東方二次小説

木ノ花、疾風に咲く木ノ花 後編   木ノ花後編 第2話

所属カテゴリー: 木ノ花、疾風に咲く木ノ花 後編

公開日:2016年07月29日 / 最終更新日:2016年07月29日

 廿七./破軍星(西暦1185~1186年)

 平家を滅ぼし、鎮西の平定に力を注いでいた鎌倉。しかし今は、義経の行方を追うのに躍起になっていた。
 朝敵となり、鎌倉からの追捕の手が迫るのを察した義経はすぐに京を脱出し、海路で鎮西に向かって行ったのだ。その時折悪しく吹いた大風に船が難破し、鎮西への道は閉ざされた。そこまでは鎌倉も掴んでいた。
 八島への丸二日の道程をたった数時にまで縮めた神通力は、彼には無かったのである。
 それと時を同じくして、頼朝の名代として京での諸事を担当すべく、時政が上洛して行った。
 これは特に各地に守護及び地頭という、律令上の官吏とは異なる、鎌倉の新しい官職を置く事を朝廷に奏上する事が目的であった。
 元来一極で管理されて来た各国の領地を、鎌倉が統治する体制を整えようとしたのである。
 当然朝廷では反発があったが、義経追捕を目的とした軍事的な配置という名目の元、これはやや強引に推し進められたのである。
 また時政はこの後すぐに、京の守護職にも就く事になる。彼は他の御家人とは違い、鎌倉では頼朝の岳父(※1)としての立場のみで職に就く事が無かったため、――鎌倉としては――ある種異例の人事であると言えた。

 一方の鎌倉では、ついに河越重頼に沙汰が下った。
 彼の娘の郷御前は、今以て義経と行動を共にしている。その父にどの様な沙汰が下るのかは、誰にも想像が付いた。
「昨日、河越殿が誅殺されたそうです……」
 御所で口達された内容を、館に帰った範頼が語る。
 所領没収の上、嫡男の重房(しげふさ)と共に斬罪。分かりきっていた事とはいえ、非情な結末であった。
 それに範頼には、もし己が足利義兼の言に乗っていたらという、後ろめたさもあった。故に顔色はなお暗い。
「気にするな蒲殿。上総介殿が言おうがお主がそれに賛同しようが、これを曲げるのは無理だったろう」
 頼景がそれを慰める。確かに、これは下手に翻せば、御家人らの反発を招きかねなかった。今回の件はそれだけの事態であったのだ。
「それより問題は、九郎殿の行方ですね」
 これについては太郎もその眼を用いて捜索していたのだが、どうにもはっきりとしないと、彼女自身が困り果てていた。
 太郎の眼が通用しない。以前を鑑みれば、義経達は京もしくはそれに類する結界の内に居ると考えられたが、まさか京には戻るまいとそちらは除外していた。
 だがその考えが半分間違いであったのを、射命丸はすぐに知る事になる。

 年の瀬も押し迫り、皆が年末年始の諸行事の準備に勤しむ中、頼綱と共に侍所から戻った頼景が、館に残っていた範頼以下のいつもの面々をすぐに集める。
「どうしたんです、頼景様。そんなに慌てて」
「おお、ゆやも同席しろ。お許にも関係のある話だ」
 今の時節、義経に関する話かと思っていたゆや。館の一室で円座になる彼らから少し離れ、場に加わる。
「頼景殿、ゆやをこんな所に同伴させて、どういうつもりですか?」
「ヲフ、ヲン」
 太郎が珍しく射命丸に與力して抗議の声を上げる、男共に囲まれては彼女の心身に障るであろうと。
 だが頼景はそれを受け流し、侍所から持ち帰った話を皆に伝える。
「関係があるから同伴させておるのです。御曹司、先ほど京から早馬が着いた。それは九郎殿の行方に関わる事であったのだが――」
「あったのだが、何です?」
 もったいぶる風でも無く言葉を詰まらせる頼景に、そんなに驚く事があったのかとは察しながらも、範頼は続きを促す。
「実は九郎殿とその余党は南都の更に南、吉野の山中の寺に潜伏していたらしい。追捕の隊がそれを知って押しかけたのだが、九郎殿は郎党と共に既に逃亡と」
「それが?」
「落ち着いて話を聞いて下され、一貫坊殿」
「兄者こそ落ち着いて端的に話せ」
 諭した弟に拳骨を落とし、頼景は呻く彼を尻目に深く一息ついて続ける。
「今の吉野山中は雪深い、それで一行から女が一人落後したのだ」
「郷御前が、か」
「いえ。勝間田様や頼綱は知らないはずですが、それが俺達の知る人物らしくてですな」
 次長や頼綱は知らず、射命丸や太郎もが知る人物。一体誰であろうか、頼景以外は首をひねる。
「ゆや、あのしずだ。しずが吉野で捕らえられた」
「しず……しずが!?」
 ゆやは驚愕の表情を浮かべ、頼綱以外の皆も口々に驚きの声を上げる。
 かつて、飢えかけていた所にゆやが飯を与え、池田荘司邸で養われていた少女。駿河国の賤機山(しずはたやま)で生まれた孤児と聞いて“しず”と呼び、相良荘と勝田荘に跨がる静波(しずなみ)の浜から取った“静(しず)”という字を与えた。
 確かに彼女ならば、射命丸や――当時はまだ山犬であった――太郎も知っている。
「四郎殿、その娘なら儂も一応は知っている」
「なら話は早いですな。そのしずが京の北条殿の屋敷に召し出され、年明けには鎌倉に連れて来られるらしいのです」
「ですがしずは、私が知る限りでは白拍子の方々と行動を共にしたはずです。一体なぜ義経様と共に?」
 この当然の問いには、重要な事は言い切った頼景に変わり、頼綱が答える。
「それは話に上がりませんでした。兄者が問おうとはしましたが、子細に突っ込んでは怪しまれましょうし、何よりそれは今後鎌倉で詮議されるであるかと」
 いずれも当然。
 今分かるのは義経の元にしずが居た事、そして彼女が無事である事だけ。それでも、少なくともゆやには、彼女が無事であるのが分かっただけで十分であった。

