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こちら秘封探偵事務所第6章 風神録編   風神録編 第2話

所属カテゴリー: こちら秘封探偵事務所第6章 風神録編

公開日:2016年12月24日 / 最終更新日:2016年12月24日

風神録編 第2話


―4―


「影狼ちゃ〜ん!」
「ただいま、姫」
 川を下って引き返し、霧の湖まで辿り着くと、わかさぎ姫が足ヒレでばしゃばしゃと水を叩きながら手を振った。やっぱり下半身は魚であるらしい。影狼さんが駆け寄ると、わかさぎ姫は身を乗り出してそのままぎゅっとハグをする。仲が良さそうで何よりである。
「大丈夫でした? 怪我してません? 河童に尻子玉抜かれたりしてません?」
「平気平気、何ともないから。姫は心配性ね」
「だってぇ〜……」
「よしよし」
 胸に顔をうずめるわかさぎ姫の髪を、影狼さんは慈しむように優しく撫でる。微笑ましい光景であると同時に、我が相棒の無鉄砲がかけた迷惑に関して申し訳なさを覚えるところであるが、当の蓮子本人はどこ吹く風といった様子で帽子の庇を弄っていた。
 全く、この相棒は。少し肝を冷やさせてやるべきか。私はひとつ息を吐いて、蓮子の背後へと視線を向ける。――境界を視る私の目は、一見何もないその空間に生じた、歪な境界を浮かび上がらせていた。蓮子も影狼さんも気付いていないし、私も気付かないふりをしていたら、その怪しい境界はこんなところまでついてきたのである。
「――で、蓮子の背後にずっとついてきているのは、どこのどなたなのかしら?」
「へ?」
「ひゅい!?」
 私の言葉に対して、蓮子が声をあげて振り向くのと、怪しい境界の主が素っ頓狂な声をあげて尻餅をつくのが同時だった。その瞬間、はらりと何かが剥がれ落ちるように、その空間に境界の主の姿が忽然と現れた。――いつぞやの、小柄な河童の少女だった。
「おおっ!?」
「ああっ、光学迷彩スーツが!」
 蓮子がのけぞり、河童の少女――河城にとりさんは、慌てた様子で周囲の景色に溶け込む何かを拾い上げて、またそれにすっぽりと身を隠した。その姿が一瞬でかき消える。――が、生憎だが私の目にはバレバレである。彼女が被った何かと、周囲の光景との境界が、私には見えているのだ。
「見えてるんだけど」
「ひゅいぃ!? な、なんで? おっかしいなあ……」
 私が視線で追っていることに気付いたか、にとりさんは降参したようにその場に姿を現した。蓮子が目を丸くし、「あらら、これはこれは、どういうこと?」とにとりさんに歩み寄る。にとりさんは何か布のようなものを抱きしめて、「や、やらせはせん、やらせはせんぞー!」と蓮子を威嚇するように唸った。
「河城にとりちゃんよね? お久しぶり」
「ひ、ひい、伊吹様のご友人様ぁ」
「そんなに怖がらないでよ。別に萃香ちゃんは呼ばないから。それより、光学迷彩スーツって言ってたわよね? この時代に幻想郷で光学迷彩なんて実現しているの? ねえ、見せてくれないかしら?」
「だ、だめ! これは部外秘! 河童のトップシークレット! それよりなんで解ったの? 光学迷彩はちゃんと機能してたはずなのにぃ」
「メリー、見えたの?」
「まあね」
「うおお、まだ改良の余地ありかあ……光学迷彩の道は険しい」
「メリーの目は特殊だから、あんまり気にしなくていいと思うけどねえ」
 蓮子にだけは言われたくない。私は肩を竦める。
「あら〜、河童さん、こんにちは〜」
 と、馴染みなのかわかさぎ姫が手を振る。にとりさんはそちらを見やって目を細め、
「ああ、湖のお姫さん……ってか、げげ、ここ人間密度高すぎない!?」
