東方二次小説

聖白蓮さん、あなたに仏のお恵みを白蓮さん 前編   白蓮さん前編 第7話

所属カテゴリー: 聖白蓮さん、あなたに仏のお恵みを白蓮さん 前編

公開日:2015年11月26日 / 最終更新日:2015年12月03日

 濃密な生の渇望にあてられ、わたしは失いかけていた意識を辛うじて取り戻した。そうだ、そのためにわたしは生きてきたのに。結果の得られない焦りが、荒んだ気持ちで挑んだ旅路が、わたしからそのことを洗い去っていた。
 わたしは心を奮い立たせ、わたしから死を学ぼうとしている蝶の群れた意識に拮抗した。それらは死を知り、わたしはほとんど同化しかけていた。しかしそれでは駄目なのだ。あくまでもそれらはそれら、わたしはわたしなのだから。異なる故に、それらはわたしから知ろうとしているのだから。例え死に限りなく近くても、それでもわたしは死と異なるのだ。
 わたしは蝶たちが口から入ってくることを覚悟しながら、大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出していく。わたしをわたしとして保ち、それらの意識を受けながら流していく。そうしてわたしは蝶たちの群れが死を有り難み、立ち去っていくことを、ただそれだけとすることができた。あまりにも長く続くものだから腹が減ってきたけれど、それでもわたしはただ静かに、蝶を導いていった。死を望む圧倒的な願いは、もはやわたしを死に苛むことはなかった。
 
 どれだけの時間が経っただろうか。気がつくとわたしは、見慣れた獣車の幌を眺めていた。体も心も相変わらず老いぼれていて、口の中は乾きで苦いくらいだ。そんなわたしを彼女が心配そうに覗き込んでいた。
 わたしはゆっくりと身を起こし、すると服を着ていることに対して違和感を覚えた。それでわたしは先ほどまで起こっていたことをようやく思い出すことができた。
「蝶は?」わたしに群がり、死を知ろうとしたそれらは少なくともわたしの視界には一匹も見当たらなかった。「行ったのかい?」
「ええ、全て。貴女がやり遂げたお陰です」
 わたしはただ、蝶の前に身を曝け出しただけだ。特別なことなど何もしていないのだが、彼女は命がけのことを成したかのような感謝の言葉を捧げてくれた。
「そうか、なら良い。他のものも皆、無事なのかね?」
「ええ。もっともここに残っているのはわたしたちと、そして」
 彼女はそこで口淀んだのち、少々お待ちくださいと言って、獣車の外に出た。そしてすぐに見知らぬものを連れてきた。質素な冠頭衣を身につけただけの彼女はあくまでも穏やかで、しかし息苦しさを覚えるほどの濃密な存在感を放っている。
 わたしはその濃さに心当たりがあった。先程まで洞窟の中に満ちていた蝶たちの、群れとして発する強大な気配とよく似ているのだ。
 目の前にいるのは、ただ一人の魔界人である。体つきは衣服に隠れてはいるけれど細くしなやかで、流麗な顔立ちに細雪のような長髪を腰の辺りまで無造作に伸ばしていた。一見すると深層の令嬢風だが、わたしの見立てが正しければ、彼女は蝶たち全てに匹敵するか、もしかしたら凌ぐほどであるかもしれなかった。
「初めまして」彼女は恭しく一礼すると、わたしの全てを定めるようにじっと見据えてきた。「貴女が蝶たちを伏した地上の貴人でありましょうか?」
 硝子のような透明なその瞳に耐えきれず、わたしは微妙に視線を逸らしながら頷く。
「そうであるかは、今もって良くわからないのだけれど。洞窟の中にいた蝶がいなくなり、嵐が去ったことは確かなようだ」
「貴女が魔界の蝶たちに死を説いたのだと聞きました。本当ならば魔界の生き物全てが、その総合的な営みの中で教えなければならないのですが……」
 わたしには判じかねることを呟いたのち、彼女ははたと何かに気付き、慌てて口を開いた。
「すいません、名乗りもしないで。わたしは……主の命を直に拝する役目を授かっております。名を夢子と申します」
「主の命を直に?」彼女はその言葉を噛みしめたのち、驚きに目を見開いた。「その主というのは、この魔界に君臨する神のことですか?」
「君臨しているかどうかは分かりませんが、神らしい仕事をしていることは確かなようですね」
 どこか皮肉にも聞こえる言い方をすると、夢子と名乗った女性は一瞬だけ俯いてから、空いている所に腰を下ろした。
