれている。ヤマノメは、ちらとそちらを見やってから、大きなため息をつきつつ口を開く。
「万寿よ」
「何か?」
「お前様はいつ、この荷を引いてくれるのか」
阿蘇南西の里より出でて百里――とはいかないが、往来を延々十里余りこうして車を引いて来た。当然のようにヤマノメが。
ようやく一宮(いちのみや)の脇に至ろう辺り。背に額に汗しつつも、弱音も吐かずに車を引き続けていた彼女ではあったが、その乾きかけた唇がとうとう非難の声を上げたのだ。
薄布の垂れ衣で覆った傘を被ぎ、新緑に溶け込む碧の袿を着た万寿の姿は、その素の美貌も相まって、公家の妻や女房と言っても十二分に通じる。
対照的に、袖の無い肩衣(かたごろも)(※6)と、裾を紐でくくっただけの粗末な袴という服装のヤマノメ。こちらは使わし女どころか、傍からは奴婢(ぬひ)にも見える。それも男の。
「この装いで? わらわが車を引くのは可笑しいであろ?」
それともヤマノメが代わりにこれを纏うかと、万寿は小さく笑いながら言う。
ただヤマノメはと言えば、着こなし以前にその様な窮屈な物は着たくない。
(そういう問題じゃ無いだろ……)
だが彼女が常にそれを着る必要も無いはず。逆に、こんな田舎で護衛も付けず、旅姿の女房が奴婢と二人旅などとは、山賊どもの格好の獲物。
当然ヤマノメはそんな輩に負けるとは思っていないが、面倒は避けたいし――
(そうなったらコイツは、どこまでやれるのかな)
万寿も、紛れもなく土蜘蛛である。だがこの体の――一部を除いて――線の細い、金堀どころか土仕事すらした事も無さげな女が戦うなど、ヤマノメには想像できない。
「おや、やはり「心得ず」とでも言いたそうだのう」
「当たり前だろうが」
納得など出来ない。正直なところ、ヤマノメは万寿を馬鹿にしているし、逆にあちらもそう思っているであろうと考えている。頭が足りぬ、という事では無い。むしろ教養については、ヤマノメこそ己が三人どころか十人集まっても万寿に及ばないのを自覚している。
土蜘蛛というモノに確たる本分が有るわけでは無いが、ある者は金を掘り、銀を掘り、またある者は銅や錫を掘り出し、ヤマノメの様に鉄を掘る者こそ多々在る。(もっとも、ヤマノメの様に、何かと手間のかかる褐鉄(※7)を掘り出す者は、物好きの類いにされている)
土に籠もる、故に土蜘蛛。少なくともヤマノメは、自らの属する一族をそう捉えていた。逆に言えば、荷車を引く者でも、断じて京風に着飾る者でも無い。
「せめて道案内はちゃんと勤めてくれよ」
万寿は袖を口元に持って行き、「ほほほ」とわざとらしい笑いと共に承知と答える。
肥後国(ひごのくに)、阿蘇南方を中心に、日向国(ひゅうがのくに)や薩摩国(さつまのくに)といった鎮西南部にしか足を運んだ事が無いヤマノメにとっては、筑前などは海の彼方の大地にも等しい。要は位置関係すらよく分からず、道のりなどは言わずもがな。(※8~10)
対して万寿は、その見た目に違って旅慣れており、筑前はおろか海峡の先の長門(ながと)以東へも足を運んだ事がある。
ただ女二人が、この様な装束で、荷を引いて、真っ昼間の山間の往来を堂々とという、あからさまに面倒を呼び寄せかねない状況にものほほんとしている万寿を見ると、本当に旅慣れているとは――
「納得、いかん」
林の向こうの道に五人ばかりの悪漢を認めたヤマノメは、舌打ちしながらボヤいた。
荷駄車を往来の端に寄せたまま、ヤマノメと万寿は林の茂みに身を潜める。
ヤマノメと同様の肩衣を纏うか、上半身裸の男達。いずれもが刀子か鍬で武装している。彼らは確かに荷駄車を目に留めると、当然それと、周囲を探り始める。
「どうする。オレ達は隠れ仰せても、あれを持って行かれたらコトだぞ」
「とはいえ多勢に無勢、真っ向から当たるのはどうかと」
お前が居なけりゃ真っ向からでもどうにかなるがな、と言いたいのをヤマノメは腹に押し込める。
見たところ、本所から逃げ出した流民に見える。これが徒党を組んだ武士なら争うのに二の足を踏むところであるが、腕っ節だけならヤマノメも負ける気は無い。
幸いにして、賊の興味はヤマノメ達よりも荷駄車に向いたようで、彼らはそれを引こうと、両側から梶棒を持ち上げる。車は動かない。
