東方二次小説

聖白蓮さん、あなたに仏のお恵みを白蓮さん 前編   白蓮さん前編 第2話

所属カテゴリー: 聖白蓮さん、あなたに仏のお恵みを白蓮さん 前編

公開日:2015年10月22日 / 最終更新日:2015年10月22日

 土蜘蛛の言うとおり、少しすると大きな縦穴が姿を現した。風の流れる音がひゅうひゅうからごうごうに変わり、少しすると妙な気配が漂い始めた。土蜘蛛と気質の似た、しかし肉体的というよりは精神的な湿り気を覚える。
「良くない、感じですね」
「ええ……」聖に同意しようとした刹那、下のほうから突如として刺々しい気配が膨らみ、緑色の弾幕が蛇のように連なりながら高速で向かってきた。水蜜もすぐにアンカーを構え、緑色の怪物に投擲する。鋭く互いを相殺しあったのち、緑色の光だけが残り、再びこちらに向かってきた。
「一撃では消しきれない?」
 ならばいくらでも、消えるまでぶつけるだけだ。水蜜はアンカーを素早く引き戻し、力を充填し(じゅうてん)て再度、緑色の怪物に放つ。すると今度は両方の力が破砕され、棘を帯びた気配が穴の奥に消えていった。
「聖、大丈夫ですか?」
「ええ、村紗のお陰ね。それにしても……」聖は少し考え込んでから、自信なさげに言った。「少しだけ姿が見えたけれど、金の髪に緑の眼の少女だったわ。見た目は鬼の特徴を帯びていたけれど……」
 どこか歯切れ悪く言葉を切ると、しかし次には穴の奥をじっと見据えていた。
「とまれ、退いてくれたなら良いでしょう。目的は彼女ではないのだから」
 聖は攻撃を仕掛けてきた主に何かしら思うところがあるようだった。水蜜の用事は特に目的もなく軽いものであり、先送りにしても構わないものであったから、譲っても良かった。
「わたしのことなら気になさらずに」
「いえ、気にします。これは村紗の探索行であり、わたしのものではないのだから」
 聖はそう言い切ると、先ほどまでの憂いを投げ捨て、探検を楽しむ朗らかな笑みを見せた。
「では、行きましょう。どうやら彼女が言っていた鬼は道を譲ってくれたようですし。このまま先を進みましょう」
 水蜜はしばし逡巡し、小さく頷いた。聖のことは気になったけれど、あの黒き聖なる翼に会いたいという気持ちも同じくらいに強かったからだ。
 
 縦穴はどこまでもごうごうと続き、もしかすると果てがないのではないかと思い始めた頃だった。先程現れた鬼らしき人物が闇の奥からするりと姿を現し、すると聖や水蜜の周りに弾幕の花がぱっと咲いた。彼女はどうやらわたしたちの様子を窺っていたらしい。気の抜ける一瞬を狙い、再度攻撃を仕掛けてきたに違いなかった。
「見慣れない顔の方たち、この地底にいかなる用向きで?」
「おそらくは旧地獄です」
 聖はこの状況にも大して動じることなく、朗々と声をあげた。
「あなたは地底の番人か何かですか?」
「そのように七面倒くさいこと、引き受けたりしませんわ。ただ一つだけ気になるのよ」そう言って金髪の少女は麗しい顔を途端に激しい棘で満たした。「貴女、随分と殺し慣れてるわね。隠さなくても良いのよ、そういうのって顔や臭いに出てくるから」
「お気に召さないのでしたら、謝ります。しかしわたしはこの先に用事があるのです。どうか過去の遺恨を収めるようお願いできないでしょうか?」
「殊勝な言葉遣いをすれば、どうにかなると思うの? しかも妙な幽霊まで連れてきて。どういうつもりなのかしら」
「彼女は共連れです。わたしを通さないというのであれば、せめて彼女だけでも先に進ませてはくれないでしょうか」
 彼女は返事の代わりに聖へ向かって何かを撒く仕草をし、花状の弾幕が一気に咲き乱れる。同時に棘を含む蔦のような弾幕が一条、聖に向かっていく。水蜜はアンカーを取り出し、蔦を一気に薙ぎ払った。
「聖に何をするのですか!」
「そうやってわたしを気遣っているように見せて! そういう奴ほどわたしを陰で嘲り笑い、裏切るのよ。ああ胸が悪い、お前のような人間がわたしは一番嫌いなのよ!」
「それ以上、言わせ放題にすると思ってるの?」
