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木ノ花、疾風に咲く木ノ花 後編   木ノ花後編 第8話

所属カテゴリー: 木ノ花、疾風に咲く木ノ花 後編

公開日:2016年10月01日 / 最終更新日:2016年10月01日

 卅四./相良の殿様(西暦1198年)

 範頼達の死を知ったゆやは、狂わんばかりに嘆いた。それはかつて伝え聞いた、清水冠者義高を失った大姫の狂乱にも似ていた。
 その悲しみに拍車を掛ける出来事が更に起こる。吉見に下向していた北斗丸達三人の養子の事。北斗丸は自身の血を知ってか知らずか、「己が死ぬべき」と、幼子とは思えぬ決断を下したのだ。
 二人の義弟達の助命を願い、自害するなどという、生まれついての武人としか思えぬ行為を。
 北斗丸の決死の助命嘆願により救われた二人の義弟は元通りに小山氏に戻って――範頼の子として――養われ、殊に結城朝光により手厚く扱われた。
 しかしこれを聞いたゆやには、もう流す涙すら残っていなかった。

 範頼達、そして太郎の件を乗り越えた射命丸とゆやは、遠江の蒲御厨での日々を過ごしていた。
 範頼の死後、当地を本拠地にして遠江守に補任されていた安田義定が鎌倉の弾劾により誅殺された後は、遠江は戦乱からも策謀からも切り離されていた。
 まだ各地で鎌倉による平定の動きは続き、それに伴う戦も起こっている。しかしここは、実に穏やかなものであった。
 しかし二人には使命があった。
 新たな命を育む事。
 そしてゆやの元には一人の娘が訪れる。
 紛れもない範頼との子である娘は“藤姫”と名付けられた。

 三人の子達に注いでいた愛情を藤姫に向け、頑丈でない身体でその養育に全精力を尽くす。大げさではない、彼女は命を削りながら姫を愛した。
「ゆや、土仕事は私がやるから、姫の面倒も家の者に任せて休んで」
 三尺坊からの許しを得、秋葉山を出る事になった射命丸は、ゆやの側に付いて身の回りを助けていた。そのゆやは、射命丸の申し出に首を振る。傍らの藤姫の手を引きながら、
「大丈夫です、姫にも教えないといけないし。ねぇ、土いじりは楽しいよね?」
「うん!」
 射命丸に似た小芥子頭の、背は二人の腰にも満たない小さな女童が元気よく答える。
 微笑みを返すゆや。三十を過ぎたばかりの彼女であったが、その面はかつての激動の日々にすり切れたままの、明らかな衰えが見えている。藤姫が六歳を迎えた最近は、それが特に顕著になっていた。
 射命丸は彼女ら母子をずっと見守っていたかったが、それが叶わないのでは無いかと不安になっていた。
 ゆやの母の藤も娘を想い続け、彼女が戻った途端に安堵の中で亡くなっていったのを覚えている。
「今日は西の塚の畠よ、競走しようか」
「するー」
 そう言って農具を抱えて駆け出す母子。射命丸はそれを愛おしそうにも哀しそうにも見つめ、追いかける。先年にはついに大姫が亡くなったと聞いた。ゆやもその様に亡くなってしまうのだろうかという恐ろしい予感は、日に日に強くなる。
 彼女らが門を出ようとした時であった。馬が一頭、脇へ寄せている。馬上には渋色の水干に萎烏帽子の男。
「あー、七郎さまー」
「頼綱様、ご無沙汰です」
 畏まった格好ではあるが、いつもと変わらぬ様子の頼綱がそこに居た。
「ゆや御前、それに一貫坊様に姫も、しばらくぶりであります」
「父上の姿が無い時はただのゆや、でお願いします」
「藤も藤も!」
 父上とは蒲清倫の事。ゆやは彼の娘であり、範頼の死後もここに留まれたのも、そのためであった。
 藤姫の言葉に苦笑いで返し、その頭を撫でる頼綱。彼は今、本貫地を鎌倉に召し上げられて鎮西へ下向した相良氏の中で、一人相良荘へ残って、土地の者と過ごしていた。戦は無くとも、住人同士の争い事や野盗の相手など、治める者は必要とされるのだ。
「今日はどちらでのお勤めだったのですか?」
 その帰りがけだったのであろうと射命丸が問い掛けると、彼はゆっくりと門の方へ首を廻らせ、また戻ってから言う。
「本日はこちらに、いや、ゆやと一貫坊様に用件があって参った次第」
「ゆやと、私に?」
 彼女と顔を見合わせる射命丸。悪い報せでなければよいがと、二人して身構える。
「来い、太郎」
 太郎、その名を聞いて二人はハッとする。
 あの太郎、彼女であるはずは無い。彼女が御所へ押し入り、頼朝の寝所にまで至ったのは、範頼の死後確かに知った。
 範頼を救うという彼女の願い、頼朝の為に己は死ななければならないという範頼自身の願い、いずれかを叶えるための行動であった。そこまでの事を起こして、生きていられよう故は無い。
 だがそこへ現れたのは、浄衣の如き無垢な白の水干に、侍烏帽子の下も同じく真っ白な髪。
「ヲン!」
 笑顔で小さく吠えたのは、あの太郎であった。