       ∴

 年が開け、年始の忙しさも過ぎた頃。詮議のためと称して捕らえられた義経の愛妾が鎌倉に召し出される。
 ゆや達はそれが本当にしずであるのか確かめようとしたが、それは難しかった。
 まず詮議の場が――宗盛親子の時とは異なり――御所に限られており、そこに頼景はもとより、範頼ですら同席できなかったためであった。
 当然太郎の眼を頼り、彼女には御所の奥を探らせた。しかし太郎には、そこに居る女性がしずであるか否か判別しかねた。
「そうだとも思うし、違うかも知れないだと?」
「クゥーン……」
 面影はある。だが白拍子らしいその器量が、とてもあのしずだとは思えないと太郎は感じたのだ。
 ゆやもしずも、まだ子供と言える時期に攫われて行ったのだ。ゆやの――不健康な点以外の成長に伴う――――変わり様を見れば、今のしずが太郎に判別がつかなくても当然かと、頼景は思った。
 だがそれを確かめる機会はしばらくして訪れる。

 頼景と共に盛長に招かれた範頼は、春先の甘縄の館でいつか有った様なやりとりをする羽目になっていた。
「私に、側室を?」
「はい、ゆや御前との間に子が出来ないのを鎌倉殿が気にかけておられまして、よければ縁を取り持つと」
「いや、藤九郎様、僭越ながら申し上げる」
 言葉に詰まる範頼に代わり、頼景が口を開く。
「ゆや御前との婚姻の後、共に居た時間はとても短い。それを考慮せず側室をというのは、時期尚早と?」
「はっ、その通りでございます」
「仰るのは分かりますが、これは拙者も同意見であります。ゆや御前に難しい事情があるのは拙者も知っておりますし。で、あればこそ、側室を娶るべきかと」
 以前、ゆやを彼女と知らずに縁談が進められた際と、小さな祝いの後で頼景が殴られた時と同じ事を盛長は言う。当然今は範頼も素面であるし――万一呑んでいたとしても――彼に手を上げるなどは断じてあり得ない。
 確かにそうだ。それに本来の血筋が定かで無いゆやとは異なる、歴とした者を妻に迎えるべき。理屈はそうであるのは二人も理解している。
 盛長にそう言われ一旦は言葉を止める。だが事情が分かっていながらそう言うのには何か理由があるのかと、二人とも訝しむ。
 その様子に気付いた盛長は、声を落として二人に顔を寄せて言う。
「実はですな、先般、京の北条殿より送られて来られたた九郎殿の愛妾の静御前(しずかごぜん)なのですが、どうも子を身籠もっているらしく……」
 子を、それを聞いた二人は、静御前なる人物がしずでないと半ばまで判じた。彼女がゆやと同じ目に遭っていたとは、ゆや自身が射命丸に言い、射命丸から頼景に、頼景から覚悟を決めた範頼にと伝えられていた。
 辛うじて触れ合えていたとしても、子など作れようはずが無い。
「ん? どうかなされましたかな?」
「いえ、少しいらぬ事を思い浮かべておりまして。なるほど、京に行って大して時も経ずに妾を得て、子までもうけるなど絶倫ですなぁ。などと」
「絶倫も絶倫。その女性の申すには、郷御前も身重の体で雪の中を行ったのだ、との事ですからな」
 義経が郷御前を娶ったのは一昨年の秋、それから一年と少ししか経っていない。
 それにはある意味感心しつつ、だからと言ってと範頼は難しい貌をする。
「参州殿は、やはりあの一貫坊殿が気になっておられるのですか?」
「いえ、いや、その……」
 肯定とも否定とも取れない歯切れの悪さに、頼景は眉をひそめる。本心は分かっているが、ここは違うと言い切ってしまえばいいのにと。これには範頼も「突然言われたらしょうが無いでしょう」と、目配せと眉の動きのみで答える。
「藤九郎様、それはありません。一貫坊殿はあくまで僧の身で仕えているに過ぎません」
 結局、先んじて頼景が助け船を出した。
「おお、そうでありましたか、それは失礼仕った」
 どこまで信じたのか分からないながら、笑って言う盛長。頼景も一緒に笑ってごまかす。
 残る当の範頼は辟易しながら、
「それで、そんなお話が持ち上がったのですか……」
 いい迷惑だという表情を隠さず、二人に顔を向ける。
 盛長は笑いを止めると、側室の話はさておきと静御前の話題に移る。
「御殿も半ばは冗談で言っておりますから、そちらはしばらく大丈夫かと存じます。それよりもその静御前、詮議にものらりくらりと答える上、嘘偽りまで織り交ぜるなど中々な難物でありまして」
 愛する男の為ならばと言うところかと範頼達は感心するが、その後に続く言葉には絶句する。
「それが御殿の気に障ったのか、静御前に「鶴岡八幡宮に舞を奉納せよ」などと命じられまして」
 これが知れたのも、静御前を預かり身の回りの世話をするのが安達の者の雑色だからであると盛長は補足し、身重の女に舞わすなどと酷な事よと頭を振る。
 そこへ白湯を持って、丹後内侍が現れる。
「あら、板東の女は産気づくまで畑仕事をするものだとは、旦那様がわらわに教えて下されたではないですか」
「いや、ゆったりとした畑仕事と、激しく動く舞では違うだろう」
「あらあら、その静御前もよもやお腹の子を慮らないという事は無いでしょう。舞は選ぶのでは?」
 それはその通りだと範頼達は思うが、それにしても舞うのはやはり辛いであろう。
 だがそれらの事情より、静の顔を直接見られる機会は二人も望んでいた事。違うとは思いながらも、静は果たしてしずなのか、それを確かめられるのが待ち遠しかった。

 明くる月の鶴岡八幡宮。
 それまでも奉納の舞が納められる事は有ったのであるが、舞ったのはいずれも静では無かった。と言うのも、静は詮議でのらりくらりと答えたのと同じく、身体の不調を理由にこれを先延ばしにしていたのだ。
 だがその心中は如何にあるか。囚われの、しかも身重の身で舞うなど、義経の愛妾としてその名声を疵付ける恥辱と嫌ったのではと、思いやる声も少なくは無かった。
 だがその頑固な態度も、ある求めにより覆されたのであった。
 静にこれ以上の詮議は無意味であり、この後は共に下って来た――真偽はまだ定かで無い――母の磯禅尼と帰京するのだと決められていた。ただしそれは出産の後の話、それまでに評判の舞を是非見たいと、意外にも頼朝の妻政子が言い出したのであった。これに頼朝も八幡様に納める舞なのだからと後押しした。恥辱を与える意図は無いと諭したのでもあろう。
 かくして、義経の愛妾静御前は、人々の前にその姿を現すのであった。