 水蜜は一等気合いを入れてアンカーを振り回し、金髪の少女が咲かせた花を力押しで刈り取っていく。先程の緑色をした蛇のような弾幕と違い、花の耐久力はそこまで高くないらしい。
「ほら、あなたが咲かせるよりも早く刈り取ってやるわ」
 ごうんごうんとアンカーが唸り、すると威勢の良かった少女はゆらりと体を揺らしながら後退した。後を追って縦穴を降りることしばし、どこか茫洋とした様子の相手がふらりと立ち止まった。好機とばかりにアンカーを振るったが、次の瞬間に吹き飛ばされていたのは水蜜のほうであった。少女の身体がぱちんと弾け、その中から大量の弾幕が一気に飛び出してきたからだ。
 岩肌に身体をぶつけ、水蜜は全身に痛みを覚えながらゆっくりと身体を浮かせた。幽霊だから物理ダメージはあまりないけれど、恨み辛みのたっぷりとこもった攻撃は霊体にとって堪えるものがあった。
 そして相手はこちらの空白を見逃すほど甘くなかった。この身を岩肌に打ちつけるかのような、怨念のこもった棘弾を四方八方から打ち込んできたのだ。
「さあ、聖者のように磔(はりつけ)になりなさい」
 かつんかつんと発射音のする弾幕を水蜜はすんでのところでかわす。しかし相手の攻撃は多くひっきりなしで、不意打ちを食らった水蜜にはかわしきれそうになかった。
 また、かわす気などまるでなかった。
「この、お前だって十分性格悪い癖に!」
 聖者を磔にすると言われたのが癇に障ったと自覚はあっても怒りは止められなかった。水蜜は新しくスペルを起こすと、相手の弾幕を押し流すだけのアンカーを一気に投擲した。それらは相手の放つ弾幕を一気に消し飛ばし、本体にも当たったのか遠くのほうでうめくような声が聞こえた。気配の遠ざかる感じからして再び撤退するようだったが、水蜜は相手にとって地の利の良いこの場所で長々と戦うことを良しとしなかった。だから相手の怯んだ隙に追い詰めるべきだと思い、船幽霊の能力を使って一気に忍び寄る。
 相手の驚いた顔が目に映り、水蜜は勝利を確信して柄杓(ひしゃく)を振りかぶる。アンカーほどではないけれど、これで殴るのも相手を気絶させるくらいには十分に効くはずだ。
「これで、おしまいよ」
 高い音が響きわたるはずだった攻撃はしかし、奇妙な手応えとともに弾けて消えた。しまったと思ったときには再びあらぬ方向に弾き飛ばされ、聖に辛うじて身を受け止められた。
「大丈夫ですか?」聖は心配するような視線を水蜜に送る。「どうやら相手に攻撃の意志はないようです。これ以上、追わなくても良いでしょう」
 あの好戦的な態度と執拗(しつよう)さを見るに、水蜜には信じがたかったけれど、聖が制止するならそれをおして後を追うだけの考えもなく。水蜜は不承不承、頷いてみせた。
「あれは一体、何だったのでしょう」
「彼女は否定していましたが、おそらくわたしたちを退っ引きならない不審者と見て追い返そうとしたのでしょう。鬼は地底を管理するその一端を担っているそうですから、彼女は役目を果たそうとしたのかもしれません」
 聖の言葉は的を得ているように聞こえたけれど、しかしどこか腑に落ちないようでもあった。
「他に何か気になることでも?」
「いえ。鬼とは本当にあのような……いえ、詮無きことですね。今は先を目指しましょう」
 水蜜は小さく頷き、聖の腕からひょいと抜け出し、大きく息をついた。途中まではうまくいったのに、最後は聖に助けられたのが何とも不甲斐ないと思ったからだ。
 
 その後は何の妨害もなく縦穴を降りきり、すると眼前には整然と街路や家屋が行き交い、薄ぼんやりと灯籠(とうろう)や提灯の光が灯る、幻惑的な町並みが姿を現していた。これが土蜘蛛のいう旧都なのだろうと考えながら聖を窺うと、いかにも懐かしげに息をついた。
「わたしはこの光景を日の下で見たことがあります。このようなものまであるとは、幻想郷とはよく言ったものです」
 聖は町並みを目に灼きつけるよう、ぐるりと見渡してから大きく頷いた。
「この先に目的地である旧地獄があるのかしら」
「そうですね。案内してくれるものはいないのでしょうか?」
