東方二次小説

聖白蓮さん、あなたに仏のお恵みを白蓮さん 前編   白蓮さん前編 第5話

所属カテゴリー: 聖白蓮さん、あなたに仏のお恵みを白蓮さん 前編

公開日:2015年11月12日 / 最終更新日:2015年11月19日

 翌々日の朝、わたしたちは穀物の町から本の町に向けて出発した。昨日のうちに出発できなかったのは、わたしが二日酔いにかかり、昼を過ぎても動き出せなかったからだ。初めての悪酔いに加え、この老齢である。一日で酒が抜けただけでも幸運とするべきだったのだろう。
 彼女は怒ることなく宿泊を延長すると、二日酔いの紛れる飲み物や果物を運んできてくれた。それ以外は机で何やら書き物をしており、わたしはその規則的な音を子守歌にひたすら眠り続けた。それでも体調はなかなか戻らず、数日ほどは獣車の中でじっとしているだけでも胸が悪くなり、荒れ地の上に何度も吐いた。酒で得た万能感などとうに消え、今はまた不安と焦燥が胸を満たしていた。
 そしてわたしの弱気に呼応するかのように突如、砂が渦を巻き始めた。しばらくすると二角獣が唐突に嘶(いなな)き、猛烈な勢いで走り始めた。
「赤砂が来ます」言われなくても、目の前を覆い始めた赤を見れば明らかだった。「上手く砂の陰になるような所が見つかれば良いのですが」
 一秒ごとに砂と音が強くなり、すぐにでも吹き飛ばされるのではないかと思い始めたとき、前方に岩山が見えてきた。
「待避地点です、助かりました」
 あのような岩ならば、これまでにもいくつか見てきた。辺りの風景に比べ、いやに不自然であったのだが、赤砂を避けるための建造物だったのだ。太陽を創り出したことといい、神の強大さがいやでも分かる事実であった。
 安堵の息をつこうとして、しかし獣車はその直前で何故か急に動きを止めてしまった。
「何をしているのですか? 早く!」彼女はこれまで一度も振りあげたことのない鞭を容赦なくふるい、すると二角獣たちは怯えるような鳴き声とともに渋々、待避場所となる岩山に近づいていった。目の前まで来ると、岩山には小さな横穴が空いていて、だから獣車ごとそこに潜り込んだ。彼女は獣たちに何やら布のようなものを被せ、それから獣車の中に入って来た。砂が入ってこないように四方をすっかり塞ぐと少しして、いよいよ轟々とした音が響き始めた。
「なんてことだ。こんなのがしょっちゅう起きるのかい?」
「これはまあ、標準的な部類ですね。運が悪いと本当に成す術もなく、発生とともに全てが持って行かれますから。風よりも早く飛べるならば、魔力で遮蔽壁を作れるならば、あるいはわたしたちのように足の速い移動手段があれば何とかなりますが、歩いて移動するようなものにとっては、都市間の移動さえも厳しいのです」
 太陽を生み出すほどの存在でも、魔界の厳しさの全てを取り除けるわけではなく、寧ろ限定的にしか防げないらしい。
「だから行商には儲けが出るし、彼らを襲うこともできる。ここは赤砂を防ぐ最小限の遮蔽物しかありませんが、なかには広い洞窟上の避難場所もあります。そしてそういう場所では、強盗たちの待ち伏せを覚悟する必要があります。神立の治安隊によって定期的に退治されるのですが、しかし邪な気持ちを持って集まるものはいつどこからでも沸いてきます」
 魔界はかくも過酷な土地であり、伴って人心も荒む。それでも総体からすれば、魔界の住人たちは徐々に発展を来していた。魔力を使い、また長寿であるという利点を除いても、体制は整っていると言えるのだろう。
「ここは強盗団が潜むには些か狭いですから大丈夫です。旅人には並の魔法使いが束になっても叶わないくらいの高位も稀にいますから、大勢を潜ませられない場所には……」
