東方二次小説

こちら秘封探偵事務所第8章 地霊殿編   地霊殿編 第3話

所属カテゴリー: こちら秘封探偵事務所第8章 地霊殿編

公開日:2017年09月16日 / 最終更新日:2017年09月16日

地霊殿編 第3話


―7―


 死んだ。絶対確実に自分が死んだという現実がそこにあった。底の見えない穴の中に真っ逆さまに落ちていくのだから、しかもそれは足元が崩れてバランスを崩してという何のドラマもない間抜けな原因であるからして、そもそも何が起こったのかを理解すること自体が困難であったし、ましてその現実を受け入れるのはなおさら困難であった。たぶん、電流鉄骨渡りで気圧差に吹っ飛ばされた佐原の気分はこんなものだったのだろうと、守矢神社で読んだ前世紀の名作ギャンブル漫画のことを思いだした。
 私たちは再び科学世紀の京都の土を踏むことなく、穴に落ちるというスーパーマリオかロックマンめいた死因で、八〇年前の幻想郷の土に還り、地の底で骨となって朽ちていくのだ。我が探偵事務所の事件簿も作者死亡により未完である。たくさんの応援ありがとうございました。次回作が書かれるとしたら冥界か天界か地獄でのことになるだろう。
 飛び降り自殺をすると地面に激突する前に意識を失うので恐怖も苦痛もない、という俗説があるが、あれは大嘘である。それが現実ならみんなスカイダイビングの最中に気絶して地面に墜落する。故に私たちも――少なくとも私自身の意識は落ちていく最中も明瞭なままで、可能なことと言えば掴んでいた相棒の手を強く握りしめて、目を瞑って現実から意識を逃がすことだけだった。考えることは無数にあったはずだけれど、一瞬の思考にはただとりとめのないことばかりが浮かんで、つまりそれが走馬灯というものなのだろう――。