 由比ヶ浜より、鎌倉を南北に貫く若宮大路を北に突き当たれば、その先に八幡宮がある。この立地に加え、都邑よりも先に整えられた宮、ここが御所より何よりもこの新たな都の中心であるとされる証左である。
 そこには今、多くの御家人やその家族、それに近隣の民が詰め掛けていた。もちろん皆、静の舞を一目見ようと訪れたのだ。
 何せ京に在った頃には、僧百人が護摩行を行っても治まらなかった日照りに、静一人の舞に龍神が喜び雨を降らせたのだとも伝わっていた程なのだ。この人出も当然。
 彼女が舞う舞殿は、本宮へ至る急な石段の直下。奉納の舞を舞う場所としては絶好の舞台である。その舞殿の周辺は、いよいよ芋洗いよろしい様相となっていた。
 比較的鎌倉での地位の高い者達は、頼朝らの為に設えられた御簾に囲まれた席の周りに陣取る事が叶い、そこにはそれぞれの夫人や郎党も同席する。
 だが範頼達の姿はそこに無い。
「どうです、ここなら舞殿がよく見えるでしょう?」
 射命丸が、浜の館のいつもの一同に言う。
 観覧席ほどでは無いが、舞殿から十間と離れていない場所に建つ弊殿。社僧としての勤めの傍らに観覧を許された射命丸が、ここに皆を招いたのであった。
「ふむ、ここからなら顔も拝めるか、なぁ?」
「ええ、でも舞も十分に楽しめそうで良かったです」
 頼景と範頼が言葉を交わし合う。少し離れ、ゆやの姿もここにあった。あえて頼朝の側ではなくここに居るのも、彼女の身を思っての事である。
「範頼様――」
「表では“参州殿”と呼ぶのだ」
 口を開きかけたゆやに、次長がぴしゃりと言う。
 ゆやは「はぁい」と気の無い返事を返して、それでも叱られた通りに改めて話しかける。
「参州殿、あの静御前様は、しずではないとお思いなのですか?」
「ええ。あくまで私と、頼景殿の推理では、です」
 静が身重であるからとは言わない。その旨、もしかしたらゆやは察しているのかも知れないが。
「兄者、俺は白拍子というのは初めて見るんだが、一体どういう者なのだ?」
「お前、それは本気で言っているのか?」
 頼綱の問いに頼景は呆れる。呆れられた頼綱は、田舎暮らしだったのだから知らなくて当然であろうと憤慨し、逆に兄に極められ鎮圧される。
「男装をしたりして舞う、芸能に携わる者ですよ」
「ええ、それに遊女を兼ねたりもするんです」
 範頼もあえてこれを言わなかったのであるが、そう補足したのはゆやであった。
「母様も元々は神事舞い(※2)の舞手でありましたし、白拍子とは根が同じだと教えてくれました。また神事舞いの舞手も遊女として召される事があったと」
 意外と大胆に語るゆやに、一同は驚くやら戸惑うやら様々。特に射命丸と太郎が動揺している。
 白拍子も神事舞いを舞う巫女も、遊女として召される事がある。それは比較的高位な者へであって、名誉な事でもあった。
 また神代にまで遡って語れば、天鈿女命(あめのうずめのみこと)(※3)言う名の、舞踏によって太陽を取り戻した芸能の神が居り、彼女はまた遊君の起こりだとも言われている。とまで、ゆやは語った。
「よく、天鈿女命のお話を知ってましたね」
「御厨育ちの参州殿の妻としては、まだ足りません」
 少し胸を張りながらも謙遜して言うゆや。射命丸もそれには感心し、逆に静がしずでないとした範頼達の推理の根拠を暗に認識した。
「それはいいが、始まるみたいだぞ」
 頼景が舞殿の南に目を向けると、若宮大路から続く参道を神官に案内され、立烏帽子に薄紅の水干、紅の長袴を履いた女が歩みを進めていた。ずっと後方に大鳥居を背負い、腰には太刀を帯び手には蝙蝠扇、勇壮さと麗しさを兼ね備えた出で立ちである。
「うーん、、、ゆや、どう思う?」
「もう少し近づけば、分かるかも……」
 まだ遠い。人の顔を覚えるのにはそれなりに自信のある射命丸。それに一番最近の――とはいえ平家が都落ちする前までだが――彼女の顔を知るゆや。いずれもが、太郎と同じく分かりかねる、と見ている。
 だが近づいても、それは明らかにならなかった。
「顔全面白塗りか、あれでは分からんな」
 頼景が落胆した風に言う。当然言えばそうなのであるが、化粧を施しているため、元の輪郭すら見えない。もしあれがしずであっても、成長して変化していれば全く分からないであろう。
 ただし目元や鼻筋、口元などを見るに、評判通りの器量であるのは見て取れる。
 一同がああでも無いこうでも無いと唸っている内に、白拍子の静は舞殿の舞台に座していた。

 静の舞は、断じて辱めを受ける囚人のものでは無かった。
 それを証明するのは、拍子を打つ者達の顔ぶれ。武蔵の勇将畠山重忠が銅拍子を鳴らし、伊東氏の次代となる工藤祐経(すけつね)が鼓を打つ。
 その二人よりも雄々しく蹲踞の姿勢を取る静は、八幡宮本宮へ向かって深く頭を下げた後、頼朝に向き直ってまた一礼する。その所作一つ一つが流麗であり、彼女を見る者達は、ただただ唸るばかりであった。
 笛の音が響き始めると、それら衆人のざわめきも鎮まり返り、静が立ち上がる。
 鳳の如く一度袖を大きく広げると、右に左にと羽ばたき、腰に手をやり扇を振ってその場で一つ回る。彼女が動くたびに、黒染めの絹糸の如き垂れ髪も靡く。誰もが彼女に目を奪われ、言葉を失っていた。
 だが次に、謡い始めた彼女に、観覧席の者達は別の意味で言葉を失う事になる。