「まあ、荷を解かない限りは持って行かれん、か」
だが諦めるとは思えない、あれだけの量の鉄を放っておくなど。それも目の利く者が見れば、混じり物の少ない良品と分かるであろう。
となれば、ここは一旦退き、回収の算段を整えてから改めて現れるとも考えられる。
取り返すとすればその時が適当か。
ヤマノメらはジッと機を窺う、そんな時であった。
賊の一人の頭が一瞬で弾け、次に颶風(ぐふう)(※11)の如き風切り音が通り過ぎる。また別の賊が「何もんだぁ!」とあさっての方向に叫び、他の者は右往左往。傍から見ていたヤマノメ達ですら、何事が起きたのか分からず、固唾を呑んで状況を見守る。
またも響く怪音。今度は、並んでいた二人が同時に倒れる。そこでようやく、何が彼らを倒したのかが明らかになった。
「矛……いや、矢なのか?」
見紛うたのも無理はない。素槍の穂の如き鏃(やじり)、その先端から、熊鷹の美しい縞が映える矢羽根まで、優に十八束二つ伏(※12)。およそ五尺にも及ぶのだ。これが確かに矢だとしても、並の者には番(つが)えるのすら至難の業。
残った賊二人もこれを確認し、矢の飛来した方とは逆に駆け出す。姿を隠すべきであったのに素直に往来を逃げた彼らは、ほとんど同時に背から射られ、絶命する。
射手はいずこか。ヤマノメが僅かに頭を上げながら辺りを見回すと、三町(※13)も先の丘の上に馬が二頭と、脇に人影が一つ。
馬上にも人の姿がある。矢を射たのはそれらのいずれかか、はたまた両方。いずれにせよ、あれだけの距離を一発必中以上の精度で射て、貫いたのだ。巨大な矢からして、既にただ者ではないのに。
その射手達もまた、当然のように荷駄車に向かって歩み出していた。
「新手の賊かな?」
ヤマノメは隣の万寿に呟くが、応答が無い。ヤマノメは改めて彼女に問いかける。
「おい、万寿……!?」
居ない。
慌てたヤマノメが視線を往来に向ければ、いつの間にか彼女の姿はそちらにあった。
茂みから転び出る土豪の女郎、と彼らには見えたであろう。
馬上と二人と徒の一人、いずれも男であった。彼らが荷駄車から二十間ほどの距離に近づいたのと同時に、万寿は往来に出でた。当然、機を見計らっての動き。
(何を考えてるんだ、あいつは)
ヤマノメは依然として茂みの陰に潜みつつも、湿気で音を出しにくくなった茂みの中を、静かに前進する。
近くに寄ってみただけで、先ほどの『射手』がいずれか、明らかになった。
馬上に在るのは両方とも武士らしく、鎧直垂に身を包んでいる。いずれも矢筒を提げ、弓を携えているが、先ほどの尋常で無い矢を備えているのはそのうちの一人であり、同じ人物が持つ九尺もある重籐(しげどう)の弓(※14)は、見るからにこの矢を番えて放つのにふさわしい。
それ以前に、彼の風体が全てを物語っていた。
若々しい面に鋭い目つき、馬が小さく見えるほどの体躯。馬同士の体格を差し引いても、隣の男とは頭一つ以上の差がある。
名のある武士か。否、賊で無いとは限らない。
先ほどの山賊を射殺したのも、横から荷をふんだくろうとしたものかも知れない。ヤマノメはそう考え、だからこそ「なぜ己ですら考えつく事に思い至らず、彼らに姿を晒すのか」と、薄衣の下の万寿の顔色を注視する。
「もし、お武家様。危ういところを助けて下さり、かたじけのう存じます」
九尺の弓の大男はこれに応じず、もう一人の馬上の男を見やって言う。
「ほうれ重季(しげすえ)、やはり言った通りだったろう」
「若殿の見立て云々はさておき、派手な行いはお控えなされよ」
重季と呼ばれた青年は、大男に比べて明らかにひ弱そうな生白い顔で、しかし怖じける風も見せずに堂々と言い返した。
それを受けてから、大男は改めて万寿の方を向く。
「地元の百姓かも分からぬから放って捨ておけ、などとコイツが言ったのでな。こんな時間に百姓が、それも刀子を手に往来をうろちょろしているものかと、俺が奴らを射たのは斯様な由だ」
「そうでございましたか。実を申せば、供の者が牛を誤って軛(くびき)から放ってしまいまして。その者に牛を追わせ、わらわは車の側に居たところ、突然賊が現れて――」