「到着が遅れてしまい、申し訳ありません。本来ならば強盗団も蝶も、もっと早く対応できるのですが、別所に大きな案件を抱えておりまして、多くのものがそちらにかかりきりなのです」
「大きな案件と言いますと?」
「海獣です。わた……魔界の神である神綺、さまが」夢子はこほんと咳をし、小さく息をついてから言葉を続けた。「神綺様がこの地に住まう命を生み出す以前の、暗黒の時代に生まれついたものの末裔です。その彼らが何故か今になって、猛威を揮い始めたのです。盟約ゆえ、地上には不干渉とされ、散発的な襲撃以外は大きな事故もなく、これまでやってきたはずなのですが」
「某かの理由があり、暴れ出したと?」
「ええ。彼らは航路上にある船を襲い、あまつさえ地上に出ようとしています。海は地上と同じくらいに広く、その数を把握しているものは誰もいません。しかし相当の数であることは確かで、強大な勢力として認識されています」
 わたしにとっては何とも厄介な事態であった。折角、一つの問題が通り過ぎたというのに、また別の問題が立ち上がる。不運にも程があると思う。あるいは仏の道から外れきったわたしに対する、天の罰なのだろうか。
「わたしは水晶宮のある神の都まで旅をしている。そのために海を越えたいのだ」
「ええ、話は伺っております。だからこそわたしはここに残っていたのです」夢子は小さく頷くと、安堵を誘う笑みを浮かべてみせた。「蝶たちに導きを与えて下さったこと、神綺様はようよう感謝しております。そのものの望みであればいかなることでも叶えると言われました」
「神が、そのようなことを?」わたしは神が与えてくれるかもしれない力のために、これまでの旅を続けてきたはずだ。それなのに、あっさり望みが叶いそうであると分かれば、ただただ呆然とするだけであった。「わたしは何もしていないのに」
「いえ、貴女は大業を成したのですよ」夢子はそんなわたしの戸惑いを断ち切るように、厳然とした肯定の言葉を投げかけてきた。「先程も言いましたが、蝶たちには魔界の総合的な営みの中で、十分な死が与えられるべきでしたし、神はそのようにして生態系を作るべきでした」
 わたしには夢子が何を言いたいのかさっぱり分からなかった。凡人には思いもよらないほどの大きな尺度で話が進められていると朧気に感じられた程度だ。
「あの蝶は魔界の荒れ果てた砂より創られたものです。それらは羽ばたきによって嵐を起こし、巻き上げられた砂はその中で魔力と混ざり、新たな蝶となるのです。そうして彼らは十分に旅をしたのち、蓄積された死の記憶を基に死んでいきます。その亡骸はやがて豊穣な土を生み、この魔界に豊かな土地を少しずつ増やしているのです。
 しかし、この世界の神は生物を全体的に、頑丈に長命に創りすぎました。そのため蝶の学ぶべき死の総量は始めから少なく、人々の生活が豊かになっていくと、更に減っていきました。そのために荒野を行く砂嵐が増え、旅人たちにとっての問題になりやすくなったのです」
 彼女は長口上を終えると、わざとらしい溜息をついた。
「神の過ちです。後先考えずに命を創り、総体に目を向けることができなかった。だからわたしだけでなく、力のあるものたちは皆が、世界の均衡を守るために忙殺しているのです。戯けたことですよ」
 自分の主について、随分と辛辣な口をきくのだと思った。あるいはもしかしたら、わざとそのような口をきいているのかもしれなかった。絶対的な君主はとかく、逸りがちになる。己の判断だけを絶対視し、ごく近いものの言葉すら受け入れられなくなる。そのために賢い統治者は、自分の行いを相対化するために、辛辣なものを側に置くという。またそのような存在を身に纏うことが度量の証ともなる。
 単に愚かなだけである可能性もあった。しかしわたしはこの世界を自分なりに見てきた。厳しさの多く残る土地柄ではあったものの、人々は生き生きとしており、それぞれの特色を活かしてきちんと暮らしている。わたしを喚んだもののように、歪んだ魔術研究を成すものもいたけれど、かつて地上を襲ったものが住む土地としては、驚くほどに穏やかだった。おそらくこの世界の神は長らく過たず、この地を治めてきたのだろう。また過ちを認め、正す度量もあるに違いない。
 そのようなことをよしなしに巡らせていると、こちらが気分を害したと思ったのか、夢子が繕うように声をかけてきた。
