幽玄なるマリオネット幽玄なるマリオネット 後編 マリオネット後編 第8話
所属カテゴリー: 幽玄なるマリオネット幽玄なるマリオネット 後編
公開日:2015年12月23日 / 最終更新日:2015年12月23日
終の章
1
「後悔するわよ」
もう丸三日が経つというのに、頭に焼き付いたその一言が、いくら頭を振ってみても離れてくれなかった。鮮やかに思い出せてしまい、その度に悪寒に襲われる。あの女の不敵な笑みも一緒になって蘇ってくる。
――後悔するわよ。
「それでもやりたいというのなら、手を貸しましょう。やることはとても単純で簡単よ。年端もいかない子供でも出来ることだから」
この棒で心臓のある場所を刺すだけ。ね、簡単でしょう? 大丈夫、何も前から狙えと言っているわけじゃないわ。後ろからこっそり、ただ急所を突くだけでいいの。それだけでちゃんと刺さるから。爪楊枝で豆腐を貫く感じね。だから力も全然いらないわよ。嘘だと思われても仕方ないけど、そこはちゃんと保証してあげます。
その甘言に乗り、彼は復讐を果たすことになった。そして彼女の言う通りになったのだった。
「なぁ理沙」
彼は両手を交差させ、腕を擦りながら墓を前にして呟いた。
「俺は間違ったのか? 然るべき相手に、然るべきことをしただけだと思うんだが。制裁を加えるのはやりすぎだったと、お前も思うか?」
墓石のすぐ隣には花が添えてある。花類にはてんで疎い彼は胡蝶蘭という名前さえ知らなかったが、どうやら妻は気に入ったようだった。誰が置いていくのかさえわからないシロモノなのだが、花好きに悪者はいないのだと力説された。
胡蝶蘭は真っ白で、何の面白味もない花だった。しかし妻の、「蝶が舞っている姿に見えるから」だという胡蝶蘭の名前の由来を聞くと、不思議といじらしく見えてきた。
だからといって好きになれるわけではない。どこの馬の骨ともわからぬ輩が置いていった花だと思うと、どうにも気味の悪さの方が勝ってしまう。
その胡蝶蘭の頭が、墓石を隠すように垂れている。彼は茎を摘み、花の向きを反対側に変えた。今は二人きりで話しがしたい。
「なぁ理沙」
娘は今、墓石だ。明るい前途が用意されていたはずだった我が娘は、冷たい石になってしまった。
彼は身を屈め、そのひやりとする石に手を添えて話しかけた。
「お父さんがお前の仇をとってやったんだ。嬉しいだろう? もう怖いやつはいないから、安心して眠ってくれ」
また、ぞっと背に悪寒がはしり、頭の天辺にまで伝播した。それでも添えた手は離さなかった。
「鬼頭君な、毎日来るって言ってたぞ。まったく、恋人が出来たなら言ってくれれば良かったのに」
と言いつつ、娘に紹介されたりなんかしたらその場でぶん殴ってしまうだろうな、と彼は苦笑した。
「もしかしたらこの花、彼が持ってきてくれたのかな」
可能性は高い。妻が気に入るくらいだ、娘の好きな花を、鬼頭湊は知っていたのではあるまいか。
「そうだとすると、マメなやつってことになるな」
樵という職業から推すに、繊細さとはかけ離れていそうだが、読書家でもあるらしいから、そちらの気質のが濃いのかもしれない。
よっ、とおじん臭いかけ声を漏らし、彼は立ち上がった。添え手も一緒に引っ込めた。
六月というのは、春でもなく夏でもない。こういう中途半端な季節は、どの時期であろうと好かなかった。特に春から夏にかけての、今のように朝寒く、昼暑いというパターンが一番許し難い。どんな服を着ても裏目に出てしまうからだ。
今朝は肌寒いというほどではなかったが、暑くもなかった。だから薄生地の長袖を通してきたのだが、真昼になった今、地熱で蒸されるほどの気温となった。おかげさまで上着はとうに汗でぐっしょりとなってしまっている。
だがそんなことは些末な問題だ。より重要なのは、これだけの暑さの中、厚着をしているにも関わらず一向に悪寒が止まないということだ。間が開く度に、どうしても彼女の声を幻聴し、笑顔を幻視してしまう。
――後悔するわよ。
またぞろぶるりときた。ぞ、ぞ、と背を這う悪寒。しかも手にまで、あの時の感覚が蘇ってくる時がある(まさにこの時がそうだ)。
「――――」
彼は拳を固め、娘から一歩退いた。
思えばこの手は、血こそ浴びていないが血塗られている。犯人はゴーレムという土人形だから、殺すというよりは壊すと表現するのが正しいと聞かされたが、命を奪うという行為に変わりはない。壊そうが、殺そうが、対象が生きている以上、殺人と同じことだ。
そうだ、だから血塗られている。こんな穢れきった手で、俺は理沙を――
彼は茫然となりながらも、なんとか墓から離れた。
何も考えず、ひたすら足を動かす。悪寒から逃げるように、足早に道という道を行く。
気付けば、自分の家の前だった。玄関のドアを開けようとしたところで、彼は正気を取り戻した。どこをどう通って来たのか、まったく思い出せないことに焦りを覚えながら、家の中へと足を踏み入れる。
「ただいま」
癖で、玄関脇にある階段の方をちら見してしまった。
なんて愚かなのだろう。娘はもう、二階には――この世には――いないというのに。しかも妻が婦人会の集まりで出ていることも失念し、声を投げてしまったものだから、恥の上塗りである。
「あぁ……」
居間に滑り込むと、身なりも気にせず畳の上で寝転がった。身体がだるく、酷く疲れている。目を閉じれば、五分もしないうちに眠りにつけそうなほどの困憊具合だった。頭も重い。
だがここで眠ってしまうわけにもいかなかった。もうあと一時間もしないうちに、博麗神社へ赴かなければならない。乱を引き起こした張本人として罰を受けに行くことになっている。
「あーあ」
背中を畳につけ、天井を仰ぎ見ると、太い溜め息が出た。
正しいことをしたという自信は持っているが、里を混乱に陥れたと言われてしまえばその通りでもある。実際、あれだけの行軍になるとは思っていなかったのだが、参加の意思ある者をすべて引き連れていったのだから、騒ぎが大きくなるのは必然だ。あの時、そんなことは一切考えていなかった。一揆は弱者のできうる最大の訴えだという頭しかなかった。そのために、今から責任を負わされにいくわけだが。
じゃあ少数だったら許してくれたのかといえば、それも怪しい。どのみち様々な難癖を用意してくるだろう。法は強者が作り、いつも強者を保護しているものなのだから。
なんてぇ世だ、と彼は改めて嘆いた。
娘を殺めた人間に、同じ目に遭わせるだけのことが、そんなに悪いことなのか? いいじゃないか、あっちは命を一つ終わらせているんだ、むしろ自分で命を絶つべきじゃないか?
考え出すと、無性に腹が立ってきた。
そもそもどうして、妖怪頭が指揮をふるってやがる?
里のことは、人間が規則を作るべきじゃないかのか?
この幻想郷を作ったっていう功績は認めるが、世界はみんなのものだろう。神でもないのに、どうしてあんな女がここを統べているんだ? そのことの方が異常だろうに。みんな考えなさすぎなんだよ。
ふつふつと湧き上がってくる敵愾心が、悪寒を止めてくれた。そうだとも、俺は悪くないんだから、ぶるぶる震えている理由もない。
けど、俺は人殺しになっちまった――
「……やめだ」
上体を起こし、肩の骨を鳴らした。ごき、ごきと小気味よい音が耳に伝わってくる。
そうして彼は立ち上がり、水を一杯口に含んでから、ふらりと家を出た。
2
目が覚めると、真っ先に見知らぬ天井が見えた。
「ここは……」と思わず呟いた。
黒い天井。黒檀で組まれたものだろうか。もしそうだとしたら、おそろしく裕福な家なのだろう。自分のような貧乏人がどうしてこんなところに、と岸崎忠志は心の中で首を捻った。
とにかく起きなければと腹に力をこめた瞬間、激痛に襲われ、声にならない声をあげた。ぎゃあ、と叫ばなかっただけマシだったかもしれない。
まさしく喘いでいるこのタイミングで、誰かがやってきた。
「あら」
声はやけに若々しい女のものだった。聞き覚えもない。なんとか痛みをこらえ、首だけそちらに向けると、花柄の着物に身を包んだ少女がそこに立っていた。炭のように真っ黒な長髪が印象的だ。
「起きたのね」
驚いているのか、目を丸くしている。
「ここは?」
忠志が訊くと、彼女は意外そうな顔をした。「何も覚えていないの?」
「いや、なんとなく覚えてはいるんですが」
嘘だった。先ほどから身に起きたことについて記憶を辿っていたのだが、霞がかかっていて何も思い出すことができないでいた。だから「ここは?」などと訊いてしまったのだった。
「ふぅん。ま、私じゃよくわかんないから、永琳呼んでくるわ」
「え? あ」
制止する間もなく、長髪の少女は姿を消してしまった。
一体何が起きているんだ……忠志は目を閉じ、鼻根をつまむと、鼻から息を吐き出した。わからないことだらけで脳が悲鳴をあげている。
永琳と呼ばれた女は、それから五分くらい後になってやってきた。
「ごめんなさいね。ちょっと診察が長引いてしまって。ああ、起き上がらなくて結構ですよ」
見覚えのある顔だなぁと思った直後、記憶が蘇ってきた。おかげで声を上げてしまった。
「この度はお騒がせしまして……」
用意していたわけでもないのに、すっと謝罪の言葉が出てきた。申し訳なさで胸がいっぱいになったからだろうか。
「いえいえ。運ばれてきた時はびっくりしましたよ。何せ貴方、刺されたままでしたからね」
「最初は里の医者に連れて行かれたんですがね」
そこの主治医であるじいさんもびっくり仰天、包丁が腹に刺さったままの患者が搬入されたのは生まれて初めてだ、と興奮していたのを覚えている。
「あそこのおじいさん、自分の手には負えないからって、ここに連れてきたんですよ」
「多量出血が苦手とか言っているくらいですからね」
そんなんでよく医者が務まるなと罵られることもしばしばあるようだが、みんな勘違いをしているのだ。じいさん医者は外科ではなく、専ら内科の先生なのである。ただ、診られそうなものなら何でも診てくれるというだけで。
「でもよかったわ、目が覚めて」
「すみません。こんないい場所を占領しちゃいまして」
「ここは仮にも病院だからいいですよ。そうじゃなくて、貴方、もう三日間寝込んでいたんですよ?」
「……三日?」
「ええ。うなされ通しでしたけど」
全部思い出したとはいえ、眠っている間のことなど記憶に残るはずもなく、
「すみませんでした……」
謝るのが精一杯だった。
「いいんですよ。それより――」
永琳は一度言葉を切ってから言った。「奥さんのこと、残念でした」
「あ……いえ」
なんと言い繕えばいいかわからず、忠志は黙り込んだ。
どうせうまいこと喋れないのなら、はじめから下手に喋らず口を閉ざしていよう、というのが彼の昔からの処世術だった。そのせいで意思疎通がはかれなくなった事例は枚挙にいとまがないが、しかし今回は相手がよかった。医者は大抵お喋りが得意だ。永琳も多分に漏れず、話し上手のようだった。
「一連の事件ですが、貴方が眠っている間に一応終息しました」
「あ、そうでしたか」
「犯人はアリス・マーガトロイドという女性の姿を借りた疑似生命体だったそうです」
「は? ……疑似生命体?」
話しがいきなり胡散臭い方に流れはじめたのを察知した忠志は、思い切って顔をしかめてみせた。が、永琳は平然と続ける。
「人工といっても、魔法で造ったものですから、正確には違うんですけどね。ゴーレムといいます」
「はぁ。ごーれむ、ですか」
「泥で出来た人形なんですけど、この泥人形には姿形を対象に似せられるという特殊な能力が備わっていまして。アリス・マーガトロイドって、どこかで聞いた名前じゃありませんか?」
覗き込むように訊ねてこられても、聞き覚えのないものはない。「いえ、知りませんが」
「そうですか。いつもお祭りのときなんかに人形劇をしているのですが」
「ん――ああ、あの金髪の娘さんか」
玲奈と二度ほど見に行ったことがあったのを思い出した。人形を器用に動かすなぁと感心していた覚えがある。
「ゴーレムは彼女になりすまし、事件を引き起こしたらしいです。まあ、もういませんが」
「いない?」
捕まったのではなくて?
「そうです。もうこの世にはいません。ゴーレムは金本さんに破壊されましたから」
「そう……ですか」
忠志の脳裏に、憤怒に身を焦がした金本の姿が浮かんだ。
――俺は絶対に許さないし、諦めない。死んでも制裁する権利をもぎとってやる。
一緒に家族の弔い合戦をやろうじゃないか、と彼は持ちかけてきた。向こうっ気の強い人だった。だが忠志は、自分の意気地のなさや気の弱さを誰よりもよく知っていた。だからやんわりと断ったのだが――
「やはり、彼はやり遂げたんですね」
「そうなりますね。貴方が実さんに刺された日、ちょうどあの日に乱を起こされたのをご存じで?」
「ええ、そこいらの記憶ははっきりとしています。義父はことを起こすのに、乱の日にちと被せることによってみんなの目をそらそうとしたんでしょう」
だからこそ私にも予知できたんです。
「誰にも見咎められない状況の最中、十メートルはあろう崖ともいえるような場所に、大事な話があると言われれば、子供だってぴんときますよ」
「一理ありますね。ただ、日頃警戒している相手でなければ、そうは考えないでしょうけど」
貴方には警戒する必要のある相手だったんですよね、と永琳が目で訊ねてくる。忠志は一度咳払いをし、語り出した。
「私は婿養子でしてね。記事にもなってましたし、説明する必要はあんまりないかもしれませんが――経済的な理由で岸崎の家にあがったのです。玲奈さんとはこのときが初見だったと言っても過言ではないほどの仲でした」
結婚前、周囲からは醜い女だ、そんなところに婿にいくお前が不憫でならぬと言われたが、
「玲奈さんはみんなが言うほど醜いわけではなかったし、そもそも私だって丈夫と言える体躯も顔ももっていませんで。だから、その……夜の営みのほうだって、口実として周りにそう説明していただけなんです」
「随分記事の内容と違いますね」
「ええ。こういってはなんですが、新聞記者というのは、ようはみんなが面白がってくれればいい、みたいなところがあるじゃあありません? だから私はあまり好きではないのですが」
ああすみません、話しが脱線しました。
「私は玲奈さんを取引の材料にしてしまいました。ですから引け目があったのです。彼女を抱くのは間違いだと自分に言い聞かせていました。彼女の方も、父があんな傲慢な人間で申し訳ないと。それに、どのみち子供は作りたくないからと、私が手を出さないことに賛成してくれたのです」
「子供を作りたくない? 里の人としてはかなり変わった考えですね」
人間の里では、子供は子宝と言われ、成人した男女ならまず間違いなく欲しがるものとされている。その常識のために、忠志たち夫婦は随分と肩身の狭い思いをした。忠志にしてみれば、肩身の狭さはどこでも変わらなかったが。
「玲奈さんの母君は子供が出来にくい身体だったみたいで、大変な苦労をされていたとか。で、ようやく生まれたと思ったら玲奈さんのような子供でしょう? だから彼女も、自分のような子供が出来てしまうのをおそれていたんです。言葉が話せない、いやそれよりもっと深刻な病を得て生まれ落ちるかもしれない。そう思うと欲しいとさえ思えなくなってしまったんだと言っていました。まぁ、初夜だけはちゃんと夫婦の契りを交わすことにしたんですが」
「なるほど。そのお気持ちはわかります。結構そうやって悩まれている方も多いみたいですし。ただ、憚れる話しなので、こういう個室でひそひそとしかお話されないのが残念ですが」
「里では、弾き者にされることほど堪える仕打ちもありませんからね。私なんかは慣れたものですが、普通の人ならば安寧に暮らしたいでしょうし」
「もっともです」
永琳はにこりと笑った。話しを催促してこないのは、彼女なりの気遣いなのだろう。少し疲れてはいたが、忠志は唾を飲み込んで一息もうけると、続けた。
「そんなわけで、私は、言ってみれば岸崎家の体裁を保つために利用された愚かな男なのです。あとで訊いた話しですが、中流、出自問わずで、これだけ男がいる人間の里で、しかも取引を持ちかけても、彼女を娶りたいと言った人間は私だけだったそうです。酷い話しだとは思いますが、そのせいで岸崎家の家柄はかなり傷んだようです。でなければ、私のような者が、上流階級とも揶揄される家に入れるはずがありませんから」
「人間社会には面倒な仕組みがいろいろありますからねえ」
苦笑する永琳につられ、忠志も苦笑いを浮かべた。
「まったくです。義父はまさにその仕組みの中での強者でした。金も権力もあるのだから、やりたいようにやって何が悪いんだ、と人の目を憚ることもなく豪語していたくらいですし。しかし裏を返せば、その仕組みに縛られて生きているわけで。玲奈さんのような仕組みの中の弱者を、我が子として迎えなければならなかった義父の絶望感は半端ではなかったでしょう」
「箔を付けられるどころか、傷が付く、と」
「喩えがうまいですね。その通りですよ。仕組みを壊さなければ何をしてもいい。けれど玲奈さんの問題は、それを壊さなければ解決しないことですからね。他に方法でもあれば、すっとんでかじりついたに違いないでしょうが」
養子に出すという案があった(誰も欲しがらなかったけれど)のだと、旧くから岸崎家で働いている給仕さんが昔こっそりと教えてくれたのだが、それは永琳には伏せておくことにした。さっきから亡き妻を貶めているようで、段々と後ろ暗い気持ちになってきたからだった。
「玲奈さんが大人になるまでは、苦しんでいる娘を献身的に看ている夫婦という美しさを世間に訴えられることが出来た。だから義父も我慢出来たんだと思います。でも大人になれば、必然的に結婚の話しになっていくでしょう」
あそこの嫁も、ついに嫁入りだってよ。
あんなに器用の悪い娘でも結婚できるもんなんだね。
ああでも、岸崎さんのところはやっぱり――。
「義父は、相手が最下層であってもいいから捌きたいと思っていたのでしょうね。娘の幸せより、自分の格を維持したいがために。結婚して格好さえつけばそれでいいんですから、人間社会もとことん腐っていますが」
「そう思ってしまうのも仕方のないことだと思います。けれど、他はもっと酷かったりするものですよ」
さらりと言われ、忠志は目を瞠ったが、永琳はそれ以上語ろうとしなかった。
微妙な沈黙の間を挟んで、忠志はそろそろと切り出した。
「そんなわけで、私は母のためと言いつつ、金で人生を売ったわけです。で、義父は金に執着する人でした。ご存じかもしれませんが、義父は私に毎月決まった額を流してくれていました。最初は逃亡を防ぐためにこんな形にしたのかと勘ぐっていたのですが、それはとんだ見当違いだったんですね」
なんと義父は――と忠志はわざとらしく低い声で、
「一度に払った場合、損をするかもしれないと思っていたらしいです。もし私が死んだりでもしたら、やった金が返ってこなくなる可能性がある、と。笑えますよね。どこまでがめついんだって」
じんわりと視界が滲んだ。額が熱く、頬も火照ってきた。なんとか悟られまいと、忠志は無理矢理笑顔を引き出した。
「その話しを聞かせてくれたのは、他でもない玲奈さんでした。こんな父だから、私となんて結婚しない方がいいってね。――長くなりましたが、これが私の、警戒していた根拠ですよ」
「……なるほど。起きたばかりで長話させてしまい、申し訳ありませんでした。けれど最後に二つだけ教えてくれませんか?」
「なんなりと」
忠志は小さく頷いた。涙はもう蒸発したようで、視界は正常。目をしばしばさせても、滴になって落ちるということはなかった。
「一つは、どうして貴方の命を狙う必要があったか、ということです。玲奈さんが亡くなった時点で、お金を差し止めしてしまえばそれだけで事足りると思うのですが」
「はは、それは簡単なことですよ」
見かけ通りの意見だ。この人はたぶん、人間社会の闇をあまり見たことがないのだ。いつも日向を歩いている――そう、いかにも高貴という感じ。人里離れて暮らしているのも納得してしまえるような雰囲気を纏っている。
「婿養子という枠に嵌められているからです。私は玲奈の夫である前に、岸崎家の養子――つまり跡継ぎなわけですよ。しかしそれは面目のためだけであって、義父が本気で私を養子縁組してまで迎え入れようとしていたわけではない。玲奈さんが死んで私だけ残った場合、義父の死後、跡取りとして私が財産を引き継ぐことになります。そんなのを義父が許せると思いますか?」
「それは……まず無理でしょうね。でもそうなると、最初から婿養子という危険な選択をしなくてもいいような気がしますが」
「それも世間体のためですよ。岸崎家には男児がいなかった。子は玲奈さんのみです。そして義父のめがねにかなう養子も現われなかった。つまり跡継ぎがいないわけですよ。となると、玲奈さんの結婚相手は絶対に婿養子でなければならない。玲奈さんが嫁として出て行ってしまったら、義父の代で岸崎家は終わってしまいますから。上流の家は、それが金貸しのような商家であっても家門こそにこだわります。家門が途絶えるなど、彼らにとってはあってはならないことなのです。本来なら私のような者ではなく、上流同士で結婚させるのでしょうが、そこは妥協したんでしょう。直接聞いたことはありませんが、想像に易いですよ」
「王族でもないような家門に対する執着は理解しかねますが、そんなことで世間は納得するんですか? 言い方は悪いかもしれませんが、ただの茶番にしか聞こえないのですが」
本当に言い方が悪い、と忠志は苦笑した。
「ですが茶番とわかっているからこそ、こんなこともまかり通るのですよ。形だけでも整えておけば、誰にも後ろ指をさされなくなる。周りもみんな承知しているから誰も口出ししないのです。あくまで岸崎実は跡継ぎに恵まれなかった可哀想な亭主であり、嫁に行き遅れた娘を抱えてさぞ苦労された方だ。結構な見劣りはあるものの、婿養子を迎えてとりあえずは一族安泰であろう。あとは孫の顔でも見られれば言うことないのではないかな――と、表向きはこんな感じですかね。裏の意味は、それこそ表には出てきませんが、人の不幸は蜜の味と言いましてね。奥方連中の情報網は凄まじいですから、真意を掴み損ねている人なんていないと思います」
永琳は不承不承といった感じだったが、一応はこくこく頷いて理解を示してくれた。どうやら今の下手な説明でも少しはわかってくれたらしいと、忠志は安堵の息を吐いた。
「玲奈さんが亡くなっても私を追い出すことは、義父には不可能だったんです。茶番であっても、世間様への建前では、私は息子も同然ですからね。もちろん金を巻き上げることも同様に。私が喚き散らせば、それだけでお家に傷がつく。たとえ噂だけだとしても、その小さな噂だけで家柄には十分深い傷を負わせることが出来るものですから」
「特に金貸しのような、信用が関わってくる仕事なら尚更ということですか」
「はい。ですから――」
次の一言には、少しばかりの勇気が必要だった。しかし忠志は、そこで言葉を呑み込んでしまうことはなかった。
ここまで彼を引っ張ってきたのは、岸崎実に対する怒りの力だ。憎悪の力だ。憎しみが腹部の痛みを抑え、怒りが口を動かしてきた。
だからここでも声帯はきちんと機能し、現実に声となって飛んだ。
「――私を殺そうと画策したのでしょう」
「…………」
永琳は沈黙を寄越した。
もっと喋れという合図だろう。もっと具体的に、もっと深い部分まで。
「殺人は重罪です。もし義父が自分の手でそんなことをすれば、破滅は逃れられません。疑いをかけられずに私を殺すためには、事故か自殺に見せかけるしかない。あ、人を雇うという手もあるか」
しまったな、と忠志はおどけてみせ、今のは無しで、と付け加えた。
「義父が指定してきた場所を見て、私は後者だと確信しました。ここからは私の推測になりますが、義父は私が玲奈さんの死を嘆き、後を追ったという筋書きを持っていたのだと思います。首尾良く私を突き落として殺したあと、事情を聴取しに来た相手に泣き通し、そう芝居を打とうとしていたんじゃないですかね」