「ここは少し前まで交流の途絶した場所であったと聞きます。でも、そうですね。親切者というのはどこにでもいるものです」
 聖の考えは相変わらず楽天的であったが少なくとも水蜜にはまるであてがなかった。俄に戸惑いながら旧い都の先を見据えていると、その声はまるで気配のなかったところから急に現れた。
「おや、旧地獄への道案内をお探しかい?」
 水蜜が慌てて振り向くと、額にあかがね色の角を生やした黄金の髪の女性が、岩のように風のように立っていた。紛うことなき鬼の居姿であり、次いで土蜘蛛の警告が今更のように脳裏を過ぎった。
『力比べ好きの鬼に気をつけるように』
 後悔先に立たずとは正にこのことだ。眼前に立つ一本角の気迫やそうそうたるもので、これ以外のものを鬼と計ったことが迂闊に感じられるほどだった。
「そうでした。鬼とはかくも雄々しく、構えるだけで力。どうやらわたしはまだ、錆を落とし切れてないようですね」
 聖は表情を明らかに厳しくし、眼前の一本角と対峙する。しかしてその相手はと言えば片手に大杯を持ち、ぐいぐいと煽り、酒臭い息を辺りに振りまき、全くの満悦顔であった。
「おや、わたしのことを一目で鬼と見抜いたね。のみならず初っ端から何ともなお褒めの言葉と来たものだ。ふむふむ、なるほど」
 一本角の鬼はからからと笑い、更に酒をもう一あおりしてから豪快にげっぷをした。からかうような所作といい、まるでこちらを、特に聖のことを挑発しているように思えた。
「ときに幽霊を引き連れた生臭坊主が、こちらに何の用かね? 見慣れない顔だが、危険な妖怪がぞろぞろいると聞いて、功名心に駆られたかい?」
「無礼な!」あまりの言い方に、水蜜はつい声を荒げてしまう。相手の術中にはまっていると分かったけれど、それでも言葉を止められなかった。「わたしを悪く言うのは構いませんが、聖に斯様(かよう)な口の聞き方、許されるものではありませんよ」
「ほう、ではどうする?」
 一本角の鬼はまたぞろ挑発するように酒をあおった。錨の一つ二つ打ち込んでやろうと思ったけれど、聖の制止する手の方が少しだけ早かった。
「すいませんが、道を急いでおります。遺漏(いろう)なきようならば、ここは通して頂きたいのですが」
「別に通れば良いんじゃないかな。まあ、わたしに背を向けてどのような結果になっても、残念ながら保証はしてやれない」
「随分と狡(ずる)い言い方をするんですね」
 鬼らしくないと言外に滲ませれば、一本角の鬼は何ら悪びれることなく返してみせた。
「生臭さをぷんぷんさせている坊主に清廉である必要はないね」
 聖は寂しそうに目を伏せ、一本角の鬼に気遣う素振りを見せた。
「このような所に追いやられた禍根は捨て切れないと?」
 すると一本角の鬼はわざとらしくからからと笑ってみせた。
「勘違いしないで欲しいね。鬼たちはそのようなことをいつまでも気にしちゃいないし、ここはここでそれなりに居心地も良い。敢えて人間どもに敵対する理由は失われてしまったのさ」
「では……どうしてこのような妨害を?」
「単純に気に入らないのさ。散々殺してきた臭いをぷんぷんさせている癖に、さも自分は正しいといった顔をしているのが。前にそういう顔をしてきた奴はね、わたしの大事な友人に毒の酒を飲ませて首を切り落とし、功名心のために持ち帰ったのさ」
 鬼は聖に対して言外に、お前も同じなのだと詰っていた。酷い言いがかりであり、聖はそのことに対して真っ向から抗議して良いはずだった。しかし聖はただうなだれるだけであった。
「そうですね、わたしの死臭はいかんとも拭い難いですし、数多くの過ちを見逃しました。鬼が不当に迫害されていることは知っていましたが、かつてのわたしにはそこまで力が及びませんでした。それを罪と言うのならば、いくらでも謗れば良いでしょう」
 聖はしかしと言いたげに息を吸い、それからきっぱりと顔を上げて鬼と対峙した。
「だからといって顔を伏せているばかりでは、何にもなりません。多くの過ちを犯したものなればこそ、そうならぬものになりたいのです。貴女が過去の罪によって今を否定するならば、わたしは厳として拒みます。また、それを強いるのは卑怯であると知りなさい」