「すいません、愚痴が過ぎましたね。まあ斯様な問題はありますが、わたしとしては貴女の願いを叶えるために動くことを第一にと仰せつかっております。故に貴女たちを安全に、首都までご案内致します」
 夢子は躾の良い従者らしい辞儀をしてから、またわたしのほうにちらと視線を寄せてきた。
「しかし異邦の偉大な御方、何故に獣車などで旅をされているのでしょうか。貴女ほどのものならば、ただ空を駆れば宜しいものを」
「わたしにそのような力はない。何ヶ月、何年と書物の海に溺れ、魔法を学ぼうと苦心してきた。しかしわたしには異邦の言葉を介するための簡単な翻訳術と、ごく僅かな肉体強化しか身につけられなかったのだ」力あるものの傲慢な言葉であったためか、わたしは水晶宮への案内人に、厳しい言葉を投げかけていた。「恥を偲んで告白するが、わたしの目的は強い力を手に入れることだ。また長らく生き続けることだ。わたしは老いたこの身を、是正したいという浅ましい欲望しか持っていない。そのような願いを、この世界の偉い神様は叶えてくれるというのかい?」
 わたしは燃えるような眼差しで彼女をじっと見据え、ただ愚直に問うた。すると彼女は目を細め、わたしの中を覗くようにして相対してきた。そして曖昧に首を横に振った。
「どうしてそのような願いが必要であるかわたしには分かりません。何故ならば、それは既に叶えられた願いであるからです。貴女はもはやその身に膨大な魔力を帯びています。元々の素養に加え、魔力を持つ蝶との交歓がそれを成し得たのです。それだけの力を持ってすれば、思うだけ生きることも夢ではありません」
 いきなりそんなことを言われても、わたしには納得できなかった。そのための術をわたしは必死で勉強したにも関わらず、一つも身につけることができなかったし、いまそれをやろうとしてできるとはまるで思えなかった。
「出鱈目(でたらめ)を言うな。わたしにそのような力があれば、そもそもこんな旅に出るなど思いもよらなかった。わたしには、長く生きるための理由がある。力を得るための理由があるのだから」
 すると夢子は小さく息をつき、氷のような言葉を吹きかけた。
「貴女は長く生きたいなどとさほど思っていないのでしょう。力が欲しいとも。魔法とはいわば願いです。どれほどの素養があっても、願いのないところに魔法は現れませんよ」
「わたしは誰よりも願ってきたのだ。力が欲しい。長く生きたい。わたしは死にたくないのだ。それはとても強く、わたしの中にある」
「いえ、貴女は元々、欲のない御方です」彼女はわたしの感情をあっさりと受け流し、今度は春の息吹のような声で言った。「どのような理由があり、このような所まで流れてきたかは知りません。しかしあなたは既に、執着を通り越した場所に辿り着かれていた。だからこそ露悪的にならなければ、願いを得られなかった。それは悪いことではありません。貴女がその境地のまま逝けなかったことを、わたしはとても悲しいことだと思います」
 夢子はかつてのわたしを素晴らしいもののように語ろうとしていた。さもすれば飲み込まれてしまうほどに甘美であり、だがわたしはその物語に屈するわけにはいかなかった。わたしの中に力があるのならば、その使い方を身につけて地上に戻るのだ。わたしは弟が築き上げてきたその片隅に立ち、仏の道に勤しむものを邪魔する輩がいれば、それらを追い払うのだ。誰かが感謝してくれなくても良い。わたしはそういったものになりたい。そのためならもっと欲望にまみれても良い。仏の道から外れきっても良い。だから、そのために、わたしは夢子の言葉を棄却した。
「わたしは水晶宮に行く。そこに居座る神様から望みの力を授かる。それだけのことだよ」
 新たな決意を込めて言うと、夢子はこれ以上、何も言わなかった。ただ踵を返し、そうしてわたしたちのやり取りをじっと注視していた彼女に言った。
「では、これから港のある町まで行きます。そこで一泊、宿を取ってから、首都に向かいましょう。順調にいけば明日の夕方には辿り着くはずです」
 そうあっさりと告げてから、夢子は御者台に腰をおろした。
「待って下さい。港町まではまだ相当に距離がありますし、水晶宮は海を越えた遙か先に……」
 彼女が抗議の声を上げたそのとき、獣車に繋がれた二角獣がひん、と弱々しい嘶きをもらした。それと同時、獣車はもの凄い勢いで空に飛び出していた。驚くべきことに夢子は獣車一台と二角獣を二匹、それにわたしたち三人を一気に持ち上げていたのだ。