「そうなると、貴方が刺された理由がわからなくなりますね。突き落として殺害しようとしていたなら、刃物は必要なかったんじゃないでしょうか」
「義父が包丁を背に忍ばせていた理由は、私にもわかりません。抵抗されることを見越して、もし暴れられたら刺し殺そうとでも思っていたんじゃないですかね。事実、私は抵抗した果てに刺されましたから。死ななかったというだけで、もし死んでしまっていたら――そして本人があんなことにならなければ、義父はなんとかして自殺を偽造したと思いますよ」
自刃も珍しくはない世だ。
「実さんは護身用ともいうべき刃物を用意してきたくらいですから、貴方が抵抗すると思っていたんですよね? なら、どうしてもっと回りくどいやり方をとらなかったんでしょう」
「回りくどいやり方?」
「ええ。抵抗されないよう、食事に睡眠薬でも盛って、眠らせてから崖に落とすとか」
それは、今まで考えてもみなかった方法だった。言われてみれば確かにその手の方が楽だし確実だ。
「睡眠薬が手に入らなかった、とか」
「手に入りにくい品ではありませんよ。里のおじいさんに、ちょと不眠だからと言えば調合してくれますし。――ああでも、それで足がつくことをおそれたのかもしれませんね」
「ですな。何せ義父たちは不眠になったことなんてないでしょうから。少なくとも、私は聞いたことも見たこともありません」
「そうなると、あとの疑問は一つですね」
「はあ」
「貴方はさっき、実さんに自殺に見せかけて殺されると思っていたと言っていましたが、どうしてそう解釈した場に向かったのですか? 無視して家にいれば良かったでしょうに」
もっともな質問だ、と忠志は微笑した。だがこれにはきちんとした理由がある。
「私は疲れていたんです」
天井を見つめたまま、吐息を一度だけついた。
「何もかも、どうでもよくなっていました。義父の罵倒に耐える日々にも、心配そうな眼差しを部屋の隅から送ってくる母を相手にする日々にも。これまで耐えて、耐え抜いてきただけの人生だった。それが急に虚しく思えましてね。形だけの夫婦と割り切って生活していた玲奈さんも、幸せとはほど遠かったはずです。それは私のせいなのですが。何にせよ、あのときの私にはもう、生きる気力がなかった。義父がそこまで私を殺したがっているのなら、殺されてやろうと思いましてね」
あの、金本が起こした一揆の日。その日の早朝、机の上に場所と日時だけが記してある一枚の紙が置かれていた。殺害予告の書留である。内容を読んだ瞬間こそ母たちに見られなくて良かったと安堵したが、こんなことにさえ気を払えない義父に脱力したのも確かだ。
「死のうと決めたら、どうしてか振り返りをしたくなりまして。無意味な人生であったとしても、どんな道を歩んできたのか、確認したくなってきたのです。ならばと玲奈さんのことも併せて書きたくなったし、だったらもう、これは暴露書として書いてしまおうと思い立って」
妻への手向けのつもりでもあったのだ、あの書は。
「生前、玲奈さんがよく言っていたことがあります。世の中、父のような人間がのさぼるのは間違っていると。もっと実直に努力している人が評価されるべきだと。家柄で差別するのもおかしいと言っていました。だから私は、その想いも一緒くたにして書いたのです。私が死んで、書の内容が世に出れば、これ以上の功徳もないのではないかと思いました」
それも一種の賭ではあった。
もし自分が死んだ後に、義父に衣服を検められてしまったら全てがパーになる。紙は燃やされ、想いは灰になって散り散りになるだけだ。結果的には調べられずに済んだが、一か八かの賭だった。
「私は桐箱に認めた書を入れ、服の中に忍ばせました。そして指定の崖まで行ったのですが――」
「そこで、義父上に抵抗したくなるようなことを言われた、ですか?」
「お察しの通りです」
当時を思い返すと、ずきりと胸が痛んだ。玲奈さんとは距離を置き、仮の夫婦を演じているだけだと何度も自分に言い聞かせてきたものの、回想しただけでこうも目頭が熱くなってくるのだから、私はやはり玲奈さんのことが好き――この場合は愛していたか――だったのだ。
「お伺いしても?」
「ええ」
忠志は喉から迫り上がってくる熱いものを飲み下し、瞳を閉じた。
暗くなった視界に、ぽっとあの時の光景が蘇る。きっとこれより後の一生、忘れることはないであろう光景が。
「売女より役に立たない娘――彼はそう言ったのです」
永琳の息を呑む気配が伝わってきた。忠志は再び瞼を開いて天井を睨んだ。
「売女でさえ自分の生活を賄えるというのに、玲奈ときたら穀を潰す以外に何の取り柄もない。だから死んでくれてせいせいしたよ。ようやく孝行なことをしてくれた、とね。確かに玲奈さんは美女ではなかったし、働き口も皆無でした。ですが仮にもたった一人の娘ですよ。私は――」
怒りが拳を作らせ、奥歯を噛み締めさせた。ぎり、っと大きな音が鳴った。
「私はかっとなって義父に体当たりをしていました。そこからはもう、無我夢中で……。お恥ずかしいことですが、自分で何をしたのか、まるで覚えていないんです。手に痛みがないので拳を振るったわけではなさそうですが」
「ですね。彼の顔にも痣などは認められませんでした」
「殴ってやった方がよかったのかもしれませんがね。刺される前に」
激昂してもつれ合いになったところまでは良かったが、その後がいただけない。情けない限りだ。
「義父が背に包丁を忍ばせていたとは思いませんでした――というのは言い訳ですね。いや、実にお恥ずかしい」
「いいえ。不意打ちだったのですから」
「不意打ち、ね。不意打ちといえば、あのつむじ風はなんだったのか」
義父の身体を持ち上げ、岩盤に頭から突き落とした不思議な風。
「あれこそ神風というのでしょうな」
「今、里ではその話しで持ちきりですよ。やはりお天道様は見ていらっしゃると、大半の人が喜んでいるみたいです」
「義父は職業柄というのもあるでしょうが、恨みをかう方が圧倒的に多かったですから。お伽噺に出てくる悪代官そのものって感じでしたし」
そうだ、悪代官だ。権力を盾に弱きをいじめ、強きを囲って悪事を働く、不届き千万な醜い豚。それが岸崎実の真の姿だった。そんな輩が好かれるわけがない。
「とにかく、義父が死んでくれて良かったですよ。あとは、彼が玲奈さんのところに行き着かないことを願うばかりです」
語るべきことはすべて語った。その思いが肩の張りを緩くさせ、ついでに記憶の袋を縛っているひもを緩ませ、更には涙腺も緩くさせてしまったようだった。
笑うとえくぼのできる玲奈。細い指で筆をはしらせ、一生懸命会話をしようとする玲奈。義父に罵られても、頭を垂れて耐えるだけの玲奈。
様々な彼女の一面が現われては消え、消えては現われる。その合間、忠志は大いに涙を流した。男は泣くものではないという社会の常識をかなぐり捨て、慟哭に身を任せた。
3
目の前で、ごう、と灼熱の池から溶岩が舞い上がってきた。炎の飛沫を散らしながら、アーチを描いてまた池へと戻っていく。
いつ見ても綺麗だな、と火焔猫燐はぼんやり眺めながら思った。溶岩が自分の瞳の色と同じで緋色だからか、心も落ち着く。もしくはここ、灼熱地獄の温度が他の地獄より暖かいから、ほっとするのかもしれない。
「ねぇお燐ちゃん」
お空に囁かれ、燐はそちらに顔を向けた。
「なに?」
「なにっていうか」
うーんと、とお空が顎を上げて思案する。彼女は地獄鴉だけあって頭が弱い。三歩歩けば忘れる、というくらいに記憶力も悪い。
だから、「ごめん。言いたいこと忘れちゃった」という文句も、もう燐には聞き飽きたものだった。
「毎回言うけど、忘れるんだったらメモしなさいよね」
「だって、紙とか書くものとかがないんだもん」
「ここなら、こうやって指で地面をなぞれば書けるじゃない」
言って見せてやると、お空は目をくりくりさせた。
「本当だね。さすがお燐ちゃん。頭いい」
「頭の良さは関係ないけどね……」
ごう、とまた溶岩が盛り上がって、アーチを描いて落ちていき、どぼん、と音を立てて池に溶けていく。もう何百回、何千回と見ている風景なのに、どうしても音がする度にそちらを見遣ってしまう。
「あ、そうだ」唐突にお空が切り出した。「もうお燐ちゃんは隠れなくていいんじゃないの?」
どうやらお空は、地上での事件のことを言っているらしかった。
「ああ、それならもう犯人も捕まったしね。あたいがここに隠れる理由もなくなったよ」
「よかったね、お燐ちゃん。でもどうしてお燐ちゃんが隠れなきゃいけなかったの? 地上なんてわたしたちには関係ないのに」
「うちらが関係あろうとなかろうと、地上ってところは――いんや、人間っていうのは面倒の多いもんなのさ。みんな疑い深いし。だから疑わしいって言われるだけでアウトなんだ」
「ぎしんあんきってあんまり意味よくわかんないけど、お燐ちゃんは疑わしくないよ?」
「お空から見れば、ね。人間たちはそう思わなかったんじゃないかな。あとさとり様もね」
額に青筋立ててやってきた時のさとりの姿を思い浮かべると、胃がゆっくりと持ち上がってくるようだった。
どうしてあたいたちがここまで神経質にならなきゃいけないんだ――隣にいるのがお空でなければ、相手にそう愚痴ってしまっていただろう。今はこのとぼけ面に感謝だ。
「さとり様もさとり様で考えすぎだけどね。ねずみを監禁したって聞いたときは、さすがに肝が冷えたよ」
「ナズーリンさん、ちょっぴり可哀想だったよね。ずっと小屋に閉じ込められっぱなしで」
「一週間もね。そんなことしたって、駄目なときは駄目なんだからさ。どーんと構えていればいいのに」
燐の主人はあくまでさとりだ。お空と二人、どちらもさとりのペットなのである。だから異論を挟むのはもってのほかなのだが、燐にはどうしても納得がいかなかった。
人間はいつもそうだ。原因は自分たちにあるのではなく、外にあると決めつけている。人間には良心がある、良心があるのだから残酷な仕打ちはやるまい。そう言って、より残忍性を秘めているはずだという理由だけで妖怪に真っ先に矛を向ける。犯人扱いにする。
けれど燐から見れば、妖怪も人間もさして変わらない。人間であろうと妖怪であろうと、善いことをする者もいれば、悪いことをする者もいる。ようはそれぞれの性格や思想によるものだと思うのだが、なぜか人間はそうは思っていないようで、しかもムキになって団体で動いてくる。その鬱陶しさときたら、お空に物を覚えさせようとするよりも格段に上だ。
そんな相手に、どうしてさとりが心を砕かねばならない?
仲間同士、静かに暮らしたいと願って、普段もその願い通りに動いているというのに。地上に迷惑など一切かけずに生活しているというのに(一度だけかけてしまったが)。
そもそも、人間たちを統括しているはずの霊夢は一体全体、何をしているのか。地上のいざこざを解決するのが彼女の役割のはずなのに、どうしてこっちにまで火の粉が飛んでくるのだ。お空の一件から霊夢とはそこそこ親しくなったつもりだったが、これは減点だ。ちょっと距離を置いた方がいいかもしれない。
「あ、そうだ」惚け顔でお空が訊いた。「犯人って誰だったの?」
これには燐もびっくりした。さとりから何も聞いていないとは。
「犯人はアリス・マーガトロイドだよ。あの人形遣い」
「え、うそ」
「嘘じゃないよ。といっても、アリスの姿形を模した人形だったみたいだけど」
お空は怪訝そうに眉根を寄せ、不足がちな語彙を一生懸命にかき集めて言った。
「でも、人形は人形だし、というか、人形って誰かが動かさないと動かないんじゃないの? ほら、わたしの羽根だって、わたしがいないと動かないし。人形動かせるのってアリスさんだけじゃないの?」
ようは、人形は独りでに動いたりはしないから、動かしているはずのアリスが犯人じゃないか、と言いたいらしい。
燐はその通りだよ、と頷き、けれども、と繋げた。
「普通の人形じゃなかったんだ。独りでに、勝手に動いちゃう人形を作っちゃってね。ゴーレムってやつらしいんだけど」
「あ、それならさとり様から聞いたよ」
聞いてるんじゃないか、と燐は髪を掻きむしった。鳥頭にもほどがあるぞ、と内心で罵声を上げる。当人はけろりとしている点が、より苛立ちを増幅させるわけだが、長い年月を共に過ごしてきただけあって燐はすっといつもの調子に戻した。もちろん、無理矢理力でねじ曲げて。
「とにかく、その勝手に動く人形が事件を起こしたってわけ。死因――死んじゃった原因が原因だからさ、あたいが疑われたってわけ」
「お燐ちゃんの相手は、いつも死体なのにね」
あ、魂もか、と楽しそうに言う。
「しょうがないと言えばしょうがないんだけどさ。猫妖怪は精気を吸うことで有名だからね。特に猫又はさ」
燐は、尻から生える二本の尻尾をうねうねとさせた。
「お燐ちゃんも吸うの?」
「あたいは吸う必要がないから吸わないけど。やれと言われれば、出来なくはないよ」
言って、お空の唇に自分の唇を寄せると、お空が反射的に仰け反り、その反動で後ろへ転んだ。
「そ、そんなことしたらわたし、死んじゃうよ」
「冗談よ冗談。そんなに驚かなくたっていいじゃないか」
燐は心の底から笑った。久方の笑いだった。お空と一緒にここへ身を隠していた時はずっと、神経がささくれていて笑うこともなかったから。
「しっかし、もう二度と疑われるのはごめんだね。さとり様の過保護にも釘を刺しておかないと」
ごろっと寝転がり、手で枕をつくって頭を乗せると、天井を見上げる。
空ではなく、天井。地上であれば青や黒や赤の映える場所が、ここでは灰色のごつごつとした岩盤が見えるだけ。燐たちを覆い、閉じ込めている殻こそが、天井の正体だ。そしてこの天井こそ、地獄に住む者たちの空だった。
地上に比べたら、ここは遙かに暗くて冷たい世界だ。光の射さない、活きた風も舞い込んでこない不毛の地。それが地獄。嫌われ者たちの住処。
けれど、ここを最低だと思ったことはない。地上から見れば最低の場所でも、燐にとっては心休まる、かけがえのない場所なのだ。それはさとりも、ここの住人も同じ気持ちだろう。だからこそ、さとりも過保護になるのだろうけれど。
「あーあ、眠くなってきちゃったね」
地面は地獄らしからぬ暖かさだった。まるで日光を浴びる地上の大地のように。
隣で何やら呟いているお空には耳を貸さず、燐は吐息ひとつついて瞼を閉じた。
4
上白沢慧音は握っていた桶から手を離し、額に滲んだ汗を手甲で拭った。
前日に雨が降ったわけでもないのに、今日はかなりの蒸し暑さだった。服が背に張り付いている。もしかしたら今晩辺りから降り始めるのかもしれない。
慧音は通りかかった茶屋で足を止めた。この暑さの中、墓参りを済ませてきた帰りの道中ということもあり、喉の渇きは抑えがたいものとなっていた。
置かれていた腰掛けに座ると、さっそく現われた女将に注文をした。のれんに書かれている「極上抹茶」を一つ頼むと、ふくよかな身体を揺らし、笑顔で店の奥へと消えていく。店は閑散としていて、鳥の一羽も見られない。だが、今はこの静けさがありがたかった。
「ゴーレム、か……」
事件の首謀者が割れてから現在に至るまで、頭の中は常にゴーレムのことで一杯だった。
アリスが造ったという、古代技術の結晶。
制御を失い、人の魂を喰らって生きながらえていた泥の自律人形。元教え子を枯死させ、本物に成り代わっていた影武者。
八雲紫から説明を聞いた時は、まさかという想いだけだった。そんな空想の物語のような話しがあるか、と。
だが冷静になるにつれて、魔法使いというのは昔話の中では最もポピュラーな存在ではなかったか、と思い直していた。魔法使いは、何でも願いを叶えてくれる少女であったり、人を不幸のどん底に突き落とす魔女であったりする。呪文一つで世界を滅ぼしてみたり、逆に死んだ人間を生き返らせてしまったり。とにかくむちゃくちゃな存在だ。歴史喰らいの自分が言うのも何だが。
なので、そんなむちゃくちゃな存在であれば、人形に生命を吹き込むのも不可能ではないのかと思うようになったのだった。そう思えるようになるまで、かなりの時間がかかったが。
「あい、お待ち遠さん」
出てきた時と同じ笑顔で、戻ってきた女将が湯呑みを差し出してくれる。豊かな頬の肉のおかげか、まるでおかめのように見える。
「ありがとう」
受け取るとすぐ、抹茶の芳香が鼻孔をくすぐってきた。極上というだけあって薫り高い。
「暑いときに熱いもんですいませんけど。もうちょいしたら冷茶も出しますんで」
その際はご贔屓に、と言って女将は店の中へと入っていった。勘定は後でもいいらしい。どうやら信用されたようだ。
「――ぉ」
抹茶を一杯口に含むと、ほどよい苦味と甘味が混ざり合い、すっと喉の奥に消えていった。
「美味しい」と慧音は思わず呟いた。
女将の言う通りこの暑さの中、熱い茶を啜るというのもアレな気がしたが、そんな些末な考えは飲んだ瞬間に吹き飛んだ。それほど価値のある一杯だった。
しばらくその味を楽しんでいると、不意に砂利を踏む音がした。来客かと思い顔を上げると、誰かが太陽を背負ってこちらに歩いてくるところだった。
日光の眩しさに目を細め、手でひさしをつくると、それが誰だかすぐに判別がついた。鬼頭湊だ。
「なんだ、湊じゃないか」
「先生こそ、茶屋にいるなんて珍しいじゃないですか」
湊の顔がぱっと明るくなる。歩調を早めて腰掛けまでやってくると、すぐ隣に腰を下ろした。
「お茶なんて家ので十分だって言ってたのに、どういう心境の変化で――」
はっとした表情と共に、湊が言葉を切った。何かを見て固まっている。どうしたのかと首を捻りかけたが、すぐに得心した。
「墓参りに行っていたんだ」
彼の瞳を釘付けにしたのは桶だった。というより、桶に入っている胡蝶蘭にか。桶なんかよりずっと存在感がある。
「あらいらっしゃい。……って、お連れ様ですか」
奥からゆさゆさと身体を揺らして女将が現われた。湊を見て、目をぱちぱちさせている。
「ああ。すまないが、この子にも同じものを」
「まいどあり」
詮索の目を向けるわけでもなく、女将はすぐに引っ込んだ。樵をしている湊の顔つきや体格は精悍で、年頃の女の子からはちょっとモテる。そんな彼をじろじろ見たり、くだらぬ合いの手を入れてこない点に、慧音は好感を持った。ここの店は客商売のなんたるかを知っているな、と。
「先生」湊はよく通る声で言った。「何回も言ってますけど、その『この子』っていうのやめてくれません? 僕ももういい歳した大人ですよ」
里の中では、二十歳を超えれば立派な大人だ。けれど人間より長寿を誇る慧音から見れば、やっぱりまだまだ子供だ。たとえ女子連中から人気を取れるだけのがたいがあったとしても。
「前向きに善処はしているつもりなんだが……癖は直らんものだな」
教え子に――ひいては養子(のようなもの)に対するいつも通りの言い訳を口にしたところで、女将が抹茶を運んできた。
「ごゆっくり」
これも、お代は後でいいようだ。
「そら、美味しいぞ」
「遠慮無く」
湊は抹茶にふぅーっと息を吹きかける。幼少の頃よりずっと変わらない猫舌ぶりだ。横目でその様子を眺め、飲み出さないことを確認してから慧音は話しかけた。
「今日はどうしたんだ? 商売道具も持たずに」
「先生と同じですよ」
少し湯呑みを傾け、抹茶を啜った湊だったが、すぐに唇を離した。まだまだ熱かったらしい。
「お前も墓参りか」
「これからは」ことりと腰掛けに湯呑みを置く。「毎日来ますよ」
「よせよせ。人生は短い。青春だって短いんだ。もっと有意義に使わないとな」
慧音は明るく努めた。落ち込んでいるはずの湊に、少しでも前向きに考えてもらいたいという想いで。
――恋人なんてまたすぐにできるんだから。
「墓参りも有意義ですよ」
「お前のそういうところ、私は嫌いじゃない。だけどな湊」
「先生」遮る口調は強硬だった。
「な、なんだ?」
「彼女は――理沙さんは、無念の死を遂げたんです。決して自分から進んで死んだわけではありません」
今まで見せてくれたことのない、輝きの点らない昏い双眸で湊がこちらを見る。まるで心の中を、心眼で睨め付けるように。
「そう、彼女は無念だった。そのはずです。やりたいことだっていっぱいあったはずだ。だからね、先生」
僕は忘れちゃいけないんだと思う、と言った湊は、急に態度を一変させた。途端に目をあちこちに泳がせ始める。おや、と慧音は思ったが、彼は止まらない。
「彼女と一番仲がよかったのは僕だったって、誰が相手でも胸を張って言える。恋人だったんだから。それに将来のことだって、色々話し合ってた。彼女の夢だって知ってる。だからこそ、僕は理沙のことを忘れちゃいけない。そのために、僕は毎日でも墓参りに行かなくちゃいけないんです」
湊は、行きたいんです、とは言わなかった。
行かなくちゃいけない。そうしないといけない。他に選ぶ道なんてない。
誰かに命令されたわけではなかろう。誰かにそうした方がいいと持ちかけられたわけでもなかろう。だが彼は、自身に強制の印を押した。恋人だった人を忘れないように、墓参りに行かなければ、と。心底に強迫観念を根付かせ、だからこそ「しなければ」ならないのだと言い聞かせて。
「なぁ湊」
彼は地面を睨み――泳いでいた目はいつの間にか落ち着きを取り戻していた――唇を?んだ。幾分顔色が悪そうに見えたが、慧音は構わず続ける。
「お前は昔から考えすぎなんだ。深く考察するのはいいことだけれど、それも選んで考えないと泥沼に足をとられるぞと何度も言ってきただろう」
「特に解決策のない話しは――でしょ?」
嘲るような、翳りのある笑い方だ。またしても知らなかった一面を見た、気がする。
「そうだ。世の中には考えても詮無いことがある。人の生死なんてまさしくだ」
「だから考えるな、とでも?」
笑みが引っ込んで、代わりに苦悩が引っ張り出される。その横顔は、余命僅かな病に冒された老人のように苦り切っている。
「そんなことは無理ですよ」指を組み、ふんと鼻息を吐く。
慧音は押し黙った。長年勤めてきた教育者としての勘が、そうしろと告げていた。
「近しい人の死には、途轍もない威力をもった毒が潜んでいる。そう教えてくれたのは先生ですよ。その毒を僕は間近で、しかも一身に浴びたんです」
わかりますか先生、と湊は俯いたまま、
「僕の伴侶になるはずだった理沙が死んだんです。それも病死や事故死じゃない、変死だ!」
湊は声を張り上げ、勢いよく立ち上がった。
きっと背後では、女将が「何事だ」とすっ飛んできたに違いない。それでも物音一つ聞こえてこないのは、彼女が気を遣って声を押し殺し、音を立てないようにと心を砕いてくれたからだろう。有り難い配慮だった。
「先生も見たでしょう? 理沙の死に顔を。白くて綺麗だった肌は黒くなって、瑞々しかった肉体は枯れた木みたいに萎れてて」
――どう見ても人間の死じゃなかった。
最後は、本当に消えてしまいそうなほどにか細い声だった。
「……そうだな」
そうだな、と内心で二度目の頷きを入れる。
あれは確かに人の死ではない。人間はああいう風に死ぬものではない。まだ木っ端微塵の方が現実味のある死に方だ。
そしてその頷きに、もう一つ意味が宿った。たった今閃いたことだった。
さっき彼は、死んだ恋人を忘れないようにするために墓参りに行かなくてはならないと言った。聞きようによってはその通りの意味しか持たないが、彼が本当に言いたかったのは、こういうことではないのか。
――人間として死ねなかった金本理沙のために、人間であった時の金本理沙を常に忘れないように、墓に通い詰めなければ――
人の記憶は感情と同じで、移ろいゆくものだ。時間が経つにつれて劣化し、風化していく。その瞬間、瞬間は「絶対に」忘れまいと思っていても、知らず知らずのうちに薄くなっていく。新しい情報に擦られて削られていくせいで。
だからこそ、少しでもその風化の進行を食い止めるために、湊は毎日墓に訪れようとしていたのではないか。
――私は死んでなんかいないわ。だってあんなの、死んだと言えないんだもの。ねぇ湊、貴方は私のこと、見捨てたりしないわよね? 人間じゃなくなっちゃったけど、私を捨てたりなんてしないわよね?