面を上げ、垂れ布から顔をのぞかせながら万寿がそう言うと、大男ははたとした風に目を見張り、彼女を見返す。
「そこな茂みに隠れ、やり過ごそうとしていたのです」
「大事な荷だったのだな」
「ええ。これを納めねば、我が主人も忠国(ただくに)様に合わせる顔がのうなる所でした」
忠国とは、阿蘇周辺に広く所領を持つ、平(たいら)三郎忠国の事。
己をいずこかの荘官の女房か何かとし、荷はあくまでも税か献納品として騙る万寿。潜んで聞いていたヤマノメもそこまでは理解し、しかし次にはどうすべきか、出方を窺う。
「ならば俺達の馬を貸そう。おぅい、夜叉丸(やしゃまる)!」
馬に乗る二人の後から悠々と歩んでいた徒(かち)(※15)の男だったが、呼ばれたのに応え、すぐに駆けつけて側に立つ。
「応、これに」
大男の体躯に隠れて目立たなかったが、近くで見ればこちらも異様な輩であった。
行者風の装束にいくつかの法具を携えており、これだけを見れば密教僧かとも思えるが、剃髪せぬばかりか顎に黒髭を長々と伸ばし、太刀まで佩(は)いているのだ。二人よりも更に年かさを経て、中年男に見える。
夜叉丸は、背に負った、己の頭頂よりも高い行李(こうり)を地に下ろすと、そこから縄を取り出す。大男は何ら指示をしていない、以心伝心といった風にも思える。
ヤマノメは焦る。あの荷が馬一頭で引けるとは思えないが、引けないなら引けないで、別の策を取る事であろう。目立つお節介をして賊を倒したような人物だ、そのぐらいはしかねない。
どうしようかと、いよいよと戸惑うヤマノメの足を何かが引く。
「これは、万寿の糸か?」
土蜘蛛と言われるだけあって、ヤマノメ達は、そのような技を持つ。
ヤマノメの足首に巻き付く生糸よりか細い糸。細くはあるが、これだけで縄に近い強度を誇る。ヤマノメの側を去る際に、気づかれないようにこれを巻いていたのであろう。抜け目の無さに感心はしつつも、やはり虚仮にされた感もヤマノメは覚える。
「分かった。行けばいいんだろ、行けば」
糸を千切ると、忍び足で男達が来たのとは逆方向に回り込み、林の向こうの曲り道から姿を現す。
「御前様、ようやく牛を捕らえました。あちらの林に繋いでおりますので、大人しくなってから引いて参ります」
いつもは後ろ頭で髪を結うのに使っている布を開き、山吹色の髪をまとめて覆い隠している。いよいよ、奴婢にしか見えない。
「どこに行っておったか。心細く、その上に山賊まで現れる始末。これも皆、そなたのせいじゃぞ」
ヤマノメは腹の中で散々に悪態をつきながらも、ここは頭を下げて耐える。
万寿は振り向いて、ヤマノメのその姿を背にしてから、今度は大男に言う。
「聞いての通り、荷は事も無く、ここからの道のりも、お武家様の通り過ぎた後ならば易く進められましょう」
なので助けは要らないと、万寿は迂遠に断った。
「若殿、我らも世話を焼いている暇はござらぬ。この女房方が構わぬと言うのであれば、それでよろしいではありませんか」
大男はこの諫言に眉をひそめるが、更に眉をひそめるべき行いをする者が一人。
「おい、礫の! 何をしておる!」
重季の叫びと、ヤマノメが驚いたのは同時。気付かぬ間に、夜叉丸がヤマノメの側で膝をつき、下げたままの彼女の顔をのぞき込んでいたのだ。
「いや、先ほどの声を聞いて、もしやと思いましてな」
女、と分かったのであろう。ヤマノメが疎ましげに夜叉丸を見返すと、彼は更に顔を寄せ、耳打ちする。
「異人の女よ、お前の仕える者には注意しろ」
「……はぁ?」
「拙僧にはな、分かるのだ」
何が分かったのかはヤマノメにも察せられたが、如何せん、あべこべにも思える。
姿を全て晒せば、この場で最も異様なのは他ならぬヤマノメだ。万寿は確かに、この様な場所には不釣り合いな装束であるが、異様と言うほどでも無い。なのに夜叉丸は、ヤマノメに対し「万寿には気をつけろ」と言ったのだ。
「わかった……」
「して、お前達はいずこに向かうのか?」
「はい……ひとまず、一宮へと」
一宮とは肥後国一宮、即ち阿蘇神社の事。ヤマノメはこの先にある地を挙げたのであるから、男達の行き先とは当然ながら逆。