 思い切りのけぞる。「今頃気付いたの?」と蓮子が帽子の庇を持ち上げ、「私、人間としてカウントされてるの?」と影狼さんが目をしばたたかせ、「私と影狼ちゃんと合わせて一人分ぐらいじゃないですか〜?」とわかさぎ姫が首を傾げる。
「というかにとりちゃん、なんで私たちのこと追いかけてきたの?」
「い、いやあ、盟友が妖怪の山に入ってきて、椛と何か話してたから、何事かと思って……人間の里に何かあったのかと、ちょーっと斥候といいますか、偵察といいますか、情報収集?」
「里は問題ないわよ。私たちは単に、山の上で起こっている騒ぎに興味があって来たの」
「ええ? あの新参者の神様たち?」
「あら、にとりちゃん知ってるの?」
「い、いやあ……遠目に見ただけ、ってか人間近い近い!」
 蓮子が身を乗り出すと、にとりさんは「ひゅいぃ」と悲鳴をあげて蓮子から離れる。だからどうしてこの河童の少女はこう人間を怖がるのだろう。
「いやいや、怖がらないでってば。どんな神様だかご存じ?」
「ど、どんな神様って……なんか、突然やって来て、山の妖怪から信仰を集めようとしてるらしいんだけど……それ以上はよく知らないよ」
「遠目に見たんでしょ? どんな姿の神様だったの?」
「え、えーと……なんかでっかい注連縄を背中につけてた。あと、そばに人間がいた」
「人間? 巫女さんかしらね」
「あー、うん、たぶんそんな感じの……と、とりあえず、人間の里が何事もないなら私は帰るよ! さらば盟友! 次は完璧な光学迷彩を見せてやるー!」
 そう言い残し、にとりさんは脱兎の如く山へ向かって走って行ってしまった。完璧な光学迷彩は見えないのではないか、というツッコミを入れる暇さえない。
 それを見送っていると、影狼さんが蓮子を見やって目を細めた。
「……で、蓮子さんたちは博麗神社に行くの?」
「ええ、そのつもりよ。ああ、その道のりは私たちだけで大丈夫だから、ご心配なく」
「あんまり不用心に里の外を出歩かない方がいいと思うけど。慧音さんに怒られるわよ」
「慣れてますわ。影狼ちゃん、わざわざ私たちの護衛、ありがとう。助かったわ」
 不意に蓮子が影狼さんの手を掴み、その顔を覗きこんで猫のように笑った。影狼さんの顔がかーっと赤くなり、「べ、別に……私が勝手についていっただけだし……」と視線を逸らしてもごもごと呟く。――その背後で、わかさぎ姫がなんだか怖い顔をしているので、相棒の人たらし(妖怪たらし?)もほどほどにしてほしいと私としては思う。
「それじゃ、私たちはこれで。メリー、行きましょ」
「あ、うん。おふたりとも、お世話になりました」
 頭を下げて、私は慌てて蓮子の後を追う。背後でわかさぎ姫が「影狼ちゃ〜ん」とむくれたような声をあげ、「ひ、姫? どうしたの?」と影狼さんが困ったような声をあげている。ああ、相棒の無邪気さが幻想郷にひとつの修羅場を……。
「ねえ蓮子」
「うん? なにメリー」
「……いや、何でもないわ」
 私はため息をついて首を横に振る。相棒はよく解っていない顔で首を傾げた。――相手の懐にするりと入り込んで、この幻想郷でも人妖隔てなく知己になってしまうこの相棒の特技に関しては、羨ましいとも思うし、いつかの妹紅さんのように、それが良い方向に作用することもあるのだろうけれども。
 ――私自身がかつてそうやって、この相棒に籠絡された身であるからしては。
 蓮子が私にそうしたように、この幻想郷で友人を増やしていく様を見るのは、ちょっと心のどこかに引っ掛かるものを覚えるのだけれども――それを追及するととんでもない爆弾を掘り返してしまいそうなので、私はそれ以上考えないことにした。