 ぼよん。

 私たちが落ちた先にあったのは、トランポリンだった。――もとい、それに類する何かが、墜落する私たちのエネルギーを受け止め、吸収し、ぼよん、と間抜けな音を立てて軽く弾ませたのだと――そう理解したのは、落下が止まってしばらく経ってからである。そもそも、落下が止まったという事実を認識するまでに時間が掛かったし、さらに自分が生きているという現実を再確認するのはもっと手間だった。
「……あれ?」
 どうやらもう落ちていないし、何かゆらゆらと揺れる柔らかいものの上にいるらしい――という現実認識がようやく脳に届き、私はおそるおそる目を開ける。いつの間にか横を向いていた私の顔の目の前に、目を見開いて、ぱちくりと瞬きする蓮子の顔がある。
 ――生きている? 私たちは、生きているのか?
 何が起こったのかわからないまま、私たち視線を巡らそうとして、
 そこに、私たちを覗きこむ影がふたつある、ということに気付いた。
「おーい、生きてるー?」
 私たちに向かってそう呼びかけたのは、金色の髪に黒いリボンを結び、おだんご状にした少女だった。その傍らでは、桶に入った少女が顔の上から半分だけを出して、こわごわとこちらを見下ろしている。……いや、なぜ桶?
「え、あ、あれ? 私たち死んだの? ここ地獄? 冥界? それとも三途の川? メリー、ねえちょっと頬つねってくれない?」
「それは夢かどうかの判断でしょ。……それよりどうも、生きてるっぽいんだけど」
「あれ? えーと、えーと、どうなってんの?」
「こーら、無視するんじゃないよ」
 混乱する私たちに、頭上からまた少女の声が降ってくる。蓮子もようやく声の主の存在を認識したようで、「……どちらさま?」と目をぱちくりさせていた。
 ともかく、何とか助かったらしい。私は上半身を起こそうとして、身体が何か妙にねばついたものに絡め取られていることに気付いた。現状への理解がまだ追いつかないまま視線を巡らせる。私たちの身体を受け止めているのは、放射状に張り巡らされた、粘性のある白い糸だった。これって、私たちの知るそれの数十倍ぐらいはありそうだけれど――。
「……蜘蛛の巣?」
「いやあ、びっくりしたよ。この縦穴から人間が降ってくるとはねえ。しかし運がいいこと、私がたまたまキスメと遊ぶのに張ってた網にふたりとも引っ掛かるなんてさ。――いや、むしろ運が悪いのかしら」
 金色の髪の少女は、私たちを覗き込みながら、愉しげにそんなことを言い――不意に、その瞳をひどく無機質に光らせて、獰猛な笑みを浮かべた。
「その網に引っ掛かったあんたたちは、これから土蜘蛛の餌になる運命なんだから。いやあ、生身の人間なんて何年ぶりだろうね。今夜の宴会は盛りあがるよ」
 ――どうやら、寿命が数分か数時間か延びただけに過ぎないらしかった。もがいてみるが、糸は私たちの両手両足に絡みついて離れず、身動きがとれない。
「せっかくだから、ちょっと味見してみようか。どっちにしようかな?」
 ぺろりと唇を舐めて、金髪の少女は私たちを捕らえた網の上に降り立つと、私と蓮子を見つめ――そして蓮子に目を留めた。引き攣った笑みを浮かべる相棒に、金髪の少女は「なあに、まだ殺しゃしないよ。ちょーっとだけ頬の肉でも囓らせてもらえればいいのさ――」と囁きながら、淫靡な仕草で蓮子に覆い被さる。
 息を詰めてそれを見つめている私の方を、不意に金髪の少女が振り返った。その無機質な瞳が私の瞳を見据えて、にいっ、と少女は人ならざる笑みを浮かべ――、
 と、そこへ桶に入った少女が身を乗り出して、金髪の少女に何か耳打ちした。金髪の少女は「え? うーん、それもそうだね」と相づちを打つと、蓮子の身体の上から不意に身を起こす。
「確かに、久しぶりの生身の人間。傷物にする前に、旧都に持って行って見せびらかすのもアリね。食べるのはいつでも食べられるわけだし」
 金髪の少女の言葉に、桶の少女がこくこくと頷く。「よし」と金髪の少女は私たちを見下ろすと、「とことん運がいいね、あんたたち。感謝しときな」と愉しげに笑った。
「今から、旧都に連れてってあげる」
「……旧都?」
「私ら、地底の妖怪の楽園よ。楽しいところだよ、妖怪にとっちゃね。――地上から生きた人間が落ちてきたとなりゃ、一応勇儀さんに報告しといた方がいいだろうしね」
 少女の言葉に、私たちは顔を見合わせた。