 彼女の冷静な分析を妨げるように、その声はごく近くから唐突に聞こえてきた。うぉんと。まるで飢えた狼があげるような、獰猛さを含んだ鳴き声であった。声に当てられて二角獣たちが俄にそわそわとし始め、しかし吹きすさぶ砂に身動きが取れないようであった。
 再びうぉんという張りのある鳴き声と、そしてひたひたと忍び寄る何ものかの気配。
「まさか、妖獣と鉢合わせを?」彼女がぼそりと呟き、わたしもすぐに思い当たった。人を食らう獣が旅路に潜んでいるという噂を。「ここいらに住んでいる獣がたまたま紛れ込んだという可能性は?」
「だとしたら、そいつはこの厳しい環境に適応した何ものかです。危険度では変わらないか、寧ろ高いくらいです」
 つまり妖獣であるのが、一番助かる可能性が高いということらしい。彼女は荷物から羊皮紙を取り出し、最初の一枚を開いて構えた。ほんのりと灯る魔力から察するに、何かの魔法を込めていたらしい。これからの旅に備え、手軽に使えて効果の高いものを用意していたのかもしれない。
「こんな場所では、ろくに力も振るえません。これは目眩ましにちょっとした炎と、強い光を放ちます。野生の獣ならば怯えて竦(すく)み、これ以上は何もしてこないかもしれません」
 つまりは運にかけるしかないということだ。わたしは武器として使えるようなものを探し、太い薪の一本を手に取った。わたしが戦闘用に使えるのは本当にごく初歩の肉体強化魔法のみだ。彼女の魔法で外にいる何ものかが怯んだ隙に、思い切り鼻面を殴りつける。情けないことながら、今のわたしにできることはそれくらいしかない。
 こちらの応戦を察したのか、相手の気配が見事なまでにぴたりとやんだ。次の瞬間、真上から大きな音がして、幌が切り裂かれた。びゅうと砂が舞い散り、目を打たれた瞬間に、そいつはわたしの上に一気にのし掛かってきた。手にしていた武器を取り落とし、獣の重みでわたしは大きく息を吐いた。
 彼女が巻物から魔法を放ち、一瞬ではあるが地上の太陽にも似た白い光が辺りに満ちた。しかし獣はまるで動じることなく、わたしの首根っこを押さえつけていた。
「無駄だ。わたしは火や光を怖れるような下郎ではない」驚くことに獣はまるで人間のような声を発した。しかもその言語は、わたしにも聞き取れる、つまり大和の言葉であったのだ。「大人しくしておれ。こちらが済んだら、お前もすぐに食ろうてやる」
 そうして獣はわたしにひたと、夜目の猫のような鋭い瞳を向けてきた。虎のような縞を全身に刻み、その顔は捕食者の獰猛(どうもう)さを称えているというのに、気高さを秘めた端正さをも併せ持っており、そのちぐはぐさゆえに独特の美しさが感じられた。
 獣はだらしなく涎を垂らしており、わたしにかじりつこうと顔を近づけてきた。しかしすんでのところでぴたりと動きを止め、それからわたしの臭いをしきりに嗅ぎ始めた。
「お前からは僧侶の匂いがする。それでいてあまりにも爛れている。法の道を外しきった、恥ずかしい臭いがするぞ!」
 獣は獰猛な顔を嬉しそうに歪め、腕を離すと、わたしから用心深く距離を置いた。
「すいません、幌の修繕をしてもよろしいですか?」
 気丈にも彼女は獣に向けてはっきりとものを言った。それで獣は一気に機嫌を悪くする。
「怪物は人間に比べてまずいが食えないわけではないのだぞ!」脅すように大声をあげてから、獣は彼女に鼻を寄せる。そして小さく息をついた。「お前は天の道を踏み外したな? つんとすえたような臭いがする。こちらも食えたもんじゃない」
「どうやらわたしたちのことをよくご存じで」彼女は皮肉にも取れるようなことをさらりと口にして、幌の空いた穴に新しい布を取り付け始めた。特に糊のようなものを使っていないのに、布はぴたりと貼り付いて砂の侵入を食い止めてくれた。