―5―


 人間の里を北から出た先にある霧の湖から、里の東側から出た先にある博麗神社を目指すには、一度南下して里へ戻り、中心部から改めて東へと足を向けるルートが一番安全である。しかしいつぞやの花の異変のときも思ったが、里の中心を直角として三角形の二辺を通るこのルート、歩いて行くと結構な距離だけに、安全な直線ルートが開拓されてくれないものかと思わないでもない。誰が利用するのだ、と言われると答えに窮するが。
 里に戻る途中でお昼になってしまったので、川べりで休憩がてらにお弁当を食べ、またえっちらおっちら歩き出す。里を通り抜けて東の門から野道を辿っていくと、やがて博麗神社へと通じる石段が見えて来た。博麗神社の鳥居と石段は博麗大結界の外に向いているらしいのだが、里を出て東にまっすぐ行くと石段と鳥居が見えてくるので、おそらく博麗大結界のために私たちの認識が狂わされているのだろう。大結界は強力で大きすぎるため、私の目にもどこからが結界なのか全く判然としないのだ。
 ともかく、疲れた足に鞭打って石段を上っていく。私よりだいぶ先を軽やかに駆け上がる相棒は、「もうメリーったら、体力ないんだから」と頭上からそう声をかけてきた。これでも幻想郷生活で、大学時代より体力はついたつもりなのだが。
「ほら」
 と、蓮子が私に手を差し伸べる。その手を掴んで、私たちは石段を上りきり、鳥居をくぐった。昨日も聞き込みで来たけれど、博麗神社の境内は相変わらず閑散として、参拝客の姿もない。霊夢さんの主要な収入源はお賽銭だと聞いたことがあるが、どうしてこんな参拝客が少なくて生活が成り立つのだろう。そんなに貧乏しているという話も聞かないのは、幻想郷の不思議のひとつである。
「山からの来訪者は裏かしらね」
「蓮子、お賽銭入れて行った方がいいんじゃないの? 霊夢さんの好感度的に」
「それもそうねえ。御利益というより霊夢ちゃんに対する取材費かしら」
 というわけで賽銭箱に小銭を投げ入れ、二礼二拍一礼――しようとしたところで、賽銭箱の後ろから「おおん?」と特徴的なツノが姿を現した。伊吹萃香さんだ。賽銭箱の裏で寝ていたらしい。なんでそんなところにいるのだろう。
「なんだ、蓮子とメリーじゃん。霊夢なら今は突っつかない方がいいよ? 機嫌悪いから」
「あら、萃香ちゃん、どういうこと?」
「なんか、さっき山の方から妙な人間が来てねえ。私ゃ霧になって隠れてたんだけど、なんかこの神社の神様がどうのこうのって難癖みたいなことつけてたんだよ」
「あらら。私たちはどっちかっていうとその妙な人間の方に興味があって来たんだけど」
「うん? お前さんたちの知り合いかい?」
「いやあ、単に噂を聞いてきた野次馬ですわ。妖怪の山の上の方に新参者の神様が来たらしいんだけど、萃香ちゃんは何か聞いてない?」
「山? 天狗が嫌がるから山には帰ってないよ。霧になって行くのも面倒だしねえ。――しかし、新参者の神様? ほーん」
 萃香さんは胡乱げな顔をして、盃に注いだ酒をぐびりと飲み干す。
「山の元住人としては、やっぱり気になるのかしら?」
「いやあ、別に山がどうなろうと今の私にゃ関係ないけどねえ。それより、さっきの人間はその新参者の神様とやらの手先かね。博麗神社を乗っ取りに来たのかな。ここを乗っ取っても大した意味はなさそうだけどねえ」
「どういう意味よ」
「あ痛っ」
 どこからか陰陽玉が飛んできて、萃香さんの後頭部に命中した。私たちが振り向くと、むすっと口を尖らせた霊夢さんが立っている。霊夢さんはじろりと私たちを睨んで、「あんたたち、今日もまた来たの? 今度は何の用よ」と眉を寄せる。
「いやあ、博麗神社に怪しい影が襲来したと聞いて」
「どこから聞いてきたのよ。天狗か紫並みの地獄耳ね」
「平々凡々な人間よ。襲撃者はどちら?」
「とっくに帰ったわよ。全く、なんでうちの神社が営業停止命令なんか受けなきゃいけないのよ、それも突然見知らぬ巫女に」
「営業停止命令?」
 私たちは顔を見合わせる。神社に営業停止命令とは聞いたことのない話だし、だいいちこの博麗神社はそもそも営業していたのか。
「怪しいわね。何があったのか聞かせてくれない?」
「何って……さっき、私とはちょっと違う恰好した巫女の人間がやって来てね」