―8―


 どうやら、私たちは地底世界の街へ連れて行かれることになったらしい。妖怪に捕獲されているわけだから、立場は荷馬車に乗せられてドナドナする仔牛である。捕まった相手は土蜘蛛だし、蜘蛛の糸で縛られた格好で歩かされるのかと思ったのだが――。
「えーと、その、土蜘蛛さん?」
「ヤマメだよ。黒谷ヤマメ」
「じゃあ、ヤマメさん、重くないですか?」
「軽い軽い。あんたたち、もっとちゃんと飯食いなよ。地上は飢饉かい?」
 蓮子の問いに、黒谷ヤマメと名乗った土蜘蛛の少女は笑って、私たちの身体を揺さぶる。
 私たちは、蜘蛛の糸でぐるぐる巻きにされ、ヤマメさんの両肩に担ぎ上げられていた。これでは気分はドナドナどころか米俵であるが、全身にがっちりと巻き付いた蜘蛛の糸は、人間の力では到底解けそうになかった。
「自分で歩けますけどもー」
「そう言って逃げるチャンス伺おうっていうんだろう? まあ、この地底に落ちてきた人間の逃げる場所なんざ無いけど、逃げられるのも面倒臭いからねえ」
 どうやら、逃走のチャンスはなさそうである。相棒はため息を押し殺した様子で、「逃げませんよ」と言うが、ヤマメさんは「地底の妖怪はね、人間の言うことは信用しないんだよ」と剣呑に目を細めた。さすがの相棒も押し黙る。
 私たちが進んでいるのは、あの縦穴を下りきった先の、薄暗く湿った下りのトンネルだった。どこかを川が流れているようで、水音がやけに大きく反響している。地上の光がまだ辛うじて届いているので、完全な暗闇ではないが、さらに地下深くへ進んでいく洞穴は端的に言って不気味でしかなかった。いったい、地底世界はどんな深さまで続いているのか。
 ヤマメさんの後ろには、桶に入った少女――キスメさんというらしい――が飛んでいる。桶の取っ手からは紐が洞穴の天井に向かって伸びているが、どこかに繋がっているというわけではなさそうだ。姿からすると、釣瓶落としか何かの妖怪なのだろう。
「おお、そうだ。せっかくだし、食べる前にあんたたちの名前も聞いておこうか」
「宇佐見蓮子ですわ。地上の人間の里で、探偵事務所を営んでおりますの」
「……マエリベリー・ハーン、メリーです。私を巻き添えにして穴に落ちたこの間抜けな相棒の助手というか記録係というか、そういうようなことをしてます」
 なるようにしかならない、と覚悟を決めると、私も多少肝が据わった。というか蓮子に振り回されすぎて、危機感が麻痺しているのかもしれない。ましてさっき穴に落ちた瞬間に一度完全に死を覚悟したのだ。危険そうな妖怪に生け捕り状態だけど、生きているだけマシである。この相棒がいつもの舌先三寸で地底の妖怪を言いくるめる展開を期待しても罰は当たるまい。
「探偵事務所? なんだいそれ」
「世界の秘密を解き明かす者たちの組織ですわ。所員三名の小所帯ですけど」
「……それで今回は、この所長が地底を調べようとして、穴に落ちたわけです」
「メリーがちゃんと支えてくれれば、こんなことにならなかったのよ」
「無茶言わない。だいたい蓮子があんな穴の淵まで近付いたのがいけないんじゃない。捕まらなかったら間違いなく死んでたわよ」
「そりゃまあこの宇佐見蓮子、人生で初めて真剣に死を覚悟しましたけれども」
「今まで覚悟したことなかったの? やっぱり蓮子って恐怖という感情の受容体が根本的に欠如してるんじゃないの。八意先生に診てもらった方がいいわよ」
「己の頭脳と機転と弁舌に対する自負のたまものと言ってほしいわ」
「そんな頭脳も穴の底に落ちたら砕けて中身が飛び散るだけじゃないの」
「仲が良いねえ」
 肩の上で言い合う私たちに、ヤマメさんが呆れたように苦笑する。
「怯えて泣きわめくようなら、さっさと食っちゃおうかと思ったけど、二人とも肝が据わってるじゃない。どうしようかキスメ、直接、勇儀さんのところに連れて行ってみる? 案外気に入るかもね、この人間たち」
「…………」
 振り向いたヤマメさんに、キスメさんは困ったように首を傾げて、また何か耳打ちする。
「え? あー、例の取り決め? そういやそうだね。あんたたち、蓮子にメリーだっけ? なんか、地上の妖怪の手引きか何かでここに来たわけ? それだとちょっとばかり面倒なことになるかもだけど」