 活を込めてそう言い切ると、これまでにやにや顔だった鬼の居住まいが、ぴしりと正された。
「ふむり、どうやらあんたさんはただの生臭坊主とは違うみたいだね。生臭いけれど、一本筋が通っているし、浮き世離れした坊主にありがちの隔世感も、欲に毒された坊主の青黒さもない。全うに徳の高い僧侶のように見える。少しばかり変わった法力を行使するようだが」
「魔法です。仏の教えを受けるものの力としては少し、いやまるで外れてしまいましたが」
「魔法使いの僧侶、か。なるほど、それ故の賢者なんだね」
「わたしは自分を賢いものと考えたことはありませんが」
「さもありなん」鬼はそう言って頷くと、先ほどまでのからかいとは異なる不敵を表情に示した。「わたしは星熊の鬼の一人で勇儀という名を戴いている。貴女は?」
「白蓮です」聖は名前だけを簡潔に名乗った。それ以上の飾りは不要であると言いたげに。「今日は少し時間がないので、できればお手柔らかにお願いしたいのですが」
「ああ、うん」勇儀と名乗った鬼は力比べを挑もうとしていることを見抜かれ、俄に顔を赤くしながら頬をかいた。「それだけ生臭い貴人なれば、ある種の妖怪にはさぞかし美味かろう。わたしと手合わせして無事だというのは、それだけである種の驚異となる。これからの無駄な干渉も避けられようというものだ」
「なるほど、筋は通ってますね。今日の役に立つかは分かりませんが、よろしいでしょう。では、ここの流儀に従った勝負を?」
「それが一番楽しいけれど、時間がないなら簡略化しても良いだろう」そう言って勇儀は拳を握りしめ、聖の前に差し出した。「わたしの拳に一度、耐えてくれれば良い」
 勇儀は水蜜に近づくと、片手に持っていた杯を差し出してきた。
「すまないがこれを持っていてくれ。邪魔になるんでね」水蜜はじわと覇気を滲ませる彼女の様子に訝しいものを感じたけれど、聖に促されて渋々ながらに受け取った。「では、準備ができたら言っておくれ」
 勇儀はそう言って気楽そうに肩を回し、大きな欠伸をした。どうやらそれなりの手加減をしてくれるらしいと思い、水蜜は小さく息をつく。その瞬間、聖の持つ巻物が輝きを発し、膨大な魔力が集積され、何重もの円環となって展開されていく。それほどまでに長い呪言を水蜜は数回しか見たことがない。しかもそれは聖の腹部一点を強化するためだけに使われていた。
 魔法が完了し、聖が頷いた瞬間、地が揺れた。水蜜はアンカーのように踏ん張り、杯から酒をこぼさないようにするので精一杯だった。聖は体をくの字に折って倒れ、勇儀は皮が破れ、赤く腫れていく拳を見て顔をしかめた。
「鬼の膂力を(りょりょく)正面から耐えきるとは。月の裏側まで吹き飛ばすつもりで殴ったんだけどね」
「耐えきった、とは言い難いですが」
 聖は苦しそうに咳き込むと、ふらふらとした足取りで立ち上がる。水蜜は肩を貸して聖を支えようとして、うっかり杯を落としてしまった。それを半ば見越していたのか、勇儀は一滴も酒をこぼさず、悠々と受け取ってみせた。そうして水蜜に一つ、気の良いウインクをしてみせた。
「あれだけの振動に酒をこぼさないのもなかなかに凄い」
 まるで悪びれた様子がないから、水蜜は不意に憎たらしくなって、剛毅(ごうき)の鬼に非難の言葉を投げつけた。
「なんですか、あれは!」
「まあ、色々と、気持ちのこもった拳ってところかな」
「良いのですよ」聖はなおも怒りの収まらぬ水蜜を宥めるような、穏やかな声をあげた。「彼女にも色々と、あるのですよ」
「そう、色々と」おそらく勇儀はかなり本気で聖を殺しにいっていたはずなのに、そんなことはおくびにも出していなかったし、むしろ聖を本気で尊敬している様子ですらあった。「このことはわたしが責任を持って広めておくよ。何なら天狗に記事を書かせても良い」
「えっと、わたしは構いませんが、その、信用面の問題は?」
「わたしがやれと言うのだから、天狗はやるよ」