 獣はその間にもわたしたちをどうするべきか、しきりに二者を行ったり来たりしていた。そうして不意に、わたしに問うてきた。
「わたしは腹が減っている。お前たちはどちらもまずいが、腹の足しにはなるだろう。そこで一つ提案だが、二人のうちどちらかは食べずに生かしてやろうと思うのだ。さて堕落したとはいえ元僧侶の女よ、お前は自分の身を捧げる気概があるかね?」
 わたしを食わせれば、彼女は助かると言いたいらしい。わたしは少しだけ迷う振りをしていたが、しかし答えは最初から決まっていた。
「わたしは死にたくない」と、正直に答えた。最初は何か言い訳するつもりだったけれど、すぐにどうでも良くなった。「生きていたい。死ぬのが怖いからね」
 すると獣はきょとんとした表情を浮かべ、それからうねるような呵々大笑を響かせた。
「かくも己を偽らないとは。浅ましいを通り越して潔い。だがしかし、それでわたしが容赦するとは考えないことだな」
 獣は彼女のほうを向くと大きく口を開けて威嚇する。彼女は間近に迫る死に対して、毅然と言い返した。
「浅ましいのではありませんよ」驚くことに、彼女はわたしのことを擁護しようとしているようだった。「わたしは契約により、この老婆を目的の場所まで送り届けなければなりません。彼女が死ねば、その契約は自動的に不履行となり、わたしもただでは済みません。わたしが死ぬ選択肢があったとしても、逆はあり得ないのです」
「賢しいことを言う」獣は長口上をあっさりとなぎ払い、しかしゆっくりと牙を収めた。「まあ、良い。急に飢えが遠のいたような気もするし、それに面白そうなことを思いついた」
 獣はわおんと嘶いてから、くつくつと笑い声をもらした。
「堕落した聖者に、堕落した天の使い。お前らは何かを求めて、その過程や結果で堕落を拭おうとしているのではないか?」
 それはわたしにとってみれば半分ほど的を得ており、彼女にとってはよく分からなかった。獣はわたしと彼女の顔を交互に見据え、そこから何を読みとったかは分からないが、こう宣言してみせた。
「堕落が拭われたならば、その時こそ頭からがぶりと食らってやろう。ささやかな希望ともにな。その時を楽しみにさせてもらおう」
 獣はそれだけを勝手に言うと、ごろりと寝転がってしまった。どうやらわたしたちについてくる気らしい。彼女はわたしに様子を窺う旨の視線を流してきたけれど、わたしにはこの展開をどう処理することもできず。ただ首を横に振ることしかできなかった。
「分かりました。ただしそこの獣さん」
「なんだ、羽根の生えた邪なものよ?」
「獣車を引く二角獣はあなたの存在を酷く怖れています。このままでは旅を続けるのが非常に難しいわけですが」
 すると獣はわざとらしい溜息をつき、ほぉうと梟みたいな声をあげた。すると獣車の大部分を占めていたその体躯がみるみるうちに縮み、人型となった。頬が痩け、目がぎらぎらと輝き、ひょろりと長い背丈にはおおよそ肉付きというものが感じられなかった。変化の術はあまり得意でないのか、髪の毛は黄と黒の縞模様で獣の耳がひょこりと飛び出していた。
 獣はわたしの目線に気付くと耳をぱんぱんと手で叩いて隠し、すると人間らしい耳が代わりに生えてきた。獣はわざとらしい咳払いをすると、獣車の隅にどかりと腰をおろした。
「まだ十分に獣臭いですが、二角獣たちは落ち着いたようですね」
「獣臭いのは仕様がない。わたしは獣なのだから」
 身も蓋もない物言いだった。そのまま何となく会話が途切れてしまい、わたしたちは獣車の中で黙ったまま、赤砂が収まるのを待った。獣は力があり、空も自在に飛べるような口振りであったけれど、それでも赤い砂の嵐には叶わないのだろう。