「いえいえ滅相もないですわ。地底社会のことを聞いて、純粋な好奇心から行ってみようと思ったら穴に落ちちゃっただけでして」
 蓮子が微妙に情報を伏せつつ首を振る。実際はパチュリーさんからの依頼という形であの縦穴を教えられたわけだが、今回落ちたのは純粋な偶然であるから、全くの嘘をついているわけではないと言い張ることもできなくはないが。
「ふーん。じゃあやっぱりまずは勇儀さんトコ行って、伺い立てた方がいいか」
「勇儀さんって?」
「鬼の星熊勇儀。旧都のとりまとめ役というか、相談役というか、まあそんな感じの、みんなの頼れる姉御よ」
「鬼の星熊……?」
 どこかで聞いた覚えがある。星熊、ほしぐま……。
「――ひょっとして、妖怪の山の四天王って言われてた鬼の星熊様?」
「ん? なんだ、地上にいた頃の勇儀さんを知ってるの? いや、そんなわけないか。人間がそう何百年も生きてるわけないし」
「噂を耳にしただけですわ。――ああそうだ、ヤマメさん、それなら萃香ちゃんのことも」
「はっ!? 萃香ちゃん!?」
 蓮子の何気ない言葉に、ヤマメさんが唖然とした顔で振り返った。
「す、萃香って、鬼の伊吹萃香さんのこと? 勇儀さんと同じ四天王の? 少し前に地上に出て行ったとは聞いてたけど、まさか」
「ええ、お友達ですの」
 大きく見開いた目をぱちくりとさせて、ヤマメさんはキスメさんと顔を見合わせた。
「……萃香さんの友人を名乗るなんて、嘘だったらタダじゃ済まないよ?」
「この場で証明はしにくいわねえ。萃香ちゃんをここに呼ぶ手段はないから……地上に帰してもらえれば、萃香ちゃんに話をつけることぐらいなら出来るんだけど。あ、私たちの知ってる萃香ちゃんと、そちらの知っている伊吹萃香さんがまず同じ存在かどうか確認すべきかしら。小柄で、頭の両側に大きなツノが生えてて、分銅のついた鎖をじゃらじゃらさせて、霧に姿を変えることができて、自分自身を分裂させることができて、お酒が無限に湧いてくる瓢箪を持ってて、いつもそれ呑んで酔っぱらってて……」
 ぬけぬけと喋り続ける蓮子に、ヤマメさんは眉間に皺を寄せて唸った。
「……そりゃ確かに間違いなく伊吹の萃香さんだけど。萃香さんをちゃん付け呼びとか、ちょっとキスメどうしよう、こいつらただの人間じゃないよ。どう見たって強そうじゃないのに、どうなってんの?」
「…………」
 桶の中でキスメさんも困ったように首を傾げ、また何か耳打ちする。
「……そ、そうだね。ますますもって勇儀さんに任せるべき案件だね、こりゃ」
 気を取り直したように咳払いして、ヤマメさんは私たちの身体を担ぎ直す。
「あのー、萃香ちゃんの名前に免じて下ろしてもらえません?」
「地底の妖怪は人間の言葉なんざ信用しないって言ったでしょ!」
 憤然とそう言って歩き出したヤマメさんの肩の上で、私たちは顔を見合わせた。
 ――いつぞや、伊吹萃香さんが地上でいわゆる《三日置きの百鬼夜行》異変を起こしたとき、我が相棒は萃香さんの正体についてのある推理(という名の誇大妄想)を語った。詳細は別の事件簿を参照していただくとして、相棒はそこで萃香さんの地底での立場について、鬼の中でも低い地位にいたのでは、と推理している。そして、相棒のあの推理が合っていたなら、萃香さんと同じ山の四天王であったという星熊様とやらの正体も、萃香さんと同種であったはずだ。
 だが、ここまでのヤマメさんの言葉を聞き反応を見る限り、萃香さんも星熊様とやらも、地底ではかなりの高位にいる――少なくとも、地底のまとめ役を担い、土蜘蛛から敬意を払われる立場であることは間違いないようだ。ということは。
「……蓮子、いつかの鬼についての推理、やっぱり根本的に間違ってたんじゃない? 萃香さんにめちゃくちゃ失礼なこと言ったんじゃないの、あのとき。殺されなくて良かったわね」
「そりゃ仕方ないでしょ、あのときは地底の情報が全然無かったんだから。でも大筋では間違ってなかったと思うんだけど。まあ、そのへんはおいおい調べるわよ」
「調べる前に、鬼に取って食われないように対策を考えた方がいいんじゃない?」
「私の頭越しに作戦会議してるんじゃないよ」
 ヤマメさんに釘を刺され、私たちは口を噤んだ。全く、返す言葉もない。
 何にしても、私たちの地底潜入行は、様々な意味で一筋縄ではいきそうもなかった。