――吉野山
    峰の白雪 ふみわけて
      入りにし人の 跡ぞ恋しき――

 詮議に参加していた御家人らは、この歌の意味するところを察する。雪深い吉野の山、そこに入ったのは誰であったか。そしてその跡を恋しいと言うなど、と。
 静は片膝を立て、西に位置する頼朝の席の方を拝む。上がった御簾の奥から眺める頼朝と舞う静の視線が交叉するが、彼女が拝むのは頼朝でも無ければ八幡神でも無い。遙か彼方の西の地、そこに居るであろう者だ。

――しづやしづ
    しづのをだまき くり返し
      昔を今に なすよしもがな――

 ついに言った。歌心に覚えのある幾人かの御家人は、言葉に続き血の気を失う。今の歌はこの場ではどう考えても拙いと判じたからだ。

 弊殿の範頼達にも、静の歌は届いていた。そして範頼とゆやは、揃って戦慄している。元から歌心のある範頼、ゆやも重衡らが身に付けさせてくれたそれで、静の想いを解していた。
 頼景をはじめ、無骨な一同はそれが分かっていない。ただ美しい声と歌であるとだけ感じていた。しかし二人が舞の優美さとは別の理由で息を呑んだのには射命丸が気付き、ひそひそと問いかける。
「ゆや、一体どうしたの?」
「今、静様が歌ったのは、義経様への想いです」
「九郎殿への!?」
 小さくではあるが、射命丸の驚きの声に他の者も気付き、ようやく事態が飲み込めた。
「先の歌は多分お分かりかと思いますが、後の歌の意味はこうです」
 吉野の山で別れたその恋しき者が、「しずやしず」と、倭文(しず)(※4)の布を織るために巻いた苧環(おだまき)(※5)から糸を繰り出すが如く、繰り返し名を呼んでくれた。あの美しき日々が今に在ったらどんなに良いか。
 そう、義経を想う歌を謡っているのだ。八幡宮への奉納の舞、彼を排した頼朝の目の前で。
 範頼とゆやは感動しつつも、静の身を案じていた。決してこの場で謡うべきではない、明らかな挑発、あるいは挑戦とも言えるものであったからだ。
 鼓の音すら僅かに鈍る。祐経は京に上がって平重盛に仕えた事もある、その為この歌を解して狼狽していたのだ。果たしてこのまま拍子を打ってもいいのかと。
 それは御家人も同じで、舞を阻害しないよう黙ったままではあるが、目配せや所作でこの舞を止めさせるか否かでやりとりし、明らかな動揺を示していた。
 だが、そちらは目に入らないのか、そして歌の真意に気付かないのか、頼朝には全く動きが無い。舞台周りの衆人と同様、ただ感じ入っている様に見える。
 そこへ、側に控えていた政子が僅かに近づき、頼朝の膝の上の手に自身の手を重ねる。彼女は静の想いを悟り、同じ女性としてその一途さに感嘆していた。
 そして、頼朝はその手を握り返す。
 気付いているのかいないのか御家人らには判じかねたが、その仲睦まじい様を見るに、静の舞をどうこうする必要などは無いと理解した。

 最後まで舞い切った静。その額に浮かぶ汗すらも、彼女の美しさを飾る玉であった。
 静は片膝を立てると、また本宮に向かい頭を下げ、頼朝にも一礼する。頼朝はそれを受け、静が体を起こすのを待ってから、政子と共に席を後にした。
 静もそれを以て、舞殿に上がった時同様、神官に伴われて場を後にして行くのであった。

 舞台が終わった今、――一時は大きく動揺した――御家人衆も、衆人も上下関係無く、皆興感を催していた。
 それは範頼達も同様で、彼女が無事舞を終えた安堵よりも、龍神すらもが喜んだという舞に感動していた。
「凄い、人ですね」
 範頼が、彼女の強さと優美さに感心して言う。
 誰もがそう舞の感動を反芻する中、一人の侍が玉砂利を鳴らして歩み寄る。
 太郎が一瞬嬉しそうな貌をするが、それもすぐに沈む。よく似た風体の彼と見間違えたのだ。
「参州殿、御免仕ります」
 侍は政子の同母弟、西国遠征の折は、葦屋浦で先陣を切った江間小四郎義時(よしとき)であった。
「これは江間殿、ご無沙汰しております。大変良き舞でありましたね」
「はい、それにはおおいに同意致すところでありますが……何故参州殿のご一同は、この様な場所へ?」
「あ、はい。吉祥が、鎌倉殿の側では余りにも恐れ多いと、そう申すもので。かと言って、鎌倉殿に縁をとりなして頂いた吉祥を置いての観覧などは、論外でありました故」
 これは事前に申し出て同席を辞していた理由そのまま。ゆやもこれに口裏を合わせ、にこりと微笑んで肯定する。
「左様でございましたか。先ほどの様な事もありましたし、あちらに居並んでいた方々には、針の筵に座しているのと変わりなかったでしょう」
 声音は淡々として表情も無いが、言葉の端々からは案外と素直に面白がっているのが分かる。
「あの様な事、とは?」
 範頼がとぼけ、ゆやも彼に顔を向けて首を傾げる。
「今様(※6)も嗜む参州殿がその様な事を仰るのが意外なのですが……いや、失礼を。さっきの静御前の歌、あれが九郎判官への憧憬を謡った物でありましたので」
「へぇ、義時様は歌にも通じてらっしゃるのですね。私などはずっと尼寺で過ごした身ゆえ、ほとんど分かりませんでした」
「左様でありますか。となると、不思議なご縁ですな」
「と、仰いますと?」
 義時はこれに黙ったまま会釈し、弊殿の陰に首を廻らせる。
「静御前。本当に、このお方で間違い無いのかな?」
 何事かと皆一様に驚く。先程まで舞殿で舞っていた静がそこに居るのか。
「外に出られる時も限られておりますし、どうしてもと頼み込まれ、断り切れませんでした」
 外から見える人となりにそぐわず、――女相手に限った物かは分からないが――義時は情が深いらしい。
 なぜ静がゆやに、答えは一つしか無い。
「方様、大変お久しゅうございます。ご無事だったのですね」
 舞殿より下がった後すぐに着替え、化粧を落としたのか。水干を小袖に替え薄布を被(かづ)いた静がそこに居た。
 一目では先ほど舞っていた者とは同一人物とは思えない、見事な代わり様。僅かに紅を乗せた顔、その容姿の端麗さは、白拍子姿の時よりも映えて見える。
 そしてゆや達には、その容姿の向こうに一人の娘が透けて見えた。
「貴女はやっぱり」
「はい、しずです!」
 そう言って満面の笑みを浮かべ、しずはゆやとの再開を表す。ゆやもまた、京で別れて以来の彼女の無事を知り、堪らず涙を流すのであった。