 わたしたちはこの魔界で、こんなにもちっぽけで。それでいて身を寄せあうこともできず、それぞれに孤独だった。当たり前のことなのに、わたしにはそれが少しだけ寂しく思えた。
 赤砂が収まったのは日沈の少し前で、だから同じ場所で夜を明かすことにした。夜に赤砂と遭遇するのは危険であるし、魔界の夜には月も星も昇らないため、容赦のない暗闇に包まれてしまうからだ。
「魔界の神は道標(みちしるべ)のために、ほんの少しでも星を創らなかったのだろうか?」
 問答無用で足止めされるのが癪で、わたしはついつい不満を零してしまった。すると彼女はあくまでも冷静に答えて見せた。
「太陽を生み出すだけで精一杯だったかもしれません」
「神は暗闇でも見えるのだろう。それ故に暗闇でも見えないものがいると考えられないのだ」
 獣はふてぶてしくそう言ってごろりと寝転がった。なるほど、真相とは案外そういうものなのかもしれなかった。
 
 数日後、わたしたちは新たな赤砂に遭遇することもなく、本の町に辿り着いた。ここにも彼女は馴染みの宿を持っており、わたしたちはそこそこ広い二人用の部屋を取ることにした。あとで追加の寝台を運ばせようと思ったのだが、獣は大きく首を横に振って拒んだ。
「寝台で眠るなど冗談ではない。わたしは床で眠る」
 そう言うなり、獣は人型であるというのに、まるで獣のように丸まってしまった。対する彼女はわたしに伺いの視線を寄せてきた。
「すいませんが、金子を預けさせてもらえないでしょうか」
「畏まることはないよ。わたしではまともに使うことができないのだから」どうせお前はわたしに逆らえないと心の中で呟き、それから興味ありげに訊ねた。「何か入り用のものでも?」
「金を価値のある本に変えます。これなら強盗団に襲われても、持って行かれないかもしれません。可能性は低いですが、金の価値は鴉でも分かります。本の価値はそれよりもう少し上等でなければ分かりません」
「襲ってくる人間など、わたしが全て食らうてやる」
「魔界の人間は地上の人間と違い、大半が無力というわけではありません。地上では名の知られた妖獣かもしれませんが、侮らないほうが良いと思いますよ」
 彼女が正論をぶつけると獣はふんと鼻を鳴らし、機嫌悪そうに眠ってしまった。
「あとは魔力のこもった宝石や巻物をできるだけ買ってきます」
「それは、わたしにも使えるような代物かい?」
「そのつもりです。動けるのであれば、戦力にはなってもらわないと困りますから」
 静かな中にも辛辣(しんらつ)さが増してきているのは、わたしに対していよいよ侮りを隠さないのであろうか。どう思われていても関係ないと考え、わたしは寝台に転がりながら言った。
「首尾良く。他には何も望まないよ」
 彼女は小さく頷くと、きびきびした動きで部屋を出ていった。すると鼾がいよいよ響き始めたけれど、それに負けないくらいの眠気はあった。赤砂に初遭遇したせいか、獣に食われそうになったからか、それとも単に旅の疲れなのか。どちらにしろ太陽が出ているのに眠るという怠惰を、わたしはごく当たり前のように受け入れた。
 
 その日の夕食で、彼女は本の町にて仕入れてきた情報を語ってくれた。
「強盗団の話ですが、どうやら本当のようですね。次の町と、その次の町、この間に赤砂の待避用としてはかなり大きな洞窟があるのですが、そこに数十人規模の強盗団が住み着いたらしいのです。命を奪うタイプではないものの、角獣も含めて根こそぎ持っていきます。あと、命は取られないそうですが妙齢の女だけは捕らえられるそうです。おそらくは……」
 慰みものにされるのだろう。男は去勢されているか、ある年齢に達しているか、あるいは性欲そのものを抑えるほどの徳人でない限り、定期的に性交のための番を求める習性があるのだ。