彼が浴びた毒はきっと、これだ。
金本理沙はまだ生きている。人間だった彼女は、人間ではあり得ない死を迎えてしまったが故に、湊の中で生き続けることに成功した。肉体はなくとも、彼女は生きていける。おそらく湊は本当に毎日墓に足を運び、記憶を保とうとするだろう。墓に赴く理由はそれだけではなく、彼女がそこにいるからだというのもあるだろうが、何にせよ記憶さえしっかりしていれば、彼女は死ぬことはない。
二人は床の中で囁き合った約束通り、夫婦となる。子供をもうけることは無理でも、妻は永遠に二十二歳の若さを維持し、湊だけが年老いていく。それでも二人は幸せだ。仲睦まじい夫婦なのだから当然だ、容姿なんて気にしない。
そしてこの毒を解く薬はこの世に存在しない。湊が死ぬその日まで、一人と一人は墓を介して愛し合う。
……あり得ない、と慧音は咄嗟に閃いた自説にぞっとした。あまりに馬鹿げている。馬鹿げてはいるが――
突如、湊が喋り出した。
「だけど僕はわかっちゃったんです。これは彼女が仕掛けた不意打ちだってね。理沙はお茶目でしたからね、きっと僕が驚くところが見たくてあんな仕掛けを施したんだって。ねぇ先生、そう思うでしょう? ちょっと考えればわかることだけど、たった一日足らずで人間が枯れて死ぬわけありませんからね。きっとこの辺りに隠れてますよ、あいつ」
俯いた姿勢のまま、矢継ぎ早に言葉を並べていく。
彼が焦点を失った目で見つめ、熱弁をふるっている相手は、地を這う一匹の蟻だった。
5
「わぁ、凄い」
直径三メートルはあろう丸テーブルの半分を埋め尽くしている写真の群れを見て、こぁは背の蝙蝠翼をうんと広げた。興奮が翼を動かしたのだった。
こぁは今、立ったままテーブルに両手をつき、写真を見渡している。どれもこれも喉から手が出るほど欲しいものばかりだった。写真を撮る道具もスキルもないからこそ、余計にその気持ちは強い。
「そんなに喜んでもらえると、頑張った甲斐があったというものですよ」
ふふんと鼻を鳴らしたのは文だ。丸テーブルの端に片肘を立て、得意げな笑みを浮かべている。
「よく巻き込まれずに撮れましたね」
「専門家ですからね。朝飯前とは言いませんが、そこいらの三文記者と一緒にしてもらっちゃ困ります」
自信に満ち溢れた台詞だ。文のこういう鼻持ちならぬ言動が反発を呼ぶことも多々あるのだが、こぁには一切当てはまらなかった。むしろ文を尊敬しているし、大が付かないまでも好きである。
できる女はかっこいい――これがこぁの心理だった。
「あ、これなんて本当に凄い」
めざとく見つけた一枚の写真。それを拾い上げると、うっとりとした表情になる。「かっこいいなぁ……パチュリー様」
写真はすべてパチュリーを主軸に撮られている。今日持ち込まれたものはみな、つい先日に勃発したパチュリーとアリス(偽)の戦闘の中で撮られたものだった。
「それは結界を破壊したときのものですね。氷魔法と炎魔法の共演は美しかったですよ」
それから彼女らは、近年では稀となった「本物の魔法合戦」について熱く語り合った。こぁは聞き手に徹していたが、それでも興奮の熱は高まっていくばかりだ。
そんな二人に冷や水を浴びせたのは、話題の主であるパチュリーだった。
「よほど暇なのね、貴方たち」
パチュリーはドアにもたれかかり、腕を組んでいた。半眼でこちらを見ている。話に熱中しすぎたせいで、自分の主人が入室していることにも気付けなかったこぁは大いに慌てた。
「あ、あの、パチュリー様。これはですね」
「見ればわかるわよ。井戸端会議でしょう」
「え、いえ」
嘘ひとつうまく使いこなせないこぁは、どぎまぎとするしかできない。代わりに弁明したのは文だった。
「井戸端会議というか、相談ですよ。より詳細な記事を作るための参考意見を聞きにきたんです」
「なら本人である私に訊けば? こぁは何も知らないわよ。現場に来てすらいないんだから」
「だからこそですよ」文は肩をすくめた。「今回の記事は第三者さんたちの声をまとめて載せるつもりなので」
真意を測りかねるのか、パチュリーが怪訝な顔になる。こぁは薄らとだが嫌な予感を覚えた。こういう顔をする時のパチュリー様は語気が荒くなる。
「ふぅん。そんな記事を作ってどうするつもり? また嘘でも載せるの?」
「失敬な。私がいつ嘘を?」
雲行きが怪しすぎる。敵対心剥き出しだ。
ゴーレム事件が終結してからというもの、どうしたことかパチュリーは不機嫌になることが多い。毒舌の毒も強くなり、針でも潜ませているかのような鋭さも併せ持っている。当人は否定するが、態度からして明らかだ。
「岸崎忠志の件、嘘じゃないなんて言わせないわよ」
パチュリーはドアから背を離し、カッカッと靴底を鳴らして近づいてきた。椅子を引き、乱暴に座ると、文を一睨みする。
「やや、これは怖い顔。どうして私が嘘なんて吐く必要が?」
「永琳から聞いたわよ。あの記事はデタラメだって」
「どうして永琳さんが絡むんです?」
こぁにもわからないことだった。
「今、彼女の診察所に岸崎忠志本人が来ているらしくてね。彼から色々と話を聞いたらしいわ。貴方の記事に嘘があるというのも聞いたって」
「うーん、具体的にはどの部分がですか?」
「それは永琳に聞いて頂戴。情報源は彼女なんだから」
「うわ、喧嘩をふっかけておきながら逃げましたよ」
酷くないですか、と同意を求めてくる。こぁとしては、苦笑を浮かべてはぐらかせるだけで精一杯だった。
「逃げてなんていないわよ。そもそも貴方ね、あんな記事を書いてどういうつもり?」
「あんな記事?」文よりも先にこぁが訊いた。
「そうよ。岸崎家の内情を暴露していたじゃない。あれじゃあ残された家族がたまったものじゃないわ」
そっか、とこぁはわかった気になった。パチュリー様は遺族の方々を心配しているんだ。
「あやや、今更そっちの話しになりますか」
「今更?」
「そうですよ。その記事は最初の方の記事ですよ? 文句があるならその時に言って貰わないと」
それもそうだ。こぁは文に同調した。もちろんおくびにも出さないが。
「あの時は情報が少なかったから、気にする余裕がなかったのよ」
「今はその余裕が出てきたから追及する、と。ですがあの記事に嘘なんてありませんよ。ちゃんと聞き込みもしましたし」
「そう? 私にはそうは見えなかったけれど」
「どこの部分がですか?」困り果てた顔で文が訊いた。
「じゃあ訊くけれど」
パチュリーは指を組んでテーブルに両肘をつくと、文を真っ直ぐに見つめた。
「あの記事の悪意を説明して頂戴」
「悪意?」
文が鸚鵡返しすると、
「そうよ。あの記事は、記事そのものが嘘じゃない。事実だけを客観的に書いてある記事じゃないもの」
「へ?」間抜けな声が漏れてしまい、こぁは慌てて口を噤んだ。
「面白いことを言いますね。記事そのものが嘘だなんて」
「そりゃあそうでしょう。新聞記事というものは、あくまで記述者の主観を省いた、事物に忠実に書かれているものを指すんだから。今回の貴方の記事、どれもこれも主観が入ってるし、悪意を感じる物ばかりなのよ」
はっきりと断じるくらいだから、パチュリーにはどの部分がそうなのかわかっているのだろう。当時の記事をなんとか思い返してはみたが、こぁにはどこがその部分なのか、さっぱりわからなかった。
「へえ」
文は悪戯っ子のような、可愛げのある邪気を含んで歯を覗かせた。「なかなかどうして、新聞のこと、詳しいじゃないですか」
「伊達に本は読んでいないのよ」
興味なさそうに言い返してはいるが、それがパチュリーの照れ隠しであることを、従者たるこぁは知っている。
「バレちゃしょうがないですね。その通りですよ。今回の一連の事件、私は読者を誘導する記事を書きました」
「どこに誘導していったのか、お聞かせ願うわ」
「謎は謎のままで……って言う方が面白いんでしょうけど、そうですね。たぶんこのままじゃ、パチュリーさんはいいとしても、こぁさんが可哀想ですし」
その通り。ちんぷんかんぷんなんですから。
「実はですね」文は唇を湿らせてから言った。「岸崎実を縛り上げるためです」
あ、ここだけの話しにしておいて下さいよ、と付け加える文だったが、今の説明でもまだこぁにはちんぷんかんぷんだった。
「どういうことですか?」と素直に訊ねた。
「何がです?」
「えっと、だから今の話しなんですけど。岸崎さんを縛り上げるって……」
「ああ、そういうことですか」
ようやく合点がいったようで、文は手をぽんと打った。
「動機から説明しなくちゃいけませんでしたね」
実はですね、と切り出してきた文の話をまとめると、次のようになる。
岸崎実は里の中でも特出した鼻つまみ者であり、誰も彼もに早くいなくなって欲しいと願われる人物だった。
金貸し業では目玉の飛び出るような利子を設け、債務者が借金を返せないとなると、暴力だろうがなんだろうが使ってこっぴどく搾り取る。財力にものを言わせて蛮行を働くことはしょっちゅうで、調和のちの字も考えていない。人間社会において、これほど愚昧で厄介な人物もいまい。
しかし財力があるということは、そのまま権力にも結びつく話であり、彼を社会的に抹殺するのは難しかった。事故死してくれれば一番だが、そう願ったところで――呪ったところで簡単に人は死なない。もはや岸崎実は人間たちの手に負えない存在だった。
だからと言って、妖怪が直接手をかけるのも不味い。幻想郷では、妖怪は人間を殺してはいけないルールとなっている。
このまま手をこまねいているしかないのだろうか。
誰もが落胆しつつ生活を送っていた最中、事件が発生。例のゴーレム事件である。
文はかねてより独自の情報網を使って岸崎実を調べ上げていた。直接手を下すことはできなくとも、何かしら方法があるはずだとずっと付け狙っていたのである。
そして運命とも言えるべき第二の事件が起き、文はついに岸崎実を奈落の底に突き落とす方法を考え出したのだった。
「それが記事で彼を非難するという方法だったのね」
しみじみとパチュリーが言い、こぁは吐息を一つついた。
「執拗に彼の人間性を語ったのも、ことを起こさせるためです。里の人たちにとっては周知の事実でも、本人は何にも知りませんからね。あれだけあからさまに書けば、何かしら動くと思っていました」
実際、一度は妖怪の山に徒党を組んでやってきたのだと言う。
「いかつい顔をしているからといっても、人間は人間ですからねぇ。束になって来たところで怖くもなんともありませんよ」
それは向こうも承知だったらしく、「覚えてろ!」というお決まりの捨て台詞を吐いて退散していったのだとか。
「どうせなら、そのとき刃物とか持ってやってきてくれれば良かったんですけどね。恐喝は立派な犯罪ですし。ただ、そこら辺をちゃんと弁えていたあたり、強かでした。いや、狡猾でした」
「言い直さなくても」
ちょっとおかしくなり、こぁは笑ってしまった。
「いえいえ、大事なことですよ、これ。狡猾だったからこそ、あれだけ派手に悪事をしても一度も御用にならなかったんですから」
「ちゃんと規則と規則の間――隙間を狙ってやっていた、ってことね」
パチュリーは呆れ顔だ。こぁも同じ気持ちだった。太い神経を持っていそうなのに、そういうところだけ神経が細くなるんだから。
「結局それから彼は何も行動を起こさなくて、ちょっと困ってしまいましてね。籠城されてしまうと、こちらとしては手が出せないものですから」
「家の前で挑発行為をするわけにもいかないでしょうしね」
「ですです。で、もう一発過激な記事でも書いてやろうかしらと悩んでいた折、忠志さんから面白い話しを聞きましてね。崖に呼び出されたとか。それを聞いて私、思わずガッツポーズとっちゃいましたよ」
崖ですよ崖、あの狡猾なタヌキが――そう話す文ははしゃいでいた。これだけ興奮したところを今まで見たことがなく、こぁは少しばかり面食らった格好となった。
「じゃあ、永琳が聞いたとかいうつむじ風の正体って」
あんぐりとパチュリーが口を開けて訊くと、文は胸を張って答えた。
「もちろん私に決まってるじゃないですか」
「つむじ風?」
ここでも話しについて行けないこぁが質問を挟むと、
「あとで説明してあげるから」とパチュリーに遮られてしまい、仕方なく聞き手に回ることになった。
「なに、じゃあ貴方、直接手を下したも同じじゃない!」
「失礼ですね。私は手出しなんてしてませんよ。影でやり取りを眺めながら、扇でちょいと火照った顔を扇いだだけですから」
そうしたら、なぜか扇からつむじ風が飛んで行ってしまって。
「気付けば男の人が一人、飛ばされてしまった、というわけです。つまり事故ですね」
「いや、事故じゃないわよ、それ」
それにねぇ貴方、と呆れながらに言うパチュリーだが、顔は明るい。
「何も岩盤に頭を叩きつけなくたっていいでしょうに。せめて崖から放るくらいじゃないと」
パチュリー様、そっちのが残酷です。
こぁは心の中で呟いた。
「いえいえ、だからさっきから言ってるじゃないですか。私は何もしてませんよ。扇から勝手に風が飛んで行ってしまったんです。コントロール出来るものじゃあありません」
まるで二人で企て事でもしているかのような光景に、こぁは破顔一笑してしまった。それにつられてか、パチュリーもくすりと笑った。文も。
「これでお二方も共犯者ですね」
「何を言っているのかわからないわ。岸崎実は事故死のはずだから」
事実、彼の死はそう報道された。養子である岸崎忠志を襲っている途中、足を滑らせ転倒し、頭を強く打って死亡。打った場所が岩盤で、しかも尖っていたことが災いした。記事にはそう書かれていた。
「そうでした、そうでした」
文は何度も頷いた。「これは事件ではなく事故でした」
「さてと、嘘記事の糾弾も出来たことだし。私はそろそろお暇しようかしら」
腰を浮かしかけたパチュリーだったが、それを文に止められた。
なに、とパチュリーが目で訊ねると、
「最後に聞かせてもらいたいことがあるのですが」
顔から笑みを消した文を見て、パチュリーは再び椅子に腰を下ろした。こぁも気を張り直し、姿勢を正した。
「実は引っかかっていたことがあるんですよ」
「もったいつけるわね。何?」
「ゴーレム……もとい、コピードールとの対戦のときのことなんですが」
先ほど熱く語り合った内容が胸を掠め、こぁは頬が上気するのを感じた。もしかしたらもっと深度のある話が聞けるかもしれないと思ったからだ。
どうしてなのか、パチュリーは対戦のことをほとんど喋ってくれなかった。あまりずかずか聞くのも憚れて、今日、文が教えてくれるまで具体的な内容はほぼ知らなかったのだが、だからこそ、主人の口から聞けるのであれば、是非語って貰いたいという気持ちが、ある。
「明らかにコピードールが劣勢に見えましたが、戦闘前に何かされたのですか? 実力的にはアリスと同等のはずですが、どうもそうには見えなくて」
え、とこぁは声をあげそうになった。そんな馬鹿なことがあるわけ――。
だがすぐにその考えを打ち消した。文からはパチュリーの武勇伝ばかり聞かされていたが、コピードールの強さには言及していなかった。
そしておそらく、そのコピードールの不調にパチュリーの不機嫌が関係している。文の目にも映った、コピードールの不調が。
パチュリーはしばらく押し黙った。写真に視線を落とし、静かに魅入っている。写真を眺めているというよりは、その奥にある光景を透かし見ているようだ。偽物のアリスと戦った当時の光景を。
やがてパチュリーは嗄れた声で呟いた。
「欠陥品よ」
「欠陥品?」鸚鵡返しする文は眉をひそめた。
「そうよ。ゴーレムの映し身は完全じゃなかったってこと。本物に比べれば遙かに劣る性能しか持ち合わせていなかったの。アリスとは本気で戦ったことがないから、これは想像でしかないけど。たぶん、魔力も実力もアリスの半分以下じゃないかしら、彼女」
コピードールは影武者として用いられるほどの精巧な複製人形だ。しかも秘術である。まさか見てくれだけ精巧、というわけではあるまい。本人の複製なのだから、能力もそっくりそのままでなくては。差があるとしても、小さなもののはずではないか。
なのに性能が劣っていると言われても、俄には信じられない。それもオリジナルの半分以下とは。
文も同じ心情らしく、首を捻った。
「その割には、結界破りにひどく手間取っていたみたいですが」
「あれはまた話が違うのよ。あの結界は、霊脈にうまく繋げて作られていたから、なかなか破れなかったの。ぱっと見ただけで頑強さがわかるくらいの堅さだったんだから、苦戦して当然よ」
「はぁ、そうなんですか。うちには結界の気配しかわかりませんでしたけど」
「あれほどのものとなると、魔力感知に疎い魔理沙でもすぐにわかるレベルよ。魔法使いなら卵にだってわかるはず」
ということは、もしかしたらわたしにも見えたのかもしれない――そう思うと、こぁはちょっぴり悔しい気持ちになった。魔法使いではないけれど、ほんの少しだけパチュリー様に魔法を教えてもらっているから。
「つまり、勝敗を決そうと思えば、すぐにでも決められた、と?」
「まぁね」
「ではお聞きしますが」文は居住まいを正した。「どうして紫に手を出させたんです? 闘いを長引かせなければ、手出しされることもなかったでしょうに」
コピードールにとどめを刺したのは、一揆の首謀者である金本理沙の父親だった、と聞いている。どうしてそんなことになったのかは聞いていない。聞ける雰囲気ではなかったからだ。
パチュリーは逡巡の相を見せたが、仕方ないといった感じで肩から力を抜いて言った。
「迷っていたからよ」
「迷ってた? それは戦うことに対してですか?」
「いいえ。でも、とどめをさすのには抵抗があった。そういうこと」
ああ、と気の抜けた声が文の口から漏れる。
こぁは深い感傷に囚われた。
とどめをさすことを躊躇ったばかりに、対象が目の前で殺される。その様を、パチュリー様はどんな気持ちで見届けただろう。きっと今の自分と同じで、心が痛かったに違いない。だって、こうして又聞きしている私でも悲しくなってくるんだから。
「……さて。今度こそお暇させてもらうわ。なんだか辛気くさくなっちゃったしね」
パチュリーが立ち上がると、ごとごとと音を立てて椅子が後ろにずれた。
と、その動きが止まる。視線が、ある一点に釘付けになっていた。
こぁは声をかけようとした。だができなかった。その前に、文が行動を起こしていた。
「これ、どうぞ。無料で差し上げますよ」
彼女が手にしている一枚の写真。
そこに映っているのは、地に斃れ、頬に亀裂を刻みながらも笑顔をたたえているアリス――亀裂からしてもコピードールか――だった。さっきまで、写真の群れの中にはなかった一枚だ。きっと話し込んでいる最中、文がこっそり紛らせたのだろう。
「無料に決まってるでしょう」パチュリーは顔を伏せて写真を受け取った。「許可なしで私を撮ったんだから」