「速度優先なので乗り心地は悪いかもしれませんが、勘弁して下さい」
 彼女はすいと獣車を空に走らせていく。二角獣が暴れないということは何かの魔法をかけられ、眠っているか意識を失っているのだろう。できればわたしにも同じものをかけて欲しかった。あまりの速さが情けないことながらわたしにはとても怖ろしかった。
 そんなわたしの気持ちを余所に、彼女が眼下を見て感嘆の息をついた。そんなに凄いものであるのかと、わたしはおっかなびっくり空の上から地上を覗き込んだ。
 そこにはこれまでのわたしが想像だにしないものが広がっていた。あれほど広いと思っていた荒野が、まるで地図の上のように狭く、かつあっさりと流れていく。
 やがて町の輪郭が現れ、何百もの人の行き交いを示しながら、あっという間に過ぎていく。何ともちっぽけで、しかし不思議と暖かみの感じられる光景であった。空を飛べるものは皆が、この気持ちを味わうのであろうか。遙か高くまで飛べるような、例えばこの世界の神は、一目で全てを見通せるのだろうか。そのような光景を目にするとき、神は何を思うのだろうか。世界はちっぽけだと思うだろうか。人間なんて、神に比べればあまりに小さくて、呆気ないものなのだろうか。だから救われないもの、力の及ばないものが現れるのも当然なのだろうか。
 だとしたらわたしは尚更、水晶宮に辿り着き、神に力を授かる必要があった。地に立ち、ごく身近を敷衍(ふえん)するだけのわたしが力を手に入れる意義はあると確信したからだ。またわたしは神に問うてみたいと思った。この世界について。この世界を維持できるほどの強い力を使うだけの願いについて。それはきっとわたしに、何かを教えてくれるだろう。
 わたしはそのようなことを考えながら、行き交う土地にじっと視線を向け続けていた。すると不意に、これまで黙ったままだった獣が口を開いた。
「こんなもの。わたしのほうが速く走れる」
 明らかに拗ねた物言いが面白く、わたしはからかうように訊ねた。
「いまのわたしは、美味しそうに見えるかい?」
 すると獣は肩を震わせてから、唾を吐くように言った。
「いんや、これまでと同じく不味そうな臭いがしてるよ」
 それは良かったとわたしは思う。それはつまり、わたしが欲得とともにあると言うことだ。願いを強く求めているということだ。そのことを教えてくれた獣にわたしは小さく頭を下げる。獣は照れくさそうにそっぽをむき、獣車の端に丸く転がってしまった。

 港町近くに降り立つと、二角獣たちは何事もなかったかのように残り僅かの道を進み、わたしたちは驚くほどあっさりと旅の折り返し地点にまで辿り着いた。
 実を言えば、わたしは海に憧れていた。これまでずっと内陸に暮らしてきたため、海を見たことが一度もなかったからだ。弟を訊ねての旅路でその姿を垣間見ようと考えたこともあったけれど、そのような邪を抱いては弟に会えないと思い直し、海の見えない陸地だけを進んでいった。だからわたしは今日初めて、海とその気配を、その側に息づくものたちの生を知ることができるはずだった。大きな港ともなれば時に異国との往来を行う船すら停泊し、通りは常なる活気に満ちているのだと聞いていたから、世界こそ違うけれど同じような光景が見られると思っていた。
 しかし実際は、まるで通夜でも開いているかのように静かでひっそりとしており、往来を通る人たちの顔は皆一様に暗かった。何とか場を盛り立てようと声を張り上げるものはいたけれど、並べられた品物に手をつけようとするものは殆どいなかった。
「普段ならば溺れてしまうほどに人が行き交い、活気にも満ちているのですが。このような姿しか見せられないこと、申し訳なく思います」
 わたしの内心を見抜いたのか、夢子はまるで代表者のように深々と頭を下げた。
「よしておくれ。今は互いにそのような遠慮を働いているときではないはずだよ」
「そう、ですね。では、今日の宿に案内いたします。明日の朝、早々に出立する予定ですので、それまでゆっくりとお休みください」
 わたしとしてはその前に海を眺めてみたかったけれど、言い含められると途端に疲れがどっと出た。そう言えばここ暫く、何も食べていないような気がする。その割にはあまり疲れを感じないのだけれど、然るに蝶たちとの遭遇からこちら、わたしの領分を遙かに越えるものに当たり続けてきたからかもしれない。