「なるほど、雌を巣に迎えるのだな。盛んなことだ」
 獣は頓珍漢なことを口にし、勇ましげに口を歪めてみせた。
「もっともわたしを迎えるような不埒は、逸物を噛みきってやるがな」
 そうして獣は痩せた体躯には似合わないほどの高笑いをあげた。一見すると整った、しかしあらゆる意味で研ぎ澄まされた獣と、一時でも視線を合わせようとするものは誰もいなかった。
「とにかく。洞窟の付近で赤砂が発生したら終わりです」
「赤砂の発生に、何か法則のようなものはないのかい?」
「ありません。魔界には地上と違って四季はありませんから。太陽はいつも同じ時間に登り、同じ時間だけ地上を照らし、そして沈んでいくのです」
「要するに運任せってことだね」仏の道に背いた元僧侶、神の教えに背いた元天使、そして人食いの獣と来れば、運など到底期待できそうにない。それでもわたしはその運に頼るしかなかった。「そこを抜ければ、港町までは赤砂だけに気をつければ良いわけだ」
 しかし彼女はわたしの希望的観測を打ち砕くように首を横に振った。
「それだけではありません。蝶を見かけたものがいます」
「蝶? それはひらひらと花畑を舞う虫のことかい?」
「そうです。しかしその蝶はおおよそ真っ当な代物ではありません。それらは赤砂の嵐で生息できる唯一の生き物なんです。そして蝶が現れるとき、赤砂の発生率は格段に上がります。魔界では、蝶の羽ばたきこそ嵐を引き起こすのだという説が未確認ながら公然と囁かれています」
「蝶の羽ばたきが嵐を呼ぶ……」何とも眉唾な話ではあるけれど、このような土地柄だから何が起きても仕方がないのだろう。「この先はかなりの確率で危険が待ち受けているということか」
「それだけではありません。海路では海獣の攻撃により、いくつもの航路が停止したそうです」
 わたしたちの行く手にはいよいよ、困難ばかりが待ち受けているらしい。全くもってうんざりする限りだった。
「ここで待てば、解決する状況はあるのかい?」
 しばらくをこの町で過ごし、状況が好転してから旅を再開すれば良いのではないかと考えたのだが、彼女はまたもや首を横に振った。
「蝶も海獣も、発生の仕組みはほとんど分かっていません。強盗団に限って言えば、定期的な取り締まりがありますから、数ヶ月待てば解決するかもしれませんが、それだけの逗留を行う余裕がありません」
 そしてもちろん後退することも許されない。つまりは困難を突き進むしかないというわけだ。
「だから心配しないで良いさ。強盗団も蝶も海獣も、わたしがまとめて一飲みにしてやる」
 獣の楽天的な笑い声が更なる気鬱を呼び、わたしは大きな溜息をついた。
 
 赤砂の頻繁な発生に備えて食料や飼い葉を多めに買い込んでから出立したが、どうやら正解のようであった。ほぼ全ての待避所に逃げ込まなければならず、これまでのおよそ二倍近くも旅に時間がかかったからだ。その道中、穀物を買い付けに来たものたちとすれ違い、時には獣車を寄せ合ったけれど、彼らの顔は得てして暗かった。
「ここ最近のことだよ、嵐がこんなにも酷くなったのは」その中の一人は、溜息のような表情を浮かべながら、愚痴を吐き出していった。「わたしは運良く、強盗団の潜んでいる洞窟付近では赤砂に遭遇しなかったが、この状況では毒牙にかかったものも多いだろうな。全く、強盗団の発生したこのタイミングで蝶の発生ときたものだ。もしかすると、奴らの中に蝶を操る使い手がいるのかもしれない」
「そんなことが、できるのかね?」
 もしそのように力の強い使い手がいたとしたら、この旅はいよいよ立ちゆかなくなるだろう。
「分からないよ。ただ、この魔界には太陽すら生み出せる神様がいる。だから、蝶を操ることができるものもいるかもしれない」