―9―


 下りのトンネルを抜けると、少し視界が開けた。広い空洞に出たのである。「旧都はこの先だよ」とヤマメさんが見やった先には、細い川に掛かった橋があり、その先に光がおぼろげに見えている。ここからではよく見えないが、あれが旧都か。いったいどのくらいの広さで、どのくらいの人口(妖怪口?)を誇る街なのだろう。
「旧地獄なんでしたっけ?」
「そう、地獄が移転するときに切り捨てられた区画。厳密に言えば、その中の旧地獄の獄卒たちが暮らしてた街だったのが、今の旧都ね。私ら嫌われ者の楽園よ」
「地獄だったってことは、針山地獄とか血の池地獄とか」
「ろくに管理されてないけど、今も残ってるよ。奥の灼熱地獄は特別に管理してる奴らがいるんだけど……ん? あ、いたいた。おーい、パルスィ」
 と、橋に向かって歩きながら、ヤマメさんが声を張り上げた。その視線の先には、欄干にもたれるように寄りかかった人影がひとつある。手を振りたいところなのだろうが、両手は肩に担がれた私と蓮子で塞がっているのである。
 ヤマメさんの声に、パルスィと呼ばれた人影は気怠そうに振り返った。ふわふわした金髪に、エルフのような長い耳、民族衣装風の服装をした少女だ。しかし、それより何よりも目立つのは、この地底の薄暗い闇の中に輝く、緑色の眼――。
 その緑の眼に睨まれて、私は咄嗟に視線を逸らした。何か、ひどく厭な感じがする。胸の奥が捩れるような、喉の奥から酸っぱいものがこみあげてくるような不快感。
 そんな感覚に私が耐えている一方で、その緑の眼の主は、私たちを抱えたヤマメさんの姿に眉を寄せ、ひとつため息をついた。
「なんだ、ヤマメか。なにそれ、人間?」
「さっき縦穴から落っこちてきたのよ。やー、びっくりしたわ」
「地上の人間が、地底に何の用だっていうの」
「さあ、好奇心で調べに来たって言ってるけどね」
「そんなの、さっさと食べちゃえばいいじゃないの。それを見せびらかすみたいに肩に担いで運んでくるなんて、妬ましいわね。ていうか見せびらかしに来たんでしょ? 呪うわよ」
「いやあ、それがこいつら、萃香さんの知り合いだって名乗るから、勇儀さんのところに連れて行こうと思ってさ」
「すいか?」
「ほら、勇儀さんのお仲間の、四天王の一角の。知ってるでしょ?」
「知らないわよ。なんで私が勇儀の仲間なんか知ってないといけないのよ。妬ましいわね」
「何を妬んでるのかさっぱり解らんけど、勇儀さんどこにいるか知らない?」
「だから、なんでそれを私に聞くのよ。あの馬鹿鬼の居場所なんて知らないってば」
「よくここ来てるじゃん。友達でしょ?」
「あいつが勝手に押しかけて来るだけ! こっちは迷惑してるのに毎度毎度無神経に、妬ましいったらありゃしないわ」
「はいはい。てことは今日は来てないのね」
「……来てないわよ。旧都にいるんじゃないの」
「了解。悪かったね、勇儀さんじゃなくて」
「馬鹿言ってないでさっさと通りなさい! ああもう、どいつもこいつも妬ましい!」
 緑の眼の少女は歯をむき出して怒鳴り、ヤマメさんは慣れた様子で「はいよー」と私たちを抱えながらその横を通り過ぎる。後ろのキスメさんがこわごわと頭を下げたのに対して、緑の眼の少女は「ふん」とそっぽを向いて、また橋の欄干にもたれてどこか遠くを見つめた。
 橋を渡りきり、また暗いトンネルに入る。橋姫の姿が視界から外れると、得体の知れない不快感が遠ざかって、私はほっと息を吐く。蓮子の方を見やると、相棒は「彼女は?」と好奇心剥き出しでヤマメさんに尋ねていた。
「パルスィかい? 水橋パルスィ、嫉妬心を操る橋姫だよ。あそこで橋を守ってる……っていうか、あの橋を渡る奴を見張ってるのさ。ああ、あの緑の眼、直視するととヤバいからね、人間は特に気を付けた方がいいよ」
「橋姫? 嫉妬心を操るってことは宇治の橋姫……にしては洋風の出で立ちだけど」
 蓮子はヤマメさんの肩の上で器用に首を捻って、遠ざかる橋を振り返る。