 水蜜は人里近くにまで現れるかの天狗がいかに出鱈目ばかりを書くのかよく知っていた。奴と来たらホットパンツを穿いているという、ただそれだけの理由で性別詐称疑惑などと書き立てるのだ。あとで星や聖がフォローしたけれど、それでも水蜜は数日間、思い悩んだものだ。
「まあ、それはさておき。では、行こうか」
「えっと、どこへ?」
 聖をあんな目に合わせておいて、拐(かどわ)かすつもりではないか。そんな疑念に兆され、水蜜は勇儀を睨みつける。すると彼女は慌てて手を振った。
「無駄な干渉はさせないと約束しただろう。だからわたしが先頭に立って睨みをきかすのさ。鬼は約束を違えない。鬼と正面からぶつかろうという愚直な人間なら尚更のことだよ」
 そう言って勝手に勝負を挑んできた鬼は、今度はまたもや自分勝手に護衛をかって出ようとしていた。それはそれで構わないのだけれど、いよいよ立つ瀬のないような気がしてならなかった。そんな水蜜の心を繕うように、聖は自信を込めて言った。
「わたしは頼りになるものを側に連れています。だから大丈夫ですよ」
 聖の言葉に、勇儀は水蜜へ一瞥(いちべつ)を送る。もしや護衛としてふさわしいか試されるのではないかと思ったけれど、特に拘る様子もなくあっさりと頷いた。
「そうか、それは残念だ。では、次にこちらへ来るようなことがあれば、わたしを案内人にでも何でも使っておくれ」
「分かりました」聖は安請け合いすると、水蜜にそっと目配せした。君子危うきに近寄らずの合図で、だから水蜜は勇儀に警戒の一瞥を向けながら、そっと飛び立った。その顔に残念そうな表情が浮かんでいたから少しだけ罪悪感を覚えたけれど、絆されれば危険という気がして、だから何も言うことなく鬼の居場所を離れる。
 そうして十分に距離を取ってから、水蜜は溜息のように呟いた。
「なんとも災難でしたねえ」
「これで遺恨のようなものが一つでも晴れてくれれば幸いといったところでしょうが……」
 そこまで言ったところで聖は飛ぶ足を止め、痛みで顔を顰(しか)めた。
「金剛石にまで強度を高める防御魔法だったのですが。とはいえこの魔法を選んでおいて正解でした。相手の配慮を期待して少しでも弱い魔法を選んでいたら、拳で貫かれて百舌(もず)のはやにえみたくなっていたに違いありません」
 聖は腹部を指で押さえ、再び苦痛を表に出した。然るに余程の打撃だったのだろう。
「後生ですから無理をなさらないでください」
「まあ、これも功徳ということで」
 聖は悪びれる様子もなく、そして実際に悪気など一欠片もないことはよく分かっていた。だからこそ無性にいらいらした。聖にとって自分は何であるのかと問いかけたかったけれど、返ってくる答えは分かっていたから、喉元でせき止められて声にはならなかった。
 大事な仲間の一人ですと、言うに違いない。そして誰にも平等にそう言ってのけるのだ。聖はそのことを心底から信じている。でも水蜜は平等であるのが辛かった。何かの特別が欲しい。誰にでも優しいことが無性に妬ましかった。船幽霊の悪い性根であると分かっていても、止められなかった。こんな時にと思ったけれど、こんな時だからかもしれなかった。
 それでも水蜜はぐっと気持ちを押し殺し、聖の後に続いた。
 
 少しすると見えてきたのは、旧都とまるで趣の異なる、異国の宮殿めいた建物であった。
「ここが旧地獄でしょうか」
 地獄であった頃の名残であるのか、辺りには自分の同類臭い雰囲気が強く漂っていた。
「そのようですが、旧ということは旧い地獄なのですよね。それにしては霊の数があまりにも多い。しかもわたしの感じたところ、これは怨霊の雰囲気です」
「怨みがましい霊と言うと、かつてのわたしみたいな?」
「それとはまた違いますね。村紗の場合は半ば自発的にそうなったのであり、要するに自縛霊的ですが、ここにいる霊はそうならざるを得なかった霊たちです。そういうことをする妖怪がここにはいるということですよ。危うい……ですが、今は実に散発的です。もしかすると霊の統率者がここにはいないのかもしれません」
「つまり鬼の居ぬ間に、ですか?」