 なるほど、神が実存して圧倒的な力をふるう世界では、あり得ないなんてことはほとんどあり得ないのだ。
「先に進むなら気をつけることだ。あるいはもう、全面対決という気概で一団を組んで進むしかないのかもしれない」
 おそらくその通りなのだろう。魔界は各拠点だけを見るならば整っているし、犯罪を取り締まる制度も充実している。しかし赤砂吹きすさぶ地帯は全くの無法であり、町を越えた権限を持つ組織でなくては取り締まりが難しい。かといって赤砂の待避場所をなくせば、今度は力のないものが路頭に迷う。あちらが立てばこちらが立たないのだ。
 赤砂など余裕で越えられるものだけを創れば、このような事態は発生しなかったはずだ。どうして神は強いものと弱いものを分けたのだろうか。何とも不合理な話だと思った。もっともそれは魔界に限った話ではなく、強いもの弱いものという構図は地上にも存在する。
 わたしは弱いものであり、だからこそ強いものに対する恨みのような憎しみがじくじくとわたしの中に育ちつつあった。強くなりたい、死を克服したい、それはわたしの悲願であるはずなのに、強くなることがどこか厭わしくも感じられた。
 そういった煩悶は、赤砂の吹きすさぶ陰鬱で無言な時間が強かっただけ、余計にわたしの心を苛んだ。内なる怒りが強まっていた。これは近いうちにわたしの中で爆発すると分かっていたけれど、どのようなきっかけでそうなるかは分からなかった。
 
 相当な遅れとともに辿り着いた次の町は、砂と殺伐の臭いがした。前者は度重なる赤砂の影響が町にまで現れた結果であり、殺伐は強盗団の存在に起因するのだろう。
 足止めを食らっている行商が多いためか、宿は粗方満員で、寝所だけの粗末な宿に辛うじて泊まることができた。もっとも獣車を置く余裕などなく、金のかかる高級な預かり所に頼むしかなかった。そのため会計担当である彼女の機嫌が目に見えて悪くなっていた。
 その怒りは怪しげな風体をしたものが、妙な薬を押し売りしようとした時点で頂点に達した。彼女は無言で短剣を喉に突きつけ、男を散々に脅してから、大きく息をついた。
「道理の通じない、というのは面倒ですね」
「しょうがないだろう。厄介事が色々と重なって荒んでいるんだから。さて」わたしは気分を変えようとわざとらしい柏手を打ち、しゃがれた声で何とか明るく言ってみせた。「今日は飯を食べて早く寝よう。いい加減、獣車での暮らしが長すぎて、わたしの体はがたがただよ」
「わたしはまだいくらでも走れるけどな。どうだい? いっそのことわたしの背中に乗るってのは。ものの数時間で町と町の間を駆け抜けて見せる」
「よしてくれよ。そんなことされたらわたしはショックで死んでしまう」
「違いない」獣はからからと笑い、それから彼女の肩をどんと叩いた。「嬢ちゃんもしょげてないで。わたしがいるのだから、大船に乗ったつもりでいると良いさ」
 根拠のない自信にあてられ、彼女は俄に冷静さを取り戻したらしい。にこりともせずに頷くと、わたしたちは食事処を探して歩き始めた。
 
 翌日、わたしたちは行商人たちの屯する酒場へと足を運んだ。彼らは早期に穀物を買い付けたものたちであり、本来ならば利鞘を稼いでほくほく顔であるはずだった。しかしその目論見は外れ、誰もが焦燥の色を浮かべていた。ここでいつまでも足止めを食っていれば、やがて穀物の質は悪くなり、最悪の場合は商品にならなくなってしまう。
 彼らは強盗団と一戦交えることを覚悟で足を進めるかどうかで、侃々諤々(かんかんがくがく)の議論を行っている真っ最中であった。もっとも酒臭い息をしたものばかりでは建設的な議論になるはずもなく、利益と興奮と臆病の間で行ったり来たりを繰り返し、先に進む様子を見せなかった。