 畑仕事は一旦後回しにして客間に入る射命丸達。
 ウグイスの鳴き声と風に揺れる木々の音だけが静かに聞こえるだけ――ではなく、藤姫が太郎にじゃれつき、騒々しい。藤姫は彼女が妖であるのを知らないからか、少しも怯えずにいた。
 太郎も慣れた様子で藤姫と戯れ、たまに耳や尾を引っぱられても笑顔であしらう。鎌倉に居た時の、北斗丸達相手のおっかなびっくりとした様とは大違いであった。
 微笑ましげな二人を眺めながら、頼綱は事の次第を語る。
「太郎が御所へ押し入り、兄者の浜の館の騒乱が鎮圧された後、大姫様が発作を起こしたため、二人の他、捕らえられた者は死一等を免じられたらしいのです」
 実際に彼女が発作を起こしたのかは定かで無い。ただそれを理由として彼らは許された、それだけは事実であったと言う。
「それで、今までどこへ? もしかして鎮西に――」
「はい、所領召し上げと一族の下向、これに先立って二人は肥後に流されておりました。いえ、我が一族の受け入れを整えていた様です」
 鎮西の南では島津(しまづ)氏が平定に取りかかっているが、未だに平家の余党やその他の土豪の抵抗がある。そのため彼らは鎮西平定の一助となるべく、肥後国、球磨(くま)郡多良木(たらぎ)(※2)に下向させられたのだ。
「実際、鎮西では色々有ったようですが、多良木に隣する土地の平定や、開墾にも尽力したそうです」
 お陰で当地は、今や田数六百にも及び、相良の様に牧場も開き始めたのだと頼綱は言う。
「それでは、頼景殿はそちらで御当主の助けを?」
 現当主は彼ら兄弟の末弟、相良三郎長頼であるのは射命丸もゆやも知っている。あくまでも彼は弟を支える立場に居たのであろうと。
「いえ、兄者が治めていたそうです」
 彼が主体となって、いた。
「え、では今は?」
「兄者は、亡くなりました」
 亡くなった、何故であろうか。射命丸達の喜びは一気に冷え込んだが、頼綱の顔は実に穏やか。訃報ではあれど、悲劇では無いのだ。
「かつて相良荘を治めていた時よりも、かなり無茶をしていたみたいです。そう、太郎がもたらしてくれました」
 今も無邪気に藤姫を戯れる太郎を見る。彼女はずっと頼景の側に居て、彼を助けたのだ。
「体を壊してそれでも懸命に働いて……立春の辺りに眠ったまま、息を引き取っていたと。とても、安らかであったそうです」
 本人が望んだとはいえ死なせた範頼を、次長を、郎党達を、彼は悼んでもいたのだろう。それが原動力であり、命をすり減らせてもなお彼を動かしたものかも知れない。
 早すぎる死ではある。それでも、源平の合戦に奥州での乱を生き抜いて静かに床の上で死ねるなど、なんと贅沢な事か。そう頼綱は笑って言う。
「と、すいません、少し催してしまいまして。一貫坊様、失礼ですが厠へ案内して頂けないでしょうか?」
「あれ、頼綱様、忘れちゃったんですか?」
「えーかん空けましたからなぁ」
 誤魔化し笑いをしながら射命丸に案内されて退出する頼綱。射命丸には、彼が己と一対一で話をしたのが分かった。