「左様か。一宮ならば古くから夷狄調伏(いてきちょうぶく)の神がおわす、もし困ったのなら頼ればよい」
そんな事は天地がひっくり返っても真っ平だとヤマノメは思ったが、これは口に出さず、夜叉丸には礼を述べる。
「若大将、どうやら女二人連れの様子ではあるが、我らの出番は無さそうだ。既に露払いは済んだ所だからな」
露払いとは、本当に道々で何事かをして来たのか。夜叉丸の真意も不明だが、こちらもヤマノメには気になった。
「若!」
重季がきつく促す。
「おう、お前達がそう言うなら急ごう。お主等も道中気をつけよ」
「お武家様より斯様な言葉をたまえるとは、ほんに心安らぐ思いであります」
馬に戻る大男と行李を背負い直す夜叉丸。重季は馬上で待つ、やはり何事か急いでいる様子。
彼らは慌ただしく準備を整え直すと、改めて軽く別れの挨拶をし、元の道のりに戻って行った。
残されたヤマノメと万寿は、彼らと違いすぐには動かない。動けなかった。
「ヤマノメよ」
「何だ」
「して、“牛”が大人しゅうなるのは、いつぐらいになるかえ?」
「夜までは無理だ。あの夜叉丸という男、お前に気づいたようだぞ」
おや、と珍しく素の顔で万寿は驚く。
「で、お許は?」
「……やはり解せん」
ふて腐れた風な貌を隠さず、ヤマノメは言う。
なんで己の方が半端者の様に見られなければならないのかと。それも己が知る中で最も“らしくない”奴と比べて、と。
「だから、あの忙しそうな侍二人はともかく、夜叉丸とやらがどう出るか分からん。この荷をオレが引っ張っているのを見られたら、いよいよ共倒れだ」
万寿もこれに同意と頷く。
「もしかしたら、お許の見目に騙されて、そうと考え至らなかったもやとも思えるの」
人間から見た異人風の風体がこんな所で役に立つのかと、ヤマノメはしかし複雑な心持ちで顔をしかめる。
「しかしよもや、この様な辺地で出くわすとは……」
明らかに知っていた風な万寿の口ぶりに、ヤマノメは詰問する。
「ちょっと待て。ならお前は、あの夜叉丸という男を知っていたのか?!」
それなら先ほどからの会話は何だったのかと言う事にはなるが、夜叉丸の言葉のつじつまは合う。
だが万寿は首を振り、いよいよと神妙な面持ちで答える。
「あの偉丈夫こそ、此度ひょうず達が戦う敵ぞ」
あれがこそが鎮西追捕使源為朝(※16)である。あっさりとそう明かす万寿に、ヤマノメはまた困惑する。
「ならば、さっきが好機だったじゃないか!」
たった三人。なぜみすみす取り逃がしたのかと、かの人物の正体を知っていた万寿を、ヤマメはいよいよ詰め寄る。
「あの弓箭(きゅうぜん)(※17)の手前を目の当たりにしてもなお、そう思うかえ?」
重季はともかく夜叉丸、それなりの法力を持つであろう怪僧の存在もある。やはりヤマノメに反駁の余地無く、やり込められるままであった。
源八郎為朝なる人物、如何なる生まれの者であるのか。
かの人物、出立前に聞いた通り河内源氏の御曹司と言われる身ではあるが、市井の遊女を母に持つ庶子であり、名乗りの通り父源為義の八番目の男子であるため、家督とは関わりの無い立場である。
とはいえ何故その彼が、今この鎮西に在るのか――
「豊後国(ぶんごのくに)(※18)の権守、尾張家遠(おわりいえとお)なる者の後見で鎮西へ下向との由らしいが、京では余程手に余ったのであろうなぁ」
「話が見えん」
「今に至り、豊後のみならず、筑豊全域や、後の運び次第では我らの火の国(※19)にまで寄せようとする輩ぞ。どれだけの悪たれか、それだけでよう分かろうというものでないかえ?」
「鎮西を平定せんと、源氏の奴らが放ったのでは無いか?」
「それはあり得ないぞ、ヤマノメ」
「なぜだ?」
「鎮西を脅かして太宰府(だざいふ)が黙っていると思うかえ? 勅(みことのり)を受けてであるならいざ知らず」
事実それが無いからこそ、筑豊に在し、殊に太宰府に本拠を置くひょうずの衆などは、為朝に対して抗戦の姿勢を見せているのだ。これがもし、太宰府が為朝の鎮西平定を容認する状況であれば、今頃はひょうずと土蜘蛛が争っていた事であろう。
「人界の運び次第か、情けない連中だ」
「ひょうずが、かえ?」
「奴らも、為朝とやらの勢いを止められぬ人間の土豪どももだ」