「ですね。しかし誰かが住んでいるようでもあり、無断で立ち入るのもはばかられます。これだけの広さならば、従者の一人もいるはずです。呼んでみましょう」
「それではわたしが」幽霊だが船乗りでもある水蜜は、大声には割と自信があった。それくらいしか役に立たないのが不甲斐なくもあるけれど。「すいません、誰かいませんか?」
 その声は扉の向こうに吸い込まれ、静寂とともに消えていった。更に声量をあげ、沈黙を返事とすること三度、水蜜は扉にアンカーを叩きつけようとして、辛うじて思いとどまった。ここで短気を起こしても、どうしようもないからだ。
「困りましたね、どうしましょう」
「これだけの住処を持ちながら、まるで返事がないことも気になります。不躾ではありますが、中の様子を窺ってみましょう。住人に咎められたら適時、謝罪すれば良いのです」
 聖は気がかりな素振りを見せながら扉を開けて中に入り、水蜜も慌てて後を追う。玄関は広く、二階までを貫く天井や窓には不思議な仕組みのガラスが張ってある。まるで虹のような色彩であり、種々の獣を形どっているようであった。
「鳥に、こちらは構えからして猫ですね」
「色々な獣が見受けられますね。ここの主はさぞかし動物好きなのでしょうか」
 それは流石に脳天気な考えだと思いながら先に進むも、どこまでいっても生きているものの気配が見当たらない。誰かが暮らしている空気はあるけれど、同時に手応えのなさも感じる。
「旧地獄ということは、ここはかつて地獄だったのですよね」
「ええ。おそらくこの建物も、以前は十王が居まし、数多の裁きを行ってきたのでしょう。しかし今は管理人のみが細々と、ここや地獄の跡、ひいては地底を管理しているようです」
「へえ、なるほど。流石は聖……」よくご存じですねと言おうとして、水蜜は俄に口を噤んだ。先程まで地底のことなど知らぬ存ぜぬの態度を取っていたのに、いきなり詳しい知識を披露したからだ。「どうしてそのようなことをご存じなので?」
「冒険は何も知らないほうが楽しいでしょう?」
 聖はしれっとそう答えた。然るにこれまで出会った何もかもを承知であったのかもしれない。
「それにわたしもここに来るのは初めてです」聖は水蜜の疑問に被せるよう、あくまでも淡々と事実を口にした。「以前、この地霊殿に住むものと出会いまして。一つばかり頼まれごとを引き受けたのですよ」
「頼まれごと、ですか?」
「はい。その内容を村紗に教えることはできません。その理由を話すことも今はできません。意地悪でそうするのではないのですよ?」
 予め釘を刺され、水蜜は絞りだそうとした声を慌てて留めた。それに聖は最初に言っていたではないか。ここに用事があると。何も事情を知らないと考えることこそ愚かだったのだ。
「分かっています。聖とどれだけの付き合いだと思っているのですか」
「年月は互いの理解を決めません」聖はぴしりとそう言い返した。「どのように短い時間でも、深く言葉を交わせば盤石の理解を得られる。逆に言葉がなければ、どれだけの長い付き合いでも思いは通わない。かつてわたしが弟と疎遠になったように。姉弟の繋がりですら、互いの理解や想いを決めないのです」
 そう説かれ、水蜜は何も言えなかった。これまでの道中に、水蜜は聖の知らないところ、知られていない想いをいくつも垣間見たからだ。
「すいません、くどくどしくなりましたね。では村紗、ここからなら殿中のどこにでも声が届くでしょう。もう一度、住人に向けて声を発してもらえないでしょうか?」
「いえ、その必要はありません」
 奥から細くもよく通る声が響き、水蜜は足を止めた。すると少しして、洋風の出で立ちをした少女が姿を現した。その体にはくるくると紐が巻き付いており、その先には怪しげに開かれた三つ目の眼があった。先ほどの鬼みたく漲るような力は感じられないけれど、その代わりに内側からこんこんと湧き出る不気味さのようなものがあった。
「すぐに応対できず申し訳ありません。いつもならばわたしのペットたちの誰かが来訪を知らせてくれるのですが、今日はタイミングが悪かったようですね」