「欲しければ、どれでも焼き増ししますよ」
「そういう問題じゃない」
肩を振るわせ、俯き加減で部屋から出て行こうとする主人のために、こぁは先回りして重厚なドアを開いた。泣き出す一歩手前のところで踏ん張り、無理矢理笑みを引き出して。
6
「初めて拝見しました」
一本の棒を見つめ続けながら、八雲藍は脇息にもたれてリラックスしている八雲紫に向けて言った。「ですが、もう破魔の力は失われているみたいですね」
「それは元破魔の矢よ。影武者さんの心臓を貫いたから、祓いの効力が失せてしまったのね」
紫は愛用の扇子で首元を仰いだ。
「でもまた巫女に破魔の念を込めてもらえば、ちゃんと機能します」
「便利な道具――いえ、武器ですね」
元は矢だと言うが、今はどうみてもただの棒きれだ。武器として見るのは些か無理がある。
「ですが、これが前代の巫女の持ち物だとは。私は今まで存在自体知りませんでしたよ」
素直な驚きと、少しの落胆を混ぜて伝えると、
「この矢の存在を教えたところで、私たちには有害ですからね。触れただけで大火傷しちゃうし。だから敢えて教えなかったの」
「そういうことですか。ですがそうなると、これをどうやって持ち出したので?」
「ああ、それはこれのおかげよ」
そう言って懐から出したのは、白い手袋だった。しかも片手分しかない。
「この手袋はね、あらゆる力を中和する作用を持った素材で出来ているの。試してみる?」
ここで「いえ、遠慮します」などと言ったら拗ねるのは目に見えているので、藍は従うことにした。
手袋を受け取ると、妙な感触に見舞われた。布のような素材で出来ているようだが、手触りは限りなくこんにゃくを掴んでいるに近い。ぐにょぐにょとする。しかも紙のように軽い。触るとぐにょりとするのに、持つと飛んで行ってしまいそうなほどの軽さしかない。
奇妙な感覚に戸惑いながら、藍は手袋めがけて妖力を送り込んでみた。出力としては、人間の腕一本を腐らせるほどのものだ。布きれなら一瞬で燃え上がるはずだった。
だが間断なく妖力を送り込んでみても、手袋に変化はなかった。
「どう? 凄いでしょう」
「はあ。確かに凄いですね。刃物には弱そうですが」
「そうでもないわよ」
言うが早いか、紫は次元に穴を開けて長刀を取り出した。大広間に飾ってある業物の一つだ。
「これで切ってみなさいな」
手袋を畳みの上に放り、言われた通りに渡された刀で手袋を突き刺してみる。
その瞬間、先ほどのぐにょっとした感覚が刀の柄に伝わってきて、切先が逸れた。おかげで、刃が滑って畳に突き刺さってしまった。
「これは……」
好奇心に負け、手袋を拾い上げた。今度は刃の反った部分を手袋にあてがってみる。そのまま引いてみたが、手袋には傷一つ入らなかった。
「凄いですね」藍は賞賛した。「傷一つ入らないなんて」
「その手袋には謎が多くてね。表面に膜が張っているのは確認出来てるんだけど、じゃあその膜がどんな仕事をしているのかはわかっていないの」
「紫様にもわからないのですか」
「そうよ。私だってなんでも知っているわけじゃないわ」
それもそうか、と思ったのも一瞬だ。この超絶的な存在である御仁に、そんなことがあるのか、と疑問が湧いた。
「とにかく」藍は咳払いを一つした。「この手袋の凄さはわかりました。破魔の棒の凄さも」
「破魔の棒、って、響きがなんかいまいちね」
「では元破魔の矢でもいいですが。どうして人間風情に、これほど大事なモノを託されたので? 前代の博麗巫女の遺した貴重な品を、どうして下郎なんかに」
代々の博麗巫女に対する紫の情を知っているだけに、藍は自分でも知らず憤慨していた。
そんな藍に、紫がとった行動は、
「落ち着きなさい」と扇子を投げつけてくることだった。
扇子が額に当たる直前、反射的に目を瞑っていた。
すぐには理解が及ばず、しばらく――おそらくは一秒にも満たないのだろうが――ぼうっと畳の上に落ちた扇子を見つめる。須臾の後、はっと我にかえった藍は、深く項垂れた。
「見境を失い、みっともないところをお見せしました」
「段々と式神らしからぬようになってきたのはいいことだけれど、冷静さは大事よ」
「はい。申し訳ありません」
一礼すると、紫は鼻から息を吐いた。
「それと、人間に対しての見る目がよくないわね。なぜそんなに偏見に凝り固まっているのか、さっぱり理解出来ない。彼らはよき隣人であるというのに」
このお叱りにも、藍はただ頭を垂らすことしかできなかった。
腹の中では「よき隣人が変乱などおこすものか」と憤ったが、口に出すのは躊躇われた。口は災いの元である。
「精進します」と謙虚の色を見せて、場を退いた。
「ということで、この棒に再び破魔の力を注いで欲しいのですが」
藍は例の手袋を嵌めて、博麗霊夢に棒を差し出した。効力を失っている元破魔の矢は素手で触れていても問題ないのだが、なんとなく嵌めてきてしまったのだった。
「急にそんなことを言われてもねぇ。そもそも、この棒、初めて見るし」
「私も初見です。どうやら紫様の蔵の中に保管されていたようで」
「蔵の管理はあんたがやっているんじゃないの?」
なぜか驚かれた。
「いえ。というか、私は蔵そのものを見たことがないのです。どこにあるのかも知りません」
「はぁ? あんた、それでも紫の式神なの?」
式神だからこそ、分野外のことが出来ないんですよ――そう言ってやりたかったが、すみませんの一言で済ませた。いちいち相手にするだけ疲れる。
「紫の蔵、ねぇ。どんなお宝が眠ってるのか、ちょっと気になるわね」
「宝などほとんどないと思いますよ。せいぜい宝刀二、三本といったところではないですか?」
「そんなことないでしょ。あれだけ長いこと生きてるんだから」
ああ、そういうことか、と藍は納得した。
人間には変な考え方がある。ガラクタであっても、年月を積み重ねたというだけで値打ちが付く、というものだ。霊夢はそれを含めて「宝」と称しているのだろう。妖怪の内では、月日を耐えたというだけで値打ちが変動することはないのだが。
「今度それとなく聞いてみます。ですから、破魔の力を授けてもらえないでしょうか」
「うーん、協力してあげたいのは山々なんだけど」
霊夢はしげしげと棒を見つめ、そもそも、と呟いて首を捻った。
「もともとは破魔の矢だったって言うけど、こんなに太い矢があるのかしら」
言われて気が付いたが、確かに棒は太かった。普通の矢の三倍ほどの太さがある。
「本当ですね。全然気になりませんでした」
「あんたは弓矢なんて使わないだろうから、無理もないわよ。かくいう私も、そんなに使わないけどさ。それに矢じりもなければ矢羽もないし。箆――ああ、矢の棒の部分のことだけど、これだけ見たって、何かわかるわけない」
それに、と霊夢は不貞腐れた。
「破魔の矢は、打つ時に矢じりに霊力を込めて初めて機能するものだし」
「そう、なのですか? では新年に人間たちが買い漁る、あの破魔矢は一体……?」
「あんなの願担ぎも一緒よ。そうそう、棒に厄除けの札とか貼れば、即席の破魔矢が作れるけど」
願担ぎに金を払っているのか。愚かしい。
「ですが、紫様が金本理沙の父親に手渡した時は、札のようなものもついていなかったみたいですが」
「だから、私にもわかんないんだってば。矢を浄化することは出来ても、その効果を永続させる方法なんて私は知らないから。大体、霊力を注ぎ込むだけでずっと破魔の力が働くなら、たくさん作り置きしてるっての」
確かに、と藍は唸った。霊夢の言い分はもっともだ。もし紫の持っていたような矢が量産可能なら、巷で売られる破魔矢もただの願担ぎにはなるまい。
「では、紫様の持っていたこの矢は、どうして破魔の力が備わっていたのでしょうか。金本理沙の父親は、それこそ難なくゴーレムの身体を貫きましたが」
それがわかるのなら、ここまで不愉快な思いはしない、と暗に告げるように、霊夢がじろりと睨んでくる。厄介事を持ち込んだのはこちらなだけに、なんとも居心地が悪い。
「紫、他にヒントのようなこと言ってなかった?」
「ヒント……ですか。いえ、特には何も。貴方に破魔の念を込めてもらえば、また使えるとしか」
「その破魔の念とやらが何なのか、わからないことにはどうにもならないわ。祓いの霊力は、込めてからせいぜい一分程度しかもたないし。穢れた矢を浄化することはそんなに難しくないけどね」
霊夢が押し付けるように棒を返してくる。藍は渋々受け取った。
「今の説明を紫にもしてあげて頂戴。先代がどれだけ偉人だったか知らないけれど、私には無理だ、ってね。それに、今回のような事態になることはもうないだろうから、このまま蔵に飾っておけばいいじゃない」
話を打ち切ろうと、霊夢が縁側から腰を浮かせる。
だが藍としては、このまま霊夢を離すわけにはいかなかった。まだ目的が達せられていない。
「ちょっと待って下さい」と声を張って押しとどめる。
「何? まだ何かあるの?」
不機嫌さを前面に出してきたが、それでも霊夢は腰を下ろし直してくれた。少しばかりの安堵感が胸中に広がる。
「お聞きしたいのですが」藍は思考を最大限に回転させて切り出した。「破魔の矢であれば、簡単にゴーレムを射抜けるものなのでしょうか」
「は? どういうこと?」
この疑問は、紫の横で報復劇の一部始終を眺めていた時からあったものだ。
いくら悪霊や不浄なモノを祓う力が破魔の矢にあるとはいえ、土塊であるゴーレムを人間が、しかも力むことなくいとも容易く貫けるものなのか、と不思議に思っていたのだった。
「ゴーレムが霊的に穢れていれば可能だと思うわよ。破魔っていうのは名の通り、魔を破るものだから。肉体がどれだけ硬くても、霊側を滅するんだから関係ないよ」
「そういうものですか」
釈然としなかったが、その道の専門家が言うのだから間違いないのだろう。
しかしその意見を、霊夢は早々に翻した。
「あれ? でもあんた今、身体を貫いたって言ったわよね」
「ええ。こう、ずぶりと」
先端が尖っているわけでもない棒が易々と身体を突き抜けていく異様な光景は、数日経った今でも克明に思い出せる。
「変ね」
「と、言うと?」
「破魔矢には悪霊とかを祓う力はあっても、硬い物を貫通させる力なんてないわ」
霊夢は右手を拳に変え、そこに左手の人差し指をくっつけた。
「物体に憑依してる霊っていうのは、その物体そのものと同化してるから、穢れたものなら触れるだけでも浄化出来るの。こうやって一瞬でも対象物に当たりさえすれば、貫通なんてしなくてもね」
話の流れから、霊夢が何を訴えようとしているのか、すぐにぴんときた。
もしこの棒が本物の破魔の矢で祓いの力が備わっていたというなら、触れるだけでもゴーレムは滅せられたということだ。紫は金本理沙の父親に「後ろから心臓を狙って貫け」と命じたが、そんな必要は微塵もないのである。
それに、棒きれは所詮棒きれであり、破魔矢だからといって物理的な破壊力が向上するわけではない。つまりコピードールを貫いたこの破魔矢には、祓いの力だというだけでは説明がつかない何かの作用があるということだ。硬質な土塊の肉体を、それこそ粘土(紫は豆腐と言っていた)を刺し穿つような感覚にしてしまえる何かが。
「それこそが、先代の込めた念とやらに繋がるのかもしれないけど」
「可能性は高いですね。でなければ噛み合わない」
手にした破魔の矢に目を落とし、じっと見つめてみる。
先代の博麗巫女は、藍にも認識があった。幸薄き女だったが、聡明で巫女としての能力はかなりのものだった、と記憶している。
貴方はどんな手を使ったのだ――今は亡き先代巫女に問うてみる。
「にしても」
霊夢は溜め息をついた。「今回の事件には参ったわ。終わったと思ってのんびりしてたらコレだし」
霊夢は大袈裟に顔をしかめ、溜め息をついた。
「そう言えば、今回はあまり動いていませんでしたね。人間側のいざこざはあまり関わらないという方針なのは知っていますが、死人が出た場合は例外扱いになるのではなかったのですか?」
「その通りよ。でも今回は完璧に踊らされて終わったわ」
「踊らされた?」
紫に踊らされるのはいつものことだと思うが、はて、他にも振り回した者がいるのだろうか。
「アリスやルーミアにね。でも最悪なのは文よ」
「文……」
「こともあろうに、実りの少ない初動調査を私に割り振っただけじゃなく、騒ぎを大きくさせて自分は裏でコソコソ動いてたって言うんだから」
あれか、と藍は苦笑した。
「あんな回りくどいことしなくても良かったのにと私も思いますよ。自殺に見せかけて殺害するなんてこと、事件に便乗しなくても彼女には朝飯前だったでしょうから」
「その点もムカつくけど、一番ムカつくのは私を傀儡扱いしたことよ。文の術中に嵌っていることにも気付かずにはりきっちゃったのが悔しいわ!」
「天狗の頭の回転の速さも並外れてますからねぇ」
しみじみ言ってやると、霊夢はふぅーっと息を吐いて肩から力を抜いた。
「遊ばれたっていうのは許し難いけど、もう怒鳴る元気も湧いてこないわ」
「珍しいですね。報復しないなんて」
「まぁね。文には悪くない報酬もらったし」
「報酬、ですか」
「そうよ。あと被害者家族の儀式関係もうちでやってね、しばらくはほくほくなわけ」
なんて現金な性格なんだと呆れたが、これが現職の博麗巫女なのだった。そして紫はどういうわけか、この霊夢を先代の巫女よりも大事に想っている節が見受けられる。不可思議そのものだ。
博麗神社を辞去して住処に戻ってくると、藍は真っ直ぐ自分の書斎に向かった。
文机の上に棒と手袋を置くと、腰を下ろして脇息に前腕を乗せる。一度深く息を吸い込んで吐き出すと、沈んだ心で破魔の棒を取り上げた。
「……わからない」
見れば見るほどわからなくなってくる。
棒は確かに、矢に使われるものより若干太いが、だからどうしたというレベルだ。太さを除けば、それこそ何の変哲もない。本当に元が破魔の矢なのかと疑いたくなってくる。
だが藍は、しかと己の双眸で目撃した。このさえない棒きれが、土くれ人形一体の胸に風穴を空ける瞬間を。それも一切の抵抗を感じさせることなく。
……見た目に騙されるな、と言うことか?
ゴーレムも、外見だけでは見分けが付かなかった。誰もがゴーレムをアリスだと思い、普段通りに接していた。今回の事件は、見た目だけで判断するリスクを思い知らせてくれる一件だったではないか。
もしくは、もっと違う見方をしろということか?
破魔の力の有無に、それほど意味はないのかもしれない。霊夢の言う通り、祓いの効果があったところで矢は矢だ。岩をも砕く矢など、現実にありはしない。ゴーレムを打ち抜いたのは矢ではなかった――?
藍は弾けるように顔をあげた。
稲妻が神経という神経を駆け巡り、体中の筋肉を硬直させた。唾を飲み込むことさえ許されないほどの強力な縛りつけだった。
稲妻の呪縛は一瞬のことで、身体はすぐに自由になったはずだったが、なかなか動き出せなかった。空に目を彷徨わせ、惚けるだけで幾分かの時間が潰れた。
なんとか普段の自分を取り戻すと、まだ動きの鈍い頭をなんとか働かせ、たった今稲妻と共に降ってきたアイディアを検めてみる。
――棒は、やはり単なる棒きれだったのだ。
秘蔵の宝でも、破魔の力が宿っているわけでもない、子供がちゃんばらごっこにでも使うような、どこにでもあるありふれた棒。それがこの破魔の棒だ。
そんな単なる棒きれにでも、意味をくっつけてやれば、たちまち「立派な棒」へと生まれ変わる。ちょうどアリスの作ったゴーレムがそうだったように。
紫にとって、棒は何でも良かった。それこそ竹林に落ちている竹でも、役目を終えた枯れ枝でも。イメージとして「刺せる」形状をしていれば、それだけで。特に棒に意味はないのだから、何でも良かったはずだ。
大事なのは「信じ込ませる」こと。
先代巫女の遺した、霊験あらたかなる物品だと言われれば、言われた方は信じてしまう。
なぜか。箆なる棒だからだ。鏃も矢羽根もついていないが、だからこそ信じてしまう。
ゴーレムをアリスだと信じていた人々は、その外見に騙されたのだろう。本人とまったくの瓜二つで、見た目だけなら藍も相違点を見つけられないほどの精巧さだった。
だがこの棒は違う。矢とはほど遠い見た目で、説明されなければ何かもわからないような物だ。それなのに信じてしまえるのは、偏に想像力が働くからではないか。
紫の語りによって喚起させられた想像力が、ただの棒を破魔の棒にし、無敵の武器へと変化した――という推測は乱暴すぎるか?
そう、全ては紫の演技だった、と考えればいい。
この棒で一突きするだけで、憎き相手をこの世から消せる。この棒さえあれば、娘を奪った非情な犯人を罰することができる。そう聞かされた相手は、半信半疑ながらも挑戦する気になったろう。現状を打破できるのならと。紫はその背を押すためだけに、こんな棒きれをあたかも伝家の宝刀のように扱ったのだ。
その理由にはもう、大体の見当がついている。
まず間違いなく、ゴーレムの命を断ったのは紫だ。金本理沙の父親が棒を突き立てるタイミングを見計らって能力を遺憾なく発揮し、ゴーレムを死に至らしめた。あくまで彼に敵討ちをさせたと思い込ませて。その方が全体への影響が少なくていいとでも計算したのだ。加害者側より被害者側に手を下させた方が、遺恨なく済ませられる。あわよくば共感も得られよう。
事件は、ゴーレムが全ての罪を背負った形で終息したが、その筋書きを立てたのは他でもない紫だ。リグルの罪も、彼女が背負うことになった。
思い通りに事が運び、紫はほくそ笑んだに違いない。自分の手を汚すことなく犯人を断罪し、治安も正常化した。ただの棒きれ一本で。
――これだ、と思った。
私は今、真実の扉を押し開けている。確かな重量感と手応えを感じながら、ゆっくりと。
「いや、待て待て」
半ばほど開いた扉の前で、藍は両手を止めた。
棒きれは見せかけのものだとしても、この手袋は一級品だ。決して見た目だけではない。対魔に優れていて刃物でも切れない。これこそは正真正銘、蔵の中の宝であるはずだ。
棒に破魔の力がないとわかっていて、どうして手袋だけはきちんとしたものを用意したのだろうか。手袋も見せかけだけのを使えば良かっただろうに。
「んん?」
解けかかっていたはずの命題が一変し、蜃気楼のように朧気になる。かと思っていると、霧が立ち込めてきて姿すら見えなくなってしまった。
一体全体、何を狙って見せかけだけの棒と、真実宝であるはずの手袋を用意したのか。まさか、わざわざ茶番を披露したいがためではないと思うが……。
疑問はそれだけではない。
無意味だと知りながら、どうして紫は棒に力を充填してこいなどと言ったのか。霊夢に頼めば破魔の棒は元の力を取り戻せると話していたが、そんなはずがないと知っているはずなのに――どうして?