 義時は、時間は限られるとだけ言い残し、場を辞して行った。
「しず、あの後、どうしていたの?」
「磯禅尼(いそのぜんに)様に芸事を仕込んで頂き、私に向いていたのかそれが上達したので、ずっと一座と行動を共にしておりました。そして一ノ谷で合戦があった後、院御所に召された時に義経様にお会いして……」
 そして惚れたのであろう、音に聞こえた英雄、その上にあの美男子だ。
 なるほどおあつらえの二人だとは、皆が皆思う。
「と言う事は、郷御前が洛中に上がる前には、もう既に義経様の側に?」
「はい」
 縁というのはなんと奇な物か、やはり一同は驚く。
 範頼は鎮西遠征の際、京には一日と留まるなとの命令を受け、それを実行していた。義経の例もあるし、範頼には藤原範季という大きな伝手ある。李下之冠と、範頼はあらぬ噂が立つのを警戒したのだ。その為範頼達はしずに会う事も無かった。
 静は、その後義経が迎えた郷御前とも仲良く姉妹の様に過ごせた、と言う。
 意外とも思えるが、そう居られたのも互いに弁えていればこそであろう。
 そしてこれらの事が本当なら、今彼女が身籠もっているというのもあり得る。彼女もゆや同様に心に疵を負ったのであろうがゆや程酷くなかったのか。それとも何かが癒やしてくれたのか。
「我らも九郎殿と様々な縁があるが、ともあれお許が無事で良かった」
 頼景が言う。恐らくしずは、京で義経が置かれた政治的立場など知らなかったであろうと。常光の事も、彼が義経の館を取り囲み、義経がそれを退けたぐらいにしか。
 同じ事を想像していた太郎は、ふとある考えに至る。この静という、義経に最も近しいであろう人物の存在を、常に御所にある朝光はどう思うであろうかと。
 静御前をしずと知って、急にその様な不安に襲われた。
「相良のお殿様も、壮健そうで何よりであります」
「だから殿様は止めてくれ……」
 それに射命丸、次長と知る顔それぞれに再会の喜びを投げかける。
 一通り挨拶を終え、とりとめの無い話が続く中、ゆやがある事を口にする。
「ねえしず、これからずっと鎌倉に居るの?」
 出来ればそうであって欲しいと願い、問う。
 方や三河守の妻、方や朝敵となった悲劇の英雄の愛妾。今の立場は対照的であるが、同じ不幸の記憶を共有する仲。それにしずには、ゆやに救われたという恩義がずっと心にある。妬み嫉みを浮かべる由は無い。
 お互いに、交わす言葉が赤心であるのを認識しながら、しずは答える。
「今しばらくここに留まります、まだ義経様の事で取り調べがあると。それと、子が生まれるまでは……」
 範頼と頼景以外はそれぞれに驚く。
 ゆやとは違い彼女がそうあれたのと、義経の子を、という事実に。本来ならば喜ばしいのに、彼女の場合のそれは、複雑であった。
「おめでとう、しず」
「いえ、もったいないお言葉でございます」
 ゆやにもしずのお腹の子の立場は分かっている。それでも生まれてくる前に呪うよりは、言祝ぐ事を選ぶ。自身ではそうあれなかった幸せを、彼女には謳歌して欲しいと。
 そしてしずも、諸々と承知してはいながら、ゆやの祝いの言葉を噛みしめる。
 そこへ頃合いと見たのかたまたまか、義時が現れる。別れの時間だとは、皆言われなくとも分かっていた。
 次に会えるのはいつであろうか、もしかしたらこれが今生の別れかも知れない。義時に連れられて行くしずの後ろ姿を見ながら、皆でそう思うのであった。

       ∴

 八幡宮での舞の後、しずは大姫の平癒の祈りと慰めのために舞ったりと、身重なのを押して白拍子としての働きを全うしていた。義経の妻というよりは優れた舞手、鎌倉の人々の認識もそうなっていた。

「いつお子が生まれてもおかしくない、ですか」
「ただ一つ、大変な事を御殿が仰いまして」
 表向き舅の盛長を囲い、浜の館で酒を酌み交わす範頼達。話題に上がった子とは、しずの子であり義経の子の件。まだ彼とも彼女とも分からないその子が、男児であるか如児であるかが一番の問題。
「女児であれば、そのまま母子共に帰洛させるとの旨なのですが、もし男児であれば、始末すると」
 帰洛させる、また義経と再会をするかも知れないのに。だがこの時鎌倉はその恐れが無いのを掴んでいた。そんなことよりも皆の関心は男児を始末するとの件、当然始末とは、殺す事だ。
 万一どころか半々の確率のそれを実行するのは、しずを預かる安達の筋の者、頼朝の側で雑色の頭を勤める安達清常である。いくら頼朝の言う事とはいえ嬰児殺しは憚る。故に盛長はここでこれを漏らしていた。
「申し訳ない、藤九郎殿、無礼を承知でお伺い申し上げるのですが」
 頼景がずいと顔を突き出す。僅かに顔は紅くなっているがそこまでの酒量では無く、理性を保っている。
「何でござろう」
「その、かつて鎌倉殿が藤九郎殿と伊豆に在った時、鎌倉殿は伊東の姫と――」
「黙らっしゃい! 四郎殿!」
 館を揺るがす怒号が響き、頼景は言葉を止める。
 だが盛長は、――次長の怒声には耳を塞ぎつつも――――本来ならば不躾に余りある主君の過去への追求に、怒りも示さないばかりか平静に答え始める。
「ああ、その事か。いや確かに、自身にその様な過去があるのに何故と、そうお思いでしょう。だがそれもこれも清水冠者の時同様、御殿が自ら歩んだ道であればこそ、でしょうな……」
 鎌倉と敵対し、捕らえられた後に自刃した伊東祐親入道。その娘の八重姫。
 頼朝が伊豆での流人時代、祐親不在の間に八重姫との間にもうけた子は、帰参した祐親の命ずるまま朝自らの手で山中の淵に沈められた。
 事情こそ異なるが、その様な悲劇がまたここに訪れようとしている。誰もがやるせない気分になった。
「あの子らは、どうしているのだろうかなぁ……」
 遠くを見やり、盛長は独りごちる。
 彼が思うのは、その後江間小次郎なる侍に嫁いで行ったとされる八重姫の今か、はたまた淵に沈められた千鶴丸の来世か。いずれにせよ、頼朝のそれは悲しい結末でしか無かったのだ。