 慇懃(いんぎん)な物言いではあったけれど、相対するものを客として招き入れているようではなかった。それから彼女は水蜜のほうにじろりと視線を寄せた。
「そうですね、今日は客人をもてなす気分ではありませんから」
 彼女はこちらの気持ちを読んだかのように言うと、しゃなりとした立ち姿で口を開いた。
「わたしは古明地さとり、この地霊殿の主です。さて、村紗さんにそして、聖……ですか? 聖人が船幽霊など引き連れてどのような用件で?」
 さとりと名乗った少女は当然のように水蜜の名前と素性を見透かしていた。まるでこちらの行動を監視してきたかのようだ。
「そんなことをしている暇なんてありませんよ。最近はこの地底も俄に賑々しくなりまして、色々とやることが多いのです」
 さとりは愚痴を呟きながら、さも当然のようにこちらの思考を読み取っていた。嫌な予感がして、水蜜は何も考えないように心がけたのだが、さとりは無機質な表情を愉悦に歪め、曖昧に頷いてみせた。
「心は隠そうとすればするほど発火する。幽霊といえどそこから逃れることはできないようですね」さとりは自らの能力を誇示することができるためか、嬉しそうに笑みながら目を微かに細めた。「なるほど、これはまた、なんとも面白いことですね」
 さとりが何を見たのか水蜜には分からなかったけれど、恥ずかしいものを読まれたという直観があった。そのことを浮き彫りにするような光がさとりから発せられ、その眩しさとともに寄せては返す波の音が聞こえてきた。それは大きなうねりになり、水蜜はいつの間にか海を漂っていた。理由も分からず無性に悲しくて、生あるものを滅ぼしたくてしょうがなかった。特に船が許せなかった。だから柄杓で水をかけて、沈めてやるのだ。それがわたし、村紗の存在意義……。
「はい、そこまで!」聖が一際大きな柏手を打つと、水蜜の意識はあっという間に引き上げられた。先ほどまでの辛さも一気に消え、目の前には苦々しい表情をしたさとりがいた。「心を読むのみならず、抉ろうとしましたね。礼儀正しくて優しいと聞いていたのですが、案外に性質が悪いようですね」
 穏やかながらも聖の目には怒りに近い感情が滲んでいる。鬼に本気で殴られたときでさえのほほんとしていたから、その豹変ぶりにはすっかり驚いてしまった。
「わたしはさとりですから。しかし誰かから聞いていたとて、わたしの力から逃れることはできませんよ。聖白蓮、先に千年の封印から解き放たれた僧侶」
 さとりは僧侶の二文字に力を込め、水蜜の時よりも強く相手を見据え、先程と同じ光を一瞬だけ展開させた。聖は膝をつき、さとりは相手の全てを覗こうと、喜悦の様子で二つの目と一つの目を聖に向け続けた。
 しかし聖は水蜜のようにはならなかった。悠然として立ち上がり、正に仏のような笑みを浮かべてみせたのだ。するとさとりはみるみるうちに顔をしかめ、聖から視線を逸らした。
「なんてこと。こいつ、まるで執着や妄執の類がない」悟りを開いた僧であるのだから当然のことではあるが、さとりは実際に心を覗くまで信じられなかったようだ。「ああ、まずいまずい。こんな味もくそもない、不味い心があるなんて……」
 さとりは不味いものでも食べたかのように舌を出し、吐き出す仕草を見せた。
「まさかこの世に、心の全き平穏を得た、真の高僧がいるなんて」
「わたしの心は波乱だらけですよ」聖はあっさりと言い切ってから、目の前の妖怪を諭すようにゆっくりと言葉を続ける。「確かに世俗まみれの僧もいたかもしれませんが、真剣に仏門を目指すものとて負けぬほどいたと思います。実際にわたしの弟は、わたしを越えるほどの見識と深い悟りを得たものでした」
 さとりは聖を見据え、それが嘘でないことを確認してから苦い顔をした。
「この世が偉い僧侶だらけならば、地底世界なんて存在しませんでしたよ」
「そうですね。だから悟りを得たといえ、人間など一人では大したことないのです。かつて、わたしはそれを知ることができなかった。だからこそ、ここにいるのです」