 明日になれば、嫌でも大海原を眼下に目することだろう。そう考え、わたしはこの町に漂う独特の薫りを感じながら、獣車に揺られて今日の宿に向かった。
 案内された宿は派手さこそないものの、外観も内装も丁寧に整えられ、いつ客が訪れても良いのだという周到感を、押しつけがましくないほどに放っていた。おそらくこの町で一、二を争う高級旅館なのだろう。身なりの良い案内人は夢子の姿を見ると一瞬の驚きを見せた後、恭しく一礼をした。二人は何やら小声でいくつか会話を交わしたのち、別の従業員を連れてこちらにやってきた。
「後のことは彼女に任せて下さい。わたしは少しばかり用事があって抜けますが、時間になれば迎えにあがります」
 そう言って夢子は忙しそうに宿を後にした。彼女ほどのものが焦っているのであれば、それは余程のことであろうと考え、わたしは胸にあったものを一時留め、従業員の案内に続いた。彼女はぼろぼろの身なりをしたわたしたちが、神兵とどのような関わりを持っているのか気になる風であったけれど、それを口に出さない程度には訓練されていた。三階の角部屋にわたしたちを通すと、従業員はしゃなりとした辞儀を見せた。
「食事の際には、ベルをお鳴らし下さい。すぐにご用意致します。湯浴はご自由に行って頂いて結構です」
 一階には食堂らしき一角があったのだけれど、どうやらそこまで降りていく必要はないらしい。従業員はそれだけを告げると、きびきびした動作で部屋を出て、次には気配すら感じなかった。
 従業員が去ると、わたしはまず浴槽を探した。空腹を満たすよりもまず、この身にこびりついた汚れを洗い流してしまいたかったのだ。
 浴槽は別室にあり、しかし中身は空っぽだった。ご自由にと言っていたから沸かされた湯が用意されていたのかと思ったけれど、どうやらそうではないらしい。どういうことか考えていると、彼女が横から割って入り、浴槽の近くについていたものを操作した。すると湯気の出る水が懇々と湧き出て来るではないか。
「どこか別の場所で沸かした湯を、管を繋げてここまで引いているのでしょう。豊かさもここまで来ると罪に近い気がしますね」
 わたしにはその罪が必要だったし、そのことについては三人の意見が一致した。広い浴槽であることも手伝って、わたしたちは一つの湯船にざぶりと浸かることにした。
 まずは桶に汲んだ湯を使い、石鹸で全身をごしごし洗った。軽く擦るだけで垢がぼろぼろとこぼれ、まるで脱皮しているようだ。彼女と獣もそれに倣い、かたや豊かな肉体を、かたやがりがりとした肉体を、泡に包んでいった。互いの手を借りて背中の垢まで一気に落とすと、体が一回り小さくなったのではないかと思うくらい、身がすっきりとした。
 そうこうしているうちに湯が溜まったので、わたしたちは湯船に身を浸した。獣はなみなみと湯気を立てる浴槽に恐れをなしていたようだが、軽くからかってやると渋々ながらも身を浸し、一度その心地良さを知ると誰よりも手足を伸ばし、くつろいでみせた。少しすると湯が微かに濁り、表面には軽く擦っただけで剥がれた垢がぷかぷかと浮かんできた。それを掬い出しては湯を張りと何度も繰り返すと、ようやく綺麗になり、わたしは浴槽に背を預けた。
「嗚呼、こういうのを極楽の心地と言うのだろうね」
 かつて、大和の地で浸かった温泉に比べれば規模は小さかったけれど、全身を包む良い湯は身をとろかすようであった。
「わたしは何だか落ち着かないというか、鍋で煮られているような感じがします」
 おそらくは住んでいた文化圏が違うためだろう。彼女はこうして湯に浸かることに慣れていないようであった。
「いやはやこれは桃源郷の心地だよ」対する獣はあっという間に湯に馴染み、いけしゃあしゃあとそんなことを言ってみせた。「これで旨い料理に良い酒があれば言うことがない」
 その口振りからして上手い料理の中にわたしや彼女は含まれていないようであった。とまれ、わたしたちはとろとろとした湯の加減を心行くまで無言のまま味わった。そうして沈黙が溜まってきたところで、わたしは陽気に口を開いた。
「思えば遠くに来たものだね。そしてもうすぐ旅も終わる」
 神の側仕えがその力を発揮するのだから、水晶宮への旅路に新たな困難は発生しないはずだ。わたしは目的を果たし、力を得て地上に戻るだろう。それは実に喜ばしいことだ。それなのに、わたしはそのことが何だか無性に寂しかった。だから、こんなことを聞いてしまったのだろう。