 そして、その時は訪れる。
 夏も真っ盛りのある日、しずは産気づいた。するとすぐに清常の家宅に産婆が招かれ、万全の態勢で子が取り上げられた。
 赤児は、男児であった。

       ∴

 生まれたしずの子は即日彼女から引き離され、由比ヶ浜の真ん前に広がる湾に沈められたという。
 無論、しずは激しく抵抗した。大の男でも引き離せなかった母子を別れさせたのは、彼女の母代わりでもある磯禅尼であった。
 衣に押し包めたままではその手の中で子を殺してしまうからと、本当の母の様に涙を流しながら、しずを説得したのだという。
 そして赤児は名付けられもせぬまま、従前の通り清常の手によって海に沈められた。
 しずの子の末路を聞き、ゆやは酷く悲しんだ。ゆやだけでは無い、しずを知る皆も。
 それも居館の目と鼻の先での悲劇なのだ。浜を見るたびにずっとこれを思い出すであろう。範頼達は、しずの事と同時に、ゆやの心情も気にかけていた。
「全く、人間とは……」
 理性的に考えれば分かる、だがそれは情も何も曲げてまでする事なのか。射命丸は悲しむよりも、ゆやをこうも嘆かせる頼朝へ、怒りすら抱いていた。

 それから二ヶ月も経ってからの事。
 ゆやは傷心のまま、それでもしずよりはましだからと、気丈に日々を過ごしていた。
 そんなある日、甘縄の盛長邸よりの雑色が、ゆやの来訪を望む旨を伝えに訪れた。範頼が相手であれば、余程の事が無い限り呼び立てなどせずに自ら出向いて来る盛長。あくまで用事があるのはゆやなのであった。
 そこへ射命丸が、次いで太郎も現れる。
「ゆや、先程の使者殿はなんと?」
「いつでも良いので、近いうちに来て欲しいと」
 今の時期に何用であろうか。しずも――あの様な事があったものの――産後の肥立ちは良く、もう間もなく帰洛の途に就くとは聞いていた。もしかしたら、ゆやとの縁を聞いた盛長がそれについて何か聞かせてくれるのかも知れない。
 射命丸もゆやもそう期待した。
「クゥーン?」
 だがそれは範頼に伝えなくていいのだろうか、なぜゆやだけを招くのか。太郎がそう不思議がり、疑問を呈する鳴き声を上げる。
「そうね、、、太郎、甘縄のお屋敷へ出向いて、範頼様の同席をお許し頂けるか伺って来てくれない?」
 しかしそこへ射命丸が名乗りを上げる。
「太郎になど任せられない、私が行きます」
「ガウ!」
 余計な世話を焼くなと抗議の声が返る。射命丸はこれ以上の問答も面倒だと折れ、太郎を一人で使いに出すのを認めた。
 真昼間に使いに出た太郎は一時と経たずに帰館し、勤めより戻った範頼にもすぐに相談する事が叶った。
「方様のお招き?」
「はい。はじめは藤九郎様のお招きかと思って、それで範頼様のご同席の許しを請うたのですが」
「一体、なんでしょう……」
「ともあれ、範頼様だけでなく、射命丸様や他の皆も同席を許されまして。なんでも、「相談すべきと思う方は皆連れてらっしゃい」とのお話で」
「ヲフ」
 近しい家人、次長や相良の兄弟もという意味か。
 しずに関わる件かと思っていたがさっぱり分からない、だが先方が言っているのならそれに乗ろう、と結論が出る。
 こうしてゆや達は、一日と間を空けずに甘縄の館へ出向く事になった。