 ――霊夢さんの話によると、以下のようなやりとりがあったらしい。
『ここが人間の信仰を集めている神社ですか。そのわりには寂れてますね』
『だしぬけに失礼な奴ね。っていうかあんた誰?』
『山におわす神の使いの者です』
『山の神? 妖怪の山に神様なんていたかなあ』
『新たにこの幻想郷にやって来たのです。人間の信仰を集めているのはこの神社だと聞いてきたんですけど……ここはどんな神様を祀っているんですか?』
『え? うちの神様? 何だっけ……まあ別に、なんでもいいじゃない、そんなの』
『巫女ともあろう者がどういう態度ですか! なるほど、そんなやる気のない巫女だから、こんなに寂れているんですね。これでは祀られた神様も浮かばれません』
『何よあんた、喧嘩売りに来たの? 買うわよ』
『きちんと神様を祀り、信仰を集める気がないのなら、神社なんてやめてしまえばいいのです。きちんと神様を祀る気がない神社には業務怠慢で営業停止命令を出すしかありません』
『は?』
『あるいは、山におわす神様にこの神社を譲ると良いでしょう。そうすればこの寂れた神社も霊験あらたかとなり、御利益が増え、信仰が集まり、参拝客は引きもきらず、たくさんの賽銭が投げ込まれ、人々の心の拠り所となり、そして新たな神様の力によって人里はいっそう栄えることでしょう』
『ちょっと、黙って聞いてれば何勝手なことを――』
『もちろん今すぐにとは言いません。ですが、そちらにやる気がないようでしたら、いずれこの博麗神社は私たちに明け渡していただきます。ここはうちの分社となり、人間の信仰の拠点となるでしょう。もちろん、あなたのことも悪いようにはしません。祀られる神様が入れ替わるだけで、貴方は今まで通り巫女を続ければいいのです。そうすれば参拝客が増え、信仰が集まり、Win-Winの関係が成立するわけです』
『……参拝客が増える?』
『ええ! 人里からこの神社まで行列ができるでしょう!』
『…………』
『悪い話ではないでしょう? 今日はまずご挨拶まで、というところですが、是非考えておいてください。近いうちにお返事を伺いに参上しますので。――では』

「……というわけなんだけど」
「霊夢ちゃん、なんでそこまで好き放題言われて黙って帰したの?」
「私を何だと思ってるのよ。気にくわない奴は問答無用でぶちのめす極悪人みたいに言うな」
 違ったのだろうか、と思ったが、私は口に出さないでおくことにした。
「そりゃ、カチンときたけど。よくよく考えてみたら、神様が入れ替わるだけならそんなに悪い話でもない気もするのよね」
「単に参拝客が増えるって言葉に釣られただけじゃん」
「うっさい」
 茶々を入れる萃香さんに、霊夢さんはまた陰陽玉を投げつける。蓮子は肩を竦めた。
「でもそれ、私も胡散臭い話だと思うわよ、霊夢ちゃん」
「ん? そう?」
「新しい神様が、既存の神社の神様を追い出して居座ろうとするなんてねえ。神社の祭神は増えることはあっても、まるっきり入れ替わることはまず無いはずじゃない? その神様、何か悪巧みしてるんじゃないかしら。異変を起こそうとしてるとか」
「むう。私の勘だとそんな感じはしないんだけど……でも、確かに胡散臭いわねえ」
 腕を組み、霊夢さんは首を捻って唸った。神社の参拝客が少ないことは、やはり霊夢さんなりに気にしているのだろう。参拝客が増える、という宣伝文句は強力らしい。
「注意した方がいいと思うわよ。――ところで、その巫女さん、なんてお名前だったの?」
「名前? そういえば聞かなかったわね」
 結局、新参者の神様と巫女さんとやらは、正体不明のままのようである。