 わたしたちはのそりと踵を返し、酒場を後にした。
「あれではしばらく結論は出ないな」
「もしかすると神兵が到着して問題を解決するほうが早いかもしれません」
「あのような臆病者は放っておいてさっさと先に進むべきだ。わたしなら強盗も蝶も、ごくりと一飲みにしてやる」
 このようにわたしたちの中でさえ意見が一致する様子もなく。方々を吹きすさぶ乾いた砂混じりの風が身に染みて、わたしは他に立ち寄ることもなく宿に戻り、湿った布のかかった寝台に身を横たえた。とかく疲れやすい体が恨めしい。魔法もろくに使えない、覚えられない体が呪わしい。老いが厭わしい。空腹が、懇々と沸き出る邪念がわたしの心を過ぎり、もはや溜息をつくこともなかった。わたしはかくも堕落した。万一にも望んでいた力を身につけたとして、わたしのような破戒僧の営む寺が栄えるとは思えない。きっと仏罰を当てられるに違いない。
 わたしの中に一瞬、罰すらもはねのける力を手にするという欲望が生まれ、わたしはほとほと救いがないなと思った。
「またぞろ、不味そうな臭いをさせているな」
 退屈でしようのない獣が、うとうとしたわたしに辛辣なちょっかいをかけてくる。心がささくれだっていたこともあってか、わたしは言葉に刺が立つのを抑えることができなかった。
「人食いの獣が偉そうに言う。お前のような悪食顔が、美味の何を知っているというのか」
 すると獣は俄に殺気を放ち、それからひゅうと威嚇するような息をついた。
「わたしはかつて地上にいたとき、あらゆる獣を統べる王だったのだ。神仙の妙なる香りと味のする肉すら、容易に平らげたんだぞ」
 満悦そうに涎を浮かべる様子からして、過去に神仙の類を食らったことは間違いなさそうだった。上等な獣であるとは見ていなかったのだが、神仙の肉を食らっているのであれば、相応の力を備えているはずだ。妖の類は徳の高い人間や神仙の肉に美味を感じ、隙あらば食ってやろうと考えている。弟もかつて何度かその手合いに襲われたことがあった。
「心配するな。先にも言ったとおり、お前からは爛れた不味そうな臭いしかしないよ。食ろうたら舌が腐ってしまうに違いない」
 獣はその細身に似合わない下品な高笑いを浮かべ、それで気が済んだのかごろりと床に丸まってしまった。わたしは胃の中に固いものが居座るのを感じ、その重たさに肩を落とした。
 翌日になると、赤砂の気配がぴたりとやんだ。空は平穏を取り戻し、町の外に続く道まではっきりと見えるほど、視界が良くなった。その日のうちに動き出すものはいなかったが、同様の天気が二日三日と続くうち、先に進もうという気概が徐々に高まってきた。その日の夕方、主立ったものが酒場で打ち合わせた結果、何グループかに分かれて順番に出立すると決まった。
 被害を負った商隊への補償がどうのこうのというややこしい話し合いがようやくまとまった頃には、夜もすっかり更けていて、わたしは今すぐにでも眠ってしまいたかった。何しろ翌朝早くに出立しなければならないのだから。
「取引を急いでいるはずなのに、先端を切るものが思ったよりも少なかったね」
「前のグループが露払いしてくれれば、後のグループは安全になる確率が上がります。急ぐ必要がなければ後から行くほうがずっと良いですよ」
 さもありなんとばかりに頷くと、わたしはふらつく足を叱咤して酒場から宿に戻る。その道すがら、暗闇を行く彼女がぽつりと、いつもより素直で調子で声をかけてきた。
「この天気が続くと良いですねえ」

感想をツイートする

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <s> <strike> <strong>

一覧へ戻る