 甘縄の館では、丹後内侍だけで無く、盛長もがゆやを待っていた。用件の主たる者は丹後内侍とゆやであったが、これは両家全体に関わる事であったのだと範頼らは悟る。
「いや、まさか参州殿にご足労頂くとは。これ、一体どの様な使いを出したのだ」
「あら、わらわはこの様な大事は先ず係る方々皆で合議すべきかと、そう思いましたゆえ」
「まったく、事には順序という物が有るというのに。参州殿、それに方々、申し訳ござらぬ」
「いえ、大した労でもありませんし。それに大事なお話なのであれば、私も同席したいと思いましたので」
 盛長はその言葉に深く一礼すると、下女を呼んで何かを促す。暫くするとその下女が、女房を連れて現れる。そしてその女房の腕の中には、赤子が抱かれていた。
 赤子はよく眠っている。丹後内侍はその赤子を衣ごと受け取ると、慣れた様子で起こさない様にそっと自分の胸に抱く。
「方様、その赤子は?」
 声を落として問う射命丸。丹後内侍はそれ以上に小さな声で答える。
「実はこの子、よんどころ無き故によって親元から離されてしまいまして……」
「それと、大変失礼ではありますが、今以て子の無い参州殿のご夫妻を、御殿が気にしていたというお話、覚えておられますでしょうか」
「はい、それは」
 同席した頼景も覚えていた、その後の側室が云々という話も。それらの話を知らない皆にも、盛長夫妻の意図に気付く。
「そこで、この生まれて間もないこの子をゆや御前の子として育てて頂ければ、御殿の心配も晴れるかと思いまして」
 まず女同士の内々の打診としてゆやを呼び出そうとした、というのが盛長の当初の意図であった。
 いずこの氏の子であろうか。そう思惟を浮かべるゆやに、丹後内侍は「ただ――」と話の続きを告げる。
「一つ、妾には気がかりな事がありまして」
「何でございましょう?」
「この子は、男児であります」
 今も男達とは一定の距離を保つゆや。赤子とはいえ、果たして男の子に触れる事は出来るのか。育てる云々以前の問題について、丹後内侍が問い掛ける。
 皆の視線がゆやに集まる。
 ゆやは範頼と、そして射命丸とも目を合わせる。彼と彼女は、それぞれに別々の懸念を浮かべている。
 男達と盛長夫妻が気に掛けるのは赤子が男児だという点、だが射命丸と太郎の懸念は――
(ゆやは、赤子を受け容れる事が出来るのだろうか)
 宗盛の非道で身籠もった我が子は、産み落とすと同時にくびり殺してしまった。彼女は未だにそれを悔い、吉祥との法名まで授かって弔いを続けている。男達はそれを母の藤への弔いと見ているのであろうが。
 丹後内侍は赤子を抱いたまま、ゆっくりとゆやの側に歩み寄り、その腕を差し出す。ゆやは赤子に、恐る恐ると手を伸ばす。
 男達と射命丸達、抱く懸念は両方とも彼女の心の中にあった。その手は震えている。
「震えた手では和子を取り落としてしまいますよ、無理をなさいませぬよう」
「……いえ」
 意思で震えを抑え、しっかりとその子を受け取る。
 赤子は起きる事無く眠ったまま、籠の様に形作られたゆやの腕の中で、優しく抱かれた。
「あら、手慣れたご様子で」
「郷里では屋敷の下働きの女達の子をお世話した事もありました。ただ高貴な身の方や武家の子育ては分かりませんで、それは教えて頂きたいのですが」
「いえ、赤子は赤子ですから、思うとおり、育てて上げれば良いのですよ」
 しきたりや慣習に関する事ならいくらでも教えると、丹後内侍は己が手から離れた赤子を、少し残念そうに、しかし大変嬉しそうに見つめながら答える。
「ゆや御前。この和子の名、如何にされますかな?」
「え、名は無いのですか?」
 盛長は黙って頷き、返事に代える。
「参州殿、どうしましょう」
「それこそ、思うとおりに名付けてあげなさい。もし思い浮かばなければ、私も共に考えましょう」
 元服するまで名乗る名、そしてそれは一生の運命にも繋がる大事な物。ゆやは新たな緊張に包まれるが、範頼に笑顔を向けられてそれもすぐにほぐれる。
「旦那様方もお気が早いこと。何も今で無くてもよろしいでしょうに」
 丹後内侍がそう言うと、範頼と盛長は恐縮しながら苦笑いを浮かべる。
 その言葉を受けたゆやはしかし、意を決した。
「北斗――北斗丸などはどうでしょう?」
 どの様な意味合いが込められた名であろうかと考える一同。ここで射命丸が口を開く。
「北辰を戴き廻る魔払いの星辰、ですね」(※7)
「なるほど、それは武家の和子としても相応しい名でありますな」
 北辰とは即ち天帝、天子を現す星である。それを守る星々になぞらえたのだ。
 加えて、この子自身に降りかかる邪鬼を祓い、健やかに育つ様に、そういう願いも込められているのだ。
「ええ、それに妙見菩薩様の星宿にも係るものです」(※8)
 妙見、もしかしたら浄天眼を賜った太郎とも対比しているのかも知れない。射命丸はそちらにも思い当たり、今ばかりは――自身と仲違いの絶えぬ――彼女にもなぞらえられた事に強い理解を示す。
「武家の血筋、でありますか」
 次長が盛長の言葉の端に僅かな疑問を抱く。未だにこの子がいずこの家の子であるか明かされていない。
「ええ、表向きはゆや御前と参州殿の和子ではありますから、その様に言った次第でした。いえ、実を申せばこの子も、紛れもなく武家の子であります故」
 なるほどと皆納得し、そして一つの考えに思い至った。それは疑念などでは無い、あり得ない事ではあっても、そうであって欲しいと祈り願う心であった。
 眠りから覚めたのか、微かに目を明ける北斗丸。その眼(まなこ)をのぞき込み、ゆやは優しく語りかける。
「北斗丸、これからは私が貴方の母ですよ」
 小さな眼が新たな母を見つめ返す。その無邪気な顔は、同席する誰の目にも愛おしかった。

       ∴

 ゆやが北斗丸を引き取って間もなく、かねてより帰洛が決まっていたしずと磯禅尼らの一行が出発する日が訪れる。
 しかしその帰洛の警護を担当する者を知り、頼景と太郎は不安を抱かずにはいられなかった。
 義時や景季といった、先の平家との戦で勇名を馳せた武者と同じく、『家子(いえのこ)(※9)』と称される頼朝の供回りに列せられる若武者、結城朝光。義経への恨みを抱く彼が、よりにもよってその愛妾の警護をするのだ。
 一行の帰洛の進発の時になって、射命丸達はようやくしずとの再会の機会を得る。
 ただし相手が相手であるため、そこには男達の姿は無い。義経との繋がりという、痛くも無い腹を探られるのを忌避する故だ。それを言うなら北斗丸、彼の存在が最も気に掛かるのであったが。