「いかん……」
真実の扉は、どうやら幻想に過ぎなかったらしい。少しは紫の頭脳に追いついたかなとも思ったが、突き詰めればそれも幻想だったようだ。これだけ思考を働かせたというのに、結局得られたのはもやもやとした気分だけ。そう思うと、とてつもない徒労感と虚無感に襲われた。
苛立ちから後ろ髪を掻き乱す。被っていた帽子が指に引っかかって脱げ、勢いよく宙に舞った。
1
「後悔するわよ」
もう丸三日が経つというのに、頭に焼き付いたその一言が、いくら頭を振ってみても離れてくれなかった。鮮やかに思い出せてしまい、その度に悪寒に襲われる。あの女の不敵な笑みも一緒になって蘇ってくる。
――後悔するわよ。
「それでもやりたいというのなら、手を貸しましょう。やることはとても単純で簡単よ。年端もいかない子供でも出来ることだから」
この棒で心臓のある場所を刺すだけ。ね、簡単でしょう? 大丈夫、何も前から狙えと言っているわけじゃないわ。後ろからこっそり、ただ急所を突くだけでいいの。それだけでちゃんと刺さるから。爪楊枝で豆腐を貫く感じね。だから力も全然いらないわよ。嘘だと思われても仕方ないけど、そこはちゃんと保証してあげます。
その甘言に乗り、彼は復讐を果たすことになった。そして彼女の言う通りになったのだった。
「なぁ理沙」
彼は両手を交差させ、腕を擦りながら墓を前にして呟いた。
「俺は間違ったのか? 然るべき相手に、然るべきことをしただけだと思うんだが。制裁を加えるのはやりすぎだったと、お前も思うか?」
墓石のすぐ隣には花が添えてある。花類にはてんで疎い彼は胡蝶蘭という名前さえ知らなかったが、どうやら妻は気に入ったようだった。誰が置いていくのかさえわからないシロモノなのだが、花好きに悪者はいないのだと力説された。
胡蝶蘭は真っ白で、何の面白味もない花だった。しかし妻の、「蝶が舞っている姿に見えるから」だという胡蝶蘭の名前の由来を聞くと、不思議といじらしく見えてきた。
だからといって好きになれるわけではない。どこの馬の骨ともわからぬ輩が置いていった花だと思うと、どうにも気味の悪さの方が勝ってしまう。
その胡蝶蘭の頭が、墓石を隠すように垂れている。彼は茎を摘み、花の向きを反対側に変えた。今は二人きりで話しがしたい。
「なぁ理沙」
娘は今、墓石だ。明るい前途が用意されていたはずだった我が娘は、冷たい石になってしまった。
彼は身を屈め、そのひやりとする石に手を添えて話しかけた。
「お父さんがお前の仇をとってやったんだ。嬉しいだろう? もう怖いやつはいないから、安心して眠ってくれ」
また、ぞっと背に悪寒がはしり、頭の天辺にまで伝播した。それでも添えた手は離さなかった。
「鬼頭君な、毎日来るって言ってたぞ。まったく、恋人が出来たなら言ってくれれば良かったのに」
と言いつつ、娘に紹介されたりなんかしたらその場でぶん殴ってしまうだろうな、と彼は苦笑した。
「もしかしたらこの花、彼が持ってきてくれたのかな」
可能性は高い。妻が気に入るくらいだ、娘の好きな花を、鬼頭湊は知っていたのではあるまいか。
「そうだとすると、マメなやつってことになるな」
樵という職業から推すに、繊細さとはかけ離れていそうだが、読書家でもあるらしいから、そちらの気質のが濃いのかもしれない。
よっ、とおじん臭いかけ声を漏らし、彼は立ち上がった。添え手も一緒に引っ込めた。
六月というのは、春でもなく夏でもない。こういう中途半端な季節は、どの時期であろうと好かなかった。特に春から夏にかけての、今のように朝寒く、昼暑いというパターンが一番許し難い。どんな服を着ても裏目に出てしまうからだ。
今朝は肌寒いというほどではなかったが、暑くもなかった。だから薄生地の長袖を通してきたのだが、真昼になった今、地熱で蒸されるほどの気温となった。おかげさまで上着はとうに汗でぐっしょりとなってしまっている。
だがそんなことは些末な問題だ。より重要なのは、これだけの暑さの中、厚着をしているにも関わらず一向に悪寒が止まないということだ。間が開く度に、どうしても彼女の声を幻聴し、笑顔を幻視してしまう。
――後悔するわよ。
またぞろぶるりときた。ぞ、ぞ、と背を這う悪寒。しかも手にまで、あの時の感覚が蘇ってくる時がある(まさにこの時がそうだ)。
「――――」
彼は拳を固め、娘から一歩退いた。
思えばこの手は、血こそ浴びていないが血塗られている。犯人はゴーレムという土人形だから、殺すというよりは壊すと表現するのが正しいと聞かされたが、命を奪うという行為に変わりはない。壊そうが、殺そうが、対象が生きている以上、殺人と同じことだ。
そうだ、だから血塗られている。こんな穢れきった手で、俺は理沙を――
彼は茫然となりながらも、なんとか墓から離れた。
何も考えず、ひたすら足を動かす。悪寒から逃げるように、足早に道という道を行く。
気付けば、自分の家の前だった。玄関のドアを開けようとしたところで、彼は正気を取り戻した。どこをどう通って来たのか、まったく思い出せないことに焦りを覚えながら、家の中へと足を踏み入れる。
「ただいま」
癖で、玄関脇にある階段の方をちら見してしまった。
なんて愚かなのだろう。娘はもう、二階には――この世には――いないというのに。しかも妻が婦人会の集まりで出ていることも失念し、声を投げてしまったものだから、恥の上塗りである。
「あぁ……」
居間に滑り込むと、身なりも気にせず畳の上で寝転がった。身体がだるく、酷く疲れている。目を閉じれば、五分もしないうちに眠りにつけそうなほどの困憊具合だった。頭も重い。
だがここで眠ってしまうわけにもいかなかった。もうあと一時間もしないうちに、博麗神社へ赴かなければならない。乱を引き起こした張本人として罰を受けに行くことになっている。
「あーあ」
背中を畳につけ、天井を仰ぎ見ると、太い溜め息が出た。
正しいことをしたという自信は持っているが、里を混乱に陥れたと言われてしまえばその通りでもある。実際、あれだけの行軍になるとは思っていなかったのだが、参加の意思ある者をすべて引き連れていったのだから、騒ぎが大きくなるのは必然だ。あの時、そんなことは一切考えていなかった。一揆は弱者のできうる最大の訴えだという頭しかなかった。そのために、今から責任を負わされにいくわけだが。
じゃあ少数だったら許してくれたのかといえば、それも怪しい。どのみち様々な難癖を用意してくるだろう。法は強者が作り、いつも強者を保護しているものなのだから。
なんてぇ世だ、と彼は改めて嘆いた。
娘を殺めた人間に、同じ目に遭わせるだけのことが、そんなに悪いことなのか? いいじゃないか、あっちは命を一つ終わらせているんだ、むしろ自分で命を絶つべきじゃないか?
考え出すと、無性に腹が立ってきた。
そもそもどうして、妖怪頭が指揮をふるってやがる?
里のことは、人間が規則を作るべきじゃないかのか?
この幻想郷を作ったっていう功績は認めるが、世界はみんなのものだろう。神でもないのに、どうしてあんな女がここを統べているんだ? そのことの方が異常だろうに。みんな考えなさすぎなんだよ。
ふつふつと湧き上がってくる敵愾心が、悪寒を止めてくれた。そうだとも、俺は悪くないんだから、ぶるぶる震えている理由もない。
けど、俺は人殺しになっちまった――
「……やめだ」
上体を起こし、肩の骨を鳴らした。ごき、ごきと小気味よい音が耳に伝わってくる。
そうして彼は立ち上がり、水を一杯口に含んでから、ふらりと家を出た。
2
目が覚めると、真っ先に見知らぬ天井が見えた。
「ここは……」と思わず呟いた。
黒い天井。黒檀で組まれたものだろうか。もしそうだとしたら、おそろしく裕福な家なのだろう。自分のような貧乏人がどうしてこんなところに、と岸崎忠志は心の中で首を捻った。
とにかく起きなければと腹に力をこめた瞬間、激痛に襲われ、声にならない声をあげた。ぎゃあ、と叫ばなかっただけマシだったかもしれない。
まさしく喘いでいるこのタイミングで、誰かがやってきた。
「あら」
声はやけに若々しい女のものだった。聞き覚えもない。なんとか痛みをこらえ、首だけそちらに向けると、花柄の着物に身を包んだ少女がそこに立っていた。炭のように真っ黒な長髪が印象的だ。
「起きたのね」
驚いているのか、目を丸くしている。
「ここは?」
忠志が訊くと、彼女は意外そうな顔をした。「何も覚えていないの?」
「いや、なんとなく覚えてはいるんですが」
嘘だった。先ほどから身に起きたことについて記憶を辿っていたのだが、霞がかかっていて何も思い出すことができないでいた。だから「ここは?」などと訊いてしまったのだった。
「ふぅん。ま、私じゃよくわかんないから、永琳呼んでくるわ」
「え? あ」
制止する間もなく、長髪の少女は姿を消してしまった。
一体何が起きているんだ……忠志は目を閉じ、鼻根をつまむと、鼻から息を吐き出した。わからないことだらけで脳が悲鳴をあげている。
永琳と呼ばれた女は、それから五分くらい後になってやってきた。
「ごめんなさいね。ちょっと診察が長引いてしまって。ああ、起き上がらなくて結構ですよ」
見覚えのある顔だなぁと思った直後、記憶が蘇ってきた。おかげで声を上げてしまった。
「この度はお騒がせしまして……」
用意していたわけでもないのに、すっと謝罪の言葉が出てきた。申し訳なさで胸がいっぱいになったからだろうか。
「いえいえ。運ばれてきた時はびっくりしましたよ。何せ貴方、刺されたままでしたからね」
「最初は里の医者に連れて行かれたんですがね」
そこの主治医であるじいさんもびっくり仰天、包丁が腹に刺さったままの患者が搬入されたのは生まれて初めてだ、と興奮していたのを覚えている。
「あそこのおじいさん、自分の手には負えないからって、ここに連れてきたんですよ」
「多量出血が苦手とか言っているくらいですからね」
そんなんでよく医者が務まるなと罵られることもしばしばあるようだが、みんな勘違いをしているのだ。じいさん医者は外科ではなく、専ら内科の先生なのである。ただ、診られそうなものなら何でも診てくれるというだけで。
「でもよかったわ、目が覚めて」
「すみません。こんないい場所を占領しちゃいまして」
「ここは仮にも病院だからいいですよ。そうじゃなくて、貴方、もう三日間寝込んでいたんですよ?」
「……三日?」
「ええ。うなされ通しでしたけど」
全部思い出したとはいえ、眠っている間のことなど記憶に残るはずもなく、
「すみませんでした……」
謝るのが精一杯だった。
「いいんですよ。それより――」
永琳は一度言葉を切ってから言った。「奥さんのこと、残念でした」
「あ……いえ」
なんと言い繕えばいいかわからず、忠志は黙り込んだ。
どうせうまいこと喋れないのなら、はじめから下手に喋らず口を閉ざしていよう、というのが彼の昔からの処世術だった。そのせいで意思疎通がはかれなくなった事例は枚挙にいとまがないが、しかし今回は相手がよかった。医者は大抵お喋りが得意だ。永琳も多分に漏れず、話し上手のようだった。
「一連の事件ですが、貴方が眠っている間に一応終息しました」
「あ、そうでしたか」
「犯人はアリス・マーガトロイドという女性の姿を借りた疑似生命体だったそうです」
「は? ……疑似生命体?」
話しがいきなり胡散臭い方に流れはじめたのを察知した忠志は、思い切って顔をしかめてみせた。が、永琳は平然と続ける。
「人工といっても、魔法で造ったものですから、正確には違うんですけどね。ゴーレムといいます」
「はぁ。ごーれむ、ですか」
「泥で出来た人形なんですけど、この泥人形には姿形を対象に似せられるという特殊な能力が備わっていまして。アリス・マーガトロイドって、どこかで聞いた名前じゃありませんか?」
覗き込むように訊ねてこられても、聞き覚えのないものはない。「いえ、知りませんが」
「そうですか。いつもお祭りのときなんかに人形劇をしているのですが」
「ん――ああ、あの金髪の娘さんか」
玲奈と二度ほど見に行ったことがあったのを思い出した。人形を器用に動かすなぁと感心していた覚えがある。
「ゴーレムは彼女になりすまし、事件を引き起こしたらしいです。まあ、もういませんが」
「いない?」
捕まったのではなくて?
「そうです。もうこの世にはいません。ゴーレムは金本さんに破壊されましたから」
「そう……ですか」
忠志の脳裏に、憤怒に身を焦がした金本の姿が浮かんだ。
――俺は絶対に許さないし、諦めない。死んでも制裁する権利をもぎとってやる。
一緒に家族の弔い合戦をやろうじゃないか、と彼は持ちかけてきた。向こうっ気の強い人だった。だが忠志は、自分の意気地のなさや気の弱さを誰よりもよく知っていた。だからやんわりと断ったのだが――
「やはり、彼はやり遂げたんですね」
「そうなりますね。貴方が実さんに刺された日、ちょうどあの日に乱を起こされたのをご存じで?」
「ええ、そこいらの記憶ははっきりとしています。義父はことを起こすのに、乱の日にちと被せることによってみんなの目をそらそうとしたんでしょう」
だからこそ私にも予知できたんです。
「誰にも見咎められない状況の最中、十メートルはあろう崖ともいえるような場所に、大事な話があると言われれば、子供だってぴんときますよ」
「一理ありますね。ただ、日頃警戒している相手でなければ、そうは考えないでしょうけど」
貴方には警戒する必要のある相手だったんですよね、と永琳が目で訊ねてくる。忠志は一度咳払いをし、語り出した。
「私は婿養子でしてね。記事にもなってましたし、説明する必要はあんまりないかもしれませんが――経済的な理由で岸崎の家にあがったのです。玲奈さんとはこのときが初見だったと言っても過言ではないほどの仲でした」
結婚前、周囲からは醜い女だ、そんなところに婿にいくお前が不憫でならぬと言われたが、
「玲奈さんはみんなが言うほど醜いわけではなかったし、そもそも私だって丈夫と言える体躯も顔ももっていませんで。だから、その……夜の営みのほうだって、口実として周りにそう説明していただけなんです」
「随分記事の内容と違いますね」
「ええ。こういってはなんですが、新聞記者というのは、ようはみんなが面白がってくれればいい、みたいなところがあるじゃあありません? だから私はあまり好きではないのですが」
ああすみません、話しが脱線しました。
「私は玲奈さんを取引の材料にしてしまいました。ですから引け目があったのです。彼女を抱くのは間違いだと自分に言い聞かせていました。彼女の方も、父があんな傲慢な人間で申し訳ないと。それに、どのみち子供は作りたくないからと、私が手を出さないことに賛成してくれたのです」
「子供を作りたくない? 里の人としてはかなり変わった考えですね」
人間の里では、子供は子宝と言われ、成人した男女ならまず間違いなく欲しがるものとされている。その常識のために、忠志たち夫婦は随分と肩身の狭い思いをした。忠志にしてみれば、肩身の狭さはどこでも変わらなかったが。
「玲奈さんの母君は子供が出来にくい身体だったみたいで、大変な苦労をされていたとか。で、ようやく生まれたと思ったら玲奈さんのような子供でしょう? だから彼女も、自分のような子供が出来てしまうのをおそれていたんです。言葉が話せない、いやそれよりもっと深刻な病を得て生まれ落ちるかもしれない。そう思うと欲しいとさえ思えなくなってしまったんだと言っていました。まぁ、初夜だけはちゃんと夫婦の契りを交わすことにしたんですが」
「なるほど。そのお気持ちはわかります。結構そうやって悩まれている方も多いみたいですし。ただ、憚れる話しなので、こういう個室でひそひそとしかお話されないのが残念ですが」
「里では、弾き者にされることほど堪える仕打ちもありませんからね。私なんかは慣れたものですが、普通の人ならば安寧に暮らしたいでしょうし」
「もっともです」
永琳はにこりと笑った。話しを催促してこないのは、彼女なりの気遣いなのだろう。少し疲れてはいたが、忠志は唾を飲み込んで一息もうけると、続けた。
「そんなわけで、私は、言ってみれば岸崎家の体裁を保つために利用された愚かな男なのです。あとで訊いた話しですが、中流、出自問わずで、これだけ男がいる人間の里で、しかも取引を持ちかけても、彼女を娶りたいと言った人間は私だけだったそうです。酷い話しだとは思いますが、そのせいで岸崎家の家柄はかなり傷んだようです。でなければ、私のような者が、上流階級とも揶揄される家に入れるはずがありませんから」
「人間社会には面倒な仕組みがいろいろありますからねえ」
苦笑する永琳につられ、忠志も苦笑いを浮かべた。
「まったくです。義父はまさにその仕組みの中での強者でした。金も権力もあるのだから、やりたいようにやって何が悪いんだ、と人の目を憚ることもなく豪語していたくらいですし。しかし裏を返せば、その仕組みに縛られて生きているわけで。玲奈さんのような仕組みの中の弱者を、我が子として迎えなければならなかった義父の絶望感は半端ではなかったでしょう」
「箔を付けられるどころか、傷が付く、と」
「喩えがうまいですね。その通りですよ。仕組みを壊さなければ何をしてもいい。けれど玲奈さんの問題は、それを壊さなければ解決しないことですからね。他に方法でもあれば、すっとんでかじりついたに違いないでしょうが」
養子に出すという案があった(誰も欲しがらなかったけれど)のだと、旧くから岸崎家で働いている給仕さんが昔こっそりと教えてくれたのだが、それは永琳には伏せておくことにした。さっきから亡き妻を貶めているようで、段々と後ろ暗い気持ちになってきたからだった。
「玲奈さんが大人になるまでは、苦しんでいる娘を献身的に看ている夫婦という美しさを世間に訴えられることが出来た。だから義父も我慢出来たんだと思います。でも大人になれば、必然的に結婚の話しになっていくでしょう」
あそこの嫁も、ついに嫁入りだってよ。
あんなに器用の悪い娘でも結婚できるもんなんだね。
ああでも、岸崎さんのところはやっぱり――。
「義父は、相手が最下層であってもいいから捌きたいと思っていたのでしょうね。娘の幸せより、自分の格を維持したいがために。結婚して格好さえつけばそれでいいんですから、人間社会もとことん腐っていますが」
「そう思ってしまうのも仕方のないことだと思います。けれど、他はもっと酷かったりするものですよ」
さらりと言われ、忠志は目を瞠ったが、永琳はそれ以上語ろうとしなかった。
微妙な沈黙の間を挟んで、忠志はそろそろと切り出した。
「そんなわけで、私は母のためと言いつつ、金で人生を売ったわけです。で、義父は金に執着する人でした。ご存じかもしれませんが、義父は私に毎月決まった額を流してくれていました。最初は逃亡を防ぐためにこんな形にしたのかと勘ぐっていたのですが、それはとんだ見当違いだったんですね」
なんと義父は――と忠志はわざとらしく低い声で、
「一度に払った場合、損をするかもしれないと思っていたらしいです。もし私が死んだりでもしたら、やった金が返ってこなくなる可能性がある、と。笑えますよね。どこまでがめついんだって」
じんわりと視界が滲んだ。額が熱く、頬も火照ってきた。なんとか悟られまいと、忠志は無理矢理笑顔を引き出した。
「その話しを聞かせてくれたのは、他でもない玲奈さんでした。こんな父だから、私となんて結婚しない方がいいってね。――長くなりましたが、これが私の、警戒していた根拠ですよ」
「……なるほど。起きたばかりで長話させてしまい、申し訳ありませんでした。けれど最後に二つだけ教えてくれませんか?」
「なんなりと」
忠志は小さく頷いた。涙はもう蒸発したようで、視界は正常。目をしばしばさせても、滴になって落ちるということはなかった。
「一つは、どうして貴方の命を狙う必要があったか、ということです。玲奈さんが亡くなった時点で、お金を差し止めしてしまえばそれだけで事足りると思うのですが」
「はは、それは簡単なことですよ」
見かけ通りの意見だ。この人はたぶん、人間社会の闇をあまり見たことがないのだ。いつも日向を歩いている――そう、いかにも高貴という感じ。人里離れて暮らしているのも納得してしまえるような雰囲気を纏っている。
「婿養子という枠に嵌められているからです。私は玲奈の夫である前に、岸崎家の養子――つまり跡継ぎなわけですよ。しかしそれは面目のためだけであって、義父が本気で私を養子縁組してまで迎え入れようとしていたわけではない。玲奈さんが死んで私だけ残った場合、義父の死後、跡取りとして私が財産を引き継ぐことになります。そんなのを義父が許せると思いますか?」
「それは……まず無理でしょうね。でもそうなると、最初から婿養子という危険な選択をしなくてもいいような気がしますが」
「それも世間体のためですよ。岸崎家には男児がいなかった。子は玲奈さんのみです。そして義父のめがねにかなう養子も現われなかった。つまり跡継ぎがいないわけですよ。となると、玲奈さんの結婚相手は絶対に婿養子でなければならない。玲奈さんが嫁として出て行ってしまったら、義父の代で岸崎家は終わってしまいますから。上流の家は、それが金貸しのような商家であっても家門こそにこだわります。家門が途絶えるなど、彼らにとってはあってはならないことなのです。本来なら私のような者ではなく、上流同士で結婚させるのでしょうが、そこは妥協したんでしょう。直接聞いたことはありませんが、想像に易いですよ」
「王族でもないような家門に対する執着は理解しかねますが、そんなことで世間は納得するんですか? 言い方は悪いかもしれませんが、ただの茶番にしか聞こえないのですが」
本当に言い方が悪い、と忠志は苦笑した。
「ですが茶番とわかっているからこそ、こんなこともまかり通るのですよ。形だけでも整えておけば、誰にも後ろ指をさされなくなる。周りもみんな承知しているから誰も口出ししないのです。あくまで岸崎実は跡継ぎに恵まれなかった可哀想な亭主であり、嫁に行き遅れた娘を抱えてさぞ苦労された方だ。結構な見劣りはあるものの、婿養子を迎えてとりあえずは一族安泰であろう。あとは孫の顔でも見られれば言うことないのではないかな――と、表向きはこんな感じですかね。裏の意味は、それこそ表には出てきませんが、人の不幸は蜜の味と言いましてね。奥方連中の情報網は凄まじいですから、真意を掴み損ねている人なんていないと思います」
永琳は不承不承といった感じだったが、一応はこくこく頷いて理解を示してくれた。どうやら今の下手な説明でも少しはわかってくれたらしいと、忠志は安堵の息を吐いた。
「玲奈さんが亡くなっても私を追い出すことは、義父には不可能だったんです。茶番であっても、世間様への建前では、私は息子も同然ですからね。もちろん金を巻き上げることも同様に。私が喚き散らせば、それだけでお家に傷がつく。たとえ噂だけだとしても、その小さな噂だけで家柄には十分深い傷を負わせることが出来るものですから」
「特に金貸しのような、信用が関わってくる仕事なら尚更ということですか」
「はい。ですから――」
次の一言には、少しばかりの勇気が必要だった。しかし忠志は、そこで言葉を呑み込んでしまうことはなかった。
ここまで彼を引っ張ってきたのは、岸崎実に対する怒りの力だ。憎悪の力だ。憎しみが腹部の痛みを抑え、怒りが口を動かしてきた。
だからここでも声帯はきちんと機能し、現実に声となって飛んだ。
「――私を殺そうと画策したのでしょう」
「…………」
永琳は沈黙を寄越した。
もっと喋れという合図だろう。もっと具体的に、もっと深い部分まで。
「殺人は重罪です。もし義父が自分の手でそんなことをすれば、破滅は逃れられません。疑いをかけられずに私を殺すためには、事故か自殺に見せかけるしかない。あ、人を雇うという手もあるか」
しまったな、と忠志はおどけてみせ、今のは無しで、と付け加えた。
「義父が指定してきた場所を見て、私は後者だと確信しました。ここからは私の推測になりますが、義父は私が玲奈さんの死を嘆き、後を追ったという筋書きを持っていたのだと思います。首尾良く私を突き落として殺したあと、事情を聴取しに来た相手に泣き通し、そう芝居を打とうとしていたんじゃないですかね」