「宇治の橋姫っていうと、一条戻橋で渡辺綱に腕を切り落とされたやつよね。丑の刻参りの」
 嫉妬に狂って丑の刻参りを行い、生きながら鬼となって大勢の人間を祟り殺した宇治の橋姫は、京都の一条戻橋で、源頼光の部下・渡辺綱に名刀「髭切」で腕を切り落とされたという有名な逸話がある。
「でもその逸話、酒呑童子の部下の茨木童子の話だとも言われるのよねえ。酒呑童子といえば妖怪の山の四天王だけど――」
 酒呑童子の出生の地である伊吹山の名を冠する伊吹萃香さんは、自分ではそうと名乗っていないが、明らかに酒呑童子を意識している。彼女の正体については、先述したように別の事件簿で相棒が素っ頓狂な推理をしているので、そちらを参照されたい。
 ともかく、酒呑童子の部下には副首領の茨木童子と、四天王とされる熊童子、星熊童子、金熊童子、虎熊童子という鬼がいたという。ヤマメさんの話に出てくる星熊勇儀さんというのは、おそらく星熊童子なのだろう。さて、ではあの橋姫の少女は茨木童子なのか?
「ヤマメさんや、あのパルスィさんって、鬼の仲間?」
「ああ? 橋姫と鬼は別に決まってるじゃない。あいつのこと下賤な妖怪ってバカにしてる鬼もいるし。まあ、嫉妬なんて感情は鬼が一番嫌うものだからねえ」
「ふうん。でも星熊様は彼女のところによく来るって」
「勇儀さんは誰に対しても面倒見いいからね。勇儀さんはパルスィなんかに妬まれたところで痛くも痒くもないし……というかあんたら、ひとの頭越しに何の話をしてるのさ」
「いやいや、こっちの話ですわ。――てことは、彼女は宇治の橋姫でも茨木童子でもないのかしらね。……グリーンアイドモンスターと日本の橋姫のちゃんぽんかしら?」
「『オセロー』ね」
「さすがメリー、西洋人はシェイクスピアを即座に引用できるぐらいじゃないと」
「そんな文化はあったとしても前世紀で死滅したわ」
「だーからひとの頭越しにわけのわからん話をしない! 病気にするよ!」
 ヤマメさんが憤然と私たちを揺さぶる。ずり落ちそうになってもがく私たちに、「暴れるんじゃないよ」とヤマメさんは私たちを担ぎ直し、またずんずんと歩き出した。ほっと息を吐く私の横で、相棒は懲りずに「じゃあヤマメさん」とまた話しかけている。
「これから鬼の星熊様に会いに行くんですよね?」
「ああ、あんたたちが萃香さんの友人だって話、信じたわけじゃないけどね」
「こちらとしても、星熊様に失礼のないように、鬼について知っておきたいんですの。教えていただけませんかしら?」
「ふうん? 意外と殊勝じゃない。いいわよ、この地底の人気者、黒谷ヤマメちゃんに何でも訊いてごらんよ」
 自分で人気者と言っていれば世話はない。まあ、彼女も随分気さくな妖怪のようだけれど。
「まず、旧都に鬼ってどのくらい居るんです?」
「さて、正確な数までは知らないけど、まあ数十はいるんじゃない?」
「結構いますね。それらはみんな、かつて地上で妖怪の山に棲んでいた鬼ですか?」
「さあ、そこまではよく知らないけど、まあ旧地獄で獄卒やってた鬼はみんな新地獄の方に移ったはずだから、今の旧都にいる鬼はほぼそれとは別のはずだよ」
「ははあ。地上の鬼と地獄の鬼は別種族なんですかね。では星熊様は地上の鬼のリーダー?」
「どうなんだろうね。鬼のリーダーは単純に一番強い奴らしいけど、地底の妖怪の住処は旧都だけでもないから、旧都に出てこない鬼もいるらしいし。とりあえず、旧都のまとめ役やってるのが勇儀さんだから、旧都に住んでる鬼の中では一番強いんだと思うけど」
「さすが山の四天王。ところで、星熊様と萃香ちゃんの他に、山の四天王と呼ばれてた鬼は、地底にはいないんです?」
「そういえば、聞いたことないねえ。萃香さんは地上に出て行っちまったから、今地底にいる四天王は勇儀さんだけなんじゃない? 私が知らないだけかもしんないけど」
「なるほど……。ところで、星熊様の性格はどのような?」