「この旅が終わったら、二人はどうするつもりなんだい?」
 しばしの沈黙があり、わたしはまずいことを訊いたのだと気付いた。一人はわたしを送り届ければ、契約に縛られる日々が戻ってくる。そしてもう一人は、わたしたちを食らうつもりで付いてきているのだ。
 しかし、彼女も獣も怒る様子はなかった。わたしに問われ、半ば戸惑っているようでもある。
「わたしは、何がしたいのでしょう?」彼女はぽつりとそう呟いた。「かつて、わたしは地上に在る神の僕でした。そして今では魔界人の主を抱いています。よく考えれば、わたしに自由であったときなどなかったような気がします」
 漠然とした問いかけを投げつけられ、わたしは何も言うことができなかった。彼女はそんなわたしを慰めるように、苦しみを押し殺しながら、囁くような声で言った。
「叶うならば、我の赴くままに本と向き合って生きて行きたいですね。わたしは本を通して楽しみを知り、それ故に堕落しました。おそらくわたしが成した最初で最後の自由ですから」
 彼女はその言にまるで自信がなさそうであった。でも、わたしにはそれが望みであるのだと何となく分かった。いつも事務的で最小限のことしか言わず、にこりともしない彼女がほんの少しだけ、口元を笑みで歪めたような気がしたからだ。湯気の揺らめきが見せた幻かもしれないけれど、わたしはそのことを信じたかった。
 わたしは次に、黙ったままの獣に声をかけた。
「お前の望みはわたしたちを食らうことだった。今もそのことに変わりはないのかい?」
「ない!」獣は素早く断言した。「しかしお前たちはいつまで経ってもちいとも旨くならない。だから結局、望みは叶わないままに終わるのだろうよ」
「それは、申し訳ないことだ」
 半ば本気でそう思っていたのだが、獣は「皮肉はやめろ」と一蹴し、言葉を隠してしまった。獣は何かの魂胆をもってわたしたちの側にいるのだと勘付いてはいたけれど、わたしにはそれが何か分からなかった。ただ一つ言えるのは、獣が今のわたしや彼女を食べる気ではないということだ。だから、獣の魂胆は魔界神との謁見が終わった後でゆっくりと訊ねれば良いと思った。
「しかし、明日には魔界の神と対面しているわけだ。地上でわたしは、ついぞ神仏の類と出会った試しがないのだけど、どのようなものかね」
 実際には夢の中で一度出会ってはいるのだが、単なる吉兆であるのか、それ以上の意味があるのか、わたしには判断がつきかねた。だからひとまずは出会っていないという前提で話を進めることにした。
「あの夢子と名乗るものよりも、遙かに上を行く存在なんて、想像もできないのだけどね」
 蝶の群れ全ての魔力と少なくとも匹敵し、獣車ごと瞬くような速度で運ぶことができるだけでも、驚天動地であるというのに。だが太陽さえも創ったのだから、あらゆる想像の埒外にいたとしてもおかしくはないだろう。
「お前たちもそう思うだろう?」
 何気なく訊ねたのだけれど、それは二対の怪訝そうな視線を寄せるのみだった。
「貴女は夢子と名乗った神兵ほどではないにしろ、わたしからすれば十分に驚くべき存在です」
 すると獣が珍しく同意して、何度も頷いてみせた。
「訳が分からないね。もしかしてお前たちも、わたしには素養があるのにまるで使おうとしていないのだ、なんて言うつもりではないだろうね」
 わたしがそのように薄情であるなどと考えたくはなかった。しかし彼女はわたしの戯言にあっさりと同意してみせた。
「元々素養はあったはずです。あの契約書は力のある魂を捉えるためのものだったのですから」
「わたしに、力なんてないよ」
 もしそんな力が元々備わっていたとしたら、わたしはあのとき弟が育てた弟子たちをみすみす死なせなどしなかった。何年もの歳月を無駄になど費やさなかったはずだ。だからわたしに力があるなんて話は聞きたくなかった。認めるわけにはいかなかった。わたしは湯船から上がると、いつの間にか用意されていた体拭き用の布で全身を乾かし、いつもの服を身に纏い、沈むような寝台に身を横たえた。
「だから、わたしは浅ましく力を望むのだ」
 わたしは復誦し、ただただ疲れに意識を委ねた。

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