「そうなると、貴方が刺された理由がわからなくなりますね。突き落として殺害しようとしていたなら、刃物は必要なかったんじゃないでしょうか」
「義父が包丁を背に忍ばせていた理由は、私にもわかりません。抵抗されることを見越して、もし暴れられたら刺し殺そうとでも思っていたんじゃないですかね。事実、私は抵抗した果てに刺されましたから。死ななかったというだけで、もし死んでしまっていたら――そして本人があんなことにならなければ、義父はなんとかして自殺を偽造したと思いますよ」
自刃も珍しくはない世だ。
「実さんは護身用ともいうべき刃物を用意してきたくらいですから、貴方が抵抗すると思っていたんですよね? なら、どうしてもっと回りくどいやり方をとらなかったんでしょう」
「回りくどいやり方?」
「ええ。抵抗されないよう、食事に睡眠薬でも盛って、眠らせてから崖に落とすとか」
それは、今まで考えてもみなかった方法だった。言われてみれば確かにその手の方が楽だし確実だ。
「睡眠薬が手に入らなかった、とか」
「手に入りにくい品ではありませんよ。里のおじいさんに、ちょと不眠だからと言えば調合してくれますし。――ああでも、それで足がつくことをおそれたのかもしれませんね」
「ですな。何せ義父たちは不眠になったことなんてないでしょうから。少なくとも、私は聞いたことも見たこともありません」
「そうなると、あとの疑問は一つですね」
「はあ」
「貴方はさっき、実さんに自殺に見せかけて殺されると思っていたと言っていましたが、どうしてそう解釈した場に向かったのですか? 無視して家にいれば良かったでしょうに」
もっともな質問だ、と忠志は微笑した。だがこれにはきちんとした理由がある。
「私は疲れていたんです」
天井を見つめたまま、吐息を一度だけついた。
「何もかも、どうでもよくなっていました。義父の罵倒に耐える日々にも、心配そうな眼差しを部屋の隅から送ってくる母を相手にする日々にも。これまで耐えて、耐え抜いてきただけの人生だった。それが急に虚しく思えましてね。形だけの夫婦と割り切って生活していた玲奈さんも、幸せとはほど遠かったはずです。それは私のせいなのですが。何にせよ、あのときの私にはもう、生きる気力がなかった。義父がそこまで私を殺したがっているのなら、殺されてやろうと思いましてね」
あの、金本が起こした一揆の日。その日の早朝、机の上に場所と日時だけが記してある一枚の紙が置かれていた。殺害予告の書留である。内容を読んだ瞬間こそ母たちに見られなくて良かったと安堵したが、こんなことにさえ気を払えない義父に脱力したのも確かだ。
「死のうと決めたら、どうしてか振り返りをしたくなりまして。無意味な人生であったとしても、どんな道を歩んできたのか、確認したくなってきたのです。ならばと玲奈さんのことも併せて書きたくなったし、だったらもう、これは暴露書として書いてしまおうと思い立って」
妻への手向けのつもりでもあったのだ、あの書は。
「生前、玲奈さんがよく言っていたことがあります。世の中、父のような人間がのさぼるのは間違っていると。もっと実直に努力している人が評価されるべきだと。家柄で差別するのもおかしいと言っていました。だから私は、その想いも一緒くたにして書いたのです。私が死んで、書の内容が世に出れば、これ以上の功徳もないのではないかと思いました」
それも一種の賭ではあった。
もし自分が死んだ後に、義父に衣服を検められてしまったら全てがパーになる。紙は燃やされ、想いは灰になって散り散りになるだけだ。結果的には調べられずに済んだが、一か八かの賭だった。
「私は桐箱に認めた書を入れ、服の中に忍ばせました。そして指定の崖まで行ったのですが――」
「そこで、義父上に抵抗したくなるようなことを言われた、ですか?」
「お察しの通りです」
当時を思い返すと、ずきりと胸が痛んだ。玲奈さんとは距離を置き、仮の夫婦を演じているだけだと何度も自分に言い聞かせてきたものの、回想しただけでこうも目頭が熱くなってくるのだから、私はやはり玲奈さんのことが好き――この場合は愛していたか――だったのだ。
「お伺いしても?」
「ええ」
忠志は喉から迫り上がってくる熱いものを飲み下し、瞳を閉じた。
暗くなった視界に、ぽっとあの時の光景が蘇る。きっとこれより後の一生、忘れることはないであろう光景が。
「売女より役に立たない娘――彼はそう言ったのです」
永琳の息を呑む気配が伝わってきた。忠志は再び瞼を開いて天井を睨んだ。
「売女でさえ自分の生活を賄えるというのに、玲奈ときたら穀を潰す以外に何の取り柄もない。だから死んでくれてせいせいしたよ。ようやく孝行なことをしてくれた、とね。確かに玲奈さんは美女ではなかったし、働き口も皆無でした。ですが仮にもたった一人の娘ですよ。私は――」
怒りが拳を作らせ、奥歯を噛み締めさせた。ぎり、っと大きな音が鳴った。
「私はかっとなって義父に体当たりをしていました。そこからはもう、無我夢中で……。お恥ずかしいことですが、自分で何をしたのか、まるで覚えていないんです。手に痛みがないので拳を振るったわけではなさそうですが」
「ですね。彼の顔にも痣などは認められませんでした」
「殴ってやった方がよかったのかもしれませんがね。刺される前に」
激昂してもつれ合いになったところまでは良かったが、その後がいただけない。情けない限りだ。
「義父が背に包丁を忍ばせていたとは思いませんでした――というのは言い訳ですね。いや、実にお恥ずかしい」
「いいえ。不意打ちだったのですから」
「不意打ち、ね。不意打ちといえば、あのつむじ風はなんだったのか」
義父の身体を持ち上げ、岩盤に頭から突き落とした不思議な風。
「あれこそ神風というのでしょうな」
「今、里ではその話しで持ちきりですよ。やはりお天道様は見ていらっしゃると、大半の人が喜んでいるみたいです」
「義父は職業柄というのもあるでしょうが、恨みをかう方が圧倒的に多かったですから。お伽噺に出てくる悪代官そのものって感じでしたし」
そうだ、悪代官だ。権力を盾に弱きをいじめ、強きを囲って悪事を働く、不届き千万な醜い豚。それが岸崎実の真の姿だった。そんな輩が好かれるわけがない。
「とにかく、義父が死んでくれて良かったですよ。あとは、彼が玲奈さんのところに行き着かないことを願うばかりです」
語るべきことはすべて語った。その思いが肩の張りを緩くさせ、ついでに記憶の袋を縛っているひもを緩ませ、更には涙腺も緩くさせてしまったようだった。
笑うとえくぼのできる玲奈。細い指で筆をはしらせ、一生懸命会話をしようとする玲奈。義父に罵られても、頭を垂れて耐えるだけの玲奈。
様々な彼女の一面が現われては消え、消えては現われる。その合間、忠志は大いに涙を流した。男は泣くものではないという社会の常識をかなぐり捨て、慟哭に身を任せた。
3
目の前で、ごう、と灼熱の池から溶岩が舞い上がってきた。炎の飛沫を散らしながら、アーチを描いてまた池へと戻っていく。
いつ見ても綺麗だな、と火焔猫燐はぼんやり眺めながら思った。溶岩が自分の瞳の色と同じで緋色だからか、心も落ち着く。もしくはここ、灼熱地獄の温度が他の地獄より暖かいから、ほっとするのかもしれない。
「ねぇお燐ちゃん」
お空に囁かれ、燐はそちらに顔を向けた。
「なに?」
「なにっていうか」
うーんと、とお空が顎を上げて思案する。彼女は地獄鴉だけあって頭が弱い。三歩歩けば忘れる、というくらいに記憶力も悪い。
だから、「ごめん。言いたいこと忘れちゃった」という文句も、もう燐には聞き飽きたものだった。
「毎回言うけど、忘れるんだったらメモしなさいよね」
「だって、紙とか書くものとかがないんだもん」
「ここなら、こうやって指で地面をなぞれば書けるじゃない」
言って見せてやると、お空は目をくりくりさせた。
「本当だね。さすがお燐ちゃん。頭いい」
「頭の良さは関係ないけどね……」
ごう、とまた溶岩が盛り上がって、アーチを描いて落ちていき、どぼん、と音を立てて池に溶けていく。もう何百回、何千回と見ている風景なのに、どうしても音がする度にそちらを見遣ってしまう。
「あ、そうだ」唐突にお空が切り出した。「もうお燐ちゃんは隠れなくていいんじゃないの?」
どうやらお空は、地上での事件のことを言っているらしかった。
「ああ、それならもう犯人も捕まったしね。あたいがここに隠れる理由もなくなったよ」
「よかったね、お燐ちゃん。でもどうしてお燐ちゃんが隠れなきゃいけなかったの? 地上なんてわたしたちには関係ないのに」
「うちらが関係あろうとなかろうと、地上ってところは――いんや、人間っていうのは面倒の多いもんなのさ。みんな疑い深いし。だから疑わしいって言われるだけでアウトなんだ」
「ぎしんあんきってあんまり意味よくわかんないけど、お燐ちゃんは疑わしくないよ?」
「お空から見れば、ね。人間たちはそう思わなかったんじゃないかな。あとさとり様もね」
額に青筋立ててやってきた時のさとりの姿を思い浮かべると、胃がゆっくりと持ち上がってくるようだった。
どうしてあたいたちがここまで神経質にならなきゃいけないんだ――隣にいるのがお空でなければ、相手にそう愚痴ってしまっていただろう。今はこのとぼけ面に感謝だ。
「さとり様もさとり様で考えすぎだけどね。ねずみを監禁したって聞いたときは、さすがに肝が冷えたよ」
「ナズーリンさん、ちょっぴり可哀想だったよね。ずっと小屋に閉じ込められっぱなしで」
「一週間もね。そんなことしたって、駄目なときは駄目なんだからさ。どーんと構えていればいいのに」
燐の主人はあくまでさとりだ。お空と二人、どちらもさとりのペットなのである。だから異論を挟むのはもってのほかなのだが、燐にはどうしても納得がいかなかった。
人間はいつもそうだ。原因は自分たちにあるのではなく、外にあると決めつけている。人間には良心がある、良心があるのだから残酷な仕打ちはやるまい。そう言って、より残忍性を秘めているはずだという理由だけで妖怪に真っ先に矛を向ける。犯人扱いにする。
けれど燐から見れば、妖怪も人間もさして変わらない。人間であろうと妖怪であろうと、善いことをする者もいれば、悪いことをする者もいる。ようはそれぞれの性格や思想によるものだと思うのだが、なぜか人間はそうは思っていないようで、しかもムキになって団体で動いてくる。その鬱陶しさときたら、お空に物を覚えさせようとするよりも格段に上だ。
そんな相手に、どうしてさとりが心を砕かねばならない?
仲間同士、静かに暮らしたいと願って、普段もその願い通りに動いているというのに。地上に迷惑など一切かけずに生活しているというのに(一度だけかけてしまったが)。
そもそも、人間たちを統括しているはずの霊夢は一体全体、何をしているのか。地上のいざこざを解決するのが彼女の役割のはずなのに、どうしてこっちにまで火の粉が飛んでくるのだ。お空の一件から霊夢とはそこそこ親しくなったつもりだったが、これは減点だ。ちょっと距離を置いた方がいいかもしれない。
「あ、そうだ」惚け顔でお空が訊いた。「犯人って誰だったの?」
これには燐もびっくりした。さとりから何も聞いていないとは。
「犯人はアリス・マーガトロイドだよ。あの人形遣い」
「え、うそ」
「嘘じゃないよ。といっても、アリスの姿形を模した人形だったみたいだけど」
お空は怪訝そうに眉根を寄せ、不足がちな語彙を一生懸命にかき集めて言った。
「でも、人形は人形だし、というか、人形って誰かが動かさないと動かないんじゃないの? ほら、わたしの羽根だって、わたしがいないと動かないし。人形動かせるのってアリスさんだけじゃないの?」
ようは、人形は独りでに動いたりはしないから、動かしているはずのアリスが犯人じゃないか、と言いたいらしい。
燐はその通りだよ、と頷き、けれども、と繋げた。
「普通の人形じゃなかったんだ。独りでに、勝手に動いちゃう人形を作っちゃってね。ゴーレムってやつらしいんだけど」
「あ、それならさとり様から聞いたよ」
聞いてるんじゃないか、と燐は髪を掻きむしった。鳥頭にもほどがあるぞ、と内心で罵声を上げる。当人はけろりとしている点が、より苛立ちを増幅させるわけだが、長い年月を共に過ごしてきただけあって燐はすっといつもの調子に戻した。もちろん、無理矢理力でねじ曲げて。
「とにかく、その勝手に動く人形が事件を起こしたってわけ。死因――死んじゃった原因が原因だからさ、あたいが疑われたってわけ」
「お燐ちゃんの相手は、いつも死体なのにね」
あ、魂もか、と楽しそうに言う。
「しょうがないと言えばしょうがないんだけどさ。猫妖怪は精気を吸うことで有名だからね。特に猫又はさ」
燐は、尻から生える二本の尻尾をうねうねとさせた。
「お燐ちゃんも吸うの?」
「あたいは吸う必要がないから吸わないけど。やれと言われれば、出来なくはないよ」
言って、お空の唇に自分の唇を寄せると、お空が反射的に仰け反り、その反動で後ろへ転んだ。
「そ、そんなことしたらわたし、死んじゃうよ」
「冗談よ冗談。そんなに驚かなくたっていいじゃないか」
燐は心の底から笑った。久方の笑いだった。お空と一緒にここへ身を隠していた時はずっと、神経がささくれていて笑うこともなかったから。
「しっかし、もう二度と疑われるのはごめんだね。さとり様の過保護にも釘を刺しておかないと」
ごろっと寝転がり、手で枕をつくって頭を乗せると、天井を見上げる。
空ではなく、天井。地上であれば青や黒や赤の映える場所が、ここでは灰色のごつごつとした岩盤が見えるだけ。燐たちを覆い、閉じ込めている殻こそが、天井の正体だ。そしてこの天井こそ、地獄に住む者たちの空だった。
地上に比べたら、ここは遙かに暗くて冷たい世界だ。光の射さない、活きた風も舞い込んでこない不毛の地。それが地獄。嫌われ者たちの住処。
けれど、ここを最低だと思ったことはない。地上から見れば最低の場所でも、燐にとっては心休まる、かけがえのない場所なのだ。それはさとりも、ここの住人も同じ気持ちだろう。だからこそ、さとりも過保護になるのだろうけれど。
「あーあ、眠くなってきちゃったね」
地面は地獄らしからぬ暖かさだった。まるで日光を浴びる地上の大地のように。
隣で何やら呟いているお空には耳を貸さず、燐は吐息ひとつついて瞼を閉じた。
4
上白沢慧音は握っていた桶から手を離し、額に滲んだ汗を手甲で拭った。
前日に雨が降ったわけでもないのに、今日はかなりの蒸し暑さだった。服が背に張り付いている。もしかしたら今晩辺りから降り始めるのかもしれない。
慧音は通りかかった茶屋で足を止めた。この暑さの中、墓参りを済ませてきた帰りの道中ということもあり、喉の渇きは抑えがたいものとなっていた。
置かれていた腰掛けに座ると、さっそく現われた女将に注文をした。のれんに書かれている「極上抹茶」を一つ頼むと、ふくよかな身体を揺らし、笑顔で店の奥へと消えていく。店は閑散としていて、鳥の一羽も見られない。だが、今はこの静けさがありがたかった。
「ゴーレム、か……」
事件の首謀者が割れてから現在に至るまで、頭の中は常にゴーレムのことで一杯だった。
アリスが造ったという、古代技術の結晶。
制御を失い、人の魂を喰らって生きながらえていた泥の自律人形。元教え子を枯死させ、本物に成り代わっていた影武者。
八雲紫から説明を聞いた時は、まさかという想いだけだった。そんな空想の物語のような話しがあるか、と。
だが冷静になるにつれて、魔法使いというのは昔話の中では最もポピュラーな存在ではなかったか、と思い直していた。魔法使いは、何でも願いを叶えてくれる少女であったり、人を不幸のどん底に突き落とす魔女であったりする。呪文一つで世界を滅ぼしてみたり、逆に死んだ人間を生き返らせてしまったり。とにかくむちゃくちゃな存在だ。歴史喰らいの自分が言うのも何だが。
なので、そんなむちゃくちゃな存在であれば、人形に生命を吹き込むのも不可能ではないのかと思うようになったのだった。そう思えるようになるまで、かなりの時間がかかったが。
「あい、お待ち遠さん」
出てきた時と同じ笑顔で、戻ってきた女将が湯呑みを差し出してくれる。豊かな頬の肉のおかげか、まるでおかめのように見える。
「ありがとう」
受け取るとすぐ、抹茶の芳香が鼻孔をくすぐってきた。極上というだけあって薫り高い。
「暑いときに熱いもんですいませんけど。もうちょいしたら冷茶も出しますんで」
その際はご贔屓に、と言って女将は店の中へと入っていった。勘定は後でもいいらしい。どうやら信用されたようだ。
「――ぉ」
抹茶を一杯口に含むと、ほどよい苦味と甘味が混ざり合い、すっと喉の奥に消えていった。
「美味しい」と慧音は思わず呟いた。
女将の言う通りこの暑さの中、熱い茶を啜るというのもアレな気がしたが、そんな些末な考えは飲んだ瞬間に吹き飛んだ。それほど価値のある一杯だった。
しばらくその味を楽しんでいると、不意に砂利を踏む音がした。来客かと思い顔を上げると、誰かが太陽を背負ってこちらに歩いてくるところだった。
日光の眩しさに目を細め、手でひさしをつくると、それが誰だかすぐに判別がついた。鬼頭湊だ。
「なんだ、湊じゃないか」
「先生こそ、茶屋にいるなんて珍しいじゃないですか」
湊の顔がぱっと明るくなる。歩調を早めて腰掛けまでやってくると、すぐ隣に腰を下ろした。
「お茶なんて家ので十分だって言ってたのに、どういう心境の変化で――」
はっとした表情と共に、湊が言葉を切った。何かを見て固まっている。どうしたのかと首を捻りかけたが、すぐに得心した。
「墓参りに行っていたんだ」
彼の瞳を釘付けにしたのは桶だった。というより、桶に入っている胡蝶蘭にか。桶なんかよりずっと存在感がある。
「あらいらっしゃい。……って、お連れ様ですか」
奥からゆさゆさと身体を揺らして女将が現われた。湊を見て、目をぱちぱちさせている。
「ああ。すまないが、この子にも同じものを」
「まいどあり」
詮索の目を向けるわけでもなく、女将はすぐに引っ込んだ。樵をしている湊の顔つきや体格は精悍で、年頃の女の子からはちょっとモテる。そんな彼をじろじろ見たり、くだらぬ合いの手を入れてこない点に、慧音は好感を持った。ここの店は客商売のなんたるかを知っているな、と。
「先生」湊はよく通る声で言った。「何回も言ってますけど、その『この子』っていうのやめてくれません? 僕ももういい歳した大人ですよ」
里の中では、二十歳を超えれば立派な大人だ。けれど人間より長寿を誇る慧音から見れば、やっぱりまだまだ子供だ。たとえ女子連中から人気を取れるだけのがたいがあったとしても。
「前向きに善処はしているつもりなんだが……癖は直らんものだな」
教え子に――ひいては養子(のようなもの)に対するいつも通りの言い訳を口にしたところで、女将が抹茶を運んできた。
「ごゆっくり」
これも、お代は後でいいようだ。
「そら、美味しいぞ」
「遠慮無く」
湊は抹茶にふぅーっと息を吹きかける。幼少の頃よりずっと変わらない猫舌ぶりだ。横目でその様子を眺め、飲み出さないことを確認してから慧音は話しかけた。
「今日はどうしたんだ? 商売道具も持たずに」
「先生と同じですよ」
少し湯呑みを傾け、抹茶を啜った湊だったが、すぐに唇を離した。まだまだ熱かったらしい。
「お前も墓参りか」
「これからは」ことりと腰掛けに湯呑みを置く。「毎日来ますよ」
「よせよせ。人生は短い。青春だって短いんだ。もっと有意義に使わないとな」
慧音は明るく努めた。落ち込んでいるはずの湊に、少しでも前向きに考えてもらいたいという想いで。
――恋人なんてまたすぐにできるんだから。
「墓参りも有意義ですよ」
「お前のそういうところ、私は嫌いじゃない。だけどな湊」
「先生」遮る口調は強硬だった。
「な、なんだ?」
「彼女は――理沙さんは、無念の死を遂げたんです。決して自分から進んで死んだわけではありません」
今まで見せてくれたことのない、輝きの点らない昏い双眸で湊がこちらを見る。まるで心の中を、心眼で睨め付けるように。
「そう、彼女は無念だった。そのはずです。やりたいことだっていっぱいあったはずだ。だからね、先生」
僕は忘れちゃいけないんだと思う、と言った湊は、急に態度を一変させた。途端に目をあちこちに泳がせ始める。おや、と慧音は思ったが、彼は止まらない。
「彼女と一番仲がよかったのは僕だったって、誰が相手でも胸を張って言える。恋人だったんだから。それに将来のことだって、色々話し合ってた。彼女の夢だって知ってる。だからこそ、僕は理沙のことを忘れちゃいけない。そのために、僕は毎日でも墓参りに行かなくちゃいけないんです」
湊は、行きたいんです、とは言わなかった。
行かなくちゃいけない。そうしないといけない。他に選ぶ道なんてない。
誰かに命令されたわけではなかろう。誰かにそうした方がいいと持ちかけられたわけでもなかろう。だが彼は、自身に強制の印を押した。恋人だった人を忘れないように、墓参りに行かなければ、と。心底に強迫観念を根付かせ、だからこそ「しなければ」ならないのだと言い聞かせて。
「なぁ湊」
彼は地面を睨み――泳いでいた目はいつの間にか落ち着きを取り戻していた――唇を?んだ。幾分顔色が悪そうに見えたが、慧音は構わず続ける。
「お前は昔から考えすぎなんだ。深く考察するのはいいことだけれど、それも選んで考えないと泥沼に足をとられるぞと何度も言ってきただろう」
「特に解決策のない話しは――でしょ?」
嘲るような、翳りのある笑い方だ。またしても知らなかった一面を見た、気がする。
「そうだ。世の中には考えても詮無いことがある。人の生死なんてまさしくだ」
「だから考えるな、とでも?」
笑みが引っ込んで、代わりに苦悩が引っ張り出される。その横顔は、余命僅かな病に冒された老人のように苦り切っている。
「そんなことは無理ですよ」指を組み、ふんと鼻息を吐く。
慧音は押し黙った。長年勤めてきた教育者としての勘が、そうしろと告げていた。
「近しい人の死には、途轍もない威力をもった毒が潜んでいる。そう教えてくれたのは先生ですよ。その毒を僕は間近で、しかも一身に浴びたんです」
わかりますか先生、と湊は俯いたまま、
「僕の伴侶になるはずだった理沙が死んだんです。それも病死や事故死じゃない、変死だ!」
湊は声を張り上げ、勢いよく立ち上がった。
きっと背後では、女将が「何事だ」とすっ飛んできたに違いない。それでも物音一つ聞こえてこないのは、彼女が気を遣って声を押し殺し、音を立てないようにと心を砕いてくれたからだろう。有り難い配慮だった。
「先生も見たでしょう? 理沙の死に顔を。白くて綺麗だった肌は黒くなって、瑞々しかった肉体は枯れた木みたいに萎れてて」
――どう見ても人間の死じゃなかった。
最後は、本当に消えてしまいそうなほどにか細い声だった。
「……そうだな」
そうだな、と内心で二度目の頷きを入れる。
あれは確かに人の死ではない。人間はああいう風に死ぬものではない。まだ木っ端微塵の方が現実味のある死に方だ。
そしてその頷きに、もう一つ意味が宿った。たった今閃いたことだった。
さっき彼は、死んだ恋人を忘れないようにするために墓参りに行かなくてはならないと言った。聞きようによってはその通りの意味しか持たないが、彼が本当に言いたかったのは、こういうことではないのか。
――人間として死ねなかった金本理沙のために、人間であった時の金本理沙を常に忘れないように、墓に通い詰めなければ――
人の記憶は感情と同じで、移ろいゆくものだ。時間が経つにつれて劣化し、風化していく。その瞬間、瞬間は「絶対に」忘れまいと思っていても、知らず知らずのうちに薄くなっていく。新しい情報に擦られて削られていくせいで。
だからこそ、少しでもその風化の進行を食い止めるために、湊は毎日墓に訪れようとしていたのではないか。
――私は死んでなんかいないわ。だってあんなの、死んだと言えないんだもの。ねぇ湊、貴方は私のこと、見捨てたりしないわよね? 人間じゃなくなっちゃったけど、私を捨てたりなんてしないわよね?