これに万寿は、「言ってやるな」と首を振る。
「とまれ有り体に言えば、あのおのこ、みやこを追われたのであろう」
ここまで話が進んでから、ヤマノメも得心する。京でも暴れ、それがどこかの偉い者の勘に触れでもしたため、表向きの事由はともかく実質的に流されたのであろうと。だがヤマノメは、根本的な所で納得出来ず、苛立ちながら言う。
「ったく、ならオレ達には、為朝とのいざこざなどただのとばちりじゃないか」
「うむ、そうとも言えるの。それともう一つ、寺社や公卿の荘園なり御厨(みくりや)(※20)なりを無視し、本気で鎮西平定を考えるなら、齢十三になったばかりの童を遣わすかの?」
「十三の、童……? あれがか!?」
面倒だと思う話を耳にしてもこれまで驚きはしなかったヤマノメであったが、万寿がたった今語った、かの人物の歳には驚きを禁じ得ず、聞き返す。
「いや、今は十六かの。それに為朝などと諱(いみな)を戴くからには、加冠はしておるはず」
歳については、見た目を加味すればやはり驚くのみであるが、それでも男子としては十分な年齢。童などと言うのは不適切。あえてこう言ったのは、それよりずっと長く生きて来た万寿やヤマノメからすればこそではある。
だが元服していたとしても、嫡男でも無く官職にも就いていなかったはずの為朝が勅命を受ける事も、逆にそれ無くして鎮西へ兵を進める事も、あろう由が無いのだ。
「そんなガキを相手に、ひょうず共がオレ達を巻き込んで右往左往か。やってられんな」
ひょうずは今でこそ豊前から鎮西北部にかけて水界に潜むモノではあるが、古い時代に大陸より渡って来た矛を司る者の眷属であり、同時に大力も誇る。
その一族が何をそんなに騒ぎ立てるのか、万寿との話の中で、ヤマノメはますます思う。
「とは言うがの、わらわが聞いた話によるならば、あのおのこの戦ぶり、一見の価値があるかともや思うぞ」
言って、万寿は口元を袖で隠してくつくつと笑う。
彼女が何を聞いたのかヤマノメが知る由も無いが、この女のこの様な振る舞いがしゃくに障るのだけは、今この瞬間に再認識していた。
第1話注釈
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※1 鎮西:西方を治めること、転じて九州をそう呼んだ。
※2 清和帝:清和天皇。第56代天皇、在位天安2年~貞観18年(858~876)
※3 臣籍降下:皇族を離れ、姓を賜る事
※4 筑前:筑前国、現在の福岡県西部
※5 銑鉄:鉄鉱石から最初に取り出された鉄。酸素は大きく除かれるが、炭素を多く含有した段階
※6 肩衣:貫頭衣よりやや発展した程度の、袖の無い着物。江戸時代の裃の一部とは異なる。
※7 褐鉄:褐鉄鉱、リモナイト。鉄の酸化鉱物で、国内では古くから阿蘇で産出されている。
※8 肥後国:現在の熊本県。西海道に属する一国
※9 日向国:現在の宮崎県周辺。同上
※10 薩摩国:現在の鹿児島県西部。同上(島津氏が入植したのは鎌倉時代に入ってからの事)
※11 颶風:強い風の意味。台風や熱帯低気圧等による、暴風を伴った豪雨
※12 束:数量の単位、ここでは長さの単位として使用。約8cm強を表す。伏せも長さの目安
※13 町:距離の単位。作中では便宜上、1町を約110メートルとしている。
※14 重籐の弓:補強のため藤を巻き付けた弓。現在の和弓の標準は7尺3寸(約220cm)
※15 徒:徒歩の事。徒武者と言えば歩兵、雑兵を指す。
※16 追捕使:ついぶし。律令制下の令外官。現代の州兵的存在であり、官職としてはその指揮官
※17 弓箭:弓と矢。――に携わる者と言えば、これは武士を指した。
※18 豊後国:現在の大分県の大半の地域で、西海道に属する。豊国(とよのくに)とも言った。
※19 火の国:肥前肥後をまとめて肥の国とも称するが、火の国と言うと、阿蘇を意識した肥後国
※20 御厨:神饌(しんせん)を調進する場所。転じて、有力な神社が持つ荘園(神領)の事
第1章 火の国のヤマノメ 一覧
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