「豪放磊落、明朗闊達、竹を割ったような性格ってやつ。剛毅木訥仁に近し、って言うには話し好きだけど。正直者や勇気ある者が大好きで、卑怯者や臆病者は嫌ってるから、まあせいぜい何か訊かれたら正直に答えること、あと酒には付き合うことね」
「へえへえ、まあ鬼の酒宴には萃香ちゃんで慣れてますんで」
「ホントかね。ていうかあんた、随分と詮索好きだね。好奇心は猫を殺すって知ってるかい?」
「科学世紀の猫は生きているか死んでいるか不確定なものですから平気ですわ」
 ヤマメさんは「わけのわからん人間だよ」と呆れ顔で首を捻った。
 はてさて、何にしても旧都を支配する鬼との対面は避けられぬ事態であるらしい。我が相棒は少なくとも蛮勇を持ち合わせているのは間違いないし、鬼の酒宴にも付き合える程度の酒豪でもあるが、正直者かどうかは甚だ心もとない。いや、それよりむしろ私の場合、自分が臆病者と見なされることを危惧した方がいいのかもしれないが。
「っと、もう着くよ」
 と、不意にトンネルの先に光が見えた。トンネルの出口から一歩踏み出すと、一気に視界が開け――目の前に、大きな街が広がっていて、私たちは息を飲む。
 どれだけ大きな空洞なのか、地の底とは思えないほど頭上は高くひらけ、眼前の街並みから伝わってくる活気は人間の里の大通りにもひけをとらない。人型に近いものから、いかにも妖怪らしい姿をしたものまで、様々な妖怪が通りを行き交い、客寄せの声も入り乱れている。街を照らしているのは何の光なのかわからないが、夜の繁華街のような猥雑な光と賑わいに溢れたその街並みは、いつか蓮子と観光した魔都・東京の浅草の賑わいを私に思い出させた。
「ほれ、下りな」
 ヤマメさんが私たちの身体を肩から下ろして地面に立たせると、私たちの身体を縛っていた糸をしゅるしゅると服の中へ引っ込めていった。糸の束縛から解放され、私は大きく息を吐き、相棒は伸びをして固まった身体をほぐすように腕を回す。そういえば蜘蛛ってお尻から糸を出すはずだけど、ヤマメさんはどこから糸を出しているのだろう。……あまり愉快な想像にはならなかったので、それ以上考えるのは止めにした。
 キスメさんが、桶に入ったままヤマメさんの元へ寄って行って、また何かヤマメさんに耳打ちする。そういえばずっと一緒に着いてきていたのだが、全然喋らないのですっかり存在を忘れていた。
「ん? ああ、さすがに、一応萃香さんの友人を名乗る輩を縛ったまま勇儀さんの元に連れて行くわけにもいかないかんねえ。ま、ここで逃げたらそのへんの妖怪に捕まって喰われることが解らないほど馬鹿でもなさそうだし」
 どうやらキスメさんは、私たちを解放して良かったのか、と訊いたらしい。ヤマメさんは頷くと、「よっと」とキスメさんを桶ごと抱きかかえて、私たちに向き直った。
 そして、にっと、花のような、けれど剣呑で獰猛な笑みを、その顔に浮かべる。
「――ようこそ、旧都へ。せっかくだから楽しんでおいき」

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この小説へのコメント

  1. ↑すいません。間違えて文章なしで投稿しておりましたので先ほど修正しました。

  2. お疲れ様です。
    どこかのタイミングで藍様が介入するかと思いましたが、蜘蛛の巣でしたか。
    連子と勇儀様の対面も楽しみです。

  3. 3話読めるようになったぁぁぁぁ
    修正お疲れ様です。
    この様子だと、こいしちゃんは出番があるのだろうか?
    次回も気になる。

  4. 更新お疲れ様です。
    蓮メリの旧都観光が始まりますね。そのまま地霊殿や灼熱地獄まで行くとなると、また無断外泊とかで慧音先生に頭突きされますね、きっと(笑)。
    次回も楽しみにしております。

  5. お疲れ様です!
    ヤマメが妖怪らしくて好きです…。次回も楽しみにしてます!

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