 博麗神社にいてもこれ以上の収穫はなさそうだったので、辞去して里に戻ることにした。
「結局、肝心なところは解らないままだったわね」
「何言ってるのメリー。山で何が起こっているかも解ったし、その騒動の主が何をしようとしているかもだいたい解ったじゃない。充分な成果よ」
「外の世界から山に現れた神様が、博麗神社を乗っ取って、里の信仰を集めようとしてるわけよね。宗教的侵略? それとも外の世界からの遷宮と見なすべきなのかしら。ところで、どこの神様がやってきたのかしら?」
「さてねえ。外の世界で忘れられた神様なのか、あるいはもっと有名どころか……何にしても、次はその山の神様を参拝する方法を考えましょう」
 そんなことを喋りながら石段を下りていく。――と。
「それなら、ご案内しましょうか?」
 ――突然、私たちの頭上から、聞き慣れない声が降ってきた。
 石段を下りきろうとしていた私たちは、顔を見合わせて振り返る。――石段の半ばに、見知らぬ少女が立っていた。翠がかった長い髪に、蛇と蛙の髪飾りをつけ、青い巫女装束を身に纏っている。なぜか腋を晒しているのは霊夢さんと同じだ。
「こんにちは、初めまして」
 軽い足取りで石段を下りてきた少女は、にこやかに私たちに笑いかける。
「里の方ですよね? 守矢神社の参拝をお望みでしたら、山までご案内しましょう。ついでに、うちの神社の宣伝を里でしていただけると、大変ありがたいです」
「――貴方が、山の神様の巫女さん?」
 蓮子の問いに、「厳密には巫女ではありませんけど、まあ、似たようなものですね」と、その少女は笑顔のまま、ぺこりと頭を下げた。
「申し遅れました。東風谷早苗です。――守矢神社の風祝をしています」