「別に責めてるわけではないのですよ」さとりは再び息をつき、それからぼそぼそとした声で付け加えた。「それに、ここはそう悪いところでもない。少なくとも地上のものたちを憎むような惨憺(さんたん)など、とうの昔に消え失せています」
「らしいですね。あなたの妹さんも、似たようなことを言っていましたよ。ペットは可愛いけどちょっと退屈だって」
 妹という言葉が出てきた途端に、さとりの表情がさっと険しくなり、次いで三つの瞳が強く聖に向けられた。
「貴女は一体、どういうまやかしを使ったの?」
「先程まで貴女の妹のことを考えず、会話をしていただけのことです。驚かれましたか?」
 聖は少し意地悪くさとりにウインクしてみせた。
「深淵(しんえん)を覗くもの、深淵に気付かず。これは魔界の諺(ことわざ)なのですが、心を覗くというのは同時に相手から覗かれることでもあるのですよ」
 さとりは一瞬、妖怪らしい激烈な殺気を聖に放つ。しかし次の瞬間には穏やかさを取り戻しており、強い感情は一息で一気に吐き出されたようだった。
「分かってるわ。それでもやっぱり、面白半分で覗きたくなることはあるの。きっとわたしはまだ半人前の妖怪なのでしょう」
 さとりは次いで水蜜のほうに向き直ると、小さく頭を下げた。
「ごめんなさい。悪気はなかったと思って頂戴」
 その行為で水蜜はようやく、聖の意趣返しに気付いた。村紗としての過去を掘り返されたことに、憤ってくれたのかもしれない。それは嬉しいけれど、やはり不甲斐ないことであった。
「わたしが未熟だったのです。謝ることなどありません」
 水蜜がきっぱり言うと、さとりは目をぱちぱちさせてから不敵な笑みを浮かべた。
「かつては自縛霊だったというのに心が強いのね。これも聖の教えなのかしら」
「もちろん、その通りです。聖はわたしの光であり、わたしはまっすぐに光を目指してきました。だから、強くないわけ、ないのです」
 一つずつの言葉に力を込め、それから水蜜は聖に会心の笑みを浮かべてみせた。すると聖は何とも珍しいことに、素の驚きをみせて軽く俯いてしまった。
「ふむり、撤回するわ。聖人であるがゆえ、その心の揺れはとんでもなく美味なのね」
 さとりは思わず舌なめずりをすると、蕩(とろ)けるような笑みを浮かべた。
「これを再び味わうためだけに、死に物狂いの精進をしても良いと思わせる味だわ。どうやらわたし、楽しみが一つ増えたようね」
「も、もうっ……」聖はほんの少しだけ上気した頬を見せ、それから棘のある視線を水蜜に向けた。「村紗はね、少し大袈裟すぎるわ」
「かもしれません」水蜜はしれっと返してから、さとりに向き直った。もはや相手に敵意はないし、場の和んだ今こそ、例の件を聞く機会だと思ったからだ。「もしかしたら既に心を読んでいるかもしれませんが、わたしたちはあるものを探しています」
「地底の奥深くに住む、黒き聖なる翼よね」さとりはくつくつと笑い、それから地霊殿の更に奥を指さした。「それなら中庭に出て灼熱地獄を進んで暫く、地獄炉の近くにいます。おそらく元気一杯で仕事をしていることでしょう。わたしがそこまで案内しますよ」
「良いのですか? 主が直々に案内だなんて」
「良いのですよ。ここに来る客なんて滅多にいませんし、好きなだけ待たせておいても良いものたちばかりですから。お燐がいれば任せるのですが、今日はどこかに出かけていて留守のようですし、何よりも……妹のことを聞かせて頂きたいのです」
「それならば、わたしの心を読めば良いですよ」
 聖の提案に、さとりは小さく首を振った。
「妹の、こいしのことは……心を読むのではなく、直接の言葉で知りたいのですよ」
 水蜜にはその意味が分からなかったけれど、聖には察するところがあったのだろう。黙って頷き、それから地底の先を指さしたのだった。

感想をツイートする

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <s> <strike> <strong>

この小説へのコメント

  1. 聖の全て平等とゆう精神で、ムラサが嫉妬するところが、可愛いかったです。

一覧へ戻る