 厠へ、と言いつつ、境内を廻る射命丸達。頼綱が知りたいのは、ゆやの身体の様子であった。
 明らかに健康を害している。兄が多忙ゆえに死んだなどと知ったばかりでは、ただでさえ気がかりなゆやのそれを、殊更に心配するのは当然であった。
 そして射命丸は、かつて桜坊がゆやの母――藤の容態を語った時の様に、重々しく口を開く。そこにこもる感情は、藤の時よりも遙かに強い。
「恐らくゆやは、長くありません」
「薄々は思っておりましたが、やはり母君と同じくなるのですか……」
 重衡を失った千手の様に、義高を失った大姫の様に、彼女もまた逝ってしまうのであろうと、頼綱は嘆く。
「それよりも七郎殿、一族の方々がことごとく下向した中、一人残るのはさぞ大変では」
「なに、留守番はもう、慣れましたので」
 小さく笑って答える彼であったが、
「いえ、いつか戻って来るのを待つのは慣れましたが、置いて行かれるのは、辛うございますなぁ」
 ついぞ耐えきれなくなり、己を置いて行った者達を偲(しの)び、彼は天を仰ぐのであった。

     * * *

 相良頼景。
 鎌倉幕府の史書『吾妻鏡』に相良三郎の名があり、年代からこれは頼景であると解釈されるが、球磨相良の正史『球磨外史』には、相良次郎あるいは藤四郎(とうしろう)として彼は現れる。
 歴史上の頼景の姿は、当麻太郎の鎮西遠流と時を同じくした遠江相良荘の召し上げと、肥後国球磨郡多良木荘への下向程度に止まり、治承寿永の乱当時の足跡は定かで無い。
 その他、鎮西へ下った後は、人吉(ひとよし)荘(※3)の平定に尽力した様子が辛うじて見られる。
 その功により彼は多良木荘の地頭に任じられ、それは嫡子とも弟ともされた相良三郎長頼へ、開拓した所領は他の子らへ受け継がれた。
 相良氏はこれ以降、長く当地を治めたのである。

 遠江からも一族が揃って下向し本拠がそちらに移る中、一族の中に、史料からは球磨への下向が見られない人物が居る。
 相良七郎頼綱、後の名を河馳(かわせ)頼綱とした彼がそうである。
 頼綱は後に鎌倉より所領を回復された相良荘に残り、鎌倉時代の中期まで生き、遠江相良荘における相良の宗家の命脈を保ったとされる。

 遙かに時を下り、日本国が御一新(※4)という大転換を迎える前夜、球磨人吉藩に一人の人物が産声を上げる。
 後に宗家の家督を継ぎ子爵となったその人物は、名を、相良頼綱と言った。

     * * *

「隣、良いか?」

「手酌では寂しかったからな、お前の様な麗しき者なら大歓迎だ」

「言ってくれるな、殿様」

「ん? 俺は本気で言ってるんだが」

「まあ良い。それにしても、綺麗な月だ」

「ああ、遠江の月も良かったがこちらもまたヨシ、だ。そうだ、今更だが、ここらを騒がせてすまぬ」

「別に構わないさ、殿様なら善く治めてくれると信じてる。それにオレ達も、信濃に移る事になったんだ」

「そうか信濃に。遠江にはゆやに一貫坊殿、それに俺の弟も残ってる、もし会ったらよろしく頼む」

「殿様の弟か、会えると良いな……そう言えば“殿様”と言っても嫌がらないんだな」

「ああ、今の俺は――



        “相良の殿様”だからな

第28話注釈―――――――――――――――――――――――――――――――――

※1 肥後:肥後国(ひごのくに)、現在の熊本県。西海道に属する一国
※2 多良木荘:現在の熊本県球磨郡多良木町。相良村が隣接する。
※3 人吉荘:現在の人吉市。かつての人吉藩であり、同藩は球磨相良氏が治め、明治維新まで存続した。藩主家として最後の当主が、相良頼綱の父頼基(よりもと)
※4 御一新:明治維新の事。この時節の中でも相良氏は家系を存続し、相良頼綱は子爵から公爵まで陞爵(しょうしゃく)している。
***で囲った相良氏の後の流れは、少なくとも私の創作では無く、あくまでも資料による限りの史実です。(by.ハサマリスト)

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