彼が浴びた毒はきっと、これだ。
金本理沙はまだ生きている。人間だった彼女は、人間ではあり得ない死を迎えてしまったが故に、湊の中で生き続けることに成功した。肉体はなくとも、彼女は生きていける。おそらく湊は本当に毎日墓に足を運び、記憶を保とうとするだろう。墓に赴く理由はそれだけではなく、彼女がそこにいるからだというのもあるだろうが、何にせよ記憶さえしっかりしていれば、彼女は死ぬことはない。
二人は床の中で囁き合った約束通り、夫婦となる。子供をもうけることは無理でも、妻は永遠に二十二歳の若さを維持し、湊だけが年老いていく。それでも二人は幸せだ。仲睦まじい夫婦なのだから当然だ、容姿なんて気にしない。
そしてこの毒を解く薬はこの世に存在しない。湊が死ぬその日まで、一人と一人は墓を介して愛し合う。
……あり得ない、と慧音は咄嗟に閃いた自説にぞっとした。あまりに馬鹿げている。馬鹿げてはいるが――
突如、湊が喋り出した。
「だけど僕はわかっちゃったんです。これは彼女が仕掛けた不意打ちだってね。理沙はお茶目でしたからね、きっと僕が驚くところが見たくてあんな仕掛けを施したんだって。ねぇ先生、そう思うでしょう? ちょっと考えればわかることだけど、たった一日足らずで人間が枯れて死ぬわけありませんからね。きっとこの辺りに隠れてますよ、あいつ」
俯いた姿勢のまま、矢継ぎ早に言葉を並べていく。
彼が焦点を失った目で見つめ、熱弁をふるっている相手は、地を這う一匹の蟻だった。
5
「わぁ、凄い」
直径三メートルはあろう丸テーブルの半分を埋め尽くしている写真の群れを見て、こぁは背の蝙蝠翼をうんと広げた。興奮が翼を動かしたのだった。
こぁは今、立ったままテーブルに両手をつき、写真を見渡している。どれもこれも喉から手が出るほど欲しいものばかりだった。写真を撮る道具もスキルもないからこそ、余計にその気持ちは強い。
「そんなに喜んでもらえると、頑張った甲斐があったというものですよ」
ふふんと鼻を鳴らしたのは文だ。丸テーブルの端に片肘を立て、得意げな笑みを浮かべている。
「よく巻き込まれずに撮れましたね」
「専門家ですからね。朝飯前とは言いませんが、そこいらの三文記者と一緒にしてもらっちゃ困ります」
自信に満ち溢れた台詞だ。文のこういう鼻持ちならぬ言動が反発を呼ぶことも多々あるのだが、こぁには一切当てはまらなかった。むしろ文を尊敬しているし、大が付かないまでも好きである。
できる女はかっこいい――これがこぁの心理だった。
「あ、これなんて本当に凄い」
めざとく見つけた一枚の写真。それを拾い上げると、うっとりとした表情になる。「かっこいいなぁ……パチュリー様」
写真はすべてパチュリーを主軸に撮られている。今日持ち込まれたものはみな、つい先日に勃発したパチュリーとアリス(偽)の戦闘の中で撮られたものだった。
「それは結界を破壊したときのものですね。氷魔法と炎魔法の共演は美しかったですよ」
それから彼女らは、近年では稀となった「本物の魔法合戦」について熱く語り合った。こぁは聞き手に徹していたが、それでも興奮の熱は高まっていくばかりだ。
そんな二人に冷や水を浴びせたのは、話題の主であるパチュリーだった。
「よほど暇なのね、貴方たち」
パチュリーはドアにもたれかかり、腕を組んでいた。半眼でこちらを見ている。話に熱中しすぎたせいで、自分の主人が入室していることにも気付けなかったこぁは大いに慌てた。
「あ、あの、パチュリー様。これはですね」
「見ればわかるわよ。井戸端会議でしょう」
「え、いえ」
嘘ひとつうまく使いこなせないこぁは、どぎまぎとするしかできない。代わりに弁明したのは文だった。
「井戸端会議というか、相談ですよ。より詳細な記事を作るための参考意見を聞きにきたんです」
「なら本人である私に訊けば? こぁは何も知らないわよ。現場に来てすらいないんだから」
「だからこそですよ」文は肩をすくめた。「今回の記事は第三者さんたちの声をまとめて載せるつもりなので」
真意を測りかねるのか、パチュリーが怪訝な顔になる。こぁは薄らとだが嫌な予感を覚えた。こういう顔をする時のパチュリー様は語気が荒くなる。
「ふぅん。そんな記事を作ってどうするつもり? また嘘でも載せるの?」
「失敬な。私がいつ嘘を?」
雲行きが怪しすぎる。敵対心剥き出しだ。
ゴーレム事件が終結してからというもの、どうしたことかパチュリーは不機嫌になることが多い。毒舌の毒も強くなり、針でも潜ませているかのような鋭さも併せ持っている。当人は否定するが、態度からして明らかだ。
「岸崎忠志の件、嘘じゃないなんて言わせないわよ」
パチュリーはドアから背を離し、カッカッと靴底を鳴らして近づいてきた。椅子を引き、乱暴に座ると、文を一睨みする。
「やや、これは怖い顔。どうして私が嘘なんて吐く必要が?」
「永琳から聞いたわよ。あの記事はデタラメだって」
「どうして永琳さんが絡むんです?」
こぁにもわからないことだった。
「今、彼女の診察所に岸崎忠志本人が来ているらしくてね。彼から色々と話を聞いたらしいわ。貴方の記事に嘘があるというのも聞いたって」
「うーん、具体的にはどの部分がですか?」
「それは永琳に聞いて頂戴。情報源は彼女なんだから」
「うわ、喧嘩をふっかけておきながら逃げましたよ」
酷くないですか、と同意を求めてくる。こぁとしては、苦笑を浮かべてはぐらかせるだけで精一杯だった。
「逃げてなんていないわよ。そもそも貴方ね、あんな記事を書いてどういうつもり?」
「あんな記事?」文よりも先にこぁが訊いた。
「そうよ。岸崎家の内情を暴露していたじゃない。あれじゃあ残された家族がたまったものじゃないわ」
そっか、とこぁはわかった気になった。パチュリー様は遺族の方々を心配しているんだ。
「あやや、今更そっちの話しになりますか」
「今更?」
「そうですよ。その記事は最初の方の記事ですよ? 文句があるならその時に言って貰わないと」
それもそうだ。こぁは文に同調した。もちろんおくびにも出さないが。
「あの時は情報が少なかったから、気にする余裕がなかったのよ」
「今はその余裕が出てきたから追及する、と。ですがあの記事に嘘なんてありませんよ。ちゃんと聞き込みもしましたし」
「そう? 私にはそうは見えなかったけれど」
「どこの部分がですか?」困り果てた顔で文が訊いた。
「じゃあ訊くけれど」
パチュリーは指を組んでテーブルに両肘をつくと、文を真っ直ぐに見つめた。
「あの記事の悪意を説明して頂戴」
「悪意?」
文が鸚鵡返しすると、
「そうよ。あの記事は、記事そのものが嘘じゃない。事実だけを客観的に書いてある記事じゃないもの」
「へ?」間抜けな声が漏れてしまい、こぁは慌てて口を噤んだ。
「面白いことを言いますね。記事そのものが嘘だなんて」
「そりゃあそうでしょう。新聞記事というものは、あくまで記述者の主観を省いた、事物に忠実に書かれているものを指すんだから。今回の貴方の記事、どれもこれも主観が入ってるし、悪意を感じる物ばかりなのよ」
はっきりと断じるくらいだから、パチュリーにはどの部分がそうなのかわかっているのだろう。当時の記事をなんとか思い返してはみたが、こぁにはどこがその部分なのか、さっぱりわからなかった。
「へえ」
文は悪戯っ子のような、可愛げのある邪気を含んで歯を覗かせた。「なかなかどうして、新聞のこと、詳しいじゃないですか」
「伊達に本は読んでいないのよ」
興味なさそうに言い返してはいるが、それがパチュリーの照れ隠しであることを、従者たるこぁは知っている。
「バレちゃしょうがないですね。その通りですよ。今回の一連の事件、私は読者を誘導する記事を書きました」
「どこに誘導していったのか、お聞かせ願うわ」
「謎は謎のままで……って言う方が面白いんでしょうけど、そうですね。たぶんこのままじゃ、パチュリーさんはいいとしても、こぁさんが可哀想ですし」
その通り。ちんぷんかんぷんなんですから。
「実はですね」文は唇を湿らせてから言った。「岸崎実を縛り上げるためです」
あ、ここだけの話しにしておいて下さいよ、と付け加える文だったが、今の説明でもまだこぁにはちんぷんかんぷんだった。
「どういうことですか?」と素直に訊ねた。
「何がです?」
「えっと、だから今の話しなんですけど。岸崎さんを縛り上げるって……」
「ああ、そういうことですか」
ようやく合点がいったようで、文は手をぽんと打った。
「動機から説明しなくちゃいけませんでしたね」
実はですね、と切り出してきた文の話をまとめると、次のようになる。
岸崎実は里の中でも特出した鼻つまみ者であり、誰も彼もに早くいなくなって欲しいと願われる人物だった。
金貸し業では目玉の飛び出るような利子を設け、債務者が借金を返せないとなると、暴力だろうがなんだろうが使ってこっぴどく搾り取る。財力にものを言わせて蛮行を働くことはしょっちゅうで、調和のちの字も考えていない。人間社会において、これほど愚昧で厄介な人物もいまい。
しかし財力があるということは、そのまま権力にも結びつく話であり、彼を社会的に抹殺するのは難しかった。事故死してくれれば一番だが、そう願ったところで――呪ったところで簡単に人は死なない。もはや岸崎実は人間たちの手に負えない存在だった。
だからと言って、妖怪が直接手をかけるのも不味い。幻想郷では、妖怪は人間を殺してはいけないルールとなっている。
このまま手をこまねいているしかないのだろうか。
誰もが落胆しつつ生活を送っていた最中、事件が発生。例のゴーレム事件である。
文はかねてより独自の情報網を使って岸崎実を調べ上げていた。直接手を下すことはできなくとも、何かしら方法があるはずだとずっと付け狙っていたのである。
そして運命とも言えるべき第二の事件が起き、文はついに岸崎実を奈落の底に突き落とす方法を考え出したのだった。
「それが記事で彼を非難するという方法だったのね」
しみじみとパチュリーが言い、こぁは吐息を一つついた。
「執拗に彼の人間性を語ったのも、ことを起こさせるためです。里の人たちにとっては周知の事実でも、本人は何にも知りませんからね。あれだけあからさまに書けば、何かしら動くと思っていました」
実際、一度は妖怪の山に徒党を組んでやってきたのだと言う。
「いかつい顔をしているからといっても、人間は人間ですからねぇ。束になって来たところで怖くもなんともありませんよ」
それは向こうも承知だったらしく、「覚えてろ!」というお決まりの捨て台詞を吐いて退散していったのだとか。
「どうせなら、そのとき刃物とか持ってやってきてくれれば良かったんですけどね。恐喝は立派な犯罪ですし。ただ、そこら辺をちゃんと弁えていたあたり、強かでした。いや、狡猾でした」
「言い直さなくても」
ちょっとおかしくなり、こぁは笑ってしまった。
「いえいえ、大事なことですよ、これ。狡猾だったからこそ、あれだけ派手に悪事をしても一度も御用にならなかったんですから」
「ちゃんと規則と規則の間――隙間を狙ってやっていた、ってことね」
パチュリーは呆れ顔だ。こぁも同じ気持ちだった。太い神経を持っていそうなのに、そういうところだけ神経が細くなるんだから。
「結局それから彼は何も行動を起こさなくて、ちょっと困ってしまいましてね。籠城されてしまうと、こちらとしては手が出せないものですから」
「家の前で挑発行為をするわけにもいかないでしょうしね」
「ですです。で、もう一発過激な記事でも書いてやろうかしらと悩んでいた折、忠志さんから面白い話しを聞きましてね。崖に呼び出されたとか。それを聞いて私、思わずガッツポーズとっちゃいましたよ」
崖ですよ崖、あの狡猾なタヌキが――そう話す文ははしゃいでいた。これだけ興奮したところを今まで見たことがなく、こぁは少しばかり面食らった格好となった。
「じゃあ、永琳が聞いたとかいうつむじ風の正体って」
あんぐりとパチュリーが口を開けて訊くと、文は胸を張って答えた。
「もちろん私に決まってるじゃないですか」
「つむじ風?」
ここでも話しについて行けないこぁが質問を挟むと、
「あとで説明してあげるから」とパチュリーに遮られてしまい、仕方なく聞き手に回ることになった。
「なに、じゃあ貴方、直接手を下したも同じじゃない!」
「失礼ですね。私は手出しなんてしてませんよ。影でやり取りを眺めながら、扇でちょいと火照った顔を扇いだだけですから」
そうしたら、なぜか扇からつむじ風が飛んで行ってしまって。
「気付けば男の人が一人、飛ばされてしまった、というわけです。つまり事故ですね」
「いや、事故じゃないわよ、それ」
それにねぇ貴方、と呆れながらに言うパチュリーだが、顔は明るい。
「何も岩盤に頭を叩きつけなくたっていいでしょうに。せめて崖から放るくらいじゃないと」
パチュリー様、そっちのが残酷です。
こぁは心の中で呟いた。
「いえいえ、だからさっきから言ってるじゃないですか。私は何もしてませんよ。扇から勝手に風が飛んで行ってしまったんです。コントロール出来るものじゃあありません」
まるで二人で企て事でもしているかのような光景に、こぁは破顔一笑してしまった。それにつられてか、パチュリーもくすりと笑った。文も。
「これでお二方も共犯者ですね」
「何を言っているのかわからないわ。岸崎実は事故死のはずだから」
事実、彼の死はそう報道された。養子である岸崎忠志を襲っている途中、足を滑らせ転倒し、頭を強く打って死亡。打った場所が岩盤で、しかも尖っていたことが災いした。記事にはそう書かれていた。
「そうでした、そうでした」
文は何度も頷いた。「これは事件ではなく事故でした」
「さてと、嘘記事の糾弾も出来たことだし。私はそろそろお暇しようかしら」
腰を浮かしかけたパチュリーだったが、それを文に止められた。
なに、とパチュリーが目で訊ねると、
「最後に聞かせてもらいたいことがあるのですが」
顔から笑みを消した文を見て、パチュリーは再び椅子に腰を下ろした。こぁも気を張り直し、姿勢を正した。
「実は引っかかっていたことがあるんですよ」
「もったいつけるわね。何?」
「ゴーレム……もとい、コピードールとの対戦のときのことなんですが」
先ほど熱く語り合った内容が胸を掠め、こぁは頬が上気するのを感じた。もしかしたらもっと深度のある話が聞けるかもしれないと思ったからだ。
どうしてなのか、パチュリーは対戦のことをほとんど喋ってくれなかった。あまりずかずか聞くのも憚れて、今日、文が教えてくれるまで具体的な内容はほぼ知らなかったのだが、だからこそ、主人の口から聞けるのであれば、是非語って貰いたいという気持ちが、ある。
「明らかにコピードールが劣勢に見えましたが、戦闘前に何かされたのですか? 実力的にはアリスと同等のはずですが、どうもそうには見えなくて」
え、とこぁは声をあげそうになった。そんな馬鹿なことがあるわけ――。
だがすぐにその考えを打ち消した。文からはパチュリーの武勇伝ばかり聞かされていたが、コピードールの強さには言及していなかった。
そしておそらく、そのコピードールの不調にパチュリーの不機嫌が関係している。文の目にも映った、コピードールの不調が。
パチュリーはしばらく押し黙った。写真に視線を落とし、静かに魅入っている。写真を眺めているというよりは、その奥にある光景を透かし見ているようだ。偽物のアリスと戦った当時の光景を。
やがてパチュリーは嗄れた声で呟いた。
「欠陥品よ」
「欠陥品?」鸚鵡返しする文は眉をひそめた。
「そうよ。ゴーレムの映し身は完全じゃなかったってこと。本物に比べれば遙かに劣る性能しか持ち合わせていなかったの。アリスとは本気で戦ったことがないから、これは想像でしかないけど。たぶん、魔力も実力もアリスの半分以下じゃないかしら、彼女」
コピードールは影武者として用いられるほどの精巧な複製人形だ。しかも秘術である。まさか見てくれだけ精巧、というわけではあるまい。本人の複製なのだから、能力もそっくりそのままでなくては。差があるとしても、小さなもののはずではないか。
なのに性能が劣っていると言われても、俄には信じられない。それもオリジナルの半分以下とは。
文も同じ心情らしく、首を捻った。
「その割には、結界破りにひどく手間取っていたみたいですが」
「あれはまた話が違うのよ。あの結界は、霊脈にうまく繋げて作られていたから、なかなか破れなかったの。ぱっと見ただけで頑強さがわかるくらいの堅さだったんだから、苦戦して当然よ」
「はぁ、そうなんですか。うちには結界の気配しかわかりませんでしたけど」
「あれほどのものとなると、魔力感知に疎い魔理沙でもすぐにわかるレベルよ。魔法使いなら卵にだってわかるはず」
ということは、もしかしたらわたしにも見えたのかもしれない――そう思うと、こぁはちょっぴり悔しい気持ちになった。魔法使いではないけれど、ほんの少しだけパチュリー様に魔法を教えてもらっているから。
「つまり、勝敗を決そうと思えば、すぐにでも決められた、と?」
「まぁね」
「ではお聞きしますが」文は居住まいを正した。「どうして紫に手を出させたんです? 闘いを長引かせなければ、手出しされることもなかったでしょうに」
コピードールにとどめを刺したのは、一揆の首謀者である金本理沙の父親だった、と聞いている。どうしてそんなことになったのかは聞いていない。聞ける雰囲気ではなかったからだ。
パチュリーは逡巡の相を見せたが、仕方ないといった感じで肩から力を抜いて言った。
「迷っていたからよ」
「迷ってた? それは戦うことに対してですか?」
「いいえ。でも、とどめをさすのには抵抗があった。そういうこと」
ああ、と気の抜けた声が文の口から漏れる。
こぁは深い感傷に囚われた。
とどめをさすことを躊躇ったばかりに、対象が目の前で殺される。その様を、パチュリー様はどんな気持ちで見届けただろう。きっと今の自分と同じで、心が痛かったに違いない。だって、こうして又聞きしている私でも悲しくなってくるんだから。
「……さて。今度こそお暇させてもらうわ。なんだか辛気くさくなっちゃったしね」
パチュリーが立ち上がると、ごとごとと音を立てて椅子が後ろにずれた。
と、その動きが止まる。視線が、ある一点に釘付けになっていた。
こぁは声をかけようとした。だができなかった。その前に、文が行動を起こしていた。
「これ、どうぞ。無料で差し上げますよ」
彼女が手にしている一枚の写真。
そこに映っているのは、地に斃れ、頬に亀裂を刻みながらも笑顔をたたえているアリス――亀裂からしてもコピードールか――だった。さっきまで、写真の群れの中にはなかった一枚だ。きっと話し込んでいる最中、文がこっそり紛らせたのだろう。
「無料に決まってるでしょう」パチュリーは顔を伏せて写真を受け取った。「許可なしで私を撮ったんだから」
「欲しければ、どれでも焼き増ししますよ」
「そういう問題じゃない」
肩を振るわせ、俯き加減で部屋から出て行こうとする主人のために、こぁは先回りして重厚なドアを開いた。泣き出す一歩手前のところで踏ん張り、無理矢理笑みを引き出して。
6
「初めて拝見しました」