―6―


「かぜほうり?」
「風を司る神様を祀る、神職です。巫女だと思っていただいて構いませんよ」
 聞き慣れない単語を聞き返した私に、少女――早苗さんは苦笑してそう答えた。それから彼女は、私たちを交互に見比べて、ひとつ小首を傾げる。
「前に見た里の住民の方とは、ちょっと雰囲気が違いますね。人間ですよね?」
「非凡な里の人間ですわ。宇佐見蓮子と申します」
「……マエリベリー・ハーンです。メリーと呼んでください」
「蓮子さんにメリーさんですか。私のことは早苗でいいですよ。――ところで」
 早苗さんは、不意に身を乗り出して、蓮子をしげしげと頭から爪先まで眺める。その目が楽しげに輝き、「ハードボイルド!」と声をあげた。
「トレンチコートに中折れ帽なんて、ひょっとして女探偵さんですか?」
「おや、ご明察。里で探偵事務所を営んでいる名探偵ですわ」
「探偵事務所! うわあ、ハードボイルドって実在したんですね! 幻想郷すごい!」
 ドヤ顔で帽子の庇を持ち上げた蓮子の手を掴んで、早苗さんはぴょんぴょんと飛び跳ねる。なんでそんなにテンションが高いのだ。
「やっぱりレイモンド・チャンドラーなんですか?」
「いやあ、どっちかというとV・I・ウォーショースキーとか葉村晶の方が好みかしら」
「ウォーショ……?」
「サラ・パレツキー、ご存じない? 若竹七海は?」
「あーいや、別に詳しいわけじゃないので……」
 だろうと思った。横で聞いていた私は息を吐く。私立探偵=ハードボイルド=チャンドラーというのは、名探偵=インバネスコートにパイプに虫眼鏡というぐらい類型的な反応であるからして。――というか。
「あ、松田優作なら解るんですけど」
「『探偵物語』? それはまた随分古い……メリー、あれ確か一九八〇年代じゃなかった?」
「そんなこと言われても知らないわよ。ハードボイルドはあんまり趣味じゃないし。だいたいサラ・パレツキーだって若竹七海だって古いでしょ」
「いやでも今ならどっちも確か現役のはずだし」
 まあ、若竹七海の葉村晶シリーズは私も好きだけれど……じゃない。
「……あれ?」
 早苗さんも、きょとんとした顔で私たちのことを見渡した。
「おふたりとも、なんでそんな外の世界のことをご存じなんですか? 幻想郷って閉ざされた世界だったはずじゃ……?」
「ああ、それは――貴方と同じような立場だから、だけど」
 蓮子がそう答えると、早苗さんは目をしばたたかせて、「え、じゃあ貴方たちも――」と口元に手を当てる。
「外の世界から?」
「この世界に来たのはだいぶ前ですけどね」
「ははあ! 先輩でしたか! ここに来たの何年前です? その後の外の世界のこと、教えて差し上げますよ」
 早苗さんの言葉に、私たちは顔を見合わせる。――何年前も、私たちの知る外の世界は八〇年ほど未来のことなので、むしろそれは私たちが彼女に教える立場だと思うが。
「……どうするの? 蓮子」
 私は小声で蓮子に耳打ちする。蓮子は困った顔で首を傾げた。
「そうねえ。……私たちが未来人だってことは、伏せておきましょ」
 蓮子も小声でそう返し、早苗さんに向き直ると、「いやいや、それより」と猫のような笑みを浮かべて、早苗さんの手を取った。
「それよりも、私たちは貴方たちのことを知りたいですわ、早苗さん」
 蓮子が早苗さんの顔を覗きこむようにしてそう言うと、早苗さんはちょっと恥ずかしそうに身をのけぞらせる。蓮子が手を離すと、早苗さんは握られた手をさするようにしながら、「そ、そうですね!」とひとつ咳払い。
「それなら、やっぱりまずはうちの神社にご案内します! あ、飛べます?」
「いえいえ、残念ながらその点は平凡な人間でして」
「じゃあ……私に掴まってください」
 早苗さんが私たちに手を差し伸べる。私は蓮子と顔を見合わせて、その手を取った。
「それじゃあ、いきますよ」
 早苗さんが私たちの手を握りしめ、そして目を伏せる。
 ――次の瞬間、強く風が吹き始め、周囲の木々がざわめきだした。ざざざ、ざざざ、と風の音が耳朶をうつ。私も蓮子も空いた手で帽子を押さえ、目を細めた。
 そして、その風に乗るように、私たちの身体はふわりと浮き上がる。――霊夢さんと一緒に飛んだことはもう何回もあるけど、何度体験しても、自分の身体が重力から解き放たれるこの感覚は、なかなか慣れない。
「手を離さないでくださいね。――二名様、守矢神社までご案内します!」
 早苗さんの足元に五芒星が煌めき、それを蹴って早苗さんは私たちの手を掴んだまま中空へと飛び立った。風が私たちを後押しするように強く吹き、その風に乗って私たちはあっという間に空高くまで舞いあがっていく。
 早苗さんの翠がかった髪が、風になびいて、海のように波打った。その横顔を見ながら、私はふっと気付く。――外来人である早苗さんが、当たり前に空を飛んでいる事実に。
 そうだ。彼女が外来人であるならば、なぜ霊夢さんのように飛べるのだ?
 二一世紀の外の世界に、空を飛べる人間はいないはずなのに――。
 いや、だからこそ彼女は、この幻想郷にやってくることになったのだろうか?

 ――東風谷早苗。風を吹かせる青い巫女。
 いったい、彼女は何者なのだろう?


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この小説へのコメント

  1. 姫と影狼のやりとりにニヤニヤが止まりませんでした。
    秘封と早苗の対話がどんな感じになるかが楽しみです。想像しながら来週の更新を心待ちにしてます。

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