 しず達一行は、鎌倉郊外の清常邸からの出発となる。
 本当は邸宅とも言えぬ質素な建屋であるが、それでも他の雑色の家と比べればずっと大きい。そこから車に乗せられて、女達は京へ誘われるのだ。
 この今生の別れと言える場には射命丸とゆや、それに参州公の妻の護衛という体で、大太刀を帯びた太郎も共に在る。
「ゆや、もし北斗がしずの子、九郎殿の子であったとして、それでも育てるの?」
「ええ、それは誰が何と言おうと」
 今はそれを殆ど確信に変えている。
 またも頼朝を謀った盛長の独断か、はたまた別の意思が介在しているのか。いずれにせよ、ゆやが今ここに居るのも、最低限の事実を確かめるためであった。
「グルル」
 要らぬ事を抜かすなと、太郎が喉を鳴らして苛立つ。射命丸も彼女をにらみ返すが、そこにゆやが割って入ってたしなめる。
「二人とも争いは止めてください、赤子は周囲の些事にも敏感なのです」
 その腕の中では、当の北斗丸が眠っている。
「はい、ごめんなさい」
「クゥーン」
 二人は謝罪し、すぐに引き下がる。泣く子の次に母は強い。
 その三人に近付く者が一人。射命丸はすぐにゆやと彼との間に立ち、距離を保とうとする。
「吉祥御前におかれましてはご機嫌麗しく。それに当麻殿、お久しゅうございます」
 うやうやしく頭を垂れるのは、背もだいぶ伸びた、しかし青年とも少年とも見える端正な面の武者、朝光。
「結城殿でしたか。此度のお役目、ご苦労様です」
 太郎はいつも通りに所作だけで礼を返し、――今一番の懸念である彼の心中を伺いつつ――しかしそれは貌に出さずに普段通りに接する。
「当麻殿、静御前は私が責任を持ってお送りいたします故、ご安心ください」
 それは特に、彼女の舞いに癒された大姫が願っているのだと朝光は言う。帰洛する一行は、大姫とその母政子から重宝を賜ってもいたのだ。
 だが笑顔でそう言う彼に、太郎は頼景が抱いていた以上の不安を募らせる。そこにはあの、邪な笑みが見て取れたからだ。
「安達殿、結城七郎以下護衛隊、ただ今参じた。磯禅尼ほかのご一行を連れ出して参れ」
 家の外から堂々と命じる朝光。間もなくすると、清常に連れられ、磯禅尼や京から付いてきた他の白拍子や一座の下働き、それにしずが姿を現す。
 しずの顔色は暗い、想像は見当違いだったのであろうか。疑問の表情を向ける射命丸達に彼女は気付く、ゆやの腕の中の赤子にも。
 しずは駆け寄り、声を上げる。
「ああ、吉祥様! この様な場においで頂けるなど」
「もう会えないかも知れないのに、来ない訳が無いじゃないの」
 ゆやはそう言って、衣に包んだ赤子の顔をしっかりと見せる。その小さな眼がふと気付いた風にゆっくりと開くと、しずは涙をにじませながら問い掛ける。
「この和子の御名は、なんと仰るのです?」
 ゆやがやおら頷き、答える。
「北斗丸、魔払いの星辰の名よ。この子と、この子を取り巻く人々に降りかかる災いをはね除けられる様にと……」
 話しながら、ゆやもしずも目に涙を浮かべていた。やはりそうであったのだ。
「ああ、なんと善き名を。吉祥様、この子を、北斗丸を何卒、何卒……」
 声を詰まらせるしずに朝光が近付く。他の者の出立の準備が出来たから急げ、と言う代わりだ。
 しずが彼に連れられて行くと、突然北斗丸が火が付いた様に鳴き声を上げる。遠ざかる母の後ろ姿を求めているのか、二度と会えないのが分かっているのか。
「ほら、北斗。静様が出発なさいますよ、尋常に見送りましょう、ね?」
 だがいくらあやしても北斗丸は泣き止まず、ついにゆやも声を上げて泣き始める。
 射命丸も、肉親の情など知らぬはずなのに何故と、己の心に問い掛けながら、つと涙を流していた。
 太郎だけが苦しそうにしずを見送る。太郎も二人の様に感情を表したいのに、――ゆやの母の藤の時もであったが――泣き方を知らないのだ。
 その側で、小さな赤子は太郎の分も泣き続けていた。

     * * *

 静御前という人物は、義経の正室であった郷御前より名が知られているが、その来歴は謎に満ちている。
 帰洛した後もまた謎であり、ずっと京で過ごしたとも、四国に隠遁して生涯を終えたともされる。果ては、後に奥州に落ち延びた義経を追ったとの説もある。
 しかし何故か坂東、それも下総国や下野国にまで、その墓所は存在するのである。

 静御前に関する諸々が沙汰される中、義経の行方に関しても――彼女の努力虚しく――調べと追捕の手は進んでいた。
 先ずは、かつては義仲を扇動し、はたまた義経に知恵を与えながらも裏で糸を引いていた新宮行家、彼が和泉国(いずみのくに)(※10)で討ち取られる。
 続けて源三位入道の孫、鎌倉に恭順する摂津源氏と袂を分かって義経に従っていた源有綱(ありとも)が同族摂津源氏や多田源氏の一党と戦って討たれると、京近辺に潜伏していた、義経の四天王と称された旧来からの郎等達も次々と討ち取られた。
 義経当人は京にも居られなくなり、また名すらも――貴人の諱と被るからと――義行(よしゆき)へ、更に、その姿明らかになるよう義顕(よしあき)などと改めさせられた。この頃になると、もはや法皇の庇護など失せていたのである。

第22話注釈――――――――――――――――――――――――――――――
※1 岳父:妻の父、舅の意
※2 神事舞い:神事に際しての舞。奉納の他、禊ぎや託宣を受ける(トランス状態になる)為に舞うなどの意味がある。
※3 天鈿女命:天照大神が天岩戸に隠れた際、神々が祭りを催した場で舞った女神。神話では相当に扇情的であるが、これもトランス状態への過程と見られる。
※4 倭文:縞を混ぜ込んだ植物繊維の織物、綾布。しずり、しどり、などの呼び名もあり、古くはしつと言った。
※5 苧環:機を織る前の、麻や苧麻(からまし)の糸玉。キンポウゲ科オダマキ属の植物の付ける花がこの様に見えたため、連想からこう呼んだ。
※6 今様:語意は『現代風』であり、主に歌について言った。謂わばポップソング。7・5・7・5・7・5・7・5を基本の節とした。
※7 北斗:北斗七星。北辰は北極星の事で、文中の通り天皇を現す星。カシオペヤ座と共に北極星を見る指標となるため、北辰守護の星となった。
※8 妙見菩薩:天部の一尊。道教の北辰信仰が中国で習合し、大乗仏教の諸仏と共に伝わった。
※9 家子:武士団の中でも、強いつながりを持つ者。郎党の事
※10 和泉国:現在の大阪市南部、和泉市周辺

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