一本の棒を見つめ続けながら、八雲藍は脇息にもたれてリラックスしている八雲紫に向けて言った。「ですが、もう破魔の力は失われているみたいですね」
「それは元破魔の矢よ。影武者さんの心臓を貫いたから、祓いの効力が失せてしまったのね」
紫は愛用の扇子で首元を仰いだ。
「でもまた巫女に破魔の念を込めてもらえば、ちゃんと機能します」
「便利な道具――いえ、武器ですね」
元は矢だと言うが、今はどうみてもただの棒きれだ。武器として見るのは些か無理がある。
「ですが、これが前代の巫女の持ち物だとは。私は今まで存在自体知りませんでしたよ」
素直な驚きと、少しの落胆を混ぜて伝えると、
「この矢の存在を教えたところで、私たちには有害ですからね。触れただけで大火傷しちゃうし。だから敢えて教えなかったの」
「そういうことですか。ですがそうなると、これをどうやって持ち出したので?」
「ああ、それはこれのおかげよ」
そう言って懐から出したのは、白い手袋だった。しかも片手分しかない。
「この手袋はね、あらゆる力を中和する作用を持った素材で出来ているの。試してみる?」
ここで「いえ、遠慮します」などと言ったら拗ねるのは目に見えているので、藍は従うことにした。
手袋を受け取ると、妙な感触に見舞われた。布のような素材で出来ているようだが、手触りは限りなくこんにゃくを掴んでいるに近い。ぐにょぐにょとする。しかも紙のように軽い。触るとぐにょりとするのに、持つと飛んで行ってしまいそうなほどの軽さしかない。
奇妙な感覚に戸惑いながら、藍は手袋めがけて妖力を送り込んでみた。出力としては、人間の腕一本を腐らせるほどのものだ。布きれなら一瞬で燃え上がるはずだった。
だが間断なく妖力を送り込んでみても、手袋に変化はなかった。
「どう? 凄いでしょう」
「はあ。確かに凄いですね。刃物には弱そうですが」
「そうでもないわよ」
言うが早いか、紫は次元に穴を開けて長刀を取り出した。大広間に飾ってある業物の一つだ。
「これで切ってみなさいな」
手袋を畳みの上に放り、言われた通りに渡された刀で手袋を突き刺してみる。
その瞬間、先ほどのぐにょっとした感覚が刀の柄に伝わってきて、切先が逸れた。おかげで、刃が滑って畳に突き刺さってしまった。
「これは……」
好奇心に負け、手袋を拾い上げた。今度は刃の反った部分を手袋にあてがってみる。そのまま引いてみたが、手袋には傷一つ入らなかった。
「凄いですね」藍は賞賛した。「傷一つ入らないなんて」
「その手袋には謎が多くてね。表面に膜が張っているのは確認出来てるんだけど、じゃあその膜がどんな仕事をしているのかはわかっていないの」
「紫様にもわからないのですか」
「そうよ。私だってなんでも知っているわけじゃないわ」
それもそうか、と思ったのも一瞬だ。この超絶的な存在である御仁に、そんなことがあるのか、と疑問が湧いた。
「とにかく」藍は咳払いを一つした。「この手袋の凄さはわかりました。破魔の棒の凄さも」
「破魔の棒、って、響きがなんかいまいちね」
「では元破魔の矢でもいいですが。どうして人間風情に、これほど大事なモノを託されたので? 前代の博麗巫女の遺した貴重な品を、どうして下郎なんかに」
代々の博麗巫女に対する紫の情を知っているだけに、藍は自分でも知らず憤慨していた。
そんな藍に、紫がとった行動は、
「落ち着きなさい」と扇子を投げつけてくることだった。
扇子が額に当たる直前、反射的に目を瞑っていた。
すぐには理解が及ばず、しばらく――おそらくは一秒にも満たないのだろうが――ぼうっと畳の上に落ちた扇子を見つめる。須臾の後、はっと我にかえった藍は、深く項垂れた。
「見境を失い、みっともないところをお見せしました」
「段々と式神らしからぬようになってきたのはいいことだけれど、冷静さは大事よ」
「はい。申し訳ありません」
一礼すると、紫は鼻から息を吐いた。
「それと、人間に対しての見る目がよくないわね。なぜそんなに偏見に凝り固まっているのか、さっぱり理解出来ない。彼らはよき隣人であるというのに」
このお叱りにも、藍はただ頭を垂らすことしかできなかった。
腹の中では「よき隣人が変乱などおこすものか」と憤ったが、口に出すのは躊躇われた。口は災いの元である。
「精進します」と謙虚の色を見せて、場を退いた。
「ということで、この棒に再び破魔の力を注いで欲しいのですが」
藍は例の手袋を嵌めて、博麗霊夢に棒を差し出した。効力を失っている元破魔の矢は素手で触れていても問題ないのだが、なんとなく嵌めてきてしまったのだった。
「急にそんなことを言われてもねぇ。そもそも、この棒、初めて見るし」
「私も初見です。どうやら紫様の蔵の中に保管されていたようで」
「蔵の管理はあんたがやっているんじゃないの?」
なぜか驚かれた。
「いえ。というか、私は蔵そのものを見たことがないのです。どこにあるのかも知りません」
「はぁ? あんた、それでも紫の式神なの?」
式神だからこそ、分野外のことが出来ないんですよ――そう言ってやりたかったが、すみませんの一言で済ませた。いちいち相手にするだけ疲れる。
「紫の蔵、ねぇ。どんなお宝が眠ってるのか、ちょっと気になるわね」
「宝などほとんどないと思いますよ。せいぜい宝刀二、三本といったところではないですか?」
「そんなことないでしょ。あれだけ長いこと生きてるんだから」
ああ、そういうことか、と藍は納得した。
人間には変な考え方がある。ガラクタであっても、年月を積み重ねたというだけで値打ちが付く、というものだ。霊夢はそれを含めて「宝」と称しているのだろう。妖怪の内では、月日を耐えたというだけで値打ちが変動することはないのだが。
「今度それとなく聞いてみます。ですから、破魔の力を授けてもらえないでしょうか」
「うーん、協力してあげたいのは山々なんだけど」
霊夢はしげしげと棒を見つめ、そもそも、と呟いて首を捻った。
「もともとは破魔の矢だったって言うけど、こんなに太い矢があるのかしら」
言われて気が付いたが、確かに棒は太かった。普通の矢の三倍ほどの太さがある。
「本当ですね。全然気になりませんでした」
「あんたは弓矢なんて使わないだろうから、無理もないわよ。かくいう私も、そんなに使わないけどさ。それに矢じりもなければ矢羽もないし。箆――ああ、矢の棒の部分のことだけど、これだけ見たって、何かわかるわけない」
それに、と霊夢は不貞腐れた。
「破魔の矢は、打つ時に矢じりに霊力を込めて初めて機能するものだし」
「そう、なのですか? では新年に人間たちが買い漁る、あの破魔矢は一体……?」
「あんなの願担ぎも一緒よ。そうそう、棒に厄除けの札とか貼れば、即席の破魔矢が作れるけど」
願担ぎに金を払っているのか。愚かしい。
「ですが、紫様が金本理沙の父親に手渡した時は、札のようなものもついていなかったみたいですが」
「だから、私にもわかんないんだってば。矢を浄化することは出来ても、その効果を永続させる方法なんて私は知らないから。大体、霊力を注ぎ込むだけでずっと破魔の力が働くなら、たくさん作り置きしてるっての」
確かに、と藍は唸った。霊夢の言い分はもっともだ。もし紫の持っていたような矢が量産可能なら、巷で売られる破魔矢もただの願担ぎにはなるまい。
「では、紫様の持っていたこの矢は、どうして破魔の力が備わっていたのでしょうか。金本理沙の父親は、それこそ難なくゴーレムの身体を貫きましたが」
それがわかるのなら、ここまで不愉快な思いはしない、と暗に告げるように、霊夢がじろりと睨んでくる。厄介事を持ち込んだのはこちらなだけに、なんとも居心地が悪い。
「紫、他にヒントのようなこと言ってなかった?」
「ヒント……ですか。いえ、特には何も。貴方に破魔の念を込めてもらえば、また使えるとしか」
「その破魔の念とやらが何なのか、わからないことにはどうにもならないわ。祓いの霊力は、込めてからせいぜい一分程度しかもたないし。穢れた矢を浄化することはそんなに難しくないけどね」
霊夢が押し付けるように棒を返してくる。藍は渋々受け取った。
「今の説明を紫にもしてあげて頂戴。先代がどれだけ偉人だったか知らないけれど、私には無理だ、ってね。それに、今回のような事態になることはもうないだろうから、このまま蔵に飾っておけばいいじゃない」
話を打ち切ろうと、霊夢が縁側から腰を浮かせる。
だが藍としては、このまま霊夢を離すわけにはいかなかった。まだ目的が達せられていない。
「ちょっと待って下さい」と声を張って押しとどめる。
「何? まだ何かあるの?」
不機嫌さを前面に出してきたが、それでも霊夢は腰を下ろし直してくれた。少しばかりの安堵感が胸中に広がる。
「お聞きしたいのですが」藍は思考を最大限に回転させて切り出した。「破魔の矢であれば、簡単にゴーレムを射抜けるものなのでしょうか」
「は? どういうこと?」
この疑問は、紫の横で報復劇の一部始終を眺めていた時からあったものだ。
いくら悪霊や不浄なモノを祓う力が破魔の矢にあるとはいえ、土塊であるゴーレムを人間が、しかも力むことなくいとも容易く貫けるものなのか、と不思議に思っていたのだった。
「ゴーレムが霊的に穢れていれば可能だと思うわよ。破魔っていうのは名の通り、魔を破るものだから。肉体がどれだけ硬くても、霊側を滅するんだから関係ないよ」
「そういうものですか」
釈然としなかったが、その道の専門家が言うのだから間違いないのだろう。
しかしその意見を、霊夢は早々に翻した。
「あれ? でもあんた今、身体を貫いたって言ったわよね」
「ええ。こう、ずぶりと」
先端が尖っているわけでもない棒が易々と身体を突き抜けていく異様な光景は、数日経った今でも克明に思い出せる。
「変ね」
「と、言うと?」
「破魔矢には悪霊とかを祓う力はあっても、硬い物を貫通させる力なんてないわ」
霊夢は右手を拳に変え、そこに左手の人差し指をくっつけた。
「物体に憑依してる霊っていうのは、その物体そのものと同化してるから、穢れたものなら触れるだけでも浄化出来るの。こうやって一瞬でも対象物に当たりさえすれば、貫通なんてしなくてもね」
話の流れから、霊夢が何を訴えようとしているのか、すぐにぴんときた。
もしこの棒が本物の破魔の矢で祓いの力が備わっていたというなら、触れるだけでもゴーレムは滅せられたということだ。紫は金本理沙の父親に「後ろから心臓を狙って貫け」と命じたが、そんな必要は微塵もないのである。
それに、棒きれは所詮棒きれであり、破魔矢だからといって物理的な破壊力が向上するわけではない。つまりコピードールを貫いたこの破魔矢には、祓いの力だというだけでは説明がつかない何かの作用があるということだ。硬質な土塊の肉体を、それこそ粘土(紫は豆腐と言っていた)を刺し穿つような感覚にしてしまえる何かが。
「それこそが、先代の込めた念とやらに繋がるのかもしれないけど」
「可能性は高いですね。でなければ噛み合わない」
手にした破魔の矢に目を落とし、じっと見つめてみる。
先代の博麗巫女は、藍にも認識があった。幸薄き女だったが、聡明で巫女としての能力はかなりのものだった、と記憶している。
貴方はどんな手を使ったのだ――今は亡き先代巫女に問うてみる。
「にしても」
霊夢は溜め息をついた。「今回の事件には参ったわ。終わったと思ってのんびりしてたらコレだし」
霊夢は大袈裟に顔をしかめ、溜め息をついた。
「そう言えば、今回はあまり動いていませんでしたね。人間側のいざこざはあまり関わらないという方針なのは知っていますが、死人が出た場合は例外扱いになるのではなかったのですか?」
「その通りよ。でも今回は完璧に踊らされて終わったわ」
「踊らされた?」
紫に踊らされるのはいつものことだと思うが、はて、他にも振り回した者がいるのだろうか。
「アリスやルーミアにね。でも最悪なのは文よ」
「文……」
「こともあろうに、実りの少ない初動調査を私に割り振っただけじゃなく、騒ぎを大きくさせて自分は裏でコソコソ動いてたって言うんだから」
あれか、と藍は苦笑した。
「あんな回りくどいことしなくても良かったのにと私も思いますよ。自殺に見せかけて殺害するなんてこと、事件に便乗しなくても彼女には朝飯前だったでしょうから」
「その点もムカつくけど、一番ムカつくのは私を傀儡扱いしたことよ。文の術中に嵌っていることにも気付かずにはりきっちゃったのが悔しいわ!」
「天狗の頭の回転の速さも並外れてますからねぇ」
しみじみ言ってやると、霊夢はふぅーっと息を吐いて肩から力を抜いた。
「遊ばれたっていうのは許し難いけど、もう怒鳴る元気も湧いてこないわ」
「珍しいですね。報復しないなんて」
「まぁね。文には悪くない報酬もらったし」
「報酬、ですか」
「そうよ。あと被害者家族の儀式関係もうちでやってね、しばらくはほくほくなわけ」
なんて現金な性格なんだと呆れたが、これが現職の博麗巫女なのだった。そして紫はどういうわけか、この霊夢を先代の巫女よりも大事に想っている節が見受けられる。不可思議そのものだ。
博麗神社を辞去して住処に戻ってくると、藍は真っ直ぐ自分の書斎に向かった。
文机の上に棒と手袋を置くと、腰を下ろして脇息に前腕を乗せる。一度深く息を吸い込んで吐き出すと、沈んだ心で破魔の棒を取り上げた。
「……わからない」
見れば見るほどわからなくなってくる。
棒は確かに、矢に使われるものより若干太いが、だからどうしたというレベルだ。太さを除けば、それこそ何の変哲もない。本当に元が破魔の矢なのかと疑いたくなってくる。
だが藍は、しかと己の双眸で目撃した。このさえない棒きれが、土くれ人形一体の胸に風穴を空ける瞬間を。それも一切の抵抗を感じさせることなく。
……見た目に騙されるな、と言うことか?
ゴーレムも、外見だけでは見分けが付かなかった。誰もがゴーレムをアリスだと思い、普段通りに接していた。今回の事件は、見た目だけで判断するリスクを思い知らせてくれる一件だったではないか。
もしくは、もっと違う見方をしろということか?
破魔の力の有無に、それほど意味はないのかもしれない。霊夢の言う通り、祓いの効果があったところで矢は矢だ。岩をも砕く矢など、現実にありはしない。ゴーレムを打ち抜いたのは矢ではなかった――?
藍は弾けるように顔をあげた。
稲妻が神経という神経を駆け巡り、体中の筋肉を硬直させた。唾を飲み込むことさえ許されないほどの強力な縛りつけだった。
稲妻の呪縛は一瞬のことで、身体はすぐに自由になったはずだったが、なかなか動き出せなかった。空に目を彷徨わせ、惚けるだけで幾分かの時間が潰れた。
なんとか普段の自分を取り戻すと、まだ動きの鈍い頭をなんとか働かせ、たった今稲妻と共に降ってきたアイディアを検めてみる。
――棒は、やはり単なる棒きれだったのだ。
秘蔵の宝でも、破魔の力が宿っているわけでもない、子供がちゃんばらごっこにでも使うような、どこにでもあるありふれた棒。それがこの破魔の棒だ。
そんな単なる棒きれにでも、意味をくっつけてやれば、たちまち「立派な棒」へと生まれ変わる。ちょうどアリスの作ったゴーレムがそうだったように。
紫にとって、棒は何でも良かった。それこそ竹林に落ちている竹でも、役目を終えた枯れ枝でも。イメージとして「刺せる」形状をしていれば、それだけで。特に棒に意味はないのだから、何でも良かったはずだ。
大事なのは「信じ込ませる」こと。
先代巫女の遺した、霊験あらたかなる物品だと言われれば、言われた方は信じてしまう。
なぜか。箆なる棒だからだ。鏃も矢羽根もついていないが、だからこそ信じてしまう。
ゴーレムをアリスだと信じていた人々は、その外見に騙されたのだろう。本人とまったくの瓜二つで、見た目だけなら藍も相違点を見つけられないほどの精巧さだった。
だがこの棒は違う。矢とはほど遠い見た目で、説明されなければ何かもわからないような物だ。それなのに信じてしまえるのは、偏に想像力が働くからではないか。
紫の語りによって喚起させられた想像力が、ただの棒を破魔の棒にし、無敵の武器へと変化した――という推測は乱暴すぎるか?
そう、全ては紫の演技だった、と考えればいい。
この棒で一突きするだけで、憎き相手をこの世から消せる。この棒さえあれば、娘を奪った非情な犯人を罰することができる。そう聞かされた相手は、半信半疑ながらも挑戦する気になったろう。現状を打破できるのならと。紫はその背を押すためだけに、こんな棒きれをあたかも伝家の宝刀のように扱ったのだ。
その理由にはもう、大体の見当がついている。
まず間違いなく、ゴーレムの命を断ったのは紫だ。金本理沙の父親が棒を突き立てるタイミングを見計らって能力を遺憾なく発揮し、ゴーレムを死に至らしめた。あくまで彼に敵討ちをさせたと思い込ませて。その方が全体への影響が少なくていいとでも計算したのだ。加害者側より被害者側に手を下させた方が、遺恨なく済ませられる。あわよくば共感も得られよう。
事件は、ゴーレムが全ての罪を背負った形で終息したが、その筋書きを立てたのは他でもない紫だ。リグルの罪も、彼女が背負うことになった。
思い通りに事が運び、紫はほくそ笑んだに違いない。自分の手を汚すことなく犯人を断罪し、治安も正常化した。ただの棒きれ一本で。
――これだ、と思った。
私は今、真実の扉を押し開けている。確かな重量感と手応えを感じながら、ゆっくりと。
「いや、待て待て」
半ばほど開いた扉の前で、藍は両手を止めた。
棒きれは見せかけのものだとしても、この手袋は一級品だ。決して見た目だけではない。対魔に優れていて刃物でも切れない。これこそは正真正銘、蔵の中の宝であるはずだ。
棒に破魔の力がないとわかっていて、どうして手袋だけはきちんとしたものを用意したのだろうか。手袋も見せかけだけのを使えば良かっただろうに。
「んん?」
解けかかっていたはずの命題が一変し、蜃気楼のように朧気になる。かと思っていると、霧が立ち込めてきて姿すら見えなくなってしまった。
一体全体、何を狙って見せかけだけの棒と、真実宝であるはずの手袋を用意したのか。まさか、わざわざ茶番を披露したいがためではないと思うが……。
疑問はそれだけではない。
無意味だと知りながら、どうして紫は棒に力を充填してこいなどと言ったのか。霊夢に頼めば破魔の棒は元の力を取り戻せると話していたが、そんなはずがないと知っているはずなのに――どうして?
「いかん……」
真実の扉は、どうやら幻想に過ぎなかったらしい。少しは紫の頭脳に追いついたかなとも思ったが、突き詰めればそれも幻想だったようだ。これだけ思考を働かせたというのに、結局得られたのはもやもやとした気分だけ。そう思うと、とてつもない徒労感と虚無感に襲われた。
苛立ちから後ろ髪を掻き乱す。被っていた帽子が指に引っかかって脱げ、勢いよく宙に舞った。
幽玄なるマリオネット 後編 一覧
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「権力を盾に弱きをいじめ、強きを囲って悪事を働く、不届き千万な醜い豚。」このセリフ気に入った!
しんみりしちゃう事件でした。それに人里を中心とした話でサスペンスっ今まで見なかったので新しいなと思いました。